百済遼西=帯方郡説と紅山文化=大女神文化:大女神文化の倭国と卑弥呼






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2009年05月31日(Sun)
百済遼西=帯方郡説と紅山文化=大女神文化:大女神文化の倭国と卑弥呼
てげてげの飯山氏の百済遼西=帯方郡説から、紅山文化が一気に興味深くなった。これは、端的に、偉大な大女神文化である(と直観される)。そうすると、紅山文化が倭国の文化の一つの主要な原型(二千年の差があるので原型である)であり、それが、日本へ入ったと考えることができる。
 これで一気に倭国・日本文化問題が解明できる可能性がでてきた。大陸の高度な大女神文化が、原始的な大母神文化(縄文文化)と結びついて、倭国・日本大女神文化が生まれたのではないのか。そして、その後、父権的民族(「一神教」的民族、ユダヤ民族?)の支配によって、倭国・日本大女神文化の「神話」=神伝が改竄されて、記紀が創られたのではないのか。

補記:以上の作業仮説から、これまで述べてきた日本文化が母権文化と父権文化との混淆であるというテーゼがよりよく説明されよう。
 「日御子(ひのみこ)」が問題の核心にある。母権文化では、それは、大女神の子、夫、恋人である(折口信夫の『死者の書』の世界である)。しかし、父権文化では、父権的太陽神である。だから、「天皇制」は、ちょうど、キリスト教の構成に類似していると言えよう。つまり、女神の子としての「イエス・キリスト」とヤハウェの「顕現」としての「イエス・キリスト」の混淆である。そう、「天皇制」とキリスト教は、まったく異質な二つの文化が衝突しているのである。換言すると、差異と同一性の衝突なのである。

参考:
◆ 2009/05/30(土) 『邪馬台国』の所在地.それはソウル近辺だ!

・・・・・
中国の歴史書には…,
 「百済は遼西に都した.そこは帯方郡の故地であった」 という記述が多数ある.

飯山一郎の小さなHP:低下低下=てげてげ

紅山文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
玉でできた龍。紅山文化の出土品

紅山文化(こうさんぶんか、ホンシャン文化、红山文化、拼音 : hóngshān wénhuà , Hongshan culture, 紀元前4700年 頃-紀元前2900年 頃[1] )は、中国 の万里の長城 より北方に存在した新石器時代 の文化で、燕山山脈 の北から遼河 支流の西遼河 上流付近にかけて広がっていた(現在の河北省 北部から内モンゴル自治区 東南部、遼寧省 西部にあたる)。農業を主とした文化で、龍 などをかたどったヒスイ などの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在もみることができる。

紅山文化の名は、内モンゴル自治区 の赤峰市 にある紅山後(こうざんご、Hongshanhou)遺跡に由来する。1908年 、満蒙調査を行っていた考古学者の鳥居龍蔵 が発見し、1935年 に濱田耕作 (浜田青陵)や水野清一 らにより大規模な調査が行われた。戦後各地で発掘が相次ぎ、彩陶と細石器に特徴付けられるこの文化は1954年 、紅山後にちなんで紅山文化と命名されている。
石器および陶器 [編集 ]

紅山文化の主な遺跡は西遼河上流の支流、潢水および土河の流域に広がっている。その年代は現在から5000年以上さかのぼり、南の黄河 流域の仰韶文化 の中期および晩期に相当する。発見された石器 は打製石器 ・磨製石器 ・細石器 などであり、そのほとんどは農具で、石耜・石犁・石鋤などのすき類が多い。

紅山文化の陶器は、泥質紅陶および夾沙灰陶の2種類に分けられる。泥で作り筆で絵付けした彩陶(彩文土器)は煮炊きや食事などに使われ、紋様が刻まれた夾沙灰陶は食事の盛り付けなどに使われた。そのほかの陶器では、妊婦をかたどった胸像が各地から出土している。紅山文化では仰韶文化 のような彩陶文化は発達しなかったが、龍山文化 の黒陶の洗練された造形には近いものがある。また後期の遺跡からは青銅 の環も発見されている[2] 。

生活 [編集 ]

紅山文化では農業 が主で、家畜を飼育しての畜産 も発達しておりブタやヒツジが飼われた。一方では狩猟 や採集 などで野生動物を狩ったり野草を採ったりすることもあった。

玉石と精神文化、牛河梁遺跡 [編集 ]

紅山文化の墳墓からは、ヒスイ などの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。ブタ 、トラ 、鳥 のほか、龍 を刻んだものも見つかっている。工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる紅山文化の玉龍(龍を彫った玉)の造形は単純であり、龍が円形になっているものが多いが、後期になると盤龍・紋龍などの区別がはっきりとしてくる。考古学者の中には、後に中原 で始まった龍への崇拝は、紅山文化にその源を発するという見方もある。

1983年 に遼寧省 凌源市 から建平県 にかけての広い範囲で発見された牛河粱遺跡(牛河梁遺跡、ぎゅうがりょういせき、Niuheliang)からは紅山文化とかかわりの深い祭祀施設が発見されている。5平方kmにおよぶ広い範囲に石を積んで作られた墳墓や祭壇が整然と分布している。また石の床と彩色を施された壁のあった神殿が見つかり、目がヒスイでできた陶製の女性頭像が発見されたことから「女神廟」と呼ばれることになった。発掘の過程で、地下1mから祭祀の場や祭壇、壁画、ケアン (石塚)が発見された[3] 。

女神廟の中には、人間の3倍近い大きさの陶製の像が並んでいた。これらの像はおそらく神像であるが、現在の中国文化では類を見ないものである[4] 。

牛河粱で発見された記念碑的な建築物の存在、また様々な土地との交易の証拠から、この時期には先史時代の「首長国」「王国」があったと考えられる[5] 。

女神廟では彩陶も発見されている[3] 。付近の60以上の墳丘墓 も発掘が行われたが、これらは石を組んで石室が作られ、その上に礫をかぶせて塚が作られており、中から玉などの遺物も発見されている[6] 。近くの2箇所の丘の上にはケアン が発見され、その近くには石灰岩 を段々に積み上げて作った円墳や方墳もある。これらの墳丘墓の中からは龍や亀の彫刻が発見された[3] 。紅山文化ではいけにえが捧げられたという指摘もある[3] 。

仰韶文化 初期の遺跡から発見された遺物が語るように、紅山文化の遺跡からも初期の風水 の証拠とされるものが見つかっている。牛河粱遺跡など、紅山文化の祭祀遺跡にみられる円形や方形は、天円地方 の宇宙観がすでに存在していたことを示唆している[7] 。

遼河流域の文明 [編集 ]

すでに長江流域から新石器時代の独自の文化(長江文明 )が発見されて黄河文明 中心の中国史に一石が投じられているが、黄河から北へ離れた東北 (満州 )の遼河 流域の地からも中国の精神文化へ繋がる文明が発見されたことは大きな反響を呼んだ。この後も、遼河流域から興隆窪文化 などの新石器文化が発見されている。

これに対し、韓国の一部では、満州にあった扶余 が高句麗 や百済 などを建国したという伝承に紅山文化が関連付けられている。これまで神話や伝説でしか存在しなかった「古朝鮮 」文明と「遼河文明」を同じと考え、古朝鮮が遼河文明を通じ中国文明を築いたという説も唱えられている[8] 。

関連項目 [編集 ]

* 中国の新石器文化の一覧
* 黄河文明
* 長江文明
* 新楽遺跡
* 興隆窪文化
* 裴李崗文化
* 北辛文化
* 馬家浜文化
* 馬家窯文化
* 大汶口文化
* 仰韶文化
* 龍山文化
* 二里頭文化
* 夏

・・・・・

外部リンク [編集 ]

* 紅山文化とは - 意味・解説 : 考古用語辞典 Archeology-Words
* 牛河梁遺跡とは - 意味・解説 : 考古用語辞典 Archeology-Words
* 紅山文化部落連合体、早期国家形態の特徴に近い - 北京週報
* 紅山文化・富河文化
* 内モンゴル遺跡紀行 関口広次

カテゴリ : 先史中国 | 新石器時代 | 満州の歴史 | 考古文化


興隆窪文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

興隆窪文化(こうりゅうわぶんか、シンロンワ文化、兴隆洼文化、拼音 : xīnglóngwā wénhuà , Xinglongwa culture, 紀元前6200年 頃-紀元前5400年 頃)は、中国 の万里の長城 より北方に存在した新石器時代 の文化。その出土範囲は、現在の中華人民共和国 内モンゴル自治区 付近から遼寧省 付近にまたがっており、紅山文化 に先行する遼河 流域の文明のひとつ。

興隆窪文化は、ヒスイ などの玉製品(玦 : けつ)の出土する文化としては中国最古のものであり、なおかつ龍 の出現する文化としても中国最古のものである。また興隆窪文化の遺跡からは平底円筒状の、比較的低い温度で焼いた土器 (陶器 )が出土する[1] 。黄河文明 のほかに、先史中国の新石器文化が南の長江 流域および北の遼河 から発見されているが、興隆窪文化は遼河流域の文化の一つとして重要である。

興隆窪文化の遺跡においては、集落が計画的に築かれた痕跡も見られる。住居が列をなしている状態が3つの遺跡から発見された。またいくつかの遺跡ではひときわ大きな建物が発見されたほか、堀 に囲まれた環濠集落 も見つかっている。

興隆窪文化の標式遺跡 である興隆窪遺跡は、内モンゴル自治区赤峰市 の敖漢旗 (ごうかんき、アオハンき)の丘の南西麓にある。この遺跡は南東1.3kmの位置にある興隆窪集落から名付けられた。遺跡からは竪穴式住居 が120箇所発見され、各住居の中央にはかまど があった。興隆窪遺跡の中央には大きな建物があったほか、中国でも初期の環濠(堀)も発見されており、環濠の中は2万平方mもある大集落であった。埋葬の風習も独特のものであり、いくつかの遺骨は住居の下に埋葬されていた。興隆窪文化の他の遺跡同様、興隆窪遺跡の墳墓などからもヒスイでできた玉が発見され、ある墳墓からは玉製品のほかにブタ のつがいとともに葬られた遺骨もあった。

近年発見された興隆溝遺跡(Xinglonggou)では雑穀 があった証拠が発見されており、興隆窪文化における唯一の農業 の存在の証拠となっている。


・・・・・

脚注 [編集 ]

1. ^ 類似する平底円筒型土器が朝鮮半島 北部からアムール川 流域、ロシア沿海地方 にかけての広範囲で紀元前6千年紀 頃から紀元前2千年紀 ごろまでの間に発見されているほか、同様の土器が縄文時代 の日本の東北地方 ・北海道 からも発見されている。

外部リンク [編集 ]

* 「興隆窪文化の玉玦及び相関問題についての研究」劉國祥 中国社会科学院考古研究所副研究員
* 中国先史農耕・経済の発展と文明の起源について -黄河・長江中下流域を中心として- 張弛 (北京大学考古系)
* 東アジアと縄文時代 西田泰民
* 内モンゴル遺跡紀行 関口広次



参照:

日本語の源流をたどるサイトへようこそ

http://www.imaken.biz/index.html 日本語の源流をたどる


   




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