-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己






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2008年04月26日(Sat)
-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己
手元に邦訳がないので、原書の英文から引用する。

In the beginning Elohim created the heavens and the earth. The earth was without form and void, and darkness was upon the face of the deep; and the wind of Elohim was moving over the face of the waters. And Elohim said , "Let there be light," and there was light. And Elohim saw that the light was good; and Elohim separated the light from the darkness. Elohim called the light Day, and the darkness he called Night. And there was evening and there was morning, one day.
And Elohim said, "Let there be a firmament in the midst of the waters, and let it separate the waters from the waters." And Elohim made the firmament and separated the waters which were under the firmament from the waters were firmament Heaven. And there was evening and there was morning, a second day.

Joseph Campbell The Mask of God: the Occidental Mythology. p. 111(『神の仮面:西洋神話の構造』山室静訳 青土社)

これは、聖書の創世記の冒頭の英訳であるが、瞠目すべきは、創造神が、エローヒームになっていることであり、ヤハウェではないことである。
 これで、先に、ヤハウェは闇(-1)の神であり、エローヒームが光(+1)の神ではないかと言ったことが裏付けられると考えられる。そして、ヤハウェが創造神ではないことを確認すべきである。(これだけでも、聖書から一神教を引き出すのは、虚構であることがわかるだろう。)ということで、ヤハウェを闇の神、エローヒームを光の神と仮説して、さらに自己認識方程式の意味の考察を深めたい。
 問題は、現象界のことである。+1と-1の二つの現象がある意味で同時生起するのではないのか、という考えが浮かぶのである。言い換えると、同一性形成の問題をここでは考えているのである。即ち、これまで検討を重ねてきたように、同一性志向性において、差異的同一性と差異否定的同一性の二種類が発生すると考えられるということである。前者が神話で言えば、イシスとオシリスの関係、あるいは、エローヒームである。即ち、(+i)*(-i)⇒+1である。それに対して、後者は-[(+i)*(-i)]⇒-1と考えられるのである。後者は神話では、ヤハウェであり、哲学的には、同一性主義ないしは自己同一性主義(自我主義)である。
 思うに、人間において、この現象の二重性が発生していると考えられるのである。(植物、動物一般は、思うに、+1だけのように思えるのである。この点は後で検討したい。)
 端的に言うと、自己同一性主義(自我主義)で見ている光とは何なのだろうか。光は、方程式から、+1であると考えられる。それを、-1で知覚するということになるのだろうか。
 思うに、-1は同一性=物質の現象界であり、+1は差異共振性の現象界ではないのか。詩人や芸術家や古代人(中世人も含める)は+1の世界を見ているのであり、俗人や近代人は-1の世界を見ているのではないのか。
 問題は、物質である。+1の現象界を見ていても、そこには、同一性=物質があるだろう。しかし、それは、-1の現象界の同一性=物質ではないだろう。前者を+1の同一性=物質、後者を-1の同一性=物質と仮に呼ぼう。
 思うに、物理学的に言えば、前者は量子力学の物質であり、後者は古典物理学の物質ではないだろうか。つまり、前者は量子の粒子であり、後者は唯物論の物質ではないだろうか。
 問題は、光の知覚である。自己同一性主義-1が見る光とは何なのだろうか。それは、本当に、+1の光を見ているのか。聖書にもどれば、エローヒームが+ 1の光を生む。それに対して、ヤハウェは-1の闇を生む。自己同一性主義(自我主義)は-1である。闇が光を見るということなのだろうか。
 ここで上述した二重の現象界という考えを展開しよう。つまり、現象界は-1と+1が重なっているのではないのか。-1の闇と+1の光の二重性の現象界ではないのか。ここで、比喩的な言い方をするなら、闇の光と光の光が存するのではないのか。これだと混乱するので、黒い光と白い光と言い換えよう。
 問題は、+1にとって、-1とは何か、あるいは逆に、-1にとって、+1とは何か、ということではないだろうか。
 直観で言えば、+1にとり、-1とは、暗い影である。そして、-1にとり、+1とは何だろうか。やはり、一種の暗い影ではないだろうか。ただし、その場合は「自己」の内面の暗い影が投影されているのではないだろうか。ユング心理学のシャドウに相当するだろう。
 そう、整理すると、-1は闇という「物質」であり、+1は光という「物質」ではないだろうか。おそらく、ブラックホールとは、-1に相当するのではないだろうか。そして、ホワイトホールとは、その反転の+1ではないだろうか。それは、一種回帰ではないだろうか。
 ここでこの考えを敷延すると、-1の闇が悪魔であり、+1が天使ではないだろうか。ヤハウェは悪魔的神霊(悪霊)であり、エローヒームは天使的神霊(善霊)となる。ゾロアスター教で言えば、光の霊のアフラマズダが+1であり、闇の霊のアングラマイユが-1である。
 思うに、ゾロアスター教の最後の審判は、いわば、合理的である。何故なら、光の霊が闇の霊に勝利するからである。しかしながら、キリスト教の最後の審判、即ち、ヨハネの黙示録の最後の審判であるが、それはどうだろうか。
 問題は「父」である。それは、端的に、エローヒームではなくて、ヤハウェであろう。だから、ヨハネの黙示録の神はヤハウェであり、それは、闇の霊(悪霊)であり、そして、逆に、悪魔が光の霊(善霊)となるだろう。
 つまり、キリスト教の最後の審判は、悪霊の善霊に対する勝利となるのである。悪の勝利である。思うに、これが、ネオコンやブッシュの発想にあると考えられるのである。キリスト教原理主義は、悪霊主義ということである。
 これならば、イラク侵略戦争の心的原因がわかるのである。悪霊に支配されているならば、当然、殺戮は「積極的に」行なわれるのである。(この宗教的意義についてはここで留めたい。)
 最後にもう一度、-1=闇、+1=光について考察しよう。先に述べたが、私が10代に終り頃に述べた「光は暗く、闇は明るい」という言葉についてであるが、「光は暗く」の光とは、-1=闇のことではないのか。そして、「闇は明るい」の闇とは、+1=光のことではないのか。
 ここで、根本的な重大な問題は、通常視覚する光であるが、それは、闇(-i)と光(+1)が混淆しているものであるのか、ということである。
 ここで、思考実験するというか作業仮説するが、通常目にする光は、実は、-1の闇ではないのか。-1の闇を光と知覚しているのではないのか。そして、なんらかの時に、+1の光を知覚するときがあるのではないのか。それが、例えば、阿弥陀如来(無量光如来)ではないのか。あるいは、大日如来、天照大神、アフラマズダ等ではないのか。
 思うに、通常、日常は、この+1の光は隠されているのではないだろうか。そう、私がこれまで超越光と言ってきたものは、+1ではないのだろうか。(そうすると、理論的な整合性が崩れるので、整理する必要がある。)
 わかりやすく言えば、内なる光と言われるものが+1ではないのか。あるいは、崇高に感じるときの光、夕焼け等が。
 ここでは、プラトンの有名な洞窟の比喩を考えるといいだろう。洞窟の壁のスクリーンの影像が、-1である。そして、善のイデアである洞窟外の太陽が+1ではないのか。つまり、影を通常においては視覚しているということではないのか。
 思うに、-1の世界が空間三次元であり、+1の世界が空間四次元ではないだろうか。何故なら、+1の世界は、虚軸次元が入るからであるである。高次元が入るからである。時間次元を入れれば、-1は時空四次元であり、-1は時空五次元であろう。(もっとも時間次元については、精察する必要があるが。)
 とまれ、思うに、そのように見ると、光と闇のパラドクスが生じていると言えよう。確かに、「光は暗く、闇は明るい」となるだろう。つまり、闇とは、この場合、光(-1)の世界では見えない光である。
 ここで飛躍して、新約聖書について考えると、イエスのいう光とは、正に、+1の光であり、この世は-1であろう。しかしながら、俗人は+1の光が見えないのである。私がいう平和のイエスはこのイエスである。この点では、確かに、キリスト教は一面、光の宗教であり、ゾロアスター教的であると言えよう。差異共振の宗教である。(しかし、父=ヤハウェ=-1=闇の要素が入るので、悪魔化すると考えられる。)超越光の宗教である。
 問題は、闇=現象光と光=超越光の様相である。前者は後者を否定するので、いわば、不気味であろう。そして、後者は前者を超越するので、幸福的であろう。私が狂気というのは、当然、前者である。
 問題は、視覚的美とは何か、ということである。もし、普通の光が闇ならば、視覚美とは闇の美である。これが人を幻惑するものではないだろうか。確かに、闇の美があるのである。魔的な美である。
 民話等で、美と醜との道徳的な話しがあるが、そこでは、醜に道徳性があることを述べている。これは、端的に、視覚美が闇の美であり、魔的美であることをいましめているのではないだろうか。
 ならば、本当の美とは何かとなる。それは、当然、光の美である。崇高美である。醜の美となるのではないだろうか。
 今はここで留める。以上は思考実験であり、後で、再考したい。

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