真正神道と本居宣長批判:ロマン主義とポスト・モダンとトランス・モダン






2007年12月08日(Sat)
真正神道と本居宣長批判:ロマン主義とポスト・モダンとトランス・モダン
神道の逆襲 (講談社現代新書) (新書)
菅野 覚明 (著)

菅野覚明(かんのかくみょう)著『神道の逆襲』(講談社現代新書)をちらと見たが、本居宣長の周知の「もののあわれ」論があり、興味をそそった。
 私は、本居宣長に対して、疑義があるので、興味深い。思えば、かつて、本居宣長の考え方に共感していたのであるが、どうして、今は疑問に思っているのかを精査するためにも、本居宣長の思想を考察してみたいと思うのである。
 簡単に言うと、本居宣長の思想は、ロマン主義なのである。しかしながら、直感では、彼の説明に臭みがあるのである。私の直感にひっかるものがあるのである。誤解・錯誤ならば、是非、解いてみたい。
 宣長は、理を排して、生成した感情・心情・情感を素直に認めるべきであると主張していると考えられる。理性主義に対して、ロマン的感情を肯定しているのである。時代的に見て、西洋のロマン主義の時代とほぼ同時代の人間でもある。
 理論・哲学的に見ても興味深い問題があるのである。そう、「ポスト・モダン」の問題なのである。理性とは、同一性である。それに対して、宣長/ロマン主義は、感性・感情の差異を提唱するのである。そして、理性=同一性を排除するのであるのである。これは、正に、「ポスト・モダン」の様態である。
 ここで、イギリス・ロマン主義の詩人・版画家であるウィリアム・ブレイクを考えると興味深い。彼は、苛烈に啓蒙思想を排斥するのであるが、結局、理性の中心主義化に対して、異議を唱えているのであり、理性を否定しているのではないのである。結局、イギリス・ロマン派らしく、理性と感性との調和を目指しているのである。換言すれば、同一性と差異との調和を志向しているのである。そして、これは、プラトニック・シナジー理論の視点から見ると、正しい方向性と考えられるのである。つまり、同一性を包摂した差異共振性への方向性が認められるのである。
 しかるに、本居宣長の場合は、同一性を排除したままである。これは、例えば、漢意(からごころ)への排除と転化するだろう。そして、これは、端的に、非合理主義である。文化史的には、偽ロマン主義である。(真正ロマン主義とは、理性を包摂した超越性を志向する心の文化である。プラトニック・シナジー理論は、真正ロマン主義のの進展であるとも言えよう。また、音楽で言えば、ベートーヴェンの音楽はロマン主義となるが、やはり、真正ロマン主義と言うべきである。二つのロマン主義があるのである。つまり、真正ロマン主義と反動ロマン主義である。宣長のは、後者なのである。国学の反動性があるのである。これが、明治維新ならびに近代日本文化に病的な、狂気的な反動性をもたらしていると推測されるのである。新しい歴史をつくる会等がそうであり、また、従軍慰安婦や集団自決等の問題も、この病理的・狂気的な反動性が関係しているのである。戦前の全体主義の狂信も、ここに根因があると思われるのである。実に恐ろしい国学的反動性の束縛・桎梏を乗り越えたとき、日本は蘇ることができるだろう。真正神道の復興である。)
 理性=同一性を排除したとき、心は、情緒中心となる。ここには、批判知性もなくなり、無知蒙昧化するのである。感情中心となれば、そうならざるを得ないのである。もっとも、「もののあわれ」には、共感性があることを認めなくてはならない。それは、PS理論的には、差異共振的共感性ということになるのである。しかしながら、理性=同一性を排除した共感性とは、結局、-i→+i⇒-1となるのである。つまり、闇の共感性となり、病的になるのである。それは、D.H.ロレンス等の神秘的作家が陥った闇の心性である。光ではなく、闇のあわれなのである。病的なあわれなのである。
 思うに、ずいぶん、以前に思ったことであるが、本居宣長の「もののあわれ」論が日本人の心性を情緒中心に歪めて、正しい知性の形成をそこなっていると感じたものである。
 私の言いたいのは、情緒を否定することではなく、情緒中心主義の否定である。それは、プラトニック・シナジー理論によって明確化されている心性の提唱である。同一性=理性を包摂した差異共振的心性である。ここでは、知と感とが即非様態、差異共振様態、創造的共振様態にあるのである。今はここで留めたい。


参考:
本居宣長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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本居 宣長(もとおり のりなが、1730年 6月21日 (享保 15年5月7日 ) - 1801年 11月5日 (享和 元年9月29日 ))は、江戸時代 日本 の国学 者・文献学者・医師 である。名は栄貞。鈴屋大人(すずのやのうし)と号した。
経歴

伊勢国 松坂(現在の三重県 松阪市 )の出身。幼名は富之助。通称は瞬庵、春庵(しゅんあん)、松阪の商家である小津家の次男として生まれる。兄が死んだ後、その小津家を継ぐ。そして、22歳になったとき、医学の修行のため京都へ遊学した。京では朱子学者の堀景山 に師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、荻生徂徠 や契沖 に影響を受け、国学の道に入ることを志す。その京都での生活に感化され、王朝文化 の憧れを強めていく。

松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀 』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵 の書に出会って国学の研究に入ることになる。1763年 (宝暦 13年)5月25日 、宣長は、松阪を来訪した真淵に初見した。そして、兼ねてから志していた古事記の注釈について、指導を願うのである。真淵は、万葉仮名 に慣れるため、万葉集 の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意した。この真淵との出会いは、宣長の図随筆集『玉勝間』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。この二つの文章から再構成された宣長と真淵との邂逅は、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載され、この読本によって宣長の名が国民的な文化人として記憶されるようになった。

宣長の代表作には、約35年を費やして執筆された『古事記 』の浩瀚な註釈『古事記伝 』や、『源氏物語 』の注解『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』などがある。日本固有の情緒「もののあはれ 」が文学の本質であると提唱したことで知られる。大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な孔子の教え(「漢意 」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明 や思想を尊重する荻生徂徠 を批判した。しかし、徂徠の学問の方法論である古文辞学 からは多大な影響を受けていることが指摘されている。古事記伝の画期は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、やがて国学の源流を形成してゆく。

門下生として石塚龍麿 ・夏目甕麿 (みかまろ)・高林方朗 (みちあきら)・小国重年 ・竹村尚規 ・本居春庭 (宣長の実子)・本居大平 (宣長の養子)などがいる。

また、国学者としての業績が余りにも大きすぎるために無視されがちであるが、地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動してきたことでも知られ、かつ、寛政4年紀州藩 に仕官し御針医格十人扶持となっていた。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。また意外な一面として、小児科医としても著名であったが、付き添いの母親の診察を乳児の病気の原因は母親にあるとして、必要以上に診察した逸話がある。

宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋 によりあきらかになった面が大きい。

鈴 コレクターとしても有名で、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していた。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。

遺言に自分の墓のデザインを示した。昭和34年に松坂市内を見渡す小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに平成11年には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。

[編集 ] 作品

[編集 ] 国学

* 『古事記伝 』
* 『源氏物語玉の小櫛 』
* 『直毘霊 』
* 『玉鉾百首 』
* 『玉くしげ 』
* 『鈴野屋問答 』

[編集 ] 評論

* 『紫文要領 』

[編集 ] 語学

* 『字音三音攷 』
* 『紐鏡 』
* 『字音仮字道 』
* 『詞の玉緒 』

[編集 ] 随筆

* 『玉勝間 』

[編集 ] 学問論

* 『うひ山ぶみ 』

[編集 ] 経済

* 『秘本玉くしげ 』

[編集 ] 家集(和歌集)

* 『鈴屋集 』

[編集 ] 参考文献

* 吉川幸次郎 『仁斎・徂徠・宣長』、岩波書店 、1975年 6月。
* 小林秀雄 『本居宣長』
* 長谷川三千子 『からごころ』中央公論新社  1986年  ISBN 4-12-001489-4

[編集 ] 関連人物

* 徳川治宝
* 谷川士清
* 橘守部

[編集 ] 外部リンク

* ようこそ宣長ワールドへ
* 吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』(松岡正剛の千夜千冊)
* 本居宣長記念館

Wikiquote
ウィキクォート に本居宣長 に関する引用句集があります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%
B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7 " より作成

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