教養とは何か:伝統宗教・神話という心養の復興






2007年12月03日(Mon)
教養とは何か:伝統宗教・神話という心養の復興
教養とは何だろうか。私はこの言葉は苦手であったが、今日、重みをもっていると思う。しかし、私は、心の栄養を与えるものとして、心養とでも呼びたいように思う。
 とまれ、言葉ではなく、その現実的意味を考えたいのである。結局、人間の心を質的に変容する、心を涵養するものと私は考えている。近代的自我・近代合理主義教育では、心を自我中心の同一性主義に変容させて、心の差異、正確に言えば、心の差異共振性を否定することになる。
 厚労省等の官僚・役人が悪党なのは、心が教養的に涵養されていないからだと私は思うのである。近代合理主義によって彼らの心は形成されているのであり、差異共振性が否定・排除されていると考えられるのである。他者は無視することになるのである。利己主義、自己中心主義である。
 そう、近代主義教育に大いに問題・欠陥があるのである。とまれ、教養とは何か、細かく考えよう。
 私にとって、心を質的に変容させるとりわけ影響があったもの、教養を考えると、例えば、トルストイ文学他のロシア文学があり、ニーチェ哲学があり、D.H.ロレンス文学があり、ルドルフ・シュタイナーの霊学があり、ドゥルーズやスピノザ哲学があった。また、これに仏典等をあげることができるし、日本では、平家物語の印象が強い。そして、忘れてはならないのは、今日では、無惨に破壊されてしまった日本の山川草木である。
 問題は、それらを読むとどう心が変容するのかである。文学や哲学や宗教等の智は、心の中に、ある形を作るだろう。プラトン哲学を読めば、イデア界を想定することになるだろう。漱石を読めば、例えば、「猫」の風刺的意識になるだろう。トルストイを読めば、そこには心を清める映像があるだろう。
 つまり、心が教養で感化されるのである。では、感化とは何だろうか。思うに、優れた作家の心の感化であろう。それは、差異共振的心を表現しているだろうから、差異共振的心の感化があるのだろう。
 そう、一般には、違いがあるとは言え、同一性と差異と差異共振性の三相性は共通だろう。これらが、いわば、混淆様相になっているのである。そして、教養(心養)によって、これらに養分が与えられ、それぞれ、成長すると言えよう。いわば、心の種子に、成長に必要な養分を与えられることである。
 もし、必要な、必須の教養(心養)が与えられなければ、その人間の心は粗野・野蛮・粗暴のままに留まるだろう。とりわけ、同一性(自我)に傾斜しているので、人間は、利己主義・自己中心主義になるのである。そして、近代合理主義は、これに合理性を付与した悪魔的な思想である。
 今日、日本が亡国状況なのは、文化的側面から言うと、教養が国家指導層並びに、国民に欠落しているからであろう。どうして、教養(心養)が欠落したのかと言えば、それは、戦後の近代合理主義教育に拠ると言えよう。アメリカ連合軍による占領政策に基盤があるだろう。
 国民の心の基である宗教・神話が否定されたのが大きいと言えよう。そう、近代合理主義、言い換えると、唯物論によって、日本人の心は利己主義化・悪魔化・野蛮化したのである。日本人としての心の主食が否定されたのである。心のホームレスになったのである。
 日本伝統の宗教・神話を取り戻さないといけないのである。心の涵養を取り戻さないといけないのである。


   




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カレンダ
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