Media Pointと双極エネルギー:Media Pointと神々:古事記と聖書






2007年11月14日(Wed)
Media Pointと双極エネルギー:Media Pointと神々:古事記と聖書
Media Pointと双極エネルギー:Media Pointと神々:古事記と聖書

テーマ:一神教/多神教

簡単に先に思い浮かんだことを書き留めておこう。
 結局、+i超越差異と-i超越差異が、差異共振=「融合」(以下、差異共振融合)して、⇒+1となるのだが、差異共振融合においてエネルギーが発動するが、私のアイデアは、±超越差異が二つの神々であり、Media Pointが一つの中心的神ではないかとということである。思うに、Media Pointは、差異共振融合において、三元的であると言えるのではないだろうか。+iと-iと差異共振融合である。書き換えると、(+i)*Media Point*(-i) のような形式になるのではないだろうか。これが、古事記の三柱の神々ではないだろうか。中心のMedia Point が天之御中主神であり、両脇が、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)と神産霊神(かみむすひのかみ)となる。これらが、三つ巴を構成するということになるだろう。i*(-i)⇒+1の⇒+1が天孫降臨であろう。そして、日御子(ひのみこ)ではないだろうか。とまれ、三つ巴は、ダビデの星の▽ではないだろうか。そして、Media Point回帰が△である。+1⇒(+i)*(-i)である。そして、ダビデの星が完成する。
 また、思ったことは、聖書の創世記の有名な冒頭の事象に関してである。神霊が水の面を漂って、そこから、結合して天地が創造されたという話である。神霊が+iであり、水が-iではないかと思ったのである。これを古事記と比較すると、高皇産霊神がたとえば神霊であり、神産霊神が水ではないだろうか。そして、それらが融合して、天地創造となったとは、⇒+1ではないだろうか。そう、有名な「光あれ」は、やはり、⇒+1であろう。
 そして、今思いついたのであるが、エデンの園で、アダムとイヴが誘惑に負けて、禁断の知恵の木の実を食べたというのは、同一性を知ったということではないだろうか。つまり、男性という同一性、女性という同一性の発生ではないだろうか。ところで、エデンの園ないしは高天ケ原とは、Media Pointと言えないだろうか。
 聖書の問題点は、以上の見方からすると、神霊を+iにしか見ていない点である。明らかに、-iも対になる神霊である。ここでは、女媧と伏儀の神話(あるいは、イシスとオシリスの神話)を考えた方がいいだろう。伏儀が+iであり、女媧が-iではないだろうか。中国神話では、両者が二重らせんを形成するのである。これが、Media Pointであろう。そして、これが、天照大神である。虚/実太陽、霊/物太陽である。聖書の光あれの光と同じであると考えられる。キリスト教はこの太陽をキリストとしたはずである。つまり、神道と同じである。万教帰一である。すると、天照大神=キリストである。そして、天照大神は日御子を産むのである。そう、ここで、神話・宗教が混乱するのではないだろうか。つまり、物質的太陽としての日御子ではないだろうか。源泉は、虚/実太陽=霊/物太陽である。つまり、Media Point太陽である。
 だから、思うに、キリストとは、やはり混乱しているのである。本来、大女神であるキリストがあり、そして、そこから日御子としてのイエスが存したのではないだろうか。つまり、キリスト教は、大女神を欠いているのである。天照大神を欠いているのである。言い換えると、大女神と日御子をキリストにおいて、混淆させているのである。だから、カトリックの聖母マリアの考え方はそれなりに正しいと言えよう。しかし、位階が狂っているのである。イエス・キリストは、日御子に過ぎない。根源は聖母マリア(=天照大神=Media Point)である。そして、父+iには、非父-iが欠けている。つまり、狭義のキリスト教は、非父と聖母マリアが欠落している。そして、聖霊であるが、それは、Media Pointにおける共振作用と言えるのではないだろうか。
 そう、旧約聖書の神は実際、二人存するのである。ヤハウェとエローヒーム(神の複数形)である。ヤハウェを+i、エローヒームを-iと想定することができるだろう。つまり、D.H.ロレンスが違う意味で言ったが、聖書は本来、多神教の世界なのである。それを父権的一神教的に捩じ曲げているのである。ここには、父権主義による改竄が考えられるのである。聖書に古事記のコンテクストを与えれば、実に明晰になる、つまり整合化されると考えられるのである。
 今は、ここで留めたい。
 
p.s. 問題は、⇒±1である。明らかに、-1は発生していると思う。たとえば、自我である。これは、反世界ではないのか。+1が本来の世界、自己であるのに、-1を真実の世界と見ているのではないのか。仮象・マーヤーとは、-1のことであろう。いわば、本象とは、+1である。
 ウィリアム・ブレイクは、近代理性をユリゼンや幽霊(スペクター)と呼んだが、確かに、-1としてそれらは存するだろう。物質主義・唯物論の世界は、端的に、-1である。
 この点については、後で検討したい。

p.p.s. いろいろなことが思い浮かぶ。ソフィアとはどう考えるべきか。あるいは、月読みやスサノヲをどう考えるべきか。そして、一点はっきりさせておかなくてはいけないのは、聖書は、本源的宗教を父権一神教的に捩じ曲げた、ないしは、改竄したと言ったが、そうではなくて、Media Pointから同一性化が開始された事象を表現していると見るべきであると考えられる。西洋文明の原点としての聖書があるのである。正に、ユダヤ/キリスト教的西洋文明である。古代ギリシアは、父権的な表層があるが、基盤は母権的・東洋的である。

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