詩・和歌・俳句・漢詩・連詩・創作

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2011年09月07日(Wed)▲ページの先頭へ
風光美
篠竹が刈り上げたようにさっぱりとした帯になっている
手前は潟であり、風でさざ波を打っている
通奏低音のような潮騒から、車の音が聞こえる
風は晩夏で心地よい
時折、魚が潟の水面から飛び跳ねる
背後には松の木の植樹帯

松、松、雄松
茶髪のように枯れた松
海岸の松林は伐採された

海岸は潮のにおい
放射能に汚染された海
海に注ぐ川で釣りをする人

海幸、山幸
海水と淡水

塩と潮

濃い緑の糸杉のような樹木
闇を直観する
ダーク・マターが
物質の背後にある
光の世界の中の闇

そう、日本の美は京都や奈良にあると思っていたが
地味な田舎の風光にあるのである
「何もない」風光は地上楽園
ニライカナイはここにある

人間獣の世界

風光美の世界から
電車、駅
白いシーツのようなシャツを着た
男性たち
これこそ、同一性である

日本の男達は気骨がない
自我、自我、自我

i/-i

闇の光がすべてである

ふさふさとした大きなコリー犬を
連れる婦人
いざ帰りなん

闇の光が美しい
そう、都会には物質の光しかない
だから、腐敗する
金も物質の光である

闇の光から作り直さないといけない

PS理論によって
すべてはクリアになる

これから世界は生まれ変わる

英語という言語はぶっきらぼうだが
実は奥の深い言語だ
多重の意味世界が広がる
それは直観的言語である
概念の元の直観だ

今や新古代だ
見えない世界が到来した

光は闇であり
闇は光である

雪のような白の塊が河岸の竹やぶについている
シラサギがとまっている
シラサギは雪の鳥
S字型に首を折り曲げて
佇む


2008年12月13日(Sat)▲ページの先頭へ
冬の都市の夜空と赤き火焔:イデアの空の三頭龍
かつて視た、都会の冬空の闇に、赤々と火焔の燃ゆるを。
そのエネルギーに満ちた赤き火焔は何処に行ったのか。
冷たい空気のなか、漆黒の闇空に、鮮烈な赤々と燃ゆる火焔。
今や、それは、静かに、イデア界に潜在している。
エネルゲイアではなく、デュナミスとなっている。
内的視覚・ヴィジョンの火焔は、今や空(くう)ないしは無となっている。
詩は何処に行ったのだろうか。
神々と同じで、イデア界へと帰還している。
その意味でニヒリズムの時代である。
しかしながら、このニヒリズムは、新しいイデアをもっている。
それは、自然合理イデア、差異共振イデア、Media Point Ideaである。
差異と差異とを垂直且つ水平に結合するイデアである。
これは、新しい世界、新しい社会の知的エネルギーである。
トランス・モダン・イデアが新しい時代を創る。
それは新しき三頭龍である。
三頭龍が旧き世界を破壊し尽くし、新しき世界を産み出すのである。


2008年11月15日(Sat)▲ページの先頭へ
田舎の「気」:都会のストレスと自然の風光美
最近は、田舎の実家に帰っていない。田舎には、「気」が満ちていて、ほっとする。そう、近代的科学、すなわち、唯物論に染まっている限り、これは、感じられない。
 とまれ、都会生活が数ヶ月続くと疲労を感じるのである。コンクリート・ジャンヌグルはそれだけで、ストレスである。
 そう、昔、詩を書いたが、廃棄してしまった。冒頭は次のようである。


都会の四角いコンクリートの部屋に閉じこまれていると、
奥深く盛り上がる大地の営みを忘れてしまう。
・・・


これは、田舎から東京に来て、日々ストレスを感じていた頃、止むに止まれずに、書いた詩もどきである。これは、東京のむさ苦しい部屋に住んでいた頃のもので、衝動的に、奥多摩へ行って、激しく爆発的解放感を得た頃のものである。身体的魂から、奥多摩の山容に一体化した頃のものである。
 軍畑(いくさばた)駅辺りの冬の風光の美しさには感動した。そう、それは、新鮮な感動であった。

青梅線
http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E9%9D%92%E6%A2
%85%E7%B7%9A


2008年06月19日(Thu)▲ページの先頭へ
来るべきもの:Cosmos wil come to the earth. Ready?
わたしは病院の側の坂道を下りながら、この道の「気」が好きだと感じた
病院のある場所は聖地と同様、「気」のいい場所だろうか
とまれ、私の心は、ある「力」に満たされるつつあるようだ
わたしは、最後の手段を取るような気分になっている
そう、わたしの最深部によって、コスモスの気をもたらそうとしているのである
私は神とは呼ばない
コスモスの「気」である
それに私は呼びかける
否、主体的に地上にもたらそうとするのである
合理・批判的方法以外に、この精神的方法をわたしはとりたい気分である
そう、いっしゅの祈りや呪術であるが、これは、最終手段である
わたしはコスモスに呼びかける
コスモスの気に呼びかける
というか、コスモスの気が降臨することを意志するのである
これは、いわば、私とイデア界との交流の問題である
思えば、古くからの私とコスモスとの関係に因るとは言えよう
私は強く呼び寄せたい、コスモスの降臨を
私は神とは言わない
神は嘘臭い
大いなるコスモスの降臨を願うのである
これは、私の「復讐するはわれにあり」である
そう、人間の生の意味は量的長さにあるのではない
短い人生であっても、魂の生命を感じれば、それは永遠に触れたのである
わたしはコスモスをもたらしたい
ただ、それだけである
それが私の積極的な意志である
Cosmos will come to us.
Cosmos the Harmony Wave will come upon us.
Are you ready for it?
Cosmos shall come upon us.


2008年06月02日(Mon)▲ページの先頭へ
自然の呼び声、又は、自然都市の夢想
海の風に触れたくなった
ベランダには、鳩が棲みついて、ばさばさと昼夜音をたてているのは
孵った雛鳥だろう
田園交響曲を聴きたくなっているし、モーツァルトの心に翼がついたような優美な愉悦に満ちた音楽を聴くのも、
どうやら、自然の呼び声のようだ
自然欠乏症になっているようだ
植物はあるが自然が消えた都会の
無機的な景観に私の心は反応しない
自然との交感を欲しているのだろう
物質的同一性によって作られた都会
便利ではあるが、
魂のコズミックな生命が閉塞されている
同一性感覚の支配する都会
差異共振の自然コスモスが欠乏するので
鬱々しいのだ
思うに、芭蕉が奥の細道に出たのも、自然の呼び声に
促されたからではないだろうか。
道祖神の招き
自然の呼び声とは、イデア界の呼び声ではあるが、
どうして、自然なのだろうか。
どうして、精神と呼ばないのか。
自然精神の呼び声である。
どうして、神の呼び声と呼ばないのか
いや、神ではない
自然の呼び声である
自然が呼んでいるのである
とまれ、自然と一体である生活をしたい
しかし、農作業はたいへんである
私はずるく、自然と都会のいいとこ取りを考える
自然都市が必要ではないか
文明都市は自然を滅ぼし、また、
自ら滅びてきた
森を伐採して、
滅びてきた
だから、都市と森林を調和させる自然都市、
森林都市が必要だろう
とまれ、生には、自然の霊性が必要である
それこそ、深い生き甲斐となるだろう。
自然の息吹の欠落した都会は鬱々とする

p.s. 道祖神とは、ギリシア神話では、ヘルメス神であり、これは、Media Pointに相当するのではないだろうか。


2008年01月16日(Wed)▲ページの先頭へ
和歌(やまとうた)と神道:精神文化と詩歌:差異共振心性とアニミズム:神道ルネサンスへ向けて
昨日の朝日新聞の朝刊の歌壇・俳壇で、読書の和歌の投稿欄があって、少し読んでみたが、あまりの拙さに、ショックを受けた。現代日本人の感受性が鈍磨・麻痺してしまっているということだろう。当然と言えば、当然であるが。でも、ひど過ぎる。あまりにひど過ぎるのである。
 情緒がなく、音楽もないのである。断絃の時である。今日、帰りにブックオフによって、探したら古今和歌集があり、買おうかと思ったが、思いとどまり、インターネットで探すことにした。
 とまれ、読んで心が潤い、満たされた。私としては、新古今の方が色彩感が鮮やかで好きであるが、古今集でも和歌への渇きは癒された。
 でも、どうして和歌・短歌が急に読みたくなったのか。なぜ、俳句ではないのか。俳句は乾いた詩であり、和歌はウェットな詩、つまり、叙情詩・リリックなのである。どうも私の気分が、ウェットな方へ今傾斜しているのである。(今日の、末世の悽愴殺伐とした世相に対する、心の渇きがあるのだろう。)
 以下の二番目の資料(『不連続な読書日記』)に、本居宣長の「もののあわれ」に関する興味深い記事がある。後で考察してみたいが、一言いうと、宣長の言わんとしたことはよくわかるのであり、それは、差異共振性である。Media Pointの心性・共感性である。これは、神道的心性と言えよう。思うに、宣長の誤りは、これを大和心として、民族主義化したことである。この共感性は、孔子にも、老子にも存するものである。
 つまり、こういうことだろう。神道的心性とは、本来、普遍的なのである。だから、中国にも存するものなのであり、太母文化のあるところには存するのである。ただし、日本においては、神道的心性という様態となっているのである。万教帰一である。(p.s. 神道的心性とは、アニミズムである。)
 さらに、「もののあわれ」という表現が感情主義的であり、正確に理論化されていないのが嫌みなのである。これは、端的に、差異共振感情ないしは、差異共振共感性である。
 国学のナショナリズムは問題であるが、しかしながら、神道的心性=アニミズム精神は、戦後の連合国占領と売国政治による近代合理主義の導入によって、破滅させられたと言えよう。日本の自然国土の破壊は、これと関係すると言えよう。民族的文化が否定されて、自然が破壊されたのである。精神文化・魂の文化が破壊されて、自然や心が破壊されたのである。折口信夫が、太平洋戦争で、日本の神が敗れたと言ったのは、正鵠を射ていたのである。ユダヤ・キリスト教の神=同一性・合理主義の神に、神道=アニミズムの神が敗れたのである。(宮崎駿の作品は、神道ルネサンスである。プラトニック・シナジー理論は、新アニミズム論でもあるだろう。後で詳論したい。)
 後で整理したい。

p.s. 問題は、神道精神が明治維新と敗戦後でどうなったのかである。前者は、国家神道となり、ナショナリズム化した。後者では神道精神自体が否定されたのである。つまり、自国精神文化の否定という恐ろしい自体が生じたのである。亡国的事件の発生である。
 しかしながら、本当に、民族伝統に根差しているものならば、簡単に否定することはできないはずである。これは、いったいどうしたことなのか。
 思うに、世俗化によって、アニミズム的な心性は衰退してしまっていたということだろう。折口信夫は戦後、新神道の可能性を唱えていたが、それは、そのような意味合いもあるのではないだろうか。折口は、日本人の宗教性が衰退していたことを述べていたのである。
 結局、正に、復興・復活・再生が必要であると言えよう。神道精神の復興が必要である。アメリカ的近代合理主義に洗脳されて、すっかり、日本精神文化が衰退・衰滅してしまった今日である。もっとも、神道ルネサンスは、螺旋的回帰である。近代を経由した高次元における神道ルネサンスである。

*****************

やまとうた

http://www.asahi-net.or.jp/
~sg2h-ymst/yamatouta/

******************

2008-01-15 システムと情緒──『日本語の奇跡』CommentsAdd Star

 山口謠司著『日本語の奇跡──〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』(新潮新書)を読んだ。

 日本という国の歴史そのものでもある日本語の変遷の過程を、コンパクトな新書に収めきるのはどだい無理な話だ。「書き足りない」と著者はあとがきに書いているが、それは当然のことだと思う。

 情報の圧縮には必ず残余が伴うのであって、読後、それが余韻というか残り香のように漂うようであれば、成功といってよい。しかし、通読後の第一印象は「書きすぎている」もしくは「書き散らかされている」というものだった。

 初学者にとって充分すぎる情報が、必ずしも順序だてて整然と構成されているとは思えない叙述のなかに、飛び飛びにちりばめられている。だから、にわか仕込みの断片的な知識が頭の中でとぐろを巻いて、鮮明な読後感に集約していかない。

 それに、本書の表題にいう「奇跡」の実質がいまひとつ掴めない。

 日本語はトルコ語、モンゴル語、朝鮮語 の同類で、基本となる語に助詞や助動詞が付属して文法的な関係を示す膠着語 に属する。これに対して、古来、文明を創り上げてきた国々の言葉は、ギリシャ語、ラテン語といったヨーロッパの言語やアラビア語 、インドのサンスクリット語など、語尾変化によって文法的な関係を示す屈折語 と、中国語のように語の配列の順序で文法的な関係を示す孤立語 とに分類される。

http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20080115
不連続な読書日記


2006年12月01日(Fri)▲ページの先頭へ
諸考察:詩作:世を包む深い闇は何か
諸考察:詩作:世を包む深い闇は何か

私の心眼の世界に、暗くのしかかる巨大な闇
光がないのである
差異共振シナジーのコスモスは、光ではないのか
それは確かに光であるが、心眼の世界の闇は、それをかき消している
この心眼のニヒリズム的巨大や闇の空間は何なのだろうか
これは、コスモスの光の空間とは、まったく別の空間である
そう、ある意味で、コスモスの光が、闇の空間になっているようなのだ
光が闇になる?
近代的自我は、闇を光と錯視している。
しかし、私の言う心眼の闇の巨大空間は、それとは、違う。
虚無の空間である。
これは、空でも、絶対無でもない。何故なら、そこには、生成消滅があるからだ。
生成消滅のない虚無の暗黒空間
これは、やはり、近代の闇のことなのか
1の世界なのか
人びとはこの闇空間を見ない
iの光の闇?
現象界を包む闇空間
近代的自我の闇の空間なのだろうか
直観で言おう。
その世界を覆う巨大な闇空間と私の心が通じている
私の心は、闇空間である
虚無である。
私は虚無である
ニーチェの説いた虚無であろう
無意味である
不条理というか、無条理である
これは、死に似ている
これが、-i自体なのか
他者自体が、この闇なのか
否、他者と私は、共振する光を形成する
とまれ、今は、この世界を包む闇空間が何かわからない
人は、闇に包まれて生きているのがわからないのである
現象の光の世界は、この闇に包まれているのである
この闇は、1の闇ではないだろうか。
そうならば、近代的自我の闇である
これが、世界を包んでいる巨大な暗黒空間ということになる

___________________________

検討問題:認識の問題:二つの認識:陽認識と陰陽認識:近代的合理主義とプロト・モダン合理主義
テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係
認識であるが、二つの認識があるだろう。一つは、i中心の認識で、-iを排除する認識、即ち、陽認識・+エネルゲイア認識、反差異・連続的同一性認識(近代合理主義)であり、一つは、-iを含んだ認識であり、陽・陰認識、±エネルゲイア認識である。即ち、(i)*(-i) ⇒+1、e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1の正当な自己認識である。
 後で、さらに検討したい。
___________________________

コミュニケーション(論)への疑問:対連・対差へ:シンファランス・共差へ
テーマ:メディア界のフロンティア
コミュニケーション(論)が流行しているが、私は疑問をもっている。基本的に、個人と個人は、一致すること(同一化)はありえないと考えているからである(p.s. 但し、差異共振シナジー的一致はある)。反差異・連続的同一性という「理性」をコミュニケーション(論)の基盤にしているようだ。
 これは、近代主義に延長に過ぎない。ハーバーマス的近代理性主義である。私は、対話が根本だと思っている。「連詩」である。対差主義である。シンディファランスsyndifference、共差論(略して、シンファランス)である。
____________________________

以下の日刊ゲンダイの記事であるが、多極化という世界の動きを見ていず、アメリカの核の傘の下の戦後日
テーマ:多極化/脱近代西洋/東アジア
以下の日刊ゲンダイの記事であるが、多極化という世界の動きを見ていず、アメリカの核の傘の下の戦後日本の政治の視点(時代後れの視点)から現代を見ているに過ぎないのではないだろうか。日刊カコではないだろうか。
 もっとも、全体主義の傾向が拭いえない。現代、日本人の《個》の視点が、決定的に必要である。単独の「私」、特異性の「私」、不連続な「私」が、キーポイントである。だから、不連続的差異論を強調したい。
 
___ Dailymail Businessより ──





■ いよいよ狂気の沙汰だ



■ 一体何を目指してやっているのか安倍政治



■ 恐らく歴史に裁かれる小泉以後の自公政権の暴政




____________________________

ワシントンポスト紙における 以下の宗教に関する投稿記事やそれに対するコメントは興味深い。日本の「
テーマ:ポスト・アメリカ
ワシントンポスト紙における 以下の宗教に関する投稿記事やそれに対するコメントは興味深い。日本の「一流」新聞で、宗教観が議論されることは、皆無に近いだろう。とまれ、クリスチャンの国アメリカならではである。
 ところで、「われわれの中の神」とは、万教帰一の考え方である。これが、現代のアメリカ人の一人に復興しているのは、興味深い。ただし、「自分がされてほしいように、他者をもてなせ」という金言であるが、すこし違うように思う。私としては、他者を、他者として見るのである。他者を自己のように見るのである。もっとも、当然、自己と他者との間には、差異がある。正に、即非的自己・他者関係である。

_______________________

Keep God Within Us

Do I believe in God? Yes. But what has that really told you about me? I’m Jewish. Whether you know some or a great deal about Judaism that would still tell you little about me. The same would apply, I believe, if I had been born Catholic, Presbyterian, Muslim or Hindu. The label means nothing. You will only know us in this world by our deeds, by the way we live, and by the way we treat our fellows.

http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith
/guestvoices/2006/11/keep_god_within_us.html


__________________________

検討問題:自己認識方程式と身体・感情・心身
テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係
先に述べたことから、本件について言うと、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式において、iが思惟であり、(-i)が延長となるが、主体においては、iが精神であり、(-i)が身体となるだろう。そして、*において、感情が発生する。あるいは、欲望が発生する。(今、この問題は保留しておこう。)
 とまれ、iと-iが共立共振したときが、美であり、倫理であり、真理であろう。(バッハの音楽の精神性やアート性は、ここから発しているだろう。)この共振の美的感情が、歓喜である。しかし、バッハの音楽の美的感情と、例えば、美味な料理の歓喜(p.s. 快楽:以下同様)とはどう異なるのだろうか。精神的歓喜と身体的歓喜(快楽)である。倫理的歓喜と感覚的歓喜(快楽)と言ってもいいだろう。これは、実に、プラトニズム的問いであろう。
 例えば、美味な魚料理を食するとしよう。極上の味であるとしよう。私の味覚と魚料理との共振作用があるだろう。一見、i*(-i)の関係のように見えるが、果たして、そうだろうか。あるいは、みかんを食べるとしよう。とても甘味のあるみかんである。この舌の味覚は、差異共振なのだろうか。そうではないだろう。味覚の場合は、感覚中心で、倫理や精神がないからである。
 例えば、姿造りで、動いている魚の刺し身を食べるのは、なにか、気色悪い、魚の目が私を見つめているようである。これなどは、倫理的である。
 ということで、ざっとであるが、精神的歓喜と身体・感覚的歓喜とは、別のものであるということになった。バッハの音楽を例にとれば、精神と感覚、ないし精神的感覚の問題がある。
 精神とは何だろう。対象を「モノ」と見たら、主体による対象への志向性は、精神的にはならない。例えば、単に食べ物としてのみかんは精神的対象にならない。「モノ」としての対象と精神的対象の違いは何か。対象を他者として見るときに、精神性が生まれるだろう。ある人種を、他者ではなくて、劣等人種と見るとき、そこには、精神性はない。
 共感性の問題があるだろう。共感性は、差異共振精神感情である。倫理的感情である。仁義である。美徳である。仁徳である。ここで、先の陽意識と陰意識の双方向性を考えると、共感性は、陰意識、エネルゲイアに基づくであろう。陽意識、+エネルゲイアは、連続的同一性を形成するだろう。対象に自己投影して、自我所有とするのである。(私は、これが、フロイトの死の本能だと思う。)ここには、攻撃行動があるだけであり、「仁義」はない。陰意識、エネルゲイアを排除しているのである。(反復強迫とは、この排除による反動ではないだろうか。)
 そう、陰意識、エネルゲイアがあっても、陽意識が維持されれば、自我が維持されているのである。つまり、連続的同一性という自我が残るのである。つまり、これは、他者を確認していないのである。連続的差異としての対象なのである。だから、陽意識が解体して、不連続的差異である他者が出現すると言えよう。陽意識の解体とは、現象学的還元、エポケーのことだろう。脱自我のことだろう。まったき他者が出現するのである。反差異・連続的同一性が隠蔽していた、他者が出現するのである。これは、自己内の-iの発見でもある。陽意識の盲点が、出現するのである。陽意識の「光」が隠蔽していた陰意識の「闇」が現れるのである。この「闇」とは、実は、光である。本来の光である。真光である。ロレンスが言った黒い太陽とは、このことではないのか。阿弥陀如来の無量光とは、このことではないのか。-iの光、陰意識・エネルゲイアの光である。いわば、闇の中の光である。
 そう、ここで直観で言えば、私が自然に見る光とは、この光である。 -i、陰意識・エネルゲイアの光を、私は、自然に見るのである。これは、なにか、現象の光と混じっている。太陽の光も、この陰の光のように思えるのである。つまり、現象光には、-i、陰意識・エネルゲイアの光があるのではないだろうか。では、+iの光とは何か。これは、光の闇だろう。白い闇ではないだろうか。連続的同一性の闇ではないだろうか。近代主義の闇、唯物論の闇ではないだろうか。近代は、闇を見ているのである。光を排除しているのである。陽の闇と陰の光があるのであり、近代は、後者を排除して、前者と一体化しているのである。悪魔となり、天使を排除しているのである。
 ここで、簡単に整理すると、感覚は闇であり、精神は光であるということである。みかんの甘美さは、闇の歓喜なのであり、バッハによる歓喜は、光の歓喜である。今は、ここで留めて、さらに検討したい。


2006年11月05日(Sun)▲ページの先頭へ
俳句
祭日、好天の今日、公園に散歩し、帰り、護国寺に寄って、詠む。なお、御本尊の如意輪観音の御開帳に遇することが出来た。


http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Gokoku-ji_%28main_hall%29.jpg


護国寺の

烏騒がし

黄の銀杏


御本尊

宝飾あでやか

お洒落なり


如意輪を

宝飾つつむ

艶めかし


桂昌院

三十三仏

髪籠める


ご住職

寺の紹介

まめまめしく


家の柿

こんもり覆い

朱の実かな


帰り道

養生たりぬか

足痛み


参考:
桂昌院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

桂昌院(けいしょういん、1624年 (寛永 元年) - 1705年 8月11日 (宝永 2年6月22日 ))は、江戸時代 の幕府3代将軍 徳川家光 の側室 である。徳川実記に拠れば、父は八百屋仁左衛門(養父は本庄宗利 )、母は鍋田氏の娘。子に5代将軍となる徳川綱吉 。名はお玉。

京都 で産まれる。若い頃は町人たち誰もが、目を奪われる程の美人だったらしい。後に母が関白 二条光平 の家司である本庄資俊 と再婚したため資俊の養女となる。1639年(寛永 16)に御小姓として家光の側室のお万の方 に仕え、その際に春日局 の部屋子として家光に見初められ、家光の側室。1646年(正保 3)に綱吉を産み、1651年(慶安 4)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山 知足院に入る。4代将軍徳川家綱 の死後、1680年(延宝 8)に綱吉が将軍職に就くと江戸城 三の丸へ入り、権勢を振るう。男子の生まれない綱吉に対し、帰依していた亮賢 に僧の隆光 を紹介され、生類憐みの令 発令に関わったとされる。ちなみに綱吉の正室の鷹司信子 とは仲が悪かったらしい。

1702年 には女性最高位の従一位 の官位を賜り、藤原宗子という名前も賜った。1705年に82歳で没する。

墓所は東京都 港区 の増上寺


[編集 ] 関連

江戸時代の人物一覧
執筆の途中です この「桂昌院」は、歴史 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%98%8C%E9%99%A2 " より作成

カテゴリ : 1624年生 | 1705年没 | 歴史関連のスタブ項目

護国寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
本堂
拡大
本堂
月光殿
拡大
月光殿

護国寺(ごこくじ)は、東京都 文京区 大塚五丁目にある真言宗 豊山派の寺院 。徳川綱吉 の母、桂昌院 の発願によって創建された。開山は亮賢 。

近代以降は宮家の墓所(豊島ヶ岡御陵 )が造られた。これは1873年 (明治 6年)、明治天皇 の皇子の死去を機に護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものである。 また茶道 の総本山としても有名である。
目次
[非表示 ]

* 1 文化財
* 2 墓所
* 3 最寄り駅
* 4 最寄りバス停
* 5 外部リンク

[編集 ] 文化財

重要文化財 の本堂、滋賀の園城寺 (三井寺)から移築された書院を持つ月光殿など、多くの文化財を有する。また、大隈重信 ら多くの著名人の墓所としても知られる。

[編集 ] 墓所

* 大隈重信
* 山縣有朋
* 大倉喜八郎
* 池田成彬
* 団琢磨
* 益田孝 (益田鈍翁)
* 高橋義雄 (高橋箒庵)
* ジョサイア・コンドル

[編集 ] 最寄り駅

* 護国寺駅 (東京メトロ有楽町線 )

[編集 ] 最寄りバス停

都営バス

* 都02乙 池袋駅東口 〜東池袋四丁目 〜護国寺〜護国寺正門〜大塚車庫 〜茗荷谷駅 〜伝通院 〜春日駅 〜東京ドームシティ〜水道橋駅 〜神保町 〜一ツ橋
* 上58 早稲田 〜江戸川橋 〜護国寺正門〜千石一丁目 〜上富士前〜動坂下〜根津駅 〜上野松坂屋 (上野広小路 )

[編集 ] 外部リンク

* 護国寺Webサイト

Wikimedia Commons
ウィキメディア・コモンズ に、護国寺 に関連するカテゴリがあります。
執筆の途中です この「護国寺」は、仏教 関連の書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる執筆協力者を求めています。 (ポータル仏教 ) Dharma wheel
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AF%BA " より作成

カテゴリ : 東京都の寺 | 真言系仏教 | 仏教関連のスタブ項目



如意輪観音
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

如意輪観音(にょいりんかんのん)は、仏教 における信仰対象である菩薩 の一つ。サンスクリット ではCintamani cakra チンタマニチャクラ(中国でチンタ=如意、マニ=宝珠、チャクラ=法輪と訳す。)という。観音菩薩 の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一つでもある。日本語では「如意輪観音菩薩」、「如意輪観世音菩薩」などさまざまな呼び方があるが、重要文化財等の指定名称は「如意輪観音」となっている。
如意輪観音菩薩像(東大寺金堂)
拡大
如意輪観音菩薩像(東大寺 金堂)

如意輪観音像は、原則として全て坐像または半跏像で、立像はまず見かけない。片膝を立てて座る六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は6本の手のうちの2本に如意宝珠と法輪とを持っており、これが尊名の由来にもなっている。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、チャクラ、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラム が転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。

日本における如意輪観音の作例のうち、大阪・観心寺 本尊像は六臂像の代表作である。6本の手のうち、右第1手は頬に当てて思惟相を示し、右第2手は胸前で如意宝珠、右第3手は外方に垂らして数珠を持つ。一方、左第1手は掌を広げて地に触れ、左第2手は未開敷蓮華(蓮のつぼみ)、左第3手は指先で法輪を支える。兵庫・神呪寺 像、西国札所の園城寺(三井寺 )観音堂本尊像、奈良・室生寺 本堂像、京都・醍醐寺 像などはいずれも観心寺像と同様の六臂像である。

二臂の如意輪観音像として古来著名なものは、滋賀・石山寺 の秘仏本尊像である。飛鳥の岡寺 の本尊像も二臂である。
法隆寺 の隣にある中宮寺 の本尊像は、右脚を左膝に乗せ(半跏)、右手を頬に当てて考えるポーズを取る(思惟)、典型的な半跏思惟像である。この像は古来如意輪観音像と称されているが、造像当初の尊名は明らかでなく、弥勒菩薩 像として造られた可能性が高い。

[編集 ] 関連項目

* チャクラ

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E8%BC%AA%E8%A6%B3%E9%9F%B3 " より作成

カテゴリ : 観音菩薩


   




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2017年5月
 
27
28 29 30 31      

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:61
昨日:1,267
累計:4,651,821