和歌(やまとうた)と神道:精神文化と詩歌:差異共振心性とアニミズム:神道ルネサンスへ向けて |
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2008年01月16日(Wed)
和歌(やまとうた)と神道:精神文化と詩歌:差異共振心性とアニミズム:神道ルネサンスへ向けて
昨日の朝日新聞の朝刊の歌壇・俳壇で、読書の和歌の投稿欄があって、少し読んでみたが、あまりの拙さに、ショックを受けた。現代日本人の感受性が鈍磨・麻痺してしまっているということだろう。当然と言えば、当然であるが。でも、ひど過ぎる。あまりにひど過ぎるのである。
情緒がなく、音楽もないのである。断絃の時である。今日、帰りにブックオフによって、探したら古今和歌集があり、買おうかと思ったが、思いとどまり、インターネットで探すことにした。 とまれ、読んで心が潤い、満たされた。私としては、新古今の方が色彩感が鮮やかで好きであるが、古今集でも和歌への渇きは癒された。 でも、どうして和歌・短歌が急に読みたくなったのか。なぜ、俳句ではないのか。俳句は乾いた詩であり、和歌はウェットな詩、つまり、叙情詩・リリックなのである。どうも私の気分が、ウェットな方へ今傾斜しているのである。(今日の、末世の悽愴殺伐とした世相に対する、心の渇きがあるのだろう。) 以下の二番目の資料(『不連続な読書日記』)に、本居宣長の「もののあわれ」に関する興味深い記事がある。後で考察してみたいが、一言いうと、宣長の言わんとしたことはよくわかるのであり、それは、差異共振性である。Media Pointの心性・共感性である。これは、神道的心性と言えよう。思うに、宣長の誤りは、これを大和心として、民族主義化したことである。この共感性は、孔子にも、老子にも存するものである。 つまり、こういうことだろう。神道的心性とは、本来、普遍的なのである。だから、中国にも存するものなのであり、太母文化のあるところには存するのである。ただし、日本においては、神道的心性という様態となっているのである。万教帰一である。(p.s. 神道的心性とは、アニミズムである。) さらに、「もののあわれ」という表現が感情主義的であり、正確に理論化されていないのが嫌みなのである。これは、端的に、差異共振感情ないしは、差異共振共感性である。 国学のナショナリズムは問題であるが、しかしながら、神道的心性=アニミズム精神は、戦後の連合国占領と売国政治による近代合理主義の導入によって、破滅させられたと言えよう。日本の自然国土の破壊は、これと関係すると言えよう。民族的文化が否定されて、自然が破壊されたのである。精神文化・魂の文化が破壊されて、自然や心が破壊されたのである。折口信夫が、太平洋戦争で、日本の神が敗れたと言ったのは、正鵠を射ていたのである。ユダヤ・キリスト教の神=同一性・合理主義の神に、神道=アニミズムの神が敗れたのである。(宮崎駿の作品は、神道ルネサンスである。プラトニック・シナジー理論は、新アニミズム論でもあるだろう。後で詳論したい。) 後で整理したい。 p.s. 問題は、神道精神が明治維新と敗戦後でどうなったのかである。前者は、国家神道となり、ナショナリズム化した。後者では神道精神自体が否定されたのである。つまり、自国精神文化の否定という恐ろしい自体が生じたのである。亡国的事件の発生である。 しかしながら、本当に、民族伝統に根差しているものならば、簡単に否定することはできないはずである。これは、いったいどうしたことなのか。 思うに、世俗化によって、アニミズム的な心性は衰退してしまっていたということだろう。折口信夫は戦後、新神道の可能性を唱えていたが、それは、そのような意味合いもあるのではないだろうか。折口は、日本人の宗教性が衰退していたことを述べていたのである。 結局、正に、復興・復活・再生が必要であると言えよう。神道精神の復興が必要である。アメリカ的近代合理主義に洗脳されて、すっかり、日本精神文化が衰退・衰滅してしまった今日である。もっとも、神道ルネサンスは、螺旋的回帰である。近代を経由した高次元における神道ルネサンスである。 ***************** やまとうた http://www.asahi-net.or.jp/ ~sg2h-ymst/yamatouta/ ****************** 2008-01-15 システムと情緒──『日本語の奇跡』CommentsAdd Star 山口謠司著『日本語の奇跡──〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』(新潮新書)を読んだ。 日本という国の歴史そのものでもある日本語の変遷の過程を、コンパクトな新書に収めきるのはどだい無理な話だ。「書き足りない」と著者はあとがきに書いているが、それは当然のことだと思う。 情報の圧縮には必ず残余が伴うのであって、読後、それが余韻というか残り香のように漂うようであれば、成功といってよい。しかし、通読後の第一印象は「書きすぎている」もしくは「書き散らかされている」というものだった。 初学者にとって充分すぎる情報が、必ずしも順序だてて整然と構成されているとは思えない叙述のなかに、飛び飛びにちりばめられている。だから、にわか仕込みの断片的な知識が頭の中でとぐろを巻いて、鮮明な読後感に集約していかない。 それに、本書の表題にいう「奇跡」の実質がいまひとつ掴めない。 日本語はトルコ語、モンゴル語、朝鮮語 の同類で、基本となる語に助詞や助動詞が付属して文法的な関係を示す膠着語 に属する。これに対して、古来、文明を創り上げてきた国々の言葉は、ギリシャ語、ラテン語といったヨーロッパの言語やアラビア語 、インドのサンスクリット語など、語尾変化によって文法的な関係を示す屈折語 と、中国語のように語の配列の順序で文法的な関係を示す孤立語 とに分類される。 http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20080115 不連続な読書日記 |
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