諸考察:詩作:世を包む深い闇は何か






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2006年12月01日(Fri)
諸考察:詩作:世を包む深い闇は何か
諸考察:詩作:世を包む深い闇は何か

私の心眼の世界に、暗くのしかかる巨大な闇
光がないのである
差異共振シナジーのコスモスは、光ではないのか
それは確かに光であるが、心眼の世界の闇は、それをかき消している
この心眼のニヒリズム的巨大や闇の空間は何なのだろうか
これは、コスモスの光の空間とは、まったく別の空間である
そう、ある意味で、コスモスの光が、闇の空間になっているようなのだ
光が闇になる?
近代的自我は、闇を光と錯視している。
しかし、私の言う心眼の闇の巨大空間は、それとは、違う。
虚無の空間である。
これは、空でも、絶対無でもない。何故なら、そこには、生成消滅があるからだ。
生成消滅のない虚無の暗黒空間
これは、やはり、近代の闇のことなのか
1の世界なのか
人びとはこの闇空間を見ない
iの光の闇?
現象界を包む闇空間
近代的自我の闇の空間なのだろうか
直観で言おう。
その世界を覆う巨大な闇空間と私の心が通じている
私の心は、闇空間である
虚無である。
私は虚無である
ニーチェの説いた虚無であろう
無意味である
不条理というか、無条理である
これは、死に似ている
これが、-i自体なのか
他者自体が、この闇なのか
否、他者と私は、共振する光を形成する
とまれ、今は、この世界を包む闇空間が何かわからない
人は、闇に包まれて生きているのがわからないのである
現象の光の世界は、この闇に包まれているのである
この闇は、1の闇ではないだろうか。
そうならば、近代的自我の闇である
これが、世界を包んでいる巨大な暗黒空間ということになる

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検討問題:認識の問題:二つの認識:陽認識と陰陽認識:近代的合理主義とプロト・モダン合理主義
テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係
認識であるが、二つの認識があるだろう。一つは、i中心の認識で、-iを排除する認識、即ち、陽認識・+エネルゲイア認識、反差異・連続的同一性認識(近代合理主義)であり、一つは、-iを含んだ認識であり、陽・陰認識、±エネルゲイア認識である。即ち、(i)*(-i) ⇒+1、e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1の正当な自己認識である。
 後で、さらに検討したい。
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コミュニケーション(論)への疑問:対連・対差へ:シンファランス・共差へ
テーマ:メディア界のフロンティア
コミュニケーション(論)が流行しているが、私は疑問をもっている。基本的に、個人と個人は、一致すること(同一化)はありえないと考えているからである(p.s. 但し、差異共振シナジー的一致はある)。反差異・連続的同一性という「理性」をコミュニケーション(論)の基盤にしているようだ。
 これは、近代主義に延長に過ぎない。ハーバーマス的近代理性主義である。私は、対話が根本だと思っている。「連詩」である。対差主義である。シンディファランスsyndifference、共差論(略して、シンファランス)である。
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以下の日刊ゲンダイの記事であるが、多極化という世界の動きを見ていず、アメリカの核の傘の下の戦後日
テーマ:多極化/脱近代西洋/東アジア
以下の日刊ゲンダイの記事であるが、多極化という世界の動きを見ていず、アメリカの核の傘の下の戦後日本の政治の視点(時代後れの視点)から現代を見ているに過ぎないのではないだろうか。日刊カコではないだろうか。
 もっとも、全体主義の傾向が拭いえない。現代、日本人の《個》の視点が、決定的に必要である。単独の「私」、特異性の「私」、不連続な「私」が、キーポイントである。だから、不連続的差異論を強調したい。
 
___ Dailymail Businessより ──





■ いよいよ狂気の沙汰だ



■ 一体何を目指してやっているのか安倍政治



■ 恐らく歴史に裁かれる小泉以後の自公政権の暴政




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ワシントンポスト紙における 以下の宗教に関する投稿記事やそれに対するコメントは興味深い。日本の「
テーマ:ポスト・アメリカ
ワシントンポスト紙における 以下の宗教に関する投稿記事やそれに対するコメントは興味深い。日本の「一流」新聞で、宗教観が議論されることは、皆無に近いだろう。とまれ、クリスチャンの国アメリカならではである。
 ところで、「われわれの中の神」とは、万教帰一の考え方である。これが、現代のアメリカ人の一人に復興しているのは、興味深い。ただし、「自分がされてほしいように、他者をもてなせ」という金言であるが、すこし違うように思う。私としては、他者を、他者として見るのである。他者を自己のように見るのである。もっとも、当然、自己と他者との間には、差異がある。正に、即非的自己・他者関係である。

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Keep God Within Us

Do I believe in God? Yes. But what has that really told you about me? I’m Jewish. Whether you know some or a great deal about Judaism that would still tell you little about me. The same would apply, I believe, if I had been born Catholic, Presbyterian, Muslim or Hindu. The label means nothing. You will only know us in this world by our deeds, by the way we live, and by the way we treat our fellows.

http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith
/guestvoices/2006/11/keep_god_within_us.html


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検討問題:自己認識方程式と身体・感情・心身
テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係
先に述べたことから、本件について言うと、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式において、iが思惟であり、(-i)が延長となるが、主体においては、iが精神であり、(-i)が身体となるだろう。そして、*において、感情が発生する。あるいは、欲望が発生する。(今、この問題は保留しておこう。)
 とまれ、iと-iが共立共振したときが、美であり、倫理であり、真理であろう。(バッハの音楽の精神性やアート性は、ここから発しているだろう。)この共振の美的感情が、歓喜である。しかし、バッハの音楽の美的感情と、例えば、美味な料理の歓喜(p.s. 快楽:以下同様)とはどう異なるのだろうか。精神的歓喜と身体的歓喜(快楽)である。倫理的歓喜と感覚的歓喜(快楽)と言ってもいいだろう。これは、実に、プラトニズム的問いであろう。
 例えば、美味な魚料理を食するとしよう。極上の味であるとしよう。私の味覚と魚料理との共振作用があるだろう。一見、i*(-i)の関係のように見えるが、果たして、そうだろうか。あるいは、みかんを食べるとしよう。とても甘味のあるみかんである。この舌の味覚は、差異共振なのだろうか。そうではないだろう。味覚の場合は、感覚中心で、倫理や精神がないからである。
 例えば、姿造りで、動いている魚の刺し身を食べるのは、なにか、気色悪い、魚の目が私を見つめているようである。これなどは、倫理的である。
 ということで、ざっとであるが、精神的歓喜と身体・感覚的歓喜とは、別のものであるということになった。バッハの音楽を例にとれば、精神と感覚、ないし精神的感覚の問題がある。
 精神とは何だろう。対象を「モノ」と見たら、主体による対象への志向性は、精神的にはならない。例えば、単に食べ物としてのみかんは精神的対象にならない。「モノ」としての対象と精神的対象の違いは何か。対象を他者として見るときに、精神性が生まれるだろう。ある人種を、他者ではなくて、劣等人種と見るとき、そこには、精神性はない。
 共感性の問題があるだろう。共感性は、差異共振精神感情である。倫理的感情である。仁義である。美徳である。仁徳である。ここで、先の陽意識と陰意識の双方向性を考えると、共感性は、陰意識、エネルゲイアに基づくであろう。陽意識、+エネルゲイアは、連続的同一性を形成するだろう。対象に自己投影して、自我所有とするのである。(私は、これが、フロイトの死の本能だと思う。)ここには、攻撃行動があるだけであり、「仁義」はない。陰意識、エネルゲイアを排除しているのである。(反復強迫とは、この排除による反動ではないだろうか。)
 そう、陰意識、エネルゲイアがあっても、陽意識が維持されれば、自我が維持されているのである。つまり、連続的同一性という自我が残るのである。つまり、これは、他者を確認していないのである。連続的差異としての対象なのである。だから、陽意識が解体して、不連続的差異である他者が出現すると言えよう。陽意識の解体とは、現象学的還元、エポケーのことだろう。脱自我のことだろう。まったき他者が出現するのである。反差異・連続的同一性が隠蔽していた、他者が出現するのである。これは、自己内の-iの発見でもある。陽意識の盲点が、出現するのである。陽意識の「光」が隠蔽していた陰意識の「闇」が現れるのである。この「闇」とは、実は、光である。本来の光である。真光である。ロレンスが言った黒い太陽とは、このことではないのか。阿弥陀如来の無量光とは、このことではないのか。-iの光、陰意識・エネルゲイアの光である。いわば、闇の中の光である。
 そう、ここで直観で言えば、私が自然に見る光とは、この光である。 -i、陰意識・エネルゲイアの光を、私は、自然に見るのである。これは、なにか、現象の光と混じっている。太陽の光も、この陰の光のように思えるのである。つまり、現象光には、-i、陰意識・エネルゲイアの光があるのではないだろうか。では、+iの光とは何か。これは、光の闇だろう。白い闇ではないだろうか。連続的同一性の闇ではないだろうか。近代主義の闇、唯物論の闇ではないだろうか。近代は、闇を見ているのである。光を排除しているのである。陽の闇と陰の光があるのであり、近代は、後者を排除して、前者と一体化しているのである。悪魔となり、天使を排除しているのである。
 ここで、簡単に整理すると、感覚は闇であり、精神は光であるということである。みかんの甘美さは、闇の歓喜なのであり、バッハによる歓喜は、光の歓喜である。今は、ここで留めて、さらに検討したい。


   




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