新東洋文明:新霊性new spirituality:日本伝統文化

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年07月02日(Wed)▲ページの先頭へ
日本美術とは何か:差異共振エネルギーによる高次元時空間美術とヤポネシアン・ルネサンス
『日本美術館』小学館

もう十年以上まえの本であるが、これは、日本美術をコンパクトに総括した一巻本である。ただし、amazonのコメントにあるように、旧石器時代の捏造がそのまま掲載されていることが残念ではあるが。
 私は、室町時代、桃山時代、江戸時代がすばらしいと思った。日本の伝統美術のエネルギーは、ダイナミックで、のびのびとして、自由闊達なものである。それに対して、近代日本は、苦難・試練の時代であったと言えよう。
 日本美術の伝統のもっているエネルギーは端的に、Media Pointにおける差異共振エネルギーであると考えられる。それが、近代化によって、殺がれて行ったと考えられる。もっとも、個々の作家においては、格闘があったと考えられるが。
 問題は戦後であろう。国家主義、近代合理主義、唯物論、近代的自我的同一性主義、これが、日本の伝統文化の差異共振エネルギーを圧殺しているのである。
 日本は、端的に、自己喪失状態である。統合失調症である。日本に還れと言いたい。そうすると、他者、世界が見えてくるのである。
 そう、一言で日本美術のエッセンスを言うと、Media Pointの差異共振エネルギーによる高次元時空間表現ということになるのではないだろうか。

参照:

水墨画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
松林図屏風(長谷川等伯、国宝)
松林図屏風(長谷川等伯 、国宝 )

水墨画(すいぼくが)とは、「墨 」一色で表現される絵画 で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う。

中国 で唐 代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(松竹梅菊)の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。

日本 には鎌倉時代 に禅 とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図 』・『瓢鮎図 』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、風景を描く山水画 も書かれるようになった。


日本の水墨画
如拙筆 瓢鮎図 京都・退蔵院蔵
如拙筆 瓢鮎図 京都・退蔵院蔵
雪舟筆 秋冬山水図のうち冬景
雪舟筆 秋冬山水図のうち冬景

墨一色で表現した絵画は、日本では正倉院 宝物の「墨画仏像」のような奈良時代の作例があり、古代から制作されていた。しかし、美術史で「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれ、などを表現の要素とした中国風の描法によるものを指し、日本の作品については、おおむね鎌倉時代以降のものを指すのが通常である。着彩画であっても、水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含むことが多い。

平安時代初期、密教の伝来とともに、仏像、仏具、曼荼羅等の複雑な形態を正しく伝承するために、墨一色で線描された「密教図像」が多数制作された。絵巻物の中にも『枕草紙絵巻』のように彩色を用いず、墨の線のみで描かれたものがある。しかし、これらのような肥痩や濃淡のない均質な墨線で描かれた作品は「白描」(はくびょう)ないし「白画」といい、「水墨画」の範疇には含めないのが普通である。

[編集 ] 初期水墨画

中国における水墨画表現は唐 時代末から、五代 〜宋 時代初め(9世紀末〜10世紀)にかけて発達した。中国の水墨画が写実表現の追求から自発的に始まったものであるのに対し、日本の水墨画は中国画の受容から始まったものである。日本における水墨画の受容と制作がいつ頃始まったかは必ずしも明確ではない。すでに12世紀末頃の詫磨派の仏画に水墨画風の筆法が見られるが、本格的な水墨画作品が現れるのは13世紀末頃で、中国での水墨画発祥からは4世紀近くを経ていた。13世紀末から14世紀頃までの日本の水墨画を美術史では「初期水墨画」と呼んでいる。水墨画がこの頃盛んになった要因としては、日本と中国の間で禅僧の往来が盛んになり、宋・元の新様式の絵画が日本にもたらされたことが挙げられる。13世紀になり、無学祖元 、蘭渓道隆 らの中国禅僧が相次いで来日した。彼らは絵画を含め宋・元の文物や文化を日本へもたらした。鎌倉の建長寺 仏日庵の所蔵品目録である「仏日庵公物目録」(ぶつにちあんくもつもくろく)は元応2年(1320年)に作成された目録を貞治2年(1363年)頃に改訂したものであるが、これを見ると、当時の建長寺には多数の中国画が所蔵されていたことがわかる。

日本の初期水墨画は絵仏師や禅僧が中心となって制作が始められた。師資相承(師匠から弟子へ仏法を伝える)を重視する禅宗では、師匠の法を嗣いだことを証明するために弟子に与える頂相 (ちんぞう、禅僧の肖像)や禅宗の始祖・達磨 をはじめとする祖師像などの絵画作品の需要があった。この時期に制作された水墨画の画題としては、上述の頂相、祖師像のほか、道釈画(道教および仏教関連の人物画)、四君子 (蘭、竹、菊、梅を指す)などが主なものである。なお、水墨画と禅宗の教義とには直接の関係はなく、水墨画は禅宗様の建築様式などと同様、外来の新しい文化として受容されたものと思われる。鎌倉時代の絵巻物 に表現された画中画を見ると、当時、禅宗以外の寺院の障子絵などにも水墨画が用いられていたことがわかる。

14世紀の代表的な水墨画家としては、可翁 、黙庵 、鉄舟徳済 などが挙げられる。可翁については作品に「可翁」の印が残るのみで伝記は不明だが、元に渡航した禅僧の可翁宗然と同人とする説が有力である。黙庵は元に渡り、同地で没した禅僧である。鉄舟徳済は夢窓疎石 の弟子の禅僧で、やはり元に渡航している。

代表作

* 達磨図(山梨・向嶽寺 蔵、国宝) - 達磨の衣などに彩色があるが、水墨画の筆法で描かれている。絵の上部に蘭渓道隆の賛があることから、蘭渓の没した1278年が制作年代の下限である。
* 蘭渓道隆像(神奈川・建長寺蔵、国宝) - 着彩画であるが、中国画と同様の筆法で描かれている。この時代の頂相の代表作である。絵の上部に文永8年(1271年)の蘭渓自身の賛がある。
* 可翁筆 寒山図(個人蔵、国宝) - 減筆体の人物画。寒山は唐時代、天台山に住んでいたという伝説的な隠者で、水墨画の好画題とされる。

[編集 ] 室町水墨画

室町時代は日本水墨画の全盛期と言ってよいであろう。足利家が禅宗を庇護したこともあり、禅文化や五山文学 が栄え、足利家の寺である京都の相国寺 からは如拙 、周文 、雪舟 をはじめとする画僧を輩出した。また、東福寺 の画僧・明兆 (みんちょう)は、濃彩の仏画から水墨画まで幅広い作品を制作した。8代将軍足利義政 は政治を省みなかったが、文化の振興には力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集・鑑賞した。当時の日本で珍重されたのは、中国・南宋時代の画家の作品で、夏珪、馬遠、牧谿 (もっけい)、梁楷、玉澗(ぎょくかん)らが特に珍重された。牧谿、梁楷、玉澗などは中国本国よりも日本で評価の高い画家である。なお、室町時代の日本画壇が水墨画一色であったと考えるのは誤りで、この時代には伝統的な大和絵 の屏風も盛んに描かれていたことが、20世紀後半以降の研究で明らかになっている。

14世紀までの日本水墨画が頂相、祖師図、道釈画などの人物画や花鳥画を中心としていたのに対し、15世紀には日本でも本格的な山水画が描かれるようになる。日本の水墨山水画のうち、もっとも初期の作とされるものは、「思堪」という印章のある『平沙落雁図』(個人蔵)である。この作品には中国出身の禅僧・一山一寧 の賛があり、彼の没年である1317年が制作年代の下限となる。画面下部に「思堪」の朱印があり、これが画家名と思われるが、その伝記等は不明である。この『平沙落雁図』にはまだ水墨画の画法をこなしきれていない稚拙な部分があり、遠近感の表現なども十分ではない。それから約1世紀を経た応永年間(15世紀初頭)に、「詩画軸」と称される一連の作品が制作される。

「詩画軸」とは、「詩・書・画一体」の境地を表わしたもので、縦に長い掛軸の画面の下部に水墨画を描き、上部の余白に、画題に関連した漢詩を書いたものである。この種の詩画軸で年代のわかる最古のものとされるのが藤田美術館 蔵の『柴門新月図』(さいもんしんげつず)で、応永12年(1405年)の作である。この図は杜甫 の詩を題材にしたもので、絵の上部には序文に続いて18名の禅僧が詩文を書いており、絵よりも書の占めるスペースが倍以上大きい。15世紀前半に制作された詩画軸の代表作としては他に『渓陰小築図』、『竹斎読書図』、『水色巒光図』(すいしょくらんこうず)などがあり、絵の筆者は『渓陰小築図』が明兆(みんちょう)、『竹斎読書図』、『水色巒光図』が周文との伝えもあるが、確証はない。この時期の詩画軸は、「書斎図」と呼ばれる、山水に囲まれた静かな書斎で過ごす、文人の理想の境地を題材にしたものが多い。

この時代にはようやく画人の名前と個性が明確になってくる。相国寺の画僧・如拙は、『瓢鮎図』(ひょうねんず、京都・退蔵院蔵)をはじめ、若干の作品が知られる。やはり相国寺の画僧であった周文は、幕府の御用絵師としての事績が文献からは知られ、詩画軸、山水屏風などに「伝周文筆」とされる作品が多数残るが、確証のある作例は1点もない。

15世紀の後半には、水墨画家としてのみならず、著名な画家の一人である雪舟(1420 - 1502/1506)が登場する。雪舟は備中国 (岡山県)の出身で、地方武士の血を引くと言われる。上京して相国寺の僧となるが、後に大内氏 を頼って山口に移住。応仁の乱(1467−1477年)の始まりと前後して中国・明に渡航、足掛け3年滞在して帰国した。帰国後は山口、大分など、もっぱら地方を遍歴して制作し、80歳代まで作品を残している。雪舟は明応4年(1495年)、76歳の時、弟子の宗淵に与えた作品『山水図』(通称「破墨山水図」)の自賛に、「自分は絵を学ぶために明に渡航したが、そこには求める師はいなかった」と記し、先輩に当たる如拙や周文の画業をたたえている。この自賛は、日本の画家が自らの画業について語ったものとしては最古のものであり、日本人画家としての自負がうかがえる。雪舟は中国絵画の影響を消化しつつ『天橋立図』のような日本の実景を題材にした独自の水墨画を制作した。また、多くの弟子を育成し、彼らの中には秋月(薩摩出身)、宗淵(鎌倉円覚寺の画僧)など、それぞれの出身地に帰って活躍した者もいた。こうした面でも、雪舟が日本絵画に与えた影響は大きかった。

室町時代には、地方にも多くの画人が現われ、その多くは武家の出身であった。その代表的な存在が、常陸国太田(茨城県常陸太田市)の武家出身の画家・雪村 であった。雪村は後に出家して画僧となり、関東地方と会津地方で80歳代まで制作を続けたが、その作品には武家の出身らしい気迫のこもったものが多い。

この時代には他にも多くの水墨画家がいた。著名な者としては、曾我蛇足、松谿、岳翁蔵丘らがいるが、これらの人物の伝記はあまり明らかでない。足利将軍家に仕えた「同朋衆」(唐物の目利きなど、芸術顧問的な仕事をしていた)の阿弥派一族(能阿弥 、芸阿弥 、相阿弥 )も水墨の作品を残している。

[編集 ] 参考文献

* 「特別展 水墨画」図録、東京国立博物館
* 週刊朝日百科『世界の美術』115号「室町時代の水墨画」、116号「雪舟・雪村と戦国画壇」、朝日新聞社、1980年

[編集 ] 関連項目

* 明兆
* 如拙
* 周文
* 雪舟
* 狩野正信 :狩野派 の祖
* 狩野元信
* 長谷川等伯
* 破墨山水
* 襖
* 東山文化

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B
0%B4%E5%A2%A8%E7%94%BB " より作成
カテゴリ : 水墨画 | 絵画技術 | 絵画のジャンル | 禅 | 日本美術史 | 室町時代の文化


2008年06月24日(Tue)▲ページの先頭へ
坂の上の雲ミュージアム
時間が少しあったので、以下を訪れた。いわば、駆け足だったので、ざっと見ただけである。安藤忠雄氏の設計であるが、なにか、斜めになった壁に貼った資料を上がりながら見ていくスタイルや、室内が、三角形だったりして、吹き抜けがあったりして、変化に富んでいるし、また、爽やかである。(黒川紀章氏の国立新美術館は、内部が狭苦しく、圧迫感がある。そう、檻みたいである。展示するスペースはすっきりしているが。)
 NHKでこんどドラマ化する『坂の上の雲』に対する千人のアンケートの返事が展示されていた。有名人あり、一般人ありである。
 正岡子規が、単に俳人だけでなく、日本を動かさんとする青雲の志をもっていた人物とは知らなかった。

p.s. 松山は、独特の「気」がある。一種ドリームランドである。別天地である。理想郷である。すばらしい町・都市である。共同体である。今はこれで留める。

p.p.s. おそらく、差異共振的「気」があるのではないだろうか。山々に包まれた場であること、また、瀬戸内海に面していること、地霊が豊かなのだ。

参照:
【プロジェクト】出足好調の「坂の上の雲ミュージアム」、設計は安藤忠雄氏

2007/09/10
坂の上の雲ミュージアム   まちづくり   安藤忠雄  

 司馬遼太郎氏の代表作の一つである『坂の上の雲』。この小説に感銘を受けた中村時広松山市長は1999年に市長に就いて以来、坂の上の雲を軸としたまちづくりを推進している。まちづくりの核となるのが今年4月にオープンした「坂の上の雲ミュージアム」だ。安藤忠雄氏が設計した。松山市総合政策部坂の上の雲ミュージアム事務所の河本直人所長に、開業後の状況を聞いた。

坂の上の雲ミュージアムの西側全景。城山公園と市街地の境に建つ(写真:吉田 誠)
坂の上の雲ミュージアムの西側全景。城山公園と市街地の境に建つ(写真:吉田 誠)
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/
article/building/news/20070906/
511164/

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が、来年秋の放送スタートをめざしクランクイン! 来年8月には松山ロケ

Photo_2  来年の秋から放送予定のNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)がクランクインしました。このスペシャルドラマは司馬遼太郎の代表的長編小説「坂の上の雲」を原作として、平成21年(2009年)から3年にわたって放送されます。

http://yagi.typepad.jp/413/
2007/11/post_91ae.html


坂の上の雲ミュージアム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

坂の上の雲ミュージアム(さかのうえのくもミュージアム)は、愛媛県 松山市 にある博物館 で、同市が取り組んでいる司馬遼太郎 の小説 『坂の上の雲 』を軸としたまちづくりの中心を担う施設である。

2007年 (平成19年)4月28日 に市内中心部の松山城 を頂く城山の南裾に開館し、総工費は約30億円。

館長は松原正毅 国立民族学博物館 名誉教授。


2008年06月15日(Sun)▲ページの先頭へ
西洋白人は東洋黄人や黒人へのコンプレックスがあるのではないだろうか:白人主義は張りぼてである
西洋白人は東洋黄人や黒人へのコンプレックスがあるのではないだろうか:白人主義は張りぼてである
テーマ:日本再生・東洋ルネサンス計画
西洋白人は東洋黄人や黒人へのコンプレックスがあるのではないだろうか。
 昨年度ノーベル文学賞を受賞した「イギリス」のドリス・レッシングの処女作(優れた作家において、処女作において、すべてがあるというテーゼは正しいと思う)である『草は歌っている』は、白人のコンプレックスを抉り出している。
 いったいこれは何だろうか。つまり、白人のコンプレックスとは何かということである。何か、優等生でありたいという自我意識が強いのである。これは、正に、同一性主義である。父権主義である。逆に言うと、女性等へのコンプレックスである。差異ヘのコンプレックスである。
 思うに白人は、女性や非西洋ヘのコンプレックスがあるのである。これは、典型的にマッチョ主義である。おそらく、不器用なのである。だから、コンプレックスを抱き、差別するのである。
 そう、白人主義とは完全にイデオロギーである。弱者のイデオロギーである。ルサンチマン主義である。同一性傾斜が強く、他者差異が弱いのである。有り体に言えば、小心者である。小心であるが故に、攻撃的になるのである。白人主義は張りぼてである。

 インチキ白人優位主義を易々と乗り越えよ!


Jardins de Valloires, Immaculate conception
Immaculate conception
John Graham-Hart is dazzled by a monastery garden where Gallic horticultural genius is given its head.
Directory of European hotel reviews
http://www.telegraph.co.uk
/travel/europe
/france/2123300/Valloires-gardens
-Immaculate-conception.html


2008年02月09日(Sat)▲ページの先頭へ
『茶の本』The Book of Tea by Okakura-Kakuzo
翻訳は裏切りだと言われるが、翻訳はまた創造でもあるだろう。

「さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語の禅那[ぜんな](Dhyana)から出た名であってその意味は静慮[じょうりょ]である。精進[しょうじん]静慮することによって、自性了解[じしょうりょうげ]の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅蜜[ろっぱらみつ]の一つであって、釈迦牟尼[しゃかむに]はその後年の教えにおいて、特にこの方法を力説し、六則をその高弟迦葉[かしょう]に伝えたと禅宗徒は確言している。」 村岡博訳 岩波文庫   p. 47

「さて禅道に注意を向けてみると、それが道教の教えを強調していることがわかる。禅とは瞑想[めいそう]を意味するとサンスクリット語「ディヤーナ」から出た名である。禅は、ひたすら瞑想を通して最高の自己実現に到達しうると主張する。瞑想は仏性に達する六つの道の一つであり、禅宗徒の断言するところによれば、釈迦牟尼[シャカムニ]はその晩年の教えの中でこの方法を特に力説し、その主要な弟子カーシャパ〔迦葉かよう〕にその規則を伝えた。」 桶谷秀昭訳 講談社学術文庫 p. 45

"If now we turn our attention to Zennism we shall find that it emphasises the teachings of Taoism. Zen is a name derived from the Sanscrit word Dhyana, which siginifies meditation. It claims that through consecrated meditation may be attained supreme self-realization. Meditation is one of the six ways through which Buddhahood may be reached, and the Zen sectarians affirm that Sakyamuni laid special stress on this method in his later teachings, handing dwon the rules to his chief desciple Kashiapa. "
ibid. p. 187

原文から見ると、桶谷訳の方が原文に正直である。しかし、村岡訳の方が喚起力があるのである。例えば、meditationを静慮(じょうりょ)や、 supreme self-realizationを自性了解(じしょうりょうげ)と訳す点である。原文の意を汲んだ訳である。達意の訳である。

p.s. 村岡訳では、原文の最後の行のthe rulesを六則と訳しているが、これは、桶谷訳の方が正しい。つまり、誤訳である。しかし、大過ないものである。

p.p.s. 私は村岡訳の『茶の本』を最高に支持する。桶谷訳は凡庸な訳であり、岡倉天心の思想を的確に伝えていないと思う。この名著は、今日でも十分通じる鋭敏な思想を伝えている。岡倉天心とは、天才的な思想家である。

茶の本 (岩波文庫) (文庫)
岡倉 覚三 (著), 村岡 博 (翻訳)


2008年02月03日(Sun)▲ページの先頭へ
猛毒入り冷凍ギョウザ怪事件:冷凍食品私見:食品の人工性と自然性:西洋文化と東洋・日本文化
本件は怪事件と言っていいだろう。私としては、今は、誰が真犯人であるかについては、まだ一般的に調査中なので、控えたい。
 ここでは、「猛毒入り」という点ではなく、冷凍食品としてのギョウザあるいは冷凍食品について簡単に述べたい。
 個人的には、私は冷凍食品はほとんど買わない。もっとも、なにか仕出しの弁当類で食べてはいるのだろう。だが、何故、買わないのだろうか。買いだめして、冷凍庫に入れておけば便利ではないのか。確かに、そうかもしれないが、それよりは、私は食事を自分で作る方なのである。
 以前は、冷凍食品のチャーハンを買って食べたことはあるが、端的に言えば、おいしくないのである。つまり、味が足りないのである。味付けはそれなりにあるものの、チャーハンの実質の味が足りないと感じたのである。お米の味が淡泊なのである。また、冷凍のおかずであるが、味付けが濃過ぎたりするので、買いたくないのである。
 結局、冷凍食品はまずいのである。食品という感じがしないのである。まがい物の食べ物を食べているようなのである。
 だから、私としては、冷凍食品を食べる人が多いことに驚くのである。率直に言わせてもらうならば、日本人の味覚が落ちているのではないだろうか。また、食品の自然性に対する感覚を落ちているのではないだろうか。つまり、人工性に日本人が慣れてしまっているのではないか。
 そう、私はイギリスの食べ物がまずいと思う人間の一人であるが、極端に言うと、イギリスの食べ物は、食べ物の範疇に入らないのであるが、それとは少し違うが、私の意識では、冷凍食品は、食品の範疇に入らない感じである。
 でも、何故か。味以前に、食品を冷凍化することに対する疑念があるのである。確かに、肉類の保存は冷凍化が必要である。それは認めるが、それでも、肉は買っても、だいたいは、数日で食べるのである。しかし、冷凍食品は、長く保存されるものである。
 そう、やはり、食品の人工性が私の食品の自然性に対する意識に抵触するのである。それで嫌なのである。食品は自然性が必要であるという私の本能のような意識があり、それが、冷凍食品の人工性に反感をもつと考えられるのである。
 日本の伝統文化は自然の生成消滅性に関する美学である。その生成消滅性を、冷凍食品は否定するのである。つまり、日本の伝統美学に抵触しているのである。そう考えると、冷凍食品は日本伝統文化の危機である。
 ここで話題を飛躍させるが、私は、ゲゼルの消滅貨幣の考え方は好きなのである。それは、減価する貨幣であり、日本・東洋文化的なのである。ただし、地域通貨は、ゲゼルの考え方とは違うと思っている。
 サブプライム問題のように、マネーがマネーを増殖させる発想も、日本・東洋文化価値から見ると違和感があるのである。マネーは必要がなくなれば、消滅すべきではないだろうか。新たな差異価値が生じて、それに対応して貨幣が生まれるべきではないのか、と率直には思うのである。
 マネーの問題は、西洋文化、とりわけ、ユダヤ・キリスト教文化に関係していると思う。自我同一性の永遠性(復活の問題)とマネーの同一性価値はつながっていると思う。
 しかしながら、同一性は差異の一部に過ぎないのである。それは、差異の仮面と言っていいだろう。差異としての貨幣を追求したい。後で、この点について検討したい。


参考1:
中国製ギョーザ、新たに6袋からメタミドホス検出…兵庫

2月3日16時16分配信 読売新聞

 中国製冷凍ギョーザによる中毒症状が相次いだ問題で、兵庫県警は3日、同県高砂市の一家が食べたものと製造日や銘柄が同じ製品を鑑定した結果、新たに6袋の包装袋の外側から有機リン系殺虫剤「メタミドホス」が検出されたと発表した。

 袋の内側やギョーザはまだ鑑定していないが、うち1袋には穴が二つ開いていた。千葉、兵庫両県で計10人が被害に遭ったギョーザ以外からメタミドホスが検出されたのは初めてで、県警は付着した経緯を特定するため、流通過程などを調べる。

 兵庫県警によると、袋の外側からメタミドホスが検出された6袋は、高砂市の一家3人が今年1月5日に食べたのと同じ「中華deごちそう ひとくち餃子 (ギョーザ)」で、製造日も同じ昨年10月1日だった。県警が今月3日、輸入仲介商社の双日食料(東京都港区)から任意提出を受けた26袋の中に含まれていた。
 この6袋は昨年12月28日、輸入元のジェイティフーズ(JTF)大阪支店に返品され、今年1月8日、双日食料に持ち込まれた。まとめて一つのビニール袋に入れられ冷凍保存されていた。うち1袋には、袋の四隅に近い部分の表と裏にそれぞれ一つずつ直径約1ミリの穴が開いていた。針状のものが貫通したとみられ、トレーやギョーザに穴や傷はなかったという。

 一方、千葉市の母娘が昨年12月28日に食べて中毒になった製品と、千葉県市川市の一家5人が今年1月22日に中毒症状を起こした製品は、いずれも昨年10月20日に製造されたもので、包装袋に異常は確認されていない。警察当局は10月20日に製造されたギョーザには、別ルートで殺虫剤が混入した可能性もあるとみて、今後、他の製品についても鑑定を進める。

 JTFの親会社・日本たばこ産業(JT)によると、問題の6袋は、昨年12月27日に大阪府内の小売店から「パッケージの外側がねばねばしていて異臭がする」と連絡があったため商品を回収して、双日食料とともに調査を進めていたところだった。

 中の商品について味見をしたところ異常はなかったといい、製造した中国の「天洋食品」から聞き取った結果、「製造工程ではパッケージに何かが粘り着く可能性は少ない」との回答を受けたという。

 JTなどでは、任意提出に先立って、回収した製品の袋に付着していた物質を調査した結果、リン酸化合物などの特徴があることまでは確認していたという。JTでは「リン酸化合物は合成洗剤にも含まれているため、洗剤などが袋の表面に付着した可能性もあると考えていた」としている。
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080203-00000023-yom-soci


参考2:

<消費者庁はまずい>
とにかく消費者庁などつくらせないほうがいい。
消費者の苦情を理由に、まともな会社を多大に罰するのが目的となるはずである。
そして創業者を追い出したあとは、ユダヤ外資がのっとる。

たとえばグッドウイルの例を見てみたい。
http://www.goodwill.com/
果たして2重派遣があったからといってそれで営業停止処分にするのは、
明らかに行きすぎである。つまり会社を殺してしまうことが目的の
行政処分なのである。

東証一部の上場企業です。そして株主には外資ファンドが名を連ねています。
おそらく外資ファンドは株をもっている折口氏を廃して
自分たちの会社にしてしまいたいのでしょう。
http://archive.mag2.com/0000
154606/20080116032359000.html
白い恋人とGOODWILL報道も企業のっとりのためか?国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」


2008年01月23日(Wed)▲ページの先頭へ
エーテル体とアストラル体:差異共振エネルギーと原身体エネルギー:「キリスト」は天照大神だ
ここでも直感で言おう。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺が差異共振性であり、それが、根源である。それは、イデアであり、原心と原身体とが一如である。+iが原心=原知であり、-iが原身体である。知が生じるとき、既に、身体も生じている。そして、そこには、感覚も感情もある。おそらく、感覚・感情と一体化していいだろう。
 思うに、知エネルギーがあり、また、身体エネルギーがある。それぞれ、+iと-iである。そして、それらが共振して感覚・感情エネルギーが発生している。美の感情とは、そこに存していると考えられる。そう、真善美の感情がそこに存しているだろう。倫理・道徳の感情でもある。
 人智学のシュタイナーは、人間を1.自己(ichが自我と訳されているが、自己が正しいと思う)/2.アストラル体/3.エーテル体/4.物質身体の四層に分けている。プラトニック・シナジー理論から見ると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺に自己/アストラル体/エーテル体が存しているように思えるのである。すなわち、上に述べた、原知エネルギーが自己、感覚・感情エネルギーがアストラル体、原身体エネルギーがエーテル体ではないだろうか。
 だから、アストラル体とは、本来、原知エネルギーと原身体エネルギーとの差異共振エネルギーであるように考えられる。そして、Media Pointから同一性へと展開するときに、差異共振エネルギーが束縛されて、自我感情・利己主義的感情が生起すると考えられる。【だから、感情とは、脱同一性主義化すれば、差異共振エネルギーへと還元されるのである。それは、共感(造語すれば、共情、共心:p.s. 仁という字は、人偏に二人である。明敏である。)である。】
 以上で、ざっとであるが、人智学のシュタイナーの唱えるアストラル体とエーテル体を解明したことにする。
 最後に、先の問題である「エーテル界におけるキリストが見える」とは何を意味するのかという問を再度検討しよう。
 エーテル体は原身体エネルギーであることがわかった。-iのエネルギーである。だから、エーテル界とは、原身体エネルギーの宇宙である。言い換えると、原生命エネルギーの宇宙、正に、「気」の宇宙である。だから、「気」の宇宙においてキリストが見えるということになる。そして、キリストとは、超越光のことである。太陽系では、超越太陽のことである。だから、「気」の宇宙において、超越太陽が見えるということになる。
 私見では、超越太陽ないしは超越光を見るのは簡単だと思う。澄んだ青空を満たす陽光にそれが存しているのを感じればいいのである。光に神々しさを感じればいいのである。それが超越光だと思う。また、若い頃、夏の海岸で見る紺碧の空の太陽の輝きに、眩みを感じたが、その眩みが超越光の存在を示唆していると思う。
 考えてみれば、超越光とは、(+i)*(-i)であり、そこには、「気」のエネルギーを含んでいるのである。だから、「気」の宇宙において見えるというのは当然であると思う。
 しかしながら、以上の考察からわかるのは、超越光が見えるのは、「気」の宇宙に限定されるということではなくて、Media Pointを開いたときに、見えるものであり、Media Pointを開くとは、身体に存する心を開くことである。同一性の知は一つの支点であり、そこから不連続に、身体の心を開くことである。この身体の心を開くということが、シュタイナーのいうエーテル体と関係するのかもしれない。思うに、身体の心とは、-iであろう。原身体である。確かに、そこにおいて、 Media Pointは開けると言えよう。だから、言い直すと、「エーテル界において、キリストが見える」というシュタイナーの予言は、原身体-iを、同一性の知である不連続化させ、かつ、原知+iと共振させたときに発現・顕現・現前するMedia Pointを媒介にした差異共振エネルギーである超越光が視覚されるということになるだろう。
 これで解明は済んだが、後、問題なのは、Media Pointと超越光(超越エネルギー)の関係である。原身体-iを同一性から不連続化させて、+iの原知と共振化させるときに、 Media Pointが発現・顕現・現前すると言ったが、このとき、Media Pointと超越光(超越エネルギー)との関係はどうなのか、ということである。
 これは、実に微妙、霊妙な問題である。+iと-iを共振させたとき、超越エネルギーが流入すると言っていいだろう。それは、超越性の現前である。では、 Media Pointはどこに存しているのか。それは、超越性が現前する内的身体でいいのではないだろうか。身体の内部にMedia Pointは存するのである。
 (付録的に、考察しよう。私は道教を考えている。丹田を考えている。三つの丹田がある。上丹田、中丹田、下丹田がある。どうも、中丹田が、Media Pointのように思える。そして、上丹田が+iであり、下丹田が-iである。これは、思いつきである。)
 最後に、簡単にまとめると、シュタイナーの予言内容とは、きわめて、東洋文化的であるということになる。「気」の宇宙において、キリストが見えるとは、結局、東洋身体論的な精神エネルギーの活性化であると考えられるのである。プラトニック・シナジー理論で言えば、Media Pointの形成とそれによる超越エネルギーの流入である。
 端的に、シュタイナーのキリストとは、超越光、超越太陽、天照大御神である。


2008年01月22日(Tue)▲ページの先頭へ
モダン/ポスト・モダン文化バブルと漢籍教養:物質的逆境と真の文化社会創造:トランス・モダンの訪れ
今日、聴く気のないCDをブックオフに売った。二束三文である。一枚平均50円〜70円である。ポピュラー音楽ならば、60〜70年代のものは、もうほとんど聴かないと思うが、売る気にはならなかった。それらは、心・魂の記念・記録である。また、クラシック音楽classical musicであるが、バロック音楽を含めて古楽のものは手放したくなかった。ロマン派以降は売ってしまった。
 この売るか売らないかの基準は何だろうか。結局、音楽の特異性があるかどうかであろう。言い換えると、差異共振性があるか否かであろう。私は70年代初期のポピュラー音楽には、精神性があると言ってきたが、それは、差異共振性と言える。また、古楽であるが、それも精神性があるのである。やはり、差異共振性があるということなのである。
 ということで、基準は、精神性=差異共振性の有無である。すると、ロマン派以降や70年代後半以降の音楽は何なのか、ということになるだろう。とくにポピュラー音楽は、クズ・カスと言えよう。ロマン派以降は、若気の至りである。
 結局、まとめていうと、文化バブルであると思う。モダン/ポスト・モダンの文化バブルだと思う。霊学のシュタイナーは、近代が終った後、人類は近代を異質なものとして見るだろうというようなことを言っていたように思える。(どうも記憶があいまいである。)
 トランス・モダンの視点に立つと、近代という時代は、中世とは違った意味で暗黒であることがわかる。大暗黒である。戦争等による殺戮は、中世をはるかに越えている。結局、シュタイナーが言うように、西洋近代は唯物論の時代である(あった)のである。今日、唯物論の時代の、いわば、断末魔を迎えているのである。終末論的、「黙示録」的終末論的である。
 トランス・モダンの視点から観ると、ほんとうに、近代とは特殊な時代である。人類史における特異な時代である。近代以前、そして、これから迎えるだろうトランス・モダンにおいては、精神性、超越的精神性を人類は積極的に肯定していた(する)のである。この点から言うと、人類史の大汚点のようなエポックであった(ある)。精神の光を喪失した闇の時代なのである。ジョージ・ハリスンが、Living in the Material Worldで歌った"Who can see it"他は、トランス・モダンの歌である(itはヒンズー教の光を指している)。彼は、超越光を見ていたのである。そして、これから、多くの人が見るようになるだろう。そう、シュタイナーは20世紀前半から人類はエーテル体におけるキリストを見るようになると予言していた。(シュタイナーのキリストとは、 Media Pointの超越光のことと見ることができるのである。)
 さて、文化バブルのことに戻ると、結局、日本では、近代以前の書籍が復興すると考えられる。漢籍が再重視されるようになろう。漢籍には、魂がある。また、日本の古文も復興するだろう。そして、仏教、とりわけ、神道が復興するだろう。東洋・日本の美術も復興するだろう。そう、日本・東洋ルネサンスである。
 物質的には、暗黒の時代に入るが、逆境こそ、魂・心を磨くときである。近代という悪夢を乗り越えて、ほんとうの文化世界を創造するときなのである。トランス・モダンへと飛翔すべきである。

参照:


Artist: George Harrison
Album: Living In The Material World
Title: Who Can See It

I've been held up,
I've been run down
I can see quite clearly now
Through those past years,
When i played towing the line.
I only ask, that what i feel,
Should not be denied me now,
As it's been earned, and
I have seen my life belongs to me
My love belongs to who can see it

I've lived in fear,
I've been out there,
I've been 'round and
Seen my share
Of this sad world
And all the hate,
That it's stirred
I only ask,
That what i know,
Should not be denied me now
As it's been learned,
And i have seen my life belongs to me
My love belongs to who can see it

I only ask, that what i feel,
Should not be denied me now
As it's been earned, and
I have seen my life belongs to me

My love belongs to who can see it.

My love belongs to who . . .

http://lyrics.astraweb.com/display/155/
george_harrison..living_in_the_material_world
..who_can_see_it.html


Artist: George Harrison
Album: Living In The Material World
Title: The Light That Has Lighted The World

I've heard how some people, have said
That i've changed
That i'm not what i was
How it really is a shame
The thoughts in their heads,
Manifest on their brow
Like bad scars from ill feelings
They themselves arouse
So hateful of anyone that is happy
Or 'free'
They live all their lives,
Without looking to see
The light that has lighted the world

It's funny how people, just won't
Accept change
As if nature itself - they'd prefer
Re-arranged
So hard to move on
When you're down in a hole
Where there's so little chance,
To experience soul

I'm greatful to anyone,
That is happy or 'free'
For giving me hope
While i'm looking to see

The light that has lighted the world

http://lyrics.astraweb.com/display/
460/george_harrison..living_in_the_material_world.
.the_light_that_has_lighted_the_world.html


2007年12月08日(Sat)▲ページの先頭へ
西洋文化の模倣とは何か:クリスマスはキリスト教徒の祝祭である:神仏文化復興へ向けて
クリスマスの起源は異教にあり、それをキリスト教がいわば横取りにして、キリスト教の祝祭に変えたという史実があるとは言え、今日では、やはりキリスト教の祭りである。
 日本で祝うならば、異教としてクリスマスを祝うべきではないだろうか。クリスマス・ツリーは、榊であろう。それは、宇宙樹・世界樹である。そうすれば、神道が復興していくだろう。
 とまれ、西洋文化の模倣とは何か。簡単に言えば、同一性化であるが、このメカニズムは何か。本来、自我という同一性がある。日本人ならば、本来、日本という差異に基づいて、同一性化となるはずである。
 しかしながら、明治欧化路線によって、日本の差異が否定されて、欧米主義が中心化されたのである。これをどうみるのか。周知のように排仏毀釈が起り、神仏習合の日本伝統文化は破壊された。(問題は、江戸時代にある。浮世絵や春画や落語等から見ると、江戸時代は、文化的には、デカダンスであったように思える。世俗化が進行していたと考えられる。しかしながら、それは、都会文化である。とまれ、日本宗教文化も堕落していたと見ていいだろうが、根源の神仏習合の心性はそれなりに生きていただろう。とりわけ、地方においては。)
 これを解明すると、神仏習合文化を差異共振文化として、Media Pointが生動していたとすると、脱亜入欧の欧化主義とは、この日本的Media Pointを否定して、欧米文化への同一性的に志向するものと言えよう。この場合、否定される差異・他者は日本差異共振文化であり、肯定される同一性が欧米文化である。(漱石はこの相克を正攻法で悩み生きたと言えよう。そして、日本近代における誠実な作家はこの矛盾に苦悩して創造活動を行なったのである。だから、大江健三郎の問題点が、ここからわかるだろう。彼は自身の天才性を枯渇させたのである。また、村上春樹であるが、彼は、欧化路線の帰結である。そして、その排除したものの刺激を受けながら、それに正対しないで、斜に構えているのである。亡国作家である。つまり、日本伝統文化を否定した上で、その無の空間から、日本的なものを模索しようと虫のいいことをしている、二律背反に陥っているのである。それは、即非ではない。なぜなら、彼は、根本的に差異と他者を認めていないからである。差異・他者があって、即非様相が成立するのである。彼の場合、日本という差異・他者を認めていないのである。差異・他者がなければ、即非共振は生起しようがないといえる。ただ、近代主義の無が原点である。)
 いったい、この欧米文化への同一性化とは何なのだろう。自己否定して、欧米文化に同化するというのは、いったい何なのだろうか。崇拝である。偶像崇拝である。崇拝とは、二項対立から発するだろう。優位項と劣位項があり、後者が前者を認める様式が崇拝であろう。
 とまれ、直感で言えば、明治維新を準備した思想、国学的思想は、同一性に傾斜した宗教性であると考えられる。つまり、一神教的志向性である。ユダヤ/キリスト教的志向と同質のように思えるのである。それは、超越的同一性志向性である。これは、絶対的二元論・二項対立になると考えられるのである。つまり、超越的優位項と超越的劣位項が生じるのである。そして、同一性自我は、前者に同一性化するのであり、後者を否定・排除するのである。
 だから、問題は、超越的優位項へと同一性化することである。一神教的志向性、超越的同一性志向性とは、きわめて、ラディカルな、革命的な思想エネルギーである。さて、超越的優位項へと同一性化するとは、結局、Media Pointから、同一性志向性が発生するときに生じる事象と言えるのではないだろうか。だから、端的に、超越的優位項=同一性という事象が生起するということになるだろう。
 ここで、本題にもどれば、明治維新において、国学的思想は、尊王攘夷であったが、この場合、超越的優位項が天皇であり、超越的劣位項が欧米である。しかるに、否定・排除される劣位項がアジア・東洋となり、欧米文化は、超越的優位項に移動したのである。
 この転換の力学は、もっぱら超越的優位項の意志によると考えられるのである。つまり、権力の意志である。とまれ、以上から、なぜ、日本人が欧米文化に同一性化して、日本・アジア文化を否定している理由がわかったと言えよう。クリスマスは、正に、欧米文化の精華の一つであり、当然、欧米文化主義化した日本はそれを祝うことになるのである。
 さて、そうならば、どうして、日本人はキリスト教も模倣しないのかという問題が当然起るだろう。これの答えは簡単である。それは、戦後唯物論文化によるのである。もし、宗教文化が継続していれば、戦後日本人は、今より、クリスチャンになった割合が多かったであろう。ただ、唯物論的に、クリスマスを模倣したのである。
 結局、近代化によって、日本人は、超越的同一性化(父権的二元論)をもち、さらに、戦後、それに唯物論が加わり、唯物論的同一性化、近代的自我・近代合理主義を形成したと言えよう。Media Pointが完全に隠蔽埋没された事態を生んだのである。
 とまれ、トランス・モダン化のためには、日本人は、同一性の壁をブレークスルーする必要があるのである。ここが、近代主義の土台なのである。そして、同一性解体の理論は、伝統的に、仏教が行なってきたのである。また、神道も本来、三相共振性をもっているので、同一性を解体するものなのである。
 だから、日本人が、明治維新によって捨てた神仏文化を復興させることが、トランス・モダンに通じると言えるのである。
 神仏への新たなる目覚めへ向けて。


2007年11月19日(Mon)▲ページの先頭へ
マヤ神話と古事記/PS理論:大母神とその子(太陽神)
マヤ神話と古事記/PS理論:大母神とその子(太陽神)

テーマ:神話学・不思議学・フォークロア:ケルト他

マヤ神話―ポポル・ヴフ (中公文庫BIBLIO) (文庫)
A. レシーノス (翻訳), 林屋 永吉 (翻訳)


マヤの神話を述べた『ポポル・ヴフ』であるが、その創造神話は、聖書の創世記の影響があるが、興味深い。古事記/プラトニック・シナジー理論(PS理論)の見地から解明すべきであり、聖書/キリスト教の視点を脱構築すべきであると考える。
 また、ケツァルコアトルの説明が重要である。これは、正に、母なる神(大母神と呼びたい)の子であり、日御子(ひのみこ)に相当する。
 後で検討したい。

###########以下転載引用開始############

マヤ・アステカの神話



◆天界の三神(2000/6/21)
 原初において人間はまだ一人も存在せず、あらゆる動物も草花も石も谷間も洞窟も存在しなかった。ただし、混沌ではない。陸地は無かったが、静かな海と限りなく広がる空だけがあったという。そして、暗闇と静寂の海の中を二人の神が動き回っていた。
 
 そしてツアコルとピトル、テペウとグクマッツ、アロムとクァホルだけが水の中に光り輝いていた。緑と青藍の羽根につつまれて光り輝いていた。それゆえその名をグクマッツといった。彼らは偉大な知恵者、偉大な哲人の資質を具えていた。こんなふうにして天があり、天の心があった。これが、とりもなおさず神の名である。
 
 研究者A.レシーノスによれば、これらの諸神は結局は一組の母神と父神を指すという。すなわち、ここに列挙されている神々は、結局、ツァコルとビトルをもって一体となすニ元神のそれぞれの別名であるというのだ。ここで一度整理しておけば、ツアコル=テペウ=アロム。そして、ピトル=グクマッツ=クァホルとなる。

・・・・・・

 実際、ナワ語で神を意味するケツァルコアトルは、マヤ人が崇拝していたククルカン、そして聖なる文書『ポポル・ヴフ』に出てくるグクマッツなる至高神と同一の神なのである。

 ケツァルコアトルはトウモロコシの貴重な小粒を発見し、人間に農業を教えた。トウモロコシは彼らにとって人間存在の象徴となり、ケツァルコアトルはトウモロコシの神シンテオトルとして身を分けたと考えられる。さらに、水であり大地であり風であったケツァルコアトルは、自らを犠牲に供することで金星となり、暁の明星がやがて光の根源である太陽の中に呑み込まれるように太陽神ウイツィロポチトリとなった。

◆少年時代のケツァルコアトル

 ケツァルコアトルはアステカの太陽神ウイツィロポチトリと同一神である。その意味でケツァルコアトルの母は、太陽の母であり、また太陽の妻であり妹でもあったコアトリクエである。ある日、コアトリクエと四人の姉妹は、コアテペック(蛇の丘)と呼ばれる丘で難行苦行をしていた。処女のコアトリクエは、羽を集め、胸に当てた。別の物語によれば、母なる女神は、羽ではなくエメラルドを呑み込んだ。そこには、ケツァルコアトルを生み出す何か小さくて貴重なものという観念が残っている。
 
 すなわち、ナワの神ケツァルコアトル、そして別の名前で呼ばれるアステカの神ウイツィロポチトリには、聖なる母はいたが父親はいなかった。この物語の別の版によれば、女神の名前は『ラ』で、彼女には400人の息子がいたが、夫が死んだので独り身であったという。ある日、美しい多色の羽根が1枚、空から降って来た。彼女はそれを胸に当て、自分のもとから去ってしまった400人の息子が帰ってくるよう祈願する。
 
 そのとき、彼女は自分が妊娠していることを知り、赤ん坊が体の中でピクピクと動くのを感じる。次の場面では、400人の息子たちが、誰が彼らの母を妊娠させたのかと騒ぎ立て、赤ん坊が誰であれ彼と母を殺してしまおうと要求する。そこで子供は体内から跳び出し、自分はウイツィロポチトリだと名乗り、400人の息子たちを次々に殺す。それは太陽=ウイツィロポチトリが暁の空に上ると消えてしまうおびただしい数の星を象徴している。


http://www.fitweb.or.jp/~entity/shinwa/mayaasuteka.html

#########以上、転載引用終了#############

参考1:
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/ohter/maya/index.htm
http://www.imadr.org/old/japan/project/guate/ppp/d.b/2.html
http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/32/No32.study.hirota.html
http://www.gendaishorin.co.jp/i/20000401_164922.php
http://www.venus.dti.ne.jp/~shigerui/maya/maya.htm


参考2:

◆マヤの十字架と生命の樹

 地上絵は、ナスカの他に南米のあちこちで発見されており、そのいずれもが畏怖の念さえ抱かせる美しい線画であるが、中には一風変った地上絵も描かれている。ペルーのピスコ湾に残る『生命の木』と呼ばれる巨大な枝付き燭台の絵がそれだ。その構造は三叉に別れ、古代ユダヤの神殿で用いられた聖なる燭台メノラーを彷彿とさせるが、奇妙なことに、その先端は190キロほど離れたナスカの方角を指している。『生命の木』は名前が示す通り、南米各地で崇敬された聖なる宇宙樹を示しており、古代マヤの遺跡にも、同様な『生命の木』を数多く見ることができる。

 例えば一般に『マヤの十字架』と呼ばれる聖なるシンボルは、古くは世界樹(もしくは宇宙樹)と呼ばれる生命の根源だった。実際それは白い樹皮を持つ熱帯ジャングルの巨木“セイバの木”であると言われ、マヤの十字架の最も初期の原型を示しているとされる。先古典期中期の終わり頃栄えた都市国家、イサパの遺跡から発掘された石碑には、天に向かって聳え、やがてそこから無数の枝が分かれて世界を潤すセイバの樹が描かれている。イサパで発掘された石碑には、『ポポル・ヴフ』の最も古い部分を成すと思われる神話的モチーフが見られ、イサパはマヤ文明とオルメカ文明の接点となる遺跡として注目されている。

 こういった南米に古くから伝わる宇宙樹の観念が、マヤ独特の哲学的宇宙観で象徴化されたものこそが『マヤの十字架』なのだ。マヤには二つの神の結合に象徴されるカバウィルと呼ばれる独特の二元論が存在し、二つの根源的対立概念―天と地、父と母など―の協力関係によって創造的な行為がなされ、世界が発展してゆくと考えていた。詳しくは別項 を参照願いたいが、ポポル・ヴフの中から簡単な例を挙げれば、テペウ(雄の蛇)とグクマッツ(雌の蛇)、ツァコル(創造者)とビトル(形成者)、天の心と地の心などなどである。マヤの十字架の起源は二元論を示す神秘思想なのだ。
http://unkokuse.hp.infoseek.co.jp/kodaibunmei/nasuka.html
ナスカの地上絵


2007年11月18日(Sun)▲ページの先頭へ
ゾロアスター教とキリスト教と神道:トランス・キリスト教とMedia Pointと新神道
いろいろ思念が心頭にあるが、余裕がないので、ここで簡単に記すに留める。
 たまたま、文語訳の聖書があり、それを開いて、拾い読みするのであるが、文語体なので、言葉の繋がり(シンタクス)がわかりにくいが、やはり文語体のもつ日本語の力にあらためて、驚く。旧新約聖書―文語訳 (単行本)
 
 少し引用しよう。


『太初(はじめ)より有りし所のもの、我らが聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手触りし所のもの、即ち生命(いのち)の言(ことば)につきて、ーーーこの生命すでに顕(あらわ)れ、われら之(これ)を見て証(あかし)をなし、その曾(かつ)て父と偕(とも)に在(いま)して今われらに顕れ給(たま)へる永遠(とこしえ)の生命を汝(なんじ)に告ぐーー

  ・・・

我らが彼より聞きて、また汝らに告ぐる音信(おとづれ)は是(これ)なし、即ち神は光にして少しの暗き所なし。もし神と交際(まじわり)ありと言ひて暗きうちを歩まば、我ら偽りて真理(まこと)を行(おこな)はざるなり。もし神の光のうちに在(いま)すごとく光のうちを歩まば、我ら互いに交際を得、また其(そ)の子イエスの血、すべて罪より我らを潔(きよ)む。』

「ヨハネの第一の書」第一章:第一節〜第七節


 さて、キリスト教が単にユダヤ教だけでなく、ゾロアスター教の影響を受けて成立したことは史実である。そして、このことが一般には認識されていないと思う。善悪二元論、光闇二元論、そして、最後の審判、等は、ゾロアスター教に由来しているのである。
 私はゾロアスター教は偉大な宗教と思っている。非常に、尊い宗教だと思っている。(作家のメルヴィルや哲学者ニーチェが、ゾロアスター教に触れているのは、天才的な慧眼である。p.s. モーツァルトの『魔笛』も挙げておこう。)
 そう、直感では、仏教の光の思想もここから発している。阿弥陀如来、大日如来、等の思想の源泉はここにあると思う。
 思うに、ゾロアスター教と並ぶ霊統は神道であろう。アフラマズダの光と天照大神の光は偉大な二つの霊統の光である。もっとも、根本は同一であるが。
 さて、問題を述べるが、それはキリスト教の問題である。(マニ教の問題があるが、それは今後の課題としておく。)
 イエス・キリストは神の子であるが、聖書では、神の子とは、イエス・キリストだけに限定されないのである。

『視よ、父の我らに賜ひし愛の如何に大なるかを。我ら神の子と称(とな)へらる、既に神の子たり、世の我らを知らぬは、父を知らぬによりてなり。愛する者よ、我等(われら)いま神の子たり、・・・』「ヨハネの第一の書:第三章」

ここでは、父があり、子があるのであり、父が決定的に重要である。父とは何か。私は既に、創世記の神霊(=父)を、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)の+iとして見た。そして、それは、同一性の発端であると見たのである。
 そうならば、子とは、同一性の子である。しかしながら、問題は複雑なのである。私は、聖書の神は二重であり、Media Pointと同一性志向性が重なっていると述べた。
 だから、子もそのように見るべきである。単に、神霊=同一性の子だけでなく、Media Point、i*(-i)⇒の子として見るべきなのである。
 そう考えると、子とは、父の子であると同時に、母の子なのである。母とは、Media Pointであり、大女神であり、父権的一神教によって排除された母権的多神教の主神である。
 つまり、イエス・キリストとは二重神(神人)なのである。そして、生命=光であるということなのであるが、それは、非常に複雑な問題をもっている。
 ここでは、簡単に言うと、イエス・キリストとは、同一性(父の子)であり、差異(母の子)であり、二重性を帯びているのである。換言すると、闇=自我と光=自己の二重性をもっているのである。だから、純粋に、光とは言えないのである。闇と光の二重性、悪と善の二重性をイエス・キリストはもっていると言えよう。因みに、イエスは、この世に剣をもたらすために来たと言っている。
 もっとも、実際はもっと複雑である。同一性とはそれなりに必要なのである。物質的現実を肯定するには、同一性が必要なのである。だから、イエス・キリストは歴史的に重要な意義をもっていたと言えるのである。
 しかしながら、今日、イエス・キリストないしキリスト教のこの二重性が反動的になっていると考えられるのである。つまり、同一性が現代において、差異を取り込んでしまい、差異を解放させない情況になっているのである。同一性=自我、とりわけ、近代的自我が強化されていて、差異が活性化されても、差異が純粋に顕現しない事態になっているのである。
 イエス・キリストは光であり、闇なのである。これを認めなくてはならない。あるいは、光の子であり、闇の子であると言えよう。
 今日、前者を復活させないといけないのである。光の子としてのイエス・キリストは、父の子ではなく、母の子である。これは、大女神の子である。日御子(ひのみこ)である。日御子として復活しないといけないのである。これは当然、人間は日御子となるのである。
 すると、今日、ゾロアスター教と神道が出会うと言えよう。アフラマズダとは、プラトンの善のイデアであろう。そして、天照大神ないしは天之御中主神であろう。
 これは、何を意味するのか。それは、ゾロアスター教の神、アフラマズダとは、大女神ではないかということである。あるいは、アンドロギュノス(両性具有)的ではないかということである。
 この問題をどう解明するかと言えば、これは、PS理論によって簡単に答えることができる。つまり、Media Pointの元神(原神)がそこにはあるということである。それは、原光と原闇との共振様態としての超越光を意味するのである。
 だから、正確に言えば、三柱の神々である。つまり、神道こそ、霊統を真正正当に捉えていると言えよう。アフラマズダも三柱の神々と捉えるのが的確なのである。
 ということで、簡単であるが、本件の考察をとりあえず終えたい。結論を言えば、トランス・キリスト教としての大神道復興である。新ケルト復興等と共振して、大復活となるだろう。


2007年11月14日(Wed)▲ページの先頭へ
聖母マリア、アテネ女神が、なぜ処女神なのか。天照大神も処女神だろう。
聖母マリア、アテネ女神が、なぜ処女神なのか。天照大神も処女神だろう。

テーマ:一神教/多神教

聖母マリア、アテネ女神が、なぜ処女神なのか。これは、Media Pointを考えたらいいだろう。それは、自身から太陽や知恵を生み出すと考えられる。だから、天照大神も処女神だと思う。
 また、ギリシア神話のアルテミス(月の女神)もそうである。かぐや姫もそうだろう。考えたら、ギリシア神話のガイアも独りで、宇宙を生み出したのである。
 父権的一神教は、これらを、いわば、簒奪したのである。しかし、父権的唯一神とは、実はそれらより、言うならば、格が下がるのである。なぜなら、同一性化を開始した時点の神であるからだ。結局、大女神に回帰すると言えよう。Media Point 回帰である。


2007年10月28日(Sun)▲ページの先頭へ
『カラマーゾフの兄弟』のイワンの思想について:脱キリスト教としてのイワンの批判的宗教思想
今日、散歩したついでに、駅前の本屋に立ち寄り、雑誌『ユリイカ』11月号で、ドストエフスキーの特集をしているので、少し立ち読みした。
 ちらと見ただけだが、それから触発されて、イワンの有名な大審問官の話等を想起して、それは、脱キリスト教を意味しているのではないかと閃いたので、少し書きたい。
 最後に読んだのは、20年以上前になると思うので、細かいところは、忘失している。確かに、当時、大審問官の話が一番印象深かった。私は、アリョーシャが、イワンに接吻するのを見て、それは、イワンにキリスト教を見たのではないかと判断したのである。しかしながら、今思うとそれは、間違いだと思うのである。
 バフチンが説くように、ドストエフスキーの文学は、ポリフォニー的であり、単純に受けとることができない。言わば、複雑系である。だから、大審問官の話もポリフォニー的に考えなくてはならない。
 さて、書こうとして、私の中で、大審問官の話と子どもの虐殺の話が混線しているのに気づいた。とまれ、両者をいっしょにして、イワンの思想を考えたい。イワンの思想は、明らかに、矛盾したものである。それは、即非の論理によって明確になるだろう。イワンは一方では、宗教、信仰を重視しているが、他方、無垢の子どもが虐殺される現実があるので、そのような信仰は要らないという主張、あるいは、世俗的欲望に満足した大衆はもはやキリストを必要としないという現実がある。つまり、宗教・即非・非宗教である。この場合は、当然、キリスト教である。だから、キリスト教・即非・非キリスト教である。これが、イワンの思想である。
 ここで考えるべきことは、無辜(むこ)の子どもが虐殺される現実、あるいは、世俗的欲望を満足した大衆の存在する現実は、西欧文明を考えての発言であると思える点である。つまり、イワンの宗教/キリスト教批判とは、端的に、西欧キリスト教批判であると考えられるのである。つまり、ロシア正教自体は批判していないと考えるべきであろう。
 では、ロシア正教とは何かとなる。あるいは、ギリシア正教とは何かとなる。これは、東洋的なキリスト教というべきである。東洋性とは、Media Point性ということである。個において、直截にMedia Pointに触れているということである。つまり、個において、直截に、神性に触れているということである。トルストイの神の国は汝のうちにありという発想である。
 プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Pointの東洋的宗教ということになるのである。今はここで留めたい。

p.s. 以上の論考だと、宗教・即非・非宗教、及び、西欧キリスト教批判とロシア正教肯定という二点の主張となり、まだ明快にはなっていない。後者は凡庸な主張である。前者の方が、意味がある。
 私の直感は、ドストエフスキーの思想ではなくて、『カラマーゾフの兄弟』の思想は、脱キリスト教であり、個の宗教であるということである。この論の方がラディカルである。確かに、ドストエフスキー自身の思想は西欧キリスト教批判であり、ロシア正教肯定である。これは、平凡である。作品のポリフォニーを読み解かなくてはならない。
 私が思い浮かべているのは、イワンが、無辜(むこ)の子どもが虐殺されるならば、それを認めている宗教は受け入れないと述べていることである。ここにあるのは、キリスト教的歴史観に対する批判である。すなわち、キリスト教は、あまねく世界に行き渡り、最後の審判で、悪魔を倒して、神の国が到来するというキリスト教史観への批判である。いわば、キリスト教的ロゴス中心主義に対する批判である。
 この点で、明らかに、イワンの批判は、キリスト教全体への批判に達しているのである。つまり、ロシア正教をも批判対象となっているのである。
 ならば、イワンの思想は何か。それは、無辜の子どもへの虐殺を認めない点に存している。それは、特異性の思想である。虐殺される、一人一人の無辜の子どもという特異性に対する思想である。正に、差異の思想である。ここにおいて、イワンの信仰とは、特異性・差異・個の信仰となっているのである。ここには、キリスト教を超脱した差異の宗教があると言えるだろう。脱キリスト教的信仰であり、それは、PS理論から見れば、Media Pointの信仰・宗教である。ドストエフスキーはロシア正教をも超えた、差異的普遍的宗教を無意識で捉えていたと考えられるのである。思うに、それは、ロシア正教の基盤にある東洋的宗教である。ベルジャーエフはドストエフスキーの宗教をディオニュソス的であると述べているが、正に、そうだろう。ディオニュソス的とは、プラトン的ということであり、東洋的ということなのである。
 

参考1:
http://www.kt.rim.or.jp/~igeta/
russian/dosato.html
http://www.coara.or.jp/~dost/5.htm


参考2:
ベルジャーエフ著『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳。ベルジャーエフ著作集の第2巻。白水社1960年初版。)より。

ドストエフスキーの作品は極めて高度にディオニュソス的(=動的・激情的・生成的な混沌さを有しているさま。)である。ディオニュソス主義は悲劇を生む。なぜならばディオニュソス主義はただ高揚された人間性を示すからであり、こうした光景に接した後では、一切のものが色褪(あ)せたものに見える。それは別の宇宙、別の世界を訪ねたあとで、測定され、組織されたわれわれの世界、三次元のわれわれの空間に帰ってくるようなものである。ドストエフスキーを入念に読むことは、人生の一事件であって、精神はそこから火の洗礼を受ける。ドストエフスキーによって作られた宇宙に生活したひとは、まさに存在の未聞の形態の示現を見たのである。なぜならばドストエフスキーは何よりもあらゆる形態の沈滞と硬化に対立した偉大な精神の革命家であったから。

★ベルジャーエフ(1874〜1948)氏は、ロシアの哲学者。
http://www.coara.or.jp/~dost/5-a-3.htm


参考3:
「本論文では、まずはロシア的理念を考える上で不可欠なロシア正教について述べる。第二章では、ロシア的理念を提唱する思想家のそれぞれのロシア的理念について述べる。本論文では、ドストエフスキー、ソロビヨフ、イリイーン、ベルジャーエフの4名を挙げる。第三章では、ドストエフスキーの作品を通して、ロシア的理念を考察することによりロシア的理念に対し、理解をより深める。ドストエフスキーは幼い頃から聖書に触れていた。彼が28歳の時シベリアへ流刑され、たった一冊の聖書のみが与えられ、擦りきれる程読んだ話は有名である。その後の作品にはキリスト教の場面が多く見られ、ドストエフスキーの作品を理解する為には、キリスト教の深い理解が必要とされる。また、『作家の日記』の中で、ロシア的理念について多くを語っていることから、ロシアの未来について真剣に考えていた作家の一人であると言えるであろう。」
『ロシア正教とロシア的理念−ドストエフスキーの作品を通して−』

http://wwwsvr5.obirin.ac.jp/
graduateschool/thesis/1999/19741215.htm


参考4:
レフ・トルストイ
出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』
移動: ナビゲーション , 検索

[編集 ] レフ・トルストイ

Ле́в Никола́евич Толсто́й (Leo Nikolayevitch Tolstoy). ロシアの小説家、社会改革家、道徳哲学者。

[編集 ] 出典が明らかなもの

* すべての幸福 な家庭 は互いに似ている。不幸 な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。
o 『アンナ・カレーニナ』冒頭。

* ひとつの、明確な、疑い得ない神 の宣言がある。これが啓示を通じて世界に知られる諸権利の法なのだ。
o 『アンナ・カレーニナ』第8部。

* 芸術 とは、人が己に起こった最高のまた最善の感情を他者に伝えることを目的とする人間の活動である。
o 『芸術とは何か』

[編集 ] 帰せられるもの

* 作家 がわれわれにその魂の内奥の働きを開かす程度にしたがってのみ、作家はわれわれにとって愛すべきものとなり、また必要なものとなる。

* すべての人は、それぞれ何をもっているかではなく、他の人々に愛をもっているかによって生きる。

* 誰もが世界を変革することを考える、だが誰も己を変えようとは考えない。

* 政府 とは、それ以外の人々に対して暴力を振るう人々の団体である。

* 政府は、自らが奴隷状態におき抑圧している臣民に対して、軍隊を必要とする。

* 歴史家 とは、誰も質問していない問いに答えようとする聾のようなものだ。

* 真実 だけでできていたなら、歴史はすばらしいものだったろうに。

* 我々のこの生活においては、もし人がなんの虚飾ももっていなかったら、生きるのに十分な理由は存在しない。

* 愛 は生命だ。私が理解するものすべてを、私はそれを愛するがゆえに理解する。

* 金銭 は新しい形の奴隷制度である。そして個人間のものではない、つまり古い主人と奴隷の間にはいかなる人間的関係もない、という点で、古い単純な奴隷制度から区別される。

* ニーチェ は愚かで常軌を逸している。

* 生きているものだけが善 をなす。

* 神 の国は君のうちに、またすべてのもののうちにある。

* 我々が知りうる唯一のことは、我々は何も知らないということである。そしてこれが人間の知恵 が飛翔しうる最高の高みなのだ。

* もっとも単純でもっとも短い倫理上の教訓は、他人から奉仕されるのは可能な限り最小限にし、可能な限り最大限他人に仕えろということだ。

* 人生 の唯一の意義は人類に仕えることにある。

* たったひとつだけ、重要な時候というものがある。現在だ。現在は時間のうちでもっとも重要だ、というのも、現在は我々が時間に力を及ぼすことのできる唯一の機会だからである。

* 敵 を取り除くためには、敵を愛さなければならない。

* 真理 は、金と同じく、その大きさによってではなく、どれだけ金ならぬものを洗い流したかによって購われる。

* 子羊を食らう前に泣く狼と、泣かない狼では、どちらがより酷いだろうか。


参考5:
ロシア正教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

ロシア正教会 (-せいきょうかい、ロシア語 Русская Православная церковь)は、東方正教会 に属するキリスト教 教会 である。
コローメンスコエの、カザンの生神女聖堂とペレードヌイェ門(宮殿正門)
コローメンスコエ の、カザンの生神女 聖堂とペレードヌイェ門(宮殿正門)

正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会 、ルーマニア正教会 など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無い。よって教義や全正教会の性格については東方正教会 の項を参照。

現在のロシア正教会の指導者はモスクワ総主教 (モスクワおよび全ロシアの総主教)。現在の総主教はアレクシー2世 (在位:1990年 - )である。

その管轄はロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンをはじめとした旧ソ連邦諸国や、海外のロシア正教会系の教区に及んでいる。なお、ウクライナ正教会(UOC(MP)) は事実上の自治教会、日本ハリストス正教会 は自治教会となっている。

無神論を標榜する旧ソ連 邦から、一貫して弾圧を受け続け甚大な被害を蒙ったロシア正教会であるが、旧ソ連邦崩壊後には復活を遂げ、教勢を増している。

なお、本項では同じく東方正教会に属する日本ハリストス正教会の訳語を断り無く用いる場合がある。




参考6:
東方正教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東方正教会(とうほうせいきょうかい、英語 : Eastern Orthodox)は、キリスト教 の教派 のひとつ。単に正教会(Orthodox Church)とも言い、東方教会 と呼ばれる場合もある。また英語から入った慣例により、ギリシャ正教、ギリシャ正教会 と呼ぶこともある。

日本 には主にロシア正教 から伝道され、日本ハリストス正教会 に結実している。

いわゆる使徒継承教会 のひとつで、1世紀にまでさかのぼる歴史をもつ。「最も古いローマカトリック教会 (西方教会)から東方正教会が分離した」といった認識や言説は今日でも散見されるが、事実に大きく反する。ローマ教皇が東方教会に対して西方教会に対するのと同じような権限を行使し得た史実は無いからである。東方正教会もローマカトリックも自らを「使徒の教会」としているのであって、いずれかを「本家」とするような解釈は著しくローマカトリック側の見解に偏ったものであるといえよう。東西教会のいずれも自らを正統であると自認しており、かつ他方と起源を同じくすることを認めているのである。
東方正教会は8世紀から11世紀にかけて西方教会との差異を深め、11世紀頃に東西に分裂したとされるが、1054年の「ケルラリオスのシスマ 」と呼ばれる東西教会の相互破門は完全な分裂に帰結したとは言えず、その後も東西教会の交流は続いていた(後述参照)。より確定的な分裂の契機となったのは1204年の第四回十字軍 であり、これにより東方正教徒の反西方教会感情と、それによる東西教会の決別が決定的となった。

成立期において東地中海地方を主な基盤としたことから「東方正教会」の名があるが、今日では世界五大陸すべてに信徒が分布する。各地域の教会は、国をおもな単位として、信仰と精神性と伝統を共有し、相互に独立と自主性を認め合いつつ、温和な連携を保っている。諸教会の諸主教・諸首座主教のなかで、コンスタンティノポリス (英語名コンスタンティノープル、現在のイスタンブル )の総主教 が名誉上の首位であり、世界総主教(エキュメニカル総主教 )と呼ばれる。いわば、コンスタンティノポリス教会 を名誉上の首座として尊敬しつつ、各主教を核に連帯を保っている国別の正教会の総体が東方正教会であるといえる。

東方正教会に属する日本ハリストス正教会では、イエス・キリストを、ギリシャ語・ロシア語由来の読み方でイイスス・ハリストスと読むなど、用語上、日本の慣例的な表記と異なる点がある。以下、この記事では日本ハリストス正教会で使われている用語を断りなく用いる場合がある。





2007年10月25日(Thu)▲ページの先頭へ
東西宗教戦争:神道の敗北とキリスト教の勝利:Media Point天照大神の復活
拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書) (新書)
関岡 英之 (著)

もう発行から既に三年以上前の本であるが、遅ればせながら、少し読んだが、建築家の国際的資格制度をめぐっての著書の個人的な疑問から始まっている。これも、『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』と同様に、鋭敏な警世の書である。
 私は、アメリカの原動力は、超巨大資本にあるというよりは、実は、キリスト教にあると感じている。プロテスタンティズムである。折口信夫は、敗戦で、「日本の神敗れたり」というようなことを述べていたが、流石に天才的洞察力である。
 日本の神々がアメリカの神に負けたのが、太平洋戦争・「大東亜戦争」であった。占領政策による日本人の洗脳は、いわば、極言すると、この宗教戦争の敗北に起因していると言えよう。Media Pointの同一性衝動から駆動しているのである。一神教衝動である。
 日本の国家神道とは、確かに一神教的ではあったが、Media Pointに根差していなかったと言えよう。つまり、個ではなく、集団的な衝動であった。
 否、正確にいうと、Media Pointが集団性すなわち国家主義へと連続化していたと言えよう。日本のMedia Pointが、おそらく、直截に、国家主義へと連続化したのである。近代的自我をパスしてしまったのである。
 しかしながら、敗戦後、アメリカ的合理主義に洗脳されて、日本人は、Media Pointを否定して、表面的近代的自我を形成していった。Media Pointという精神の根源をマインドコントロール的に喪失した日本人は、非力であり、紆余曲折の後、アメリカの権力の下に、隷属した。
 現代日本人の精神とは、ほとんど埋没した眠れるMedia Pointとアメリカ模倣的近代的自我との混淆である。前者を目覚めさせる必要がある。Media Pointの蘇りである。神道は、Media Pointを女神としている、太陽神は太陽女神の天照大神である。Media Point天照大神の蘇りが必要である。これにより、アメリカ的キリスト教文明に対抗できるようになるだろう。


2007年10月24日(Wed)▲ページの先頭へ
近代的自我とキリスト教:同一性自我の脱構築と純粋Media Point回帰=東洋的精神の復活
近代的自我とキリスト教:同一性自我の脱構築と純粋Media Point回帰=東洋的精神の復活

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

先に、近代的自我と近代合理性との二重性、即ち、前者が主体であり、後者が従の関係にあることを述べた。例えば、ブッシュが馬鹿の一つ覚えのように民主化と唱えるが、民主化とは、近代合理性に入るが、ブッシュの近代的自我においてである。つまり、利己主義、自己中心主義においてである。つまり、民主化=近代合理性は近代的自我=利己主義に利用されているのである。出汁にされているとも言える。
 私はこの二重性の発生の構造を明確にしたいと思っている。以前、この問題について述べたが、新たに検討したいのである。ほとんど解明済みの感もあるが、ここでも、PS理論に即して考えよう。
 Media Pointから同一性の志向が発生する。ここで、同一性構造が生まれる。問題は、この同一性構造(言語構造と言ってもいいだろう。チョムスキーの生成文法論の深層構造とは、これではないだろうか。)は、Media Pointの差異ないしは差異共振性を否定・排除・隠蔽していることである。(ハイデガーの本来的存在は、やはり、この同一性構造と関係するだろう。)
 この差異を否定する同一性は近代的自我となるのである。近代以前においては、同一性は差異を否定しなかったであろう。信仰があり、それは、差異に通じていたと考えられるからである。
 差異を否定する同一性=自我であるが、これは、優越的同一性である。否定される差異は劣位となる。この優劣の原因は何か。
 それは、Media Pointからの同一性志向、言い換えると、同一性衝動が力の衝動であるからであろう。この力が、差異を打ち負かし、勝利するような感情をもたらすので、優越感情を抱くのではないだろうか。
 攻撃衝動と言ってもいいだろう。しかしながら、この力の衝動とは、不安の裏返しであろう。Media Pointから同一性的志向をもつとき、差異自体は不安の種になるだろう。この不安に目をつぶるように、同一性の攻撃衝動が生まれるのではないだろうか。
 いわば、闇を克服した勝利感が優越感ではないだろうか。しかしながら、劣等感を裏にもっていると言えよう。とまれ、差異を否定する同一性的優越感自我が発生する。本当は、同一性的優越感/劣等感自我である。つまり、表立っては、優越感であるが、内面は劣等感があるのである。
 それから、この近代的自我は、同一性の合理性を帯びるようになるのである。これが、近代合理性である。近代的自我と結びついた近代合理性が、近代合理主義である。
 近代的自我は、近代合理性を武器にして、利己主義を肯定するようになるのである。これが、西欧近代主義であり、帰結がアメリカの合理主義である。
 ここで、プロテスタンティズムの問題を考えなくてはならない。これまで述べてきたように、Media Pointから同一性衝動が発生するが、この同一性衝動はMedia Pointの超越性を帯びていたのであり、そのために、この同一性衝動=近代的自我衝動は、宗教性を帯びて、プロテスタンティズムを発生させたと考えられる。ロビンソン・クルーソーである。
 思うに、アメリカ人のプロテスタンティズムはこれで説明できるだろう。Media Pointからの同一性自我衝動なのである。そう、ユダヤ教的衝動と言ってもいいだろう。ユダヤ教とアメリカのプロテスタンティズムは同一性自我衝動という点で通じる。
 これがたいへん危険なのは、超越性を否定的に帯びているので、つまり、差異共振的超越性ではなく差異否定的超越性を帯びているので、いわば、絶対的二元論を発現する点である。つまり、絶対的善悪二元論である。すなわち、プロテスタンティズムは、絶対的善悪二元論的同一性自我衝動であるということである。
 これは、端的に、狂信、カルトである。キリスト教原理主義である。
 この狂信的同一性自我衝動は近代合理性を身につけるのである。自我は優越性を帯びていて慢心している。それは、自我に張り付いた近代合理性、近代的自我と癒着した近代合理性を恣意的に武器として利用するのある。だから、民主主義も狂信的近代的自我によって、都合よく利用されてしまうのである。
 ここで、民主主義について考えた方がいいだろう。これは、古代ギリシア的原理と、キリスト教的原理が重なっているだろう。アメリカの独立宣言には、「神がわれわれを平等に造った」と述べられている。
 当然、キリスト教的民主主義である。これは、狂信的近代的自我と結びついているので、狂信的民主主義となる。キリスト教原理主義的民主主義となる。つまり、ここには、カルト的民主主義があると言える。これが、ブッシュの唱える民主化の本質である。狂気の民主化である。
 以上で、近代的自我とキリスト教の結びつきを試論的に考察した。やはり、判明したことは、キリスト教というよりは、ユダヤ教ないしは一神教が問題である。何故なら、同一性自我衝動は、キリスト教的というより、ユダヤ教的一神教的であるからである。ベースは、ユダヤ教的一神教性である。
 そう、ヤハウェは、「我在りて、在り余れる神である」。正に、自我の神なのである。
 以上から、同一性自我衝動を脱構築する必要があるのである。否定された差異は回帰するのであるが、それは、ポスト・モダンという欠陥のある理論で現われたのである。差異を純粋に、また、意識的に復活させないといけないのである。トランス近代的自我である。
 結局、近代的自我は、Media Pointの同一性衝動/同一性構造から発しているので、これを解体しないといけないのである。差異から同一性へと転換する構造を脱構築しないといけないである。
 それは、Media Pointの純粋化である。Media Pointの、いわば、現象学的還元が必要なのである。純粋Media Pointの復活である。そして、これこそ、本来的な東洋的精神である。


2007年03月19日(Mon)▲ページの先頭へ
身体的他者と超越性:一神教の構造分析
以下は、「問題は、どうして、欧米とりわけアメリカは、世界に対して攻撃的なのか。覇権主義の原因は何か。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-
10028346071.html
のコメントを独立させたものである。
__________________

まだ、本件については、理論的整理が足りないと思う。後で、詳論するとして、今は、簡単に触れるに留めたい。

連続的同一性は他者・身体性を否定する。しかし、同時に、必要とする。

この他者・身体性と超越性ないし差異共振性との関係を探求したいのである。

超越的次元から、男性的傾斜によって、連続的同一性が発現するが、初期的には、超越的次元を保持していると考えられる。

しかし、超越的差異共振性を否定する。即ち、超越的他者【虚数的他者-iないし、i*(-i)】があるが、それを否定して、連続的同一性を発現する。

つまり、明らかに、齟齬があるのである。超越的他者の否定と肯定があるのである。

これは即非様相ではなくて、二項対立的矛盾様相である。

端的に、分裂性である。

整理すると、超越的身体的他者の同時的否定と肯定があるのである。つまり、弁証法的様相がここにはあるのである。主従の弁証法である。

図式化すると、

MP⇒-1

の構造がここにある。

超越的他者の否定・肯定の弁証法は、この⇒にあると言えよう。これが、一神教の様相空間であろう。

言い換えると、MPにおいて、超越次元を示唆し、同時に、⇒において、超越的他者を否定・肯定するのである。

しかし、あくまでも、この肯定は、連続的同一性的肯定に過ぎない。

換言すると、超越的他者の否定と超越的主体の否定がここに同時生起しているのである。
 
簡単にいえば、二項対立の成立である。

iは-iを否定し、-iはiを否定するということである。

この連続的同一性が逆に超越次元に投影されて、唯一神になると言えよう。

しかし、超越次元は、本来、差異共振次元であるから、神々が存するのである。エローヒームが存するのである。

つまり、エローヒーム(神々)にヤハウェ(唯一神)が投影される様態なのである。

明らかに、「分裂症」である。MPを仲介にして、差異共振性と連続的同一性とが統一されようと意志されるのであるから。

ここで今は留めたい。


問題は、どうして、欧米とりわけアメリカは、世界に対して攻撃的なのか。覇権主義の原因は何か。単に軍
テーマ:ポスト・アメリカ


父権的意識、連続的同一性自我意識は、差異共振的知性を否定する。

問題は、どうして、欧米とりわけアメリカは、世界に対して攻撃的なのか。覇権主義の原因は何か。単に軍事・経済的支配のためだけとは思えない。

私は、プロテスタンティズム、とりわけ、アメリカ建国におけるピューリタニズム(清教)が観念的動因として重大だと考えている。

カルヴァンの予定説をピューリタニズムは引き継いでいると思う。
それは、神に救済される人物は予め決定されているということであり、それは人知を超えたものとされているのである。

だから、救済は不可知なのである。そのために、ピューリタンは、救済の証を得ようとして、攻撃的に布教するようになるということだと思うのである。

つまり、不可能の行為なのである。

つまり、常に不安がピューリタンにはあることになるのである。何かをして、救済を信じようとすると考えられるのである。

このような不可知論的決定論は、結局、超越的差異共振界であるイデア界を否定する観念から発していると考えられる。それは、当然、父権的な連続的同一性主義から発していると思う。本来、超越的意識が自身を否定するようにして、現象的に連続的同一性化するのである。

ここには、起源の差異共振性が隠蔽されているから、当然、不安・恐怖となるのである。

そして、これは、また、盲目の衝迫に取り憑かれることになるのである。

ピューリタニズムの予型論(タイポロジー)は、思うに、そのような不可知論的決定論を基礎とした聖書中心的適用主義(キリスト教原理主義)と思われるのである。

現前の世界に聖書を予型として適用するのである。聖書をプログラム・プランとして、現実に適用するのである。

ここには、不安に基づく善悪二元論がある。自我の影を他者に投影することになるのであり、他者を悪魔的敵として攻撃するようになるのである。

どうも、これが、欧米、とりわけ、アメリカの覇権主義の精神・観念的要因のように思えるのである。

父権主義によるイデア界の喪失による不安・恐怖が、無意識の影を生み、その反動として、覇権主義的になると思うのである。男性の精神の問題があると思うのである。


参考:
ピューリタニズムはルターの宗教改革から50年たったケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに発祥した。世はエリザベス女王時代。最初の中心人物はトーマス・カートライトである。
 当時、エリザベス女王はカンタベリー大主教パーカーにアングリカニズム(英国国教会)による国民的礼拝様式の統一と強化を依頼していた。アングリカニズムはヘンリー8世のイギリス的宗教改革によって生まれたもので、カトリシズムがユニヴァーサリズム(普遍主義)だとすれば、ナショナリズム(愛国主義)と結合した。いまもロンドンのウェストミンスター・アベイに入ると、そこがいかにイギリスの土着ナショナリズムで満たされているかが一目瞭然である。そこにはイギリスが生んだ神武天皇や楠木正成の聖人像や記念碑が埋め尽くされている。
 ヘンリー8世がアングリカニズムを主張したのは、ルターのプロテスタンティズムによってカトリシズムが脅かされたことに対する反発が動機になっているのだが、一方では、このままローマ教皇庁によるカトリシズムを守るだけではイギリスの宗教政治はやっていけないという現実判断にももとづいていた。
 だからヘンリー8世のアングリカニズムは次の3つの柱でできていた。ナショナリズム、国王絶対主義、そして受動的服従主義である。
 これをエリザベス女王が引き継いだ。
 ところが、カートライトはこの3本柱をことごとく批判した。それはアングリカニズムが体制の思想であるとすれば、まさに反体制の思想であった。

 カートライトの反体制思想は、もともとはカルヴァンのプロテスタントな宗教思想から出ている。
 カルヴィニズムとは一言でいえば「ソラ・スクリプトラ」、すなわち「聖書のみ主義」である。ピューリタニズムは聖書が適用できないような「間隙」をけっして認めない。どんな隙間も聖書に書いてあるとする。逆に、ヘンリー8世のアングリカニズムはこの「間隙」を生かした国教だった。
 これに対して同じプロテスタンティズムでも、ルターのばあいは「ソラ・フィデ」(信仰のみ主義)である。
 しかし、これらの差異はまだ思想上のことであって、社会的にはそこにアン女王時代(1550年代)に迫害されてジュネーブやオランダに逃れた「エミグレ」がイギリスから帰ってきた事情が直結していた。
 エミグレはもともと移住者とか亡命者を意味するが、ピューリタニズムの生きた本質があるとすれば、まさにこの「移住すること」にある。その後の歴史上のピューリタニズムが、ついに「移住しつづける者の思想」となったからである。なんといってもカートライト自身が大学から追放され、エミグレとなったのだ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0620.html

ピルグリム・ファーザーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

ピルグリムファーザーズ (Pilgrim Fathers, Pilgrims、巡礼始祖の意) は、アメリカに渡ったイギリスの清教徒(ピューリタン )である。

16世紀、イギリスのエリザベス1世 がイギリス国教会 を確立したが、17世紀 にかけて、教会の改革を主張する清教徒が勢力を持つようになり、特に国教会からの分離を求めるグループは分離派 と呼ばれ、弾圧を受けていた。信仰の自由を求め、亡命した清教徒を含む102人がメイフラワー号 に乗ってアメリカ に渡った。メイフラワー号船上での「メイフラワー誓約」は社会契約説 に基づくものとして知られる。1620年アメリカ大陸に到着したピルグリムは、理想的な社会を建設することをめざした。植民地をメイ・フラワー号の出航地プリマスに因み、ニュー・プリマスと名づけたとよく言われるが、1614頃の地図にその名が出ている。偶然、同名の地に到着したのである。

入植当初の状況は厳しく、半年で半数程が病死したが、先住民 ワンパノアグ族 の協力を得て、ニュー・プリマスはやがて、発展するニュー・イングランドの最初の植民地となった。

しかし後に、ピルグリムとインディアンとの間でトラブルが起きたりして、インディアンと戦闘なども起きた。ワンパノアグ族の酋長マサソイト は平和と友好を保つためにピルグリムと条約を結ぶが、ピルグリムはこの条約は彼らインディアンの土地を自分達が領有して入植してもよいと言う神の暗黙の許可であるとも解釈もしていた。そのため、ピルグリムは入植地を拡大しようと、まず1630年にマサチューセッツ族 が住む土地に進入し、ピルグリムの白人が持ち込んだ天然痘 により、天然痘に対して免疫 力があまりなかったマサチューセッツ族のほとんど多くの者は死んでしまった。1636年 には1人のピルグリムの白人がピクォート族 に殺された事が切っ掛けで起きたピクォート戦争 が翌年の1634年 に起きた。ピルグリムは殺した容疑者を差し渡せと要求したがピクォート族がそれに応じなかったため、ピクォート族の村を襲い、大勢のピクォート族を殺害し大集落を崩壊した。しかしピルグリムの白人殺しの犯人は実はピクォート族の者ではなくピルグリムの白人であった。さらに、平和の条約を結んでいたワンパノアグ族とも悪化していった。ピルグリムが「フィリップ王」と呼んでいた、マサソイトの息子でもあった、酋長メタコメット が父マサソイトが結んだあの条約は結局は部族にとって不正であり、ピルグリムは自分達、部族の土地を奪っているとし、1675年 にピルグリムのプリマス入植地を攻撃してフィリップ王戦争 が勃発した。この戦争により周辺部族も巻き込み、1676年 に終結するまで、ピルグリムとインディアンの両方共に多くの犠牲者が出る悲劇をもたらした。


[編集 ] 関連

* プロテスタント
* ピューリタン
* メイフラワー号
* プリマス (マサチューセッツ州)
* w:Timeline of United States history (1600-1699)
* w:Pilgrim
* w:Pilgrimage

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83
%94%E3%83%AB%E3%82%B0%
E3%83%AA%E3%83%A0%E3%
83%BB%E3%83%95%E3%82%
A1%E3%83%BC%E3%82%B6%
E3%83%BC%E3%82%BA " より作成

カテゴリ : アメリカ合衆国の歴史 (-1776)

_____________
Lessons of War
The fighting in Iraq enters its fifth year.

Sunday, March 18, 2007; Page B06



TOMORROW MARKS the fourth anniversary of the start of the Iraq war, as appropriate a moment as any to take stock. What matters most is finding the best policy now -- doing whatever can be done to help Iraq and safeguard U.S. interests in a vital region. But looking back also is essential, particularly for those of us who supported the war.

We will never know what might have happened had Saddam Hussein and his sons been left in power. Nor do we know how Iraq will evolve; history's judgment in five years or 10 may look very different than today's. But the picture today is dire, and very different from what we would have hoped or predicted four years ago. The cost in lives, injuries and dislocations, to Americans and Iraqis, has been tragic; the opportunity costs for U.S. leadership globally have been immense. So there is an obligation to reassess. What have we learned?
http://www.washingtonpost.com/
wp-dyn/content/article/2007/
03/17/AR2007031700950.html


2007年02月09日(Fri)▲ページの先頭へ
『大乗起信論』とPS理論
『大乗起信論』、現代語訳、文庫で120ページに満たない小さな書ではあるが、大乗仏教理論の神髄・要諦を説く古典である。

 高崎直道(じきどう)氏の現代語訳が明快ですばらしい。現在、岩波文庫は、けしからんことに、品切れで、重版未定となっている。(岩波書店は、良書を、すぐ品切れにして、古本屋で高く買わせるシステムなのか。)

 とまれ、この書の理論は、プラトニック・シナジー理論PS理論と同形であると直観した。今は余裕がないので、極く簡単に触れると、この書の「心」とは、内界であり、特異性であり、内在的超越性の精神のことと見ることができると思う。真如というのもほぼ同じものである。

 この「心」が心身を形成し、現象界を発生させるのである。プラトン哲学のイデアに相当すると言ってもいいだろう。

 そう、阿頼耶識がでてくるが、それは、連続的同一性化した意識のことである。つまり、初めは、「心」=真如が転化して、差異的同一性(如来蔵)を形成するが、それが、連続化して阿頼耶識になると考えられるだろう。つまり、差異的同一性と連続的同一性の混淆した意識が阿頼耶識であり、連続化が進むと、無明へと進むのである。無明とは、正に、連続的同一性の意識と言っていい。これは、フッサールの自然的態度である。あるいは、妄分別である。

 そして、この無明=連続的同一性自我=自然的態度からの脱却して、如来蔵や「心」=真如に回帰する教義を説いているのである。これは、PS理論では、特異性に徹して、差異共振シナジー様相へと転化することを意味しよう。そう、差異共振シナジー様相とは、ほぼ如来蔵を意味するだろうが、当然、「心」=真如(=イデア界)を指しているのである。

 思うに、PS理論が『大乗起信論』さらには、大乗仏教を現代的に解明できるのではないかと思えるのである。また、さらに言えば、PS理論こそ、宗教を現代的思想として解明できるように思えるのである。キリスト教も、PS理論によって、その意味することが明晰にされると思うのである。また、当然、イスラム教も同様であるし、神道も同様である。

 付け加えると、心理学もPS理論が明晰なものにすることができると思えるのである。偏頗な精神分析、不明晰なユング心理学を乗り越えて、真に理論的な心理学を提示できると思えるのである。そう、超越論的心理学である。

p.s. 該博な井筒俊彦氏の「東洋哲学覚書 意識の形而上学ーー『大乗起信論』の哲学」
の初めの方に、的確な指摘があるので、引用したい。(まだ、この本を読んではいないが。)

引用開始
【『起信論』だけでなく大乗仏教全般を通じて枢要な位置を占めるキータームの一つ、「真如」。この語の意味の取り方は様々だが、『起信論』の立場からすると、「真如」は(・・・)、第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である。
 しかし、また逆に、「真如」以外には、世に一物も存在しない。「真如」は、およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ経験的存在者の全てがそのまま現象顕現する次元での「真如」でもあるのである。
 この意味で、「真如」は先ず存在論的に双面的である。一方において、それは「無」的・「空」的な絶対的非顕現、他方においては「有」的・現象的自己顕現。このように双面的・背反的であるからこそ「真如」は、「真如」なのであって、もしそうでなければ、存在エネルギーの全一態としての真実在とか、そのエネルギーの全顕現的奔出とかいうことは考え得られないであろう。一見、「真如」と正反対の、いわゆる「無明」(=妄念)的事態も、存在論的には「真如」そのものにほかならないのだ。この存在論的事実を信仰的言辞の価値づけ原理に移して表現すれば「煩悩即菩提」ということになろう。哲学的には、「色即是空、空即是色」とも。要するに「真如」は二岐分離しつつ、別れた両側面は根元的平等無差別性に帰一するのである。

 以上は、存在論的双面性の問題だが、「真如」にはこれとはもう一つの別の秩序の双面性がある。それは、プラス・マイナス(正・負)の符号づけ秩序であって、特に倫理学・道徳論に関わる思想の領野において決定的な重要性を帯びて現れてくる。この観点からすると、「煩悩即菩提」どころではない。「真如」は無明(=妄念、妄想)と正面きって対立するのだ。いま見たように、「無明」的事態は全て本源的に、「真如」それ自体の一側面であるのに・・・・・。
 この観点に立つとき、『起信論』は「真如」を現象態と非現象態とに分け、前者にマイナス記号、後者にプラス記号をつけて、相互矛盾的対立関係に置く。すなわち、現象的事物事象の世界(我々の経験的存在の世界)は、隅から隅まで「妄念」の所産であって、いわゆる現実は、本来的に妄象の世界とされるのである。
 こうして、この視点から見ると、「真如」の非現象態と現象態とは、互いに鋭く対立し、これら相矛盾する二側面が、一方はプラス符号、他方はマイナス符号を帯びて、「真如」において同時成立している、ということになる。
 かくて「真如」を対象とする我々の思索は、ここでもまた、必然的に双面的・背反的となる。二つの相反する意味志向性が、「真如」をめぐる思惟をして、逆方向に向う二つの力の葛藤のダイナミックな磁場たらしめずにはおかないのだ。

 意味志向性のこの二重構造に目隠しされることなあく、それを超出して、事の真相を、存在論的、かつ価値符号的双面の「非同非異」性において、そのまま無矛盾的に、同時に見通すことのできる人、そういう超越的綜観的覚識をもつ人こそ、『起信論』の理想とする完璧な知の達人(いわゆる「悟達の人」)なのである。】 pp. 16~18
引用終了


2007年02月02日(Fri)▲ページの先頭へ
アメリカ人の意識と環境問題
以下、toxandoria氏のサイトの掲示板に書いたものです。

アメリカ人の意識と環境問題 削除
投稿者:Japonesian Apocalypse 2007/02/02 00:21:37

toxandoria 様

今年の、驚異的な暖冬によって、誰でも、温暖化の問題を意識せざる得ない状況になったと思われます。
私の実家の千葉では、一週間前頃行って、菜の花が満開なのを見て、さすがに、驚きました。私の経験では、一月に菜の花が満開というのは、初めてです。
 さて、また、私がアメリカでの、短いですが、経験では、寒いくらいの冷房していて、白人たちは、無頓着でした。日本なら、省エネ等で、温度をあげると思います。
 私は、アメリカは、地球環境にとって、いわば、敵であると感じました。これは、とても、危険だと思います。アメリカは、鉄道を破壊して、自動車産業文明に変えました。そして、それを、戦後、日本がそれをまねしました。また、現在、中国等がそれをまねしていると思います。(もう、ずいぶん前になりますが、上海に行って、排気ガスに目が痛くなるようでした。)
 そう、toxandoria 氏が以前、新しいエネルギー源に言及されましたが、もう、地球は限界に来ているのでしょう。私の単純な印象では、車が多過ぎます。猫もしゃくしも車です。イギリスでは、列車に自転車を載せられる車両があり、自転車で、旅行ができますね。イギリスは、田園が残っていて、サイクリングが楽しいと思います。日本では、車、車の洪水で、サイクリングは、たいへんですね。
 また、散歩もできる場所が少ないですね(私は普段は、東京にいます。)
 とまれ、私の印象では、アメリカはだだっぴろく、環境汚染が、深刻なものとしては、現れにくく、その点でも、アメリカ人の環境意識を鈍くしていると思います。
 また、日本ですが、私の実家の田舎(農業地帯)では、海に近いですが、海岸の汚れをひどいですね。ゴミがいっぱいです。自然に対する感覚精神がすっかり衰えていると思います。近代主義の末期です。
 私の単純な気持ちでは、どうして、美しい(安倍総理の美しいとは何でしょうか)を自然環境を破壊するのか、理解できません。そう、有名な『ギルガメシュ叙事詩』のギルガメシュとエンキドゥーによるフンババ(森の怪獣)の退治と森の伐採を想起します。そう、女性が子供を産む機械という発想は、父権的で、ブンババという発想と似ているますね。フンババとは、フワワでもあり、女神のキュベレと関係があるようです。そうすると、これは、正に現代と直結していますね。フンババ=森の聖獣=女神=女性=自然です。ギルガメシュがブッシュです。ギルガブッシュです。そして、友人の、死ぬことになるエンキドゥーが日本でしょうか。
 そう、女神は、また、ヒラリー・クリントンかもしれません。とまれ、今や、逆黙示録の時代のようです。否定された自然が復活する時代になったようです。聖母マリアは当然、女神=自然です。

http://mypage.odn.ne.jp/home/rembrandt200306


2006年11月02日(Thu)▲ページの先頭へ
写真と精神:精神的視覚と「写実」:同一性主義批判と新東洋文明曙光(はてなダイアリーから)
先に、映画 と精神 について、簡単に言及したので、ここで、本件について簡単に触れたい。もっとも、これは、芸術 と精神 ないし感覚と精神の問題として一般化できるが、一般論 は、ここでは置いといて、写真 と精神 に限定したい。(そう、これは、デザイン と精神、等々と展開するだろう。)

 映画 については、ベラ・バラージュの古典 の『視覚的人間 』があるが、

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003355717/sr=8-1/qid=1162439021/
ref=sr_1_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books

精神 の表現技術 の方にウェイトが置かれているだろう。(この書は、思うに、映画 の一種モダニズム的理論 だろう。)

 映画 の精神 表現については、精神 的視覚性が映画監督 に必須の資質だと思っている。つまり、美術 的資質である。それに物語の資質等が加わって、映画芸術 が可能になるだろう。小津安二郎 の映画 (少し過大評価 ではないかと思われるが)は、やはり、美術的側面というか、絵画的側面が強いだろう。

 では、本件の写真 と精神 のテーマ については、どうだろうか。これも、直観では、精神的視覚性が基礎だと思うのである。つまり、やはり、美術 的資質である。(映画 や写真 は美術 芸術に入るものであるし、漫画やアニメもそうである。しかし、精神 表現がなくてはならない。)

 精神 的視覚とは、何か、ということになる。これは、「イデア」的視覚であるし、ヴィジョン的視覚とも言えるだろう。(神秘的に言えば、透視 に近いのであるが、「霊視」になると、これは、逆の二元論となり、病理的倒錯である。)これを、プラトニック・シナジー理論 の視点から考察 すると、これは、とりもなおさず、不連続的差異の即非共立的視覚ということではないだろうか。精緻に言えば、不連続的差異 即非共立的「同一性」志向視覚ではないだろうか。これを図式化しよう。

差異1☯差異2☯・・・☯差異n   (差異即非界)

において、☯→=(即非→同一性)が、プラスの志向性として生起するし、同時に、☯→dd (discontinuous difference:即非→不連続的差異 )が、マイナス の志向性として生起すると考えられる。

 精神 的視覚、イデア的視覚とは、☯→=(即非→同一性)における→=(→同一性)に存するのではないだろうか。光の志向性と言ってもいいだろう(それに対して、→dd は、闇の志向性と呼べるのではないだろうか)。換言すると、精神的視覚=光の志向性とは、即非共立ヴィジョンをもった「同一性」視覚ということになろう。これは、不思議なヴィジョンではあるが、単純化すると二重のヴィジョンであるが、正確には、多重多層複合融合的ヴィジョンである。この精神 的視覚能力が、美術的資質・才能 ・天才である。これで、すでに、写真 と精神 のテーマ は、解決しただろう。結局、現象に対して、精神的視覚を向けて、撮影したものが写真 芸術 である。(後、闇の志向性と写真 の問題があるが、これは、課題としておこう。)

 さて、最後に、「同一性」の問題を考えたい。先に、連続 的同一性と不連続的同一性(特異性的同一性)を区別した(これは、量的同一性と質的同一性と言い換えることもできるだろう)。しかし、同一性という言葉は、差異の現象に対して、直に使用すると落ち着きが悪いと感じられるのである。

 →同一性と言えば問題がないのである。とまれ、精緻・厳格に検討しよう。連続 的同一性とは、差異=微分 であり、虚構に過ぎない。つまり、真正な事象には、存在 しない、ヴァーチャル なものである。では、実際の→同一性を分析的にみてみよう。

 零度差異共振 シナジーによって、諸・不連続的差異 が連結し、連続 化し、同一性となる。ここで、作業仮説であるが、諸・不連続的差異が、それぞれ、同一性になるとしよう。つまり、差異1、差異2,・・・差異nが、すべて、同一性になるということである。つまり、差異k=同一性(連続的同一性)【差異k→同一性が正確である】である。しかし、この多数の同一性・連続 的同一性の集合連続 体自身が、一つの連続的同一性体を形成していると考えられるのである。ということで、差異k→同一性の連続 的集合体として、連続的同一性体を考えることができる。(これから、→を連続 的同一性志向性を意味 する記号としよう。)差異k→同一性→同一性体となる。

 私が、これまで、連続 的同一性と呼んだものは、=同一性体(同一性個体)のことである。では、不連続的同一性とは何かとなると、当然、→同一性体(同一性個体)のことである。簡単に言えば、→である。つまり、志向性には、差異即非共立性・差異共振シナジー性があるということである。メディア 界があるということである。始点が存しているということである。根源が存しているということである。

 ということで、同一性の問題は、→(志向性)があるか、否かの問題なのである。近代主義とは、この→を否定・無化した観念体系であると言えるのである。結局、連続 ・同一性主義ないし連続 ・同一性中心主義である。これで、同一性の問題は解決したとしよう。

 では、→を否定・無化した近代主義は、この否定によって、どういう事象を引き起こすのかという原理的問題がある。実際的結果は、超大惨事・破局・悲劇・悪夢 であったことは、否定できない。理論 的に考察 しよう。→を否定・無化することは、自然 の根源的力=エネル ゲイアを否定することになるのである。すると、当然、根元的力がブロック されるので、反動 的力が作用するのである。反作用である。この反動 的力が暴力なのである。社会学 的に言えば、ホッブズ の万人の万人に対する戦争 である。あるいは、狂気である。パラノイア や人格障害 のような精神病理・狂気である。そして、近代資本主義 の攻撃力である。つまり、資本 を連続 ・同一性化したために、資本 のもつ差異的エネル ゲイアを否定しているので、暴力 ・狂気・非合理主義的な連続 ・同一性主義的資本主義 が生まれたのである。西欧・米資本主義とは、このようなものであり、植民地主義 、帝国主義 、冷戦、等々を生んだのである。結局、近代という時代は、人類史において、最悪の時代として記録されるのは、確実である。《悪魔 》が支配したのであるから。

 とまれ、今や、大局的に見ると、否定・無化された→が復活し、ポスト ・西欧近代のエポック 、即ち、新東洋文明の黎明期を迎えているのである。反動 であったフランス・ポストモダン もとっくに終焉して、今や、真のポスト ・西欧近代、ポスト ・ウェスタン ・モダンである。ネオ ・プロト モダン である。ネオ ・ルネサンス である。東洋ルネサンス である。

 しかしながら、現代日本は、世界でいちばん、近代主義に汚染されて、超倒錯の社会 になっているのである。近代狂人 たちの社会 なのである。近代狂気から覚醒しないといけない。

f:id:sophiologist:20061102172928j:image

http://www.zion-jpn.or.jp/pics/k02.jpg

 狂気近代日本からのエクソダス である。今や、新東洋文明という約束の地が見えたのである。ピスガ山越えである。そう、ヘルダーリン、キルケゴール 、メルヴィル 、ニーチェ 、フッサール 、鈴木 大拙 、西田幾多郎 、ウスペンス キー、D.H.ロレンス 、折口信夫、多くの天才たちが、ピスガ山に達して、新たな約束の地である新東洋文明を指し示していたのである。

Overcome Continuous Identity Modern!

Practice and Realize Exodus

from the Most Insane Modern to New Orient !


http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20061103

から


連続的差異と同一性:近代の終焉と新東洋文明
今は、簡単に触れるに留めるが、私が問題にしたいのは、先に述べた不連続的同一性と連続的同一性の問題である。領域で言えば、メディア/現象境界の事象である。これは、正確には、不連続的差異論の問題であるが。同一性の問題に関して、重要な問題なので、精緻に考察したい。
 端的に言えば、差異=微分の連続体・積分に基づく同一性と不連続的差異の同一性(特異性の同一性)の問題である。もっとも、これは、不連続的差異論の成立の基礎になった問題で済んでいるものではあるが、近代科学の問題に関係するので、ここで取りあげるのである。ここで、図式化すれば、☯→=が、メディア界から現象界への図式図である。Kaisetsu氏の自己認識方程式を使用すれば、(i)・(-i) ⇒1である(この記号の方が、内在超越性ないし超越次元性を提示できるので、的確である。もっとも、Kaisetsu氏は、一人称と限定して、厳密化しているが。)。差異=微分ないし連続的差異という虚構・仮構は、☯ないし(i)・(-i)という事象を認識せずに、連続同一性とその集合を意味するのである。連続同一性を、ci(continuous identity)とすれば、ciの連続・集合体として根源界があることになるのである。ci, ci, ci, ・・・ci が、連続同一性集合体である。そして、これを積分したものが現象的同一性である。∫ciである。ここでは、連続同一性のciが共通単位となったいるのである。
 しかし、☯ないし(i)・(-i)という事象においては、当然、ciは存しないのであり、差異1☯差異2☯・・・☯差異n(思うに、差異1(i)・(-i)差異2(i)・(-i)・・・(i)・(-i)差異nと表現できるのではないか)が存在しているのであり、ここにあるのは、個々別々の不連続的差異の極性共立即ち即非である。どこにも、ciは存しないのである。ただし、即非的同一性が形成されるだろう。→=ないし⇒1である。これを私は、先に不連続的同一性と呼んだのである、ciが連続的同一性であるのに対して。
 フッサール現象学にも通じるが、近代科学は、ciをベースにして、それを数量形式=「物質」形式化して成立しているのであり、☯ないし(i)・(-i)という事象、あるいは、志向性を認識していず、無視している結果になっているのである。結局、差異=微分=連続的同一性=「物質」形式が、近代科学、唯物科学の基礎・基盤・大前提なのである。
 問題は同一性である。近代科学の同一性(ヘーゲルの観念形式)だと、個物・個体は、一般的個体になり、特異性を喪失しているのである(参考:ヘーゲル哲学:個別性は一般性である。)。ここでは、唯名論的個物・個体が、実念論的観念と一致するのである。これは、まったくの画一性、機械的同一性である。この連続的同一性が、近代的現代を支配しているのである。資本主義も、連続的同一性資本主義なのである(有り体に言えば、金融資本主義である)。そして、これを、フッサールは晩年の『ヨーロッパ諸学(諸科学)の危機と超越論的現象学』で説明していると考えられるのである。
 私が言いたいのは、事象は、不連続的同一性、特異性的同一性であるのに、それを、連続的同一性であると誤解していることである。これは、フッサールの『危機』を不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の視点から言い換えたものである。つまり、現象という事象としての「もの」は、不連続的同一性=特異性的同一性であるにもかかわらず、近代的人間は、それを、連続的同一性として誤謬して見ているということである。つまり、近代科学幻想で、現象を見ているのであり、真の現象事象を看過されているということなのである。生活世界は、この真の現象事象を経験したものにほかならないだろう。近代主義は、連続的同一性幻想・妄想・狂信なのである。
 今や、近代は、完全に、終焉したのである。これが、ポスト西欧近代主義ないしポスト近代西欧主義である。では、いったい何が、ここで、出現したのだろうか。コスモス、プラトニック・シナジー界、メディア界、「玄牝」・太極(陰陽太陽)、等が出現しているのである。新たに、古代、東洋、アジア、母権制が復活しているのである。新しい古代ー東洋ーアジアー母権制である。新しいコスモス、新しいガイアである。新しい多神教である。新しいイシス・オシリスである。私は、
新東洋文明と呼びたい。


   




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2008年7月
   
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (220)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (7)

アクセスカウンタ
今日:24
昨日:859
累計:311,855