新東洋文明:新霊性new spirituality:日本伝統文化

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2015年01月06日(Tue)▲ページの先頭へ
仮説:日本民族における、天照大神を介する二つの神の衝突:ヤハウェVS太陽女神(大日孁貴)
仮説:日本民族における、天照大神を介する二つの神の衝突:ヤハウェVS太陽女神(大日孁貴)

テーマ:『日本書紀』解読:日本民族の根源書を読む

『日本書紀』は今や第二巻(岩波文庫)に入った。垂仁天皇の記事を読んでる。狭穂姫(さほひめ)の悲劇が痛ましいが、素晴らしい。『平家物語』の白拍子、仏御前の物語で感動して以来の久々の感動である。
 とまれ、今言いたいのはそのことではない。もっとも、本質では関係するが。
 今、私の仮説は、先に、アマテラスは二神であると言ったが、そのことの発展である。
 即ち、アマテラスの二神とは、端的に、一つは父権神であり、それは、ヤハウェであり、一つは母権神であり、大日孁貴(おおひるめのむち)、または、日の神(日の大女神、太陽女神ないし太陽大女神)である。
 西洋民族の代表神と東洋民族の代表神が激突しているのが日本古代であり、『日本書紀』である。
 かつて古代において、世界中で、父権神と母権神の闘争が行われ、前者が後者を殲滅させるようにして、父権文明が誕生したのである。
 しかし、例外的に、地域があった。例えば、古代ギリシアである。そこは、アナトリア(今のトルコ)に接し、古代母権文化の協力な場所であるが、そこへ父権的遊牧民像が侵入して、母権と父権の大衝突が起きたのであるが、古代ギリシアは、父権優位とは言え、希有な母権と父権の結合文化を生んだのである。それは、ニーチェの天才的視点、アポロとディオニュソスに提示されている。そう、古代ギリシア、陰陽極性を形成したのである。
 その他は、アイルランドであろう。ケルト文化があり、それは、母権文化であるが、キリスト教と融合したのである。
 そして、三番目が古代日本である。
 私の仮説では、失われたイスラエルの十支族が日本に到来したのである。当然、ヤハウェ信仰をもっていたはずである。
 しかし、日本は、世界に稀なる長期な縄文時代を経ていた。それは、母権文化である。
 そして、飯山一郎「大博士」が説く日本民族ツングース族起源源流説を借りれば、ツングース族は太陽神母権文化をもっていたのであり、それが、私の唱える母権天皇文化の原点である。
 今思うに、ツングース族の太陽女神母権文化であるが、同時に、強力なシャーマニズム文化であったと思うのである。
 とまれ、縄文的土着シャーマニズム母権文化とツングース族太陽女神母権シャーマニズムが結合したのが、古代倭国母権文化である。
 そう、父権宗教の最勝であるヤハウェと母権宗教の最勝である太陽女神が衝突したのが、古代日本、『日本書記』ということである。
 そして、何が生まれたのか。それは古代天皇制である。
 それは、その宗教の主宰神は天照大神である。そして、それが、媒介となって、ヤハウェと太陽女神が衝突していると考えられるのである。
 ヤハウェが優位なときが、父権天皇制である。神武天皇、崇神天皇の御代である。
 しかし、太陽女神が優位なときが、例えば、上記した、狭穂姫悲劇であり、あるいは、豊玉姫の物語(海幸山幸の物語)である。
 そう、決定的なのは、伊勢神宮の起源である。
 岩波文庫の補注から引用したい。

「これらの諸学説は細部では異なる見解を示しているけれど、はじめは伊勢の地方神であった伊勢神宮が、紀[日本書紀]の所伝よりもはるかに新しい時期になってから皇室の神に転化した、と考える点では共通しており、その点に関するかぎり、今日学界の通説として認められているといってよい。記紀神代巻の天照大神が太陽神であるとともに皇祖神でもあるという二重の性格は、このような伊勢神宮の祭神の転化と考え合わせるとき、いっそうよく理解されよう。」 『日本書紀』(二) 351−2頁

この引用箇所の太陽神が私の言う太陽女神であり、皇祖神がヤハウェとなる。
 つまり、ヤハウェが天照大神の仮面をつけて、太陽女神をヤハウェ化しようとしているのである。その結果が古代天皇制である。
 しかし、日本という大地世界はあまりに太陽女神が強烈なのであるから、男性神を中心化することができなかったと言えよう。 
 これは、世界において、唯一の事象ではなかっただろうか。
 とまれ、天照大神という神の仮面を用いて、ヤハウェは、古代天皇制という支配システムを創るのに成功したと言えよう。
 そう、日本父権民族(弥生民族を従えたユダヤ民族)は、日本母権民族のアニミズム、シャーマニズム等の母権文化の破壊に取りかかったと言えよう。
 そう、それはほぼ成功したのではないだろうか。その結果、日本母権民族の精神・霊的世界観が破壊されたと言えよう。精神・霊的次元が忘れられて、物質・感覚・世俗的次元、あるいは、内在的感情次元が強調されていったと考えられるのである。
 分かりやすく言えば、氣の世界を喪失していったのである。

追記:古代インドのことを失念していた。古代インドもベースは母権文化であり、そこへいわゆるアーリア民族(今は、この言葉は違う意味になっている)、印欧語族が侵入したのである。
 生まれたのは、インド哲学である。ブラフマン(梵)が中心的神である。しかし、それは女神ではないのである。
 梵我一如というすばらしい哲学が生まれたが、大女神は消えているのである。ブラフマンこそ、大女神と見るべきなのである。
 そう、大女神文明は、端的に、古代エジプト文明と言えよう。イシス・オシリス神話が完全に大女神神話である。
 

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『日本書紀』の中でも、特に好きな部分です。
投稿者 e90j77gn 投稿日 2004/8/27
形式: 文庫

 第2巻には、第11代垂仁天皇から第20代安康天皇を収録しています。『日本書紀』の歴史観は、この巻で一つの画期を迎えます。つまり国内統一事業をほぼ終えて、いよいよ海外に進出し始める過渡期として描かれているのです。そのため、ヤマトタケルや神功皇后といった、皇位継承はしないけど、英雄的な活躍をする人物が登場するわけです。
 しかし、史実性を帯びてくる一方で、『日本書紀』の記述と実際の年代が一致しないという《紀年問題》も深刻に…。たとえば神功皇后の場合、皇后が摂政になってから死ぬまでは69年ですが、この69年間に起きたと述べられている海外の出来事を実際の年代に照らし合わせると、神功皇后は189年間摂政の地位にいたことに…。なぜこんなことになってしまったかというと、神功皇后を邪馬台国の女王卑弥呼に模したためらしいですが。
 ところで個人的には垂仁天皇が興味深かったです。皇后が謀反に手を貸すという悲劇が語られたり、伊勢神宮が創始されたり、古墳文化が始まったと述べられたり、民俗学などからも注目されている人物です。
 史実と伝説、あるいは史実と虚構の境界を散歩できる、面白い1冊です。


2015年01月03日(Sat)▲ページの先頭へ
二神のアマテラス:『日本書紀』に日本民族の秘密が:『聖書』とホメロスの叙事詩と並ぶだろう
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11972474237.html

二神のアマテラス:『日本書紀』に日本民族の秘密が:『聖書』とホメロスの叙事詩と並ぶだろう

テーマ:『日本書紀』解読:日本民族の根源書

今や、『日本書紀』に魅せられ、虜になっている(今風に言えば、ハマっている)。
 とまれ、主観的な修辞は止めて、端的に、真夜中過ぎに思いついたことを備忘録しよう。
 イザナキノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)は、創造する対極的根源神である。そして、彼らは、天神族(以下、天族)に属する。
 しかしながら、私は先に、イザナキを父権民族、イザナミを母権民族に配した。
 こう定置することは、実は、視点(パースペクティブ)の革命なのである。
 天族を実は、異質な二つのものに分化するからである。これは、いわば、脱構築である。
 つまり、天族は、地族とは本来別である。しかし、イザナキを父権民族、イザナミを母権民族とすることは、天族を天族と地族に分化することであり、天族はその時点で解体しているのである。
 つまり、天族はフィクションなのである。
 また、冥界から帰還したイザナキは、「みそぎ」によって多様な神々を生むが、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲも生み出すのである。(追記:この箇所を引用する。「〔主語はイザナキである〕 然(しかう)して後に、左の眼を洗ひたまふ。因(よ)りて生める神を、号(なづ)けて天照大神(あまてらすおほみかみ)と曰(まう)す。復(また)右の眼を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて月読尊(つくよみのみこと)と曰す。復鼻(みはな)を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて素戔鳴尊(すさのをのみこと)と曰す。『日本書紀』(第1巻)48頁)
 しかしながら、ジョーゼフ・キャンベル的神話的解釈では、この神を産み出す、イザナキは、実は、母神的なのである。つまり、この場合、イザナミ的要素を帯びているということである。
 とまれ、天族と地族の結合によって、神々が誕生すると言えよう。
 問題は、アマテラスである。
 アマテラスは天族の主宰神である。しかるに、実は、地族的なものを背景にしているのである。
 とまれ、アマテラスは天族の代表、つまり、父権民族の代表の神である。これが、私の考える父権的天皇に通じるのである。
 しかるに、母権的天皇はどう考えたらいいのだろうか。
 その前に整理すると、PS陰陽哲理学から見ると、凹i=陰に当たるのは、イザナミであり、凸i=陽に当たるのはイザナキである。
 そして、両者の結合からある造化が起るのである。
 PS陰陽方程式凹i*凸i⇒±1から見ると、⇒+1は光であり、⇒−1が重力である。


        陽凸i
         |
         |
         |
         |
地−1___________MP_______________天+1
         |
         |
         |
         |
        陰凹i

     陰陽ガウス平面

 だから、太陽は⇒+1と関係する。そして、大地は⇒−1と関係する。私見では、前者は陰主導であり、後者は陽主導である。
 そして、前者は母権主義であり、後者は父権主義である。
 だから、天族的アマテラスは後者であると思うのである。
 そして、地族的アマテラスは前者である。地族=母権的アマテラスとは、いわば、陰主導の太陽である。
 それは、陰陽ガウス平面のMP=原点=交点に存するのである。(追記:この点は以下の考察から否定される。)
 『日本書紀』の天族・父権的アマテラスではない、地族・母権的アマテラスは『日本書紀』の何なのだろうか。
 今、思いつきで留めるが、それは、国生みの説話以後の山川草木、月日などを産む説話にある「日の神」、「大日孁貴(オオヒルメノムチ)」ではないだろうか。それは一書では、天照大神と、ある一書では、天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメノミコト)と呼んでいる。
 しかし、私はこの「日の神」、「大日孁貴」、こそ、地族・母権的アマテラスだと思う。
 そして、これが、母権的天皇制に通じると思うのである。
 本文を引用したい。

《既にして、伊弉諾尊(イザナキノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)、共に議(はか)りて、曰(のたま)はく、
「我已(われすで)に大八洲国(オオヤシマノクニ)及び山川草木(ヤマカワクサキ)を生めリ。何(いかに)ぞ天下(あめした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」とのたまふ。是(ここ)に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴(オオヒルメノムチ)と号(まう)す。・・・ 一書に云はく、天照大神といふ。一書云はく、天照大日孁尊といふ。此の子、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る。故(かれ)、二(ふたはしら)の神喜びて曰(のたま)はく、「吾が息(こ)多(さわ)あれと雖(いへど)も、未だ若此霊(かくくしび)に異(あや)しき児有らず。久しく此の国に留めてまつるべからず。自づから当(まさ)に早(すみやか)に天(あめ)に送(おくりまつ)りて、授(さづ)くるに天上(あめ)の事を以(も)てすべし」とのたまふ。》 『日本書紀』(第1巻)34頁

(追記:この箇所の「日の神」、大日孁貴(オオヒルメノムチ)である「アマテラス」がある一方、上記(上述の青色の追記を参照)にあるように、明らかに、イザナギの居る黄泉の国から帰還して、穢れを濯ぐイザナキの身体から、ツクヨミ、スサノヲとともに「アマテラス」が生まれるのである。
 この二つの事柄は明らかに矛盾である。一方において、イザナキとイザナミが協力して、「天照大神」である「日の神」、大日孁貴を生んでいるのに対して、他方では、イザナキの「ミソギ」によって、「天照大神」が生まれているのである。)

さて、最後に陰陽ガウス平面を本文に合わせて変形すると、以下のようになる。


            陽凸i(イザナキ)
               |
               |
               |
               |
父権天照−1______________MP_____________日の神+1(母権天照)
               |
               |
               |
               |
            陰凹i(イザナミ)

        陰陽ガウス平面(『日本書紀』版)

追記:思うに、本当のアマテラスは、霊的アマテラスでなくてはならないだろう。しかし、『日本書紀』のアマテラスは霊的というよりも、物質的な太陽光である。
 しかし、日の神、大日孁貴は、霊的意味合いが感じられるのである。
 思うに、征服民族である父権民族は、霊的太陽であるアマテラスを利用して、父権的太陽=物質的太陽としてのアマテラス像を構築したのではなかったろうか。
 それは、権力的太陽神像である。

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5つ星のうち 4.0 なぜ神話は広範に日本をカバーしているのでしょう, 2007/10/5
投稿者
DJ LINDSAY (山口県周南市) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 日本書紀〈1〉 (岩波文庫) (文庫)
 日本書紀にはなぞがいくらかあります。日本の国生み神話が、島を生むこと自体大陸を意識しています。そこでまずスサノオがなぜ出雲に降り立ったのか、ヤマト中心の世界観とは反します。出雲に一大勢力があったことが神話上証明されたことになるのではないでしょうか。神無月には神々が出雲に集まります。
 天孫降臨はなぜ高千穂なんでしょう。天岩戸も高千穂にあるとされています。九州が神話に取り込まれています。九州にも勢力があったのでしょう。神武天皇の日向の国からヤマトへの東征は何を表しているのでしょうか。ヤマトが日本という国、日本という国号自体音読みで、訓読みに直せばヒノモトですが、これ自体、中国、朝鮮を意識した名称なんですが、を統合する過程を表しているのではないでしょうか。古事記ではヤタガラスが天つ神を導いて国つ神に引き合わせるという場面がありますが、なぜからすなんでしょう。そういう日本の国の成り立ちを神話から想像すること自体楽しいのではないでしょうか。
 途中で突然海幸彦と山幸彦の逸話が出てきますが、古事記、日本書紀が日本に伝わる数々の神話を集めたものであることがわかるのではないでしょうか。
 日本書紀は聖書のように、天孫降臨、天岩戸の高千穂とか、スサノオの八岐大蛇の出雲とか、神武東征の日向、ヤマトとか大まかな地域名は出てきますが、もっと細かい具体的な地名は出てきません。かなり曖昧です。その辺が解釈の分かれる元でしょう。 



2014年11月04日(Tue)▲ページの先頭へ
学ぶことを忘れたのが亡国の原因?:読書は読智である:脱日本一神教原理:新多神教・新陰陽原理へ
学ぶことを忘れたのが亡国の原因?:読書は読智である:脱日本一神教原理:新多神教・新陰陽原理へ

テーマ:哲学philosophy:ソフィアへの愛

私の両親は無学であった。読書をしなかった。農薬を使う野菜農家であった。父は胃ガンでなくなった。
 思うに、読書とは、読智なのである。知恵を得ない読書ならば、それは、皮相な読書である。知恵とは自分に役立てることである。内的、外的に実践的である。
 日本人は知恵を捨ててきたと思う。
 傲りがあると思う。知恵に対する冒瀆があると思う。
 それは、やはり、父権自我から来ていると思う。
 再論するが、西洋文化とは、二重文化であり、基層には、母権文化があり、その上に父権文化が支配しているのである。だから、常に、両者の対立と対話が為されるのである。そこで、知恵が生まれるのである。それが、哲学である。古代ギリシアから哲学の伝統が西洋には流れているのである。
 日本において、母権文化が衰退してしまっている。
 これは、やはり、明治維新と敗戦後の被占領体制に因るだろう。
 それまで、日本文化は東洋文化であり、中国、インド、韓国・朝鮮の文化を基礎としてきたのである。
 中国文化には、基層に母権文化があるし、インドもそうである。
正に、陰陽文化がそうである(ただし、『易経』は父権化されて解釈されている)。
 これを似非近代日本は否定したのである。つまり、自己否定したのである。端的に、脱亜入欧である。しかし、この欧米文化の輸入は、父権的であり、母権文化を見ていなかったと思う。
 とまれ、伝統を否定する極端な在り方が「近代」日本で生じたのである。これこそ、自虐的であるが。
 そう、バランス、均衡を失ったのである。
 いったい、この極端な自己否定的な「近代主義」とはどこから発するのだろうか。 
 これは、一神教の発想に近いと思う。
 私見では、国学の神学によっているのである。
 国学は、神道を一神教化したのである。
 国学神学が「近代」日本を支配しているということではないだろうか。一神教支配である。
 どうも、これが、日本の自己否定原理であるように思えてきた。
 本来、多神教である神道が一神教化されたのである。ここには、日本父権民族の視点があると思う。(やはり、日ユ同祖論を支持したくなる。)
 一神教は、非常に危険である。それは、帝国主義原理になるのである。キリスト教は本来は三位一体で、多義的であるが、一神教的に解釈されてきたのである。
 今の結論として、脱一神教化、脱国学神学であり、新多神教、新陰陽原理を提唱したい。
 ついでに、ハイデッガーのきわめておもしろい本を推奨したい。これは、主著の『存在と時間』より、ずっと優れていると思えるのである。わかりやすいのである。解説書は返って、深遠にしてしまっている。ハイデガーの説く「存在」は明快である。

追記:智は光であり、智のない人間は闇が支配している。闇の無智から智光へ。


形而上学入門 (平凡社ライブラリー)/平凡社

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文芸空間 ハイデガー『形而上学入門』
literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html


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2007年5月15日 ... 「2ちゃんねる」系のページのことである。 女子高生の書いたページにリンクを張って、
話題にしていた。 女の子のピースをした顔写真。 黒を基調とした背景。 短い言葉、
ほんの数文字で書かれた自己紹介。 大きく取られた余白に、殺とか狂とか ...

マルティン・ハイデッガー - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/マルティン・ハイデッガー


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マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、
ドイツの哲学者。ハイデガー、ハイデカーとも表記される。エトムント・フッサールの現象
学の他、イマヌエル・カントからゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルへと至る ...


2014年10月26日(Sun)▲ページの先頭へ
新エクソダス:森モーセは誰?:脱旧日本:何処へ?:聖霊=こころの国へ?
新エクソダス:森モーセは誰?:脱旧日本:何処へ?:聖霊=こころの国へ?

テーマ:日水湖宮(ひみこく);新国名:水瓶座時代

ヘブライ人が、囚われ人であったエジプトから脱出したように、真・森日本人は、エクソダス(脱旧日本)が必要である。
 でも、何処へ?
 聖霊=こころの森国へである。
 とにかく、鈍愚の集群農耕民族と狂魔の日本父権民族の旧日本からの脱出である。
 死者をして死者を葬らせよ!

追記:結局、薬局、総局、黙示録の時代には、人間の質的レベルが生じるのである。劣化・退化した日本人は地獄落ちである。
真・森の日本人は、ガラパゴス化した旧日本から脱出すべきである。かかわるべきではない。滅びるものは滅びるのである。
 イエス・キリストの教えは正しい。
新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れよ。

追記2:結局、薬局、総局、垂直の二つの世界があるのである。あるいは、位階の二つの世界があるのである。
 高次元の世界と低次元の世界である。魂の世界と物質・自我の世界である。旧日本人は、後者に属する俗凡人である。
 しかし、今や、高次元の世界が開けたのである。
 旧い日本とはおさらばである。魂霊の世界が到来したのである。

マルコ福音書講解 13
ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_013.htm


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21 だれも、まださらしてない新しい布を、古い着物に縫いつけはしない。そんなことを
すると、新しい継ぎ布が古い布を引き裂き、破れはさらにひどくなる。 22 まただれも、
新しい葡萄酒を古い皮袋に入れはしない。そんなことをすると、葡萄酒が皮袋を引き裂き
、 ...


2014年10月25日(Sat)▲ページの先頭へ
こころは森林、樹木と氣によって共振・共鳴・共感している
こころは森林、樹木と氣によって共振・共鳴・共感している

テーマ:復活の森:森へ還れ:グリーンマン森共同体

東洋哲学は、端的に、氣の哲学である。
 これを、明治維新の脱亜入欧は否定した。戦後はさらに輪をかけた。
 確かに、唯物科学からすれば、氣とは迷信・迷妄に過ぎない。
しかし、しょせん、唯物科学も仮説である。絶対ではありえない。
 不思議であるが、どうして、西洋の作家・芸術家は、氣を説かなかったのか。想像力を説いたが、氣は説かなかった。
 ところで、想像力であるが、それは、像在力というのが的確と思うのである。像在力、これは、夢のイメージ力でもある。
 今日、知性中心主義であるが、それは、この点が欠陥であるのである。像在力を欠落した知性は、単に、抽象的知性に過ぎない。像在力をもって具象的知性になるのである。そして、これが、真の哲学的知性だと思うのである。そう、芸術的知性とも言える。哲学的知性は芸術的知性と一体ではないだろうか。
 後で、精緻に検討したい。

追記:キーポイントを言わなかった。想像力は像在力とすべきであると述べたが、像在力の本体は氣であると考えるのである。いわば、氣像力でもある。
想像力=像在力=氣像力
という図式になる。




日本宗教革命:超越神としての神々

テーマ:日本復活の新福音:吉祥、朗報、吉報

私が西洋の宗教に接して、もっとも驚いたのは、その神が超越神であるということである。一神教ということより驚愕した。
 私はそれまで、内在的に宗教を理解してきた。
 しかし、端的に、西洋の神は超越神なのである。あるいは、一神教の神は超越神なのである。
 超越という観念が日本人にはおそらくピントこないだろう。
 超越とは自我の理解を超えるということである。これは、実は、他者の観念に通じるように思われるのである。
 内在観念では、連続的になり、自我を介した他者理解になると思う。
 もっとも、内在観念であるが、不連続的差異論を介すると、そこには、不連続的他者(差異)があるのである。
 この不連続的他者であるが、これは、実は超越性に通じていると思うのである。何故なら、自我とは関与しないからである。純粋他者である。つまり、超越的他者である。
 キリストの隣人もこの超越的他者と言えよう。

追記:超越的他者とは、コスモスと感じられたのである。
 それは、氣的宇宙ということである。
 しかしながら、今では、それが静まって、個的肚になっている。
 そう、地上的コスモスになったのである。外的他者との共在性になっているのである。
 では、コスモス感性はどこに行ったのであろうか。
 もう、かなり長い間、コスモス感性は失せているのである。
 思うに、外在的コスモス感性が消えて、今や、内在的コスモスとしての内在且つ外在的他者になっているように思う。
 コスモス感性は多様な個々の世界の知覚へと変容したように思うのである。





死の欲動は過剰自我の破壊的衝動?:金儲け主義には魔が取り憑く

テーマ:放射能汚染と闘う知恵:光合成細菌、乳酸菌

人間は言わば、自我の動物である。自我は、他の生物にはないだろう。
 そう、自我の動物というよりは、自我が発達し過ぎた動物である。
 仏教は自我を否定したが、否定できるものではない。(因みに、キリストの教えは、無私の愛ではない。自我を肯定した、共感的精神、生命的精神である。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたし
を信じる者はだれも、決して 死ぬことはない。
このことを信じるか。』マルタは言った。
『はい、主よ、あなたが世に来ら れるはずの神の子、
メシアであるとわたしは信じております。』
(ヨハネ福音書11:17-27)
ヨハネ福音書から・・・・ラザロの死と復活 - nifty )
 自我が過剰になると、憎しみ、憎悪、嫉妬、怨恨、悪意、殺意、等の破壊・攻撃的衝動が生まれると思う。
 戦争の原因は、端的に、この自我過剰性にあると思う。父権的自我がそのような性向をもつのである。悪魔的自我である。
 とまれ、今日のゾロアスター教的黙示録的状況において、知恵をもって切り抜けないといけない。
 とまれ、原発主義は、自我過剰主義に因るのであり、生命破壊的である。そう、死の欲動に取り憑かれているということではないだろうか。
 なにか。今の日本は、死の欲動に捉えられ、自壊自滅へと向っているようだ。

追記:陰陽方程式凹i*凸i⇒±1、または凹i*凸i⇔±1であるが、死の欲動は、⇒−1なのか、それとも、⇔±1の←の方向なのか。
 父権的自我は⇒−1で説明がつくだろう。では、←±1とは何か。それは、根源への回帰の志向である。
 ⇒±1は、フロイト的に言えば、エロスの衝動であろう。セクシュアリティの衝動であろう。生命欲である。
 しかし、⇒−1の自我欲があるので、⇒±1は、自我的生命欲である。
 問題は、やはり、←±1の←のベクトルの意味である。
 どうも、これこそ、死の欲動ではないだろうか。⇒−1は自我欲であり、確かに破壊的であるが、必ずしも、死の欲動ではないだろう。
 わかりやすくするため、破壊の欲動を⇒−1とし、死の欲動を←±1としよう。
 思うに、死の欲動とは宗教衝動ではないだろうか。根源の太極・陰陽へと回帰する衝動のように思われる。
 プラトンのエロースもそういうものではないだろうか。
 いわゆる、霊や精神というものも、ここに存するのではないだろうか。例えば、バッハの音楽は、まさに、ここを根源にしているのではないだろうか。
 ←±1の←の先には、いわば、太極・陰陽霊があるだろう。これは、普遍的にすべての宗教に共通するのではないだろうか。
 思うに、この死の欲動=宗教衝動=霊的衝動をコントロールする必要がある。そうでないと、まさに、破壊的にはたらくと思う。なぜなら、これは、地上で目的が見つからないからである。破滅的衝動となるだろう。
 作家、芸術家が破滅的になる傾向があるのは、この欲動があるからと考えられる。
 一般の人は、⇒±1の自我的生命欲衝動で生きているのであり、←±1の形而上学的衝動を抑えていると思う。
 問題は、←±1の衝動と→±1の衝動のバランスをとることである。言い換えると、精神と身体のバランスをとることである。
 最後に現代の破壊の衝動であるが、これは、⇒−1の父権的自我の衝動とみる。
 しかしながら、発出しだした、根源回帰衝動を否定しているので、反動状態になっているのである。この反動が凶暴(狂暴)性をもたらしていると考えられる。
 父権的自我の反動的暴力衝動である。それが、銭葬夜の破壊主義と考えられる。


◆2014/10/22(木) 木下は 消されて当然!と 得意顔



問題は…、何の挨拶もなく、ブログの全てが、突然、削除された!ということ。これは、まこと、尋常なことではない!

ところが木下黄太は、「ブログをやめたのは当然の成り行き…」とかと、まことに冷酷な口調なのだ。
ためしに、木下黄太のこの冷酷な文章 を読んでみて下さい。

「東京から脱出しろ! 」 と叫ぶだけで、本心は反原発系が憎い!という木下黄太の本性(読売のウラパシリ)が見えてくるから…。

さらに…、
「反原発系のブログなど消えて当然!」といった木下黄太の物言いに、「反原発系のブログなどは消してしまえ!」という読売的な殺意を感じる人もいるだろう。

同時に…、
反体制的な言論を冷酷に封殺し謀殺する警察官憲の足音も…。
にっぽんよ おまえは いったい どこまで いくんだい?


飯山一郎のHP

1.「悪霊」ドストエフスキー
www.geocities.jp/gaimutorisimariyaku/bun1.htm


* キャッシュ
* 類似ページ

そして、それは悪霊たちがたくさんの豚(マルコ伝では二千匹と言われる)にそれぞれ
入っていったという記述からもみてとれる。 ... 悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、
イエスはお許しになった。33)悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚
の ...


ご注意あれ!「自然死の尊厳を守る」とは、マネーのための意図的な戦争・疫病は排除だが、放射能・電磁波・食品汚染での人口減は黙認のようです。

こんにちは。名古屋・大阪では、人類史の構造変換が始まったことを話しました。

FRBに戦争屋がいて、そこが、意図的な戦争や疫病で人口減を引き起こしながら、これまでの金融資産を維持するやり方に対し、17万トンの金塊を管理する側(王族会議)が、ノーをつきつけ、方向転換させましたが、

重要なことは、その王族会議や華僑系グループ自身も、個人としては、米ドル建てでの金融資産を持っていること。 この資産を活かして、平和で快適な世界を作ろうとしていることです。

ここには、二つ大きな意味があります。  

 @米ドル建ての金融資産があるということは、米ドルをミスミス無価値することはないということ。 

 A平和で快適な世界といった場合、犯罪に関して厳しい管理社会になることと、人口減を歓迎するということ。
新井信介 「京の風」




あたらしい日の国へ向けて:New Dawn

テーマ:日水湖宮(ひみこく);新国名:水瓶座時代

今年は、私にとって試練の年であると述べたが、苦境から脱出しつつあると感じる。運気も向上している。
 陰陽論を知っていると、悪いことも、良いことに転ずることの理解ができる。経験的には、それはわかるのである。悪⇒善である。
 陰陽論は基本的に他者に寛容である。では、悪に対してはどうかというと、勿論、悪は批判するが、実は、悪には、そのパラドクシカルな役割があると思う。
 ユダヤ教文化は、今日では悪であるが、それは、物質・軍事科学をもたらしたのである。ネットもコンピュータも、それがなければ、存在しなかったであろう。
 悪を批判しつつも、肯定できること、これは、達人の精神である。そう、これは、端的に、キリストの教えである。
 しかしながら、今日、日本人の内在的悪は極まっている。とりわけ、権力層である。
 今日、多極化路線がメインストリームであり、日和見主義の日本権力層はそちらに赴くだろう。千争邪を裏切るだろう。
 いい加減な日本父権主義は、多極化路線へ移行するだろう。





Wed, October 22, 2014
「歩く」とは「在るく」?:森氣浴清掃散策のせいか快腸快便だ

テーマ:健康&治癒:森気浴:医食同源:小食菜食

今や、散策にベストシーズンである。
 昨日も、夕方であるが、数時間過した。蚊がいないのは、実に幸いである。
 散歩は1時間ほどした。やはり、歩くことが大事である。今の考えでは、散歩とは、身体の揺動である。これは、陰陽共振をもたらすのではないだろうか。陰陽共振とは正に、生命エネルギーの賦活と考えられるのである。
 じっとしていることは、陰陽共振が生じないので、陰気になるのである。
 そう、音楽が生命的なのは、律動・リズムという陰陽共振があるからだろう。
 そう、昨日思ったのは、聴覚は闇である。視覚は当然、光の世界である。現実においては、視覚優位である。しかし、聴覚は音楽は視覚、光より深いと言えよう。
 私は視聴覚人間であるが、どちらが強いだろうか。
 私は音楽人間であるが、意外に、視覚人間である。見た目で、人間を判断するのである。
 思うに、音楽は植物的であろう。視覚は動物的ではないだろうか。
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Wed, October 22, 2014
「死の衝動」とは何か:フロイトの「死の欲動」(「死の本能」)

テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌

PS陰陽論は、生命の理論(仮説:もっとも、すべての理論は仮説である)であるが、どうしても、「死の衝動」というべきものがあるように思う。
 確かに、生への志向があれば、死への志向があるのは、バランスから正当である。
 これは、陰陽方程式凹i*凸i⇔±1における←の方向ではないだろうか。つまり、凹i*凸i←±1ではないだろうか。
 凹i*凸i⇒±1が生の方程式なら、凹i*凸i←±1は死の方程式ではないだろうか。
 ならば、死の方程式の力学はどう説明できるのだろうか。
 直観では、作用反作用の力学で説明できそうである。
生の方程式が作用なら、死の方程式は反作用である。
 しかしである。生の志向自体が、天への志向ならば、それは、同時に、死への志向ではないだろうか。つまり、生即死である。
 あるいは、光即闇である。
 太陽即暗い太陽である。
 私は若いとき、真夏の海岸で体験した太陽は、暗い太陽である。陽光は闇である。
 言い換えると、生への欲動と死への欲動が同時に生起するのではないだろうか。
 生きるとは死ぬことではないだろうか。
 セックスは、一種の死であろう。ニルバーナへの回帰だろう。
 とまれ、方程式に戻ると、作用反作用では、生と死は均衡が取れていて、それだけでは、生への欲動が死への欲動より強いことが説明できないだろう。
 思うに、陰陽において、陰の方が陽より強いのではないだろうか。そうならば、生への欲動が死への欲動よりも強いことが説明できるのである。つまり、陰>陽である。
 そうならば、ダークマターが多いというのの説明できよう。
陽=原光より、陰=原闇が強いということである。
 陰陽論は当然、そういう含みがある。
 初めに、玄牝ありきである。
 後で、より哲学的に深めたい。
 

1.
デストルドー - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/デストルドー


* キャッシュ
* 類似ページ
患者はしばしば「死にたい」という言葉を発するが、「死の本能」でなく「死の欲動」と訳す
ことにより、「死にたい気持ちに駆られる」と言わしめるもの、フロイトが「生の欲動」「死の
欲動」の二元論で説明しようとしたものは臨床現場で頻繁に聞かれる「死にたい気持ち」
...
2.
死の本能 とは - コトバンク
kotobank.jp/word/死の本能


* キャッシュ
* 類似ページ
世界大百科事典 第2版 死の本能の用語解説 - S.フロイトの用語。正確には〈死の衝動〉
ないし〈死の欲動〉。フロイトの本能論は,本能の内容は理論的展開とともに変わってい
ったが,つねに二つのものを対立させる二元論である点は変わらなかった。〈死の本能〉
...


2013年07月28日(Sun)▲ページの先頭へ
日本の大地とは何か:縄文的自然:地霊の波動
日本の大地とは何か:縄文的自然:地霊の波動

テーマ:森の哲学:気超科学:ゼロ地場と聖地

今日、最近見つけた貯水池(沈澱池)の畔で過ごした。
 折りたたみアームチェアで、ボーっと過ごした。
心地よい風に吹かれ、また、近くの畑地や遠くの山を見て過ごした。
 弛緩して、半意識状態であった。
 さて、その後、近くのスーパーに行って来たが、途中、地霊ということを考えた。確かに、私が今日過ごした緑濃き土地一帯には、地霊と呼びたいものを感じたのである。
 そう、なにかこわいものである。怖いもの。畏怖すべきものだろう。分厚い強い波動、霊気のようなものを感じた。
 とまれ、緑の大地のこのような力への畏れは、思うに、かつて、奈良の吉野で感じたものに近いかもしれない。吉野では、山地に蠢く龍のような、不気味なものを感じたのである。それは、確かに恐怖であった。
 しかし、今日感じたものは、恐怖というよりは、畏れである。
 合理的知性では捉えられない力の存在である。思うに、これが、縄文の霊なのではないだろうか。
 大陸の合理的精神をもった渡来人は、恐怖を感じたと思う。
 それは、古事記に書かれているだろう。
 また、それは、ゲルマンの暗い森に遭遇して感じた古代ローマ人の恐怖に近いかもしれない。
 とまれ、大地の霊、濃い緑の大地の霊力と言いたいような波動である。気という言葉では弱すぎる。地霊というより、大地霊である。土霊である。

参照:
第25 国譲りという名の侵略を考える前提問題 - point.ne.jp

鈍感な人たちがいまだに国譲りと言う

 さてさて,やっと,国譲りという名の侵略です。実際には,天菩比神(あめのほひのかみ),天若日子(あめわかひこ)が役立たずだったので,建御雷神らを派遣して侵略となるのですが,私は,その全体を,国譲りという名の侵略といいます。

 ところで,一般には「国譲り」という文言が使われています。しかし誤りです。私は,「国譲りという名の侵略」という言葉を使います。その,叙述と文言にあまりにも鈍感な精神が許せないからです。さらに,時代精神にも鈍感だからです。さらに,そうした鈍感さは,世の中に害毒をまき散らすからです。

 古事記にも日本書紀にも,「国譲り」という文言はありませんし,そんなお話など,どこにも書いてありません。

 日本書紀を見てみましょう。そのころ葦原中国は,「多に(さわに)蛍火(ほたるび)の光く(かがやく)神,及び蠅声なす(さばえなす)邪しき神(あしきかみ)あり。復(また)草木咸に(ことごとくに)能く(よく)言語有り(ものいうことあり)」。すなわち葦原中国は,蛍火が輝くような多くの神がおり,蠅のように小うるさい邪神がたくさんおり,草木さえもものを言って人を脅かすような国だったのです。
 そこで高皇産霊尊は,「八十諸神(やそもろかみたち)を召し集へて」,「吾(われ),葦原中国の邪しき(あしき)鬼を撥ひ(はらい)平け(むけ)しめむと欲ふ(おもう)」と述べ,誰を派遣したらよかろうかと問うたのです。

 まるで,鬼ヶ島の鬼退治ですね。未開の地に対する軍事的侵略。キリスト教の看板を掲げたヨーロッパの植民地主義みたい。人類共通のお約束の構図。人間ふぜいがやることは,1000年たっても同じなんですね。

 古事記を見ましょう。天菩比神の次に派遣される天若日子は,天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)という武器を携行します。次の建御雷神(たけみかづちのかみ)は,武神であり雷神です。この神は,大国主神に対して,十拳劔(とつかのつるぎ)を逆さまに立て,胡座をかいて,「汝がうしはける葦原中国は,我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまひき。故,汝が心は奈何(いか)に。」と問いかけます。お前が治めている葦原中国はわが皇子が治める国との命令があったが,お前はどうするんだ,なんていう意味です。内容は,日本書紀も同じようなもんです。

 恫喝そのものですね。現代なら強盗か恐喝か。もっと大きなことを言えば,一方的な宣戦布告です。イラク戦争前夜のアメリカの態度と同じです。

 逆らった建御名方神(たけみなかたのかみ)は,腕をへし折られ,諏訪湖まで逃げていき,生涯そこから出ないと,誓わねばなりませんでした。「恐し(かしこし)。我をな殺したまひそ。」というのが,彼の命乞いです。建御雷神は,高天原に帰り,葦原中国を「言向け和平(やわ)しつる状」を「復奏」したのでした。将軍の凱旋と申せましょう。

http://www3.point.ne.jp/~ama/old/25.html
日本書紀を読んで古事記神話を笑う・初版 - point.ne.jp
by 天 語 人 (あまがたりびと)
日本書紀を読んで古事記神話を笑う - point.ne.jp

今回の改訂新版は,「古事記神話を笑う」という点から,「日本神話を解明する」という点に,軸足が移っている。
 我田引水かもしれないが,論述は,より体系的で,全面的になっている。

 古事記の「へんてこりん」を訴えた初版と違い,日本神話を,ほぼ全面的に論じたものになっている。

 そんなわけで,この改訂新版には,「物語読者として日本神話を解明する」という副題をつけた。


改訂新版の読書案内(1)

 初めて読む方は,

「第19 日本神話の故郷を探る」
「第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)」
「第24 日本神話の構造と形成過程」
「第30 日本神話のコスモロジー」
「第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)」
「第70 古事記独特の三種の神宝」
「第77 日向神話の体系的理解」
「第79 三種の宝物再論」
「第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)」

を,まず最初に読んでいただきたい。

 これで,日本神話の全体像が得られるだろう。

 次に,

「第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない」
「第26 日の神の接ぎ木構造」
「第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語」
「第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ(日本書紀を中心に)」
「第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)」
「第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係」
「第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)」
「第49 オオクニヌシの王朝物語」
「第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)」
「第59 『皇祖』『皇孫』を奪い取る『皇祖神』タカミムスヒ(国譲りという名の侵略の命令者)」
「第61 古事記における命令神(国譲りという名の侵略の命令者)」

 これで,日本神話のたて軸が理解できるだろう。

 古事記に対する批判はいらない,日本神話の全体像をとりあえず知りたい,という方にもお勧めしておく。

http://www3.point.ne.jp/~ama/


2013年07月13日(Sat)▲ページの先頭へ
西日本が日本を変える?:西日本は母権的で、東日本は父権的?:西日本の母権的地霊とスピリット
西日本が日本を変える?:西日本は母権的で、東日本は父権的?:西日本の母権的地霊とスピリット

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私はちょうど20年前頃に、奈良への旅行や九州旅行をした。
 奈良は日本でいちばん好きな場所である。また、九州も好きである。宮崎と鹿児島が好きである。特に、霧島高原は好きである。
 私はそれまで、信州が好きで、あちこち行ったし、また、東北や北海道にも行った。
 しかし、私が魅かれるのは、西日本である。これは感性、感受性の問題である。西日本の人間は、柔らかな感性があると思う。どうも母権的と呼びたいのである。それに対して、関東の人間は父権的と感じられる。
 そして、今、ポスト311の時代である。放射能が東日本を汚染しているのである。
 それと精神風景を考えると、どうやら新しい日本は西日本が創るようである。
 そう、奈良に魅かれることについて述べよう。大阪のベッドタウンとして、痛ましく開発されている奈良盆地であるが、やはり、古代の雰囲気が未だに残っているのがいい。奈良盆地の気が円かでいいのである。しなやかである。気持ちが安らかになるのである。
 それはいいだろう。それより、私にとって再生の地となったことを述べておこう。
 私の精神史の問題であるが、いわば複雑怪奇で説明するのが難しいので、ポイントだけ述べる。
 私は関東の精神的空気、というか、東京の精神的空気をひどく息苦しく感じていたのである。そう、今でも、東京、関東の精神的空気を抑圧的であると感じるが、20年前はそれをとても苦痛に感じたのである。
 有り体に言えば、周囲の人間と私の精神のあり方の違いを痛感していたのであり、そのため、孤立していたのであり、どうにも息苦しく、奈良へ、関西圏へと逃げ出したという感じである。
 そう、新幹線で名古屋まで行き、そして、近鉄に乗り換えて、奈良へ向ったときの車内の柔らかな精神的空気に自由に息ができ、ほっと安堵し、救われたものである。それほど、当時は、感受性が敏感になっていたのである。そう、病的と言えるほど、敏感になっていたのである。(その原因は身体的なものであるのが、後で分かったのであるが。)
 当時は、新宗教ブームであり、奈良の某神社のある地へと数回足を運んだものである。そのとき、確かに不思議な体験をしたことはしたのであるが。(それはあまりに主観的なので、述べても通じないだろうから、言わない。)
 とまれ、その奥吉野のさらに南の奈良の地で、私は喫茶店に居て、当地の人のあたたかな、やわらかな声を聞き、ほっと深く安堵したのである。私の心、魂に安らかに響く声を聞いたのである。あるいは、宿泊した民宿の女主人の真摯な態度にやすらぎを感じたのである。(そう、奈良盆地の旅館の女主人の態度にも安堵した。)
 そう、私は私の心、魂と通じる人たちをその奈良の地に見つけたのである。私の心は癒されたのである。東京の違和感のある精神的空気に苦痛を感じていた私の心は癒されたのである。
 私は心の支えを見出して、私の精神的態度が間違っていないことを確認したのである。
 とまれ、その後、いろいろなことが起きたが、奈良の地での、心の確認は残っていると言えよう。
 結局、今、哲学的に言えることは、西日本には、母権的精神が残っていることである。魂、心が残っていることである。関東、東京の父権的な利己主義とは異なる、日本本来の母権的精神が残っていると思われるのである。
 今年6月に小倉に出張したが、精神的空気に感動したのである。九州の地霊とでも言うのか、それは、母権的と思われるのである。
 今日の狂った日本を蘇らせるのは、西日本の母権的地霊、精神であると思われるのである。 



太陰から陽へ、陽から物質への生成力学

テーマ:不連続太陰イデア論:無双太陰原理

最近は余裕がないし、当分余裕がないので、哲学的科学的考察ができない。
 一言本件について述べよう。
 太陰を中心点とし、陽を円(円周)ないし球(球面)とするのが、今の仮説である。
 そして、陽から物質が生まれるのである。
 これまでは陰陽共振から螺旋生命物質体が生じると考えたが、今はどう考えるのか。
 直観では、陽は物質性を帯びるのである。陽を光(太陽光)とすると、それは、物質的外面を帯びるのである。
 この陽と物質との連関がまだあいまいそのものである。
 作業仮説であるが、円周において、内側と外側を分けてみる。
 内側が陽であり、外側が物質である。
 そう、円を気円とする。これが、原子モデルである。
 とまれ、陽が同一性化し、物質になるとそれは、プラスである。そして、同時に、マイナスが極性として生起する。
 ここでは、電子を考えている。
 プラスは陽子で、マイナスが電子ということかもしれない。
 ならば、原子モデルは円周で形成されるということになる。正確に言えば、円周の外側に原子があり、内側は陽である。そして、中心点は太陰である。
 言い換えると、気円(中心点が太陰で、円周内側が陽)の外側に原子が考えられるということである。つまり、気円の外側が物質であり、内側は気であるということである。そして、気に霊を含めていいのではないだろうか。
 今は問題提起に留める。

追記:円周の外側、内側という言い方はわかりにくい。
 仮に3本、線を書く。

外側________
境界________
内側________

以上、3本は実際は一本の円周であるが、便宜的に、3本に分けてある。
 外側に原子が存し、境界を隔てて、内側に陽、そして、中心点に太陰が存するという概念である。
 境界はいわば、スピリットと物質の境界である。これをどう捉えるのか。以前、MP(メディア・ポイント)という考え方をしたが、これは、ポイントではない。ラインである。
 後で検討したい。

追記2:追記で、ラインの境界を提起したが、果たして、それが必要なのか。一元論なので、不要なようなに思えるのである。


2013年05月13日(Mon)▲ページの先頭へ
ポスト父権的日本へ向けて:新母権的日本の誕生へ:日本人と個:集団的父権主義と個的母権主義
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私が見るところ、現代日本人は、個を排除している。そして、集団原理における自我原理で生きているように見える。
 とまれ、個について、もう一度考えてみたい。
直観で言うと、やはり、個は、個の原理は、肚、陰、陰イデアに存するのである。
 「わたし」の基盤、基底、ベースは肚、陰、陰イデアにあると直感するのである。
 そして、「わたし」が感じる苦しみもそこに存するように思うのである。(喜び、嬉しさもそこだろうか。それは、胸のような気がするが。)
 そう、私は今日も森を散策したが(まるで、低山の尾根道を歩いているみたいだ。ただし、眺望のない。)、森と私は共振している。森は陰である。陰で森と共振するのである。
 もっとも、視覚(陽)は森の姿を捉えているのであり、陰と陽の共振があるのである。森の陰陽共振と私の陰が共振している(私の主体における森の陰陽共振と私の陰陽共振の共振である。共振の共振である。)ということだと思う。
 とまれ、私にとり、森は陰である。それは、イデア的生命である。
 そして、この陰に私の個もあるのである。私と森は陰=個的に連結していると言えよう。
 しかしながら、現代日本人を見ると、陰が欠如しているように見えるのである。
 「わたし」という自我=陽(正しくは、超陽)は、ベースに肚=陰をもっているのである。ここに、「わたし」の個の原点がある。それは、陰陽共振である。ここで、植物的生命(グリーン・イデア・エロース)と調鳴するのである。つまり、陰は、陰陽共振、陰陽イデア、気イデアを指しているのである。言い換えると、気イデア界を指している。というか、気イデア界の分有がそこにあるのである。つまり、気イデア界に陰において、「わたし」は個として、帰属しているのである。
 気イデア界とは、「わたし」の個の本体・本質である。つまり、「わたし」の根源である。
 だから、私が現代日本人に陰が欠落していると見るとき、それは、現代日本人が本体・本質を喪失しているということと同じことになる。
 これは、どういうことなのか。明らかに、個の本体・本質・原基を排除して生きているのである。つまり、本当には生きていないのである。皮相に、物質的に生きているに過ぎないのである。魂が抜けているのである。
 これは、不連続的差異陰陽論から見ると、同一性主義=自我(超陽)によって、陰=他者を排除・隠蔽していることを意味するのである。
 有り体に言えば、他者自体を知りたくないのである。自我、それも集団社会的自我でありたいからである。
 実に軽薄な、皮相な、また、後退した生き方である。サブ・ヒューマンである。
 この同一性主義を肯定するためのなんらかの基準があると考えられる。
 当然、集団的鏡像である。それが、価値判断の基準となっているのである。
 そう、その集団的鏡像の基準であるが、それは、近代的科学・技術と資本主義の物質主義をベースにもっていると考えられる。そう、唯物論である。正しくは、唯物教、唯物崇拝であるが。
 つまり、唯物的集団的自我が現代日本人の主体の基調である。
 問題は集団主義である。この根源は何か。
 集団主義とは自他未分化様態を意味するだろう。
 では、自他未分化とはどういう力学をもつのだろうか。
 ここでこれまでの考えを言うと、集団主義は弥生農耕文化社会の産物であったので、一種の母権主義であると考えていたのである。
 しかし、今、ふと、自他未分化とは、父権主義に拠るのではないのかと思えたのである。
 母権主義は、陰をベースにするので、陰陽共振があるので、自他は未分化ではない。
 ならば、弥生農耕文化の母権的集団主義は、自他未分化ではないということになる。
 だから、私の視点を訂正する必要がある。集団主義は必ずしも自他未分化ではない。自他未分化の集団主義と自他分化の集団主義があるということになる。
 ということで、問題は、唯物的自他未分化的集団的自我の問題となる。そして、自他未分化的集団主義は父権主義と考えられるのである。
 故に、唯物的父権的集団的自我が現代日本人の主体ということになる。
 だから、父権的集団的鏡像が価値判断基準ということになる。
 端的に言えば、父権主義的鏡像である。つまり、父権的価値ということである。父権的イデオロギーである。
 強固な父権主義があるということになる。
 結局、現代日本人に陰が欠落しているということは、とりもなおさず、父権中心主義が支配しているということになるのである。そう、今日、若者を見ると一見、女性がイニシアティブ、主導力をもっているように見えるが、実は、女性が父権主義を模倣しているということだろう。倒錯なのである。決して、母権主義ではないのである。
 結局、現代日本人が個を排除しているということは、父権主義が支配していることが原因ということになったのである。
 自我(超陽)は、陰、陰陽共振、気的イデア界、根源界、母権原理を恐れるということなのである。
 結局、私の持論をまた証明することになった。つまり、近代日本は、父権的民族の日本人が作ったのであり、母権的民族の日本人は抑圧・排除されていることになるのである。
 日本人は本来は後者である。父権的民族の日本人は、本来的ではないのである。それは、外来種である。しかしながら、それは、一つの要素である。
 現代日本の超危機は日本民族本来の母権的民族が排除、隠蔽されているということである。
 そう、この父権的民族支配は、実は、某国による日本の植民地支配によって強化されていると言えよう。
 日本内部の父権主義と外部の父権主義が結合して、日本本来の母権民族性を抑圧・排除・隠蔽しているのである。
 ここに亡国の超危機があるということになるのである。
 後で整理したい。


2013年05月01日(Wed)▲ページの先頭へ
エウレカ!:日本そして地球世界の超危機の本質:仁・倫・道命美日本・世界・宇宙革命進化へ
テーマ:仁・倫・道命美日本世界宇宙革命進化

D.H.ロレンスの『ヨーロッパ史の大変動』を読んでいるが、たいへん面白い。というか、精神が激しく刺激される名著である。
 とまれ、ローマ帝国やヨーロッパ初期におけるキリスト教の歴史は実に刺激的である。政治が腐敗し、道徳・希望をもっていたのは、キリスト教だけであったということは、それなりに知っていたつもりであるが、改めて確認して、刺激を受けた。
 そう、キリスト教が勃興した理由は、道徳の問題なのである。
これは正に、今日の日本の問題に当てはまると感じた。キリスト教云々ではなく、道徳の有無の問題である。
 今日、日本の超危機の原因は、道徳・倫理の欠落にあるとはっきりと見えたのである。目から鱗が落ちるように明確に見えたのである。
 私の個人的、社会的周囲の問題も、それであることがわかったのである。悟ったのである。
 日本の政治、経済、司法等の腐敗の原因は道徳心の欠落にあるのである。結局、我欲我執で、倫理を捨て去っているのである。言い換えると、悪魔に魅入られているのである。
 そう、日本社会全体において、道徳・倫理・人道の欠落・欠如・欠損が見られると思う。
 悪魔が取り憑いているのである。そう、私自身の悩みも理由がわかった。私自身における倫理・道徳・人道の欠落があり、それを悟らせるために、苦悩してきたと思えるのである。エウレカ!である。
 そして、引いて言えば、地球世界の超危機の本質も同じである。これは、悪魔的金融資本主義に拠るのである。経済システムがエゴイズム・悪魔主義なので、必然的に人間も無道徳・無軌道になるのである。無道・無法・無徳の世界である。
 エゴイズム資本経済から、共同体資本経済へと進化する必要がある。
 そのためには、先ず、物質主義科学・哲学を乗り越える必要がある。そのために、不連続的陰陽論は役に立つのである。
 これまで、陽=自我としてきたが、実はこれは近似値的である。本当は、自我は超陽である。超陽としての自我があり、それが、陰である他者を排除するのである。超陽とは悪魔(アーリマン)である。
 ポスト唯物論であり、陰陽論のルネサンスが必要である。それもプラトン哲学と結びついた陰陽論であり、また、不連続的差異論をベースにした陰陽論である。つまり、

不連続的陰陽イデア論=不連続的差異論+陰陽論+プラトン哲学
 
である。
 この認識革命をともなって、経済革命も為されなくてはならない。簡単に言えば、陰陽論経済というものが考えられるのである。それは、共同体資本経済である。自然の枠組みにおける資本と労働の共振経済である。
 今はざっと指摘するに留める。

追記:現代日本人の表情や姿が空ろであったり、醜いのは、道徳心が抜けているからである。仁美、倫美、道美が欠落しているのである。
 集団主義が個の自立を阻害しているのである。自我はあるが、個がないのである。
 私が今、感じていることを一言言えば、果たして、近代において、どれほど、日本における独創的な文化があるのか。
 愚痴になるので、これ以上言わない。
 結局、どうして、日本人は倫理・道徳を喪失したのか。これは私自身を含めて問うことである。
 思い浮かぶのは、科学・技術と結びついた資本主義の物質主義に染まってしまい、自我中心主義になって、仁美を喪失したと思うのである。道徳・倫理は躓きの石である。私は大いに躓いた。誰が躓かないだろうか。
 そう、倫理・道徳において、イエス・キリストは生きているのである。キリスト教は仁美・倫美・道美教である。

追記2:仁美、倫美、道美もいいが、仁命、倫命、道命の方が的確だろう。あるいは、仁命美、倫命美、道命美である。

追記3:自我は超陽であると言ったが、視覚主義、視覚中心主義も一種、超陽であろう。あるいは、自我よりも、強く超陽かもしれない。これについて少し考察してみよう。
 視覚はほとんど自我と結びついていると言っていいだろう。光の問題であり、光は陽が陰に自己反射したものであり、それは、同一性の枠をもっているのである。つまり、陰自体は知覚できないのである。そして、自我は超陽であるから、陽の光を誇張する傾向にあると思われる。つまり、反射鏡である陰を離脱して、陽の光を独り歩きさせてしまう傾向が出てくると思われるのである。言い換えると、根源の陰陽共振を阻害して、超陽としての光の帝国が生じるように思えるのである。
 そう、正に、光の帝国主義である。陰である他者が排除され、道徳・倫理が喪失されるのである。
 自我=超陽の光の支配に拠る、根源・本質を喪失した、無道・無軌道・無徳の世界の出現である。端的に、人間は悪魔(アーリマン)化するのである。
 とまれ、視覚主義の悪魔主義を矯正するには、やはり、陰=肚への回帰が必須である。
 陰陽イデア体(頭・胸・肚の三位一体)としての主体を形成する必要があるのである。


参考:
D. H. ロレンスの『欧州史における動き』のエピローグは現代日本人へ ...
http://d.hatena.ne.jp/antares/20110926

2011年9月26日 ... 以下、Google BooksからD. H. ロレンスの学校テキスト用の欧州の歴史の一部を読む
ことができる。実に洞察力に満ちた、 ... D.H.ロレンスのヨーロッパ史のうねり D.H.
ロレンス、D.H. Lawrence、 増口 充 (単行本 - 2000/3). 新品 : ¥ 5,040 ...

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2013年02月06日(Wed)▲ページの先頭へ
日本主義経営経済とは母権主義経営経済ということである:父権主義経営経済が日本をだめにした
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

以下、二つは、私が口を酸っぱくして提唱する日本母権主義の実像である。
 これは、肚=陰をベースにした個的共同体主義という日本伝統の叡知である。これは、直感的なもの、ほとんど本能的なもので、一般化されにくいことである。
 無双陰陽原理の経営・経済応用はこのような日本母権的経営・経済主義となるのである。
 日本人は己を知らない恥ずかしい民族である。自己喪失・自己忘却・祖先忘恩の民族である。

追記:結局、持論では、日本民族は、大きく二つの民族から形成されているのである。即ち、ベースの母権民族とその上部に定着した父権民族である。
 日本民族は単一民族であるという「神話」、つまり、誤謬・イデオロギーに洗脳されていると言えよう。
 このまったく毛色の異なる民族が混成しているのが、日本民族である。つまり、日本多民族である。(母権民族は、私見では、縄文民族、弥生民族、ツングース系民族、海洋民族、そして、ケルト民族、他である。そして、父権民族は、ある中国民族と失われたイスラエルの十支族のユダヤ民族、他である。注意:これは仮説、作業仮説に過ぎない。当然、史的認識・思考・洞察が深まれば、修正したり、新たに仮説を立てることになる。これが、科学というものである。)
  わかりやすく二分すると、肚の精神文化民族と頭の自我文化民族である。
 本当の叡知は前者にあるのであり、後者は権力を奪ってきたのである。
 とまれ、今は簡単に持論を再説するに留める。

* 2013/02/05 : 美しき日本の心 : 「人件費倒産なら本望だ」  経団連の皆様、一読して、 爪の垢でも煎じて飲んだどうだ 「男たちの履歴書」 早坂茂三集英社文庫 


「男たちの履歴書 いかにして道をひらくか」 早坂茂三著 集英社文庫 

田中角栄元首相の敏腕秘書として誉れの高かった早坂茂三さんの本に、これぞ日本的経営!という素晴らしい文章がありました。

 山形で創業三百年余り、先祖代々の“諸国旅人御宿”を営んできた萬国屋という旅館の話です。

 会長いわく、 「人件費倒産なら本望だ!」
「私がいつも言っているのは『社員の幸福なくして企業の繁栄はない』ということです。

働く人が一番大切です。私は社員を倖せにしたくて経営してるようなものです。これは若いときの(社会主義思想、社会正義の)考えを経営者になっても役立たせたいと思ったからです」。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-556.html

* 2013/02/05 : 明るい真実 : そうなんですね。日本企業の強さは企業と社員の絆だった。   Richard Koshimizu's blog H.25/02/05

正社員を減らして派遣だらけにすれば、人件費は下がるけれど、従業員の企業への帰属意識・モチベーションは下がる。

「製造業への派遣労働解禁」がユダ金による日本弱体化の手口であったわけです。

 おかげで、日本企業は「人件費の安さ」で三等国家と競うダメな国に落魄れたわけです。

 また、「年功序列」は社員の企業への帰属意識を高め、当然ながら、貢献度を引っ張り上げた。企業はその見返りに一生の生活を保証した。結果、多くの人が人生をひとつの企業で過ごした。みな、その企業の社員であることを誇りに思った。企業と濃密な関係をもつ社員は徹頭徹尾企業のために身を粉にしたから、戦後の高度成長が達成された。

 そして、三井物産や三菱商事や日商岩井に入るために一生懸命勉強していい大学に入ろうと皆が努力した。競争があるからこそ、日本人の知的水準が押し上げられた。

 ごく単純に日本人がモチベーションを取り戻せば、日本は簡単に世界一に回帰できます。

 大して難しいことではありません。何しろ、我々は日本人なのですから。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-3349.html
『文殊菩薩(ブログ版)』


2013年01月11日(Fri)▲ページの先頭へ
マニ教の本質:悪とゆるし:マニとキリスト:罪悪の許しとは何か
テーマ:霊学:シュタイナー精神学

今日的に最高度に重要な論説なので、全文転載させていただく。
 今は簡単に触れるだけである。
 姦淫を犯した女を人々が責めているとき、キリストは、罪のない人は女を打つがいいとようなことを言ったと思う。
 確かに、人間で、罪、悪、罪悪のない人間がいるだろうか。ただ、程度が人によって異なるだろう。
 悪魔的罪悪を為す人間もいれば、イジメをする人間もいるし、ちょっとした盗みをする人間もいる。
 結局、人間はすべて、多かれ少なかれ、罪人、悪人である。
 ここで、キリストの罪の許しの教えのもつ本質的鋭さ深さ(深鋭さ:造語)がある。
 シュタイナーは以下のように、マニ教のもつキリスト原理(罪の許し)を説いている。
 そう、結局、人を責めるより、人の罪悪を認識しつつも、許す視点が決定的に重要だろう。
 悪魔も許すのだろうか。そう、悪魔的悪を為す悪人は、自分が悪をしているのをおそらく知らないのである。あるいは、悪と知りつつも、欲望のために、悪を為すのであるが、その欲望も永遠ではなく、いつか衰えるのであり、悪も減衰すると考えられる。
 結局、悪から善への道が、万人に開けているということではないだろうか。悪人正機説ではない。悪人善機説である。


第二章 四 マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ @ ...

一)歴史におけるマニ教の流れ

 前回の■三■では、ゾロアスター教のゾロアスターとキリスト教との霊的な繋がりと、その後の中国・日本における仏教や弥勒信仰への影響、さらには弥勒信仰と出口王仁三郎の関連性をおおまかに辿ってきました。

 そこで、■四■では、ゾロアスター教と深い繋がりのあるマニ教を掘り下げることで、クリスティアン・ローゼンクロイツの創始した薔薇十字会とシュタイナーの人智学に至るまでの経緯をおおまかに辿ってみることにいたします。

 三世紀にペルシアの人物、マー・マニ(二一六―二七六)によって開教されたマニ教と呼ばれる宗教があります。マニ教はゾロアスター教を母体とし、これにキリスト教の異端とされてきた神秘主義的な教派であるグノーシス派の影響を受けているとされます。
 
 一般的な観点では、マニ教はゾロアスター教と同様、すべてに善悪、明暗といった二次元的対立を主張する二元論で、この現実世界は悪魔によって創造されたと考えていたとされています。したがって、人間の肉体は穢れたものであり、そのなかから唯一の心的なものである霊魂を一刻も早く離脱させなければならないとし、この世界はやがて巨大な炎のなかで滅びると予言したともいわれています。

 そのため、マニ教は、マニの生前からササン朝によって迫害され、最終的にマニは処刑され、その皮ははがされ、藁を中身に詰められ、城の門にぶら下げられたと伝えれています。
 
 その後、歴史的には中世キリスト教の異端であるカタリ派(南フランス)やボゴミール派(バルカン半島)が、マニ教の影響のもとに成立したといわれています。また、中国の北宋末期の農民指導者である方臘(ほうろう)の反乱に参加した「喫菜事魔(きっさいじま)」という秘密結社も、マニ教の一派とされています。そして、マニ教は弾圧を逃れるために、明教と名を改めて中国にも伝えられます。

 こうして、マニ教はミトラ神話を受け入れたゾロアスター教と似た形をとりながらも、秘教的な要素を強めながら、仏教やキリスト教といった諸宗教に影響を与えていったとされています。

 (二)につづく
http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63363999.html



第二章 四 マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ A ...

(二)「寡婦の息子」と呼ばれたマニとオシリスとイシスの秘密
  
 シュタイナーの講義におけるマニ教の概要を記すと、おおよそ次のようになります。

 西アジアの地方の博識な商人が、四巻の著作をペルシア人の夫人に託して他界してしまいます。それによって寡婦(かふ:未亡人)となった夫人は、身代金を払って自由にしてやった奴隷に、こられの著作を残すのですが、その奴隷が、マニであったというのです。また、マニはミトラ教の秘儀も伝授されており、こうした経緯から宗教活動をはじめることになります。
 
 当時、人はマニを 「寡婦の息子」 と呼び、マニの信者を 「寡婦の子たち」 と呼んでいたといいます。
さらに、マニ自身は自らをヨハネ福音書の助け主(聖霊)を意味する「パレクレート」と名付けたとしています。このパレクレートとは、新約聖書ではヨハネ福音書・第十六章で、キリストが遣わす弁護者のことであり、「父上から遣わされた者」という意味もあるとされています。

 博識な商人(四巻の著作を残して他界)
   ↓
 証人の妻(寡婦となり、奴隷に夫の著作を託す) 
   ↓
 寡婦の奴隷 → マニ自身   → 寡婦の息子
            マニの信者 → 寡婦の子たち

 シュタイナーは、マニが「寡婦の息子」と呼ばれたことには、霊的に深く重要な意味が秘められているとして、次のように語っています。

 「すべての秘教においては、魂は『母』と呼ばれました。指導者は『父』です。父と母、オシリスとイシスは、魂の中にある二つの力です。直接に流れ込む神的なものをあらわす指導者は、オシリス、すなわち父です。

 魂自身であるイシスは妊娠し、神的なるものをみごもります。彼女は母です。さて、第五根幹人類期の間に、父は退きます。魂は寡婦になります。寡婦になるべきだったのです。人類は自分自身に頼らざるをえないのです。人類は自己の魂のなかに、自分自身を導くための、真実の光を求めなければなりません。魂的なものすべては、以前から女性的なものとして象徴化されてきました。

 ですから、この魂的なもの―――今日は萌芽状態にあり、やがて完全に発展するもの―――、この自分自身を指導する魂的なるものは、もはや神的な配偶者をもっていません。それでマニは(信者を)『寡婦の子』と呼んだのです。そして彼は自分自身を『寡婦の息子』と呼びました。」 (神殿伝説と黄金伝説)
 
 シュタイナーは、こうしたマニの思想を人類の未来(第六根幹人類期)を準備するためのものであったとしています。しかし、それは当時のキリスト教にとっては受け入れ難いことであり、そのためにアウグスティヌスによってマニ教は弾圧され、マニ自身も処刑されたのです。
 
 魂の指導者 → 父・オシリス → 第五根幹人類期の間退く。
 
 魂自身 → 母・イシス → 夫(指導者)を失って寡婦となる。→人間は寡婦の子(指導者を失った魂)となる。
                                        →自ら真実の光を求めなければならない。
 
 また、この 「父と母、オシリスとイシスは、魂の中にある二つの力です。」 というシュタイナーの見解は、王仁三郎が霊界物語の中で 「人間には日の大神と、月の大神の霊魂を賦与されて、肉体は国常立尊の主宰として、神の御意志を実行する機関となし給うた。」 (霊界物語・第一巻・第十二章)と口述した内容との関連性を感じさせます。

 R.シュタイナー  ・・・・・・ 父(オシリス)  と 母(イシス)  → 人間の魂の中にある二つの力

 出口王仁三郎   ・・・・・・ 日の大神(厳) と 月の大神(瑞) → 人間の霊魂に付与されている

 そして、日の大神の化身である国常立大尊は悪神によって引退を余儀なくされ、人類の指導的立場から退くという経緯も、人智学的なオシリスの洞察と一致しているのです。

     父(オシリス;魂の指導者) → 悪神(セト)によってバラバラにされ、川に流される
                       → 死後の世界の裁きの神となる
                       → 現実界は「寡婦の息子」であるホルスに託される     

     日の大神(国常立尊)    → 悪神によってバラバラにされ、艮に引退する
                       → 艮の金神(幽冥会の大王)となる
                       → 現実界は素盞鳴尊に託される

 そして、このマニ教における「オシリス」「イシス」「寡婦の息子マニ」という言葉は、大本における「大国常立尊(厳魂)」「豊雲野尊(瑞魂)」「須佐之男命(伊都能売)」という関係にも重なってくるのです。(本章■七■(七)、■八■(二)参照)
http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63364162.html
第二章 四 マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ B ...
(三)シュタイナーが語ったマニ教の本質

 マニの教えは、光神に闇の神が反抗するという経緯を語っており、その意味では先にご紹介したミトラ神話に類似しています。

 しかし、シュタイナーはマニ教ではこの世の起源は光の国の霊が自らの国の一部を取って、闇の物質の国に混ぜたことに起因するとしています。そして、この光の国の霊が闇の中に光を混ぜたことは、闇の国の悪霊にとっては、光の国を侵略しようとしたことによって生じた「マイナスのカルマを清算する目的」を兼ねているというのです。

 それによって、闇の世界は、その中に絶えず自分を消耗し、自分を破壊する芽を担うことになり、それに伴って生と死が生じたのだとしています。そして、人類はその闇を克服するために、光の国から善悪が混ぜられた国に送られる存在となったわけです。
 
 このことからマニ教では、 「光の一部が悪の中に入ることによって、闇の国は光の国によって罰せられるのではなく、むしろ寛大さによって征服されるべきである」 という洞察がなされたのだとシュタイナーは捉えています。つまり、人間においても「善者は悪を追放するのではなく、寛大さによって悪そのものを克服してしまうべきである」ということになります。
 
 例えば、シュタイナーは、こうした悪の寛容について次のようにも述べています。
 「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に目を向けてみましょう。この絵を前にすると、地球の意識を目のあたりにしているようです。この絵にはキリストが描かれています。『最後の晩餐』の意味を理解するために、マタイ福音書の次の言葉を思い出しましょう。


 『供犠の死を避けて通ろうと思えば、私に全ての天使の長を呼び寄せられないことがあろうか。』(第二十六章・五十六)このとき、キリストが受け取ることができたものは断念されたのです。キリスト・イエスは断念を通して、裏切り者ユダを自分の領域に入らせました。ユダの中に見ることのできるものをイエスの中に見るとき、私たちは宇宙進化の中で供犠を断念した、断念を本性とする存在の似姿を見なければなりません。


 ―――神々が太陽紀に断念を通じて敵対者(アーリマン)を生起させたように、キリストはユダを使徒に加えていなければ避けられた死を、諦念のうちに受け入れるのです。断念という行為が繰り返されるのです。キリストは十二使徒とともにあり、十二使徒の一人ユダが裏切り者として立ち上がるのです。

 あたかも、宇宙の諸力への反逆者の出現のようにです。人類の進化にとって非常に価値のあるものを導入するために、キリストは自らの敵対者を作る必要があったのです。」 (薔薇十字会の神智学)

 このように、マニの教えは悪に屈するのではなく、キリストがユダの裏切りを断念し受入れたように、悪を寛容し受け入れることによって悪を克服することを意図していたのです。
 
 では、キリストが敵対者を作り、悪を受入れることによって導入することができる 「人類の進化にとって非常に価値のあるもの」 とは何でしょうか。それは、神の光という恩恵を受けながらも、悪によって個我に自由を与えられ、その自由の中で悪に対する寛大さ、つまり「愛」と「赦し」を学ぶことであるはずです。同時に、悪を克服して「愛」と「赦し」を獲得できるまで人間が無制限に悪に落ち込まないようにするためにカルマの法則があるといえます。

 シュタイナーは次のようにも述べています。
 「自由がなければ、愛の行為が崇高な在り方を示すことはできません。無条件的に衝動に従わねばならない存在は、まさにそれに従って生きています。勝手なことを行うことのできる存在にとって、従わねばなぬ衝動はただ愛だけなのです。自由と愛は、互いに結び合うことのできる両極です。

 私たちの宇宙の中で愛が成就すべきであるなら、それは自由を通してのみ、すなわちルツィフィル(ルシファー)を通してのみ可能なのです。そして同時にまた、人間の救済者であり、ルツィフィルの克服者でもあるキリストを通してのみ、可能なのです。」 (霊的宇宙論・進化の目標)

 そうして、人間は善悪、正邪、美醜、真偽といった多様性を保持しながらも、自らの意志によって善悪を理解するようになり、自分の意志で善を愛し、道徳を重んじるようになり、最終的には善悪を超越した存在としての「大愛」なる神に近づいてゆくのだと捉えることができます。
 
 それでは、悪とは何なのかと問うならば、シュタイナーは悪に対する認識を次のようにも語っています。

 「ある時には非常に優れた善であるところのものが、さらに自己を保持し続けるならば、それは硬化したものになり、進歩を妨害することで善に反抗し、疑いもなく悪になってしまいます。

 たとえば、月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうならば、その諸力は、その後の発展にも介入し、そのことによって地球紀の発展の中で、悪を現すことにちがいないのです。
 
 そのように、悪は神的なるもの以外の何ものでもありません。なぜなら、場違いな時の悪は、かつての時代においては、完全なるもの、神的なるものの表現であったものだからです。」
 
 ここで「月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうならば……」というのは、月紀において運動霊ディナミスが、天上の戦いによって太陽と月の霊に分裂したことを示しています。
(本ブログ:シュタイナーを読みために ・ シュタイナーの哲学体系【B】進化から逸脱したヒエラルキアを参照)。

 これによって、月紀には進化から取り残された霊が出現し、その霊が地球紀のレムリア時代から堕天使ルシファーという悪魔の働きをするようになったのです。同様にアーリマンも、太陽紀において堕天使となった存在なのです。
 
 一方、霊界物語十三巻の「モノログ」には、 「仁慈無限なる神様の方より、天地間の万物を御覧になった時は、一さいの神人禽獣虫魚草木にいたるまで、一として善ならざるはなく、愛ならざるはないのであります。ただ、人間としての行為の上において、誤解より生ずる諸多の罪悪が不知不識のあいだに発生しそれが邪気となり、天地間を汚濁し曇らせ、みづから神をけがし道を破り、自業自得的に災禍を招くにいたるものであります。」 としています

  そう考えることができるなら、ディナミス(運動霊)以上のヒエラルキアにとっては、こうした悪的存在は人間の個我を成長させ、愛と赦しによって真の自由を獲得させるための存在であり、究極的には至善至愛の神意が秘められているともいえるのです。

 それは、第一章で取り上げた素盞鳴尊の多様性が善であることをも意味しているはずなのです。王仁三郎は、昭和十九年三月に、 「神は偽悪だ。悪に見せて大善をなす。」と語ったといいますが、この言葉もこうした洞察によるものから発せられたのかもしれません。

 実際、シュタイナーも神と悪の存在について、次のようにも語っているのです。
 「神々が断念していなかったらなら、ルツィフィル(ルシファー)は神々に反逆することができなかったでしょう。――中略――

  悪の原因は悪魔の中にではなく、神の中にあるのです。神が断念を行うことによって初めて、悪を世界にもたらす霊が出現したのです。――中略――

 神々は悪を斥けませんでした。悪のみが自由を与えることができるのです。神々が悪を斥けていたなら、世界は単調な、変化に乏しいものになっていたでしょう。自由を賦与するために、神々は世界に悪を出現させねばなりませんでした。そして、悪を再び善に戻す力を獲得しなければなりませんでした。この力は断念によってのみ得られるです。」 (薔薇十字会の神智学)
 
 そして、シュタイナーは、黙示録の講義の中で、マニについて次のように語っています。
 「いつか偉大な教育の課題を解決するために、このような教えによって魂の準備をされた者たちが、マニ教という精神の方向の弟子たちです。

 マニ教は普通は誤って理解されています。マニ教について聞いたり、読んだりすると、紋切り型の話しを聞くことになります。マニ教徒たちは世界の初めから善と悪という二つの原理があったと信じていた、というのです。そうではありません。

 マニ教は未来において、悪を善に変えるためのものであり、マニ教の弟子たちは、将来の受肉において、その課題をなしとげることができるのです。マニはくりかえし地上に受肉する高次の人物であり、悪を改心させるために存在する人々の指導者なのです。人類の偉大な導師たちのことを語るとき、悪の改心という課題を担ったこの人物のことも考えねばなりません。

 現在では、霊的なことがわずかしか理解されていないので、マニの原則は背後に引っ込んでいますが、精神生活に対する理解が深まれば、この偉大なマニ教原則は多くの弟子たちを獲得していくでしょう。」 (黙示録の秘密)
 
 この講義では、後アトランティス時代から、次の第六根幹人類期に移行するまでの間、霊的に善人が道徳性に貫かれ、悪人が内面的悪を外的な容貌として露呈させる時代が到来するとも語られています。

 さらに、マニとその弟子たちに代表される者たちは、この時代に「悪を善に改心させるための準備」をしている存在であるとしているのです。こうしたシュタイナーのマニに関する洞察は、霊界物語の中で善と悪が繰り広げる一連のストーリーを連想させます。実際、霊界物語では神の教えを人々に伝える宣伝使の言葉は、悪を善に変えるために改心を即すのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63365673.html

第二章 四 マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ C ...

(四)クリスティアン・ローゼンクロイツと薔薇十字会の霊的経緯

 シュタイナーは、薔薇十字会の起源について興味深いことを語っています。ここでは、「薔薇十字会の神智学」の「あとがき」として日本の人智学者・西川隆範氏がまとめた内容を基に説明してゆきたいと思います。

 西暦四世紀、後アトランティス時代の菩薩たちの叡智すべてを人類の未来に流し込む計画について話し合うために、霊的な次元でマニはスキティアノス、ゾロアスター、仏陀の三人を呼び集めます。
 シュタイナーは、彼らについて邦語訳書「仏陀からキリストへ」の講義の中で、次のように述べています。

@ スキティアノス: 「アトランティス時代の人々は霊視力をもっており、理解を見ることができました。この霊視力は発達を続けることができず、西洋人は霊視力を失ってゆかねばなりませんでした。霊視力は当時、世間から隠れて生きていた人物に管理されていました。この偉大な秘儀参入者が弟子たちと共に世間から隠れて、アトランティスからもたらされたものを後の時代に保管していたのです。この高次の秘儀参入者、肉体の秘密を伝えるアトランティスの太古の叡智の保持者は、中世初期、スキティアノスという名前で知られました。ヨーロッパの秘儀の本質を知っている者は、スキティアノスとう名前が地上の最高の秘儀参入者を指すものであることを知っています。」

A ゴータマ仏陀: 「霊的な観点から観察すると、地上には菩薩と呼ばれる存在が昔から生きていたことが分かります。この菩薩は西洋に於ける任務を果たした後、紀元前約六百年にゴータマ仏陀に受肉しました。人類の師として東洋に赴いた存在は既に高度に進化を遂げていまいた。この菩薩が第二の偉大な導師、秘儀の封印の管理者、ゴータマ仏陀となった存在です。」

B ゾロアスター:「第二章 ■二■・■三■を参照」

C マニ : 「第四の人物も良く知られていない人部分が多いのですが、スキティアノス、仏陀、ゾロアスターの三人よりも大きな存在がマニです。マニは、マニ教徒が考えた以上に偉大な、キリストの使者です。」

この四人の会合で、後アトランティス時代の菩薩の叡智のすべてを薔薇十字の秘儀の中に保管伝、伝承されることになりました。
「薔薇十の秘儀には常にスキティアノス、仏陀、ゾロアスターが行き来しました。彼らは薔薇十字会の学童の導師となり、叡智を地球に送りました。彼らの伝授する叡智を通して、キリストの本質が把握されるのです。」

・・・

http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63387903.html
地球の救い方・・・R.シュタイナーの人智学に学ぶ


2012年07月28日(Sat)▲ページの先頭へ
二つの母権:縄文的精神と弥生的精神:個の精神と集団の精神:「天皇」仮説:東洋の母権・父権的王
二つの母権:縄文的精神と弥生的精神:個の精神と集団の精神:「天皇」仮説:東洋の母権・父権的王

テーマ:二つの日本民族:母権民族と父権民族

Primitive Mythology: The Masks of God, Volume I/Penguin Books
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途中で読書が止まっていた神話学の本の続きを少し読んだが、旧石器時代はシャーマンによる「個」の精神の時代であったが、新石器時代は、農耕に伴う「グループ」(集団と見ていいだろう)の精神の時代であったというようなことが書かれてあったが、実に新鮮な視点であった。
 狩猟・採集の時代である縄文時代は、それに倣えば、「個」の時代であり、農耕の時代である弥生時代は、「集団」の時代である。
 そして、私の分類では、どちらも、母権文化である。
 私はこれまで、日本民族を母権民族と父権民族に分けて考えたが、前者における「差異」を見るべきだと思う。
 これまでの国家に従順な国民は、「集団」的国民であり、それは、弥生時代の精神を継承しているとしよう。
 それは、自己否定的に、陰・凹iへ、言わば、傾斜しているタイプと考えられる。
 個とは、先に述べたように(個とは何か:太極・MP・霊愛的陰陽均衡点に個が存する:個とは他者と自己の陰陽均衡である (07/13) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1842.html)、自己と他者との陰陽均衡に存するのであり、それは、太極・MDに帰属するのである。
 とまれ、日本民族は、母権的民族として、縄文的民族、弥生的民族と父権的民族との混淆であるというように見た方が適切と考えられる。
 結局、江戸時代の封建制と明治維新の父権的中央集権主義と戦後民主主義は、縄文的精神を抑圧して、父権的権力が弥生的集団主義の国民を支配してきたと言えるのではないだろうか。
 国民が集団主義なので、父権的出鱈目がまかり通ったということなのだろう。
 後で、もう少し丁寧に論説したい。 

追記:日本に渡来した母権民族で忘れてならないのは、飯山一郎氏が説く大陸北方からのツングース系民族である。(参照: 飯山一郎の古代史 http://grnba.com/iiyama/html/16kodaisi.html)
 古代朝鮮の神話を見ると、明らかに、母権的文化であることがわかるのである。(参照:日中韓三国通史
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/index.htm
高句麗の歴史
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/koukurigaisi/koukuri-tsusi-mokuji.htm)
 ただし、日本に渡来(侵入?)した父権的民族がよくわからないのである。中国からの父権民族、あるいは、イスラエルの失われた十支族の父権民族、又はその他か、浅学・管見で不明である。
 以前の仮説では、北方から渡来した民族は、母権と父権の混淆したものであった。
 景教も関係するかもしれない。
 ところで、これまで、日本父権主義を激しく批判してきたが、上記の視点から新たに考えられることは、弥生的集団的母権民族と父権的民族が混淆して、日本人の精神には、集団主義と父権主義の混淆が存するということであり、日本父権主義とは、純粋な父権主義ではなく、集団主義的側面をもつということになると考えられる。
 この、言わば、集団主義的父権主義は、最低最悪のものと考えられる。どうも、日本父権主義とは、そのように見た方がいいようだ。
 後で丁寧に考察する必要がある。
 まとまりのない論説になったが、最後に一言、直観的予見を記しておきたい。
 つまり、古墳時代の問題である。前方後円墳は一体、どの民族のものなのか。それは父権的民族のものなのか、母権的民族のものなのか。私見では、後者である。
 しかし、問題は、王の捉え方である。王は母権的王と考えられる。端的に言えば、太陽神を体現する「天皇」である。
 いったい、前方後円墳の王(「天皇」)は、農耕民族の王なのか、それとも、遊牧民族の王なのか。(モンゴル民族的な遊牧民族の渡来が考えられるのである。) それとも、狩猟・採集民族、つまり、縄文民族の王なのか。(この問題は、ずっと、私の心の中で、問うてきたが、謎のままである。)
 あるいは、母権民族の王ではなく、父権的民族の王、例えば、イスラエルの失われた十支族の王なのか。
 現時点での、作業仮説を言えば、前方後円墳の王(「天皇」とは、農耕民族と(母権的)遊牧民族と父権的遊牧民族、三民族の三重の王である。
 そして、排除されたのが、狩猟・採集の王である。それは、端的に、縄文的民族の王(「太陽神」・太極)である。言い換えると、個の王が排除されたのである。
 とまれ、三民族三重王としての「天皇」が権力・権威の中心となるが、思うに、好戦的な父権的民族がそれを利用するように日本国を支配するようになったのではないだろうか。それが、記紀、とりわけ、日本書紀に現われているのではないだろうか(撃ちてし止まん)。
 本来、母権的民族の王である「天皇」が父権的民族によって利用されたのではないだろうか。
 しかしながら、やはり、「天皇」は三民族三重王である。混淆的王である。
 とは言え、排除された縄文的民族の「王」が、根源的に日本人の精神の内に存しているのではないだろうか。
 そう、表向きは、三民族三重王とは言え、民衆は、そこに縄文的民族の王を見ていたのではないだろうか。
 つまり、四民族四重王としての「天皇」である。しかも、縄文的王が中心である。
 とまれ、以上の作業仮説からすると、前方後円墳の王である「天皇」はきわめて複合的な存在であり、思うに、東洋・アジアの統合的王と言えるのではないだろうか。
 簡単に論点を整理すると、前方後円墳の王は、農耕民族、母権的遊牧民族、父権的遊牧民族の三重の王である「天皇」であり、そのとき、縄文的民族の王は排除されている。しかしながら、民衆は縄文的王をそこに見い出しているのである。つまり、実質は四民族四重王であり、縄文的王主導のそれであるということである。
 今はここで留める。


参照:
夫余 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/夫余 - キャッシュ
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夫余. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 移動: 案内, 検索. 2世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。 4世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。 夫余(ふよ、拼音:Fūyú、旧字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E4%BD%99

縄文と古代文明を探求しよう! | 朝鮮半島に前方後円墳があるのなんで?
www.jyoumon.com/blog/2008/10/000617.html - キャッシュ
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2008年10月21日 – みなさんもよく知っている前方後円墳。私は日本固有の古墳だと思っていたのですが近年では朝鮮半島西南部でもその前方後円墳が10数カ所発見されているそうです。 :shock: 前方後円墳は日本では3世紀頃に登場して7世紀前半に消滅 ...
http://www.jyoumon.com/blog/2008/10/000617.html

前方後円墳 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/前方後円墳 - キャッシュ 類似ページ
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朝鮮半島南部の前方後円墳 に移動‎: 1983年に韓国慶尚南道固城の松鶴洞一号墳が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いだ。その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3

イスラエルの失われた十支族 | ミントの忙中閑あり
demosika.blog35.fc2.com/blog-entry-529.html - キャッシュ
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皆さんは、「日本人は、イスラエルの失われた十支族である。」という説をご存じでしょうか?イスラエルの失われた10支族 - Wikipedia日本民族とユダヤ民族には、驚くべき共通点があります。それは、様々な研究者によって指摘されてきました。『古事記』と『日本 ...
http://demosika.blog35.fc2.com/blog-entry-529.html


参考:
事実なら、許し難い外務省日米安保マフィアども 新ベンチャー革命 H.24/07/22
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/archive/2012/07/22


事実なら、許し難い外務省日米安保マフィアども:オスプレイ日本配備強行をけしかけている張本人だった?


新ベンチャー革命  No.605 2012/7/22(日) 午後 3:11


1.オスプレイ日本配備を強行させているのは日本の外務省だった?

 2012 年7月22日の日曜日朝のテレ朝報道番組に、軍事評論家の神浦氏(注1)が登場し、超過激な発言をしました、それは『日本国民の強い反対にもかかわらず、米軍がオスプレイの日本配備を強行するのは、外務省がそのように米国政府にけしかけている可能性がある』という発言です。これが事実なら、日本の外務省はまさに米務省そのものということになります。

 なぜ、外務省がこのようにけしかけているかというと、もし、ここで米軍が日本国民の要求に屈したら、前例ができて、日本全国にて在日米軍撤退を要求する声が高まり、日米安保が危うくなるからだそうです。

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『文殊菩薩(ブログ版)』


2012年05月04日(Fri)▲ページの先頭へ
PS理論とシュタイナー精神学:自我とアストラル体とエーテル体と物質:超越軸と虚軸と実軸の3D世界
以前、本件について比較論を行なったが、PS理論からシュタイナー精神学を言わば、取り込みたい。
 今は直観で述べると、
 
自我=凸i ・・・・・ 純粋悟性、外的感覚、空間、電磁波

アストラル体=凹i ・・・・・ 感情、欲望、内的感覚、時間、(重力波)

エーテル体=凸(+1) ・・・・・ 生命、氣、超光、自然、宇宙

物質=凹(−1) 

以上のようになるが、それらはガウス平面に位置付けられている。
 問題は、超越軸z軸の意義である。それらは、いわば、神霊の領域であり、感覚的には、基本的には感知できない領域である。
 思うに、カント哲学の純粋理性の領域に近いが、端的にはそれを超えている。何故なら、純粋理性とは、純粋悟性と超越性との境界に存すると考えられるからである。超越軸と虚軸の交差するmedia pointに存すると考えられる。
 しかしながら、純粋理性は、その力学を単にパラドックスであるアンチノミーに限定していると考えられるのである。もっとも、この点は先になるが、厳密に検討したいと考えている。
 とまれ、超越軸z軸は神霊領域であり、所謂、霊界というものは、ここに存することになる。他界、異界、あの世、彼岸、天国・地獄、等はそこに存すると言えよう。
 そのように見ると、人間の魂、霊魂soul-spiritであるが、それは、自我である凸iとアストラル体の凹iの共存に基本的には存するだろうが、所謂、生きている間は、実軸x軸(現象界)に存しているが、死んだとき、あるいは、生まれる以前(前世)は、そこから脱して、純粋に虚軸y軸に回帰し、また、さらに、media point化して、超越軸z軸(霊界)に帰還するのではないだろうか。
 虚軸y軸はmedia pointを介して、永劫の情報を保持しているのではないだろうか。個的霊魂の情報のアーカイブのようなものではないだろうか。すると、それは、オカルティストの説くアカシャ年代記akashic records(アカシックレコード - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89
)に相当するだろう。
 そして、死後の浄化が超越軸z軸と虚軸y軸とのmedia pointで為されて、霊界への復帰するのではないだろうか。
 以上、思考実験、作業仮説である。


2011年12月23日(Fri)▲ページの先頭へ
個霊と遺伝子:精神と身体:高振動の精神と低振動の物質:精神振動とチャクラ
個霊と遺伝子:精神と身体:高振動の精神と低振動の物質:精神振動とチャクラ

テーマ:シュタイナー精神学

シュタイナーは霊が母胎の胎児に到来すると述べている。つまり、霊と身体は絶対的に区別されるということである。
 PS理論ではこの問題をどう捉えるだろうか。自己は凸i*凹iの屈折した形に存すると先に述べた。結局、虚軸と実軸は不連続であり、絶対的に区別されるという考えた方がここでは役に立つ。
 端的に言えば、精神が身体を形成するのである。しかしながら、遺伝の問題をどう捉えたらいいだろうか。才能は遺伝しないのである。
 純粋差異共振によって身体が形成されると考えられる。ならば、遺伝子とはそれの物質的表現である。つまり、MP1の物質的表現である。二重らせんである。
 では、それと個、自己はどう関係するだろうか。先に述べた自己式をとりあげて考えよう。

 (凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)

簡単にするため、凹i/凸iをA、凸i/凹iをBとしよう。すると、

A*B⇒凸

である。思うに、AとBは個々において、差異があると考えられる。つまり、ある1という人は、

A1*B1⇒凸

となる。だから、

Ak*Bk⇒凸

で任意の人を記述できる。
 では、この差異はいったいどういう力学をもつのか。
 ここで強度という概念を導入しよう。すると、個々において、AとBの強度が異なると考えられる。
 例えば、父権的タイプAがBよりも強いと考えられるし、母権的タイプはBがAより強いと考えられる。
 問題はこの強度の式である。どう記述されるのか。
 強度はエネルギーと言い換えてもいいだろう。だから、精神エネルギーの問題である。
 E = hν
を利用すれば、個の差異は振動数の問題となるだろう。
 簡単に言えば、陰陽の振動数の差異が個の根拠である。
 高い振動数が精神的差異を意味するだろうし、低い振動数が物質形成を意味するのではないだろうか。
 ここで本題に返ると、個の精神は高振動数をもち、遺伝子は低振動数をもつということになる。
 思うに、氣の考え方もこれで説明できる。一般の電磁波よりも高振動なのが氣として説明できるだろう。
 では、振動数の差異は何から生じるのだろうか。それは、精神形成の違いによると考えられる。
 つまり、精神的活動をする人は、精神の振動数が高くなるのであり、それが、時代を超えて伝わると思う。
 唯物論的発想は精神の振動数を低くし、獣的、悪魔的にすると言えよう。
 今はここで留める。

追記:精神の振動から、ヨガのチャクラを想起した。チャクラは振動をもっている。また、7つのチャクラがある。これは虹の七色と共通である。あるいは、オクターブと。
 つまり、差異共振、陰陽は7分節を形成すると考えられる。どうして、7なのか。今の段階では不明であるが、ここでは、精神振動とチャクラの関係と7分節形成を提起するに留める。
 ちなみに、シュタイナーは7分節が進化、発展等の段階であると述べている。

参照:

チャクラ(cakra, chakra, cakkra, चक्र)は、サンスクリット で「車輪・円」を意味する語。漢訳は「輪」(りん)、チベット語では「コルロ」(khorlo)という。インド起源の神秘的身体論における、物質的な身体(粗大身)と精微な身体(微細身)にある複数の中枢を指す[1] 。

各チャクラの位置

チャクラが描かれたヨーガ行者の図
19C初頭の彩色写本、大英図書館所蔵


ヨーガでの用法 [編集 ]

ヒンドゥー教 のヨーガ では、人体の頭部、胸部、腹部で、輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。数は6または7箇所と言われるが、それとは別に8箇所あるという説もあるなど、一定ではない。画像 では光る蓮華 で表現される。猿であったときの尻尾の名残の尾てい骨から発生する蛇を、チャクラを通じて頭から出すのが目的といった見解がある。

第1のチャクラ
ムーラーダーラ・チャクラ (mūlādhāra-cakra) と呼ばれ、脊柱の基底にあたる会陰(肛門と性器の間)にある。「ムーラ・アーダーラ」とは「根を支えるもの」の意である。ヒンドゥー・ヨーガの伝統的なチャクラの図では、赤の四花弁をもち、地の元素を表象する黄色い四角形とヨーニ(女性器)を象徴する逆三角形が描かれている。三角形の中には蛇の姿をした女神クンダリニー が眠っている[2] 。
第2のチャクラ
スワーディシュターナ・チャクラ (svādhişţhāna-cakra) と呼ばれ、陰部にある。「スヴァ・アディシュターナ」は「自らの住処」を意味する。朱の六花弁を有し、水の元素のシンボルである三日月が描かれている[2] 。
第3のチャクラ
マニプーラ・チャクラ (maņipūra-cakra) と呼ばれ、腹部の臍のあたりにある。「マニプーラ」とは「宝珠の都市」という意味である。青い10葉の花弁をもち、火の元素を表す赤い三角形がある[2] 。
第4のチャクラ
アナーハタ・チャクラ (anāhata-cakra) と呼ばれ、胸にある。12葉の金色の花弁をもつ赤い蓮華として描かれ、中に六芒星がある。風の元素に関係する。「アナーハタ」とは「二物が触れ合うことなくして発せられる神秘的な音」を指す[2] 。
第5のチャクラ
ヴィシュッダ・チャクラ (viśhuddha-cakra) と呼ばれ、喉にある。くすんだ紫色をした16の花弁をもつ。虚空(アーカーシャ )の元素と関係がある。「ヴィシュッダ・チャクラ」は「清浄なる輪」を意味する[2] 。
第6のチャクラ
アージュナー・チャクラ (ājñā-cakra) と呼ばれ、眉間にある。インド人はこの部位にビンディ をつける。2枚の花弁の白い蓮華の形に描かれる。「アージュニャー」は「教令、教勅」を意味する。「意」(マナス)と関係がある[2] 。
第7のチャクラ
サハスラーラ (sahasrāra) と呼ばれ、頭頂にある。sahasra は「千」、ara は「輻」〔や〕で、1000葉の花弁を有する蓮華で表象される。一説に千手観音 の千手千眼はこのチャクラのことという。他の6チャクラとは異なり身体次元を超越しているとも考えられ[1] 、チャクラの内に数え入れられないこともある。その場合、サハスラーラはチャクラに含まれず、チャクラは6輪あることになる。

簡易的には背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……という呼び方もする。

チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世 は、その場所に心を集中すると何かしらがあるという反応が得られると述べている[3] 。
仏教タントラにおけるチャクラ [編集 ]

インド仏教の後期密教 のタントラ 経典でもチャクラへの言及がある。チャクラの数や位置についてはいくつか異説があるが、一般に臍、心臓、喉、脳の4輪があるとされる。最上位はヒンドゥー・ヨーガのサハスラーラに相当する「ウシュニーシャ・カマラ」(頂蓮華)または「マハースッカ・カマラ」(大楽蓮華)である。他の3つは臍にある「変化身」(ニルマーナ・カーヤ)のチャクラ、心臓にある「法身」(ダルマ・カーヤ)のチャクラ、喉にある「受用身」(サンボガ・カーヤ)のチャクラであり、仏身の三身 に対応している[1] 。

インド密教を継承したチベット仏教 の無上瑜伽タントラでは以下のチャクラがあるとされる[4] 。

* 大楽輪(頭頂)
* 受用輪(喉)
* 法輪(胸)
* 変化輪(臍)
* 守楽輪(秘密処=下丹田にあたる)

一説には、インド密教ヨガのタントラ 経典やチベット密教 カギュ派 のタントラ経典などでは、身体には主要な7つのチャクラ(または6つのチャクラと1つの門)と、身体のあちこちにあるその他の小さなチャクラとがあるとされている。主要な7つのうち、会陰 と頭頂を除く5つのチャクラは、脊髄 に沿った5つのチャクラと、身体前面に沿った5つのチャクラとはそれぞれが対 になって繋がっているとされている(「タントラ密教経典」参照。なお、密教経典は門外不出とされている[要出典 ])。

* 下位幽体のチャクラ(会陰)
* 上位幽体のチャクラ(臍下約3cm)
* 応身(変化身)のチャクラ(臍上約3cm)
* 法身のチャクラ(胸)
* 報身のチャクラ(喉)
* 本性身のチャクラ(額)
* 金剛身のチャクラ(頭頂)

チベット仏教ニンマ派 のナムカイ・ノルブの説明によれば、タントラ経典によってチャクラの数が異なるのは一貫性に欠けているわけではなく、基本的なプラーナのシステムの概念は共通しており、さまざまなタントラの修行においてそれぞれに異なったチャクラを使うため、それぞれのテキストでは必要なチャクラだけが書かれているのだという[5] 。
中国 [編集 ]

中国の道家 や内丹術 の伝統的な身体論には、インドのチャクラに比すべき丹田 という概念があるが、近代の内丹術の中でも清 代の閔小艮の一派はヨーガの七輪の概念を取り入れている[6] 。
西洋への伝播 [編集 ]

ヨーガ の伝播と共にチャクラの概念も伝播した。数は7箇所で内臓 の各部に充てられるようになった。また、その振動の周波数などを解明したとする研究者もいる。他の行法である近代西洋儀式魔術 などにも概念が取り入れられた。
神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ [編集 ]

チャクラは脊椎に関連するエーテル体 にあるエネルギー・センター(渦)で、肉体の7つの内分泌腺及びメンタル体 、アストラル体 、肉体の調整と活性化を司り、意識の中枢と各身体の中継点としての役割をはたしている。

現在のヒーリングなどの分野では、各チャクラに対応する体表のツボのことを指して「チャクラ」と呼んでいる。体表のツボは単にチャクラからのプラーナ (気 )の出入口としての役割を果たしているにすぎず、チャクラではないが、ここでは便宜上体表のチャクラと呼ぶことにする。一方、伝統的なヨーガが伝えている「チャクラ」は、体表のチャクラではなく、人間のエーテル体に存在するほぼ脊柱に沿った7つのチャクラで、ここではこれを脊髄のチャクラと呼ぶことにする。しかし時代が下るにつれ、この脊髄のチャクラとは異なるチャクラの記述が現われるようになる。ここではこれを神経叢のチャクラと呼ぶことにする。実のところ主要な7つのチャクラのいずれのチャクラも、これら神経叢のチャクラと脊髄のチャクラが対をなして存在している。しかし現在に至るまで、この2つのチャクラの系統は明確な区別がなされていない。

古代のヒンドゥー教のヨーガでは、脊髄のチャクラが「チャクラ」とされてきた。不滅の身体をもち今も老いることなくヒマラヤで生き続けていると言われているマハー・アヴァター・ババジ が、弟子たちに伝授したクリア・ヨガの伝統では、脊髄のチャクラに関する知識が伝わっている。20世紀前半、クリア・ヨガを初めて西洋に伝えたパラマハンサ・ヨガナンダ は、著書『あるヨギの自叙伝』(森北出版)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を『心臓の後にある胸椎中枢』としている。ヨガナンダの言うチャクラが脊髄のチャクラであることが分かる。またババジのクリヤー・ヨーガ(ヨガナンダのクリア・ヨガと本質的に同じものと思われる)の普及活動をしているマーシャル・ゴーヴィンダンは、著書『ババジと18人のシッダ』(ネオデルフィ)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を「心臓の高さに当たる脊柱内にある」としており、ヨガナンダと同様である。

6-7世紀以降、タントラ教典が編纂された後の近代のヨーガ では、神経叢のチャクラについて言及するようになった。近代のヨーガの指導者として著名なスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの著書『魂の科学』(たま出版 )にはアナーハタ・チャクラの位置について、「このチャクラは、別名、心臓のチャクラとも呼ばれていますが、胸部の両肺に挟まれた心臓内にある微細な空間の中に位置しています。」という記述があり、ヨーゲシヴァラナンダの言うチャクラが神経叢のチャクラであることが分かる。

また、サマエル・アウン・ベオールの著書『完全なる結婚』(ノーシス書院)には、神経叢のチャクラと脊髄のチャクラの存在について、「原始ヒンズーヨギたちは、脊髄のチャクラとクンダリニー にすべての注意を払い、神経叢のエーテルチャクラには、ほとんど無関心であった。このことはにせ秘教家を驚かせた。」という記述がある。

以上からも、各々のヨーガ行者あるいは神秘家がチャクラの性質及びその位置について言及する場合、神経叢のチャクラあるいは脊髄のチャクラのいずれか一方についてのみ言及しており、各々のチャクラが、これら2つのチャクラと対をなして存在していること、及び、それらの位置と機能の違いについて、明確に区別し、自覚されていたとは考えにくい。

体表のチャクラは、先に述べたように本質的にチャクラではなく、チャクラからのプラーナ (気 )の出入り口である。しかし、そのルートが浄化されていることが心身の健康とチャクラの覚醒の上で重要であるため、ヒーリングの分野において重視されている。一方、本来のチャクラは神経叢と脊髄のチャクラであり、神経叢のチャクラは、身体の交感神経系を支配するナディーと関連し、身体の運動的な活動を司っている。一方、脊髄のチャクラは、身体の副交感神経系を支配するナディーと関連し、精神的な活動を司っている。神経叢のチャクラと脊髄のチャクラは対になっており、意識の拡大の過程を通じて、下位のチャクラから順に覚醒していく。
フィクションでのチャクラ [編集 ]

以下は、夢枕獏 の小説「キマイラ・吼 」シリーズに登場するチャクラ。

アグニ
仙骨 にあり鬼骨などとも呼ばれ、この1つのチャクラで、7つのチャクラを合わせたよりも更に大きな力を持つとされ、生命進化の根元を司るとも言われる。あまりに強大な力を持つゆえに、このチャクラを開眼させたまま放っておくと人は獣や鬼に変じてしまうなどという話もあるが、現代のヨーガ実践者でそれを開眼させた者はおらず、眉唾的なものではある。ただ、古代中国に赤須子(せきしゅし)がそのチャクラを開眼させてしまい、獣(的なもの)に変じた赤須子が村人を数十人喰い殺し、見かねた老子 が赤須子を封じたという記録が唯一残っている。
ソーマ
月のチャクラなどとも呼ばれ、アグニチャクラの開眼により暴走を始めた肉体(生命力)を統べ得る唯一のチャクラと言われるが、アグニチャクラの存在自体が定かでないため、更にその存在は疑問視されることがある。ソーマの身体上の位置を、頭頂の更に上(要するに虚空)と主張している。これは人間の身体を肉体だけでなく、エーテル体なども含めた上での見解である。

ヴァレリー・ハントによるチャクラの部位の電位変動測定 [編集 ]

カリフォルニア大学ロサンゼルス校 の生理学名誉教授ヴァレリー・ハント (Valerie V. Hunt) は、人体のオーラ の電気的研究において、チャクラと人体の電位変動の相関を調べた。ハントは被験者の体表でチャクラに相当する部位に筋電図 用の電極をあてて、人体の微弱な電位変動の波形を記録した。

この研究においてハントは、それまでに記録も報告もされたことのない、サインカーブを描いて変化する規則的な高周波信号を発見したと主張した。その報告によれば、チャクラの部位で測定された波形はつねに100-1600Hzの範囲であり、正常な脳波 、筋電図、心電図 での電位変動が示す電気信号をはるかに超える高周波であったという[7] 。
脚注 [編集 ]

1. ^ a b c ミルチャ・エリアーデ 『エリアーデ著作集 第10巻 ヨーガ 2』 立川武蔵 、訳、せりか書房、1975年。ISBN 4-7967-0087-0 。
2. ^ a b c d e f 立川武蔵 『ヨーガと浄土 ブッディスト・セオロジーV』 講談社〈選書メチエ〉、2008年。
3. ^ F・J・ヴァレーラ 、J・W.・ヘイワード 『徹底討議 心と生命』 山口泰司・訳、山口菜生子・訳、青土社、1995年、109頁。ISBN 4-7917-5382-8 。
4. ^ 平岡宏一 『ゲルク派版 チベット死者の書』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。ISBN 4-05-901032-4 。
5. ^ ナムカイ・ノルブ 『虹と水晶』 永沢哲訳、法蔵館、1992年。
6. ^ 道教と仙学 第4章 各派の丹法の要訣
7. ^ リチャード・ガーバー 『バイブレーショナル・メディスン』 日本教文社、2000年。

参考文献 [編集 ]

* 竹下雅敏 神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ ユニティ・デザイン
* C・W・リードビーター 『チャクラ』 本山博 、湯浅泰雄 (共訳)、平河出版社、1978年。ISBN 4-89203-023-6 。 - チャクラ、リードビーターの理論が概観できる。 PDF
* スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ『魂の科学』たま出版。ISBN 978-4884811105
o ラージャ・ヨーガ のサマディー(三昧 )で霊視したチャクラについて、一覧表とともに各チャクラの解説が書かれている。
* 比較文化研究室( 島岩 )訳『十六ニティヤー女神の海』、『ジュニャーネーシュヴァリー』等

関連項目 [編集 ]

* マルマ - インドの伝統武術医学に伝わる人体の急所(伊藤武 『図説 ヨーガ大全』 ISBN 4333024714 参照)。
* 経絡
* 如意輪観音 (手にチンタマニ(Cintamani cakra チンタ=如意、マニ=宝珠)とチャクラ(法輪 、チャクラム が変化したものという)を持つため中国仏教 では如意輪と訳した。)
* オーラ

外部リンク [編集 ]

* 七つのチャクラの意味
* 無料チャクラの壁紙
* チャクラ (チャクラとは、「気」とチャクラ、チャクラの活性化の方法など)
* チャクラについて (各チャクラの位置とそれが司る体の領域、意味、色)
* Evolutio Rodurago - チャクラ テスト (英語)
* クラ派の南の伝承におけるシュリー・チャクラの構造 (PDF )
* シャークタ派の密教 シュリー・チャクラの構造を中心として (PDF )
* 人生の中でのチャクラの活動レベル (チャクラのバランシング方法、活性法、過去生の情報など)

執筆の途中です


この項目は、インド に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などしてくださる協力者を求めています 。(プロジェクト:南アジア )




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参考:
調和振動子 - Wikipedia
EMANの物理学・量子力学・調和振動子


2011年11月28日(Mon)▲ページの先頭へ
天皇制と母権制:二つの天皇制:三つの母権的民族とユダヤ民族的父権民族の衝突・対立としての古代日本
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下、スロー人氏は、百済文化と天皇制の符合を示唆しているが、その問題をさておき、私が興味があるのは、既述したように、母権と父権の問題である。
 私見では、ツングース系民族は母権的である。だから、その天皇的文化は母権的である。母権的天皇文化である。(とは言え、天皇が女性であるというのではなく、母の子としての天皇であり、男性が天皇になると考えられる。これは母権神話では普通のことである。)
 また、既述したように、日本には三つの母権民族が存すると考えられる。縄文的母権(沖縄、アイヌ)、弥生的母権(中国南部)、そして、ツングース的遊牧民族的母権である。
 それに対して、ある父権的民族が参入(侵入?)して、古代日本が生まれたと考えている。
 飯山一郎氏は父権的民族を中国に存した見ているが、私が知る限り、父権的民族が中国へ到来したのは「史実」である。
 ここから私の推定であるが、この進入した父権的民族が記紀を編纂したのである。三つの母権民族の神話を父権的民族に都合いいように編集したと思われる。
 いわゆる、天孫降臨神話であるが、それは、ツングース系天皇神話をその父権的民族が都合いいように書き替えて、軍事的神話、軍政的神話にしたように思えるのである。
 私は日本民族は古代ギリシア民族に似たように形成されたと考えている。つまり、古代ギリシアはベース・基底に母権的民族があり、それに軍事的な父権的民族が進入して、母権的民族の神話をゼウス中心のギリシア神話に書き替えたと思っているのである。(そう、神話学者のジョゼフ・キャンベルに拠ると、ゼウスには母権的神話、女神的神話の要素が見られるのである。)
 繰り返すが、ツングース系天皇神話は母権的で平和的であったが、進入した父権民族がそれを軍事・軍政的なものにしたということになるのである。(だから、記紀をキャンベル的な差異的に解読する必要があるのである。)
 だから、思うに、記紀の好戦性が後の日本人の思考に影響して、日本人の性格の基底的な平和志向が捩じ曲げられて、虚勢的な好戦性をもったようになったのではないだろうか。
 問題は具体的にこの父権的民族、大陸的父権的民族とは何なのかである。以前は日ユ同祖論を作業仮説して、ユダヤ民族ではないかと提起した。
 それをここでも採用すると、三つの母権民族の混成である古代日本に父権的ユダヤ民族が進入して、古代ギリシアに相似した母権ベースの父権的民族である日本民族が誕生したということになる。
 そのとき、ユダヤ民族はツングース系母権天皇神話を、好戦的な父権的天皇神話に書き替えたと推量されるのである。
 これが、結局、天皇制といわれるものの起源である。言い換えると、二つの天皇制があるのである。母権的天皇制と父権的天皇制である。
 そして、現代の日本人、あるいは、これまでの日本人はこれを区別していない、又は、区別して来なかったと考えられるのである。
 さて、ここで明治維新を考えると、これまで述べてきたように、坂本龍馬らの母権的志向と尊王攘夷の父権的志向があり、後者が前者に勝利して、明治国家を形成したと考えられる。そのとき、当然、記紀の父権的好戦性、父権的天皇制が利用されて、母権的天皇制は否定されたと考えられるのである。
 そして、この父権的好戦的路線が近代日本の基軸になり、日本民族、日本文化を歪めて、世界大戦の大惨禍、そして、今日放射能汚染の亡国的大惨禍を舐め、またTPPによってもたらされると考えられる大惨禍を舐めると考えれるのである。
 もっとも、ユダヤ民族的なものがただ悪いものだけではない。日本人の知性(最近は怪しいが)は、おそらく、ユダヤ民族由来ではないだろうか。しかしながら、あまりに、父権主義に傾斜して、母胎・基盤の母権性を否定してきてしまったのである。(そう、父権的資本主義に傾斜してしまったのであり、新自由主義に毒される前にもっていた母権的資本主義を否定してしまったと言えよう。前者が同一性資本主義、利己的資本主義であり、後者が差異共振資本主義、共同体的資本主義である。)
 今日現代の超悲惨な日本国の様態を見るに、土台の母権文化に螺旋的に回帰する必要があると言えよう。それは、新母権的進化である。これしか、日本の命脈はないと言えよう。
 政治的には、日本母権民族党(日本母民党)、日本なでしこ党を創設することを意味する。
 母権の大地へと回帰する必要があるのである。

参照:

「悲しみの森」木と共存した女系文化だった日本とブータン


『世界的に珍しい森と女系制社会の日本』

ユーラシア大陸では洋の東西の違いが無く基本的に父系制社会なのですが、我が日本国は武士の世の中になった鎌倉時代でも女性にも同等な財産権があったように、世界的に珍しい女系制の残る社会だった。
戦国時代に来日した宣教師は故国とは大きく違う日本の女性の地位の高さに驚いていたのです。
男系社会では例外なく女性に厳格な貞節を要求する。豪華絢爛な結婚式なと婚姻制度も実に大袈裟なのですが女系社会ではそれ程拘らない。
ブータン国王夫妻が新婚旅行で日本を訪問して話題になっていましたが流石に王様は正式な結婚式をあげるが、一般の庶民層では結婚式はあげないで同棲に近い実質婚が主流である。
結婚が厳格だった封建制の男系文化と違い、女系日本の平安時代の妻問婚では矢張り結婚式の風習が無くて『結婚している』と周りが認める一夫多妻の実質婚。日本も昔はブータン状態だったのです。
ブータンでも一夫一婦の単婚が基本なのですが、なんと日本の平安時代的な一夫多妻だけではなくて今でもチベットなとと同じ一妻多夫も認めているのですから、なんとも大らかですね。

http://ameblo.jp/don1110/entry-11091473293.html

donのブログ

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橋下氏が市長に選ばれ、大阪維新の会の松井一郎氏が府知事に選ばれた。日本史に衝撃が走るか?


ちょうど、天孫と自称する人々が天皇の血筋につながっているように。


 その頃を見ると、天孫を誇った種族が朝鮮半島にもいた。それがツングース系の扶余(プヨ)族であり、穢貊(イエメク)族であり、百済の王朝の血筋とされている。その百済が滅ぶのが660年と言われているが、このころ日本では中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺したのが「大化の改新」であり、それが646年のことだ。


 この天皇制の創生期、古墳などからの出土品には、仏像など多くが、半島から伝わったと思われるものが多い。国宝中の国宝ともいえる逸品、石上神宮(物部氏)の「七支刀」も百済が伝わったものらしい。


http://ameblo.jp/adco/entry-11091550858.html


スロー人ロハス




2011年11月17日(Thu)▲ページの先頭へ
大地とは何か:第三象限、凹i(陰)、「地」とコスモス
参照の画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11080788428.html

テーマ:manichaeism

宇宙への志向、「天」への志向はわかりやすい。
 では、大地、「地」への志向とは何を意味するのか。
 PS理論では端的に、凹i、陰であろう。これは、第三象限と通じている。つまり、四大で言えば、地と水が存する。
 直観では大地の中心とは第三象限である。宗教は一般には「天」を志向するが、天才的宗教家は「地」を志向する。
 鈴木大拙は『日本的霊性』で正に、地、大地の霊性を説いたのである。
 ここで作業仮説であるが、情報、根源的情報、霊・精神的情報が第三象限ないし凹i(陰)に存するとしよう。これを凸i(陽)が取り込むのでないだろうか。しかし、合理性、論理性、そう、ロゴスに従って。プラトンのイデアはそのようなものだろう。一般に西洋文化はそのような知的原理をもっている。つまり、第二象限である。
 ここで飛躍するが、コスモス(宇宙、ないし、「天」)の根源は何であろうか。
 単純に言えば、media pointの虚軸点がそうだと思うが、上記の考えからすれば、第三象限、ないし、凹i(陰)に根源があると言えよう。言い換えると、大地、「地」に根源がある。
 だから、凸i(陽)、「天」とは凹i(陰)、「地」の反映、反照、投影ではないだろうか。(シュタイナーの考えがそうであるし、D. H. ロレンスもそうである。)
 物理学的に言わば、ダーク・エネルギー(おそらく、「ダーク・レイ」)がライト(光)を映出しているのである。
 闇が光を産み出しているということになる。(そのようなことがありえるのだろうか。)とまれ、光は現象界へと投影されるのである。
 では、第三象限、ないし、凹i(陰)、「地」にどのように、精神的情報が存するのだろうか。
 思うに、それは直観的情報、直観知である。不連続的差異論の段階で、知即存在という概念を述べたことがあるが、直観的情報、直観知はそのようなものではないだろうか。(あるいは、即非知と言えよう。)
 すると、直観知的源宇宙(コスモス)、即非知的源宇宙(コスモス)が存することになる。
 ダーク・マターはここに存すると言えようが、果たして、マターと呼んでいいか疑問ではある。
 結局、第三象限、凹i(陰)、「地」から開始され(天地開闢)、凸i(陽)、「天」が能動化するのではないだろうか。
 そう、それが、ゲーテ/シュタイナーの上昇ではないだろうか。
 西洋文明は根源にヤハウェが存したが、それが今や枯渇してしまったと言えよう。新たに、第三象限、凹i(陰)、「地」へと回帰すべきときである。
 これがロレンスが『黙示録論』で説いたことだろう。
 とまれ、以上はまったくの思考実験である。

参照:省略


2011年04月02日(Sat)▲ページの先頭へ
世の人の極め付けの愚かさは自分が生まれる以前、死んだ以降のことを考えないことだ:この世主義者
テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

世人は、自分が生まれる前は何であったか、考えたことがあるのだろうか。あるいは、死んだ以降どうなるのかということを。
 もし、自己がこの世だけの存在ならば、いったい、誕生前は何であったのか自問すべきである。
 無から有、そして、有から無?
物質界に染まった人間は、物質界を越える視野をもたない。
 明らかに、精神は超越界、光の世界に所属する。それが、物質界という闇に包まれているのだ。
 この闇の支配が近代文明を生んだと言える。悪魔アーリマンの仕業である。
 物質界に支配されているので、「死」を恐れるのである。しかし、本体は、精神界=光の国(ウルトラマンみたいだ。光の王国と言うべきである。)に属するのである。
 そう、「わたし」は精神界=光の国から生まれ、そして、そこへと帰還するのである。


2011年03月30日(Wed)▲ページの先頭へ
dismodern(不近代)のエポック:又は、アイオーン・エポックiOn epoch
テーマ:近代合理主義/唯物論/ポスト・モダン批判

意識の不連続化という最高度のキーポイントを思い、トランス・モダンや脱近代に替わって、dismodern(不近代)はどうかと思った。先には、トランセンデント・モダン(超越的近代)を提起したが、それよりはこの方がはるかにいいだろう。
 思うに、人類史において、近代とは、唯物論の時代であり、最悪・大凶の時代ではなかったのか。
 シュタイナーは近代の意義は自己が、いわば、個に還元されることにあると述べている。物質はまったくのマーヤーであると述べている。
 とまれ、dismodernはまだ、近代に囚われている発想である。modernを無くした方がいいのである。
 また、modernは直線的時間の考え方に拠るものでもあるので、異なる時間の意識・史観から、名づけるべきである。
 アイオーンを使用してもいいだろう。何故なら、それは、精神的意味合いに拠る時代区分であるから。
 ならば、アイオーン・エポックとしようか?

参考:
アイオーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索

アイオーン(ギリシア語 : αἰών; aiōn,ラテン語 : aeonまたはæon,英 : aeon又はeon)とは、古代ギリシア語である期間の時間 を指し、時代 や世紀 、人の生涯というような意味である。ラテン語の Saeculum やサンスクリット の kalpa(कल्प; 漢訳では「劫波 」)がこれに似た意味を持つ。

アイオーンは、紀元2世紀 より5世紀 頃にかけて、ローマ帝国 内やその辺境地域で興隆した、グノーシス主義 における高次の霊 、あるいは超越的な圏界を示す意味で使用されたので、宗教学 的・思想 的にはこの意味でよく知られている。
古代ギリシア [編集 ]
ギリシア哲学 [編集 ]

アイオーンは「時代 」や「ある期間」を意味し、占星術 における魚座 の時代、水瓶座 の時代などの時代と通じるところがある。魔術 やオカルト においては、「テレマ(w:en:Thelema )」の概念と関係する。世界の文化一般に、様々な時代があり、特徴のある時間の期間があるという概念は一般である。

一方、アイオーンを哲学 的に思索して行くと、この現象世界における時間のありようがアイオーンであるとも考えられる。歴史 もまたアイオーンで特徴付けられる。このような背景で、プラトーン はアイオーンを「永遠 」の意味で使ったことが知られる。
ギリシア神話 [編集 ]

ギリシア神話 は自然 現象 を擬人化 して神 や精霊 と見なしたが、抽象概念 なども神と見なした。時間の神は、クロノス が有名であるが、季節 や秩序 の女神 としてのホーラ もまた存在した。

アイオーンもまた神と見なされ、当初の意味はともかく、永遠 ・永劫を象徴 する神ともされた。通常、「時間の神」として知られる。
神秘主義 [編集 ]
ヨハネ福音書 冒頭
Wycliffe の翻訳写本 (14 世紀)。中段より本文が始まり、中世英語で「 In þe bigynnyng was / þe word & þe word / was at god / & god was / þe word. 」と記されている。これはグノーシス主義と関連がある。
グノーシス主義 [編集 ]

1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によれば、グノーシス主義 は、以下の点をふまえた神話 を創作することが一般であると考えられている。

1. 反宇宙的二元論: この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。
2. 人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信: 人間は、劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が閉じこめられている。
3. 人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在: 以上のことを知らない人間に対して、至高者の下からそれを知らせる使いがやって来て、認識を促す。

この「至高者」の下には、至高者に由来する諸の神的存在があり、グノーシス主義の創作神話では、この神的存在を「アイオーン」と呼ぶ。

* キリスト教グノーシス主義

キリスト教グノーシス主義では、人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者とは、もちろん「イエス」であり、イエスは「父なる神」(=至高者)の下から派遣され、旧約聖書 の創造神(=劣悪なる造物主)の束縛から人間を解放するため、「本来的自己の認識」を説く福音をもたらしたという神話を持つ(神話の詳細は、グノーシス各派により異なる。)。

キリスト教グノーシス主義は、異端 であるとして、正統派・主流は教会から反駁されてきた。紀元2世紀 のリヨン 司教 であったエイレナイオス や、3世紀 のローマ 司祭 であったヒッポリュトス など反駁書を記している。ヒッポリュトスは、グノーシス主義の教義 や神話 などが、ギリシア神話やプラトン の思想や、その他、諸々の素材を元に創作したものであるという説を唱え、「アイオーン」という用語もまた、ギリシア神話やプラトーンの著作から借用したものだと述べた。

このように、伝統的には、グノーシス主義は、諸宗教の要素が混淆したシンクレティズム 宗教 に過ぎないと考えられていたが、とくにナグ・ハマディ写本 の発見により、非キリスト教グノーシス主義の存在が知られるようになり、現在では、グノーシス主義を、単なる混淆宗教、とりわけキリスト教にギリシア哲学や東方の諸宗教の要素を加えただけの異端説として論ずる学者は少ない。

以下に、グノーシス神話における諸の「アイオーン」について概説する。
プレーローマ [編集 ]
プレーローマ(オグドアス・アイオーン )

グノーシス主義におけるアイオーンは、高次の霊または霊的な階梯圏域で、アイオーンこそは「真の神」で、ユダヤ教 やキリスト教 などが信仰している神は、「偽の神」である。またアイオーンは複数が存在し、プレーローマ と呼ばれる超永遠世界にあって、男性アイオーンと女性アイオーンが対になって「両性具有 」状態を実現している。

紀元2世紀 の大ウァレンティノスと呼ばれるグノーシスの思想家の高弟であるプトレマイオスの説では、プレーローマには、男女を一対として、四対、合計八体の至高アイオーンが存在するとされる。それらは、オグドアス (8個の集まり)とも呼ばれ、次のようなアイオーンで構成される。

* プロパトール − 伴侶:エンノイア(思考 )
* ヌース −伴侶:アレーテイア(真理 )
* ロゴス − 伴侶:ゾーエー(生命 )
* アントローポス − 伴侶:エクレシア(教会 )

伴侶は女性アイオーンである。アイオーンの筆頭に来るのは「プロパトール」であるが、この名は「先在の父」とも訳され、超越性の更に超越性にあるとされる。プロパトールとは何かは、人間は無論のこと至高アイオーンであるオグドアスのアイオーンもまた、それを知ることはなかったとされる。プロパトールは、ビュトス(深淵)の名でも呼ばれる。またオグドアスはプレーローマの中心であるが、そのなかにあって更に上位の四アイオーンは、テトラクテュス (4個の集まり)と称する。

グノーシス主義では、新プラトン主義 のプロティノス の考えを取り入れ、「流出説」を提唱した。ウァレンティノス派では、原初、先在の父(プロパトール)が唯一存在し、プロパトールは流出 によって諸アイオーンを創造したとされる。
ソピアー神話 [編集 ]

グノーシス主義 においてはまた、アイオーン・ソピアー の失墜とその回復、分身の地上への落下の物語が記されている。グノーシス文献『この世の起源について』などにおいては、この世界がいかにしてデーミウルゴス によって創造され、人間の悲惨の運命が始まったのかを神話の形において説話している。

アイオーン・ソピアーはプレーローマにおける最低次のアイオーンであったが、知られざる先在の父(プロパトール)を理解したいと云う欲望に取り付かれた。彼女はこの欲望の故にプレーローマより落下し、分身アカモートを生み出し、アカモートは造物主 デーミウルゴスを生み出した。デーミウルゴスはかくて、この世と人間 を創造するのである。

ソピアーの娘・バルバロイ はグノーシス主義バルバロイ派において地上の人間を救うとされているが、キリスト教では悪魔 とされている。

ソピアーの救済、従って人類 の救済 と関連して、イエス・キリスト もグノーシス 神話 においてはアイオーンと考えられた。
ユングの元型象徴 [編集 ]

分析心理学 の創始者であるスイス の精神医学 者カール・グスタフ・ユング は、グノーシス主義 の研究者でもあったが、人間 の完全性を、プラトーン と同様に、精神 的な両性具有 性の実現にあるとした。また、4が神聖数 であることを見出したのであり、オグドアスは、両性具有の実現と、四対のアイオーンの構成する超宇宙として、元型 における完全 性象徴 の具象化と考えた。
自然科学 [編集 ]
地質学 [編集 ]

詳細は「累代 」を参照

地質学では、アイオーン(ラテン語 aeon、英語 eon、現代ギリシア語 αιών)は、地球 誕生以来の46億年 の地質時代 を大きく4つに分けた各々で、数億年から十数億年の長さである。日本語 ではこの意味の場合に限り、累代 と訳される。
時間の単位 [編集 ]

時間の単位 としては、eon は10億年と定義される。単位記号 はAE。たとえば、地球の年齢は 4.6 AE となる。

宇宙物理学 者のジョージ・ガモフ が、1968年 、科学雑誌 Nature 219, 765 にて提案した。
アイオーンの像 [編集 ]
ミトラス密儀の獅子頭像

考古学 の発掘等により、ローマ 帝政期時代において、頭部が獅子 で、人間(男性)の身体を持ち、蛇を全身に巻き付けた神と思える像が発見された。この像は、「アイオーン神の像」と考えられたが、ギリシア神話におけるアイオーンの神の像とも、グノーシス主義におけるアイオーンの擬人化神像とも考えられた。

また近年有力なのは、これはミトラス教 の「時間の主神」であるペルシア 起源のズルワーン の像であるという説もある。ズルワーンはゾロアスター教 の神であり(ただし、ズルワーンを主神として崇拝する派は、正統 ではないとされる。ズルワーン主義とも呼ばれる)、ミトラス教でも重要な位置を持っていた。アイオーンの像が何であるのか、正確には判明していない。
関連項目 [編集 ]

* ギリシア神話
* プラトーン - プロティノス
* グノーシス主義
* デーミウルゴス - ヤルダバオート - ヤハウェ
* アブラクサス - アルコーン
* ナグ・ハマディ写本
* 分析心理学 - カール・グスタフ・ユング
* ミトラス教 - ゾロアスター教 - マニ教
* アイオーン - 阿修羅 - 天照
* デーミウルゴス - シヴァ - 大黒 - 大国主
* キリスト教 - ヨハネ福音書
* エイレナイオス - ヒッポリュトス
* 異端 - 異教
* 神秘主義 - 占星術 - 魔術

参考書籍 [編集 ]

* ハンス・ヨナス 『グノーシスの宗教』 人文書院 1986年
* 荒井献 『新約聖書とグノーシス主義』 岩波書店 1986年
* クルト・ルドルフ 『グノーシス』 岩波書店 2001年

外部リンク [編集 ]

* Khoora Sophiaas (日本語)
* テルトゥリアヌス「ウァレンティノスに対し」 (英語)
* 「ウァレンティノスに対し」ラテン語原文 (ラテン語)
* エイレナイオス『異端反駁』 (英語)

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Aeon
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For the geologic time, see eon (geology) . For other uses, see Aeon (disambiguation) .
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The word aeon, also spelled eon or æon (English pronunciation: /ˈiːɒn/ ), originally means "life", and/or "being", though it then tended to mean "age", "forever" or "for eternity ". It is a Latin transliteration from the koine Greek word ὁ αἰών (ho aion), from the archaic αἰϝών (aiwon). In Homer it typically refers to life or lifespan. Its latest meaning is more or less similar to the Sanskrit word kalpa and Hebrew word olam . A cognate Latin word aevum or aeuum (cf. αἰϝών) for "age" is present in words such as longevity and mediæval.[1]

Although the term aeon may be used in reference to a period of a billion years (especially in geology , cosmology or astronomy ), its more common usage is for any long, indefinite, period of time.


[edit ] In Cosmology

Roger Penrose uses the word aeon to describe the period between successive and cyclic big bangs within the context of conformal cyclic cosmology . In this theory, the remote future of the previous aeons becomes the Big Bang of subsequent aeons.

http://en.wikipedia.org/wiki/Aeon


2011年01月31日(Mon)▲ページの先頭へ
北魏と馮太后の母権文化:ソグド人とツングース民族:母権天皇文化:マニ教とシャーマニズム
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能

先に、飯山一郎氏の卓抜な北魏の馮太后論に対して、馮太后は母権天皇文化を体現するのではないのかと直観を述べた。2のKaisetsu氏による北魏とソグド人の関係の指摘が実に意義深いと言えよう。何故なら、ソグド人が北魏に一つの母権文化をもたらしたと考えられるからである。すなわち、先に、孝文帝の「帝国」は父権と母権の折衷であると仮説したが、その母権文化の一面はソグド人的なものと考えられるのである。
 そうすると、ソグド人の母権とツングース系馮太后の母権の複合と仮説できる北魏の母権文化が、やはり、天皇母権文化の起源とみることができるだろう。
 しかしながら、北魏の父権と母権との折衷における父権的要素が、ユダヤ的要素と結びついて、父権的「天皇制」を形成したということかもしれない。
 また、ソグド人がマニ教と関係することも興味深い。思うに、日本に入ってきたアジア母権複合文化とは、基礎がマニ教的なのかもしれない。しかし、イデオロギー的にはツングース的な母権天皇文化ではないだろうか。
 後で整理したい。

追記:本日、飯山氏の新しい記事が掲載されたので、最後に転載する。
 

1)

*

馮太后とは何か:私の直感では、母権天皇文化を体現する:卑弥呼に似る

コメント(0)

Sun, January 30, 2011 new

http://ameblo.jp/renshi/entry-10784652738.html

*

天皇制の問題:北魏の母権と父権の折衷主義と日本の父権的「天皇制」と母権天皇文化

コメント(0)

Sat, January 29, 2011

http://ameblo.jp/renshi/entry-10783394450.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

2)

北魏政権とソグド人
http://blog.kaisetsu.org/?eid=812501
涼州安氏と李将軍の死
1 user このエントリーをはてなブックマークに追加
kaisetsu kaisetsu
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

3)以下、強調はrenshiによる。

◆ 2011/01/30(日) 金王朝の “深い深い謎” −64−

『 馮太后いでずんば今日の中国・日本は、なし! 』
北魏の馮太后。
彼女は、出自こそ『北燕国』の王族だが、『北魏』では政治犯の娘だった。
この最悪・最低の身分であった彼女が、宮中に下女として入り、やがて…、
『北魏』の皇后にまで登りつめることができた、その秘密を一言で表現すれば…、
シャーマニズム!
ツングースのシャーマニズムである。
この凄まじさを、彼女は、遼寧省のどこかで身につけていたのであろう。
http://grnba.com/iiyama/

◆ 2011/01/31(月) 金王朝の “深い深い謎” −65−
めぐみさん 金正恩
目もと、鼻のつくり、小さな口…、たしかに…、
めぐみさんの写真はココから
馮太后1 馮太后2
馮太后は天性のシャーマンだった! ( “漢流ドラマ”『北魏馮太后』から )
『 28年で滅亡した流れ星のような国家「北燕」が、カギ! 』
皆さん、こんにちは! 飯山一郎です。今週もよろしくお願いします。
先週は『北魏』の話が長々と続きました。ほとんど1週間、『北魏』の話をしました。
『北魏』という国は、それほど重要なのです。
中国も、日本も、『北魏』から歴史が始まった!! こういっても過言ではない。
ただし歴史を語る際、人間=人物を抜きに語ってはいけない。
歴史は、人間=人物=権力者=支配者によってつくられるのですから。
マルクス史観の「下部構造論」は経済学としては有効だろうが、上部構造に属する
権力者・支配者が、下部構造を激変(革命)させる場合が多い。これが歴史の魅力
なのだが、マルクス主義の歴史学者は人物を描こうとしない。
マルクス主義経済学が面白くないのは、魅力ある歴史上の人物が不在だからだ。

『北魏』の歴史も幾多の評者によって語られてきたが、馮太后という人物抜きの話
だった。馮太后いでずんば今日の中国・日本は、なし! という視点は皆無だった。
さらに『北魏』と『馮太后』と『北燕』の重要な関係に気づいた評者もいなかった。
『北燕』は、わずか28年で滅亡した流れ星のような国家だったから仕方ないが…。

それにしても、『北燕』という“流星国家”の輝きは、日本にとっては “国生みの灯”
とも言うべき、神の後光がさしたように煌(きらめ)く 灯(あかり)だった。

『北燕』の歴史は、『北燕帝紀』に詳説されているが、驚愕の表現がある。
 409年後燕の将軍馮跋〔漢人〕 は、燕王慕容雲が近臣に殺されると、自ら天王の位
につき、国を同じく燕と号し、また竜城 を都とした。初めは綱紀の粛正につとめ、契丹族
を宣撫し、また租税を軽くし、農業を奨励したが、のちには邪教を信じ 、諫臣をしりぞけ、
国勢はふるわなかった。
この「邪教を信じ…」の部分を読んで、私は度肝を抜かれ、腰も抜けた!
『北燕帝紀』は漢人によって書かれた。
それで「邪教を信じ…」の部分は、「後燕の将軍馮跋〔漢人 〕」を非難した」ものだ。
つまり漢人が、鮮卑の地、竜城=柳城で、鮮卑の邪教を信じたことを非難した…、
というワケなのだ。
これは、「卑弥呼の鬼道」と同じ感覚だ。つまり、漢人からみると…、
烏丸も鮮卑も匈奴も扶余も、異郷の異教は、「邪教」であり「鬼道」なのだ。

しかし…、
この「邪教」や「鬼道」。これこそが、シャーマン・ツングースの証(あかし)、秘儀…、
すなわち『ツランの秘儀』に連なるシャーマン(霊媒)の秘密の扉(とびら)なのだ。

そして…、
『北燕』の王家の娘 『北魏の馮太后 』は シャーマン(霊媒)の秘密の扉(とびら)
その奥の奥で展開された『ツランの秘儀』。それを確実に見ていた!
卑弥呼 のように。
そして…、
1600年後の横田めぐみ のように。

色棒1
たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 _


2011年01月08日(Sat)▲ページの先頭へ
日ユ同祖論問題と古代日本:日本人の起源が今や最大のミステリー:付録:両部曼荼羅とPS理論
安直な日ユ同祖論・期待論には納得がいかない
http://ameblo.jp/hex-6/entry-10759557988.html
HEXのブログ


# 古代、日本は朝鮮の植民地!?
http://ameblo.jp/adco/entry-10761032138.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


日本と倭は異なる。古代日本(7c以降)にとって百済人は居候
http://blog.kaisetsu.org/?eid=812377

任那日本府は任那加羅(任那加良)、安羅日本府、金官加羅、在安羅諸倭臣等任那諸國旱岐
http://blog.kaisetsu.org/?eid=812381
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

私見では、先に述べたように母権文化がベースとなって、その上に父権文化が形成されたのが、日本であり、いわば、母父権文化が日本である。
 天皇制もこれがベースだと思う。しかし、日本史において、父権的要素が権力化して、ベースの母権文化を否定するような事態になったのではないだろうか。それが、たとえば、尊王攘夷的二元論である。
 思うに、本来の日本文化とは、感性(母権)をベースにした知性(父権)の文化ではないだろうか。
 しかし、父権性が独立的になるにつれて、この均衡文化は崩壊して、短絡的な文化、日本父権文化が生まれたのではないだろうか。
 そして、これが、日本社会主義、日本唯物論の起因ではないだろうか。


追記:父権的権力が母権文化を否定するような傾向はあったろうが、それより根源的に母権的心性が衰退、劣化する事態が史的に生じたのではないだろうか。折口信夫が日本人の宗教は鎌倉時代以降衰退し続けてきたと述べていたことは、この点と関係しそうである。
 神道的感性的精神と仏教の他者精神の融合が根源的日本文化だとすると、その母権的感性・心性・精神が、だんだん衰退していったと考えられる。
 宗教・神秘的に言えば、秘儀・密儀の精神、芸術的に言えば、象徴的視点が失われていったのではないだろうか。
 もっとも、秘教は陰陽道等に受け継がれたと言えようが、それが、迷信的なものと結びついていったのではないだろうか。
 日本において、秘教を発展させたのは、当然、空海である。その密教知性はすばらしい。
 思うに、空海から秘教的知性が停滞したのではないだろうか。というか、空海の偉業を発展的に継承する宗教「科学者」がいなかったのではないだろうか。
 最後に曼荼羅、両界曼荼羅について言及すると、この内的宇宙論は、PS理論で言えば、根源的Media Pointに関係すると言えよう。名づけるならば、Media Point Cosmosである。
 では、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅はどう説明できるだろうか。PS理論から見て、金剛界曼荼羅の幾何学的模様がより興味深いだろう。どうも、ガウス平面や単位円や人間認識図/メディスン・ホイールを想起する。
 そうならば、金剛界曼荼羅は、内界を直観で捉えた美術ではないだろうか。
 では、胎蔵界曼荼羅とは何か。これは、内界から外界へと展開するときの多様性を描いたものではないだろうか(以下の下線部赤文字の説明が裏付けになるだろう)。思いつきであるが。
後で検討したい。


ファイル:Kongokai.jpg

九会から成る金剛界曼荼羅



ファイル:Taizokai.jpg

胎蔵曼荼羅

両界曼荼羅
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※新義真言宗
真言宗室生寺派
- 真言律 -
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台密
(〈日本〉天台宗 )
信仰対象
如来 菩薩 明王 天
経典
大日経 金剛頂経
蘇悉地経 理趣経
思想 基本教義
即身成仏 三密 入我我入
曼荼羅 護摩
東密
古義 (広沢流 小野流 ) 新義
関連人物
東密
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龍智 金剛智 不空 恵果
空海
真言律
叡尊 忍性 信空
台密
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両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、密教 の中心となる仏である大日如来 の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅 である。大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。個々の「仏」の像を絵画で表したもののほか、1つの仏を1文字の梵字(サンスクリット を表記するための文字のひとつ)で象徴的に表したものもある。
両界曼荼羅の起源と日本伝来 [編集 ]

胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵生曼荼羅)は「大日経 」、金剛界曼荼羅は「金剛頂経 」という密教経典をもとに描かれている。大日経は7世紀 の中頃、インド で成立したものと言われ、インド出身の僧・善無畏 (ぜんむい、637年 − 735年)が弟子の一行(いちぎょう、683年 − 727年)とともに8世紀 前半の725年 (開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。一方の金剛頂経は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、大日経が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧・金剛智 (671 年 − 741年)と弟子の不空(705年 −774年)によって漢訳されている。なお、金剛頂経は、十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18のさまざまな機会に説いた説法を集大成した膨大なものであるが、金剛智と不空が訳したのは、そのうちの初会(しょえ)のみである。この初会のことを「真実摂経」(しんじつしょうぎょう)とも言う。

いずれにしても、「大日経」と「金剛頂経」は同じ大日如来を主尊としながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2つの経の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海 の師である唐僧・恵果 (746年 − 805年)であると推定されている。恵果は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、宮廷絵師李真に命じて両界曼荼羅を描かせ、空海に与えた。空海は唐での留学を終えて806年 (大同 元年)帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。

空海が持ち帰った彩色両界曼荼羅(根本曼荼羅)の原本 および弘仁12年(821年)に製作された第一転写本 は教王護国寺 に所蔵されていたが失われており、京都・神護寺 所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)は彩色ではなく紫綾金銀泥であるが、根本曼荼羅あるいは第一転写本を忠実に再現したものと考えられている。
胎蔵曼荼羅の構成 [編集 ]

胎蔵曼荼羅は、詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅といい、原語には「世界」に当たる言葉が入っていないが、金剛界曼荼羅に合わせて、古くから「胎蔵界曼荼羅」という言い方もされている。 曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。大日如来の周囲には4体の如来(宝幢−ほうどう、開敷華王−かいふけおう、無量寿 −むりょうじゅ、天鼓雷音−てんくらいおん)と4体の菩薩(普賢菩薩 、文殊師利菩薩 、観自在菩薩 、慈氏菩薩 )、計8体が表される。

なお、通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について胎蔵界曼荼羅・胎蔵曼荼羅の2つが併用されているが、密教学者・頼富本宏は『曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として』において「曼荼羅の典拠となった大日経と金剛頂経のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語(注:両部曼荼羅)のみを用いている」「即ち金剛頂経には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、大日経では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵生曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵界曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いている。また頼富本宏は、円仁・円珍・安然など天台密教(台密)が興隆すると修法のテキストにあたる次第類の中に「胎蔵界」と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の語が使われるようになったとする。
胎蔵曼荼羅
外金剛部院
文殊院



釈迦院







院 遍知院 金




中台
八葉院
持明院
虚空蔵院
蘇悉地院

中台八葉院の周囲には、遍知院、持明院、釈迦院、虚空蔵院、文殊院、蘇悉地(そしつじ)院、蓮華部院、地蔵院、金剛手院、除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぶ)院、またの名は最外(さいげ)院が位置する。これは、内側から外側へ向かう動きを暗示し、大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという。

さらに、胎蔵曼荼羅は、中央・右・左の3つのブロックに分けて考えることが必要である。 図の中央部は大日如来の悟りの世界を表し、向かって左(方位では南)には聖観自在菩薩(観音菩薩)を主尊とする蓮華部院(観音院)、向かって右(方位では北)には金剛薩埵(こんごうさった)を主尊とする金剛手院(金剛部院。薩埵院)がある。蓮華部院は如来の「慈悲」を、金剛手院は如来の「智慧」を表すものとされている。
金剛界曼荼羅の構成 [編集 ]

日本で一般的に用いられる金剛界曼荼羅は、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成る。これはひとつの曼荼羅の9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅の集合体と考えるべきものである。
九会から成る金剛界曼荼羅
チベット仏教 の金剛界曼荼羅
成身会一会のみから構成されている。


四印会

一印会

理趣会


供養会

成身会

降三世会


微細会

三昧耶会
降三世
三昧耶会

中心になる成身会の中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。大日如来の東・南・西・北には阿閦 (あしゅく)・宝生如来 ・阿弥陀如来 ・不空成就如来 の4如来が位置する(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来 という)。各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。

三昧耶会、微細会、供養会は中央の成身会とほぼ同様の構成をもっており、四印会はそれをやや簡略化したもの、一印会は他の諸仏を省いて大日如来一尊で表したものと考えて大過ない。

曼荼羅画面向かって右に位置する三会の曼荼羅はこれとはやや構成が異なる。理趣会は金剛薩埵を中尊として、欲望を擬人化した菩薩がこれを取り囲む。これは、欲望を単に煩悩として否定するのではなく悟りを求める心に昇華 すべきだという理趣経 の理念を図示したものである。 降三世会は仏菩薩が憤怒の姿を現したものとされ、代表して金剛薩埵が恐ろしい形相をした降三世明王の姿で描かれている。降三世三昧耶会は降三世会を三昧耶形 で描いたものである。これらの諸尊もすべては大日如来の悟りが形を変えて現われたものであり、すべては大日如来一尊に由来するということを表現したものと思われる。
金剛界八十一尊曼荼羅

なお、金剛界曼荼羅でも九会ではなく一会のみからなるものもある。金剛界八十一尊曼荼羅とよばれるもので、主に天台宗 で用いられる。

その構成は九会金剛界曼荼羅の成身会にほぼ同じであるが、三昧耶会、微細会、供養会にあらわれる「賢劫十六尊」という菩薩を追加し、四隅に降三世会、 降三世三昧耶会にあらわれる明王を描いている。いわば一会をもって九会を代表する構成といえる。

胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられる。
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カテゴリ : 真言系仏教 | 曼荼羅


2010年12月04日(Sat)▲ページの先頭へ
「中国人がやってくる」5:母権主義と唯物論:超越的精神の肯定へ向けて
「中国人がやってくる」5:母権主義と唯物論:超越的精神の肯定へ向けて

テーマ:東アジア共生共創圏(東アジア共同体)
アジアにおける「共産主義」であるが、これは、結局、マルクス主義からわかるように、被抑圧側からの「反動」思想である。
 少なくとも、最初は、不正義に対する正当な反抗がある。しかしながら、この反抗も結局、自我、近代的自我、とりわけ、唯物論的自我に根差しているので、反動になるのである。革命主義が歴史において、例外なく反動となったとは、これが原因と考えられる。
 そう、唯物論的自我、これは、正に、悪魔的自我である。ここには、他者はなく、正当化すべき自我があるだけなのである。
 私見では、中国共産党はこれに染まっている可能性がある。唯物論的自我はイデオロギーであるために、容赦のない苛酷なものとなるのである。スターリン主義とはそのようなものである。
 とは言え、問題は、19世紀のロシアが20世紀のソ連になったのはどうしてなのか、これが実に問題である。
 私が以前から思っているのは、共産主義化する国は母権主義の国である。これは、PS理論の人間認識図で言えば、凹i⇒+1である。第四象限である。
 母権である凹iが、唯物論的に+1に結合してしまうと考えられる。そう、不正義への反感においては、凹iは-1の要素を持っていたが(追記:ここは微妙である。善は凸i⇒-1の第二象限に属する。この点は再考したい)、唯物論的に意識化すると、⇒+1へと転化するのである。これが、魔道である。
 これは、中国だけでなく、ロシア、日本、北朝鮮等にも適用できることである。
 超越的精神性の肯定、これによって唯物論的自我から脱出できるのである。

追記:19世紀のロシアは、すばらしいロシア文学を生んだ。その代表であるトルストイやドストエフスキーの文学は宗教性が強いのである。ロシア文化がもつ宗教性、ロシア正教を、ボルシェビキは否定したのである。唯物論的狂気がロシア文化を破壊したのである。
 結局、資本主義の問題とは、唯物論性、そして、根源は同一性にあると言えよう。
 資本主義に精神性を取り戻すこと、これはどうしたら可能か。私は、資本主義生産は共同的生産であると述べている。資本主義的共同主義という精神性を確認すべきなのである。

追記2:因み、米国はキリスト教的民主主義の国である。

注:以下、下線、赤色文字の強調はrenshiに拠る。

★ 2010年12月03日金曜日 20時更新

・・・・・

 ■ 中国人がやってくる その5

 山東省済南市で医師を開業していた山崎宏さん(102)が亡くなった。山崎さんは旧日本軍の残虐行為を許せずに脱走し、日本敗戦後も現地にとどまって、65年の間、「赤ひげ医」を地で行く良心的な医療を続け、地域の広い尊敬を集めてきた。
 訃報を聞いて、生前の山崎さんの献身的医療に世話になった地元住民が数千人も集まり、冥福を祈った。

 中国マスコミの論調は、残虐行為を恥じた旧日本兵が贖罪の医療奉仕活動を行って死んだというもので、「悪事を働いた日本人だから当然」というニュアンスが多い。
 人間として良心に生きる信念を脱走処刑を覚悟して貫き、敗戦後も加害国日本人として謝罪の意を行動で示し、利他思想を体現した人生を正当に評価する記事はほとんど見られない。
 しかし、山崎さんを直接知る済南市の人たちは、真の畏敬と心からの感謝で悼み送ろうとしている。人々に、こんなに心から敬愛される人は中国の役人には一人もいない。だからジェラシーを感じているのだろう。

 中国には、ウソにまみれた下心で上からお仕着せた低俗な賛辞が溢れているが、人間としての原点に立つ良心の立場で語る声がほとんど聞かれない。そこには、権力によって無理矢理ねじ曲げられた人間性と、国家の重荷に喘ぐ人々の、天を仰ぎ見る苦難のため息だけが聞こえてくるのだ。
 虚偽に満ちた砂上の楼閣である中国で、いったい何を信じたらよいのか分からず彷徨う若者たちは苦悩に苛まれ、次々と精神疾患になってゆく。今や、中国における精神異常者の数は人口の二割、数億人ともいわれるほどだ。
http://datefile.iza.ne.jp/blog/entry/1082888/

 虚構捏造ばかりの、やりきれない社会のなかで生きてゆこうとすれば、人々の心を支えるものが目先の享楽、蓄財、贅沢だけになるのは当然だ。日本だって程度の差こそあれ同じような状況だから、そんな心のメカニズムは容易に理解できるだろう。
 中国人が目先の浅薄な物質的価値観のみに囚われることで、自分たちの、そして子供たちの未来さえ根底から破壊しながら、地獄に向かって切れ落ちた断崖に向かって突進している有様を嗤えるほど日本人は立派ではない。我々だって、彼らほど極端ではないが、同じ地獄に向かっていると知るべきだ。
 目先の安楽のために、子供たちの未来に返済不能の莫大な借金や、放射能廃棄物を押しつけている輩が、どうして偉そうに中国を批判できようか?

 中国人を、これほどまでに追いつめているものは何か? 我々は、はっきりと敵の正体を見極めなければならない。
 少なくとも、今から50年前までは、中国は物質的に貧しくとも、本当に心豊かな理想郷を体現していたはずなのだから。いったい何が、中国と中国人を狂わせたのだ?
 そして、どうしたら中国を心豊かな国にすることができるのか?

 チベット・ウイグル・尖閣問題、それに法輪功に対する極悪非道、人間の所業とは思えぬ悪魔的弾圧などを見せつけられていると、中国政府役人はこの世のモノとも思えぬ極悪人ばかりという印象だが、我々は中国政権と民衆をはっきりと分けて考えるべきだ。
 中国共産党の支配する中国政権は、崩壊を約束された悪臭を放つ腐敗物にすぎない。もはや、それを救済するいかなる手段もありえない。我々は、腐敗食品がやがて形を失って土に還るように、それを眺めるしかないようだ。
 だからといって、中国人民が一緒に消えてゆくわけではない。終末の大混乱のなかで、凄まじい人々が死んでゆくだろう。しかし、必ず生き残る人たちがいて、かなりの人々が日本に押し寄せ、そのまま日本列島の新住民になる事態も避けられないだろう。

 日本人のなかに宮崎政弘のようにネトウヨの背後から「シナ人」という表現で、戦前の傲慢中国人に対する侮蔑感情を洗脳しようとしている輩がいる。ネットには、日本人が優越的で中国人が劣等的であるかのような思い上がりが満ちている。
 確かに、中国政権のあまりにも愚劣な姿勢を見せつけられていると「中国にはバカしかいない」と思いたくもなるが、我々は、日本人だって五十歩百歩の愚劣さに堕ちている現実を知った方がいい。
 というより、地上の人類は、すべて同じ平等な人間であって、ただ環境のなかで洗脳されて暴走を繰り返すのだ。だから器次第で、愚かに見える人たちだって、社会を共に支える仲間になることができることを忘れてはいけない。
 やがて国家崩壊に伴う中国人避難民が日本に押し寄せたとき、宮崎氏やネトウヨ的侮蔑感情では大きな不幸を招くしかない。

 すでに何度も書いてきたが、これほどに腐敗した中国政権と、道徳倫理、利他思想を見失った中国国民は、その必然的帰結として、凄まじい業火に焼かれる運命を免れ得ない。
 具体的には、イケイケドンドン的高揚期には起きなかった巨大事故も、経済停滞とともに一気に吹き出すだろう。

 まず、一番恐ろしい事態は、今年に入ってから、すでに数回も放射能事故を繰り返している上海周辺の原発だ。中国のような露骨な隠蔽体質では、情報公開で批判に晒されることによって成熟することができる改善改良も不可能であり、ハインリッヒの法則どおり、あるいは、それ以上に巨大事故のリスクが爛熟していると考えるべきだ。
 http://www.epochtimes.jp/jp/2010/11/html/d19787.html

 こうした視点で、中国がチェルノブイリ級か、それ以上の大事故を発生させるのは時間の問題と断言してもよい。だが、それは必ず朝鮮半島や日本列島にも大規模な放射能汚染をもたらし、地球全土を取り返しのつかないほど汚染し人類の未来を暗雲に包むにちがいない。

 世界最大の長江三峡ダムもまた、中国名物オカラ工事によって、その崩壊が時間の問題と指摘されている。ダム湖は数百キロにわたって不安定な崩壊山岳に囲まれていて、その満水圧力による地盤崩壊が、すでに数万カ所も発生しているといわれ、やがて超大型の深層崩壊が予想されている。430億トンの貯水に、数億トンクラスの崩壊土石流が流入すれば、貯水は一気に脆弱な堰堤を越えて、ダム本体を破壊するリスクが極めて高いのである。

 その他にも、中国は、その愚かしい隠蔽体質によって、あらゆる危険が隠されたまま、恐ろしい運営が行われている事業者が無数にあり、インド・ポパールで起きたような凄まじい事故も発生することだろう。
 こうした事故によって、住居を失う環境難民が数億人以上出る事態が予想されている。そうなれば、利他思想を失った中国では利権衝突から内乱に至る事態が避けられないと考える必要があるだろう。

東海アマチュア無線  地震予知研究会






「中国人がやってくる」:母権主義と父権主義:これは、日本の覚醒になると思う

テーマ:東アジア共生共創圏(東アジア共同体)

以下、東海アマ氏の主張はよくわかるのである(現象的には首肯できる部分がある)。私もそれなりに中国人を知っているのである。
 中国文化は北方と南方がある。日本文化は南方に共感するのである。美術からそれは言えるのである。
 思うに、中国文化とは本来、母権文化であるが、それが、父権文化に蚕食されていると私は思っている。
 この母権文化を中国人自身がよく理解していないのではないだろうか。
 例えば、儒教も母体は母権主義である。それが、父権的志向性をもっていると私は考えている。
 そして、日本も、この母権文化をベースにした東洋文化を受容してきたのである。
 ただし、日本文化において、先に述べたように、イスラエル民族的な強力な父権文化が参入した可能性があるのである。
 ある意味で、両極端な文化が日本において、衝突したのである。
 しかし、日本は本来的に母権主義であり、それが、内面、精神的な文化・社会を生み出したと考えられる。
 そう、中国文化も本来、日本文化に似ていると思うが、しかしながら、父権文化の圧倒的支配の下、分裂的な様相を帯びたように思われる。
 主観では、中国では、母権文化と父権文化が分裂しているのである。それを共立させる視点は日本にあると思う。ただし、近代日本は、父権主義的になり、本来の母権主義を喪失してしまっている。
 ここで欧米の近代史について触れると、実は、ルネサンスとは、母権主義、東洋主義の覚醒である。しかし、キリスト教的西洋はこれを受け入れられないのである。
 また、飛躍するが、オバマ大統領は本質的に母権主義、東洋主義である。
 つまり、今日、西洋においても、東洋的精神と西洋的精神との葛藤があるということである。
 本題に戻ると、中国人は確かに問題が多いが、本来、中国人は母権的民族である。ここを確認する必要があるのである。
 日本人としては忍耐がいるが、母権主義という点では、日本人と中国人は理解できるのである。
 思うに、ある意味で、中国人の方が日本人より、母権主義的である。日本人は、天孫降臨民族からわかるように、基底の母権主義が父権化されているのである。

追記:近代の父権主義とは、唯物論も含まれる。

追記2:母権と父権を共立させる今日的視点は、正に、PS理論に存する。凹i*凸i⇒+1に存する。又、根源を考えると、
-1⇄凹i*凸i⇒+1となるのではないかと今考え中であるが。

追記3:-1⇄凹i*凹凸i→凸i*凹i⇒+1だろうか。→の意味を明確にする必要がある。



★ 2010年12月01日水曜日 16時半更新

 昨日、M6.9発生直後からとんでもない異常体感が続いたが、今日はやや収まっている。しかし相変わらず2004年スマトラ大震災の前に似た体感が続いている。

 ■ 中国人がやってくる その3

 拾ったカネを届け出たら「大馬鹿者」の大合唱http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101130-00000064-scn-c n

 【街頭での靴修理を商売にしている文和発さん(60歳)はこの3日間ほど、知り合いに会うたびに「大馬鹿だな、お前は」と言われっぱなしだ。拾った8800元(約11万円)を警察に届けたからだ。中国新聞社が報じた。
 文さんはいつも、重慶市の渝北区劉山路で靴修理の商売をしている。26日午後7時ごろ、「そろそろ帰ろうか」と思い休憩していると、歩道の点字ブロック に小さな箱のようなものがあるのを見つけた。日が暮れていたのでよく見えなかったが、なにげなく手に取って近くの店のあかりを使って確かめると、ゴムバン ドで包んだ札束だった。全部が100元札。驚いていると人が集まりはじめた。衆人注視の元で数えてみたら、全部で8800元あった。
 普段ならとっくに家に戻る時間だったが、文さんは「もしかしたら、落とした人が探しにくるかもしれない」と思い、午後9時ごろまで待っていた。「多くの人が知った方が、落とし主に伝わりやすい」と考え、道を通る人に「お金を落とした人はいませんか」と言い続けた。
 文さんに事情を聞くと、「馬鹿か」と言い捨てて去る人もいた。しかし、肝心の落とし主はあらわれなかった。
 帰宅した文さんは、とりあえず札束をたんすの一番下の引き出しに入れた。大金を保管していることで緊張して、食事の味も分からず、よく眠れなかったという。翌朝起きてさっそく、札束を警察に届け出た。「やっと、肩の荷をおろすことができたんだ」という。
 それ以来、知人に会うたびに「お前は大馬鹿だ」と言われっぱなしだという。文さんは、「みんな、力を込めて同じことを言う」、「自分では普通と思っている。馬鹿と言われて、いい気分ではない」とにが笑いする。
 文さんは四川省の出身だ。重慶市に来たのは2005年。妻と一緒の借家住まいで、家賃は月600元。光熱費として200元程度が必要だ。1日の売上げは20−30元で、妻は靴磨きで10元ほど稼ぐ。収入は生活費などとして消え、いくらも残らない。
 8800元は、ほぼ半年分の収入だ。「自分のものにしようとは思いませんでしたか」と聞かれた文さんは「ちっとも思わなかったよ。だって、自分のものじゃないからね」と答えた。】


 中国の99%以上の人が知るはずもない尖閣諸島について、7割以上の人たちが「日本が強奪した中国固有領土」と決めつけ、半数が「武力で奪還せよ!」と主張していると政府系世論調査が示しているらしい。
 どうして、そんな理不尽な理屈がまかり通るのか? 日本人にとって信じがたいことだが、上に挙げたニュースにおける民族的精神性を見れば容易に想像がつきそうだ。

 一言でいえば、中国には強烈なメンツと強欲があるが人間性・道徳性が実に未熟である。それは、あたかもワガママ盛り、五歳の幼児の精神性を見ているようだ。
 筆者の知る中国人の共通点といえば、失敗したとき、まず絶対に自分の間違いを認めないで他人のせいにする。何を置いても自分のメンツを守ろうとすることだ。

 例えば、こんな記事がある。
 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1129&f=national_1129_196.shtml
 泥棒を働くのは日本が不景気だからと、中国政府当局が正当化の解説をする屁理屈を見て呆れずにすむ人はいないだろう。筆者のところはゴミどころか、中国 人廃物屋が買ってまもない鍬やバールなど大切な工具類を、留守にしているとき木戸を開けて勝手に入り込み持ち去っていった。
 もし捕まえても、彼らは絶対に泥棒を認めず、屁理屈で誤魔化そうとするだろう。

 六歳の少女に強制猥褻を働いた役人を捕まえても、うんざりする屁理屈だ。これが中国人というべきかもしれない。
 http://news.livedoor.com/article/detail/5174977/

 こんな人間的に未熟な人たちが、世界最大の生産力を獲得し、世界中のカネを集め、他人に対する思いやりのカケラもないまま、強欲だけを前面に出して、「地球は全部、自分たちのモノ」といわんばかりに盲進しているわけだ。

 日本人が同じ拾得物を発見したら、まず半数以上が自発的に警察に届けるだろうし、それを大馬鹿者など言おうものなら社会全体に糾弾されることになる。
 こうした歴史的・普遍的に行き渡った道徳・倫理観が、世界的に見ても犯罪の少ない「日本の良き社会」を支えてきたことを我々は良く知っているはずだ。

 近年、金儲け目的で労働者を追いつめる企業経営者たちによって、こうした他人の幸せを第一に考える、昔ながらの日本らしい思いやりの道徳・倫理観が破壊されていることから日本社会が根底から崩壊しはじめていると認識する人が多いはずだ。
 人は容易に変わるものだ。カネの魔力に魅入られ、人間のための道具にすぎないはずのカネで、人間が支配でき、人間よりも高い価値だと勘違いして暴走する人など、我々はいくらでも見てきた。

 中国だって、昔からこんなひどい強欲利己主義民族だったわけではなく、長い間、貧しさのなかで自然と調和して心豊かに生きる精神性が育まれてきた。戦 後、行き場を失って中国に取り残された残留孤児たちを暖かく育ててくれた優しい人々だって中国人だったことを忘れてはいけない。
 だが、中国共産党政権によって、陳腐な一党独裁資本主義が持ち込まれ、ヘイハイズの奴隷労働によって世界中からカネが集まるようになり、人々が強欲に目覚めて一斉に暴走し始めたのである。カネが中国人の精神性を貶め、変えてしまったのだ。
 元々、メンツ至上主義だった儒教風土に強欲が加わり、見るもおぞましい精神風土が成立してしまったといえなくもないが、それは日本人のなかにも、たくさん見てきたことを忘れてはいけない。

 だが、中国では、日本と比較して明らかに倫理観が崩壊している。プロセスにおける道徳・倫理など問題にせず結果として得るものを重視するという短絡的価値観に国ぐるみ支配されている。
 だからといって、道徳性の劣った中国の人々に対し「シナ人」と蔑称を投げつけて事足れるとしているネトウヨの愚か者は、所詮、彼らと同じ精神的レベルに すぎず、いっそ中国に移住すべきだろう。問題は、「なぜ、そうなったのか?」という視点であり、これからどうなるのか? 問題をどう解決するのか? とい う理性的分析と方法論を検討することだ。

 こうした精神性の腐敗、程度の低い倫理観が国中に蔓延した結果、中国では恐ろしい事態が起きている。
 官僚から庶民まで、徹底した利己主義価値観のなかに放り込まれ、目先の金儲けのためには、他人を騙しても、地球を破壊しても、自分たちや子供たちの未来を破壊しても屁とも思わない精神風土が何をもたらしたのか?
 それはそれは恐ろしい結果が生まれたのである。






2010年11月27日(Sat)▲ページの先頭へ
古代日本は古代ギリシアに酷似する:光と闇の陰陽文化:可視的古代ギリシアと不可視的古代日本
天孫降臨の父権的民族は、古代ギリシアの父権的民族に類似する。それは、「アポロ」的民族である。直観では、ゾロアスター教に似た文化をもつ。視覚・美術的民族である。外的志向性をもつ。
 それに対して、土着的先住民がいた。それが、国つ神の民族(縄文・弥生的民族:アジア南方と北方の融合的民族:海洋性と山岳性の融合した民族)であり、古代ギリシアでは、母権的な農耕民族、且つ、東地中海の海洋的民族、即ち、「ディオニュソス」的な民族である。これは聴覚・音楽的民族である。内的志向性をもつ。
 前者が「光」=「火」の民族であり、後者が「闇」=「水」の民族である。(因みに、「天」(アマ)は「雨」(アメ)である。)
 そして、古代日本、古代ギリシアにおいて、両者が出会い(衝突して)、差異共立・共振して、新しい民族文化が生まれたのである。
 それは、「陰陽」文化と広義に言えるだろう。それは、知的感性、感性的知性の文化である。神話・芸術があり、また、哲学・科学があるのである。
 古代ギリシア文化については、今更言うまでもないが、古代日本に関して、解明する必要があろう。
 直観では、古代ギリシアよりも母権文化に傾斜した文化である。それは、神道に表れていると思う。それは、不可視の世界を直観する精神の誕生だと思う。端的に、神道文化が生まれたのだと思う。古代ギリシア文化は父権的傾斜があるので、美術文化を生み出した。
 しかし、日本は目に見えない世界の精神文化、神道・多神教文化を生み出したのではないだろうか。
 古代ギリシアは外界的造形に向かったが、古代日本は内界的直観に向かったのではないだろうか。
 それは、人間認識図では、第三象限文化である。とまれ、古代日本は二重視覚をもったと思う。肉眼と心眼である。そして、心眼が根本であったと考えられる。
 この心眼を映す鏡が神鏡、八咫鏡ではなかっただろうか。

追記:飛鳥時代、仏教文化を受け入れたのは、母体の神道文化である。神道と仏教は見事に調和したのである。

追記2:古代ギリシア人が外界的造形に向かったの言うのは、不正確である。内界的精神の造形を行なったの言うべきであろう。外界的造形へ向かったのは古代ローマ人である。
 古代ギリシアの「アポロ」的精神とは内界的な美術的精神と見なくてはならない。


ニニギ
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(瓊瓊杵尊 から転送)
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神道
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表 ・話 ・編 ・歴

ニニギ(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎ)は、日本神話 に登場する神 である。
神話における記述 [編集 ]

『古事記 』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、天邇岐志、国邇岐志、天日高日子、『日本書紀 』では天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊、天津日高彦瓊瓊杵尊、彦火瓊瓊杵、火瓊瓊杵などと表記され、一般には瓊瓊杵尊や瓊々杵尊、邇邇芸命(ににぎのみこと)と書かれる。

天照大神 の子である天忍穂耳尊 と、高皇産霊尊 の娘である栲幡千千姫命 (萬幡豊秋津師比売命)の子。兄に天火明命 (あめのほあかり)がいる。『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。

天照大神の命により、葦原中国 を統治するため高天原 から地上に降りたとされる。これを(天孫降臨 )と呼ぶ。『古事記』では、この降臨の地については「竺紫の日向の高穂の久士布流多気に天降りまさしめき」と記述している。『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している。

この降臨の経路の解釈ついては、日向国 の高千穂峰 に降り吾田国(現在の南さつま市 )の長屋の笠狭碕に到達したとする説が有力である。

一方、行政上、日向国が設置されたのは7世紀であり、それ以前の時代には日向国地域は熊曽国 に含まれていたとして、『古事記』の「竺紫」=「筑紫」、日本書紀の「筑紫」から、降臨地は「筑紫国 の日向」であって後世の「日向国」ではないと解釈する異説がある。 降臨した時期について、『日本書紀』巻第三(神武紀)は、神武天皇即位年より179万2470余年前のこととしている。

そこで大山祇神 の娘である木花之開耶姫 を娶り、火照命 (海幸)・火闌降命 ・彦火火出見尊 (山幸)を生んだ。彦火火出見尊の孫が神武天皇 である。亡くなった後は「可愛の山陵」に葬られた。


解説 [編集 ]

名前の「アメニギシクニニギシ」(天にぎし国にぎし)は「天地が豊かに賑う」の意。「アマツヒコ」(天津日高)は天津神 のことで、「ヒコ」(日子)は男性のこと。「ホノニニギ」は稲穂が豊かに実ることの意味である。「ニニギ」は「ニギニギしい」の意で、「にぎやか」と同源語である。神話上ニニギの一族とされている上述の天忍穂耳尊や火照命・火闌降命・彦火火出見尊とは名前に稲穂の「ホ」がある点で共通している。

農業の神として信仰されており、霧島神宮 (鹿児島県 霧島市 )、高千穂神社 (宮崎県 西臼杵郡 高千穂町 )、新田神社 (鹿児島県 薩摩川内市 )、築土神社 (東京都 千代田区 )、射水神社 (富山県 高岡市 )などに祀られている。

埋葬地である「筑紫の日向の可愛の山陵 」の伝承地は南九州各地にある。明治政府はその中から、旧薩摩藩 の学者の意見を参考にして、明治7年に鹿児島県薩摩川内市の新田神社が可愛山陵であると治定した(他の日向三代 の神陵も鹿児島県内に治定している)。

しかし、後の国学者や宮内庁の調査により、明治29年、宮崎県東臼杵郡 北川町 の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳を「可愛山陵伝承地」、宮崎県西都市 西都原古墳群 にある男狭穂塚 を「可愛山陵参考地」と定めた。また、可愛岳そのものが神陵であるという伝承もある。


関連項目 [編集 ]

* 日本の神の一覧


執筆の途中です この「ニニギ」は神道 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (ポータル 神道 /ウィキプロジェクト 神道 )。
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カテゴリ : 日本の神 | 天津神 | 農耕神


古代人の息吹 今に

2010年11月27日
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描かれた絵の種類を記した壁画の加工写真=水戸市教委提供
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石室の奥壁には5種類8個の武器と武具の壁画が確認できる=水戸市元吉田町の吉田古墳、目黒隆行撮影
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2006年の発掘調査の様子。中央右よりに周溝の角が確認され、多角形古墳の一端が見える=水戸市教委提供

 古代人の息吹が常陸の地でよみがえった。ダイナミックな線刻壁画と多角形とみられる姿を現した吉田古墳。深まる謎は、史家の想像力をかき立てる。(吉村成夫)

<厳粛な雰囲気 荘厳な線刻壁画>

 水戸駅から南に1・5キロ。市立千波中近くの静かな住宅街に、吉田古墳はある。

 38年ぶりに開いた横穴式石室に入った。埋めていた砂が取り除かれたのは2日前だ。

 奥行き約7・5メートル。江戸期に土砂を再利用された影響か、手前半分はなくなり、入り口の羨道(せん・どう)は石が二つ残るだけ。亡きがらを納めた玄室の側壁も一部傾いている。

 玄室は、高さ・幅とも1・8メートル程度。灰褐色の壁の中は薄暗くひんやりとして、厳粛な雰囲気だ。左右に、現代人による名字などの落書きが幾十もある。38年前までは埋められておらず、自由に出入りできたらしい。

 奥の壁には、線刻で描かれた装飾画が一面に広がる。上下左右とも1・2メートルほどの範囲に武器や武具の絵が並ぶ。大刀(た・ち)、刀子(とう・す)(ナイフ)、靱(ゆき)(弓矢を入れる道具)が克明に彫られ、鉾(ほこ)と鞆(とも)(弓矢を射る手に装着する)と思われる模様が間を飾る。上下左右とも1・2メートルほどか。実に規則的な配置で、荘厳さを感じた。線は数ミリ程度で細く浅い。鉄製の刀子を使ったという見方が有力だ。

 現在、吉田古墳の外見は小さな塚のようだが、実際には十数倍の範囲に八角形の可能性の高い多角形墳が広がっていた。墳丘の周囲の堀(周溝)が発掘され、その証拠になったが、現在は埋め戻されて畑などになっている。

<深まる謎 ふくらむ夢>

 新たな発見により新たな課題が生まれ、意見の相違が出てくる。本当のおもしろさはこれからだともいえる。

●何角形なのか

 八角形墳は全国の古墳16万基のうち、可能性のあるものを含め約20例しかない。畿内では正八角形で、角が敷き詰めた張り石で確認されるものが多く、天皇陵を特徴づけるものとされる。

 吉田古墳について市教委は主に南側の発掘で、周溝から4角を確認し、全体をややゆがんだ八角形と推定した。今後北側を調査すれば「断定できる可能性がある」とする。

 古墳時代に詳しい大塚初重・明治大名誉教授(考古学)は、最低でも六角形で、八角形の可能性は十分にあるとみる。「多角形に墳丘を整えた被葬者の意志が感じられる。在地の有力者が畿内の新しい世界観を取り入れていたと考えれば、当時の地方に中央の文化がいち早く伝わり、決して遅れてはいなかったといえる」と語った。

 古墳の構造に詳しい土生田純之・専修大教授(考古学)は慎重な立場だ。吉田古墳は角が石ではなく溝で確認されている点や、未調査の部分で必ず角が出るとは限らないなど様々な可能性をあげ、「八角形との断定は危険。多角形も断定するのに十分ではないだろう」と指摘。時期については、「近くの虎塚古墳の流れから7世紀第2四半期と思われ、律令体制の前なので、八角形であっても中央とあつれきが出る時期ではない」とも述べた。

●被葬者はだれか

 墓碑銘を持たない日本の墳墓は、大半で被葬者がわかっていない。考古学でこの問題は「一番意地悪な質問」ともいわれる。

 市教委は、線刻壁画や古墳の形状が水戸周辺では確認されていないものなので系譜をたどれず、「特定の地元の豪族と結びつけることは今はできていないが、情報を持っている人間だろう」とする。

 夢をみようと、専門家にあえて自説をうかがった。川崎純徳・県考古学協会会長は「論議はわかれるが、私は国造(くにの・みやつこ)の一族と思う。壁画は九州に多く見られ、同時代のものが茨城にもあった。九州系統の豪族が中央政府の命令でこの地にきた。その一族ではないだろうか」と述べた。

 大塚名誉教授は「天皇と同様の八角形にこだわる地元の有力な豪族か、中央政府から派遣された高級行政官や軍人などが考えられる」と話す。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001011270002


2010年11月20日(Sat)▲ページの先頭へ
「自我」と個人と個:自己問題:母権制と父権制:差異、精神、東洋回帰:脱西洋文明
テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

以前、本題について論じたが、まだ不明確に感じられるので、再考したい。とは言え、余裕がないので、一言、二言(結局、長文になったが)述べるに留める。
 PS理論の凸i*凹i⇒+1(or 凸)の自己認識方程式であるが、凸iが自我と言えよう。凹iは非自我、無私性、共感性、他である。
 父権とは凸iに傾斜していると考えられる。そのために、凸i⇒+1の傾向をもつのである。つまり、物質+1に同化する傾向があるのである。
 少し説明が必要である。同一性とはどうも、凸iの傾斜に拠るのではないだろうか。つまり、差異共振において、Media Point(MP1)において、凸iの傾斜、自我の傾斜が、他者凹iを抑圧して、⇒+1へと帰結するのではないか。(だから、差異共振による同一性形成とは、一般的ではなく、凸i傾斜に拠るもののように考えれる。)
 凸i=自我はそれにおいては絶対的差異である。しかるに、原言語性をもつので、同一性へと傾斜すると考えられる。
 だから、自我は同一性へと帰結するのである。これが、自我同一性(凸i⇒+1)であり、所謂、利己主義とはここから生まれると言えよう。
 近代合理主義の場合、自我同一性が物質+1と結びついているのであり、唯物論的自我同一性=近代的自我の形成と一致する。
 
 では、それに対して、個とは何か。これは、個人とは異なる。個人主義の個人は、私見では、近代的自我と個との未分化の様態である。そして、今日、個人と個の区別が形成されていないと考えている。
 では、個とは何か。これは、実は、自我凸iと他者凹iとの即非関係、共立・共振関係にあると考えられる。
 また、個は即非性や共立性から⇒-1への共融へと向かうのであり、人間認識図では、第三象限領域を志向する、つまり、超越界を志向すると考えられる。言い換えると、個とは、超越的「個人」なのである。
 ここで留意すべき点は、自我凸iが存するが、それは、同一性や物質と結合するのではなく、あくまで、他者である無我・無私・共感性と関係するのであり、絶対的差異凸iと絶対的差異凹iとの関係であり、同一性や物質はまったくここには関与していないと見るべきである。(-1は暗黒物質、反物質の可能性があるが、超物質、トランス・マターとも言えるかもしれない。)
 ただし、個はMedia Pointを介して、当然、物質界に関係するのである。物質界に関係する個とはどういう様態Modeなのだろうか。
 絶対的差異である個、絶対的超越的である個が物質界と関係するとき、それは、一般的には自我凸iと自我同一性凸⇒+1を介して、関与するだろう。
 つまり、絶対的差異的個とは不連続的に、自我、自我同一性を擬態として設定して、物質界と対処するということではないだろうか。つまり、個において、自我同一性が仮構されるということである。
 しかし、それは、唯物論的自我同一性ではないだろう。何故なら、元基には、超越性が存するからである。ただ、物質+1に対処するために、自我同一性⇒+1を利用すると考えられるのであり、自我同一性は唯物論的ではない。
 しかし、厳密に考えると、果たして、自我同一性によって、物質界に対処するのだろうか。
 それは間違いだろう。そうではなく、自我差異凸iによって、物質界に対処すると考えられる。確かに、凸iである自我は同一性への傾斜をもつが、それ自体は差異、絶対的差異の知性である。
 故に、同一性=言語を介しながらも、自我差異の視点によって、物質界に対処すると考えられる。
 だから、個とは、徹底して、差異、絶対的差異によって、物質界に対処すると考えられる。(追記:個を個者、個子、個単子、等と言えよう。)
 
 次に、この問題をジェンダー論的に、文化史論的に、人類学的に考えると、母権文化とは、凸iと凹iとの均衡の取られていた、差異の文化である。
 それに対して、父権文化とは、凸iに傾斜して、同一性志向、物質志向の文化であると考えられる。
 何度も既述したが、母権文化だけでは、物質主義文化、近代科学・技術は生まれなかったと言えよう。つまり、父権文化の必然性があるのである。確かに、母権制が続くならば、平和共存の社会・世界が継続した可能性がある。しかしながら、それは、停滞の社会でもある。
 父権制は母権制の停滞する差異共存の社会を破壊して、同一性・物質文化の基盤を形成して、いわゆる、文明社会を形成することになったと考えられる。
 問題は西洋文明なのである。これは、強力な父権制文化をもつが、同時に、基礎に母権制をもつのである。
 この母権制が古代ギリシア文化の栄光を産み出し、また、イタリア・ルネサンスの大文化を産み出したと考えられる。しかし、正確に言えば、父権的圧力の下に、母権的エネルギーが開花したと見るべきである。私見では、民主主義もベースは母権制にある。
 とは言え、西洋文明は、父権制優位、母権制劣位であることは言うまでもないし、この父権制優位ないし支配が近代資本主義の怪物を産み出したと考えられる。言い換えると、父権的同一性主義が近代資本主義を形成したのであり、その同一性的メカニズムは、差異を抹殺していくのである。
 ここに、脱西洋文明の力学の必然性があるのである。それは、脱同一性であり、差異への回帰である。新母権制である。新東洋回帰である。それは、霊主体従である。精神が主であり、物質が従である。そして、PS理論は正にそれに相応しい理論である。
 最後に、キリスト教について触れておこう。実は、数十年前から、キリスト教は矛盾した宗教であると直観していた。
 端的に、「父」(ヤハウェ)と「子」(イエス・キリスト)が矛盾しているのである。即ち、前者が父権制であり、後者が母権制である。しかるに、前者が後者を支配しているのである。ここに、キリスト教の精神的歪みがある。
 脱西洋文明志向(トランス・モダン・シフト)において、キリスト教が瓦解することになると考えられる。何故なら、トランス・オクシデントの志向とは新母権制的であり、いわば、「子」(イエス・キリスト)が「父」(ヤハウェ)を凌駕すると考えられるからである。そして、それこそが、「聖霊」の時代(フィオーレのヨアキム)である。
 因みに、ルドルフ・シュタイナーは、キリストとは、アフラ・マズダーであると説いている。
 それは、D. H. ロレンスで言えば、dark God, dark sunである。それは、-1の超越的太陽であると考えられる。プラトンでは、洞窟外の太陽である。
 仏教で言えば、大日如来であり、神道では天照大神である。

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


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Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


2010年09月13日(Mon)▲ページの先頭へ
白サギと白鳥:アステカと飛鳥(明日香)
エジプト神話のトート神は、白サギである。そして、知恵の神であり、ギリシア神話のヘルメス神が呼応する。
 そして、アステカの神のケツァルコアトル(羽毛の蛇)とは、鳥と蛇の融合したものであり、トート神やヘルメス神に相当する。日本では、猿田彦、道祖神、塞の神等に相当する。
 だから、アステカの原郷がアストラン(白サギの地)であるというのは、日本の鳥(白鳥)伝説との連関を想定することが可能である。
 作業仮説として、なにか、(超)古代の東洋、アジア(アフリカを含めて)に共通した文化、つまり、「普遍的な」多神教文化があったと考えられるのである。後で、整理したい。

追記:当然、環太平洋地域も入れなくてはならない。以上の発想は実は、D.H.ロレンスの『エトルリアの地』で述べられていたことである。ロレンスは、青銅器文化を念頭において、汎地球的多神教文化を想定していたのである。
 一神教文明は物質文明を形成したが、結果、精神文化の喪失をもたらしたのである。トランス・モダンとは、失われた多神教文化・文明を現代的に復興することを意味するだろう。それは、ロレンスが構想していたことである。欧米の科学と喪失された先住民の精神文化を融合させることを構想していたのである。それは、正に、トランス・モダンである。古代と未来が結合するのである。
 だから、先住民文化に感染しているアメリカとアジアが今日、重要なのである。欧米のサイエンスと古代先住民精神文化との融合が今日、未来的な文化・文明的課題である。
 それに対して、現代日本は世界の動きから、取り残されている。オバマ大統領はこのトランス・モダンの大潮流の中にあるのである。ヨーロッパ、東アジアも南アジアも覚醒しつつあるのである。
 日本は大堕落である。滅亡の可能性が高い。

******************

先住民の物語・アステカの滅亡 >

ほそく
 アステカ族 は中央高原地帯に進出する前は、北の方のアストラン(白サギの地)というところに住んで、原始的な農業と漁猟で生活していた小部族(せいぜい5000人か)であった。ここからアステカ族と呼ばれるのだが、メシカ族と呼ぶほうがもっと適切である。アストランは今もって確認されないが、ナヤリ州のメスカルティタンであろうという説が有力。

 彼らはオポチトリ(左ぎっちょ)のウイチルトンというリーダーに率いられて、2世紀に及ぶ長い遍歴の旅に出る。途中でこのウイチルトンが死に、ウイチロポチトリという神(アステカ族の主神) になったという。もっとも、最初からウイチロポチトリの託宣で出発したのだろうという説もある。
http://www.news.janjan.jp/column/0803/0803190155/1.php


明日香(あすか)と飛鳥(あすか) あすかの由来(ゆらい)

◆鳥 説(とりせつ)
古代(こだい)においては、年号(ねんごう)等(とう)に白雉(はくち)、朱鳥(しゅちょう)、白鳳(はくほう)と用(もち)いられているように、鳥(とり)はしばしば瑞兆(ずいちょう)として尊(とうと)ばれた。
アスカの音(おん)はイスカという鳥(とり)の名前(なまえ)から転(てん)じたとする説(せつ)。
http://www.asukamura.jp/kids/yomoyama/asuka.html



そこには、10人程のアマチアカメラマンがいた。全員60過ぎで 口径10cm以上、長さ60cmぐらいの数百万円

クラスの望遠レンズのカメラを持っていた。狙っているのは、「イスカ」だそうだ。


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


人それぞれ、色んな好き者がいます。



     世界の鳥の中で、クチバシが≪交差≫しているのは、イスカだけ。なぜ

交差しているかというと、まつぼっくりの隙間にクチバシを入れ、

     種をねじりとるためです。上のクチバシが、右になるものと左になる

     ものがいます。イスカが,アスカ(飛鳥)の語源という説もあります。

      鳴き声が聞きたい人は、ここ をクリック


          イスカ      
http://man884a.web.fc2.com/kagai102.html

▲■課外授業へようこそ■●


アスカ(飛鳥)の語源について(アルタイ諸語との関わりから)
そこで、わたくしはアルタイ諸語のうちツングース・マンシュー語に、これに関わる一連の語彙があるように思う。それはマンシュー語の‘asxa’(wing 鳥の翼,fin 魚のぴれ)である。(注10)ツングース系では、エベンキー語で‘asaqa’、ネギダリ語で‘asaxiオロチ語‘asi、オロク語‘xasa’、ソロン語で‘asara’、エベン語 asaqan などである。(注11)
なお、関連しては、detxe(feather羽),‘funala’(feather 烏の羽根、一本一毛の羽),また‘esixe’(scale,fishscale 鱗),‘sasq’(鳥の名 ささげ,仁徳天皇の御名はオホサザキノスメラミコト),‘sivaq‐n’(燕 つばくろ)‘um xan banjma’(卵を産む, むす)。 これについては、河内地方における鳳:、羽曳野など多くの地名や白鳥伝説など深い関係を示している。このようにして、われわれにはアスカに「飛ぶ鳥」が当てられたと考えることができる。
http://www4.osk.3web.ne.jp/~nishida5/nisida/dousyu/ronbun/d2_14.htm


2010年09月08日(Wed)▲ページの先頭へ
道祖神、猿田彦、塞の神、賽の河原:Media Pointの神話的表現
猿田彦=道祖神=塞の神=トート神=ヘルメス神=ケツァルコアトル=・・・

ではないだろうか。
 これは、Media Pointを表現していると考えられる。境界の神である。『「塞の神」は「賽の神」とも表現された。サイコロの“賽”だ。』 塞は境界であり、賽も境界ではないだろうか。賽の河原はこの世とあの世の境界の三途の川の河原であるから、そうだと思う。
 思うに、あの世は凹i⇒-1ではないだろうか。

追記:ヘルメス神が商業の神、また、泥棒の神であるのは、Media Point を考えれば、正にぴったし、一致するのである。Kaisetsu氏が説くように、売買とは価値衝突、あるいは、差異衝突なのである。
 強奪も「商売」なのである。欧米の植民地主義はこの観点から見るべきである。
 思うに、「商売」を一般に見下している。これは、生存の根幹である。そう、神とは商売神である。

追記2:因みに、小沢一郎は双子座であり、これは、水星が支配星であり、水星とは、ヘルメス神である。
 

* 奈良の神社話その六 氏子をかけた大博奕の行方──奈良市・猿田彦神社(道祖神) [photo]

 日本の神様は、ときに人間的な一面を見せる。町家が立ち並ぶならまちには、「神様同士で博奕を打った」という実に人間臭い話が伝えられている。  対峙したのは、今御門町の道祖神と薬師堂町の御霊様。軍配は御...
リアルライブ - 2010/9/7 18:11


岐の神
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岐の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)とは、日本 の民間信仰 において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神 である。

岐(ちまた、巷とも書く)または辻(つじ)とは、道路 が分岐・交叉する場所のことである。このような場所は、人だけでなく神も往来する場所と考えられた。神の中には悪神・悪霊もおり、これらの侵入を防ぐために祀られたのが岐の神である。このことから塞の神(さえのかみ)とも呼ばれる。

神話 の中では、『古事記 』の神産み の段において、黄泉 から帰還したイザナギ が禊 をする際、脱ぎ捨てた褌 から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀 』や『古語拾遺 』ではサルタヒコ と同神としている。また、『古事記伝 』では『延喜式 』「道饗祭祝詞」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。

『日本書紀』では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミ から逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から岐神(ふなどのかみ)、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。『古事記』でも、上述のイザナギの禊の場面で、最初に投げた杖 から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)が化生している。

後に、中国から伝来した道路の神である道祖神 と習合した。そこから、道祖神もサルタヒコと同一視されるようになった。また、仏教 の地蔵菩薩 とも同一視された。
関連項目 [編集 ]

* 日本の神の一覧

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E3%81%AE%E7%A5%9E 」より作成
カテゴリ : 日本の神 | 道祖神 | 魔よけ

結界

結界(けっかい、Skt :Siimaabandha)とは、聖 なる領域と俗 なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。本来は仏教用語 であるが、古神道や神道 における神社 なども、同様の概念があることから、言葉として用いられているが、大和語としては端境やたんに境ともいう。

・・・・・

神道・古神道 [編集 ]

古神道 である神籬 (ひもろぎ)や磐座 (いわくら)信仰は、神の依り代 であるとともに、その鎮守の森 や森林や山や海や川や岩や木などは、禁足地 である場所も多く、神域 や常世 と現世 の端境を示し、結界としての役割も果たしている。神籬の「籬」は、垣の意味であり、磐座は磐境ともいい境を意味する。この考え方が積極的に用いられ、古来より郊外の集落 の境や辻 などに配置された道祖神 、庚申塔 、祠 などの石仏は、災厄を集落に入れないようにするための、結界の役割をしていたともいわれる。

神道 においても、結界は神社などでも用いられ、たとえば境界線を示すために、神社 ・寺院 などの境内や建築物では意図的に段差を設けたり、扉 や柵 、鳥居 や注連縄 などを用いる。一般の家庭などでも、注連縄飾りや節分の鰯の干物なども結界である。

古神道や神道において、一定範囲の空間に設定されたタブー (禁足)を視覚化したものとも言え、それは聖なる領域(常世)と俗なる領域(現世)という二つの世「界」を「結」びつける役割をも持つ。



塞の神における兄妹相姦についての記号論的考察


概 要

村落のはずれの路傍に祭られている塞の神(道祖神)には、(1)境界守護の神という性格と(2)夫婦和合の神という2つの異質な性格がある。この第二の性格によって、塞の神は、しばしば陽石、陰陽石、さらには男女二体の夫婦の石像によって表される。ところが、その石像の男女はしばしば兄妹婚の夫婦であるとされている。これは何故であろうか。一般にはその由来をイザナギ・イザナミ神話に求めるが、これには賛同しがたいことを示した上で、我が国を含め東南アジアの水田稲作地帯に広がる兄妹婚肯定の空気が、その背景として存在することを指摘し、さらに、我が国古代では異母兄妹婚は通例のことであり、同母兄妹婚も強い禁忌ではなかったことを見てゆく。その上で、「いもせ」という言葉が、(1)兄妹(姉弟)(2)夫婦の2つの意味を持っていることが教えるように、兄妹と夫婦とは、もともとは区分されることのない同一の概念であったが、後に両者の間に区分線が引かれて、それぞれ別の概念とされた時、その境界線上にあるものが兄妹婚であることを見る。他方、塞の神は村落の内と外との境界に置かれるものである。この境界領域の事象ということにおいて両者は一致する。かくて、塞の神が兄妹婚の夫婦とされるのはこのためと考えられることを論ずる。記号論は連続したものを記号によって不連続に区分した時に生ずる境界領域には、神聖さと不吉さが備わるという。村落の境界と兄妹婚は、その属性においても一致することを述べる。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/other-folk/sainokami.htm

歴史と民俗の森の中で


2010年07月30日(Fri)▲ページの先頭へ
シュタイナーの霊的科学(霊学)と差異的哲学科学
シュタイナーの説く霊・精神(der Geist)は、PS理論から見ると、差異として把捉できると思う。
 というか、差異的哲学科学として、シュタイナーの霊的科学(霊学)を見るといいと思う。シュタイナーは哲学博士であったし、また、自然科学研究者でもあったのである。
 また、「オカルト」という用語は不可視性と捉えるといいと思う。
 また、「霊」、「魂」、「体」の三元論であるが、「霊」は差異共立(MP1)、「魂」は差異共振(MP2)、「体」は同一性として捉えられるだろう。
 とまれ、最大の問題の一つは霊的力学をどう見るかである。例えば、エーテル体、アストラル体、自我である。
 今は簡単に触れるが、エーテル体とは、「気」であり、それは、⇒ではないだろうか。
 思うに、訳語に問題がある。自我と訳されているものは、ichであり、それは、自己ないし個と言うべきである。それは、凸i#凹iと考えられる。
 結局、エーテル体を科学的に説明できれば、霊的科学は説得力をもつようになるだろう。エーテル体は生命体を形成する情報エネルギーである。それは、差異共振エネルギーと言えるように思える。
 また、問題は、アストラル体である。それは、感情・情感に関係するのである。これは、凹iに関係するだろう。つまり、他者性である。対他者的様態である。
 結局、アストラル体はMedia Pointの凹i的様態である。そうすると、「わたしich」はMedia Pointの凸i的様態である。(そして、共振様態がエーテル体となる。)
 そうならば、シュタイナーの「自我」とアストラル体の関係がPS理論の凸i#凹iの差異共立に相当するのかもしれない。
 後で再考したい。


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


神智学 (ちくま学芸文庫) [文庫]
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌 (翻訳)


2010年06月28日(Mon)▲ページの先頭へ
ヴィジョンとは何か:2:差異共立・即非のスピリットとはマイナス1=霊的大地の「波動」である
本題は興趣があるので、さらに随想風に述べたい。
 例えば、山や山麓を眺めていて、一如差異共立(即非)感覚を感じるとしよう。「わたし」と「山」ないしは「山麓」とは一如である。
 この一如感覚において、「山」ないしは「山麓」にスピリットがあると言えないことはない。これは、D. H. ロレンス風に言えば、地霊spirit of placeである。(因みに、私は、奈良県桜井市の三輪山のふもとの山の辺の道に、地霊を感じる。身体に浸透する「気」がある。)
 とまれ、このスピリットは、大地、身体と関係している。では、この大地、身体とは何か。物質的大地、物質的身体のことだろうか。つまり、プラス1だろうか。
 プラス1はプラス1であり、それには、スピリットや気はないのではないだろうか。
 プラス1の物質とは端的に死せるものであり、いわば、墓場である。
 ならば、三輪山の麓とは何か。その気やスピリットとは何か。
 結局、現象とは何か、ということになろう。
 直感で言えば、「天」と「地」の共立(即非)と共振があり、共振は三輪山の麓を形成している物質作用であり、共立即非は、スピリット、気を形成しているのである。
 後者において、ダーク・マターが関係していると言えよう。それが、三輪山の麓の不可視の大地、ダーク・アースDark Earthではないのか。つまり、マイナス1の不可視の大地である。
 これまで、マイナス1と差異共立・一如性の連携性、相互性については述べた。マイナス1から差異共立への転移は、再帰・回帰性をもち、つまり、反転性をもつと述べた。
 だから、差異共立・即非には、マイナス1の要素・エレメントが浸透していると見られる。端的に言えば、マイナス1=ダーク・マターと一如としての差異共立・即非様態である。
 故に、差異共立・即非のスピリット・気(霊気)とは、ダーク・マター=霊的大地のそれと言うことができよう。
 結局、三輪山の麓は単に、物質的大地だけでなく、マイナス1のダーク・マターの霊的大地でもあるということである。
 つまり、自然界はダーク・マター=霊的大地=霊的身体=Spiritual Beingに貫かれた、浸透された現象界であるということになる。
 このように見ると、一神教の錯誤が明確になる。それは、神から霊的大地、霊的自然である「母」(折口信夫の「妣が国」)を否定していることである。それは、凸iに傾斜して、差異共立を否定して、差異共振性に傾いていることである。それは、自然の逸脱である。
 シュタイナーの説くルシファーは、おそらく、父権的一神教に作用しているのである。それは、悪魔的宗教なのである。
 鈴木大拙や折口信夫やD. H. ロレンスの霊的大地の霊性こそ、本道・正道・正統である。


2010年05月11日(Tue)▲ページの先頭へ
視覚の解放へ向けて:光のルネサンス:トランス・モダン維新は視覚ルネサンスである
テーマ:日本ルネサンス:西洋を包摂した新東洋文明

Kaisetsu氏による視覚空間と内界の結びつきの言及は、先に思ったイタリア・ルネサンス=光の誕生に関することを想起させる。つまり、内的光と外的光との一致のことである。また、今さらに考えれば、内的光が外的光を包摂する「精神」に思い至る。
 イタリア・ルネサンスは内的光(ほぼ東洋・アジアの光と言えよう)の解放とその充溢の表現であると考えられる。その後、近代社会は近代合理主義=近代同一性主義によって、それを抑圧するように作用したのである。
 この抑圧が自己精神を歪曲するのであり、異常な病理的自我意識を生むと考えられる。
 戦後日本は被植民地的な近代合理主義を受容して、この内的光を抑圧してきたと考えられるのである。それは、サラリーマンのスーツを見れば一目瞭然である。
 今日の日本社会の「狂気」の原因はここにあると見ていいだろう。トランス・モダン化するには、内的光を復活させる必要がある。そして、これと外的光との即非共振的精神モードを形成する必要があるのである。
 思うに、内的光がアフラ・マズダーである。これが、日=火=緋=妃=霊であると考えられる。また、それは、Media Pointの光である。それはまた当然、超越的光であるし、プラトンの洞窟の比喩における洞窟の外部の太陽と言えよう。
 後で、さらに詳述したい。


参照:
The Light of Asia
From Wikipedia, the free encyclopedia
Jump to: navigation , search

The Light of Asia, subtitled The Great Renunciation, is a book by Edwin Arnold . The first edition of the book was published in London in July 1879.

In the form of poem, the book endeavors to describe the life and time of Prince Gautama Buddha , who after attaining enlightenment became The Buddha, The Awakened One. The book presents his life, character, and philosophy, in a series of verses . It is a free adaptation of the Lalitavistara .

A few decades before the book's publication, very little was known outside Asia about the Buddha and Buddhism , the religion which he founded, and which had existed for about twenty-five centuries.

The book has been highly acclaimed from the time it was first published, and has been the subject of several reviews. It has been translated into several languages like Hindi (by Acharya Ram Chandra Shukla ).
[edit ] Adaptions

A film adaptation of the poem directed by Franz Osten and Himansu Rai was made in 1928, titled, Prem Sanyas (The Light of Asia in English) [1] .
[edit ] References

1. ^ Prem Sanyas at the Internet Movie Database

[edit ] External links

* The Light of Asia at Project Guntenburg


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2010年03月27日(Sat)▲ページの先頭へ
自然美(自然造形美)とは精神的数学的美である:西洋美学から東洋美学への転換
これまでのベクトル・モード論の検討から、何故、自然(正確に言うと、人の手を適度に加えた、より自然化された自然)が美しいのか明晰、明快な答えを得たと言えよう。
 黄金比が自然に発露しているのであり、そのために、美的なのである。
 私はずいぶん昔(学生の頃)から西洋美学に疑問を抱いてきた。つまり、芸術の方が自然よりも美的であるという思想である。しかしながら、私は自然美は、凡庸な芸術よりもはるかに美的であると感じてきた。そして、日本美術は、つまり、伝統的日本美術は、自然美から生まれた(自然美と共振して美的創造力が喚起され、制作された)と感じてきたのである。
 ここで想起するのは、オノ・ヨーコ氏の「わたしがいくらがんばっても、青空の青にはかなわない」というような言葉である。まったく同感である。
 ユダヤ・キリスト教的思想を考えれば、芸術が自然よりもすぐれていると判断するのは当然である。(追記:ギリシア・ローマの伝統も考えないといけない。それは、しかしながら、人体が中心であるが、自然的であると言えよう。)
 今は余裕がないので、詳述しないが、ひと言付け加えれば、原生林や雑木林の方が、人工的な木立、例えば、公園で見られるようなシンメトリカルに「秩序」立てられたものより、はるかに日本人の本来の美的感覚には合うのである。もっとも、原生林や雑木林も放っておけば、野放図に蔓延るが、そこに適度な間伐等を行なえば、より美的な森林にはなりうると言えよう。
 とまれ、植物(だけではないが)のもつ黄金比等の美的電磁波が複雑に共振して、無限に美的な印象をもたらすのだと思う(池泉回遊式庭園はそのような美学を感じる)。

追記:私は東京や大都市の大半の機械的、無機質な建物は、近代合理主義、つまり、唯物論に基づくもので、醜悪醜怪なものだと思う。つまり、+1の同一性=物質の論理、アンラ・マンユ(アーリマン=悪神、悪霊、悪魔)の論理に基づくのである。
 それは、自然の造形美をまったくもたない反美的なものである。それは、日本人の伝統的精神的感覚を損なう害悪である。
 アーリマンの東京や大都市の「景観」である。結局、同一性の悪魔、正確に言うと、連続的同一性の悪魔(ルシファー/アーリマン)にとり憑かれたのである。
 この原因は明治維新からの封建的父権的国家主義と戦後の近代合理主義の結合にあると思う。前者がルシファーが強く、後者がアーリマンが強いと言えよう。
 神仏習合の差異共振の精神原理が排除されたのである。これは、基本的には戦後近代合理主義に拠ると考えられる。唯物論教育が支配したからである。
 とまれ、日本が生まれ変わるには、先ず、東洋的身体精神教育が必要である。そして、哲学・科学・芸術教育が必要である。

回遊式庭園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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桂離宮庭園

回遊式庭園(かいゆうしきていえん)は、日本庭園 の形式のひとつで、園内を回遊して鑑賞する庭園 。園内を回遊する形式の庭園は日本以外にも存在するが、回遊式庭園という語は主に日本庭園のみを指して用いられる。
概要 [編集 ]

回遊式庭園は、江戸時代 に大名 によって造営された大名庭園 において発達した形式であり、日本庭園の集大成とも位置づけられる。

最も一般的な形式は池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)と呼ばれるもので、大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山 、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現した。園路の所々には、散策中の休憩所として、また、庭園を眺望する展望所として、茶亭、東屋などが設けられた。
代表的な回遊式庭園 [編集 ]

* 桂離宮 庭園(京都府 京都市 西京区 )
* 京都御所 庭園(京都府京都市上京区 )
* 小石川後楽園 (東京都 文京区 ) - 特別史跡 ・特別名勝
* 浜離宮恩賜庭園 (東京都中央区 ) - 特別史跡・特別名勝
* 一乗谷朝倉氏庭園 (福井県 福井市 ) - 特別史跡・特別名勝
* 偕楽園 (茨城県 水戸市 ) - 史跡 ・名勝
* 兼六園 (石川県 金沢市 ) - 特別名勝
* 後楽園 (岡山県 岡山市 北区 ) - 特別名勝
* 玄宮園 (滋賀県 彦根市 ) - 特別史跡・名勝
* 足立美術館 庭園(島根県 安来市 )
* 栗林公園 (香川県 高松市 ) - 特別名勝

執筆の途中です この「回遊式庭園」は日本の文化 に関する書きかけ項目 です。この項目にさらなる加筆、訂正 などをして下さる協力者を求めています (ポータル 日本 /ウィキプロジェクト 日本文化 )。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E9%81%8A%E5%BC%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92 」より作成
カテゴリ : 日本庭園


2010年03月26日(Fri)▲ページの先頭へ
PS理論からシュタイナーの霊/魂/身体の三元論を脱構築する:精神のメディア変換
テーマ:新霊性:聖霊、気、地霊、性霊

ルドルフ・シュタイナーは、霊と魂と身体(感覚)の認識的三元論を強調している。
 わたしは魂をほぼ精神と同義にとっているが、それは、シュタイナーの「霊」に相当しよう。だから、シュタイナーの「霊」を精神と理解するのが明快である。結局、der Geistの問題である。
 直感で考えたい。Media Pointが魂である。そこには、精神エネルギーが作用する。そして、物質化が帰結する(⇒+1)。Media Point=魂に作用している精神的エネルギーであるが、それは、対の虚数(+iと-i)の共鳴に拠って生起するのである。(それは、電磁波と考えていいだろう。ただし、Z軸の情報の質によって、様態が質的に異なる。)
 この精神的エネルギーは、身体(物質)に対しては「気」(=エーテル体)となり作用すると考えられる。つまり、⇒+1の⇒が「気」(=エーテル体)である。
 しかしながら、精神的エネルギー=「気」ではない。精神的エネルギー⇒「気」⇒身体(物質)の変容・変換があると考えられる。
 この変換力学はMedia Pointにおいて、虚軸点における精神的エネルギーが実軸点における「気」に変換するということで説明できるだろう。ここでは、理念的な下降、位階的下降があるのである。これをMediaTransformation(Metamorphosis or Conversion)、Media 変換(転換)、ないしはメディア変換(転換)と呼ぼう。
 このメディア変換は既述したように即非的であり、不連続な転換である。また、⇒の不可逆性も確認すべき点である。
 とまれ、メディア変換を簡単に図式化すれば、

メディア変換:(精神⇒気)⇒物質

である。(精神⇒気)がMedia Pointにおけるメディア変換である。(こう考えると、電磁波は微妙になる。電磁波は気ではないのかという感じがある。これは検討課題にする。)
 以上のように考えると、シュタイナーの「霊」とは、Z軸の精神情報と精神的エネルギーと気であると考えられる。だから、Media Pointの様態であると言えよう。
 では、シュタイナーの「魂」とは何か。それは、感情や欲求や意志を意味しているのであるが、それは、PS理論では、Media Pointの虚軸点と実軸点が連続化されたときに生起する連続的精神的エネルギー様態ではないだろうか。言い換えると、虚軸の超越性が否定された連続的エネルギーの様態である。いわば、近代的主観的内面的エネルギー様態である。
 そう見ると、シュタイナーの「魂」とは決して、純粋なものではなく、混濁したものだと思われる。
 結局、要点は不連続性や即非性なのである。Media Pointとは、不連続点であり、即非点なのである。しかしながら、シュタイナーの「魂」は連続点なのである。これは、ポスト・モダンの連続的差異の思想と共通すると言えよう。
 また、シュタイナーの「霊」は自我とアストラル体とエーテル体から成るが、思うに、シュタイナーの自我も連続的である。PS理論から言うと、自己にしないといけないのである。ないしは自己精神である。
 結局、整理すると、「霊」は自己精神と差異共振情感と気によって構成されていると言えよう。
 思うに、「霊」というよりは、精神と言う方が明晰である。あるいは、超越的精神である。

追記:電磁波問題であるが、上述から見ると、電磁波は気(=エーテル体)と一致するように思える。しかし、問題は、精神的エネルギーと電磁波の関係である。
 精神的エネルギーはその情報をもって電磁波へ変換されると考えられる。だから、結果的には、精神的エネルギーと電磁波は類似するのである。
 しかしながら、厳密に見ると、精神的エネルギーは高次のエネルギーであり、電磁波は低次のエネルギーである。
 また、見方を変えると、精神的エネルギーと気を含めて電磁波と見ることができよう。つまり、Media Pointのエネルギー全体としての電磁波である。そこには、超越的情報が含まれるのである。
 以前述べたように、今日の電磁波の考え方は唯物論に制約されていて、虚軸=超越性を無視しているのである。しかし、虚軸=超越性を含めた電磁波を考えることができるのである。例えば、聖霊的電磁波、天使的電磁波、悪魔的電磁波、妖精的電磁波、等々、考えることができるのである。


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