GP陰陽原理:哲学主数学従の陰陽哲科学

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2007年08月21日(Tue)▲ページの先頭へ
イデア界の均衡が破れる原因とは何か:なぜ、イデアは、エネルゲイア化するのか:試論1
三島由紀夫の阿頼耶識論について考察しているうちに、これまで伏してきた根本的問題に考えが向いたので、ここで考察してみよう。
 すなわち、なぜ、イデアはエネルゲイア化して、現象化をもたらすのかである。ひょっとすると愚問かもしれないが、これは答えないわけにはいかないだろう。
 i*(-i)がどうして、⇒化して、⇒+1になるのかである。三島の言うように、道徳的要請であると言っても、力学的には説明には、当然ならない。さきほど、私が頭の中で考えていたことをここで述べよう。
 結局、他者(差異)への志向性(フッサールは、これを、単に同一性意識的志向性に限定してしまったと考えられる)がエネルゲイア(Media Point)ということであるが、イデア界において、どうして、他者への志向性が発生するのかである。
 すこし比喩的に言えば、死の世界、涅槃、他界、彼岸、あの世において、どうして、生への世界への志向が発生するのかである。そう、先ほど、私は、イデア界とは、ユング心理学で言われるウロボロス様態にあるのではないかと思うのである。ウロボロスとは、自分の尾を口にくわえた蛇のことである。円環・循環様態である。(そう言えば、三島由紀夫は、晩年のエッセイで、ジェット機に乗ったときの経験で、地球を取り巻く巨大な蛇が幻視(透視)されたと述べていたが、それは、ウロボロス様態であったことを述べていた。)
 ウロボロス様態とは、自己と他者とが、いわば、円環を形成して、裂け目がない状態である。ある意味で双子の様態であろう。これは、対称的であり、破調がない。いわば、「わたし」は同時に、「あなた」である。即非様態ではないのではないだろうか。即非とは、Media Pointにおいて、生起するのではないだろうか。思うに、前・即非様相ではないのか。言い換えると、即非未分の様相ではないのか。つまり、即非まで分化していない様相である。一元論でも、多元論でもない様相ではないだろうか。一と多とに分化する以前の未分化様相ではないだろうか。
 以上の考えは間違っているかもしれない。ウロボロスは、Media Pointにおける連続様相において、表象されるものというようにも考えられないことはないだろう。
 発想を変えて、ガウス平面での円を考えた方がいいのかもしれない。即ち、オイラーの公理である。結局、ガウス平面の円がイデア界とMedia Pointと現象界を現わしていると言えよう。
 だから、i*(-i)とは、その円(とりあえず、複素円と呼ぼう)におけるなんらかの力学を意味しているのではないだろうか。複素円において、点、すなわち、対になる不連続点が回転しているとしよう。すなわち、iと-iとは、回転力をもっているということになる。つまり、イデア界は、本来、回転力をもっているということになる。それが、Media Pointを形成するということではないか。だから、例えば、左回転する力をもつとすれば、このとき、1/4回転して、-1と+1とが生起する。これが、現象界であろう。そして、さらに、1/4回転すると、イデア界になるが、いわば、逆イデア界である。-iとiのイデア界である。そして、さらに、1/4回転して、+1と-1の現象界となるが、これは、逆現象界である。そして、さらに1/4回転(一回転)して、もとのイデア界に回帰する。
 どうも、例えばであるが、以上のように、回転力をイデアに仮定した方が、首尾一貫するのではないだろうか。


2007年08月19日(Sun)▲ページの先頭へ
身体の潜在意識と心の顕在意識:量子的身体意識と心的意識:永遠の生々流転するMedia Point
たまたま、テレビをつけたら、筋肉についての番組で、貧乏ゆすりにも意味があることを述べていた。ちらとしか見なかったので、よくわからないが、思いついたことは、「物質」は、感覚をもっているということである。
 不随意筋というものがあるし、また、身体を見れば、さまざまな部位や全体で、「無意識」に身体が活動して、生命を維持しているのがわかる。私は、この身体の「無意識」を問題にしたいのである。
 思えば、鬼才、夢野久作の『ドグラ・マグラ』で、脳中心論に対して、全細胞論を提起している。脳は、電話交換台に過ぎず、主人は全細胞であるということである。これは、私が考えたい、身体の「無意識」に通じるだろう。とまれ、ここでは、『ドグラ・マグラ』についてはこれ以上、述べない。
 深層心理学が、主に心や精神を扱い、身体については、疎かにしているのは、きわめて不十分だと思う。また、ヨガのように、チャクラを活性化させるというのも、身体の無意識の一面を扱っているだけではないかという感じがある。
 私は、身体の物質的過程を身体の「無意識」によるものとして捉えたいのである。これまでの考え方に拠れば、量子があり、これが、「意識」をもっていると考えられる。即ち、量子意識があるということであるが、これは、識閾があり、無意識領域に身体の「無意識」があり、また、ヨガのチャクラのような「意識」が潜在しているのではないだろうか。(p.s. 「気」も、一般には、身体の「無意識」に入るが、訓練によって、識閾を超えて、意識化されるということになるが、しかしながら、すべて意識化されるということではないのではないか。)そして、意識領域には、当然、通常の感覚・知覚・認識の意識が顕在している。
 言い換えると、「意識」は、量子的潜在領域と量子的顕在領域があり、境界によって隔てられているということである。深層心理学は前者の領域に踏み込もうとしたが、充分には、測深できていないと考えられる。
 思うに、禅仏教は、この量子的潜在意識に、瞑想を通して、触れる一種のテクニックであろう。空は、量子的潜在意識のことを意味しているだろう。また、阿頼耶識という考えも、この量子的潜在意識のある階層を捉えたものではないだろうか。
 私は、ここでは、身体の「無意識」に拘るのである。つまり、身体の量子的潜在意識である。内臓を働かせる身体の「無意識」(以下、量子的意識ないしは量子意識)があり、それが、通常の顕在意識にとっては、ブラックボックスのようになって、作用していることになるだろう。
 血液の「意識」があり、ホルモンの「意識」があり、栄養の「意識」等々があるだろう。これらは、基本は量子的意識であるが、この場合、より的確に言えば、分子的意識だろう。
 では、これらの量子ないしは分子的意識と通常の顕在意識はどう関係しているのだろうか。今日は、ストレスの問題、心因性の問題がはっきりとしている。哲学では、心身論である。
 ここで、スピノザ哲学を考えると、それは、身体性に注目した哲学であり、心身平行論を立てたのであるが、精神の感情と身体との平行性に注目したものであるから、今日の心身論を先取りしているだろう。
 とまれ、量子/分子的潜在意識と顕在意識の関係はどういうものなのかである。PS理論から見ると、Media Pointでの差異共振性が重要なポイントである。主体と他者との共振性が基本である。これは、思うに、潜在意識と顕在意識の両領域において、共通するのではないかと思われるのである。差異と差異とが共振して、エネルギーが放出される。そして、身体的回路が機能する。つまり、身体共振回路である。
 そして、顕在意識においては、差異と同一性との両面が生起する。問題はストレスである。自己にとって、好ましくない、不快な事態が生じる。このストレスの負荷とは何だろうか。
 不快なものとは、主体の何に「被害」をもたらすのだろうか。端的に、精神・心に害をもたらすと言えよう。困難な仕事を生じたとき、他者に侮辱されたとき、暴力をふるわれたとき、人生がうまくいかないとき、等々あるだろう。
 スピノザ的に言えば、悲しみがもたらされたときである。端的に、苦がもたらされたときである。苦痛・苦悩でストレスが生じるのである。
 では、苦・苦痛・苦悩・苦悶等々とは、主体の心の様相をどう変えるのか。これは単純に、肯定様態があり、否定様態があると言えるだろう。肯定様態とは、主体の心が、歓喜に満たされているときである。では、歓喜とは何か。それは、心のもつ欲求が満足されるときに生起する心的様態であろう。(では、欲望とは何だろうか。それは、身体的ではないのか。食欲、性欲、物欲等々とあるが、それは、心と関係しないのか。この点は後で検討したい。)
 主体の心の欲求が満足するときに、歓喜があり、それが否定されるときに、苦が生じるだろう。人間には、自尊心があり、主体の心の権利がある。心的権利である。それが肯定されれば、歓喜となるし、それが否定されれば、苦となる。心的権利には、当然、自由等の民主主義的権利が入るだろう。
 この心的欲求や心的権利が否定されるときの苦とは、心に損害を与えていると言えよう。心痛である。これは、顕在意識的である。しかしながら、ストレスであるから、当然、身体へも影響するのであるが、心と身体とはどう関係しているのだろう。
 そう、心的感受性があり、それの苦が、身体へと影響するということだろう。ここで、自己認識方程式を使用すると、i*(-i)⇒+1の左辺を敷延して、iを心、-iを他者ないしは身体としよう。すると、i←(-i)が他者ないしは身体から主体への影響となるだろう。
 共振性において、歓喜があるとするならば、他者ないしは身体から同一性を強いられるというのは、苦である。すると、感受性とは、iと-iとの間に存すると言えるだろう。それは、Media Pointではないだろうか。
 このMedia Pointへの損害がストレスということだろう。そして、Media Pointこそが、心と身体をつなぐ領域ではないだろうか。つまり、心のMedia Pointがあり、身体・物質(量子)のMedia Pointがあり、それらは、共振的一致しているのではないだろうか。Kaisetsu氏のメディア共鳴が存しているのではないだろうか。
 言い換えると、Media Pointにおいて、心と身体とが共振的一致しているということではないだろうか。心のエネルゲイア(エネルギー)があり、身体のエネルゲイア(エネルギー)があり、それらが、Media Pointで、交叉・交流ないしは相互変換しているのではないだろうか。
 以上のように、作業仮説的ではあるが、考えられるならば、心因=ストレスが身体へ影響することは、合理・整合的に説明できるだろう。Media Pointにおいて、エネルゲイア(エネルギー)の質的変換によって、心因が、身体・物質(量子/分子)的結果をもたらすと言えるだろう。
 これは、また、逆も言えるだろうが、識閾があるから、自覚症状がないということが当然考えられるのである。
 よく「霊能者」が病気を当てるようなことが主張されるが、思うに、「霊」というものを、量子/分子的意識と考えるならば、それは極めて特異ではあるが、考えられることである。つまり、「霊能者」ではなくて、量子意識者と考えればいいのである。量子意識者は、身体の量子状態を察知して、そこで、異常を発見するということになるだろう。
 ここから敷延すると、霊視というのも、量子意識的視覚と言えるだろうし、予言というものの、量子意識によって量子状態を認識して、「予言」しているということになるのではないだろう。「予言」は、一種「預言」である。つまり、ある人間の量子意識には、その人の無意識的意向があり、それを認識することで、その人が近未来的にどう行動するか認識できるということではないだろうか。
 この考えを更に敷延して、輪廻転生問題を考えるとどうだろうか。前世はどうであったとか、来世はどうであるかとかはどう説明できるだろうか。
 これは、阿頼耶識の問題にも関係するだろう。この問題は、端的に、人間とは何か、心とは何か、身体とは何か、存在とは何か、生とは何か、死とは何か、等々という根本的問題である。
 量子意識を想定すると、それは、虚界と実界との境界にある意識、Media Pointの意識である。それは、いわば、未来と過去との狭間にある意識である。未来は虚界から来るだろうし、過去は実界にあるだろう。とまれ、量子意識は、過去と未来の意識をもっている。これは、思うに、前世や来世ではなくて、個の無意識・潜在意識ではないだろうか。自己の過去の無意識があり、そして、未来への無意識がある。過去的量子意識と未来的量子意識である。これが、前世や来世になっているのではないだろうか。
 問題は、量子意識・Media Point意識の意味である。つまり、問題の核心は、ここには、イデアが潜在していることである。永遠普遍がここに潜在していることである。それをイデア遺伝子と呼んでもいいのかもしれない。あるいは、差異遺伝子である。
 私は、今の感じでは、思いつきでは、Media Pointとは、一種永遠的なのではないかということである。あるいは、生々流転する永遠である。
 完全なる永遠は、イデア界・虚界であるが、これは、涅槃であり、死の世界である。しかしながら、Media Pointは、イデア的でありながら、エネルゲイアをもち、生成消滅を反復するのではないか。
 ここが最大のポイントである。そう、Media Pointが阿頼耶識なのではないか。つまり、今、私がイメージしているのは、Media Pointの量子意識があり、それが、同一性化して現象世界が形成している。しかし、現象世界は、端的に、仮象(マーヤ)である。本体は、少なくとも、 Media Pointだと思うのである。(ハイデガー現象学ならば、存在である。)
 しかしながら、Media Pointは、エネルゲイア(エネルギー)であるから、生成消滅ないしは生々流転するのである(ヘラクレイトス)。しかし、このエネルゲイア(エネルギー)は、根源的イデア界・虚界によって、永遠補給されるのではないのか。
 ここがポイントである。つまり、先にも述べたように、反復がここで発生するのではないのかということである。一つのエネルゲイアのサイクルがあり、そして、新たなエネルゲイアのサイクルが生起する。正に、生々流転である。これが、輪廻転生の本来の意味ではないのか。
 では、もしそうならば、阿頼耶識という考えはどう理論化できるだろうか。生々流転を認めたとしても、量子意識の記憶・記録・蓄積はどう説明できるのだろうか。
 思うに、顕在意識における知覚や認識の本体とは、差異であり、Media Pointであろう。心、魂、精神、霊魂等と言うと、唯心論的なので、誤解を生むので、量子意識であると言おう。量子意識が知覚や認識の本体であるということになろう。
 現象世界において、個体は、世界を感覚し、知覚し、認識するが、それは、量子意識が差異/同一性の様態において、そうしていると言えよう。例えば、花を感覚し、知覚し、認識するとしよう。これは、主体の同一性志向性において、把握しているのである。ここでは、光を媒介としているから、花の光が主体に影響しているのである。(もっとも、主体の内的な同一性志向性の光もあるだろう。両者の交叉があるが、この点は、ここでは置いておく。)
 光や主体の認識が、主体のMedia Pointに影響をもたらすだろう。簡単に言えば、波動によって、Media Pointが影響されるだろう。つまり、外界的様態がMedia Pointの様態に記憶されることになるのではないのか。
 問題は、そのMedia Pointの様態が消滅するのではないのかという疑問が浮かぶことである。つまり、永遠に記憶されるのではなく、一つのサイクルで終了して、次のサイクルはリセットされるのではないのかという疑問が生じるのである。
 これは、微妙な問題である。量子意識が普遍であるならば、記憶は普遍である。量子意識が一回のサイクルで消滅するならば、記憶は一時的である。輪廻転生はない。
 ここで少し発想を変えて、Media Pointのカスタマイズ化というようなことが考えられるならば、記憶の普遍はあり得るだろう。Media Pointのカスタマイズ化とは何か。それは、Media Pointの質的差異化である。
 とまれ、もう一度、考え直そう。Media Pointは生々流転する永遠ではないかと上述した。エネルゲイア(エネルギー)は、現象化して、消尽すると言えよう。しかしながら、Media Pointのエネルゲイア自体は残っているのではないか。生成流転するのは端的に現象である。そして、現象の核心であるMedia Pointは、いわば、不滅の核ではないのか。
 ここは確かに微妙な点である。とまれ、現象を認識するとはどういうことなのか。あるいは、現象を経験するとはどういうことなのか。現象を認識したり、経験するのは、本来、Media Pointにおいてである。一般には、Media Pointからの同一性志向ないしは同一性構造によって支配されているので、同一性的経験となるのである(無明)。
 しかしながら、同一性は、Media Pointの一つの側面であるから、Media Pointが記憶しているはずである。量子意識の記憶である。おそらく、量子意識の波動の変容・変質である。波動の変容・変質とは、エネルゲイアの変容・変質ではないのか。そう、量子意識の波形というものを考えると、波形変化があると思うのである。
 波形変化とは何だろうか。これは、Media Pointの変容を意味するのではないだろうか。
 今、壁にぶつかっている原因は、Media Pointに普遍性を見ることと、Media Pointに単に一時的な生成消滅を見ることの齟齬にある。後者の考えは単純なので、結局、前者が可なのか、不可なのかである。私のイメージでは、 Media Pointに何らかの原型性が見られる。その原型性が考えられるならば、普遍性はあるのであり、輪廻転生も生起するのである。
 こういうことではないだろうか。Media Pointにおいて、差異が連続化するときに、同一性の現象が発生する。ここにおいて、エネルギーが放出される。生成消滅するのは、当然、現象である。エネルギーも生成消滅する。しかしながら、本体のMedia Pointにおいては、いわば、永遠の振動があるのではないのか。
 不連続な即非差異があり、それが連続化し、エネルギーを放出する。しかし、連続化ないしは同一性化とは、現象化ではあるとは言え、Media Pointにおいては、不連続性と連続性が併存しているのであり、連続性という顕在面において、現象が形成しているのである。つまり、私が言いたいのは、連続性の潜在面があるのではないのかということである。簡単に言えば、連続性という面があるとして、表面として現象面があり、裏面としてMedia Point面があるということである。これは、Media Pointの側から見れば、表面として連続的Media Point面と、裏面としての現象面があるということである。
 そして、現象面としての連続性は、確かに、生成消滅すると考えられるが、Media Point面の連続性は、生成消滅せずに、現象の記憶を保持するのではないだろうか。
 もしそう考えられるならば、Media Pointの潜在性は、永遠的であろうし、輪廻転生するだろう。そして、これが、仏教・唯識論の阿頼耶識となるだろう。カルマ(業識)はあるのである。
 だいぶ長くもなったので、今はここで留めたい。


2007年08月15日(Wed)▲ページの先頭へ
明日野氏の固有時間という概念は画期的な発見であると思う。
明日野氏の固有時間という概念は画期的な発見であると思う。私がこれまで直感的に思っていた、すべての個体は特異性singularity(単独性)であるという命題が納得できるかたちで証明された。
 思うに、森羅万象の差異は、固有時間の違いということで、万人に納得されることになるだろう。人の性格の違いも、男女の違いも、固有時間で説明できるだろう。

マイケルソン・モーレーの実験結果と「重力・光統一方程式」
2007.08.13 Monday
固有時間という概念を用いることで、簡単に重力エネルギーと光エネルギーの統一方程式が見いだせた。

http://theory.platonicsynergy.org/?eid=628161

Theories for the Platonic Synergy Concept.


2007年08月11日(Sat)▲ページの先頭へ
構造主義再考:構造と現象学とポスト・モダン
bloghiro-dive氏が構造主義について明快丁寧に解説されていて、いろいろ考えさせられる。

* レヴィ・ストロース文化人類学…構造主義の挑戦
* 続ソシュール言語学…その問題とデリダの批判
* 言葉とはサークルである…ソシュール言語学

構造について、私なりに徹底させて理論化したいので、今一度、構造について考えたい。
 先に私は、構造とは、同一性的二項対立であると言った。言い換えると、同一性的二項対立の超越論的形式ということになる。後者ではわかりにくい。ここでは、より具体的に考えよう。先にもあげたソシュールのシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の「差異」で考えよう。
 シニフィアンとは、簡単に言えば、「花」という言葉で例をあげれば、hanaという音声がシニフィアンである。(もっとも、ソシュールは言語化される以前の音像をシニフィアンと言っているが、ここでは便宜上、簡単化する。)そして、「花」という言葉が観念像がシニフィエである。(思うに、この観念像には、対象性も入っているのではないだろうか。参照:「シニフィアンとシニフィエ」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3
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だから、hanaと花という観念像との「差異」が恣意的に結合して、「花」という言語を形成しているということになる。シニフィアン(hana)と花の観念シニフィエ(花の観念像)の「差異」(簡単に言えば、「違い」)とは何だろうか。
 とまれ、この「差異」の体系が構造というものであり、これが、言語(共時的言語・ラング)を支配しているということになる。この「差異」は、同一性Aと同一性Bとの「差異」であり、「花」という言語において、統一、乃至は、結合しているものである。
 先に私は、この同一性と同一性との「差異」を、同一性的二項対立と把捉して、それが構造であり、ポスト・モダンの差異とは異なることを述べたのであった。【確かに、同一性と同一性との「差異」をそう捉えるのは、間違っていないだろう。同一性と同一性との二項対立とは、この場合、シニフィアンとシニフィエの二項対立ということであり、シニフィアンが優位、シニフィエが劣位になるとき、あるいは、逆のときが考えられる。前者は例えば、感動して「花」と言ったときに当たるだろう。発話者の感情(シニフィアン)が花という観念(シニフィエ)よりも優位にあると言えるだろうから。後者の場合は、通常の会話においてはそうだろう。音声としての「花」は、単なる記号であり、意味されていること(シニフィエ)である「花」の観念が重要であろう。】
 ここでは、別の観点から考えてみたい。つまり、超越論的形式とこの同一性の「差異」はどう関係するのかということである。というのは、私は先に超越論的形式は構造であるといったからである。
 超越論的形式とは、PS理論から見ると、Media Pointの実軸性である。つまり、連続性や同一性である。言い換えると、連続・同一性的Media Pointということである。Media Pointは、エネルゲイアであり、いわば、超越点Transcendental Pointである。実軸のMedia Pointは、±の極性を発生する力動性をもっていると考えられる。そして、この±の極性が、同一性の「差異」であると考えられるだろう。(p.s. 補足すると、この実軸のMedia Pointには、確かに、主観性や自我が生起するが、それは、実軸のMedia Pointの±の極性内部にある主観性や自我ということで、超越論的形式の構造性が言えるだろう。)
 ということで、以上で証明できたことになるだろう。即ち、超越論的形式は構造であるという命題が証明できたということである。(p.s.  以上では、動的構造主義の説明であり、静的構造主義の説明にはなっていない。では、静的構造主義はどう説明できるだろうか。それは難しくない。 Media Pointの力動性による動的極性を固定化すれば、いいのである。では、固定化はどういうことで生じるだろうか。それは、エネルゲイアの消費された状態を考えればいいだろう。つまり、エンテレケイアになった状態である。エネルゲイアの帰結としてのエンテレケイアという固定の極性とすればいいのではないだろうか。動態の帰結としての静態である。)
 次に、構造と現象学について再考しよう。フッサールの場合、超越論的主観性と通常の主観性が重なる面があるので、混乱しやすいのであるが、しかしながら、超越論的主観性は単に主観性だけではなくて、超越性における主観性なのである。即ち、超越論的形式=構造(実軸のMedia Point)を超えた主観性なのであるから、脱構造主義的でもあるのである。
 だから、整理すると、フッサールの超越論的主観性とは、自己認識方程式i*(-i)⇒+1の⇒と+1との接点と⇒との混合ではないだろうか。とまれ、基本的には脱構造主義と言えるだろう。やはり、現象学は構造主義を既に乗り越えているのである。
 では、ハイデガー現象学について簡単に考えよう。『存在と時間』について、端的に言えば、それは、⇒+1の現象学だと思われる。存在や時間は⇒、即ち、Media Pointを指していると思われる。
 そして、思うに、後期ハイデガーは、⇒以前のi*(-i)の領域、乃至は、i*(-i)と⇒との接点の領域、即ち、イデア界・虚界あるいはそれとMedia Pointとの接点を探求したと考えられるのである。
 最後に、先に述べたポスト・モダンの差異論に関連させて、本稿を閉じたい。ポスト・モダン哲学の差異論は、連続的差異論であると私はこれまで主張している。では、連続的差異とは何かと再確認しよう。
 これまで述べことを反復するが、同一性と連続的な差異ことである。換言すると、同一性を形成する差異のことである。では、この差異とは何か。この差異は構造主義の「差異」のように静的ではなく、動的である。生成性をもつのである。だから、エネルゲイアをもつのである。ということで、ポスト・モダンの差異とは、Media Pointのエネルゲイアと関係した差異である。だから、単純に、Media Pointと考えていいのかもしれない。当然、本来のMedia Pointである。虚軸を含めてのMedia Pointである。
 このことは、ドゥルーズ(&ガタリ)の差異の場合については述べたことである。そして、初期デリダの差異(差延)に関しては、実軸のMedia Pointの差異に限定したのである。何故なら、初期デリダは、フッサールの超越性を否定していると考えられたからである。
 今、思うに、デリダの差異(差延)の場合はかなり曖昧なのではないだろうか。考えられるのは、デリダは、純粋な超越性を否定しているが、同一性と連続な差異を肯定しているので、この連続的差異は、可能性としては、超越的な差異を含む可能性があるということである。つまり、連続化された超越性ならば認めている可能性があるのである。そうすると、やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)の場合とまったく等しくなるだろう。
 結局、現象学とポスト・モダン哲学を比較するとどうなるだろうか。フッサール/ハイデガー現象学において、意識化されていなかった差異が、ポスト・モダン哲学では明確になったと言えよう。しかしながら、不連続的差異ないしは純粋なMedia Pointに関しては、現象学の方が進んでいたと考えられるのである。だから、先に述べたように、現象学/ポスト・モダン哲学=トランス・モダン哲学である。
 だから、不連続的差異論は、無意識の内に、現象学の到達点を、差異論的に取り戻したのである。そして、PS理論は、現象学とポスト・モダン哲学を、創造的に統一した理論であると考えられるのである。もっとも、ここには、鈴木大拙の即非の論理がキー・コンセプトになっているのであるが。


2007年08月04日(Sat)▲ページの先頭へ
デリダの脱構築理論について:差延と同一性:差延は連続的差異である
デリダの脱構築理論とは、ロゴス中心主義(同一性中心主義)に対して、差異中心主義(差延主義)を提唱することによって、ロゴス中心主義を批判して、それを差異中心主義(差延主義)へと変換することに存するとおおまかには言えるだろう。
 フッサール現象学においては、超越論的主観性のロゴス中心主義が批判されて、それが差異中心主義(差延主義)へと変換される。そのとき、フッサール現象学の提起していた超越性も批判され、否定されていたのである。即ち、フッサールの超越論性には超越性と同一性があるが、その同一性に注目して、超越性をも否定したことになるのである。
 ここで超越論性と超越性の相違を説明しなくてはならない。超越論性とは、構造性と言っていいだろう。形相に近いものである。しかし、超越性とは、超越論性=構造性を超えたものである。カントで言えば、物自体である。
 デリダ哲学は、いわば、フッサールの超越論的超越性を看過して、超越論的同一性を否定して、フッサール現象学を脱構築して、差異中心主義(差延主義)に変換するのである。そのとき、当然、超越論的超越性、端的に、超越性・超越界が否定されるのである。
 では、デリダの差異中心主義(差延主義)とは、端的に、何だろうか。例えば、現在を認識するとき、それは、純粋に現在ではなく、過去(おそらく、ないし未来)の様態を経由するので、遅延して、現在が差異化されるということである。つまり、現在は、差延として、存在するということである。言い換えると、現在とは過去の知覚との混淆として存するということである(正しくは、過去と未来との接点である差異として現在があるのであろう)。この混淆という様態が差延を構成しているのである。これは、いわば、時間を連続性として把捉していることになる。言い換えると、連続的差異として時間を捉えているのである(参考:ベルクソン/ドゥルーズの時間性)。
 だから、差延主義とは、連続的差異の思想なのである。これは、既述したように、ドゥルーズの差異論と同質・同一であると言えるのである。
 では、問題は、連続的差異と同一性との関係である。PS理論から見ると、メディア・ポイント(以下、M.P.)は、超越的差異が同一性へと変形される変換点である(だから、変形点とも呼べる)。超越的差異は、不連続的差異であるが、それが同一性へと変形されるM.P.においては、微妙な変容が生起して、連続的差異(=微分)に変容するのである。これは、一種偽装であり、虚構・仮構である。すなわち、差異は連続的同一性化されるのであるが、ここで、生起した連続性が、差異へと還元されて、本来、不連続な差異が連続的差異として表象されるのである。これは、錯誤である。
 ということで、連続的差異とは、同一性すなわち連続的同一性の連続性による視点から、不連続的差異が錯視的に連続化されて、発生したものと言えるのである。
 ここで、超越性ないし超越界(高次元界)について触れると、先に、デリダ哲学を初期と後期に分け、後期デリダにおいては、超越性を否定しているかどうかは不確定であると述べたが、ここで少し再考すると、デリダの考え方は、超越的なもの、すなわち、形而上学は、ロゴス中心主義であるから、超越性ないし超越界は否定されると考えられる。だから、後期デリダにおいても、超越性や超越界は否定されると考えられるのである。
 やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学は、超越性や超越界の要素をもっているのである。しかしながら、フッサール現象学の超越性を否定しているのであるから、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学は、内在的超越論と呼ぶことができるだろう。
 ここで、今想起したことに言及して終りにするが、ポスト・モダン哲学は、いわば、二つの中心をもっているのではないかということである。だから、楕円なのである。一つは、当然、M.P.であり、一つは、同一性志向性である。換言すれば、差異と同一性の中心である。
 さらに換言すると、M.P.における虚軸性と実軸性ということになるのではないだろうか。ドゥルーズ的ポスト・モダンは、両者の混淆である。デリダ的ポスト・モダンは実軸中心主義である。


2007年07月31日(Tue)▲ページの先頭へ
ドゥルーズとデリダ:類似点と相違点:ポスト・モダンの成就としてのトランス・モダン
今は、簡単に触れるが、差異と同一性の連続態を説いたことで、両者はきわめて類似しているが、問題は、ドゥルーズの説いた内在平面の思想は、超越性がまったくないのかということである。デリダには、超越性はないが、ドゥルーズには、なにかあるような気がしたので、検討したいのである。
 ガタリとの共著『哲学とは何か』で明確に、フッサール現象学の超越性を批判して、内在性を唱えている。内在平面とは、差異(連続的差異=微分)が共立する平面である。これは、連続的平面である。これは、差異と同一性が融合した空間である。一見、差異が主導的であるが、この連続的差異は、同一性に対する否定性をもっているのである。つまり、先に述べた、同一性パラドクス様相の差異の面の強調である。即ち、同一性からみると、ネガである。
 問題は微妙である。今は、論証しないが、直感では、「無限速度」で力が移動する内在平面には、なにか超越性が関与しているように思えるのである。ドゥルーズ&ガタリは否定しているが。なぜなら、彼らは、そこに、共振性を見ているからである。これは、連続性とは異なる。
 生成変化や被知覚態(ペルセプト)・変様態(アフェクト)という概念も、なにか超越性や即非性を感じさせるのである。そうならば、ドゥルーズの差異は単に連続的差異だけでなく、超越的差異と混淆していたことになる。これをどう見たらいいのだろうか。
 そうならば、ドゥルーズはハイデガーの二股性を一つのものとして、混合させていると言えよう。思うに、端的に言えば、超越的共振性と連続性が融合しているのが、ドゥルーズ哲学ではないだろうか。連続性が内在性の基盤となっているのであるが、デリダと異なり、虚軸のM.P.が開口しているのである。つまり、超越性の肯定である。
 思うに、なぜ、ドゥルーズが現象学の超越性を実質的には、取り込んでいるのに、意識では否定した理由は、ハイデガーの現存在的連続性とスピノザの内在性を基礎としているからだろう。
 ということで、先の論を訂正することになったが、「狭義のポスト・モダン」とひとまとめにしたが、ドゥルーズとデリダでは、超越性の有無で異なるのである。デリダではなく、ドゥルーズが、広義のポスト・モダンを継承しているのである。
 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論は、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学の連続概念を超克した真正なポスト・モダン哲学と言えよう。ポスト・モダン哲学の成就である。結局、ポスト・モダン=トランス・モダンである。


2007年07月25日(Wed)▲ページの先頭へ
差異(特異性・個)と同一性・自我との連続性に関する補正:差異への否定的連続性をもつ同一性
先に、本件の連続性について述べたが、一つ重要な要素が抜けていたので、ここで補正したい。
 それは、以前は十分に述べたものである。即ち、同一性は差異(特異性・個)を否定するということである。だから、外界同一性認識は、内界差異認識を否定するということになるのである。これを押さえておかないといけない。
 問題はこの否定と連続性との関係である。基本的には、連続性から否定が生じると考えられる。というか、メディア・ポイントにおけるエネルギー発動が差異と同一性を発生させて、それから、同一性の発達が差異を否定することになる。人間の場合、同一性に傾斜しているので、差異が否定されて、連続的同一性(自我、大脳)が発達すると考えられる。
 しかし、差異(特異性・個)は元々、メディア・ポイントとして存在するので、同一性に否定されても、潜在するのである。だから、差異と同一性は否定的関係であれ、並存しているのである。ただし、ここでも、両者の連続性が続いている。
 そして、ある事情によって、差異が主体にとって、大きな存在となると、差異と同一性の矛盾が拡大して、主体は分裂した様態となる。一種の精神症的様態である。
 近代主義は、差異を否定した様態で同一性を進展させたのであり、自我は暴力・病理化するのである。
 さて、差異と同一性の矛盾であるが、これは、差異の不連続化以外に解決の方法はない。もっとも、フッサールの場合、不連続化があり、同時に同一性が強固に存在して、それらが重なってしまった。フッサールの場合、現象学的還元のもつ不連続性を十分に認識していなかった可能性がある。
 とまれ、差異が明確に不連続化されると、同一性と分離して、それ自体の価値をもつことになる。それは、超越的差異と結びつくのである。そして、差異と同一性は連続性ではなく、共立性をもつことになる。
 ここで、構造について再考すると、先に、構造を極性と同一性の関係に見たが、極性(差異)が同一性に対して、先験的であることから、発生するのが構造である。しかし、同一性と連続性をもっている場合ので、超越性ではなく、言わば、超越論的になるのである。
 だから、この視点からフッサール現象学の「超越論性」を見ると、微妙で、構造である超越論性と超越性とが重なっていると考えられる。PS理論から言うと、実軸的MPと虚軸的MPが前者中心に重なっているのである。
 デリダ哲学は、この一種複雑な重なりによる矛盾を捉えて批判してノである。そして、虚軸的MPを無化して、実軸的MPと同一性との差異を差延と呼び、その差延によって、実軸的MPと虚軸的MPとの前者中心の同一性的理論を脱構築することになったのである。《差延は、実軸的MP(差異・極性)と同一性との連続態であるから、ドゥルーズの連続的差異と同質である。》
 結局、デリダ哲学は、虚軸的MPないし超越性(超越的差異)を排除しているので、極めて一面的であると言える。つまり、それが、欠陥である。
 最後に注意点を言うと、デリダがいう超越論性とは、実軸的MPであり、構造性である。虚軸的MPの超越性は全くの別物であることに注意しないといけない。
 ドゥルーズとデリダは、現象内在的な差異に留まり、脱現象的な超越性を否定したのである。彼らの理論は、構造主義内に留まると言えるのである。以前にも述べたが、ハイデガーによる現象学の構造化が、ポスト・モダン哲学に影響を与えた思えるのである。フッサール現象学のもっていた脱構造的超越性を否定して、構造的超越論性(いわば、カントの超越論性)に引き戻したのである。

p.s. 何故、差異(特異性・個)が同一性との否定的連続性によって構造化されるのかという点について補足すると、同一性が現象界に限定されているため、本来、超越性をもっている差異が、現象界内部に留められるからだと考えられる。つまり、同一性認識が物質的認識なので、本来超越性をもつ差異を物質的同一性形式に限定するということである。これは、正に、カントの時間・空間の超越論的形式に等しいと言えよう。構造主義は、カント哲学に発していると言える。


2007年07月24日(Tue)▲ページの先頭へ
連続性はどこから発生するのか:特異性(差異)と同一性との関連
本稿は復習になるかもしれないが、特異性(差異)と同一性との現象世界における連続性の様相について検討したい。
 特異性・差異・個のエネルギーが同一性自我と連続化しているのが、現象世界一般の様態だと考えられる。何故、個と自我とが連続化するのか。それは、同一性が原因である。
 主体は、主に視覚を介して、外界を知覚・認識する。(勿論、五感全体であるが。)この外界認識が同一性認識なのである。自我同一性を外的対象に投影して、外界を認識するのである。この投影が、連続化の原因と考えられるのである。主体自体の同一性が外的対象に投影されるのだから、主体と外的対象は連続していると言うことができる。よって、それを連続的同一性認識と呼ぶことができる。
 結局、連続性は外界認識から必然的に発生するのである。そして、主体における特異性・差異・個であるが、それは、内界において存するものであるが、内界認識(反省・内省・省察)が十分発達していないと外界認識の連続性に内界性である特異性・差異・個が巻き込まれると考えれるのである。
 そして、近代主義は、外界認識中心であり、内界認識を疎かにしているので、特異性・差異・個の連続化はほぼ必然的に生起すると考えられるのである。
 プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、特異性・差異・個を主体のメディア・ポイント(以下、MP)と見ている。そして、これは、エネルゲイア・エネルギー放出点と考えている。言い換えると、主体の動態性・ダイナミクスが発生する点である。
 また、このダイナミクスをもった内界はプラス・エネルギーとマイナス・エネルギーに展開して、極性構造をもつと考えられるのである。思うに、対極性とはここに発生するのだろう。
 そして、この極性(対極性)構造と同一性構造とが連続化したものが構造主義の構造と言えるのではないだろうか。同一性構造に傾斜すれば、静態的であり、極性構造に傾斜すれば、動態的になると考えられる。
 さて、ここで、これまで述べてきたポスト・モダン哲学について、再論すると、ドゥルーズ哲学に関しては、正に、構造主義的差異論と考えられるのである。何故なら、ドゥルーズの説く差異とは、連続的差異であるからである。極性構造と同一性構造の連続化によって、差異が連続化されると考えられるのである。(極性構造と差異との関係については、後で考察する。)
 デリダ哲学の場合、同一性構造を批判して、同一性が差延と結びついていることを述べるのであるが、同一性と結びついた差延(差異)とは、正に、極性構造と同一性構造との連続性に関係すると考えられるのである。だから、既述したように、デリダの差延(差異)とは、ドゥルーズの差異と同質であると考えられるのである。
 さて、ここで、極性構造と差異について考察しよう。これは、ほとんど自明である。何故なら、MPである特異性・差異・個において、エネルゲイア・エネルギーが放出されるのであり、そこにおいて、極性(対極性)が発生すると考えたのであるから、極性構造と差異は等価であると言える。
 しかしながら、精緻に見ると、特異性・差異・個とは、MPであり、超越(虚数)的差異(イデア)に接している、ないし、接しうると考えられる。ここに、不連続的差異論の意義があるのであるが、極性と同一性の連続性を切断すると、極性が不連続化して、超越的差異(イデア)と関係すると考えられるのである。
 不連続化された極性であるが、それは、イデアと現象との中間態になると考えられる(参考:素粒子や量子)。極性と言うよりは、エネルゲイア・エネルギー自体になると言えよう。あるいは、超量子/量子状態ないし超光/光の様態になると言えよう。
 ここで、フッサール現象学を考えると、それは、不連続化された極性(特異性・差異・個)と同一性との連続態ではなかったかと思えるのである。現象学的還元が、不連続化をもたらした考えられるのである。しかしながら、フッサールの強固な同一性志向によって、その不連続化された極性が純粋に差異化されずに、同一性の様相を帯びてしまったように思えるのである。
 そう、ハイデガーやデリダはフッサールの不連続化された極性、言い換えると、不連続化された超越論性を看過したと考えられるのである。


2007年07月23日(Mon)▲ページの先頭へ
直感/直観から、メディア・ポイントMedia Pointの様相やPS理論を説明する
整理するつもりで、本件を書きたい。

イデア界からメディア・ポイント(以降、MP)を介して、エネルギーが発出して、特異性と同一性の混淆である自我が生まれる。特異性は個である。つまり、自我は、本来、個と同一性的自我の二重性をもっている。そして、特異性(個)と同一性は、連続的である。
 連続性であるが、それは、特異性がエネルギーないし力をもっていて、それが同一性を支えるからである。特異性のエネルギーが同一性形成に作用するのである。
 しかし、特異性のエネルギーが同一性へと向かわずに、それ自体において静まる場合がある。このとき、特異性と同一性はいわば分離ないし共立する。
 つまり、特異性と同一性において、連続化するときと、平行化するときがあるのである。プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、後者に不連続態として特化して、特異性と同一性を分離するのである(正確に言えば、不連続的差異論の様態である)。
 このとき、不連続化された特異性(ドゥルーズの説く特異性は、連続化されているもので、誤った観念になっている)は、イデアに通じる回路を形成したと考えられる。
 ここで、簡単に、PS理論におけるイデアについて説明すると、それは、周知の同一性のイデアではない。同一性のイデアは構造と等価と考えられる。それは、静的であり、形相に近い。
 因みに、PS理論において、イデアは、相矛盾するものが即非の様相となっているのである。A≠〜Aであり、且つ、A=〜Aである。鈴木大拙の即非の論理をイデアに見ているのである。だから、即非イデアないし差異即非イデアと言うこともできよう。イデア論を創造的に深化させたと言えよう。
 さて、不連続化させた特異性であるが、それは、PS理論においては、実軸的原点を離脱して、虚軸的原点に達していると考えるのである。(PS理論は、数学化して、ガウス平面をもってイデア界と現象世界を考えている。)そして、原点は、メディア・ポイントMedia Point(以下、MP)と呼ばれる、イデア界と現象世界を交叉させる重要なポイントである。
 問題は、虚軸的MPに達した特異性である。特異性は、イデアに触れているのであるが、他方、同一性があるが、これも不連続化した同一性であり、同一性が言わば、特異化するのである。例えば、連続性において、山とは、個別性であり、一般性であるが、不連続化した山は、特異性となり、他の山と比較できないものとなるのである。
 思うに、これは、ヒューム哲学に少し似ているだろう。山は、一般的観念から分離して、特異性となり、個々の山はすべて特異性となるのであるから。これは、同一性の特異性化と言えよう(以前は、差異的同一性と呼んだ)。
 結局、イデアに触れた自己特異性と同一性の特異性(現象)の「共立」する世界が生起するだろう。そして、結局、特異性の世界となる。イデアに触れた自己特異性は、即非性をもっている。これが、理念である。差異共振性である。この理念と特異性化された現象の関係を見ると、現象において、特異性と特異性との共振化をもたらす志向が発動すると言えよう。
 この現象世界における特異性の共振化であるが、思うに、イデアの即非共振エネルギーや知が作用しているだろう。イデア界が現象界に作用しているのである。以上が、PS理論がもたらす世界の様相である。
 現象世界における共振化のためには、MPが開かれている必要があるが、実際のところ、一方の側からのMPからはたらきかけとなるだろう。これが、創造的営為である。
 ここで、やや飛躍して、イエスのことを言うと、「神の国」とは、イデア界であり、「聖霊」が即非共振エネルギーのことだろう。「愛」も同じだろう。イエスは、連続的同一性による利己主義が蔓延る世界において、悲劇的に、イデア界の教えを説いて、世俗権力世界と衝突したと考えられる。
 イエスのイデア界=神の国の教えは、キリスト教会によって捩じ曲げられてしまったと言えよう。プラトニスト・イエスの叡知は、歪曲されてしまったのである。
 さて、簡単に注意点を言うと、虚軸的MPとは、不連続点であり、実軸的MPは連続点である。そして、連続性とは、虚軸と実軸との連続性でもあるだろう。この時、イデア・エネルギーは、同一性化して、反動エネルギーになるのである。暴力的エネルギーになるのである。いわば、神の悪魔化である。
 最後に、ポスト・モダン哲学についてであるが、既に、何度も述べたが、ドゥルーズ哲学の差異理論が連続的差異に基づくことは不連続的差異論の形成のときに論じたが、つまり、実軸的MPを構造にしているのであり、これは、エネルギーがあるので、同時に、動的構造であり、この動的構造の発生させる力を「差異」としているのである。だから、ドゥルーズ哲学は、構造主義の展開に過ぎない。
 また、デリダ哲学であるが、やはり、差延(差異)という考え方は、実軸的MPを基礎としていると考えられる。つまり、実軸的MPの動的構造のエネルギーが同一性に対して、プラスアルファ的にズレをもたらし、差延を発生させると考えられるからである。換言すると、同一性+エネルギーである。これが、この+エネルギー分が同一性に対するズレ(差延)をもたらすということである。

p.s. 以上の考察から、ウスペンスキーの四次元論を考えたらどうなるだろうか。
 万象の特異性化がポイントではないだろうか。つまり、万象にMPを見ることになるだろう。MPは虚軸が交叉しているので、いわば、四次元が発生していると言えるのではないだろうか。結局、PS理論は、四次元論である。それは、量子論を超えて、超量子論である。超光をイデア界に見ているのである。
 結局、現象世界を四次元的に把捉するのが、PS理論と言えるのではないだろうか。そして、四次元的視点で、物質同一性化した現象世界に、差異共振性をもたらし、現象世界に調和・和解・バランスをもたらすと言えるだろう。やはり、水瓶座的である。


2007年07月22日(Sun)▲ページの先頭へ
生成消滅のサイクルという法則と宗教:根源界と現象界の乖離と新たな関係
生成消滅のサイクルという法則と宗教:根源界と現象界の乖離と新たな関係

テーマ:新霊性new spirituality

以前にも述べたが、ニュースを見ると、世界あちこちで、戦争があったり、いざこざ、争い、問題が蔓延している。人類の末期症状と言えるのではないだろうか。
 ここには、平和の知恵・意志・志向がないのであるが、問題は、利己主義に囚われていることがいちばんの問題である。利己主義からの脱却を説く叡知は多いが、それが機能しなくなっていると言えよう。結局、世俗問題、物質的同一性が大きな問題となり、それらからの脱却を説いていた宗教的叡知は無視されていると言えよう。
 端的に言えば、欲望の問題である。これに対して、これまでの知恵が役に立たなくなっていると言えよう。
 仏教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、今ある形では有効ではないだろうし、逆に、利己主義に仕えていると言えよう。アンチになっているのである。
 プラトニック・シナジー理論(PS理論)から見ると、根源であるイデア界と同一性・欲望の現象界とが、一般においては、無関係になっているのである。というか、一般においては、根源であるイデア界が完全に喪失されているのである。
 ただ、同一性・欲望の物質・現象界と小さな良心があるだけの世界だろう。近代主義の帰結であり、ポスト・モダン化である。
 私が言いたいのは、正に、ヘラクレイトスの万物は流転するということである。生成流転である。あるいは、生成消滅である。これが、森羅万象に当てはまる大法則であると思うのである。
 だから、宗教は例外ではない。今日の宗教も消滅するし、それが正しいと思うのである。ただし、新たに生成ないし創造される叡知があると思うのである。
 モダンないしポスト・モダンは、人類史における特異な時代と考えられる。それは、根源との知的・意識的結びつきを人類が断った時代であるからである。物質的現象に同一性化した時代である。そう、根源界と現象界との乖離がこの時代の特徴である。この点に関する問題点は、不連続的差異論の時期に、解明したので、ここでは縷々述べないが、簡単に言えば、差異と同一性との不連続性が原則として確認されなければならないということである。
 ポスト・モダンは、両者の連続性に立脚していたために、モダン的同一性を脱却できなかったのである。というか、連続的差異の理論である(ポスト)構造主義に留まったのである。
 不連続的差異、さらには、超越的即非的差異(PS理論)へと飛翔することで、構造主義的閉塞から脱出できるのである。
 これを宗教に当てはめれば、「神」、「仏」と「自我」との連続性から、ないし、構造化された「神」や「仏」からの脱却が実現するのである。おそらく、脱宗教=新叡知へのエクソダスと言えるだろう。
 宗教を否定するのではなくて、宗教をその連続性や構造性から解放して、純粋化するのである。そこでは、プラトンのイデア界と諸宗教の神仏の世界が一致するのである。また、科学の世界もそこに根源を見いだすことになるのである。芸術も当然である。
 それは、差異共振の世界である。根源的調和・平和・共存の世界である。これを取り戻さなくてはならないのである。これが見失われているために、世界は、戦争・争いこと・犯罪・事故に満ち満ちているのである。
 人類が根源界へと脱皮する時期になったと言えよう。一回転、一サイクルが過ぎたと思うのである。古いサイクルが終焉して、新しいサイクルが始まると思うのである。

p.s. モダンの同一性主義とポスト・モダンの連続的差異主義(「ポスト構造主義」)の相違が明確ではないかもしれないので、簡単に説明したい。
 モダン、即ち、近代主義、近代合理主義は、物質的量的合理性=同一性を基礎としている考え方である。それは、主体では、自我的同一性に基礎を置いている。
 それに対して、ポスト・モダンは、「差異」を提唱したのである。それは、モダンないし西洋文明の同一性主義の乗り越えを意図したものであった。しかし、理論的中心と考えられたドゥルーズにしろ、デリダにしろ、彼らの説く「差異」とは、連続的差異であったのである。ドゥルーズの場合は明瞭であるが、デリダの場合はわかりにくいので、少し説明しよう。
 デリダ哲学は、フッサール現象学批判から、始まったと言えよう。そこでは、フッサールの超越性が、同一性と混淆していることが提示されて、フッサール現象学を、言わば、脱構築しているのである。(脱構築とは、批判であり、批判対象の変容のことである。)
 つまり、フッサール現象学が、超越性と同一性との混淆態として説かれているのである。その結果、フッサール現象学の超越性が同一性のレベルに落ちているのである。また、デリダは、混淆態における超越性と同一性の差異を差延と呼んでいるのである。
 結局、本来、フッサール現象学の超越性が、ハイデガーにおいてそうであったように、無視されて、同一性のレベルに落とされて、別物にされているのである。
 同一性のレベルとは、端的に、現象界のレベルである。問題は微妙である。超越性は本来、同一性と混淆しない。しかし、デリダにより、両者の混淆が説かれているのである。混淆が生じるには、両者が同レベルになくてはならない。これを同一性のレベルと言ったのである。言い換えると、構造性のレベルである。
 構造性から同一性、とりわけ、連続的同一性が発生する。つまり、換言すると、《力》の問題である。同一性ないし連続的同一性は《力》の問題である。それは、他者を同一性化する力動をもっているからである。力学である。同一性力学である。
 この《力》は、構造性から発するのである。つまり、構造力学から発するのである。(一般に、構造は静的なものと考えられているが、そうではなくて、構造は、実軸のゼロ度の極性から生まれると考えられる。ゼロから正負の極性が生まれるのであり、このゼロ・ポイントに《力》があるのである。)だから、構造的同一性力学である。
 ということで、この視点からデリダの説く超越性と同一性の混淆態を考えると、フッサールの超越性が、構造性に還元されているのがわかるのである。つまり、フッサールの超越性は、ゼロ度の構造に転換されてしまっていて、誤読されているのである。
 結局、構造と同一性の混淆がデリダの説く脱構築主義、差延主義なのである。だから、これは、ドゥルーズの連続的差異の理論と同質なのである。なぜなら、構造ないしゼロ度の実軸は、連続的差異を発生させるからである。
 さて、最後に、構造性と同一性の連続性について説明すると、それは、上記からでも理解できるが、構造力学が同一性力学に連続しているということである。
 そして、両者を不連続化すると、構造力学は解体して、超越性へと還元されるのである。フッサール現象学の超越性と言ってもいいかもしれない。しかし、PS理論では、さらに、これを即非的差異というイデアとして考えているのである。


2007年07月21日(Sat)▲ページの先頭へ
オイラーの公式
e^±iθ=cosθ±i sinθ

θ=π/2とすると、

e^±iπ/2=cosπ/2±i sinπ/2=0±i=±i

これが、言わば、四次元だろう。

θ=πとすると、

e^±iπ=cosπ±i sinπ=-1±i・0=-1

四次元から1/4回転させると、-1になるというのは、同一性構造のことを意味するのではないか。

θ=3π/2とすると、

e^±i3π/2=cos3π/2±i sin3π/2=-i, +i

これは、何か。おいておこう。(これも、結局、四次元ではないのか。)

そして、θ=2πで、元の+1に戻る。

ところで、θ=πで、-1になるというのは、一種鏡像なのではないだろうか。+1を実像とすればである。
 
ルイス・キャロルの世界は、-1の世界を描いていないだろうか。

とりわけ、『鏡の国のアリス』である。逆さまの世界である。

では、複素平面の単位円とは何を意味するのだろう。あるいは、複素数とは。

実軸を現象界、虚軸をイデア界とすると、それは、何なのか。言わば、メディア界ではないのか。あるいは、メディア・ポイントに関係する領域ではないのか。後で検討したい。

p.s. もし、単位円が、メディア変換領域(メディア変換域)を意味するなら、メディア・ポイントとは、単位円を表出するのではないのか。ならば、単位円は、メディア円(メディア・サークル)ではないのか。
 ここで想起するのは、プラトンがイデア的なものは円運動を行うと述べていることである(『ティマイオス』)。
 また、ウスペンスキーが光の量子は永遠の円であると言ったが、それもこれではないのか。光の量子は、単位円を描くのではないのか。そして、それが、光のエネルゲイアではないのか。(虚軸が光イデアのデュナミスでれ、実軸が光現象というエンテレケイアではないのか。)
 さらに考えると、螺旋とは、この円がズレることから発生するだろう。そう、不可逆な時間が発生して、螺旋形状になるのだろうか。確かに、1/4回転で、虚数が実数化されて、時空間が発生すると考えれば、それは、一つの1/4回転による現象化であり、更に一回転した上での別の1/4回転は、別の様相の現象化であり、それは、螺旋形態になるのかもしれない。すると、メディア螺旋(メディア・スパイラル、メディア・ヘリックス)と呼べるのかもしれない。


実軸メディア・ポイントと二項対立構造:ポスト構造主義とPS理論
先に、実軸メディア・ポイント(MP)に、極性と同一性構造の二つを見たが、端的に、二項対立構造を見る方が的確であると思う。
 二項対立構造は、極性にもなるし、同一性構造にもなると考えられるからである。また、以前は、そのように考えてきた。
 所謂、ポスト構造主義(デリダとドゥルーズ)は、この二項対立構造のゼロ度的動態性をベースにしていると考えられるのである。このゼロ度的動態性は、連続態である。だから、二項対立とは別に、発生する「差異」は、連続態である。デリダとドゥルーズは、この連続的差異を根拠にして、二項対立構造を「脱構築」ないし破壊しようとするのである。
 しかし、プラトニック・シナジー理論(PS理論)は、連続的差異は、結局、同一性に帰結するので、二項対立構造を解体はできないと考えるのである。
同一性(連続的差異)が同一性(二項対立構造)を解体することはできないはずである。
 PS理論は、MPに不連続な差異ないし虚数的超越的差異を確認することで、二項対立を乗り越えるのである。そして、超越的差異を肯定する同一性を帰結させるのである。即ち、i*(-i)⇒+1である。
 簡単に言えば、ポスト構造主義は、実数的MPの連続的差異の同一性に留まっていて、真に、二項対立・連続的同一性から脱却していないと考えられるのである。それに対して、PS理論は、虚数的超越的差異(即非的差異)を導入することで、二項対立・連続的同一性から脱却した純粋な差異を把捉し、そして、差異的同一性という現象の様態を見つけたのである。


『新しい宇宙像』の雑感
本書を拾い読みしてみたが、確かに、非凡な内容であるが、論としては、不明確なものになっていると思う。論文とエッセイとの中間のような文章である。
 六次元に関する章は、十分論証がされていない。思うに、著者に、『ターシャム・オルガヌム』を書かせた余裕が失われた状況にあったのではないだろうか。
 ウスペンスキーの思想は、プラトニック・シナジー理論PS理論において、より明確に展開するのではないだろうか。例えば、ウスペンスキーの秘教論は、明らかに、PS理論に内包されている。
 そう、以前にも述べたと思うが、ウスペンスキーの思想・理論は、PS理論の先駆の一つであると言えると思うのである。六次元の問題は、それとしてより、 PS理論自体の進展において、吸収されるように思えるのである。つまり、メディア・ポイントMedia Pointの回転について、緻密に考察を展開することに、六次元問題は、解消されるように思えるのである。
 


2007年07月18日(Wed)▲ページの先頭へ
デリダ哲学ないし「ポスト構造主義」批判:「差異」と同一性の動態構造としての「ポスト構造主義」
構造主義について、差異と同一性の点から整理したい。既述事項ではあるが、所謂、ポスト構造主義に対して疑義を強くもっているからである。
 構造主義は、私見では、と言うか、プラトニック・シナジー理論(PS理論)から見ると、実数軸のメディア・ポイントMedia Point(MP)を中心とする思考である。ここにおいて、±ゼロ度の対立原理と同一性原理が発生すると考えられる。
 同一性原理について言うと、ある個体と他の個体との関係において、例えば、前者が主体化されて、他の個体を同一性化するという原理である。ここでは、前者が優位となり、後者は劣位となる。二項対立の原理と言ってもいいだろう。
 ±ゼロ度の対立原理であるが、それは、ある極性原理であり、+の様態の度の同等の−の様態の度が発生し、量的に加算すると、ゼロ度になる関係である。+100ボルトに−100ボルトである。
 さて、構造主義であるが、それは、これら二つの原理の結合したものと考えられるのである。対になる項があるが、それらは、対立し、差異を形成する。しかし、一つの項が優位になって、他の項が劣位になる。しかし、同時に、逆の事態も考えられるのである。相剋の状態にある対立項と言えよう。一般に構造主義は静的な差異の体系と考えられるが、実は、その静的様態は、動的様態を潜在させていると考えられるのである。
 以上、簡単であるが、これを基盤として、ポスト構造主義批判をすると、それは、構造主義の動的様態に過ぎないと考えられるのである。例えば、デリダのフッサール現象学批判とは、以上の構造主義的動態性を根拠にすれば、フッサール現象学に、「差異」(超越性)と同一性との混淆を見て、その同一性からフッサール現象学の不整合性、一貫性のなさを批判する(脱構築)するのである。
 つまり、デリダの批判とは、「差異」と同一性の連続体である動態的構造をベースにして、それをフッサール現象学にも見て、その、言わば、不純性を批判するのである。そして、それを脱構築すると呼ぶのである。つまり、デリダの脱構築理論、「ポスト構造主義」とは、動態的構造主義であり、その視点を他の哲学・理論に反映させて、それらの理論の不整合性を暴き、批判するのであり、結局、当然ながら、自身の動態的構造主義が肯定されるのである。
 この方法をどう判断したらいいだろうか。それは、方法論として、不正確なものである。何故なら、動態的構造主義が前提となり、それを他の哲学・理論に投影して、批判するのであるからである。それでは、他の哲学・理論のもつ特異性が喪失されざるをえない。実際、フッサール現象学に対するデリダの批判は、フッサール現象学のもつ超越性を喪失しているのである。
 そう、デリダは、確かに、超越論的差異について言及しているが、その超越論性は、フッサールの超越性を喪失しているのであり、実際は、動態的構造主義の「差異」を説いていると考えられるのである。


2007年07月17日(Tue)▲ページの先頭へ
ウスペンスキーの六次元論:空間三次元+時間三次元:それとも、七次元?
テーマ:P.D.ウスペンスキー Tue, July 17, 2007 21:35:29

久しぶりに、ウスペンスキーの著書を読んでいる。『新しい宇宙像(下)』の中のタイトル名の第十章を読んでいるが、彼の初期の『ターシャム・オルガヌム』の四次元論を否定して、六次元論を説いているが、空間三次元+時間三次元の六次元論であり、時間が三次元は螺旋であると述べているのが、とても興味深く感じる。 
 私は、プラトニック・シナジー理論(PS理論)において、メディア・ポイントMedia Point(MP)は、螺旋的に回転するのではないかと予期しているからである。虚数軸MPから実数軸MPへ「エネルギー」が、螺旋的に「下降」するようなイメージを私はもっているのである。もし、そうならば、MPにおいて、三次元があると考えていいことになるのではないか。そして、実数軸は、言わば、現象軸であるから、三次元空間である。すると、足して、六次元になる。しかし、虚数軸があるのだから、七次元ではないだろうか。
 とまれ、先を読み続けたい。

新しい宇宙像〈下〉 (単行本)
P.D. ウスペンスキー (著), P.D. Ouspensky (原著), 高橋 弘泰 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%AE%87%E5%AE%99%E5%83%8F%E3%80%88%E4%B8%8B%E3%80%89-P-D-%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC/dp/4434023357
 


2007年07月16日(Mon)▲ページの先頭へ
極性と構造:極性と同一性構造の併存としての現象界とPS理論的脱連続現象化
PS理論的生命論の構築のためには、当然、基礎論が重要である。今の予想では、メディア・ポイントMedia Point(以降、MP)の様相に基礎があると考えられるのである。
 今、簡単に問題点をあげると、極性と同一性構造との関係である。生命現象であれ、物質現象であれ、極性が支配していると言えよう。磁気はN極とS極の極性があり、電子は+と−の極性がある。(重力をどう見たらをいいのだろうか。思うに、作用と反作用との極性があると見ることができるのではないだろうか。)
 PS理論において、イデア界は差異即非共振性をもっている。これは、広義において、極性と言えるだろう。
 では、問題は、同一性構造である。ないし、二項対立構造である。(弁証法とは、極性と同一性構造との折衷理論と考えられる。)
 まとめると、極性と同一性構造との関係の様相が根本的に重要と考えられるのである。これは、端的に、MPの様態の問題と換言できよう。
 つまり、極性現象と同一性現象との併存が現象化には生起しているとということではないだろうか。前者は⇒+1で、後者が⇒-1ではないだろうか。
 つまり、MPは、現象化において、極性と同一性とを発現させるということである。これは、ガウス平面での虚数軸の様相と実数軸の様相(実際は、無理数があるので、複雑であるが、ここでは、簡易化する)として、把捉できるように思う。
 つまり、MPは、虚数軸性=極性性と実数軸性=同一性性とを並存的に、現象化させるということになろう。言い換えると、差異と同一性との併存現象である。さらに言い換えると、即非論理と同一性論理の併存であろう。
 ここで、生命論を考えると、生命も、両者の併存現象と言えるだろう。しかしながら、人間の除いて、一般に生命は、前者が主であり、後者が従であるのではないだろうか。具体的に言えば、食という行為は、明らかに、同一性論理であり、他者を否定して、自己の食料とするのである。つまり、他者の殺戮がここにはあるのである。しかしながら、人間の除いた生物、特に、動物は、食が満たされれば、共存的になる。もっとも、サルのようにヒエラルキーを形成する場合もあるが。端的に、人間ほど、残忍で殺戮的ではない。
 人間の場合、明らかに、同一性論理、同一性構造論理が強化されているのである。大脳の発達と関係しているだろう。自我の発達である。これは、他の動物には、ほとんど見られないと言えよう。
 つまり、人間の場合、極性/差異論理を否定して、同一性構造論理を中心化しているということである。これは、アリストテレス哲学に発現していると言えよう。同一性合理主義(同一性ロゴス主義ないし、同一性理性主義)と言ってもいいだろう。
 生命論に戻ると、結局、生命現象も、本来は、極性優位で、同一性は劣位であったが、人間の場合は、逆転していると考えられる。
 結局、これは、知(叡知)と認識に関わると言えよう。他者を主体が同一性化することは、主体的知の第一歩であろう。例えば、眼前に動く対象は、猪であり、それは、食料にできるという認識である。あるいは、この穀物は、実をつけ、食料化できるのであり、それを、対象化して、穀物の栽培という農業へと展開できるのである。
 これは、数化や言語化と関係していると言えよう。これが、同一性構造論理化と言えよう。数/言語化と呼んでおこう(もっとも、数と言語の関係は別に検討する必要があるが、ここで、知化の基礎として、同列化しておく)。
 とまれ、極性(差異)と同一性の併存とその優劣については、これで充分だろう。
 生命論から言うと、細胞膜や液体や個体性が重要である。つまり、単体性の問題である。勿論、集合性ないし社会性の問題も関係するが、先ず、単体・個体がなければならないだろう。主体と客体との境界がなければならないのである。
 境界とは、PS理論では、メディア領域である。これは、思うに、生命体(生体)は、メディア領域を、取り込み、また、同時に、境界(例えば、細胞膜や皮膚)とすると思われるのである。
 メディア領域とは、例えば、差異と同一性との境界であり、差異と差異との境界、同一性と同一性との境界等と考えられよう。
 ここで、整理しよう。イデア即非差異があり、それが、MPの回転によって、極性と同一性の併存的現象化を生起させるとしよう。
 ならば、極性と同一性の併存的現象と境界や個体との関係が問題である。ここでは、作業仮説的に、形相としてのiが形態を発生させるとしよう。そして、質料としての-iは、個体化すると言えよう。これで、個体化の説明はつくが、問題は、境界性である。細胞膜は、細胞という個体を閉じるものであるが、同時に、体液等を浸透させる境界である。これは、差異ないし極性から来ていると思える。
 だから、まとめると、極性と同一性との結合として、個体が発生すると言えよう。これで、生命のアウトラインができた。そして、人間と他の生命体の違いは、上記した通りである。
 ここで、PS理論ないし即非論理を考えると、これは、同一性論理を超越した論理であり、それは、同一性論理を超えて、極性へと回帰していると言えよう。しかしながら、単純な極性論理でなく、同一性論理を経ているので、いわば、螺旋的回帰である。この点を見間違わないようにしないといけない。
 だから、対極性(太極)と即非論理は一見に似ているが、異なるのである。確かに、即非論理は、一種先祖返りであるが、それは、同一性を超越した点で「先祖」とは異なっているのである。とまれ、PS理論は、新東洋原理と言えるだろう。
 ここで、以上の検討の視点から現代を見ると、近代主義によって、同一性へと恐ろしく傾斜した社会、世界となっている。しかし、単に、極性(対極性)への回帰では反動である。つまり、極性と同一性の連続性という現象性から脱却していないのである。問題は、不連続化によって、差異を同一性から分離することで、イデアを掬い上げることである。
 極性と同一性との連続的混淆が、ポスト・モダンであったと言えるだろう。問題は、差異へ、超越的差異へと超越・超出することなのである。即ち、トランス・モダン化である。
 格差社会というものも、資本の同一性からの結果である。資本の差異化、差異共振化によって、格差主義が解消されるだろう。差異共振化の知によって、資本は同一性による排他性から脱却できるのである。


2007年07月15日(Sun)▲ページの先頭へ
この記事は、PS理論的生命論に役立つと考えられる。
この記事は、PS理論的生命論に役立つと考えられる。メディア・ポイントMPと磁場の関係がキーポイントだろう。より正確に言えば、MPと電磁場の関係だろう。MPの回転によって、電磁場が形成されるのではないか。そして、これが、精神と物質的生命体を連結させているのではないのか。
 後で、検討したい。

磁気と生体

「磁気と生体」は平成5年10月から平成7年11月にわたり、磁気のはなしpart1としてファクシミリで配信されていたシリーズです。このたびいつでもご覧いただけるよう、本サイトに掲載することにいたしました。磁気と生体(生命)との関係に多方向からアプローチした興味のつきないサイエンスストーリーです。「じしゃく忍法帳」(磁気のはなし part2)と合わせてお楽しみください。
http://www.tdk.co.jp/techmag/magnetism/index.htm
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2007年07月13日(Fri)▲ページの先頭へ
メディア・ポイントMedia Pointの様相について
明日野氏が、オイラーの定理の微分が、時計と反対回りの1/4回転を意味することを発見したことの意味は大きい。
 私は、以前から、メディア・ポイントMedia Point(以下、MP)の回転が、現象界を形成すると予想してきたからである。
 例えば、ヨガ理論で、クンダリニー(エネルギー)が三回転半を意味するというのが、このことと関係していると推察できるのである。ここでは、今、簡単に予見を書いてみたい。
 とまれ、作業仮説として、MPの回転が現象化を意味するとしよう。おそらく、この回転、つまり1/4回転の倍数が、不連続な様相をもたらすのではないだろうか。だからこそ、MPを直観的に捉えようとすると、困難さに囚われるのではないだろうか。
 ここで、一回微分=1/4回転(反時計回り)を考えよう。これは、端的に、物質化だと考えられる。このときは、MPは、実数軸的であり、-1へと展開しているとしよう。
 このとき、虚数性は喪失されているのである。だから、MPにおいて、虚数的超越性は閉鎖されているのではないだろうか。だから、ここでは、イデア界を認識することは不可能である。物質的現象界に閉塞されているのである(参考:近代)。
 しかしながら、ここでは、推量であるが、さらに、1/4回転すると(2/4回転)、虚数軸へと回帰するのである。
 つまり、MPが虚数性を帯びるのである。ということで、推測するに、実数的MPと虚数的MPが両端となり、実数的物質界と虚数的イデア界とが、交替するのかもしれない。
 問題は、その中間の、複素数的世界があるのかということである。数学的には、当然存在しているが、実際はどうなのかである。
 思うに、回転から見ると、複素数的世界があるように思えるのである。その両端が虚数的MPと実数的MPであるように思えるのである。
 この複素数的世界が、虚数と実数との即非的融合の世界ではないだろうか。
 この複素数的世界の回転が、世界、宇宙を動かしているようにも思える。世界や宇宙には、サイクルがあるのだと思う。この点については、後で検討したい。
 ところで、私は、ここでは詳述しないが、キリスト教に象徴される世界サイクルがあり、それが、今や、終焉に近づいたと思えるのである。そう、占星術的時代サイクルの考え方は、ある意味で正しいと思われるのである。【水瓶座(宝瓶宮Aquarius)♒とは、調和の時代を意味している。波動共振を意味しているのである。また、キリスト教の時代は、魚座(双魚宮)♓の時代であり、二元論である。】


性sexとは何か:視覚と共振性と触覚:視触覚としての性
性とは何か、考えたい。
 これは、根源的には、イデアの差異に拠ると思われる。iが男性ならば、-iが女性である。このような二元性は、もう済んでいることである。
 私が問題にしたいのは、経験論的な性である。iが視覚なら、-iは触覚であり、後者が単純に見ると、性になるだろう。しかし、それは、単純過ぎよう。
 性には、明らかに、差異が必要である。同性愛の問題があるが、私見では、同性愛も異性愛の変異であるので、ここでは、異性愛を見ると、明らかに、差異がなければ、異性愛は成立しない。もっとも、ここでは、異性愛というより、性を問題にしているのではあるが。
 とは言え、やはり、性は、単に、触覚の問題ではないと思う。ここで、谷崎の名作『春琴抄』を想起するが、しかし、盲目であっても、盲目の世界の中で、他者(性的他者)を、触覚的に認識しているのではないのか。つまり、触覚的視覚(触視覚としよう)があるのではないだろうか。
 触視覚こそ、性の基盤ではないだろうか。というか、触視覚が性へとある意味で特化されていると思う。だから、性とは、触視覚と言えそうである。そうだからこそ、性は、差異であり、同一性化することはないのである。他者と同一性化したとき、そこには、性はない。
 エロティシズムは、だから、差異であると言えよう。だから、倫理に似ているのである。カント哲学は、最高度にエロティックであると言えよう。プラトン哲学のエロースは、正に、天使的エロティシズムである。
 ここで、官能性とエロティシズムを区別しないといけない。官能性は、肉体の生殖のための構造から来ているのではないかと思う。若い女性の裸体を見て、性欲をそそられるのは、それは、まったく生殖構造から来ていると思う。
 エロティシズムとは、本来、異なるのである。今日、両者が混同されているだろう。
 そう、バタイユが、エロチシズムとは、死に至るまでの生の歓喜であると言ったが、それはどうだろう。それは、性欲的発想だろう。それは、エロティズムではないと思う。
 視触覚的差異、これが性であり、エロティシズムであると思う。
 では、タイトルに出した共振性との関係はどうなるのだろうか。もう、簡単である。共振性が性であり、エロティズムである。
 そう、エネルギーを共振性とするなら、自然は、実に、性的であり、エロティシズムに満ちたものである。そして、相対性理論や量子力学も性的であり、エロティズム的である。
 思えば、性という字は、自然性を意味しているのだ。自然(じねん)でもあり、古代ギリシアのフュシスに近いだろう。弁証法は、反エロティズムである。対極性、即非性は、エロティズムである。仏教や東洋思想がエロティズム的なのは、必然的である。


2007年07月10日(Tue)▲ページの先頭へ
オイラーの定理と微分と1/4回転:明日野氏の発見
明日野(あけひの)氏の「オイラーの定理(e^ix=cosx+i・sinx)に於いて微分は4分の1回転である。」
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=580590
は、決定的に重要な発見であると思える。
 私流に解釈すると、微分は現象化である。つまり、眼に見える世界を創る「宇宙」=「神」の方法と考えられる。より正確に言うと、現象世界の同一性のエッセンスの形成の方法であると思われる。
 そして、それが、時計と反対回りの1/4回転(90度回転)を意味するということがたいへん意味深長であると思える。イデア界から、1/4回転して、現象界(物質界)が発生することがここでは示唆されているように思えるのである。
 また、「 オイラーの定理(e^ix=cosx+i・sinx)に於いて微分は4分の1回転である。

このことから、微分は一定方向の回転を意味することになり、宇宙構造が一定の方向を志向していることが分かる。これは、宇宙構造が「向きに対して非対称である」ことを示している。」
http://theory.platonicsynergy.org/?day=20070627
と述べられていることも重要である。この非対称性、推測するに、不可逆性が、現象界からイデア界を感知・認識することの極度の困難さを意味しているように思える。
 私は以前、1/4回転のさらに、1/4回転が現象界を創るのではないかとずいぶん悩んだことがある。つまり、四次元空間になるのである。とまれ、虚数軸からの1/4回転が現象界を創るとは、おおまかには言えそうである。
 では、現象界からイデア界を知る方法は何だろうか。それは、構造に虚数軸・虚数界を創ることではないか。言い換えると、構造をメディア・ポイントMPに変換することであろう。相対性理論は、ほとんど、イデア界の理論ではないだろうか。光は、イデアの光ではないのか。イデアの光が、現象界において計測すると、光速度一定となるということではないのか。現象界は、同一性=時空間の世界であるから、有限である。イデアの光も、現象界において、有限化されるといういうことではないのか。
 ところで、太陽系においては、太陽がある意味で、イデア界にもっとも近いのかもしれない。それは、一つのメディア・ポイントMPを内包しているのではないのか。思うに、メディア・ポイントの強度があるのではないのか。それが、恒星と惑星を決定するのではないのか。
 そう、SF作家アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』(キューブリックの映画で有名)であるが、スターゲートという、星やスターチャイルドの生まれるポイントがある。スターゲートは、メディア・ポイントであろう。この点では、クラークは、キューブリックを超えていると思う。
 そう、現象光とは、端的に、イデアの光ではないのか。ただし、イデアの光は、陰陽を帯びている。ゲーテの色彩論の相補2元性は、正しいだろう。
 近代人は、ある意味で、光の見方を喪失しているのである。前近代人の方が、直感的に認識していたと言えよう。
 思うに、美術は、本来、イデアの光を表現するものだろうが、今日の美術は、光を喪失しているのである。
 今日、近代人の見る光とは何か。それは、イデア性を喪失した光である。つまり、物質的光である。というか、近代主義から光を見ているのである。物質主義から光を見ているので、光のイデア性を認識できないのである。
 話がとりとめなくなったが、ここで留めたい。


2007年05月05日(Sat)▲ページの先頭へ
差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間):
差異的同一性を差一性(ないし差同性)と呼ぶ。すなわち、差一性Aと差一性Bとにおける差異共振性(差異共振シナジー性)の実質はどういうものなのか。 A≠Bであり、同時に、A=Bであるという即非の論理がここで成立する。通常の論理では、不等号の論理であるか、A=Aの同一性等価の論理が作用する。即非における等価の論理では、差一性が共振している。ここで、図式化してみよう。

差一性1・差異共振性1・差一性2・差異共振性2・差一性3・差異共振性3・・・

差一性をDifference Identity(DI)として、差異共振性をDifference Resonance(DR)とすると、

DI1-DR1-DI2-DR2-DI3-DR3-・・・・・

となる。簡略化して、差一性を同一性Iとして、差異共振性を共振性Resonanceとすると、

I1―R1−I2−R2−I3−R3−・・・・

となるだろう。そして、MEDIA POINT(以下、MP)の理論を挿入すると、

I1-MP-I2-MP-I3-MP-I4-・・・・

となるだろう。MPは、普遍共通だから、序数をつける必要はないと考えられる。Iを元に戻して、差一性にすると、

差一性1−MP−差一性2−MP−差一性3−MP−差一性4−・・・

結局、差一性Aと差一性Bとは、メディア・ポイントを介して、共振するのである。ここで、即非の論理が成立するのである。だから、即非論理をメディア・ポイント論理(MP論理)と呼ぶこともできよう。
 とまれ、これで差異共振性の意味が明快になったと言えよう。個と個とは、メディア・ポイントを介して、超越的に共振するのであり、このときには、新たな超越的エネルギーが放出されるのである。しかし、これは、エネルギー保存則から、消滅するエネルギーである。生成消滅的エネルギーである。だから、思うに、イデア界・超越界においては、イデア・超越的差異共振性のデュナミス、即ち、ポテンシャル・エネルギーがあり、それが、メディア・ポイントを介して、エネルゲイア化・エネルギー化すると考えられる。つまり、m(ic)*(-ic)⇒E=mc^2というエネルギー公式で考えると、⇒の左辺は超越界・イデア界のデュナミス(ポテンシャル・エネルギー)を意味して、⇒の右辺がエネルゲイアではないだろうか。
 そう考えると、これまで、超越的エネルギーと呼んでいたものをどう考えるのかという問題が生じる。思うに、⇒が超越的エネルギーを意味するのではないだろうか。そう、⇒がメディア・ポイントであり、ここにおいて、超越的デュナミスが超越的エネルギーになり、また、物質的エネルギーになると考えられるのではないか。この物質的エネルギーが、いわゆる、電磁波である。例えば、「気」は、超越的エネルギーであるが、観測装置では、電磁波や磁気として検証されるということのように考えられるのである。あるいは、端的に、精神ないし霊の場合を考えよう。それも、「気」とまったく同様に考えられよう。精神ないし霊は超越的エネルギーであるが、それは、科学的には、電磁波ないし磁気として観測されるのである。
 思うに、なんらかの原因で、共振化がメディア・ポイントにおいて発動すると、それは、超越的エネルギー、そして、物質的エネルギーとなるが、それは、超越的波動であり、物質的波動(電磁波)であろう。問題は、この波動空間である。超越的波動空間とは何なのか。物質的波動(電磁波)は、現象空間を伝播(伝搬)する。物質的波動(電磁波)は、メディア・ポイントを介して、現象軸(ガウス平面の実数軸を現象軸と呼ぶ)を伝播(伝搬)すると考えられよう。
 では、超越的波動空間は何処なのか。これは、推察されるのは、端的に、メディア・ポイントである。そして、多数・無数のメディア・ポイントが存すると考えられるので、いわば、メディア・ポイント空間が超越的波動空間と言えるだろう。これは、個体と個体、個物と個物、個と個、差一性と差一性、同一性と同一性の間に存する不連続的空間である。だから、物質的波動空間(電磁波空間)とは微妙に異なると言えよう。物質的波動空間とは、メディア・ポイントを介する現象軸空間であるが、超越的波動空間とは、メディア・ポイント空間である。それは、超越的空間(イデア界)と現象的空間(現象界)との中間である。メディア空間とも言えよう。
 考えると、物質的波動空間と超越的波動空間とは、微妙な関係にある。前者は、量子空間と言ってもいいものであるし、それは、超越的波動空間と交差していよう。ここで区別するならば、物質的波動空間=量子空間とは、メディア・ポイント連続空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間とは、メディア・ポイント不連続空間であると言えるのではないだろうか。
 しかしながら、前者の問題は、実は、メディア・ポイントに接しているので、本来、不連続なのである。しかし、物質的連続主義から、その不連続性を否定しようとしているのである。非局所的長距離相関の概念や粒子と波動の相補性という概念がそのようなものと考えられるのである。言い換えると、端的に、物質的波動空間=量子空間とは、物質論理的には、矛盾を抱えた空間、即ち、不整合な空間であると言えるだろう。本質は不連続でありながら、連続性によって糊塗しようとするのである。当然、これが、量子力学が壁にぶつかっている根因である。標準理論の破綻、ダークエネルギー問題等々も、ここに原因があると言えよう。量子力学、ひいては、自然科学が今日、超越的飛躍(いわば、キルケゴール的飛躍)の実行が切迫していると言えよう。物質からイデアへと超越飛翔する必要があるのである。
 とまれ、ここで、ここで整理するならば、物質的波動空間=量子空間は、メディア・ポイントにおける現象軸空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間は、メディア・ポイントにおける超越軸空間(超越軸は虚数軸)であると言えよう。補足するならば、量子論は、超越的波動空間―超越軸空間を導入することで、トランス・量子論へと進展するだろう。PS理論的量子論である。イデア論的量子論である。

p.s. 超越的波動空間(メディア・ポイント空間)と物質的波動空間(量子空間)であるが、思うに、両者を結合させて、複素数波動空間が考えられるのではないだろうか。そして、その方が、実質的には、的確なのではないだろうか。
 つまり、超越的且つ物質的という波動空間を考えた方が、真相に近いのではないだろうか。つまり、量子空間とは、即非的に、超越的波動空間であるということである。これで意味しているのは、⇒mc^2のことであろう。超越的波動空間とは、⇒のでことで、量子空間はmc^2である。だから、超越的且つ量子空間は、⇒mc^2となるのではないのか。


2007年05月03日(Thu)▲ページの先頭へ
志向性の問題:他者的志向性と同一性的志向性:否定的連続的同一性から脱連続的超越界への復帰
散歩をしてきてから、というか、マクドナルドで百円コーヒーを飲みながら、ノートパソコンに書き込もうかと思う。でも、今日は混んでいるだろう。
 一言いうと、先に検討問題として出したことのさらなる精緻化である。志向性があり、それが、メディア点(メディア・ポイント)において、同一性化へと志向する。しかし、この同一性化とは、連続的同一性化であり、超越的差異共振性とその超越的エネルギーは、否定的に、連続的同一性自我認識に適用されるのである。
 差異共振的超越エネルギーが連続的同一性自我へと転化されるのであり、エネルギーの暴力化がある。ここに脱構築主義でお馴染みになった二項対立が形成されるのである。そして、これが、近代主義の基盤である。
 結局、メディア点における超越的差異性と同一性との連続的一体化がここにはり、この連続化は、超越性を現象的連続性へと同化吸収させてしまうのである。
 問題は、同一性志向性である。本来、超越界においては、差異への志向性があるのであるが、メディア点においては、同一性志向性へと転じていることになるのである。これをどう考えるのかが重要な問題である。
 本来は、差異を志向しているのに、どうして、同一性を志向することになるのか。これは、単純に不思議である。しかしながら、不思議ではないだろう。原自己iは、原他者-iを志向するのであるが、これが、メディア点においては、原他者=差異への志向性が、同一性志向性へと転換するのである。
 これが、現象化の特徴である。ここには、光と映像の問題がある。つまり、映像認識ないし映像知覚・認識の問題である。原自己は、原他者を志向している。おそらく、本来は、原自己と原他者の即非共振によって、超光の様態にあるのであるが、メディア点においては、この超光が暗くなるのである。その換わり、外界の光へと志向するのである。いわば、内なる眼が外へと向けられるのである。この視線の、いわば、方向転換がメディア点にあると考えられるのである。
 直観では、ここには、志向性のなんらかの反転があると思えるのである。回転と言ってもいい。原自己iが半回転して、いわば、後ろ向きになるのである。本来、原他者-iを向いていた原自己の原視覚が、いわば、半回転して、後ろ向きになり、それが、外界へと志向視覚となるように思えるのである。
 i*i^2⇒-iではないだろうか。これが、連続的同一性を意味するのではないだろか。正当な自己認識は、i*(-i)⇒+1であるが、この半回転の場合は、i*i^2⇒-iである。そして、-i*(-i)⇒-1となるのではないのか。
 この問題はおいて置くこととして、光の問題を考えよう。本来の内的光が暗くなり、外的光を志向する。問題は外的光とは何かである。
 ひとまず、ここで置いておきたい。
さて、考察を続けよう。私は先に、光の二重性、即ち、光と超光との二重性について述べた。超光とは、メディア点の差異共振性、すなわち、超越性を意味する。つまり、現象界は、単に物質的同一性、光の世界だけでなく、超越的差異性、超光の世界でもあるのである。現象界と超越界とが交差しているのである。しかしながら、混交はしていない。メディア点という特異点においてのみ、これが現実化しているのであるが。
 このことと、志向性とを関係させて考察してみよう。内的他者-iから離れた原自己iは、外的他者を志向する。しかしながら、この外的志向性は、実際は、内的志向性ないし差異共振性を潜在させているのである。
 そう、発生論的に見ると、外的志向性とは言え、内的志向性のもつ差異共振性の超光性をもっているのである。つまり、外的志向性と内的志向性の二重性があったはずである。そして、その二重性によって、人間は、古代ないし超古代においては、外界に超越界を認識したはずである。しかしながら、内的志向性が曇りだし、外的志向性が中心となるときが来たといえよう。それが、近代である。唯物論的近代である。
 これが私が言う差異共振性を否定した外的志向性、同一性的志向性を意味する。問題は、このシステムの力学である。非常に複雑な問題である。最初に、光の映像視覚認識について考えたい。
 超越的差異共振性は、超光であり、いわば、超光的ヴィジョンをもっていると言えよう。イデア界的ヴィジョンとも言えよう。それが、現象化において、いわば、潜在化するのである。(思うに、夢において、このヴィジョンと近似したヴィジョンが発生するように思える。)そして、現象化における志向性は、当然、外的視覚的ヴィジョンをもつことになる。
 直観では、内的志向性を、言わば、外界へと投影するのである。本来、内的他者に向けられている内的志向性を、外部へと投影するのである。ここで、ヘーゲルの疎外という概念を使用してもいいのだろう。
 問題は、この投影である。投影において、志向性は、同一性的志向性に転換しているのである。本来、差異的志向性であるが、投影において、同一性的志向性に転換するのである。これをどう理論化したらいのか。
 同一性的志向性とは、連続的志向性ということである。そう、ここでは、以前述べたように、i*-(-i)というマイナスの志向性が作用すると考えられるのである。他者-iを否定する自己同一性志向性が作用すると考えられるのである。これが、現象化において発動すると考えられるのである。つまり、現象化とは否定性の発動であると言えるだろう。ヘーゲル哲学はこの点では正しいのだろう。しかし、半面においての正しさであるが。
 この否定的連続的同一性志向性によって、外的知覚・認識が形成されるのであり、ここで、言語認識が中心となると言えよう。
 では、このとき、光、超光、映像の問題はどうなのか。例えば、同一性志向性と光とはどう関係するのか。内的志向性が投影されると私は言ったのであるから、いわば、内的光が外界へと投影されると言えるのではないのか。しかし、内的光は本来、差異共振的光、即ち、超光である。だから、超光が投影されるということになるのではないのか。
 この点に関連することは以前検討したが、投影とは、単純に内的光の投影ではなくて、内的光を否定するような投影である。内的光、超光を否定して、投影するのである。
 では、何が投影されるのであろうか。それは、単純に否定された超光であろう。つまり、i*-(-i)の光であろう。これは、⇒-1であり、これが、否定的連続的同一性認識であると考えられる。
 否定された超光である「光」が投影されるのである。では、この「光」とは何か。それは、端的に、物質的光であろう。同一性の光である。冷光である。これは、また、不気味な光であろう。(思うに、邪悪な人間の眼差しにある異様な光はこれではないのか。なにか、闇に光るような視線、それが、これではないのか。闇の光と言えよう。そう、怪光である。)
 この否定的同一性の光(怪光)によって、外的ヴィジョンを形成するのである。しかしながら、人間には本来、内的光が潜在しているのである。これが、精神の光である。霊光と言っていいだろう。つまり、人間には、怪光と霊光の二重性があるということになる。(ブッシュ、小泉は完全に怪光の持ち主である。)
 ということで、否定的同一性志向性において、超光は、怪光となり、映像は、怪光的映像となるのである。だから、現象界とは、霊光と怪光の二重世界であり、霊光を喪失した近代社会は、怪光の世界であり、とりわけ、現代日本は、超怪光社会と言えよう。魑魅魍魎・百鬼夜行の世界なのである。仏教では、端的に、無明と呼んでいるのである。以上で、否定的連続的同一性志向性についての検討を終えたことになる。
 結局、近代においては、否定的連続的同一性志向性が中心となり、暴力・狂気・痴愚が常態となるのである。妄想が常態となるのである。現象界的妄想症に罹患しているのである。
 そして、この人類精神病からのエクソダスが切望されるようになるのである。ポスト・モダンは一つの試みであったが、否定的連続的同一性志向性から脱却できなかったのである。いわゆる、ポスト構造主義は、構造主義から脱却できなかったのである。
 思うに、ポスト・モダン様態において、超越性自体は作用していたのであるが、それが、否定的連続的同一性志向性から絶対的に切断されていなかったのである。ドゥルーズ&ガタリの内在性ないし存立(共立)平面の哲学がとりわけそうであった。彼らは、離接という概念までは達したが、明確に、即非という論理には達しなかったのであり、そのために、内在性に留まり、超越性に達することができなかったのである。また、デリダの脱構築主義であるが、それは、ドゥルーズ&ガタリの哲学よりは、切断性を明確にもっていた。しかしながら、デリダは、現前性(私は、これを連続性ないし連続的同一性と把握する)を否定するあまりに、ロゴス(論理)自体を否定してしまい、不合理主義ないし非合理主義に留まってしまったのである。否定神学的と言えよう。確かに、デリダは、構造の脱構築(脱構造主義と言えよう)において、超越性を示唆したと言えるのであるが、それを、ロゴス中心主義批判によって、それをロゴス化できなかったのである。自らの策に足をすくわれたと言えよう。超越性ないし超越界が根源となるのであるが、根源とは、デリダに言わせれば、現前となるので、批判・解体されることになるのである。そう、デリダにわかっていなかったことは、やはり、明確な不連続性、絶対的な不連続性である。もし、これを真に理解したなら、超越的ロゴス、超越的根源が可能であることが了解されたであろう。
 結局、ドゥルーズ&ガタリとデリダの脱構造主義であるが、それは、絶対的不連続性を捉えられずに、連続的現象界から超越的に飛翔して、超越性、超越界、超越的差異へ到達することができなかったのであり、連続的現象界との単なるズレを永遠回帰的に反復するしかなかったと言えよう。
 そして、ここにおいて、不連続的差異論の誕生の絶対的ブレークスルーの意味があり、また、プラトニック・シナジー理論の絶対的トランス・モダンの意味があるのである。この両理論の誕生により、絶対的に、近代主義からの脱却が可能となったのである。また、Kaisetsu氏のi*(-i)⇒+1という超越的差異即非共振性における正当な自己認識の数学化によって、単に哲学だけでなく、科学に耐える理論になったのである。
 志向性に関係させれば、根源的な、他者への志向性があり、それが、メディア点(メディア・ポイント)における現象化において、否定的連続的同一性志向性となり、倒錯・怪光・無明化する。しかるに、プラトニック・シナジー理論によって、この連続性を超越的に切断して、根源の超越的差異共振性へと復帰・帰還・回帰するのである。ニーチェが求めた永劫回帰がこれで可能になったのである。スピノザの永遠の相が突きとめられたのである。プラトンのイデアは、超越的差異共振イデアへと創造的に進展したのである。正に、New Platonic Synergy Theoryである。これは、西洋哲学と東洋・日本哲学の統一であり、また、新イデア論的に諸科学を根拠付けると同時に、文系と理系の諸科学を統一するものであり、また、芸術や宗教への深い洞察を与える王者の理論と言えるのである。つまり、「神」の真相を洞察した理論なのである。 


2007年04月30日(Mon)▲ページの先頭へ
超越的経験性について:試論1:超越性と物質性との交差的多元創造:超越的理性哲学としてのPS理論
先に、メディア・ポイントにおける超越性と現象性との並存的二重構造性について述べたが、まだ、言い足りていないので、ここでもう少し検討しよう。

超越性と現象性との二重構造と言ったが、正しく言えば、超越性と物質性との二重性である。あるいは、超越性と同一性との二重性である。

というのは、現象は、超越性を帯びるからである。

先に、私は、超越性の宗教性ないし精神性について述べた。つまり、超光に関する宗教的表現についてである。

では、宗教以外にどのように超越性と物質性は交差するのか、考えたい。実は、これが、超越的多元変換性に関する問題である。

しかし、これは、ある意味で愚問である。何故なら、量子力学が技術的に応用されている今日、正に、現象界において、超越性=「量子」性と物質性とは交差しているからである。

だから、量子論的知識が、超越性と物質性との交差の《メディア》となっていると言えよう。今日、知識・情報が《メディア》となり、超越性と物質性の交差を進展させていると言えよう。

これが端的に、超越的多元変換の事態・事象である。

高度な知識・情報が超越的多元変換を創造する《メディア》なのである。

そして、《アイデア》も超越的多元変換を創造する《メディア》と言えるだろう。

創造的《アイデア》とは、《差異》を創造的に共振させるものであると言えよう。近代主義的な物質的同一性に囚われた頭脳では、現代においては、生き延びることはできない。

今や、超越的差異共振創造のエイジになっているのである。

現代、超越性と物質性との交差が多元変換創造をなる、空前の時代と言えよう。

何故なら、近代以前は、超越性の時代であった。そして、近代は物質性の時代であった。

そして、ポスト・モダンは、両者の混淆の時代であった。

今や、ポスト・モダンを超えて、トランス・モダン世界時代となり、超越性と物質性との創造的交差的多元変換がキーポイントになっていると言えよう。

「神」と人との新しい創造的交流の時代である。

ここでメディア・ポイントが核心となる。

精神性と感覚性とが交差する場がメディア・ポイントである。

つまり、精神と身体との交差点がメディア・ポイントである。

換言すると、天と地との交差点としてのメディア・ポイントである。

ここで、精神性と知性との関係が重要なポイントである。

両者の共振性がキーポイントである。

もっとも、《差異》と《同一性》を明確にしないといけない。

精神性は、《差異》である。物質性が《同一性》である。

知性は、《差異》と《同一性》の両面をもつ。

近代主義は、同一性知性であった。そして、トランス・モダン知性は、差異的知性である。

しかし、後者は前者を包摂しているのである。

同一性と同一性との間の差異を認識するのであるから、当然、同一性を包摂しているのである。

だから、精神と知性との結合があるのであり、それは、超越的知性ないし超越的差異知性と呼べよう。

そして、この超越的知性に関しては、超越的理性(超越理性)という言い方をしてもいいように思える。勿論、同一性理性や精神的理性という言い方は可能であるが、やはり、混乱を避けるため、理性は、超越的理性(超越理性)に留めたいように思えるのである。

そう、カントの純粋理性は、この超越的理性(超越理性)を示唆していたと言えよう。

カントは、即非論理を知らなかったので、アンチノミーという同一性論理による批判に留まったと言えるだろう。


PS理論の超越的経験性について:メディア・ポイントの二つの即非性と超越的理性
不連続的差異論の感動、そして、プラトニック・シナジー理論のもつ深化、ここには、新しい経験性があるのである。新現象学(新現象論)と言ってもいい。

この新しい経験の様態について、これまでおおまかには示唆したが、ここで、より精緻に述べてみたい。

端的に言えば、ここには、超越的エネルギーの不連続化による切断(不連続的差異論)とそこから発生する差異共振化がある。不連続的共振化と言ってもいいだろう。

では、超越的エネルギーの不連続的共振化は、経験的にどういうものなのだろうか。

それ以前は、超越的エネルギーは、連続化しているのであり、連続的同一性自我と結びつき、混濁しているのである。不純な様態にあるのである。

つまり、超越的差異的エネルギーが、連続化の影響を被っているのであり、それは、反動・暴力化していると言えよう。

だから、精神世界的な思想が暴力化するのは、十分に考えられることなのである。極めて危険である。

この超越的経験性の問題は、メディア・ポイントmepoの問題である。

そして、これは、経験的には、内的身体論ないし心的身体論の問題であると考えられる。

そう、連続性ないし内在的超越論のままでだと、mepoが連続性のままである。(これが実数軸上の問題であるとは言えない。Kaisetsu氏が述べたように、無理数の問題があるからである。)

とまれ、連続的メディア・ポイントは、超越性を内在化したままと言えよう。ここで、デリダの脱構築論について言うと、その現前批判とは、連続論ないし内在論の批判と言っていいだろう。現前とは、連続的内在性のことだろう。

さて、この連続性が切断されて、超越的エネルギーが本来的な不連続的共振性を帯びるとは、経験的にどういうことなのか。

これは、メディア・ポイントがいわば清浄・純粋化されることだろう。

つまり、超越性と現象性との即非性が発現することを意味すると考えられる。

つまり、現象性と超越性との分化と同時に交流を意味するだろう。

分化は、現象に対する知性、物質的知性の純化を意味するだろうし、交流は物質的現象に対して、精神性(倫理を含む)を付与する意味合いをもつだろう。

つまり、前者において、近代科学・技術を肯定するのであり、後者において、トランス・モダン的創造性を発揮すると言えるだろう。

簡単に言えば、近代科学・技術を包摂したトランス・モダン的創造的志向性が発現するということだろう。

つまり、経験・物質的理性と超越的理性との即非的結合があるだろう。

カントは後者を実践理性としか捉えられなかったと言えよう。

ここで、注意すべき点を述べれば、即非性とは少なくとも二つの様態を見ないといけないだろう。

即ち、虚数の即非性である。i*(-i)である。

それに対して、虚数と実数との即非性である。

両者、メディア・ポイントの即非性と言えよう。

だから、メディア・ポイントの二つの即非性と言える。

以上で本件の考察を終えたこととしよう。

さて、ついでに、この超越的エネルギーの即非的共振性による変換について再考しよう。(p.s. 多元変換については、別稿で再考したい。)

現象界をいちおう物質界と見よう。

それは、同一性の連続化した世界である。これを唯物的知性は捉える。近代科学がそういうものである。

しかし、超越的理性は、現象的理性が同一性ないし連続的同一性の理性であることを知っている差異的理性である。(今は、理性と知性を区別しないで使用している。後で、区別を提起してみたい。)

つまり、超越的理性とは、同一性と同一性との間に差異があることを知っている理性である。さらに、この差異が、連続的差異ではなくて、不連続的差異であること、またさらには、それが超越的差異であること、いっそうさらには、それが、共振的即非差異であることを認識しているのである。

人間で言うと、近代的自我的同一性は、「私」が「あなた」とは異なることをを認識している。これは差異ではなくて、同一性である。

同一性が並存しているのである。

そして、この同一性(差異的同一性)が共振することを知らない。「私」が「あなた」でありうることを知らないのである。

超越的理性は、この同一性の共振が知っているのである。

ここには、超越的エネルギーがあるのである。メディア・ポイントを介した超越的エネルギーが作用して、「私」と「あなた」を共振化させるのである。

東アジア文化的には、「気」が作用していると言うだろう。

キリスト教的には、「愛」が作用していると言うのではないだろうか。私見では、これは、聖霊と呼べるのである。

この超越的エネルギーは、人間においては、不可視でありながらも、感じられるものであろう。絵画では、気韻と呼ぶものがそうである。参照:横山大観の画。
http://www.tctv.ne.jp/members/taikan/

問題は、物質においてである。

これは、これまで述べてきたように、量子力学に関わる問題である。超微細な領域の問題である。

端的に、量子論で扱う対象は、超越的差異=イデアないし超越的エネルギーであると考えられる。

しかしながら、唯物論の枠組みで考える限り、それは、粒子と波動の相補性や非局所的長距離相関等の認識が発生させると言えよう。

つまり、量子論は、物質的同一性と物質的同一性の間にある超越的差異を探求しているのであるが、唯物科学の枠組みで、それを量子、素粒子という物質として把捉しているに過ぎないと考えられる。

ということで、問題は、超越的差異と物質的同一性の関係である。

現象界が成立するには、マクロにおける物質的同一性の支配ないし優位性がなければならないだろう。

つまり、近代科学が検証を要求する反復性がなければならないということである。

例えば、酸素と水素を点火して爆発的に結合させたら、常に、水が発生しなくてはならないという規則性がなくてはならないのである。

これは、正に、物質的同一性として説明できるだろう。2H2+ O2→2H20である。

問題は、この物質的同一性の間にある超微細・超ミクロな「差異」をいかに科学化するかである。(p.s. 超越的科学、イデア論的科学)

量子論は、当然ながら、量子ないし素粒子として扱ってきたのであるが、壁にぶつかっているのである。

PS理論は、これまで述べてきたように、それを超越的差異・イデアないし超越的エネルギーと考えているのである。

そう、超越的差異は、物質的には、量子・素粒子として観測されるのである。しかしながら、経験的には、「気」としても認識されると言える。

有り体に言えば、電磁波として観測されるのである。

しかしながら、PS理論では、電磁波は、超越的エネルギーの発現であると考えるのである。

つまり、電磁波は超越的エネルギーの発現であり、実体的には、いわば、超電磁波が存していると考えられるだろう。

つまり、メディア・ポイントで、超越的エネルギー=超電磁波が電磁波へと変換されていると考えられるのである。

だから、メディア・ポイントは、いわば、質的トランス(変圧器)である。

このメディア・ポイントの様相は実に微妙であろう。

つまり、メディア・ポイントと現象界との様相の微妙・霊妙性である。

これは、物質科学では把握できないだろう。

なぜなら、物質的現象とは、メディア・ポイントを介しての物質的同一性の発現様態であるからであり、物質科学は、その先験的事象を扱えないからである。

問題は、メディア・ポイントの様相性である。

そう、メディア・ポイントは、物質的には、電磁波を発出していると考えられる。

しかしながら、ここには、微妙な様相性があるだろう。

端的に言えば、二重構造である。超越性と現象性との二重構造である。

つまり、電磁波は、メディア・ポイントの現象様相であり、それとは別に、メディア・ポイントの超越様相があると考えられる。

この超越様相が超越的差異性=イデアないし超越的エネルギーであろう。

言わば、超電磁波である。光で言えば、超光である。

そう、これは実に興味深い領域であり、様相である。

現象は実は、二重性をもっているということになるからである。

光は超光を帯びていると言えるのである。

古代人が霊と呼んだものは、これを指していると考えられるのである。例えば、太陽霊と古代人が呼んだものは、超太陽ないし超光のことであろう。超越的太陽、イデア的太陽である。プラトンの善のイデアや諸宗教の光はこれを指していると考えられる。

留意すべき点は、この超越性と現象性とは混じらず、しかも、並存していることである。超越性と現象性との共立である。(p.s 交差するが、混合しない。)

だから、唯物論に立つ限り、超越性の確認は不可能なのである。

しかしながら、ある特異点において、超越性の強度が増大するときがあるのではないだろうか。

そのときは、いわば、奇跡が起きるのではないだろうか。新約聖書や仏典等に書かれた奇跡とは、そのような事象の記録ではないだろうか。

メディア・ポイントの通常では、規則的な物質的同一性が発現する。

しかしながら、メディア・ポイントの特異性が活性化するときが考えられるだろう。そのとき、奇跡が起こるのだろう。

端的に、強大な超越的エネルギーが発動するとき、メディア・ポイントは賦活されて、特異な現象が発現すると考えられるのである。

私見では、夜明けや日没の時は、小さな特異点ではないかと思う。

満月や新月の時もそうではないだろうか。

推測であるが、なんらかの超越的差異の共振シナジー化の発動が、強大な超越的エネルギーの発動に通じているのではないだろうか。

この問題は難しいので、別稿で検討することにしよう。

さて、簡単に整理すると、メディア・ポイントを介して、現象界は実は、超越界と並存していることになった。

だから、極言すれば、現象界は超越界に浸透されているということになる。しかし、それは、不連続的な超微細な浸透であり、マクロ的な視覚や知覚では認識できないと言えよう。

近代的物質科学は、これを否定しているのである。

つまり、現象界を物質的同一性の側面でしか理解せず、超越的差異を看過しているのである。

これは、現象界のまったく半面的な理解でしかない。つまり、現象界の不正確な理解なのである。

排他・排外的に、超越界を締め出しているのである。

そして、この結果が現代世界の狂気・暴力・破壊的な様相である。

超越的精神、超越的理性を取り戻すことで、世界は正常化するだろう。

超越的エネルギーの排他的締め出しが、反動的に狂気・暴力・破壊を生んでいるのである。

地球人類は、進化か滅亡の分岐点に達したと言えよう。

そう、聖書で書かれている聖霊降臨とは、超越的エネルギーの降臨のことだろう。

また、イスラム教の預言であるが、それも、預言者ムハンマドに参入した超越的エネルギーのしからしめる業と考えられよう。宗教は、内容よりも、その超越的参入に意味があるだろう。


2007年04月29日(Sun)▲ページの先頭へ
超越的エネルギーの差異共振的多元変換の図式:Mediaとしての差異と差異共振シナジー創造
先に、宗教に関連させて、超越的エネルギーの多元変換について述べたが、ここで、その様相を図式的に解明したい。

同一性1ー差異1ー同一性2ー差異2ー同一性3ー差異3ー・・・

これを、現象界における、同一性=物質と差異=超越性との関係図式としよう。

例えば、同一性1は化学であり、同一性2は生物学である。

物質科学では、分子的に、あるいは、遺伝子的に両者を関連させるだろう。つまり、差異1は、ここでは、物質的同一性に否定されて、消滅している。

即ち、同一性1(化学)=物質=同一性2(生物学)である。

しかし、例えば、ここで、「気」を考えてみよう。

即ち、同一性1(化学)ー差異1(「気」)ー同一性2(生物学)

となるだろう。ある気功師が、ある植物Aに「気」を放射し、同種の植物Bには「気」を放射しないとしよう。

すると、AはBよりよく成長したという結果が出たとしよう。

すると、同一性1と同一性2による物質科学では、差異1(「気」)をなんとか説明しようとするだろう。

観測した結果、差異1(「気」)に電磁波が観測されたとしよう。

この「気」の電磁波が、植物によい影響を与えたというように考えられよう。

そうすると、「気」は物質の一種として考えられるかもしれない。

しかしながら、「気」は気功師の精神や身体と深く関係しているものであり、ここで、物質科学は、少なくとも、精神に遭遇することになるのである。

物質と精神との関係をどう説明するのか。精神を電磁波だけで説明していいのか。

もし、精神=電磁波とするなら、気功師の主体性をどう考えるのかという問題が発現するだろう。

結局、精神と物質の二つの領域を、伝統哲学におけるように、置くのが妥当なのである。

物質=同一性であるから、精神=差異と置くのが正当である。

これで、物質ー精神ー物質ー精神ー物質ー・・・

という精神-物質現象図式が生まれる。

結局、本テーマに入ると、この精神を介して、物質が多元的に共振して、創造的なシナジーが発現すると考えられよう。

精神を介して、物質と物質とが共振シナジー化するのである。

そして、この場合の精神は、《メディア》である。メディア・ポイントであり、メディア領域であり、「メディア界」であり、「メディア中間子」である。

重要な点は、これが、超越的エネルギーを内包していることではないだろうか。

あるいは、確率性をもっていると言えるだろう。そう、メディア確率空間と言ってもいいのかもしれない。

とまれ、「気」メディアの場合は、明確に超越的エネルギーを内包しているということである。

(ここで、普通のメディアという言葉から区別するために、暫定的に、Mediaと呼ぼう。)

そう、超越的メディアと言ってもいいだろう。Transcendental Mediaである。簡略化して、Trans-Mediaトランス・メディアである。超メディアである。

これまでの物質科学、唯物科学は、超越的メディア、トランス・メディアを明確にしてこなかったと言えよう。しかしながら、相対性理論や量子力学は、実は、超メディア、トランス・メディアを対象にしてきたと言うべきであろう。

とりわけ、量子力学は、トランス・メディアを物質主義的に、量子として扱ってきたと考えられるのである。

非局所的長距離相関という「現象」は、正に、トランス・メディアとしての「量子」の振る舞いと言えよう。つまり、トランス・メディアとしての「量子」は、超越領域において、本来存しているのであり、それが、現象的観測によって、非局所的長距離相関として理解されるのである。

そう、「量子」とは、本来は、もはや、物質ではなく、超越的メディア、超越的エネルギーをもつMediaなのである。有り体に言えば、イデア的メディアなのである。イメディアImediaと呼んでもいいかもしれない。

ということで、一例を挙げたに過ぎず、その点では、不十分ではあるが、基本的論点は提示できたと信ずる。

後で、検討を続けたい。


2007年04月21日(Sat)▲ページの先頭へ
感情、エネルギー、知的創造:超越的感情・エネルギー様態の知的精練方法
アメリカのチョの殺人事件や長崎市長銃殺事件等であるが、暴力に対して、私はとても関心をかき立てられる。

作家は、作品の中に、殺人事件を多く扱っている。ドストエフスキーやシェイクスピアが代表的であろう。

私は、これは、作家の創造エネルギーと関係すると思っている。

そう、ここで、私は本題のテーマを考えたいのである。

これは、また、私自身の精神・身体の問題でもある。

私に関して言えば、今の時点から言えば、感情過多であった。理性と感情との乖離が強くあった。そして、私がいう特異性は実は後者に潜んでいるのである。

理性的一般性と感情的特異性の乖離、分裂、齟齬、ここに、哲学・心理学的問題がある。

おそらく、一般の人は、感情的特異性は弱いであろうから、理性的一般性である言語意識を形成し、集団で生きるのだろう。

とまれ、一般の人においても、多かれ少なかれ、この乖離の問題は存していると言えよう。

さて、私が提示したいことは、感情はエネルギー様態の一つであり、それは、メディア・ポイントとつながり、超越界と関係しているのであり、感情をなんらかの形で精練することが、人間の精神の発達には必要であるということである。

この感情・エネルギー様態のいちばん素朴な発露は、反発・反動として、現われるだろう。これが暴力である。

そして、次には、音楽を受容を介して、感情・エネルギー様態は変形されるようになるだろう。しかし、野蛮な音楽では、感情・エネルギーは攻撃・暴力的なものとなるだろう。私は、ある種の大衆音楽は、この点で問題があるように思う。

次には、美術や文学を介して、感情・エネルギー様態を精練することがあるだろう。(教養とは、本来、感情・エネルギー様態の知的涵養の意味があるだろう。)

そして、次には、哲学や数学や諸科学を介して、感情・エネルギー様態の高度な知的精練の方法があるだろう。ただし、ここに達するには、音楽、美術、文学を経ているべきである。

このような「教養」の知的精練を経ることで、感情・エネルギーは、メディア共鳴態・差異共振態へと変容していくと考えられるのである。

このような感情・エネルギーの変容の叡知は、近代主義において排除された、いわば、オカルト的な知に存していたと言えよう。もっとも、オカルト主義へと戻れと、勿論、私は主唱するのではなく、現代・今日的な精神・身体の精練の方法が考えているのである。

《力》の問題と言ってもいい。権力・支配・政治の問題と言ってもいいのである。

人の上に立つ人は、普通の人よりも、通俗に言えば、パワーを強くもっているのである。オーラがあるのである。

これは、ここでの視点で言えば、感情・エネルギー様態が強大であるということである。

そして、一般的には、それが、自我、連続的同一性自我を形成して、他者を排除することになるのである。

つまり、強大な感情・エネルギー様態をもつ、ある種の人間は、連続的自我を形成して、他者を強力に排除するのである。これが、権力闘争を生むのであるし、また、帰結的に戦争を生むと言えよう。

そして、大衆・国民は、通常は、思考停止状態にあるので、政治家や知識人等の言葉、宣伝を鵜呑みにしている群衆に過ぎない。

しかしながら、強大な感情・エネルギー様態をもつ別の種類の人間は、支配層に属さずに、ある者は、暴力的人間になり、犯罪者となり、ある者は、上に述べたように、教養を身につけ、知的精練を受けて、創造的な活動を行うと考えられる。

つまり、私が言いたいのは、感情・エネルギー様態における差異が人間にはあるのであり、それを無視して、すべての人間を同質に見るのは誤りであるということである。そう、ここに民主主義の問題がある。それは端的に、質的な大誤謬である。人間は平等ではありえないのである。すべては、差異である。特異性である。

とまれ、邪悪な政治家や役人が生まれるのは、感情・エネルギー様態の精練方法に問題があることが一因であると考えられる。即ち、近代主義教育である。近代的合理主義教育を受けると、感情・エネルギー様態の質的精練がなされず、反動性が形成されて、暴力を潜在させる二重人格になるのである。

また、凶悪な犯罪者もある意味で同様である。感情・エネルギー様態の知的精練方法の教育を経ないのでいるのである。チョの場合を見ると、創作という知的精練の方法は確かにもっていたが、しかしながら、超越的な精練方法がなかったのではないかと思う。現代文化は、超越性を喪失しているので、超越的感情・エネルギーの知的精練方法をもっていないのである。

そうである。これが、私が言わんとしていることである。単に、感情・エネルギー様態の知的精練の問題ではなく、超越的感情・エネルギー様態の知的精練の問題なのである。(簡略化して、超越感情エネルギー態としよう。)

例えば、ユングが復興させた錬金術という技法・叡知であるが、それは、この超越感情エネルギー態の変容方法であると考えられる。これを超越的精練と呼ぼう。

この錬金術の超越的精練方法は、視覚的像をともなっていた。つまり、美術的方法をもっていたのである。つまり、超越的精練と美術との連関性があるということである。ひとことで言えば、ヴィジョン、精神的ヴィジョンの方法と言えると思う。

さて、現代の危機は、超越感情エネルギー態の超越的知的精練の方法の欠落にあり、それを公的に提示する切迫な必要がある。

プラトニック・シナジー理論は、正に、超越的知的精練の意味を説き、また、その方法も示唆すると言えよう。

これは、有り体に言えば、私自身の問題であった。私は、自分の感情・エネルギーを理性・知性に取り込むがことができずに、コスモスを私的に構築していたのであるし、また、コスモスという観念は、物質科学では稀であるが、多くの芸術や哲学等に見いだされる思想である。

現代の狂気や暴力・犯罪の知的要因は、この超越的精練のための知的科学的理論の欠落にあるだろう。確かに、ユングは、創造的心理学によって、超越的精練方法を説いていることは否定できない。しかしながら、ユングの方法は、古いままなのだえる。復古なのである。そうではなくて、現代科学や哲学の進展にも耐え得るような方法・理論が必要なのである。

これは、まったく、プラトニック・シナジー理論の独擅場というしかない。哲学、科学、数学的方法をもった超越的理論であり、現代科学、哲学等にも、根拠を提示できる理論なのである。

とりわけ、宗教、神話学、心理学、芸術を包摂している点が、強力であり、超越感情エネルギー態を充分に知的超越的に包摂しているのである。

結局、現代は、近代主義の終焉に当たり、ポスト・モダンもすたれて、大昏迷状態にあり、トランス・モダン社会へと転換すべき時代となっているのであり、このとき、近代的理性・知性から解き放たれた超越感情エネルギー態を知的精練する必要が生じているのである。カオスの様態にあるのである。これを超越的精練によって、コスモスへと転化する必要があるのである。いわば、トランス・モダン・コスモスへの変換である。

ここで、想起するのは、ドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』等である。そこでは、脱構造主義(ポスト構造主義という用語はミスリーディングである)における放出されたエネルギーの創造的変容のあり方が、奔放に説かれていた考えられるのである。

しかしながら、彼らは、唯物論や近代的連続論に囚われていたので、超越性、超越界に達することができずに、放出されたエネルギーが超越感情エネルギーであることが認識できずに、現象エネルギーの変容だけを模索しただけであったのである。

それは、構造主義的エネルギーと言ってもいいだろう。それは、現象内在連続的エネルギーに過ぎないのである。

実数軸のゼロ度のメディア・ポイントに留まったのである。

最後に、ドゥルーズ&ガタリの脱構造主義と構造主義とにおけるエネルギー様態を整合化して本稿を終えたい。(簡単にするために、ドゥルーズ&ガタリの脱構造主義を、DG脱構造論と呼びたい。)

DG脱構造論であるが、それは、連続的同一性2項対立構造において、生起する連続態における動態論である。つまり、構造内の生起する動態・エネルギー態を脱構造と考える思想である。

しかし、これは、連続論に留まっているのである。

だから、DG脱構造論は、必然的に構造主義に留まると言えよう。

ここで、構造主義について簡単に言うと、よくソシュールの機能的差異を提起されるが、その機能的差異ないし構造的差異とは、連続的同一性によって、形成される2項対立が生みだすものである。だから、連続的同一性と構造とは一致すると言えよう。

つまり、構造主義とは、近代主義の連続的超越的構造を提示したものと考えられる。

言い換えると、カントの超越論的形式と等価である。

カントの超越論が、構造主義の先駆と言えよう。

ついでに言うと、ポスト・モダン理論とは、構造主義の動態理論であったと言えるだろう。これは、連続論であり、差異=微分理論であったのである。ここでは、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、ウスペンスキー、フッサール、そして、鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造等の行った超越性へのフレークスルーが看過・無視・否定されているのである。

プラトニック・シナジー理論は、これらの理論を哲学・数学的に統一化したのである。


2007年04月14日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:イデア(超越性)と現象・物質との関係
ここ当分は、仕事関係で忙しく、考察が少なくなる。

さて、今日は、人間を見ていて、その現象とイデアはどう関係しているのかと、素朴に思った。

例えば、皮膚とイデアはどう関係しているのか、と思った。

物質科学では、タンパク質、脂肪、糖質等々を言うだろう。

しかし、人間の皮膚は、単に、物質だけでなく、精神が通っているだろう。

精神の動きが皮膚に反映するだろう。皮膚の輝きはそういうものがあるだろう。

そう、心が皮膚に反映するのである。だから、周知のように、心と人体物質は関係しているのである。

スピノザは、デカルトを受けて、心身平行論として考えた。

PS理論では、皮膚は、mepo(メディア・ポイント)になるのではないだろうか。

本来は、緻密に考察すべきであるが、今は、ざっと述べたい。

PS理論において、精神と身体ないし物質身体とはどう記述できるのだろうか。

つまり、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式において、どう記述できるのか。

私のこれまでの考えでは、iが超知性ないし原知性であり、-iが超身体ないし原身体である。

それの接点は例えば、先に述べたチャクラである。クンダリーニが超越/現象エネルギーないしメディア・ポイントのエネルギーである。

では、チャクラと皮膚はどう関係しているのかとなるだろう。

これは、鍼灸のツボと関係することになるだろう。

そう、おそらく、チャクラと皮膚は関係しているのである。

この問題は、後に残すとして、本件について簡単に触れよう。

そう、端的に、イデアと物質の直接的関係はどのようなものなのか、ということである。

当然、PS理論のこれまでの説明から言えば、超越的差異=イデアが連続化ないし同一性化したものが、現象・物質である。

だから、簡単に言えば、皮膚とは、超越的差異=イデアの連続化ないし同一性化したものと言えよう。勿論、生物学的には、神経云々を言わなくてはならないが、今は、無視する。(思うに、神経とは、チャクラと似ているが、チャクラよりは、より物質に近いものであると考えられる。)

この連続化又は同一性化(略して、連続/同一性化)は、実質的にどういうことなのであろうか。

つまり、連続/同一性化エネルギーとは何かである。

これが、端的に、物質エネルギーであろう。

m(ic)*(-ic)⇒mc^2

における右辺である。

これが、皮膚を形成しているのである。

しかし、私は、皮膚に、精神を透視するのである。

これは、皮膚に、左辺がなんらか顕在しているということではないだろうか。

皮膚はメディア・ポイントであると言ったのであるから、それは、諾うことができる。

つまり、皮膚は、メディア・ポイントとして、m(ic)*(-ic)とmc^2との接点であるということであり、私が皮膚に透視する精神とは、左辺であるということである。

敷衍すれば、オーラというものも、左辺である。

私は顔写真や顔貌を見て、たとえば、胡散臭いと直観するのは、左辺的なエネルギーが歪んでいるのが感じられるからだろう。

ということで、精緻さには欠けるが、皮膚における、とりわけ、顔面における、イデアと現象・物質との関係を解明したこととしたい。

そう、ついでながら、これで、精神の美と外形の美との違いも説明できるだろう。

単なる外形の美とは、空ろである。化粧をいくらしても、そうである。

精神の美、イデアの美、これが、本当の美である。外観には、精神が顕現するのである。


2007年04月06日(Fri)▲ページの先頭へ
プラトニック・シナジー理論と方向が同じと思われるので、引用したい。
生の律動

どうやって自己を知り、自分を解放するか

  私は以前、早稲田大学 の派遣留学生としてアメリカのミシガン州に渡りそこの大学に長期滞在しているとき、非常に激しく深い神秘体験をして、無意識の底の生命力と一体となることができた。存在論的な哲学を学ぶ人たちから見るととてもラッキーな人間である。一瞬にして目が開けてしまったからである。そういった体験も含めいろいろ話してみよう。

  哲学がほんとうにわかるようになるととても便利である。哲学は自分を知り、統合力をつけて自分を解放してしまうのに役に立つ。普通の哲学は洞察力が弱いため、生の律動の原理と絶対者の本質構造を把握するだけの理解の前後関係が存在しないため逆にノイローゼになってしまう人も出る。アメリカにいるとき、精神的に行き詰まって、ひどい神経症 になり、地獄から生還するときに、引きずり出してきたのがこれから扱う「光の範型」である。「光の範型」という図式を通して自分を知ることに成功すると自己コントロールが容易になり、うまく生きていけるようになる。幸い私の近辺にいる人たちから好評を博してきたがこれまでそれほどおおっぴらに発表はしてこなかった。やっとその時期が来たので、近いうちに出版も考えている。 

  デルフォイの神殿に「汝自身を知れ」とあった。ソクラテス は自分を正しく知ることが重要と考えた。一体自分を正しく知るということはどういうことか。自己を知るということに光とその分裂態であるスペクトルを導入する。生の衝動の原理を光の分裂と統一としてとらえ、それが自らの身体を通して意識空間で生のパルスの構造を位置づけることに成功すると自己の本質と自己理解が一致して悪無限から真無限(ヘーゲル )へと移行する。

生の意味の構造を生の律動に基づいて把握する。それが出来ると哲学は突如として分かりやすくなるのである。自己の本質構造を凝視すること、そしてトータルで理解してしまうこと

自分自身の内にある生の律動を分離してスペクトルの要素として把握することに成功すること、この部分に全力を集中することで大幅に時間を短縮できる。哲学の学習はものにならないことの方が多い。だがツボが分かると意外と簡単に落城させることが出来る。 

プラトン の善のイデア、アリストテレス の現実態、ライプニッツ のモナド 、ヘーゲル の弁証法 など形而上学 的原理はすべて同一の生の律動に基づいている。また優れた神話や経典は生の律動の原理を組織的な比喩の体系によって示し、我々の心にその対応関係が取れ、その統合の相へ一体化出来るように習慣化するための教えをも含んでいる。

http://d.hatena.ne.jp/mk6/20060126


光による生成の論理

■ 善のイデアと隠喩のキリスト

あらゆる哲学・宗教・心理学は善のイデアの本質構造に向かって収束していく。

それは生の本質構造である。→人格の本質構造である。

善のイデアと隠喩のキリスト

善のイデアの本質構造を明らかにする隠喩のイエス・キリスト

福音書 隠喩体系のイエス・キリスト は人格の普遍的構造の組織的比喩である。

まず第1に、光が論理的決定権を持っている。すべては光の論理によって支配されている。

http://d.hatena.ne.jp/mk6/20060829/1157342755


理念の構造としてのキリスト

人格における光と生の間の論理的つながり具合、人格を光と生の視点から見た論理的つながり具合、をなるべく明晰に説明することが重要なのでそれ以外のことに向かうと焦点がぼける。

ここに出てくるのが目的としての善のイデア、本質構造としての理念のキリストである。そして形而上学 の原理はすべてこれをめぐる。

神話や啓示の本はすべて禅の公案として対峙する。イエス・キリスト が現実にいたとしてみたら分からなくなる。

本質的思考を妨げることになる。

人格についての比喩体系の福音書 、そこでプシュケー全体を表すイエス・キリスト

善のイデアの根本構造を人格を通して示すのが福音書 の比喩体系としてのイエス・キリスト である。

http://d.hatena.ne.jp/mk6/20060828/1157345028


善のイデアと生の根本運動

ウェブ2.0の時代が来た。

1.0のころはどちらかというと囲い込みで孤立型だったのが2.0になるともっと開放的でさらにリンクが多く張られるようになった。個人の発信力もブロードバンドが後押ししてはるかに自由になってきた。WEB2.0 にならって、人文や宗教、哲学の領域もセクト から解放され、これからはクロスオーバー型になる。そのとき、中心となる善のイデアと生の根本運動がしっかり了解されることである。普遍的な光に基づいた人文の理解がクロスオーバーを可能にする。究極者についての表現とその本質を理解することが大切である。

プラトン は善のイデアの存在を我々に教えたが、ただそれを示しただけで内容については規定していない。善のイデアの内容は生の根本運動に意識空間が結びつくと成立する。そこで善悪の本質構造が設定されるからである。

善のイデアの内容を明確に把握すること。それによって善の模倣力が増大すること。そのようにして人類は安定していく。

http://d.hatena.ne.jp/mk6/20060821/1157345137

■ 聖杯

mk62006-03-31



今日はこのサイトを見に来た人だけにちょっとした秘密を明かすことにしよう。実は「光の範型」と名付けられたこの図式は円の中で5重の階層になっている。外側から1反応態度:反抗・逃避・支配・受容 2通常態度:高ぶった・気が緩んだ・引き締まった・謙遜な 3衝動近辺:自尊心・快楽・信念・素直 4衝動:雄性・雌性・(媒介性)・道徳性 5スペクトルと光  の順で次第に深くなっていく。これら5つのレイヤーで一番下が光のスペクトルで閉じられている。つまり円の中を彫り込んで一番底が4象限で光のスペクトルが全体をつなげているのである。手前から向こうに向かって5つの層があり、コップの底にスペクトルのパターンがあるような感じに見ることが出来る。右上の図だとスペクトルが一番上にあるが底まで貫いているものと見て欲しい。

この図式は人間の意識を奥行きを持ってそのように見るようにすることを勧めている。このコップの内側を彫り込んだようなモデルは福音書 の暗号解読のツールであり、またキリストの贖罪の血をそこで受けて、我々の経験をその都度浄化していくことのできるツールでもある。

つまりこれは聖杯 のようなものである。

http://d.hatena.ne.jp/mk6/20060331/1157704215

光の範型 Paradigm of Light


2007年04月05日(Thu)▲ページの先頭へ
シェリング哲学とPS理論:『哲学的経験論の叙述』はPS理論の先駆だと思う。
(訂正:最初の説明は、第一の原理と第二の原理が逆であったので、以下のように訂正した。)

今は、残念ながら、十分に論考を展開できないので、簡単に触れるが、シェリングの『哲学的経験論の叙述』を40ページ弱読んだが、ここには、PS理論の先駆に当たる叡知の宝庫があると思う。

シェリングは、途方もなく誤解されてきたと思う。おそらく、ライバルの嫉み等によって、貶められてきたのだと思う。とりわけ、ヘーゲルだろう。

とまれ、簡単に述べたい。

シェリングは、第一の原理、第二の原理、第三の原理、さらには、第四の原理等をあげているが、ここでは、第一から第三の原理まで言おう。

第一の原理は、メディア・ポイントである。あるいは、即非の論理である。
第二の原理は、連続的同一性の原理である。
第三の原理は、差異的同一性の原理、即ち、i*(-i)⇒+1である。

これは、直観で明確に感じ取れるものである。大天才だと思う。

そう、もう少し説明すると、

第一の原理とは、認識されるもの、主客対極・即非の原理である。

第二の原理とは、認識するもの、主観性の原理である。

第三の原理は、存在すべきなにか、終り、目的と言っている。

何ということだろう!

p.s. 因みに、夢で見た大きな目をした老賢者のような老爺が、ヘルダーリンの研究をすると言ったが、シェリングはヘルダーリンとは、テュービンゲン大学に在学していた。ヘーゲルもそうであるが(シェリングは二人より5歳年下)。何か、関係があるのか。シェリングは、プラトニストと言えるだろうから、古代ギリシアである。叡知である。そう、大きな目は梟の目のようだと言った。ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つと言ったのは、ヘーゲルである。そうすると、あの老賢者は、これらを示唆していたのか。テュービンゲンは、アルプスに近いだろう。今は、ここで留める。

p.p.s. ケプラーも関係するとは思わなかった。占星術師でもあった。コスモスの研究者である。そう、ケプラーの宇宙論は、プラトンの『ティマイオス』の影響が大である。これで、4者が古代ギリシアで結びついた。

3p.s. ヘッセも関係する。ヘッセは、東洋への志向をもっていた。また、ユングとも関係する。思うに、6者とも、叡知、精神を求めていたと言えよう。イデアである。

4p.s. テュービンゲンの紋章は、生命の木と蛇の図像に似ている。

5p.s. ヘルダーリンとヘーゲルとシェリングは、三人、フランス革命に熱狂して、ともに植樹したとかいうエピソードがあったと思うが。ヘルダーリンの手紙の言葉だと思うが、三人に共通する理想は神の国であるということであった。ヘーゲルの場合は、倒錯した神の国である。全体主義化した神の国である。

* 画像
* 画像の履歴
* リンク

画像:Wappen Tuebingen.png

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%
94%BB%E5%83%8F:Wappen
_Tuebingen.png

参考:
テュービンゲン大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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テュービンゲン大学
テュービンゲン大学

テュービンゲン大学(Eberhard-Karls-Universität Tübingen)は、ドイツ ・テュービンゲン にある総合大学。

[編集 ] 概要

1477年 に創設されたテュービンゲン大学の前身テュービンゲン神学校は、17世紀から19世紀を通じてルター派正統神学 の拠点であった。近郊にベーベンハウゼン修道院をもつ。街の至る所に大学施設がおかれているが、中心となる施設はかつて城のあった小高い高台にある。テュービンゲンで最も歴史のあるギムナジウムは、ケプラーを記念して、ヨハネス・ケプラー・ギムナジウムと名づけられている。大学広場に面した書店は、かつて無名時代のヘルマン・ヘッセ が店員をしていたことで知られる。

[編集 ] 代表的人物

* ヨハネス・ケプラー

16世紀後半から17世紀前半にかけての天文学者。テュービンゲン大学で数学を学んだ。天体運行に関するケプラーの法則で知られる。

* フリードリヒ・シェリング

18世紀後半から19世紀前半にかけての哲学者。ドイツ観念論の代表的な哲学者で、「人間的自由の本質」などで知られる。

* ゲオルク・ヘーゲル

18世紀後半から19世紀前半にかけての哲学者。シェリングと同時期に活躍した哲学者で、ドイツ観念論の大成者とされることが多い。「精神現象学」などの作品で知られる。

* ヘルダーリン

シェリング、ヘーゲルと同時期にテュービンゲン大学で学んだ詩人。

[編集 ] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズ に、テュービンゲン大学 に関連するマルチメディアがあります。

* テュービンゲン大学の公式サイト(ドイツ語)


2007年03月29日(Thu)▲ページの先頭へ
連続的同一性化と差異的同一性化との力学:差異と同一性の連続的混沌と超越的差異即非共振性
先に少し言及したが、途中なので、ここで検討を行う。

これまで、⇒-1と⇒+1とはメディア・ポイントMePoの実数軸において、構造(構造主義の構造)を形成し、そこに極性があると想定してきた。

つまり、-1の極と+1の極があり、近代主義とは、前者へ傾斜した場合と考えたのである。

ここで作業仮説だが、MePoの超越的上層(上部)において、差異即非様相をデュナミス=ポテンシャル・エネルギーとしよう。そして、そこから、エネルゲイアが発動して、MePoの下層(底部)へと螺旋回転するとしよう。

このMePoの下層(底部)が、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの中間であると言えよう。つまり、ここでも、即非的一性としてのエネルゲイアがあるのである。

だから、MePoの下層部は、現象化の始点であり、実数エネルゲイア即ち、物質エネルギーの原点である。

しかし、思うに、MePoの底部は、あくまで、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの即非的交点であるから、ここは即非的エネルゲイアないし即非的エネルギー又は虚・実即非エネルギーが存すると見ることができよう。

(さて、現象化であるが、明快にするために、MePoの底部を底部MePoないしSub-MePo, Bottom-MePoとしよう。そして、上部を上層MePoないしSupra-MePo, Top-MePoとしようか。正確に言えば、底部は底点であり、上部は上点であるが。)

この底点MePoは、虚数・実数即非エネルゲイア(エネルギー)をもっているというように記述できる。

さて、現象化であるが、それは、この底点MePoの即非エネルギーの発動による。それは、思うに、不思議なエネルギーの発動であり、発現である。

なぜなら、一方では、超越エネルギーであり、他方では、物質エネルギーであるからである。

超越エネルギーを差異、物質エネルギーを同一性と見ることができよう。

差異(超越エネルギー)-同一性(物質エネルギー)-差異(超越エネルギー)-・・・

である。差異をD、同一性をI、超越エネルギーをTE(Transcendental Energy)、物質エネルギーをME(Material Energy)と表記しよう。

すると、

D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-・・・

となるだろう。

もっとも-の記号は即非性であるから、☯を使用するといいだろう。

すると、

D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯・・・

となる。

明瞭にするため、

D-I-D-I-D-I-D-I-・・・

を使用する。

DとIとの即非様態が現象界である。

そして、これは、明確には、i*(-i)⇒+1ないしm(ic)*(-ic)⇒m・(+1)・Eで記述される。

問題は、これを、同一性の連続空間と見る近代主義である。

それは、I⇒I⇒I⇒I⇒・・・

である。即ち、⇒-1である。

これは、現象界を単に物質・機械的世界と見ることである。

現象界の底点MePoに於ける差異性ないし超越性を否定・排除するものである。

この否定・排除の力学を解明したいのである。

私はこれまで、一神教・父権主義における連続性への傾斜を述べてきた。

これは、差異と同一性との関係で言えば、同一性への傾斜と言うことができる。

では、傾斜とは何か。

これは、フッサール現象学で言えば、ノエマと外的対象を同一化することではないだろうか。ノエマという自己内観念を、外的対象へと投影して、一体化することではないだろうか。

これは、先に触れた、遠近法や奥行きや第3次元空間の問題と関係しよう。

ノエマと外的対象とを同一化したものが、同一性である。ノエシス-ノエマの差異と外的対象の差異が否定されるのである。

ここには、明らかに、錯誤・倒錯・狂気があると言えよう。

これは、また、ヘーゲル哲学の問題である。

ヘーゲルの理性は、「全存在であるという確信」である。この全体性が僭越なのである。この全体性は何処から来るのだろうか。

これは、端的に、言えば、内的他者・ノエマの否定からだと思う。本来は、超越性があるのである。ノエシス-ノエマは超越性であると思うのである(超越論的主観性)。しかし、この超越性を否定して、全体性を形成すると考えられるのである。

内的他者との共振を否定して、主体が全体化するのである。

そう、ここには反動があるのである。思うに、現象界において、なんらかの苦の経験をする。それに対して、主体は身構えるのである。これが、内的他者との共振性の否定ではないだろうか。

外的対象に対して、主体は身構える。攻撃態勢と取るのである。それは、内的他者を否定して、形成される態度だろう。

つまり、外的対象への反感・反動が、共振的超越性の否定であり、全体性を発現させると思われる。

これが、連続的同一性の起源であろう。

即ち、i*-(-i)⇒-1である。

この反感・反動であるが、これは、どこで形成されるのだろうか。それは、思うに、原-身体と思われる-iが苦を感じて、それに対して、原-主体であるiが反感・反動化するというように考えられるならば、それは、-iとiとの相互作用であるが、反感・反動の主体は、iであると言えよう。

有り体に言えば、苦に対する否定として、連続的同一性が発生すると言えよう。-iの苦の様態の否定としての連続的同一性である。

否定様態としての連続的同一性である。

即ち、マイナスの《力》である。即非共振の力学を太極力学と言うならば、これは、太極力学におけるマイナスの《力》である。この場合は、iを陽、-iを陰とすれば、陽*陽⇒-1である。

結局、本来、陽*陰⇒+1であるが、陰を否定した様相になっている。

当然、否定された陰が潜在することになる。これは、いわば、潜在エネルギーである。そして、これは、本来、陽*陰のエネルギーであると考えられる。

そして、この、いわば、塞き止められた陰・陽エネルギーは、連続的同一性に対して、反作用するだろう。しかしながら、連続的同一性(自我)が強固である場合、それは、分裂性という様態を取るだろう。連続的同一性と陰・陽エネルギーの分裂である。そして、後者が前者に対して、非合理主義的な情動・衝動となって発動するだろう。これが、私が以前執拗に理論化しようとしてきた近代的自我の狂気ということであろう。パラノイアであり、「精神分裂症」である。

近代主義の問題を考えると、この連続的同一性が近代合理主義、唯物論となったのである。それは、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの反作用を非合理主義としてもっているのである。

しかし、連続的同一性を単純に否定して、陰・陽エネルギー、超越エネルギーだけを肯定するならば、それは、ポスト・モダンとなるだろう。ドゥルーズやデリダとなるだろう。

なぜなら、それは、iという原-主体性を否定することになるからだろう。ドゥルーズが超越論性ないし特異性とは非人称的且つ前-個体的なものと述べたように、主体性の基盤が消失してしまうだろう。

端的に言えば、連続的同一性の単純な否定は、同一性自体を否定することになるのである。そうすると、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの現象化である、本来の差異的同一性i*(-i)⇒+1が消失するのである。

つまり、連続的同一性の単純な否定は、底点MePoにおけるエネルギーの肯定ではあっても、現象化を否定することになると考えられる。何故なら、現象化、自己現象化とは、主体の能動性が必要だからである。即ち、i*(-i)の共振エネルギーは底点MePoにあるだろう。しかし、これは、原主体iの能動性があって、自己現象化が真に発現するのである。

即ち、⇒+1の形成には、原主体iの能動性が必要なのである。それが、連続的同一性にはあると考えられる。だから、連続的同一性を乗り越えて、差異共振化を能動的に認識して、差異的同一性という自己認識現象が生起すると考えられるのである。

だから、トランス・モダンとは、実に的確な命名である。モダンの行き着いたところを乗り越える(トランス)ということであるからである。

これは、現象学的還元であり、また、スピノザの能動的観念と関係するだろう。

以上から、整理すると、連続的同一性という反動的能動性に対して、超越エネルギーの反作用が生起する。

即ち、連続的同一性⇔超越エネルギー

である。これが、末期近代主義の様態である。

そして、この混沌した様態において、連続的同一性を不連続的超越性によって切断することで、連続化が解体して、同一性と超越性とが調和するのである。即ち、差異的同一性i*(-i)⇒+1が形成されるのである。

言い換えると、末期近代において、連続的同一性と超越エネルギー(差異エネルギー)の混淆様態が発現する。これは、混沌・混乱である。

しかし、連続的同一性の連続性を切断すること、即ち、同一性と差異性を不連続化することで、両者の調和への一歩が形成されるのである(不連続的差異論の段階)。そして、切断されて生起した、不連続的差異を即非・共振化することが、次のステップである(プラトニック・シナジー理論の第一歩)。そして、さらに、共振化した差異を超越性・虚数として認識することが到達点とほぼ言えよう(プラトニック・シナジー理論の成就)。

結局、以上から、末期近代において、一種、同一性と差異との連続的混淆様態における極性が生起すると言えよう。そう、連続的極性である。しかし、ここから、超越的差異へと飛翔するのは、必然的ではない。言わば、偶然的である。

確かに、そこには、可能性はある。そして、経験的にそのような心性を無意識的に形成するかもしれない。しかしながら、近代主義の枠組み・パラダイムにある限り、その経験的無意識的な心性は、独立できないだろう。

ここにプラトニック・シナジー理論のトランス・モダン哲学・理論としての創造的・画期的・ブレークスルー的意義があるのである。

この理論を契機にして、近代主義の悪魔の牢獄世界から脱出することができるのである。

この理論は、二千数百年の叡知の眠りから人類を覚醒させることになる。

p.s. 連続的同一性と超越的エネルギーの、いわば、相剋様態である末期近代の混淆・混沌様態であるが、ここにおいて、否定と切断の意味・意義を全く明確にする必要がある。相剋様態なので、ポスト・モダンのように連続的同一性の否定する傾向にあるとは言える。しかし、これは、反動である。つまり、両者の相剋様態とは、上述したように、連続様態なのである。即ち、連続的相剋様態なのである。だから、この連続様態を切断することが、この混沌からの脱出の第一歩なのである。これが、不連続化である。

つまり、否定は反動であり、アイロニカルな没入となるのである。そして、切断がこれからの乗り越え、脱出を意味するのである。

即ち、否定は反動であり、切断は超出である。


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