GP陰陽原理:哲学主数学従の陰陽哲科学

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2008年05月18日(Sun)▲ページの先頭へ
V. シャウベルガーの自然理論とプラトニック・シナジー理論:ガウス平面とPS立体
購入したヴィクトル・シャウベルガー(1885〜1958)の自然理論を解説する『自然は脈動する』(アリック・バーソロミュー著)
http://www.kyobunsha.co.jp/shopping
/books/ISBN978-4-531-08164-6.html
の1/4弱読んだが、直感した通り、否、それ以上に、シャウベルガーの自然理論が、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)と共通性をもっていることを察知した。そして、前者の考えを活用して、PS理論が発展できたと考えている。(もっとも、シャウベルガーの理論には、Media Pointの概念はない。この点が相違点である。)以下、今は余裕がないので、簡単に記したい。
 とても、重要な自然理論が説かれていて、簡単には説明できないので、私が思いついたことを述べたい。
 それは、ガウス平面に直交する軸を考えて、三次元空間を考えることである。そして、その垂直軸を天地軸を考えるのである。+iと-iとが引き合うとき(牽引力)は、共鳴して、+1となる。しかし、これは、同時に、天地軸の天へと上昇(浮揚)すると考えるのである。それに対して、+iと-iが反発するとき(斥力)、-1となり、これは、天地軸の地へと下降すると考えるのである。
 そうすると、以上から、上昇らせんと下降らせんが生起すると思われるのである。また、(+i)*(-i)と(-i)*(+i)の順列を考えると、らせんは二本になると考えられる。即ち、二重らせんになると考えられるのである。これが、宇宙・自然の原型となるだろう。
 興味深いのは、シャウベルガーが重力とは対蹠にある浮揚力を考えていることである。これは、樹木などが空へと上昇する力であり、反重力的な力なのである。この点を借用・活用して、天地軸を導入したのである。
 その他、とても明快で、目から鱗であったのは、極性が引き合う力と反発する力をもつと指摘している点である。差異共振性とは、単に、引き合う力だけではなく、対立する力があるのだから、当然、反発する力をもっているのである。この点は、最近、やや不明確になっていたので、助かった。考えてみれば、差異のもつ力とは、他者への接近と同時に、絶対的には一致しないというものである。即非性と表現しているものである。即ち、AはBへの限りなく接近するが、決して、Bにはならないのである。A→Bであるが、A≠Bである。
 もっとも、厳密に考えると、この差異の力と即非性は少し違うようにも思えるのである。差異の力は、限りなく、AはBに近づくが、決して、Bにはならないのである。これを以前、他者への志向性と呼んだ。結局、Aは独立性を保つのである。だから、Aという差異には、垂直性と水平性があるのである。
 この点は、哲学的に微妙なものがあるので、少し考察しよう。Aという差異は、垂直的独立性と水平的共感性がある。後者において、AはBに接近するのである。ほとんど一致するのである。あくまで、Aは単独性・特異性であり、独立した個のままである。しかるに、Bへと接近するのである。
 問題は、Aの独立性である。これは、同一性なのだろうか。否、当然、差異である。ただし、独立性から反発性となるときが、同一性である。つまり、他者であるBに反発し、排除するとき、Aは同一性となるのである。つまり、Aの独立性とは、共感性と一如(いちにょ)なのである。これが、差異である。つまり、差異とは、垂直性と水平性の平行性である。
 ここで、シャウベルガーの自然理論に関係して言うと、Media Pointにおいて、差異は共鳴して、引き合って、⇒+1となり、反発して、⇒-1となるのではないだろうか。これまでは、最初に、⇒+1となり、その後、内的否定により、⇒-1となると考えたのである。もっとも、それ以前には、両者、同時生起すると述べたのではあったが。
 とまれ、Media Pointにおける差異共鳴とは、引き合いが+1となり、反発が-1という両極に展開するということになった。この両者は共立しているということではないだろうか。言い換えると、+1であると同時に、-1であるということであり、又、同時に、+1と-1とは当然、異なるということで、+1と-1は即非関係にあるということではないだろうか。
 そして、+1は差異牽引性=差異であり、-1は差異反発性=同一性ということではないだろうか。つまり、差異と同一性は同時生起ということである。
 では、物質とはどういうことになるだろうか。これまで、同一性-1を物質として考えてきたのであるが、どうなるだろうか。思うに、現象は、±1である。だから、物質というものも、±1ではないだろうか。しかしながら、物質ないしは現象の実質・実体は、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、イデア共振ないしはイデア共鳴である(超越共振・超越共鳴)。そして、これが、「精神」である。つまり、物質ないし現象の本体とは、「精神」ないしはイデア(イデア共鳴)である。
 このように考えると、ポスト・モダンや構造主義の数理も変えないといけなくなるだろう。構造主義は、+1と-1の対立構造で説明がつくのではないだろうか。そして、ゼロ記号であるが、それは、やはり、両者の和である。それは、連続的原点であり、不正確な原点である。そう、構造点と言ってもいいだろう。
 では、ポスト・モダンであるが、それは、やはり、同一性の-1に対して、差異の+1を対峙させているということではないだろうか。デリダの差延とは、正に、この-1と+1との極性を提示しているのではないだろうか。そして、ドゥルーズは、思うに、-1に対して、+1を積極的に説いているが、しかし、-1 を否定して、+1を積極的に説くことは、逆に(アイロニカルに)同一性になることだと思われるのである。つまり、A→Bにおいて、AをBと一致させることだと思われるのである。つまり、差異一致である。極限値である。limitA→Bである。だから、差異はゼロとなり、微分が形成されると考えられるのである。差異は同一性に転化してしまうのである。
 そして、ハイデガー存在論であるが、先には、+1が本来的存在であり、-1が頽落した現存在であると言ったが、どうだろうか。思うに、それは、正しいのではないだろうか。本来的存在は、他者がなく、自己同一性に閉じているのである。つまり、ドゥルーズの差異と同じ、極限値なのである。A→Bなのである。だから、差異共振性がないのである。
 フッサール現象学は⇒+1ないしは⇒±1であろう。
 ここで、特異性のことを言うと、それは、端的に、Media Pointのことを意味するだろう。キルケゴール、ニーチェがそれを示唆したと言えよう。そして、ウスペンスキー、鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周三が、論理的にこれを捉えていたと考えられるのである。不連続的差異論は、これを、明確・明晰に説いた理論と考えられるのである。
 ここで、近代合理主義・近代的自我について触れると、それは、やはり、-1である。+1を否定・抑圧しているのである。しかしながら、正しくは、-iを否定しているのである。
 思うに、ここで、用語を整理した方がいいだろう。-1は同一性であり、+1は差異であるが、共一性としての差異である。そして、(+i)*(-i)が差異共振性ないしは差異共鳴性である。
 以上のように訂正すると、光と影の二重性はどうなるだろうか。端的に、光はどうなるのだろうか。肉眼で見る光とは一般には、やはり、±1の極性現象であろう。そして、思うに、-1が粒子であり、+1が波動ではないだろうか。電磁波の本体は、端的に、差異共振性ないしは差異共鳴性である。虚数的超越共振性である。換言すると、本体が、虚数超越的差異共振性であり、それが、Media Pointにおいて、実数的極性になっているのである。そして、極性の相補性や長距離相関という点で、Media Pointに接近していると言えよう。
 光と影の問題に返ると、-1が影であり、+1が光であろう。では、宗教的な光はどうなるのだろうか。それは、端的に、差異共振性である。超越エネルギーである。それは、Media Pointを介して、「感知」できるだけである。おそらく、dark sunである(darkは不可視ととる)。
 では、さらに、イシス・オシリス神話を考えるとどうなるだろうか。オシリス=ホルスは+1ではないだろうか。イシスとオシリスは、本来、差異共振性を意味するだろう。そして、セトが-1ではないだろうか。
 こう考えると、多神教と一神教の関係が明快になるように思える。多神教において、±1が生起するのである。そして、一神教は、+1を否定・排除・隠蔽して、-1を唯一神とするのである。エロヒームを+1、ヤハウェを-1とすることができよう。そして、前者を否定したものが、ユダヤ教やキリスト教である。聖書はそうではない。【イスラム教であるが、これまで、差異共振性をタウヒード(一性)としていると考えたが、どうやら、+1をアッラーとしているように思えている。つまり、エロヒームとしてのアッラーとなる。だから、ヤハウェとは、逆となる。アッラーを月と表現するなら、ヤハウェは何だろうか。やはり、太陽ではないだろうか。しかし、太陽は二つあると思う。差異共振性の太陽と、同一性の太陽である。ヤハウェは後者である。そして、前者が太光である。アマテラスは何だろうか。太光だと思う。問題は、差異共振性の太光と同一性の光(影)を同一視してしまうことである。この同一視が例えば、日本の国家神道において起ったと言えよう。私は、この一因は国学にあると考えている。
 思うに、アマテラスとツクヨミを極性として見ることが可能である。そうすると、アマテラスは同一性の太陽になるのである。
 どうも、太陽の表象は混乱を招くものである。本来、差異共振性の太光であるが、それが、現象化において、同一性の太陽に同化されやすいのである。この点は後で再考したい。】
 とまれ、以上から見て、PS理論は奇蹟的である。シャウベルガーの説く自然の精妙なエネルギーは、差異共鳴エネルギー=超越エネルギー=イデア・エネルギーで簡単に説明できると考えられるのである。とまれ、『自然は脈動する』をさらに読んで、検討を続けたい。


2008年05月13日(Tue)▲ページの先頭へ
+1と-1と±0に関して:ハイデガー哲学と構造主義とポスト・モダン
既述であるが、ポスト・モダン哲学は、+1(共一性)という差異を追求したが、結局、-1(同一性)との連続性を立ち切ることができずに、両者の連続性ないしは混淆に留まったと考えられる。そして、+1と-1との関係を和として考えて、+1+(-1)⇒±0が帰結されて、この±0とは、構造主義を意味し、結局、構造主義から真に脱却できなかったと考えたのである。
 問題点は、果たして、実軸の計算は和でいいのか、ということと、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学の先駆と考えて、-1と±0との存在論的差異を説いていると見たがそれでいいのか、ということである。
 後者を再検討すると、先に述べたように、ハイデガーの本来的存在を±0(実際は単に、0として見たが、±0とした方がより的確であると思われる)と見て、頽落した現存在を-1と考えて、±0と-1が存在論的差異を形成すると見たのである。実際、ハイデガーの本来的存在はわかりにくいのである。個のようであるが、差異共振性がまったく欠落しているのである。これを±0で捉えていいのだろうか。
 0は本来、構造主義の位置である。だから、ぴったりとはあてはまらないのである。今思いついたのは、+1⇒-1ではないだろうか。これならば、差異共振性のない+1があり、それから、同一性志向性によって、-1になることを意味できるのである。
 どうもその方がよさそうである。だから、ハイデガーの本来的存在は+1であり、頽落した現存在は-1であるということになる。
 そうすると、これは、+1を共一性と言ってきたことを訂正しないといけない。+1ではなく、共一性とは、端的に、自己認識方程式である。そして、⇒+1はフッサール現象学を意味するだろう。
 とまれ、そう訂正することから、ハイデガーの存在論的差異は、+1と-1との差異であることになった。そうすると、ポスト・モダン哲学はどうなるかと言えば、端的に、ハイデガー哲学を踏襲していることになるのではないだろうか。初期デリダの場合、ほとんどそうなると思われる。ただ、ポスト・モダンの場合、構造主義の側面がかなり強いと考えられる点が異なると言えよう。
 そう、ここで第一の問題点と重なるのであるが、ハイデガー哲学の場合、+1と- 1との亀裂を説いている。つまり、ハイデガー哲学には、それなりに、不連続性があるのである。しかし、ポスト・モダンになると、+1と-1との連続性ないしは混淆性が存すると考えられるのである。+1と-1とのポスト・モダン的様態は、やはり、和でいいのではないだろうか。即ち、(+1)+(-1)⇒±0 である。重要な点は⇒にあると考えられる。±0は端的に、構造主義を意味するだろう。何故なら、±0は、ゼロ記号であるからである。そして、左辺の(+ 1)+(-1)はポスト・モダン哲学を意味するのではないだろうか。+1と-1との連続的な揺らぎがポスト・モダン哲学ではないだろうか。初期デリダの差延とは正に、そのようなものと考えられる。また、ドゥルーズの差異であるが、思うに、ゼロ記号を使って、差異を連続化しているのである。つまり、やはり、和である。即ち、(+1)+(-1)=±0(ゼロ記号)が生起して、ここで、差異と同一性が一致することになると考えられる。即ち、差異=同一性である。そして、これこそ、連続的差異=微分ではないだろうか。初期デリダの場合は、差異と同一性との混淆的揺らぎがあったが、ドゥルーズの場合は、両者が一体化されてしまい、構造主義ないしはヘーゲル哲学に退行していると思われるのである。
 結局、和とは、連続性ないしは混淆性を意味すると言えるのではないだろうか。ならば、ハイデガーの場合は、和以前の様相にある。とりあえず、それを、+1/-1と表記する。つまり、/は亀裂ないしは境界を意味することになる。


2008年05月03日(Sat)▲ページの先頭へ
再考:+1=光ならば、-1=影光とは何か:-1=影の実質とは何か:光と影の即非世界としての現象界
先に、+1=光、-1=影(影光)と考えて、同一性=物質=シミュラクル的現象界(仮象界)では、+1=光の、いわば、先端である-1=影(影光)を見ていると述べたが、さらに精察・精査していきたい。
 端的、有体に言えば、-1=影の実質とは何か、ということである。+1=光のエネルギーが、現象を発現させているのであるから、現象界の実質は、物理的には、+1=光のエネルギーである。
 しかしながら、光の発現である現象は、今日現代の人間にとっては、影の現象に過ぎないのである。この様相を明確・明晰にしたいのである。
 端的に再考しよう。われわれが通常見る昼の光とは何か。これを先には、影(影光)と呼んだのであるが、まだあいまいである。自己認識方程式の変形で、自己同一性=自我方程式(+i)*-(-i)⇒=-1が考えられるが、この内的否定-(-i)の最初の-と帰結の-1はどういうことなのか。
 一つ明確にわかることは、内的光+1が、自己同一性=自我においては、屈折・反射して、影光-1になっていることである。だから、単純に考えて、自己同一性=自我=同一性主義においては、発現している光=+1を、影光=-1に屈折・反射しているということではないだろうか。
 やはり、光=+1を影光=-1に変質させて見ているということだと思われるのである。言い換えると、我々は光を見ていないのであり、影を見ているに過ぎないということになる。
 しかし、それでは、直観と少しズレるだろう。昼見る光は好ましいものであり、ある時は崇高美をもつのである。これをどう見るのか、である。
 いったい、外的光とは何か。それは、端的に、+1ではないだろうか。それを、自己同一性=自我=同一性主義(-1)は視覚するわけであるが、もし、内的光が開けていれば、つまり、自己内他者=差異肯定の様態にあれば、外的光を光+1として感受するだろう。つまり、崇高な光、イデア界(+i)*(-i)からの光として認識するだろう。
 しかしながら、他者=差異を抑圧している自我(同一性主義)の場合は、外的光+1を感受感覚しても、他者=差異-iを否定しているので、いわば、内的影光をもって知覚するのではないだろうか。即ち、外的光+1を影光(-1)と認識すると考えられるのである。言い換えると、光+1が発現しながらも、それを影光-1としか感覚認識できないと考えられるのである。
 では、端的に、影光(-1)とは何だろうか。影の光とは何だろうか。それは実質に存在するのか。単に幻想ではないのか。物質の光という言葉が心に浮かぶのである。本来の光は、それに対しては、精神の光である。イデアの光である。善の光である。端的に、物質の光があるのだろうか。理論的には、あると言うべきである。-1の物質の光があるということになるのである。
 ここで用語を整理しよう。+1の光をプラスの光(プラス光)、正の光、正光としよう。それに対して、-1の光(影・影光)をマイナスの光(マイナス光)、負の光、負光としよう。また、前者を共一性の光、差異の光、後者を自我の光、同一性の光と言えよう。
 とまれ、これで二つの光の存在を確認することができた。つまり、光とは二重光(二相光)であるということである。【思えば、以前、超越光と光との即非性について述べたことがあるが、それは、この場合と重なる事象であろう。】言い換えると、正光(光)と負光(影)との即非光であるということである。つまり、光とは、正光であると、同時に、それの否定である負光であるということである。「光」であると同時に、「影」であるということである。
 しかし、俗人は、正光が発光しているのに、負光(影)しか見ていないのである。ここで、新約聖書を想起する。あるいは、プラトンの有名な洞窟の比喩を想起する。あるいは、eliot-akira氏の説く屈折と反射の事象である。あるいは、ジョージ・ハリスンのThe light that has lighted the world等の歌である。
 「光」は「光」でありつつ、「影」になるのである。「光」の裏面としての「影」である。しかしながら、的確に言えば、「光」の変容としての「影」である。正に、屈折と反射である。同一性=物質=自我(自己同一性)が形成されるのであるから、当然、「影」が生まれるのである。
 問題は、近代以前においては、この光と影との生成についての叡知を人間はもっていたと考えられる。当然、イデア論がそういうものの代表である。端的に、近代以前においては、「光」を知覚していたのである。
 近代以降、喪失された「光」を取り戻す様々の試みが為された。ロマン主義は、この代表的な試みである。それに対して、啓蒙主義であるが、これも、それなりにその試みであるが、同一性理性にそれを取り込もうとしたと考えられる。【思うに、私が十代末に言った「光は暗く、闇は明るい」という言葉であるが、それは、その光とは「影」のことであり、その闇とは、「光」のことを指していた(思うに、明確に指していたというよりは、直感的に差していたと考えられる)と見るのが的確であろう。】
 さて、同一性=自我の形成によって、マイナス光が生起するのでああり、近代主義(近代合理主義・近代的自我)によって、プラス光が排除されたのである。
 しかしながら、内的には、プラス光は潜在しているのであり、それが、近代化の過程で賦活されていったと考えられるのである。二重の近代化である。マイナス光(物質光)とプラス光(精神光)の二重性をもつ「近代化」である。
 問題は、連続性によって、両者が混線・混濁していることである。同一性と差異が混線・混濁しているのである。マイナス光とプラス光が混線・混濁しているのである。あるいは、物質と精神が混線・混濁しているのである。
 PS理論は、両者を即非の概念で弁別し、秩序化したと考えられるのである。つまり、「光」の同一性=物質化である「影」と、「光」とを明確に区別し、Media Pointにおいて、両者が即非様態にあることを明確に解明したと考えられるのである。
 だから、「光」とは、マイナス光・即非・プラス光、即ち、影・即非・光なのである。近代合理主義/近代的自我の人間には、マイナス光=影しか見えず、プラス光=光が見えないのである。精神の光が見えない精神的盲目者なのである。(そのような人間が政治・行政の上層部を支配しているのである。だから、民主主義は、トランス・モダン化するのが必須である。)
 近代主義の人間は、目が開いていても、影しか見えないのである。アポロの影しか見ていないのである。闇の光しか見ていないのである。影人間である。【因みに、ニーチェのアポロとディオニュソスであるが、アポロはプラス光であり、ディオニュソスは、(+i)*(-i)の差異共振性、即ち、イデアであろう。的確に言えば、動的になったイデア、イデア・エネルゲイアであろう。だから、ニーチェは、プラトニストである。ただ、イデアを動態で把捉していたのであり、イデア自体では把捉していなかったということになろう。】
 最後に、アインシュタインの相対性理論等の現代物理学に本件の考察を適用すると、それが対象にしている「光」は当然、物質光(影=-1)である。そして、それが相対性であるということであり、光速度一定とは、本来の光=+1を意味していると考えられるのである。+1の光が屈折・反射して、-1の影となるのであり、本来は共一性の光+1なのであり、これが、光速度一定を意味するように思えるのである。言い換えると、宇宙空間は、実体は、+1の光の空間であり、それが、-1の影の仮象を帯びているということではないだろうか。そして、相対性理論は、前者を後者から把捉したと言えよう。
 また、さらに、ダークマターやダークエネルギーについて言うと、先に示唆したように、一般に、物質科学は、影-1の空間を捉えているだけだけであり、光 +1を捉えていないのである。宇宙銀河の「光」とは影である。その影から計算すると、当然、光の分が足りないのである。これが、ダークマターやダークエネルギーになると思われるのである。
 ついでに言うと、ブラックホールやホワイトホールはどうだろうか。思いつきであるが、ブラックホールとは、同一性=物質=影を産出しない光ではないのか。つまり、光自体と考えられないだろうか。共一性=光そのものと言えるのではないだろうか。
 では、ホワイトホールとは、逆に、同一性=物質=影を放出するMedia Pointではないだろうか。今はここで留めておく。 


2008年04月30日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:共一性と同一性:共一性言霊と同一性言霊
散歩の途中、+1をどう見るのか、考えていたが、-1が同一性=物質とするなら、+1は差異共振現象であるから、共一性と呼ぶべきではないかと思った。ということで、そうすることにして、検討を続けると、現象化において、共一性(光)と同一性(影)が形成されるとしよう。
 そう、その他思ったのは、同一性とは言語であり、ラカン精神分析の象徴界に相当するのではないかということであった。ここは難問の一つであると思う。ソシュール言語学のシニフィアン/シニフィエ、フッサール現象学のノエシス/ノエマ、等にも関わると思われるのである。同一性認識と言語の関係の問題である。
 問題をイメージ省察(像察)してみると、一番の問題点は同一性の発生にあるように思える。差異共振性が発現して、共一性(+1)が生まれる。しかし、このときには、同一性は発生していない。自己と他者の共一性があるのみである。では、どうして同一性が発現するのだろうか。
 共一性とは実は、身体(精神的身体)でもあり、そこでは、自己と他者が共振揺動しているだろう(ブラウン運動?、クリナーメン?)。いわば、夢の世界のようであるだろう。あるいは、心的故郷(心郷、魂郷)のようであろう。
 では、どうして、同一性への志向性が発生するのか。思うに、原同一性が根源にあるように思えるのである。簡潔に言えば、「何」である。原言語志向性と言ってもいいだろう。【ずいぶん、昔に、根源的発話発生について考えたことがある。そのときは、情動的発生論だったようだ。】
 ここで思考実験しよう。幼児がいて、遠くに見えるものが「何」かと思ったとしよう。幼児には、何かが見えているが、「何」かはわからない。これはどういうことなのだろうか。
 それが誰かに「山」であると教わるとしよう。これは、yamaという音声のシニフィアンである。yamaという音声にはとりわけ意味がないだろう。【もっとも、根源的には、音声には意味があるだろう。この点は今は看過する。】
 幼児はyamaと発音して、見えているものがyamaであると認識するのである。これはどういうことなのか。直感で思考実験しよう。実は、見えているものとは、同一性(-1)ではなくて、共一性(+1)ではないだろうか。共一性においてあるものが見えているのではないだろうか。だから、共一映像(共一像)と言ってもいいだろう。
 つまり、共一像において、「わたし」は他者である。この場合は、「山」である。「わたし」は「山」と共一である。だから、問題の根源は、「わたし」にあるだろう。これは、自己であろう。そして、これは、フッサールが説くように、ノエシスではないだろうか。ノエマは他者であろう。
 ノエシスは思うに、「わたしは知る」ではないだろうか。「わたし」は「山」と共一しているが、この「一」において「山」を知りたいのではないだろうか。他者認識である。そして、他者は「一」である。これが、原同一性ではないだろうか。
 そして、ノエシスは「わたしは他者を知る」共一性志向性と考えられるので、共一性の「一」への志向性に原言語志向性があるのではないだろうか。原シニフィアン性と言ってもいいだろう。そして、そこにyamaが入るのではないだろうか。
 そのように思考実験すると、言語は本来同一性ではなくて、共一性である。つまり、差異共振性の帰結である。光である。私は以前、言語は物質であると言ったが、それは間違いである。言語は差異共振性の帰結である共一性であり、精神である。言語精神である。【ここで言霊の問題が出てくる。確かに、言霊であると思う。私としては、言魂と表記したい。】結局、共一性としての言語ということになる。
 では、言語と同一性はどう関係するのか。それは、やはり、自己同一性主義の発生と関係すると言えよう。共一性の光に影が差して、影を投影して、同一性が発生するのではないだろうか。共一性にルサンチマンが発生して、共一性を否定・排除するように、同一性が形成されるのではないだろうか。共一性の一を否定して、その否定が外界へと投影されて同一性が発生するのではないだろうか。つまり、共一性の一の否定とは、内的同一性であり、それが投影されて外的同一性になるのではないだろうか。
 聖書で言えば、共一性がエローヒームであり、同一性がヤハウェではないだろうか。結局、共一性言語と同一性言語があるだろう。共一性言霊と同一性言霊である。
 先史時代から古代・中世までは、共一性言霊が支配的であり、神話や詩歌(韻文)が中心的であったろう。しかし、近代以降は同一性言霊(散文)が支配的である。
 ここで予見を言うと、トランス・モダンによって、共一性が回帰すると、いわば詩歌が回帰するだろう。これは何か。新共一性言霊とは何か。
 一つ言えることは、ブログが新共一性言霊であることである。差異共振精神からブログ言霊(「連詩」)が生まれるのである。


2008年04月29日(Tue)▲ページの先頭へ
+1と-1の関係:+1と構造主義との関係:-1/-0/Media Point/+0/+1
先の検討は、影-1と光+1と原光(+i)*(-i)という三元性を説くことになったが、まだ判明ではない感じがあるので、さらに検討することにしたい。今日は、簡単に触れるだけである。
 問題は、光(+1)と構造主義を一致させることになったが、それだと、構造主義と原光が関係することになり、整合性を欠くように感じられるのである。なぜなら、前者は本来、超越性が欠けていると思われるからである。この点をどう説明するのか、である。
 おそらく、光(+1)自体は構造主義と見ていいように思う。というのは、⇒+1となって、超越性が開けると考えられるからである。
 そうならば、先にレヴィ=ストロースの構造主義の「ゼロ記号」をMedia Pointの実軸のゼロ度と見たが、それと光(+1)とはどう関係するのか、説明する必要がある。
 「ゼロ記号」とは特異点であり、余剰・過剰であった。それは確かにMedia Point的である。では、+1はどうだろうか。これは、やはり、水平的な差異共振性であり、Media Pointは欠いている。しかしながら、⇒+1とすると、⇒がMedia Pointなので、光は言わば、崇高さを帯びるのではないだろうか。とまれ、⇒の先端がおそらく、「ゼロ記号」であろう。真に虚軸には開いていないのである。
 とまれ、さらに問題は、+1が光ならば、それはどういう光なのか。私は、宗教的に、エローヒームであると考えたが、どうだろうか。それは、端的には、正しくない。エローヒームは、端的に、自己認識方程式であろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが光の神エローヒームの公式であろう。そして、この両辺を否定する自己同一性主義の公式、即ち、-[(+i)*(-i)]⇒-1、これが、影の神ヤハウェーの公式であろう。
 では、+1の光とは何か。構造主義の光とは何か、となろう。これは、なかなか、難問である。思うに、単純に日常目にする光でいいのではないだろうか。そして、-1の影とは日常目にする物である。あるいは、単純に前者は日常の自己であり、後者は日常の自我主義ではないだろうか。
 左辺が入るときに、超越性が入るのであり、天使的であったり、悪魔的であったり、狂気的であったりするのではないだろうか。だから、例えば、ネオコン/ブッシュとは、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。つまり、イラクへの差異共振性(+i)*(-i)⇒+1を否定しているのである。真の民主主義は差異共振主義にあるだろう。
 例えば、アメリカがイラクを真に他者=差異と認識するならば、差異共振性(+i)*(-i)⇒+1が成立するだろう。しかし、他者=差異を否定したので、-[(+i)*(-i)]⇒-1となったと言えよう。-1は、自己同一性主義=ロゴス中心主義(例えば、ロゴスとしての民主主義である)である。光=自己(+1)は排除されているのである。
 思うに、-1と+1はエンテレケイアと考えられいいのではないだろうか。そして、左辺はエネルゲイアでいいのではないだろうか。だから、光(+1)を構造主義と見るのは、正に、エンテレケイアとしての構造主義であり、結果としての二元的構造であろう。ここには、エネルギー作用の結果があるのみではないだろうか。
 だから、構造主義の「ゼロ記号」とは、+1とは異なるだろう。それは、デリダ的に言えば、痕跡ではないだろうか。やはり、Media Pointの実軸点であると思われるのである。
 しかしながら、「ゼロ記号」と+1は、結局は、同じことになるのではないだろうか。何故なら、構造主義(+1)の、言わば、支点が「ゼロ記号」であるからである。つまり、支点の「ゼロ記号」と+1とで均衡がとれているのである。「ゼロ記号」があることで、構造主義(+1)が成立すると考えられるのである。言い換えると、構造主義(+1)の原点・発生点・起点としての「ゼロ記号」である。
 ここでポスト・モダンについて言及すると、ドゥルーズは、「ゼロ記号」を差異としての理論化したのである。これでは、当然、差異が連続化されるだろう。何故なら、差異の対立がゼロ度で融合するのであり、正に、微分としての差異になるだろうからである。
 デリダは、先に述べたように、-1と+1の差異(ズレ)を差延と考えたように思われる。(これは、ほとんど、ハイデガー存在論を踏襲していると思われるのである。)
 今はここで留める。後で再考したい。

p.s. 以上の思考実験は、先の直感とはズレている。私は、+1を差異共振光と見たのであり、+1には差異共振性を見たのであり、構造的対立ではないのである。齟齬をどう見るのか、である。思うに、構造主義をどうみるのかが問題である。例えば、山口昌男の神話構造主義は、両義性の理論であるが、この両義性がいわば、+1の差異共振性であると考えられないだろうか。思うに、これは、また、メルロ=ポンティの両義性の身体現象学と通じると思われるのである。あるいは、初期デリダのパルマコン(ファルマコン)の考え方に通じるのではないだろうか。
 直感では、+1の差異共振性とは、一種の即非性であるが、不十分な即非性である。山口昌男の神話学では、例えば、スサノオは、光であり、且つ、闇であるという両義性を帯びる。これは、スサノオは光であるから、闇ではないが、同時に、闇であるという、即非の論理には達していないだろう。光であり、且つ、闇である、というのは、いわば、未分化の論理である。そう、だから、+1の差異共振性とは、未分化様態と言えるだろう。つまり、連続性を帯びているということである。ならば、+1の光=自己とは、未分化であり、連続性をもっているのであり、まだ、真の自己ではないと言えよう。左辺の差異共振性(+i)*(- i)を認識して、真の自己認識を形成すると考えられるのである。
 だから、+1の光とは、トワイライト(薄明)ではないだろうか。つまり、光と影、光と闇の中間的な「光」ということになるのではないだろうか。

p.p.s. 後で再考する予定であるが、ここで簡単に補足すれば、自己認識方程式において、右辺だけを取り出して、純粋に+1を見ると、それが意味するのは、Media Pointを介した虚軸性(超越性)の喪失(隠蔽)であると考えられる。あるいは、Media Pointの断絶である(参照:三島由紀夫の「断絃の時」)。
 だから、+1は、必然的に、自己同一性主義=自我主義(-1)の影響を被って、いわば、曇る、濁る、混濁すると考えられるのである。正確に言えば、混淆・混合化、そして、連続化である。
 精緻に見ると、自己認識方程式の左辺とMedia Pointが隠蔽されるとは、言い換えると、自己同一性主義(-1)が作用することである。差異共振性が否定されるときに、自己同一性主義(-1)が形成されるのであるからである。つまり、(+i)*(-i)が否定されると、当然、結果は、⇒-1となる。これは、Media Pointの否定・抑圧でもある。
 すると、-1より先行すると思われる+1はどうなるのだろうか。それは、これまで検討してきた通り、差異共振性は否定・抑圧・隠蔽されるのである。内的身体に隠蔽されるのである。正確に言えば、(+i)*(-i)⇒+1が内的身体に隠蔽されるのであるが、このとき、Media Pointを介した虚軸性=超越性が隠蔽されるのである。
 問題は、隠蔽された差異共振性が賦活されるときである。教養的形成や内省(端的にこれが哲学である)を伴う人生経験を経ることで、そのようになると考えられる。自己同一性主義=自我主義(-1)の支配にあって、その賦活された差異共振性はどういう様態をもつだろうか。
 当然ながら、活性化された差異共振性は、自己同一性主義=自我主義(-1)を否定するのである。ここに葛藤・内的闘争が生じると言えよう。(ロマン主義の問題、さらには、反近代主義等の問題はここに収斂するだろう。)即ち、

差異共振性VS自己同一性主義

である。これは、端的に、二項対立の闘争である。19世紀や20世紀初期の文化で言えば、ロマン主義(神秘主義)VS近代合理主義となろう。【ベルクソン等の、いわゆる、生の哲学は前者に入れることができるように思えるが。とまれ、構造主義は、この二項対立を乗り越えた、偉大な理論と言えよう。さらに言えば、フッサール現象学は、構造主義をも超えているだろう。ハイデガー存在論はそれを看過してしまったと私は考える。】
 この内的闘争において、問題は、差異共振性が先行してはいても、自己意識においては、自己同一性主義が支配的、優位であるので、差異共振性が従属的、劣位にあるという点である。このいわば転倒した倒錯した優劣性が支配的であることに留意しないといけない。
 言い換えると、否定性(-1)が支配的であると言えよう。だから、賦活された差異共振性は、内的身体に存しても、否定性(-1)が支配的であるために、その影響を被ると考えられる。自己同一性主義の影響を受けるのである。
 それは、端的に、反動化であろう。否定性を受けるのであろう。つまり、差異共振性は、自己同一性主義を否定して、「自己」を肯定しようとするのである。これは、-(-1)=+1 であろう。
 これは、確かに、差異共振性を意味するだろう。しかしながら、問題は、否定性の存在である。自己同一性主義=自我主義(=近代合理主義=近代自我主義)を否定しているので、物質性を否定することになると考えられるのである。極言すれば、一種、オカルト主義や神秘主義になるのである。【私はドゥルーズ哲学とシュタイナーの霊学は類似すると思っている。】
 何が問題なのか。実はこれこそ、不連続的差異論が問題にした連続性である。端的に、連続性とは、否定的連続性である。つまり、自己同一性主義という否定性が支配的であるので、賦活された差異共振性も正に反動的に否定性を帯びてしまい、連続性を帯びると考えられるのである。これは、非常に矛盾的な事態であると言えよう。
 差異共振性は本来、肯定的な事象であるが、自己同一性主義という否定性の支配下においては、否定性を帯びるのである。これは、どういうことなのか。本来の差異共振性が否定性を帯びるとはどういうことなのか。
 直感で言えば、矛盾した言い方になるが、自己同一性主義化された差異共振性であるということである。-1化された+1である。これは、何か。ここでは、推測ないしは作業仮説で言うが、和になるのではないだろうか。即ち、(-1)+(+1)⇒±0ではないだろうか。
 このゼロこそ、構造主義の「ゼロ記号」ではないだろうか。ゼロ度、ゼロ・ポイント、ゼロ場等々と言えるだろう。そして、これが、ドゥルーズの差異であると考えられる。連続化された差異=微分ということである。また、内在平面という考えも、ここから生まれるだろう。【何故、平面なのか。後で検討。】
 そのように考えると、+1が光であり、構造主義であると先に述べたことは、間違いであることになるだろう。+1が光であることは正しいのである。しかし、それは、構造主義ではないのである。構造主義は、やはり、ゼロ度に存すると考えられるのである。つまり、差異共振主義(+1)が連続的に否定されて(和算)、ゼロになると考えられるのである。
 整理すると、-1/±0/+1である。言い換えると、自己同一性主義/構造主義/差異共振主義である。これが、「内在的な」哲学の様相と考えられる。ドゥルーズ哲学は完全に構造主義の進展に過ぎないことがわかる。では、初期デリダ哲学はどうだろうか。先には、-1と+1の差異が差延であると言ったが、それも訂正されなくてはならない。
 デリダ哲学の源泉の一つであると考えられるハイデガー存在論はそれなりに複雑多様であるが、直感するに、いわゆる世界内存在とは、ゼロ・ポイントをもった自己同一性主義(近代合理主義)ではないだろうか。有体に言えば、ハイデガーの存在とは、ゼロ・ポイント(「ゼロ記号」)ではないだろうか。つまり、本来的存在がゼロ・ポイントであり、頽落した存在は、-1となるだろう。【ただし、構造主義とは異なり、自己意識がある。しかしながら、構造主義とは、差異共振性の連続化なので、そのゼロ度は、自己意識をもつと思われる。後でさらに検討したい。】
 そして、初期デリダは、これを継承して、脱構築主義理論を立てたが、その差延とは、結局、先に述べた+1と-1の差異ではなくて、-1と±0との差異であるように思えるのである。例えば、時間を例にとれば、現在は-1であるが、過去や未来が±0であるように思えるのである。そして、両者から差延が発生すると考えられるのである。
 整理すると、ポスト・モダン理論は、ハイデガー存在論と構造主義の影響下において、ドゥルーズは構造主義のゼロ度の進展として「差異」哲学、デリダはハイデガー存在論の進展としての脱構築主義を立てたと言えよう。
 最後に問題は、+1にあったと言えよう。これが、ポスト・モダン理論では把捉できなかったと考えられるのである。何度も繰り返すことになるが、フッサール現象学が、+1を現代哲学において明晰に認識したと考えられるのである。超越論的主観性とは、それだと考えられるのである。また、キルケゴールやニーチェが、特異性という視点で取り出したものは、不連続性であると思う。つまり、彼らは、不連続性という特異性を明確に指摘した大哲学者であると考えられるのである。不明確ではあれ、Media Pointを示唆した哲学者であると考えられるのである。

3p.s. 内在・即非・超越的哲学としてのPS理論を数的に図式化すれば、

      +i
      ↑
-1/-0/Media Point/+0/+1
       ↓
      -i


となるだろう。


2008年04月27日(Sun)▲ページの先頭へ
+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学
「-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己」http://ameblo.jp/renshi/
entry-10091501933.html
先の以上の論考は我ながら、思考の赴くまま実験したので、これまでの考え方とは齟齬を来してしまっているので、ここで、もう一度「冷静に」、eliot-akira氏のコメントを参考にしながら、検討したい。
 先ず、eliot-akira氏の意見を見てみよう。

『■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 』
http://ameblo.jp/renshi/entry-
10091501933.html#cbox

「ゼロの両面鏡」という考え方は刺激的である。また、光と影が相互に見つめるということ、光と影の不対称性(非対称性)、そして、自己意識の「反射」と「屈折」等も同様である。
 また、『 グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。』
http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090935683.html#c10122297117
ということも、意味深長である。とりわけ、『ヤハウェによって「反射」または「屈折」され』という点が興味深い。(因みに、私はグノーシス主義はPS理論の観点から見直すべきように感じている。)
 「反射」と「屈折」、これがポイントであろう。私は先に、自己同一性の鏡像は差異のスクリーンに映出すると言った。これは、本来、+1の光を-1の映像に同化することではないだろうか。これが、同一性主義・自己同一性主義の発生ではないだろうか。
 このとき、当然、他者=差異は排除・否定されるのである。つまり、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。ここでは、明らかに、錯視があるのである。視覚の不思議である。しかし、不「思議」ではなく、明確に解明されるのである。つまり、本来、+1である光を-1の自己同一性鏡像=影として見てしまうということではないだろうか。
 これが、端的に、仮象としての現象界、ドゥルーズ的に言えば、模像(シミュラクル、シミュラークル)としての現象界である。【参考:http://matsuura05.exblog.jp/7663184/
http://www.asahi-net.or.jp/
~dq3k-hrs/simulacre/simframe.htm
因みに、偽装流行であるが、偽装とは、端的に、同一性仮象である。

 この仮象的現象界は、差異共振的光+1を排除しているのであるが、しかしながら、実際は、差異共振的光+1は生起しているのである。光を発現しているが、同時に、それを影=仮象・模像(シミュラクル)として、知覚するということではないだろうか。実際は光+1は発現しているのに、それを排除して影-1 として見てしまうということだろう。【この+1と-1との関係をどう公式化すればいいのか。後で検討したい。】
 この影による自己同一性=自我形成は、正に、自己陶酔(ナルシシズム)であるが、ここには、差異(差異共振)を排除する暴力があるのである。これを父権的暴力と言っていいだろう。原罪があるとするなら、これが原罪であろう。端的に、悪魔的である。悪魔的現象界である。
 この同一性主義メカニズムが、近代的自我主義、近代合理主義、封建的官僚制にあるのである。これが、また、差別のメカニズムである。ポスト・モダンが攻撃した二項対立のメカニズムである。
 この排除のメカニズムであるが、差異共振エネルギーを排除しているので、-1のエネルギーをもつと言っていいのではないだろうか。つまり、-1が+1のエネルギー(差異共振エネルギー、光のエネルギー)を排除すると考えていいのではないだろうか。【宇宙物理学で言えば、-1がブラックホールであり、それが、+1の光を排除するということと考えていいのだろうか。後で検討。】
 問題は、影(闇)が光を排除したとき、端的に、排除された光はどこに行くのか、何処に存するのか。何処に潜在するのか、である。思うに、内的光と外的光は共振する(共一という言葉を造語したいが)。そして、影が内的光・共一・外的光を排除するのであるが、直感で言えば、排除された光は、身体に潜在すると思われるのである。ここは微妙な問題である。排除された光はMedia Pointに潜在するとも言いたい気がするが、身体とMedia Pointとの関係を考えなくてはならない。
 その前に、確認しておこう。影とは実は、光の裏面ということではないだろうか。ここで、D. H. ロレンスの「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」という言葉を想起していいだろう。つまり、dark sun(黒い太陽ではなく、不可視の太陽であろう。いわば、霊的太陽である。)こそ、真の光であるということである。光の現象面(仮象面・模造面)としての影ということである。これは、光と影の即非関係と見るのである。プラトン哲学で言えば、分有であろう。(こう考えると、これまでの考え方と整合化する。)
 では、いわば、光の先端である影が排除する光はどこに行くことになるのかという問題に戻ろう。光の排除とは、端的に、差異共振が否定排除されることである。だから、当然、Media Pointの排除である。私は先に、Media Pointにおいて、差異共振性は精神的身体を形成すると言った。だから、光の排除は精神的身体の排除であり、それは、端的に、内的身体の排除である。だから、排除された光は内的身体に行ったと考えていいだろう。
 そして、直感で言うと、Media Pointが差異共振的精神(心)であり、+1が差異共振的身体ではないだろうか。思うに、以前、モームの『月と六ペンス』の主人公の絵画や態度に関して(画家ゴーギャンをモデルとしたストリックランド)身体的霊性ということを言ったが、排除された光は内的身体における差異共振的精神であり、この身体的霊性に関係すると思われるのである。
 端的に言えば、排除された光は内的身体に潜在するということになるだろう。これで解明できたこととしよう。
 結局、光を排除する、影を中心化する同一性主義であるが、それは光を内的身体に排除しているということになる。そして、内的身体に、人間の徳、魂、精神、霊、心、善が存しているのである。プラトンの善のイデアは正に、ここに存するのであるし、カントの実践理性もここに存するのである。【カントは同一性知性批判(純粋理性とは、純粋同一性知性だろう)を原基としたので、差異共振性を不可知にしてしまったと考えられる。また、東洋哲学は、内的身体の哲学、即ち、内的身体哲学と言えよう。西洋哲学はトランス・モダン化するためには、東洋哲学の内的身体論を取り入れる必要があると考える。単に、抽象観念的知性では、差異共振性は捉えられないからである。鈴木大拙や西田幾多郎の理論は、禅という内的身体論に基づいているのである。また、ウスペンスキーは、東洋神秘主義から内的身体論に到達しているのではないだろうか。】
 だから、近代合理主義・近代的自我主義・封建的官僚主義とは、内的身体である善性を排除しているので、当然、悪性=悪徳=悪霊なのである。善性なき近代主義(もっとも、封建的官僚制は、純粋な近代主義ではないが、日本近代化においては、存続したのである。思うに、近代合理主義・近代的自我主義も官僚主義も父権主義という点では共通である。)なのである。【問題は民主主義や自由主義であるが、それは、基本的には、ルネサンス的Media Pointのエネルギーとプロテスタンティズムの含むイエス的差異共振主義を同一性的に基礎付けたものだと思う。だから、それは、基盤は内的身体=善性であると考えられる。端的に、自由とは、本来、この内的身体の精神性に存するのである。内的自由と言う方が明快であろう。】
 以上の検討から、本稿のテーマがより明快に解明されたと言えるだろう。結局、光と影(闇というより、eliot-akira氏の指摘通りに、影が的確である)の即非様相があるということである。これは、既述済みであるが、これで、これまで、私が経験してきた。差異共振的視覚経験をより明確に説明できるだろう。即ち、「私と立山連峰の銀嶺と一体である」という一種神秘的な経験は、影である銀嶺と「わたし」が内的身体の霊を介して、差異共振して、光(+1)を放出した精神現象であると言えるだろう。【そう、神秘主義はこの視点から確認されるべきである。反近代主義の芸術家は、多くが神秘主義的であるが、それは、差異共振的精神現象である光の体験を意味しているだろう。】
 ここで、銀嶺というのがポイントであろう。端的に、光が焦点化されているだろう。雪を頂いた山嶺は強度の光を放出していると言えよう。通常の影を超えて、光を放出していると考えられよう。この放出された光を私は視覚を介して、内的身体で共鳴して、差異共振体験を起したと考えられるのである。
 この銀嶺の強度の光とはどういうことなのだろうか。おそらく、単なる白い光では強度の光にはならないだろう。蛍光灯の白光を見ても、差異共振体験は起らない。何が異なるのだろうか。【ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を想起する。】
 思うに、白ということが一つのポイントである。これは、本来、色ではないのである。無色である。ということは、根源的な光、即ち、超越光を意味しているのではないだろうか。ここは実に微妙な問題である。先に、+1が光であると言い、それを影-1として見ると言った。だから、本来、光は差異共振エネルギーの現象化である。ということは、影を仮象ならば、光が超越光ということではないのか。ここは難問である。
 整理すると、影=同一性光とするなら、光=差異共振光=超越光である。用語が混淆してしまい、紛らわしいが、言わんとすることはわかるだろう。
 思うに、影=同一性光の場合は、色彩をもつのである。しかしながら、白光とは、本来、無色彩である。つまり、これは、根源的光、即ち、端的に、光ではないだろうか。
 銀嶺の白とは、この光を意味しているのではないか。だからこそ、「わたし」は視覚を介して、内的身体が賦活されて、銀嶺と差異共振化体験をもったのではないか。つまり、Media Resonance(メディア共鳴)であろう。即ち、雪を頂く山嶺におけるMedia Pointと「わたし」の内的身体のMedia Pointが共鳴したということではないのか。
 ならば、蛍光灯の白光はどうして当てはまらないのだろうか。端的に、強度の問題ではないだろうか。銀嶺の白光と蛍光灯の白光とは、強度が異なるのではないだろうか。端的に言えば、銀嶺は太陽の光を反射しているのであり、蛍光灯は光子を放出しているのである。確かに、銀嶺も光子を放出しているとは言えよう。同じ光子でも、何が異なるのか。
 強度が異なると言ったが、それは、言い換えると、Media Pointの開放の有無に存するのではないのか。思うに、太陽光の場合、Media Pointが開いた光であり、蛍光灯の白光は、Media Point が閉じた光ではないだろうか。いわば、後者は影ではないのか。この問題は難しいので、ここでおいておきたい。
 最後に問題は、色彩の問題である。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。(長い論述となったので、稿を改めて検討したい。)
 

参照:
ゲーテの色彩論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

色彩論(しきさいろん Zur Farbenlehre)は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ が1810年 に出した著書。
ゲーテによる光のスペクトル
ゲーテによる闇のスペクトル

教示篇・論争篇・歴史篇の三部構成からなり、教示篇で色彩 に関する己の基礎理論を展開し、論争篇でニュートン の色彩論を批判し、歴史篇で古代ギリシアから18世紀後半までの色彩論の歴史を辿っている。



eliot-akira氏から、たいへん刺激的な、有意義なコメントをいただきました
eliot-akira氏から、たいへん刺激的な、有意義なコメントをいただきましたので、ここで、新しい順に転載します。どうもありがとうございました。
 それぞれにコメントに対して、回答すべきですが、とても深い問題ですので、今は転載にとどめさせていただきます。できれば、後で回答したいと思います。

★★★★★★★★★★★★★★★

http://ameblo.jp/renshi/entry-100
91501933.html#c10123068157

■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 2008-04-27 00:42:36

***************

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090935683.html#c10122297117

■一神教の光

明月庵さんが扱われる題材はいつも刺激的で、興味深いです。そこで、自身の「無知の地平面」にも懲りずに、再びコメントさせていただきます。

グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。

「不完全な神」とはうまく表現されたものだと感じます。光と闇が混合してしまっているんですね。

話は飛びますが、この差異性と同一性の考え方を、世界各国の通貨に当てはめれば、どう考えられるのでしょうか。たとえばユーロ通貨は同一性志向ですよね。貿易の流れを滑らかにする利点のほかに、問題点はあるのでしょうか。

言語についても似たような思考が展開できそうです。現在、英語教師の職に就いていますが、英語という言語が資本主義的な権力とつながっているのは、無視できない事実です。英語が世界言語として受け入れられてきている今、各地の言語が失われてきているのでは、と案じられています。

「言語的植民地主義」という造語が頭に浮かびました。
eliot-akira 2008-04-24 20:40:55



****************

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090497975.html#c10121930545

■難解ですが興味深い・・・

海舌さんのサイトを訪れました。話の流れについていくのは難しかったですが、好奇心がくすぐられました。

ホワイトホールについて wikipedia で調べてみました。

「ブラックホールは事象の地平線を超えて飛び込む物質を再び外部へ逃さずにすべてを飲み込む領域であるが、ホワイトホールは事象の地平線から物質を放出する」

無の状態から物質や波動が放出されるというのは、熱力学上で不可能だと感じますが、ビッグバンの瞬間はどういう過程を通ったんでしょうか。不思議です。

「ブラックホールは最終的には蒸発することが予言されているが、このプロセスも時間反転に対して対称であるため、熱的平衡にあるブラックホールの時間反転解もブラックホール解である。そうならば、ブラックホールもホワイトホールも同じ物体として解釈され得る」

「時間反転」とは何なのか、具体的によく分からないのですが、数学的な操作でしょうか。正反対の働きをするものが、同じ物体として解釈され得るというのは矛盾しているようですが、つまりブラックホールとホワイトホールは連続する一つのものだという意味でしょうか。

「事象の地平線」とは詩的な表現で気に入ったので、追求してみると・・・

「情報は光や電磁波などにより伝達され、その最大速度は光速であるが、光などでも到達できなくなる領域(距離)が存在し、ここより先の情報を我々は知ることができない。この境界を指し「事象の地平面」と呼ぶ」

この事象の地平面を超えた領域は、我々の視点からは不可知なのだと理解しました。この領域は外側と因果関係を持たないとされています。

天の川銀河系の中心にブラックホールがあると読んだことがあります。これは我々の住む惑星は、不可知の暗黒を中心として旋回していると見られるのではないでしょうか。

全てを吸い込むブラックホールは虚界につながっているのかもしれませんね。とするとブラックホールの中心は一つの media point と言えるでしょうか。中心に接近するにつれて時空間が「引き伸ばされる」とも聞きます。これは「永遠の瞬間」に極限的に接近していくことだと見えます。
eliot-akira 2008-04-23 19:14:27


2008年04月23日(Wed)▲ページの先頭へ
eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える、他
eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える

テーマ:検討問題

以下、eliot-akira氏のコメントを転載します。とても、鋭い質問だと思います。後で答えたいと思います。
 今簡単に言いますと、以下の最初の質問に関しては、既に、Kaisetsu氏が説かれています。おっしゃる通り、二次元、三次元が可能になると思います。以下のKaisetu氏のブログを参照してください。
http://theory.platonicsynergy.org/

Theories for the Platonic Synergy Concept.

 また、二番目の質問はたいへん興味深いと思います。私は、ホワイトホールのことは考えていませんでした。
 「光を吸収する」ことと「闇を放出する」こととは、とても興味深い事柄だと思います。これも考え方の問題があると思います。例えば、電子を考えると、陽電子があります。電子の流れと陽電子の流れが正反対になると思います。これを使えば、「光の吸収」が「闇の放出」になるのではないでしょうか。(p.s. これは不明瞭な言い方です。電子・陽電子を考えるなら、「光の吸収」と「闇の放出」は同じ事態であっても、異なる事象になりますね。だから、次に言う別の事象という方が適切だと思います。)
 また、両者、別の事象と考えることも可能だと思います。後で、検討したいと思います。
 ホワイトホールですが、よくはわかりませんが、おっしゃる通り、ブラックホールが-1ならば、ホワイトホールは+1になりますね。そして、±0というのは、その通りだと思います。
 

*****************

■質問

Media point を一次元とすると、二次元の media plane や三次元の media space などが可能なのかもしれないと考えが浮かびました。どうでしょうか?

もし不可能なら、なぜそうなのでしょうか。
eliot-akira 2008-04-21 03:38:16

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090011698.html#c10121102357



■Whole=Black & White?

これは興味深い題材です。

「光を吸収する」というのは「闇を放出する」ことと同じでしょうか?

ブラックホールに対称するホワイトホールというものがあると聞いた事があります。前者によって吸収される物質や波動が、後者によって放出されるとのことです。これが +1 と -1 によって表現されているのでは?

ということは宇宙という等式において±0という究極的なバランスがある、と見なすことが出来るのかもしれませんね。
eliot-akira 2008-04-17 14:50:36

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10089001746.html#c10119810222


********************

母子殺害と犠牲:差異をむき出しにする「神」:絶対的特異性と差異共振性

テーマ:法:憲法・法律・司法・裁判・検察・条約

ここで少し大胆な発想を許されるなら、もし、母子殺害を神が少年に命じたとするならどうだろうか。(それは神ではないという反論は当然あるし、私もそう考えるだろう。)
 ここで、有名なキルケゴールの『おそれとおののき』と考え合わせるとどうだろうか。神はアブラハムに子どものイサクをささげるように告げられて、正に、そうしようとした瞬間に神のストップが入ったのである。しかし、奉献しようとしたのは事実である。
 これを延長して、神へのささげものとして、母子殺害を命じられ、そうしてしまったとしたらどうだろうか。その神が絶対神としたらどうだろうか。神の正義は殺人を命じたのである。しかし、地上の正義は、それは悪とみなす。
 そう、デリダは『死を与える』でこの問題を論じて、結局、現代のわれわれは、日々、アブラハム的奉献を行っていると虚をつかれるようなことを述べている。
 「本土」人は、沖縄人(びと)をアメリカにささげている。原発では、地方の人を、経済のためにささげている。等々である。
 そうすると、この犠牲とはいったいなんなのだろうか、ということになろう。ここに示唆されているのは、きわめて深いアイロニーではないのか。そう、ゆるしの問題ではないのか。特異性=差異共振性の問題だと思う。【p.s.  ここでは、筆がいわばすべっている。アブラハムの場合は、犠牲が苦悩を伴うのであるが、沖縄や原発の場合は苦悩を伴っていない。後者の場合は、犠牲者のあり方が特異性になりうるだろう。差別された側にこの特異性の試練がありうると思う。そう、ヨブ記に似ていると思う。聖書はこの特異性の倫理のあり方を問うている。後で、整理し、再検討したい。p.p.s. もっとも、事実としてみれば、「本土」人が沖縄人を「捧げている」と言えるだろう。だから、キルケゴール/デリダの哲学的事態である。ならば、母子殺人事件はどうなのか。沖縄人を捧げているのとどう違うのか。いったい、裁く権利が我々にあるのか。ここで、カミュ的な問題に逢着する。後で検討を深めたい。】
 関係性が丸裸にされて、根源的な差異がむき出しにされるのではないのか。この根源的な差異が特異性であり、ここから、差異共振性、根源的差異共振性が発するのではないのか。いわば、絶望的希望である。地獄的天国である。
 同一性をすべて剥がされたところから始まる根源的関係性がここでは問題になっているのではないだろうか。そう、正に、絶対矛盾的自己同一である。ニーチェが憐れみを否定するのは、このような意味があるのだろう。

******************

<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

4月22日12時27分配信 毎日新聞

<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

拡大写真

光母子殺害事件の差し戻し審が開かれた広島高裁302号法廷=2008年4月22日午前9時55分、代表撮影
 山口県光市で99年4月、母子を殺害したとして殺人と強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(27)に対する差し戻し控訴審の判決公判が22日午前、広島高裁であった。楢崎康英裁判長は「強姦の目的や計画性も否定できない」として、求刑通り死刑を言い渡した。元少年が差し戻し審になって新供述を展開したことを「不自然不合理」とし、弁護側が主張した情状面について「斟酌(しんしゃく)する理由はみじんもない」と述べた。

【関連写真特集】 光母子殺害事件、元少年に死刑判決

 最高裁は06年6月、高裁が認めた情状酌量理由を「死刑を回避するには不十分」として1、2審の無期懲役判決を破棄し、高裁に差し戻した。

 判決によると、元少年は99年4月14日、光市のアパートに住む会社員、本村洋さん(32)方に排水管検査を装って上がり込み、妻の弥生さん(当時23歳)を強姦目的で襲い、抵抗されたため手で首を絞めて殺害。泣き続ける長女夕夏ちゃん(同11カ月)を床にたたきつけた上、首にひもを巻き付けて絞殺した。

 元少年は差し戻し審の公判で、弥生さん殺害について「甘えたい気持ちで抱きつき、反撃され押さえつけたら動かなくなった」とし、夕夏ちゃんについて「泣きやまないので抱いてあやしていたら落とした。首を絞めた認識はない」と述べた。

 供述を変えた理由については、「自白調書は警察や検察に押し付けられ、1、2審は弁護人が無期懲役が妥当と判断して争ってくれなかった」とした。

 判決は「弁護人から捜査段階の調書を差し入れられ、『初めて真実と異なることが記載されているのに気づいた』とするが、ありえない」と、元少年の主張を退けた。

 また、弥生さんの殺害方法について元少年が「押し倒して逆手で首を押さえているうちに亡くなった」としたのに対しても、「不自然な体勢で圧迫死させるのは困難と考えられ、右手で首を押さえていたことを『(元少年が)感触さえ覚えていない』というのは不自然。到底信用できない」とした。夕夏ちゃん殺害についても、「供述は信用できない」と否定した。

 また、元少年が強姦行為について「弥生さんを生き返らせるため」としたことについて、「(荒唐無稽こうとうむけい)な発想であり、死体を前にしてこのようなことを思いつくとは疑わしい」と退けた。

 判決は、「身勝手かつ、自己中心的で、(被害者の)人格を無視した卑劣な犯行」と断じた。

 1、2審は殺害の計画性の無さや更生可能性を重視して無期懲役を選択。最高裁は強姦目的や殺害方法などの事実認定を「揺るぎない」と判断し、情状面からも「量刑は不当で、著しく正義に反する」として審理を差し戻した。

 事件当時、元少年は18歳30日。少年法は18歳未満の被告に死刑を科すことを禁じている。2審の無期懲役判決を差し戻した死刑求刑事件は戦後3例目だが、他の2件は死刑が確定している。【大沢瑞季、安部拓輝、川辺康広】

【特集】 光母子殺害事件 判決の注目点を整理
【関連記事】 光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】<1>「裁判所の見解は極めて真っ当」
【関連記事】 光母子殺害事件 検察側の弁論要旨
【関連記事】 光母子殺害事件 弁護側の弁論要旨
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080422-00000006-maiall-soci


*******************

身体の欠陥と精神:心身関係:Media Pointの精神的身体性:心身相関

テーマ:医学・病気

うつ病は私の周囲にも多い。実母がもう10年近くのうつ病である。おそらく、治らないだろう。
 うつ病は心の病ということで、原因をストレスに見るのだろうが、私は、意外に、身体の故障から精神的障害が生じることもあるのではないかと、逆説的なことを思うのである。
 先に簡単に触れたが、結局、Media Pointが根源であり、ここは、いわば、心と身体が一如である。精神的身体、霊的身体、魂的身体であり、これが基盤・基底となり、物質的身体、肉体が形成されると今は仮説している。
 この根源的な精神的身体は、心であり、且つ、身体である。また、心であり、同時に、身体ではないという即非態でもあろう★。(スピノザの心身平行論は、この精神的身体を仮説すると簡単に説明がつくだろう。スピノザは、この側面を考えなかったのである。)
 だから、当然、心に乱れが生じれば、それが、身体へ影響するのであり、身体に乱れがあれば、心にも影響を及ぼすと言えよう。うつ病の場合は、一般には、前者の場合であり、私がここで述べたいのは、後者である。
 ここで話を拡大して言うと、近代的自我=近代合理主義の狂気と私が言うところの精神のあり方であるが、それは、意外に身体の欠陥から発しているのではないのかと思ったりするのである。
 そう、なんらかのトラウマの可能性はあるが、それ以外に身体の問題がないのかという考え方はどうかということである。
 たとえば、ストレスがあるので、胃潰瘍になるという風に普通は考えられるが、私の作業仮説は、もともと、胃に問題があるので、ストレスの影響を受けやすいのではないのかということである。
 そう、心身相関である。肝臓の悪い人は、どこか精神に問題を抱えていないだろうか。肺臓の悪い人、膵臓の悪い人、心臓の悪い人、等々である。
 私が言いたいことは、結局、きわめて伝統的な心身観(東洋的身体観)に返ることになる。心臓が感情の身体であるというような考えである。肝臓が肝(きも)であり、肝っ玉(大胆さ)を宿すということである。
 この考え方は、Media Pointが精神的身体であるという視点から必然的に出てくるものである。後で精緻に考えたい。

★ここの心と身体の即非性は、直感で言っているので、少し分析が必要である。Media Pointにおける差異=イデアが、心を生み、また、身体を生み出す。これは、同時であるが、様相は異なるのではないだろうか。
 少し、測深想像考察してみよう。Media Pointにおいて、差異共振性と同一性志向性が発生する。後者はフッサールの志向性(ノエシス)と見ていいだろう。それが意識、純粋意識である。しかしながら、前者の差異共振性であるが、それは、いわば、無意識になるのである。そう、無意識であり、身体を形成すると思われる。そして、一般には、身体を物質的身体と捉えるのである。しかしながら、これは、実際は、イデア的身体(差異的身体、差異共振的身体、霊的身体、精神的身体、魂的身体)である。
 だから、この点では、心と身体とは、確かに、即非関係にある。もっとも、この心は同一性的心である。同一性知性である。しかし、精神的知性がありうる。それはどういうものだろうか。
 精神的知性とは、差異共振性=無意識の知性である。それは、また、身体に通じている。端的に言えば、差異共振性=無意識/身体である。だから、精神的知性と身体との関係は、この場合は、イコールではないが、一如であろう。そう、微妙な点がある。
 いったい、差異共振的知性=精神と身体とはどう関係するのか。何故なら、差異共振性も身体であるからである。極言すれば、身体的知性が精神である。この点においては、精神・即非・身体と言うことができる。
 ここでついでながら言うと、Media Pointのもつ差異共振性であるが、それは、超越光の精神的身体(差異共振的身体)と言えるだろう。同一性知覚(通常の視覚)の見る光とは、この超越光の精神的身体から少し洩れる超越光の光輪のようなものではないのか。D.H.ロレンスは光が背を向けていると言っていたが、正に、そうだろう。超越光の背中をわれわれは、現象界において、見ているに過ぎないのだろう。
 思うに、仏像の光背は、超越光を表現しているのだろう。後光とは、正に、裏返しの超越光から洩れるものだろう。
 
*****************


うつ病治療、4人に1人が中断
 うつ病や関連の疾患で受診した経験がある人のうち、症状が治まっていないにもかかわらず、治療を中断するケースが少なくないことが、ファイザーの調査で分かった。精神医療の専門家は「患者が疾患を理解し、安心して治療に専念できる環境を創出できるよう、医師側の意識をさらに高めていく必要がある」と指摘している。(医療介護情報CBニュース)
[記事全文]


# うつ病の治療の基本 - 重症度の波。うつ病治療.com
# 心の風邪「うつ病」を休養と薬でゆっくり治そう - healthクリック
# 家族のための対応ガイド - NHK「うつサポート情報室 」

# 受診経験のある患者における受診行動調査 - ファイザー

# 20〜30代で急増する「社内うつ」 - 日経BP(2006年3月24日)

# 心のケア - Yahoo!トピックス
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/
domestic/depressive_disorders/


2008年04月21日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:イデア知性とイデア界の関係について
先にイデア知性とは、エネルギーを包摂している知(理念知性)であると言ったが、そうすると、イデアとMedia Pointとイデア知性とのかんけいはどうなるのだろうかと思うのである。
 イデアは虚軸上の超越的差異の様相である。問題は、イデア界とMedia Pointとの関係を明確にすることである。言い換えると、イデアとイデア・エネルギーとMedia Pointとの関係はどうなのか、である。また、私がいうイデア知性との関係はどうなのかである。これは、実に根本的な問いである。
 今は余裕がないので、検討できないが、一言いうと、イデア・エネルギー(エネルゲイア)は、Media Pointで発生するだろう。しかし、同時に、同一性志向性が発生する。正確に言えば、連続的同一性志向性が発生するのである。だから、通常、このイデア・エネルギーを同一性的に捉えてしまうのである。
 しかし、私が言うイデア知性とは、イデア・エネルギーを同一性とは不連続なものとして捉える知性である。だから、不連続的知性、即非的知性とでも呼べるものである。ここが大ポイントなのである。これを知性的に捉えたのは、これまで、鈴木大拙とウスペンスキー、他くらいであろう。(しかしながら、真の民衆はこれを直感的に捉えているものである。霊性である。)
 そう、一神教は、この、本来、不連続的なイデア知性を、同一性化してきたのである。とりわけ、キリスト教である。
 やや飛躍するが、ルネサンスとは、Media Pointにおけるイデア・エネルギーの発露であったろう。しかし、プロテスタンティズムの勃興によって、それが同一性化されたと思われる。もっとも、ルネサンス自体においても、自然発生的な連続性はあったろうが、プロテスタンティズム的な抑圧はなかったろう。近代西欧史は、この差異と同一性との争闘である。
 近代において、最初にイデア知性に近づいたのは、思うに、シェリングではなかったろうか。彼の同一性哲学と呼ばれるのは、実は、イデア知性哲学ではないだろうか。そう、シェリング以前では、スピノザとライプニッツをあげるべきだろう。また、ジョルダーノ・ブルーノ、他もあげるべきだろう。(思うに、ヘーゲル哲学は、Media Pointの原同一性を捉えているように思う。だから、観念論なのである。)
 では、端的に、イデア知性とは何か。それは、Media Pointがもつ純粋知性ではないだろうか。Media Point純粋知性ではないのか。
 同一性主義に囚われていると、イデア・エネルギーは非合理的になる。しかし、不連続化すると、純粋イデア・エネルギー=ディオニュソスになる。そして、そこに、イデア知性が生起すると思う。つまり、イデア知性とは、純粋イデア・エネルギーが内包する知性ではないのか。すると、これまで言ったのは逆に、エネルギーが知性を包摂するのではないのか。これまでは、エネルギーを包摂した知性と言ったので有る。
 思うに、純粋イデア・エネルギーとイデア知性とは同じものなのではないのか。つまり、後者はデュナミスではないのか。イデア・デュナミスである。知・即・エネルギーとしてのイデア知性ではないのか。後でさらに検討したい。


2008年04月19日(Sat)▲ページの先頭へ
ユダヤ教とプラトニック・シナジー理論:トーラーとイデア
テーマ:一神教/多神教

ユダヤ教の誕生―「一神教」成立の謎 (講談社選書メチエ) (単行本(ソフトカバー))荒井 章三 (著)

********引用開始***********

【・・・「伝承はトーラーの垣根である」という言葉がある(ミシュナ「アボト」[父祖の言葉]三章十三節)。ここでの「トーラー」は本来的な意味での「神の教え」であって、「モーセ五書」を意味するトーラーを初め、預言者も諸冊も含めて、すべての伝承が、本来的な意味での「トーラー」の境界を示し、これを守る垣根としての働きをなすことを意味している。】p.17

【・・・ユダヤ人たちは、トーラーを、単に「モーセ五書」や『聖書(タナッハ)』(・・・)以上のものとして理解している。タルムードを含め、今日までの、あるいはこれから生じる未来のユダヤの伝承や教えの総体なのである。
 トーラーの冒頭の言葉「初めに」(「初めに、神は天地を創造された」「創世記」一章一節)ですらトーラーと結びつけられている。すなわち、トーラーは初めであり、創造原理そのものだった。神はトーラーによって世界を創造し、創造者と被造物との結びつきを初めて可能にしたのである。
「神はトーラーによって天と地とを創造された」。ここには、「箴言(しんげん)」八章二十二節以下の「主は、その道の初めにわたし(知慧)を造られた。いにしえの御業(みわざ)になお、先立って、永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って、わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」という「知慧」とトーラーの同定が見られるかもしれないが、トーラーが宇宙の根本原理として世界以前に存在したように、これからも過ぎ去ることなく存在し続けるであろうことが主張されているのである。】p.18〜p.19(色文字強調renshiによる)

*******引用終了**********

私は、特に、シュタイナーによって、ユダヤ教の神の原理が能動的原理であることを知っていたが、以上の荒井氏の明快な言葉で、今更と言うか、目から鱗が落ちた。トーラーとは、通常、モーセ五書を指しているが、単にそれだけではなく、知慧と同定される根源的原理であるということである。すると、これは、イデアとイデア・エネルギー(エネルゲイア)とつながると考えられるのである。端的に言えば、トーラー=イデアであると考えられるのである。
 私は、先に、超越神とは、イデア化の宗教的あり方ではないのかと疑問を提起したが、この図式を使えば、超越神=イデアとなりそうである。もっとも、ユダヤ教では、ヤハウェとトーラー=知慧は区別しているようではあるが。少しこの点を考察してみよう。
 荒井氏の記述では、神がトーラーによって創造したのであり、また、トーラー=知慧(叡知、ソフィアと呼んでいいだろう)は創造以前から存していたとあることから、端的にトーラー=イデアと考えることができそうである。
 問題は、超越神とイデアとの関係である。イデアをデュナミス(潜在態)とエネルゲイア(活動態)に分けて、イデア・デュナミスとイデア・エネルゲイアとしよう。トーラー=知慧はイデア・デュナミスになるだろう。では、イデア・エネルゲイアにするのは何かである。これが、創造である。ユダヤ教では、当然、ヤハウェの意志(光あれ)である。
 プラトニック・シナジー理論(PS理論)では、イデア・エネルゲイア化とは、自然(じねん)と考えるのではないだろうか。つまり、1/4回転によって創造が為されるのであり、それは、自然(じねん)だと考えられる。即ち、差異共振化による1/4回転が生起・発生するのであり、それが創造(天地創造)と考えられるのである。言い換えると、PS理論では、創造神が必要ないのである。イデア・デュナミス=「トーラー」が自然(じねん)にイデア・エネルゲイアとなり、天地を生み出すのである。そう、創造ではなく、産出である。もっとも、広義では、創造も産出も同じことと考えられるが。
 とまれ、ここには、西洋文明と東洋文明の区別が存すると言えるだろう。つまり、創造神が存するのか、否かである。
 ここでは簡潔に直感で言いたい。イデア・エネルゲイアとは確かに、自然(じねん)ではあるが、能動的行為である。だから、この能動的自然(参照:スピノザのナトゥーラ・ナトゥーランス、能産的自然)は、当然、創造的であると言えるのである。自然=創造である。つまり、自然自体がいわば、創造神であるということであり、ユダヤ教のように、イデア=「トーラー」以外に創造神を「設ける」必要はないと考えられるのである。端的に、イデア・即・「創造神」である。有体(ありてい)に言えば、創造神は不要なのである。
 そう考えると、先に私が、イデア知性とはエネルギーを包摂・内包した知性であるということの意味がより明瞭になるだろう。能動・創造性を内包した知性(智慧・叡知・ソフィア)がイデア知性ないしはイデアなのである。【ここで神道を考えるにふさわしいだろう。神道の神ないしは神々とは何か。それは、端的に、イデアであると思うのである。イデアを古代人は神ないしは神々と呼んだと思われるのである(あるいは、超越エネルギーを神ないし神々と呼んだのである)。では、神と神々の区別はどう考えることができるだろうか。これは三柱の神と八百万の神々の区別と言えるだろう。根源的神と被発生的神の相違である。仮説であるが、おそらく、前者の振動数の相違によって後者が説明されると思われるのである。多様な振動数を前者をもちうるのであり、それが、八百万の神々として発現すると考えることができるのではないだろうか。】
 では、イデア=「トーラー」と区別される創造神はどうして発生した(と考えられる)のだろうか。(ヨハネの福音書の「はじめに言葉ありき」の言葉(ロゴス)は、イデア=「トーラー」に相当すると言えよう。p.s. 否、違うかもしれない。以下、参照。)主導的原因と叡知との分離は何を意味するのか。
 PS 理論から見ると、Media Pointの実軸において、同一性=言葉(ロゴス)が形成される。これは、また、同一性志向性=同一性能動性である。つまり、同一性自体が同一性志向性でもある。だから、同一性志向性は同一性主義と言えるだろう。そして、これが、父権的志向性である。
 ここで仮説するに、創造神とは、Media Pointのエネルゲイアであり、それが、同一性志向性=同一性能動性=同一性主義と結びついて発現したものではないだろうか。【だから、フッサールのノエシスに似ているのである。】
 そして、エネルゲイアとは別に、イデア・デュナミスがあるのであり、これが、根源的叡知と考えられるのである。そして、これが、トーラーに相当するのではないかと思われるのである。
 整理すると、Media Pointの同一性エネルゲイアが創造神であり、イデア・デュナミスがトーラーである。イデア・エネルゲイアが同一性エネルゲイアへと転換しとき、イデア・デュナミスと分離したと思われる。これで創造神がトーラーとは区別されることの説明がついたことになる。これは、明らかに、父権的傾斜の衝動である。即ち、同一性傾斜である。【母権的傾斜は、イデア・エネルゲイア=差異共振性の保持ないしは再帰性であると考えられる。】
 そして、ここで、キリスト教を考えると、イデア=トーラーと同一性=言葉(ロゴス)とが「癒着」し、混淆・混同されてしまったのではないだろうか。
 再度整理すると、ユダヤ教の超越神=ヤハウェは、Media Pointの同一性エネルゲイアであり、イデア・デュナミスがトーラーとして存している。しかるに、キリスト教の場合は、イデア・デュナミス=トーラーが同一性=言葉(ロゴス)と混淆されてしまい、知慧と同一性知性(ロゴス)との区別がつかなくなってしまい、また、同一性の強化に伴い、知慧を喪失していったと考えられる。【因みに言えば、ハイデガーが唱える存在の忘却であるが、それは、知慧の喪失ないしはMedia Pointの喪失と見るべきではないだろうか。】ここには、既に、プロテスタンティズムの原型が見られるだろう。
 さて、最後に、先に述べたユダヤ系の東洋性ないしはイデア知性のことであるが、以上から、端的に、ユダヤ教においては、トーラーという形で、イデア知性が存していると考えられるのである。だから、ユダヤ系ロシア人を祖先とするバーンスタインの演奏にイデア知性を感じることはありうることである。
 また、東洋性ということであるが、端的に、それは、Media Point的精神知性の存在のことだと思われる。神道、道教、仏教、ヒンドゥー教等は、これをそれなりに体現していると考えられるのである。
 そうすると、ユダヤ教とは東洋性と西洋性との境界に位置すると言えるだろう。そして、キリスト教は、東洋性を喪失していった宗教と言えよう。それは、ユダヤ教よりもルサンチマン的であると考えられる。【だから、ここでもニーチェの慧眼が確認されるのである。ニーチェはユダヤ教を評価していて、キリスト教を弾劾呪詛したのである。】
 因みに、聖書のエローヒーム(神の複数)とは何だろうか。それは、思うに、本来のイデア・エネルゲイアがもちうる多神教性ではないだろうか。つまり、神道の八百万の神々と同質ではないだろうか。だから、ユダヤ教とは母権的多神教と父権的一神教との混淆宗教であるということになると考えられる。D.H.ロレンスが晩年、旧約聖書は神々に満ちていると述べたのは、妄想ではなくて、真実であると考えられるのである。
 結局、以上から、最大のルサンチマンはキリスト教にあると言えよう。ユダヤ教は、トーラーという叡知をもっているので、ヤハウェのルサンチマンをそれなりに統御できると考えられる。しかし、キリスト教は、イデア=トーラー=叡知を同一性=ロゴスと混淆して、同一性主義=ロゴス中心主義によって、前者を喪失していき、ルサンチマンを過剰にしたと考えられるのである。それが、ヨハネの黙示録の最後の審判に結実していると思われるのである。
 端的に、イデア=トーラー=知慧(般若・ソフィア)の喪失は、キリスト教に拠ると考えられる。人類の狂気化はここに根因があると考えられる。トランス・キリスト教が必要であるし、そうなると考えられる。


2008年04月17日(Thu)▲ページの先頭へ
イデア的知性について再考:ディオニュソスとアポロ:プラトニック・シナジー理論とプラトンのイデア論
イデア的知性とは、考えると、不思議なものに思える。まだ、完全にクリアになっていないので、さらに考察を続けたい。
 ここでは、先の考察に、ニーチェの『悲劇の誕生』の有名なディオニュソスとアポロの視点を加えて、多角的に検討したい。
 ニーチェのディオニュソスとアポロの概念は一見明快なようでいて、実は複雑であると考えられる。先にも言及したが、これは、実は、ニーチェが攻撃したイデア論に通じるものをもっていると考えられるのである。そう、だからこそ、ここで、それらの概念の視点を持ち出すのは有意義だと考えられる。
 ここで、簡単に見取り図を言えば、ディオニュソスが差異(差異共振性)であり、アポロが同一性であるという図式が考えられる。ここで、問題はなのは、アポロの意味なのである。ニーチェ自身の叙述から、アポロがソクラテスの合理主義と結びつけられて、いわば、アポロが同一性主義と一致するように述べられている点である。
 しかしながら、よく読めば、アポロはヴィジョンなのである。同一性合理主義ではないのである。それが注意する第一点である。
 次に、母権神話/父権神話の二重構造の視点から見ると、ディオニュソスが母権神話に、アポロが父権神話に属すると見ることができよう。これが第二点である。
 これらの視点をふまえて、本件のテーマに返ってみると、情動・情感・情緒等(リリシズム)を包摂・内包するイデア(理念)とは、端的に、ディオニュソス的イデアであり、同一性的イデアではないということになろう。プラトン自身の記述から、イデアは、同一性的イデアに限定される恐れがあるし、事実は、そのように、いわば、通俗的に理解されてきたと考えられる。(プラトン自身、差異と同一性の間で揺れ動いていたと考えられる。)
 このディオニュソス的イデアであるが、これは、実は、ヴィジョンとしてのアポロに通じると考えられるのである。同一性のアポロではなく、ヴィジョンとしてのアポロである。
 思うに、このディオニュソス的イデア=ヴィジョン的アポロと考えると、音楽=美術になると考えられる。ニーチェは音楽の源泉から悲劇の誕生を考えたのであるが、しかし、音楽は美術と一如になると思われるのである。
 そうすると、ヴィジョン的アポロと同一性的アポロを区別しないといけないだろう。思うに、極言すれば、ここに母権多神教と父権一神教、差異と同一性の問題の核心があるだろう。
 ヴィジョン的アポロとは言い換えれば、ディオニュソス的アポロということになるだろう。これは、母権的視覚である。それに対して、同一性的アポロが発生したのである。これが、父権的視覚であろう。同一性的視覚である。そして、この両者が古代ギリシア文化において、結合ないし融合したと考えられるのである。そして、この心的事態が、『悲劇の誕生』の中核ではないだろうか。母権文化と父権文化の結合・融合としての『悲劇の誕生』である。
 結局、その結合・融合の本質は何か、である。おそらく、即非の論理に類似するのである。矛盾論理のように思えるのである。一方では、母権=ディオニュソスであり、他方では父権=アポロなのである。しかし、ヴィジョン的アポロは、同時に、母権=ディオニュソスの側に存するのである。このような複合体であるように思えるのである。
 思うに、ギリシアの古典主義/合理主義とは、後者の父権=アポロから発生したものであろう。しかしながら、ギリシア神話は、母権=ディオニュソス文化を色濃く反映していると言えよう。また、父権=アポロであるが、それは、同一性主義と言っていいだろう。それは、ギリシア悲劇では、支配的な政治として表現されているだろう。有名なアンチゴネーであるが、それは、明らかに、母権=ディオニュソス文化を体現していると言えよう。
 では、主題のイデア的知性について考察しよう。最初に私が考えるイデア的知性について、次に、プラトンのイデア論について述べたい。
 結局、イデア的知性とは、母権的ディオニュソスを「叡知」化したものだと考えられる。端的に、母権的ディオニュソスとは、エネルゲイア、即ち、エネルギーである。動的なものである。さらに言えば、超越エネルギーである。それは、現象界を創造するエネルギーである。根源的エネルギーである。だから、これは、同一性的知性・合理性(現象界・物質界の知性)によっては、捉えることができないのである。【近代合理主義は、アイロニカルに、非合理主義・狂気にいわば復讐されるのである。それが、全体主義であり、自然・精神破壊であり、また、戦争・犯罪の蔓延である。】
 この超越エネルギーである母権的ディオニュソスを、知性において把握しようとするのが、イデア的知性である。これは、イデア界を仮構して、その理念・イデアがこの母権的ディオニュソスとなり発現すると考えるのである。現象界を超越したイデア界を仮構することで、この母権的ディオニュソスをイデア知性として把握しようとするのである。しかしながら、イデア知性は母権的ディオニュソスのエネルギーを包摂・内包しているのであるのであるから、単純な知性・合理性ではないのである。エネルギー包摂・内包的知性・合理性である。
 そして、母権的ディオニュソスとは、差異ないし差異共振性と考えられるので、イデア的知性=ディオニュソス的知性=差異的知性ということになる。ここで想起されるのは、ドゥルーズの差異論である。それは、差異的イデア論を目したものであるが、連続性の囚われていたので、差異的イデアを同一性的知性へと連続化してしまい、イデア的知性を取り逃がしてしまったと考えられるのである。
 とまれ、以上のようにイデア的知性を考えると、ニーチェのディオニュソスとは、イデアの動態であるが、ニーチェ自身は、イデア的知性までは達していなかったと言えよう。晩年の力への意志とは、思うに、基本的には、ディオニュソスの別の言い方であると見るべきだと思う。
 次に、プラトンのイデア論であるが、それは、母権的ディオニュソスを初めて、イデアとして捉えた試みであろう。そして、それは画期的であった。イデア的知性が誕生したのである。しかしながら、以上検討したように、古代ギリシアにおいて、母権的ディオニュソスがアポロ的ヴィジョンを介して、同一性的アポロと矛盾同一化していたと考えられるのである。即ち、アポロ的ヴィジョンとは、ディオニュソス的ヴィジョンであり、それは、ディオニュソスが発現させる同一性のヴィジョンであり、それは、未だ、霊的なヴィジョンである。
 そして、古代ギリシアにおいて、この霊的な同一性ヴィジョンと現象的同一性的アポロとが結合・融合していたと考えられるのである。この結合・融合は、即非的である。前者は霊的同一性であり、後者は物質的同一性である。
 そして、プラトンのイデア論は、単に、母権的ディオニュソスのイデア化だけでなく、この霊的同一性をイデア化したと考えられるのである。前者が善のイデアであり、後者が同一性のイデアであり、通俗的には、後者が中心化されたのである。
 後で整理する予定であるが、私が先に述べたイデア的知性とは、母権的ディオニュソスのイデア化であり、主に差異、差異共振性の知性を意味する。しかし、プラトンにおいては、ディオニュソスだけでなくて、ディオニュソス的アポロ(ディオニュソス的同一性)も、イデア化していると考えられるのである。
 この相違をどう見るのか、である。私は、母権文化とは、同一性が差異共振性において存しているのであり、同一性主義には至っていない、いわば、未分化の文化と言った。言い換えると、母権文化は、同一性を内包した差異共振文化である。
 そう考えると、私がいうイデア的知性はまったくプラトンのイデア的知性と一致することになると言えよう。ただ、私は、今日的に、差異・差異共振性を強調しているが、同一性は含んでいるのであるし、プラトンは、差異よりは、同一性の側面、視覚的側面を強調していると考えられるのである。強調の違いに過ぎないと考えられるのである。
 そうすると、この差異・差異共振性における同一性、ディオニュソス的アポロとは何か、ということになるだろう。同一性のイデアとは何か、である。上では、霊的同一性と言った。
 これは、端的に、プラトンのエイドスに当たると考えられるが、これは一体何なのか。まだ、完全には、現象化していないが、原現象であるような同一性である。それは、Media Pointにおける同一性志向性に当たるように思えるのである。あるいは、先の作業仮説の図式では、ハイデガーの存在に当たるかもしれない。先の図式を訂正すれば、⇒の先端が、この同一性のイデアないしはエイドスかもしれない。とまれ、原同一性と言う方が明快であろう。
 さて、直感では、この原同一性・エイドスとは、「気」になるのではないかと思われるのである。シュタイナーの霊学で言えば、エーテル体である。霊性としての「気」である。「霊気」である。
 【そして、さらに考えると、ディオニュソスとは、シュタイナーのアストラル体(情動・情感身体)に当たるのではないだろうか。そして、ディオニュソスのイデア的知性が、シュタイナーの自己に当たるのではないだろうか。これらは、まだあいまいなので、後再考したい。】
 とまれ、以上、試行錯誤の跡が見られるが、とりあえず、本件の検討をここで終える。


イデア論における理念知と情動:同一性観念とイデア観念:観念知性とMedia Point理性
私は、先に、ドゥルーズ哲学を酷評したが、差異イデアという考え方を得たのはそこからであり、その独創性を評価しなくてはならない。それにともなって、イデア界ないしは理念界のあり方を現代において、復活させた点も評価する必要がある。つまり、差異的イデア論の可能性をドゥルーズは説いた点で大いなる評価に値するのである。
 とまれ、ここでは、イデア論の理念的知性とは何であるのか、今は、簡単に考えたい。私の経験では、身体的情動がある。それは、神秘的な情動でもある。コスモス的な情動である。しかし、これは、同一性=物質的知性とは相反的である。【同一性=物質的知性の用語であるが、私は、知性や理性を差異に使用したいと先に言ったが、やはり、同一性に関しても使用する必要があるようだ。だから、同一性知性ないしは物質知性である。】
 しかし、イデアという理念を仮説することで、この情動は知性化されるのである。即ち、情動がイデア知性、理念知性に包摂ないしは内包されるのである。
 有体に言って、これは、どういう事態なのだろうか。それがまだ明確に解明されていないのである。端的に、情動・情念・情緒等(リリシズム)を包摂・内包する知とは何だろうか。どうして、普通の同一性知性ではそれができないのだろうか。同一性知性(近代合理知性)は、端的に、情動・情念・情緒を抑圧する作用があると思われる。(ここに正に、分裂が生じるのである。)
 だから、同一性知性以外の知性を仮定することで、それらを抑圧しないで包摂・内包することが可能になるということだと考えられる。つまり、情動等(リリシズム)を知性化する試みとして、イデア論があるのであり、そこでは、いわば、情動的イデア界が形成されるだろう。そう、心において、情動的イデア界が形成されることになるのである。
 しかしながら、これではまだ分裂したままである。何故なら、心において、一方では、同一性知性があり、他方では、情動的イデア知性があるからである。言い換えると、不安定である。
 ここで、不連続的差異論の画期性があるのである。即ち、情動的イデア知性と同一性知性が不連続であることを発見したのである。この不連続性の発見により、両者が共存・共立するようになったのである。即ち、それまで、分裂的に揺れ動いていた両者が、この発見によって、いわば、それぞれ、所を得て、「落ち着いた」のである。これについてさらに詳述してみよう。
 端的に、心の何処にイデア界があるのだろうか。それは、端的に観念的知性に存するのではないだろうか。より明快に言って、イデア知性はどこにあるのか。より丁寧に見てみよう。
 神秘的コスモス的な情動・情念・情緒等がある。それは、宗教的情動と言ってもいいだろう。それは、抑圧する同一性知性に反発するのである。しかし、イデア界を仮構することで、この情動は知性化されるのである。観念的知性、理念的知性が形成されるのである。
 この観念的知性、理念的知性が、同一性知性とは当然異なるのである。とまれ、観念的知性・理念的知性とは何だろうか。情動等を結びついた知性である。しかし、それらを包摂・内包した知性なので、力のある知性、あるいは、エネルギーを包摂・内包した知性である。言い換えると、エネルゲイアではないのか。それとも、デュナミスなのか。つまり、エネルゲイアとしての知性ないしはデュナミスとしての知性なのではないのか。
 簡単に言えば、エネルギーをもった知性である。しかしながら、包摂・内包されているので、静的にはなるだろう。ならば、デュナミスではないのか。デュナミスとしての知性ではないのか。つまり、デュナミスではあるが、常にエネルゲイアに変換可能な知性ということではないだろうか。
 とまれ、これは、観念・理念知性であり、頭脳において、同一性知性と共存するようになると考えられる。つまり、知性とは、同一性にしろ、差異にしろ、観念である。観念性において、同一性と差異が共立するということではないのか。
 つまり、観念知性において、同一性と差異が共存するのではないのか。言い換えると、観念知性が同一性と差異イデアを共存させるということではないのか。
 では、観念知性とは何なのだろうか。具体的に考えてみよう。例えば、「山」という言語・観念を考えてみよう。これは、同一性知性的には、辞書を引けば出ているような意味である。同一性観念と言ってもいいだろうし、概念である。
 しかしながら、「山」という言葉を例えば、詩において接した場合は、まったく異なってくるだろう。そこには、想像作用が入るのである。情動・情念・情緒作用やイメージ・ヴィジョン作用が入るのである。そう、エネルゲイアとしての観念になるのである。
 近代合理主義的心性(近代的自我主義)ならば、後者を排除して、前者のみを考えるだろう。正に、同一性主義である。しかし、差異イデア的心性をもっていれば、同一性観念とは別に、エネルゲイア的観念が形成されるのである。
 思うに、結局、Media Pointの知性が問題ということではないのか。Media Pointにおいて、一方では同一性へと展開し、他方では差異へと結びついているのである。つまり、観念知性であるが、それは、Media Pointに関わる知性ということではないのか。
 近代合理主義観念知性の場合は、Media Pointを排除する様式の観念知性であるが、それは、どこに位置づけられるのか。それは、差異を抑圧する観念知性であるが、しかしながら、元々、差異に根差していると考えられる。差異に対するルサンチマンから同一性主義が発生するのである。だから、同一性観念知性もMedia Pointの観念知性であると言えるのではないだろうか。
 ということで、結局、観念知性とは、同一性観念にしろ、差異イデアにしろ、Media Pointの知性であるということではないだろうか。
 そして、思うに、この知性こそ、本当の理性だと思えるのである。Media Point Rationalityである。カントの場合は、Media Pointを同一性と差異に乖離させてしまったと言えよう。即ち、純粋理性と実践理性である。Media Point理性がそれらを統合するのである。ここで今は留めたい。


2008年04月16日(Wed)▲ページの先頭へ
「絶対的なもの」と超越性:同一性中心主義=ロゴス中心主義と超越的差異共振性
以下のtoxandoriaの日記には、ハンナ・アレントの全体主義批判の言葉があり、興味深い。PS理論から検討してみよう。

・・・引用開始・・・

・・・ここは、感銘を受けたフレーズ 、そして自らの心象風景とスナップ 画像などを折にふれ、ご紹介するページです。



・・・・・本文・・・・・



何とも悩ましい話だが、活動(必然的に時の政治権力の影響を蒙る、我われ一般国民の日常生活のコミュニケーション 活動)の最中に真っ先に判明するのは、五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能であるということだ。



な ぜなら、それが何であるのか誰も具体的には知らないからである。たしかに 誰もが、それについての概念は持っているのだが、具体的なレベルでは、それについてまったく異なるものをイメージしている。活動がこうした人間の複雑性に依存しているものである限り、西欧哲学---その伝統の最後尾にいる哲学者たちは、結局のところ、活動の制御を目論んでいるのだが---の最初の破局は、 原理的に独裁政権下意外では不可能な統一=単一性が実現されるための必要条件 なのである。



二番目に判明するのは、活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会 な ど、絶対的なるものとして何でも使えるということだ。あらゆる事柄が等しくお誂え向きであり、要するに「何でもあり」なのである。どこかのイカサマ師が思いつきかねない狂気の理論に対する場合と同じように、現実はほとんど抵抗を示さないように見える。いかなることも可能なのである。



三番目に判明するのは、ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、あるいは、ニーチェ が 言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になるということだ。なぜなら「理想」とか正義それ自体は、もはや尺度として存在するのではなく、世界内で達成も生産も可能な、ひとつの目的=終焉になってしまったからである。言い換えるなら、哲学の実現 は哲学を終わらせ、まさに「絶対的なるもの」の実現は世界から絶対的なるものを追放するということである。



そして、最後には、「人間(man)」(一人または少数の政治権力者による狂想の脳内表象)の見せかけの実現が「人間(men)」(絶対多数の国民・市民の現実生活)を文字どおり廃棄(破壊)してしまうのである((  )内はtoxandoriaによる注記)。---「思索日記」「1951年 9月」より 



・・・・・



以上は、[ハンナ・アレント 著、ジェロ ーム・コーン編、高橋勇夫訳『政治の約束』(筑摩書房 )の<緒言>]の引用・転記であるが、このアレントの文章は、(中曽根・・・小渕〜森〜小泉〜安部〜福田)の流れを辿りつつ与党政権がファシズム 的性格を強めてきた必然性を予見しているようで不気味である。



http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/



・・・引用終了・・・



renshiのコメント開始:



1)『五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能である』



という点であるが、これは、明らかに、プラトン哲学のイデア論を批判していると考えられるが、「・・・把握不能である」というのは正しいと考えられる。なぜなら、超越性ないしは絶対的なもの、言い換えると、精神性は、同一性の知性によっては、確かに把握不能であるからである。つまり、近代的合理性知性によっては、超越性ないし絶対的なものの把握は不可能である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論から見ると、超越性ないしは絶対性は、イデアとして「存している」と考えている。

 また、西欧哲学の破局が必要条件であるというのは、同一性中心主義=ロゴス中心主義である西欧哲学という意味ならば妥当する考えである。しかしながら、ハンナ・アレントが考えるようには、単純ではないのである。デリダが明らかにしたように、同一性中心主義と差異とが複雑に関係しているのが、西欧哲学なのであり、単純に西欧哲学の破局が必要条件ではないのである。西欧哲学の批判が必要なのである。



2)『活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会 な ど、絶対的なるものとして何でも使える』



という点であるが、これは正に、イデオロギーの問題である。たとえば、ブッシュがイラクの民主化というイデオロギーで、「絶対的なもの」を使用するのである。

 問題は、不連続的差異論が明らかにしたように、絶対的なものと日常的な活動を不連続化することが絶対的な条件である。両者を混淆することに全体主義や宗教や政治のイデオロギーが発生すると考えられるのである。



3)『ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、あるいは、ニーチェ が 言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になると』



これは、すぐ上のイデオロギーの問題と同じである。超越性ないしは絶対性と同一性的合理性との混同によって、「不正で残忍な活動が可能」になるのである。人類は、父権文明化して以来、これを行ってきているのである。確かに、人類は、同一性=物質的合理性の知性を発達させたが、それを、超越性ないしは絶対性と混淆混同してきたので、狂信・狂気・非合理主義化してきたのである。

 最後にひと言いうと、アレントのプラトン哲学やそれを源泉にする西欧哲学とりわけ、観念論哲学批判であるが、全体主義を経験した西欧の経験としては理解できるものである。しかしながら、その批判は、日常的な活動に限定する理性を求めていると考えられるが、具体的な日常的活動を判断するときの理性的根拠をどこに求めるのだろうか。私見では、それは、個の差異においてしか、ありえないと考えられるのである。日常的活動は集合的なもので、集合性に巻き込まれやすい。しかしながら、日常的活動において、理性・知性を保つには、個の差異が必要なのである。そして、個の差異において、超越性【絶対性という言い方は問題があるだろう。差異における超越性は絶対性なのだろうか。絶対的差異という点では、絶対性である。絶対的なものという言い方はあいまいではある。】が現れるのである。プラトニック・シナジー理論では、それは、超越的差異共振的理性と見るのである。



renshiコメント終了




************************

酔狂の風景/『HP、新レンブラントの眼』の開設(ご案内) CommentsAdd Star

参考情報

●HP『レンブラントの眼』が諸般の事情により崩壊したため、新たに『HP、新レンブラントの眼』を開設しました。

●未だ試作版のつもりなので、これからも試行錯誤になると思います。一応、当ブログ 『toxandoriaの日記 』とイメージ 的に整合を図るつもりですが、目下、思案投首の状態です。なお、URL は以下のとおりです。

『新レンブラントの眼』、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/

同上・ページ1「toxandoriaの日記、アート と社会 へのリンク 」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage1.html

同上・ページ2「酔狂の風景」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage2.html

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』


http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080415/p1


2008年04月13日(Sun)▲ページの先頭へ
フッサール現象学とハイデガー存在論と構造主義とポスト・モダンの関係:PS理論の視点から(修正版)
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における⇒とすれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、2〜6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、近代主義の世界は、-1と+1の二重性の世界である(参照:双魚宮)。近代合理主義/近代的自我主義と差異共振的自我主義の二重性であり、この間に民主主義、自由主義が存していると言えよう。簡単に言えば、同一性主義と差異主義の二重性の世界である。
 今日、グローバル経済は、+1を否定して、-1に邁進しているのである。これは、差異主義の破壊となっているのである。もっとも、差異共振主義は、技術革新という側面では進展しているだろうが。
 端的に、-1とは、倒錯であり、精神病理である。闇・無明である。ジェンダー論的に言うと、-1は父権主義であり、Media Pointが母権主義であり、+1は、父権主義と母権主義の超克である、いわば、両権主義ないしは新母権主義ではないだろうか。
 最後に神秘主義・オカルト主義について言及しよう。今日では、スピリチュアルなものとして流行しているが、それを明確にしておく必要があるだろう。
 先には、-1が神秘主義ではないかと言ったが、それは、間違いということになっった。では、神秘主義はどこに位置しているだろうか。
 それは、霊的な融合体験を意味するだろう。霊とは、Media Pointのイデアのことである。そして、そこには、差異共振性がある。しかしながら、差異共振性は、融合ではないのである。それは、即非感覚認識である。
 端的に、神秘主義の場合は、同一性主義=自我主義が崩壊すると考えられる。つまり、±1が消滅すると考えられる。これは、思うに、一種先祖返りなのである。つまり、Media Pointへの反動的回帰なのである。これは、螺旋的回帰とは区別されなくてはならない。同一性=自我の形成以前のMedia Pointへの退行である。幼児・胎児への回帰、子宮回帰である。
 反動ではあるが、これは、-1の近代合理主義/近代的自我主義に対する反動である。(参照:懐かしい、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』)つまり、一種、同一性主義に対する、原差異の反抗・反逆と言えないことはないだろう。いったい何がここでは問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義=物質主義化に対するイデア・精神・魂・超越性の側からの無意識の、いわば、本能的な反抗・反逆である。これは、情動的である。知性的ではないのである。ここに問題がある。
 反近代主義的な芸術家の多くは、神秘主義的である。モームの『月と六ペンス』の主人公の身体的霊性もそうである。シャガールの絵画もそうである。もっとも、そこには、根源的な差異共振性があるのである。これは確認しなくてはならない。
 だから、結局、イデア論がここで登場する必要があるのである。近代主義は、精神次元を否定してきた。古代、中世、ルネサンスと精神次元を確認してきたのであるが、それが、近代主義において、否定されたのである。形而上学の否定ということに現われている(形而上学の問題は、それを経験性から独立させてしまうことだろう。本来は、形而上学とは、経験性と結びついているのである。)イデア論を仮説することで、精神の無意識な、本能的な反抗的な情動は、イデアによって、知的に包摂されることになると考えられる。
 それによって、精神は知性的となり、情動性は知的に抑制されることになるのである。そのイデア的知性であるが、知性とは本来、同一性的なものである。だから、近代主義のもつ同一性主義ではなく、近代的同一性、近代合理性、物質的合理性をも包摂したイデア知性がここに生起すると考えられるのである。これは、先にも述べたが、Media Point 知性と言えよう。
とまれ、言い換えると、神秘主義やオカルト主義は、ゼロ度のMedia Pointの様態と言えるのではないだろうか。


フッサール現象学とハイデガー存在論と構造主義とポスト・モダンの関係:PS理論の視点から
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを⇒で表記すれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、3〜6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、近代主義の世界は、-1と+1の二重性の世界である(参照:双魚宮)。近代合理主義/近代的自我主義と差異共振的自我主義の二重性であり、この間に民主主義、自由主義が存していると言えよう。簡単に言えば、同一性主義と差異主義の二重性の世界である。
 今日、グローバル経済は、+1を否定して、-1に邁進しているのである。これは、差異主義の破壊となっているのである。もっとも、差異共振主義は、技術革新という側面では進展しているだろうが。
 端的に、-1とは、倒錯であり、精神病理である。闇・無明である。ジェンダー論的に言うと、-1は父権主義であり、Media Pointが母権主義であり、+1は、父権主義と母権主義の超克である、いわば、両権主義ないしは新母権主義ではないだろうか。
 最後に神秘主義・オカルト主義について言及しよう。今日では、スピリチュアルなものとして流行しているが、それを明確にしておく必要があるだろう。
 先には、-1が神秘主義ではないかと言ったが、それは、間違いということになっった。では、神秘主義はどこに位置しているだろうか。
 それは、霊的な融合体験を意味するだろう。霊とは、Media Pointのイデアのことである。そして、そこには、差異共振性がある。しかしながら、差異共振性は、融合ではないのである。それは、即非感覚認識である。
 端的に、神秘主義の場合は、同一性主義=自我主義が崩壊すると考えられる。つまり、±1が消滅すると考えられる。これは、思うに、一種先祖返りなのである。つまり、Media Pointへの反動的回帰なのである。これは、螺旋的回帰とは区別されなくてはならない。同一性=自我の形成以前のMedia Pointへの退行である。幼児・胎児への回帰、子宮回帰である。
 反動ではあるが、これは、-1の近代合理主義/近代的自我主義に対する反動である。(参照:懐かしい、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』)つまり、一種、同一性主義に対する、原差異の反抗・反逆と言えないことはないだろう。いったい何がここでは問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義=物質主義化に対するイデア・精神・魂・超越性の側からの無意識の、いわば、本能的な反抗・反逆である。これは、情動的である。知性的ではないのである。ここに問題がある。
 反近代主義的な芸術家の多くは、神秘主義的である。モームの『月と六ペンス』の主人公の身体的霊性もそうである。シャガールの絵画もそうである。もっとも、そこには、根源的な差異共振性があるのである。これは確認しなくてはならない。
 だから、結局、イデア論がここで登場する必要があるのである。近代主義は、精神次元を否定してきた。古代、中世、ルネサンスと精神次元を確認してきたのであるが、それが、近代主義において、否定されたのである。形而上学の否定ということに現われている(形而上学の問題は、それを経験性から独立させてしまうことだろう。本来は、形而上学とは、経験性と結びついているのである。)イデア論を仮説することで、精神の無意識な、本能的な反抗的な情動は、イデアによって、知的に包摂されることになると考えられる。
 それによって、精神は知性的となり、情動性は知的に抑制されることになるのである。そのイデア的知性であるが、知性とは本来、同一性的なものである。だから、近代主義のもつ同一性主義ではなく、近代的同一性、近代合理性、物質的合理性をも包摂したイデア知性がここに生起すると考えられるのである。これは、先にも述べたが、Media Point 知性と言えよう。
とまれ、言い換えると、神秘主義やオカルト主義は、ゼロ度のMedia Pointの様態と言えるのではないだろうか。


2008年04月05日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性主義(同一性中心主義)と視覚の関係について:感覚物質現象と精神現象の即非性再考
この問題は、既述済みであるが、以前とは考えが少し違ってきているので、ここで論考したい。
 先に、私は、精神的視覚と感覚的視覚が即非の様態にあると結論した。例えば、陽光を見るとき、それは、感覚的視覚で見ると同時に、精神的視覚で見ると言ったのである。この考えは、基本的には今でも変わらないが、今は、感覚的視覚と精神的視覚の区別を明確にしたいと思っている。即非的様態を説くと、両者の質的区別が不明確になると考えられるのである。
 簡単な例をあげれば、女性の化粧である。それは、端的に、感覚的視覚における美化であり、精神的視覚は本来関与していない【p.s. 以下の考察から、化粧にもそれなりの精神性、生命精神性があると思われる】。
 そう、ここで、精神的視覚について少し言及した方がいいだろう。私が今思っているのは、心的、魂的、性格的相貌である。これは、感覚的相貌、つまり、容貌・容姿とは関係ないのである。ある意味で「気」的相貌と言ってもいいだろう。
 この精神的視覚であるが、私ははっきりと直観できるのであるが、一般には知覚できないのかもしれない。例えば、ある人物の履歴書の顔写真を見るとき、私には、相貌に胡散臭さを感じた。なにかペテン師的だと思った。その後、その人物をよく知ることになったが、直観は正しく、猫かぶりであり、傲慢な人物であったのである。
 私には、精神的視覚が明瞭に知覚できるのであるが、これは、どうも異能になるようである。とまれ、精神的視覚は、私だけの特殊なものではなくて、心眼をもつ人なら、もっているものと考えられる。
 そう仮定して、精神的視覚を考えてみると、それは、精神を視覚していることになる。極言すれば、一種の霊視である。あるいは、透視である。とは言え、霊・スピリットが見えるわけではない。
 端的に言えば、人物の性格が相貌に現われているということになる。これは、力学的はどういうことなのか。それは、感覚的視覚像において、性格的相貌が現われているということである。つまり、性格的相貌・顔貌力学があり、そのエネルギーが、感覚的視覚像に刻印されているということになる。簡単に言えば、性格的波動が現象化しているということになろう。
 以上のように、精神的視覚を考えると、冒頭にあげた、感覚的視覚と精神的視覚の区別がすこし怪しくなるのである。問題は精神性(性格性、心性、魂性、霊性)が、感覚現象領域に発現することである。これをどう把捉するのかである。
 つまり、端的に言えば、現象とは、単に感覚・物質現象だけではなく、精神現象でもあるということだろう。(ここで、唯物論や近代合理主義は崩壊する。)しかしながら、感覚性と精神性は即非様態である。
 本稿をまとめると、現象とは、感覚物質現象があり、また精神現象がある。両者は質的に異なるのである。しかしながら、精神は感覚物質界に発現するのである。すなわち、感覚物質現象・即非・精神現象なのである。
 そして、認識上の問題は、感覚美と精神美の認識にあるだろう。感覚美は、快楽・快感の強度が強いので、精神的審美眼(心眼)が麻痺させられると考えられるのである。
 端的に言えば、感覚美とは何かである。例えば、桜の花は、新緑は、感覚美の対象なのか。それは精神美の対象ではないのか。あるいは、桜の花、新緑自体に精神美があるのか。
 おそらく、両者には、なんらかの精神美があるだろう。春という季節がもつ生命力の精神美があるだろう。これは、伝統的には、気である。
 そう、生命精神美が両者にあると言えよう。だから、単に桜花や新緑は感覚美の対象だけではないのである。
 結局、感覚美と言われるもの、あるいは、美と言われるものには、なんらか、精神が関与しているということになるだろう。ただし、精神には、生命精神もあれば、魂的精神もあり、また、多様性をもっていると考えられる。
 結局、感覚現象と精神現象の明確な区別と即非性が確認されるが、感覚美と精神美に関しては、美の多様性ないしは複合性があるので、両者は瞭然とは区別できないことになるだろう。【具体的に言えば、デザインの美は、感覚美なのか、精神美なのかということになるだろうが、一般には、感覚美であるが、それは、生命精神をもっているので、それなりに、精神美でもあるのである。即ち、感覚美=精神美である。おそらく、デザインの問題は、それが、精神美への志向性をもたないと早晩皮相・軽薄化することだろう。つまり、デザインは美術への志向をもってデザインたると考えられる。】

p.s. 論の焦点が少しぶれているので、後で明快にしたい。


2008年03月26日(Wed)▲ページの先頭へ
イデア論と宗教:知と信仰:イデア論と仏教の接近:トランス宗教としての新イデア論
先に述べたように、私は超越エネルギーを神として捉えている。そして、超越エネルギーとはイデア・エネルギーである。だから、超越エネルギー=神=イデア・エネルギーである。
 だから、イデア論は、宗教論でもあるのである。そして、宗教が信仰の次元とするものを、イデア論は知性の対象とするのである。(もっとも、仏教は信仰宗教ではなくて、知性的宗教である。)
 理念(イデア)化による知性化は、トランス宗教の面があるだろう。だから、イデア論と宗教では、微妙な差異があるのである。神観念を知性の対象とするのは、宗教側から見たら冒瀆に見えるだろうが、それが、イデア論のいわば強みである。
 これは、いったい何を意味するのだろうか。合理性・知性を保持したまま、超越エネルギーの感性を肯定することではないだろうか。決して、信仰を否定するのではなく、根源的受動を基礎とする知的態度である。そう、信仰の基礎である根源的受動をもちながら、それをイデア(理念)として、知性化する行為である。つまり、トランス宗教性である。超越論的宗教である。
 宗教をイデア化することで、宗教のドグマを脱することができるのである。そう、宗教の独善・独断・狂信性等を解体するのである。簡単に言えば、宗教の知性化である。だから、知性・認識・叡知宗教である。
 そして、直感では、この叡知宗教は、仏教につながるのである。つまり、イデア論と仏教の接近がもたらさせるのである。

p.s. 仏教であるが、思うに、信仰を中心とする心的態度を宗教とするならば、仏教は宗教ではない。何故なら、仏教は、解脱や悟り等の認識を中心化しているからである。だから、仏教は、仏陀哲学と言うべきものだろう。その面から、イデア論と通じると言えよう。
 では、信仰とは何か。私は根源的受動性を言うが、それが信仰の原因である。つまり、根本的信仰性、ないしは、原信仰性があるのである。言い換えると、原宗教性である。それを私は否定しない。
 しかしながら、ここから、それぞれ、信仰を中心化する宗教と、叡知を中心化する哲学の二通りの心性が発生する。
 近代合理主義/近代的自我に積極的な意味があるとするなら、一つは、自我知主義を形成したことであろう。思うに、ここから、螺旋的に、原宗教性に回帰できるのである。それは、仏陀哲学・イデア論的になると考えられる。
 だから、トランス宗教としての根源哲学(仏陀哲学・イデア論)が必要であると考えられる。
 いわゆる、信者たちであるが、それは、苦に対する癒しを宗教に求めていると思うが、問題は、苦とは、本質的に、個であり、差異であり、特異性であり、一般的な救済はないのである。そこを忘れて、一般的な救済を求めて、宗教へと向かうのは、誤りである。それは、認識的誤謬である。ただ「私だけの」神がいるだけである。この意味で、神は唯一神である。そして、唯一神が多数・複数存することになるだろう。しかしながら、結局、この多数・複数の唯一神が、共鳴化すると言えよう。
 言い換えると、特異性唯一神(複数)が共鳴する新多神教が生じるだろう。特異性としての神。それは、信仰の対象ではなく、心的現象化するのである。ヌミノーゼである。原神。原宗教。だから、正しくは、特異性としての原神(ヌミノーゼ)である。そして、これが、超越エネルギーである。
 だから、簡潔に、超越エネルギー(ヌミノーゼ)を対象とする哲学として、イデア論があると言えるだろう。超越エネルギーを神として、普遍化したのが宗教である。しかし、PS理論は、それをイデア論化するのである。知性化するのである。だから、トランス宗教・脱宗教の立場である。
 
p.s. 精緻に言えば、個・差異・特異性の「神」とは、内的に深化して、差異共振エネルギー(超越エネルギー)へと発達するだろう。ここにおいて、多数・複数の「単独神」は、普遍共通的(キルケゴールの普遍という意味ではなく)になると言えよう。特異性が普遍性へと発展するのである。そう、この特異性に基づく普遍性とは、一般的普遍性ではなく、超越的普遍性である。ここがキー・ポイントである。
 そして、この超越的普遍性こそ、超越エネルギーであり、イデアである。これが、一神教の根因であろう。原一神教である。ヤハウェは、これを連続化・同一性化したものだろう。
 ならば、エローヒーム(神の複数)とは何だろうか。多神教の名残なのか。今の私の解釈として、それは、差異共振性の「太極」を意味するように思う。陰陽論的多様性ないしは多元性である。
 想像するに、三柱の神とエローヒームは通じるのではないだろうか。ある神社にダビデの星のシンボルがあるということであるが、それは、考えられる。ダビデの星とは、正に、陰陽(太極)性を意味すると考えられるからである。
 とまれ、ついでながら、やはり、一神教はMedia Pointの陽化であると思う。陽化の神がヤハウェであり、Media Pointはエローヒームなのだろう。そして、必然的に陰化があるだろう。それが、イエス・キリストの意味かもしれない。ここで思考実験であるが、ヤハウェが+iならば、キリストは-iではないだろうか。しかし、両者はそれぞれ、極限である。あるいは、極性である。両極である。
 これを一元化するのは、誤りである。父と子は極性である。陰陽である。そして、両者の調和があるだろう。それが聖霊だろう。それが、Media Pointであろう。調和の霊としての聖霊、Media Pointである。(参照:ヴィヴァルディの『調和の霊感』)
 どうも、父と子の対極性とは、父権原理だと思う。それに対して、聖霊は母権原理だと思う。差異共振原理である。
 どうも、今日、これが発現していると思えるのである。父の原理が自由主義で、子の原理が民主主義ではないのか。聖霊が差異共振原理なのである。ヨアキム主義、聖霊の時代である。
 先に、自由主義も民主主義も個人主義も多神教原理に基盤があると言ったが、自由主義や個人主義は一神教原理に拠るだろうし、民主主義は多神教原理であろう。
 (脱線を続けるが、)今日、両者が衝突しているのである。新自由主義と共同体主義の衝突である。
 結局、調和として、差異共振原理が生起するのである。これは、自由主義(一神教)と民主主義(多神教)の超越的調和を意味する。Media Point原理である。トランス・モダン原理である。


2008年03月23日(Sun)▲ページの先頭へ
東洋の「全体主義」と西洋の「個人主義」:東洋の母権統合型父権一元論と西洋の母権/父権の平行二元論
東洋の「全体主義」と西洋の「個人主義」:東洋の母権統合型父権一元論と西洋の母権/父権の平行二元論

テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義

それぞれ、括弧に括らないと、正に、西洋中心主義ないしはオリエンタリズムになってしまう問題であるのだが、本稿のテーマは、どうして、チャイナに共産党があり、北朝鮮に独裁国家があり、また、日本は、戦後「一党独裁主義」であるのはどうしてなのか、また、西洋は独裁主義を排して個人主義を保っているのはどうしてなのか、である。
 しかしながら、後者の問題は、もはや問題ではないだろう。ブッシュ政権は一種の全体主義と見られるからである。ネオコン的全体主義である。
 だから、問題は、前者の東洋の問題である。近代西欧・米国は周知のように絶対主義政権に対して、自由主義・民主主義・個人主義を標榜して、今日の脱全体主義的社会を形成したとはいちおう言えよう。
 (ここにレーニン主義の問題があるが、それは、いちおう置いておきたい。)
 私は今、作業仮説をもっている。即ち、西欧文化は、母権多神教と父権一神教が平行している文化であり、自由主義・民主主義・個人主義は、母権多神教を基盤にして生まれているのであり、その表現として、父権一神教的形態をとっているのではないのか、というものである。これは、これまで、プロテスタンティズムはルネサンスを包摂否定しているという考え方とは別の考え方である。
 そして、それと呼応して、東洋は母権的多神教が父権的一神教ないしは父権的共同体主義に包摂否定されているのではないのか、ということである。つまり、西欧文化というより、西洋文化は母権多神教と父権多神教の二重構造をもち、前者を母胎として、後者の形態(同一性主義)をとって、自由主義・民主主義・個人主義が生まれたのであり、東洋文化の場合、母権統合的父権主義であり、それが、近代化に際して、父権主義的連続的同一性が主動的になり、内なる母権多神教のもつMedia Pointが連続化して、全体主義化したのではないのか、というものである。簡約すれば、西洋は母権と父権の二元論であり、東洋は母権的父権性の一元論であるということになる。
 しかしながら、今日、西洋は、両者の混淆様態にあり、また、父権的意識によって、ポスト・モダンとトランス・モダンの中間態にあるのではないだろうか。
 それに対して、東洋(日本)は、ポスト・モダンを経験したが、父権主義を突破できずに、また、近代主義へと反動化してしまったのではないだろうか。それが、政治的には、小泉・安倍・福田路線ではないだろうか。
 しかしながら、今日、現代(2008年3月23日日曜現在)、内的な母権性、すなわち、Media Pointが開かれているのではないだろうか。プラトニック・シナジー理論は、日本で生まれた理論であり、西洋と東洋の統一の理論であるが、それは、思うに、母権統合的父権主義という一元論の内部に生まれた理論であり、いわば、内的な突破であり、端的に、母権統合的父権主義の乗り越え、つまり、現代的父権主義の乗り越えの意味があるのではないだろうか。つまり、トランス父権主義であり、新母権主義であると考えられるのである。
 西洋は近代においては、確かに、自由主義・民主主義・個人主義という積極的価値観を獲得したものの、父権主義と母権主義の平行的混淆様態のために、ポスト・モダンで行き詰まり、トランス・モダンへと転移できないのではないだろうか。それが、例えば、現在のサブプライムローン問題の金融問題を起しているのではないだろうか。
 しかしながら、アメリカ大統領選挙候補者予選において、オバマ氏の政治理念がトランス・モダンと考えられるので、欧米においても、トランス・モダン化の胎動していると見ることができよう。
 日本においては、父権的共同体的全体主義がなってしまっているのである。もっとも、内なるトランス・モダンは少数者に胎動しているのである。思うに、西洋の場合は、混淆になりやすいが、東洋の場合は、一元論のために、純粋トランス・モダンになるように思えるのである。
 とまれ、本テーマの作業仮説はいちおう結論は出たことになる。

********************

モーリス・ブランショの共同体論:ポスト・モダンとトランス・モダンの境界の動き

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

目覚まし時計をセットした時間よりもかなり早く目が覚めてしまい、起床することにして、手元にあった本が以下のブランショの『明かしえぬ共同体』であり、数ページ読んでみたが、先に言及したジャン=リュック・ナンシーの共同体論(私が読んだのは『共同ー体(コルプス)』であり、ブランショが言及しているのは、私が未読の『無為の共同体』であるが、共同体論では通じているだろう)に言及して、ブランショが共同体論を論じているのであり、バタイユを取りあげている。
 ブランショの論は何か古典的な内容で私を魅するのである。言い換えると、懐かしい議論なのである。つまり、特異性(個)と共同体の矛盾と関連性(一種、「絶対矛盾的自己同一」)を語りだしているからである。実にこの問題は、不連続的差異論で解明し、さらにプラトニック・シナジー理論で徹底的に解明されたのである。
 ブランショの議論は、ポスト・モダンの中に胎動するトランス・モダンを周辺に展開するように思えるのである。ポスト・モダンにあって、トランス・モダンである、それまでの共同体ではない共同体を語りだしていると思われるのである。以下の一節はポスト・モダンの限界があるように思える。

「個人はおのれを宣明するとき、譲渡不可能な諸権利を身に帯び、おのれ以外に起源をもつことを拒否し、彼同様の一個人ではないような他者に対する依存関係のすべてに無関心な者として現われるが、その彼同様の一個人とは、過去においてであれ未来においてであれ際限なく反復された彼自身なのであるーーこうして個人は、死すべき者であると同時に不死の者として己を宣明する。」 p.012(赤色文字強調renshiに拠る)

共産主義と共同体の問題に関連してブランショは述べているのであるが、赤い文字で私が強調した「反復された彼自身」に問題があるように思える。あるいは、「個人」に問題があるのであるが、そのとき、特異性は、不連続性や差異共振性を帯びずに、連続性ないしは同一性を帯びたままではないのか、という疑問があるのである。
 これは、不連続的差異論が生まれる前、私が悩んだ問題である、というか、ポスト・モダン理論の核心にある問題なのである。つまり、特異性のもつ不連続性と連続性との問題であり、ブランショ自身、不連続性と連続性の混淆にまだ囚われていると思われるのである。だから、ブランショはポスト・モダン的であり、トランス・モダンへ向けて思考していると言えそうである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が明らかにしたことは、特異性に基づく他者との共振(共鳴)性があり、それが、従来の連続的な、ないしは、同一性的な共同体とはまったく異質なものであり、未来的なものであり、トランス・モダンと呼ばれるべきものなのであるということである。
 私はブランショの考察を少し読んで、共同体という言葉を以前、少し用いた共振体という造語にしたらどうかと思ったのである。あるいは、共鳴体でもいいだろう。ただし、社会性が見えにくい嫌いはあるのである。だから、丁寧に言えば、差異共振共同体(差異共鳴共同体)ないしは差異共振社会体(差異共鳴社会体)と言うことになるだろう。
 思うに、あえて言えば、プラトニック・シナジー理論はこれまでの哲学を古典にしてしまったのである。

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) (文庫)
モーリス ブランショ (著), Maurice Blanchot (原著), 西谷 修 (翻訳)

モーリス・ブランショ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot, 1907年 9月22日 - 2003年 2月20日 )はフランス の作家 ・批評家 。通称“顔の無い作家”。ストラスブール 大学卒業。戦前のポール・ヴァレリー に比せられる戦後最大のフランスの文芸批評家であるという評価が定着している。

******************

素粒子のスピンの図からプラトニック・シナジー理論の1/4回転と関係しそうだと直感した。

テーマ:相対性理論/量子論

素粒子と物理法則―窮極の物理法則を求めて (ちくま学芸文庫) (文庫)
リチャード・P. ファインマン (著), スティーブン ワインバーグ (著), Richard P. Feynman (原著), Steven Weinberg (原著), 小林 〓郎 (翻訳)

ちらと見たが、素粒子のスピンの図からプラトニック・シナジー理論の1/4回転と関係しそうだと直感した。
 以下、カスタマーレビューから。

*******************

5つ星のうち 4.0 「第1回ディラック記念講演」(1986年)の講演記録、物理屋の姿勢が窺える, 2006/10/24
By ゴルゴ十三 "じゅうそう" (Japan) - レビューをすべて見る
(TOP 100 REVIEWER)
本書は1990年に発刊された単行本を文庫化したものですが、訳注や文庫版あとがきが良くできています。「文庫版あとがき」が理解出来るレベルの読者なら「物理を深く理解する姿勢」を両博士の講演から楽しめるでしょう。(ファインマン先生の講演ではファインマン図/光円錐が出てきますので、この意味が分からないとつらいかも?)
ファインマン先生の講演では、(1)粒子が正エネルギーしか取らないとすると、粒子が光円錐の外へ因果律を破って伝播するのを避けられず、その粒子を別の座標から眺めると反粒子(=時間的に逆行する粒子)として認識されること、(2)ある事象の起きる全確率=1を良く見直すと、反粒子の存在と対発生のために生じる余分な図形がスピンを持たない粒子に対してボーズ統計が成り立つことを意味し、同じことをフェルミオンに対して考えると、粒子の入れ替えについて負符号が現れること(フェルミ統計)、(3)2回時間反転すること=360°回転は同じで、これがスピンと統計の間の関係やパウリの排他律を与えること、の3点を主に説明されています。モノポールに関する言及もあり、ディラックの業績を意識した内容です。
ワインバーグ先生の講演では、量子電気力学とその一般化(統一理論)に伴う困難(e.g.発散の問題)、量子重力も扱えそうな期待株としての超弦理論について一般的な解説がなされています。現在も超弦理論について同じ期待を寄せているかどうか、興味があるところですが。



2008年03月12日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:プラトニック・シナジー的ガウス平面における空間構成について
1)先に、「+iが左脳で、-iが右脳ではとふと思った。そして、+1で平面を形成する。すると、Z軸が奥行きになるのか。」と述べたが、これからさらに発展させて推測すると、+1が垂直の上方向であり、-1が垂直の下方向ではないだろうか。本来の垂直性は、ガウス平面の虚軸に存するが、1/4回転によって、それが水平化し、実軸化するのであるが、そのとき、+1が現象における垂直線の上の方向であり、-1が下、鉛直線方向ではないだろうか。伝統文化的に言うと、天が+1であり、地が-1ではないのか。そして、これは二元的天地創造を意味するだろう。つまり、父権的二項対立である。
 とまれ、思考実験的に、実軸を現象における垂直線とすると、虚軸は、左右の線になるのかもしれない。だから、ガウス平面が、視覚の根源的平面(不連続的差異論のときに考えたメディア平面)ではないのか。そうならば、奥行きは、やはり、ガウス平面に直交するZ軸になるのではないのか。それで、3次元現象空間が出現するのではないのか。ならば、時間次元はどうなるのか。これは微妙であるが、Z軸が時間次元ではないだろうか。つまり、奥行き次元と時間次元が重なっているのではないだろうか。(もっとも、以前、このことを考えたことはあるが。)
 さて、文化論的な考察を続けると、1/4回転で父権的二項対立が成立すると仮説したが、それは当然、父権的一神教文化である。その二元論的ヒエラルキーであるが、それは、天地が切断されているのである。天が超越神化しているのである。「天にましますわれらが父よ」である。この超越神はどう捉えられるのか。これは、先に述べたように、本来虚軸次元である。この虚軸次元が1/4回転による水平化によって、不可視化しているのである。一種、空無になっていると思われる。しかしながら、1/4回転・水平化をもたらすエネルギーの根源として、虚軸次元が意識されて、超越神・天・父となるのではないだろうか。一種痕跡である。この虚軸の痕跡としての超越神と実軸の+1が結びつくのであろう。父権的自我の成立である。そして、否定された多神教・自然宗教・母権文化・「異教」であるが、それは、-1ではないのかということである。天・父=+1の否定としての地・母=-1である。
 では、二元論的分離の亀裂はどう説明できるのか。それは、やはり、超越神のもつ超越性である。その超越性が二元論の亀裂を規定しているのである。いわば、超越性への引き上げの志向性である。「我在り」である。それが、-1を否定するのである。しかし、その父権的な超越性の「力」であるが、それはどう説明できるだろうか。
 これは既述済みである。Media Pointからの同一性志向エネルギーが同一性自己=自我(+1)を発生させるのであるから、超越神の超越性の力とは、このMedia Pointにおける同一性志向エネルギーである。そう、正に、⇒+1の「力」である。しかしながら、注意すべきは、⇒の左辺はこの場合、差異共振エネルギーではなく、同一性志向エネルギーであることである。これが、父権一神教力学である。言い換えると、1/4回転力学である。このエネルギー・力が父権的二元論・二項対立を規定しているということである。
 言い換えると、⇒+1へのエネルギー=力が-1との関係を引き裂き、絶対的亀裂・溝をつくっているということになる。これで、父権的二元論・二項対立の成立の力学を説明できたと考えられる。わかりやすく言えば、+1と-1が父権的二元論・二項対立を意味すると考えられる。文化史的に言えば、先に述べたように、-1の地・母が貶められたのである。これは、哲学的には、身体性であろう。あるいは、「差異」である。【この「差異」はポスト・モダンの差異であり、連続的差異である。初期デリダの差延であるが、それは、+1と-1との混淆様態を意味しているだろう。そして、そして、「差異」と同一性との中心点として、ゼロ・ポイントが考えられるのだろう。これは、構造主義とポスト・モダンに共通の中心点であろう。この点については後で検討したい。】
 しかしながら、この-1の地・母(大地母神)は、不正確な「母」である。本来の母は、太母・原母であり、(+i)*(-i)の差異共振性である。Media Pointのエネルギーである。【思うに、聖母マリア信仰であるが、それは、この点が混淆していると思われるのであるが、その点は後で検討したい。これは、日本の宗教にも関係すると思われる。】
 とまれ、以上のように考えると、認識論的に実に不思議な様態になっているのがわかる。+1は自我意識であり、-1が身体・物質である。しかしながら、+1自体が同一性=物質化なのである。この関係をどう考えたらいいだろうか。【西洋哲学において、形相と質料の関係があるが、この形相は+1であり、質料は-1と考えることができよう。】
 考えると、+1の視点が現象を観察するとき、現象が物質となるのである。だから、正確に言うと、物資とは、-1であろう。とにかく、+1の視点が主導的になって、物質-1を支配するのである。同一性主義が物質主義を生みだすのである。
 では、そのとき、現象界・自然とはどう位置づけられるのだろうか。プラトンの洞窟の比喩で言うなら、洞窟内の観客の視線が+1であり、洞窟内の壁のスクリーンに映る影像が現象・自然であり、-1であろう。つまり、現象・自然は-1であるということになるだろう。端的に物質化された現象・自然である。しかし、本体・イデア界は、虚軸次元であり、Media Pointが現象界とイデア界との接点・交叉点・媒介となっているのである。【洞窟の外部の太陽が、イデア界であろう。】 
 だから、Media Pointにおける同一性変換回路を介して、現象界においては、本体の虚軸次元・イデア界(超越的差異共振界)を、-1の物質現象界として見てしまうことになると言えよう。-1は、だから、仮象と言えるであろう。本体を同一性イマージュとして見るのである。確かに、幻像・幻燈に近いのである。インド哲学でマーヤー(まやかし)と呼んだのは、それなりに意味のあることである。
 ここで、量子力学の解明した世界観であるが、それは、-1の物質現象界を越えて、ゼロ・ポイントの世界を解明したと言えよう。否、それなりに、 Media Pointに到達しているのである。しかしながら、物質的世界観に染まっているために、そこを無限性と捉えてしまっているのである。既述済みではあるが、例えば、長距離相関の考え方にそれは見られるのである。Media Pointの高次元・超次元を考えられば、そのような「離れ業」を考える必要がないのである。
 虚軸次元の超越的差異共振エネルギーとして、量子・素粒子を把捉すれば、整合化するのである。そう、量子力学は、物質現象界を越えて、イデア界を探求している自然科学なのである。トランス唯物論化すれば、量子力学等の自然科学は大進化することになるだろう。今は、人類は、大進化の時期を迎えていると考えられるのである。明らかに、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明、ポスト唯物文明である。

2)精神と量子力学について:Media Pointにおける差異共振エネルギーと電磁波・量子・素粒子

3)自我がもつ一種マインド・コントロール的な理想自我像について:自我・同一性自己は、理想自我観念に同一性化して、差異共振性を抑圧否定して、自我自身のアイデンティティを保持するのである。

4)共立・共振・共生的調和を、一言で、共調という言葉を造語にして表現したらどうだろうか。差異共振は差異共調となる。それとも、共和にするのか。差異共和主義?

5)文学の死と再生:文学の近代主義であり、小説中心主義を乗り越えて、多元的な文学を取り戻すべきである。とりわけ、思想・哲学性を取り戻すべきである。また、庶民性・民衆性を取り戻すべきである。また、他の領域との共振性を目指すべきである(脱領域的共振主義)。講談、浪曲、清元、等々とも結ぶべきである。共結である。差異共結性である。そう、文人画、日本画、漢籍等々とも共結すべきである。脱文学近代主義である。トランス・モダン文学である。
 西洋文学で言うと、モダニズムを清算しないといけない。モダニズムは、いわば、モダンとポスト・モダンとトランス・モダンが混淆していたと考えられるのである。しかし、原トランス・モダンを抑圧否定するように活動したのである。例えば、T. S. エリオットやエズラ・パウンドである。ジョイスに問題があるだろう。私の直感では、ジョイスは、文学芸術の感性を破壊したのである。差異共振感性を否定するように、自我知観念を肥大化させたのである。これらについては、後で検討したい。

6)音楽の音色(おんしょく)・トーンにおける渋味とは何か:バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏であるが、マイナルディの演奏は渋味があって腑に落ちるのである。また、最近のヨーヨー・マの演奏にも渋味がある。渋味の味わいとは何か。
 それは絵画や美術で言うと何だろうか。なにか、差異共振性と関係するように思える。私はシャガールの絵画が、いわば、玉石混交だと思うが、いい絵画には、差異共振性があり、それは一種の渋味であると思う。あからさまではなく、表面を越えて、共振するエネルギーがあるのである。この表面を越えて共振するエネルギーが渋味ではないのか。後でさらに検討したい。

7)芸術鑑賞における感受性の流動性について:例えば、バッハのミサ曲ロ短調を聴くとき、いろいろな名演があるが、聴き手の感受性の様態によって、印象が異なるのである。叙情性豊かな演奏Aは、聴き手の感受性が叙情的なものを欲しているときは、よく聴こえ、構築的な演奏Bは、その時の聴き手には、印象が乏しかったり、つまらかったりするだろう。感受性のゆらぎがあるのである。これは、思うに、感受性のMedia Pointの共振的振動のゆらぎ様態で説明できないか。 

8)私にとって、モーツァルト音楽は、意味がなくなってしまったが、これはどういうことなのか。昔は人並みによく聴いたが、今は聴いても興趣をおぼえないのである。確かに、レクイエムがすばらしいと思うが、いいと思うのはこれくらいである。
 なにか、感性の変化があると思うのである。単に私だけでなく、根本的な感性の変化があるのではないだろうか。私はバッハ音楽を聴き、また、70年代初期の洋楽ポピュラー音楽の精神性を説き、また、最近、ポピュラー音楽に叙情性がもどってきたと述べたりしたが、そう考えると、やはり、世界に超越エネルギーが強化されているように思えるのである。コスモスの変化ではないだろうか。

p.s. バッハ音楽は東洋的である。つまり、東洋精神が復活していると考えられるのである。宇宙的にMedia Pointが開きだしたのである。天の岩戸の開扉である。天照大神の復活である。


2008年03月08日(Sat)▲ページの先頭へ
一神教/自我力学再論:差異に対する憎悪について:内的な差異共振性=他者の抑圧否定が、外的な差異共
一神教/自我力学再論:差異に対する憎悪について:内的な差異共振性=他者の抑圧否定が、外的な差異共振性=他者の抑圧否定=憎悪・攻撃をもたらす

自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、一神教力学をこれまで見てきて、左辺を内包的に、抑圧否定する同一性自己(自我)の形成を考えた。この同一性自己=自我の基盤の鏡像(反射像・理想像)は、超越神=唯一神の像である。(しかし、この像は、いわば、精神的像であり、不可視である。この点については後で検討。)
 この力学の注意点は、左辺の差異共振性を否定して、そこに超越神を生起させることである。差異共振性は、虚軸と実軸の即非性をもち、超越的・即非・内在的であるが、超越神は、その内在性を否定して、超越性だけを帯びると考えられる。この点は既述したことである。
 問題点は、左辺の否定のもつ憎悪・ルサンチマン(嫉妬深さ)のもつ意識構造の意味である。これについて再考したいのである。
 形成された自我=同一性自己は、超越神に、おそらく、類する力forceをもち、抑圧的に否定された差異共振性(他者)に対して、優位性を志向すると考えられる。優位性をもつというよりは、優位・優越衝動をもつのである。差異共振性=他者を劣位に置かんとする自我(同一性自己)優位・優越衝動であり、差異共振性=他者に対する攻撃衝動をもっているのである。
 この場合、攻撃とは、物理的、精神的暴力(傲慢さ・倨傲さ等)をもつと考えられる。ユダヤ・キリスト教西洋文明の攻撃性はこれで説明できると考えられる。
 問題は、この優位・優越志向攻撃衝動の発生のあり方である。内的に、差異共振性=他者を抑圧否定しているので、当然、外的な差異共振性=他者を攻撃することになると考えられる。何故なら、外的な差異共振性=他者は、自我・同一性自己に対して、内的に抑圧否定している差異共振性=他者を、エネルギー的に刺激して賦活・活性化させるのであり、それに対して、自我・同一性自己は、不快感・不機嫌・不愉快・嫌悪・憎悪等を覚えるのであり、それが原因で、反動的に攻撃衝動が発生することになるからである。
 つまり、言い換えると、内的な、差異共振性=他者の抑圧否定の力forceが、外的な差異共振性=他者を抑圧否定するために、攻撃衝動となると考えられるのである。衝動であるから、非合理的である。言い換えると、同一性知性による差異に対する非合理的な攻撃性である。【そして、この自我・同一性自己が近代合理性という物質的同一性知を得て、近代的自我となるのである。持論である近代的自我=狂気説はこれでも完全に説明できるのである。】
 結局、自我・同一性自己は、力forceで形成されたのであり、本質的に暴力・攻撃的であり、衝動的なのである。(唯一神=ヤハウェ的)父権的暴力衝動と言っていいだろうし、これが拡大したのが国家暴力=戦争であると考えられる。
 とまれ、近代的自我=狂気説であるが、今日、トランス・モダンへの移行期であるポスト・モダンにあっては、近代的自我=狂気は精神病理化すると考えられるのであるし、そのことをこれまで何度も述べてきたが、ここで繰り返して言うと、今日、ポスト・モダンにあって、近代的自我を規制していた同一性主義の枠組みが緩み始めていて、抑圧否定していた内的な差異共振性=他者のエネルギーが積極的に発動するようになり、そのために、それを摂取できない近代的自我は、それをさらに抑圧否定しようとするのであるが、これは、いわば、盛期近代と異なり、差異共振性=他者のエネルギーが賦活されているので、それを抑圧否定しようとする近代的自我は、制御不可能の事態に陥っているのであり、そのため、発動する差異共振性=他者のエネルギー(超越・高次元エネルギー=聖なるエネルギー)が、近代的自我の非合理性を過剰にし、不安定化させるのであり、つまり、精神病理化をもたらすと考えられるのである。
 簡単に言うと、近代的自我の力と差異共振性=他者のエネルギーの分裂化が生起すると考えられるのである。これが、うつ病となったり、パラノイアとなったり、統合失調症(「分裂症」)等を引き起こす根本的な精神的事象であると考えられる。【p.s.  もう少し説明すると、今日のポスト・モダン期において、差異共振性=他者のエネルギーに対して、近代的自我は本来の攻撃衝動だけでなく、賦活された差異共振性=他者のエネルギーへの反動性をもつので、非合理な攻撃衝動と差異共振性=他者のエネルギーへの反動が混淆した狂気、いわば、複合的狂気をもつと考えられるのである。非合理な攻撃衝動狂気と超越的エネルギーの反動狂気の複合した二重狂気である。これは、簡単な言葉で名づけるのが難しいポスト・モダン狂気である。いちおう、反動超越的狂気とでも名づけておこうか。p.p.s. 痙攣的狂気とも言えよう。】
 少し補足すると、差異共振性=他者のエネルギーにさらされた近代的自我であるが、それは不安や恐怖等を感じると考えられる。未知の力にひたされているのである。問題は、この未知のエネルギーを摂取する方法である。自己転換の方法である。これについては、本来、東洋思想は蓄積があるのである。例えば、禅は、この練達の方法、精神・身体技術である。
 しかし、今日、科学・技術の進展した時代においては、この問題はどうなのだろうか。トランス・モダン化が必然となっているので、避けては通れない問題である。とにかく、東洋の修行的宗教思想は、この点で効果的であると考えられるが、知的にはどうなのだろうかという点がある。
 やはり、イデア論が決定的だと思う。イデア界を想定することで、差異共振性=他者のエネルギーを知的に取り込むことが可能になると考えられるのである。この点については、以前触れたことがあるが、重要な問題なので、ここでも述べてみたい。
 イデア的知を想定することで、心は、そこにおける差異共振性=他者のエネルギーを衝動ではなく、観念的に取り込むことが可能になると思われるのであるが、その理由は何であろうか。
 これは、心・観念の力学の問題であるが、心・観念において、衝動・情動が生じると考えられるのである。しかしながら、身体との関連はどうなのかという問題もある。つまり、衝動・情動とは、単に心的だけでなく、身体的でもあるのではないのか、ということである。問題は、エネルギーである。Media Point の差異共振エネルギーの問題である。これまでの考えでは、魂=身体である。あるいは、心=身体である。だから、衝動・情動は、心・観念=身体の問題であるということになるのである。(私がいう身体とは、単に物質的身体ではなくて、知と存在の共振によって発生する心身体である。)
 さて、イデア的知を想定することによって、超越エネルギーは、知性的に把捉されると思われるのである。この知的把捉とはいったい何だろうか。それは、端的に言えば、Media Point と結びついた知性の形成を意味するのではないだろうか。つまり、これまで、知性は、一般には、同一性知性であったが、その知性に超越エネルギーを捕捉する知を加えることではないだろうか。これは、エネルギーの知的捕捉と考えられる。エネルギーの知的蓄積である。
 では、このイデア的知性はどういう意味をもつのだろうか。それは、当然、差異共振知性である。つまり、同一性を包摂した差異共振知性の形成を意味すると思えるのである。あるいは、同一性知性を包摂した超越知性の形成である。思うに、Media Point Intelligenceと呼ぶことができると思う。これこそ、プラトニック・シナジー理論のもたらす知性、プラトニック・シナジー知性である。これは、カントが認識不可能と考えた物自体の知性でもあると考えられるのである。とまれ、これで、イデア的知性の意味を説明したこととしよう。
 因みに、一神教のもたらした積極的意義を考えるならば、それは、純粋に超越的次元を形成したことだろう。虚軸の次元を形成したと考えられるのである。多神教の場合は、Media Point を保持するが、同一性化=世俗化によって、超越的次元を喪失しやすいと言えるのかもしれない。


2007年12月30日(Sun)▲ページの先頭へ
視覚と物質主義との関係:視覚の同一性化と差異の視覚の否定
私の経験から言うと、視覚世界に対して、近代科学は、物質界であると説明する。そのため、意識において、視覚現象界は物質界であると刷り込まれる。それに対して、内面においては、想像世界が広がる。視覚現象界は物質界(唯物世界)であり、内面世界は想像世界の二律背反が生起する。これが、近代主義による心の分裂である。
 内面世界を重視した世界観として、ロマン主義等があるが、結局、資本主義の世界は、視覚現象界=物質界ということが基盤となり、近代科学/技術をもって、進展した。結局、物質性=同一性=近代合理主義が中心化された。
 近代合理主義は明らかに、心を硬直・冷暗(暗黒)化するものである。そして、現代日本はこれに徹底的に染められている。
 明らかに、矛盾・分裂の原点は、視覚現象界を物質界と限定したことにあるだろう。(フッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でこれを問題にした。)正確に言うと、物質界が数量化されるものとしたことにある。ここで、物質の数量的同一性が支配的になったのである。そして、視覚の心が数量的同一性化されたのである。
 丁寧に見ると、視覚の心は本来、差異共振性ないしは差異であるが、これが同一性志向性をもち、自己否定的になる。もっとも、差異共振性ないしは差異は潜在している。この視覚の心の同一性志向性と物質数量性が結びつくのである。その結果、視覚現象界は物質主義的世界と見なされるのである。
 排除された差異共振性・差異は、芸術や宗教等に表現されることになるが、物質世界と心的世界は分裂したままである。これは、モダンの矛盾状況であるが、これが、ポスト・モダンの基盤となる。
 とまれ、資本主義の発達とともに、心的世界は阻害されて、物質数量同一性主義(近代合理主義/唯物論/近代的自我)が中心化される。人間の機械化、ロボット化、家畜化である。
 本来の視覚の心の差異の光が翳り、同一性の暗い光が支配するのである。そう、近代を支配しているのは、暗黒の光である。本来の光が抑圧されているのである。
 もっとも、同一性の光から差異の真光を見ると、めくらんで、それが、闇や無に見えてしまうのである。三島の無がそうであると思われるし、D.H.ロレンスの闇もそうであろう。(ハイデガーの無とは、同一性が差異にぶつかったときの壁の無であるから、差異の無ではない。)ここに近代の悲劇があるのである。物質的同一性(近代合理主義/唯物科学)が刷り込まれているので、差異の光、心の光が見えないのである。
 これで、物質界としての視覚現象界の形成が説明できただろう。差異ないしは差異共振性としての視覚現象界が排除されているのである。同一性の光(闇の光)だけを見て、本源である差異(差異共振性)の光、心の光を否定しているのである。同一性主義(同一性霊=アーリマン)が憑依しているのである。日本においては、とりわけ、東京において、アメリカ権力の同一性霊が取り憑いているように思える。また、マスコミに憑依している。マスコミは悪霊が憑依しているのである。除霊するには、心の光を取り戻す必要がある。そして、根本的には、差異共振社会を構築する必要があると言えよう。

p.s. フッサールの生活世界とは、差異共振性を基礎とする共同体のことであろう。差異共振生活共同体である。
 
参照1:

フッサール は実証科学が着々と成果を挙げていることを認めた上で、しかし「学問に対する一般的な評価の転換」が現れたという。それは

「学問の学問性にかかわるものではなく、むしろ学問一般が、人間の生存にとってなにを意味してきたか、またなにを意味することができるか、という点にかかわる」という。

一九世紀の後半には、近代人の世界観全体が、もっぱら実証科学によって徹底的に規定され、また実証科学に負う「繁栄」によって徹底的に眩惑されていたが、その徹底性たるや、真の人間性にとって決定的な意味をもつ問題から無関心に眼をそらさせるほどのものであった。単なる事実学は、単なる事実人をしかつくら ない。このような傾向に対する一般的な評価の転換は、特に〔第一次大〕戦後避けることのできないものとなったが、われわれも知るように、それが若い世代のうちに、次第にこのような傾向に対する敵意に満ちた気分を惹き起こすまでになった。この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれないということを、われわれはよく耳にする。(p20)

事実学の「このような傾向に対する敵意に満ちた気分」は、老フッサール 自身のものではないだろう。彼はそれが「若い世代のうちに」惹起しているのを知った。そして「この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれない」という不満を耳にしたのである。

フッサール は、その気分に同調したり、その不満に直接応えようとしたりするわけではない。ただ、次の点を指摘する。

この学問は、この不幸な時代にあって、運命的な転回にゆだねられている人間にとっての焦眉の問題を原理的に排除してしまうのだ。その問題というのは、この人間の生存に意味があるのか、それともないのかという問いである。

実証科学といえば、まず第一に自然科学 のことだけれども、事情は「歴史性の地平における人間を考察する精神諸科学」、歴史学 に代表される人文諸科学についても同じである。
http://d.hatena.ne.jp/
t-hirosaka/20071125/1196005590
恐妻家の献立表
参照2:
$1415 フッサールの「諸学の危機」と相対性理論 「今日どんな本をよみましたか? (112700)」
[ 社会と哲学 ]
以前のこのブログ で、フッサールは、彼が現象学を深めた時期に大論争を呼んだ相対性理論について何も言及していない、ということを書きました。本日はまずこの点につきまして、訂正いたします。

実は、西研氏の哲学的思考 を読む限り、危機とされる「諸学」が何であるかという点について判然といたしません。そこで、「ヨーロッパ諸学の危機」を読み返してみました。そうしたら、なんと頭の部分に書いてありますね。つまり、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機」というテーマに取り組んだ契機の一つには、長い間絶対的な真実である信じられてきた、ガリレオ、ニュートンの打ちたてた物理学が、プランクやアインシュタインによって否定されたことがあった、というわけです。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 ですが、最近では中公文庫から出ております、お値段税別1,190円のお買い得なのですが、ここでは手持ちの「世界の名著」から細谷恒夫訳で引用することといたします。

学問一般といえば、その中には、厳密な、そして最も成果ある学問性の模範として、我々が驚嘆してやまない純粋数学や精密自然科学も含まれるわけであるが、それらの学の危機を語ることなどどうしてできようか。たしかにこれらの学も、その理論体系と方法論全体に関して変わりうるものであることが示されている。現にこの点に関しては、古典物理学の名称のもとで硬直しようとしていた様式、いわゆる古典的完成として数千年のあいだ保持されてきた様式が、ごく最近破られることになった。しかし、古典物理学の理想に対抗して勝ちとった勝利や、純粋数学の意味深く純粋な構成形式をめぐる現在進行中の論争は、従来の物理学や数学がまだ学的でなかったとか、また、それらの学がある種の不明確さやあいまいさにつきまとわれていたとはいえ、その研究の領域においては明証的な洞察を得ていなかった、とかいうことを意味するのであろうか。

と、いうわけで「ヨーロッパ諸学の危機」はニュートン力学崩壊の現場に居合わせたフッサールが、自然科学の基礎付けと、古い論理の価値の再確認を目指して行った講演と、それをもとにした著作であった、と考えるのが妥当ではないかと思います。
http://plaza.rakuten.co.jp/
neuron/diary/200608130000/
ニューロンとワイヤの狭間から




2007年12月25日(Tue)▲ページの先頭へ
ユダヤ・キリスト教の父なる神ヤハウェは太母を排斥した:最勝超至高プラトニック・シナジー理論
後で詳述する予定だが、創世記に書かれているヤハウェが排斥したバアル崇拝やアシェラ崇拝は、古代中近東の「異教」・女神信仰・太母宗教であったのであるが、その排斥は他の東洋の宗教、世界の土着的な宗教を否定することになったのである。ここにオリエンタリズム等の西洋中心主義の土台が築かれたと言えよう。ここに西洋文明の諸悪の根源があると言わざるをえないだろう。これは、西洋神話の聖ジョージの龍殺しと通じるのである。龍とは端的に、太母・大女神である。東洋はこれを肯定してきたのである。正反対の文明が生じたわけである。
 これまで、考察したように、キリスト教は、ユダヤ教が否定した太母・大女神宗教の一部を取り入れた、それをユダヤ教的父の神の支配においたのである。太母の息子の一人のイエスは、父の独り子とされたのである。カトリックはいわば、この進展であるが、父のヒエラルキーを残したままの折衷宗教である。
 結局、ユダヤ・キリスト教は世界普遍的な太母・大女神宗教を抹殺していったと言えるのである。それはとりもなおさず、西洋文明の世界支配を意味するのである。そして、今日、超貧富格差の世界固定化、自然の破局的破壊、心の破壊等を行なっているのである。
 しかしながら、今や、ユダヤ・キリスト教を形成した同一性エネルギーが枯渇して、差異エネルギーが賦活されていると考えられるのである。それは、排斥された太母・大女神宗教の復活を意味すると考えられるのである。ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明、すなわち、新「東洋」文明の黎明をむかえていると考えられる。
 プラトニック・シナジー理論が新しい文明を主導する理論となるだろう。

参考1:西洋文明が太母文明を抹殺する狂気・暴力については、D.H.ロレンスの名著の一つ『アメリカ古典文学研究』における、メルヴィルの『白鯨』におけるエイハブ船長が白鯨を偏執狂的に追跡する事態の解明に説明されていると言えよう。「白鯨」が太母文明であり、エイハブ船長が西洋文明である。エイハブ船長はアメリカ合衆国国家の象徴である。

参考2:

「やや要約的な言い方になりますが、アメリカに来てからも彼は、すべてを大脳の管理下に置き、「意識化」することを善であるとするヨーロッパ文明の人間中心主義、ヨーロッパ独善主義を徹底的に批判し続けたのです。その批判の代表的な一例として、『アメリカ古典文学研究』におけるメルヴィルの『白鯨』の解釈があります。強固な大脳意識と強烈な支配欲に取り憑かれた白い人種の代表、エイハブ船長は黒い人種、黄色い人種、赤色の人種などを引き連れて「白鯨」を追いかけますが、彼らの船ピークォド号は「白鯨」によって打ち砕かれるのです。この「白鯨」を、ロレンスは、われわれ人間の「深奥にある血の本質」であると言っています。「血」とは、万物の中を流れる「命」であると考えれば分かりやすいかもしれません。そして最後にこの小説はすべての「命」をあくまで破壊し尽くし自分たちの意志の下に組み敷こうとする白い人種の終焉を予言する物語だと結論づけています。」
http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/
americas/files/newsltrs/23/special.html

アメリカと D. H. ロレンス

                   吉 村 宏 一


2007年11月09日(Fri)▲ページの先頭へ
同一性と差異の関係:自我と自己の連続化、不連続化、超越的共振化(虚軸化)
Media Pointにおける虚軸から実軸への変換について、新たに検討したい。
 虚軸から反時計回りに1/4回転したとき、虚軸のプラス、即ち、+iは、(+i)*(+i)⇒-1となり、虚軸のマイナス、即ち、-iは、(-i)*(+i)⇒+1となるのではないだろうか。
 前者を自我の形成、後者を自己(ないしは身体)の形成と考えられるのではないだろうか。そして、両者は併存しているのだろう。これまで、既述したように、自我-1は、自己+1を認識できない。いわば、自己+1は無意識である。意識である自我-1と無意識である自己+1が平行・併存しているということになろう。
 近代的自我とは、自我-1の徹底したもの、終極態(エンテレケイア)と考えられるが、問題は、それは、まったく、無意識の自己+1にブラインドであることである。つまり、有り体に言えば、自我と自己が分裂して、いわば、二重人格になっていることである。
 このブラインド(自己盲目)とは、自我-1が自己+1を否定していることに因るのである。これは、Media Pointを連続的同一性化が、言わば、覆っていることに因るとも言えよう。つまり、実軸の-1の領域においてのみ思考していることに因ると言えよう。換言すると、自我-1は、正に、同一性、連続的同一性であるために、Media Pointを認知できないということだろう。
 ここからは、思考実験であるが、反時計回りに1/4回転して、自我/自己が形成されるが、両者は平行したままである。しかし、さらに、反時計回りに1/4回転した場合を考えると、(-1)*(+i)⇒-i と、
(+1)*(+i)⇒+i が生起するのではないだろうか。それは、言わば、イデア界の倒立像である。しかしながら、自我-1が、-iとなるというのは、いわば、他者になるということではないだろうか。そして、自己+1が、+iになるのは、主体になるということでないだろうか。
 言い換えると、主体+iが客体-iとなり、客体-iが主体+iになるということではないだろうか。(主体、客体という言葉の使用は、暫定的である。)ここでは、いわば、差異体験が為されているということではないだろうか。そして、さらに、つまり、第三の反時計回りの1/4回転を考えると、(-i)*(+ i)⇒+1 (+i)*(+i)⇒-1 となるだろう。これで、主体は自己+1となり、そして、客体は自我-1となったということではないだろうか。これが、真の自己形成ではないだろうか。(この思考実験はここで留める。)

 次に、最初の反時計回りの1/4回転を固定して、さらに検討したい。ここにおいて、±1の意識/無意識の併存があるが、しかしながら、実際のところ、 (-1)・(+1)⇒-1、即ち、連続的同一性=自我に留まるのではないだろうか。この積は、構造主義を意味するのではないだろうか。自我-1は、自己+ 1を見いだしたとする。しかしながら、実軸のゼロ点を介して(つまり、Media Pointを介さずに)、自己+1を見いだしているので、(-1)×(+1)⇒-1になるのではないだろうか。そして、また、これが、ポスト・モダンの様態ではないだろうか。ドゥルーズの内在平面というものは、正に、この⇒-1ではないだろうか。
 つまり、実軸のゼロ点を見いだすが、それは、連続的なので、結局、自己+1が、自我-1に吸収されるように思えるのである。
 そう、より正確に言えば、構造主義は、実軸ゼロ点の発見、そして、ポスト・モダンはそれを介しての、自己+1の発見と言えよう。つまり、連続的自己の発見である。
 私の経験から言うと、実軸ゼロ点において、自己+1に留まるときに、つまり、自我-1と自己+1の平衡をとるとき、実軸ゼロ点は、虚軸ゼロ点に変容しうるのである。瞑想や禅は、この実軸ゼロ点から虚軸ゼロ点への変容、即ち、Media Pointの形成を志向していると言えるように考えられる。
 不連続的差異論は、Media Pointが不連続であることを発見したのである。これは、これで、大発見であると考えられる。ポスト・モダン理論を乗り越えることができたのであるから。そして、瞑想や禅の意味の一端を明晰にできたのであるから。
 そして、プラトニック・シナジー理論によって、Media Pointにおける虚軸の差異の即非共振様相を明確にできたのである。言い換えると、瞑想や禅の様相を明晰にできたと考えられるのである。これは、東洋哲学の創造的進展と考えられるし、東洋哲学と西洋哲学の融合・統一とも考えられるのである。もっとも、Kaisetsu氏の数学化によって、科学的合理化も可能になったのであるから、哲学と科学との融合・統一でもあるのである。
 とまれ、ポスト・モダン哲学とは、確かに、構造主義を乗り越えてはいるだろうが、しかしながら、連続性に束縛されていたのである。そう、身体的無意識+ 1を発見したが、それが、自我意識と連続化しているので、-1に帰結したのである。デリダの脱構築理論は、+1と-1との差延を発見したが、それの混淆(連続性)によって、+1を真に独立されることはできなかったと言えるのではないだろうか。言い換えると、初期デリダは、+1と-1との揺らぎの差延空間を説いたと考えられる。そして、この差延空間とは、ドゥルーズの内在平面と等価であると考えられるのである。ただ、違いは、デリダが揺らぎを強調したのに対して、ドゥルーズは連続性を強調した点にあろう。
 結局、連続性・同一性・近代的自我・近代合理主義=-1の強固な縛りに意識は支配されてきた(一種のマインド・コントロール)ので、Media Pointと超越的差異、超越的双極差異を発見できなかったと言えよう。言い換えると、西洋的自我が、強固に、支配的であったということである。フッサールは、それを乗り越えようとして、ほぼ、Media Pointを発見していた。しかしながら、それを同一性の視点で捉えてしまったのである。
 西洋哲学の不幸・限界は、東洋哲学が内包していたMedia Pointの発想をもっていなかったことにあるだろう。同一性中心主義(ロゴス中心主義)であるために、東洋哲学では基本的なMedia Pointの発想が欠落していたのであり、同一性中心主義を解体しようとしたポスト・モダン哲学も、それから脱却できなかったのである。(プラトン哲学は、西洋哲学の元祖でありながら、本質は東洋哲学であると考えられるのである。簡単に言えば、ディオニュソス、Media Pointの哲学であるということである。)
 そう、また、近代・現代日本の不幸は、自己の東洋的伝統を、欧米化によって、喪失したことである。西洋的近代的自我の発想に陥り、本来の東洋的日本的思想を否定してしまったのである。これは、とりわけ、敗戦後の占領政策、そして、洗脳された自民党、マスメディア、教育体制、そして知識人・文化人等に拠ると言える。
 今や、日本の危急存亡の時である。プラトニック・シナジー理論は、救国思想である。目覚めの理論である。宗主国米国からの独立の理論である。
 


2007年11月08日(Thu)▲ページの先頭へ
森田氏の二元論、二項対立論は、近代主義であり、今や、完全に古く、現代の政局は読めなくなっている
森田実氏の読みは、最近は大きくズレていると思う。森田氏の二元論、二項対立論は、近代主義であり、今や、完全に古くさいものであり、現代の政局を読むのは不可能である。プラトニック・シナジー理論でないと読めなくなっている。

*********************

2007.11.7(その3)
森田実の言わねばならぬ[715]

平和・自立・調和の日本をつくるために【510】
小沢一郎氏はどうして変節したのか崩壊寸前の福田内閣を助けた小沢氏の罪、浅からず

「恐怖感というものは実に無慈悲な感情で、人間の心をあらゆる感情や高尚な感情に対して麻痺させ冷淡にさせる」(ドストエフスー)








 小沢一郎氏はどうしてこのような無様な変節をしたのか多くの人から寄せられる疑問である。
 何人かの内外の政治分析家と意見交換したが、ほぼ一致した点があった。それは、小沢一郎氏の深層心理のなかにある「アメリカ恐怖症」の存在である。
 自公連立政権の政治家は、米国政府への忠誠を競い合っており、隷属の意識に慣れてしまっている。
 ところが、小沢氏は「アメリカにも言うべきことは言う」と格好よく行動してきた。この小沢氏のパフォーマンスが米国政府の虎の尾を踏んでしまい、米国政府を怒らせてしまったようである。このことを知らされた小沢一郎氏は震え上がり、米国政府を喜ばせる方向へ転向したという見方が広がっている。小沢一郎氏が、自民・民主大連立構想と自衛隊海外派遣基本法の制定(憲法解釈の偏向)に猛然と動き出した主原因はここにある、というである。
 だが、大連立をやれば民主党は崩壊する。他方、従米政権の自公連立政権は安泰になる。これによって尾を踏まれた「虎」(米国政府)の精神は平穏になる。
 小沢一郎氏には三つの誤算があった。
 一つは、国民が「小沢さんはおかしい」と感じていたことに気づかなかった。
 二つは、民主党議員が怒ったことに気づいていなかった。
 三つに、マスコミが小沢追及を始めたことに鈍感だった。
 マスコミは非情である。政府側の情報操作に徹底的に協力した新聞社もあった。小沢氏は辞任表明の記者会見でマスコミの情報操作を強く非難した。
 一例をあげる。11月4日付読売新聞朝刊1面トップの見出しは〈「大連立」小沢氏が提案〉〈「絶対党内まとめる」〉。なお、このことを小沢氏は事実無根だとして強く否定した。
 「読売記事」にはこう記されていた《小沢氏は「これで決める。(連立参加で)私が党内をまとめます」と明言。首相が「大丈夫ですか」と問いかけると、小沢氏は「絶対にまとめます」と重ねて強調した。》《そもそも、10月30日の最初の党首会談を持ちかけたのも小沢氏の側だった。》
 これが虚偽報道だとすると大変なことだが、とにかく小沢一郎氏は失敗した。民主党役員会は大連立拒否を決定した。小沢氏は福田首相に拒否を通知せざるを得なかった。小沢氏は政治的に敗北した。
 「読売記事」は、小沢氏の言うとおり、たちの悪い情報操作なのかもしれない。
 新聞は「風にそよぐ葦」である。「風」とは政治権力のこと。新聞は政治権力の手先の役割を果たしているのである。
 しかし、国民は小沢一郎氏の今回の“暗い”行動に強い不信感をもっている。小沢氏が否定したとしても、「読売記事」は信用されるだろう。
 多くの人が「小沢氏はなぜ、民主党を壊してまで福田内閣のために働こうとしたのだろうか」との疑問を抱くのは当然である。それゆえに、その原因が「アメリカの圧力」説と「アメリカ恐怖症」説にあるとの解説が説得力をもつのである。
 民主党はピンチである。民主党の全党員はいち早く「脱小沢」をなし遂げるべきである。そのために、一日も早く「ポスト小沢」の指導体制をつくり、再出発すべきである。
http://www.pluto.dti.ne.jp/%7Emor97512/C03831.HTML


2007年11月04日(Sun)▲ページの先頭へ
生命とは何ぞ哉:原生命としての超越的差異の振動と物質化された生命体:西洋医学と東洋医学の融合
生命とは何ぞ哉:原生命としての超越的差異の振動と物質化された生命体:西洋医学と東洋医学の融合

テーマ:生命科学/遺伝子問題

食事をされる方には、尾籠不躾で、申しわけない話であるが、最近、大腸の検査をしたので(幸い、ポリープ等何も異常はないということであった)、トイレに行って排泄すると、なにか人間の体が機械のように思えてくる。食料を口から入れて、胃腸等で消化吸収して、要らなくなったものを、肛門から排泄するというメカニズムがよく感じられるようになったからである。そう、人間の体はチューブであり、そのある一つの先端に食べ物を入れて、反対の先端から排泄物を出すというメカニズムである。
 機械としての人間の物質的身体という発想を強くもったのであるが、これは、お馴染の近代科学の機械論的物質的身体論である。物質主義的身体論である。しかしながら、この発想は物質主義という観点に限定するならば、ほぼ正しいだろうし、現代医療の多くは、この観点から成立しているのである。(最近は、漢方医療や代替医療が増加しているが。)
 とは言え、身体が物質的なものであるならば、身体を動かしている動力源、源泉は何かと思ったのである。例えば、心臓は何が動かしているのか。単に物質が動かしているか。遺伝子が動かしているのか。私の直感的仮説は、物質自体ならば、生命を営むことはできないだろう、何故なら、物質は、エントロピーを増加させるのであり、消滅へと単純に向かっていくと考えられるからである。
 そこで、私は、プラトニック・シナジー理論(PS理論)における、超越的差異、即ち、(+i)*(-i)、いわば、超越的双極差異が、生命の力の真の根源であり、この振動が、Media Pointを介して、物質的身体へのエネルギーとなり、物質的身体、すなわち、生命体を維持しているのではないのかと思った次第である。
 超越的双極差異(+i)*(-i)の振動は、Media Pointにおいて発生しているのであり、これが、(+i)*(-i)⇒±1を発生させているのである。⇒+1が本来の自己であり、⇒-1が自我、ないしは近代的自我であるが、物質的身体を考えると、それは、本来の自己と同じ形式から発生しているのではないだろうか。即ち、(+i)*(-i)⇒+1、これが、物質的身体の生命方程式ではないだろうか。(p.s.  ⇒-1が自我、近代的自我であるならば、これは、⇒+1の物質的身体を阻害するのではないだろうか。つまり、⇒ー1とは、差異、差異共振性という生命の原動力を否定するのであるから、当然、物質的身体を阻害するということになるだろう。ここで、霊的医療の是非の問題が出てくる。これ重要な問題なので後で検討したい。)
 つまり、原動力は、左辺にあり、それが、Media Pointを介して、右辺という物質的身体を形成し、維持しているのではないだろうか。心臓の鼓動・パルスとは、左辺の振動の現象ではないだろうか。(思うに、心臓と心とを結びつけた前近代的思想は、この点から正しいのではないだろうか。Media Pointは、宇宙で言えば、太陽系の太陽に当たるし、人間で言えば、身心の要である。そして、それが、心臓として現象化していると考えるのは正しいのではないだろうか。では、脳はどういうことになるだろうか。脳が、Media Pointの現象化ではないのかと思われるかもしれない。しかしながら、脳は、心臓の派生ではないだろうか。というか、私には、脳とは、同一性の物質的身体器官ではないだろうかと思えているのである。心臓が、差異の物資的身体器官ではないだろうか。ここで、シュタイナーの言葉を想起する。脳の論理は利己主義で、ハートの論理が人類を結びつけると。)
 心臓の鼓動は右辺の+1であり、この規則正しさが、物質的生命体のリズムではないのか。また、敷延していうならば、+1は、太陽系の惑星の周期・リズムにも関係するだろう。この一定秩序があるので、太陽系の惑星運動が保持されているのではないだろうか。
 さて、左辺のエネルギーは原エネルギー、エネルゲイアであり、これが、Media Pointで右辺のエネルギー、物質的エネルギーに変換されるわけである。(これを光のエネルギーと見てもいいだろう。)ということで、生命とは、根源的には、超越的差異、超越的双極差異の振動と見るべきであり、それは、単に、(+i)*(-i)であるというよりは、Media Pointと見た方がいいのではないだろうか。つまり、(+i)*(-i)⇒=Media Point=原生命である。
 そうすると、生命とは自己とまったく同じことになるが、これは、前近代的、魂と呼ばれていたものと等しいだろう。西洋哲学で言えば、プラトンが魂(霊魂)の不滅を説いたが、それは、超越的差異、超越的双極差異のことだろうし、また、アリストテレスが『心とは何か』で述べている心は、ここで述べた Media Pointにぴったり重なるだろう。また、当然ながら、日本人の伝統的思想である、「タマ」や「モノ」、すなわち、アニミズムやシャーマニズムも、 Media Pointに関係すると言えよう。現代科学的には、電磁波と言えるだろう。(因みに、電磁波とは物質ではないのである。光は物質ではない。)ついでに言えば、「悪霊」とは、悪しき電磁波、差異共振していない、差異不協和な波動の電磁波のことではないだろうか。
 次に、生命体、とりわけ、人間の生命体の形成について言うと、超越的差異、超越的双極差異に根源があるが、その振動の複合体が生命体の青写真、設計図、原型、イデア・エイドスではないだろうか。遺伝子とは、振動複合体の単なる物質的表現に過ぎないのではないだろうか。つまり、遺伝子と呼ばれるものは、根源の振動複合体、超越的双極差異の複合体は、正確には、表現していないのではないか。なぜなら、原生命=原自己である超越的双極差異複合体は、単純に物質ではないからである。高次元的なものである。つまり、高次元双極差異複合体なのである。(この複合体については後で検討したい。)
 最後に、生命の中核としてのMedia Pointについて補足的に考察したい。以前、心身論で、Media Pointとは、心なのか、身体なのか、それとも、心身なのか、と迷ったことがあり、まだ、最終的な結論が出ていない。
 今の考察から新たに光が当てられるだろう。結局、Media Pointとは、自己の中核でもあるのである。つまり、Media Pointとは、自己、及び、生命の中核である。自己とは心、精神である、そして、生命とは、終局態(エンテレケイア)としては、物質的身体である。つまり、自己と生命とは、エネルギー体であり、それも、知的エネルギー体であり、それの発現として、自己と生命があるということになるだろう。つまり、同一体である、知的エネルギーの発現・顕現として、一つは自己・心があり、一つは生命・身体(物質的身体)があるということになる。
 だから、Media Pointとは、端的に、知的エネルギーであり、心と身体の根源的基盤であるということになる。心身論はこれで解決することになる。Media Pointは、心であるのか、身体であるのか、それとも、心身であるのか、という問題はこれで解明されたことになる。即ち、Media Pointとは、心の基盤であり、身体の基盤であり、心身の基盤である、ということである。
 これで、また、スピノザの心身平行論を乗り越えたことになるのである。スピノザは、デカルトを継承して、心という属性と身体という属性の二元論から心身平行論を立てて、神=自然=実体を説明しようとした。心と身体を繋ぐものはなかったのである。しかしながら、今は、Media Pointという心と身体との中核的基盤が明らかになり、今や、心身平行論は不要になったのである。さらに言えば、気功等の代替医療は、このMedia Point生命論によって、解明されるだろうし、西洋医学と東洋医学(その他の民間医療を含めて)との融合・調和・統一はこれによって為されるだろう。プラトニック・シナジー理論的医学ないしは、Media Point医学である。


2007年09月09日(Sun)▲ページの先頭へ
二種類の「目」について:超越的差異的「一(いつ)」的ヴィジョンと連続的同一性形相形象:視と観
今は簡単に触れるに留めるが、この問題は夢のヴィジョンから発したことである。日常における視覚とは別に、夜見る夢の「視覚」はどこから発しているのかということである。
 私は比較的よく夢を見る方なので、このことを考えるのである。私は夢や深層の視覚をヴィジョンと考えてきた。ここで、プラトニック・シナジー理論から見ると、イデア界・超越界において、超越的差異のヴィジョンがあるだろう。それは、イデアのヴィジョン(イデア・ヴィジョン)である。超越光のヴィジョンである。その「視覚」を視と呼ぼう。
 それに対して、Media Pointから同一性が形成されるときのイメージ・形象がある。このときの視覚を観と呼ぼう。通常は観の視覚で生活しているのである。この観であるが、これは、Media Pointの超越的差異の「一(いつ)」(=イデア)のヴィジョン・視を否定(抑圧)して、連続的同一性=形相=物質現象の形象を作ることから生まれるものと考えられる。
 超越光的ヴィジョン(イデア的ヴィジョン)を否定・抑圧して、通常は現象界を観ているのである。しかしながら、抑圧されているMedia Pointに回帰すると、超越光に接するのである。超越的差異の「一(いつ)」=イデアのヴィジョンに接するのである。(思うに、霊spiritと呼ばれるものは、このイデアのことと考えるべきだと思う。魂も同じである。この点は後で検討したいが、ひとこと言うと、オカルティズムはイデアを連続的同一性=物質の形相と一致させていると考えている。だから、霊的唯物論という錯誤した思想が発せられるのである。ドゥルーズの差異もこのようなものに近い。そう、ドゥルーズの哲学はオカルティズムに近いと思う。)
 このとき、視覚は観から視へと変換するだろう。というか、観の基底である視へと回帰すると言えよう。すると、視覚は二重となるだろう。視と観の視覚である。「霊視」と肉眼である。もっとも、Media Pointへの回帰が純粋でないと、混乱・混濁・汚染・錯視・錯覚が起るのである。連続的同一性の観と超越的差異の「一」の視とを混合して見るのである。(これがオカルティズムであろう。ルドルフ・シュタイナーの人智学はこのようなものだと思う。危険である。それが、それなりに優れた発想はもっていても、危険である。)
 同一性は同一性であり、物質として評価しなくてはならない。そして、差異は差異として評価しなくてはならない。そして、差異はMedia Pointにおいて、同一性=物質を包摂するのである。つまり、視は、Media Pointにおいて、観を包摂すると言えよう。そして、これが真正の視覚(造語して、視観とする)であると言えよう。
 この視観は、日常においては、同一性を精緻に見るだろう。しかし、同一性の観の背景として差異の、超越的差異の「一」のヴィジョンの視を秘匿している。そして、視観の融合したヴィジョン・イメージを形成するだろう。
 ここでプラトンのイデアとアリストテレスの形相について比較すると、プラトンのイデアは超越的差異の「一」性であり、アリストテレスの形相とは、連続的同一性における原型のことであると考えられる。当然、前者は形而上学的であり、後者は物質現象的である。両者の間には、Media Pointが媒介点として存しているのである。
 思うに、プラトンのイデアが同一性的原型として誤解されたのは、おそらく、プラトン自身の叙述の仕方が影響しているのではないだろうか。『国家』における、国家から詩人や芸術家を追放する、有名な言論であるが、そこでは、例えば(例が違うかもしれないが)、建物のイデアに対して、建築家とそれを描写する作家がいて、作家はイデアから建築家からも遠ざかっているとしている。このような叙述では、イデアを単に同一性的原型として考えられてしまうだろう。
 おそらく、そこでのプラトンの誤りは、作家もイデアから描出しうるということを述べていないことだと思う。toxandoria& Kaisetsu氏がミメーシスについての新説を出しているが、正に、ミメーシスの問題なのである。『国家』でのミメーシスは正に模倣であるが、それは、イデアの問題としてはふさわしくないのである。それは、アリストテレス的形相に近いのである。そうではなく、イデアをミメーシスすると述べれば、正鵠を射ていたといえよう。真正な芸術家も当然ながら、『国家』に入れなくてはならない。今はここで留めたい。


感情とは何か:否定的同一性感情と肯定的差異感情
感情とは何だろうか。同一性主義は差異を否定しているから、このとき、否定的感情が発動すると考えられる。そして、差異を肯定するときは、感情はいわば、理性的になり、理性に統制されたものであろう。共感的感情になるだろう。否定的感情と共感的感情がある。これを同じ言葉で言うのは混乱するだろう。
 とまれ、同一性志向により差異が否定されたとき、差異には歪みが生じる。これが否定的感情の源泉だろう。ということは、もともと、Media Pointには原感情があるのだろう。それは、i*(-i)の共振感情であろう。
 では、感情とは何か、である。山登りをしていて、展望が開けたとき、よろこびの気持ちが起る。また、ひろびろと眺望できる尾根道を歩くのは、よろこびである。また、やさしい、思いやりのある人に接するのはよろこびである。歓喜の情がこころに生起する。そう、情である。情感である。
 ここには、他者に対する共感があるだろう。彼方のひろびろとした光景への共感、おもいやりのある人への共感から、歓喜の情が生まれると言えよう。
 では、共感によって、心に生まれる喜びとは何だろうか。思うに、正に、イデアから発しているのだろう。イデア界にある美や善や真から、この共感の情が生まれるのだろう。絶対的な美や善があるから、そこを源泉にして、共感による歓喜の情が発生するのだろう。
 つまり、超越的差異であるイデアは、真善美等であり、それらは、根源的な、歓喜の情態をもつと言えよう。
 では、イデアの情態とは何か。絶対的真善美の情態とは何か。思うに、形相差異iと身体差異-iとが共振するとき、身体差異に発現する力が情態ではないだろうか。形相差異は認識であり、知である。しかし、身体差異に発現するものが情態ではないだろうか。知と情とが一対になっているのである。
 思うに、私が音楽を聴いて楽しむのは、身体差異の情態において喜びを感じるからだろう。もっとも、形相差異において、知を感じるのではあるが。
 今はここで留めることにする。


2007年09月04日(Tue)▲ページの先頭へ
阿頼耶識/Media Pointと輪廻転生:哲学的政治・経済・社会・文化・生活・人生へ向けて
三島由紀夫は『暁の寺』で、古代インドにおける輪廻転生の問題について述べている。仏教では、自我を否定しているのに、どうして、輪廻転生があるのか。それは、阿頼耶識によって可能となるという解答であった。
 私は、阿頼耶識がMedia Pointだと考えている。ここには、自我を生む構造があるが、自我自体ではない。無我でもない。自己ではあるだろう。しかし、自己は、他者と即非共振しているのである。
 なぜ、輪廻転生に対して、知性は、沈黙ないしは懐疑・否定的になるのだろう。それは、唯物論的思考に囚われているからだろう。物質主義的合理主義・科学中心主義からすると、ナンセンスである。
 しかし、唯物論が間違っていたらどうなのだろうか。哲学的には、観念論・唯心論・イデア論は可能である。また、PS理論は、イデア論である。
 物質主義的思考に囚われている限り、資本主義的弱肉強食は続くし、地球は破壊され、精神・知性も衰退する。
 ここで、物質主義的経済=資本主義の発想を変える必要がある。利益追求とは何か。自己の霊魂は永遠である。それに対して、一つの現世の利益に拘泥するとはどういうことか。自分の霊魂の修行を忘れて、金儲けに狂奔するのは、愚か者である。霊魂は永遠である。
 来世の自分をどうするつもりか。現世において、霊魂の鍛練を忘れた者は、その借りを返すべき、辛い修行が待っている。物質主義的思考は、この世の人生が終ることを忘却している。
 一回切りの人生を、物質的に、快楽的に、楽しむだけで、いいのか。後は、無である。何のために生きているのか。
 政治家や官僚の問題は、ここにある。プラトンは、哲学的統治者を説いた。哲学的政治が必要である。哲学的経済、哲学的社会、哲学的人生が必要である。


2007年09月03日(Mon)▲ページの先頭へ
プラトニック・シナジー理論(PS理論)の構成図式
表にしようと思ったが、ブログでは表が出ないので、以下のように、図式化する。


1:超越的差異=差異可能(デュナミス)的志向性(超越界)
        ↓ (プラトン、不連続的差異論)
        ↓
2:差異動態(実現、エネルゲイア)的志向性(フッサール)
        ↓
        ↓
3:Media Point(垂直/水平差異共振性)(鈴木大拙、
        ↓ ウスペンスキー、メルロ=ポンティ)
        ↓
3. 5:脱構造的志向性(ポスト・モダン:デリダ、
        ↓ ドゥルーズ&ガタリ)
        ↓
4:超越論的構造性(超越論的差異→超越論的同一性)
        ↓ (ハイデガーの存在→構造主義)
        ↓
5:連続的同一性(現象界、物質界)


説明すると、2において、フッサールとあるが、それは、完全な意味というよりは、志向性において、差異の志向性を示唆していたという意味である。
 4において、上層が超越論的差異であり、ハイデガーの存在である。そして、下層が構造主義の超越論的同一性構造である。
 そして、狭義のポスト・モダン哲学は、4を超える思想であった。デリダの差延/脱構築は、そのような意欲であった。ドゥルーズ&ガタリは、3と4を融合化してしまった。即ち、連続的差異=微分の思想になり、3と4を切断することができなかった。
 メルロ=ポンティ現象学は、「肉」(=身)において、ほぼMedia Pointを捉えた。可視性が5であり、不可視性が1と2である。
 不連続的差異論は、ほぼ1を発見して、3と4とを切断した。
 そして、プラトニック・シナジー理論(PS理論)は、超越的差異の即非・共振性を発見し、さらに、ガウス平面等を適用した数学化によって数理科学化し、さらには、主導的概念である3のMedia Pointを発見した。
 おそらく、以上の図式でいちばん困難な点は、3の超越論的構造である。ここは、言わば、錯綜している。二重構造になっているのである。また、これまで、多くの天才的哲学者が、乗り越えられなかった領域がここであると言える。広義のポスト・モダンであるシェリング、キルケゴール、ニーチェを考えると、2〜4の混淆した領域で思索していたのであり、不明晰に思考していたのである。(ニーチェは実に後一歩というところで、2と4の間を揺れ動いていたと思う。永遠回帰は、正しくは、輪廻転生とすべきであるが、それを同一性の回帰、超越論的構造の回帰にしてしまったのである。)
 また、ロシアの神秘学者ウスペンスキーであるが、「ターシャム・オルガヌム」の概念によって、ほぼ即非論理を捉えていたと考えられる。それは、1〜3の領域のもつ基本論理と言える。
 さて、鈴木大拙であるが、彼は、いわば、超天才的に、1〜3の論理、即非論理を洞察発見したのである。西田哲学の絶対矛盾的自己同一は、ほぼ、即非論理と同様であったと考えられるが、あまりに彼の言語は晦渋であり、不明瞭である。
 さて、不連続的差異論による4の絶対的乗り越えがなかったら、PS理論は創造されなかったであろう。しかしながら、PS理論は、不連続的差異論からの重大な内包的発展・深化である。Kaisetsu氏による数学化がPS理論を数理化して、自然科学へと架橋を構築して、真に文理融合・統一理論の仮説となったのである。

p.s. 私はレヴィナスをほぼ未読なので、よくわからないがイメージとしては、少なくとも、1〜3の領域に入るだろう。直感では、1と2の中間態であろうか。


2007年08月22日(Wed)▲ページの先頭へ
イデア界からMedia Pointへ:イデア界における空虚(空・空孔)のポテンシャル・エネルギー
昨日に続き、本件を考察しようと思っていたが、暑さのため、思考意欲が低下している。でも、少しは考えたい。
 三島の『暁の寺』の阿頼耶識論で、道徳的要請のために、世界が存在すると説かれていることは、真理の一つであると思う。そうならば、イデア界において、なんらか、道徳的欠如が感じられたことになるのではないだろうか。もし、道徳ではなくても、なんらかの欠落があって、それを埋めるために、動態化したのではないのか。
 思うに、欠落というよりは、空虚があったのではないのか。その空虚を埋めるために、始動したのではないのか。ならば、その空虚はどう形式化できるのか。i*(-i)の*が空虚ではないのか。
 もしそうならば、イデア界における力学とは何か。iと-iとが空虚を挟んで対峙しているとは、どういうことか。iΦ(-i)である。Φはゼロではなく、空虚(空、空孔)と読む。vacuumである。
 この空虚(空、空孔)に、力ないしはエネルギーが宿るのではないか。つまり、iと-i自体には、変化は起らないが、空虚(空、空孔)に変化が起るのではないか。つまり、イデア界は、三元性をもっているということである。そして、空虚(空、空孔)が潜在力を帯びるのである。つまり、ポテンシャル・エネルギー(デュナミス:可能態)をもつのではないのか。そして、それが、ダイナミック・エネルギー(エネルゲイア:実現態)になるのではないだろうか。
 つまり、イデア界において、空虚のポテンシャル・エネルギーが生起する。そして、それが、動態化して、Media Point(実現態:エネルゲイア)に変換する。そして、それが、連続=同一性化して、現象世界(終局態:エンテレケイア)が形成されるということではないのか。
 問題は、イデア界の空虚(空、空孔)の意味付けである。どうして、可能態(デュナミス)である空虚が実現態(エネルゲイア)へと転換するのか。思うに、空虚(空、空孔)は、イデア界の即非差異(双差異ないしは対差異と言ってもいいだろう)を受容して、連結(連続化)するのである。そう、ここが正に、最重要点である。単に、即非差異の二つだけなら、静止したままであり、永遠の涅槃・眠り・死の状態である。しかし、その中間に、ないしは、境界に、空虚(空、空孔)の「存在」を見ることで、イデア界は、動態化の可能性をもつのである。
 言い換えると、空虚(空、空孔)を一種の容れ物と見るといいだろう。ここに、iと-iとが共存ないしは「同居」するのである。このとき、プラスとマイナスのポテンシャル・エネルギーが形成される。そう、±ゼロ・エネルギーと言っていいだろう。そして、これが、結合(連続化)を志向して、動態化して、ダイナミック・エネルギー(エネルゲイア)=Media Pointに転換するのである。そして、そこから、同一性化して、物質的エネルギー(エンテレケイア)が放出されるということではないだろうか。
 今日の論点は以上で留めるが、最後に、以上のように、イデア界=虚界を三元性と捉えるならば、どのような応用ができるか少し見てみたい。
 例えば、古事記の神話の神々で言うと、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は、空虚(空、空孔)ではないのか。そして、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)や神産霊神(かみむすひのかみ)は、即非差異ではないだろうか。また、天照大神であるが、それも、空虚ではないだろうか。空虚が太陽ないしは原太陽になるのである。
 また、空虚が時間になるのだろうし、量子存在になるだろう。しかしながら、このイデア界の空虚は、実軸のゼロと考えられてはならない。いわば、虚空(あえて、「きょくう」と呼びたい)である。高次元の空虚である。
 また、プラトン哲学でいうと、エロースとは、この虚空のエネルゲイアのことだろう。また、性愛も本来は、虚空のエネルゲイアに起源があるのではないだろうか。単なる肉体の愛とは、それを満たすことができない。本来、空虚なのであるから。連続化(性交)は、幻想である。この点は、D. H. ロレンスの『死んだ男』における復活した男とイシスの巫女との不連続的差異の共立関係が正鵠を射ているだろう。
 

参照:「プラトンとアリストテレスの統一:不連続的差異論の視点から」http://renshi.ameblo.jp/entry-d289c
0176e3af660490d88bc80c5aa7a.html
 


1 2 3 4 5 6 7 8 9 10    全300件




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2017年7月
           
26 27 28 29
30 31          

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:1,256
昨日:767
累計:4,720,040