GP陰陽原理:哲学主数学従の陰陽哲科学

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年05月31日(Sun)▲ページの先頭へ
「底が抜けている」=社会の恣意性という構造主義の誤謬:Media Pointの絶対的差異的普遍性
最新の愚樵氏の論考(底が抜けた〈システム〉を )であるが、そこで、宮台氏の次の見解を引用している。

「 実は、どんな社会もその形をとるべき必然性はありません。つまりは恣意的で、その意味では「底が抜けて」います。その恣意性は消去できません。しかし、従来は恣意性を乗り越える、あるいはやり過ごす働きを、多くの社会が内蔵してきました。それが壊れてしまったのです。」(赤色文字強調、renshi)
http://gushou.blog51.fc2
.com/blog-entry-249.html

「恣意性」とは、構造主義の教科書で読まされるソシュールの言語構造主義の概念である。ということは、宮台氏の見解はいまだに、構造主義を基盤にしていると言えよう。これだけで、彼の理論は、最良のポスト・モダン(デリダ哲学)からも遅れていることが判明する。
 この概念は、もはや完全な時代遅れである。また、彼の不可能性と不可避性というアンチノミーの発想は、デリダの脱構築主義の悪い要素であり、これも時代遅れである。
 つまり、彼の「底が抜けている」という見解は間違いであるということである。実は、社会は「底が抜けていない」のである。「底が抜けている」という表現は、同一性主義の視点では、それは使用できるが、「恣意性」という意味では、それを社会に適用するのは誤りである。
 「人を殺してはいけない」という価値は普遍的価値であり、これは差異共振価値から必然的に出てくるのである。だから、PS理論は、伝統的価値の創造的復権を意味するのである。
 さて、相対主義の問題であるが、これは、「恣意性」という問題では、構造主義の問題であるが、一般的に言えば、異なるAとBとの相対性とは、AとBとの間にある差異である。Aの絶対的差異、Bの絶対的差異とが無視されている見解である。これは、デリダ哲学に達していない、ドゥルーズ的な連続的差異の考え方である。
 とまれ、PS理論は、完全なトランス構造主義であり、トランス・ポスト・モダンである。ただし、デリダの「すべての他者はまったき他者だ tout autre est tout autre」という絶対的差異の思想を超越性の思想で包摂しているものである。
 最後に一言付け加えると、差異共振とは、絶対的差異+iと他の絶対的差異-iとの共振、即ち、絶対的差異共振ということである。これは、Kaisetsu氏が西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」を説明したとき使用した用語である。
 
参考:
相対主義の時代は絶対的に終り、絶対主義の時代が絶対的に来る。(近未来予測)
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
http://blog.kaisetsu.org/
?eid=749092#trackback

参照:

スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)は、言語の歴史的起源や時間変化を探究する『通時的な研究』ではなく、同時代の言語の構造や一般規則を考察する『共時的な研究』を精力的に行い、近代言語学の礎を築くことに成功した。

ラング(文字言語)の構造を徹底的に分析したソシュールの言語哲学は、『差異の体系』や『言語記号の恣意性』という基本的なアイデアを持っている。このソシュールの言語哲学の基本的なアイデアは、マルクス主義的な史的唯物論や直線的な発達史観の対極にあるアイデアである。つまり、今ある言語がその言語であるべき必然的な理由などは存在せず、『恣意的な社会的規則(社会的取り決め)である言語』をマルクス主義のような発展・進歩の視点から研究することはナンセンスであるという事である。

言語が何故そのようなルールや語彙を持っているのかに関して歴史的必然性はなく、ただ、機能的なパロール(声)の意志伝達を可能とする『ラング(言語規則)の社会的取り決め』とそれに従う『シニフィエ・シニフィアンの恣意的な言語構造』があるだけなのである。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind
/vision/es001/language.html
ソシュールの言語論(シニフィエ・シニフィアン)と構造主義

参照2:
マイクロヴァイタ論とPS理論:マイクロヴァイタとMedia Point
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10205104466.html


2009年03月29日(Sun)▲ページの先頭へ
『《個》の記憶はどこまで届くのか:Media Point の記憶は、イデア記憶であり、不死不滅・永遠不滅である:イデアが輪廻転生主体である:PS理論的日本維新ルネサンスへ向けて』
『《個》の記憶はどこまで届くのか:Media Point Memory(MP記憶)は、イデア記憶であり、不死不滅・永遠不滅である:イデアが輪廻転生主体である:PS理論的日本新維新へ向けて』

《個》におけるMedia Point の形成は、当然、共同体、自然、精神、倫理、宗教等的性向の形成でもある。問題は、有り体に言えば、Media Point の意識ないしは「記憶」がどこまで「届く」のか、である。PS理論は、当然ながら、虚軸=超越界に達すると考えるわけである。それは、当然、自己同一性=同一性自己=自我を超えている(それは、虚構・仮想・仮象である)。
 問題を言い換えると、Media Point の記憶は、《個》の経験を超えるのか、否かである。言い換えると、生まれてから死ぬまでの現世の記憶に留まるのか、それとも、超えるのか、である。
 少し迂回すると、「わたし」の問題を考えよう。通常、「わたし」(自我)を同一性自己ないしは自己同一性の意味でとっているが、「わたし」の本体は、先に述べたように、+iの主体差異、主体絶対的差異である。だから、それは、「わたし」ではないのである。思うに、「わたし」に重なるようにして、あるいは、その裏面に、主体差異+iが存しているだろう。《個》(差異共振自己)とは、それと関係しているのである。
 だから、「わたし」と主体差異+iないしは《個》とは分裂しているのである。英国の詩人・版画家ウィリアム・ブレイクは、近代的自我をspectre (幽霊)と名づけたが、それは的確である。「わたし」は「幽霊」である。もっとも、虚構・仮想・仮象とこれまで呼んだが。確かに、マーヤー(幻像)である。
 輪廻転生という観念があるが、そのとき、輪廻する主体とは何だろうか。普通は、不滅の魂ないしは霊魂が輪廻する主体と考えられている。そうならば、「わたし」が輪廻する主体ではないのである。
 問題は、主体差異+iである。それは、「わたし」と混同される傾向が一般的である。デカルトの「我思う」(コギト)の「我」も混同されていると考えられる。「我」が同一性自己(自我)となると、近代合理主義が生まれるのである。(「我」の裏面の主体差異+iを探究したのが、フッサールと言えよう。)
 主体差異+iは虚数であるから、同一性=物質ではない。端的に、イデアである。すると、それは、不滅のはずである。つまり、主体差異というイデアが「わたし」の裏面・本体として超越的に内在していると考えられる。
 そして、Media Point を考えれば、他者差異-iというイデアも超越的に内在していると考えられる。端的に、Media Point が超越的差異共振イデアと考えられる。+iのイデアと-iのイデアから、Media Point のイデアを区別すべきである。とりあえず、仮に、前者を小イデア、後者を大イデアと呼んでおこう。
 端的に、小イデアであり、大イデアであり、それは、不滅のはずである。何故なら、超越的であるからである。虚数だからである。
 だから、輪廻転生という観念は、「わたし」が輪廻する主体ではなく、小イデア、大イデアが輪廻する主体ということになる。そう、魂や霊魂とは、小イデアであり、大イデアである。(もっとも、小イデアを内包・包摂した大イデアと言う方が的確である。)
 そこで、Media Point の「記憶」はどこまで「届く」のかという本題に戻ると、今や、当然、《個》の現世の経験の記憶を超えるものである。過去世(前世・前生)や未来世(後世・後生)の「記憶」をもつと言えよう。また、さらには、個体的な「記憶」に限定されずに、ユングの説くような集合的無意識・普遍的無意識をもちうると考えられる。「神」、「神仏」と言える。ただし、ユング心理学の問題点は先にも述べた点もあるが、ここでは、集合的無意識について言うと、それは、連続化されているのが大欠点なのである。集合的ではなく、あくまで、絶対的差異的、特異点的であり、それが、普遍的な認識をもちうるということと考えなくてはならないのである。後で、この点を詳述したい。
 ということで、ここで、明確に、プラトン哲学の進展であるPS理論による以上の視点から、プラトン哲学のイデア論の正しさが証明されたことになるだろう。ただし、プラトン自身、小イデアと大イデアを明確に区別していなかったと考えられる。主体差異+iという小イデアは、同一性志向性をもち、いわば、同一性イデアになるのである。これと、大イデア=不死不滅の魂の区別が明確ではなかったと考えられるのである。
 ここで、飛躍して、現代日本の破滅的状態の乗り越えを考えると、PS理論的な、根源的な復活・ルネサンス・維新が必要である。トランス・モダン維新である。PS理論的イデア維新ルネサンスである。


2009年03月21日(Sat)▲ページの先頭へ
複雑系とPS理論:Multiple Media Point Resonance Dynamics
複雑系とPS理論:Multiple Media Point Resonance Dynamics

テーマ:非線形科学:複雑系・カオス・フラクタル

複雑系は、やはり、PS理論で理解できると予見できる。あるいは、自己認識方程式の応用で。
 つまり、多重多元複合的なMedia Pointの様相が端的に、複雑系ではないだろうか。すなわち、Multiple Media Point (Resonance) Dynamicsが複雑系ということではないのか。
 具体的に見ると、現在のオバマ政権の状態は、複雑系である。それは、旧同一性主義金融資本主義と差異共振資本主義とが混在しているからである。単純に、前者を否定できないのである。それが、AIG問題である。だから、同一性に傾斜したMedia Point(Modern Media Point)と差異共振性を志向するMedia Point(Trans-modern Media Point)が複合化したものと見られる。これは二重であるが、それ以外の外交問題等を入れれば、多重になるのである。当然、カオス的な揺らぎが発生するのである。米国経済の診断はだから、破滅か否かではできないのである。微妙な力学、複雑系がそこにあると考えられるのである。

複雑系
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複雑系(ふくざつけい complex system)とは、多数の因子または未知の因子が関係してシステム 全体(系 全体)の振る舞いが決まるシステムにおいて、それぞれの因子が相互に影響を与えるために(つまり相互作用 があるために)、還元主義の手法(多変量解析 、回帰曲線 等)ではシステムの未来の振る舞いを予測することが困難な系を言う。

これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則 に還元して理解する(還元主義 )のは困難である。

複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、宇宙 全体、天候 現象、経済 現象、人間社会 、政治 、ひとつひとつの生命体 、あるいは精神 的な現象などは、みな複雑系である。つまり世界には複雑系が満ち満ちており、この記事を読んでいる人間自身も複雑系である。ただし研究者にとって具体的な研究成果が出しやすく、書籍などで一般読者などに紹介されやすいものとなると、もう少し小規模の複雑系あるいは限定したものとなりがちで、例えばウイルス の流行状況、大規模交通(フラックス)、バタフライ効果 、エントロピー (熱力学第三法則 )などが多い。あるいは、パーコレーション やセル・オートマトン なども好んで扱われる。最近では、系の自己組織化 の様子をコンピュータにプログラミングして、複雑で法則がないように思える目で見えない発達形成過程を視覚化して把握しようと試みられている。

 
背景 [編集 ]

複雑系は還元主義 的なアプローチが適用できない系として有名である。そのため現象を単純な法則 や原理 に落とし込むことで理解したとする、今までの科学 がとってきた基本姿勢に対し、複雑系の分野の研究姿勢はその基本的立場に関して若干の違いを持つ。複雑系の分野を貫く基本スタンスとして「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」を挙げることができる。[1]

複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレス の「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。近代になって還元主義が蔓延すると、それに対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム 」または「全体論」などと呼ばれている。こうしたことに関する哲学的で深い議論は現在でも、哲学の一分科である科学哲学 の世界などで行われている。現在のいわゆる「複雑系の科学」などと呼ばれているジャンルは、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけられていることが多い。


関連書 [編集 ]

* ミッチェル・ワールドロップ 『複雑系―生命 現象から政治、経済 までを統合する知の革命』新潮社、1996、ISBN 4105331019
* 田坂 広志『複雑系の知―二十一世紀に求められる七つの知』講談社、1997、ISBN 4062087626
* ミッチェル・ワールドロップ『複雑系―科学革命の震源地・サンタフェ研究所 の天才たち』新潮文庫、2000、ISBN 4102177213
* スチュアート・カウフマン 『カウフマン、生命 と宇宙 を語る―複雑系からみた進化 の仕組み』日本経済新聞社、2002、ISBN 4532164257
* 市川惇信『複雑系の科学―セル・オートマタ 体験CD‐ROM付』オーム社、2002、ISBN 4274024865
* 佐々木正人ほか『アフォーダンス (複雑系の科学と現代思想)』青土社、1997、ISBN 4791791428
* 河本 英夫、ブランケンブルクほか『精神 医学―複雑系の科学と現代思想(複雑系の科学と現代思想)』青土社、1998、ISBN 4791791460

関連項目 [編集 ]

* 複雑適応系
* 非線形科学
* カオス理論
* フラクタル
* ファジィ集合論 、ファジィ論理
* 決定論
* 自己組織化
* 階層構造

注 [編集 ]

1. ^ 厳密に言えば、複雑系の科学の手法を駆使している者の中でも、大前提として世界を機械論 的で決定論 的である、それで全てである、と想定してしまっている者と、それに対して(数はさほど多くはないが)量子力学が突きつけている諸問題なども踏まえて、なんらかの非決定論的な要素も働いている、どうやったところで捕捉出来ない不可解な要素が、人間が捕捉できる系に影響を与え続けている、系全体がシンプルに閉じているという保証も無い、と想定する者の2種類が存在する。ただ、ここまで議論を深めると、問題があまりに大きくなりすぎ、現在のいわゆる「複雑系の科学」の枠組みを超えてしまう。またその要素まで織り込んで具体的なものを研究の成果としては提出することは困難なので、現在のところ、いわゆる「複雑系の科学」というジャンルに携わる者のほとんどは、基本的にその問題には言及を避け、世界を(言外に)決定論的なもの仮定した場合のシミュレーション結果、研究結果などをあっさりと発表している。とりあえず研究可能・実行可能な範囲で具体的な成果を出す、という点では妥当なことが行われている、とも言える。

外部リンク [編集 ]

* (百科事典)「Complex Systems」 - スタンフォード哲学百科事典 にある「複雑系」についての項目。(英語)

"http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E8%A4%87%E9%9B%91%E7%B3%BB " より作成
カテゴリ : 複雑系 | 科学哲学 | 世界観 | 数学に関する記事


PS理論的フラクタル:Media Point Fractal
PS理論的フラクタル:Media Point Fractal

テーマ:非線形科学:複雑系・カオス・フラクタル

私の記事は一見、とりとめなく、あちこちに飛ぶが、これは、カオス的ではあるが、しかしながら、諸現象にPS理論的に類似したものを見ているのである。それは、PS理論的フラクタルと呼べるのではないだろうか。略せば、PSフラクタルである。
 どうも、それは当たっているだろう。森羅万象に、Media Pointを見て、その視点から言述しているのである。だから、Media Point Fractal とも呼べよう。

参照:

フラクタル

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フラクタルの例(マンデルブロ集合 )
フラクタル (仏 fractale) は、フランスの数学者 ブノワ・マンデルブロ (Benoît Mandelbrot) が導入した幾何学 の概念。図形 の部分と全体が自己相似 になっているものなどをいう(正確な定義については後述)。

概要 [編集 ]
フラクタルの具体的な例としては海岸 線 の形などが挙げられる。海岸線は微視的にみると複雑に入り組んだ形状をしているが、これを拡大するとさらに細かい形状が見えてくるようになり、結果として 拡大しても同じように複雑に入り組んだ形状をしている。これに対して、一般的な図形は、拡大するにしたがって、その細部は変化が少なくなり、なめらかな形 状になっていく。
そして、海岸線の長さを測ろうとする場合、より小さいものさしで測れば測るほど、大きなものさしでは無視されていた微細な凹凸が測定されるようになり、その測定値は長くなっていく。したがって、このような図形の長さ は無限 であると考えられる。これは、実際問題としては、分子 の大きさ程度よりも小さいものさしを用いることは不可能だが、理論的な極限 としては測定値が無限大になるということである。
このような図形を評価するために導入されたのが、整数 以外の値にもなるフラクタル次元 である。フラクタル次元は、数学的に定義された図形などでは、厳密な値が算出できることもあるが、前述の海岸線などの場合は、フラクタル次元自体が測定値になる。つまり、比較的なめらかな海岸線では、フラクタル次元は線の次元である1に近い値となり、リアス式海岸 などの複雑な海岸線では、それよりは大きな値となり、その値により図形の複雑さが分かる。なお、実際の海岸線のフラクタル次元は1.1〜1.4程度である。
海岸線の形、山の形、枝分かれした樹木の形などの3次元 空間 内に存在するもののフラクタル次元は、0より大きく3以下の値になるが、数学的にはさらに高次の次元を持つものも考えられる。この様な図形のほとんどは分数 (fraction、フラクション)の次元を持ったフラクタルな図形と呼ばれる。ただし、実際には、フラクタル次元は、分数になるというよりは無理数 になる。また、中には整数の次元を持つものもある。その例としてはマンデルブロ集合 の周があり、これは曲線でありながら2次元である。


定義 [編集 ]
フラクタルの特徴は直感的には理解できるものの、数学的に厳密に定義するのは非常に難しい。マンデルブロはフラクタルを「ハウスドルフ次元 が位相次元 を厳密に上回るような集合」と定義した。完全に自己相似 なフラクタルにおいては、ハウスドルフ次元はミンコフスキー次元 と等しくなる。
フラクタルを定義する際の問題には次のようなものがある。
• 「不規則すぎること」に正確な意味が存在しない
• 「次元」の定義が唯一でない
• 物体が自己相似である方法がいくつも存在する
• 全てのフラクタルが再帰的に定義されるとは限らない


フラクタル研究の歴史 [編集 ]
始まりは、イギリス の気象学者 ルイス・フライ・リチャードソン の国境線に関する検討である。国境を接するスペイン とポルトガル は、国境線の長さとしてそれぞれ987kmと1214kmと別の値を主張していた。リチャードソンは、国境線の長さは用いる地図の縮尺によって変化し、縮尺と国境線の長さがそれぞれ対数 を取ると直線状に相関することを発見した。この様な特徴をフラクタルと名付けて一般化したのがマンデルブロである。フラクタルの研究者高安秀樹 によると、マンデルブロは株価チャートを見ていてフラクタルの着想を得たという。


フラクタルの例 [編集 ]


ジュリア集合
フラクタルな図形は自然界のあらゆる場面で出現されるとされ(例:樹木 の枝分かれ)、自然科学の新たなアプローチ手法となった。逆に、コンピュータグラフィックス における地形や植生などの自然物形状の自動生成のアルゴリズムとして用いられる事も多い(フラクタル地形 など)。
また、自然界で多くみられる一見不規則な変動(カオス )をグラフにプロットするとそのグラフはフラクタルな性質を示すことが知られ、カオスアトラクター と呼ばれる。
株価 の動向など社会的な現象もフラクタルな性質を持っている。
• カントール集合
• シェルピンスキーのギャスケット
• コッホ曲線
• 高木曲線
• ヒルベルト曲線
• マンデルブロ集合
• ジュリア集合
• メンガーのスポンジ
• ロマネスコ (fr:Chou romanesco )明確なフラクタル図形をした野菜。
• バーニングシップ・フラクタル
• リアプノフ・フラクタル


人体とフラクタル [編集 ]
血管の分岐構造や腸の内壁などはフラクタル構造であるが、それは次のような理由によるものだろうと考えられている。
例えば血管の配置を考えたとき、人体において体積は有限であり貴重なリソースであると言えるので、血管が占有する体積は可能な限り小さいことが望ましい。一方、ガス交換等に使える血管表面積は可能な限り大きく取れる方が良い。
このような目的からすると、有限の体積の中に無限の表面積を包含できるフラクタル構造(例えばメンガーのスポンジ を参照)は非常に合理的かつ効率的であることが解る。しかも、このような構造を生成するために必要な設計情報も、比較的単純な手続きの再帰的な適用で済まされるので、遺伝情報に占める割合もごく少量で済むものと考えられる。


関連項目 [編集 ]

ウィキメディア・コモンズ には、フラクタル に関連するマルチメディアがあります。
• ハウスドルフ次元
• ボックス次元
• フラクタル幾何
• 非線形科学
• フラクタルアート - フラクタル地形
• 反復関数系
• フラクタル圧縮
・・・・・

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カオス理論

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カオス理論(‐りろん、Chaos theory)は、決定論 的な動的システム の一部に見られる、予測できない複雑な様子を示す現象を扱う理論である。
ここで言う予測できないとは、決してランダムということではない。その振る舞いは決定論的法則に従うものの、その過去および未来の振る舞いの予測には、ある時点(初期値など)において無限の精度の情報が必要とされるため、観測による予測が不可能に近いという意味である。

定義 [編集 ]
カオスの数学的定義は、研究者ごとに違い、統一的な見解は得られていないが、およそ以下の性質を持つものとされている。
1 リアプノフ指数 が0より大
2 何らかのポアンカレ写像 により、テント写像 が確認できる(後述するローレンツカオスの場合)
また、カオスには以下の特徴が現れる。
• 単純な数式から、ランダム に見える複雑な振る舞いが発生する
• 短期的(リアプノフ時間 程度)には予測可能
• 初期値のわずかな違いが未来の状態に大きな違いをもたらす初期値鋭敏性がある
• 過去の観測データから将来の長期予測が困難となる
一部のシステムが複雑な振る舞いをするのは、その振る舞いを表す方程式 の非線形 性が原因である(後述するローレンツカオスの場合、テント写像により引き起こされる)。

カオス研究の歴史 [編集 ]
19世紀における一般的な非線形 微分方程式の解法手法は、ハミルトン 等の成果に代表される積分法(積分、代数変換の有限回の組み合わせ)による求解と、微小なずれを補正する摂動 法である。この積分法による解が得られる系を、リュービル は可積分系 と呼んだ。その条件は、保存量の数が方程式の数(自由度)と一致することであった。
1892年から1899年、アンリ・ポアンカレ (Jules-Henri Poincaré)は、3体問題 では保存量 が不足し積分法による解析解が得られないことを証明した(このような系を非可積分系 と呼ぶ)。彼は、この場合に軌道が複雑となることを示唆している。ただし、この時点では、その実態は認識されていなかった。
コルモゴロフ 、チリコフ 等は、このハミルトン力学系 (例えば、多体問題 といった散逸項 の無いエネルギーが保存される系)のカオス研究を進めた。大自由度ハミルトニアン系カオスは、統計力学 の根源にも結びつくものでもあるが、その定義すら困難であり今後の研究が期待される。
テント写像により引き起こされるカオスについて、1963年 ローレンツ・アトラクタ で有名なエドワード・ローレンツ (Edward Lorenz)により提唱された。このタイプのカオスは、ローレンツカオスと呼ばれる(後述するカオスの例)。
京都大学 工学部の上田v亮 は、 1961年に既に、非線形常微分方程式を解析する電気回路で発生したカオスを物理現象として観測し、不規則遷移現象と称してカオスの基本的性質を明らかに していた。しかし、日本の学会ではその重要性が認識されず長い間日の目を見なかった。この上田の発見は、ジャパニーズアトラクターとして海外で評価されて いる。
これらの複雑な軌道の概念は1975年、ヨーク (James A. Yorke )と李天岩 (リー・ティエンイエンen )によりカオスと呼ばれるようになった。また、マンデルブロ集合 で有名なブノワ・マンデルブロ などにより研究が進んだ。
一方では、非線形方程式の中にはソリトン (浅 水波のモデル)のように無限の保存量を持ち、安定した波形を保ち将来予測の可能な、解析的な振る舞いが明らかになっているものもあり、カオスとは対極にあ る存在である。しかし、ソリトンと言えども、連続無限自由度を扱うような特殊な場合で可積分系が破れることがあり、その場合カオスになることが指摘され た。


カオスの例(ローレンツカオス) [編集 ]
• ロジスティック写像
二次方程式を用いた写像
をロジスティック写像と呼ぶ。もともとロジスティック方程式 という連続時間の微分方程式として、19世紀から知られていたが、写像として時間を離散的にすることで、極めて複雑な振舞いをすることが1976年 ロバート・メイによって明らかにされた。
ロジスティック写像は生物の個体数が世代を重ねることでどのように変動していくのかのモデルとして説明される。ここでa(下図の横軸)が繁殖率、Xn(下図の縦軸)がn世代目の個体数を表している。
*繁殖率a<3のとき 個体数Xnはある一定の値に収束する。
*3≤a≤3.56995のとき Xnが2つの値を繰り返す様になる。さらにaを増やすとXnのとる値が4つ、8つと増加していく。この周期逓倍点の間隔は一定の比率ファイゲンバウム定数 で縮まる。
*3.56995 この様に単純な二次方程式から複雑な振る舞いが発生し、またa=4付近では初期値X0のわずかな違い(例えば0.1と0.1000001)が将来の値Xnに決定的な違いをもたらしている。

横軸はaを、縦軸はXn収束する値を表している。a=3で2値の振動へと分岐し、更に分岐を繰り返していくことが分かる。
• 実際の個体数の変動
a=3の場合。2値の振動に収束する。 a=3.9の場合。規則性のない変動となる。


カオスの判定 [編集 ]
カオスにはその必要十分条件が与えられていないことから、カオスの判定は複数の定義の共通を持って、カオス性があるという判定以外に方法が無い。こ のため、カオスの判定とは必要条件という性質を持つ。多くは、スペクトルの連続性、ストレンジアトラクタ、リアプノフ指数、分岐などを以ってカオスと判定 している。
しかしながら、只のランダムノイズであっても、リアプノフ指数が正になるといった事例が指摘され、こういった面よりノイズ とカオスは区別はつかない(また、カオスより擬似乱数 を発生させることはできる)。 そのため、例えばリアプノフ指数や、何をもってストレンジアトラクタと見なすかの指標をそのまま信用してカオスと判定して良いかという問題が起きる。
そういった意味で、1992年ノイズか決定論的システムから作成されたデータかどうかを検定 する「サロゲート法」が提案された。サロゲート法は基本的には統計学における仮説検定 に もとづく手法であるため、与えられたデータが検定にパスした場合でも、そのデータについて「仮定したノイズであるとは言いがたい」という主張はできるが、 「カオスである」という断定をすることはできず、その意味で決定的な検定方法ではない。以下サロゲート法の概要について説明する。
• サロゲート法
サロゲート法には様々な方法がある。代表的な「フーリエ変換型サロゲート法」について述べる。
帰無仮説:元時系列は、(予め仮定する)ノイズである
有意水準をαとする
1 元時系列のパワースペクトル を計算
2 パワースペクトルを元時系列とし、位相をランダムに設定した新スペクトルをN個作成
3 新スペクトルをフーリエ逆変換して、新時系列をN個作成(これらをサロゲートデータと呼ぶ)
4 元の時系列の統計値 ・・・・・



2009年03月15日(Sun)▲ページの先頭へ
差異共振への螺旋回帰力学:差異活性における連続化と不連続化と共振・即非化:五極差異共振Media Point
(画像は次のサイトで見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10224473102.html


先に、『思考実験:共振へのらせん的回帰の力学について:-iの賦活化における連続化と不連続化と差異共振化:モダンからトランス・モダンへの転換力学:付録:ポスト・モダン分析』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10224340098.html
の試論を転載したが、所期の目的は、簡潔に明快に、テーマの考察を行うことであったが、枝葉がつき過ぎてしまったので、ここで、再考したい。
 参考2の視点から、再考しよう。近代的自我は、-1であり、それは、差異共振性を否定・抑圧している。しかし、内的差異・内的他者-iが賦活される。
 ここで、内的差異・内的他者-iの活性化を考えよう。それに呼応して、同一性自己「感覚」(身体感覚)が、その活性化によって、賦活されると考えられる。
 しかし、+iに傾斜する同一性自己意識(近代的自我)-1は、その活性化に対して、当然、抑圧する態度をとる。だから、ここで、⇒+1と-1齟齬・葛藤・対立が生じると言えよう。
 しかし、同一性自己意識、正確に言えば、同一性自己主義意識ないしは同一性主義自己意識は、賦活された身体感覚を独善的に抑圧し続けて、排除すると言えよう。ハイパーな近代的自我である。「狂気」的である。
 しかし、開いた意識をもつ場合、つまり、同一性自己意識以外に、身体感覚(精神)を意識する場合、その葛藤は大きなものと意識される。つまり、同一性(同一性自己)と差異(身体感覚=精神)との齟齬・葛藤・対立を意識する。(そして、これが広義の近代文化の問題であるが、近代文化の二重性を考えると、トランス・モダンの問題と見る方が適切である。)言い換えると、これは、同一性と差異との揺らぎの意識である。つまり、-1であったり、⇒+1であったりするのである。言い換えると、散文・物質科学的であったり、詩・神秘的であったりするのである。両者は、絶対的に分離している。(ベルクソン哲学は、純粋持続に基づく、この分裂を克服の試みである。)そう、二律背反である。
 しかしながら、この揺らぎの経験の中から、あるバランス・均衡(平衡)の感覚・意識が生成されるのも事実である。即ち、特異性の身体感覚(精神)と同一性自己知性である。両者が平静に均衡するのである。あるいは、意識はその平衡を維持しようと志向するのである。(この平衡志向意識が真の理性であろう。だから、差異/同一性平衡意識性、ないしは、簡略化して、差同平識性と呼ぶといいだろう。)
 つまり、ある意味で、-1と⇒+1が調和するようになったのである。ただし、-1の否定性がここでは、取り去られている。矛盾した言い方になるが、肯定的な-1が形成されているのである。スピノザに倣えば、能動的な-1(能動的観念)である。
 いったいそれは、何だろうか。それは、-1(乃至は+1)が⇒+1に回帰し出していることと考えられる。
 危険は、このとき、⇒+1に引きつけられてしまい、初期の⇒+1に回帰してしまうことである。つまり、-1を喪失して、初期⇒+1に回帰することである。平たく言えば、少年期に回帰することである。そして、これは、文学史的には、ロマン主義である。思想史的には、神秘主義である。
 だから、ここに、-1の大きな意義があるのである。これは、同一性自己主義(自我)である。因みに、+1は、同一性=物質であり、おそらく、鏡像である。(鏡像について少し説明すると、この場合の鏡像とは外的鏡像である。それに対して、内的鏡像がある。それは、Media Pointの鏡面に移る自己像である。ここに自己本来の姿が存するのである。鏡とは、だから、二重なのである。)
 最高度に重要な点、キーポイントは、-1と+1の弁別である。-1は、基本的に、同一性自己主義(自我主義・利己主義)である。それに対して、+1は、単に同一性自己性である。
 ここで、-1と⇒+1との調和・平衡を述べ、また、肯定的・能動的な-1を唱えたが、このポジティブな-1の-1とは、あくまで、同一性自己主義(自我主義・利己主義)であるということは、いくら強調してもし過ぎることはない。いわば、ただ、剣を鞘に収めている状態と言えようか。
 では、このポジティブな-1(ポジティブな同一性自己主義)とは何なのだろうか。それは、端的に、+iの傾斜性向を抑えた-1ではないだろうか。つまり、-iを否定しないようにするのである。これまでは、+i傾斜性向は、-(-i)というように、-iを否定してきたのである。
 この最初の-(マイナス)を抑えたものがポジティブな-1であろう。当然、(+i)*{-〔-(-i)〕}となり、(+i)*(-i)⇒+1となるのである。これが、新生差異共振性、健全な差異共振性、トランス・モダン差異共振性である。
 ただし、いわば、否定的媒介として、-1が存していることを強調しないといけない。
 だから、図式化すると、

1)初期差異共振性:(+i)*(-i)⇒+1:ルネサンス

2)同一性自己主義:(+i)*〔-(-i)〕⇒-1:近代合理主義

3)新生差異共振性:(+i)*{-〔-(-i)〕}⇒-(-1):トランス・モダン

となる。
 そして、3における右辺の-1を消さないようにしないといけない。今日、ウォール・ストリートの金融資本主義が崩壊して、利己主義を否定して、利他主義を肯定する傾向があるが、それは、錯誤である。基盤には、利己主義があるである。しかし、その利己主義が利他的に変容するのである。ただし、利己主義は絶対的には消えていない。利己主義でありつつ、利他主義になるのである。言い換えると、利己主義・即非・利他主義である。(ここで、想起するのは、ギリシア悲劇である。復讐の女神たちが、慈しみの女神たちに変容することである。あるいは、鬼子母神である。あるいは、シェイクスピア劇である。それらにおいて、同一性自己主義がポジティブな同一性自己主義、同一性自己主義的利他主義、差異共振社会主義になっているのである。)
 そう、-(-1)、これが決定的である。これを単純に+1とすると、初期化してしまい、退行である。言い換えると、マイナスのマイナス、否定の否定が、同一性と差異との調和、新生差異共振性をもたらすのである。そう、これは、一種の合・ジンテーゼである。しかしながら、ヘーゲル弁証法と絶対的に異なるのは、この合・ジンテーゼが、即非性であることである。ヘーゲルの場合は、テーゼ=同一性に回帰してしまうのである。
 以上から、トランス・モダン的差異共振性とは、二重の差異共振性を帯びると言えよう。即ち、(+i)*(-i)と(+1)*(-1)であり、結局、+ i, -i, +1, -1の四極が共振(共鳴)する状態にあると言えよう。四重差異共振性、四極差異共振性である。この四重・四極・四元性が最高度に重要である。
 この四極(四元)差異共振(差異共鳴)はMedia Pointで行なわれるが、そのとき、Media Pointは、即ち、四極(四元)差異共振Media Point自体は、第五極(第五元)である。推察であるが、ピュタゴラス学派の五芒星、ウィトルウィウス的人体図の正五角形(後記:これは思い込みミス。正五角形ではありえない)は、この五極(五元)差異共振性を指示しているのではないだろうか。いわゆる、五次元とは、この第五極Media Pointではないだろうか。
 また、トランス・モダン差異共振主義とは、正に、ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図を想起しよう。また、イエス・キリストとは、本来、この五次元を象徴していたのではないだろうか。ただし、当時は、ヤハウェ的一神教、つまり、+iと-1の要素が支配的だったので、五極(五元)ではなく、二元論になってしまったのではないだろうか。五が二になってしまったのである。しかしながら、二には、五が潜在していたのである。それが、聖霊でもあろう。

追記:私が度々引用するD. H. ロレンスであるが、彼は、初期に彼自身の独特の思想を表明しているのである。それは、「王冠」の思想である。王冠とは、この場合、彼の母国である英国の紋章にある王冠である。
 王冠の下で、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)が相争っている。そして、この図像にキリスト教三位一体を当てはめるのである。即ち、獅子は「父」、一角獣は「子」、そして、王冠は「聖霊」であり、「聖霊」が「父」と「子」のバランスを意味するのである。「父」はいわば同一性自己主義(利己主義)であり、「子」は初期差異共振主義(利他主義)である。それぞれ、+iと-iと言えよう。あるいは、-1と⇒+1である。この絶対的対立が、「聖霊」=「王冠」において解消されて、均衡・調和するというような思想である。
 だから、ロレンスの思想は、ほとんど、差異共振主義である。ただし、激烈に極性が揺れ動いていたので、表現は混沌としたものとなった。とりわけ、「闇の神」を主張したときがそうである。いったい、「闇の神」とは何だろうか。思うに、それは、「父」の下における「聖霊」ではないだろうか。「父」に制限された「聖霊」ではないだろうか。それは、他者なき一神教的エネルギーに近いと思う。

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参考1:

追記:ルドルフ・シュタイナーの悪魔論であるが、アーリマンとは+1であり、ルシファーが-1ではないのか。そして、「キリスト」が(+i)*(-i)の差異共振性ということになるのではないのか。シュタイナーはアーリマンとルシファーの中間に「キリスト」を置いたことに適応しよう。その三元論は、 Media Pointである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10223394072.html

参考2:

+ iの傾斜によって+1から-1へと同一性自己意識が転化して、同一性自己主義(自我主義・自己中心主義)が生まれる。近代合理主義・近代的自我は端的にそのようなものである。そこでは、精緻に見ると、+1と-1との揺らぎがあるように思えるが、基本は+1→-1であると考えられる。つまり、⇒+1の⇒が示唆する差異共振性がそこでは否定されているのである。
 では、新たな差異共振性への回帰の力学について解明していこう。それは、-iの賦活に拠る。しかしながら、それは、+iの傾斜を否定するのであるから、+iの傾斜と衝突するのである。つまり、-1と衝突するのである。例えば、近代合理主義は、精神性や超越性を否定するのである。(もっとも、+i自身は超越的なものであるから、一神教的な超越性は認めるのである。だから、どんな精神性や超越性を否定するのかと言えば、当然、差異共振的それであるし、それは、様態としては、神秘主義やロマン主義的な性向をもつと言えよう。この点は微妙なものがあるが、ここで留めておく。)
 では、近代主義内部において、-iの賦活がどういう様態となるか考えてみよう。+iと-1は-iと差異共振性を抑圧するが、後者は活性化するので、前者に、いわば、押し寄せるのである。つまり、衝動・情動化、つまり、エネルギー化して、前者の領域に迫るのである。もし、主体がそのエネルギーに対して、否定ではなく肯定的な態度をとるとき、どうなるだろうか。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10224340098.html

参考3:

五芒星

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%83%9A%E3%83%B3
%E3%82%BF%E3%82%B0
%E3%83%A9%E3%83%A0


Vitruvian Man by Leonardo da Vinci
ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図
http://en.wikipedia.org/wiki/Vitruvius

ファイル:Simple crossed circle.svg

circular, harmonic cross
グノーシス主義
http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%B0%E3%83%8E
%E3%83%BC%E3%82%B7
%E3%82%B9%E4%B8%
BB%E7%BE%A9



ケルト十字

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%B1%E3%83%AB
%E3%83%88%E5%8D%81
%E5%AD%97

島津氏
丸に十字

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E5%B3%B6%E6%B4%A5
%E6%B0%8F


2009年03月04日(Wed)▲ページの先頭へ
再度、同一性=物質とは何か:仮象身体と精神身体:Media Point身体と物質仮象身体
先に、同一性=物質とは仮象、マーヤーであると言ったが。そうすると、例えば、生命体の身体の臓器は物質ではないのかという疑問が直截に浮かぶのである。
 これは、キーポイントである。端的に、人間の身体とは何か、である。皮膚に包まれて、神経系、血管系、内臓系、骨格系等がある。それは、物質ではないのか。
 今日に西洋医学では、それらを物質主義的に見ているのし、それはそれなりに成果を上げている。
 しかし、それは、物質身体の視点である。これまで、私は精神身体の根源性を述べてきた。端的に言えば、例えば、肝臓であるが、それを物質身体と見るのは、同一性=物質主義の視点からであり、それは、直近の検討から言えば、仮象・幻像的なのである。それは、そう、表層身体、否、仮象身体に過ぎないのである。
 つまり、肝臓は精神身体と見るのが正しいのである。神経も、血管も、内臓も、骨格等も、精神身体と見るのが正しいのである。
 そう、先の検討から言えば、実軸ゼロ点の反映としての物質身体であり、源泉はMedia Pointの精神身体である。ということで、本件の検討は終った。端的に、身体とは、精神身体なのである。物質身体とは、同一性=物質の視点に基づく、精神身体の抽象化なのである。言い換えると、マーヤーである。


2009年02月20日(Fri)▲ページの先頭へ
愚樵(ぐしょう)氏によるPS理論の解説の試み
愚樵(ぐしょう)氏によって、プラトニック・シナジー理論の解説が行われている。先に私は愚樵氏の思想はPS理論に近いことを述べた。少し読んだだけであるが、イデア界と現実界の説明が斬新に感じられ興味深い。後で検討したい。

追記:ここで簡単にコメントをしたい。
 『「メディア・ポイント」とは、「自我(ego)」あるいは「自己(self)」と呼ばれているもののことのようです。』と述べられているが、私は気がつかなかったが、そうであると考えられる。同一性志向性(自我)をMedia Pointは含むのである。
 次に、『 「自我」がイデア界での「ゼロ」であり、「自己」が現実界での「ゼロ」になります。 』と述べられていますが、これは、思うに、用語が愚樵氏と私とでは単に逆になっているのだと思います。
 また、『「夢」はイデア界であり、実現は現実界。イデア界と現実界に差異があるから、「夢」実現へのエネルギーが湧き出てくると解釈できます。 』と述べられていますが、確かにそう言えます。
 さらに、『 PS理論でいうイデア界・現実界は、私が表現するところの【virtual】【real】に近いもののような印象を受けます。 』とありますが、それも正しいと思います。
 『ただし、これ[【virtual】]はPS理論でいう「差異共鳴性」ではなく、「同一性」でしょう。そして「差異共鳴性」志向・「同一性」志向は【private】志向・【public】志向に対応すると思われます。 』の箇所はどうでしょうか。【virtual】は、「差異共鳴性」ではないと言われていますが、微妙です。確かに、結果とすれば、【virtual】は、「差異共鳴性」ではなく、「同一性」と言えるでしょう。「差異共鳴性」とは、Media Pointの様態です。
 また、『「差異共鳴性」志向・「同一性」志向は【private】志向・【public】志向に対応すると思われます。 』と言われていますが、「情」と「公共」ということになりますが、確かに、そういうことも可能だと思います。
 ということで、用語の違いはありますが、基本的には、愚樵氏の思想とPS理論は共通していると思われます。

参照:

陰陽から三つ巴化するPS理論→愚樵氏のPS理論から
2009.02.20 Friday

不連続的差異論の展開は、海舌とRrenshi氏とのブログ上の対話によって形成され、その後、PS理論へと展開した。
海舌が思うに、このウェブ上での最初の会話段階で、既に、「完成」されていたと言っても良いほどに、広く深い体系の背景を以って、相互の理解が得られていたのである。
海舌は、夏目漱石が好きではないが、その「夢十夜」の一つの説話で、彫刻を掘る名人は、中にある形を取り出すだけだというような趣旨の話があったと思う。
まさに、同じ風景を見ているのである。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=711231
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

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プラトニック・シナジー理論についての雑感
2009-02-20
最近、プラトニック・シナジー理論なるものに関心を寄せています。

「プラトニック・シナジー理論(旧不連続的差異論)のページ」
「Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation」
「『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu」

まだ関心を寄せているという段階でよく理解できていないのですが、私の感覚的な体系と非常に近いものがあるように感じています。
http://gushou.blog51.fc2.
com/blog-entry-218.html

愚樵空論


プラトニック・シナジー理論の完成:差異共振像の同一性像への投影としての鏡像
PS理論は完成した。というのは、以下に述べるように、鏡像自己の問題の明晰な解明が可能になったと考えられるからである。
 結局、Media Pointの問題である。虚軸相においては、差異共振が発生して、いわば、差異共振像が生まれるのである。これが核心である。この差異共振像(差異共鳴像)を、同一性志向性の先端のスクリーンに投影して、反映・反照するのが、鏡像であると考えられるのである。即ち、差異共振像という「自己」を同一性像に重ね合わせて、鏡像自己(同一性自己=自我)が生まれると考えられるのである。これが、実に、連続的同一性であり、同一性主義である。
 簡単に言えば、自己を同一性像に重ねてしまうことである。この連続的同一性化の究極が近代的自我であり、まったく差異共振像=自己を否定・抑圧・排除・隠蔽しているのである。
 この二重性を分離させることが、自己認識の開始である。仏教やフッサール現象学等がこの意義をもっている。
 この鏡像の解体を確実にしたのは、不連続的差異論であり、完全にしたのが、プラトニック・シナジー理論である。これで、近代は絶対的に終焉して、トランス・モダンへと参入したのである。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論の第一世代は完成したのである。


2009年02月18日(Wed)▲ページの先頭へ
ベルクソンの『物質と記憶』とトランス・モダン:純粋持続とMedia Point
今、以下の本(田島節夫訳)を読んでいるが、極めて刺激的である。トランス・モダン的要素のあるジャン=リュック・ナンシーの『共同-体(コルプス)』よりも、哲学的に優れている。
 純粋記憶と純粋知覚の関係とは、差異と同一性と読み替えることができるのであり、正に、Media Pointで説明できると考えられるのである。先に述べた通り、ベルクソンは、フッサールと並ぶトランス・モダンの先駆者と考えられる。


物質と記憶 (単行本)
アンリ ベルグソン (著), Henri Bergson (原著), 田島 節夫 (翻訳)


2009年02月16日(Mon)▲ページの先頭へ
五次元とアセンション
私は2012年のアセンション云々は胡散臭いと思っている。
 以前、ノストラダムスの大予言があったが、それと似ている。もっとも、それは単純に否定できない。
 五次元にアセンションが何故胡散臭いのかと言えば、実は、世界の仕組みが本来五次元と考えられるからである。時空四次元は、現象界の発想である。しかし、PS理論では、Media Point における虚軸次元を説くものであり、それは五次元なのである。
 そう、ピュタゴラス派が五芒星を説き、ダ・ヴィンチが、ウィトウィルス的人体図を描いたが、それも五次元を示唆していると言えよう。だから、五次元アセンションはナンセンスなのである。もともと、五次元なのである。ただ、五次元が公的に明瞭になるということはあるだろう。

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2012年世紀末の嘘を暴くのはとても大切


最近2012年の話題が活発になっている。様々な作り話があるが幾つか例を挙げると:地球がフォトン・ベルトに入って世界が浄化される(沢山の人が死ぬ):キリストやユダヤ教的な世紀末が来る:良い宇宙人(白い可愛いやつ)VS悪い宇宙人が戦って沢山の人が死ぬ:マヤ文明のカレンダーが2012年で終わるので世界が終わる、などなど。それぞれストーリーは違うが、結論は全て一緒だ。「沢山の人が死ぬが、一部選ばれた人達は楽園のような暮らしをする。」またそれぞれの大元を探ると、必ず欧米の闇の政権である悪魔教に辿り着く。

まだ悪魔教がおとぎ話だと思う人たちがこのリンク を見て下さい。この不自然なサインが偶然だと思うならこの写真 も見て下さい。
http://benjaminfulford.typ
epad.com/benjaminfulford/
BenjaminFulford 


2009年02月08日(Sun)▲ページの先頭へ
マイクロヴァイタ論とPS理論:マイクロヴァイタとMedia Point
以下の、P. S. サーカーのマイクロヴァイタ論(直訳すれば、ミクロ生命論)は、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)と通じるものがあると直感される。
 興味深いのは、マイクロヴァイタには、霊妙な部分と粗雑な部分があり、物質も同様であるという点である。
 直感では、マイクロヴァイタとPS理論のイデアは通じるものがあるのである。思うに、マイクロヴァイタは、Media Pointと考えるといいかもしれない。何故なら、次のように述べているからである。

Microvita are a happy blending of matter and idea. There is a silver lining made of the initial stage of matter and the final stage of microvita. Or in other words, between the final stage of microvita and the initial stage of matter there lies a silver lining.

a silver lining made of the initial stage of matter and the final stage of microvitaの「銀の裏」が核心である。Media Pointの形成する即非性において、確かに、「銀の裏」が生じよう。つまり、イデア(差異)と物質(同一性)の境界、いわば、転換境界がサーカーの説く「銀の裏」となるだろう。ここで、D. H. ロレンスが、真の太陽は後ろ向きであると述べた言葉を想起する。真の太陽の背中が「銀の裏」である。
 不連続的差異論の時期に展開した考察から言えば、イデア(差異)と物質(同一性)の境界には、イデア面と物質面があるということになる。そして、「銀の裏」とは、的確に言えば、境界のイデア面となると考えられる。
 また興味深いのは、マクロヴァイタと物質には、霊妙な部分と粗雑な部分の二重性があるとサーカーが述べている点である。
 これをPS理論的に説明するなら、イデア自体、つまり、虚軸事象は霊妙な部分であり、Media Pointにおいては、粗雑な部分であり、また、物質においては、Media Pointは霊妙であり、その帰結は粗雑な部分である。
 この問題は不連続的差異論の展開の時期に行った諸検討に通じるものであるが、今、哲学の問題に関連して述べたい。
 問題は、ハイデガーを含めてポスト・モダン哲学(主に、ドゥルーズとデリダ)をどう明確化するかである。この点については、かなりブレているのである。
 先に、ハイデガーの「存在」を同一性における無意識のMedia Pointの情態と言ったが、それではまだ、理論的には、不明瞭な部分があるのである。これを、マイクロヴァイタ論の視点を援用すると明確になるように思えるのである。
 結局、Media Point の虚軸面と実軸面を見ると、この問題がクリアになるのではないだろうか。即ち、端的に言えば、ハイデガーの存在論は、Media Pointの実軸面を存在としているのであり、世界内存在とは、同一性意識であると考えられる。つまり、Media Point実軸面=「存在」から同一性志向性によって同一性意識=世界内存在(ないしいは、現存在)が形成されるということと考えられる。【因みに、フッサールについて言うと、実に、トランス・モダンの先駆者である。彼は、Media Pointの虚軸面に達したと考えられる。即ち、超越論的主観性とは、Media Pointの虚軸面を指していると考えられる。しかしながら、フッサールは同一性志向性(ノエシス)に囚われていたので、虚軸事象そのもの、即ち、差異共鳴性までには達しなかったと考えられるのである。
 もう少し説明する必要がある。以前述べたように、フッサールは同一性志向性の内に、超越性を含めてしまっていると考えられるのである。言い換えると、フッサールは、Media Pointの虚軸面と実軸面を混同しているということである。このために、実軸面の同一性が虚軸面の差異性を覆ってしまったと考えられるのである。だから、フッサールのノエシスとは、差異共鳴性を含んでいるのである。しかしながら、それを明確には把握できなかったのである。】
 また、ドゥルーズの場合であるが、Media Pointの特異性・特異点の不連続性をまったく無視する誤謬に囚われていると考えられるのである。つまり、イデアと物質が連続化してしまい、ヘーゲル哲学のようになっているのである。同一性は普遍性となるのである。これは、政治的には、全体主義である。結局、ドゥルーズの思想には、Media Pointが不在なのであり、だから、内在性(同一性)の思想を説くことになったと考えられる。そう、唯物論である。
 次に、デリダの場合であるが、以前述べたが、やはり、ハイデガーの思想を踏襲していると考えられるのである。即ち、Media Pointの実軸面=「存在」と同一性(物質)との「差異」を差延として捉えて、脱構築主義を唱えたと考えられるのである。
 その「差異」=差延は、一種の不連続性があるのである。(しかしながら、十全なMedia Point自体の不連続性ではない。)即ち、Media Pointの実軸面がもつ不連続性があるということである。(つまり、非決定性である。)
 そして、後期デリダは、このMedia Pointの実軸面を取りだしたと言えよう。即ち、「すべての他者はまったき他者だ Tout. autre est tout autre」という言明が為されたのである。しかしながら、デリダは、フッサール現象学の超越性を彼の哲学の出発点において否定しているので、十全な Media Point、まったきMedia Point、純粋なMedia Pointには到達できなかったと考えれる。これで、ブレが解消され、斉合的に説明できたと考えられる。
 さて、最後に、やや飛躍的であるがプラトンの『ティマイオス』の有名な「コーラ」について、ここでの検討を踏まえて、端的に述べたい。
 「コーラ」とは、結局、十全なMedia Pointのことと考えられる。プラトンは、同一性志向性としての「イデア」を述べてはいるが、それの母体として、やや謎めいて、十全な、まったき、純粋な Media Pointを説いたと考えられるのである。これで、西洋哲学の謎が解明されたと言っても過言ではないだろう。
 
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Microvita exist in the world of ideas as well as in the crude world. That which exists purely in the world of ideas is beyond laboratory research, but in the latter case research can be done in physical, chemical and biological laboratories. Though this microvita research is to be done within the inner mind, inside idea, inside spirit, tests are to be started in physical laboratories.

Microvita are a happy blending of matter and idea. There is a silver lining made of the initial stage of matter and the final stage of microvita. Or in other words, between the final stage of microvita and the initial stage of matter there lies a silver lining.
21 May 1989, Calcutta

The initial stage of matter is beyond perception. It falls into the category of the subtle realm of science. Most of the atomic research done until now has been done on the basis of the guessing method, because different stages of the atom, and different constituent parts of the atom, do not come under direct perception―they come within the arena of human concept. That is why microvita research is to be done first in the mental laboratory.

Both atoms and microvita have subtler and cruder portions. The portion which is closer to idea is subtler and the portion which is closer to matter is cruder. For studying the cruder portions of both atoms and microvita, physical laboratories are necessary. For studying the subtler aspects of both, spiritual practices are necessary. The portion of atoms which have a close proximity to idea―that is, the subtler portion of atoms―is understood by spiritual practices. This part cannot be understood in physical laboratories only.
http://www.ru.org
/10-2Sarkar.htm
Renaissance Universal


2009年02月05日(Thu)▲ページの先頭へ
PS理論の展開:PS理論的経済学を目指して
プラトニック・シナジー理論(PS理論)の本体に関して、かなり煮詰まってきたきたと考えられる。
 これ以上述べることは、反復になるので、もう述べるのを控えたい気分である。結局のところ、いちばんの問題は、経済である。そして、それは、私の弱いところである。だから、経済研究が必要なのである。
 ということで、経済並びにその他の研究のため、これからは、更新を控える予定である。
 そう、哲学的には、PS理論はほぼ完成に達しているのである。思うに、これから、PS理論を検証するような展開となると考えられる。思うに、ここ数十年で、PS理論の正しさが証明されよう。これは、新理論の必然的運命である。
 とは言え、そのような呑気なことを言ってられない状況である。いち早く、多くの人にPS理論を知ってもらいとは思っている。


2009年02月04日(Wed)▲ページの先頭へ
プラトニック・シナジー理論は、観念論と唯物論の真の統合である
以下、「東海」氏の記事であるが、「引き寄せ法則」を肯定的に述べている。それは、哲学的に言えば、観念論である。
 しかしながら、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)から見ると、それは誤謬である。PS理論も広義の観念論に入るが、それは、「観念」と物質との不連続性を説くものであり、単なる観念論ではないし、当然、唯物論、実在論ではありえない。
 簡単に問題点を言うと、物質や「実在」は、確かに、「心」が生んだものであるが、それは、「心」から相対的に独立したものである。PS理論では、+1と表記するのである。この+1の世界は、物質界であり、広義では、物質の法則に従うのである。
 物質界の法則、つまり、物質科学の法則において、「心」の法則を適用するのは、誤謬である。例えば、水に対して、「念力」で、それを、ワインに換えるというのは、絶対的には不可能ということではないが、物質界の法則からは一般的に不可能と見るのが適確なのである。

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★ 2009年02月04日水曜日 6時更新

 筆者は、カッと来ると見境なく激怒するデキの悪い人間で、ときどき暴走するので申し訳ない。今日は、なんでも板に、百歳自転車老人の信号無視に対し、検察が2年六月の求刑をしたことの論評を、自分の事故体験を交えて書いたところ、筆者が殺人犯という内容で三件の嫌がらせ書き込みがあり、忌み嫌うハキリ溝口なども引用されていたので、相当に激怒が収まらなかった。ちょっと暴走気味の表現で、不快な思いを抱かせたことをお詫びします。

 2月2日に紹介している動画、シークレットについて、驚くような情報がもたらされた 。これによれば、動画内にサブミナル手法による刷り込み画像があるとのこと。
 シークレットの基本的主張は「引き寄せの法則」であって、これ自体は間違っていないと思う。
 筆者は30年以上前から、「意識が存在を規定する」と考えるようになり、この世界の実在は、自分が知覚すること、認識することによってのみ成立するのであって、「我思う、故に我在り」こそ、存在の原理であると確信していた。対象世界は、自分の心が作り出す実存であって、自分の心が前提であって、すべては自分の心が恣意的にフィルターをかけ、自分の欲求に応じて存在の変化をもたらしている。すなわち「求めるが故に変化する」こそ唯一の正しい原理と確信していた。
 この意味で「引き寄せの法則」は実に正しく、人生の根源を示すものだと思う。しかしながら、指摘通りに、なんらかの洗脳を目的に作られた動画だとすれば、これが何の目的で、誰が行ったものなのか、我々ははっきりと理解しておく必要があるだろう。
 筆者は、今の段階で「分からない」というしかない。

 再び北米プレートに異常活性化が復活しており、半月トリガーに、東北太平洋で多数の地震が起きた。これは千島M7.5の数日〜数十日前の状況と同じであって、北米プレートに巨大地震が発生する前兆だろうと理解している。 この周辺で、巨大地震前駆的群発と思われる活動は青森東方沖で、おそらく青森東方沖〜宮城沖にM8級が迫っていると予想している。弘前大学理工学部の地震発生データで、収束傾向が確認できたなら、数十日以内に発生すると考えている。

 今朝、相変わらず深刻な体感、耳鳴り、おそらく北米プレート活性化に対応するもので、浅間・桜島・アラスカの火山活動とも関係しているだろう。今朝は早朝4時に目覚めて寝られなくなった。なお、「なんでも掲示板」に事故の問題を書いたら、予想通り、さっそく嫌がらせのアホが来て、ハキリ坊などと称するゴミクズの書き込みを援用しているが、これは腐敗した波動をもたらし、読者を不快にさせる効果しかないので見つけ次第削除、書き込み禁止としている。長野から書き込まれているが、申し訳ないが、プロクシのため同じアドレス・ブロパイダの方も一緒に制限してしまうことをお断りしておかねばならない。

● 百歳の老人の過ちに対し、豚箱にぶちこんで制裁する検察 (怒りのあまり表現が過激だったので変えました、すみません)

 【茨城県取手市で昨年4月、赤信号を無視して国道交差点を横断した自転車を避けようとしたトラックが建物に激突して運転手が死亡した事故で、重過失致死罪に問われた自転車の無職秋田正夫被告(96)(取手市)の初公判が3日、水戸地裁土浦支部であった。 秋田被告は起訴事実を認め、検察側は「結果は取り返しのつかない重大なもの。無謀かつ極めて危険な行為」と指摘、禁固2年6月を求刑した。 弁護側は最終弁論で「現場の交差点は信号を誤認しやすく、被害者側が制限速度を超過していた可能性もある」として過失致死罪の適用を求め、即日結審した。判決は3月3日の予定。 公判は被害者参加制度が適用され、死亡した運転手の妻が「事故原因は被告の勝手な判断と行動。高齢者でも罪は罪」と意見を述べた。 】

 いいか、よく聞け! 百歳近い老人は障害者・子供と同じ社会的弱者だ。誰でも、これくらいの年になれば、アタマもぼける、目も見えにくい、間違いを犯して当然なんだ。だからといって、外に出さないとは論外で、自力で自転車に乗れるほど健康なら、素晴らしいことだ。
 しかし信号を見落としたり、安全確認も衰えるのが当然で、ならば、彼等を閉じこめるのではなく、衰えた能力でも安全に出歩けるインフラを整備していやるのが筋というものだろう。健常者だけしか通用しない社会のあり方が間違っているのだ。社会は、子供や老人・障害者などの弱者とともにあって、はじめて正常に運営できるものであって、健常者だって飲酒や病気などで、いつでも社会的弱者になるのだ。弱者が安全に行動できる社会こそ、正しい社会のあり方なんだ。

 ところが、上の記事を見てみよ! 検察の異常な厳罰傾向について何度も触れているが、今度は百歳の老人に信号無視で事故が起きたからと、懲役2年6月を求刑している。最近の世間知らずのバカボン裁判官なら本当に実刑判決を出すかもしれない。そうなれば秋田さんにとっては終身刑になりかねない。
 年寄りを大切にしない社会が、どのような報いを受けるのか考えたことがあるのか? それは老人の経験と知恵が生かされない、若者の暴走だけの社会を作り出すものだ。今、社会が悪くなっている大きな理由の一つが、年寄りを疎外し、その経験を役立てないところから来ているのだ。みんな年寄りになるのだ。だから年寄りには優しくするものだ。それが未来を作るということなのだ。

 それなのに、百歳の老人の、ありふれた過ちに制裁、報復するつもりか! こうした事故というものは、調べてみれば、原因としてさまざまな要素がある。老人特有の体力・認識の衰えだけではない。赤信号で飛び出した老人を避けきれずに激突死したトラック運転手は、信号交差点で安全に停止できないほどのスピードを出していたことになる。また、視認性の悪い交差点を放置し、安全施設を整備しなかった行政にも責任がある。事故というものは、誰が悪いなどと決めつけられるものではないのだ。
 一つの事故を徹底的に検証するならば、加害者と言われる人だけではなく、被害者にも落ち度がある場合が多いし、環境に大きな原因が潜んでいる場合も大部分だ。それを老いた加害者に、すべての責任を背負わせて、懲役刑にすれば問題が解決するとでもいうのか!

 こうした発想をする検察官、それを支持する国民、「罪は罪と処罰を要求する、死んだ本人でもない遺族」、いずれも愚劣な馬鹿野郎たちだ。おまえたちは、この世に生きる資格など存在しない! おまえたちは、これからの社会、子供たちの未来のことなど何一つ考えていない。
 人は過ちを犯すものだ。ましてや、百歳近い老人は、危険を伴って当然だ。だからといって、社会は、人の過ちに対して懲役刑や死刑という制裁報復の発想で何が得られるというのか? それは一時的な報復感情を満足させるかもしれないが、結局のところ、人々に処罰へのプレッシャーを与え、恐怖にすくんだ目先のことしか見えない家畜人間を作り出すだけではないか?

 我々が目指すべきは、弱者でも安全に出歩ける街作りであって、過ちを犯した人、事故を起こした人を制裁したって何一つ未来に役立たない。過ちや事故の原因を調査し、繰り返さないように対策することだけが前向きの解決であって、子供たちの未来のために本当に必要なことなのだ。

 この問題については、筆者の事故体験を交えて「なんでも掲示板」に書いた。すると予想はしていたが、「筆者が殺人者」とか書いてきたゴミが再び嫌がらせを書き込んでいる。こうした救いのない人間のクズが、人に報復し制裁することに無上の喜びを感じるだけの、権力に洗脳されたバカが、「制裁・報復せよ!」と世論をかき回し、死刑を支持して社会をますます極悪の泥沼に落とし込んでゆく。
 悪いことはいわないから、もう二度と人間社会に戻ってくるなよ。せいぜい豚や羊にでも生まれて理不尽な殺戮に悲しみ、何が間違っているのか学ぶことだ。

■ 「かんぽの宿」利権疑惑について面白い記事 (副島サイト、重たい掲示板より )

 【ここの読者だけに真実を教えておく。 この「オリックスへの安価での売却」の情報を鳩山邦夫総務大臣にリークして、売却中止に動くように仕組んだのは、実は、総務省の上級官僚たちと日本郵政グループの元官僚たちだ。 民営日本郵政グループの首脳部の多くは、旧郵政省の元官僚たちだ。郵政民営化と同時に民営会社に転身しただけで、彼らの発想の根源は総務官僚たちとまったく同一だ。 そのことを、皆が忘れている。
 郵政民営化は完全実施まで波乱含みで、特定局長会や郵政労組は、「株式売却の凍結を!」と叫んでいる。できるならば(総務官僚の規制の効く)特殊会社的民営会社でという期待は、それぞれの思惑に違いがあるだけで、郵政一族共有のものだ。 この、「かんぽの宿」売却計画は、完全民営化を目指す小泉サイドペース、つまり日本郵政グループ内の民間人ペースで遂行されてきた。 しかし、「かんぽの宿」を売却されると、それに付随している、郵政の息のかかった小さな企業が息の根を止められる。たとえば、清掃、ビル管理、といった仕事を受け持っている、郵政の子会社群だ。 それはどうしても避けたい。 売らせたくない。 そこで、何も知らない鳩山総務相にリークして、売却に待ったをかけさせた、というわけだ。 売らなければ、国有地(あるいは日本郵政グループの財産)として残る。
http://blog.goo.ne.jp/segawako
usuke/e/718db7469bd3c8d
575a0bce3bbf44b42】

 ● 「かんぽの宿」払い下げ疑惑は、小泉内閣による戦後最大の疑獄事件に向かう様相を見せているが、これをリークしたのは、郵政公社の利権を守ろうとする元郵政官僚たちだと指摘している。まったく、ありうる話で、おそらく、そうなのだろう。
 確かに1万円の払い下げが、わずか数ヶ月後に6000万円で転売されている事情を見れば、厚労省と同じ壮大な詐欺の構造であって、必ず、政治家や官僚たちの利権の構造に結びついている。それを暴露するのも、利害関係の相反する「同じ穴のムジナ」たちであるのも必然的なものだろう。
 しかし、問題の本質は、個々の利権・汚職に憤激するのではなく、どうして、これほどに官僚が腐敗しているのか? という視点であって、筆者は、すでに、1970年代に、階級対立は、資本家VS労働者ではなく、官僚VS国民になると明確な予感を抱いていた。
 その最大の理由は、当時から、国民の大多数が学歴差別と利権に迎合し、みんなが特権階級を目指す上昇志向に洗脳されていたからだ。社会を底辺で支える人情を蔑視し、アメリカ型の贅沢浪費三昧、与差別者に憧れる若者が増えれば、民間も役人も、金儲け、地位・権力を人生の指標にする腐敗した国民ができあがるのは当然であって、このところ問題になっている年金詐欺の本質も、実は差別システムを肯定し「エライ人」に憧れる国民自身が招いた愚かな自業自得であると断定するしかなかったのだ。
 こんな競争主義価値観の行きつく先は腐敗国家であり、国家の崩壊に決まっているではないか? 今起きていることは、まさしく自業自得の地獄落ちなのである。
 その最大の理由が、731部隊人体実験虐殺、南京大虐殺、朝鮮植民地化などの傲慢・残虐を何一つ反省せずに正当化し、「強い国家、美しい日本」とやらの妄想を振りまき続けた所行なのだ。今まさに、弱者への思いやりを見失い、人間性の腐敗した「愛国者」たちに天誅が下されようとしているのだ!
東海アマチュア無線  地震予知研究会


2009年01月10日(Sat)▲ページの先頭へ
宗教と科学の共通性について:汎エネルギー論としてのPS理論
私は科学について語ったり、宗教について語ったり、その他様々な分野に言及している。
 いちばん疑問、怪訝、不審に思われるのは、どうして、科学と宗教を同一次元で説明することができるのかということではないだろうか。
 今は簡単に言うが、(以前触れたことがあるので、既述となるが、)結局、エネルギーの問題なのである。私は宗教とはエネルギーの表現の問題だと考えている。端的に、神とはエネルギーである。
 また、科学の対象も根本的にはエネルギーである。エネルギー論として、私は宗教と科学を同一次元で語っているのである。そう、哲学も同様である。エネルギーの精神的力学的論理を哲学で解明するのである。
 もう少し言えば、エネルギーとは、心的エネルギーである。イデア・エネルギー、超越エネルギー、差異共振エネルギーである。これが、物質的に現象化するのである。これを押さえておけば、トランス・モダン哲学としてのプラトニック・シナジー理論は森羅万象を解明する武器となるのである。
 また、今日、最も重要な経済問題も、この視点から解明できよう。経済は唯物論の視点からは理解不可能である。資本は明らかに、精神と技術と労働との差異共振によって新たな価値を創造するのである。(そして、市場を介して、価格が決定するのである。)マルクスの労働価値説はまったく誤りである。また、資本を同一性価値、貨幣価値によって評価するのは間違いである。精神的知性とテクノロジーと労働の共鳴・交響によって資本は発展するのである。
 だから、資本主義とは、精神/技術/労働的資本主義なのである。差異共振資本主義である。この点は後でさらに検討したい。


2008年12月30日(Tue)▲ページの先頭へ
同一性と物質:その3:再考:内的視覚と外的視覚の関係:前者のイデア的記憶・記録性とアカシャ年代記
先に、「Media Point とは物質であり、且つ、物質ではない。内的視覚であり、且つ、外的視覚であるが、それらは即非関係であるということになる。」と述べたが、そうすると、内的視覚(ヴィジョン)と外的視覚(イメージ)との関係が不明瞭になるので、再検討したい。かなり複雑な問題なので、単刀直入、直感思考でいきたい。
 内的視覚が外的視覚を形成するとしよう。内的視覚は同一性志向性をもち、それが、外的視覚(同一性=視覚器官=物質)となるのである。しかし、同時に、内的視覚とは、Media Point を起点(基点)にしているので、そこには、超越性の視覚(超越的視覚)があると考えられる。即ち、陽光は、超越的光とも感知・知覚されるのである(だから、太古の太陽崇拝や神道とは、トランス・モダン科学的な要素があると言えよう)。
 さらに、内的視覚には、造形力(想像力)があると言えよう。例えば、小説を読んでいると、言葉を介して、情景が想起・喚起されるが、その情景形成力が造形力である。それは、内的視覚によると考えられるのである。それは、私見では、夢の造形力と一致すると思われる。この内的視覚の造形力も、同一性志向性と共通すると考えられる。(それは、ひと言で言えば、ファンタジー力であろう。)
 とまれ、そうすると、内的視覚(ファンタジー力)が外的視覚(イメージ力)を形成するのであるが、この関係は先に述べたように、即非関係であるということになる。連続性(同一性)と不連続性(差異・特異性・差異共振性)の即非関係である。
 この即非関係を、同一性=物質を含めて見るとどうなるだろうか。すると、内的視覚は同一性=物質であり、且つ、非同一性=非物質ということになるだろう。言い換えると、内的視覚は身体であり、かつ、身体ではないということである。(思うに、メルロ=ポンティの視覚的身体論は、この内的視覚の視点から見ると、明晰になるだろう。私見では、メルロ=ポンティは、内的視覚と外的視覚を混淆していて、その点で不分明なのである。)
 結局、この点がこれまでの身体論で不明晰であったと思う。広義のポスト・モダン哲学は、身体論ないしは身体性に注目したが、それは、内観と外観が混淆していたと考えられる。換言すると、精神と物質が混淆していたのである。例えば、ドゥルーズが説くスピノザ哲学の身体性であるが、それは、精神性と結びついた身体性であるから、物質と精神が混淆していると言えるのである。【追記:スピノザ哲学、いわゆる、心身並行論であるが、それは矛盾していると考えられる。記憶があいまいであり、誤解(勘違い)を恐れずに言えば、スピノザの身体には、精神が入っているのであり、精神と身体が融合しているのである。しかしながら、心身二元論を前提にしているのであるから、それは、前提と矛盾することになるのである。とまれ、PS理論から見ると、スピノザの心身並行論とは、精神主/身体従の即非論によって、発展的に吸収されると考えられる。即ち、PS理論では、精神⇒身体であり、精神・即・身体であり、且つ、精神・非・身体、換言すると、精神・即非・身体なので、精神が身体へと影響することが、明瞭に理解されるのであり、また、精神と身体(物質的身体)とは不連続なので、精神が身体を完全に支配するということはなく、言わば、身体の相対的な物質的自立性があるのである。
 援用して言えば、この不連続性があるために、いわゆる、霊的治療とは胡散臭いのである。物質的身体の相対的自立性があるのだから、物質的身体の治療が必要なのである(西洋医学)。しかしながら、そうとは言え、身体(物質的身体)は、精神の終端なのであるから、精神的治療も必要となるのである(東洋医学)。だから、西洋医学と東洋医学の相互補完的な医学、いわば、中洋・両洋医学が必要である。】
 だから、PS理論的には、身体は同一性=物質に限定するのが明確なのであり、精神と混淆すべきではないのである。ただし、精神が身体と化し、且つ、身体とは不連続であるという即非性においてである(だから、精神が物質となるのであり、また、物質とは不連続であるということである。これが、PS理論的イデア論である。)。(追記:PS理論的身体論については、言い足りないので、後で補足したい。)
 では、さらに考察を展開すると、外的視覚=同一性=物質は常に解体して行くのであるが、その知覚の記憶・記録はどこに保管・保存されるのだろうか。
 視覚に限定すれば、外光が外的視覚を刺激するが、その刺激(エネルギー)は、当然、内的視覚においても感受・感知されると考えられる。内的視覚に感受・感知されるとはどういうことだろうか。
 この問題は精緻に検討する必要があるが、ここでは予見を述べておくに留めたい。おそらく、内的視覚の構造は変わらないが、内的視覚の構成が変化するのではないだろうか。外的視覚に対応して、内的視覚の構造内の構成が変化して、感受・感知するのではないだろうか。そうして、内的視覚は外的視覚を記憶・記録するのではないだろうか。
 そうすると、内的視覚とは精神・イデアであるから、外的視覚とは、精神・イデアに記憶・記録されるということになる。そうならば、現象界(現実世界)は、イデア界に記憶・記録されることになるだろう。精神波動(イデア波動)として、記憶・記録されることになると考えられる。そうすると、シュタイナーのような神秘学者が説くアカシャ年代記のその部分においては、説得力のあるものとなるだろう。また、精神・イデアは過去だけでなく、未来にも通じるのであるから、アカシャ年代記の未来予知性も説得力をもつことになろう。ただし、精神・イデアないしは精神界・イデア界を読解するというのは、リスクがたいへん大きいだろう。


2008年12月11日(Thu)▲ページの先頭へ
夢と現象:内的視覚と外的視覚:ヴィジョンとイメージ:光とMedia Pointの励起
これは興味深い。夢は同一性の投影である。あるいは、同一性ヴィジョンである。
 現実は、同一性身体の映像ではないだろうか。だから、同一性ヴィジョンとしての夢と同一性身体としての現象ということになる。ヴィジョンと身体との関係は即非的である。
 思うに、どうして、夢の映像が、夢を見ている時に本当だと思われるのかと言えば、それは、同一性のヴィジョンに実在の感覚があるからではないだろうか。志向性のヴィジョンとも言えるのではないだろうか。これが、実在感を生むと考えられるのである。
 そして、覚醒時においては、身体が入るのである。外的視覚、身体的視覚が入るのである。志向性のヴィジョンが内的視覚とすれば、この内的視覚に外的視覚ないしは身体的視覚が重なり、外的現実感を生んでいると言えよう。
 しかしながら、一般には、内的視覚の方に根本的な実在感があるのを忘却しているのではないだろうか。そう、いわゆる、バーチャル・リアリティとは、内的視覚に拠ると言えるのではないだろうか。
 近代合理主義/近代的自我は、内的視覚を無視してきたと考えられる。しかし、芸術や心理学等では、この内的視覚に関わってきたと考えられる。いわゆる、モダン・アートは、この内的視覚と外的視覚とのズレ(差異)を表現していると考えられる。ピカソなどが典型であろう。また、映画は明らかに、内的視覚に拠ると言えるだろう。
 ただし、この内的視覚と外的視覚との関係を美学や哲学は、連続性の視点から捉えてきたと考えられる。連続性美学・哲学の典型が、ドゥルーズの『シネマ』だと考えられる。
 PS理論は、内的視覚と外的視覚が不連続であることを説くものである。そう、ここは、正に、イデア論の核心でもある。イデアとは、内的視覚の世界に属するのである。ideaとvideoは語源的に一致するのである。
 思えば、以前、私は、ヴィジョンとイメージを区別したが、それは、この内的視覚と外的視覚の区別と相応すると言えよう。
 私が以前、太陽の光に超越光を見ると言ったが、それもここから説明ができる。太陽光を外的視覚で感覚するが、それ以外に、内的視覚で感覚するのである。この内的視覚が超越光を感じるということだろう。それはどういう力学かと言えば、内的視覚にあるMedia Pointがエネルギー(太陽光)を感受して、そこで、垂直の超越的エネルギーを喚起するということではないだろうか。いわば、励起という事象ではないだろうか。簡単に言えば、光のエネルギーを受けて、Media Pointが賦活されて(励起)、超越エネルギー=超越光を放出するのではないだろうか。後で、精緻に検討したい。
 
@@@@@@@@@@@@@@@@@@

視覚情報、脳活動分析し再現 ATRが成功、世界初


図脳活動から見たものを推定する仕組み

 あなたが見たのは「A」や「○」ですね――。脳活動を分析するだけで、見ている文字や図形をコンピューター上で推定、再現することに、国際電気通信基礎技術研究所(ATR、京都府精華町)などのチームが世界で初めて成功した。介助の必要な障害者や高齢者が望むものをイメージすれば、他人が解読できる一歩になるかもしれない。

 目で見た情報は、後頭部の「第1次視覚野」に送られる。ATRの宮脇陽一研究員らは、血流の変化から神経活動を読み取る機能的磁気共鳴断層撮影(fMRI)を使って、この部分の活動を測定することで、見たものを推定する手法を考案した。

 まず、被験者に縦横10列の100マスがランダムに点滅する画像を見てもらい、脳活動のパターンを記録した。その上で、点滅するマスで文字や図形を描いた画像を見てもらい、脳活動を測定。前の記録と照合して、コンピューターで、見た文字や図形を推定して再現した。

 条件を決めずに様々な文字や図形を識別できたのは初めて。研究成果は11日付の米科学誌ニューロンに発表する。

 宮脇研究員は「将来、脳の指令を読み取って、自在に操作できる車いすを実現するような新技術の開発につなげたい」と話している。(田之畑仁)

http://www.asahi.com/kansai
/news/OSK200812100101.html

夢を「見る」のも夢じゃない!? 脳血流から画像再現、ATRが成功


人が目で見ている文字や図形を脳から読み出し、画像化することに国際電気通信基礎技術研究所(ATR、京都府精華町)神経情報学研究室の神谷之康室長、宮脇陽一研究員らのグループが世界で初めて成功した。

 将来は睡眠中の夢や、脳内で思い描いたイメージも画像化できる可能性があるとしている。11日発行の米科学誌「ニューロン」に掲載される。

 人が目で見たものは、網膜で電気信号に変換され、後頭部にある大脳視覚野で処理される。

 今回の研究では、100コマ(10×10)の画面上に、暗部と点滅部をモザイク状に配した画像を440種類作成。それぞれを被験者2人に見てもらい、視覚野での脳活動(血流の変化)を機能的磁気共鳴画像(fMRI)で測定し、コンピューターで解析して認識パターンを作成した。

 その後、暗部と点滅部で構成された「□」「×」など5種類の図形と、「neuron」のアルファベットを一つずつ見てもらいながら、同様に視覚野の活動を測定し、事前に作ったパターンを基に画像情報を再構成したところ、ほぼ同じ文字や図形を再現できた。約1億通りの画像が読み取れるという。

http://osaka.yomiuri.co.jp
/eco_news/20081211ke02.htm



夢を映像化!? 脳内画像を脳活動から再現

12月11日10時28分配信 産経新聞

夢を映像化!? 脳内画像を脳活動から再現

拡大写真

見た画像を脳活動から再現(写真:産経新聞)
 人が目で見て認識している視覚情報を、脳活動を調べることで読み取り、コンピューターで画像として再現することに国際電気通信基礎技術研究所(ATR、京都府)などの研究チームが初めて成功した。まだ単純な図形や文字で成功した段階だが、将来は夢を映画のように再現できる可能性もあるという。11日付の米科学誌「ニューロン」に発表した。

 物を見たときの視覚情報は、大脳の後ろにある視覚野という領域で処理される。研究チームは被験者に白黒の画像を見せ、視覚野の血流の変化を磁気共鳴画像装置(MRI)で計測。脳の活動パターンから効率よく画像を解読するプログラムを開発した。

 実験で使った画像は小さなマス目を縦横10個ずつ並べたもので、四角形や十字、アルファベットなど11種類。被験者が画像を見てから4秒後に、ほぼ原画に近い画像をコンピューターで再現できた。また、見ているままの状態を動画で再生することにも成功。再現精度は個人差があるが、カラー化も原理的には可能という。

 夢を見ているときや、頭の中で映像をイメージしているときも、視覚野は活動すると考えられている。ATR脳情報研究所の神谷之康室長は「夢を読み取って画像化することも、荒唐無稽(むけい)なことではない。医療での患者の心理状態の把握、新たな芸術や情報伝達の手段などに応用できるかもしれない」と話している。

 人が見ているものを脳活動から解読する試みでは、「縦じまか横じまか」といった単純な判別は可能だったが、見ているもの自体を画像として読み取ることはできなかった。
http://headlines.yahoo.co.jp
/hl?a=20081211-00000516
-san-soci


2008年12月07日(Sun)▲ページの先頭へ
usyukuro氏への返信:プラトニック・シナジー理論への質問に対する答え
usyukuro様

以下の質問は原理的なものなので、微妙な問題ですが、
部分ごとに、簡単にお答えしたいと思います。
あまり、判明な答えにはなっていないかもしれません。

1)
>虚軸に時空(次元)が重なりあっていて、
>+の極性を持った時空をA、
>-の極性を持った時空をBとすると
>これが重ね合わさった状態が
>量子ないしは素粒子、特異点ということなのでしょうか?

1)の質問はとても興味深い考え方ですが、
PS理論の視点からは、時空(次元)が重なり合う「場」は、
Media Point(原点)だと考えています。
Media Pointは、虚軸と実軸の直交点です。
+の極性と-の極性ですが、これは、いろいろ可能性がある点だと
思っています。簡単に言えば、陰陽です。
私見では、+iは原光であり、-iは原闇というように、根源的な質と考えています。時空以前、つまり、原時空ではないかと思っています。
 また、Media Pointにおいて、諸様態の共鳴が生起すると考えています。それが、「重ね合わせ」と見られるのかもしれません。
 確かに、それは、素粒子、特異点と見られるでしょう。


2)
>これが即非といわれていることでしょうか?
>そして虚軸の次元とれる状態が連続ではない、
>(量子力学のポテンシャルのようなイメージ)
>もし全く見当違いなものであればおっしゃてください。
>よろしくお願いします。

2)の質問ですが、即非とは、基本的には、差異(不連続)と同一性(連続)との即非様態と考えています。Media Pointの様相を即非と考えています。言い換えますと、虚軸と実軸との即非性です。
 また、虚軸の次元は、おっしゃる通り、実軸とは連続ではありません。確かに、Media Pointはポテンシャルなエネルギーをもっています。

追記:補足しますと、Media Pointで、諸次元が生まれると考えられます。時空四次元もそこから発生すると考えられます。そして、虚軸は5次元(高次元)と考えられます。
 言及された音楽については知りませんが、能楽における音楽には、「間(ま)」があり、それが、Media Pointになるように思います。つまり、音1(差異1)と音2(差異2)は本来、不連続であり、その間(あいだ)に、Media Pointが存すると思われます。


2008年11月16日(Sun)▲ページの先頭へ
思考実験:Media Pointとイデア界:光と闇の二重性と超越光:神秘主義の闇と三島由紀夫の無
久しぶりに、PS理論の根幹部分に関係する問題の検討を考えている。
 それは、光と闇の問題である。霊学者ルドルフ・シュタイナーは、ゲーテの色彩論の対極性から、光と闇の二元論(対極論)を取りだしている。つまり、色彩とは、光と闇の二重性から生まれるというもので、例えば、空の青は、闇が光に進入するときに生じるのであり、夕日の赤は、光が闇に進入するときに生じるというものである。つまり、光だけでなく、闇にも実体を認めているのである。
 この問題は以前、Kaisetsu氏が解明していたが、それを借りると、+iが光であり、-iが闇となるのである。では、発生する+1の光と矛盾することになる。だから、+iを原光、-iを原闇とすれば、いいだろう。しかし、両者は超越性であるから、不可視である。それらの共振・共鳴様態が「光」なのである。
 共振・共鳴様態は、Media Pointで発生する。つまり、Media Pointは複素数であるが、その虚数の意味である。共振・共鳴における虚数である。つまり、(+i)*(-i)の意味である。私はこれを超越光と考えているのである。だから、整理すると、+iの原光、-iの原闇、(+i)*(-i)の超越光が、イデア界=超越界=高次元界に存することになる。三元性があるのである。(既述済みであるが、普遍的に、神性を三元性で表現するのは、ここに由来すると考えられる。例えば、三柱の神、三女神、三位一体、三つ巴、等々。)
 問題は、ダークエネルギー、ダークマター、ブラックホール等との関係である。また、粒子と反粒子等との関係である。
 もっとも、この点は以前に言及したので、それを想起すると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺の超越エネルギーが右辺の物質エネルギーよりもポテンシャル・エネルギーが高いというように見ていいのかもしれない。
 これもやはり、Media Point(以下、MP)の問題である。MPにおいて、超越エネルギーと物質エネルギーが二重性が生起している。ここで、思考実験、乃至は、作業仮説であるが、超越エネルギー、乃至は、超越的波動は永遠である。それに対して、物質エネルギー、物質波動は、有限である。つまり、生成消滅するということである。
 前者は、いわば、永遠のエネルギーである。無尽蔵であり、それが、物質界を保持していると言えよう。+1の物質界のエントロピーに対して、超越性は、反エントロピーを形成すると言えよう。前者の方向を+1の方向とすれば、後者の方向は、現象的には、-1になるのではないだろうか。これが、宇宙の膨張を指しているのではないだろうか。
 しかしながら、実際は、Media Pointを介した虚軸方向を意味すると言えよう。つまり、高次元の方向である。思うに、ダークマターは、ダークエネルギーに吸収されるのかもしれない。
 さて、最後に言及したいのは、神秘主義で説かれる「闇」であるから、それは、やはり、ダークエネルギーの「ダーク」と同じで、実体・本体は、超越性(=イデア)であると考えられるのである。ダークdarkは、超越性transcendentである。超越論性ではない。
 「闇」は超越光なのである。超越した「光」なので、「闇」と現象的に感じられるのである。注意すると、神秘主義の「闇」と上述した原闇は混同されてはならないということである。前者は、超越的差異共振性、ないしは、原差異共振性である。
 因みに、三島由紀夫の『鏡子の家』で、画家が、青木ヶ原の樹海が消えて、無になるヴィジョンをもったが、その無とは、既述したように、超越性を示唆していると見るべきである。『豊饒の海』でも、無が表現されたが、それも同様である。三島由紀夫は現象界に囚われる側面が強かったので、無を超越光として明確に把捉できなかったと考えられるのである。

追記1:本稿を簡単に要約すれば、 原光と原闇との共振・共鳴によって、超越光が発生し、それが、現象においては、発光するということになる。

追記2:四大(地水火風)は、+i、-i、+1、-1の四元で説明できるのではないだろうか。五大(地水火風空)は、それに、Media Pointを加えたものと考えられる。即ち、空がMedia Pointである。
 また、物理学の4つの力もここから説明できないだろうか。

追記3:霊学におけるアストラル体やエーテル体(「気」)であるが、前者は、超越エネルギーの振動感覚ではないだろうか。後者は、Media Pointにおける原同一性ではないだろうか。後で検討したい。


2008年11月11日(Tue)▲ページの先頭へ
イデアと物質の関係について:今朝見た夢から:イデア的美への郷愁としての「エロース」
一般に人は、寝てるとき見る夢をどう判断されるのだろうか。私はその夢には、大きな意味を与える。というか、夢のヴィジョンが私の心にインパクトを与えるので、夢を真面目に受けとるのである。
 これまで見た夢でいちばん不思議な夢の一つは、不連続的差異論が生まれる数日前に見た夢である。美しい娘が生まれた夢を見たのである。しかし、赤ん坊にしては、頭が大き過ぎたのである。とまれ、私は、それは、ソフィア(叡知)の夢であると今でも考えている。
 今朝見た夢の核心を言うと、私は登山をしていたが、ある場所で、頂上から降りてきた人たちに出会ったのである。そう、女性(たち)に出会ったのである。透明に輝く美しい眼をした女性(たち)であった。私は彼女を見て、深い感動をおぼえた。私はこれこそ、私が求めていたものだと、涙を流して、感動をおぼえたのである。
 夢の最初の部分は端折るが、私は、「頂上」から降りてきた、澄明な眼をした女性は、イデア界の女性だと考えたのである。ベートーヴェンで言えば、「歓びの歌」のエリジウムの娘たち(又は女神)に当たるのではないだろうか。
 私は、イデア界の美を確信したのである。結局、イデアと物質は不連続なのである。これが私が今朝得た確信である。イデアの美と感覚の美は不連続なのである。もっとも、この点は微妙である。
 これまで、私は、イデアと物質、差異と同一性の即非性について述べてきたが、これだけでは、両者の関係がまだ不明確なのである。つまり、主従関係が不明確なのである。即非の即の部分で、イデアと物質が等価となるのであるが、「非」の側面での関係が不明確なのである。これは、端的に、イデアが主であり、物質は従ということを意味するのである。
 思うに、これでも、夢のヴィジョンの意味を解明していない。主従を超えていると思う。イデアこそ本体、実体であり、物質は仮の宿りであるということである。ここにおいて、プラトン哲学が全面的に肯定されるのである。
 物質とは、イデアの影像に過ぎないと言えば、明快であろう。言い換えると、正にイデア論そのものであり、現象はイデアの影に過ぎないということである。
 ここで私はプラトンやシュタイナーやインド哲学にぐっと接近したことになるのである。
 物質的欲望は、いわば、倒錯なのである。美とは何か。それは、イデアの美にほかならない。性愛とは、「エロース」の影に過ぎないのである。「エロース」とは、イデア的美への郷愁である。


2008年10月29日(Wed)▲ページの先頭へ
共感覚とMedia Point:Media Point Proto-Sense原感覚と共通感覚
共感覚、つまり、ある感覚において他の別種の感覚が喚起される状態をもつ感覚であるが、これは、Media Pointの多様な相で説明できるのではないだろうか。(この問題で想起したのは、ベルリオーズの音楽の色彩感であった。それは、正に、共感覚で説明できる。私は美空ひばりの歌声に実に変化に富む音色を感じる。それも色彩である。)
 つまり、Media Pointは、差異共振エネルギーであり、これが、諸々の感覚の根源、いわば、原感覚であると考えられるからである。Media Point Proto-Senseが共感覚のベースであり、個別の感覚は、この原感覚を刺激して、他の感覚を想起すると考えられる。
 そうすると、アリストテレスの共通感覚と近いものになると思われるのである。

追記:いちばん言おうと思っていたことを忘れていた。先の大琳派展で、酒井抱一か鈴木其一かの紅葉の絵で、葉から優美な調べを聴くことができたのである。当然、共感覚であるが、私としては、差異共鳴感覚とでも呼びたい。絵画でも、差異と差異が共振すると、視覚的な美だけではなく、聴覚的な美、すなわち、音楽的な美が発生すると考えられるのである。

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 『共感覚者の驚くべき日常』(リチャード・E・シトーウィック著/草思社)という本がある。「共感覚」とは聞き慣れないだろうが、例えば以下のような話だ。

 ある心理学者は、「S」という名の患者をずっと研究し続けている。「S」は「記憶が脳から消えない」という驚異的な“症状”を抱えていた。

 〈二〇〇〇ヘルツの音を聞かせると、Sは言った。「ピンクがかった赤い花火みたいに見える。細長い色が、ざらざらと不快な感じで、味も悪い。塩辛いピクルスに似ている。(中略)触ると手が痛くなりそうだ」。

 彼はこの共感覚で、耳から入る音のそれぞれを−−母語であるか、理解できない言語であるかにかかわらず−−あざやかに視覚化できた。記憶されるものごとは自動的に、何らの努力もなく、視覚イメージに転換された。そのイメージは永続的で、最初の遭遇から何年もあとで思い出せた。彼の能力は特異的で、同じような刺激をあたえると、まったく同一の共感覚反応を生じた。〉

http://www.nikkeibp.co.jp
/article/column/20081023
106947/

齋藤孝の「3分間」アカデミー
人間の身体はすごかった!「情動」の驚異
〜感応バージョンその2
仕事に立ち向かう身体をつくる(5)

2008年10月24日

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共感覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

共感覚(きょうかんかく、synesthesia, synæsthesia)とは、ある刺激に対して通常の感覚 だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚 現象をいう。 例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。 英語名 synesthesia は、ギリシア語 で共同を意味する接頭辞 syn- と感覚を意味する aesthesis から名づけられた。感性間知覚。

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E5%85%B1%E6%84
%9F%E8%A6%9A


「成る」と自然(じねん):PS理論における自発生成・形成
以下、ハイデガー研究者の木田元氏の「成る」の説明であるが、東洋・日本では、自然(じねん)であり、古代ギリシアでは、フュシスであり、両者は共通すると言えよう。(古代ギリシアは単に父権主義ではなく、母権主義が根底にあった。ディオニュソス文化である。日本では、造化という考えもある。)
 これは、仏教でも同じである。解脱、直覚、大悟がポイントである。
 とまれ、PS理論は、Media Pointを介した、「成る」論を緻密に説いている。思うに、「成る」とは自発ということに言い換えられると思う。例えば、「自発的対称性の破れ」における自発である。
 ところで、ついでに言うと、女性にはこの「成る」=自然(じねん)=造化=自発性が深く刻まれているように思える。男性は同一性主義となるが、女性は差異共振性を本来内在しているだろう。
 先にも述べたが、男性は、-iに傾斜していて、劣弱さから、反動化して、同一性主義になると思われるのである。女性は本来、+iと-iが均衡していると思う。それで、造化となるのである。女性が一般にオシャレ好きで、装飾本能があるのはここに起因していると思われる。
 そう、女性の問題であるが、自己認識が必要である。男性社会の同一性主義の発想に洗脳され、一種マインドコントロールされているのである。正に、女性の解脱が必要である。思うに、女性の方が仏教はわかりやすいのではないだろうか。男性は同一性主義で自我主義から抜けられないのである。

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―― 成るというのは、仏教的なものに通ずるような気もしますが。

 木田 いや、仏教的とは限りません。『古事記』の中でも「葦牙のごとく萌えあがるものによりてなれる」という言い方をしますよね。

 葦牙というのは葦の芽がばーっと成長する、あれはものすごく早い成長の仕方をするらしいけど、葦牙のごとく萌えあがるものによりて成るというものです。古代ギリシャのソクラテス時代の思想家たちも、やはりphysis(フィシス)というものは、自然というものはおのずから生成する、成るものなんだと。 phyenという言葉からphysisという言葉がきて、そのphyenというのは、花が開くとか、草が萌え出るとか、ですから植物的な生成になるものなのですね。だから仏教とは関係なさそうですね。

http://business.nikkeibp.co.jp/
article/topics/20081028/
175475/?P=4&ST=money
【ニュースを斬る】
シリーズ――ポスト・サブプライム(1)


2008年10月14日(Tue)▲ページの先頭へ
3年前の記事から:差異的多様性としての「メディア界」とはMedia Pointである
ふと、3年前のブログを開いたら、次のような考察があった。これは、あいまいであるが、発想の参考になるだろう。
 ところで驚いたのは、3年前に小泉第3次内閣が成立したことである。たった3年で、世の中、世界はseachangeである。

**************

メディア・現象境界構造について:思いつき
テーマ:ブログ
本件は容易に分析できると考えていたので、これまで、特に問題化しなかったが、やはり、きちんと整理する必要がある。
 簡単に言えば、差異的多様性がメディア界にある。それを、「光」が主導して、連続・同一性化させるのである。即ち、差異的多様性をもっていた「光」が、言語的連続・同一性化されて、自我・現象界化するのではないだろうか。この言語的連続・同一性が、カントの超越論的形式に当たるだろう。
 思うに、メディア界においては、『鏡の国のアリス』の白の女王におけるように、時間が逆転することも可能であるが、この超時空性が、メディア・現象境界において、凝縮するのではないだろうか。つまり、簡単に言えば、差異1→差異2が、イデア界とすれば、差異1⇔差異2ないし差異1〜差異2がメディア界で、双方向的である。これが、差異1ー差異2ないし差異1・差異2と固定化するのが、現象界だろう。メディア界の強度という原時間(⇔又は〜)が、垂直化して、有時間(ー又は・)となるのではないだろうか。つまり、差異の垂直化としての現象界である。メディア界は、垂直性と水平性がゆらいでいるのである。位相体。垂直力によって、時間が生じて、水平性が空間化して、現象四次元空間が生起するのではないだろうか。メディア界は、超時空間位相体であるが、これが、垂直力の有時間化によって、有空間化するのではないか。垂直力が「光あれ」ではないか。言語行為である。というか、原言語行為である。そして、人間の言語とは、これを模倣しているのではないか。だから、現象界とは、「言語行為」によって形成されているということではないか。これが、超越論的形式ではないか。つまり、これは、数学である。数学=言語行為⇒現象ではないか。微分という言語行為があり、現象=積分(=異化)が生じたのでは。そう、垂直力が微分ではないか。垂直力=微分=時間ではないか。これで、空間=積分が生じたのでは。つまり、微分⇒積分である。つまり、時間が空間を形成する。つまり、志向性が、メディア連結を生み、さらに、現象界連続化を生んだのではないか。

1.イデア差異志向性⇒2.メディア連結志向性⇒3.現象連続志向性? 

ここで、簡単に現象界知覚について触れると、
差異1⇒差異2の⇒の終点の極限値状態つまり、差異1=差異2となったのが、現象界ではないか。では、どうして、主客二元論となるのか。差異1=差異2とは、正に、超越論的形式のことではないか。差異の連続・同一性化である。これが、フレーム化ではないか。差異の連続・同一性化によって、現象性が形成されるのではないか。言語とは、この記号化であろう。つまり、差異の喪失としての現象界化である。
(p.s. 主客二元論の説明になっていない。差異1=差異2とは、正に、連続・同一性であり、主観・主体は連続・同一性化し、同様に、客観・客体も連続・同一性化するということになるだろう。これが、主客二元論である。)
 しかし、私は、現象界の個体は本来、特異性と考えている。これをどう説明できるのか。それは、連続・同一性(差異1=差異2)においても、差異(=特異性)自体が内在しているからではないか。つまり、本来、不連続的差異の共立である一種の特異性がそこには潜在しているということではないか。そう、不連続的差異の共立・共存体が、本体であり、それが、連続・同一性化されているのが、現象個体(=仮象)であり、不連続的差異=特異性の共立体である現象個体とは、当然、本来、特異性である。特異性の集合と言ってもいいのかもしれない。ここで、思うのは、やはり、ニーチェである。ニーチェは、特異性の共立体、不連続的差異の共立の垂直性を説いたと言えよう。そして、フッサールは、主に、その水平性であろう。ドゥルーズも最良のときは、存立平面として、それを説いているだろう。
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10005657577.html
Mon, October 31, 2005 02:40:13
************

以下も興味深い。混沌としているが。
近代的二元論が、諸悪の根源である:近代主義の彼岸としての不連続的差異論
テーマ:不連続的差異論と未来・創造・平和共立
近代的二元論とは、当然、近代的合理主義、近代的自我主義であるが、近代的合理主義とは、フッサールの説く近世・近代的自然科学の客観主義である。これは、デカルト哲学の一面化に過ぎず、その特異性の哲学を喪失している。
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10005634389.html

***************
以下も同様である。

自我の根源とは何か:「わたし」はどこから来て、どこへ行くのか
テーマ:個と特異性
今は、思考実験でしかないが、作業仮説的に、自我の根源をイデア界の差異共存体としよう。これが、メディア界的遺伝子・形相化して、メディア界と現象界の境界で、有機体化して、個体として誕生するとしよう。即ち、自我個体とは、根源は、イデア界の差異共存体であり、それが、メディア界・遺伝子・形相化されて、現象界で有機体となるのである。図式化すると、

3.現象界:心身体・・・フッサールの自然的態度
________________
2.メディア界:遺伝子・形相
___________超越論的主観性・生ける現在
1.イデア界:差異共存体・・・絶対的自我・原自我・「神」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10005625957.html


2008年10月13日(Mon)▲ページの先頭へ
3年前の記事から:差異的多様性としての「メディア界」とはMedia Pointである
ふと、3年前のブログを開いたら、次のような考察があった。これは、あいまいであるが、発想の参考になるだろう。
 ところで驚いたのは、3年前に小泉第3次内閣が成立したことである。たった3年で、世の中、世界はseachangeである。

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メディア・現象境界構造について:思いつき

本件は容易に分析できると考えていたので、これまで、特に問題化しなかったが、やはり、きちんと整理する必要がある。
 簡単に言えば、差異的多様性がメディア界にある。それを、「光」が主導して、連続・同一性化させるのである。即ち、差異的多様性をもっていた「光」が、言語的連続・同一性化されて、自我・現象界化するのではないだろうか。この言語的連続・同一性が、カントの超越論的形式に当たるだろう。
 思うに、メディア界においては、『鏡の国のアリス』の白の女王におけるように、時間が逆転することも可能であるが、この超時空性が、メディア・現象境界において、凝縮するのではないだろうか。つまり、簡単に言えば、差異1→差異2が、イデア界とすれば、差異1⇔差異2ないし差異1〜差異2がメディア界で、双方向的である。これが、差異1ー差異2ないし差異1・差異2と固定化するのが、現象界だろう。メディア界の強度という原時間(⇔又は〜)が、垂直化して、有時間(ー又は・)となるのではないだろうか。つまり、差異の垂直化としての現象界である。メディア界は、垂直性と水平性がゆらいでいるのである。位相体。垂直力によって、時間が生じて、水平性が空間化して、現象四次元空間が生起するのではないだろうか。メディア界は、超時空間位相体であるが、これが、垂直力の有時間化によって、有空間化するのではないか。垂直力が「光あれ」ではないか。言語行為である。というか、原言語行為である。そして、人間の言語とは、これを模倣しているのではないか。だから、現象界とは、「言語行為」によって形成されているということではないか。これが、超越論的形式ではないか。つまり、これは、数学である。数学=言語行為⇒現象ではないか。微分という言語行為があり、現象=積分(=異化)が生じたのでは。そう、垂直力が微分ではないか。垂直力=微分=時間ではないか。これで、空間=積分が生じたのでは。つまり、微分⇒積分である。つまり、時間が空間を形成する。つまり、志向性が、メディア連結を生み、さらに、現象界連続化を生んだのではないか。

1.イデア差異志向性⇒2.メディア連結志向性⇒3.現象連続志向性? 

ここで、簡単に現象界知覚について触れると、
差異1⇒差異2の⇒の終点の極限値状態つまり、差異1=差異2となったのが、現象界ではないか。では、どうして、主客二元論となるのか。差異1=差異2とは、正に、超越論的形式のことではないか。差異の連続・同一性化である。これが、フレーム化ではないか。差異の連続・同一性化によって、現象性が形成されるのではないか。言語とは、この記号化であろう。つまり、差異の喪失としての現象界化である。
(p.s. 主客二元論の説明になっていない。差異1=差異2とは、正に、連続・同一性であり、主観・主体は連続・同一性化し、同様に、客観・客体も連続・同一性化するということになるだろう。これが、主客二元論である。)
 しかし、私は、現象界の個体は本来、特異性と考えている。これをどう説明できるのか。それは、連続・同一性(差異1=差異2)においても、差異(=特異性)自体が内在しているからではないか。つまり、本来、不連続的差異の共立である一種の特異性がそこには潜在しているということではないか。そう、不連続的差異の共立・共存体が、本体であり、それが、連続・同一性化されているのが、現象個体(=仮象)であり、不連続的差異=特異性の共立体である現象個体とは、当然、本来、特異性である。特異性の集合と言ってもいいのかもしれない。ここで、思うのは、やはり、ニーチェである。ニーチェは、特異性の共立体、不連続的差異の共立の垂直性を説いたと言えよう。そして、フッサールは、主に、その水平性であろう。ドゥルーズも最良のときは、存立平面として、それを説いているだろう。
http://ameblo.jp/renshi/e
ntry-10005657577.html
Mon, October 31, 2005 02:40:13
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以下も興味深い。混沌としているが。
近代的二元論が、諸悪の根源である:近代主義の彼岸としての不連続的差異論
テーマ:不連続的差異論と未来・創造・平和共立
近代的二元論とは、当然、近代的合理主義、近代的自我主義であるが、近代的合理主義とは、フッサールの説く近世・近代的自然科学の客観主義である。これは、デカルト哲学の一面化に過ぎず、その特異性の哲学を喪失している。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10005634389.html

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以下も同様である。

自我の根源とは何か:「わたし」はどこから来て、どこへ行くのか
テーマ:個と特異性
今は、思考実験でしかないが、作業仮説的に、自我の根源をイデア界の差異共存体としよう。これが、メディア界的遺伝子・形相化して、メディア界と現象界の境界で、有機体化して、個体として誕生するとしよう。即ち、自我個体とは、根源は、イデア界の差異共存体であり、それが、メディア界・遺伝子・形相化されて、現象界で有機体となるのである。図式化すると、

3.現象界:心身体・・・フッサールの自然的態度
________________
2.メディア界:遺伝子・形相
___________超越論的主観性・生ける現在
1.イデア界:差異共存体・・・絶対的自我・原自我・「神」http://ameblo.jp/renshi/
entry-10005625957.html


近代主義的科学・学問の崩壊:トランス・モダン総合融合知へ向けて
現在の同一性主義金融資本主義の大崩壊については、既述しているので、もう特に言わないが、哲学批判、経済学批判を言いたい。
 哲学は、唯物科学を超えた、知の総合的システムを構築する学であり、それは当然、他の諸々の学に対して、その視点を提起するものでなくてはならないのに、専門枠の自閉症に陥っているのである。
 また、経済学は近代的唯物科学の影響を受けて、哲学的理論的見地を放棄しているのである。これでは、経済学はやはり、専門枠に自閉してしまい、総合的な視点を喪失したと考えられるのである。
 このことは又他の学問にも言えることである。端的に、近代的学問の崩壊の事態になっているのである。

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Lehman破綻の代償?

Lehman Brothersが9月半ばに経営危機に陥った際、アメリカ金融当局が下した決断は、「救済なし」でした。巨額の損失を抱えて流動性危機に陥りつつあった同社を、アメリカ政府の保証なしに救済出来る体力のある金融機関は存在せず、158年の歴史を持つ大手投資銀行は、あっさりと破綻に追い込まれました。
http://wallstny.exblog.jp/8740729/
ウォールストリート日記


2008年10月04日(Sat)▲ページの先頭へ
中井美学とPS理論:トランス・モダンとMP共振多種多様態
いわゆる、中井美学は、現代の機械/集団時代を先取りし、いわば、ポスト個人主義の可能性を唱えている。
 私の直感では、中井美学の機械/集団主義とは、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)により、より精緻化できるのではないかと思えるのである。
 PS理論の中核概念である、Media Pointによって、中井美学の機械/集団主義を進化させることができると思われるのである。即ち、Media Pointは、差異同士を共鳴・共振させる力学点であり、ここで、いわば、個人主義が超克されるのである。もっとも、個人主義であり、且つ、脱個人主義(トランス個人主義)となるのではあるが。端的に、差異共鳴性・差異共振性こそ、中井美学の機械主義/集団主義の意味するものと思われるのである。
 思えば、ドゥルーズ&ガタリは、機械状のアジャンスマン(アレンジメント)を説いたが、これは、このことと同様であると考えられる。それは、人間と機械とが、アジャンスマン(共立様態)になるということであるが、正に、Media Pointによる差異共鳴・共振による事態であると考えられるのである。 結局、中井美学やドゥルーズ&ガタリの理論は差異共鳴多様態、差異共振多様態のことを意味していると考えられるのである。Kaisetsu氏の説くMedia Resonanceということである。そう、Media Point Multiple Resonanceとも呼べよう。
 この視点を敷延すれば、資本主義論にも適用できるのである。結局、資本主義の本体は、Media Point Multiple Resonanceであるが、それが、同一性価値主義=交換価値主義によって、破壊されるのであるから、Media Point Multiple Resonanceを成長させるようなトランス資本主義経済様式が必要なのである。差異共鳴主義的資本主義である。
 結局、Media Point Multiple Resonance Valueを活かす「資本」とならなくはならないのである。そう、個人主義が、近代的自我となり、この共振価値を破壊しているのであるから、やはり、脱近代的自我主義とならなくてはならないのである。
 とまれ、中井美学に戻ると、それは、この差異共鳴価値を予見していたと思えるのである。

追記:
Media Point Multiple ResonanceはMultiple Media Point Resonanceと呼ぶ方が明瞭だろう。


2008年09月24日(Wed)▲ページの先頭へ
ポスト・モダンとトランス・モダン:Media Pointという基核
以下、Kaisetsu氏によるPS理論の本質論である。デリダの脱構築理論とPS理論の「差異」を説いている。
 私見では、デリダの理論は、ブレークスルーであると同時に、それを閉じてしまったものである。何故閉じたのかと言えば、キリスト教の超越性の発想が大き過ぎて、超越性を否定したからだと思う。
 とまれ、結局、問題の核は、Kaisetsu氏が説くように、Media Pointの把捉にあるのである。簡単に言えば、西洋哲学は、前ソクラテス期哲学から、Media Pointを震源として、同一性の視点から、哲学してきたのである。即非性とは、そこからはみ出す理論なのである。つまり、同一性の視点では、Media Pointは捉えられないということである。それが、逆に、西洋哲学を深化させたとは言えよう。 

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Media pointの正確な理解

Renshi氏とbloghiro-dive氏の、「極小差異の極大化」的相互批判に、無謀にも敢えて、途中から乱入する。

(理由)
@Renshi氏とbloghiro-dive氏の議論は、哲学上の一定以上の深い理解がなければ、通読することも不可能な理論展開であり、基本的に、特に構造主義以降の哲学の展開を注意深く自省的に研究しているものにとって、頗る興味のあるテーマが対象となっている点。
ARenshi氏とbloghiro-dive氏の立場は、基本的に、「世界の不連続性」に注目する点で一致しており、これは、近代主義の持つ「連続性批判」であり、この点では共通の認識である。
B Aのように共通の認識をベースにしつつ、相互に批判的な論考を進める原因は、その「微小差異」が、極めて重要な差異である、と考えられるからである。

(考察)
Renshi氏とbloghiro-dive氏との認識上の差異について。

@私の考えるポイントは、次の箇所である。

差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代
2008年07月29日(火)
誤謬を強要する者…renshiの抱える「思い込み」

「第三の地平などという、第三の超越論的意識が要請されるようなエキセントリックな発想をデリダは批判するのであって逆ではない。仮にそのような地平の発現可能、つまり現実的アクチュアリティーを認めるなら信仰の世界のみだ。なぜなら、それは証明不可能なものであるから「あらぬものは語れぬ」ということになる。そして、語れないものは実在しないというのが当たり前のことであることに異論がある人はいまい…。」

A「第三の地平」は「信仰か」、「現実か」
 不連続的差異論の立場は、明白である。
 世界構造の不連続性、絶対的不連続性を仮定する。
 しかし、これが証明不能であるのは、AとBの絶対的不連続を言った途端に、そのAとBの境界部分を、どのように定義するか、という問題が生じる。
 この部分を明確に定義した理論が、古今東西、在ったのだろうか?
 これを明確に定義できないので、「あらぬものは語れぬ」「語れないものは実在しない」とされてきたのである。
 不連続的差異論では、これを、鈴木大拙氏の「即非」と同じ状態と明確に定義する。
 AとBの境界、「第三の地平」とは、「Aであり、同時に、Bである」状態、「非Aであり、同時に、非Bである」状態である。
 この「即非」の概念は、東洋哲学上は、「止観」「空」「妙」など、様々な言葉で連綿と受け継がれた「哲学上確立した概念」である。

BRenshi氏とbloghiro-dive氏の極小差異の内容
 私が考えるRenshi氏とbloghiro-dive氏の極小差異の部分は、この「即非」状態を「事実として認識する」か、或いは、「不合理な概念として退けるか」という点にあると考える。

CMedia Pointについて
 不連続的差異論を発展したPS理論では、この「即非」状態にも、差異が存在し、その差異間にも「即非」状態が存在すると考える。
 これを簡便に取り扱うために、
 Media Pointという「概念」を構築した。
 ここで言う、Mediaとは、「媒体」の本質、つまり、「Aであり、Bである」状態を示し、結局、「即非」状態のことである。
 Media(A)とMedia(B)は、異なり、この異なる差異の境界は、Media Pointと呼ぶことにする。
 デリダの脱構築理論についても、
 静止状態(A)が静止状態(B)に移行した場合に、このAとBの境界状態を認めるのか、認める場合、その態様は、どのように説明するか、という論点が残されている。
 AとBの間に、さらに、脱構築Xを入れても、さらに、そのXの内部に、脱構築Yが必要になる。
 こうした無限反復を「脱構築」する概念が、Media Pointの概念である。
DMedia PointからModeへ

Media Pointの概念は、現代の哲学状況が、哲学に「空間概念を応用する傾向」に靡いた面がある。そこでより、一般的な概念である Mode という概念を用いて、「即非」構造の分析を開始した。

2008.06.19 Thursday
Mode とは Media pointの多様性を表す「様式」である。

2008.06.20 Friday
Mode とはMedia Pointの多様性を表す形式である。

2008.06.23 Monday
PS理論の「mode」定義は、波動の基本振動と倍振動関係も包摂する。
kaisetsu | media point | 00:04 | - | - |

http://theory.platonicsynergy.org
/?eid=852993
Theories for the Platonic Synergy Concept.


2008年08月04日(Mon)▲ページの先頭へ
PS理論は形而上学ではない:トランス形而上学としての即非モード論:トランス・モダン超脱構築主義:Ver2
PS理論は、一見、新しい形而上学に見える。超越的差異形而上学と呼ばれるかもしれない。しかしながら、Media Pointのコンセプトから見ると、形而上学ではないのである。何故なら、超越性(差異)と同一性が即非様相で関係しているからである。もし、新形而上学ならば、超越性と同一性が切断されていて、前者が優位、後者が劣位の二項対立になるだろう。しかし、前者と後者は即非モードで関係しているのである。この絶妙な関係があるので、トランス形而上学と言える。

p.s. 以下で、Media Pointにおける即非的超構築のことに言及した。
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10122829836.html
 結局、即非的超構築主義とは、同一性は形成するが、同一性主義になろうとすると、超越的差異が介在するので、脱同一性主義となり、脱構築(脱構造化)されるのである。だから、ポスト構造主義・トランス構造主義と言えるだろう。
 だから、端的に言えば、同一性と差異との即非様態がそこには出現しているのである。決定的ポイントは、同一性主義が脱構築されていることである。これはいくら強調しても強調しすぎることはない。以前にも指摘したが、同一性主義と同一性は決定的にことなるのである。
 とまれ、Media Pointにおける同一性と差異との即非様態(即非Mode)であるが、この、新たに創造される即非様態を、即非的超構築と暫定的に呼んだわけであるが、確かに、きわめて特異な構築であると言えよう。これは、形而上学的発想に囚われていると、理解できない事象であると考えられるのである。
 一般に構築とは同一性的構築・同一性システムを捉えられているが、この即非様態「構築」とは、それとはまったく異質な「システム」である。同一性主義でもないし、差異主義でもないのである。同一性と差異との即非共振(即非共鳴)様態の発現があるのである。
 これは、まったく新しい事象と言わなくてはならない。もっとも、それは、西洋文明中心にした場合である。日本文化、東洋文化は、根源的には、即非様態文化であると考えられる。しかし、それは、原始的な即非様態文化であり、近代化によって、古くさくなってしまったとは言えよう。しかしながら、今日、トランス・モダンとしての新しい即非共振様態の創造が出現したと考えられるのである。
 そう、古い即非様態とは、近代化されて、連続性を帯びてしまったのと思うのである。そこで、政治経済的には、不正・腐敗等が蔓延ると考えられるのである。
 
p.p.s. 即非的超構築主義とは、トランス・モダン超構築主義である。英語にすれば、Trans-Modern Trans-Reconstructionism となろう。そう、超構築主義はTrans-Reconstructionism ないしは、Trans-Constructionism となろう。【p.s. 後で、超脱構築主義Trans-deconstructionismの方が的確であると考えた。】

3p.s. 最近翻訳がちくま学芸文庫でも見られる神秘学者のルドルフ・シュタイナーであるが、確かに、彼の「思想」をオカルト主義と呼ぶことは正しいのであるが、そうラベル貼りをすると、オカルト主義ではない彼の思想の「哲学」性が排除されてしまうと考えられる。
 シュタイナーの「哲学」の重要性は、トランス・モダン的志向性を明確にもっていることである。近代的世界観=物質主義が全面的に破壊的になり、精神が喪失される事態が発現したが、その近代主義の危機を乗り越えるためには、単に、精神・霊性の世界へと赴くのではなく、近代主義的知性・合理性(近代合理性)を形成した上で、精神世界へと赴かなくてはならないことを述べているのである。
 近代を単に否定しているのではなく、近代を包摂して、脱近代主義へと志向しているのである。これは、トランス・モダン超構築主義と、ある意味で通じる発想である。トランス・モダン(簡略化して)は、モダンを単に否定するのではなく、近代主義の近代性を包摂して、より高次の差異の世界へと転換することを目ざしているのである。
 先にも述べたが、シュタイナーの精神思想は、そのままを無批判に受容するのではなく、知的に、哲学的に、変換して読むべきであると思う。それが、建設的であるだろう。


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コメント

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■無題

ご存じの通り、哲学も人文科学のうちの一つになるわけですが、特に彼のような輩を相手にする場合、一次資料を用いて仮説を証明していくべきです。
解説本は論外、本来なら翻訳すら訳者の解釈に委ねることになってしまうので忌避したいところです。
そういった意味でいうなら、彼が法曹家で博士号を持ち、高額所得者であるというのも証明されているわけではないのです。
ヤフオクの安いパソコンに飛びつくなど、あまり高い年収があるとも思えないのですけどね。
通りすがり 2008-08-03 06:13:38 [コメント記入欄を表示]

■どうも貴重なご意見ありがとうございます。

おっしゃる通りだと思います。
しかし、論破するということに集中するのは、不毛だと思っています。
 これまでの「格闘」でおわかりのように、ほとんど不毛でした。(もっとも、超構築主義という発想が生まれたのは生産的だったと思います。)
 そうですね。彼のようなタイプは、結局、近代的知識人といちおう言えるかと思いますが、今日では、反動化しているのですね。
 Kaisetsu氏との共著を既に考えています。しかし、確かに、原著に当たって、書かなければならず、まだ、いつになるのか予定が立っていません。
 少なくともカント、フッサール、デリダ、ドゥルーズの主著を原著で当たる必要があります。
 ポイントはやはり、フッサールとデリダだと思っています。デリダがフッサール研究で読み落としたものに、トランス・モダン性があると思います。
明月庵 2008-08-04 00:31:07 [コメント記入欄を表示]

■独善性と近代主義

私は、だいぶ前から近代主義は狂気であると言ってきました。もっとも、これは正しくは、後期近代、ないしは末期近代ということにあてはまります。そして、この末期近代主義「精神病」が知識人に蔓延していると感じています。
 このタイプは自分は正しく、他者は批判の対象という独善主義でありますので、
始末に困る次第であります。
 PS理論では、-iにトランス・モダンの意味があると思っていますが、それを、末期近代主義者は否定しています。
 この末期近代主義のパラノイアについては、すぐ論じたいと思っています。
 
明月庵 2008-08-04 01:00:00 [コメント記入欄を表示]

■虚栄心と劣等感

彼は明らかに虚栄心の塊ですね。何かにコンプレックスをもっています。学歴コンプレクスがすぐ思い浮かびます。
 彼に少し似たタイプは周囲にいます。その人の場合、明らかに父親コンプレックスです。父親が有名な学者でした。思うに、彼も、その面があるような感じがします。
父親か祖父かわかりませんが(確か、祖父が学者だと思います)、立派な親か祖父をもって、コンプレックスを感じているような感じがあります。自分のほんとうの人生を生きられない不幸なタイプですね。そう、端的に、劣等感が根源にあると思います。それが裏返しで、優越感志向になっているんだと思います。
明月庵 2008-08-04 01:21:48 [コメント記入欄を表示]

■妄想

末期近代主義的知識人は、パラノイアであり、妄想家です。
だから、法曹家、博士号、云々は確かに怪しい感じあります。
 なにか、ブログで、自分を相当、偽装している可能性はあります。
 英語を最近使っていましたが、初歩的な間違いがありました。それを見ると胡散臭い面があります。
 彼の言う通りなら、日本の哲学界は悲惨ですね。
明月庵 2008-08-04 01:41:31 [コメント記入欄を表示]

■生真面目、糞真面目

彼のこれには辟易します。辟易が彼に対する反応のすべてを物語ると思います。
反論する気がなくなります。
このようなタイプが日本の知識人にはあります。いったいこれはどこに原因があるのでしょうか。
 私の勘では、明治時代の官制的封建主義に根因があるように感じています。
 つまり、絶対主義です。政治的二項対立です。
 
明月庵 2008-08-04 02:16:44 [コメント記入欄を表示]

■思考力

どうも独り言のように書きますが、彼のようなタイプが哲学者ならば、まったく自分で考えることができなくなっていますね。
 これはおそろしいことです。自分で考える力をなくした字義通りに則る、機械人間ですね。
明月庵 2008-08-04 07:03:20 [コメント記入欄を表示]

■感性の抑圧

どうして、彼のようなへ理屈屋が生まれるのかと思ったら、結局、感性を言語観念で抑圧しているからだと思いました。
これは、結局、同一性主義です。感性喪失が、同一性主義狂気を生んでいるということだと思います。
明月庵 2008-08-04 07:16:12 [コメント記入欄を表示]

■おはようございます

独り言でいいんですよ。
また、あとで来ます。
通りすがり 2008-08-04 07:25:50 [コメント記入欄を表示]

■こんばんは。

通りすがりからトンビに改名します。

さて早速なのですが。

>私の勘では、明治時代の官制的封建主義に根因があるように感じています。
>つまり、絶対主義です。政治的二項対立です。

その勘を裏付けるために正確な資料を用意して書いたほうがよいと思います。
明治政府の絶対主義は大日本帝国憲法発布前の政治制度であって、それ以降は立憲君主制です。

官制的封建主義・・・これは造語として意味がつながりません。
また、封建主義という言葉自体が、あまり的確なものとは言えないと思います。
いえ、気分は分かります。

政治的二項対立・・・政治の二項対立でしょうか?
何と何が対立していて、そしてその対立の何が日本の知識人に影響を及ぼしたかを、仮設して述べ、それを証明していくほうがわかりやすいと思います。

どうも、注文ばかりですいません。
でも、知を愛するという哲学の間口を広げていってもらいたいのです。
論理学だけでは殺伐としてしまいますからね。
トンビ 2008-08-04 21:07:37 [コメント記入欄を表示]

■お返事します:1

トンビ様

「官制的封建主義云々」の文はざっと書いたものですが、
以下、思いつくまま答えてみます。

*************

>私の勘では、明治時代の官制的封建主義に根因があるように感じています。
>つまり、絶対主義です。政治的二項対立です。

その勘を裏付けるために正確な資料を用意して書いたほうがよいと思います。
明治政府の絶対主義は大日本帝国憲法発布前の政治制度であって、それ以降は立憲君主制です。

renshiの回答:確かに、おっしゃる通りだと思います。
私の言いたいのは、君主制の部分です。

*************

官制的封建主義・・・これは造語として意味がつながりません。
また、封建主義という言葉自体が、あまり的確なものとは言えないと思います。
いえ、気分は分かります。

renshiの回答:これは、立憲君主制と言うべきでしょうが、
私の言いたいのは、君主制が継続する封建的垂直性が、国家権力と重なっている事態です。

*************

政治的二項対立・・・政治の二項対立でしょうか?
何と何が対立していて、そしてその対立の何が日本の知識人に影響を及ぼしたかを、仮設して述べ、それを証明していくほうがわかりやすいと思います。

renshiの回答
私には、日本の近代知識人のイメージは、父権主義のそれです。あるいは、封建主義のそれです。明治君主制のもっていたヒエラルキーを体現しているイメージがあります。
これは、正に、二項対立、官主民従であり、これを政治的二項対立と呼んだと思います。言い換えれば、官が正義であり、民が悪ということでもあります。
 
明月庵 2008-08-04 22:36:01 [コメント記入欄を表示]

■お返事します:2

ここで、話がそれますが、まだよく考えていませんが、「封建主義」ないしは父権主義の同一性主義と近代主義の同一性主義がイメージでは一致します。しかし、「封建主義」の場合はなんらかの超越性が原点にありますが、近代主義の場合はそれがなくなり、自己・自我が原点になります。しかし、形式はそれほど違わないような感じがしています。
 さて、知識人への影響ですが、この官主民従のヒエラルキー=二項対立が、構造として、近代日本の知識人に植え付けられているのではないかと思うのです。言い換えると、官主民従のイデオロギーが無意識のうちにあるので、知識人は自分は優位にあり、他の人間は劣位にあると感じるのではないでしょうか。
 彼の場合、極端なケースだとは思いますが。
 以上ざっと述べました。今はここで留めます。


どうも、注文ばかりですいません。
でも、知を愛するという哲学の間口を広げていってもらいたいのです。
論理学だけでは殺伐としてしまいますからね。

renshiの回答:いいえ、コメントは、礼節があるものなら、歓迎します。
明月庵 2008-08-04 22:36:32 [コメント記入欄を表示]


2008年08月03日(Sun)▲ページの先頭へ
PS理論は形而上学ではない:トランス形而上学としての即非モード学
PS理論は、一見、新しい形而上学に見える。超越的差異形而上学と呼ばれるかもしれない。しかしながら、Media Pointのコンセプトから見ると、形而上学ではないのである。何故なら、超越性(差異)と同一性が即非様相で関係しているからである。もし、新形而上学ならば、超越性と同一性が切断されていて、前者が優位、後者が劣位の二項対立になるだろう。しかし、前者と後者は即非モードで関係しているのである。この絶妙な関係があるので、トランス形而上学と言える。

p.s. 以下で、Media Pointにおける即非的超構築のことに言及した。
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10122829836.html
 結局、即非的超構築主義とは、同一性は形成するが、同一性主義になろうとすると、超越的差異が介在するので、脱同一性主義となり、脱構築(脱構造化)されるのである。だから、ポスト構造主義・トランス構造主義と言えるだろう。
 だから、端的に言えば、同一性と差異との即非様態がそこには出現しているのである。決定的ポイントは、同一性主義が脱構築されていることである。これはいくら強調しても強調しすぎることはない。以前にも指摘したが、同一性主義と同一性は決定的にことなるのである。
 とまれ、Media Pointにおける同一性と差異との即非様態(即非Mode)であるが、この、新たに創造される即非様態を、即非的超構築と暫定的に呼んだわけであるが、確かに、きわめて特異な構築であると言えよう。これは、形而上学的発想に囚われていると、理解できない事象であると考えられるのである。
 一般に構築とは同一性的構築・同一性システムを捉えられているが、この即非様態「構築」とは、それとはまったく異質な「システム」である。同一性主義でもないし、差異主義でもないのである。同一性と差異との即非共振(即非共鳴)様態の発現があるのである。
 これは、まったく新しい事象と言わなくてはならない。もっとも、それは、西洋文明中心にした場合である。日本文化、東洋文化は、根源的には、即非様態文化であると考えられる。しかし、それは、原始的な即非様態文化であり、近代化によって、古くさくなってしまったとは言えよう。しかしながら、今日、トランス・モダンとしての新しい即非共振様態の創造が出現したと考えられるのである。
 そう、古い即非様態とは、近代化されて、連続性を帯びてしまったのと思うのである。そこで、政治経済的には、不正・腐敗等が蔓延ると考えられるのである。


2008年06月24日(Tue)▲ページの先頭へ
Media Pointのmodeについて:文系と理系の壁をなくしたmode理論
以下のmodeに関するKaisetsu氏の解明は、PS理論の具体的な適用に役立つであろう。後で、私なりに説明をこころみたい。
 思うに、スピノザ(ドゥルーズ経由)の表現やライプニッツの表象とは、このmodeによって明確になるだろう。そして、一挙に、理科系と文科系の壁がなくなったと言えるのではないだろうか。直感では、これまで、PS理論は、理系と文系のクロスオーバーしていた、このmodeという定義で、理論化されたと言えよう。

* PS理論の「mode」定義は、波動の基本振動と倍振動関係も包摂する。 (06/23)
* Mode とはMedia Pointの多様性を表す形式である。 (06/20)
* Mode とは Media pointの多様性を表す「様式」である。 (06/19)

http://theory.platonicsynergy.org/
Theories for the Platonic Synergy Concept.




検討問題:子規の写生と映像性:イマジズムとヴィジョン:視覚と身体

子規の短歌は、とても、映像的である。単に写生というのでは足りない感じがする。生き生きとしている。これは、差異共振的映像とでも呼べるのではないだろうか。単に写実主義ではないのである。
 これは、英米の詩では、俳句の影響を受けて、イマジズムが起ったことと何か関係があるのか。同時代性? とまれ、差異共振的イメージ性があると思う。
 思えば、以前、私がヴィジョンと呼んだものに通じるのではないだろか。これは、身体とも関係するのである。身体的視覚なのである。
 これについて、考察しようと思っている。視覚と身体の関係である。私にとっては、視覚は身体的なのである。




2008年05月24日(Sat)▲ページの先頭へ
ハイデガーの本来的存在について:+1と-1とゼロとMedia Point:トランス・モダン
今は余裕がないので、簡単に触れると、ハイデガーの現存在は、+1の共一性における同一性を意味するのではないだろうか。問題は、本来的存在(以下、本存在)である。それは、Media Pointと+1の境界に位置するように思える。Media Pointにおいて、超越性から同一性への展開するが、そのとき、Media Point の超越性の扉が閉じていて、その閉じた扉から同一性(現存在)が発現すると考えられるので、本存在とは、その閉じた扉である。いわば、原同一性である。⇒ の先端ではないだろうか。やはり、ゼロなのではないだろうか。このゼロ、±ゼロが本存在ではないだろうか。超越性・虚数なきゼロ、±ゼロ。簡単にするため、ゼロで考えよう。
 ゼロから+1が生起するのではないのか。しかし、私は、先に、+1は共一性であると言った。自己=他者=同一性ではないだろうか。そして、これが、現存在ではないだろうか。そうすると、先に述べたように、ハイデガー存在論は、ゼロ(本存在)⇒+1(現存在)となるだろう。今は、ここで留める。
 
(続き)
 『存在と時間』では、ハイデガーは時間性を、現存在を超越するものと捉えている。だから、本存在は、+1ではありえない。とは言え、本存在は、 Media Pointではない。だから、やはり、考えられるのは、Media Pointと共一性+1との中間ないしは境界ということである。
 そうすると、やはり、⇒の先端ということになるのではないだろうか。それがどうも適当なように思える。フッサール現象学は、Media Pointである⇒を取り出したのであるが、ハイデガーはMedia Pointである⇒の先端を本存在として取り出したと思われるのである。
 思うに、この⇒の先端は奇妙な性質をもつだろう。ゼロないしは無から発現するようにして、原同一性、原自我が存するように思われるのである。一種の即非性がここにあるように思われるのである。即ち、ゼロでありつつ、+1であるということである。当然、+1が現存在ないしは世界内存在である。
 ハイデガーが時間性を超越的というのは、ゼロが+1を超越しているということを意味しているのではないだろうか。一種の超越的内包点としてのゼロをハイデガーは考えていたのではないだろうか。
 このゼロを本存在ないしは存在と考えるのは、理解できることである。なぜなら、+1が自己同一性認識と考えられるからである。自己同一性認識以前のものとして、存在を説いたと考えられるのである。確かに、認識を同一性に限定すれば、ゼロは前認識となるだろう。そして、それを存在と名付けるのは、それなりに理解できることである。
 しかしながら、既述したように、ハイデガーは真の超越性を否定しているので、つまり、(超越的)差異共振性(差異共鳴性)を否定しているので、超越的認識があるのを理解できなかったと考えられるのである。
 以上の試論的考察から、ハイデガー存在論は、数理的には、ゼロ⇒+1と表記するのがやはり適切であるように考えられるのである。繰り返すが、ゼロが本存在(本来的存在)であり、+1が現存在(頽落した存在)ないしは世界内存在である。そして、ゼロと+1は確かに、亀裂があり、不連続である。それを確かに、ハイデガーは指摘している。
 ということから、ここで、(一応、あらためて、)ポスト・モダン哲学について考察してみたい。
 その前に、前提として、-1と+1について整理しておきたい。+1は共一性ないしは同一性である。それに対して、-1は同一性主義ないしはロゴス中心主義である。近代で言えば、近代合理主義・近代的自我に当たる。
 ドゥルーズ哲学について言うと、それは、-1の同一性主義(「プラトニズム」)に対して、連続的差異の思想を提示した。それは、直感では、ゼロの思想である。ハイデガーの場合は、ゼロと+1との亀裂があったが、ドゥルーズの場合は、+1を排除して、差異をゼロに収斂させている。そうすると、実は、同一性がなくなるのであり、その結果、一種のオカルト主義になるのである。神秘主義になるのである。現象の同一性を排除してしまっているからである。だから、ドゥルーズは、ハイデガーから後退しているのである。
 それに対して、(初期)デリダについて言うと、私見では、ほぼ、ハイデガーを踏襲しているように思われるのである。とまれ、ロゴス中心主義とは、-1の同一性主義のことである。それに対して、差延とは、同一性である+1に関わるゼロの痕跡のことではないだろうか。同一性+1に対して、ゼロという「原点」が、言わば、つきまとうのである。このゼロのつきまといが、差延ではないだろうか。言い換えると、脱構築とは、ロゴス中心主義=同一性主義(-1)に対して、ゼロ⇒+1というゼロと同一性の亀裂を差延ないしは痕跡というアンチテーゼとして提示した理論のように思えるのである。つまり、ハイデガーがゼロ(本来的存在)と同一性(現存在)との亀裂というものを、(初期)デリダは、差延ないしは痕跡として提示しただけのように思えるのである。つまり、(初期)デリダはハイデガー存在論のエピゴーネンではないだろうか。
 以上、簡単に、ドゥルーズと(初期)デリダについて見た。ここで、後期デリダに簡単に触れると、彼は、ゼロを脱して、ニーチェやキルケゴールの特異性、絶対的差異について、ハイデガー=初期デリダを乗り越えたと思われるのである。つまり、後期デリダは、既述したように、トランス・モダンになったと考えられるのである。
 そのように系譜的に考察すると、不連続的差異論は、後期デリダ(とジャン=リュック・ナンシー)のトランス・モダンを、鈴木大拙の即非の論理を基盤にして、発展させた理論であり、プラトニック・シナジー理論は、それに超越的共振性を与え、且つ、それを数理化した理論であると言えよう。
 
p.s. 構造主義について述べる必要があるだろう。これまで、ゼロ記号(ゼロ)に注目して、そこに原点があると見たがどうだろうか。思うに、構造主義とは、同一性における対立構造なので、+1と-1の対立構造で説明できるのではないだろうか。つまり、ゼロは要らないということになる。ならば、ゼロ記号とはどうなるだろうか。これは、ハイデガーやポスト・モダンよりも、形式的な原理ではないだろうか。+1と-1との対立構造を生まれる根源をゼロと仮定したに過ぎないのではないだろうか。
 確かに、ゼロという点では、ハイデガーやポスト・モダンと類似する。しかしながら、構造主義のゼロとは、認識的ゼロではなく、あくまで、形式的ゼロと考えられるので、相違があると考えられる。今は、ここで留めたい。


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