GP陰陽原理:哲学主数学従の陰陽哲科学

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年03月24日(Wed)▲ページの先頭へ
三次元空間創造形成について:ベクトル・モード概念の視点
以下も思考実験である。

三次元空間形成の仕組みをどう考えるか。勿論、ベクトル・モード概念の視点からであるが。

Three dimensional Cartesian coordinate system with the x-axis pointing towards the observer
(図をクリックすると拡大します)

http://en.wikipedia.org/wiki/Three-dimensional_space

 
上図を参照して、X軸が実軸であり、Y軸が虚軸であり、Z軸を仮に原軸とする。三つの軸が直交する原点・交叉点をMedia Pointとする。
 Z軸(原軸)の「力」がMedia Pointに作用する。それには、下降ベクトル(ダウン・ベクトル)と上昇ベクトル(アップ・ベクトル)があるとする。
 ここで視点の問題を考えると、下降ベクトルの場合、上部からの視点と下部からの視点があり、同様に上昇ベクトルの場合もあると考えられる。
 下降ベクトル・モードを考えると、上部視点からはそれは、右回り・右巻きであり、下部視点からは逆で左回り・左巻きである。
 また、上昇ベクトル・モードの場合は、上部視点からは逆に、左回り・左巻きであり、下部視点からは右回り・右巻きとなる。
 もっとも、上昇ベクトル・モードの場合、下部と言ったが、それは、上昇ベクトルの「視点」にとっては、上部ではないのだろうか。
 つまり、Z軸のプラス軸とマイナス軸を考えると、プラス軸の視点とマイナス軸の視点があるのであり、前者から見ると、下降ベクトル・モードと上昇ベクトル・モードの回転や螺旋回転はそれぞれ逆になるが、後者から見ると、それが正反対になるだろう。例えば、下降ベクトル・モードを例にとると、プラス軸視点では、右回転であり、マイナス軸視点では、左回転である。
 言い換えると、下降ベクトル・モードの場合、極性的視点から、右回転と左回転が同時に生起していると言えるだろう。
 これは、上昇ベクトル・モードにおいても同様である。結局、ここには、回転の四極性ないしは四元性があると言えよう。とまれ、この問題は意義深いが、別稿で考察することにして、本論を続ける。
 Z軸の「力」がMedia Pointで交叉共振して、回転や螺旋形態を描く。この回転空間をガウス平面で水平に切った面が円である。これは仮にガウス円と呼ぶ。
 そして、以下は作業仮説であるが、ガウス円の円弧が前後次元ではないだろうか。上下は当然、Z軸次元である。そして、左右であるが、それは、Media Pointから円への半径方向ではないだろうか。
 そして、前後方向が円になるならば、左右方向も円になるのではないだろうか。そう仮定しよう。つまり、ガウス円上の任意の点をPとすると、原点からPへの半径方向がP点の左右方向となり、また、左右方向が円を描くとすると、ガウス円とP点の円が結合して、立体の球が形成されると考えられる。これを仮にガウス球と呼ぶ。これが星辰の形態を意味するのではないだろうか。
 そして、P点をZ軸のプラス軸にもってくると、P点において、上下はZ軸方向であり、前後はガウス円方向であり、左右はそれとは垂直の円方向となる。
 とまれ、これで三次元空間、とりわけ、星辰(惑星)的三次元空間の形成が説明されるとしよう。
 また、問題を明快にするために、三次元空間(仮にガウス立体と呼ぶ)ではなく、ガウス平面空間を基礎として考えることにしたい。つまり、ガウス円が現象平面を表現し、Z軸を垂直・鉛直方向とする。
 さて、ベクトル・モード(Vector Mode)に戻ると、下降モードと上昇モードがあるが、ここで太陽系を考えると、北極を上部視点とすると、反時計回りに回転している。
 つまり、北極をZ軸のプラス極とすると、太陽系は上昇ベクトル・モードであると言える。これは、朝顔の蔓の螺旋と同じ方向である。
 では、上昇ベクトル・モードと対になる下降ベクトル・モードはどこにあるのかが問題である。
 ここでまた、作業仮説であるが、上昇ベクトル・モードとは、光のモードとしよう。それに対して、下降ベクトル・モードは闇のモードとしよう。ならば、下降ベクトル・モードは、ダーク・マターやダーク・エネルギーの宇宙ではないだろうか。これも興味深いがここで留める。
 とまれ、上昇ベクトル・モードに限定すると、太陽系や宇宙は螺旋を描いて、上昇していることになるだろう。それが、人類や宇宙の進化と関係するのではないだろうか。つまり、先に述べた螺旋的進化論である。
 そして、西洋占星術であるが、その占星術的史観であるが、それは、本来、この螺旋的進化論の通俗版ではないだろうか。
 とまれ、螺旋的調和秩序が宇宙の原理としてあるということになるだろう。これが、コスモスの原理となるのである。
 次に、簡単にDNAの二重らせんに言及したい。Wikipediaの説明には、「二重らせんは右巻き(右手) である(右方向へまわりながら下る螺旋階段をイメージ)。」(追記:中には、左巻きの二重らせんもあると以下にある)とあるので、二重らせんは下降ベクトル・モードである。
 当然、これは、太陽系や宇宙の上昇ベクトル・モードとは反対である。この対称性は実に興味深い。
 ここでは、比喩的に言うが、星辰の上昇ベクトル・モードは生のモードであり、DNAの二重らせんは死のモード、乃至は、誕生以前のモードではないだろうか。あるいは、上記に従えば、光のモードと闇のモードである。
 とまれ、下降ベクトル・モードから上昇ベクトル・モードが発生するということではないだろうか。これも実に興味深いが今はここで留めたい。
 
追記:二重らせんの二重の意味は何か。これは、虚軸の極性、+iと-iの極性に拠ると言えるのではないだろうか。とまれ、当然ながら、二重化によって、新しい交配が生じるのであり、進化に寄与するものと考えられる。

 
参照:

太陽系の起源

学校で太陽系の構造、というのを習ったかな?太陽系内の惑星や衛星は自転や公転という回転運動をしているけれど、それが殆どの場合、同じ方向だといういうことに気付いたかな?地球を北極の上空から見てみると、「反時計回り」に自転している。同 じように太陽の「北極」から地球の公転の方向を見てみればやはり「反時計まわり」だ。これは地球だけじゃない。地球以外の惑星の公転もすべて「反時計まわり」だし、太陽の「自転」の方向も「反時計回り」。あまつさえ、月の自転や公転の方向さえ「反時計回り」だ。

これは単なる偶然なのだろうか? ある意味ではこれは偶然だ。太陽系内の星々が全て「反時計回り」である代わりに全 ての星々が「時計回り」でも良かったという意味では。大体、宇宙には上下なんて無いから太陽系の星々を反対側、つまり、地球の南側から見てやれば回転方向は「時計回り」になる。

しかし、別の意味ではこれは必然だ。全ての回転運動が同じ向きで無くてはならなかったという意味では。太陽系はその昔、とても大きな、しかし、薄い気体と塵のボールだった。このボールの回転は一様では無く、時計回りの部分も反時計回りの部分も あったけれど、全体としてはわずかに「反時計回り」の部分が多かった。そして、これが重力の力で潰れて、平たい円盤になり、更にいくつかの塊(=星)へと進化した時、もともとのボールの回転方向が保存されてそのまま太陽や地球の自転や公転の方向になったのだ。

これをもう一度見てみるわけには行かないが、簡単な実験をすることは誰にでも出来る。洗面台に水を張り、ごくゆっくりと右回りか左回りに手で回転を与えてから、栓を抜いて水を流してみよう。最初はゆっくりだった回転が排水口から流れ出る時には ずっと高速の回転になっていることが解るだろう。そして、その回転方向は最初に手 で与えた回転の方向と同じになる。原始の「ボール」は今の太陽系の大きさよりずっ と大きかった。これが、太陽系の大きさに「縮む」時に、ちょうどこの洗面台から流 れ出る水の回転と同じことが起きて、太陽系の星々に高速の自転と公転を与えたのだ。そんなわけで宇宙広しと言えども、殆ど例外なく星は回転している。それどころか、銀河系さえも回転している。どっちの方向にだって?それはまあ、みんなへの宿題と いうことにしておこう。

http://www.granular.com/shobutsu/980708.html


諸物ノ方則


二重らせん
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二重らせん
バチカン美術館 の二重らせん階段

二重らせん(にじゅうらせん)とは二本の線がらせん 状になった構造のこと。本項目ではDNA が生細胞中でとっている立体構造 について述べる。二本のDNA鎖が互いに絡み合うような形で存在するこの構造は、遺伝子 の物理的実体がDNAであることを決定付けた最後の証拠とされている。

DNA の構造は、分子模型を構築する手法を用いて1953年にジェームズ・ワトソン とフランシス・クリック によって提唱された (Nature 171 pp. 737-738, 1953)。このDNA分子模型の構築は、モーリス・ウィルキンス とロザリンド・フランクリン によってすすめられていたX線結晶構造解析 の画像及び解析情報やエルヴィン・シャルガフ によって示されていたDNA塩基存在比の法則などのDNAに関する既知情報をすべて満足させるように配慮しながら行われた。当時、既にDNAが遺伝物質の正体であることは実験的に示されていたが、複雑な遺伝情報を単純な物質である DNA が担っているという考えには批判も多く、複雑なタンパク質 こそが遺伝物質であるという意見も強かった。DNAの構造が決定されることで、遺伝 が DNAの複製によって起こることや塩基配列 が遺伝情報であることが見事に説明できるようになり、またその後の分子生物学 の発展にも大きな影響を与えるパラダイムシフト となった。1962 年 、 DNA二重らせん構造に関する研究により、ワトソンとクリックはウィルキンスとともにノーベル生理学・医学賞 を受賞した。

DNAが二重らせん構造を取っていることは現在では当たり前のことになっているが、1953年以前ではDNAが生体内でどのような形状を取っているかは明らかではなかった。二重らせん構造の提唱以降DNAを実験材料とする分子生物学 が発展し、事実クリックは分子生物学の主要な研究に関わりながら遺伝子への理解に貢献した。

なお、狭義には二本鎖DNAが細胞内で取る形状としているが、細胞外でも少し構造の異なる二重らせんをとっている。したがって広義には単に「二本鎖DNAがとる立体構造」としても良い。別名、二重らせん構造、ダブルヘリックス (double helix)。またアクチン によるマイクロフィラメント のように二重らせん構造をとる他の生体物質もある。
二重らせんの主要な特徴 [編集 ]
DNAの二重らせん構造。主溝 (major groove) と副溝 (minor groove) が示されている。

二重らせんはDNAに関する多くの研究の中からワトソンとクリックのたどり着いた最も理想的なモデルだが、その構造には7つの重要な特徴が強調される。なお、DNAの構造は3種類あるが、次の特徴はB−DNAのもの。

1. 二重らせんは2本のポリヌクレオチド から形成される。
2. プリン およびピリミジン 環は二重らせんの内部に配向している。
3. 相補的な関係にある塩基は水素結合 によって結ばれている。
4. らせん1回転あたり10.4塩基対存在する。
5. 二重らせんの2本のポリヌクレオチドはそれぞれ方向が逆である(逆平行である)。
6. 二重らせんには主溝と副溝の2種類の溝がある。
7. 二重らせんは右巻き(右手) である(右方向へまわりながら下る螺旋階段をイメージ)。

以上が7つの特徴だが、1. の特徴が中でも証明に困難を要した部分と言われている。光学異性体 の研究で有名なライナス・ポーリング もDNAの立体構造について研究し、ワトソンとクリックの論文の数ヶ月前に三重らせんモデルを提案している。後にDNA密度測定により二重らせんが正しいことが証明された。

2. の特徴はプリン、ピリミジン環が内部であると同時に糖 -リン酸 に関しては外部に配向していることを説明している。なおプリン、ピリミジン環はらせん軸に対してほぼ直角に傾いている。

3.の特徴はエルヴィン・シャルガフ によって提案された塩基存在比の法則(後述 )の証明となった。後にアデニン (A) とチミン (T) の間に2本の、グアニン (G) とシトシン (C) の間に3本の水素結合が存在することが示された。(詳しくは相補的塩基対 )

4. の特徴はDNAの二重らせんの数字的な部分も説明しており、例えばらせん一回転あたり螺旋軸の長さは34オングストローム (Å)(この長さをピッチ) 、したがって螺旋軸に沿った塩基対間の距離は3.4Å(この長さをライズ)、らせんの直径は20Åである。

5. の特徴は逆平行の二本鎖DNAのみが二重らせんを構築できることを説明している。デオキシリボース の5'側の配列を上流、3'側の配列を下流とする。

6. の特徴は二重らせんは完全に規則正しいらせんを描いているわけではなくことをあらわしている。塩基の積み重なりと糖ーリン酸骨格のねじれの関係上、完全に規則正しい二重螺旋から鎖がずれ、螺旋に長さの違う2種類の溝が存在する。大きなほうを主溝、小さなほうを副溝という。主溝と副溝の存在はDNA の複製 や遺伝子発現 時に重要な立体構造であると考えられている。

7. の特徴は例外的であり、後述するがZ型DNAでは逆の左巻き(左手) のらせんを示す。Z型は従来は人工的なものと考えられてきたが、実は生体内でもこのような構造を取りうることが最近の研究でわかってきている。しかし、生物の有する大半のDNAは右回りであることは間違いない。
様々な二重らせん [編集 ]

DNAは主に水分の含有率によってサイズの異なる二重らせんを示すことがある。DNAの周囲に存在する水分子を減らすことによってプリン、ピリミジン塩基の位置が多少変化することにより立体構造が変わってくると考えられている。なお、上記の7つの特徴を有するDNAはB-DNAである。

現在、A-、B-、C-、D-、E-、Z-の6つが見つかっているが、水分の量を調節すればこの先更に見つかると考えられる。中でも重要なのが生体内で取るべき形状であり、それらはA-、B-、Z-である。主な特徴を以下にあげる。

* A-:右巻き 、1回転あたり塩基数11、塩基対間距離2.6Å、らせんの直径23Å、湿度 75%時にとる立体構造
* B-:右巻き、1回転あたり塩基数10、塩基対間距離3.4Å、らせんの直径20Å、湿度92%時にとる立体構造、生体内では最も一般的な構造[1]
* Z-:左巻き 、1回転あたり塩基数12、塩基対間距離3.7Å、らせんの直径18Å、グアニンとシトシンの繰り返し配列の時にとる立体構造

一般的な二重らせんはB型であるが、A型は二本鎖RNAでとることがある。Z型はZ-DNA領域と呼ばれる配列が染色体 内で見つかり、生体内でこのような構造を取っている可能性が示唆されている。
二重らせんに貢献した研究 [編集 ]

ワトソン、クリックがDNAの二重らせん構造にたどり着いたのは、2つの有名な研究があってこそである。その1つはエルウィン・シャルガフによる『DNAの塩基存在比の法則』であり、もう1つがモーリス・ウィルキンス とロザリンド・フランクリン による『X線結晶構造解析』である。

DNA塩基存在比の法則はDNA中に含まれるアデニンとチミン、グアニンとシトシンの量比がそれぞれ等しいという至極シンプルな法則である。現在であれば相補的塩基対が水素結合しているからという理由こそ付けられるものの、シャルガフの時代にはこれらを満たすDNAモデルは存在していなかった(テトラヌクレオチドモデル がそうかもしれないが)。

X線結晶構造解析は19世紀後半から低分子の物質の構造解析に使用されてきたが、高分子の結晶化が容易になると同時に生体分子にも応用されてきた。タンパク質 はDNAよりも早くに立体構造が判明している。DNAの構造解析に用いられた最も有名な写真はロザリンド・フランクリンの撮影したものであり、彼女はこの結果から、DNAは『2、3あるいは4本の鎖からなるらせん構造』をとっていることをレポートに残している。

ロザリンド・フランクリンとワトソン、クリックの二重らせん構造解析の争いは数多くの本に筆記されているが、中でも『ロザリンド・フランクリンと DNA―ぬすまれた栄光』はフランクリン側、『二重らせん』はワトソンの観点から描かれている。フランクリンの二重らせんの公表が遅れた理由のひとつとして、B型以外にも取りうる構造(A型のこと)があることを発見し、その両方を解析したうえで公表しようと考えていたというコメントが残っている。ワトソン、クリックの提案した二重らせんはB型のみであった。

なお、ワトソン、クリックがX線結晶構造解析を行ったと誤解されていることが多いが、彼らは構造解析を行っていない。上記の2つの研究を含めた多くのDNAに関するデータの蓄積の中から全てを満足させるDNAの構造をモデル構築したのである。
関連項目 [編集 ]

* DNA
* 遺伝子
* コンフォメーション
* 構造生物学
* 分子生物学

参考文献 [編集 ]

1. ^ Leslie AG, Arnott S, Chandrasekaran R, Ratliff RL (1980). “Polymorphism of DNA double helices”. J. Mol. Biol. 143 (1): 49–72. DOI : 10.1016/0022-2836(80)90124-2 . PMID 7441761 .

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カテゴリ : 分子生物学 | 生物物理学 | 生物学史


2010年03月22日(Mon)▲ページの先頭へ
Kaisetsu氏のベクトル・モード概念はブレーク・スルーである:自然界の根源情報的モード概念
渦巻き等の自然界に見られる形状をどう説明するかは、問題であったが、ベクトル・モードの概念で解明・解決されたと言えよう。
 思うに、天から地への下降垂直方向のベクトルと地から天への上昇垂直方向のベクトルが当然考えられる。
 竜巻や樹木の幹の螺旋や朝顔などのつるまき植物、等の説明ができる。そして、何故、右巻き(かつては左巻き)なのかの説明もできよう。
 下降も上昇も右巻きとなる。しかし、下降ベクトル・モードと上昇ベクトル・モードは一見同じベクトル・モードに見えるが、直観では違うように思える。
 樹木を考えると、根は当然、下降ベクトル・モードであり、幹や枝葉は上昇ベクトル・モードである。つまり、樹木においては、同時に、下降ベクトル・モードと上昇ベクトル・モードが作用しているのである。これをどう説明するか。
 Media Pointにおいて、⇒+1と⇒-1があるのではないだろうか。前者を下降ベクトル・モードとすれば、後者は上昇ベクトル・モードである。あるいは、逆である。
 しかし、+1を物質とすると、前者が下降(重力)で、後者が上昇である方が適切であるように思える。
 あるいは、まったく異なる考えた方をして、ガウス平面でMedia Point において、直交するZ軸を考えると、そこにベクトルが作用するのだから、虚軸の+iの方向と虚軸-iの方向に向かうことが考えられる。
 つまり、⇒+iと⇒-iである。前者が上昇で、後者が下降というのはわかりやすい。
 朝顔の蔓が+iの方向に右巻きで螺旋を描くのは見やすいだろうし、根が-iの方向にやはり、右巻きで捻れると見るも同様である。
 ということでざっとであるが、予備考察を行なった。上記の試論は後者の視点の方が明快であると考えられる。今はここで留めるが、このブレーク・スルーというべきベクトル・モードの概念は単に自然界の形状を説明・解明するだけでなく、宇宙の進化、人間の進化等も説明できると推察される。
 つまり、不連続的差異論の誕生直後、不明瞭ながら考えた螺旋的な進化が証明されると思われる。オカルト・神秘的な思想もこれで超克されて科学的になると考えられる。
 余裕のあるとき、熟慮したいが、ひと言付け加えると、ガウス平面に直交するZ軸(超虚軸?)が重要である。どうやら、ここに根源的精神(情報)があり、それが、Media Pointで、天+iと地-iを創造する、即ち、天地創造を行なうと思える。つまり、創造神はZ軸に存するということになる。(しかし、創造神は多神であろう。)だから、創造神的ベクトルによって、天地のベクトル・モードが創造・形成さるのである。言い換えると、ガウス平面が天地、自然、宇宙ということになる。
 
追記:ピュタゴラス派が何故「5」を神聖な数と考えたこともベクトル・モード概念で説明できることになったのである。それは、ベクトル・モードによる黄金比と関係しているのであり、それは、正五角形を指し示しているのである。そして、それは、五芒形(いわゆる、星形)を説明するのである。換言すれば、自然界、造化の本質と関係しているのである。

追記2:ひと言、次元について言うと、ベクトルとベクトル・モードで三次元空間が説明できる。また、ベクトルを時間とすると、それで、時空四次元が説明できる。
 ここまではアインシュタインの相対性理論である。しかしながら、Z 軸、根源的軸を想定できるので、それが、五次元となると思われるのである。空間で言えば、四次元であるが。
 緻密に言えば、⇒+1が仮想円盤を形成するとすれば、それが空間三次元ないしは時空四次元である。
 それに対して、Z軸となる虚軸を考えると、虚軸が五次元ないしは四次元となるだろう。
 この仮説の方がガウス平面だけで済むので、エコノミー的である。後でさらに考察を行ないたい。

追記3:まったくの思いつきであるが、Media Pointにおいて、情報軸として、Z軸が形成されるとしよう。これは、また、いわば、ベクトル軸ではないだろうか。
 そして、それが、ガウス平面でベクトル・モードを形成するのではないのか。だから、⇒+1とは、実は、ガウス平面上の半径1の円ではないだろうか。それで、三次元空間は説明ができる。
 それとも、実軸を直径する円が形成されるということかもしれない。この円はガウス平面にではなく、実軸的平面にある。
 思うに、実軸的平面が二次元であり、虚軸が一次元(天地)であり、合わせて三次元空間である。それに対して、Z軸(根源情報軸l)を想定すると、四次元空間ないしは五次元時空間が考えられる。
 そうならば、実軸的平面をガウス平面と明確に区別する必要がある。仮に実平面としよう。そして、虚軸が天地の次元で、立体空間が生じる。
 そして、それ以外にZ軸の根源情報軸を想定すると、四次元空間、ないしは五次元時空間となる。
 それとも、Z軸をベクトル軸にして考えるべきかもしれない。つまり、虚軸こそ根源で、Media Pointにおいて、ベクトル軸のZ軸が発生するとしよう。このベクトル軸=Z軸と実平面(仮想円盤)が結合して、三次元空間となる。
 また、虚軸次元があるから、四次元空間ないしは五次元時空間となる。
 後でさらに検討したい。 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

[03/22]
└ 「浴槽の栓を抜くことでできる渦巻き」とベクトル・モード(Vector Mode)
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810824

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


参照:

Q5 アサガオのつるは左巻きそれとも右巻き? A5   アサガオのようなつるの巻き方を今までは左巻きとしてきましたが現在では科学一般の呼び方に従って右巻きとしています。
http://www.proto-ex.com/gentaiken/qa5asagaonoturu.html

植物に関するQ&Aコラムシリーズ


2010年03月21日(Sun)▲ページの先頭へ
Kaisetsu氏によるPS理論の新たな展開:情報モード概念としてのベクトル・モード
Kaisetsu氏が新たな理論的進展を行っている。是非、確認されたい。
 私見では重要な概念は仮想円盤であり、また、そこに表出される「描像」=モードである。
 このベクトル・モードという創造的な概念によって、現象界=自然界における形態の発生が解明されたと言っても言い過ぎではないだろう。
 渦巻き、らせん、円、等の発生力学が説明される。思うに、星の球体、そして、その他の形象、例えば、花弁の形や数、等もここから説明されるだろう。
 直感で言えば、ベクトル・モードの情報のなんらかの周期が基本的な形象を描出するように思える。
 例えば、正五角形のベクトル・モードを考えると、それは、らせん形状において、「上」から見たとき、正五角形になるような螺旋を描くような情報エネルギーをもてばいいのではないか。
 後でさらに考察したい。
 
*********************** 

[03/20]
├ ベクトル・モード(Vector Mode)の定義
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810815

☆☆☆☆☆一部引用開始☆☆☆☆☆


DSC07955 DSC07955 posted by (C)天花一海


 矢印は、矢印の方向と垂直方向の平面(或いは、空間、断面)を仮想的に必要とする説明のための図である。

 この図のように、矢印と垂直方向の平面に仮想的に描かれた模様の種類を、ベクトル・モード(Vector Mode)と定義する。

 上記の図では、円盤状の平面(空間)に渦巻き模様が描かれている。

 例えば、この渦巻き模様の種類を、べクトル・モード(Vector Mode)と呼ぶことにする。

☆☆☆☆☆一部引用終了☆☆☆☆☆

└ 指し示し(矢印)と仮想円盤の中心(仮想重力)の連関
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810813

[03/21]
└ ベクトル・モード(Vector Mode)、電流、コイル、磁力
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810817

└ 巻貝とベクトル・モード(Vector Mode)
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810818

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

参考:
五角形
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正五角形

五角形(ごかくけい、ごかっけい、英 : pentagon)は、5 つの頂点 と辺 を持つ多角形 の総称。


正五角形 [編集 ]

正五角形は、各辺の長さが等しく、内角 も108°(中心角 は72 ° )と一定な五角形である。辺の長さを a とすると

面積
A = \frac{5a^2}{4}\cot\frac{\pi}{5} = \frac{a^2}{4}\sqrt{25+10\sqrt{5}} \simeq 1.72048 a^2
内接円の半径
r = \frac{a}{2}\cot\frac\pi{5}
外接円の半径
R = \frac{a}{2}\csc\frac\pi{5}

正五角形の作図 [編集 ]

正五角形は定規とコンパスによる作図 が可能である。以下に示すのは古典的な方法の一つである。
(1) (2) (3) (4)
(1) (2) (3) (4)

1. 直線上の一点Oを中心にとった円を描画し、直線と交わる二点をA, Bとする。ABの垂直二等分線、およびOAの垂直二等分線を作図する。
2. OAとその垂直二等分線が交わる点をC、円OとABの垂直二等分線が交わる点のうち一つをDとする。CDを半径にとり、Cを中心にDからABまで弧を描画する。弧とABが交わる点をEとする。
3. DEを半径にとり、Dを中心に弧を描画する。弧が円Oと交わる二点をF, Gとする。
4. 同じ半径のままF, Gを中心とした弧を描画する。これらの弧が円Oと交わる五点D, F, G, I, Hを結ぶ図形が正五角形である。

定理 [編集 ]

* 正五角形の一辺と対角線との比 は、黄金比 に等しい。
* 正五角形の交わる対角線は、互いに他を黄金比 に分ける。

その他五角形に関する事項 [編集 ]

* アメリカ国防総省を俗にペンタゴン というが、これは庁舎が五角形であることに由来する。
* 五角形を模した星形(☆)を五芒星 (ペンタグラム)という。長崎市 の市章はペンタグラムとなっている。
* ヒトデ やウニ など、棘皮動物 の体制は五放射総称を基本とする。
* \sin 18^\circ = \frac{\sqrt{5} - 1}{4}で、 これに黄金比 を掛けると1/2になる。つまり、2sin18°は黄金比の逆数。
* 五角数 は多角数 の一つである。
* 野球 で使用される本塁 は、五角形をしている。

参考文献 [編集 ]

* 高木貞治『数学小景』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2002年。ISBN 4006000812

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カテゴリ : 多角形 | 初等数学 | 数学に関する記事


角運動量
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角運動量
angular momentum
量記号 L
次元 M L 2 T −1
種類 擬ベクトル
SI単位 ニュートンメートル秒 (N·m·s)
プランク単位 有理化されたプランク定数 (ℏ)
表 ・話 ・編 ・歴
固定された回転軸をもつ系に対して、力を作用させた時の物理量の関係。力のモーメント \vec{\tau} と位置ベクトル \vec{r} と力 \vec{F} との関係(上の式)、および角運動量 \vec{L} と位置ベクトル \vec{r} と運動量 \vec{p} との関係(下の式)。

角運動量(かくうんどうりょう)とは、運動量 のモーメント を表す力学 の概念である。

位置 \vec{r} において、速度 \vec{v} で運動している質量 \,m の質点の、原点のまわりの角運動量 \vec{L} は、次式で定義される。

\vec{L} \equiv \vec{r} \times \vec{p} = \vec{r} \times m \vec{v} = m \vec{r} \times \frac{d \vec{r}}{dt}

ここで、\,\timesは外積 を表す記号であり、\vec{p} = m \vec{v} は質点の運動量 である。方向は他のモーメント同様\vec{r}から\vec{p}に回転するとき、右ねじの進む方向である。外積であるので、角運動量の大きさ\,Lは次のように表される。

L=rp\,\sin \theta

ここで、\,\thetaは\vec{r}と\vec{p}のなす角を示す。

角運動量の単位時間当たりの変化量 \tfrac{d\vec{L}}{dt}は力のモーメント \vec{N} \equiv \vec{r} \times \vec{F} に等しい。

\frac{d\vec{L}}{dt}=\frac{d(\vec{r}\times \vec{p})}{dt}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}+\vec{r}\times \frac{d\vec{p}}{dt}=\vec{r}\times \vec{F}\equiv N

ここで次の関係を使った。

\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times (m\frac{d\vec{r}}{dt})=0 ,\frac{\vec{dp}}{dt}=\vec{F}

このことから、力が動径方向(\vec{r}方向)にあるか、あるいは力が働いていないときは\vec{N}=0となり、したがって、このとき角運動量は時間とともに変化しなくなる。このことを角運動量保存の法則(角運動量の保存則)という。

詳細は「角運動量保存の法則 」を参照

保存則が成り立っている物体に加わっている力、すなわち動径方向(\vec{r}方向)と同じ向きにある力は、その大きさを\,f(r)とすると、次のように表すことができる。

\vec{F}=f(r)\vec{\hat{r}},\,\,\,\,\,\hat{r}\equiv \frac{\vec{r}}{r}

この力は中心力と呼ばれる。

惑星間に働く万有引力は中心力であり、したがって、惑星の角運動量は保存される。保存則は、ケプラーの第2法則「面積速度一定」 と密接な関わりがある。単位時間当たりに惑星の掃く面積は、次のように表され、

\frac{dS}{dt}\fallingdotseq \frac{1}{2}r\frac{ds}{dt}=\frac{1}{2}rv=\frac{1}{2m}L

したがって、掃かれる面積の時間による変化率が一定ならば、角運動量も一定の値をとる。

\frac{dS}{dt}=h\Leftrightarrow L=2mh

等速直線運動 においてはベクトル量 である運動量 \vec{p} が時間によらず一定であるのに対し、等速円運動 においては、運動量の大きさは一定であるが、向きは時間により変化する。外力 \vec{F} が加わらないとき、力のモーメント \vec{N} は \,0 であり、角運動量は等速直線運動でも等速円運動でも時間によらず一定のベクトル量となる。
回転運動と角運動量 [編集 ]

円運動 している質点 の速さ\vec{v}は次のように表される。

\vec{v}=\vec{r}\times \vec{\omega},\mid \vec{v}\mid =v=\mid \vec{\omega}\times \vec{r}\mid =\omega r

ここでωは角速度 である。したがって、回転運動している質点の角運動量は

\vec{L}=\vec{r}\times \vec{p}=\vec{r}\times (m\vec{\omega }\times \vec{r})=m\vec{r}\times \vec{\omega }\times \vec{r}

最後の式の形はベクトル三重積 であり、よって、

\vec{L}=mr^2\vec{\omega}
\,L=m\omega r^2

次に、多数の質点が混在する質点系の、力のモーメントと角運動量の関係を述べる。質点系の角運動量の時間的変化率\tfrac{d\vec{L}}{dt}=\vec{N}は外力のモーメントに等しく、内力のモーメントに依存しない。これは次のように示される。 \,i番目の質点の角運動量を\vec{l_i}とすると、その質点の力のモーメント\vec{N_i}は

\frac{d\vec{l_i}}{dt}=\vec{N_i}

また、\,i番目の質点に作用する力で表せば、

(1)\vec{N}_i=\vec{r}_i\times (\vec{F}_i+\sum_{j} \vec{F}_{ij})

となるが、内力の部分の力のモーメントについては、運動の第3法則 \vec{F}_{ij}=-\vec{F}_{ji}により、

(2)\vec{r}_i\times \vec{F}_{ij}+\vec{r}_j\times \vec{F}_{ji}=(\vec{r}_i-\vec{r}_j)\times \vec{F}_{ij}

の関係が成り立つ。内力の向き\vec{F}_{ij}はちょうど\,i番目と\,j番目の質点間を結ぶベクトル(\vec{r}_i-\vec{r}_j)と同じ向きであることから、(2)は0となり、力のモーメント(1)の総和をとれば、質点系での内力のモーメントは

\sum_{i} \vec{r}_i\times \sum_{j} \vec{F}_{ij}=0\,\,\,\,\,(i\ne j)

となる。したがって、質点系での力のモーメントの総和\vec{N}は外力のモーメントでだけの和で与えられ、角運動量の総和を\vec{L}とすれば次式のようになる。

\vec{N}\equiv \sum_{i} \vec{N}_i=\sum_{i} \vec{r}_i\times \vec{F}_i=\sum_{i} \frac{d\vec{l}_i}{dt}=\frac{d\vec{L}}{dt},\,\,\,\,\,\sum_{i} \vec{l}_i\equiv \vec{L}

ゆえに、質点系の全角運動量\vec{L}の時間的変化の割合は、外力のモーメントの和に等しくなり、内力のモーメントには依存しない。


量子力学の角運動量 [編集 ]

量子力学 では、角運動量は軌道角運動量 とスピン角運動量 がある。詳しくは各項目を参照。
関連項目 [編集 ]

* 角運動量保存の法則
* 力のモーメント
* トルク (回転軸の周りの力のモーメント)
* ジャイロスコープ

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F 」より作成
カテゴリ : 物理量 | 回転 | 数学に関する記事


2010年03月13日(Sat)▲ページの先頭へ
シュタイナー精神学とPS理論:+1が月(物質)であり、-1が太陽(精神)である。
これは、精神学者シュタイナーの思想に関わるので、特殊な問題である。しかし、PS理論に関わる面があるので、考察を行ないたい。(以下は、一般の人は無視されたい。おそらく、チンプンカンプンのはずである。)
 シュタイナーはヤハウェを月に存した太陽霊としている。(因みに、シュタイナーの精神学は実に東洋的なのである。彼は太陽霊をキリストとしているが、実はこれは、アフラ・マズダーなのである。つまり、シュタイナー精神学とは、ゾロアスター教的精神学なのである。あるいは、比較精神学である。)
 この月に存した太陽霊が問題なのである。先の検討では、ヤハウェは+1となるのであるが、シュタイナーの思想では、-1である。実陰に存する太陽霊なのである。
 ここで想起すべきは、シュタイナーは物質を月に、精神を太陽に見ていることである。
 それから考えると、+1は月になるのであり、-1が太陽になるのである。だから、ヤハウェが月にいる太陽霊であるというのは、+1である太・陽と一致するのである。
 だから、PS理論的陰陽論とシュタイナーの精神学は一致することになるのである。

追記:そうすると、更なる問題は、エーテル体とアストラル体と「自我」である。+1を形成するエネルギーがエーテル体であり、-1を形成するエネルギーがアストラル体ではないだろうか。そして、「自我」、正確には、自己は、 Media Pointの垂直的認識であると考えられる。これらの点については、精緻に検討する必要がある。

参考:
『父権的自我の力学について:父権は母権に包摂される:二つの陰陽:虚軸の陰陽と実軸の陰陽』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10479923357.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


2010年03月07日(Sun)▲ページの先頭へ
Kaisetsu氏による質的転換における指し示し対象と背景の反転法則
以下、Kaisetsu氏による、とても重要な法則を非常に明快明晰に解明している。
 質的転換における「背景」と「指し示し対象」の「反転」という法則は、他の領域においても重大な解明をもたらすだろう。例えば、経済領域で言えば、交換価値を指し示し対象とすれば、背景は使用価値、差異価値、差異共同価値等である。そして、これが、近代資本主義の様態である。しかし、質的転換(トランス・モダン化)によって、反転して、使用価値、差異価値、差異共同価値が指し示し対象となり、交換価値が背景に転化するということになろう。
 まだまだ、いろいろなことが考えられるが、ここで留める。



結晶に於けるMedia Point (メディア ポイント)の態様:質と量の反転

 (結論)

 つまり、質的転換の本質は、背景と指し示し対象の「反転」である。

 また、背景とは量的優位性であり、指し示し対象は、量的劣位性を有する。

 さらに、指し示し対象が概念の意義の本質である。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810771
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

参考:
Media Point の態様 (Mode): 指し示し、囲い込み、中心


2010年02月23日(Tue)▲ページの先頭へ
ラカンは間違っている:ラカンはポスト・モダンで、連続論である:ラカンを捨て、PS理論を取れ!
内容は知らないが、ラカン批判は必然である。そもそも、言葉使いが非科学的である。いい加減である。これは、ドゥルーズや初期デリダにも当てはまる。
 とまれ、簡単にラカン批判を言うと、現実界/想像界/象徴界の三元論に対する批判となる。
 これは、PS理論から言うと、虚軸界/Media Point/同一性界(物質界)と変換される。問題なのは、ラカンがフロイトを継いで、家族関係に限定していることである。
 PS理論は家族関係、つまり、エディプス関係に限定されないのであるし、家族関係に限定することは、矮小化(卑小化)/錯誤化である。
 だから、一番の問題は想像界である。ここで、母子的融合が問題になるのである。それは、母と子の連続性を意味するのである。しかしながら、PS理論では、それは、主体(自己)と客体(他者)との即非的関係を意味するのであり、あくまで、不連続な関係なのである。端的に、ラカンは、父権的な連続的思想に拘束されているのである。

追記:虚軸界は霊界であり、Media Pointが精神界(魂界)であろう。だから、霊界/精神界/物質界となる。

***********************

ラカンは間違っている

  ディラン・エヴァンス

   桜井直文監訳 冨岡伸一郎訳

新刊について
エヴァンスの「ラカンは間違っている」は、もとラカン派の精神分析を行っていた著者がみずからの経験をもとに書き下ろした論文「ラカンからダーウィンへ」の翻訳、「4年後」の補筆、カウンセラーを務める訳者による解説からなるラカン批判の書です。

http://www.gakuju.com/


2009年12月24日(Thu)▲ページの先頭へ
the imaginary action that creates trans-modern
以下、Akehino(Kaisetsu)氏の説明はすばらしい。PS理論のエッセンスが簡潔に視覚的にわかるように説かれている。
 とりわけ、

It is the imaginary action that creates 凸 from □.

And □ is a media point.

のthe imaginary actionが利いている。
 近代はこれを否定したために、混乱してしまったのである。

It is the very imaginary action that will create

trans-modearn.

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What is imaginary number?

This article follows 2009.12.23 Wednesday Minus1 is 凹. and what is "1"?



凸 is myself.

As long as I remains myself,I cannot recognize myself.

So only when 凸 meets 凹, 凸 can recognize 凸-self. And at the same time, 凸 will disappear into □.

But if another person is above, the person can see their behaviors.

The "behaviors of 凹 and 凸" are horizontal.

And we can imagine another person as vertical.

This vertical concept item is the imaginary number.

And □ needs to be divided once more for "myself = 凸" to recognize myself.

And for dividing action, another person is necessary above horizontal □ field.

We need to cut a cake vertically.

It is the imaginary action that creates 凸 from □.

And □ is a media point.

Akehino (Kaisetsu)

.....................................................

プラトニック・シナジー理論

http://blog.kaisetsu.org/?eid=810595
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2009年10月31日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:イデア対子の回転と超越神
今は、ざっと記すに留める。

Idea Polarity=[conθ+(i・sinθ)]*[-conθ-(i・sinθ)]

ただし、

θ=1/2πk
kは実数とする。
Idea PolarityをIPと表記する。

そして、

k=0のとき、 IP=(+1)*(-1)⇒-1
k=+1のとき、IP=(+i)*(-i)⇒+1
k=+2のとき、IP=(-1)*(+1)⇒-1
k=+3のとき、IP=(-i)*(+i)⇒+1
k=+4のとき、IP=(+1)*(-1)⇒-1

となる。

kが偶数のとき、同一性=物質
kが奇数のとき、差異(共振)=精神
となるのではないだろうか。

もっとも、k=1から始めるのが適切だと思う。

ところで、積と商を入れると、
kが偶数のときは、両者、-1であるが、
kが奇数のときは、+1と-1に分化する。
 
思うに、奇数のときに、4元的共振が生起して、創造的になるのではないだろうか。偶数のときは、二元共振であり、それは、唯物論的ではないだろうか。
 
とまれ、以上の発想の原基は、⇒+1が多神教的であり、反転の⇒-1が一神教というものである。

************************

さて、次に、超越神について簡単に考えたい。
 例えば、ヤハウェは、直感では、⇒-1であるが、果たして、-1が超越性を意味するだろうか。
 やはり、(+i)*-(-i)⇒-1において、強意の+iがヤハウェではないだろうか。では、⇒-1とは何か。 
 それは、先に述べたように、抽象的同一性ではないだろうか。つまり、ヤハウェは、Strong +iであるが、その結果は抽象的同一性である。つまり、これこそ、物質性ではないだろうか。+1の場合は、具体性がある同一性ではないだろうか。
 例えば、杉の木という同一性が+1ではないだろうか。そして、重さという同一性が-1ではないだろうか。これは検討課題である。


2009年10月28日(Wed)▲ページの先頭へ
一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ: Ver3
以下、先の論考の一部を修正し、また、追記2等を補足したものである。

参照:

PS理論に於ける「カラー( colour)」の定義
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810196

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

***********************

一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ: Ver3

この問題はきわめて意義深く興味深いので、さらに考察を行いたい。
 昨日は記述は、まだ述べたいことを十分に述べてはいなかった。つまり、Kaisetsu氏が創造した用語の『精神的フィルターsemantic filter』の概念が、知的喚起力があり、その喚起されたものを述べたい。
 「フィルター」という概念が明敏なのである。つまり、Media Pointにおいて、垂直軸と水平軸が「交差」するが、前者から後者へと次元転換(縮退次元変換?)するときに、この精神的フィルターが発生するのである。
 このフィルターの虚軸部では、超越的共振エネルギーがいわば沸々としている。しかし、実軸部では、同一性の形態・形象・図式が生まれるのである。
 以前、海岸の打ち寄せる波の風景・情景のことを言語化し、それでも、私の「思い」は表現されていないことを述べたが、それは、まったく一般意味論的な事象・心象である。
 この「思い」が精神フィルターの虚軸部ではないかと思う。そして、言語表現がフィルターの実軸部の同一性の図式・フレームである。(言語と感覚は相関性がある。)
 「思い」が差異共振性であり、言葉が同一性であり、一般意味論の構造微分に当たる。この「微分」という発想はまったく的確である。
 不連続的差異は微分不可能であり、差異共振性も当然そうである。しかし、精神的フィルターを介すとき、微分可能となるのである。だから、フィルターは同一性変換器とも言える。
 結局、心(身体的精神)には、Media Pointがあり、虚軸と実軸が交差しているのであり、虚軸ゼロ点における「思い」が実軸ゼロ点の「言語」ないしは構造微分に変換されるのであるが、これは、当然、等号ではなく、等号且つ不等号であり、端的に、即非である。あるいは、⇒である。
 結局、既述したことの繰り返しとなるが、虚軸部と実軸部とは、絶対的に不連続であり、シャープに切断されているのである。つまり、虚軸部≠実軸部である。ここには、等号は成立しないと言えよう。
 虚軸部をY、実軸部Xをとすると、Y⇒X、Y≠X と記述できる。
 精神フィルターで隔離された二つの領域が存するので、意識は錯誤に陥りやすいと言える。つまり、何とか、両者を連続させて、辻褄を合わそうとするのである。しかし、本来、絶対的不連続性があるので、辻褄は合わないのである。
 ここでやや飛躍的だが、言語について簡単に触れると、それは、知的「物質」性と言えるかもしれない。あるいは、認識的「物質」性である。端的には、認識的同一性である。思うに、これが精神的フィルターである。Media Pointにおいて、実軸部には、精神的フィルター=認識的同一性=言語的フィルターが存するのである。
 そして、これは、主に、+iが関わっているだろう。つまり、Media Pointにおいて、虚軸的共振「現象」に対して、+iが能動的にはたらいて、+1と同一化すると思われる。
 これは、思うに、差異共振エネルギー⇒が消費されたときに+1に終結するが、それと、主体の+1が一致することから生起するのではないだろうか。つまり、認識は、+iに傾斜しているのである。そして、それが、+1と同一化するということであり、このときに、+iは言語認識作用をもつということではないだろうか。
 そして、成長過程において、この言語認識を増殖させることになるのであり、現象世界は、同一性世界へと縮退・抽象化されていくのである。それは、また、数量の支配する世界である。原近代世界である。
 ということから、精神的フィルター問題に返ると、そのフィルターは、+i傾斜によって形成されると言えるのではないだろうか。
 Media Pointの虚軸部Yは、差異共振エネルギーであり、そこでは、「私」は「川」であり、且つ、「私」は「川」ではないという即非態にある。しかし、実軸部 Xでは、「私」は「私」であり、「川」は「川」であり、両者は一致しないということになる。「物質」の世界である。アリストテレス論理の世界である。「私」=「私」、「川」=「川」、「私」≠「川」である。
 そして、言語はXの世界のものである。上記したように、差異共振エネルギーが消失して、+iと+1が一致するのである。+i=+1、これが、言語形式ではないだろうか。
 否、+i⇒+1、これが、言語方程式ではないだろうか。
 そして、精神的フィルターもこれで記述できるのではないだろうか。
 とまれ、精神的フィルター(=言語形式)には、他者-iが消えていることに注意すべきである。人間が利己主義になるのは、このような本性に拠ると考えられる。また、近代合理主義を形成するのも、この帰結と考えられる。
 ここで、他者-iの力学について考えると、何か、人間の本性・本質には、+i傾斜から-iの活性へと反転する仕組みがあるように考えられるのである。
 つまり、+iの傾斜とは、端的に、-iの潜在を意味するのである。だから、発生的には、プラスが先行し、その後、反転して、マイナスへと点ずると考えられるのである。
 マイナスへの反転によって、精神的フィルター中心主義(ロゴス中心主義)が解体するのであり、その始まりが、ポスト・モダンであり、その完全な乗り越えがトランス・モダンである。いわば、同一性への差異の復讐が起こるのである。これが、《黙示録》(アポカリプス)(追記:ゾロアスター教的黙示録・アポカリプス)である。虚軸界へのらせん的回帰である。
 今はここで留める。

追記:哲学とは、Media Pointにおける+iの知的行為ではないだろうか。だから、男性的であるが、女性的な-iを取り込んでいるのである。
 プラトンは、完全に、虚軸部で思考していたと言えよう。また、古代ギリシア文化社会の秘密もこれで理解できよう。つまり、虚軸部のエネルギーが沸々としていた文化社会であり、しかも、男性的な+iが盛んに作用していたのである。
 結局、大文化社会が生まれるには、女性的な虚軸エネルギーと同時に、男性的な+iの活力が必要であると言うことである。そうすると、現代日本は危うい、実に危うい。アジア諸国に、能動・創造的ダイナミクスがあると言えよう。

追記2:虚軸部の差異共振エネルギーとは、言い換えれば、ニーチェのディオニュソスであり、+iの男性的活力は、アポロである。
 そして、両者の和解にギリシア文化の本質があると述べていた。確かに、ディオニュソスとアポロの調和を古代ギリシア人は求めていたと言えよう。
 その調和とは、傲慢となった+iが差異共振の神々の世界の秩序を認識することにあるのではないだろうか。即ち、+iが(+i)*(-i)を認識することにあるだろう。正に、アポロン神殿の信託「汝自身を知れ」の実現である。
 これは、また、ゾロアスター教的認識に一致すると考えられる。
 
補記:古代ギリシアの場合、ニーチェが指摘したように、ディオニュソス(母権)とアポロ(父権)が衝突していると見るのが正しい。この衝突から、調和が生まれるのである。
 プラスとマイナスの衝突とも言えよう。これは、(+i)*(-i)で記述できよう。
 整理すると、自己認識方程式が当てはまる。即ち、(+i)*(-i)⇒+1において、『左辺⇒』がディオニュソスであり、『⇒右辺』がアポロである。即、Media Pointの虚軸部がディオニュソスであり、その実軸部がアポロである。両者、Media Pointを共通にもっているのである。
 しかしながら、アポロが、+i⇒+1の精神的フィルター化すると、つまり、父権主義化すると、それは、ディオニュソスと対立・衝突するのである。それが、ギリシア悲劇の力学であると言えよう。両者、相克状態となるのである。
 そして、オイディプスの場合は、『コロノスのオイディプス』でわかるように、神々の秩序を受け入れて、調和するのである。つまり、精神的フィルターを脱してアポロ+iが差異共振秩序ディオニュソスを受容し、認識するのである。
 また、『オレステイア』の場合は、復讐の女神(ディオニュソス)とオレステイア(父権主義的アポロ)が、アポロとアテナイ女神の媒介によって、法的に和解するのであるが、この場合の法的和解の原理であるが、それは、差異共振原理であり、即ち、ディオニュソス原理であると考えられる。つまり、ディオニュソス原理をアポロ+i的に認識したものと考えられる。
 
参照:
コロノスのオイディプス
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『コロノスのオイディプス』は、ソポクレス 作のギリシア悲劇 である。テーバイ のかつての王オイディプス が放浪の末アテナイ 近郊のコロノスの森にたどり着いたところから始まり、オイディプスの死に到るまでを描く。

運命に翻弄されたオイディプスは予言に従って復讐の女神エウメニデス の聖林に導かれ、そこを自らの墓所として望み、アテナイ王テセウス もこれを認めた。そしてこれを阻もうとする息子ポリュネイケスやテーバイの現在の王クレオンにもかかわらず、オイディプスはテセウスのみが見守る中コロノスの地中深く飲み込まれていく。

なお、ソポクレスの現存作品では、

* 『オイディプス王 』(紀元前429年 - 紀元前425年 ごろ)
* 『コロノスのオイディプス』(紀元前401年 )
* 『アンティゴネー 』(紀元前441年 ごろ)

の3作品がテーバイ王家の悲劇として密接な関連があり、時に三部作として扱われる。が、上記のように成立年代からして話の順序とは一致せず、アイスキュロス が好んだとされる三部作形式とは異なるものである。
物語 [編集 ]

舞台は、盲目で年老いたオイディプスが娘であるアンティゴネーに手を引かれて登場するところから始まる。彼らは乞食をしながら放浪し、コロノスのエウメニデスの神域の近くまでたどり着いたのである。そこにやってきた男に尋ねると、そこが神域であるとわかり、自分はここを動かぬつもりであること、王に使いして欲しいことを告げる。

そこにコロノスの老人たちに扮したコロスが登場、彼がオイディプスであることを告げられると、すぐに立ち去ることを要求する。これに彼が反論していると、そこに彼のもう一人の娘、イスメネーが現れる。故郷に残った彼女は、彼の息子たちが仲違いし、兄ポリュネイケスが追い出され、国外で味方を得たことを伝え、同時にオイディプスに関する神託が出たことを告げる。それによると、彼が死んだとき、その土地の守護神となるという。そのためオイディプスを追い出した王であるクレオーンは彼を連れ戻し、国の片隅に留め置くことを考えているという。オイディプスは彼を追い出した町、そして彼が追い出されるのを止めなかった息子たちへの怒りを口にする。コロスは王がくるまでとりあえず彼を受け入れる旨を述べる。

そこへ王テセウスがやってくる。彼はオイディプスの求めるものを問い、それに対してオイディプスは、自分の死後、ここに葬って欲しいこと、それによってこの地を守護することが出来ること、しかしクレオーンと息子たちが自分を求めていることを述べる。王は彼を受け入れることを告げる。

そこにクレオーンが出現。丁寧な言葉でオイディプスに帰国を促す。しかしオイディプスはこれに反論、両者は次第に激高し、ついにクレオーンは娘を奪ってゆく、すでに一人は捕らえ、次はこの娘だ、とアンティゴネーを引き立てる。オイディプスはコロスに助けを求め、コロスはクレオーンを非難する。そこへテセウスが現れ、クレオーンを非難し、娘たちを取り戻すことを宣言する。クレオーンは捨てぜりふを残して退散、娘たちは取り戻される。

すると今度は社によそ者が来ているとの通報、オイディプスに会いたがっているという。オイディプスはそれが自分の息子であると判断して、会うのを拒否するが、周囲の説得で会う。するとそれはやはりポリュネイケスであった。彼は自分が祖国を追い出されたこと、ドリスのアルゴスが味方してくれ、祖国に戦を仕掛けること、そのためにオイディプスに自分についてもらい、守護者となって欲しいことを述べる。彼はこれを全く聞き入れず、おまえは兄弟の手にかかって死ぬであろうとの呪いの言葉を述べる。アンティゴネーもポリュネイケスに説いて祖国を攻撃しないように言うが聞き入れず、彼も立ち去る。

このとき、天は急に荒れ、雹が降り、雷が鳴り響く。オイディプスは自分の終わりが近いことに気がつき、テセウスを呼びにやる。テセウスがくると彼は娘たちの先に立って神域に入る。これに付き従ってテセウスと従者も姿を消す。

その後、使者が現れ、オイディプスの最後の一部始終を語り、彼が死んだことを告げる。その後は二人の娘による嘆きで劇は終わる。
要点 [編集 ]

この劇の一つの要点は「神との和解」である。オイディプスの伝説では、最初に示された神託がそもそも彼らの悲惨な運命を示すものであった。登場人物たちはそれぞれにそれを避けようと努力したにもかかわらず、すべてが実現してしまった。中でももっとも悲惨な運命を担ったのがオイディプスである。

ソフォクレスは神の道が人間ではどうにもならぬものであり、また神の采配は時に恐ろしく非情であることを書いてきた。しかし、この劇では神の側からオイディプスに対して和解が示されている。また、「オイディプス王」では自分の悲惨な運命を嘆くばかりであった主人公は、この劇では一貫して自己の正当性を主張する。父親を殺したのも正当防衛であったし、他の場合でもその時その時は最善の選択をした結果であり、そこに恥じるところはないといい言っている。一般的な伝説ではオイディプスの死にこのような話はないようで、それだけに詩人の思い入れが強く働いているとも考えられる。

なお、オイディプスの息子のその後に関わる話は、アイスキュロス の「テーバイ攻めの七将 」が有名である。
関連項目 [編集 ]

* フェリックス・メンデルスゾーン - 劇付随音楽「コロノスのオイディプス」(Op.93)

「http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8E%
E3%82%B9%E3%81%AE%E3%82%AA%E3
%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%
83%97%E3%82%B9 」より作成
カテゴリ : ギリシアの戯曲


オレステイア
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オレステイア(The Oresteia)は、古代ギリシア の悲劇 作家アイスキュロス の書いた悲劇作品三部作。唯一、三部作ともにしっかりした形で残された作品であり、『アガメムノーン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』の三つの悲劇から構成される。紀元前458年 に上演された。
内容 [編集 ]
『アガメムノーン』 [編集 ]

トロイア戦争 に参加していたギリシア 軍総大将アガメムノーン が、イーリオス (トロイア)を陥落させ、10年ぶりにミュケーナイ に戻るところから話が始まる。トロイア戦争へ出征する際、アガメムノーンは娘イーピゲネイア を女神への生贄として捧げた。これを怨んだ妻のクリュタイムネーストラー (ヘレネー の姉)は、同じくアガメムノーンに恨みを抱いているアイギストス と深い仲になり、凱旋してきたアガメムノーンおよび、捕虜として連れられてきたカッサンドラー の殺害を図る。

トロイア戦争におけるギリシア側の勝利という大義のためなら、娘の命を奪うこともやむをえないという父アガメムノーンにとっての正義は、愛する娘の命を戦争ごときのために奪ってはならないとする母クリュタイムネーストラーにとっての正義によって倒される。帰還したアガメムノーンと捕虜カッサンドラーが館に入ろうとすると弔いのコーラスが流れ、館の中に消えると断末魔の叫び声が響く。二人の遺体とともに妻クリュタイムネーストラーが現れ、娘を殺した犯人に対する復讐は正義に基づくものであると訴える。
『供養する女たち』 [編集 ]

アガメムノーンの殺害後、妻のクリュタイムネーストラーは息子のオレステース をミュケーナイから追い出し、娘のエーレクトラー を冷遇していた。こうした中、成人したオレステースがミュケーナイへと帰還し、父アガメムノーンの墓に詣でて、アポローン 神に導かれ復讐を誓うところから話が始まる。オレステースは、父の墓場でやはり母への復讐を願う姉エーレクトラーと出会い、母クリュタイムネーストラーと情夫のアイギストスの殺害を図る。

旅人に扮したオレステースは母の館に向かい、オレステースは既に死んだこと、オレステースの骨壺 を持ってきたことを伝える。母クリュタイムネーストラーは嘆き悲しみ(これが演技か本心かは観客の判断にゆだねられる)、オレステースを館に招き入れる。オレステースはまずアイギストスを殺害し、ついに母クリュタイムネーストラーを殺そうと近づく。旅人の正体がオレステースと知ったクリュタイムネーストラーは、息子に向かって必死の命乞いを行う。クリュタイムネーストラーは、かつて息子に対して注いだ愛を訴える。しかし、オレステースは、情夫に愛を注ぎ夫を殺害した母クリュタイムネーストラーを責める。それも運命であったと弁明する母に対し、それならここで殺されるのも運命として、オレステースはついに母を殺害する。

こうして、オレステースはアポローンの命じた通り父の敵討ちという正義を果たしたが、その結果、母親殺しという重い運命を負うことになった。母の怨念や、かつて復讐をそそのかした復讐女神(エリーニュース )に襲われる幻覚に苦しみ、オレステースは狂乱状態に陥る。コーラス隊の歌が響きわたる。
『慈しみの女神たち』 [編集 ]

復讐女神(エリーニュース)に付きまとわれるオレステースは、放浪の末にデルポイ の神殿にあらわれ、アポローン にすがるところから話が始まる。オレステースはアポローンの指示に従いアテーナイ のアクロポリス にある女神アテーナー の神殿に向かい、アテーナーを裁判長として、オレステースを弁護するアポローンと、オレステースを母親殺しとして告発する復讐女神(エリーニュース)の間で裁判 が行われる。当時のアテーネーでは直接民主制が行われており、アテーナイ市民12名が陪審員 として判決を左右した。

陪審員の判決は、有罪・無罪が半々にわかれるが、裁判長のアテーナーがオレステースを支持したため、オレステースは無罪放免とされる。判決を不服とする復讐女神(エリーニュース)は激高するが、なだめられてアテーナイの慈しみの女神(エウメニデス )となるよう説得されると、エリーニュースたちはこの申し出を受け入れる。こうして、憎しみの連鎖はついに断ち切られ、ギリシア世界に調和と安定がもたらされ終幕する。

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 トランス・モダン社会の分析で今後、重要になると思われるのは、


哲学的には一般意味論は応用概念論とも言うべきもので、人間の感覚器 や神経系 や言語が人間の経験にフィルターをかける度合いを強調するものである。
一般意味論の最重要の前提は次のように簡潔に表現される。「地図は現地ではない。単語はそれが表す事象そのものではない。」アリストテレス は真の定義が事象の本質 を表すとしたが、一般意味論はそのような本質を見つける可能性を否定する。



の部分であろう。

 これは、物質(実数、現実)と精神(虚数、電磁関連作用)との「Media Point」の存在を推測している部分であり、正確には、「Media Point line, Film」と呼ぶべき部分を分析対象としているのである。

 端的に、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼んで良いと思う。

 精神世界(意味世界、価値世界、不連続世界)と物質世界(没価値世界、連続世界)との境界には、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼ぶべき「媒体」が存在しているのである。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810177
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

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一般意味論
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・

一般意味論では抽象の段階に関する考え方を「構造微分 structural differential」 と呼び、1)無限に変化する「世界」から、2)感覚器官によって把握された外界の似姿、3)「外界」として体験された事柄についての言語的記述、4)そうした言語的記述についての記述、というように当初の情報が段階的に縮退されていくことを指摘した。現在では認知心理学 ・認知科学 的研究によりそうした縮退の様子が把握されているが、「元の世界についての認識」が、言語的に表現された「世界」についての認識へと縮退的にすり替えられていかざるという人間の認識能力の限界、そのことを明確に指摘した点に一般意味論の決定的な重要性がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%84%8F%E5%91%B3%E8%AB%96

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General Semantics

In the 1930s a Polish Count, Alfred Korzybski, wrote a book called "Science and Sanity" which has had a tremendous influence on the Self Development movement ever since. It has been said that if Korzybski had had the communication skills of some of the great names of this century, such as Hubbard of Scientology, or Bandler and Grinder of NLP, then he would have been the great guru. Rather sad, in one way, is that few would pick up Science and Sanity to read, but would pick up many copies of his ideas.


http://www.trans4mind.com/personal_development/GeneralSemantics/index.html


一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ: Ver2
以下、先の論考の一部を修正し、また、追記2を補足したものである。

参照:

PS理論に於ける「カラー( colour)」の定義
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810196

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一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ: Ver2

この問題はきわめて意義深く興味深いので、さらに考察を行いたい。
 昨日は記述は、まだ述べたいことを十分に述べてはいなかった。つまり、Kaisetsu氏が創造した用語の『精神的フィルターsemantic filter』の概念が、知的喚起力があり、その喚起されたものを述べたい。
 「フィルター」という概念が明敏なのである。つまり、Media Pointにおいて、垂直軸と水平軸が「交差」するが、前者から後者へと次元転換(縮退次元変換?)するときに、この精神的フィルターが発生するのである。
 このフィルターの虚軸部では、超越的共振エネルギーがいわば沸々としている。しかし、実軸部では、同一性の形態・形象・図式が生まれるのである。
 以前、海岸の打ち寄せる波の風景・情景のことを言語化し、それでも、私の「思い」は表現されていないことを述べたが、それは、まったく一般意味論的な事象・心象である。
 この「思い」が精神フィルターの虚軸部ではないかと思う。そして、言語表現がフィルターの実軸部の同一性の図式・フレームである。(言語と感覚は相関性がある。)
 「思い」が差異共振性であり、言葉が同一性であり、一般意味論の構造微分に当たる。この「微分」という発想はまったく的確である。
 不連続的差異は微分不可能であり、差異共振性も当然そうである。しかし、精神的フィルターを介すとき、微分可能となるのである。だから、フィルターは同一性変換器とも言える。
 結局、心(身体的精神)には、Media Pointがあり、虚軸と実軸が交差しているのであり、虚軸ゼロ点における「思い」が実軸ゼロ点の「言語」ないしは構造微分に変換されるのであるが、これは、当然、等号ではなく、等号且つ不等号であり、端的に、即非である。あるいは、⇒である。
 結局、既述したことの繰り返しとなるが、虚軸部と実軸部とは、絶対的に不連続であり、シャープに切断されているのである。つまり、虚軸部≠実軸部である。ここには、等号は成立しないと言えよう。
 虚軸部をY、実軸部Xをとすると、Y⇒X、Y≠X と記述できる。
 精神フィルターで隔離された二つの領域が存するので、意識は錯誤に陥りやすいと言える。つまり、何とか、両者を連続させて、辻褄を合わそうとするのである。しかし、本来、絶対的不連続性があるので、辻褄は合わないのである。
 ここでやや飛躍的だが、言語について簡単に触れると、それは、知的「物質」性と言えるかもしれない。あるいは、認識的「物質」性である。端的には、認識的同一性である。思うに、これが精神的フィルターである。Media Pointにおいて、実軸部には、精神的フィルター=認識的同一性=言語的フィルターが存するのである。
 そして、これは、主に、+iが関わっているだろう。つまり、Media Pointにおいて、虚軸的共振「現象」に対して、+iが能動的にはたらいて、+1と同一化すると思われる。
 これは、思うに、差異共振エネルギー⇒が消費されたときに+1に終結するが、それと、主体の+1が一致することから生起するのではないだろうか。つまり、認識は、+iに傾斜しているのである。そして、それが、+1と同一化するということであり、このときに、+iは言語認識作用をもつということではないだろうか。
 そして、成長過程において、この言語認識を増殖させることになるのであり、現象世界は、同一性世界へと縮退・抽象化されていくのである。それは、また、数量の支配する世界である。原近代世界である。
 ということから、精神的フィルター問題に返ると、そのフィルターは、+i傾斜によって形成されると言えるのではないだろうか。
 Media Pointの虚軸部Yは、差異共振エネルギーであり、そこでは、「私」は「川」であり、且つ、「私」は「川」ではないという即非態にある。しかし、実軸部 Xでは、「私」は「私」であり、「川」は「川」であり、両者は一致しないということになる。「物質」の世界である。アリストテレス論理の世界である。「私」=「私」、「川」=「川」、「私」≠「川」である。
 そして、言語はXの世界のものである。上記したように、差異共振エネルギーが消失して、+iと+1が一致するのである。+i=+1、これが、言語形式ではないだろうか。
 否、+i⇒+1、これが、言語方程式ではないだろうか。
 そして、精神的フィルターもこれで記述できるのではないだろうか。
 とまれ、精神的フィルター(=言語形式)には、他者-iが消えていることに注意すべきである。人間が利己主義になるのは、このような本性に拠ると考えられる。また、近代合理主義を形成するのも、この帰結と考えられる。
 ここで、他者-iの力学について考えると、何か、人間の本性・本質には、+i傾斜から-iの活性へと反転する仕組みがあるように考えられるのである。
 つまり、+iの傾斜とは、端的に、-iの潜在を意味するのである。だから、発生的には、プラスが先行し、その後、反転して、マイナスへと点ずると考えられるのである。
 マイナスへの反転によって、精神的フィルター中心主義(ロゴス中心主義)が解体するのであり、その始まりが、ポスト・モダンであり、その完全な乗り越えがトランス・モダンである。いわば、同一性への差異の復讐が起こるのである。これが、《黙示録》(アポカリプス)(追記:ゾロアスター教的黙示録・アポカリプス)である。虚軸界へのらせん的回帰である。
 今はここで留める。

追記:哲学とは、Media Pointにおける+iの知的行為ではないだろうか。だから、男性的であるが、女性的な-iを取り込んでいるのである。
 プラトンは、完全に、虚軸部で思考していたと言えよう。また、古代ギリシア文化社会の秘密もこれで理解できよう。つまり、虚軸部のエネルギーが沸々としていた文化社会であり、しかも、男性的な+iが盛んに作用していたのである。
 結局、大文化社会が生まれるには、女性的な虚軸エネルギーと同時に、男性的な+iの活力が必要であると言うことである。そうすると、現代日本は危うい、実に危うい。アジア諸国に、能動・創造的ダイナミクスがあると言えよう。

追記2:虚軸部の差異共振エネルギーとは、言い換えれば、ニーチェのディオニュソスであり、+iの男性的活力は、アポロである。
 そして、両者の和解にギリシア文化の本質があると述べていた。確かに、ディオニュソスとアポロの調和を古代ギリシア人は求めていたと言えよう。
 その調和とは、傲慢となった+iが差異共振の神々の世界の秩序を認識することにあるのではないだろうか。即ち、+iが(+i)*(-i)を認識することにあるだろう。正に、アポロン神殿の信託「汝自身を知れ」の実現である。
 これは、また、ゾロアスター教的認識に一致すると考えられる。
 

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 トランス・モダン社会の分析で今後、重要になると思われるのは、


哲学的には一般意味論は応用概念論とも言うべきもので、人間の感覚器 や神経系 や言語が人間の経験にフィルターをかける度合いを強調するものである。
一般意味論の最重要の前提は次のように簡潔に表現される。「地図は現地ではない。単語はそれが表す事象そのものではない。」アリストテレス は真の定義が事象の本質 を表すとしたが、一般意味論はそのような本質を見つける可能性を否定する。



の部分であろう。

 これは、物質(実数、現実)と精神(虚数、電磁関連作用)との「Media Point」の存在を推測している部分であり、正確には、「Media Point line, Film」と呼ぶべき部分を分析対象としているのである。

 端的に、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼んで良いと思う。

 精神世界(意味世界、価値世界、不連続世界)と物質世界(没価値世界、連続世界)との境界には、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼ぶべき「媒体」が存在しているのである。
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一般意味論
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一般意味論では抽象の段階に関する考え方を「構造微分 structural differential」 と呼び、1)無限に変化する「世界」から、2)感覚器官によって把握された外界の似姿、3)「外界」として体験された事柄についての言語的記述、4)そうした言語的記述についての記述、というように当初の情報が段階的に縮退されていくことを指摘した。現在では認知心理学 ・認知科学 的研究によりそうした縮退の様子が把握されているが、「元の世界についての認識」が、言語的に表現された「世界」についての認識へと縮退的にすり替えられていかざるという人間の認識能力の限界、そのことを明確に指摘した点に一般意味論の決定的な重要性がある。
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F%E5%91%B3%E8%AB%96

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General Semantics

In the 1930s a Polish Count, Alfred Korzybski, wrote a book called "Science and Sanity" which has had a tremendous influence on the Self Development movement ever since. It has been said that if Korzybski had had the communication skills of some of the great names of this century, such as Hubbard of Scientology, or Bandler and Grinder of NLP, then he would have been the great guru. Rather sad, in one way, is that few would pick up Science and Sanity to read, but would pick up many copies of his ideas.


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2009年10月27日(Tue)▲ページの先頭へ
一般意味論とPS理論:構造微分と精神フィルター:小乗的個的理論から大乗的社会理論・実践へ
この問題はきわめて意義深く興味深いので、さらに考察を行いたい。
 昨日は記述は、まだ述べたいことを十分に述べてはいなかった。つまり、Kaisetsu氏が創造した用語の『精神的フィルターsemantic filter』の概念が、知的喚起力があり、その喚起されたものを述べたい。
 「フィルター」という概念が明敏なのである。つまり、Media Pointにおいて、垂直軸と水平軸が「交差」するが、前者から後者へと次元転換(縮退次元変換?)するときに、この精神的フィルターが発生するのである。
 このフィルターの虚軸部では、超越的共振エネルギーがいわば沸々としている。しかし、実軸部では、同一性の形態・形象・図式が生まれるのである。
 以前、海岸の打ち寄せる波の風景・情景のことを言語化し、それでも、私の「思い」は表現されていないことを述べたが、それは、まったく一般意味論的な事象・心象である。
 この「思い」が精神フィルターの虚軸部ではないかと思う。そして、言語表現がフィルターの実軸部の同一性の図式・フレームである。(言語と感覚は相関性がある。)
 「思い」が差異共振性であり、言葉が同一性であり、一般意味論の構造微分に当たる。この「微分」という発想はまったく的確である。
 不連続的差異は微分不可能であり、差異共振性も当然そうである。しかし、精神的フィルターを介すとき、微分可能となるのである。だから、フィルターは同一性変換器とも言える。
 結局、心(身体的精神)には、Media Pointがあり、虚軸と実軸が交差しているのであり、虚軸ゼロ点における「思い」が実軸ゼロ点の「言語」ないしは構造微分に変換されるのであるが、これは、当然、等号ではなく、等号且つ不等号であり、端的に、即非である。あるいは、⇒である。
 結局、既述したことの繰り返しとなるが、虚軸部と実軸部とは、絶対的に不連続であり、シャープに切断されているのである。つまり、虚軸部≠実軸部である。ここにはは、等号は成立しないと言えよう。
 虚軸部をY、実軸部Xをとすると、Y⇒X、Y≠X と記述できる。
 精神フィルターで隔離された二つの領域が存するので、意識は錯誤に陥りやすいと言える。つまり、何とか、両者を連続させて、辻褄を合わそうとするのである。しかし、本来、絶対的不連続性があるので、辻褄は合わないのである。
 ここでやや飛躍的だが、言語について簡単に触れると、それは、知的「物質」性と言えるかもしれない。あるいは、認識的「物質」性である。端的には、認識的同一性である。思うに、これが精神的フィルターである。Media Pointにおいて、実軸部には、精神的フィルター=認識的同一性=言語的フィルターが存するのである。
 そして、これは、主に、+iが関わっているだろう。つまり、Media Pointにおいて、虚軸的共振「現象」に対して、+iが能動的にはたらいて、+1と同一化すると思われる。
 これは、思うに、差異共振エネルギー⇒が消費されたときに+1に終結するが、それと、主体の+1が一致することから生起するのではないだろうか。つまり、認識は、+iに傾斜しているのである。そして、それが、+1と同一化するということであり、このときに、+iは言語認識作用をもつということではないだろうか。
 そして、成長過程において、この言語認識を増殖させることになるのであり、現象世界は、同一性世界へと縮退・抽象化されていくのである。それは、また、数量の支配する世界である。原近代世界である。
 ということから、精神的フィルター問題に返ると、そのフィルターは、+i傾斜によって形成されると言えるのではないだろうか。
 Media Pointの虚軸部Yは、差異共振エネルギーであり、そこでは、「私」は「川」であり、且つ、「私」は「川」ではないという即非態にある。しかし、実軸部 Xでは、「私」は「私」であり、「川」は「川」であり、両者は一致しないということになる。「物質」の世界である。アリストテレス論理の世界である。 Y≠Xである。Y⇒Xである。
 そして、言語はXの世界のものである。上記したように、差異共振エネルギーが消失して、+iと+1が一致するのである。+i=+1、これが、言語形式ではないだろうか。
 否、+i⇒+1、これが、言語方程式ではないだろうか。
 そして、精神的フィルターもこれで記述できるのではないだろうか。
 とまれ、精神的フィルター(=言語形式)には、他者-iが消えていることに注意すべきである。人間が利己主義になるのは、このような本性に拠ると考えられる。また、近代合理主義を形成するのも、この帰結と考えられる。
 ここで、他者-iの力学について考えると、何か、人間の本性・本質には、+i傾斜から-iの活性へと反転する仕組みがあるように考えられるのである。
 つまり、+iの傾斜とは、端的に、-iの潜在を意味するのである。だから、発生的には、プラスが先行し、その後、反転して、マイナスへと点ずると考えられるのである。
 マイナスへの反転によって、精神的フィルター中心主義(ロゴス中心主義)が解体するのであり、その始まりが、ポスト・モダンであり、その完全な乗り越えがトランス・モダンである。いわば、同一性への差異の復讐が起こるのである。これが、《黙示録》(アポカリプス)である。虚軸界へのらせん的回帰である。
 今はここで留める。

追記:哲学とは、Media Pointにおける+iの知的行為ではないだろうか。だから、男性的であるが、女性的な-iを取り込んでいるのである。
 プラトンは、完全に、虚軸部で思考していたと言えよう。また、古代ギリシア文化社会の秘密もこれで理解できよう。つまり、虚軸部のエネルギーが沸々としていた文化社会であり、しかも、男性的な+iが盛んに作用していたのである。
 結局、大文化社会が生まれるには、女性的な虚軸エネルギーと同時に、男性的な+iの活力が必要であると言うことである。そうすると、現代日本は危うい、実に危うい。アジア諸国に、能動・創造的ダイナミクスがあると言えよう。

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 トランス・モダン社会の分析で今後、重要になると思われるのは、


哲学的には一般意味論は応用概念論とも言うべきもので、人間の感覚器 や神経系 や言語が人間の経験にフィルターをかける度合いを強調するものである。
一般意味論の最重要の前提は次のように簡潔に表現される。「地図は現地ではない。単語はそれが表す事象そのものではない。」アリストテレス は真の定義が事象の本質 を表すとしたが、一般意味論はそのような本質を見つける可能性を否定する。



の部分であろう。

 これは、物質(実数、現実)と精神(虚数、電磁関連作用)との「Media Point」の存在を推測している部分であり、正確には、「Media Point line, Film」と呼ぶべき部分を分析対象としているのである。

 端的に、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼んで良いと思う。

 精神世界(意味世界、価値世界、不連続世界)と物質世界(没価値世界、連続世界)との境界には、「精神的フィルター(semantic filter )」と呼ぶべき「媒体」が存在しているのである。
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『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

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一般意味論
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一般意味論では抽象の段階に関する考え方を「構造微分 structural differential」 と呼び、1)無限に変化する「世界」から、2)感覚器官によって把握された外界の似姿、3)「外界」として体験された事柄についての言語的記述、4)そうした言語的記述についての記述、というように当初の情報が段階的に縮退されていくことを指摘した。現在では認知心理学 ・認知科学 的研究によりそうした縮退の様子が把握されているが、「元の世界についての認識」が、言語的に表現された「世界」についての認識へと縮退的にすり替えられていかざるという人間の認識能力の限界、そのことを明確に指摘した点に一般意味論の決定的な重要性がある。
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8F%E5%91%B3%E8%AB%96

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General Semantics

In the 1930s a Polish Count, Alfred Korzybski, wrote a book called "Science and Sanity" which has had a tremendous influence on the Self Development movement ever since. It has been said that if Korzybski had had the communication skills of some of the great names of this century, such as Hubbard of Scientology, or Bandler and Grinder of NLP, then he would have been the great guru. Rather sad, in one way, is that few would pick up Science and Sanity to read, but would pick up many copies of his ideas.


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2009年09月12日(Sat)▲ページの先頭へ
『物』と『情報』について:超越的差異共振振動様態という『情報』と虚数情報世界
愚樵氏の新しい論考に刺激を受けて、本件について考察を行いたいが、とりわけ、『情報』について行いたいと思っている。
 例えば、『気』というものの『情報』を考えたいのである。先に、超越性の+iと-iの共振において、『気』の情報があるのではないかと示唆した。つまり、Media Pointにおいて、虚軸領域において、超越的差異の共振・共鳴が生起するのであり、それが、実軸上へと「投影」されて、『物』的現象が生じる(映ずる)のである。
 だから、『気』の『情報』とは、超越的差異共振におけるそれであり、端的には、超越的差異共振振動ではないだろうか。
 ポイントは、超越的振動ないしはMedia Point的振動であるということである。そして、より正確に言えば、超越的振動的様態に『情報』が存するということではないだろうか。
 それを仮説として、電磁波に関連して考察すると、ある意味で電磁波と『気』は同じものである。正確に言えば、同一であろう。ただし、これまで述べたように、電磁波においては、超越的『情報』性が欠落しているように思える。
 端的に言えば、『気』とは、調和的な超越的差異共振振動であり、単に電磁波というときは、調和性は乏しいように思われる。
 『情報』を便宜的に、超越情報としよう。この超越情報が、『気』の場合は、生命形成的情報であると思われるのに対して、電磁波の場合は、比較的単純な情報であると思われる。もっとも、modeの違いということで説明はできよう。
 また、遺伝子の問題であるが、いわば、プロト遺伝子は、この情報であろう。そして、物質的な遺伝子、たとえば、DNAは、Media Pointの同一性現象ではないだろうか。つまり、本来、超越的遺伝子情報があり、それが、物質的遺伝子へと変換されるということになる。これは、精神から物質への変容の過程でもある。
 さらに敷延して述べると、学習とは、この超越的情報を獲得することであろう。ここにアクセスできると、知性は爆発的に向上すると考えられるのである。いわば、トランス・モダン学習である。これは、メディア共振することで可能となろう。ミクロコスモス的な学習である。
 また、空海の両界曼荼羅について言うと、超越的差異共振振動の情報が金剛界曼荼羅であり、情報のエネルギー様態が胎蔵界曼荼羅ではないだろうか。つまり、Media Pointの情報が前者であり、そのエネルゲイアが後者である。言い換えると、デュナミスとしての金剛界曼荼羅であり、エネルゲイアとしての胎蔵界曼荼羅である。
 記紀神話で言えば、天之御中主神がMedia Pointで、高皇産霊神が前者で、神産霊神が後者に当たるのかもしれない。
 ところで、端的に、虚軸にあるものは『情報』であり、『知』であると言っていいだろう。つまり、『情報』=『知』が現象世界を創っているのである。正に、イデア論である。そして、それが虚数ということである。ピュタゴラス/プラトンは基本的には正しいのである。つまり、虚数情報、虚数知が現象世界を形成しているということになる。
 ここまで来ると、「神」とは何であるか、明確になる。「神」とは虚数情報、虚数知なのである。そして、これは、「神々」である。「多神教」としての世界なのである。後でさらに検討したい。


《物》の原理と《情報》の原理:トランス・モダンの視点
以下、愚樵氏の論考であるが、用語の「同一性」と「差異」が私が使用する意味とは反対であるが、説かれていることは、まったくPS理論的である。即ち、愚樵氏の「同一性」は、差異共振性であり、「差異」は「同一性」である。
 思うに、言葉自体のもつ多重性がこのような事態を生んでいると言えよう。
 とまれ、《物》の排他的原理、《情報》の共同的原理が見事に説かれていると言えよう。この混同・混淆ないしは連続性、連続的同一性化を、西洋近代やポスト・モダンは犯してきたのである。
 後で、刺激されて、新たな考察を行いたい。

****************
《物》の原理は専有、《情報》の原理は共有

2009-09-12

前提1:【私】が存在する。【私】以外の【他者】が存在する。


【私】は【他者】を、【私】に備わった〔感覚〕を通じて捉える。
【私】の〔感覚〕によって捉えられている【他者】の状態を《物》と呼ぶ。

【私】は《物》を〔意識〕によって捉え直す。
〔意識〕によって捉えられた【他者】の状態を《情報》と呼ぶ。


前提2:【私】は〔人間〕である。


【他者】のなかで、【私】と同じ〔人間〕であるとの《情報》が付与されている【他者】を【他人】と呼ぶ。

【私】は【他人】と《情報》を共有することで〔人間〕となり、共同体や社会を営む。

→《情報》の原理は共有である。
 共有物である《情報》を生み出す〔意識〕は、同一性を志向する。

《物》は、【他者】が共有態様である《情報》となる以前の、【私】の〔感覚〕のみによって捉えられている状態の、【私】のよる【他者】の専有態様である。

→《物》の原理は専有。
 専有物である《物》を生み出す〔感覚〕は、差異性を志向する。
http://gushou.blog51.fc2.com
/blog-entry-302.html

愚樵空論


2009年09月05日(Sat)▲ページの先頭へ
大澤真幸氏の脱構造主義とPS理論:第三の審級の超越的他者は、-iないしはMedia Pointだ
大澤真幸氏の脱構造主義とPS理論:第三の審級の超越的他者は、-iないしはMedia Pointだ

テーマ:検討問題

今では、五年前の論文であるが、大澤真幸氏の「三つの反現実:理想・虚構・不可能性」が、『大航海』のNo. 49で掲載されている。
 独特の攻撃性のある鋭い文体であるが、第3の審級として、超越的他者を仮説されている。そして、Kaisetsu氏が引用する、彼の独創的概念である「アイロニカルな没入」が援用されている。
 その論は、1995年までの戦後を二期にわけて、理想の時代と虚構の時代と捉えている。そこでは、「おたく」論が展開されているが、実に興味深い。意味を避けて、現実へと逃避しているという視点が展開されている。
 結局、Kaisetsu氏が指摘しているように、この「アイロニカルな没入」論は、ポスト・モダン論になるのである。
 この反転が生じるのは、結局、同一性の縛り、同一性構造(自我構造)が強固であるためである。
 もし、同一性から解放されれば、差異化されるのであり、それは、脱オタクとなるのである。
 では、どうして、そんなにの同一性が強固であるのかと言えば、それは、戦後の近代合理主義の支配にあると私は考える。これが、戦前にあったMedia Point的志向を排除してしまったと考える。
 今は余裕がないので、充分述べられないが、大澤氏の視点は、脱構造主義的であり、PS理論前夜というべきものだと感じた。是非、大澤氏には、PS理論を知っていただきたいと思う。

***************

検討問題:「気」と電磁波:虚数知と物質的電磁波

テーマ:検討問題

この問題はある意味で答えが出たものであるが、もう一度確認するために検討したい。
 結局、超越エネルギーと電磁波との関係の問題となる。やはり、私見では、電磁波は基本的には超越エネルギーないしはMedia Pointエネルギーの現象態ないしは「物質」態である。
 本体は、Media Pointのエネルギー(エネルゲイア)だと考えられる。これを測定すると電磁波として捉えられているのではないだろうか。だから、イデア波というべきものが本体としてあるのではないだろうか。
 つまり、イデア波を電磁波として、現象的に把握しているのではないのか。
 とまれ、そうすると、「気」はイデア波である。そして、イデア波=「気」とすると、そこには、イデアの「情報」が入っていることになるだろう。
 理気論で言えば、「理」としての「情報」である。PS理論から言えば、+iと-iの共鳴による超越的情報と言えるのではないだろうか。
 しかし、電磁波として捉えたとき、このイデア=「情報」=「理」が看過されているのではないだろうか。
 思うに、Media PointのModeがあるが、それが単に振動数と捉えられると、それは量的であろう。そうではなく、Modeの質性があるはずである。即ち、Modeの虚数性、イデア性である。(虚構性と言ってもいいのかもしれない。)
 言い換えると、虚数知、イデア知というものがあるはずである。これが、宗教的に言えば、神ないし神々と言えよう。空海ならば金剛界曼荼羅であろう。
 では、電磁波にはどのような虚数知、イデア知があるのだろうか。直感では、宇宙(コスモス)や自然の虚数知・イデア知があるだろう。
 しかしながら、「物質」的に電磁波を形成した場合、それは、宇宙・自然の虚数知・イデア知をもっていないだろうし、それが、生命体にとって破壊的になるというのは見やすいだろう。今はここで留める。


2009年08月30日(Sun)▲ページの先頭へ
直感と知性の関係について:直感は虚数的現象事象であり、知性(悟性)は実数的概念知である
直感の領域はMedia Point である。では、そこで生まれた「霊感」に基づいて、言語化するが、一体、直感と知性との関係はどういうものなのだろうか。
 具象的に言うと、例えば、海岸に打ち寄せる波を見ているとしよう。黒みを帯びた波が、ザーッと音を立てながら、白く砕けて、幾重幾畳にも海岸線に打ち寄せている。
 「わたし」は海と和しながらも、海を観察している。即ち、「わたし」は海であり、且つ、海ではない。そこには、直感・直観がある。これと知性はどう関係するのだろうか。
 直観を例えば、言語化すれば、以上のようになるが、しかし、それは、直観の十全な表現ではないし、それは、不可能であろう。直観は常に、言語的知性を超えている現象、精神身体現象である。その不連続性を認識した上で考えると、悟性という概念知性によって直観を言語化していると言えよう。それは、虚数事象を実数で表現するものである。いわば、「物質」的な表現である。正確に言えば、外的現象的表現である。直観は、Media Point の虚数事象であるが、それを悟性という概念知性は言語を介して、実数的表現をすると言えよう。だからこそ、常に、そこには、絶対的亀裂があるのである。
 思うに、近代西洋文明は先にも述べたように、虚数事象を実数的表現に還元してきたのであり、それを近代合理性として、真理として捉えてきたのであるが、それは、あくまで、表層的概念であり、本体の虚数的真理ではなく、表層近似的概念に過ぎないのである。
 脱近代(トランス・モダン)とは、この事態から発しているのである。


2009年08月23日(Sun)▲ページの先頭へ
原光+iの力(陽)と原闇-iの力(陰)の均衡点としてのMedia Point(太極点):思考実験としての⇒-1の解釈:現象闇とスプンタ・マンユ
原光+iとは「自己」・知であり、原闇-iとは「他者」・「識」(?)である。問題は、実軸領域にある。既述のように、近代合理主義(近代的自我)は、+1の同一性=物質に主体を没入させたのである。即ち、原光+iが同一性=物質+1へと没入し、原闇-iを抑圧したのである。
 思うに、原闇-iの反動がロマン主義や神秘主義(オカルト主義)だと考えられる。(ポスト・モダンもほぼこの延長上である。特にドゥルーズがそうである。)
 わかりやすくするために、原光を「光」、原闇を「闇」としよう。すると、精神・心において、この二つの「力」、「光」と「闇」が対極として拮抗しているのである。
 しかしながら、これをゾロアスター教(ないしはマニ教)的な善悪二元論と見るのは誤謬である。何故なら、そこでの善(アフラ・マズダー)とは、Media Point (太極)における超光であり、悪(アンラ・マンユ)とは+1であると考えられるからである。(因みに、善神のスプンタ・マンユは⇒-1であろう。)
 さて、近代合理主義は、数学的には虚数(虚軸)と実数(実軸)の混同による誤謬であるが、その「闇」の抑圧であるが、それは「光」の傾斜、「光」の近代合理性への傾斜によってもたらされる。即ち、同一性=物質+1に没入した「光」は、Media Point(太極点)にある「闇」を把捉できないため、抑圧するのである。没入した「光」の盲目さに拠るのである。
 そして、被抑圧の「闇」であるが、それは端的に「影」(シャドー)になると言えよう。これは「無意識」である。そして、盲目の「光」に対して、本来のMedia Point(太極点)の「力」の復権への志向性が生起するのである。(この事態が19世紀後半から20世紀初期にかけての諸理論の動機であり、また、ポスト・モダンのそれであると言えよう。)
 この「力」(太極力=差異共振力)は、同一性的「光」の支配下においては、反発となるのである。それは、本来、超越的、絶対的差異的な「力」であるために、同一性的「光」にはまったく不可解・不可知のものである。異質、不可思議なものとなるのである。
 思うに、この「力」の、いわば、「感識」(造語)があるだろう。それは、本来的には、理性や知性というよりは、直感(直観)力である。イマジネーションやヴィジョンもここから派生するだろう。あるいは、「気」「感識」である。
 ということで、近代合理主義の盲目の「光」の支配下において、「闇」ないしは「影」が無意識的に反発し、それを破壊しようとするのである。言わば、アポロ主義に対するディオニュソス主義である(ニーチェ)。
 しかしながら、反発の本来の意味はMedia Point の回復にあるのである。即ち、同一性とは不連続である「闇」の確認と「光」と「闇」の共振であるMedia Point の復権である。イデア論の復権である。
 さて、最後に用語を整理する必要がある。これまで、⇒+1を光、⇒-1を闇と述べたので、「光」(原光)と「闇」(原闇)と混乱する恐れが強いからである。そこで、⇒+1の光を現象光、⇒-1を、矛盾する言い方だが、現象闇と呼び、+iと-iこれまで通り、それぞれ、原光と原闇とし、この共振によって生起するエネルギーを超越光と呼ぼう。
 一番わかりにくいのは、⇒-1の現象闇である。それは端的に何か。それは、いわば、現象光の裏面である。メダルの表裏のように、現象の裏面にあるものである。一種、ルイス・キャロルの「鏡の国」である。Media Point において、超越光が発生し、それが、現象光となり、また、現象闇となるのである。同時生起である。
 とまれ、より具体的に言うと何なのであろうか。思うに、これは、D.H.ロレンスが述べた「暗い太陽、黒い太陽」dark sunに相当するのではないだろうか。これは、通常の「明るい太陽」light sunと対になるものであるが、役割は、思うに、先の発言と異なるが、身体的なもの、重力的なもの、大地的なものではないだろうか。ギリシア神話で言うと、ティターン神族や巨人族ではないだろうか。(「明るい太陽」は当然、オリンポスの神々となる。)そう作業仮説すると、⇒+1が「天」であり、⇒-1が「地」となる。もっとも、これは現象的にである。
 ここでゾロアスター教に返ると、⇒+1の「天」の帰結として、同一性=物質の+1が生起するが、これが、悪神アンラ・マンユであり、そして、⇒-1の「地」の帰結が善神スプンタ・マンユではないだろうか。だから、「地」の善神が「天」の悪神を否定して、原点のMedia Point (太極点)であるアフラマ・マズダーを喚起するということではないのだろうか。今はここで留める。


2009年08月21日(Fri)▲ページの先頭へ
思考実験:Media Point における光量子a light quantum⇒+1と闇量子a dark quantum⇒-1の対発生
光の実在に対して、闇の実在を仮説することができる。現代宇宙論では、ダーク・マターやダーク・エネルギーを仮説していることからも、それは妥当である。そうすると、光量子とは別に闇量子が想定できるのではないのか。ならば、電磁波は光の電磁波と闇の電磁波があるということになるだろう。思うに、前者は差異の引力で、後者は差異の斥力をもつのではないだろうか。前者は同一性志向性(仮象志向性)で、後者は差異志向性(脱仮象志向性)と言えるのではないだろうか。現象創造性と現象解体性ということになる。言い換えると、「物質」形成作用と非「物質」作用である。(また、身体化作用と精神化作用と言えないのか。)
 とまれ、Media Point から考えると、イデア対差異(イデア極性差異)が共振して、光量子と闇量子を対発生させるという作業仮説であるが、そして、前者は「物質」(正しくは身体)作用・形成、後者は「精神」作用・形成ということになる。唯物論的科学は、前者のみを見て、後者を見ていないということになる。つまり、「物質」から「精神」を説明しようとするが、うまく説明できないと言えよう。
 結局、Media Point において、「物質」と「精神」が対形成されるということであり、両者、いわば、一如(いちにょ)と考えられる。私がこれまで、精神身体と呼ぶものはこれで明快になる。結局、+iと-iとのMedia Point における即非・共振によって、ある「力」ないしはエネルギーが生まれるが、そのエネルギーのプラス作用で「物質」(身体)を、マイナス作用で「精神」(知性)を形成するということである。一つの「力」(エネルギー)のもつ極性的な作用で、「物質」(身体)と「精神」が生まれるのであり、両者はいわば陰陽・表裏・対極関係にあると言えよう。
 そうすると、Media Point に発生する「力」(エネルギー)とは、正に、「生命」力、「生命」エネルギーであるということになろう。そして、「物質」とは、その「力」(エネルギー)の終止点ではないだろうか。⇒+1の+1である。ならば、反対に、⇒-1の終止点-1が考えられるが、それは何だろうか。「幽霊」ではないだろうか。つまり、「精神」の形骸である。
 とまれ、「わたし」(自己)は、⇒-1において存すると言えよう。ただし、身体⇒+1と一如である。
 しかしながら、この「わたし」は、実数の「わたし」であり、虚数の「わたし」を知らないのである。「心」や「魂」があるが、それが本来、垂直次元(虚軸)が本源であることを知らない。つまり、Media Point がまだ連続化・混淆化しているのである。⇒±1と「心」、「魂」であるMedia Point が連続化・混淆化しているのである。
 そして、これを不連続化することが智慧(般若)であり、叡知(ソフィア)であったと考えられる。また、プラトンのイデア論もそのようなものである。
 とまれ、不連続化したとき、連続性から切断したとき、「わたし」(自己)はどうなるのか。端的に、「わたし」(自己)は、虚数化されるというか、本源に回帰するということではないのか。⇒±1から不連続化して、Media Point において、虚数である「わたし」(自己)を知るということではないか。即ち、「わたし」は+iであり、且つ、-iであり、自己と他者との即非であるという認識をもつということと考えられる。
 さて、付録的に、「気」について考えると、それは、Media Point における「力」(エネルギー)、正に、陰陽力と考えられる。即ち、「気」とは、「精神」であり、且つ、「物質」(身体)である「力」(エネルギー)、陰陽エネルギー、即非エネルギーであると考えられる。ここで簡単に理気論について触れると、「理」とは、虚軸・虚数の理(イデア)であり、それが、Media Point において「気」になるということではないだろうか。
 次に、渦巻形状をもつ宇宙の発生について考えると、それは、1/4回転による捩れで説明できる。ラセンが発生するのである。これは、光と闇の二重ラセンではないだろうか。しかしながら、闇のラセン(「ダーク・マター」、「ダーク・エネルギー」)は、当然、不可視なのである。そう、光の渦巻宇宙と闇の渦巻宇宙があるということになる。
 ところで、時間についてであるが、時間軸は虚軸であろう。だから、時間は本来、虚数なのである。虚時間である。そして、空間であるが、三次元を形成しているのは、虚軸ではないだろうか。つまり、自己+iと他者-iとの空間関係は当然、虚軸関係と考えられるからである。この点は検討課題としておこう。


2009年08月20日(Thu)▲ページの先頭へ
仮説:-1がディオニュソスで、+1がアポロである
⇒+1が光であるなら、⇒-1が「闇」である。しかし、この「闇」は不可視ということだと考えられる。言い換えると、⇒+1は個体化であり、⇒-1は「総合化」である。前者は即非の非であり、後者は即である。
 ダーク・マターやダーク・エネルギーは⇒-1の領域に存するように思われる。作業仮説的に思うのは、Media Point において、⇒+1と⇒-1の二つの生成があり、通常の現象においては、前者が観察されるが、後者は不可視であるために、ほとんど看過されているのではないだろうか。
 思うに、「物質」とは前者であり、後者は本質ではないだろうか。言い換えると、前者が身体であり、後者が精神である。
 今は余裕がないので、十分展開できないが、「もの」の実体は前者-1にあるのではないだろうか。そして、それが現実化すると⇒+1になるのではないだろうか。
 後で再考したい。

以下、思考実験である。

追記:⇒+1が現象を意味するならば、⇒-1は反現象・非現象を意味する。前者がプラス・エネルギーならば、後者はマイナス・エネルギーである。あるいは、光エネルギーと「ダーク・エネルギー」。
 思うに、これらは、虚軸における超越差異極性による振動によって発生すると思われる。波動である(量子論)。
 とまれ、⇒-1のマイナス・エネルギーによって、現象が解体するが、それによって、現象の本体はMedia Point に回帰するのではないのか。つまり、⇒-1のエネルギーが螺旋的回帰をもたらすということではないのか。
 しかし、⇒-1、つまり、-1自体に転移すると、それは闇への移行であり、主体は死へと向かうのではないだろうか。フロイトの「死の欲動」概念が意味をもつとしたら、ここにおいてであろう。
 だから、+1と-1との中間、即ち、Media Point に回帰することの契機が、⇒-1のマイナス・エネルギーの真の意義ではないだろうか。光と闇の中間において、Media Point が存するのではないのか。
 因みに、空海の両界曼荼羅であるが、プラス・エネルギーが胎蔵界曼荼羅、マイナス・エネルギーが金剛界曼荼羅に関係するのではないのか。そして、両界曼荼羅とは、Media Point ではないのか。


2009年08月18日(Tue)▲ページの先頭へ
『「感情」とは何か:感性主義と知的感性:感性主義は倒錯であり、知的感性ないしは差異共振的「感情」が正当である:emotion,feeling,sentiment』
『「感情」とは何か:感性主義と知的感性:感性主義は倒錯であり、知的感性ないしは差異共振的「感情」が正当である:emotion,feeling,sentiment』

「感情」については、これまであまり考察してこなかった。しかしながら、先には、麻薬的感性主義はロマン主義的であることを述べ、感性主義を批判した。
 もっとも、批判は超越論的である。だから、超越論的批判というのが的確であるから、感性主義ないしはロマン主義の超越論的批判が趣意である。言い換えると、「感情」自体を否定しているのではなく、感性主義/ロマン主義という「感情」の精神様態を批判しているのである。
 ここでも具象的に考察しよう。例えば、モーツァルトの音楽を聴くとしよう。調べがあり、そこには、叙情がある。これは、「感情」表出ではあるが、ロマン主義的なものではない。なぜなら、知的形成に基づく「感情」だからである。この知的形成がなければ、「感情」表出は感性主義となるだろう。だから、モーツァルト音楽は知的「感情」、知的叙情があるということになる。
 私が言いたいことは、知が主であり、「感情」は従であるということである。何故なら、精神ないしは精神身体は、知意志が主体であるからである。(もっとも正確に言えば、男性の場合、知意志が主体であるが、女性の場合は、知意志と身体との極性が主体であると考えられる。だから、女性の場合は芸術に向いているのである。故に、男性の場合は知意志が主導的であり、女性の場合は知意志が一つの主導性をもつということになる。)
 ということで、知ではなく、「感情」が主導的になるのは、倒錯なのである。故に、感性主義であるロマン主義は倒錯的であるということになる。
 では、端的に「感情」の力学とはどういうものなのか、検討しよう。これまでの検討から言えば、それは、Media Point の一つの様態である。では、どういう力学なのか。それは、主体+iが他者-iによって被る感応と言えよう。つまり、主体の感覚の様態であるということである。単に感覚ではなく、感覚の様態である。ここでも具象的に言えば、冬において夜、東の空高くオリオン座が壮麗に輝いている光景を考えよう。単に輝くだけでなく、「壮麗」に輝くのでああり、「壮麗」という「感情」がそこに生起しているのである。
 いったい、この感応性(感受性)は何であろうか。精神身体力学的に見れば、オリオン座-iの光が、「わたし」+iと差異共振して、エネルギーが発動する。このエネルギーに「壮麗」的「感情」が入ることになるだろう。
 とまれ、光を感受するには、視覚が必要である。視覚はどこに位置するのか。言い換えると、身体は位置はどこなのか。私は精神身体ということを述べてきた。それは、+iと-iの共振によって形成されるものと考えられる。つまり、Media Point が原精神身体であり、実際の身体は、⇒+1であると考えられる。
 だから、Media Point において、原感覚が発生するのであり、それは、本来、精神的感覚である。より精緻、詳細に見れば、+iは能動的感覚であり、-iが受動的感覚であろう。前者は知覚であり、後者は「感情」を内包するだろう。
 端的に言えば、+iは知性・知覚であり、-iは感覚・「感情」である。Media Point における両者の共振(共鳴)によって、知的感覚、感覚知覚が生起すると考えられる。このとき、当然、「感情」もともなうのである。
 では、その「感情」とは何か。それは、Media Point における差異共振様態における感覚のエネルギー価ではないだろうか。
 それを作業仮説にすると、先のオリオン座であるが、それは、知覚者の視覚に入り、視覚者の精神身体に感受されるが、視覚者の感応性・感受性、即ち、 Media Point の感応性・感受性に感覚エネルギー価をもたらすのであり、その感覚エネルギー価が「壮麗」という「感情」ということになる。
 言い換えると、Media Point における視覚的他者-iの感受が、視覚エネルギー価=「感情」を喚起するということである。
 結局、「感情」とは精神身体のMedia Pointにおける感覚エネルギー価ということで説明できることになるだろう。
 そうならば、Media Point においては、知性+iの主導性があるのだから(男性において)、「感情」とは、本来、知的形成を受けるものであり、感性主義は、倒錯であることが証明されるのである。
 では、女性の場合はどうなるかと言えば、知性と身体との共振が本来的であり、極性的であることになる。だから、女性の場合の感知とは、単に知的形成ではなく、正に、差異共振的「感情」を喚起すると考えられよう。これは、即非的「感情」とも言える。とまれ、知性と感覚の両面の共振的「感情」が生起することになるだろう。だから、男性よりは知的主導性は弱いとは言え、感覚のエネルギー価は男性よりも強くなると言えよう。思うに、女性が「感情」的であるというのは、この面が原因ではないだろうか。
 結局、知的感性・「感情」とはemotionというよりは、sentimentである。女性の差異共振「感情」であるが、それは、feelingと呼ぶのが正当ではないだろうか。
 後で、整理したい。


知性の位置についての試論:「理性」と「悟性」:Media Point の「理性」(=超越理性)と「悟性」(=超越悟性):::付録:-1の意味についての思考実験
復習から始めると、不連続的差異論は、連続化されている近代的知性を「脱構築」するものであった。即ち、Media Point からの連続的同一性である近代合理性(近代的自我・同一性自己)の中心性を解体して、自己や他者が不連続的差異であることを解明したのである。
 では、「脱構築」された近代的知性はどうなるのか。というか、「脱構築」された近代的自我はどうなるのか。思うに、そこには、悟性(概念知性・言語知性)が残るのである。それは、不連続的悟性(不連続的概念・不連続的言語)であろう。
 それに対して、いわば、純粋Media Point が回帰する。それは差異共振/即非的「精神身体」(「精神」でもいいが、「精神身体」とする方が的確ではないのか)である。(+i)*(-i)の原ミクロ・コスモスがある。カント的に言えば、、物自体としての他者が知覚・認識に入ってくるのである。それは-iである。では、+iは何なのか。
 具象的に考えよう。不連続的差異化された「わたし」(自己)が、眼前の杉の木を見ているとしよう。他者-iである杉の木を視覚知覚する。幹には節がいくつもあり、白い斑点があり、また、筋がある木肌があり、亀裂もあり、また、円錐状の樹形である。
 この直観は、不連続的直観である。では、この直観主体、直観自己は何なのか。それは、+iではないのか。近代的自我においては、主体は+1と化していた。しかし、不連続的差異となった主体は+iではないのか。おそらく、それでいいと思える。
 ならば、不連続的差異(絶対的差異)である主体+iと不連続的差異(絶対的差異)である他者=物自体-iの杉の木との即非・共振が、直観において想起していると言えよう。これは、Media Point の虚軸の事象と考えられる。
 主体+iは、既に悟性化されているので、即非・共振的直観像を当然、言語概念化することができる。しかしながら、ここで、不連続的差異(絶対的差異)である対象と同一性的な傾斜をもつ言語との矛盾が生じるのである。
 対象の杉の木は絶対的差異であり、認識する主体も絶対的差異である。しかるに、悟性認識は言語を伴い、それを一般化するのである。対象は「杉の木」という一般形式に還元されるのである。
 絶対的差異と同一性との矛盾衝突である。精緻に見ると、問題は、悟性と言語の関係である。それを精査する必要がある。悟性ないしは概念知とは何か。それは、理念知であろう。イデア知性であろう。だから、それは、-iを知る+iの本質知である。つまり、悟性とはMedia Point 的知性に入るのである。
 だから、当然、近代合理的知性の+1とは異なるのであるが、これが、混同されているのが近代合理性である。デカルトの「我思う、故に、我在り」は、これを端的に示すものだろう。コギトは+iであり、スムは+1と考えられるからである。(カントの場合、まだ、連続性ないしは混合性が残り、それを払拭したのがフッサールと言えよう。)
 ということで、悟性と同一性形式の言語とは本来、異質なものであることがわかるだろう。この「ズレ」の認識はきわめて重要である。言い換えると、悟性は普遍的であり、言語は仮象・仮構的である。(構造主義は両者を混同しているのである。言語が思考を規定するという構造主義は、悟性的思考の普遍性を否定しているのである。)
 故に、絶対的差異と同一性との矛盾・衝突とは、表面・皮相的であることが判明した。絶対的差異と言語とは矛盾・衝突しうるが、絶対的差異と悟性は調和するのである。
 では、さらに深めると、理性とは何か、悟性との関係はどういうものかという問いが当然提起される。
 上記において、悟性はMedia Point 的知性に入ると言ったが、後者自体ではない。そう、理性とは本来Media Point 的知性のことであろう。rationality、reasonとは、本来、Media Point的様相の知性であろうが、それが、ロゴス(言語知性)と混淆されて、連続化されたのではないだろうか。
 だから、言い換えると、理性とは、本来、叡知(ソフィア知性=イデア知性)、東洋的には智慧と考えられる。この問題の展開は課題とするが、以上から、理性と悟性との関係も明らかになったと言えよう。悟性(概念知)は理性(差異共振知)に含まれる、あるいは、悟性は理性の一部であるということになる。
 PS理論から言うと、理性はMedia Point 知性であり、悟性はMedia Point 的概念知性ということになろう。
 とは言え、理性や悟性という用語はあいまいなものになってしまっている。理性の場合は、ロゴスと結びついて、言語的概念化されて同一性化している傾向が強いのである。そして、悟性も同様である。だから、PS理論から言うと、使用するなら、トランス理性(超理性)、トランス悟性(超悟性)がいいのかもしれない。あるいは、絶対的理性と絶対的悟性である。
 さて、以上によって、知性が本来虚数的であることが判明したと考えられ、故に、虚数的知性という用語を使用していいだろう。(実数的知性とは、倒錯・錯誤的である。)
 知性の位置という本題であるが、それは、+iないしはMedia Point にあると言えるだろう。自己主体に限定すれば、+iである。
 さて、先に取り上げた-1の意味の問題をここで考察するのが妥当である。何故なら、+i,-i,+1の意味が明晰になったと考えられるからであり、当然、残りの-1の意味の解明が必然化されるからである。
 さて、思考実験的に言うと、⇒+1が個体・個物の生成を意味すると考えられるので、それが即非の非であり、即非の即は一体・一如であるとすれば、⇒-1が即と見ることができるのではないだろうか。差異共振一体性としての-1ではないだろうか。⇒+1が現象、外的現象、可視界とするなら、⇒-1は、差異共振現象、あるいは内的現象、不可視界ではないだろうか。あるいは、前近代におけるコスモスではないだろうか。思うに、神秘思想(神秘主義)が説いていた世界がこれではないだろうか。⇒+1が顕界ならば、⇒-1は幽界である。さらに言えば、イスラム教のタウヒード(一性)はここを意味するのではないだろうか。また、ギリシア神話の主神ゼウスもここを意味するのではないだろうか。
 ならば、一神教とは何かという問いになる。ヤハウェ(エホバ)とは何か。先に、-1ではないかと示唆したが、それほど単純ではないだろう。アッラーの場合は、-1でいいと思うが、ヤハウェはその要素もあるが、他の要素が混入していると考えられる。
 ヤハウェは「我有りて、有り余れるもの」である。この有、即ち、存在が問題である。つまり、ヤハウェはハイデガーの言う存在の原点であると考えられるのである。つまり、同一性構造(唯物論の源泉)をもつ(、又は、である)のである。ならば、ヤハウェは、⇒-1だけでなく、⇒+1の要素をもつと考えられる。否、正確に言えば、⇒の先端の構造をもつと考えられる。だから、ヤハウェとはMedia Point の差異共振現象から同一性志向性が生起するときの現象様態を意味しているのではないだろうか。言い換えると、差異共振現象は確かにあるので、それが⇒-1である。しかるに、同一性志向性があるので、⇒+1の⇒の先端領域である。この同一性構造こそが、ヤハウェの特異性ということになろう。つまり、同一性傾斜・存在傾斜・物質傾斜ということである。だから、ゾロアスター教から言えば、ヤハウェは悪神アンラ・マンユに相当すると考えられよう。とまれ、ヤハウェとは、Media Point における正エネルギー(プラス・エネルギー)であり、負エネルギー(マイナス・エネルギー)をほとんど欠いている、ないしは、全く欠落していると言えよう。換言すると、+iの傾斜もつ、即ち、+iの優位、-iの劣位という関係があると考えられる。そして、これが父権主義ということである。
 この点における確認として、アッラーやゼウスであるが、先に-1であると言ったが、思うに、ヤハウェほどではないが、なんらかの同一性的傾向があるのではないだろうか。先において、⇒-1を「父」、そして、⇒+1を「母」としたが、前者はいいが、後者は間違いだと思う。「母」はMedia Point である。太母である。そうならば、太母(「母」)から「父」(-1)が生まれるのである。そして、また、主体+iの傾斜からヤハウェが生まれるのである。これが父権主義である。だから、二人の「父」が存することになろう。
 すなわち、太母とともにある「父」と太母を否定する「父」である。弁別するために、前者を太父とし、後者を偏父と仮に呼ぼう。この視点から言えば、ゾロアスター教のアフラ・マズダーとは本来、太母であり、スプンタ・マンユ(善神)が太父ではないだろうか。それが重なってアフラ・マズダーが太父的になっているのではないだろうか。
 また、さらに言えば、-1の太父とは、「暗い太陽」”dark sun”ではないだろうか。この「暗い」とは不可視ということであるから、不可視の太陽である。可視の太陽は+1と言えるだろう。
 ここでついでに言えば、ダーク・マターやダーク・エネルギーの問題であるが、ダーク・マターは-1ではないだろうか。そして、ダーク・エネルギーは以前述べたように、イデア・エネルギーではないだろうか。
 以上、-1については思考実験を展開したので、後で再考・整理したい。


2009年08月02日(Sun)▲ページの先頭へ
暗黙知と融即/動的客観的結合: ハンガリー人のポラニー兄弟にはアジアの血=知が感じられる
以下、toxandoria氏が参考情報であげているカール・ポラニーの暗黙知や、マイケル・ポラニーの「dynamo-objective coupling」の源泉であるレヴィ=ブリュールの融即(participation)の理論であるが、実は、これは、私の理論遍歴において遭遇し、注目したものである。暗黙知とは、私見では、実は、無意識というか直感や感性で測深して、イデーを仮説する方法であり、融即は、Media Pointの前近代的、未分化的表現と考えられるのである。コスモスという思想は、そこから発生すると考えられるし、また、差異共振性の発想とも近い。ただし、未分化なので、連続性を含んでいるのである。
 とまれ、ポラニー兄弟はハンガリー人ということで、アジア的血があるので、源泉的には、このような東洋的な発想ができたと考えられるのである。
 レヴィ=ブリュールも思うに、ケルトの血が入っている可能性がある【追記:ユダヤ人であるが、ユダヤ人の思想はMedia Pointが源泉にあるが、それを否定的に同一性の方向に展開する場合(マルクスやフロイト)と、肯定的に、即ち、差異共振的に展開する場合(シャガール、ロスコ)があると思う。前者は思想家に、後者は芸術家に多いようだ。いわば、ヤハウェ型とエローヒーム型ということになろう。追記:これはあてにならない区分である。スピノザやレヴィナスは後者型である。】
 とまれ、toxandoria氏の思考様相もPS理論的になったと考えられる。

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2009-08-02 竹中式バカの作り方に扇動され偽装マニフェストとTVパフォーマンスに
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2005年 に当初のEU憲法条約がフランス、オランダ の国民投票によって否決されてから、官僚的・圧力的ガバナンス への批判を打ち消すため、EUは「市民社会 ディスコース 」(市民社会との対話を深化させる工夫)へ取り組んでおり、その要素となるキーワード が「共同体との連帯」と「アソシエーションによる調整・調和」に絞られています(出典:田中俊郎他編『EUのガバナンスと政策形成』(慶応大学 出版会))。そこで連想されるのがハンガリーの偉大な学者二人の知見、カール・ポラニーの「暗黙知 」 とマイケル ・ポラニーの「動的・選択的客観統合」です。それは、この二つの知見とEUの「市民社会ディスコース」の要素には深い繋がりがあると考えられるからです。そして、そこにはチェコ的な意味での経路依存的な合理主義が共鳴しています。

ところで、歴史的・伝統的に美しい都市景観や自然環境などをネオリベ 傾斜型の市場原理主義による「カネ」以外の尺度で評価すべきだという観点から、カール・ポラニー(Karl Polany/1886-1964/ハンガリー出身の経済人類学 者)の「社会の中に埋め込まれた経済」という視点が見直されつつあります。また、カールの弟・マイケル・ポラニー(Michael Polanyi/1891-1976/物理学者 ・社会哲学者)が提唱した「暗黙知」(tacit−knowledge)の意義も再検討されています。

そもそもマイケル・ポラニーの「暗黙知」は経験で得られる「相対知」の広がりと見做されてきましたが、近年はやや異なるアプローチが行われています。その新しい着眼とは、「相対知」の集成としての結果(知識、成果)よりも、人間がその「相対知」を獲得するまでの「知の発見のプロセス 、別に言えば、そのプロセス領域内でのスナップ ・ショット(一場面ごと)の作用メカニズム 」を十分に固着的に観察すべきだということです。

この考察のルーツは、マイケル・ポラニーに影響を与えたフランスの社会哲学者レヴィ・ブリュール(Lucien Levy-Bruhl/1857-1939/前論理的思考様式存在の立証を試みつつ、異文化研究に新機軸を開いた)にあります。レヴィ・ブリュールは、未開部族の観察から、実は個人の感情・情動・動機などが外界の出来事と、しばしば共感的に同一視されるという作用に注目し、これを「参加」(participation)と呼びました。が、マイケル・ポラニーは、この作用を「dynamo-objective coupling」(動的・選択的客観統合=一種のプロセス重視型の状態原理)と名づけました(参照 → http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0151.html )。

この熾烈で、繊細かつフラジャイル で、しかも二律背反的な「dynamo-objective coupling」の中にこそ「未知の真理」を発見する「創発」の作用が隠れており、そこで究極のリスクを回避し、難渋しつつ学び取るものこそが「暗黙知」です。しかも、これは、表層的に見れば不可解に思えるかも知れませんが、かくの如く繊細で壊れやすく、スナップ・ショット的な意味で苛烈で闘争的な認識作用の瞬間的鬩ぎあいの中でこそ、新しい真理の発見や社会・文化的リアリズム の知見が凝集・析出してくるのです。その意味で、マイケル・ポラニーの「暗黙知」は、自然科学 だけでなく人文・社会科学 、ジャーナリズム 等の領域へも重要な示唆を与えています。
http://d.hatena.ne.jp/
toxandoria/20090802

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』

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参照:
2006年02月04日 (23:27)
マイケル・ポランニーの暗黙知と不連続的差異論:toxandria氏の考察に基づいて
先に、toxandria氏のマイケル・ポランニーの暗黙知や「dynamo-objective coupling」の概念が、不連続的差異論と共通するものがあるのではないかと述べたが、ここで、それについて少し考えてみたい。
 私は、かつて、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』やレヴィ・ブリュールの『原始神話学』を読んだことがあるので、本件について、ほとんど自明に近い直観をもつのである。一言で言えば、暗黙知や「dynamo-objective coupling」は、不連続的差異論におけるメディア界領域を対象としているということである。つまり、メディア界的思考は、暗黙知的であるし、また、「dynamo-objective coupling」的であるということである。
 この点を少し説明すると、暗黙知とは、現象界において隠れている「知」を想定して、それを作業仮説として、発見や創発を為すわけであるが、この探求過程において、主体は、メディア界を認識の「フィールド」にしているわけであり、そこから形成される概念が、暗黙知である。これは、思うに、スピノザの『エチカ』における能動的観念から共通概念へと上位化する認識作用と通じるように思える。
 そして、「dynamo- objective coupling」であるが、これはまさに、メディア界を探求している主体の認識状態である。つまり、主客相補性の状態である。主体は、客体と連結しつつ、分離している(ドゥルーズ&ガタリの「離接」にほぼ相当する)状態の「認識」をするのである。これは、近代的な主客分離二元論ではなくて、主客相補的二元論であり、物理学ならば量子力学に相当する領域であり、デリダの脱構築哲学に相当する領域とも言えるだろう。これは、前近代的世界観であり、また、一つのポストモダン的世界観である。そして、フッサールの説く「生活世界」の一つに相当すると考えられるのである。現象学的還元をして生起する「生活世界」である。
 しかしながら、この認識方法の問題点は、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の「三幅対」論に表明されているだろう。つまり、前近代とポストモダンが、相互依存して、後者が反動化することである。 toxandria氏も述べているように、知のイデオロギー化・体制化も生じるのである。確かに、新しい知を創造するための必要な方法ではあるが、裏面の反動性を明確に意識する必要がある。これは、決定的なポイントである。すでに、反動的ポストモダンと能動的ポストモダンということで指摘しているように、いわば、「暗黙知」と「dynamo-objective coupling」の不連続化が必要なのである。これによって、「暗黙知」はイデア界の包摂理念となり、イデオロギー化・体制化されることはなく、不連続的差異の知性・理性となり、民主的共立のための知・真理となるだろう。
 ここで補足すると、スピノザ哲学は、メディア界的共通概念からイデア界的理念へと志向しているのであり、不連続的差異論のあり方と重なる面があるのであるが、何度も繰り返すことになるが、スピノザ哲学の究極の「存在の一義性」の理念(神=実体)が、連続的なのか、不連続的なのか、不明確である点である。不連続的差異論から見ると、スピノザ哲学は、イデア/メディア境界を根底にしているのであり、正確には、イデア界に達していないのである。ドゥルーズがスピノザ哲学を最高度に評価した理由もここからわかるだろう。ドゥルーズ哲学自体が、きわめて、スピノザ的な連続性と不連続性の両義性を帯びているからである。

参照1:
「 toxandria氏の以下の論考は、不連続的差異論に通じるものがあるように直観される。」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10008530019.html

「日本のマスメディアに欠ける、「政治体制の妥当性評価」の視点」
http://d.hatena.ne.jp
/toxandoria/20060129/p1
『toxandriaの日記』
__________________________________

参照2:『松岡正剛の千夜千冊』「マイケル・ポランニー
『暗黙知の次元』」
http://www.isis.ne.jp/mnn
/senya/senya1042.html



「相対性の復権と相対主義の陥穽ーーフッサール間主観性の現象学の問題圏にて」浜渦 辰二  著(静岡大学人文学部)
http://www.hss.shizuoka.ac.jp
/shakai/ningen/hamauzu/soutai.html

http://sophio.blog19.fc2.com
/blog-entry-163.html
プラトニック・シナジー理論(旧不連続的差異論)のページ


参考:
融即律

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2008/06/16 09:36 UTC 版)

融即律(ゆうそくりつ、principe de participation)とは、自分達のことを器物・生物・現象と同一化してしまうという未開人特有の心性の原理をいい、フランスの民俗学者レヴィ=ブリュル (Lucien Levy-Bruhl)がその著書『未開社会の思惟』において、未開人の心性が現代人と本質的に異なることを示すために導入した概念である。

概要

融即律の下で未開人の心に捉えられた器物・生物・現象は「(現代人に)理解しがたい仕方により、それ自身であると同時にまたそれ自身以外のものでもあり得る。また同じく理解しがたい仕方によって、それらのものは自ら在るところに在ることを止めることなく、他に感ぜしめる神秘的な力、効果、性質、作用を発し或いはそれを受ける」[1] という。神秘的融即(participation mystique)と呼ばれることもある。たとえば、自分達が金剛いんこであると云っている北部ブラジルの未開部族の場合、金剛いんこは自身に与えた名前ではなく、金剛いんことの類縁関係を意味しているのでもなく、本質的に自分たちは金剛いんこと同一であると考えているという。

このレヴィ=ブリュルの理論は、その後、文化人類学 の調査研究によって否定されるに至り、レヴィ=ブリュル自身により撤回された。後年クロード・レヴィ=ストロース は『野生の思考』において、未開人の思考と現代人の思考は本質的に異なるものではないと論じ、論理的思考に情緒内容が伴うことがあるのは未開人にも現代人にも等しくみられる心性であって、融即は未開人に特有の心性というにあたらないし、わざわざ融即と呼ぶ必要もないとしている。

未開人の心性を現代人の心性と区別するものとしての融即律は、こうして文化人類学の中ではすでに否定された概念であるが、集合的無意識 の概念を提唱したスイスの心理学者カール・グスタフ・ユング は、現代人の心理において主体と客体が無意識に同一状態となる同一性の現象がみられ、これは「主体と客体が区別されていない原初の心的状態の・つまり原始の無意識状態の・生き残りに他ならない」[2] のであって、未開人の心性の特徴である「神秘的融即」は現代人の無意識の中に受け継がれている、と論じた。ユングは「レヴィ=ブリュルが愚かな人々の攻撃に屈して「神秘的融即」の概念を撤回してしまったのは残念である」[3] と述べて生涯この概念を捨て去ることはしなかった。

近年、文化人類学 でも、タンバイアのように、融即律を因果律 とならぶ人間の世界認識の方法として再評価する動きがある。

参考文献

スタンレー・J・タンバイア『呪術・宗教・科学ー人類学における「普遍」と「相対」』思文閣出版(1996)



1. ^ 『未開社会の思惟』山田吉彦訳、岩波文庫、上・95ページ
2. ^ 『タイプ論』林道義 訳、みすず書房、471ページ
3. ^ General Aspect of Dream Psycology, 1948, footnote 12.



2009年07月25日(Sat)▲ページの先頭へ
ルネ・マグリットとPS理論:超越的コスモスと現象的コスモスの即非・差異共振様態
以下、Kaisetsu氏によるルネ・マグリットの絵画の哲学的、PS理論的解明である。
 実に明快にマグリットの絵画「宇宙」が分析されている。同時に、具体的なPS理論の説明にもなっている。
 Media Pointの即非・差異共振様態がマグリットの絵画の核と言えよう。非常にわかりやすい。
 今の私の直感で言うと、Media Pointを介して、超越的宇宙と同時に、即非的に、現象的世界を表現しているという感じである。言い換えると、超越的コスモスと現象的コスモスとの即非・差異共振様態の表現である。
 ここにおいて、トランス・モダン世界が表現されているのである。不連続的差異論成立前後にあいまいに直感していた世界感覚がここで明晰になったと言えよう。

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ルネ マグリット La Corde Sensible
2009.07.23 Thursday


 次の「ピレネーの城」と良く似たモチーフで在る。

⇒「ピレネーの城」 1959年 Le Chateau des Pyrenees
2009.07.19 Sunday

「ピレネーの城」は重力イメージの倒錯、転倒であったが、この「La Corde Sensible」は、雲が地上まで降りてきたイメージによって、倒錯・転倒間隔を出している。

 上下間の倒錯・転倒である。

 しかし、水平方向に、グラスが手前にあり、雲を上手に構図に合わせて見ている、とも見える。

 水平方向の錯覚である。

 やはり、ここでも、垂直方向と水平方向の、即非関係、差異共振、Media Pointが生まれている。

 さらに、雲がアイスクリームのように見えることで、三重の差異共振を果たしている。

 三つ巴の差異共振である。

 垂直方向、水平方向、「現実世界(雲)と精神世界(アイスクリーム)」との「三つ巴」の差異共振である。
http://blog.kaisetsu.org
/?cid=35649
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2009年07月13日(Mon)▲ページの先頭へ
PS理論は、今や、森羅万象の公理・原理である
結局、プラトニック・シナジー理論(PS理論)は、現象の本質を如実に、端的に捉えた理論であるから、あらゆる事象に適用できるのである。
 今や、オールマイティの理論である。黄金の理論、玉座・王座の理論である。「ゼウス」の理論である。
 ちなみに、ギリシア神話の主神ゼウスであるが、それは雷の神である。日本・東洋的に言えば、雷神である。これは、Media Pointの差異共振エネルギーであろう。+iの電荷と-iの電荷が衝突共振して、雷が発生するのだろう。
 ギリシア神話では、クロノス、その他ティターン神族を倒したとあるが、ティターン神族を母権民族と見ると作業仮説すると、母権民族に勝利したことになるが、しかしながら、ユダヤ・キリスト教のように、排除したというよりは、二重構造になっていると考えられる。
 つまり、土台・基底は母権文化であるが、それを覆うようにゼウスが支配するオリンポスの神々の父権文化が構築されているということである。言い換えると、ニーチェの『悲劇の誕生』で述べられている、基底のディオニュソスと「上部構造」のアポロという構成である。
 これは、近代主義のようにMedia Pointから近代合理主義へと転化する連続的同一性の様式ではない。なぜなら、連続的同一性主義は、Media Pointを抑圧・排除・隠蔽してしまうからである。
 ギリシア神話の様態(あるいは、記紀神話の様態)は、それとは異なる。いわば、母権的父権文化である。ここがエッセンスである。(ゾロスター教も母権的父権文化と言えよう。)
 これは、力学・哲学的にどういうシステムなのだろうか。思うに、母権文化と父権文化を極性化しているシステムではないだろうか。つまり、母権制と父権制との差異共振的調和を志向しているシステムではないだろうか。
 私は既述したように、ギリシア神話は、母権制と父権制との衝突において、調和を探求しているものだと考えている。両者の調和とは、正に、差異共振的調和ということになる。そして、この差異共振的極性があるために、ギリシア神話は、父権極になったり、母権極になったり、あるいは、共振したり、多様の様態を呈すると考えられる。これは、記紀にも当てはまるだろう。
 そして、ゾロアスター教であるが、それは、母権制と父権制の差異共振の結晶のような宗教である。母権主義と父権主義が結合するときに生じる同一性=物質主義を悪神(アンラ・マンユ)として、また、根本的な差異共振性を絶対的善神アフラ・マズダーとするのであり、また、悪神の対極・対蹠となる善神のスプンタ・マンユを明確・正確に説いているのである。

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ゼウス
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曖昧さ回避 この項目では、ギリシア神話の主神について記述しています。その他の用法については「ゼウス (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
ゼウス

ゼウス(古典ギリシア語 :Ζεύς, Zeus)は、ギリシア神話 の主神 である。天候、特に雷 を司る天空神 であり、オリュンポス十二神 をはじめとする神々の王である。
概説 [編集 ]

ゼウスはローマ神話 ではユーピテル (ジュピター)にあたる。オリュンポス の神々の家族および人類の両方の守護神・支配神であり、神々と人間たちの父と考えられた。

ゼウスは天空神として、雲・雨・雪・雷などの気象を支配していた。鎧に山羊革の胸当てをつけ、聖獣は鷲 、聖木はオーク 。主要な神殿は、オークの木のささやきによって神託 を下したエーペイロス の聖地ドードーナ 、および4年ごとに彼の栄誉を祝福してオリンピック大祭 が開かれたオリュンピア にあった。

系譜 [編集 ]

ティーターン 神族のクロノス とレアー の末の子(長男という説もある)で、ハーデース とポセイドーン の弟。正妻は姉妹であるヘーラー であるが、レートー や姉のデーメーテール 等の女神 をはじめ、多くの人間の女性とも交わり、子をもうけたといわれる。

オリュンポス十二神の中では、メーティス との間にアテーナー 、レートーとの間にアポローン とアルテミス 、ヘーラーとの間にアレース 、ヘーパイストス 、またテーバイ の王女セメレー との間にディオニューソス をもうけた。

また様々な人間の女性との間に、たとえばダナエー との間にペルセウス を、アルクメーネー との間にヘーラクレース を、レーダー との間にディオスクーロイ をといったように多数の子供たちをもうけたことになっている。これらゼウスの子とされる英雄を半神 (ヘロス)といい、古代ギリシア では下級の神として広く祀られた。これらの伝説は、古代ギリシアの各王家が、自らの祖先をゼウスとするために作り出された系譜とも考えられる。ゼウスが交わったとされる人間の女の中には、もとは地元の地母神 であったと考えられるものもいる。人間と交わるときのゼウスはしばしば別の人物や動物に変身したとされ、ダナエーのときには黄金の雨、レーダーのときには白鳥 などの獣の形に変身したといわれる。

生い立ち [編集 ]

ゼウスの生誕に関する古代伝説のひとつによれば、父クロノスはわが子に支配権をうばわれる不安にかられ、生まれた子供を次々にのみこんでしまった。そこでゼウスを生んだとき、母レアーは産着でつつんだ石をかわりにクロノスにのませることでゼウスを救った。ゼウスはクレータ島 で雌山羊のアマルテイア の乳を飲み、ニュムペー に育てられた。成人したゼウスは、クロノスに兄弟たちをはきださせ(この時飲み込まれた順とは逆の順で吐き出されたが、これがポセイドーン等にとって第2の誕生にあたり、よって兄弟の序列が逆転されたともされている。)、父親に復讐をしたがっている彼らと協力してクロノスなどのティーターン神族を倒した。その結果、ゼウスらが勝利をおさめ、ティーターン神族は冥界タルタロス に葬られた。そしてゼウスとポセイドーンとハーデースは支配地をめぐってくじ引きをし、それぞれ天空と海と冥界の主となった。さらにゼウスは最高権力者と認められた。

人物 [編集 ]

ホメーロス の記述にみるゼウスは、2つの異なる姿で描かれている。一面ではゼウスは弱者の守護神、正義と慈悲の神、悪者を罰する神としてあらわされる。しかし同時に、次々と女性に手をだしては子孫を増やし、不貞を妻に知られまいとあらゆる手段を講じる神としてもえがかれている。

元来はバルカン半島 の北方から来てギリシア語 をもたらしたインド・ヨーロッパ語族 系征服者の信仰した天空神であったと考えられ、ヘーラーとの結婚 や様々な地母神由来の女神や女性との交わりは、非インド・ヨーロッパ語族系先住民族との和合と融合を象徴するものと考えられる。また自分たちの系譜を神々の父までさかのぼりたいという、古代ギリシア人の願望としても説明されることがある。

多くのインド・ヨーロッパ語族系言語を用いる民に共通して信仰された天空神に由来し、その祖形は、ローマ神話 におけるユーピテルの原型であるデイオス・パテール、あるいは普通名詞「神」を表すデイオス、デウス、古層のインド神話 の天空神ディヤウス 、北欧神話 のテュール らに垣間見ることができる。

好色なこの父神は、ギリシアにおける道徳意識の高まりとともに、しだいに好ましくない存在となった。このため後の伝説などでは、ゼウスを崇高な存在として表現するようになった。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 この項目では、気象現象あるいは神話としての雷について記述しています。製品名、資格名など固有名詞としての雷については「雷 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
住宅近郊への落雷
Lightning over 新宿 , 東京 , 日本 .

雷(かみなり)とは空と地、または空と空の間に起きる大規模な放電 現象であり、閃光と轟音を伴う。自然現象 の一種であり主に天気 が雨 、雪 、霰 、雹 の場合に発生しやすい。稲妻(電、いなずま/いなづま)と呼ぶこともあり、古語や方言などではいかずち、ごろつき、かんなり、らいさまなどの呼び名もある。
表現 [編集 ]
雷鳴を伴わない雲と雲間の稲光(2008年8月28日22:48東京 上空)

雷の光を「雷光(らいこう)」と呼ぶ。「雷」「かみなり」は季語 としては夏 を表す。

雷の事を稲妻(いなずま:古来の表記は「いなづま」)とも呼び、稲妻の光を稲光(いなびかり)と呼ぶ。稲妻は秋 の季語である。稲妻・稲光の語源については日本では稲 が開花し結実する旧暦 (太陰暦 )の夏から秋のはじめにかけて雨に伴い雷がよく発生するため、また、落雷した田では稲が良く育った[1] ため稲穂は雷に感光することで実るという理解が生まれ、雷を稲と関連付けて稲の「つま(=配偶者)[2] 」と解し「いなづま」あるいは「いなびかり」と呼ぶようになったといわれている。

雷と神話 [編集 ]
雷神(尾形光琳 画)

古来より、雷は神 と結びつけて考えられることが多かった。

* ゼウス (ギリシャ神話 )
* ユピテル (ローマ神話 )
* トール (北欧神話 )
* インドラ (バラモン教 )
* 建雷命 (日本神話 )
* 雷神・雷さま (日本民間伝承)
* 雷公(中国)

ギリシャのゼウス、ローマのユピテル(ジュピター)は天空の雷神であり最高神である。マライ半島 のジャングル に住むセマング族 でも雷は創造を司る最高神であり、インドシナ から南中国にかけては敵を滅ぼすため石斧をもって天下る神として落雷を崇める。欧米ではカシ が特に落雷を受けやすい樹木とされたのでゼウス、ユピテル、北欧神話のトールの宿る木として崇拝した。欧州の農民 は住居の近くにカシを植えて避雷針 がわりとし、また、犬 、馬 、はさみ 、鏡 なども雷を呼びやすいと信じたので雷雨 が近づくとこれらを隠す傾向があった。雷雨の際に動物が往々紛れ出ることから雷鳥 や雷獣 の観念が生まれた。アメリカ ・インディアン の間では、その羽ばたきで雷鳴や稲妻を起こす巨大な鳥 (サンダーバード )が存在すると考えられた。

日本神話 においても雷は最高神という扱いこそ受けなかったが、雷鳴を「かみなり(神鳴り)」ということからもわかるように雷を神々のなせるわざと見なしていた。天津神 の1人で天孫降臨 の前に葦原中国 を平定したタケミカヅチ (建御雷、武甕槌)はそういった雷神の代表である。雷(雷電)を祭った神社に「雷電神社 (板倉雷電神社 など)」「高いかづち神社」などがあり、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)・大雷大神(おおいかづちのおおかみ)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)などを祭神としている。

日本 では方言 で雷を「かんだち」ともいうが、これは「神立ち」すなわち神が示現する意である。先述した稲妻の語源が示すとおり、雷は稲と関連づけられている。日本霊異記 や今昔物語 にあるように雷は田に水を与えて天に帰る神であったため、今でも農村では雷が落ちると青竹を立て注連縄 (しめなわ)を貼って祭る地方がある。

雷神 は平安時代 になると、天神 の眷属神として低い地位を占めるようになった。

また、雷が起きると、落雷よけに「くわばら、くわばら」と呪文 を唱える風習がある。これは、菅原道真 の土地の地名であった「桑原」にだけ雷(かみなり)が落ちなかったという話に由来する。平安時代に藤原一族によって流刑された道真が恨みをはらすため雷神となり宮中に何度も雷を落とし、これによって藤原一族は大打撃を受けた。このとき唯一、桑原だけが落雷がなかったので後に人々は雷よけに「桑原、桑原」ととなえるようになったといわれる[3] [4] 。

雷神は古くから美術に表現されてきたが絵では京都建仁寺 の俵屋宗達 筆の障壁画 、元禄時代 の尾形光琳 の作など、彫刻 では日光東照宮 、京都三十三間堂 などのものが有名である。

発生の原理 [編集 ]

上空と地面 の間、または上空の雷雲内に電位差 が生じた場合の放電 により起きるとされる。雷を発生させる雲 を雷雲 と呼ぶ。雲内での放電を雲間放電(cloud to cloud lightning:CC; inter cloud lightning:IC; cloud flash:CF)、雷雲から地面への放電を対地雷(cloud to ground lightning:CG)と呼ぶ。対地雷には上向きと下向き、正極 性(+CG)と負極 性(-CG)の分類があるから対地雷は結局4種類ある。

ただし、近年(1980年代 〜)ではレッドスプライト 等の雷雲上空の発光現象も発見されている(中間圏発光現象 )。

雷の発生原理は、主に以下のような説で説明されている。

雷雲の発生 [編集 ]
雷雲

地表で大気が暖められることなどにより発生した上昇気流 は湿度 が高いほど低層から飽和水蒸気量 を超えて水滴(雲粒)が発生して雲となり、気流の規模が大きいほど高空にかけて発達する。

この水滴は高空に達すると氷結してあられ、氷の結晶となり上昇気流にあおられながら互いに激しくぶつかり合って摩擦されたり砕けたりすることで静電気 が生じる。この時、雲の上層には正の電荷が蓄積され下層には負の電荷が蓄積される。

急激な上昇気流により低層から高空まで形成される雷雲は主に積乱雲 などで構成され、熱雷 (俗に夏雷)と呼ばれる。同じ積乱雲でも寒冷前線上などに発生する場合、また、温暖前線などで同様の原理が発生した場合の雷は界雷と呼ばれる。上昇気流が台風 などによる場合は、渦雷(うずらい)と呼ばれる。なお、前線に向かって湿った空気が流れ込むことにより発生した雷など、熱雷と界雷の両方の特性を併せ持つものは熱界雷と呼ぶ。


2009年07月02日(Thu)▲ページの先頭へ
トランス・モダン認識と「内なる宇宙」:トランス・モダンの内面感性
以下、Kaisetsu氏と愚樵氏とのトランス・モダン的認識に関する「差異共振」的対話であるが、実に意味深長である。この「感情」、「感応」、「感性」、「パトス」、「共感」、「内なる自然」等々の問題は、きわめて重要である。今は余裕がないので、詳述的にコメントできないが、一言言えば、その通りである。
 また、安部公房であるが、学生の頃よく読んだ作家である。引用されている『砂の女』はおそらくいちばんの傑作ではないだろうか。
 とまれ、Kaisetsu氏の指摘で、安部公房の作品世界が、即非空間であることがわかった。そう、「情感」的には、いわば、乾いた叙情性(ドライ・リリシズム)があるのであるが、それも即非的感性と言えよう。
 思うに、安部公房は、村落共同体的日本を批判的に見ながら、何処にもない故郷(ユートピア)を求めていた。その「何処にもない故郷」とは、正に、「内なる自然」と通じると考えられる。
 また、愚樵氏の述べている「共感性」等の視点は、実は、誤解されている英国の作家D. H. ロレンスが既に提唱しているところである。晩年の『死んだ男(逃げた雄鶏』はいわば、差異共振コスモス、絶対的差異共振的コスモスを詩的に表現した中編小説である。 

参照:
D.H.ロレンスの『死んだ男』の画期的独創性:二項対立から不連続的差異へ
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10009910869.html

又は

D.H.Lawrenceの『死んだ男』
http://ameblo.jp/renshi
/theme-10000374060.html

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不思議なこと。同じ所を見ているという感覚。

〔トランス・モダン〕へ至るには、各々のパトスへの没入――すなわち【共感】――が必要です。〔トランス・モダン〕は【共感】の機序の探求であり、その探求を支えるのは「内なる自然」への信仰です。)

 という愚樵氏の言葉です。


 つまり、「砂の女」も、「内なる自然」の物語であり、しかも、この小説の巧妙な点は、内なる「砂の女」が、外なる「砂の女」と差異共振している点だと得心したのです。

 その媒体(Media)として、「砂丘」と「砂丘の大きな穴」が設定されています。そうして、勿論、 Media Pointとして主人公(の内なる自然)が設定されています。

 砂丘の穴の外、穴の中、穴の中の人間の心の中。

 これらが、三重奏、三つ巴の共振をしているのです。

 砂丘の穴の「外」は物理的には見えないから、結局は、人間の心の中と同値です。

 「男」は、「砂の女」の「穴」に墜ちたという設定とも取れて、多次元の「相克・相乗」が生じています。

 「砂の女」は、「砂である女」とも読めますから。

 愚樵氏が「内なる自然」を旅されておられる時、海舌も「内なる荒野」を旅していたように想います。
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=765851
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

参照:
〔トランス・モダン〕を阻むもの
2009-07-01
当エントリーは、海舌さんからのTB『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』を受けたもの。また、海舌さんのエントリーは私のエントリー『「選択の限界」〜好き嫌い』を発展させたもの。ですので、当エントリーを読み進めるより先に

『「選択の限界」〜好き嫌い』(愚樵空論)

『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)

の順序でご覧になってください。
http://gushou.blog51.fc2.com
/blog-entry-271.html

愚樵空論


2009年06月29日(Mon)▲ページの先頭へ
構造主義からトランス・モダンへ:Kaisetsu氏の重要な解明
本件の進展を具体的に検証している。コンパクトながらも、トランス・モダン哲学の要点を明確に提示している。
 トランス・モダン哲学=プラトニック・シナジー理論は、必然、あるいは、摂理である。これは、創造というよりは、宇宙、自然、社会の真理の開示(「黙示録」)である。

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「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。

以下、冒頭引用。

 次の愚樵氏のブログに、

「選択の限界」〜好き嫌い
2009-06-25

次のような問題が出ています。

 

会社員 ・・・
 もしここに手榴弾が投げ込まれて、誰かが抱え込まなければ全員が死んでしまう場合、実際どうしますか? 率先して、手榴弾を抱える人はいるんでしょうか?
数理経済学者 その場合、「集団的合理性」は、誰かが犠牲になって抱えるよう命じますが、「個人的合理性」は自分以外の誰かが抱えることを命じます。囚人のジレンマから社会的チキンゲームに至る議論の根底にあるのが、この2つの合理性の衝突なのです。

http://blog.kaisetsu.org
/?eid=764614
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


イデアとは具体的観念・現実的観念である:イデアは現象を生む:物質こそ抽象である
イデアと言うと、なにか非現実な、あるいは、形而上学的な理念・観念と思われるだろう。
 しかし、PS理論におけるイデアはまったく異なる。イデアは実に現実的である。現実の本質・本体・実質と言える。
 イデアこそ、現実の核心であると言えるのである。そう、イデアは現象を生む。これは実に驚異的にすばらしい。奇跡的でもある。いわば、自然の天才性である。
 近代においては、現象と物質が混同されているので、人間の認識・知覚は盲目になっているのである。小泉元首相等のいんちき政治家に騙されるのも、イデア ⇒現象と物質との区別がついていないからである。そう、イデアはエネルギーである。あるいは、デュナミス/エネルゲイアである。そして、物質はエンテレケイアである。
 アリストテレス哲学には現象に当たる用語がないようである。おそらく、エネルゲイアに含まれるかもしれない。

追記:あるいは、エンテレケイアを現象とするべきかもしれない。この点は後で検討したい。


2009年06月28日(Sun)▲ページの先頭へ
プラトニック・シナジー理論の流布
プラトニック・シナジー理論の流布
テーマ:プラトニック・シナジー理論
以下、PS理論でGoogleで検索したらでてきたブログ記事であり、PS理論を実に的確にまた敷延して説明している。見事に正鵠を射ている。
 また、共振と反共振という考えも興味深い。
 
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[296] 混沌としての空っぽの器(1)
From: 生成門
イメージ

混沌としての空っぽの器(1)
<補完共振>

四次元能では、様々なナビゲーターとシムダンスをしています。ここで紹介するのは、rensi氏が主催するプラトニックシナジー(PS)理論です。

四次元能全体の文脈で、イデアと現象が交差する複素平面、自己認識の方程式{i*(-i)⇒1}、空(メディアポイント)が出てきたら、PS理論からの受売りです。ただし、独自の解釈をしていますので、忠実な受け売りかどうかは怪しいかもしれません。詳しくはPSのHPを参照してください。
http://ameblo.jp/renshi/
このHPの最初に、「ポスト・モダン理論を乗り越えるトランス・モダン理論として、プラトニック・シナジー理論を深化させています。非常にシンプルですが、多様な領域に適用可能だと考えています。」というイントロがあります。四次元能は、その適用を臨床的に実験していると思ってください。

その中でも、PS理論の中核はなんといってもイデアと現象が交差するメディアポイントでしょう。ここをしっかりと抑えておかないとせっかくのすばらしい理論も応用の段階で、とんだ間違いを犯してしまうでしょう。先端の物理理論を学んで、平和利用と称して原子爆弾を作ってしまうようなことなりかねません。

今回は、その真髄に触れてみたいと思います。ただし、そのまま紹介しても、ちんぷんかんぷんなので、独自の解釈をしていきます。ですから、タイトルも「メディア・ポイント」ではなく「混沌としての空っぽの器」です。詳しくは「英知の探求」を参照してください。
http://antares111.exblog.jp/5772459/

以下、編集引用しました。

http://www.c-player.com/ad00178
/message/20090613?format=time

次も興味深い。

発言正4面体イデアはまるで生き物(2) (0)
発言正4面体イデアはまるで生き物(1) (0)


シムダンス「四次元能」
(サークルID:ad00178@circle)


2009年06月10日(Wed)▲ページの先頭へ
ゾロアスター教とPS理論:完全なる整合性が存する
私は勘違いしていたが、本来、ゾロアスター教では、絶対的善としてのアフラ・マズダーが存し、それに従う善神スプンタ・マンユとそれに背く悪神アンラ・マンユとの闘争が世界を形成し、最後は、善神の立場勝利するということである。
 PS理論と対応させるならば、アフラ・マズダーは、やはり、虚軸の超越性である。そして、悪神アンラ・マンユは、同一性主義+1である。そして、自由意志とは、Media Pointによるエネルギー作用(自然じねん・自発性・「力の意志」、絶対的自由意思)である。
 では、善神スプンタ・マンユはどうなるのだろうか。これを先には考慮しなかったのである。これは、実は、Media Pointでいいのではないだろうか。
 とまれ、明晰に、「きれいに」、ゾロアスター教とPS理論は整合する。

追記:虚軸であるアフラ・マズダーは、思うに、オイラーの公式、e^iπ=-1と関係しないだろうか。つまり、+1が悪神アンラ・マンユであるから、その正反対の-1が・・・。否、-1が善神のスプンタ・マンユだろうか。後で検討したい。

追記2:θ=π/2のとき、e^iπ/2=+iであり、θ=3π/2のとき、e^3iπ/2=-iである。両者の積は当然、+1(悪神・物質)である。
 思いつきであるが、-1は、個々の善的能動性ではないだろうか。善神は、Media Pointであろう。

追記3:参照のKaisetsu氏を読んで思ったのは、私は私なりに、私の内面から、不連続的差異論やPS理論を、Kaisetsu氏の「数理哲学」という画期的な発想を借りて、考えてきた。
 そして、PS理論がゾロアスター教と合致するのを確認すると、結局、私の内面を動かしてきたのは、ゾロアスター教的なものではないのかという気がしたのである。
 私は直感で、ゾロアスター教の崇高さに言い知れぬ感銘を受けてきた。そう、どうやら、日本人の私の内面に働きかけているのは、ゾロアスター教だと思えてきたのである。
 思うに、日本文化をゾロアスター教の視点で見ると、日本文化の真相が明確になるように思えるのである。私は、昔から、大日如来が好きであったが、これは、正に、アフラ・マズダーと見るべきであろう。東大寺の大仏は、アフラ・マズダーと見るべきである。
 私は日本美術でいちばん感動したのは、正倉院の螺鈿紫檀五弦琵琶である。おそらく、ササン朝ペルシャを考慮に入れることで、日本文化、日本民族の謎が解明されるだろう。

参照:
ゾロアスター教とオイラーの公式

 e^iπ⇒-1

 ここで、iは、eの「べき数」(乗数)の位置にあるのである。
 つまり、「地上」にあり、「天」に存在するのである。
 eに天上でiが作用することで、「-1」という善神が創造されるのである。

 この「-1」が、悪神(+1)と作用して、+1を滅ぼすのである。

 絶対的善としてのアフラ・マズダーとは、「i」であろう。
 パイは、回転である。
 世界とは、「原世界」とは、「e」だろうか?

  e^iθとすれば、θの回転度合いは調節出来て、これが、「全能」の意味であろう。


『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

参考:

「すなわちゾロアスター教では、宇宙の法たる神(光明神)アフラ・マズダーを主神とし、アフラ・マズダーに従う善神スプンタ・マンユ に代表される善の勢力と、アフラ・マズダーに背く悪神(暗黒神)アンラ・マンユに代表される悪の勢力の2つの原理によって世界 が成立していると説く。このため、火 や光 を崇拝する。

人間はみずからの自由意志 で、善の側か悪の側かに立つことができる。両者の争いの果てに、最終的には善が勝利して、悪を滅ぼし、悪神の勢力は滅ぼされるという宇宙史的運命を主張した。」




スプンタ・マンユ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

スプンタ・マンユ (Spənta Mainyu) は、ゾロアスター教 に於いて崇拝される善神アムシャ・スプンタ の筆頭で、「創造」を司るとされる。その名はアヴェスター語 で「聖なる霊」を意味する。

創世神話によれば、世界の始まりの時、スプンタ・マンユはもう一人の創造神アンラ・マンユ と出会ったという。そして、スプンタ・マンユは世界の二大原理のうち「善」を、アンラ・マンユ は「悪」を選択し、それぞれの原理に基づいて万物を創造した。

我々が存在しているこの現実世界は、スプンタ・マンユとアンラ・マンユの被造物が混じり合い、互いに戦い合う「善と悪との戦場」である。

中世以降は最高神アフラ・マズダー と同一視される。


オイラーの公式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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数学 、特に複素解析 におけるオイラーの公式(オイラーのこうしき、Euler's formula、オイラーの恒等式とも)とは、指数関数 と三角関数 の間に成り立つ等式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

オイラーの公式の幾何的な表示

をいう。ここに、θ は幾何学的には弧度法 に従う角と見なされる実変数 である。三角関数を複素変数に関する解析的関数と考えることで、この等式は θ を複素変数 と見ても成立している。レオンハルト・オイラー に帰せられるためこの名がある。この公式ははじめ、ロジャー・コーツ によって1714年 に提出されたが、その証明は曖昧なものだった。その後オイラーによって1748年 に再発見され、有名になった。

この公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学 ・物理学 などであらわれる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマン はこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい,そして驚くべき「方法」(「公式」の誤訳?)の一つ」[1] だと述べている。

また、θ = π のとき、オイラーの等式と呼ばれる

eiπ + 1 = 0

が導かれる。この式は、全く起源の異なる重要な定数である円周率 π と自然対数の底 e が、極めて基本的な数、0(加法の単位元), 1(乗法の単位元) および虚数単位 i によって結びついているという意味で特異なものである。

eiπ = − 1

の形でのべられる場合もある。




2009年06月07日(Sun)▲ページの先頭へ
プラトンとニーチェ:ゾロアスター教のトランス・モダン性
以下、Kaisetsu氏が、ゾロアスター教についてとても興味深い、意義深い考察を提示している。
 実は、さきほど、ニーチェの青年期の作品『プラトン対話篇研究序説』を少し拾い読みして、ニーチェが美学的立場から、プラトンの道徳的立場を批判しているのを読んだが、その後の代表作の『悲劇の誕生』のディオニュソスを考えて、ニーチェの思想はプラトンからそれほど離れていないと感じたのである。
 ディオニュソスとは、実は、差異共振エネルギーのことと言えるのであり、これは、道徳的であり、また、美学的である。思うに、ニーチェはプラトンを一神教としてのキリスト教的視点から見て、誤読している面があると思う。
 とまれ、道徳のことを考えていた点で、Kaisetsu氏のゾロアスター教の考察と偶然の一致となったわけである。
 そう、ニーチェは後に『ツァラトゥストラはかく語りき』を書いたのである。当然、ニーチェはゾロアスター教的なものに魅かれていたのである。
 Kaisetsu氏の洞察はブログを読んで確認していただくこととして、プラトンもニーチェも嫌っていた物質界についてであるが、これは、同一性主義の世界であり、精神を喪失した世界である。プラトンのイデア論とは、物質界を否定的に見ているのであり、現象界を否定的に見ているのではないと考えられる。イデアの影としての現象界であり、現象を介して、イデアがいわば直感されると言えよう。
 結局、問題は、物質と現象の違いなのである。プラトン、ニーチェともに、両者を混同している面がある。
 だから、感覚・感性の問題がここにはあるのである。おそらく、物質的「感覚」があるとすれば、それは、同一性から感覚・感性を捉えている結果である。しかしながら、差異から感覚・感性を捉えることができるというか、それが自然である。
 芸術的感覚・感性とは実は、差異的感覚・感性である。そして、これは、また、道徳・倫理的感覚・感性ともなるのである。そして、また、差異は真の認識の基礎である。真善美の一致とは根拠がある理念である。
 現代日本は、近代主義化されて、同一性が支配しているのであり、当然、道徳的に堕落しているのである。政治の世界に端的に現われているのである。
 とまれ、感覚・感性の問題に戻ると、結局、西洋の二元論が元凶であると考えられる。この二元論によって、精神と物質、心と身体等が分離されたのである。そして、感覚・感性を後者に所属させたのである。これが根源的な誤謬である。感覚・感性と物質性はまったく別のものである。だから、一種三元論を見るべきである。精神/感覚/物質の三元論である。
 そして、感覚・感性を介して精神が読みとれるのである。私は小泉元首相の風体や発語からペテン師であると直観したものである。
 近代主義とは、正確には、近代合理主義・近代的自我・唯物論であるが、それは、感覚・感性から精神を切り離してしまったのである。つまり、感覚・感性を同一性化してしまったのである。換言すると、本来、感覚・感性とは、精神感覚・感性であるが、近代主義はそれを同一性感覚・感性、あるいは、物質的感覚・感性にしてしまったということである。
 そして、即非の論理であるが、これは、実に東洋精神のまったき発露である。これは、精神感覚・感性の論理を結晶化させた概念である。
 西洋哲学が、神秘学者のウスペンスキー(もっとも、彼は、ロシア人である。ロシア人は東洋的である。)を除いて、即非の論理にまったく到達できなかったのは、その二元論的拘束からみて、当然であったと言えよう。
 いろいろ言いたいことがあるが、最後にゾロアスター教について述べると、私は昔から、ゾロアスター教に魅かれていた。何故なのだろうか。
 直感では、ゾロアスター教は肯定できるが、ユダヤ教、キリスト教は肯定できないのである。キリスト教の黙示録的終末論は、ゾロアスター教から取り入れたものである。(そして、捩じ曲げている。)
 そう、ゾロアスター教は一神教ではない、善神と悪神の「二元論」である。これがユダヤ教とキリスト教からの絶対的差異である。「二元論」というと混乱するので、二極論と言おう。ユダヤ・キリスト教は、二極論ではなく、二元論である。正確に言えば、同一性的二元論である。この同一性が絶対的に問題なのである。
 そして、ここで、Kaisetsu氏が提示されたソロアスター教の絶対的自由意思の視点が画期的に重要なのである。つまり、ユダヤ・キリスト教は同一性主義であるのに対して、ゾロアスター教は差異主義、絶対的差異主義であるということである。
 言い換えると、ユダヤ・キリスト教ではヤハウェやキリストが同一性のモデルになるが、ゾロアスター教では、それはないということになる。
 結局、西洋文明はこれまで繰り返して述べたように、同一性に傾斜した文明、否、過度に同一性に傾斜した文明であるということである。これが、道徳・倫理を偽善的なものに変質させてしまったのである。
 最後に、簡単にゾロアスター教について私見を述べたい。ゾロアスター教はやはり父権的である。しかし、父権主義ではないだろう。これは、大国主命とも関係するのである。東洋的父権とは、西洋的父権とは異なるのである。前者は母権主義を前提としている。イシスに対するオシリスである。つまり、大母神を背景とする父権である。ということで、ゾロアスター教の父権性とは、東洋的父権性であり、大母神的父権性と言えよう。

追記:「天皇制」もこの視点から見られるべきである。本来、それは、大母神的父権性であるが、国学のもつ一神教性によって、同一性的父権主義に染められてしまったと考えられるのである。国家神道のことである。
 本来の神道は、大母神的なのである。天皇は大女神の子である日御子である。

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ゾロアスター教の注目するべき性格⇒「絶対的自由意思」と「宿命論(善の勝利)」の共存
http://blog.kaisetsu.org/
?eid=752616
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

参照:
古典ギリシアの精神―ニーチェ全集〈1〉 (ちくま学芸文庫) (文庫)
フリードリッヒ ニーチェ (著), Friedrich Nietzsche (原著), 戸塚 七郎 (翻訳), 上妻 精 (翻訳), 泉 治典 (翻訳)

このようにツァラトゥストラは語った 上 (1)(講談社文庫) (文庫)
ニーチェ (著), 吉沢 伝三郎 (翻訳)

このようにツァラトゥストラは語った 下 (2)(講談社文庫) (文庫)
ニーチェ (著), 吉沢 伝三郎 (翻訳)

参照2:因みに以下のような本もある。

扶桑国王蘇我一族の真実―飛鳥ゾロアスター教伝来秘史 (単行本)
渡辺 豊和 (著)

シルクロードの経済人類学―日本とキルギスを繋ぐ文化の謎 (単行本)
栗本 慎一郎 (著)

参照3:

ゾロアスター教
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ゾロアスター教
基本教義
ゾロアスター教
神々

アフラ・マズダー
スプンタ・マンユ
ヤザタ 、ミスラ
ズルワーン
アナーヒター
ウルスラグナ
フラワシ
神々(悪神)

ダエーワ
アンラ・マンユ
アジ・ダハーカ
アエーシュマ
サルワ
インドラ
聖典
アヴェスター
文学
シャー・ナーメ
人物

ザラスシュトラ
カルティール
ザッハーク
表 ・話 ・編 ・歴

ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、英語:Zoroastrianism、独語:Die Lehre des Zoroaster/Zarathustra、現代ペルシア語:دین زردشت [Dîn-e Zardošt])は、古代バルフ(Balkh、ダリー語 ・ペルシア語 بلخ Balkh )の地に始まる宗教 である。バルフ は現在のアフガニスタン 北部にあり、ゾロアスター教の信徒にとっては、始祖ザラスシュトラ が埋葬された地として神聖視されてきた。

ゾロアスター教は、善 と悪 の二元論 を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教 」と言われることもあるが、これは正しくはない。ゾロアスター教の中では、アムシャ・スプンタ など多くの神々が登場する。開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)である。その根本教典より、アヴェスター の宗教であるともいえ、イラン古代の宗教的伝統の上に立って、ザラスシュトラが合理化したものと考えられる。

光の象徴としての純粋な「火」を尊んだため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれ、また祆教(けんきょう)ともいう。他称としてはさらに、アフラ・マズダー を信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただしアケメネス朝の宗教をゾロアスター教ではないとする立場(たとえばエミール・バンヴェニスト )からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。パーシ(パールシー)教徒とも呼ばれる。



参照4:
大国主
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大国主(おおくにぬし)は日本神話 の中で、出雲神話に登場する神 である。天の象徴である天照大神 に対し、大地を象徴する神格でもある。

別称 [編集 ]

大国主は多くの別名を持つ。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされる。

* 大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(おう=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もある。
* 大穴牟遅神・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち) - 大国主の若い頃の名前
* 大汝命(おほなむち)-『播磨国風土記 』での呼称
* 大名持神(おおなもち)
* 八千矛神(やちほこ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
* 葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこのを) - 「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
* 大物主神 (おおものぬし)
* 大國魂大神(おほくにたま)
* 顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)
* 国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社 主神-『播磨国風土記』での呼称
* 所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記 』における尊称
* 幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)

出自・事績 [編集 ]

『日本書紀 』本文によるとスサノオ の息子。また『古事記 』、『日本書紀』の一書や『新撰姓氏録 』によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。

スサノオの後に少彦名神 と協力して天下を経営し、禁厭 (まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国 の国作りを完成させる。国土を天孫・瓊瓊杵尊 に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社 の祭神となる。

因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に記載されている。『出雲国風土記 』の意宇郡母里郷(現;島根県 安来市 )の地名起源説話には「越八口 」を大穴持(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとある。

* 因幡の白兎
* 大国主の神話 (八十神の迫害・根の国訪問・大国主の妻問い)
* 大国主の国づくり
* 葦原中国平定

妻・子孫 [編集 ]
大国主の系図(古事記による)。青は男神、赤は女神、黄は性別不詳

大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。古事記には180柱、日本書紀には181柱と書かれている。

* 正妻であるスサノオの娘のスセリビメ については、記述がない
* 高志の国の奴奈川姫命(沼河比売 )についても記紀神話での記述はないが、葦原中国平定において大国主の子として登場する建御名方神 (タケミナカタ)が奴奈川姫との間の子であるという伝承が残されている。
* 最初の妻のヤガミヒメとの間に木俣神
* 宗像三神 のタキリビメ との間にアヂスキタカヒコネ (賀茂大神)・タカヒメ(シタテルヒメ )の二神
* カムヤタテヒメとの間に事代主
* ヤシマムジの娘のトトリヒメとの間にトリナルミ。以降、トリナルミの系譜がトリナルミ以下9代列挙されている。
* 大国主の求愛を拒んだ女性に、出雲郡宇賀郷のアヤトヒメがある。拒んだ理由として、スセリヒメが嫉妬深い性格であること、スセリヒメの嫉妬を想像したヤカミヒメが子供を斐川町直江で放棄し、故郷の因幡の国にもどってしまったことがあげられ、「出雲風土記」に記載されている。

沼河比売と建御名方命

信仰・伝承 [編集 ]

国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰されている。また、「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天 (大黒様)と習合して民間信仰に浸透している。子の事代主 がえびす に習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになった。

大国主を祀る主な神社 [編集 ]

大国主を祀る神社の代表は出雲大社 (島根県 出雲市 )で、他に大神神社 (奈良県 桜井市 )、気多大社 (石川県 羽咋市 )、気多本宮 (同七尾市 )、大國魂神社 (東京都 府中市 )のほか、全国の出雲神社で祀られている。

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2009年06月03日(Wed)▲ページの先頭へ
父権的同一性主義の発生について:絶対的トランス・モダン相転移時代:すべての父権文明の絶対的解体へ
本件の問題は、これまで、数多く検討してきたが、やはり、まだ完全には解明されていない、有り体に言えば、すっきりしていない、腑に落ちていないので、再考したい。
 文化史・人類史的には、「太陽神」の問題である。母権制ないしは女神文化においては、「太陽神」は、女神の子・夫・恋人である。エジプト「神話」ならば、イシスとオシリスのオシリスである。
 これまで、(+i)*(-i)⇒+1において、左辺をイシス、右辺をオシリスとした。即ち、イシス⇒オシリスである。しかしながら、⇒がイシスであり、 +iがオシリスであろうが、本来、両者は不可分・非分離である。また、⇒+1は「光」である。つまり、イシスの「光」と「オシリス」の「光」が
あるが、両者不可分一体ということになる。
 日本「神話」ならば、イザナミとイザナギの関係やその他であろう。
 父権「神話」とは、ジョゼフ・キャンベルの「神話学」に拠れば、女神・大女神・太母神の殺戮をともなう。これは、Media Pointの否定と考えられる。その究極的様態は、ヤハウェ神と考えられる。女神(大女神、太母神)殺しが父権主義(父権文化・文明)の前提にあるのである。
 そして、この父権主義の帰結として西洋文明、とりわけ、近代西洋文明が生起したと考えられる。近代合理主義(近代的自我、唯物論)が生まれたのである。それは、言い換えると、魂殺し、精神殺しである。(もっとも、単純化して述べている。民主主義とは、本来は、魂・精神から生起した政治志向である。また、イタリア・ルネサンスは、Media Pointから発動していると考えられる。ただし、遠近法のように、同一性志向性に傾斜していよう。)
 問題は、父権主義・同一性主義の意義である。これによって、物質的合理主義=近代科学・技術が生まれ、近代資本主義の支えとなった。
 この父権的同一性合理性であるが、これが意識において果たした役割は何かと言えば、意識の唯物論化であり、魂・精神の排除である。意識の悪魔化である。意識の邪悪化である。(官僚の意識もここから生じていると言える。シュタイナー的に言えば、ルシファー/アーリマン化である。そして、既述済みであるが、シュタイナーのイエス・キリストとは、Media Pointである。シュタイナイーの精神科学は、東洋的である。)
 主観性における、父権的同一性主義の積極的役割は何だろうか。それは、思うに、一般観念形式を形成したことではないだろうか。カント、ヘーゲルで言えば、悟性を形成したことではないだろうか。
 どうやら、この悟性形成が主観性における父権的同一性主義ないしは近代合理主義の積極的意味のように思える。カントの超越論形式が起源と思われる構造主義も悟性の末裔と言えよう。
 すると、トランス・モダンとは、当然、トランス悟性であり、トランス・モダン「知性」を意味する。この「知性」とは何か。
 結局、悟性とは同一性知性であり、それを超えた絶対的差異知性、絶対的差異共振知性がトランス・モダン「知性」と考えられる。
 しかしながら、このトランス・モダン「知性」(以下、TM知性)とは、実は、精神的知性である。だから、理性的知性なのである。精神的感性や身体的感性を包摂しているものでもある。
 これまで既述したように、カントやヘーゲル、さらには、ポスト・モダンは、悟性と「理性」を連続化させて考察しているのである。(カント哲学は、思うに、悟性と「理性」の連続性において、「批判」を行っていて、明確には、不連続性に達していないと思われる。)
 結局、悟性=同一性知性と不連続である精神知性、絶対的知性の確立がトランス・モダンの絶対的前提である。
 そう、悟性=同一性知性とは、自我知性であり、利己主義(エゴイズム)である。これが支配的になり、精神を抑圧・排除してしまっているのである。
 悟性と精神を不連続的に切断することで、トランス・モダン・チェンジが為されるのである。これは、悟性・近代知性を保持した差異知性(差異理性)である。否、そうだろうか。ここは微妙である。
 悟性と精神を不連続化させたとき、悟性はそのまま留まるのだろうか。おそらく、このとき、いわば、霊妙な作用がはたらくのではないだろうか。不連続化・絶対的差異化以前は、悟性と精神が混淆・混合・混成しているのである。
 しかし、不連続的切断が為されると、悟性と精神がいわば、共鳴・共振するようになるのではないだろうか。調和と言ってもいいだろう。
 例えば、「山」がある。これは、近代的悟性では、辞書で定義されているようなものである。しかるに、不連続的に切断されると、精神と「山」が差異共振するようになるのではないだろうか。即ち、「わたし」という精神があり、「山」という他者が存する。(そう、対象は他者となるのである。)
 「山」は悟性として、「山」であるが、同時に、「わたし」と共振する「山」である。精神的な「山」となるのである。言い換えると、物質的な「山」であり、且つ、精神的な「山」であり、両者は、即非的である。つまり、不連続化されると、即非化が生起すると考えられる。
 だから、近代的悟性は、トランス・モダン的悟性になるのである。言い換えると、即非「知性」となるのである。結局、即非「知性」に包括・包摂された悟性となると言えよう。差異共振悟性とも言えるし、即非悟性とも言えよう。
 そうすると、近代的悟性、同一性知性は「ゆらぐ」と言えよう。つまり、同一性の解体がそこにはあるのではないか。同一性の脱構築である。もはや、同一性は、仮象としか成立しないだろう。物質は仮象として存することになると考えられる。
 同一性、同一性主義の完全な解体がここに生起していると言えよう。絶対的なトランス近代である。アブソリュート・トランス・モダン(絶対的トランス・モダン)である。
 また、当然、自我、近代的自我(近代的「わたし」)の解体・崩壊である。同一性としての自我は絶対的に崩壊したのである。
 超越差異共振的な自己が誕生するのである。他者と共振する自己が生起するのである。そう、トランス・モダン的自己の生起である。(思うに、自他者・自他己という用語を造語してもいいだろう。)
 全ては、差異共振化される。差異共振的相転移を行う。絶対的トランス・モダン相転移現象である。科学・技術も、トランス・モダン・サイエンス/テクノロジーとなるし、経済もトランス・モダン・エコノミーとなる。トランス・モダン・キャピタリズムになる。一切合切がそうである。
 ということで、所期の問題は解明されたと考えられる。父権的同一性主義とは、近代的悟性=同一性知性の形成(近代合理主義・近代的自我・唯物論=悪魔性)に帰結したのであり、今や、父権的同一性主義=父権文明の解体・崩壊を意味するトランス・モダン文明へと転換する「新時代」になっているということである。
 父権文明(父権文化)、主に西洋文明であるが、またそれ以外の、東洋、その他の世界における一切合切のそれの崩壊・解体を意味するのである。トランス父権文明である。新母権文明である。

追記:現代とは、だから、百年単位のスケールの変化・変異ではなく、占星術文化期があてはまるような二千年単位(正確には、プラトン月の2160年である)の大変異であると思われる。通俗的であるが、双魚宮(魚座)の時代が終焉して、宝瓶宮(水瓶座)文化期に入りつつあると思われるのである。

追記参照:
宝瓶宮時代 : 新しい人類文化史の幕開け

みずがめ座

●第1稿 : 2005年04月10日アップ

●上は、黄道13星座の一つ「みずがめ座」を表すイラストです。
春分点の移動に伴い、星座のみずがめ座と、西洋占星術で使う水瓶宮(宝瓶宮)とは、すでに30度近くも離れてしまいました。
夜空の星座や神話と、西洋占星術のサイン(宮)とは、まったくの別物です。
なので、占星術(学)では、正しく「○○宮」と宮(サイン)で呼ぶのが正解です。○○座というのは西洋占星術の本質を知らない明らかな間違いです。

*このサイトでは、夜空の星座は「みずがめ座」とひらがなで、占星術(学)のサインは「水瓶宮」と漢字で、宇宙的時代区分(プラトン月)は「宝瓶宮」と 正統派占星術で使われる中国式の呼称で表記しています。

「宝瓶宮占星学」の根拠となるのが、この宝瓶宮時代です。
宝瓶宮時代の始まりとともに旧い西洋占星術はその使命を終え、時代の要請によって新しい西洋占星術、すなわち「宝瓶宮占星学」へと生まれ変わっていくのです。

http://www.aqast.net/500history.html
宝瓶宮占星学


参照:
悟性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

悟性(ごせい)とは英語 のUnderstanding、ドイツ語 のVerstandに対する西周 による訳語である。日本においては本来禅 の用語であった。英和辞典や独和辞典を参照しても分かるように、この語はもともと「知性」や「理解力」などと同意義であるが、西洋哲学 においては様々な哲学者 がそれぞれの定義 の下で用いる。

一般論としては、対象を理解する能力が悟性であり、その理解をもとに推論を行うのが理性 である。

ごく一般的な用法に近い「悟性」 [編集 ]

「思考の能力」などの意味で用いられる。この意味で用いる場合が最も多い。


カントの悟性論 [編集 ]

イマヌエル・カント の悟性論は『純粋理性批判 』で展開される。悟性は感性 と共同して認識を行う人間の認識能力のひとつであり、概念把握の能力である。詳述すれば、物自体に触発されて直観による表象 を行う下級認識能力である感性に対して、悟性は理性 や判断力 とともに上級認識能力のひとつであるとされる。人間の悟性には固有の形式があり、すべての可能な人間的認識に際してはこの形式が適用され、悟性による表象が可能になる。この固有の形式が、純粋悟性概念(カテゴリー)であって、量・質・関係・様態にそれぞれ3つ、合計12の純粋悟性概念が指摘される。カント以前に、懐疑論 は人間の認識の確実性を問うたが、カントにおいては人間が外界の物を認識する際に発見する因果性は、純粋悟性概念によって保証されており、人間の認識の諸法則に沿うために確実なものである。これによってエウクレイデス の幾何学やニュートン の力学は、確実な認識である事が保証される。

一方、カテゴリーは悟性の対象となるもののみに当てはまる。すなわち感性的認識の対象とならず、単に思惟のみが可能な理性概念には当てはまらない。このためカントは従来の哲学が扱ってきた神 や存在 についての命題を否定する。しかし人間理性には形而上学への素質があり、本来当てはめることが出来ない対象へも悟性概念を適用しようとする。これは哲学を推進する主要な動機であり人間の本性として否定する事が出来ないが、しかしあくまでも悟性の誤用であって、人間は正しい悟性の使用を知らなければならないとされる。

ヘーゲルの悟性論 [編集 ]

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル は『精神現象学』『大論理学』『小論理学』『精神哲学』において悟性論を展開している。ヘーゲルによれば、悟性は事物をばらばらに捉え、しかもそれらを固定化し、事物が運動 や矛盾 を含むものとして捉えられていない思考の能力とされる。その基盤となるのが、同一律 (AはAである)・矛盾律 (Aは非Aではない)・排中律 (AはAでも非Aでもないものはない)などを持つ形式論理学 である。

悟性の限界 [編集 ]

形式論理学的思考に基づく悟性的思考は雑多な諸現象の本質を捉えようとして、法則 を見出し、現象を引力と斥力 、時間 と空間 などといった単純なものに還元する。しかし、これらの対立は固定化され、悟性的思考が捉えたものは単なるデータの寄せ集めでしかなくなる。『精神現象学 』ではその後、悟性的意識は自己意識 へと進むが、『小論理学』などでは悟性から理性 への転換が示される。

補・長谷川宏訳『精神現象学』(作品社)におけるVerstand [編集 ]

長谷川宏 はVerstandを従来の「悟性」ではなく「科学的思考」もしくは「知性」などと訳している。『精神現象学』(A)意識「3力と悟性」(岩波他)はヘーゲルが悟性的思考の典型としてニュートン力学 を想定していることから、内容とタイトルとの整合性を持つものとして評価される一方、Verstandと科学 を混同していることやカント的悟性論をはじめとした従来の「悟性論」を無視していることなどに対して批判もされている。

関連項目 [編集 ]

* 理解

外部リンク [編集 ]

* 悟性の語について

執筆の途中です この「悟性」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています 。(Portal:哲学 )


参照2:
4、それでもGMは・・・

ダメになる個人も企業も、同じような特徴があるようです。

「自分は悪くない」と思っている。

そして、「過去の栄光」に浸っている。

GMの経営者たちも、自分のおかれている立場が全然わかってい
ないのでした。



<それにもかかわらず昨秋、政府に支援を求める際にビッグスリ
ーの首脳は社用ジェット機でワシントンに乗り付ける傲慢(ごうま
ん)さをみせ、国民をあきれさせた。

GMのワゴナー前会長は「破綻は選択肢にない」と3月末に辞任
するまで強気だったが、ビッグスリーのシェアは4月、46%にまで
落ち込んだ。>(同上)
http://archive.mag2.com/000001
2950/20090603235327000.html
ロシア政治経済ジャーナル


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