GP陰陽原理:哲学主数学従の陰陽哲科学

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2011年08月06日(Sat)▲ページの先頭へ
PS理論的ガウス平面から三次元空間、立体空間を考える
PS理論的ガウス平面から三次元空間、立体空間を考える

テーマ:検討問題

先に、「ガウス立体」を考えられないかと問題提起したが、ガウス平面から立体構築を考えることはできると直観される。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、⇒はベクトル・モードである。それは、わかりやすく言えば、螺旋モードであり、ツルマキ植物を想起すればいい。つまり、実軸を中心とした、螺旋立体空間ができるとすればいいのである。
 思うに、メディア平面media planeがmedia pointを中心にして、形成されるのではないだろうか。それは、ガウス平面と直交しているのである。メディア平面の時間的移動が三次元空間と考えてもいいだろう。
 ⇒は時間でもあり、三次元でもあるのではないだろうか。
 今はここで留める。
 


media pointと陰陽

テーマ:検討問題

陰陽のお馴染みの図では、陽の中に陰の「点」が、陰の中に陽の「点」がある。これまで、それがmedia pointに当たる考えてきたが、それらの二つの「点」とmedia pointは果たして一致するのか。つまり、前者を一つと見ていいのか。それとも、別個のものなのか。もしそうならば、それらとmedia pointはどう関係するのか。
 後で検討したい。

追記:凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸iと*の間が陽の中の陰(陽中陰)、*と凹iの間が陰の中の陽(陰中陽)ではないのか。そうすると、media pointは虚軸と実軸の二重性だけでなく、陰と陽における二重性があるのではないだろうか。後で検討したい。



陰陽五行説
www.geocities.jp/mishimagoyomi/inyo5gyo/inyo5gyo.htm - キャッシュ 類似ページ
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陰陽五行説(いんようごぎょうせつ). 古代中国では、自然界のあらゆるものを陰(いん)と陽(よう)にわけました。たとえば、太陽は陽で月は陰、奇数が陽で ... こうした思想を陰陽思想といい、この陰陽思想はやがて五行と結びついていくことになります。 ...






There is the Unseen World inside the Seen World.
今日は東京に用のあった日だった。
 仕事の帰り、午後7時前頃、交差点で見た空に神秘を感じた。最近は神秘を特に感じない生活をしたが。
 とまれ、西空に神秘を感じたし、また、全体に神秘を。
 途中。

追記:後で説明したいが、簡単に言うと、目に見える世界(現象界)以外に、the unseen, dark worldがあるということを直感したということである。
 その不可視の世界こそが本当であり、可視世界は単なる仮象に過ぎない。物質的仮象世界に過ぎない。

追記2:以前述べたが、言うならば、ガウス立体を構想したくなる。即ち、垂直の軸が平面を貫くものである。
 z軸が直交軸で、x軸とy軸による平面を貫くのである。z軸は精神軸(霊軸)であり、xy平面は物質平面(現象平面、仮象平面)である。

凸i*凹i⇒(x^2+y^2)^1/2⇒+1

後で検討。

追記3:二次元空間と三次元空間の問題:以前、三次元とは二次元に時間ないしエネルギーが加わったものではないかと述べことがあるだろう。
 つまり、立体とは平面の時間的展開ということになる。ならば、現象界とは平面の時間的展開空間となる。
 しかしながら、現象界、可視界において、虚軸界が不可視である。あるいは、media pointが。さらにはマイナスの世界が。⇒+1の⇒の先端と+1の世界が現象界で、光に拠る可視界である。
 しかし、⇒の起点、media point、-1は不可視界である。D. H. ロレンス的に言えば、dark God, dark sun、darkness, the unseenの世界である。当然、近代はこの世界を排除したのである。超感覚的世界。
 また、ロレンスはコスモスを「暗い」薔薇と喩えていた。それは、⇒と言えよう。それが不可視の薔薇宇宙なのだろう。
 結局、近代は+1を知るのみで、⇒+1を理解しなかった。


2011年07月10日(Sun)▲ページの先頭へ
「気」とは何か:東京の空気と田舎・郊外の空気:同一性体と多元差異共振体
後で考察を展開するが、一言言うと、経験・体験から、明らかに、田舎・郊外の空気と東京の空気は質的に異なる。
 私は1979年から2009年まで東京の区内に住んでいたし、その他、農業地帯の田舎には16年間、また、ここ十数年に頻繁に田舎に帰っているし、今2年間であるが、郊外(国道が近くにあるが、その向こうには、かなり大きな森や畑がある)に住んでいる。
 だから、長い経験・体験を経た実感、肌・皮膚の感覚で言うのである。一時の印象ではない。
 直観では、田舎・郊外の空気(以下、自然的空気)は有機体的、差異共振的であるのに対して、東京の空気(以下、都市的空気)は無機的、物質的である。
 思うに、自然的空気(以下、自然気)は、植物から排出される酸素や二酸化炭素や水蒸気が有機的、差異共振的である。多元的差異共振様態をもっていると思われるのである。つまり、単独で孤立しているのではなく、media pointで「つながりあって」いるのである。そう、media resonanceを形成しているのである。
 ということは、自然気とは、media pointによるmedia resonanceによって産出されるということではないだろうか。
 それに対して、都市的空気(以下、都市気)は、media resonanceがなく、単に、物質体としての酸素、二酸化炭素、水蒸気等が併存、混合しているように思える。
 差異共振様態が欠落しているのである。故に、感触は不快なのである(都市気は「痛く」感じる)。
 生命体、精神的生命体を考えると、それは、差異共振体であるから、当然、自然気と調和するのであり、都市気とは相反すると考えられる。
 健康から言うと、前者が肯定的であり、後者は否定的である。
 都市、大都市に住むと明らかに健康に悪い。
 後、問題点は物質的文化である。建築物や乗り物等である。そして、物質主義的な人間の集合である。
 これは、明らかに、差異共振波動がないので、精神を物質化するように思えるのである。この点は検討課題である。
 今、差異共振「波動」という言葉を単純に使用したが、これは、量子論的である。そう、何度も既述したが、量子は差異共振子と見るといいのである。差異双極子である。当然、PS理論的に見るのである。
 虚軸の領域は差異共振波動でいいように思えるのである。しかし、それは、端的に、気波動である。エーテル体である。それが、media pointを介して、粒子、物質を発現・形成すると考えられるのである。
 以前述べたように、長距離相関問題であるが、それは、虚軸の双極子を考えれば、疑似問題である。そう、量子力学は気(精神的双極子)と物質をまだ混同しているのである。
 量子力学は精神波動力学となるべきである。


2011年06月15日(Wed)▲ページの先頭へ
PS理論で世界の構造は解明できた
PS理論で世界の構造は解明できた

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

PS理論によって、世界の構造は解明できたと考えられる。
 media pointと精神的フィルター(連続的同一性形成構造)の二つが世界の根本構造である。そして、二つが不連続であるというのが核心である。
 media pointが生成・創造の種子であるが、根源に凹(-1)がある。そして、それが、展開して、物質現象を発現するのである。
 このmedia pointの不連続性こそ、現象形成の核心であり、これまでの理論はそれを解明することができなかったのである。ドゥルーズの「哲学」でわかるように、通常、連続的に理解してきたのである。
 問題は現象生成(消滅)の意味である。とりわけ、人間現象の意味である。そのレゾン・デートルは何か。
 直観では、media pointは永遠である。それは、超越的存在の凹を背後にもっている。個即超越性である。
 いわゆる、霊spiritとは、media pointないしは超越的media point である。
 これは永遠不滅である。プラトンの不死の魂である。ウパニシャッド哲学のアートマンに相当しよう。そうすると、輪廻転生が生起することになる。ただし、それは、個のそれであり、自我のそれではない。
 問題はmedia pointと凹の関係なのである。凹⇒凸i*凹iはわかるが、果たしてそれだけなのか。
 直観で言うと、凹とは超越的個のことではないのか。つまり、一種の超越的差異ではないのか。
 しかし、凸i*凹iが超越的差異ではないのかという疑問もある。
 凸i*凹iは虚数的差異であり、超越的差異ではないのではないだろうか。
 とまれ、凹は神即個ではないだろうか。「汝はそれなり」は正に、凹ではないのか。

参照:
「意識と本質。」  book
研究会で読んでいる論文の下調べもあって、いままた久しぶりに井筒俊彦 の著作をひもといている。
で、昨日は書店でワイド版岩波文庫の『意識と本質』 を買ってしまった。
たぶん、部屋の中を探せば、1983年の岩波書店版も1991年の岩波文庫版もあるはずだ。
だが、もしかしたら、いつか研究会でみんなで読めたらなあ、そのときには文字が大きくて読みやすい方がいいよなあ(単行本版はすでに入手困難になっている、ぼくの部屋においても入手困難である)、なんて妄想がふと脳裡をよぎったのであろう、最近小さな文字を読むのが至難の技になってきたぼく自身のためにも、こうしてワイド版を購入したというわけ。

この著作は表題の大論文以外にも三つの論文が掲載されている。
以下のとおりである。

意識と本質―東洋哲学の共時的構造化のために
本質直観―イスラーム哲学断章
禅における言語的意味の問題
対話と非対話―禅問答についての一考察

もちろん全体の3/4を占める「意識と本質」がもっとも重要な論文だ。
これは雑誌「思想」に、1980年から1982年にかけて8回に渡って同名のタイトルで連載されたものである。
当時ぼくは大学生で、とにかく言語というものに強い憧憬と劣等感をもっていた。

言語が世界を、身体を統括する。
そう信じていた(今でも少し信じている。言語が世界を平和にすることは難しいけど)。

そこに三十以上の言語を自在に駆使し、この世のあらゆる宗教や思想を自家薬籠中のものとしている、真の博覧強記の知識人である井筒俊彦 が連載を開始した。
わからないながらに、次号(不定期で掲載されていた)が楽しみでならなかった。
当時は植物生化学の実験に明け暮れていた頃で、それと「思想」誌とのギャップの大きさは、かえって井筒思想の輪郭を明確なものにしてくれていた。
実験室で扱われている細胞(ぼくはトウモロコシやホウレンソウの葉肉細胞というものを研究していた)にも神秘があった。
そして同時に井筒の論文そのものがぼくにとっては神秘だった。

いま慌てて何度目かの読み直しを始めている。
そして、このワイド版と同時に購入した『イスラーム思想史』(中公文庫、2005)も合わせて広げている。
この著作もすでに1991年に中公文庫より刊行されていたが、このご時世、新たに「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」という論文(平成元年四月、日本学士院例会における報告文、「思想」1989年6月号に掲載)を新たに加えて発行されたのである。
まだ途中だが、解説の牧野信也によれば「著者が生前にイスラーム神秘主義の探求によって到達した最高の境地が開示されている」とのこと。
タイトルについてだけ、井筒の言葉を引用する。

Tat tvam asi(「汝はそれなり」)は、ウパニシャドの宗教的・哲学的思想の精髄(エッセンス)を一文に収約したものとされ、特にヴェーダンタ哲学の伝統では「大文章(マハーヴァーキャ)」(=根本命題)と称され、古来インド系思想の特徴ある基礎観念として絶大な働きをなしてきたものである。「汝はそれなり」。「汝(トヴァム)」とは個我、すなわち個的人間の主体性の中心軸、いわゆるアートマンのことであり、「それ(タット)」とは全存在世界の根源的リアリティ、万有の形而上学的最高原理、いわゆるブラフマンのこと。要するに、「汝はそれなり」とは、アートマンとブラフマンの一致、すなわち、個的人間の主体性は、その存在の極処において、全宇宙の究極的根底である絶対者、ブラフマンと完全に一致するということを意味する。(421-422頁)


イスラーム思想についての記述のはずなのに、なぜインド思想なのかと云えば、スーフィズムにインド思想が濃厚に流入されてきた時代がアッバス期にあって、そのときの立役者であったバーヤジード・バスターミーについての論考だからだ。

いまの引用を一瞥するだけで、ただちに西田幾多郎 の「私と汝」などを想起するのはそう困難なことではない。

井筒も上記引用のすぐ近くでこのように記述している。

一例をあげるなら、西田幾多郎の語る「二つの我」など。「自分の心の中に現実の我と高次の我との二つの我があって、その二つの我が一致すること」について西田は語り、そのことの主体的覚知を、重大な宗教的出来事として「回心(コンヴァーシオン)」と呼ぶ。二つの我があるという主体的状態は、実は、自我があるべき姿を失って分裂している状態だと彼は言う。(以下略)


そのあとは、西田がウィリアム・ジェームスの思想から自論を展開してゆくプロセスが述べられているが、ぼくたちはここから木村敏の現象学的精神病理学などを思い出すこともできるだろう。

このように書いてくると、ぼく自身が直接間接に井筒俊彦の著作から影響を受けていることがよくわかる。
そのことは、今回は『意識と本質』の「後記」において強く感じられた。
井筒は「自分の実存の『根』は、やっぱり東洋にあったのだと、しみじみ感じるようになった。(…)それは(…)自分自身の内面に私の東洋(原文は傍点)を発見することでもあった」と述べている。
もちろん、それが単なるノスタルジックな東洋趣味でもなければ、「齢七十」近くになってからの弱気な東洋回帰でもないことは云うまでもない。

そうではなくて、東洋思想から開始して東洋思想へと終結するような壮大な<井筒哲学>の始まりを、彼は宣言していたのだ。
その方法として選ばれたのは、副題にも添えられていた「共時的構造化」というものである。
引用ばかりで恐縮だが、要約するよりもはるかに的確なのでご勘弁を。

この操作は(…)、東洋の主要な哲学的諸伝統を、現在の時点で、一つの理論的平面に移し、空間的に配置しなおすことから始まる。つまり、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし、それらを範型論的(パラディグマティック)に組み換えることによって、それらすべてを構造的に包みこむ一つの思想連関的空間を、人為的に創り出そうとするのだ。


これを簡単に「構造主義」とか「脱構築」なんて字面で捉えてはいけない。
思想の空間化は、ときとして平坦化の弊害をもたらす危険性がある。
どの思想も等しい比重を持たされて配置されてしまうからである。
だが、地図にも文字通り「地(海)」と「図(陸)」があるように、思想(哲学的諸伝統)もまたそうした色分けが可能となる。
云ってみれば、そのときのセンスこそが、その哲学者のクオリティを決めるのである。

ふつう、人はこの思想地図を作ろうと思う段階で、挫折を余儀なくされる。
地図のピースたる「東洋の主要な哲学的諸伝統」を蒐集することなど不可能だからだ。

井筒俊彦という巨大な知性がいて、われら日本人は幸甚の極みであると感謝しなければならない。
そして、彼が描いた東洋思想の地図はそれほど解釈もされていなければ、その地図を使って、さらなる思想の大海原へと旅たった者も少ないのである。

井筒俊彦という「世界言語」への憧憬と劣等感とが、再び甦ってきた。
http://green.ap.teacup.com/april/8.html
芸術生理学研究所(仮)



Sun, June 12, 2011
復習:黄金比とフラクタル:「わたし」ないし個の問題

テーマ:media point

黄金比で例えば、正五角形は説明できる。だから、花弁の数はこれで説明できる。そして、つるまき植物の葉や花を秩序も同様である。これらはベクトル・モードである。
 では、フラクタルはどうなるのか。これもベクトル・モードと一如である。例えば、正五角形に正五角形のフラクタルができる。
 敷延すれば、物質的現象はこれですべて説明できる。しかしながら、質的ないし個的なものはこれでは説明できないのではないだろうか。「わたし」はそこからは洩れてしまうだろう。
 もっとも、media pointを基点にすると、森羅万象、個的にはなるが、今はそこまで論じないで、質と量の視点から考える。
 もっとも、個についても既述済みだ。それは、凸iの極大化の固定化と凹iの極大化の固定化の「差異」に生じるものである。人間以外では、この固定化はないと考える。
 以上はまったく再確認である。新しいことはなにもない。


2011年05月14日(Sat)▲ページの先頭へ
生命体と無機物:差異共振活性的物質体と差異共振潜在的物質体:凸i傾斜から再差異共振化への進化
生命体は差異共振が生み出すものと考えられる。(知的生命体も同様)
 そして、生命体とは、差異共振性を内在する連続的同一性物質体と考えられる。
 そして、無機物ないしは鉱物とは、生命的差異共振性のない、物質体ということになるが、それでも、なんらかの差異共振があるとは当然考えられる。
 つまり、PS理論では、凸i*凹i⇒凸(+1)が基本方程式なので、物質体凸は、左辺の差異共振様態から生成したということとなる。
 しかしながら、生命体と物質体が異なるのは、左辺の積極的存在の有無にあるのではないだろうか。即ち、生命体の場合は、差異共振様態が生命エネルギー体(「気」)であり、それが、右辺の物質体凸(+1)を活性化していると考えられるのである。言い換えると、生命体の本質は差異共振エネルギー(「気」)であり、それは、精神的エネルギーであるということであり、現象としての物質体は表層、表面に過ぎないということである。
 それに対して、無機物、鉱物のような物質体の場合、本質は右辺であり、左辺は原因に過ぎず、右辺が生成した後は、左辺は潜在的様態、ポテンシャル・エネルギーの様態にあると思われるのである。
 また、有機体の問題があるが、前者はより生命体に近い物質体と考えれば、無機物との違いが明快になるだろう。
 ということで、生命体と物質体(無機物、鉱物)とは、自己認識方程式(現象方程式ないしは存在方程式とも呼べよう)である凸i*凹i⇒凸(+1)においては、共通性をもつものの、その様態はまったく異なることになる。生命体は左辺が主体であり、結果の右辺が表層に過ぎないが、物質体は右辺が主体であり、左辺は潜在態として存するに過ぎないことになる。
 ここで、核分裂における放射能物質を考えると、例えば、ウラン235に中性子を衝突させて、核分裂させるが、その衝突とは、新たな差異共振化であり、その結果、核分裂反応が起きると考えられる。しかし、その反応の結果はあくまで、右辺にあると言えよう。
 以下の核分裂反応式では、凸i*凹i⇒凸(+1)の左辺が→にところに隠れていると見るべきであろう。

 ウラン(U235)+中性子(n) → バリウム(Ba144)+クリプトン(Kr89)+3個の中性子(3n)

http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data3005.html

 以上から生命体と物質体(無機物、鉱物)の質的差異の説明を試論したが、さらに問題は知的生命体(あるいは、自己的生命体)と自然の生命体の違いはどう説明できるのかである。
 これは既に解明を試みているのである。植物は差異共振体であり、動物は凹iの傾斜性をもつ。そして、人間は凸iの傾斜性をもつと考えられる。
 何度も既述したが、人間の凸iの傾斜が知を生み出したのであるが、それは、物質的ないし自我的知性であり、植物的様態、動物的様態を阻害すると考えられる。つまり、人間においては自然としての欠損があるのである。
 故に、凹iへ回帰して、再差異共振化へと進展することが、現代の人類の精神的課題である。Re-difference-resonanciation これは脱父権主義=新母権主義でもある。 


2011年04月08日(Fri)▲ページの先頭へ
放射能とは何ぞ哉:放射能と生命:放射能への耐性・免疫の形成
テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

以下、飯山氏の説明は実に興味深い。
 この説明を読む前に、私は、これからの人間(もっとも、一般的には何十年、何百年の先のことだろうが)は、放射能に免疫があるようになるのではないかと思ったのである。
 というか、端的に言えば、放射能のを光合成細菌のように、吸収できる体質の人間が生まれるのではないかと想像したのである。
 今、想起したが、ヘッケルの反復説を借りて、飯山説を適用すれば、現在の人間にも、放射能への耐性が人間にあると考えられるし、それは潜在して、いわば、休眠状態であるということになろう。だから、この休眠状態から活性化すれば、放射能への耐性、光合成細菌的「食性」が再生するのではないだろうか。
 ヘッケルの反復説を借りなくても、PS理論的に言えば、他者である凹iに放射能を考えて、それに対する耐性的受容性の形成を考えることができるのである。それは、進化である。
 DNAには、未知の遺伝子が眠っているのである。それの活性化によって、放射能への耐性・免疫が形成される可能性はないとは言えないだろう。
 
追記:未知の遺伝子という考えとは別に、新しく遺伝子が創造されるということも当然、考えられる。
 
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◆ 2011/04/07(木) 放射能は生命誕生のエネルギーだった!

きょうは,中国人をはじめ来客が多く,接客に忙殺されている.
この間,メールやスカイプやツイッターに問い合わせが殺到していて整理がつかない.
光合成細菌による放射能の除去の話,中国大陸の砂漠緑化の話,廃乳処理の話.
話が錯綜しており,なかなか対応がむずかしい.
申し訳ない.

ここで,少々理屈っぽくなるが,「光合成細菌の放射能利用の原初形態」を述べる.
 1.原始地球には海水と岩石しか存在せず,有機的エネルギーがなかったので,
   地球最初の生命体は,宇宙からの紫外線や放射線をエネルギー源とした.
   当初,紫外線や放射線の破壊力を色素で減じさせ,無機的環境下で光合成
   を行うというシンプルな生命体であった.
 2.微生物や植物は,炭水化物・脂質・蛋白質等の有機物を必要とせず,紫外線や
   放射線をエネルギー源として,炭酸ガスと水から体細胞を合成している.
 3.光合成細菌は,水の代わりに硫化水素などの無機物を栄養源として紫外線や
   放射線の電磁粒子で炭酸同化して体細胞を合成できる.この際,放射性物質
   を体内に吸収すれば,電磁粒子のエネルギー受容率は格段に高まる.

ようするに…,
原始地球において,紫外線や放射線という強大なエネルギーが存在したからこそ,
最初の生命体が誕生できたのであり,紫外線や放射線という強大なエネルギーを
利用しつくす光合成細菌が誕生したからこそ,生命の進化の基礎が築かれた,と
いうことを,イメージングできるヒトは,私の仲間になれるのですが….

中国大陸の砂漠緑化の話,廃乳処理の話も,質問殺到です.
これは,順々に話をしていきますので,気ながに付き合って下さい.
今回は,面倒な理屈っぽい話ばかりしました.いったん置筆します.
御免.

たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 .


2011年04月02日(Sat)▲ページの先頭へ
光と物質:ならば、心(精神)が光である:肉体は闇である
後で検討したいが、簡単に所見に触れたい。
 物質界が闇ならば、物質界の光とは何かが大問題である。
 これは、「哲科学」的な最重要な問題の一つであろう。
 「光」とは物質なのか精神なのか?
 思うに、凸i*凹i⇒凸において、凸は物質である。そして、「光」は⇒である。
 故に、「光」は物質ではなく、前物質である。精神である。
 ならば、光子は何か。それは、media pointとしての「光」ではないか。media pointは点となるので、この点が光子という素粒子ではないか。
 以上のようであれば、「光」とは、第三象限の根本光に属するのである。
 ならば、この世は闇であり、光である。

追記:では、「気」と光との関係はどうなるだろうか。直観で言えば、「気」が光となって出現するのである。だから、「気」=光と考えていいのだろう。光の根源が「気」ということになる。

追記2:結局、物質界・現象界の「心」とは、media point(凸i*凹i⇒)と連続的同一性(⇒凸)が混淆・混濁・連続化しているのである。そう、ポスト・モダンないしポスト構造主義とはほぼこれに注目したと言えよう。
 しかしながら、media pointの超越性を排除してしまったのである。そう、やはり、近代主義=唯物論なのである。
 

Japonesian Apocalypse:日本黙示録
《ガウス平面で表した人間認識の図》http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208  


2011年03月15日(Tue)▲ページの先頭へ
『気』超越的エネルギーについて:不可視界と物質界:超越的絶対的「知即存在」と『気』の精神
テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明:新マニ教

東日本大『神』災は、『気』、つまり、宇宙エネルギー(コズミック・エネルギー)によって引き起こされたと私は仮説している。
 『気』とは、不可視であり、また、一般には感知されていない。しかしながら、東洋文化は、伝統的に、『気』の文化であり、それを否定することは、東洋文化を否定することである。
 先に述べたように、明治近代西洋化と戦後は近代合理主義を中心化して、日本における東洋文化を否定してきたのであり、そのため、『気』は一般的認識から排除されることになったのである。
 意識や心を形成しているものも『気』と考えられるが、自我のもつ連続的同一性によって、『気』が自我と一体化していて、的確に言えば、即自化しているので、『気』を対象化できないと考えられるのである。
 それは、一般的なことであるが、ここで、私自身の経験に即して考えたい。
 私は戦後以降の物質主義・唯物論的科学教育を刷り込まれて成長した人間であるが、二十歳前後であろうか、シューベルトの『冬の旅』を聴いて、胸中になにかある「存在」、事象が感じられたのである。
 そう、物質科学的知性と胸中の感性、この二つに私の意識は分裂したのである。
 ある意味で私の半生はこれをどう統一するかにあったと言えよう。深層心理学(フロイト、ユング)を読み、また、ユング心理学の研究者であった湯浅泰雄氏の著作を読んで、ユング心理学から『気』の研究へと進んだのに注目した。そう、そこで、胸中の感性は単に自己の主観性だけでなく、物質的身体を超えたものであることが確認されたので、近代的自我を超えた視点をもつことができたのである。
 それは、今から言えば、不可視的エネルギーの確認であったと言えよう。その後、それが、私の中では、「コスモス」cosmos(宇宙)と結びついていったのである。
 しかしながら、この『気』の感性と物質的合理的知性とは分裂したままであった。カントの判断力批判から、構想力(想像力)によって、両者をつなげる試みもしたが、それは、まだ、統一的視点にはならなかったのである。
 その後、いわゆる、ポスト構造主義等の思考に触れて、差異の哲学を知ることになった。ドゥルーズ哲学に触れた後、スピノザ哲学に感動して、個と共同体の「精神」をほぼ形成していたのである。それは、原不連続的差異論であり、原PS理論であった。その後の展開はスレッド、『不連続的差異論の誕生』で知ることができるので、ここでは述べない。
 ここで述べたいことは、『気』の感性、正確には、『気』の精神である。これが、不可視界を形成していることがほぼわかっている。この不可視界は、Kaisetsu氏の人間認識図で言えば、ガウス平面の第三象限に当たると考えられる。

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
         人間認識図

 そして、『気』の感性、『気』の直観・直感とは、陰陽(凸i*凹i)の共振に存すると思われる。これもほぼ不可視界に存すると思われる。
 問題は、不可視界と『気』の精神との関係である。ここに、宇宙の秘密があると考えられる。
 まだ十分判明していないが、『気』の精神はmedia point(陰陽交叉点)と凹i(陰)に存すると思われるのである。あるいは、media pointに存するのかもしれない。この点がまだ判明していないのである。
 確かに、経験的基礎は凹i(陰・肚)にあるが、主に感知するのは、media point(陰陽交差点・心胸・差異均衡点)のように思えるのである。思うに、以前述べたように、差異均衡が形成されたときに、『気』の精神が発動するので、それは、media pointの賦活であり、また、凹iの直感を意味すると考えられるのである。この問題は、いちおう、これで済んだこととする。
 では、本題に入ると、『気』の精神と不可視界(第三象限、コスモス)はどう関係するのか。
 直感で言うと、『気』の精神は凹(超越的存在)に接触しているのである。あるいは、一体、一如である。以前、即非的事象の一如性について述べたが、即非的事象の半面は『気』の精神と凹の接触、すなわち、第三象限であると思われるのである。即ち、「わたし」は「樹木」であり、且つ、「わたし」は「樹木」でないという即非的事象の前者がそれだと考えられる。それは、神秘主義的融即に似ている。
 そう、差異均衡点で『気』の精神と凹との接触があるというのだから、第三象限的認知は、即非的事象を帯びると言えよう。
 とまれ、本題に集中しよう。『気』の精神と凹の接触であるが、それは、凹i(陰、他者)を介するのであり、このとき、自我中心的態度は否定されるのである。自我はあるが、自我主義ではなくなるのである。
 この他者的精神と不可視界ないし超越的存在は繋がっているのである。ここで、わかりやすくするために、超越的存在を『神』と呼ぼう。宇宙創造神としてもいいし、グノーシス主義的ないしマニ教的に、至高神としてもいい。あるいは、宇宙論的に、ビッグ・バンを形成する超越的原点(母点)と見てもいいだろう。
 ともあれ、そこには、根源的な力・エネルギー(ポテンシャル・エネルギー)が存していると考えられる。
 それはまた、以前に述べた「知即存在」であると考えられる。つまり、「知即存在」である根源的力・エネルギーである。この根源的「知即存在」が他者的精神、凹iに働きかけるのではないだろうか。つまり、超越的絶対的「知即存在」が、個における凹i、他者的精神に働きかけると考えられるのである。端的に言えば、個における凹i、他者的精神において、超越的絶対的「知即存在」がいわば、臨在しているのである。
 そして、超越的絶対的「知即存在」とは、単に、人間を創造・形成し関与するだけでなく、森羅万象を創造・形成し関与すると考えられるのである。
 もし、人間が凹iの他者的精神を喪失した場合、どうなるのだろうか。超越的絶対的「知即存在」は、その力・エネルギーを能動的に発動させることができなくなると考えられる。そのため、未使用の力・エネルギーを人間以外に振り向けるということになるのではないだろうか。
 端的に言えば、あるいは、有り体に言えば、超越的絶対的「知即存在」は、人間が「消費」しない余剰の力・エネルギーを他の事象に振り向けるということになるのではないだろうか。即ち、地球という惑星自体に働きかけるのである。地球のマグマ、活断層、プレートに働きかけるのではないだろうか。
 そうならば、大地が活性化して、火山活動や地震が増加すると考えられるのである。人間によって、使われない宇宙的エネルギーを地球に振り向けるのである。(これを書いたとき、地震が起きた。震度4と外で、市の防災が放送している。なにかまだ揺れそうだ。みしみししている。)
 今回の東日本大『神』災はこのように作業仮説的に説明するのである。
 後でさらに検討したい。

追記:人間に否定される超越的絶対的「知即存在」のエネルギーとは、超越的絶対的「知即存在」にとって、「被造物」である人間によって自己自身が否定されたのであるから、つまり、人間の尊大な行為によって否定されたので、「怒り」、「憤慨」を覚えると言えよう。この「怒り」が人間に向けられるということも考えられる。


2011年03月14日(Mon)▲ページの先頭へ
東日本大『神』災(日本大『神』災・平成大『神』災)と太陽系差異共振的気エネルギー的地震仮説
テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

今回の大『神』災は、リーマン・ショックに並ぶ、否、それ以上の影響力を世界史・人類史においてもつと思われる。
 原発路線がこれで崩壊したのであり、当然、それと一体のグリーン路線も崩壊したのであり、また、近代西洋の人間中心主義が崩壊したのであるから。
 先に、ポスト・オクシデント(ポスト西洋)と言ったが、正に、そうであるが、今は、出西洋、Exoccident(エクソクシデント)と言いたい。
 とまれ、主題はそれではなく、先に、触れた太陽系的『気』エネルギーによる地震仮説である。
 先のは、まったく、思考実験であり、あくまで暫定的である。本日、考えたのは、太陽の『気』エネルギー(陰陽エネルギー)を中心とした太陽系ベクトル・モード的地震仮説である。
 即ち、太陽を凸i*凹iと表現すると、凸i*凹i⇒凸において、⇒がベクトル・モードとなり、凸が表現体である。端的に、凸は太陽系である。
 すると、太陽ベクトル・モードに太陽系の諸惑星(小惑星や月を含めて)が形成されることになる。
 ここで、考察を簡潔にするために、太陽と太陽ベクトル・モードにおける地球(あるいは、地球と月)の関係を考える。
 太陽ベクトル・モードは、太陽陰陽『気』エネルギーによって形成されるのであり、太陽陰陽『気』エネルギーが活性化するとき、当然、恒常的な関係が変化して、その活性化に即した太陽ベクトル・モードのためのエネルギーが発生すると考えられる。
 最近は太陽活動が盛んであり、来年は黒点が最大化する。それは、太陽陰陽『気』エネルギーの賦活と考えると、当然、太陽ベクトル・モードのエネルギーが活性化して、地球へのエネルギー、『気』エネルギーが活発となり、そのため、地球のマグマ等の活動に影響を与えると考えられる。その結果、火山噴火や断層の活性化による地震が増大すると考えられるだろう。
 だから、結局は、太陽陰陽『気』力学を明確にすることで、地球での地震発生のメカニズムが明らかになるのではないだろうか。それは、当然、月との関係も考慮に入れなくてはならないが。
 思いつきであるが、地球と月との関係は、太陽と地球との関係との相似で説明できないだろうか。そう、ここで、フラクタルの考えが基本になるようである。
 今はここで留める。


2011年03月12日(Sat)▲ページの先頭へ
PS理論から、地震発生力学仮説を考える:太陽と地球の共振:太陽系的「気」=「エーテル」的共振活動
テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

簡単にするため、太陽と地球の差異共振エネルギーが地震を起こすとしよう。実際は、月や他の惑星の関係、そして、銀河系やその他の天体を考慮する必要があるが、やはり、いちばん大きな関係は太陽と地球の関係と考えられるので、二つの「星」の関係から地震を考える。
 思うに、太陽を凸i、地球を凹iとする。両者は差異共振する。

凸i(太陽)*凹i(地球)⇒凸(地震)

又は、

凸i(Sun)*凹i(Earth)⇒凸(Earthquake)

である。
 差異共振エネルギーとは、物理学的には電磁波であるが、これまでの検討から、「気」=精霊振動(自然精霊エネルギー)である。
 太陽自体の活動の活発化は、「気」エネルギーを強化すると考えられる。それで、地球の「気」エネルギーが活発になるのである。
 この「気」が、地球のプレートに作用すると考えられる。例えば、大陸プレートと太平洋プレートの差異的境界に「気」エネルギーが働きかけると考えるのである。
 両プレートはいわば、衝突しているのであるから、ここでも、
凸i*凹iの関係を見ることができるが、それはおいておく。
 とまれ、二つのプレートの境界に「気」エネルギー=精霊振動(精霊エネルギー)が作用すると、両者は振動を起こすと考えられる。それが、大きく、二つのプレートをずらすことになると考えられる。それが、地震である。
 これは、いわば、太陽・地球差異共振地震力学である。

追記:どういうわけか、私は飲料水を段ボールで、5箱くらい買っておいた。初めてである。水道の水が泥臭くまずいので、安く売っていたものを買ったのである。
 また、3月5日の茨城県の海岸でのクジラの打ち上げを見て、最近では珍しく、地震予想をしてみたのである。昔はカラスが鳴き声が多く発生したとき、予想してみたが、これが、うまく当たらないのである。
 おそらく、動物は異常な「気」エネルギー(⇒電磁波)に反応しているのだろう。しかし、動物の異常な行動があっても、必ず、地震が起きるということではない。可能性は高くなったが、必要・十分な条件ではない。(追記:つまり、閾値があるのである。それにエネルギーが達しないと地震は発生しないということである。)

追記2:重力、万有引力のことも考えないといけないが、重力も超量子論的に、つまり、PS理論から見ると、「気」=「エーテル」=自然精霊によって発生すると考えられるので、以上の説明は妥当性があると言えよう。

追記3:以上の視点から、コスモス理論ができるだろうし、占星術も乗り越えて、コスモス精神力学が形成されるだろう。

参考:
プレートテクトニクス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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地殻を構成するプレート群 色分けされた領域が一枚のプレートである。例えば太平洋プレートは肌色で示されている。

プレートテクトニクス(plate tectonics)は、プレート理論ともいい、1960年代 後半以降に発展した地球科学 の学説 。地球 の表面が下図に示したような何枚かの固い岩板(プレート と呼ぶ)で構成されており、このプレートが対流するマントル に乗って互いに動いていると説明される。
プレートとは [編集 ]
地球の内部構造 薄い地殻 の下に上部マントル と下部マントル があり、中心部の白っぽい部分は核 。プレートは地殻と上部マントルの最上部が一体となった岩板

詳細は「プレート 」を参照

地球は半径約6,500kmであるが、その内部構造を物質的に分類すると外から順に下記のようになる。

1. 深さ約10km〜30kmまで : 地殻
2. 深さ約670kmまで : 上部マントル
3. 深さ約2,900kmまで : 下部マントル
4. 深さ約5,100kmまで : 外核 (外部コア)
5. 中心 : 内核 (内部コア)

地殻とマントルは岩石 で構成されており、核は金属 質である。マントルを構成する岩石は地震波 に対しては固体 として振舞うが、長い時間単位で見れば流動性を有する。その流動性は深さによって著しく変化し、上部マントルの最上部(深さ約100kmまで)は固くてほとんど流れず、約100km〜400kmまでの間は比較的流動性がある。地殻と上部マントル上端の固い部分を合わせてリソスフェア (岩石圏)と呼び、その下の流動性のある部分をアセノスフェア (岩流圏)と呼んで分類する。この厚さ約100kmの固いリソスフェアが地表を覆っているわけであるが、リソスフェアはいくつかの「プレート」という巨大な板に分かれている。

地球表面が2種類のプレート群からなっていることは、地球表面の高度や深度の分布の割合にもあらわれている。地球表面は大陸と大陸棚 からなる高度1,500m〜深度500mの部分と、深度2,000m〜6,000mの海洋底 と呼ばれる部分が多く、その中間である深度500m〜2,000mの海底は割合が少なくなっている。
プレートの動き [編集 ]
プレートの境界(Illustration by Jose F. Vigil. USGS)

プレートはその下にあるアセノスフェア の動きに乗っておのおの固有な運動を行っている。アセノスフェアを含むマントルは定常的に対流しており、一定の場所で上昇・移動・沈降している。プレートはその動きに乗って移動しているが、プレート境界部では造山運動 、火山 、断層 、地震 等の種々の地殻変動 が発生している。プレートテクトニクスはこれらの現象に明確な説明を与えた。

大局的なプレートの運動は、すべて簡単な球面 上の幾何学 によって表される。また、局地的なプレート運動は平面 上の幾何学でも十分に説明しうる。3つのプレートが集合する点(トリプルジャンクション )は、それらを形成するプレート境界の種類(発散型・収束型・トランスフォーム型)によって16種類に分類されるが、いずれも初等幾何学でその安定性や移動速度・方向を完全に記述することができる。

一般にプレートの運動は、隣接する2プレート間での相対運動でしか表されない。しかし、隣接するプレートの相対運動を次々と求めることで、地球上の任意の2プレート間の相対運動を記述することができる。近年では、準星 の観測を応用したVLBI と呼ばれる方法やGPS によって、プレートの絶対運動も理解され始めている。
発散型境界 [編集 ]

マントルの上昇部に相当し、上の冒頭図では太平洋東部や大西洋中央を南北に走る境界線に相当する。この境界部は毎年数cmずつ東西に拡大している。開いた割れ目には地下から玄武岩 質マグマが供給され新しく地殻が作られている。この部分は海洋底からかなり盛り上がっており、(中央)海嶺 と呼ばれている。また、その付近にはチムニー と呼ばれる熱水の噴出口も多数見つかっている。

発散型境界は、(中央)海嶺が有名だが、陸上にも存在する。アフリカ の大地溝帯 やアイスランド などが知られている。双方とも大規模な正断層 が発達している。
収束型境界 [編集 ]
沈み込み型:海洋−大陸
沈み込み型:海洋−海洋
衝突型

上図の日本 周辺やインド北部 に相当。

沈み込み型
東北日本の東の海中では、約1億年前に太平洋東部で生まれた太平洋プレート(比重 の大きい海洋プレート)が東北日本を載せた北アメリカプレート(比重の小さい大陸プレート)に衝突している。重い太平洋プレートは軽い北アメリカプレートにぶつかって、斜め下 40〜50°の角度で沈み込んでいる。プレートが衝突して沈み込む部分は海溝 となり、衝突した岩盤が互いに動くことで地震 が発生する。地下深く沈んだ太平洋プレートから分離された水が周辺の岩石の融点を下げるためマグマ が発生し、多くの火山 を生成する。太平洋プレートに衝突され押された北アメリカプレートは、圧縮応力を受けてひび割れ、たくさんの断層が発生し北上山地 などが生まれた。
また、海嶺で作られて以来、長い時間をかけて海の底を移動してきたプレートには、チャート 、石灰岩 、砂岩 、泥岩 といった多くの堆積物 が載っているため、プレートが沈み込む際に陸側のプレートに張り付く現象が起こることがある。これを付加と言い、そうしてできたものを付加体 と呼ぶ。日本列島 もこのようにしてできた部分が多い。
衝突型
現在でも活発で大規模な大陸衝突が起きているのはヒマラヤ だけである。元来南極大陸 と一緒だったインドプレートが分離・北上して、約4,500万年前にアジアプレートと衝突しそのままゆっくり北上を続けている。大陸プレート同士の衝突のため、日本近海のような一方的な沈み込みは生起せずインドプレートがユーラシアプレートの下に部分的にもぐりこみながら押し上げている。その結果 8,000m級の高山が並ぶヒマラヤ山脈 や広大なチベット高原 が発達した。
規模は小さいながらも衝突運動が現在でも進行している地域としては、ニュージーランド (南島 )や台湾 が挙げられる。これらは世界で最も速く成長している山地であり、台湾の隆起速度は海岸線でも年間5mmを超える。
日本においては、日高山脈 や丹沢山地 が衝突型造山帯である。特に丹沢山地は伊豆半島 の衝突によって出来たものであり、この衝突過程は現在も進行中である。ただし、日高は活動を終えている。
過去の大規模な大陸衝突の跡は多く見つかっている。有名なものは、ヨーロッパアルプス 、アパラチア山脈 、ウラル山脈 などだろう。大陸衝突の過程には未知の部分が非常に多く残っている。その理由は、沈み込み型境界では、深部で発生する地震の位置から地下のプレート形状を推定できるのに対して、大陸衝突帯では深部で地震が発生しないからである。

トランスフォーム型境界 [編集 ]

詳細は「トランスフォーム断層 」を参照

すれ違う境界同士の間では、明瞭な横ずれ断層(トランスフォーム断層 )が形成される。アメリカ西部のサンアンドレアス断層 やトルコ の北アナトリア断層 などが有名で、非常に活発に活動している。

サンアンドレアス断層は大陸上にあるが、一連の海嶺 の列(大西洋中央海嶺や東太平洋海嶺など)の間で個々の海嶺と海嶺をつなぐものが多数を占める。

理論上は、2プレート間の相対運動軸を通る大円 に直交 し、海嶺とも直交する。
プレートテクトニクスの証拠 [編集 ]
中央海嶺と周囲の磁化された岩石の分布 溶岩はキュリー点 を下回ると同時に磁化され、磁区の方向がそろう(熱残留磁気)。一方、地球の磁場が何度か逆転したことは、火山研究から生まれた古地磁気学により実証されている。中央海嶺周辺の岩石を調べると、海嶺と並行して磁化の方向が現在と同じ部分(着色部)、逆の部分(白)が左右に同じパターンをなして並んでいる。以上の証拠から、海洋底が中央海嶺を中心に拡大したことが推論できる。

地球は、地表を覆う地殻、その下のマントル、そして中心にある核の3つに分けられる。マントルは大きくは上部マントルと下部マントルに分かれる。その上部マントルは最上層、低速度層(アセノスフェア、岩流圏)、遷移層に分けられる。下部マントルはメソスフェア(固い岩石の層)と呼ばれる。

地殻とマントルの最上層を合わせてプレート(リソスフェア、岩石圏)と呼ばれる。プレートは大きく見ると十数枚に分けることができるが、それぞれのプレートは対流 していると推定されるアセノスフェアの上に乗った状態になっており、アセノスフェアの対流によって、それぞれ固有の方向へ年に数cmの速さで動かされることになる。この結果、プレートどうしがぶつかり合うことになり、さまざまな変動を起こしている。

1950年代 に入ってから、地球物理学 の分野で各大陸の岩石に残る古地磁気 を比較することで、磁北移動の軌跡を導き出し、その考察の結果を受けて、海洋底拡大説を基に、大陸移動説のプレートの概念を導入して体系化されていった。

海嶺はプレートが生産され両側に広がっている場所であるが、海嶺周辺の地磁気 を調査したところ、数万年毎に発生する地磁気の逆転現象が海嶺の左右で全く対称に記録されており、海嶺を中心として地殻が新しく生産されている証拠とされた(ヴァイン・マシューズのテープレコーダーモデル)。一方の海溝では、日本海溝に第一鹿島海山が沈み込んでいる様子なども観察されている。

またこれら地学的な現象のみならず、陸上古生物の分布状況なども、「大陸が動いて離合集散した」状況証拠とされている。


プレートの一覧 [編集 ]

詳細は「プレート 」を参照

7つの大きなプレートといくつかの小さなプレートのあることが知られている。

* ユーラシアプレート  ユーラシア大陸や日本など
* 北アメリカプレート  北アメリカ大陸やオホーツク地方など
* 太平洋プレート  太平洋
* フィリピン海プレート  フィリピン海
* インドプレート  インド半島
* オーストラリアプレート  オーストラリア
* アラビアプレート  アラビア半島
* アフリカプレート  アフリカ大陸や大西洋南東部など
* 南アメリカプレート  南アメリカ大陸や大西洋南西部など
* スコシアプレート  大西洋南部
* ナスカプレート  ペルー沖
* ココスプレート  中米沖(太平洋側)
* ファンデフカプレート  アメリカカリフォルニア沖
* カリブプレート  カリブ海
* 南極プレート  南極大陸など

過去に存在したプレート [編集 ]

* イザナギプレート
* クラプレート
* ファラロンプレート
* バンクーバープレート

参考文献 [編集 ]
この節は執筆の途中です この節は執筆中 です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています 。
関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、プレートテクトニクス に関連するカテゴリがあります。

* プルームテクトニクス
* ホットスポット (地学)
* 地磁気
* 地向斜
* 竹内均

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9


2011年03月05日(Sat)▲ページの先頭へ
精神と自然Z:ベクトル凸i*ベクトル凹iの自然的陰陽原理と特異点凸i*特異点凹iの人間的陰陽原理
テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

今は余裕がないので、簡単に指摘するに留める。
 これまで、自己精神的陰陽原理と自然的陰陽原理を統一させようとしてきたが、まだ、不整合である。
 先に直観したのは、凸iではなく、凸iベクトル、凹iではなく、凹iベクトルを自然的陰陽原理に考えれば、解決するのではないかということである。
 すなわち、凹⇒ベクトル凸i*ベクトル凹iとみるのである。そして、ベクトル凸iにおける凸i、ベクトル凹iにおける凹iを特異点として考えるのである。
 各特異点が、先に述べた超越絶対的即自と超越絶対的対自となると考えるのである。
 思うに、自然的陰陽原理においては、ベクトル凸i*ベクトル凹iが常時変動的に変化していると考えられるが、人間において、凸iと凹iが特異点となり、人間の認識・意識の基盤になっているのではないかと作業仮説するのである。
 問題は凸iと凹iがどのように特異点となるのか、である。直観で言えば、例えば、ベクトルが凸iに収束する場合とは、結局、実軸の要素が消えるのであり、その点で、脱物質的、つまり、超越的である。
 また、反対に、ベクトルが凹iに収束するときも、実軸の要素が消えるのであり、同様に、脱物質的、超越的である。
 問題はそのように考えても、自己原理の必然性が明確にならないことである。
 思うに、なんらかの力が作用して、凸iと凹iとを固定する必要があるのである。
 シュタイナーの場合は、悪魔アーリマンと悪魔ルシファーは、本来、善であった精神が、進化が止まって生まれたものと述べているのである。これも、いわば、神の深慮に拠るのである。
 ここで、作業仮説であるが、ベクトル凸i*ベクトル凹iにおいて、凸iと凹iのモードを人間精神のモードと考えるのである。そして、その他は、通常の自然的陰陽モードと考えるのである。
 そうならば、自然的陰陽論に、人間的陰陽論を「組み込む」ことができるのである。言い換えると、自然的陰陽であるベクトル凸i*ベクトル凹iにおいて、特異点凸iと特異点凹iを人間的陰陽の極性、すなわち、凸i*凹iと見るということである。
 そうすると、人間は自然から生まれながらも、特異な存在であることがこれでも説明できる。
 今はここで留める。後で整理するようにさらに検討したい。


精神と自然X:太陽凸iと太陰凹iの不連続性:超越絶対的即自と超越絶対的対自:マニ教とPS理論
画像つきは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10820813688.html
http://d.hatena.ne.jp/antares/20110305

精神と自然X:太陽凸iと太陰凹iの不連続性:超越絶対的即自と超越絶対的対自:マニ教とPS理論

テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

凸i(「太陽」:陰陽の太陽)は、すべてと「わたし」が一致しているというか、「わたし」しか存しない精神モードであり、凹i(「太陰」:陰陽の太陰)は、逆に、「わたし」はすべてに「溶け込んで」いる精神モードと考えられる。
 有り体に言えば、前者が絶対的自我であり、後者が絶対的他者である。
 後者はいわば、非自我であるが、私はなんらかの「わたし」がそこには基底に存すると直観する。いわば、非自我的自己が存するのではないだろうか。先に述べた、「闇」の「わたし」である。そう、陰の「わたし」である。森羅万象に融け込んでいる「わたし」である。D. H. ロレンスがコスモスと呼んだものは、ここに関係しよう。
 言い換えると、前者は自己絶対主義の「わたし」であり、後者は宇宙主義の「わたし」である。
 前者はまた、超越的絶対的自己主義であり、後者は超越的絶対的他者=自己主義である。
 両者ともに、超越的存在凹に基づくが、前者においては、いわば、即自的モードであり、それを認識できないが、後者においては、対自的モードであり、それを感知しうるのである。ここに、両者の非対称性があると言えよう。
 故に、凹iと凹に基づく第三象限の意義があると言えよう。つまり、超越的絶対的存在と一如になっている自己領域が第三象限と考えられる。
 東洋・日本身体的精神科学において、肚を強調するのは、この点で、核心的である。何故なら、肚が凹iの領域と考えられるからである。
 しかるに、西洋文化は、凸iに傾斜しているために、肚=凹iの領域が認識できないのである。ただし、オカルト主義や神秘主義からわかるように、肚=凹i に接点をもつ精神文化はあるのである。ただし、反動的に、肚=凹iに傾斜すると考えられる。つまり、凸iに対する反動となり、肚=凹iに没入してしまうのである。例をあげれば、詩人・版画家のウィリアム・ブレイクがそうである。
 とまれ、凸i*凹iの双極的自己・個が確認できた。
 では、本題の精神と自然との連関性に関して、さらに考察を続けたい。
 東洋的身体的精神科学では、物質的身体に精神が、言わば、埋蔵されている、つまり、組み込まれているのである。これを測深して、発見し、涵養・陶冶することが、東洋的叡知である。(何度も述べるが、これが、明治近代化、戦後において、失われたのである。ロスト東洋的叡知約一世紀半である。失われた日本である。)
 この物質的身体と精神の関係力学を解明する必要がある。正確に言えば、有機体的身体と精神の関係力学である。
 結局、凸i太陽も凸i太陰も『気』=気霊である。つまり、気霊の特異点として、凸i太陽と凹i太陰を考えるのであり、本源的には、自己・個は『気』=気霊に属すると作業仮説する。
 故に、陰陽双極子において、精神が、自然として、組み込まれているのであり、精神的双極子の組み込まれた『気』=気霊の発現として、精神的有機体的身体としての人間的身体を整合的に説明することができる。
 これで、東洋的身体的精神がPS理論的に解明されたことになる。
 では、ここで、課題のシュタイナー精神科学の問題に返ると、明確にシュタイナー精神科学の自然との乖離性が露呈されるのである。
 即ち、霊=Spiritと、自然=有機体、物質体とが、『気』=エーテル体を挟んで、分離しているのである。明らかに、絶対的二元論であり、東洋的身体的精神科学とは異なるのである。(思えば、以前、その分離的二元論を指摘したことがある。)
 ここでマニ教の視点を入れて、考察すると、マニ教は、シュタイナー精神科学とは異なり、物質世界にも、精神の元素、『光』の粒子を入れているのであるから、絶対的二元論ではないのである。
 ここで、マニ教とPS理論を比較すると、前者の『光』の世界は後者の第三象限に相応し、『光』の粒子は、凹i=肚の意識をもつmedia pointに相応するのではないだろうか。
 そして、物質世界であるが、それは、第一象限である。それを、マニ教は闇の世界と見る。PS理論からは、連続的同一性体という仮構の世界として見るだろう。そう、言い換えると、PS理論的には、物質世界はいわば、バーチャルな世界、仮想世界である。
 だから、マニ教の闇としての物質世界はPS理論の連続的同一性体、バーチャルな世界・仮想世界としての物質世界はやはり、呼応していると言えよう。
 問題は物質世界を悪とするマニ教的視点である。PS理論は、物質世界を悪と見るだろうか。PS理論は、端的に、物質主義、唯物論を絶対的悪と見る。もっとも、物質科学の成果は否定しない。それは、物質という根拠による合理的科学だからである。
 だから、物質世界を物質主義、唯物論の世界と見るならば、マニ教の悪としての物質世界観にPS理論は呼応すると言える。
 Kaisetsu氏は、悪を第四象限に見ているが、この点とマニ教の悪の世界観を比較してみよう。
 現象において、自我は凸iと凹iとの連続的同一性体である。それは、物質世界とリンクしているのである。しかし、自我は、凸iの側面と凹iの側面があるのである。つまり、二重人格的様態なのである。
 ここで、例えば、本音と建前の二重性が生起すると言えようし、これが、近代的日本人の心性の一種の典型である。そう、腹黒いとは正に、凹iの側面に拠るのである。ということで、陰謀、嫉み・嫉妬、悪意、詐欺、等の悪徳は、自我における凹i的側面に拠ると考えることができるのである。故に、その面での悪を考えると、それは、正に、第四象限に存するのである。ただし、それは、物質世界の悪というよりは、物質世界における人間の悪である。
 マニ教の悪の世界観とは、やはり、この面を含んでいると考えられるのである。そう、マニ教の悪の世界観とは唯物論的悪と人間の反感的悪の両面を含んでいると考えられるのであり、PS理論と一致するのである。
 以上からシュタイナー精神科学を論駁・論破し、マニ教とPS理論との本質的共通性を述べた。

参考:人間認識図 (by Mr. Kaisetsu with Mr. Seiseimon's cooperation)

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

File:Blake Dante Hell V.jpg

Blake's The Lovers' Whirlwind illustrates Hell in Canto V of Dante 's Inferno


2011年02月19日(Sat)▲ページの先頭へ
MANICHAEIST or Manichaeist World:超越界/MP/差異即非共振
画像つきは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10805835793.html
http://d.hatena.ne.jp/antares/20110219

テーマ:ゾロアスター教とマニ教:「光」VS「闇」

《光は闇であり、闇は光である。
Light is darkness, and darkness is light.》

悪魔ルシファーに関して、帰宅途中考えていたが、結局、不連続的差異論の基本的概念に戻れば、簡単に説明できることが判明した。
 即ち、悪魔アーリマンは凸iの変異体であり、悪魔ルシファーは凹iの変異体である。そして、両者がMedia Pointで、共振して、⇒+1の同一性体を形成するのである。この同一性体は、自我であるし、物質でもある。
 とまれ、Media Point の精神的フィルターによって、差異即非双極体は連続的同一性化されるのであり、悪魔アーリマンと悪魔ルシファーが連続的同一性化されて、自我を形成するのである。近代ならば、悪魔アーリマンが支配的であり、唯物論、近代合理主義を形成すると考えられる。
 では、一般には、この連続的同一性体(二重悪魔の連続的同一性体)の自我をもっているのであり、自我は他の自我と常に争うである。これが娑婆である。俗世間である。そう、万人の万人に対する闘争である。
 しかしながら、差異共振性が潜在するのであり、それが、賦活されるとき、人は神秘を感じるのである。そう、√凹⇒凸i*凹iの神秘が生起するのである。霊感、直観である。
 しかし、自我、連続的同一性体である自我はその神秘を怪しむであろう。何故なら、その世界、物質世界では、説明がつかないからである。せいぜい、心の表現と言うに留まるだろう。
 しかし、この差異共振の霊感、直観を独立さえさせればいいのである。これが不連続化である。(脱構築主義の失敗は、単に、差異と同一性の連続性を説くに留まったことである。)
 そして、精神世界が独立するのである。そして、ここに、マニ教的世界が生まれると言っていいだろう。マニ教的人間、 Manichaeist(Kaisetu氏に拠る)、マニキイスト(又は、マニキスト)は、精神世界の光に帰属する人間であり、物質現象世界においては二重世界に生きていると言える。しかし、物質現象世界がマーヤー(幻像)であることを知っているのである。
 優れた芸術家、アーティストは、マニキストである。そう、私はバッハの対位法に魅了されているが、結局、対位法とは、言うならば、差異共振法、差異共振術である。ここに秘密、エッセンスがあるのである。そう、マニキスト(マニキアン)・アーティスト(マニキアーティスト、マニキアンアーティスト)たちがいるだろう。
 美術では、ルネ・マグリットがそうであるし、文学では、ウィリアム・シェイクスピア、ルイス・キャロル、D. H. ロレンスがそうである(思うに、美術、文学でマニエリスムと呼ばれたものは、マニキスト的、マニキアンであろう。)。   
 ポップスでは、ビートルズ、初期のジョージ・ハリスン、レディー・ガガである。
 そして、数学では、ガウスやオイラーがそうであろう。数学のマニキスト。
 哲学では、当然、プラトンである。禅では、鈴木大拙がマニキストである。当然、易、老子がマニキアンである。
 物理学では、アインシュタイン、量子力学の科学者たちがそうであろう。
 そう、マニキスト(マニキアン)・ワールドがあるのである。
 とまれ、これで、シュタイナーの悪魔論をPS理論から解明することができた。
 さて、後の問題は、第二象限と第三象限の関係である。
 超越性凹を凸iで捉えると、同一性化するのである。宗教で言えば、超越的存在を神として、名づけるのである。ヤハウェとかアッラーとか。しかし、これは、超越性を同一性に引き下ろす力学をもっているのであり、権力化すると言えよう。そう、宗教は教祖の後、権力化するのが常である。つまり、外的権威となってしまい、本来の内的志向を喪失するのである。
 だから、第二象限とは、一種虚構的構築であると言えよう。
 そう、禅を例にとれば、禅も当然、本来、第三象限を志向するものであり、言語のもつ同一性から脱却するために、言語的表現を否定する言語的表現、パラドクシカルな言語的表現となったのである。しかし、私見は、禅はその点で、過剰になり過ぎて、本来の第三象限を分かりにくくしたと思う。
 さて、最後に光の問題であるが、いったい、凹が超越光、大光なのか。それとも、第三象限がそれなのか。
 凹をダーク・マターとすると、第三象限がダーク・エネルギーであり、それが、超越光、大光ではないのだろうか。
 これは課題としておき、ここで留めたい。
参照1:人間認識図(by Mr Kaisetsu)

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
参考:
日本は日本国成立(律令制期)以降20世紀後期まで一貫して「陰陽の専門家」が中央官庁内部に設置されてきた。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=812585
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

参照2:以下のマグリットの「光」とは超越光、大光のことではないだろうか。第三象限の光。


【 光の帝国  − ルネ・マグリット作(1954年) − 】




 1954年に描かれたマグリットの代表作、「光の帝国」。
 この作品に、マグリットはこんな言葉を残しています。


 「 白昼の空の下に夜の風景が広がる。
   最初は判らないが、もう一度よく見て初めて、実写的に描かれた
  この舞台装置の超現実性が意識される。
   「光の帝国」の中に、私は相違するイメージを再現した。つまり、
  夜の風景と、白昼の空だ。風景は夜を想起させ、空は昼を想起させる。
   昼と夜のこの共存が、私達を驚かせ魅惑する力を持つのだと思われる。

   この力を、私は詩と呼ぶのだ。」
http://blog.goo.ne.jp/kibora-hiro/e/47f7c0b9b86769cd14867a9642fb7055

日々是日記


2011年02月13日(Sun)▲ページの先頭へ
光と超越的存在(ダーク・マター):知霊と量子:√凹⇒凸i*凹i⇒凸:二重光としての光の神秘
今は余裕がないので、予見を書きたい。
 既述したように、光は、凸i陽と凹i陰の共振によって、形成される。それが、凸i*凹i⇒凸(+1)の意味である。⇒凸(+1)が光である。凸(+1)を取り出すなら、粒子としての光子である。
 問題は、凸の背後、超越的背後に凹(-1)が存することである。いわゆる、ダーク・マターである。
 私が問題にしたいのは、差異共振エネルギーというか、虚軸での双極子としての差異の様態である。
 固定した状態では、粒子ないしは物質ではないだろうか。しかし、賦活されると精神になるのではないだろうか。
 思うに、双極子の背後に凸(超越的存在)があり、それが、双極子的粒子を精神化しているのではないだろうか。
 わかりやすく言えば、凸が霊、スピリット、神である。これが、量子にいわば背後霊のように付いているのではないだろうか。だから、量子や素粒子とは、霊的粒子、あるいは、知霊的粒子ということになるだろう。
 「気」もそういうものだろう。精神的粒子である。とまれ、物質とは、端的に、知霊的粒子の固定化したものではないだろうか。あるいは、知霊が静止した状態に縮約したものが物質ではないだろうか。だから、賦活させると、知霊化すると考えられる。
 後で、丁寧に考察を行ないたい。

追記:以前、四極の双極子ということを述べた。即ち、凹、凸i、凹i、凸を四極とする双極子である。言い換えると、十字双極子である。クロス・ダイポールである。ただし、凹は超越的な不可視性をもつ。
 だから、光の場合、⇒凸の粒子性をもつし、⇒においては、波動性をもつだろう。しかし、共振・即非波動である。(量子論はこの点をうまく捉えていないと思う。)
 問題は、凹とMedia Pointの関係数式である。以下の追記2の虚事象と背景の関係の問題である。
 凹(-1)の平方根は、凸i(+i)と凹i(-i)である。だから、√凹⇒凸i*凹iと記述できるだろう。まとめると、

√凹⇒凸i*凹i⇒凸

である。しかしながら、凹iには、凹への回帰の志向性があるように思う。何故かと言えば、凸iは外的光を受容するが、凹iは内的光(「闇」)を受容すると考えられるからである。つまり、有り体に言えば、凸iとは外的認識性を、凹iは内的認識性をもつと考えられるのである。
 言い換えると、凹iは凹と接触しているのである。しかるに、凸iは凸と接触しているのである。凹の平方根でありながら、両者は非対称と考えられるのである。
 この点から光について考えると、⇒凸の光は外的光と言えよう。しかしながら、凸i*凹i⇒は二重光であると考えられる。原光と原闇の二重光である。しかるに、凸iに傾斜した一般に人間認識では、この二重光を感光できないのである。つまり、原光に傾斜しているのであり、原闇を捉えられないのである。何故なら、原闇は不可視的であるからである。いわゆる、無意識というものは、この原闇、凹iに存すると考えられる。
 とまれ、光とは本来、二重光であるが、一般的には一重の光としか捉えていないのである。それは、外的光、物質的光と言えよう。
 思うに、私が以前、超越光と呼んだものであるが、それは、超越界凹と原闇凹iと接触する領域から発する内的光と考えられる。そして、これこそ、霊的太陽であると言えよう。アフラ・マズダーである。
 近代主義は、光の二重性をまったく無視して、外的光、物質的光しか捉えていないのである。言い換えると、精神の光がまったく欠如しているので、人間は悪となるのである。
 とまれ、光が原光と原闇の二重光であるという真実は、深い。わかりやすく言えば、光とは、闇であり、闇とは光である。あるいは、光・即非・闇である。
 現代日本人は光の闇の光を失っているのである。ここで、D. H. ロレンスがdark sunと呼んだものであるが、それは、正に、闇の光である。内的光、超越光、霊的太陽である。
 
追記2:差異即非・共振と差異連続的同一性化を念のため、区別しておこう。前者は、凸i*凹i⇒凸であり、後者は凸i*凹i=凸である。後者は不連続的絶対的双極的差異が同一性に連続化されているのである。これが、微分であり、ドゥルーズの哲学である。
 しかるに、前者は不連続的双極的差異を保持しつつ、同一性・物質が形成される事象を表していると考えられる。
 光の事象も前者として明確に捉える必要がある。量子論が混乱しているのは、前者と後者を峻別していないからである。不連続性と連続性を混合しているのである。
 思うに、虚事象と実事象の区別が必要なのである。そして、虚事象は背景に超越性があるのである。

追記3:光が二重光ならば、端的に、外的光も実際は二重光である。つまり、外的光には、内的光が存するのである。それが、シュタイナーの説く太陽に内在するアフラ・マズダー(霊的太陽、太陽神)ということだろう。
 つまり、内的にも、外的にも、超越光、霊的太陽、太陽神が存すると考えられる。光の神秘である。


2011年01月12日(Wed)▲ページの先頭へ
凸i=原光と凸=物質、又、凹i=原闇と凹=超越的存在:凹凸i*凹i⇒凹(-1/超越的存在)
凸i=原光と凸=物質、又、凹i=原闇と凹=超越的存在:凹凸i*凹i⇒凹(-1/超越的存在)

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

今は一言述べるだけだが、近代的意識において、凸iの自我が突出して、凹iの他者ないし無意識が忘却されていると言えよう。
 凸iは可視的に凸=物質に関わるが、無意識の凹iは不可視的であり、それは、凹=超越的存在に関係すると考えられるのである。いわゆる、神秘主義は、この側面が中心化したものだろう。
 凹=超越的存在は、神と言ってもいいし、霊と言ってもいいだろう。しかし、唯一神や多神教のように一や多が入るのは、凸iの計算が入っていると思われる。だから、第二象限的である。
 そう、凸iは原光であり、凹iは原闇であるが、超越的存在とは、どうも、凹iと強く関わっているように思えるのである。なぜなら、凸iは「光」的であり、物質へと傾斜するからである。
 私が以前、超越光と言ったのは、思うに、凹iを介して、直感した凹が凸iの視覚に感受されたものかもしれない。
 とまれ、凹iと凹との関係を厳密に解明する必要がある。瞑想は凸iの凸を外すことではないだろうか(参照:現象学的還元)。つまり、凹凸iとなることではないだろうか。ならば、凹凸i*凹i⇒凹(-1) となるだろう。つまり、凹iを主体にすると、現象学的還元、あるいは、身心脱落が生じて、超越的存在が直感・直観されるようになるということではないのか。
 近代以前の人間は、凸iの自我は発達していなかったので、そのような心的様態にあり、超越的存在を直感していたのではないだろうか。宗教心・信仰心、あるいは、超越的感性・神秘的感性(民俗学)をもっていたということである。
 しかし、近代となると凸iが拡大・肥大化して、凹iが忘却されるようになり、超越的存在も否定されるようになったということではないだろうか。
 近代合理主義・近代的自我の縛りである凸iの傾斜から脱却する必要があるのである。トランス・モダン・スピリットが形成されるのである。
 しかしながら、近代合理主義・近代的自我で「自己形成」した人間は、凹iを肯定することが恐怖となるだろう。それはまったくの異世界であるからである。絶対的他者である。
 そう、民主主義も資本主義も、トランス・モダン化によって、同一性や物質主義から脱却することになるだろう。共同体的民主主義、共同体的資本主義となるだろう。今はここで留める。




備忘録:感覚は凸iにあるのか、凹iにあるのか:視覚とは何か

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

凸iと凹iが共振して、光、⇒+1が生まれるというのは問題ない。
 問題は感覚、感性である。
 結局、凸iの感覚と凹iの感性があるのではないだろうか。近代は、前者に傾斜して、後者を軽視・無視していると思う。
 とまれ、差異共振によって生起した光を知覚するのは、凸iの視覚ではないだろうか。もっとも、これは、近代においてである。
 思うに、凹iによる視覚がありえるであろう。私が超越光と言ったものは、これが感知していると思う。
 整理すると、近代において、凸iの知覚に傾斜しているために、凹iの知覚が軽視・無視されると考えられるのである。
 例えば、光は差異共振様態であるが、凸iに傾斜した知覚は、外的知覚のみしかもたないだろう。
 しかし、凹iの「知覚」をもつなら、光は超越光となるのではないだろうか。そう、凹iの「感覚」はあるのであるが、それは、近代において、軽視、無視されていると思う。いわゆる、感情というのは、凹iの感覚ではないだろうか。
 とまれ、光とは原光と原闇との共振であるのであり、当然、凸iの知覚と凹iの知覚の二つの知覚が少なくともあるのであり、凸iの知覚は物質的視覚であり、凹iの知覚は精神的知覚であると言えるのではないだろうか。
 一般に「心」というとき、それは、この精神的知覚を意味しているのではないだろうか。
 しかしながら、凹iと凸iとは不連続であることを認識する必要がある。今日、凸iの主導によって、凹iが凸iと連続化されているのである。
 凹iと凸iの不連続化こそが、凹iが超越的存在と結びつくことを明確にすると考えられる。
 正に、これである。頭脳と感性の不連続化、これによって、凹iは凹と結びつくのである。


2011年01月04日(Tue)▲ページの先頭へ
『自然との共振・共鳴・一如感・融合感の力学について:凸iの感覚と凹iの魂覚(共覚):物質的科学=外的科学(凸i優位科学)と超越的科学=内的科学(凹i優位科学)』
『自然との共振・共鳴・一如感・融合感の力学について:凸iの感覚と凹iの魂覚(共覚):物質的科学=外的科学(凸i優位科学)と超越的科学=内的科学(凹i優位科学)』

帰省先の田舎に居ると、自然と身体的心性との繋がりが感じられる。今更ながら、これは一体何なのであろう。すなわち、PS理論で解明するとどういうことなのだろうか。
 これまで、差異共振で説明してきた。たとえば、山や木との一如感をそれで説明してきた。「わたし」は「山」であり、また、「山」ではない。あるいは、「わたし」と「川」は一如である、「わたし」は「わたし」、「川」は「川」でありつつ。
 「わたし」が凸iであり、「山」や「川」が凹iであり、両者が共振する。すなわち、凸i*凹iであり、結果が⇒凸(+1)である。思うに、凸は物質であるが、⇒凸(+1)で一如感、一体感を意味させることも可能であろう。(ここで、主体、主語の問題があるが、とばしておく。)
これが従来どおりの説明であるが、結局、自然との一如感とは、差異共振に拠るのであるが、結局、これも既述したことであるが、内的な凹iと外的な凹iとが一致するという点に求められよう。だから、主体の凹iと客体の凹iは同一であるということになる。これは、どういうことを意味しているのか。
つまり、人間身体において、自然と同一のものが存しているということである。これは、常識的なことを述べているように聞こえよう。つまり、唯物論的科学で言えば、物質が、自然と人間で同一であるということになるのである。当然、私が指摘したいことはそうではない。自然と同じダイナミズムが、人間内に存するということである。これも、常識的に、物質的ダイナミズムと見られるかもしれない。しかし、このダイナミズムは少なくとも「気」のダイナミズムと言うべきである。なぜなら、視覚を介するが、一如感は、不可視の心性であるから、物質的とは言えないからである。また、端的に、これは、生命感、元気と結びついているのである。
とまれ、凹iは自然、人間の内的エネルギーに関係する、あるいは、それ自体ではないだろうか。思うに、凸iのエネルギーと凹iのエネルギーがあるのである。易で言えば、陽エネルギーと陰エネルギーということになるだろう。両者が共振して、物質的現象界が生起するということである。
物質的科学では、物質的現象界を、凸iに傾斜した、つまり、同一性(ロゴス)に傾斜した視点で捉えて、凹iの力学、あるいは、差異共振の力学を欠落させていると考えられるのである。これは、近代科学、唯物論的科学の大欠点、大欠陥であると言えよう。これは、また、父権的科学と呼ぶことできるのである。(PS理論は、端的に、凹iないし差異共振の科学である。)
結局、あえて言えば、凹iの科学が必要なのであるが、凸iの科学を物質科学と呼ぶなら、それは感性科学、心的科学、精神科学、内的科学ということになろう。
今日、物質科学、外的科学が支配的で、アカデミックには、感性科学、内的科学が排除されていると言えよう。
そう、正しくは、凸iの科学と凹iの科学、そして、両者の統一として差異共振の科学がなくてはならないと考えられる。
とまれ、端的に、凹iの科学とは何か。これは、超越性と結びつく科学である。凹、−1と結びつく科学であり、非物質的科学、脱物質的科学である。今日、この超越的科学の理論が、公的には、認められていないのであるが、PS理論が、正に、それである。
しかしながら、量子論や宇宙論等によって、現代科学は、実質的に超越的科学の領域に入っているのである。結局、唯物論という、悪魔の枠組みを乗り越える必要があるのである。換言すると、プラトニズム的転回が現代要請されているということである。精神が主であり、物質が従であるという視点である。これは、実は、霊的世界観であるが、PS理論は、現代科学をも説明できる、合理的な理論である。文化史的に言えば、トランス・モダン的転回、新古代的転回がここにはある。
ここで飛躍して、この転回の必然性について考えると、直観では、陰陽力学が根源で動かしていると思えるのである。端的に言えば、凸iの傾斜が起こり、それが、西洋文明を生み、物質科学を創出した。しかしながら、陰陽力学の視点では、凸iの傾斜、つまり、陽の傾斜の後には、凹iの傾斜、陰の傾斜が生起することになるのである。陽極まりて、陰に転ず。陽エネルギーが賦活された後、陰陽均衡原理から言えば、陰エネルギーが賦活されると考えられるのである。
では、凹iエネルギーの賦活によって、物質的世界観が乗り越えられて、新しい精神的世界観が創造されると考えられるのであるが、陽エネルギー、凸iエネルギーが⇒凸、+1と結びつくならば、陰エネルギー、凹iエネルギーは何と結びつくのだろうか。これは、自明である。既に、超越的科学と述べているので、それは、⇒凹、−1と結びつくと考えられるのである。人間認識図では、第三象限に当たる。思うに、差異共振の二つのタイプがあるのではないだろうか。陽・凸i主導の場合、⇒凸、+1となり、陰・凹i主導の場合、⇒凹、−1となるのではないだろうか。
以前述べたが、前者は凸i*凹i⇒凸(+1)で、後者は凹i*凸i⇒凹(−1)となるのではないだろうか。両者において、積の仕組みが異なるように思われるのである。(商も考えられるが、それはおいておく。)
 両者の違いは、回転にあるのではないだろうか。凸iが主導の回転とは、ベクトル・モードが凸、+1へと向かい、凹i主導のそれとは、ベクトル・モードが凹、−1へと向かうのではないのだろうか。これはまったくの作業仮説である。
前者は可視宇宙(現象界)を形成し、後者は不可視宇宙(仮に、ダーク・コスモス)を形成するのではないだろうか。
そう、今日、宇宙科学で問題になるダーク・マター(暗黒物質)、ダーク・エネルギー等は、この不可視宇宙に関るように考えられる。
文学的に言えば、D. H. ロレンスの『逃げた雄鶏(死んだ男)』の「暗い宇宙のバラ」とは、不可視宇宙を指しているように思える。
このように見ると、きれいにまとまるのであるが、作業仮説の力学がまだ解明できないのが、難点である。【ここで付け加えると、人間は、この二つの差異共振の結合体であると考えられる。脳(大脳)は前者により、内臓は後者であろう。そして、両者を視床下部が調整しているのではないだろうか。】
以前述べたのは、凹iが主導のときは、凹凹i=凸iとなるということである。これならば、凹i*凸i⇒凹凹i*凸i⇒凸i*凸i⇒凹、−1となるのである。
そして、逆に言えば、凸iが主導のときは、凸凸i=凸iであり、凸i*凹i⇒凸凸i*凹i⇒凸、+1である。

備考1:
思うに、一神教の一も、原点は共振の志向性にあるのではないだろうか。ただし、砂漠環境においては、「わたし」は岩だらけの山や砂漠とは共振せずに、自然を超越した何かと共振するということではないだろうか。これはとても興味深い点である。日本のような湿潤な自然環境の場合、共振する自然対象があるが【水の要素が重要であり、根源的物質の「水」について後で考察したい。参照:備考3】、その共振する志向性が砂漠環境の場合、対象が物質的ではなくなるということになろう。思うに、日本の場合、視覚を介して、共振する志向性は自然対象へと向かう、砂漠環境の場合、共振する志向性が自然を超越した何かに向かう。日本の場合、対象、凸、+1があるが、砂漠の場合、それがないことになろう。では、砂漠環境の場合、共振する志向性が向かう自然対象を越えた何かとは何か。PS理論では当然、凹、−1となる。思うに、日本においても、自然対象を越えた何かが感じられるのであり、それが、八百万の神々である。【神道は複雑であり、多様な神々が存し、独一神も存する。】しかし、私の経験では、なにか漠然とした不可視の超越感であり、それは、一つとも多数とも言えないような感じである。とまれ、砂漠環境の場合、共振する志向性が超越的であり、それが、唯一神(ヤハウェ、アッラー)へと向かったことは否定できない。共振する志向性が超越的一へと帰着するとはどういうことなのだろうか。やはり、ここには、凸iの傾斜があるのではないだろうか。一として、捉えるという認識は、知的であり、凸i的であるからである。だから、人間認識図で言うと、第二象限に相当する。それに対して、神道は、第一象限と第三象限の両義性をもっているのではないだろうか。
 
備考2:
哲学的には、凹凹i*凸i⇒凹とは、他者凹iの肯定であり、他者が自己になるのである。これは、個=他者、ひいては自由=共同である。しかしながら、ここで問題なのは、他者肯定が形式では、他者否定である符合凹がつく点で、どう齟齬を解消するのかである。【この他者肯定が「否定の否定」の形式をとるのは興味深い。この点は後で検討したい。】他者とは本来、凹iであり、それは、自我凸iに対して、否定的であるし、逆もそうである。この相互否定関係を転換するには、この相互否定性を否定すればいいのではないのか。それが、凹凹i=凸iである。あるいは、凹凸i=凹iである。いわば、「否定の否定」である。とまれ、相互否定の否定が相互肯定であるということであり、凹凹iは他者否定ではなく、逆に他者肯定であるということである。これで証明された。では、この「否定の否定」の意味をヘーゲル哲学と比較しよう。この「否定の否定」とは、正と反の否定的事態に対する否定であり、正と反との共立ないし即非である。ヘーゲル弁証法では、合(ジンテーゼ)であるが、ヘーゲル哲学は、精神が正で、反の物質的同一性を止揚して、同一性概念の合を形成するのであり、それは、同一性哲学なのである。PS理論は、弁証法の正⇒反⇒合ではなく、(正*反)⇒反(正*反)⇒正の二乗である。これは、いわば、反弁証法、差異融合法である。

備考3:エレメントしての水であるが、それは、凹iに関係しているだろう。では、凸iのエレメントは何か。それは火ないし風である。しかし、風の方がいいように思う。
 地水火風の四大をPS理論で考えると、地が+1、水が凹i、火が−1、風が凹iではないだろうか。以前述べたが、聖書の創世記の冒頭は、神霊が風であり、凸i、神霊が上を漂う水が凹iであると考えられる。そこから、天地創造が為されるのであるが、やはり、凸iに傾斜していると言えよう。確かに、東洋的図式ではあるが、水、凹iが劣位になっているので、父権・西洋的と言えよう。


2010年12月30日(Thu)▲ページの先頭へ
力への意志とニーチェ哲学のポスト・モダン的限界:トランス・モダン哲学・科学のPS理論
フランスのポスト・モダンやハイデガーは、ニーチェの「哲学」の影響を強く受けてきた。今や、PS理論が誕生して、既成の学問は一掃されるが、哲学において、露払いする必要があると思うので、一言、ニーチェ問題について述べたい。
 ニーチェ哲学の核心は、力への意志である。Der Wille zur Macht(Will to Power)である。これをどう理解するかである。以前は評価したが、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10252980429.html
今は批判することになる。これは、PS理論が進展して、知がより明晰になったからである。
 直観で言えば、「力」とは、この場合、自我凸i⇒+1と連続化した凹iのエネルギーであると考えられる。当然、純粋差異、純粋他者ではなく、自我の否定力があるので、「力」とは、否定的なエネルギーなのである。それは知を混濁させる力動・情動であり、反知性的である。それは、実に不透明なのである。闇である。
 それゆえに、反知的な権力願望を肯定することになり、ナチスに利用されたのは当然であると言えよう。
 この視点から、初期ニーチェのアポロ/ディオニュソス、あるいは、後期のツァラトゥストラについても解明できるだろう。一言言えば、それは、やはり、自我凸iが他者凹iに混濁しているのである。換言すると、アポロとディオニュソスは連続化しているのである。そのために、ディオニュソスさらにはツァラトゥストラが、否定的エネルギー、反知性的エネルギーになるのである。
 そう、自我の混濁・連続化の視点によってこそ、ポスト・モダンの源泉となったニーチェ「哲学」の欠陥が明らかになるといえよう。
 すなわち、それは、物質性ということである。自我が入ると、唯物論的になるのである。そのために、超越性は否定されるのである。この反超越性、物質主義がニーチェ「哲学」に巣食っているのである。確かに、それは、既成のロゴス的哲学・科学を否定したが、自身の唯物論性を否定できなかったのである。そして、それが、ハイデガーやポスト・モダンを規定・限定していると考えられるのである。
 丁寧に言えば、確かに、ニーチェには、超越性の予感があったが、それは、自我の物質主義のために、精神病理的に抑圧されたと言えよう。
 今や、トランス・ニーチェの時代である。超・超人の世界である。仏教の他者知性の時代である。それは、神道的多神教的霊性と調和するだろう。


2010年07月20日(Tue)▲ページの先頭へ
霊界(霊的世界)とは不可視身体界である:高次元的世界(高次界)と呼ぼう
テーマ:神話・神秘・民俗・霊性:ケルト、予言

霊界(霊的世界)というと多くの人が退いてしまうので、言い方を変えよう。それは、不可視的身体界と考えるが、より明快な言い方をすれば、高次元世界、つまり、高次界である。
 三次元空間ないし四次元時空間現象界において、可視的身体があるように、高次元世界(高次界)には、不可視的身体があると感じられるのである。
 もし、虚軸界を四次元空間とするなら、高次元世界は五次元空間であろう。


追記:現象界がどうして、三次元空間なのか、考えたい。


追記2:A Hidden Dimension(隠れた次元)でもある。超越的次元である。


追記3:超越論性と超越性の区別の問題があるが、凸iと凹iとは、ある意味でどちらでもある。
 フッサールの超越論的主観性の超越論性とは、超越性でもあるのである。何故、混乱しているのかと言えば、超越論性を一般的には、カント哲学の意味で使用するからである。つまり、物質界・自己同一性(自我)の意味合いにおいて、超越論性があるのであり、それを超えたものは認識できないとカントは考えたのである。
 しかしながら、凸iと凹iとは、絶対的差異であり、また、絶対的差異的意識なのである。凸iを絶対的差異的自己意識、凹iを絶対的差異的他者意識と考えることができる。
 しかし、日常世界においては、凸iが+1の同一性=物質と一致して、自己同一性意識となっているのである。
 つまり、凸i=+1という錯誤の自己、即ち、自我を形成しているのであり、それは、当然、凸i自体も、当然、凹iも抑圧して、排除しているのである。
 とまれ、本題にもどると、フッサールの超越論的主観性とは、この絶対的差異的自己意識を指していると考えられるのである。それがノエシスである。そして、それは、絶対的差異的他者(意識)への志向性をもつのである。
 この他者志向性において、フッサールは絶対的差異的他者(絶対的他者)と同一性的対象(物質)との区別が明瞭でなかったと考えられるのである。フッサールのノエマとは、この両者の中間態であると思われる。
 確かに、それは、同一性=物質ではない。しかし、何らかの被知覚的な対象をノエマに想定したとき、それは、絶対的他者ではなくなったのである。
 とまれ、超越論性と超越性の問題にもどると、カントのように自己同一性の意識(自我意識)を起点にすると、自我意識の根源は超越論性ないしは超越論的意識になるのであるが、しかしながら、絶対的差異的自己意識(凸i)を自我意識から考えると、それは、超越的意識になるのである。
 だから、フッサールの超越論性とは、超越性と見るべきなのである。これでこの問題は解明された。


追記4:さらに考察を続けると、凸i(絶対的差異的自己意識:超越的自己意識)と凹i(絶対的差異的他者意識:超越的他者意識)と両者の差異共立・差異共振の関係についてであるが、これは、言うならば、霊的自己意識、霊的他者意識、霊的自己・他者相関と言うことができよう。
 シュタイナーが「自我」と呼んだものは、この霊的自己意識ないし霊的自己意識と霊的他者意識と霊的相関を指すと思われる。そう、高次元自己意識、高次元他者意識、高次元相関性と言うこともできよう。結局、これらが「永遠」であると言えよう。(インド哲学のアートマンはこれを指すだろうし、ブラフマンは、霊的相関を指すのではないだろか。追記:ブラフマンは霊的相関を含むマイナス1のダーク・マター、正確には、ダーク・ボディを指すと言う方が的確であると思える。)
 シュタイナーの霊的科学に即して言えば、高次元的自己意識は、日常、覚醒時には、同一性=物質=+1と結合しているのであり、いわば、+1をまとっている、装っている、あるいは、+1で覆面しているのである。(思うに、この視点からブルカについて考えることができるかもしれない。ヴェールと現象・物質の問題である。)
 つまり、日常意識とはいわば、虚偽意識、錯誤意識、あるいは虚構意識なのである。(インド哲学はいみじくも、現象はマーヤー〔幻像〕であると説いた。)
 そして、夜、睡眠時には、高次元自己意識は同一性=物質界から離脱・脱出して、Media Pointの世界、又は、虚軸界に帰還していると考えられるのである。
 思うに、この世界は霊界である。あるいは、高次元世界である。ここには、同一性=物質はまったくないのである。エネルギーの世界、霊的エネルギー、高次元エネルギーの世界である。
 夜見る夢とは、思うに、この世界と日常世界との境界での事象ではないだろうか。
 問題は、この高次元世界の真相はいかなるものなのかということである。
 PS理論的ガウス平面を絶対的普遍空間とすれば、すべての絶対的差異自己意識、絶対的差異他者意識、絶対的相関意識は、この高次元世界に存するはずである。ここは超時空間であるから、時空間の差異は問題にはならない。
 思うに、ここで、高次元存在をどう考えるのかである。例えば、絶対的差異自己意識1が存するとして、それが、絶対的差異他者意識1を伴い、また、両者の相関意識1(これらを三一体、トリアッドtriad【英語ではトライアッドと発音する】と呼ぶ)をもつとするとき、この高次元世界において、三一体1、トリアッド1は、他の三一体、トリアッドと交流すると考えられるのである。
 つまり、絶対的自己意識1は、単に絶対的他者意識1だけでなく、絶対的他者意識2,3,・・・nと相関するはずである。つまり、一種の学習作業がここにあると言えよう。言い換えると、トリアッド相互の共立的学習があるだろう。
 また、さらに問題は、トリアッドに質的差異があるか否かである。
 シュタイナーは霊的ヒエラルキアの存在を説いている。つまり、位階をもった霊的存在があると説いているのである。
 それは考えられることであろうか。私が以前、シュタイナーの主著の『神秘学概論』を読んで、思ったのは、高度情報秩序の存在であり、それを、ガウス平面に直交するZ軸に定置してはどうかと示唆した。
 あるいは、そうではなく、高次元的自己意識(高次元的意識)は、振動ないし回転による、質的差異をもつ仮定することもできる。
 この問題はおいておくとして、暫定的に、高次元世界において、多様な位階的な絶対的差異意識があると仮定しよう。
 そして、各絶対的差異意識は、Media Pointのもつゼロ度によって、共立するとしよう。だから、ある高次元自己意識は、それより高度の高次元自己意識、つまり、超高次元自己意識と交信できることになると言えるだろう。
 ここで、高次元自己意識は超高次元の知を学習して、賢くなるのである。(もっとも、それ以降のことは、輪廻転生に関するので、ここでは触れない。何故なら、究極的に「オカルト」的になるからである。)
 私はこれまで、どうも夢を見ている時、というか、睡眠時に学習しているのではないかと言ったが、それは、これで、説明されるだろう。
 そうすると、絶対的自己意識1が、睡眠から覚醒すると、それは、再び、同一性=物質の知覚をまとい、自己同一性(自我)となるが、そのとき、睡眠時の学習の成果は意識されないだろう。何故か。
 それは、覚醒時においては、自己同一性や同一性=物質的知覚が中心であり、超高次元的知は、排除されると考えられるからである。
 ならば、学習した超高次元的知はどこに存しているのか。それは、簡単に言えば、無意識界である。つまり、Media Point界である。そこにコンタクトできれば、自己は叡知者になれるのである。因みに、哲学では周知であるが、プラトンは学習は想起であると言った。
 しかしながら、思うに、日常世界、覚醒の世界、同一性=物質現象の世界においても、ふと、無意識の内に、睡眠時において学習したことが想起されるように思われるのである。それは、一種、霊感のようなものとも言えよう。例えば、モーツァルトの天才性であるが、それは、作曲が、おそらく、睡眠時の学習に拠っているのであり、現実世界において、曲の総体が想起されて、ただ、記す(記譜する)だけということなのだろう。そう、モーツァルトの例えば、最後の交響曲『ジュピター』
http://www.youtube.com/watch?v=LCtD1XzAJSQ
http://www.youtube.com/watch?v=ERUs-ofTFrk&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=noAPeUlOjfc
は宇宙・星辰・コスモス的であり、正に、そのようなことを感じさせるのである。
 以上のように考えると、霊的科学者のシュタイナーの神秘的科学・哲学は、日常的には、きわめて異様であるが、それなりの合理性をもっていると考えられる。
 

追記5:4が長くなったので、ここで触れるが、シュタイナーの説くエーテル体とアストラル体とはPS理論的にはどう説明ができるだろうか。これはこれまで、いろいろ仮説したが、定説はまだない。
 直観で言えば、エーテル体は、差異共振のときの原エネルギーではないだろうか。それが、有機体や生命体を産み出すと考えられる。
 では、アストラル体とは何か。これも直観で言えば、差異共立と差異共振の中間様態、中間的エネルギーではないだろうか。つまり、霊的調和意識と霊的闘争意識との中間エネルギーではないだろうか。
 言い換えると、原エーテル体である。つまり、アストラル体はエーテル体を形成するということである。
 今はここで留める。後でさらに検討したい。


2010年07月18日(Sun)▲ページの先頭へ
新PS理論:PS理論と不連続的差異論の統一:差異共振・即非(MP2様態)と差異共立(MP1様態)
以下、PS理論を『嵐が丘』の主人公の意識に適用したものであるが、確かに、PS理論は明快に解明できるのである。
 先の試論(エッセイ)に拠れば、差異共振とは、MP2(虚軸のMedia Point、ゼロ点)を中心とする差異転換の様態を表わしているのであり、差異共立はMP1(実軸のMedia Point、ゼロ点)を中心とする差異並立の様態を表わしているということである。そして、即非とは差異共振を意味していると述べた。
 しかしながら、差異共振=即非において、差異とは当然、不連続的差異=絶対的差異であるから、A(不連続的差異=絶対的差異)=非A(不連続的差異=絶対的差異、正確には、他者である)となるのは、矛盾である。
 そうすると、やはり、差異共振=即非においては、不連続的差異=絶対的差異が対象となるのではなく、連続的差異、相対的差異が対象となっていることになるだろう。
 結局のところ、不連続的差異論において、差異共立が解明されたが、それは、MP1における不連続的差異=絶対的差異の様態の解明であったと言えよう。
 そして、PS理論では、差異共振=即非、即ち、MP2における連続的差異=相対的差異の様態(陰陽性)が解明されたと言えよう。
 そうすると、両者を統合する理論が必要となるのである。思うに、統一理論を新PS理論とすれば、明快である。つまり、不連続的差異論と(旧)PS理論の統一理論としての新PS理論である。
 ただし、MP1からMP2への質的転換を明確にしないといけないのである。つまり、不連続性から連続性への質的転換が生起していることを確認しないといけない。言い換えると、共立から共振への質的転換である。

追記:新PS理論によってこそ、D. H. ロレンスやルネ・マグリット、他の真に先駆者の作品が解明、理解されるだろうし、また、当然、自然の解明がこれまで以上に明晰になる。
 簡単に言えば、自然とは、不連続的差異=絶対的差異の共立が、連続的差異=相対的差異へと質的転換し、連続的差異共振化して、同一性=物質として産出されるものと言える。
 また、マイナス1と不連続的差異=絶対的差異共立との関係については、後で再考したい。 
 結局のところ、不連続的差異論はトランス・モダン的であるが、PS理論はポスト・モダン的であったのである。ただし、PS理論において、差異がガウス平面化されたのは、画期的であったと言えよう。
 ところで、新PS理論における自己認識方程式であるが、それは、

凸i#凹i⇒凸i*凹i⇒+1

でいいだろう(ただし、#は共立、*は共振の記号である)。しかしながら、*に共立、⇒に共振の意味をもたせるなら、従来通りに、

凸i*凹i⇒+1

で済む。

 
****************

『嵐が丘』:キャサリンの「私はヒースクリフ」の自己認識方程式

キャサリン(初代)の「私はヒースクリフ」という言葉は哲学的には何を意味しているのか。
 これは「わたし」は「他者」と一体であるということとは異なるのである。何故なら、そこには、「わたし」という主観性がまだ強く残っているからである。
 しかしながら、キャシーの言葉は主観性ないし主体性はヒースクリフに存するからである。つまり、「他者」に重心があるのである。
 これは、ドゥルーズ&ガタリの生成変化説から言えば、キャシーがヒースクリフに生成変化したということになる。意識の上であるが。
 しかしながら、自己認識方程式、即ち、

凸i(原自己)*凹i(原他者)⇒+1(自 己同一性:自我)

の視点から見ると、それは、原他者に傾斜した様態であり、それが、+1(自己同一性:自我)と一致していることになるだろう。即ち、凹i(原他者)=+1(自己同一性:自我)である。「わたしはヒースクリフ」の言葉に当てはめると、「+1(自己同一性:自我)は凹i(原他者)」となろう。
 しかしながら、正確に言うと、 根本方程式は、

凸i(原自己)*凹i(原他者)⇒+1(同 一性)【自己同一性であり、他者同一性である:あるいは、物質である】

である。
 つまり、同一性が帰結するのであり、そこに、本件の場合は、ヒースクリフが入るのである。
 言い換えると、

凸i(原キャシー)*凹i(原ヒースクリフ)⇒+1(ヒースクリフ)

となる。ただし、凹i傾斜があるので、それを太字(ボールド)にし、帰結をイタリックにすると、

凸i(原キャシー)*凹i(原ヒースクリフ)⇒+1(ヒースクリフ)

となる。
 これが、『嵐が丘』の初代キャサリンの心、精神の様態の方程式である。
 では、ヒースクリフの心はどうなるかと言えば、

凸i(原ヒースクリフ)*凹i(原キャサリン)⇒+1(キャサリン)

であり、凹i(キャサリン)に傾斜しているのであり、その帰結は、キャサリンという同一性であるが、キャサリンがリントンと結婚して、いわば、奪われたので、ヒースクリフは、空(くう:ゼロ:Φ)となった凹i(原キャサリン)を満たすために、非理性的な復讐鬼となるのである。
 しかしながら、当然、その絶対的空虚は埋まらないのであり、復讐は永遠に続くはずのものである。
 しかし、キャサリンが亡霊としてヒースクリフの心に出現したので、空虚が埋められたので、また、同時に、キャサリンの心も満たされたので、上記の二つの方程式は完結したと言えよう。
 即ち、

凸i(原キャサリン/原ヒースクリフ)*凹i(原ヒースクリフ/原キャサリン)⇒同一性(ヒースクリフ/キャサリン)

が形成されたのである。


2010年07月10日(Sat)▲ページの先頭へ
動物-人物相関象徴主義と生成変化論:差異共立一如態(MP1)と差異共振連続態(MP2)
生成変化と差異共立様態
http://ameblo.jp/renshi/entry-10586399271.html
先に以上のように考察したが、まだ、不明晰なところがあるので、さらに検討したい。
 問題の一つは即非である。これまで、即非的様態に関して、例えば、「わたし」は「山」であり、且つ、「山」ではないと述べてきた。あるいは、「わたし」は非「わたし」であるということでもある。だから、非「わたし」に「山」や「海」が入るのである。
 問題は、この「わたし」=非「わたし」が連続性であるのか、否か、である。
 ここは精緻、精密、厳密に考えたい。例えば、「わたし」は、「雲」であるという感覚知覚の場合、「わたし」は「雲」に変じていると言えよう。これは、連続性ではなくて、他者化である。
 これをドゥルーズ&ガタリ(以下、D-G)の生成変化論と比べると、一見似ている。例えば、動物に生成変化することであるが、この場合、確かに、他者化するのである。
 しかしながら、即非的様態の場合は、他者化は同時に、非他者化でもあるのである。つまり、非生成変化でもある。
 「わたし」は「雲」である。且つ、「雲」ではない。また、「わたし」と「雲」は一如である。
 さらに精密に考察しよう。
 「わたし」は「雲」であるというのは、やはり、連続性でる。生成変化である。
 だから、「わたし」は「雲」であるというときは、差異共振化が生じているのである。
 ここは微妙な箇所である。差異共振はMP2(実軸ゼロ点)で生起するのである。
 MP1(虚軸ゼロ点)において、差異共立一如態であったが、MP2へと転換すると、差異が激しく振動して、相互変換が起きると考えられる。それが、連続性である。微分である。即ち、「わたし」は「雲」になり、「雲」が「わたし」になるのである。この共振から、「わたし」は「わたし」、「雲」は「雲」の同一性的二元論が生まれると思われるのである。即ち、⇒+1である。
 だから、即非性とは、二カ所において考えられよう。一つは、MP1とMP2の即非性、一つはMP2における差異共振の即非性である。しかしながら、 MP1の差異共立一如態は即非性ではないだろう。何故なら、差異は他者を志向するが、他者へとは連続化しないからである。
 私は基本的には、これまで、同一性現象(物質現象)と差異共振現象(即非現象)を区別して考えてきたが、両者はMP2が起点であると考えられるのである。
 思うに、ヘーゲル弁証法とは、正に、このMP2の事象を指していると思われる。対立が統合(同一性化)するからである。
 ここで簡単に整理すると、MP1は差異共立一如態であり、MP2は即非・差異共振・連続様態であるということであり、MP1とMP2との関係も一種の即非態であるというこである。つまり、MP1⇒MP2ということである。
 以上の考察を踏まえて、本題を考察しよう。
 ロレンスの動物-人物相関象徴主義であるが、それは、動物と人物とはあくまでも差異であり、差異共立関係を保っていると考えられる。ただし、照応関係はあるのである。
 それに対して、D-Gの生成変化主義とは、差異共振連続性であり、他者へと連続化すると考えられるのである。
そこには、差異共立の均衡・拮抗が欠落しているのである。
 つまり、それには、絶対的差異がなく、連続的差異しかないということになる。
 ドゥルーズの連続的差異(=微分)批判はPS理論の前提なので、ここでは詳述しない。
 とまれ、言い換えると、MP1においては、生成変化は生起しないということである。絶対的差異同士の共立・平行・並立が一如態をもって存すると言える。
 ということで、ロレンスの動物-人物相関象徴的リアリズムは差異共立的一如態をもち、D-Gの生成変化論とは、差異共振的連続態をもつということになる。前者は差異共立象徴的リアリズムと呼ぶこともできる。あるいは、単純に差異共立的リアリズムである。
 ここで、ついでながら、シュルレアリスムについて考えたい。それは、簡単に言えば、対立するイメージを並立させる表現方法であるが、一見、差異共立的表現に見えるが、そうではないだろう。それは、差異共振連続的表現であると思う。対立するイメージは連続的差異となって共振・共鳴するのである。例えば、シャガールの絵画を見ればわかるだろう。つまり、そこでは、差異は絶対的差異となっていないのである。
 それに対して、美術史では、シュルレアリスムに含められているルネ・マグリットを考えよう。
 例えば、『光の帝国』であるが、そこでは、昼と夜が絶対的差異となって共立していると、それも一如態をもって共立していると言えよう。
 持論はルネ・マグリットの絵画はシュルレアリスムではないというものであり、これでそれが説明できると言えよう。
 だから、ロレンスの差異共立的リアリズムに類似すると言えよう。このリアリズムをとりあえず、トランス・リアリズムと呼ぶことにしよう。
 さて、最後にさらに深化させると、MP1の差異共立からマイナス1への反転・回帰・再帰が考えられるのである。不可視界、「ダーク・マター」の領域になるのである。
 思うに、MP1の差異共立の一如態の感覚知覚は、神秘性、霊性をもっている。MP2は物質的感覚があるのに対して。
 思うに、MP2において、光があるならば、MP1には非光があるはずである。それを闇と呼ぶのは語弊が大きいのでやめる。
 それは、原光、プロト・ライトと言うことができよう。(以前述べた、凸iが原光であり、凹iが原闇であることにおける原光ではない。)
 これは、マイナス1のダーク・マター(暗黒物質)から生まれたものである。
 そう考えると、闇と光の中間領域のようにも考えられる。Twilightである。そう、そう呼ぼう、即ち、MP1にある原光とはTwilightであるということである。
 つまり、

Darkness⇒Twilight ⇒Light

ということになる。
 比喩的に言えば、Twilight Phosphorescenceと言えよう。ロレンスのTwilight、マグリットの不思議な漂う光輝、また、宮沢賢治の銀河の燐光は、MP1の原光を指しているのではないだろうか。
 思うに、青色はここに生じるのではないのか。闇から光へと進入するときのブルーではないのか。
 そして、逆に、光から闇へと進入するときに赤色が生まれるならば、それは、主にMP2から生起するのではないのか。
 そうならば、太陽とはMP2に存するのであり、不可視の太陽、霊的太陽はMP1に存すると言えるだろう。ロレンスが説いたDark sunとは、このことだろう。

参考:

D.H. Lawrence

Twilight in Italy
2. The Lemon Gardens

It is past the time to leave off, to cease entirely from what we are doing, and from what we have been doing for hundreds of years. It is past the time to cease seeking one Infinite, ignoring, striving to eliminate the other. The Infinite is twofold, the Father and the Son, the Dark and the Light, the Senses and the Mind, the Soul and the Spirit, the self and the not-self, the Eagle and the Dove, the Tiger and the Lamb. The consummation of man is twofold, in the Self and in Selflessness. By great retrogression back to the source of darkness in me, the Self, deep in the senses, I arrive at the Original, Creative Infinite. By projection forth from myself, by the elimination of my absolute sensual self, I arrive at the Ultimate Infinite, Oneness in the Spirit. They are two Infinites, twofold approach to God. And man must know both.

But he must never confuse them. They are eternally separate. The lion shall never lie down with the lamb. The lion eternally shall devour the lamb, the lamb eternally shall be devoured. Man knows the great consummation in the flesh, the sensual ecstasy, and that is eternal. Also the spiritual ecstasy of unanimity, that is eternal. But the two are separate and never to be confused. To neutralize the one with the other is unthinkable, an abomination. Confusion is horror and nothingness.

The two Infinites, negative and positive, they are always related, but they are never identical. They are always opposite, but there exists a relation between them. This is the Holy Ghost of the Christian Trinity. And it is this, the relation which is established between the two Infinites, the two natures of God, which we have transgressed, forgotten, sinned against. The Father is the Father, and the Son is the Son. I may know the Son and deny the Father, or know the Father and deny the Son. But that which I may never deny, and which I have denied, is the Holy Ghost which relates the dual Infinites into One Whole, which relates and keeps distinct the dual natures of God. To say that the two are one, this is the inadmissible lie. The two are related, by the intervention of the Third, into a Oneness.

There are two ways, there is not only One. There are two opposite ways to consummation. But that which relates them, like the base of the triangle, this is the constant, the Absolute, this makes the Ultimate Whole. And in the Holy Spirit I know the Two Ways, the Two Infinites, the Two Consummations. And knowing the Two, I admit the Whole. But excluding One, I exclude the Whole. And confusing the two, I make nullity nihil.

http://www.online-literature.com/dh_lawrence/twilight-in-italy/3/




ルネ・マグリット『光の帝国』
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/8951/sur.html


銀河鉄道の夜

『銀河鉄道の夜』(ぎんがてつどうのよる)は、宮沢賢治 の童話 作品。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語。
あらすじ [編集 ]
天の川 (7月22日)

一、午后の授業
銀河系 の仕組みについての授業。天の川 について先生に質問されたジョバンニは、答えを知りつつ答えることができない。次に指されたカムパネルラも、答えない。
二、活版所
放課後、ジョバンニは活版所 で活字 拾いのアルバイトをする。周囲の大人たちの態度は冷ややかである。仕事を終えたジョバンニは、パン と角砂糖 を買って家へ急ぐ。
三、家
牛乳 の未配達を知る。病気の母と、漁に出たきり帰ってこない父のことやカムパネルラのことなどを話す。牛乳屋へ行くついでに烏瓜 のあかりを川へ流す のを見に出かける。
四、ケンタウル祭の夜
母の牛乳を取りに牛乳屋に行くが、出てきた老婆は要領を得ず牛乳をもらえない。途中で、同級生のザネリたちに会い、からかわれる(一緒にいたカムパネルラは気の毒そうに黙って少し笑っている)。銀河の祭りに行くザネリたちと反対に、ジョバンニは一人町外れの丘へ向かう。
五、天気輪の柱
天気輪 の柱の丘でジョバンニは一人寂しく孤独を噛み締め、星空へ思いを馳せる。
六、銀河ステーション
突然、耳に「銀河ステーション」というアナウンスが響き、目の前が強い光に包まれ、気がつくと銀河鉄道に乗っている。見るとカムパネルラも乗っていた。
七、北十字とプリオシン海岸
北十字 の前を通った後、白鳥 の停車場で20分停車する。二人はその間にプリオシン 海岸へ行き、クルミ の化石を拾う。大学士が牛 の祖先の化石 を発掘している現場を見る。
八、鳥を捕る人
気のいい鳥捕りが乗車してくる。彼は、鳥を捕まえて売る商売をしている。ジョバンニとカムパネルラは鳥捕りに雁 を分けてもらい食べるが、お菓子 としか思えない。突然鳥捕りが車内から消え、川原でさぎを捕り、また車内に戻ってくる。
九、ジョバンニの切符
(以下、全体のおよそ半分にわたり章立てはない)
アルビレオ の観測所 の近くで検札 があり、ジョバンニは自分の切符 だけが天上でもどこまででも行ける特別の切符であると知る。
鷲 の停車場のあたりで、鳥捕りが消え、青年と姉弟が現れる。彼らは、乗っていた客船が氷山 に衝突して沈み、気がつくとここへ来ていたのだという。かおる(姉の少女)とは長い会話を交わす。
蠍(さそり) の火を眺めながら、かおるは「やけて死んださそりの火」のエピソードを話しはじめ、ジョバンニたちは、黙ってそれを聞く。その後列車はケンタウル の村を通過する。少女たちと別れ際に、「たった一人の本当の神様について」宗教的な議論が交わされる。
天上と言われるサウザンクロス(南十字) で、大半の乗客たちは降りてゆき、ジョバンニとカムパネルラが残される。二人は「ほんとうのみんなのさいわい」のために共に歩もうと誓いを交わす。その直後、車窓に現れた石炭袋 を見たふたりは、非常な恐怖に襲われる。ジョバンニはカムパネルラをはげますが、カムパネルラは気の乗らない返事したのち、「あすこにいるの僕のお母さんだよ」といい残し、いつの間にかいなくなってしまう。
一人丘の上で目覚めたジョバンニは町へ向かう。カムパネルラが、川に落ちたザネリを救った後、溺れて行方不明になったことを知る。カムパネルラの父(博士)からもうすぐジョバンニの父が帰ってくる手紙が来たと告げられる。ジョバンニはまだ暖かい牛乳と父の知らせを持って母の元に帰る。

解説 [編集 ]

漁から戻らない父のことでクラスメイトにからかわれ、朝夕の仕事のせいで遊びにも勉強にも身が入らない少年ジョバンニは、周りから疎外され、あたかも幽霊のような存在として描かれている。星祭りの夜、居場所を失い、孤独をかみしめながら登った天気輪の丘で、銀河鉄道に乗り込み、親友カムパネルラと銀河めぐりの旅をしばし楽しむ。旅の終わりにジョバンニはカムパネルラに、どこまでも一緒だと誓うが、カムパネルラは消えてしまう。悲しみのうちに目覚めたジョバンニは、まもなくカムパネルラが命を犠牲にして友達を救った事実を知る。この瞬間、ジョバンニは銀河鉄道の旅が何を意味していたのか気づき、日々の犠牲のひとつひとつの総和が、カムパネルラと共に行くことに等しいと悟る。さらに父が間もなく帰ってくることを知らされ、勇気づけられる。こうしてジョバンニは星祭りの夜、幽霊であった自分と決別して、母の元に戻ったのである。(以上、諸説あるため細部には触れず概略のみ記述)

その他、旅の出発前の風景描写として、老婆、黒い松林、カラス、黒い門、冷たい草など死を予感させる表現があるのに対し、旅から戻った後の風景描写として、白い牧場、白いズボンの労働者、子牛、熱い乳など生を感じさせる表現が使用されている点に注目。
みなみじゅうじ座 の石炭袋 。上方の明るい2つの星はβ星 とα星 。

銀河鉄道の旅は、銀河に沿って北十字から始まり南十字で終わる異次元の旅であり、ふたつの十字架はそれぞれ石炭袋を持っている[1] 。石炭袋が一般に暗黒星雲 だと知られるようになったのは最近のことであり[2] 、かつては天文分野の専門書でもしばしば「空の穴」と表現されていた[3] 。賢治は南北ふたつの石炭袋を冥界と現世を結ぶ通路として作品を構成した[2] とされている。

南十字の天上に行かなかったカムパネルラの行方については、ブルカニロ編にふれ輪廻 したという解釈[4] や、母の記述にふれ、万物の母 の元に帰ったという解釈[5] など、様々に解釈されていて定説はない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%B2%B3%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AE%E5%A4%9C


2010年07月06日(Tue)▲ページの先頭へ
D. H. ロレンスの聖霊論の分析:獅子・父・闇と一角獣・子・光の闘争の王冠・聖霊的融和・和解
一番町にある駐日英国大使館正門の英国王室の紋章

http://homer.pro.tok2.com/sub8-24%28eikokutaisikann%29.htm

麹町ウぉーカーTOP


D. H. ロレンス(以下、ロレンス)の聖霊論(エッセイ『王冠』に述べられている)はある意味できわめてPS理論に酷似しているが、内容が独特で難解である。しかしながら、PS理論の視点から解明を試論したい。
 ロレンスは、キリスト教三位一体を換骨奪胎して、自身の聖霊哲学を述べる。
 それは、父と子が絶対的に対立するが、聖霊において、調和するという哲学である。
 父とは、一応、自我であるが、それは、近代的自我ではない。この点が根本的に重要である。ロレンスは旧約聖書のダビデがその代表であるとした。霊的ではなく、官能的な自我なのである。
 それに対して、子とはイエス・キリストである。(今、気づいたが、ロレンスは『王冠』において、獅子と一角獣の闘いが上部の王冠において調和するということを述べていたのである。獅子が父であり、一角獣が子であり、王冠が聖霊である。) 子とは、愛、無我・無私の精神である。それは、他者の精神である。
 言い換えると、官能性と精神性の絶対的対立・闘争とその和解・調和を説いているのである。
 ざっと以上のように基礎を確認して、PS理論から解明していこう。
 ロレンスの獅子=父は「自我」というものの、それは、単純に凸iにはならない。何故なら、それは、感覚・官能・身体的であるからである。
 これをどうみるのか。(また、今想起したが、獅子=父=闇で、一角獣=子=光という図式であったと思う。)
 闇は凹iの闇ではなく、マイナス1の「闇」に通じると思われるのである。おそらく、MP1に関係するものである。何故なら、それは、差異共立的一如であり、いわば、精神と肉体が一如的な様態であると考えられるからである。
 おそらく、母権的宗教、母神的宗教の様態に近いように思えるのである。
 次に、光の子・一角獣であるが、それは何か。それは、明らかに、凹iの精神のように思えるのである。無我・無私であるからである。
 ただし、光となっているので、単に、凹iではない。凹iを凸iで捉えた精神ではないだろうか。だから、一種、差異共振精神ではないのだろうか。言い換えると、他者性を知覚した精神である。単に、他者である凹iではない。だから、一種の衝突であり、差異共振の光ではないだろうか。そう作業仮説しよう。
 つまり、これは、他者の同一性化があるのである。他者の自我化である。とまれ、自我と他者(無我)の共振様態として考えよう。だから、MP2である。
 以上から、獅子=父=闇はMP1に、一角獣=子=光はMP2に関わることが判明した。
 そうすると、両者の闘争・対立とは、Media Pointにおける両極の対立ということになる。あるいは、差異と同一性との闘争・対立である。
 そして、王冠=聖霊が闘争・対立を和解させるということなのである。というか、両者の闘争・対立が王冠=聖霊という特異な時点を迎えて、和解・調和するということなのである。
 その聖霊の特異な時点とは何か。それは、MP1の差異共立的一如様態とMP2の差異共振様態とが調和するときではないのか。
 それは、MP1とMP2との即非的様態を現前するときではないのか。あるいは、両者の不連続的様態を認識するときではないのか。
 ならば、それは、正に、PS理論的Media Point Balanceと呼べるものではないのか。あるいは、Media Point Harmony、Media Point Peaceである。
 ロレンスは先駆者的にPS理論の核心を直観・直感していたと考えられるのである。


2010年07月04日(Sun)▲ページの先頭へ
「反共振」について:i*-(-i)とは何か:我と無我の共立と共振:絶対的差異共立と連続的差異共振
先に、生成門氏の人間認識原理の反共振について、問題提起をしたので、ここで再考したい。
 私は差異共振、つまり、生成門氏の言うMP2(実軸ゼロ点)において、牽引と反発(斥力)を先に考えた。
 牽引とは、他者の自己同一性的支配であり、反発とは、他者への否定である。だから、同じものである。
 差異共振とは、正に、近代主義的である。それは、差異共立を排除していると考えられる。
 思うに、教養とは本来、差異共立を説くものであったが、近代主義である差異共振的同一性主義(=近代合理主義、唯物論)によって排除されたのである。
 差異共振の牽引と反発とは、有り体に言えば、愛憎の二面性のことである。これは平凡な事柄である。
 重要なのは、差異共立である。それは、トランス差異共振である。先にも触れたが、即非とは、差異共立を指すと観るのが正しい。
 故に、Media PointにおけるMP1(虚軸のmedia point)とMP2(実軸のmedia point)の関係が枢要なのである。
 この二つのゼロ点が生起したのが、イタリア・ルネサンスである。しかし、西欧の父権的傾斜によって、MP2が支配的となったのである。それがデカルト哲学である。
 しかし、MP1も少数派であるが、活動していたのである。そう、言おう。個とはMP1に、自我はMP2に基づくと。
 結局、近代文化において、MP1とMP2との混淆様態が支配的であったと言うことができよう。
 しかしながら、近代合理主義はMP2の支配を意味するのであり、MP1は徹底的に否定・排除されたのである。超越性の否定である。
 それに対して、混淆様態の蠢きから、結局、ポスト・モダンが生まれたと言えよう。つまり、MP2では割り切れないものが正当に精神に蠢いていたのである。
 しかしながら、混淆であるから、精密な分節化が為され得ないのである。その結果がデリダの差延であり、ドゥルーズの差異=微分である。(デリダの方が、混淆を保持したと言えるが、ドゥルーズは混淆を極小同一性へと転化させてしまった。)
 結局、ポスト・モダンはMedia Pointを明晰に解明できなかったので、行き詰まったのである。換言すれば、近代合理主義、唯物論による超越性の否定が抑圧的に作用していたので、混淆様態や差異共振に留まったと言えよう。
 これを理論的に打開したのが不連続的差異論である。これが、混淆様態を打破して、同一性と差異との絶対的間隙を明確にしたのである。
 そして、PS理論は数学的に、不連続的差異論を発展させたのである。結局のところ、差異共立(即非)と差異共振の絶対的間隙があるのが判明したのであり、それは、精神と物質の絶対的間隙を意味するのである。
 これは、ブレーク・スルー的に決定的である。正に、ポスト・ポスト・モダン、トランス・モダンである。
 言い換えると、近代主義が抑圧した超越性が復権したのである。それも、物質を包摂した形で。
 ということで、本題にもどると、差異共振こそ、混淆態であろうし、その結果の同一性が近代原理を意味すると言えよう。それは、⇒+1である。
 では、差異共立はどう説明できるのか。これは直観では、マイナス1と一体である。あるいは、マイナス1の表層である。
 端的に、差異共立とはMP1、即ち、虚軸のゼロ点の様態である。不連続的差異論は直観的にMP1を捉えたものと言えよう。
 では、差異共立とはPS理論的にどう数学化されるかである。
 Kaisetsu氏は和と述べている。差異共立一如態を述べるのに、和というのは考えられることである。私は商を説いているが。
 とまれ、差異共立を私は暫定的に、凸i#凹iとして表記した。私見では、-1⇔(凸i#凹i)である。 これは、静の様態である。いわば、平安、平和、サラームである。
 これは、生成門氏の説く反共振である。即ち、i*-(-i)⇒-1である。
 問題は-(-i)の最初のマイナスの意味である。これは、積である共振の否定として観るべきではないだろうか。
 何故なら、*は積、共振を意味すると考えられるのであり、その意味での他者-iの否定である。言い換えると、連続的他者の否定ということであり、絶対的他者の否定ではないのである。
 つまり、私見では、i*-(-i)とは凸i#凹iのことであり、絶対的他者-iは否定されていないのである。
 言い換えると、*とは差異共振を意味する記号であり、それは、差異をそもそも連続化していると考えられるのである。即ち、連続的差異=微分を前提としているのである。
 だから、差異共立=即非を意味するには、*とは異なる記号を使用する必要があると考えられるのである。
 私が仮に、暫定的、便宜的に、#の記号を使用して、差異共立を意味させているのである。だから、凸i#凹i⇒凸i*凹iとなる。MP1⇒MP2である。
 以上から、生成門氏の反共振i*-(-i)⇒-1について、差異共立の視点から解明を試みた。
 それは、絶対的他者=絶対的無我の否定ではなく、連続的他者=連続的無我の否定を意味すると考えられるのである。
 今はここで留める。


2010年07月03日(Sat)▲ページの先頭へ
生成門氏のPS理論的深化としてのガウス平面的人間認識原理
生成門氏の新しい論考への私のコメントをここに転載します。

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[452] Re:PS理論の応用原理<人間編>暫定版メモ


From: Renshi

生成門さん

PS理論的人間認識概念図の総体がコンパクトに整理(秩序化)、チャート化されていて、意義深いです。とりわけ、追加は奥義を簡潔に述べていて、感銘深いです。
 しかし、以下の箇所については少し疑問があります。というのは、以下の原理説明では、マイナス1が否定的なものとなっているからです。もっとも、生成門さんの論理ではそれは首尾一貫しているのは確かですが。
 私も後で再考するつもりですが、果たして、自我を肯定して、無我を否定する場合、-1となるのかということです。
 私見では、自己中心主義になるのは、無我を排除するからであり、それを無我の否定して捉えていいのかということになります。つまり、-(-i)でいいのかということです。
 実はこの問題は私自身相当悩みました。
 とまれ、生成門さんの原理に従えば自我を肯定して、無我を否定したときに、-1となりますが、そうならば、自我主義はなんらかダーク・マターに通じているということになるでしょう。
 これは面白いですね。利己主義は暴力ですが、この暴力がダーク・マターから来ていると考えることは。
 そうならば、同一性=物質(+1)と連続したダーク・マター(-1)であるということになります。
 私見では、差異共立(反共振)と共存するダーク・マター(-1)とは、当然、差異共振(的同一性+1)とは不連続であります。故に、自我主義と自己認識とは、両者はダーク・マター(-1)に関係しているが、相違点は、前者が連続態であり、後者が不連続態であるということになります。

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第36の原理:自我を肯定し、無我を肯定する中庸状態は、第1、2象限の作用の結果として+1に配置する。
第37の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ自我優位の偏向状態は、第1象限の作用の結果として+1(凸)に配置する。
第38の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ、無我優位の偏向状態は、第4象限の作用の結果として+1(凹)に配置する。
第39の原理:自我を肯定し、無我を否定、ないし、自我を否定し、無我を肯定する中庸状態は、第3象限の作用i*-(-i)⇒-1と-i*-i⇒-1の結果としての−1に配置する。
第40の原理:自我を肯定し、無我を否定する自我優位の偏向状態は、第3象限の作用i*-(-i)⇒-1の結果としての−1(凸)に配置する。
第41の原理:自我を否定し、無我を肯定する無我優位の偏向状態は、第3象限の作用-i*-i⇒-1の結果として−1(凹)に配置する。
第42の原理:自我を肯定し、他を肯定するもの、又は、自我を否定し、他を否定するものは、第1と4象限の作用i*-i,-i*-(-i)⇒+1の結果として+1(凸) 、+1、+1(凹)に配置する。

http://www.c-player.com/ad00178/message


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参考:

PS理論の応用原理<人間編>暫定版メモ (0)

シムダンス「四次元能」


2010年06月29日(Tue)▲ページの先頭へ
気のPS理論的解明
気のPS理論的解明

テーマ:プラトニック・シナジー理論

以下、Kaisetsu氏が「気」についてPS理論的に解明しているので、ご参照ねがいたい。
 さて、e^iwtが気ということであるが、これは、わかりやすく言えば、オイラーの公式のPS理論的変形

e^±iθ⇒cosθ±isinθ

の時間的変形である。

ここで、私の直感から「気」について考えると、「気」は、差異共立一如様態から発生するのである。虚軸ゼロ点からである。Kaisetsu氏の解明は、この点にあると考えられる。
 では、問題は、右辺である。回転運動である。これと気とはどう関係するのか。思うに、右辺は「精神現象」ではないだろうか。
 +1のときは、物質的知覚であり、近代世界である。あるいは、近代的自我/近代合理主義の世界である。近代資本主義の世界である。
 しかるに、実際は、精神現象は円運動、それも、凸iと凹iによる双極的運動(陰陽活動)を行なっているはずである。
 とまれ、思うに、第一象限と第四象限が日常世界であり、第二象限と第三象限が非日常世界ないしは夜の世界、睡眠の世界であろう。光の世界と闇の世界である。もっとも、これは、陰陽の光と闇とは異なる。(この区別を後で明晰にする必要がある。
 結局、右辺の世界であるが、これは、生成門氏のaの問題と通じよう。
 これは、差異共立と差異共振の混淆した精神現象世界のことではないのだろうか。これは、四極的であり、media pointを考えると、五極的、五元論となるだろう。
 余裕のあるとき、丁寧に考えたい。

追記:
 気について、より直観的に述べたい。
 例えば、差異共立一如精神現象が生起するのは、当然、常時というわけではない。特異な時空間で起きるのである。とまれ、それは、θがπ/2ないしは、π3/2のときである。そのとき、凸iと凹iの差異共立が生起するのである。しかしながら、同時に、差異共振も形成されるので、同一性=物質も存するのである。そうすると、即非様態とは、差異共立と差異共振との両立(共立・即非・共振)にあると見た方がいいかもしれない。とまれ、これは、⇒+1の様態である。
 しかしながら、差異共立精神現象ないしは、即非精神現象が発生する以外のときは、

e^iwt⇒ coswt + isinwt

のKaisetsu氏の方程式から見ると、右辺であると考えられる。つまり、言うならば、日常意識現象方程式である。
 では、端的に、あるいは、有り体に言えば、これは、何なのか。実数部位は、意識であり、虚数部位は、非意識(深層心理学の無意識との混同を避けるため、非意識という用語を用いる)ではないのか。
 通常の意識は、当然、虚数部位を意識していないが、それは確実に「実在・実存」するものである。
 しかしながら、PS理論的精神・心は、この非意識部位をそれなりに察知・感知していると思う。
 これは、実は、芸術的認識だと思う。あるいは、直観・
直感的認識に通じると思う。
 傑出した芸術家は、本来、この非意識部位をも表現してきたと考えられる。正確に言えば、実数部位と虚数部位の和を表現してきたのである。何故なら、近代的意識とは、本来、+1に過ぎないからである。
 実数部位はいわゆる写生主義に、虚数部位は抽象主義やシュルレアリスムやファンタジーになったとのではないだろうか。もっとも、大作家は両方を描いていると考えられる。(私は、これが、だんだん、ライプニッツのモナドに近いものだと感じてきている。あるいは、西田の創造的モナドである。)
 否、実数部位は写生主義ではない。これは、やはり、意識の流れの内面のつぶやきである。
 では、写生主義とはどうなるのか。それは、先に考察したヴィジョンの問題と関係するだろう。写生主義は、+1ではなくて、⇒+1であろう。つまり、写生主義は、media pointの精神・心を必要とするのである。それが、映像を生み出すと考えられる。つまり、例えば、トルストイの小説の映像性であるが、それは、 media pointの差異共立と差異共振の即非意識から表現されていると思う。そのより深化した表現がD. H. ロレンスの小説の鮮烈な映像表現と考えられる。そう、そこには、単に外光だけでなく、内光、内的ヴィジョンが基底にあると推察される。言い換えると、ダーク・マターに由来するダーク・エネルギーの超越光から生まれていると思われるのである。だからこそ、皮相なイメージではなく、ディープな、濃密な映像性が表出されるのだと考えられる。
 さて、整理すると、

e^iwt⇒ coswt + isinwt

は、精神現象方程式であり、近代的世界においては、無視、排除されているものである。何故なら、近代合理主義/近代的自我は、+1の世界であるからである。
 とまれ、補足すると、いわゆる、気持ち、気分と呼ばれるものは、この精神現象方程式で表現されているだろう。優れた作家はこれを明晰、明快に表現するのである。
 また、言語表現の問題は、このような複素数である精神現象を、同一性形式で寸断することである。これは、虚偽の形式とも言えよう。つまり、言語表現は一般には、精神現象を同一性形式に捨象・還元しているのであり、本来は近似値的ないしは形式的な容器に過ぎないのである。
 いろいろ述べたいことがあるが、ここで、情感の問題に触れると、差異共立において、精神的情感があるだろう。そして、差異共振において、所謂、生命=気があるのではないだろうか。
 media pointの差異共立・即非・差異共振様態であるが、これ自体を気と言うのが正当であるようだ。
 ならば、気の上位に精神・霊的情感があり、気の下位に力動的情感(物質的な力動感)があるのではないだろうか。気持ちや気分は後者の面が強いだろう。芸術的情感は前者である。
 シュタイナーは、前者をアストラル体、後者をエーテル体と呼んでいるが、気においては、両者を区別して含めることができる。
 これは勘だが、光とは、下位の気と言えるのではないだろうか。上位の気とは、超越光になるだろう。
  

参考:

「e^iwt」は「気」である。
http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=243

とまれ、以下の物性形成方程式が決定的である。

物性形成方程式(Physical properties formation equation)
http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=240

「PS理論における時空関連式(時空式、Time-space equation,TSE)」の定義から、

時間を変数とする関数である。

e^iht  ⇒ cosht + isinht

また、この式は、角速度を用いて

e^iwt⇒ coswt + isinwt(これを TSEwとする。)

と表せる。



とした。

さらに、

電磁精神作用を左辺、物性作用を右辺に分離した式

e^iwt - isinwt⇒ coswt (これを、TSEw2 とする。)

ド・モアブルの定理より、

cos^wt = 1/2{ e^iwt + e^-iwt }

である。

これは、二つの相互に反対方向のスピンの半分づつの量の和が、「物性作用の右辺」と同じであることを示している。

Fw= (coswt,sinwt,t)
F-w=(cos-wt,sin-wt,t)

とする。

1/2(Fw + F-w) ⇒(coswt,0,t)

となる。

一方、


e^iwt - isinwt⇒ coswt (これを、TSEw2 とする。)







のように、正逆スピン構造を記述する式に変換することに成功した。

 つまり、

T式


Fw= (coswt,sinwt,t)
F-w=(cos-wt,sin-wt,t)

とする。

1/2(Fw + F-w) ⇒(coswt,0,t)

となる。




U式

1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswt



は、PS理論で定義されたように、

左辺に光を含む電磁関連精神作用、右辺は一般的な生活世界空間の事象を置いた関係式であり、

左辺、右辺は、「系の全エネルギーを(一般化された)座標と運動量」を表している。

つまり、「光を含む電磁関連精神作用」が「一般的な生活世界空間の事象」に置換される状況を表した方程式である。

そこで、

T式


Fw= (coswt,sinwt,t)
F-w=(cos-wt,sin-wt,t)

とする。

1/2(Fw + F-w) ⇒(coswt,0,t)

となる。




U式

1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswt



を、

「物性形成方程式(Physical properties formation equation)」と呼ぶ。
Theories for the Platonic Synergy Concept.
プラトニック・シナジー理論の研究



******************

ダーク・マターと物質の位階的関係:マイナス1が主で、プラス1が従である

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・試論・備忘録

これも、「ヴィジョンとは何か」の言わば続きであるが、よりPS理論的量子論的になる。
 今は直観像のみ書く。
 マイナス1のダークマターから虚軸へと一如的差異共立が生成する(差異共立とマイナス1は相互反転的とも言える)。
 そして、虚軸ゼロ・ポイントから実軸ゼロ・ポイントへと振動から転換して、差異共振様態となり、同一性=物質現象が発現する。
 すると、

マイナス1⇒虚軸ゼロ点⇒実軸ゼロ点⇒プラス1

となる。虚軸ゼロ点をimaginary media pointとして、IMPとし、実軸ゼロ点をreal media pointとして、RMPとする(呼びやすくするため、REMPでもいいだろう。だから、IMPとREMPである。)。
 すると、

-1⇒IMP⇒REMP⇒+1

となる。
 IMP⇒REMPをMPで括れば、

-1⇒MP⇒+1

である。しかし、反転を考えると、

-1⇔MP⇒+1

となる。
 結局、私の言いたいことは、物質の世界は、ダーク・マターやダーク・エネルギーが主導しているのであり、後者が優位、前者が劣位のヒエラレルキーをもっているということである。
 さらに、これは作業仮説であるが、IMPから-1へと反転する力(反重力ではないだろうか。)があるので、それは、+1の重力とは拮抗するのであり、それが、おそらく、重力総体よりも大きく、宇宙を膨張させているということではないだろうか。
 これは、

(+i)#(-i)>(+i)*(-i)

ということではないのか。
 余裕のあるとき、精密に考察を行ないたい。


2010年06月22日(Tue)▲ページの先頭へ
Kaisetsu氏の物性形成方程式:PS理論的現象イデア数学理論
Kaisetsu氏がPS理論によって、生成門氏の変形式を使用して、現象形式理論を完成させたと言っていいのではないだろうか。スピンにしろ、二重らせんにしろ、また時間的現象論にしろ、明快、明晰に、PS理論的数学科学的に解明されていると直感される。
 是非、ご覧になられたい。

追記:PS理論的物質発生の方程式であるが、シュタイナーの霊性的物質論と比較してみたくなる。
 問題は、生成門氏が明確化した⇒の両辺は次元の違いを意味するということである。左辺が霊性になるのであり、右辺が物質になるのである。
 問題は、左辺と右辺との関係である。私見では、⇒+1の⇒と+1との関係になる。
 思うに、私が混乱していると思われるのは+1を同一性と見ていることにあるのではないだろうか。
 +1は、高次元エネルギーの帰結として発生する物質である。もっとも、高次元エネルギーの同一性変換としての物質ということは考えられるだろう。
 ならば、やはり、同一性として物質を確認すべきである。この同一性=物質を凸iに傾斜した主体(父権的主体)が認識するので、マイナス1やmedia pointを排除した同一性科学、唯物科学、近代科学が発生したと考えられる。
 とまれ、シュタイナーが物質とは霊の砕け散ったものと述べたことであるが、確かに、高次元から見れば、同一性=物質は砕け散った様態に見えるかもしれない。
 そう、差異共立と差異共振の両様態をもつmedia pointを考えると、確かに、+1は、砕け散った姿と言えないことはないだろう。
 結局、混乱するのは、形態(形状)と物質の関係である。例えば、螺旋という形態・形状があるが、それと物質との関係である。思うに、高次元エネルギーの形態・形状があり、それが、主に螺旋になるというのは考えられる。
 私は⇒+1における、⇒と+1との関係を知りたいのである。これは、虚軸のゼロ点と実軸のゼロ点の関係である。ここには断絶があるだろう。だから、 ⇒+1においては、⇒は虚軸ゼロ点に位置し、+1は実軸ゼロ点から+1へと生起したものとなる。
 つまり、虚数即非エネルギーは、不連続なまま、同一性=物質=+1を発生させると言えよう。つまり、これまで確認した通り、⇒と+1は不連続なのである。つまり、高次エネルギーによる物質形成とは、不連続な生成作用であり、エネルギーと物質とは別物である。
 だから、高次元エネルギーの形態と同一性=物質の形態とは当然、同一ないしは類似したものになるが、質的には異質なものと言えよう。両者の間には、絶対的間隙があるのである。
 例えば、朝顔の蔓を考えると、高次元エネルギーが賦活されていれば、朝顔の蔓は伸びていき、蕾をつけ、開花し、結実する。しかしながら、高次元エネルギーの賦活がなくなると、物質としての朝顔は解体・崩壊するのである。つまり、物質+1は朝顔の形態を喪失して解体するのである。この事態をシュタイナーは物質とは、霊の砕け散ったものと表現したのではないだろうか。
 とまれ、media pointのエネルギーは振動しているのであり、生成と消滅の周期をもつ原生命である。とまれ、生命については後で詳論を試みたい。

追記2:まだ、高次元エネルギーの形態と物質の形態の関係が明確になっていない。
 つまり、高次元エネルギー形態とは、当然、物質現象の形態となる。この一致が⇒+1に表記されていると言えよう。つまり、⇒+1は、高次元エネルギー形態と物質形態との一致を表現しているだろう。
 しかしながら、高次元エネルギーが枯渇すると、⇒はなくなり、+1が独立する。そのとき、物質形態は崩壊するということだろう。
 さて、違う疑問であるが、高次元エネルギー形態とは、最初、エイドス的なもので、高次元に存すると感じていたが、そうではなかった。
 私がイメージしているのは、イデア的形態である。あるいは、イデア的原型である。ゲーテが原植物と考えたようなものである。
 それは、Kaisetsu氏のVector Modeに関係する。それは、⇒の形態であろう。なぜなら、⇒+1は物質形態であるからである。
 この⇒の「空間」とは何処にあるのだろうか。これは、作業仮説であるが、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点の間隙にあるのではないだろうか。言い換えると、「空」の領域に、イデア的形態があるのではないだろうか。今はここで留める。

*****以下、一部転載*****

上の稿で提示した次の方程式について、「物性形成方程式(Physical properties formation equation)」と呼ぶことにする。

 Fw= (coswt,sinwt,t)
F-w=(cos-wt,sin-wt,t)

とする。

1/2(Fw + F-w) ⇒ (coswt,0,t)



 

1/2(Fw + F-w) = (coswt,0,t)のガウス平面に於ける記述は、

 1/2(e^iwt + e^-iwt) ⇒coswt




この説明に入る。

 まず、PS理論の二人称自己認識方程式

i*(-i)⇒+1

で、左辺は光を含む電磁関連精神作用、右辺は一般的な生活世界空間の事象と仮定した。その後、Renshi氏、生成門氏及び海舌(明日野)の研究によって、この仮定によってPS理論を発展することの合理性が定着してきた。

i*(-i)⇒+1

の理論的背景には、

e^iθ=cosθ + isinθがある。

生成門氏は、

「i*(-i)⇒+1」の背景を説明する過程で

e^iθ - isinθ ⇒cosθ(⇒は次元の違いを表す。)

の式を一般式として提示した。

参照: http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100094989767
http://ps-theory.kaisetsu.org/?day=20100621

Theories for the Platonic Synergy Concept.
プラトニック・シナジー理論の研究


2010年05月31日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:可視界と不可視界:位階的スペクトルと高度超越情報:ver2
ガウス平面を考えよう。
 うまく作図できないので、以下の直交座標系を利用したい。即ち、y軸を虚軸と、x軸を実軸とする。そして、x軸の10を1、-10を-1となり、y軸の 10は+i、-10は-iとなる。
 虚軸(y軸)に、イデア(超越情報)があり、それが、Media Pointで振動し、それが、実軸(x軸)へとベクトル的に伸張する。そして、+1の物質へと帰結する(エンテレケイア)。イデア(超越情報)をデュナミスとし、Media Pointの振動をエネルゲイアとする。
 現象界は当然、実軸に形成される。つまり、物質界は+1となる。しかしながら、エネルギー本体はMedia Pointに存する。
 問題は光である。それは、電磁波であり、波動であり、粒子(光子)である。それは、また、質量がない。
 質量がないというのがポイントである。だから、物質ではないのであり、やはり、Media Pointのエネルギーと考えるのが適切である。
 現象とは、この光と物質界の結合である。しかし、光と物質は一致しないのである。不連続なのである。
 つまり、われわれが、通常感覚知覚する現象界・可視界は不連続であるのだが、それを連続的に知覚認識しているのである。(仏教やフッサール現象学はこれを解体し、解明したという大偉業を成し遂げた。)
 言い換えると、Media Pointを同一性(+1)=物質と同一視するという錯誤を犯しているのである。
 私がここで問題にしたいのは、Media Pointであり、また、虚軸世界(虚界)のことである。前者には、超越的双極子(超越エネルギーがあり、後者には、超越的情報(イデアないしはデュナミス)があると作業仮説する。
 光もここに生起するのである。問題は、光の場合は当然、可視光であるが、光以外の超越エネルギー(超越双極子:簡略化して、超極子)が生起すると考えられ、それは、不可視のエネルギーであると考えられるのであり、その不可視エネルギーはどういう意味をもつのかということである。
 言い換えると、虚界と接するMedia Pointにおいて、可視光が生起すると同時に、それ以外の不可視エネルギーが生起するのであり、それは、いかなる意味をもつのかという問題である。
 可視光は視覚知覚され、現象界を形成するので、明快である。しかしながら、不可視エネルギー、あるいは、矛盾した言い方だが、不可視光が生起されるのであるが、それが、通常、一般には認識されていないと考えられる。
 ここでわかりやすく言えば、紫外線や赤外線は感覚知覚できないのである。しかし、それ以外の超越的エネルギー、電磁波が当然あるのである。
 そして、これも作業仮説であるが、虚界には、位階的スペクトルを成す超越情報(イデア)があると考えたい。
 つまり、単に、電磁波の情報が虚界にあるのではなく、位階的な電磁波が存すると思われるのである。
 例えば、叡知体の電磁波情報があるように考えられるし、また、生命を形成するエーテル体(「気」)も存すると考えられるし、また、情感を形成するアストラル体も存するように思われるのである。
 以前、ガウス平面に直交するZ軸を考えて、それを超越情報軸と想定したが、そのように考えるべきか、それとも、虚軸に位階スペクトルを見るべきなのかという問題があるが、今の時点では、後者の考えをとる。もっとも、両者は、統一できるかもしれない。つまり、高度超越情報が、虚界からMedia Pointに伝わり、それで、超越エネルギーが高度超越情報で変調されるという風に考えられなくないからである。つまり、超越エネルギーを搬送波、高度超越情報を信号波として、両者の共振を被変調波と考えるのである。
 とまれ、Media Pointには、位階的スペクトルがあると考えるのであり、それは、不連続的である。喩えて言えば、竹を考えて、その節を不連続性の境界と見るのである。
 このように質的差異を考えると、量的な連続的電磁波的発想を回避できる。例えば、宗教的発想で、通常の電磁波よりも微細な周波数の電磁波を考えて、それを、霊とするような考えである。これでは、電磁波、即、霊となってしまうのである。
 以上のように作業仮説してみると、Media Pointには、明らかに、不可視の諸エネルギーが鬱勃と蠢動奔出しているのであり、通常、一般には、それを無視し、抑圧・排除・隠蔽していると考えられるのであり、この抑圧等が反動化して、暴力的な、狂気的なエネルギーになると考えられる。所謂、無意識とは、これを指すと考えると、的確、正確になるだろう。
 そして、不可視の諸エネルギーには、神霊エネルギー、天使・精霊エネルギー、霊魂エネルギー等の高位エネルギーがあり、また、より低位に情感エネルギーや気エネルギー(エーテル体)等、また、悪意的エネルギー(悪魔・悪霊エネルギー)等があるのではないだろうか。
 また、虚界に記録されている高度超越情報とは、物質界ないしは現象界から見ると、無時間世界にあり、それは、過去・現在・未来の情報であり、アカシック・レコードと阿頼耶識はそれに相応するものと思われる。
 虚界、Media Pointは、虚時間、あるいは、超越エネルギー振動の時間が支配し、それが展開して、現象界を常時生成消滅させているのではないだろうか。
 時空四次元宇宙とは、超越五次元トランス・コスモスの断面のようなものではないだろうか。現世界では、虚界の位階的スペクトル(ヒエラルキー的スペクトル)の超越的彫刻(天刻、天銘記、天記)が不可視なのである。
 ダーク・エネルギーは正しくはこれを指しているのではないだろうか。また、D. H. ロレンスのダーク・ゴッドdark Godもこれを指しているように思えるのである。


参考・参照


直交座標系による平面上の点の座標と四つの象限
             
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BA%A4%E5%BA%A7%E6%A8%99%E7%B3%BB


FM変調の原理 上:搬送波,中:信号波,下:被変調波
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E5%A4%89%E8%AA%BF  
 


ファイル:Bamboo forest.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9


ダークエネルギー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ダークエネルギー (dark energy) とは宇宙に存在するエネルギーの半分以上を占めるとされるが正体が明らかでないエネルギーである。「真空 のエネルギー」等がそうとされる。
概要 [編集 ]

ダークエネルギーとは、宇宙 全体に広がって負の圧力を持ち、実質的に「反発する重力」としての効果を及ぼしている仮想的なエネルギー である。宇宙論 研究者のマイケル・ターナーが最初に作った言葉であるとされる。現在観測されている宇宙の加速膨張や、宇宙の大半の質量 が正体不明であるという観測事実を説明するために、宇宙論の標準的な理論(ロバートソン-ウォーカー計量 )にダークエネルギーを加えるのが現在最もポピュラーな手法である。この新しい宇宙論の標準モデルをΛ- CDMモデル と呼ぶ。現在提案されている2つのダークエネルギーの形態としては、宇宙定数 とクインテセンス (quintessence) がある。前者は静的であり後者は動的である。この二つを区別するためには、宇宙膨張を高い精度で測定し、膨張速度が時間とともにどのように変化しているかを調べる必要がある。このような高精度の観測を行うことは観測的宇宙論の主要な研究課題の一つである。
ダークエネルギーの提唱 [編集 ]

宇宙定数 はアルベルト・アインシュタイン によって、静的な宇宙を表すような場の方程式 の定常解を得るための方法として最初に提案された(つまり、実質的にダークエネルギーを重力 と釣り合わせるために用いた)。しかし後に、アインシュタインの静的宇宙は、局所的な非一様性が存在すると最後には宇宙スケールで膨張または収縮が暴走的に起こるため、実際には不安定であることが明らかになった。また、より重要な点として、エドウィン・ハッブル の観測によって、宇宙は膨張しており、静的ではありえないことが明らかになった。この発見の後、宇宙定数は歴史上の奇妙な存在としてほぼ無視されることとなった。

1980年代 には佐藤勝彦 やアラン・グース が、ごく初期の宇宙で宇宙定数が宇宙のインフレーション を起こした可能性を提案した。しかしインフレーションモデルが広く受け入れられた後でも、宇宙定数はごく初期の宇宙においてのみ重要であり、現在の宇宙とは無関係であると信じられていた。しかし、1990年代の終わりに人工衛星 と望遠鏡 の黄金時代を迎えると、遠方の超新星 や宇宙背景放射 を高い精度で測定することが可能になった。これらの観測で驚くべき結果が得られたが、これらの結果のうちのいくつかは、何らかの形でダークエネルギーが現在の宇宙に存在すると仮定すると最も簡単に説明できるものだった。
現象論的性質 [編集 ]

ダークエネルギーには互いに反発する性質があるため、宇宙膨張を加速する原因となりうる。これは物質優勢の宇宙という伝統的な描像で膨張の減速が起こると予想されているのとは対照的である。宇宙の加速膨張は多くの遠方の超新星の観測から示唆されている。

宇宙の全エネルギー密度の研究からも別の議論がもたらされている。理論的・観測的研究から、宇宙の全エネルギー密度は宇宙がちょうど平坦 になる(すなわち、一般相対性理論 で定義される時空の曲率 が大きなスケールで 0 になる)ような臨界密度 に非常に近いことが昔から知られている。(特殊相対性理論 の E = mc2 から)エネルギーは質量 と等価なので、これは通常、宇宙が平坦になるのに必要な臨界質量密度 と呼ばれる。光 を放出する通常の物質の観測からは、必要な質量密度の2-5%しか説明できない。この足りない質量を補うために、ダークマター と呼ばれる目に見える光を放出しない物質の存在が長い間仮定されてきた。しかし、1990年代 に行われた銀河 や銀河団 の観測で、ダークマターをもってしても臨界質量密度の25%しか説明できないことが強く示唆された。もしダークエネルギーが臨界エネルギー密度の残りの約70%を補えば、全エネルギー密度は宇宙が平坦であるのに必要な量と矛盾しなくなる。
推測 [編集 ]

このダークエネルギーの真の正体は現状ではほぼ推測の対象にすぎない。ダークエネルギーは一般相対論の宇宙定数 (Λ) で表される真空のエネルギーではないか、と考える人々も多く、実際、これはダークエネルギーに対する最も単純な説明である。宇宙定数は、時間や宇宙膨張によらず宇宙全体に存在する一様密度のダークエネルギーと解釈できるからである。これはアインシュタインによって導入された形式のダークエネルギーであり、我々の現在までの観測と矛盾しない。ダークエネルギーがこのような形をとるとすると、これはダークエネルギーが宇宙の持つ基本的な特徴であることを示すことになる。これとは別に、ダークエネルギーはある種の動力学 的な場 が粒子的に励起したものとして生まれるとする考え方もあり、クインテセンス と呼ばれている。クインテセンスは空間と時間に応じて変化する点で宇宙定数とは異なっている。クインテセンスは物質のように互いに集まって構造を作るといったことがないように、非常に軽くなければならない(大きなコンプトン波長 を持つ)。今のところクインテセンスが存在する証拠は得られていないが、存在の否定もされていない。

・・・・・
外部リンク [編集 ]

* HubbleSite のプレスリリース: ダークエネルギーの正体に新たな手がかり
* 宇宙の年齢 . 宇宙のエネルギーの組成についても。
* (百科事典)「Dark Energy」 - スカラーペディア にある「ダークエネルギー」についての項目。(英語)
* 宇宙を満たす暗黒エネルギーの存在にさらなる証拠 - 23,000個のクエーサーを対象にした過去最大の重力レンズ 探索で検証 - 2007/9/26 独立行政法人 理化学研究所

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC 」より作成


D.H.ロレンスのダーク・ゴッドdark God


http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10498726796.html

http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10498727441.html

外国文学(イギリス文学他)

プランク定数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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プランク定数(プランクていすう、プランクじょうすう、Planck's constant)は、量子力学 の基礎となる単位 を示す物理定数 である。量子力学 の創始者の一人であるマックス・プランク にちなんで命名された。一般に h と記される。

現在科学技術データ委員会 (CODATA) より発表されているプランク定数の値は

h = 6.626\ 068\ 96(33)\times 10^{-34}\ \mbox{J s} = 4.135 667 33(10)\times 10^{-15}\ \mbox{eV s}

である[1] 。CODATA から発表されるプランク定数の値は 4 年ごとに更新される予定となっている[2] 。

また、プランク定数 h を 円周率 π の 2 倍で割った値も原子単位 などで頻繁に利用される[3] ため、「エイチバー」と発音される専用の記号 \hbar = h / 2 \pi (ℏ Unicode U+210F、JIS X 0213 1-3-61)が使われている。\hbarは「換算プランク定数 」と呼ばれ、単に「プランク定数」と呼んでこちらを指す場合もある。稀にディラック定数とよばれることもある。CODATA による推奨値は

\hbar = {{h}\over{2\pi}} = 1.054\ 571\ 628(53)\times 10^{-34}\ \mbox{J s} = 6.582\ 118\ 99(16)\times 10^{-16}\ \mbox{eV s}

である[4] 。
理論 [編集 ]

プランク定数は、量子 の関わる広範な現象に登場する普遍的な定数である。例えば光子 の持つエネルギー E は振動数 ν に比例し、その比例定数 はプランク定数 h に等しい。

E = hν

また軌道角運動量 やスピン は常に換算プランク定数の定数倍になっている。例えば、電子 のスピンは \pm \frac{1}{2}\hbar である。ただし、量子力学 の分野ではプランク単位系 を用いることが多く、その場合の電子のスピンは \pm \frac{1}{2} となる。

プランク定数は(位置 )×(運動量 )の次元 を持ち、不確定性関係 とも関係しているので、それゆえに位相空間 での面積の最小単位であるとも考えられてきたが、最近では Zurek その他の研究で、量子 カオス 系においてはプランク定数以下のミクロ 構造が現れる事がわかった。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E5%AE%9A%E6%95%B0 」より作成

アインシュタイン方程式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・
宇宙項 [編集 ]

アインシュタインは、1917年 の論文で、方程式に「宇宙項」を加えて次のようにした。

R_{\mu \, \nu} - {1 \over 2} R g_{\mu\, \nu} + \Lambda g_{\mu\, \nu} = \frac{8\, \pi G}{c^{\,4}} T_{\mu \, \nu}

アインシュタインの定数 κ を用いると、より簡潔に

G_{\mu \, \nu} + \Lambda g_{\mu \, \nu} = \kappa\, T_{\mu \, \nu}

となる。Λ は宇宙定数 を表すが、この項(宇宙項)は1916年 のオリジナル論文には含まれておらず、1917年の論文で追加された。宇宙項は、正負の符合によっては、重力に対する反重力(万有斥力)として機能する。

アインシュタインがこの項を導入した理由については諸説あるが、一般に有名なのは、彼自身が信じる静止宇宙モデル を実現するためという説である。1917年論文の宇宙モデルは重力と宇宙項による反重力とが釣り合う静止宇宙だった。当時、宇宙膨張は発見されていなかった。しかしこのモデルは不安定であり、僅かな摂動で膨張または収縮に転じる(静止宇宙とならない)性質を持つことが後にアレクサンドル・フリードマン により示された。

1929 年 にハッブル が宇宙の膨張を観測的に示した後、1931年 にはアインシュタイン自身により「人生最大の過ち」として消去された。しかしながら、近年の宇宙のインフレーション 理論や素粒子物理学 との関連の中で、宇宙項(に相当する斥力)を再び導入して考えることが通常行われており、むしろ重要な意味を与えている場合がある。観測的宇宙論 において、宇宙膨張を加速させている謎のエネルギーとして、ダークエネルギー が提案されている。ダークエネルギーは方程式上では宇宙項である。

より詳しくは一般相対性理論 の項を参照のこと。


「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F 」より作成


2010年05月30日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:可視界と不可視界:位階的スペクトルと高度超越情報
(注意:画像は以下のブログ記事を見られたい。)
http://ameblo.jp/renshi/entry-10549024731.html

ガウス平面を考えよう。
 うまく作図できないので、以下の直交座標系を利用したい。即ち、y軸を虚軸と、x軸を実軸とする。そして、x軸の10を1、-10を-1となり、y軸の 10は+i、-10は-iとなる。
 虚軸(y軸)に、イデア(超越情報)があり、それが、Media Pointで振動し、それが、実軸(x軸)へとベクトル的に伸張する。そして、+1の物質へと帰結する(エンテレケイア)。イデア(超越情報)をデュナミスとし、Media Pointの振動をエネルゲイアとする。
 現象界は当然、実軸に形成される。つまり、物質界は+1となる。しかしながら、エネルギー本体はMedia Pointに存する。
 問題は光である。それは、電磁波であり、波動であり、粒子(光子)である。それは、また、質量がない。
 質量がないというのがポイントである。だから、物質ではないのであり、やはり、Media Pointのエネルギーと考えるのが適切である。
 現象とは、この光と物質界の結合である。しかし、光と物質は一致しないのである。不連続なのである。
 つまり、われわれが、通常感覚知覚する現象界・可視界は不連続であるのだが、それを連続的に知覚認識しているのである。(仏教やフッサール現象学はこれを解体し、解明したという大偉業を成し遂げた。)
 言い換えると、Media Pointを同一性(+1)=物質と同一視するという錯誤を犯しているのである。
 私がここで問題にしたいのは、Media Pointであり、また、虚軸世界(虚界)のことである。前者には、超越的双極子(超越エネルギーがあり、後者には、超越的情報(イデアないしはデュナミス)があると作業仮説する。
 光もここに生起するのである。問題は、光の場合は当然、可視光であるが、光以外の超越エネルギー(超越双極子:簡略化して、超極子)が生起すると考えられ、それは、不可視のエネルギーであると考えられるのであり、その不可視エネルギーはどういう意味をもつのかということである。
 言い換えると、虚界と接するMedia Pointにおいて、可視光が生起すると同時に、それ以外の不可視エネルギーが生起するのであり、それは、いかなる意味をもつのかという問題である。
 可視光は視覚知覚され、現象界を形成するので、明快である。しかしながら、不可視エネルギー、あるいは、矛盾した言い方だが、不可視光が生起されるのであるが、それが、通常、一般には認識されていないと考えられる。
 ここでわかりやすく言えば、紫外線や赤外線は感覚できないのである。しかし、それ以外の超越的エネルギー、電磁波が当然あるのである。
 そして、これも作業仮説であるが、虚界には、位階的スペクトルを成す超越情報(イデア)があると考えたい。
 つまり、単に、電磁波の情報が虚界にあるのではなく、位階的な電磁波が存すると思われるのである。
 例えば、叡知体の電磁波情報があるように考えられるし、また、生命を形成するエーテル体(「気」)も存すると考えられるし、また、情感を形成するアストラル体も存するように思われるのである。
 以前、ガウス平面に直交するZ軸を考えて、それを超越情報軸と想定したが、そのように考えるべきか、それとも、虚軸に位階スペクトルを見るべきなのかという問題があるが、今の時点では、後者の考えをとる。もっとも、両者は、統一できるかもしれない。つまり、高度超越情報が、虚界へとMedia Pointに伝わり、それで、超越エネルギーが高度超越情報で変調されるという風に考えられなくないからである。つまり、超越エネルギーを搬送波、高度超越情報を信号波として、両者の共振を被変調波と考えるのである。
 とまれ、Media Pointには、位階的スペクトルがあると考えるのであり、それは、不連続的である。喩えて言えば、竹を考えて、その節を不連続性の境界と見るのである。
 このように質的差異を考えると、量的な連続的電磁波的発想を回避できる。例えば、宗教的発想で、通常の電磁波よりも微細な周波数の電磁波を考えて、それを、霊とするような考えである。これでは、電磁波、即、霊となってしまうのである。
 以上のように作業仮説してみると、Media Pointには、明らかに、不可視の諸エネルギーが鬱勃と蠢動奔出しているのであり、通常、一般には、それを無視し、排除していると考えられる。所謂、無意識とは、これを指すと考えると、的確、正確になるだろう。
 そして、不可視の諸エネルギーには、神霊エネルギー、天使・精霊エネルギー、霊魂エネルギー等の高位エネルギーがあり、また、より低位に情感エネルギーや気エネルギー(エーテル体)等、また、悪意的エネルギー(悪魔・悪霊エネルギー)等があるのではないだろうか。
 また、高度超越情報とは、物質界ないしは現象界から見ると、無時間世界にあり、それは、過去・現在・未来の情報であり、それが虚界に記録されているのではないだろうか(参考:アカシック・レコードと阿頼耶識)。
 虚界、Media Pointは、虚時間、あるいは、超越エネルギー振動の時間が支配し、それが展開して、現象界を常時生成消滅させているのではないだろうか。
 時空四次元宇宙とは、超越五次元トランス・コスモスの断面のようなものではないだろうか。現世界では、虚界の位階的スペクトル(ヒエラルキー的スペクトル)の超越的彫刻(天記)が不可視なのである。
 ダーク・エネルギーは正しくはこれを指しているのではないだろうか。また、D. H. ロレンスのダーク・ゴッドdark Godもこれを指しているように思えるのである。


参考・参照


直交座標系による平面上の点の座標と四つの象限
             
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BA%A4%E5%BA%A7%E6%A8%99%E7%B3%BB


複素平面

  xy 平面において, x 軸に実数, y 軸に虚数を対応させて、複素数を表したものを複素平面という。または,複素数平面,ガウス平面ともいう。



 複素数 z=a+ⅈb を複素平面上に表したものが、右の図である。


 複素数z の絶対値の定義:


| z |=| a+ⅈb |= a 2 + b 2 =r


すなわち、複素平面状の原点Oから z までの距離 r となる。


 また, x軸と原点Oと点 z の結ぶ直線O z のなす角をθ とする。このθ をzの偏角といい,arg z で表す。


argz=θ= tan −1 b a


z を r とθ を用いても表すことができる。


z=r( cosθ+ⅈsinθ ) ( ∵a=rcosθ,b=rsinθ )


この表現方法をz の極形式という。

http://w3e.kanazawa-it.ac.jp/math/category/fukusosuu/henkan.cgi?target=/math/category/fukusosuu/fukusoheimen.html

KIT数学ナビゲーション


FM変調の原理 上:搬送波,中:信号波,下:被変調波
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E5%A4%89%E8%AA%BF  
 


ファイル:Bamboo forest.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9


ダークエネルギー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ダークエネルギー (dark energy) とは宇宙に存在するエネルギーの半分以上を占めるとされるが正体が明らかでないエネルギーである。「真空 のエネルギー」等がそうとされる。
概要 [編集 ]

ダークエネルギーとは、宇宙 全体に広がって負の圧力を持ち、実質的に「反発する重力」としての効果を及ぼしている仮想的なエネルギー である。宇宙論 研究者のマイケル・ターナーが最初に作った言葉であるとされる。現在観測されている宇宙の加速膨張や、宇宙の大半の質量 が正体不明であるという観測事実を説明するために、宇宙論の標準的な理論(ロバートソン-ウォーカー計量 )にダークエネルギーを加えるのが現在最もポピュラーな手法である。この新しい宇宙論の標準モデルをΛ- CDMモデル と呼ぶ。現在提案されている2つのダークエネルギーの形態としては、宇宙定数 とクインテセンス (quintessence) がある。前者は静的であり後者は動的である。この二つを区別するためには、宇宙膨張を高い精度で測定し、膨張速度が時間とともにどのように変化しているかを調べる必要がある。このような高精度の観測を行うことは観測的宇宙論の主要な研究課題の一つである。
ダークエネルギーの提唱 [編集 ]

宇宙定数 はアルベルト・アインシュタイン によって、静的な宇宙を表すような場の方程式 の定常解を得るための方法として最初に提案された(つまり、実質的にダークエネルギーを重力 と釣り合わせるために用いた)。しかし後に、アインシュタインの静的宇宙は、局所的な非一様性が存在すると最後には宇宙スケールで膨張または収縮が暴走的に起こるため、実際には不安定であることが明らかになった。また、より重要な点として、エドウィン・ハッブル の観測によって、宇宙は膨張しており、静的ではありえないことが明らかになった。この発見の後、宇宙定数は歴史上の奇妙な存在としてほぼ無視されることとなった。

1980年代 には佐藤勝彦 やアラン・グース が、ごく初期の宇宙で宇宙定数が宇宙のインフレーション を起こした可能性を提案した。しかしインフレーションモデルが広く受け入れられた後でも、宇宙定数はごく初期の宇宙においてのみ重要であり、現在の宇宙とは無関係であると信じられていた。しかし、1990年代の終わりに人工衛星 と望遠鏡 の黄金時代を迎えると、遠方の超新星 や宇宙背景放射 を高い精度で測定することが可能になった。これらの観測で驚くべき結果が得られたが、これらの結果のうちのいくつかは、何らかの形でダークエネルギーが現在の宇宙に存在すると仮定すると最も簡単に説明できるものだった。
現象論的性質 [編集 ]

ダークエネルギーには互いに反発する性質があるため、宇宙膨張を加速する原因となりうる。これは物質優勢の宇宙という伝統的な描像で膨張の減速が起こると予想されているのとは対照的である。宇宙の加速膨張は多くの遠方の超新星の観測から示唆されている。

宇宙の全エネルギー密度の研究からも別の議論がもたらされている。理論的・観測的研究から、宇宙の全エネルギー密度は宇宙がちょうど平坦 になる(すなわち、一般相対性理論 で定義される時空の曲率 が大きなスケールで 0 になる)ような臨界密度 に非常に近いことが昔から知られている。(特殊相対性理論 の E = mc2 から)エネルギーは質量 と等価なので、これは通常、宇宙が平坦になるのに必要な臨界質量密度 と呼ばれる。光 を放出する通常の物質の観測からは、必要な質量密度の2-5%しか説明できない。この足りない質量を補うために、ダークマター と呼ばれる目に見える光を放出しない物質の存在が長い間仮定されてきた。しかし、1990年代 に行われた銀河 や銀河団 の観測で、ダークマターをもってしても臨界質量密度の25%しか説明できないことが強く示唆された。もしダークエネルギーが臨界エネルギー密度の残りの約70%を補えば、全エネルギー密度は宇宙が平坦であるのに必要な量と矛盾しなくなる。
推測 [編集 ]

このダークエネルギーの真の正体は現状ではほぼ推測の対象にすぎない。ダークエネルギーは一般相対論の宇宙定数 (Λ) で表される真空のエネルギーではないか、と考える人々も多く、実際、これはダークエネルギーに対する最も単純な説明である。宇宙定数は、時間や宇宙膨張によらず宇宙全体に存在する一様密度のダークエネルギーと解釈できるからである。これはアインシュタインによって導入された形式のダークエネルギーであり、我々の現在までの観測と矛盾しない。ダークエネルギーがこのような形をとるとすると、これはダークエネルギーが宇宙の持つ基本的な特徴であることを示すことになる。これとは別に、ダークエネルギーはある種の動力学 的な場 が粒子的に励起したものとして生まれるとする考え方もあり、クインテセンス と呼ばれている。クインテセンスは空間と時間に応じて変化する点で宇宙定数とは異なっている。クインテセンスは物質のように互いに集まって構造を作るといったことがないように、非常に軽くなければならない(大きなコンプトン波長 を持つ)。今のところクインテセンスが存在する証拠は得られていないが、存在の否定もされていない。

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ダークエネルギーが示唆する未来 [編集 ]

もしも仮想的なダークエネルギーが宇宙のエネルギーバランスにおいて支配的であり続けるなら、現在の宇宙膨張は加速し続け、ついにはド・ジッター宇宙 として知られる文字通り指数関数的な膨張となる。

このモデルでは、重力的に束縛されていない構造は見かけ上、光速 を超える速度でばらばらに飛び去ることになる。宇宙に関する我々の知識は光速より遅く伝わる信号によってしか得られないため、この加速によって最終的には、現在見えている遠方の宇宙を見ることすらできなくなる。しかし、ダークエネルギーの密度が増えなければ、銀河や太陽系 など現在重力的に束縛されているどんな構造もそのまま残る。したがって我々の地球 や銀河系 は、宇宙の他の存在が全て我々から離れ去ってもほぼそのまま乱されることなく存在し続ける。

あるいは、ダークエネルギーは一定ではなく、時間とともに増えているかもしれない。「幽霊エネルギー (en:phantom energy )」と呼ばれるこのシナリオでは、宇宙に存在する全てのものは原子 に分解され、最後にはビッグリップ によって吹き飛ばされてしまい、構造のない空っぽの宇宙が残される。

また、最終的にはダークエネルギーは時間とともに散逸し、宇宙は互いに引き合うようになるかもしれない。このような不確定性があるために、やはり重力が宇宙を支配し、やがては宇宙が自ら潰れるビッグクランチ に至るという可能性も残されている。しかしこれは一般的には最も可能性の低いシナリオだと考えられている。
外部リンク [編集 ]

* HubbleSite のプレスリリース: ダークエネルギーの正体に新たな手がかり
* 宇宙の年齢 . 宇宙のエネルギーの組成についても。
* (百科事典)「Dark Energy」 - スカラーペディア にある「ダークエネルギー」についての項目。(英語)
* 宇宙を満たす暗黒エネルギーの存在にさらなる証拠 - 23,000個のクエーサーを対象にした過去最大の重力レンズ 探索で検証 - 2007/9/26 独立行政法人 理化学研究所

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC 」より作成
カテゴリ : 宇宙論・宇宙物理学 | 天文学 | 相対性理論 | 天文学に関する記事


D.H.ロレンスのダーク・ゴッドdark God


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http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10498727441.html

外国文学(イギリス文学他)

プランク定数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

プランク定数(プランクていすう、プランクじょうすう、Planck's constant)は、量子力学 の基礎となる単位 を示す物理定数 である。量子力学 の創始者の一人であるマックス・プランク にちなんで命名された。一般に h と記される。

現在科学技術データ委員会 (CODATA) より発表されているプランク定数の値は

h = 6.626\ 068\ 96(33)\times 10^{-34}\ \mbox{J s} = 4.135 667 33(10)\times 10^{-15}\ \mbox{eV s}

である[1] 。CODATA から発表されるプランク定数の値は 4 年ごとに更新される予定となっている[2] 。

また、プランク定数 h を 円周率 π の 2 倍で割った値も原子単位 などで頻繁に利用される[3] ため、「エイチバー」と発音される専用の記号 \hbar = h / 2 \pi (ℏ Unicode U+210F、JIS X 0213 1-3-61)が使われている。\hbarは「換算プランク定数 」と呼ばれ、単に「プランク定数」と呼んでこちらを指す場合もある。稀にディラック定数とよばれることもある。CODATA による推奨値は

\hbar = {{h}\over{2\pi}} = 1.054\ 571\ 628(53)\times 10^{-34}\ \mbox{J s} = 6.582\ 118\ 99(16)\times 10^{-16}\ \mbox{eV s}

である[4] 。
理論 [編集 ]

プランク定数は、量子 の関わる広範な現象に登場する普遍的な定数である。例えば光子 の持つエネルギー E は振動数 ν に比例し、その比例定数 はプランク定数 h に等しい。

E = hν

また軌道角運動量 やスピン は常に換算プランク定数の定数倍になっている。例えば、電子 のスピンは \pm \frac{1}{2}\hbar である。ただし、量子力学 の分野ではプランク単位系 を用いることが多く、その場合の電子のスピンは \pm \frac{1}{2} となる。

プランク定数は(位置 )×(運動量 )の次元 を持ち、不確定性関係 とも関係しているので、それゆえに位相空間 での面積の最小単位であるとも考えられてきたが、最近では Zurek その他の研究で、量子 カオス 系においてはプランク定数以下のミクロ 構造が現れる事がわかった。
脚注 [編集 ]

1. ^ http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?h
2. ^ 2002年には 6.6260693(11) 、2006年には 6.62606896(33) が発表された。
3. ^ IUPAC Gold Book - Planck constant
4. ^ http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?hbar

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E5%AE%9A%E6%95%B0 」より作成
カテゴリ : 量子力学 | 統計力学 | 物理定数



2010年03月28日(Sun)▲ページの先頭へ
ベクトル・モード・ポリフォニー:Multiple Media Aesthetic Resonance
「とまれ、植物(だけではないが)のもつ黄金比等の美的電磁波が複雑に共振して、無限に美的な印象をもたらすのだと思う(池泉回遊式庭園はそのような美学を感じる)。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10492335795.html

先に上のように書いたが、「美的電磁波が複雑に共振して」という箇所の「複雑に」はあいまいである。
 これは、音楽で言えば、ポリフォニーであると思う。美的電磁波のポリフォニーが原生林や雑木林に発生すると思われる。これは、形態や色彩におけるポリフォニー、美術的ポリフォニーである。
 しかしながら、電磁波(波動)であるので、音楽的ではある。つまり、音楽/美術的電磁波的ポリフォニーである。
 では、このポリフォニー美学の力学はいかなるものか。直感ではなにかフーガに似ているような感じがする。森の中のある樹木の美的電磁波を感受し、すぐ後で、他の樹木のそれを感受すると、最初の残響があり、それが、後の響きと重なるのである。
 とまれ、ポリフォニーという方が総合的である。(シンフォニーとも言えるが。)
 思うに、美的感受性はMedia Pointにあり、そこで、美を感受するのである。それは、内的な差異共振エネルギー(精神的数学的美的エネルギー)を生起させると思われる。だから、 Media Pointに多様な美的電磁波が入って、Media Pointで多元多様に共振すると考えられる。
 つまり、Multiple Media Resonance(MMR)が生起するが、それが、雑木林の外部や内部で感受する美の実態であり、ポリフォニーの力学であると考えられる。
 とまれ、ここで生じている精神的数学的美は単に視覚的美だけではなく、音楽的な美でもあるということになる。思うに、尾形光琳などの古典的日本美術に感ずる美には音楽性があるが、それは、これで説明できるのではないだろうか。一種共感覚的な美であるが。というか、共感覚こそ、このMMRで解明されると言えよう。
 感覚に即して言えば、Multiple Media Aesthetic Resonance と言えよう。そして、美が単に感覚的ではなく、精神的であることもこれで明確になる。
 後でさらに考察を行ないたい。


「尾形光琳の松島図屏風」

http://yp1.jp/corporate/backnumber/2004/1114.html

株式会社ヤマプラ

J.S.Bach - The Art of Fugue - Contrapunctus 1
http://www.youtube.com/watch?v=aCUS5F-DI2o
Contrapunctus 1
http://www.youtube.com/watch?v=-a6KUAONwzM&feature=related
J.S.Bach - The Art of Fugue - Contrapunctus 14
http://www.youtube.com/watch?v=JbM3VTIvOBk&feature=related


2010年03月27日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:樹木等の植物が上昇する力と情報
これは、気=エーテル体であり、電磁波、植物情報的電磁波ではないだろうか。
 それは、Media Pointの共振エネルギーであるから、虚軸から実軸へと向かう。それは、⇒+1であるが、+1にベクトル・モードが描かれるのである。その反対の-1 は、鏡像ではないだろうか。
 つまり、+1と-1のベクトル・モードが現象するということになる。だから、実軸の垂直線と直交する平面が生起して、三次元モードとなるのではないだろうか。
 そうならば、Media Pointを介した虚軸次元は四次元である。また、根源情報の軸、Z軸を想定すると、それが五次元である。
 しかし、その必要があるだろうか。電磁波は⇒であり、情報は虚軸の対極虚数に存するのではないのか。
 しかしながら、対極虚数(陰陽)は情報を産み出すのか。例えば、易を考えると、上下に三元、全部で六元があり、陰爻と陽爻の順列となる。すなわち、2^6=64通りである。
 このような順列の情報が虚軸の対極虚数に存するだろうか。直感ではそれは難しいのではないだろうか。
 ならば、やはり、根源情報軸として、Z軸を想定した方がいいことになる。
例えば、電波放送ならば、周波数を変調させて、情報を送るのである。だから、変調にあたるものがZ軸にあるのではないだろうか。虚軸はいわば搬送波ではないのか。
 ならば、Z軸情報がMedia Pointにおいて、虚軸に変調を与えて、それが、共振して、電磁波を放出するということになるのではないのか。
 精神科学的に言えば、Z軸に精神情報(霊的情報)があることになる。今はここで留める。

参照:
変調方式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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変調方式
アナログ変調
AM | SSB | FM | PM
デジタル変調
OOK | ASK | PSK | FSK | QAM | APSK
DM | MSK | CCK | CPM | OFDM
パルス変調
PWM | PAM | PDM | PPM | PCM
スペクトラム拡散
FHSS | DSSS
関連項目
復調

変調方式(へんちょうほうしき)は、変調すなわち情報 を記録・伝送するにあたり、情報および記録・伝送媒体の性質に応じて情報を最適な電気信号に変換する操作の方式である。

無線通信では一定周波数の電波を発生し、それを変調することにより情報を伝送する。この変調を受ける電波を搬送波(キャリア)という。有線通信においても伝送媒体が電線になるほかは同様なことを行い、媒体として光ケーブル を用いる光通信でも、搬送波が電気信号でなく光 になる以外は同様である。尚、変調により、特に光通信の場合は多くのチャンネルを確保できるという有用性もある。一般に一つの伝送路を多くの回線として使う目的も大きい。

キャリアを用いないベースバンド伝送 でも情報信号を何らかの形で変化させて送るのが一般的である。これらはラインコーディング (符号化方式の分類の一つ)とも呼ばれる。
基本的な変調方式 [編集 ]
アナログ変調 [編集 ]

詳細は「アナログ変調 」を参照
情報信号がAM信号またはFM信号によって搬送されている例

アナログ変調は、アナログ情報信号に対応して連続的に適用される。

一般的なアナログ変調を、各種の変調方式でどのような変化を用いて情報を送るか簡単に以下に示す。

* 振幅変調 (AM; Amplitude Modulation) :搬送波の振幅の変化で変調するものである。
* 角度変調
o 周波数変調 (FM; Frequency Modulation) :搬送波の周波数 の変化。
o 位相変調 (PM; Phase Modulation) :搬送波の位相 の変化。

デジタル変調 [編集 ]

詳細は「デジタル変調 」を参照

デジタル信号 で搬送波を変調するものである。 搬送波を最終的に変化させる操作は上記の振幅や位相などを不連的に変化させて用いる。

* 位相偏移変調 (PSK; Phase Shift Keying) :一定周波数の搬送波の位相を変化させることで変調するもの。変調1回あたりの送信ビット数を増やすごとに、BPSK、QPSKなどと呼ばれる。
* 周波数偏移変調 (FSK; Frequency Shift Keying)
* 振幅偏移変調 (ASK; Amplitude Shift Keying)
* 直角位相振幅変調 (もしくは直交振幅変調 ) (QAM; quadrature amplitude modulation)

パルス変調 [編集 ]

詳細は「パルス変調 」を参照

パルスの振幅・幅・位相・符号などで変調するものである。パルス符号変調はデジタル 情報を、他はアナログ 情報またはデジタル情報を伝送可能である。

* パルス符号変調 (PCM; Pulse-code modulation) (アナログ-デジタル変換)
* パルス幅変調 (PWM; Pulse-width modulation) (アナログ-アナログ変換)
* パルス振幅変調 (PAM; Pulse-amplitude modulation) (アナログ-デジタル変換)
* パルス位置変調 (PPM; Pulse-position modulation) (アナログ-アナログ変換)
* パルス密度変調 (PDM; Pulse-density modulation) (アナログ-アナログ変換)

変調方式の応用 [編集 ]

* 直交変調 :複数の独立な情報を互いに干渉することなく同時に伝送するための多重変調方式である。
* 同期放送 (通信)(Single Frequency Network) :同期した同一の周波数を発信する無線局を多数配置し、広いサービスエリアを得る方法である。

関連項目 [編集 ]

* 電波型式の表記法
* 無線工学 ・伝送工学 ・通信工学
* 搬送波

ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、変調方式 に関連するカテゴリがあります。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E8%AA%BF%E6%96%B9%E5%BC%8F 」より作成
カテゴリ : 変調方式 | 無線 | 無線工学 | 通信工学 | データ転送


2010年03月26日(Fri)▲ページの先頭へ
葉や花や実等の形態形成力学:葉序と葉の形状と花や実の形態
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10491944207.html


葉序はフィボナッチ数と関係する。フィボナッチ数は黄金比に収束する。
 故に、葉序もKaisetsu氏のベクトル・モードで解明される。
 次に葉の形状の形成力学はどうなのだろうか。これも、直感ではベクトル・モードで当然説明できると思うが、実際はどうなのだろうか。葉の平面の形成力学はいかに。
 以下の説明では、蓮の葉の形態形成力学はやはりベクトル・モード論で解明できよう。ならば、他の葉の形もそれで解明できるのではないだろうか。
 そのとき、円接多角形が要になるのではないだろうか。正五角形ならば、五葉であり、また、五弁の花弁が形成されるのではないのか。もっともイチョウの葉の場合は、それでは説明できだろう。以下には、双曲図形と結びつけている。
 今はここで留めるが、人体の形態もこれで解明できそうである。
 
***********************
フィボナッチ数 と植物の形態 †

この「研究」は、下のムスメとの共同研究である。 ……というか、ムスメの夏休みの自由研究(2007年夏)をネタに、あれこれ考察してみたものだ。

この「研究」のおかげで、植物の葉を見ると、つい数えるようになってしまった。

* フィボナッチ数と植物の形態
o 葉序
o 葉序とフィボナッチ数
o 葉序と開度
o 葉序・開度と葉の重なり方
o 究極の開度と黄金比
o 花とフィボナッチ数
o 果実とフィボナッチ数
+ 松ぼっくり
+ パイナップル
o 植物は数学を知っているか?

http://mshi.no.coocan.jp/pukiwiki/?%B8%A6%B5%E6%BC%BC%2F%A5%D5%A5%A3%A5%DC%A5%CA%A5%C3%A5%C1%BF%F4%A4%C8%BF%A2%CA%AA#z632eab1
研究室/フィボナッチ数と植物

************************
フィボナッチ数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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フィボナッチ数列の各項を一辺とする正方形

フィボナッチ数(ふぃぼなっちすう、Fibonacci number)とは、イタリア の数学者レオナルド・フィボナッチ (ピサのレオナルド)にちなんで名付けられた数である。n 番目のフィボナッチ数を Fn で表わすと

F_0 = 0,\ F_1 = 1 \,
F_{n+2} = F_n + F_{n+1} \quad (n \ge 0)

で定義される。

この数列はフィボナッチ数列 と呼ばれ、最初の数項は

0 , 1 , 1, 2 , 3 , 5 , 8 , 13 , 21 , 34 , 55 , 89 , 144 , 233 , 377 , 610 , 987 , …

である。定義より、どの項もその前の2つの項の和となっている。

1202 年 にフィボナッチが発行した『算盤の書 』(Liber Abaci) に記載されたが、その前に、インド の数学書にも記載されていた[1] [2] 。

フィボナッチ数列は、漸化式 Fn = Fn−1 + Fn−2 を全ての整数 n に対して適用することにより、n が負の整数の場合に拡張できる。そして F−n = (−1)n+1Fn が成り立つ。この式より、負の番号に対する数項は次のようになる。

…, −55, 34, −21, 13, −8, 5, −3, 2, −1, 1.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%81%E6%95%B0

************************

* フィボナッチ数列

フィボナッチ数列とは

Fn+2=Fn+1+Fn (F1=1 F2=1)

で表される数列です。具体的には

1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144、・・・・・・

というものです。この数列がどの様に植物に関係しているのでしょうか。
 ヒマワリについて種の並びに注目すると、写真のように整然と並んでいることがわかります。黄色・緑色・赤のらせん毎に、このヒマワリには全体で何本あるのかを調べてみると、それぞれ34本,55本,89本となります。らせんの本数はフィボナッチ数列に含まれていることがわかります。このことは偶然ではなく、これより小さなヒマワリで観察しても、らせんの本数は減ってもその数はフィボナッチ数列に含まれるはずです。
 ヒマワリの種の並びは次の式で表すことができます。vは任意の定数で、tに自然数を順に代入してプロットしていくと下の図にしめす散布図が得られます。ここでは図の中心が原点となります。注目点は式の中に黄金角が含まれていることです。ヒマワリは黄金角を知っているのでしょうか。
http://www2.plala.or.jp/aki_ogawa/episode/fibon.html
長野周辺の山歩きと山野草

************************
葉序に潜むフィボナッチ数列

推理ものの映画やドラマで、謎解きの小ネタとして時々でてくるフィボナッチ数列。
これは、

0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, 144,…

というように前の二つの数を足していくという簡単な数列です。
(例えば、上の数列で7番目の数は8ですが、これは前の二つの数、3と5を足した数です)

しかしながら、この数列は不思議な事に、自然界の様々な場面で垣間見ることができます。
http://blogs.yahoo.co.jp/cytherella500/19981339.html
SHIN-EN
************************

ほかにも面白い例がある。開花植物の葉序(ようじょ)にフィボナッチ数列が現れるのだ。葉は、通常、垂直に伸びた茎の周りを決まった角度おきに螺旋状に取り巻いている。上から見ると、チューリップの葉は2枚で茎を一周するので、1/2×360度ごとに付いていることになる。カヤツリグサ科の葉は、1 /3×360度ごとに付いていて、3枚で1周する。サクラやウメでは5枚の葉で2周、つまり2/5×360度ごとに付いている。アブラナ科では3 /8×360度、タンポポやグミでは5/13×360度、マツでは数えたことはないけれど8/21×360度だと言われている。ここに出てきた分数の列
はフィボナッチ数列と関係している。
フィボナッチ数列 { fn } は
f1=1, f2=1, fn=fn-1+fn-2 と表され、
1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144 ………
と続いていく。そこで数学者は葉が13/34×360度ごとに付いた植物はあるのだろうかと考えてしまう。

ヒマワリの種は螺旋を描いて並んでいる。右巻き螺旋の数が55個なら左巻きは34個に、144個なら89個になることが多いという。
(図=Scientific American 1969/3をもとに作成)
フィボナッチ数列はヒマワリにも現れている。種がきれいな螺旋、それも右回りと左回りの螺旋を描いて並んでおり、その個数は、右回りが55個、左まわりが 34個になる場合が多いと聞く。じつはまだ真面目に数えてみたことはないので、今年の夏は数えてみたいと思う。品種改良して、それぞれ144個、89個の螺旋をもつ巨大なヒマワリ、さらに多くの螺旋をもつヒマワリもあると聞いている。それにしても不思議なのは、ここに出てくる数はすべて隣り合うフィボナッチ数だということだ。これも葉序と同じ原理で説明できるのだろうか。
 私たちが十進法を使うのは両手で10本の指があるからで、天与のものと思われる数学も、私たちの生物としての存在に大きく影響を受けている。ではなぜ指は5本ずつあるのか。理由を知りたいが、こうした問いかけは現代科学では禁じられているのかもしれない。アリストテレスの目的因の考察を忘れて、変化のプロセスだけを記述することで大成功を収めた近代科学は、指はなぜ5本あるのかと問うことはやめにして、5本の指ができるプロセスを記述してきた。だから、葉序やヒマワリがフィボナッチ数と関係していたり、オウム貝の曲線が対数螺旋になっている理由を問うのは、科学を逸脱することになるのかもしれない。でもやはり私は理由が知りたい。
http://www.brh.co.jp/seimeishi/1993-2002/24/es_1.html

季刊誌「生命誌」通 巻24号
生き物と数:上野健爾


右ねじれのフィボナッチ

はてさて、「右ねじれの桜たち 」シリーズも、みなさんのフォローアップを受けて3回転も跳んでしまったが、今回はちょっと番外編である。

今書いているこの冒頭の文章、記事を全部書き終えて最後に書いているのだけれど、しかし我ながら今回もなんだかとんでもない結末になってしまった。

どんな事態になってしまったのかは、読んでみてのお愉しみ。

http://zatsunen-karada.seesaa.net/article/11786453.html
雑念する「からだ」

************************

木の葉の形
 私たちの周りにはいろいろな種類の樹木があり、それらの木の葉の形にもいろいろな形があります。もっとも多い形は眼形です。その数が極端に少ないものにイチョウの葉と蓮の葉をあげることができます。イチョウは反りかえった形、蓮は円形をそれぞれもっています。蓮の葉脈は、ロゼット文様のように中心から放射状に伸びています。私が木の葉にこだわるわけは、
・多くの木の葉……ふくらみ凸=楕円図形
・イチョウの葉……へこみ凹 =双曲図形
・蓮の葉……………円形○  =楕円図形
の視点をもつことができるからです。

伏羲・女媧とひょうたん形
 人類と植物の歴史的な結びつきといえば、ひょうたんを忘れることができません。ひょうたんは人類が利用した最初の植物といわれています。中国の伏羲・女媧伝承に、大洪水の時、ひょうたんに逃れて命が助かったというのがあります。いわゆる「ひょうたん伝説」といわれるものです。この伏羲と女媧の名前がひょうたんに因む名前であることは、明らかになっています。
・伏羲=庖羲とも書く。庖は匏瓜の匏に通じ、「ひさご」の意味をもつ。この解は葫蘆(ころ)=ひさごにつながっている(白川静『中国の神話』中央公論社一九七五)。ひさごはひょうたんの別名
・女媧=名前は豊饒のシンボルである「メロン」を意味する「瓜」に由来する(レイチェル・ストーム『世界の神話百科』原書房)。また、女媧の字形を作る「咼」に渦という意味と女性の象徴である穴、陰門を示す意味がある(鉄井慶紀『中国神話の文化人類学的研究』平河出版社一九九〇)。
 右において、ひょうたんと瓜は、ともに蔓科の植物です。それらは、蔓、すなわち「螺旋・渦巻き」/双曲図形と楕円図形の概念でつながっています。ひょうたんの属す瓜の仲間には食用に供されるものがあることは記憶にとどめておいてください。それだけ新石器人の身近にあったということになります。
 伏羲・女媧の洪水伝説は、生命に関わっています。つまり、螺旋・渦巻き/双曲図形と楕円図形が生命に関わっていることを意味します。問題は螺旋・渦巻き/双曲図形と楕円図形が、どのように生命につながっているのか、そのメカニズムにあります。

イチョウの葉と双曲図形
 イチョウの葉は、種類の差は当然ありますが、生育年月の差によっても、その形に変化が現われるといわれております。古木のイチョウの葉四枚を +形に置けば、イチョウ形の十字形(ロシア十字)を作ることができます。この形は、世界の新石器人にとって極めて重要な意味をもつものでした。
 イチョウの実の銀杏は食用に、イチョウの葉は薬用に供されています。

蓮の葉と円接正多角形
 仏教では、蓮は仏様の座る台座になっています。「蓮」はヒンズー教、仏教、密教において、特別の意味を持ち重用されています。蓮の葉は円形を呈し、その葉脈は中心から放射状に伸びています。一枚の紙に描かれた蓮の葉を連想してください。、この蓮の葉の中心に向って円周から切れ込みをいれます。その両端をつまみ重ね合わせながら一方を巻き込みます。この時、円形の葉は円錐状の渦巻きを形づくっていることに気づくことでしょう。
 つまり、円接正多角形は円錐状の渦巻きを内包する図形ということになります。この円接正多角形から円錐形渦巻きへの変化に新石器人は注目していたのです。新石器人の発想法に近づくためには、この視点が重要です。つまり、円接正多角形と渦巻きを異形同質の存在として理解し、両者をトポロジー的に等式で結ぶという視点です。世界の新石器人が蓮(あるいは睡蓮)を神聖視した理由は、このようなところに根拠があったわけです。蓮の実と根っこ(レンコン)は食用に、蓮の葉が薬用に供されていることは、新石器人と蓮の結びつきを考える上で重要です。
 春日井市のウォーキングロードの池には、縄文時代の大賀ハスが今を盛りに咲いています。同じ縄文ハスが八ヶ岳の南西麓に位置する縄文遺跡である井戸尻遺跡にも植えられています。ここの縄文ハスは7月末に最盛期を迎えます。
縄文文化に興味のある方は7月26日(土)・27日(日)に井戸尻遺跡を訪れてみてはいかがでしょうか。
イベントもあり、すばらしいところですヨ。

双曲図形と楕円図形に気づいていた縄文人
 右のことは、ひょうたんの実とイチョウの葉、そして蓮の葉の形が問題になっています。この形の基本に双曲図形と楕円図形が存在することに、縄文人、そして世界の新石器人は気づいていました。この双曲図形と楕円図形は、森羅万象に存在します。双曲図形と楕円図形の最大の特徴は、それらの所有する相対性に発見されます。この相対性の発見から縄文人と自然との共生の歴史が始まります。
http://joumon-uzumaki.com/mobius/modules/weblogD3/details.php?blog_id=9






縄文うずまき




http://kayoikujira.seesaa.net/category/2508267-1.html
長門市くじら資料館館長のブログ


ファイル:Ginkgo Biloba Leaves - Black Background.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ginkgo_Biloba_Leaves_-_Black_Background.jpg

ファイル:W hyoutan2091.jpg

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