GP陰陽原理:哲学主数学従の陰陽哲科学

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2012年06月24日(Sun)▲ページの先頭へ
Ver2:検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11284973493.html

検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質

テーマ:超無双PS哲科学

いつか、緻密に議論したいと思っているが、凹i☯凸i、乃至は、凹j☯凸jの陰陽において、積の凸(+1)や否定の積凹(−1)は何を意味するのか。
 先に、凸(+1)は自然・宇宙界、凹(−1)は物質ではないかと示唆したが、それでいいのだろうか。
 簡単にするために、便宜的に、+1と−1で考えると、ここには、確かに、陰陽の氣である凸i(陽)と凹i(陰)がないのであるから、物質界に関係することは推測できる。
 しかし、問題は、凸iを重力子、凹iを光子としたとき、陰陽の氣は物質的になってしまうという齟齬が生じることである。
 思うに、重力子や光子は物質ではない自然エネルギーと見た方がいいのではないだろうか。光子には質量がないことを考慮してもそのようなことが言えよう。それを作業仮説としよう。
 次に、+1は、有機体、生命体の物質、−1は無機物的物質と作業仮説したい。
 以上で、一応、齟齬は解消できている。
 以下、簡単に図示する。


         陰・凹i(-i)・光子:「天」
              |
              |
              |
              |
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
              |
              |
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              |
         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面

尚、無双原理に倣って、陰・凹i(-i)・光子を上に、陽・凸i(i)・重力子を下に布置している。そして、MPは原点であり、media pointである。
 また、ガウス平面に直交する超越軸z軸や、z軸とy軸の虚軸が形成する超越円、超越界が本来存しているが、上図では、作図が難しいので、省略している。

追記:尚、陰・凹iを重力子(ないしは重力波)とするのも作業仮説である。

追記2:以下のオイラーの公式における「単位円」を上図に加えると、自然円となる。
 超越円は、z軸とy軸の面における「単位円」である。上図のガウス平面には直交している。分かりやすく言えば、直交する円盤がy軸(虚軸)に屹立するとというイメージとなる。


resurrectionのブログ


追記3:易経の太陽でなく、現象太陽はMP(media point)の、言うならば、表面に存するのではないだろうか。内面は太極ではないだろうか。これは検討課題である。(補記:宗教の世界は、超越界であるから、上図には基本的には属さない。しかし、media point が超越界へと通ずる現象界における唯一点と考えられる。それは、現象太陽である。その内部、ないしは、裏面・背面には、太極が存すると思われる。それが、シュタイナーの説くアフラ・マズダ=キリストと言えよう。それは、マニ教の光の世界である。結局、太極=宗教的光の世界=神界である。)

追記4:象限の考え方は、虚軸y軸の符号が逆になったので、従来通りには使用できないだろう。
 あえて従来通りの位置・領域を用いれば、第一象限は、可視的現象界(光の現象界)、第四象限が不可視的自然界(闇の自然界)、第二象限は物質科学的世界、第三象限はダーク・マターの世界ではないだろうか。
 これも検討課題である。

参照:

resurrectionのブログ
http://content.edu.tw/competition/96year/web/works/B020040/teaching/1-3-2.htm

追記5:オイラーの公式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

から、以前、Kaisetsu氏と生成門氏が行なったように、ある事象の定置化が考えられるように思う。もっとも、以前は私はそこまで理解が行かなかったが。
 しかしながら、易経にあるように、陰陽は6元あるのである。だから、以下参照2にあるように、掛け算の連鎖が重要なのではないだろうか。
 簡単にするために、凹i、凸iを-iとiとする。すると、

陰の位置は、

e^(-iθ)=cosθ−isinθ   ・・・ A

であり、

陽の位置は

e^(iθ)=cosθ+isinθ    ・・・B

となるのではないだろうか。
そして、単純化して、陰陽はA×Bとなるのではないだろうか。
 しかし、正しくは、6元であるから、

(A1 or B1)×(A2 or B2)×(A3 or B3)×・・・×(A6 or B6)

となると考えられる。
 今は問題提起で留める。

修正:先ほど、思いついたのであるが、螺旋的6回転を考えるとかなり明解になるように思われる。つまり、易における、6元であるが、各元を1回転と見るのである。だから、6元だから、6回転である。
 具体的には、第1回転では、陰・凹iから始めると、1回転は、陰に戻り、半回転は陽となる。ただし、半回転であっても、それは1回転のコースに含める。
 以下、同様に、第2回転、第3回転、・・・第6回転まで、螺旋的に回転するということである。そして、
 各回転の陰陽の様相をかけ算するのである。即ち、

1st cycle(陰-i、陽i)×2nd cycle(陰-i、陽i)×3rd cycle(陰-i、陽i)×・・・×6th cycle(陰-i、陽i)

である。

以下参照:
陰陽はどう機能するのか
テーマ:超無双PS哲科学

凹j☯凸jは同時に、凹i☯凸iを意味しよう。(☯は極性共振を意味する)二重の極性原理を意味しよう。
 問題は、現実においてはどのように作用するのかである。
八卦に則して、考えた方がいいかもしれない。
 例えば、1,凹i(陰)、2.凹i、3.凹iと4.凸i(陽)、5.凸i、6.凸iの順列を考えるのである。
1は凹iと凸iの2通り、以下同様で、
2^6=64通りである。
 問題は、6が何を意味するのか、どのように構造化されるのかである。
 思うに、6つの単位円を考えて、それをmedia pointで共振させることが考えられる。つまり、

1)凹i or 凸i
2)凹i or 凸i
・・・
6)凹i or 凸i

の6つの陰陽様態を「共振」させると、64通りの様態が結果として生起するとは考えられる。

* 64卦一覧
* 64卦配列


 そうすると、6つの陰陽円(自然円に一応限定する)の共鳴が基本的自然様態ということになる。
 思うに、これは、超越円でも考えられることである。そうすると、超越円でも64通りがあるのである。
 自然円と超越円をどう関係づけるのかすぐにはわからないが、思うに、精神の64様態と物質の64様態の組み合わせが考えられるのである。思うに、精神があるのだから、それは、人間になるのではないだろうか。精神の64様態は神々、精霊等々ではないだろうか。
 今は示唆に留める。

参照:
八卦とは | 易経ネット
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11280408121.html
 
参照2:
オイラーの公式の使い方
大学に入ると次のような式を学びます。

オイラーの公式
(e:自然対数)

この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと良いと思います。そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。

複素数は、
Z=|Z|(cosθ+i sinθ)
と極座標(距離と角度)の形式で表すことができます。

このとき、Z1とZ2の積を考えると、
Z1×Z2=|Z1|(cos(θ1)+i sin(θ1))|Z2|(cos(θ2)+isin(θ2))
=|Z1||Z2|(cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2))
となります。
この式の図形的意味を考えると、
(Z1にZ2を掛ける)=(Z1を|Z2|倍に拡大)+(Z1をθ2回転)
というように解釈できます(これは複素数を図形的に考えるときに重要です)。

さて、ここからオイラーの公式を使うと役に立つ理由を説明します。
上で積を考えたときに,計算で気になるのは、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+isin(θ2)) =cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2)
の部分です。 この式は、本来なら加法定理を利用して整理すべきものですよね。
しかし,オイラーの公式を使えば、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+i sin(θ2)) =(eiθ1)×(eiθ2)
=ei(θ1+θ2) (ea×eb=ea+bを使った)
=cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2) (オイラーの公式を使った)
このように指数関数の性質を使い簡単に計算することができます(加法定理の計算を指数関数の積にすることができた) 。

http://doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html
オイラーの公式の使い方
doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html - キャッシュ 類似ページ
一般公開で +1 しました 取り消す
2005年3月15日 – オイラーの公式 (e:自然対数) この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと ... そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。


2012年06月23日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:凸(+1)や凹(−1)とは何か:有機体、生命体的物質と無機物的物質
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11284973493.html

いつか、緻密に議論したいと思っているが、凹i☯凸i、乃至は、凹j☯凸jの陰陽において、積の凸(+1)や否定の積凹(−1)は何を意味するのか。
 先に、凸(+1)は自然・宇宙界、凹(−1)は物質ではないかと示唆したが、それでいいのだろうか。
 簡単にするために、便宜的に、+1と−1で考えると、ここには、確かに、陰陽の氣である凸i(陽)と凹i(陰)がないのであるから、物質界に関係することは推測できる。
 しかし、問題は、凸iを重力子、凹iを光子としたとき、陰陽の氣は物質的になってしまうという齟齬が生じることである。
 思うに、重力子や光子は物質ではない自然エネルギーと見た方がいいのではないだろうか。光子には質量がないことを考慮してもそのようなことが言えよう。それを作業仮説としよう。
 次に、+1は、有機体、生命体の物質、−1は無機物的物質と作業仮説したい。
 以上で、一応、齟齬は解消できている。
 以下、簡単に図示する。


         陰・凹i(-i)・光子:「天」
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−1________MP________+1
無機物          |           有機体・生命体
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         陽・凸i(i)・重力子:「地」


        超無双PS哲科学的ガウス平面

尚、無双原理に倣って、陰・凹i(-i)・光子を上に、陽・凸i(i)・重力子を下に布置している。そして、MPは原点であり、media pointである。
 また、ガウス平面に直交する超越軸z軸や、z軸とy軸の虚軸が形成する超越円、超越界が本来存しているが、上図では、作図が難しいので、省略している。

追記:尚、陰・凸iを重力子(ないしは重力波)とするのも作業仮説である。

追記2:以下のオイラーの公式における「単位円」を上図に加えると、自然円となる。
 超越円は、z軸とy軸の面における「単位円」である。上図のガウス平面には直交している。分かりやすく言えば、直交する円盤がy軸(虚軸)に屹立するとというイメージとなる。


resurrectionのブログ


追記3:易経の太陽でなく、現象太陽はMP(media point)の、言うならば、表面に存するのではないだろうか。内面は太極ではないだろうか。これは検討課題である。(補記:宗教の世界は、超越界であるから、上図には基本的には属さない。しかし、media point が超越界へと通ずる現象界における唯一点と考えられる。それは、現象太陽である。その内部、ないしは、裏面・背面には、太極が存すると思われる。それが、シュタイナーの説くアフラ・マズダ=キリストと言えよう。それは、マニ教の光の世界である。結局、太極=宗教的光の世界=神界である。)

追記4:象限の考え方は、虚軸y軸の符号が逆になったので、従来通りには使用できないだろう。
 あえて従来通りの位置を用いれば、第一象限は、可視的現象界(光の現象界)、第四象限が不可視的自然界(闇の自然界)、第二象限は物質科学的世界、第三象限はダーク・マターの世界ではないだろうか。
 これも検討課題である。

参照:

resurrectionのブログ
http://content.edu.tw/competition/96year/web/works/B020040/teaching/1-3-2.htm

追記5:オイラーの公式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

から、以前、Kaisetsu氏と生成門氏が行なったように、ある事象の定置化が考えられるように思う。もっとも、以前は私はそこまで理解が行かなかったが。
 しかしながら、易経にあるように、陰陽は6元あるのである。だから、以下参照2にあるように、積ないしは累乗が重要なのではないだろうか。
 簡単にするために、凹i、凸iを-iとiとする。すると、

陰の位置は、

e^(-iθ)=cosθ−isinθ   ・・・ A

であり、

陽の位置は

e^(iθ)=cosθ+isinθ    ・・・B

となるのではないだろうか。
そして、単純化して、陰陽はA×Bとなるのではないだろうか。
 しかし、正しくは、6元であるから、

(A1 or B1)×(A2 or B2)×(A3 or B3)×・・・×(A6 or B6)

となると考えられる。
 今は問題提起で留める。

修正:先ほど、思いついたのであるが、螺旋的6回転を考えれるとかなり明解になるように思われる。つまり、易における、6元であるが、各元を1回転と見るのである。だから、6元だから、6回点である。
 具体的には、第1回転では、陰・凹iから始めると、1回転は、陰に戻り、半回転は陽となる。ただし、半回転であっても、それは1回転のコースに含める。
 以下、同様に、第2回転、第3回転、・・・第6回転まで、螺旋的に回転するということである。そして、
 各回転の陰陽の様相をかけ算するのである。即ち、

1st cycle(陰、陽)×2nd cycle(陰、陽)×3rd cycle(陰、陽)×・・・×6th cycle(陰、陽)

である。

以下参照:
陰陽はどう機能するのか
テーマ:超無双PS哲科学

凹j☯凸jは同時に、凹i☯凸iを意味しよう。(☯は極性共振を意味する)二重の極性原理を意味しよう。
 問題は、現実においてはどのように作用するのかである。
八卦に則して、考えた方がいいかもしれない。
 例えば、1,凹i(陰)、2.凹i、3.凹iと4.凸i(陽)、5.凸i、6.凸iの順列を考えるのである。
1は凹iと凸iの2通り、以下同様で、
2^6=64通りである。
 問題は、6が何を意味するのか、どのように構造化されるのかである。
 思うに、6つの単位円を考えて、それをmedia pointで共振させることが考えられる。つまり、

1)凹i or 凸i
2)凹i or 凸i
・・・
6)凹i or 凸i

の6つの陰陽様態を「共振」させると、64通りの様態が結果として生起するとは考えられる。

* 64卦一覧
* 64卦配列


 そうすると、6つの陰陽円(自然円に一応限定する)の共鳴が基本的自然様態ということになる。
 思うに、これは、超越円でも考えられることである。そうすると、超越円でも64通りがあるのである。
 自然円と超越円をどう関係づけるのかすぐにはわからないが、思うに、精神の64様態と物質の64様態の組み合わせが考えられるのである。思うに、精神があるのだから、それは、人間になるのではないだろうか。精神の64様態は神々、精霊等々ではないだろうか。
 今は示唆に留める。

参照:
八卦とは | 易経ネット
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11280408121.html
 
参照2:
オイラーの公式の使い方
大学に入ると次のような式を学びます。

オイラーの公式
(e:自然対数)

この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと良いと思います。そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。

複素数は、
Z=|Z|(cosθ+i sinθ)
と極座標(距離と角度)の形式で表すことができます。

このとき、Z1とZ2の積を考えると、
Z1×Z2=|Z1|(cos(θ1)+i sin(θ1))|Z2|(cos(θ2)+isin(θ2))
=|Z1||Z2|(cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2))
となります。
この式の図形的意味を考えると、
(Z1にZ2を掛ける)=(Z1を|Z2|倍に拡大)+(Z1をθ2回転)
というように解釈できます(これは複素数を図形的に考えるときに重要です)。

さて、ここからオイラーの公式を使うと役に立つ理由を説明します。
上で積を考えたときに,計算で気になるのは、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+isin(θ2)) =cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2)
の部分です。 この式は、本来なら加法定理を利用して整理すべきものですよね。
しかし,オイラーの公式を使えば、
(cos(θ1)+i sin(θ1))×(cos(θ2)+i sin(θ2)) =(eiθ1)×(eiθ2)
=ei(θ1+θ2) (ea×eb=ea+bを使った)
=cos(θ1+θ2)+i sin(θ1+θ2) (オイラーの公式を使った)
このように指数関数の性質を使い簡単に計算することができます(加法定理の計算を指数関数の積にすることができた) 。

http://doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html
オイラーの公式の使い方
doraneco.com/physics/lecture/math/eular.html - キャッシュ 類似ページ
一般公開で +1 しました 取り消す
2005年3月15日 – オイラーの公式 (e:自然対数) この式はオイラーの公式と呼ばれています。この式を知っていると計算の見通しが良くなるので高校生でも知っておくと ... そこで、オイラーの公式を複素数に使いオイラーの公式の使い方について考えてみます。





再考:同一性と差異:小我(自然円)と大我(超越円)に関係させて

• 同一性と差異:無双原理を包摂したPS哲科学の視点から (06/18)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1830.html

• 超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円 (06/17)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1829.html

以上の考察以前においては、超越軸、超越界、超越円抜きのガウス平面で、同一性と差異について考察してきたが、上記の状況は新たな緻密な考察を要求しているので、考察を深めたい。
ガウス平面/オイラーの公式に基づくPS理論において、同一性と差異についての考察はそれなりに明快・明解であった。それを簡単に復習しよう。
それは、自我である凸iが差異・他者である凹iを否定するというのが同一性主義であり、差異・他者の凹iを肯定することで、凸iと凹iの差異共振が生じるというものである。
これは実に簡潔明快であるが、超越軸・超越界・超越円を導入すると、新たな思考が必要になるのである。
議論を明快にするために、小我(自然円)と大我(超越円)の視点から述べたい。
結局、問題は、大我がどう小我に関係するかということである。思うに、人間においては、当然、大我が小我に浸透している。しかしながら、人間は、小我において、自我性ないしは物質性に傾斜している。(微妙な点であるが、いちおう、そのような発想で議論を進める。)
これは、父権主義と母権主義の違いの点でもある。
父権主義とは、大我の「太陽」の傾斜によって形成されたと思われる。それは、小我の小陽に傾斜すると考えられる。言い換えると、同一性主義である。
母権主義とは、反対に、大我の「太陰」の傾斜によって形成されたと思われる。それは、小我の小陰に傾斜すると考えられる。それは、差異主義(個主義)である。
いちばんの問題は、父権主義である。大我の「太陽」と小我の小陽が結合している状態である。
 これは、いわば、究極的な同一性主義、同一性中心主義、同一性絶対主義である。
これは、差異を当然否定するのである。そして、差異を自己の同一性へと取り込むのである。
この帰結が近代合理主義、近代的自我、唯物論と言えよう。そして、この事象・事態をPS哲科学では、連続性と呼ぶのである。
それに対して、不連続性とは、連続的同一性を否定し、抑圧された太陰、小陰である差異を積極的に肯定することである。これは、同時に、同一性と差異との差異共振を意味し、母権主義ということである。
以上から、母権主義とは多元主義であり、父権主義とは一元主義であることが判明した。換言すると、前者は多神教であり、後者は一神教である。
そして、文明的問題は、父権主義が主導したとき、差異主義・多元主義・母権主義・多神教が父権主義へと連続化されることである。後者による究極的様態においては、前者のまったき否定となるが、一般的には、両者が未分化的に揺れ動いていると考えられる。
そして、この揺動は、未分化であり、二元論である。また、絶対的矛盾である。
この、いわば、分裂的二重性はカオスであり、本来、超克すべきものである。そして、この超克とは、不連続性の積極的肯定に拠ると考えられるのである。脱連続性である。
このとき、源泉の太極は、自然円的に、太極陰陽性を真に実現したことになる。父権的傾斜を超克した真母権的太極陰陽性を実現したと言えよう。


2012年06月17日(Sun)▲ページの先頭へ
超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円
超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円

テーマ:無双原理とPS哲科学

先に、無双原理を見て、ガウス平面を直交する垂直軸(超越軸)が不要であると述べたが、果たしてそうだろうか。
 問題は、自我原理(小我原理と大我原理)をどう捉えるかである。
 一般に、自然(植物、動物、鉱物、その他有機体や無機物)には、人間のような自我原理はないのだから、それらと一様に人間を扱っていいのか、これまで述べたように、問題である。
 やはり、一般の自然とは超越した原理として、自我原理を見るべきならば、やはり、ガウス平面に直交する超越軸が必要となる。
 そうならば、根源の太極が超越円にあり、その回転によって、ガウス平面の単位円が形成されるということになるだろう。
 そうすると、二重の円、超越円と自然円を考える必要があるのである。
 これは、無双原理に引かれる前の考えに戻ることになる。
 そうなると、太極、太陰・太陽の考え方はどうなるだろうか。
 超越円=太極であり、太陰が超越軸凹j、太陽が超越軸凸jとなるのではないだろうか。では、虚軸凹iと虚軸凸iは何になるのか。
 仮に、凹iを小陰、凸iを小陽としよう。光(光子)は凹iであり、空間形式であり、闇(重力子)は凸iとなり、時間形式である。前者に太陰凹jが重なり、純粋悟性となり、後者に太陽凸jが重なり、感情・欲望となるのではないだろうか。
 つまり、超越円は宇宙・神霊的次元であり、自然円は現実・日常的次元となる。
 そう、カントの超越論的形式とは、超越円が自然円に重なった様態を意味していよう。そして、カント哲学では、超越円への志向が純粋理性批判という限界を もっているのである。言い換えると、重なった様態においてのみ、カントは、超越円への超越性を示唆するのみで、超越円に飛翔できないと考えられる。
 超越円の世界とは、プラトンのイデア界である。

追記:以上のように考えると、小我は自然円に、大我は超越円に存すると言えよう。
 では、小我の自然円から大我の超越円への飛翔はどのように可能になるのだろうか。
 問題は、小我=自然円に存するmedia point(調和点)を重視することによってであろう。それは、超越点と言うことも可能である。その超越点を重視することは、超越円に通じることとなると考えられる。
 思うに、心、精神、魂と呼ぶものは、小我=自然円のmedia point=調和点=超越点であると思われる。その涵養・陶冶によって、超越円=超越界=神霊界へと飛翔できると考えられる。
 近代・現代日本人は、唯物論化されて、これを喪失していると考えられる

追記2:PS哲科学は無双原理を包摂するものになると言えよう。





トランスからイントラへ?:トランス・モダンからイントラ・モダンへ?

テーマ:trans-modern:超近代的進化

近代を超える意味でトランス・モダンという用語を使用しているが、思えば、近代・モダンの内在的超越を問題としているのであるから、イントラ・モダンが正しいと思う。 inner-transcendenceである。

追記:内在的は、immanentやintrinsic等があり、超越的は、transcendentである(超越論的がtranscendental:以上カント哲学から)。

追記2:イントランス・モダンの方がいいかもしれない。日本では、内超近代である。


参考:
「超越的」と「超越論的」≪超越論的な真理は本当か2 - 独今論者のカップ ...
sets.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/2-45b3.html - キャッシュ 類似ページ
sets.cocolog-nifty.com の結果をすべてブロック
2010年7月19日 – 超越的」と「超越論的」≪超越論的な真理は本当か2≫. 認識の考察の仕方について、カントは「超越論的」という言い方をする。 実在の側に「物自体」が存在し、しかしそれは、人間という観察者には決して到達しえないという。 その世界を構成し ...





小我と大我の連続性が一神教的であり、両者の不連続性が多神教的では?:ultra-modern

テーマ:無双原理とPS哲科学

小我と大我:凸iと凹i:物質的自我と宇宙的自我
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11279267349.html

先に以上のように述べたが、再考したい。
 復習すると、凹iが太陰であり、小我であり、多である。凸iが太陽であり、大我であり、一である。
 しかしながら、凹iは純粋悟性であり、それは、同一性を意味する。凸iは宇宙的意識であり、根源であり、他者である。
 問題は、小我の同一性と大我の一性である。大我の一性とは、他者性であるから、実は、多を意味する。一即多である。
 小我と大我が連続化すると、小我のもつ同一性が大我の他者=多性を否定して、いわば、一神教的志向性をもつのではないだろうか。言い換えると、同一性中心主義、二項対立主義、父権主義である。
 両者を不連続化したとき、小我と大我の差異共振が起こり、純粋悟性と宇宙的意識の均衡性を生じるだろう。

追記:太陰は物質の光であり、太陽は太陽/超太陽の光である。light とdarknessである。
 太陽はultra-sunを意味する。
 純粋悟性は唯物的知性であり、宇宙的意識は内在-超越的意識である。両者の極性均衡は、ultra-modern、neo-orientalismを意味する。

追記2:小我と大我の連続性が凹i*凹凸i⇒凹(−1)では?
というか、凹i*凸i⇒凸(+1)+凹(−1)ではないのか。
 つまり、太陰凹iと太陽凸iの連続性は、物質的認識凸(+1)と同一性的認識凹(−1)を生むのではないだろうか。両者は双子のようなものと考えられる。連続性のもたらす双子である。

追記3:超太陽とは、太極ではないのか。後で検討したい。





小我と大我:凸iと凹i:物質的自我と宇宙的自我

テーマ:無双原理とPS哲科学

凹iが陰(太陰)、凸iが陽(太陽)だろう:自我とは陽だろう。

先に以上のように述べたが、どうも、自我は二種類あって、凸iの陽が大我であり、凹iの陰が小我ではないのかと考えてみた。
 そうならば、大我と小我の連続性が近代的自我であり、近代合理主義を生むのである。
 両者を分離するのが、不連続的差異論、そして、両者を共振させるのが、PS哲科学である。
 小我とは、純粋悟性的自我であり、大我とは、宇宙的自我、神的自我である。
 両者を不連続化したとき、「ポスト・モダン」が始まる。
 とまれ、思うに、大我は一(いつ)の志向をもち、小我は多の志向をもつのではないだろうか。
 しかし、両者が連続化すると、大我が小我を支配して、統一主義、二項対立、全体主義になるのではないだろうか。
 というか、大我と小我で揺れ動くであろう。

以下、専門的な独創的内容になるので、割愛する。





凹iが陰(太陰)、凸iが陽(太陽)だろう:自我とは陽だろう。

テーマ:無双原理とPS哲科学

無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/サンマーク出版

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一部を除き、ざっと読んだが、これは、無双原理のスケッチというべき著書だと思う。たいへん洞察力に満ちたものであるが、粗削りである。
 もう八十年以上も前の著書であり、その後、無双原理を発展させたものを管見で知らない。もっとも、PS哲科学は陰陽原理に基づくので、無双原理の一種の無意識の後継者になるかもしれない。
 とまれ、先の私の指摘は早とちりだった。凹iが陰で、凸iが陽であるが、無双原理では、凹iが上方であり、凸iが下方である。ここが一つのポイントである。
 私は純粋悟性は凹iであると考え、また、自我もそのように思ったが、どうやら、純粋悟性と自我は切り離すべきように思えてきた。
 自我は、凸iの陽の原理ではないかと思えてきたのである。つまり、凸i=陽の傾斜が自我原理である。それに対して、凹i=陰の傾斜は悟性原理となるだろう。
 とまれ、問題は、近代的自我とは、この対極的原理が結合していることだろう。凸i=陽が凹i=陰と結合しているのである。そう、これこそ、連続性ではないだろうか。
 そして、不連続的差異論は凸i=陽と凹i=陰を切り離したと考えられるのである。つまり、自我原理と悟性原理を切断したことになるのである。だから、「ポスト・モダン」である。
 無双原理的に言えば、陽と陰を区別したことになるのである。
 そして、PS理論は、陰と陽との差異共振極性原理を数学化したものである。
 問題は、自己認識方程式にあるかもしれないが、これは、今はおいておく。
 とまれ、近代的自我(コギト主義と呼んでおく)は、陽のもつ同一性と陰の差異(個)を連続化してしまっているのである。絶対的矛盾を一体化してしまっているのである。
 ところで、凸i=陽=自我同一性原理、凹i=陰=純粋悟性原理とすれば、超越軸は不要であり、ガウス平面と円(オイラーの公式)だけで済むことになる。
 ただし、無双原理のように、凹i=陰を上部、凸i=陽を下部とする必要があるだろう。

追記:自己認識方程式(凸i*凹i⇒凸[+1])であるが、*の積とは、連続化の意味となるのではないだろうか。つまり、近代的自我ないしは近代合理主義を意味するのではないだろうか。
 凸(+1)とは、物質的認識(近代合理主義)を意味するのではないだろうか。
 そして、凸i*凹凹i⇒凹(−1)とは無自我的認識のことではないだろうか。(不連続的差異的様態を意味するのかもしれない。)
 本来の自己認識は、ガウス平面上の単位円に存するのではないだろうか。それは、オイラーの公式で表現されるだろう。
 後でさらに検討したい。





太陽は太極で、media point

テーマ:無双原理とPS哲科学


周氏太極図


先に、太陽を陰(光)*陽(闇)⇒太陽と図式化したが、そうではなく、太極=太陽⇒陰(光)*陽(闇)⇒宇宙・自然ではないだろうかと思った。初めに、太極=太陽ありきである。
 それは、超・超越界ではないだろうか。media pointとしての太極=太陽から、超越円と超越軸z軸が生まれたのではないだろうか。そこから、また、陰陽が生まれたということではないのか。
 後で検討したい。
太極図 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/太極図 - キャッシュ 類似ページ
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太極図が文献として確認されるのは北宋の周敦頤の著した『太極図説』(11世紀)が最初である。『易経』繋辞上伝における「太極 - 両儀 ... 黒色は陰を表し右側で下降する気を意味し、白色は陽を表し左側で上昇する気を意味する。魚尾から魚頭に向かって領域が ...
五層 - 陰陽魚 - 円図 - Unicode

太極 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/太極 - キャッシュ 類似ページ
道教のシンボルともなった陰陽魚の太極図 · 周敦頤『太極図説』に描かれた最初の太極図。朱子学によって重視された。 太極(たいきょく、簡体字:太极 ピンイン:tàijí、タイチー)とは、『易』の生成論において陰陽思想と結合して宇宙の根源として重視された概念で ...
太陰大極図とは何か?
web-box.jp/dazake/honnbunn/taiintaikyokuzu.html - キャッシュ 類似ページ
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ところが実は、この太極図の説明の仕方は、モナリザを追求した結果、出来上がったものなのです。 「モナリザの背景は、四つの場所をつなぎ合わせたものだった。」 これは06'05/20フジテレビ系列放映の『ダ・ヴィンチ=コード ミステリースペシャル』で紹介された、 ...





無双原理の陰陽哲学について:凸iが陰で、凹iが陽なのか、どうか

テーマ:無双原理とPS哲科学

以下の著書を半分弱読んだが、思った通り、実に興味深い、魅力的である。確かに、PS哲科学に似ているが、根本の点でまったく正反対なのである。この点がいちばんの問題である。
 即ち、PS哲科学では、これまで、凸iを陽、凹iを陰としていたが、無双原理に即せば、凸iが陰、凹iは陽とならなくてはならない。言い換える と、光が陰、闇が陽とならなくてはならない。これは、最大の問題である。光を陽、闇を陰とするのは、語義からみても、直観から見ても妥当であるが、それを 逆転することが可能なのだろうか。
 凸iを悟性(知性)と取ると、無双原理の陰陽性がわからないでもない。悟性(知性)はクールであり、冷であるから、確かに、無双原理からすると、陰となる。
 それに対して、魂はホットであり、暖であるから、確かに、無双原理からは、陽となる。
 そうすると、凹iが陽で、凸iが陰となることになるが、それでいいのだろうか。
 具体的に言うと、女性が陽で、男性が陰である。それは、確かにわからないことはない。
 どうも、無双原理の方へなびきつつある。
 ここで、参考として、D. H. ロレンスの王冠哲学を考えると、獅子=「父」が闇であり、一角獣=「子」が光であり、両者の「止揚」として、王冠=「聖霊」が存する。
 闇は陽であり、凹iとなり、光は陰であり凸iとなる。
 確かに、それはロレンスの思考に合致するだろう。
 無双原理を肯定すると、PS哲科学の凸i*凹i⇒凸(+1)の方程式は陰(光)*陽(闇)⇒自然・宇宙ということになる。
 仮にこれを肯定した場合、光のもつ明朗感、歓喜感は陰で説明ができるのだろうか。
 太陽が陰でいいのだろうか。思うに、太陽は、本来、陰と陽の結合によって生まれたものではないのか。ならば、光は、太極的であろう。
 ならば、陰を光とするのが、誤りである。陰*陽⇒光とすべきように思う。そして、太極⇒陰*陽⇒光という根本図式が考えられる。
 そのようにしたとき、カント哲学の悟性原理はどのように説明できるだろうか。これまで、凸iの光の原理としてきたのである。
 それは、今は、反対となり、凸iの陰の原理とすれば、説明できることになる。
 どうも、無双原理の陰陽論の方が的確のようである。
 後で更に検討したい。
追記:ロレンスの説くdarknessとは、上述の視点からは、闇ではなく、陽となる。でも、このように説明すると明らかに混乱する。
 結局のところ、根本の問題は光とは何かということになるだろう。いわば、光は光であって、光ではない。
 人間は一般に、陰凸iを介して、光を知覚する。それは、同一性の光、物質の光である。しかし、それは光を同一性のフィルターを介して見たものに過ぎない。それを物質光と言ってもいいだろう。あるいは、陰光である。
 それに対して、本来の光は、陰陽共振結合によって生じるものと考えられるのである。つまり、陽極をもっているのであるが、人間は、陰極から見ているのである。
 陽極から見た光がdark sunというものではないだろうか。
 結局、一般に人間は本来の光、太陽を見ていないのである。同一性、物質、陰凸iの眼鏡を介して、見ているに過ぎないのである。
 そう、人工的な光・照明は、物質光(凹、−1)と見ないといけない。それは、本来の光、太陽ではない。
 ロレンスのdarknessに戻ると、それは、陽凹iであり、本来の光に通ずるものである。それは、魂(内在)から霊(超越)へと通ずるものである。
 結局、問題は言葉の問題である。所謂、光が光でないために、混乱するのである。
 そう、明快にするならば、通常の光を光と呼ぶならば、darknessは確かに、闇である。そして、光(陰)と闇(陽)の共振結合から生まれるのは、以前述べたように、超光である。
 マニ教その他宗教の光は、超光と見るべきである。それは、dark sunである。
 それは、また、プラトンの洞窟の比喩における洞窟外の太陽である。ここで、ロレンスとプラトンは一致するのである。
 日常言語を混乱させるのはよくないので、光(陰)*闇(陽)⇒超光(dark sun)という図式(PS哲科学では、凸i*凹i⇒凸(+1)という自己認識方程式)を肯定したい。
 ここで一言、無双原理の視点から、日本の文化・社会状況を述べると、明らかに、凸i(光・陰)化しているのである。凹i(闇・陽)が衰退しているのである。
 更に、『無双原理・易』を読み、検討を続けたい。
 
無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/桜沢 如一

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超日本人への進化:眠っている母権極を覚醒開発し、神秘・超越的精神へと「止揚」すること

テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

先に、日本民族文化は母権極と父権極の極性をもつと述べたが、今日は、父権極に傾斜しているために、日本人の精神が無秩序状態になっていると考えられる。
 そう、基底に多重多層の母権極があるために、父権極傾斜では、母権極の力に対応するために、知的精神は歪んだもの、奇形的なものになってしまうと考えられる。
 そう、日本民族文化の母権極を覚醒させる必要がある。それは、神秘・超越的精神である。近代合理主義、唯物論、物質科学・技術を信奉している現代日本人 にとって、それを受け入れることは、実に恐ろしいことであろうが、それを受容しないと日本は滅亡するしかないのである。眠っている母権極を開発する必要が あるのである。

No駄背犬は、国学化された日本父権主義の末裔である:新母権的個的民主主義へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11274522210.html

日本父権主義とは何か:無意識の母権極と封建的同一性・自我主義の複合的バイアス
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11273779168.html





No駄背犬は、国学化された日本父権主義の末裔である:新母権的個的民主主義へ

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下の一番目の記事に「合理的思想体系はなく、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を振りまいているが、このままやらせていたら必ず国が滅びる」と述べられているが、「合理的思想体系はなく、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を振りまいている」 という点であるが、これは、正に、先には触れなかったが、日本父権主義の国学化された精神であると考えられる。私の明治維新批判もこの国学的精神に向けら れている。それは、二項対立であり、他者を否定排除するが、独特なのは、ここで述べられているように、「感情に訴え」る点である。有名な本居宣長の「敷島 の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」は正に、情緒論であり、感情主義なのである。日本父権主義は国学化して、二項対立主義であると同時に、感情主義な のである。つまり、反合理主義なのである。同時に、当然、利己主義である。
• 2012/06/11 : 政治・権力・陰謀 : 危機感なき言論と知識人に警告 野田首相は典型的なファシストだ 「日刊ゲンダイ」 H.24/6/9
• 2012/06/11 : 政治・権力・陰謀 : [怒りの検証] 枝野と菅 「原発事故調」の偽証を告発する! 「週刊ポスト」 H24/6/15号





無双原理とPS哲科学:比較考察検討の必要

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

無双原理もPS哲科学も易の陰陽論(陰陽相補哲学)を基盤としている。PS哲科学は輪郭はほぼできているが、細部になるとまだ不明瞭である。桜沢如一(ゆきかず)氏の無双原理を読んで、視野を広げたい。
 考えてみたら、陰陽の根源の太極については、これまで、PS哲科学では、ほとんど論究していないのに気づいた。陰陽極性の二重性とその中間点のmedia pointを中心に考えてきて、太極という超越性は考えてこなかった。ここに発展の糸口の一つがあるだろう。

無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/サンマーク出版

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桜沢如一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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桜沢 如一(さくらざわ ゆきかず、生来はにょいち。1893年 10月18日 - 1966年 4月24日 )は、思想家 ・食文化 研究家。
マクロビオティック の提唱者として有名で、海外ではジョージ・オーサワ(George Osawa)の名で知られている。
経歴 [編集 ]
和歌山県 新宮市 (当時の東牟婁郡 )の貧しい武士 の家系 に生まれる。14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して[1] 石塚左玄 の「食養生」に触れ、健康を回復する。その後貿易商 として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会 に参加。1924年 には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年 、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年 、無双原理講究所 を滋賀県 大津市 に開設する。
その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ 説」「ナトリウム ・カリウム のバランス論」を易経 の陰陽 に当てはめた無双原理 を提唱。1929年 に単身シベリア鉄道 経由でパリ に渡り、ソルボンヌ大学 に留学。次いで、同年、フランス語 にてパリ のVrin 社より『Le Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想 の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルロー などと親交。1937年 に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社 から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラー となる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真 の実家のある山梨県 に疎開。戦後は世界連邦運動 に取り組む傍ら、再びインド ・アフリカ ・欧米 など世界各地を訪ね、マクロビオティック の普及に注力する。1955年 には、アフリカ・仏領ガボン にてアルベルト・シュバイツァー 博士と会見し、西洋医学 、栄養学 の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代 初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴラン はパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学 講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換 にシフトすることになる。 1964年 6月21日 、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na →K の低温低圧原子核転換の成功を述べている(客観 的な真偽不明)。
後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治 、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫 、大森英桜 、岡田周三 、菊池富美雄 らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
死因は心筋梗塞 。
脚注 [編集 ]
1. ^ 太田竜 『日本の食革命家たち』柴田書店、1984年。58頁
参考図書 [編集 ]
• ルイ・ケルヴラン 著/桜沢如一訳 『自然の中の原子転換』 日本CI協会 。
• 桜沢如一著『無双原理・易』 日本CI協会 、1971年 2月。
関連項目 [編集 ]
• 常温核融合
外部リンク [編集 ]

ウィキメディア・コモンズには、桜沢如一 に関連するメディアがあります。
• 日本CI協会
• 正食協会
• マクロビオティック オーサワジャパン 自然食品
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カテゴリ :
• 料理研究家
• 食養
• 菜食主義
• 京都府出身の人物
• 1893年生
• 1966年没
• 生物学的元素転換
• マクロビオティックの人物

1 桜沢如一氏のこと
www.matsuihsp.or.jp/shokunai/html/.../mansei_v02_01.ht... - キャッシュ 類似ページ
ここに桜沢如一氏について書いた文章を紹介します。これは「新栄養」という雑誌に昭和60年の10月、11月、12月と3カ月にわたって連載されたものです。これを書いたクレマン・S・Kという人は河内省一先生です。河内先生と日野先生はどちらも桜沢氏の指導を ...


2012年06月03日(Sun)▲ページの先頭へ
精神と現象:精神(霊魂)が現象化して、自我意識等が生まれた?:超越界と超越論界と現象界
テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

超越軸をもつガウス平面、つまり、ガウス平面をいわば底面としてもつ立体座標においてであるが、どうも、超越軸z軸と虚軸y軸との関係が不明解である。
 そこで、考え直したのである。これまで、自我(頭)を凸i、魂(肚)を凹iとし、前者に悟性、後者に感情・欲望を見たのであるが、そうすると、凸iは光子(電磁波)であり、凹iは闇子(重力波:仮説)であるから、宇宙・自然現象一般と人間が一致してしまうことになる。有り体に言えば、植物、動物、鉱物等と人間が区別されないことになってしまうのである。確かに、身体的には、植物、動物、鉱物等と共通するが、人間の精神・認識性はそれらにはないだろう。そう、簡単に言えば、自我は植物、動物、鉱物にはないだろう。(とは言え、動物には、小自我ないしは前自我のようなものはあるかもしれないが。)
 そこで、これまでの仮説を変更して、自我の根源は凸jであり、魂の根源は凹jであるとするのである。つまり、自我と魂は神霊と等しくなるのである。(ここで、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」を想起する。)
 では、神霊である自我と魂(両者併せて、以下、自己魂)がどうして、現象における自己魂(一般的に自我に傾斜しているので、自我魂)となり、神霊である自己を忘却ないしは喪失しているのだろうか。
 この理由・原因は分かりやすく説明できる。即ち、神霊的自己魂は、現象化して、物質界/身体界に組み込まれて、物質/身体の制限を受けるからと考えられるのである。
 つまり、根源は神霊的自己であるが、それが、虚軸の凸iと凹iへと転化するのが現象化、言い換えると、誕生である。つまり、虚軸の凸i=光子(電磁波)と凹i=闇子(重力波:仮説)の極性を帯びるのである。悟性は神霊的自我の凸jが凸iに、魂は神霊的魂の凹jが凹iにそれぞれ折り重なったものと考えられるのである。
 同一性とは凸iに関係するのであり、その同一性的認識を介して、人間は物質を認識するのである。そう、カントの超越論的形式は正に、凸iに折り重なった凸jで説明ができると考えられる。
 それは、空間形式であるが、時間形式は、凹iに折り重なった凹jで説明できよう。カントの内的感覚(内官)である。空間形式は外的感覚(外官)に関わるのである。
 そして、この超越論的形式(そう、凸iと凹iをそれぞれ、超越論的空間形式、超越論的時間形式と言えよう)が真に物質的現象化するのが凸(+1)と凹(−1)で説明できよう。つまり、凸i化された凸jと凹i化された凹jが結合して、純物質凹(−1)と宇宙・自然現象凸(+1)となると考えられるのである。
 わかりやすく言えば、虚軸y軸は、胎児の世界であろう。そして、実軸x軸が現象世界(いわゆる現実世界)である。
 そう、睡眠とは、実軸x軸(存在軸)から離脱して、虚軸y軸へと回帰して、さらには、media pointを介して、超越軸z軸の神霊世界に触れることではないだろうか。つまり、睡眠において、現象的自己は、神霊的自己に回帰しているということになる。つまり、霊魂に戻っているということになる。
 さて、ここで思考実験であるが、虚軸化作用を受けた神霊的自己の数学的記述であるが、凸j・凸iと凹j・凹iと積で記すことができるのか、それとも、明快に凸j⇒凸iと凹j⇒凹iとした方がいいのか。
 前者を使用するなら、結合は(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(−1)となる。
 結合という用語であるが、これは、同一性化作用と差異共振化作用の二重性を意味している。
 自然現象の場合は、差異共振化だけでいいのであるが、人間の場合は、自我凸iに傾斜しているので、同一性化作用を組み込む必要があり、その為に、二重性をもつ意味として結合という用語を用いたのである。
 ところで、結合式(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(−1)は整理して、

(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸凹(±1)

と記述したい。凸凹は凸と凹の併存を意味しているのである。
 ここで、ルドルフ・シュタイナーの精神哲科学を考えてみると(もっとも、上述の睡眠事象はその視点に拠るのであるが)、超感覚(霊的感覚)的世界とは、自己から凸i*凹iの拘束から離脱させることで得られると言えよう。そう、同一性・物質の被拘束から精神意識を離脱させることである。
 ただし、シュタイナーは科学的合理精神を重んじていた。つまり、同一性・物質的な思考を重視していたのである。
 超感覚(霊的感覚)的世界を同一性・物質的言語で表現することを重視していたのである。その表現は、絶対的には不可能であるが、いわば、相似的に可能であるということである。
 同一性・物質的思考、科学合理的精神を重視するのは、現実離れをして、精神が混乱するのを防ぐためである。
 しかしながら、同一性・物質的思考、科学合理的精神は、悟性的精神であり、自我と結びつくので、自我の欲望を抑制する必要があるのである。そうでないと、合理的精神が自我欲望によって捩じ曲げられてしまうのである。
 言い換えると、同一性的自我を抑制する必要があるのである。つまり、差異(他者)、差異共振の思考が必要となるのである。具体的に言えば、頭脳中心の思考を抑制する肚の思考が必要なのである。そして、両者の中間に胸の思考(media point thinking)を形成すべきなのである。優しさや「愛」とは、そこから生まれるが、それを道徳・倫理として確立すべきである。そう、フィオーレのヨアキム的に言えば、それは「聖霊」的思考である。頭脳的思考が「父」であり、肚的思考が「子」であり、胸的思考が「聖霊」ということになる。(今や、「聖霊」のエポックであるが。)
 言い換えれば、同一性と差異とのバランスを保持するということである。
 以上から、これまでの不明であった超越軸z軸(超越界、神霊界、イデア界)と虚軸y軸(光・光子と闇・重力子)と実軸x軸(純物質と現象)の関係が明快になったと言えよう。
 最後に、⇒凸(+1)をこれまで、超光と仮説してきたが、この点を再検討する必要がある。
 原光・光と原闇・闇の差異共振が創産(造語)する凸(+1)は、宇宙・自然現象であるが、それを超光であると見ていいのか。
 それは、力ではないのか。powerないしはforceではないのか。
そう、宇宙・自然現象を形成する実際の力ではある。
 だから、超光というより、超力の方が相応しいのかもしれない。
 現時点では、訂正して、超力としたい。
 宗教的光であるが、それは、やはり、超越界に存すると言えよう。それは、凸j*凹jのmedia pointに存するのではないだろうか。そこに本当の超光があるのではないだろうか。それが現象的に発出すると超力になるのではないだろうか。
 今はここで留める。

参考:
意識と本質。 | 芸術生理学研究所(仮)
2005年1月30日 – この著作もすでに1991年に中公文庫より刊行されていたが、このご時世、新たに「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」という ... Tat tvam asi(「汝はそれなり」)は、ウパニシャドの宗教的・哲学的思想の精髄(エッセンス)を一文に収約したものと ...
http://green.ap.teacup.com/april/8.html

参照:
自分が主人公だった

ある有名人が、「世の中は、不公平なのが真理です」と発言されていました。
この言葉は、聞く人の心の深さによって、何を思うのかが変わります。
この世だけで、すべてが終わり完結すると思い込んでいる人には、この世が不公平に見えるようです。
しかし、私は「この世は、完全なる公平」であり、これが真理だと知っています。

1日には、昼と夜の時間帯があり、2つ合わせて丸1日なのです。
昼間とは、物が見える時間帯です。これは私たちが、この世で生きている間の時間帯(人生)でもあります。
そして、人は必ず死んで、夜の時間帯へと移行するのです。
つまり、この2つを経験して初めて、魂の1つの区切りと成るのです。

まだ半日しか生きていない人間が、「この世は不公平」だと思うのです。
物語を「途中で切り取れば」、話のつじつまが合わないのはアタリマエなのです。これを不公平だと、錯覚しては生けません。
人間は、この世では、まだ半分しか生きていないと言うことを知るだけでも、この短い人生の生き方が改善されます。
この半分の世界だけで終わると思い込めば、不公平、あやまち、不平不満、我良し、やった者勝ち・・・などと、感謝の心(内在神)から離れた行動と思考をします。

http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/bca3505a93808fef75fe69b83d7d1d8f

伊勢ー白山 道






日ユ同祖論と母権文化的原日本:父権と母権

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

日ユ同祖論が正しいと仮説すると、タイトな父権主義の「ユダヤ」文化が豊饒なる母権文化の原日本に「侵入」したとすると、それは、私が唱えている母権と父 権の衝突に拠る古代ギリシア的なタイプの文化が古代日本において形成されたことを意味することになる。もっとも、私は中国からの父権民族の侵入を想定した が。
 思うに、両極端の文化の衝突と融合が古代日本で生じたことになる。天皇がその中心(media point)である。
 しかしながら、江戸時代になり、古い結合融合(略して、結融)文化が崩壊して、父権と母権に分裂した。明治維新はこの両面をもっていたが、結局、父権が勝利して、全体主義的近代日本が形成された。
 今日、新しい融合を目指すべきである。それは、超日本となるだろう。近代を超克するトランス・モダン・ジャパンである。
 余裕のあるとき、丁寧に説明したい。

追記:新しい融合は、母権凹iが土台となり、父権凸iを取り込むように、それと共振して、形成されるのである。

http://www.googleadservices.com/pagead/aclk?sa=L&ai=BibtCmkDLT9ayB4H9kAWs76CWBKHd4rACubf5hkDAjbcBwIHFURABGAEg3qaUCjgAUKmu5ZoHYInrx4T4E6AB74-w0QOyAQlhbWVibG8uanDIAQHaATZodHRwOi8vYW1lYmxvLmpwL25lb21hbmljaGFlaXNtL2VudHJ5LTExMjY1OTMzODE5Lmh0bWyAAgGpAqS6gSZTfUs-qAMB6AOuAegD2gP1AwAAAMb1AwAAQBCIBgE&num=1&cid=5GjkQKSNfClfdo1pk2rx4fw3&sig=AOD64_2EFo3jT7uceTE4DgN4WSHlIfkaww&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://www.coway.co.jp





「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

先に、「天」の方向は、凸(+1)であり、「地」のそれは、凹(−1)であると述べたが、端的に考えれば、凸iが「天」の方向であり、凹iが「地」のそれ である。つまり、凸iは「頭」であり、凹iは「肚」であるから、単純に、当然、凸iが上昇の方向であり、凹iが下降の方向である。
 そうならば、凸(+1)と凹(−1)は何を意味するのか。
 前者は差異共振による現象界(宇宙・自然)を意味するだろう。後者は物質界である。
 また、前者は超光であり、後者はいわば、超闇である。
 また、凸iは実体としての光であり、凹iは実体としての闇である。
 ところで、先に、氣と電磁波は異なると述べたが、そうすると齟齬が生じる。何故なら、凸iは光・光子(電磁波)であり、陽の氣であるからである。(もっとも、凹iは闇・闇子であり、陰の氣であるが、それは、重力波ないしは重力子[作業仮説]であり、電磁波ではないが。)
 そう、先の説明を修正しないといけない。氣ではなく、超氣と電磁波は異なると言わなくていけないのである。超氣とは、凸(+1)の超光である。





物質が先か、それとも生命体が先か:生命体の解体から物質が生じたと考える

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

PS哲科学は、新イデア論であり、精神が根源にあると仮説している。そう、精神から物質が発生したと考えている。
 しかし、説明が必要である。精神から、最初、生命体が生まれたと考えているのである。その生命体は当然、物質性を帯びている。しかしながら、生命体の衰退によって、生命有機体は解体して、物質が生起したと考えるのである。
 つまり、精神(神霊・霊魂)⇒生命体⇒物質の順である。
 しかるに、物質科学=唯物科学は、逆に、物質⇒生命体⇒精神という順に発生を考えるのである。
 確率論的に言えば、後者の可能性は極めて低いのであり、仮説に過ぎないと言えよう。
 この問題の一つのキーポイントは、氣であると思う。氣を認めるか否かで、決定的に異なる結果となる。何故なら、氣は物質科学で説明できないからである。せいぜい、電磁波を氣と考えることができるくらいである。
 しかし、氣は生命の生成力であるから、それを単純に電磁波と捉えることは不可能である。

追記:上記の氣は超氣と訂正する。そうでないと齟齬を来すからである。即ち、凸iの光・光子は、陽の氣であり、電磁波であるからである。もっとも、凹iの闇・闇子は、陰の氣であるが、重力波(作業仮説)であり、電磁波ではないが。
 以下参照。

「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11265898435.html






唯物科学から生命有機体科学へのパラダイム・シフト

テーマ:trans-modern:超近代的進化

飯山一郎氏の唱える乳酸菌ないしは光合成細菌による新農業ないしは、脱原発路線は、結局、近代の唯物論を超える、生命有機体論科学の提唱であると言えよう。
 端的に、物質と生命とは異なるのであるが、近代科学=唯物科学は、前者から後者が生まれると考えたのである。
 しかし、その結果は、例えば、福島第一原発の崩壊による放射能汚染である。
 原発は近代科学=唯物科学の帰結と言えよう。物質ではなく、生命有機体を基にした科学ならば、このような事態はありえなかったと言えよう。
 結局、脱近代科学=脱唯物科学として、トランス・モダン科学=生命有機体科学というものが必然となるのである。


6月2日(土)京都のえびす屋で講演会。 6月24日には東京でミトラについても話します。
新井信介 「京の風」


母なる海が人間を産んだ

伊勢ー白山 道  





不連続的差異論からPS哲科学への移行の問題について

テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

不連続的差異論は、哲学理論であったが、それに数学を導入して、PS哲科学(哲学-数学-科学理論〔仮説〕)へと発展した。
 この数学-科学への発展の妥当性について、後で、再検討したい。
 言い換えると、不連続的差異論は、精神的哲学であるが、その精神性を数学で記述するのは、どういう意味をもつのか等を検討したいのである。
 精神を数学で記述できるとは、結局、精神自体が数学的であるということになるのである。これは、ピュラタゴラス/プラトン哲学路線ではある。
 それは、結局、精神は数理的存在であるということである。しかしながら、私の疑問は、精神は精神の様態をもっているのであり、その様態は単に数理ではすべては捉えられないのではないのかということである。
 今の予備考察では、やはり、二重性があるのではないのかということである。即ち、精神的様態と数理的様態の二面を哲学はもっているのではないのかということである。
 だから、PS哲科学とは、精神-数理的哲科学ということになる。
 しかしながら、根本は精神であると考えられる。精神の科学的側面が数理的に記述されるのであり、精神の認識的側面が哲学的に記述されるということではないだろうか。
 以上、とりあえず、予備考察としておく。

追記:補足すると、根源は精神である。そして、それが、意識的側面では哲学となり、数理的側面では、数学-科学になるということである。
 しかしながら、意識的側面が中心であり、数理的側面は補完的側面であると考えられる。
 つまり、精神の意識様態が直観的表象であり、それの数学ー科学的表象があるということになる。
 精神の意識様態が基本であり、数理ー科学的記述は、知的様態であると言えよう。
 意識様態とは、知性、感情、意志を含むものであり、数理ー科学的記述は単に客観的知性による表象と言えよう。
 だから、数理的記述は、確かに、進展的ではあっても、意識様態に取って代わることはできないのである。
 故に、数学主導で、不連続的差異論からPS理論へと進展したことは、意識様態を客観的知性が取って代わったことになり、それは、一面的であり、そのために、本末転倒の状況が生じたのである。
 意識様態こそ、基本であり、数理的記述はその補完的知的表現と見なさないといけない。
 そう、意識的合理性と知性とは異なるのである。前者から哲学が、後者から科学が生じる。
 思うに、意識科学というものが考えられそうである。それは、端的に哲科学(哲学-科学)である。





肚の鍛練と頭脳の学習:肚と胸と頭の陶冶・涵養に向けて:新母権的自己形成へ

テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

現代日本は魔境に入ってしまった。自我、父権的自我である利己的人間が蔓延してしまって、他者への認識、同時に、自己への認識が喪失されている。
 何度も述べたが、明治維新は、父権的封建的自我(一般的に長州勢力)が母権的個主義(坂本龍馬、西郷隆盛らの勢力)に勝利して、集団的中央集権国家が形 成された。そして、狂気の引き起こした「太平洋・東/東南アジア戦争」という大惨禍を経て、戦後は、米国的近代合理主義が主流となり、伝統的日本・東洋的 価値観は否定された。
 後者を象徴するものは、肚の喪失である。肚の鍛練の喪失である。
 思うに、西洋人は実は、無意識的に肚をもっているのであり、それを知らず、悟性、知性、合理性云々をいうのである。
 この無意識の肚を日本人は見落としているのである。
 この肚への回帰は瞑想とも関係しているかもしれないが、私は、瞑想は苦手である。
 とまれ、日本人の意識改造が必要である。意識構造改革である。

参照:
「天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義
sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1686.html - キャッシュ
2011年3月27日 – 天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義:トランセンデント・モダン. 以下、東海アマ氏は持論の「天皇制」批判を唱えているが、この問題については既述したので、繰り返さない。 ただ、今度の大震災における ...

精神世界の叡智アーカイブス:身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
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2004年12月17日 – 齋藤 孝/著 NHKブックス ◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」 日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。 腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。





一体的感応性と個的独立性:コスモスと個

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私は子供の頃、田んぼと畑と防風林と林野のまったくの田舎に住んでいた。今思えば、別天地である。車も一日数えるくらいしか、町道を通らなかった。
 とまれ、水田の苗が大きくなり、緑のマットが敷かれたようになる頃、自転車通学していた私は、水田や防風林の緑の世界と神秘的に、そう官能的に一体化したものである。
 この環境との一体的感性はいかなるものであろうか。
 そして、反対に、個であるという意識のメカニズムはいかなるものであろうか。
 直観で言えば、環境的一体感とは、凹i(肚)が主導となった精神の様態ではないだろうか。そこでは、凸i(頭)の従の状態にあるのではないだろうか。(追記:正確に言うと、凹i(肚)は無意識的であり、それが胸・心胸に作用して、環境的一体感をもたらしたと思われる。)
 正確に言うと、凸i*凹iの未分化・連続的様態における凹iの主導的様態が環境的一体感(神秘官能感)を生むのではないだろうか。
 D. H. ロレンスの説くコスモスとはそのような様態を意味するのではないだろうか。
 では、それに対して、「わたし」は個であるという意識はどのような力学をもつのだろうか。
 これまで、個とは凹i、肚に基盤が存すると述べてきたのであるから、それは、環境的一体感と通じるものとなってしまうかもしれない。
 内的体験的には、個とは、肚=凹iと自我=頭=凸iとの均衡に存するように思われる。言い換えると、他者(肚=凹i)であり、且つ、即ち、即非的に、自我(頭=凸i=「わたし」)である。その対極が共振していると言ってもいいだろう。

 (お断り:実は、以下論述はかなり続くのであるが、専門的な独創的な知見なので、ここでの発表を差し控える。)





「天」は⇒凸(+1)の方向で、「地」は⇒凹(−1)の方向だろうか?

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私の内的経験では、コスモスの光は肚から天へと上昇する。コスモスの光は、今の概念で言えば、超光である。これは、肚=闇=凹iと目=光=凸iとの共振によって、発出される。ベースは前者、肚=闇=凹iである。
 そうすると、「天」の方向とは、⇒凸(+1)になる。これはほぼ確定である。
 では、それに対して、「地」の方向はどうなるのか。単純に考えると、反対方向となる。即ち、⇒凹(−1)である。
 どうだろうか。そう、これも内的体験的に考えると、「地」とは、頭から肚へと意識が移動して、肚から「力意識」を大地へと向けた方向にあるだろう。それは、一種、凸i*凹凹i⇒凹(−1)で数式化されるのではないだろうか。
 少し違う感じもあるが、とりあえず、そう想定すると、「地」の方向は、⇒凹(−1)となる。そう、ここでPS哲科学(PSフィロソフィエンス:PS- Philosophience)的トーラス論で考えると、凸(+1)が「天」の極、即ち、天極で、凹(−1)が「地」の極、地極となろう。
 現時点での結論(仮説)としておきたい。


2012年05月26日(Sat)▲ページの先頭へ
超越軸における回転による超越円の形成と超越円をマトリクスとする現象螺旋形成
テーマ:映画ThriveのトーラスとPS哲科学

先に、ガウス平面において、凸i(+i)と凹i(-i)との揺動によって、回転が生じることを述べた。
 問題は時間現象である。私は先に、凸iが空間形式で、凹iが時間形式ではないかと言った。カント哲学的には、前者は、外的感覚(外官)であり、後者は内的感覚(内官)である。
 差異共振現象という自然現象は、当然、時空間の発現を意味するから、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺の凸(+1)が時空間現象を意味するかもしれない。
 しかし、螺旋運動こそが、自然現象であるから、凸(+1)は自然現象自体ではない。
 それは、これまでの考えでは、超光エネルギーである。あるいは、超氣である。
 思うに、⇒凸(+1)の活動において、螺旋運動が形成されるのであるから、螺旋を空間とすれば、運動が時間と関係すると言えよう。ここで作業仮説であるが、⇒凸(+1)の超光のベクトルが時間ベクトルと一致するとしよう。つまり、凸(+1)は時間を意味することになる。
 そう、時間は内的なものであり、不可視であるから、それは、考えられることである。
 これで、現象螺旋運動の説明は済んだとしよう。
 次に、超越軸における回転・螺旋運動である。
 凸j*凹jも揺動しているとすると、超越円において、回転すると考えられる。(ここで説明しておかないといけないのは、凸i*凹iが形成する螺旋運動であるが、その三次元は現象空間三次元であり、超越軸をもつ三次元ではない。つまり、ここで、現象三次元空間と超越軸を区別する必要があることである。
 結局、ガウス平面に直交する二つの軸があることになる。一つは超越軸であり、一つは、現象空間の第三次元の軸である。)
 しかしながら、果たして、超越円の回転は、螺旋運動を形成するだろうか。
 運動となるには、時間が必要であるが、超越円は時間を形成するだろう。そう、凸j*凹j⇒凸(+1)と形式化したのであり、右辺は時間を意味するのであるから、超越円も螺旋運動を形成することになろう。
 ここで整理したい。
 順序から言うと、超越軸における凸jと凹jの共振的揺動があり、それが回転をもたらし、超越円を形成する。
 この超越円の意味するものは、虚軸y軸の形成ではないだろうか。
 つまり、超越軸z軸と直交する虚軸y軸の形成である。これで、超越界からの凸i(光)と凹i(闇)の形成が説明できると言えよう。
 そして、凸i(光)と凹i(闇)の共振からの現象創造の説明もできる。
 そうすると、上述した超越軸と現象空間第三軸は異なるということはどうなるだろうか。
 つまり、超越軸と虚軸における超越平面と超越円が現象螺旋運動(時空四次元)を形成する基盤、マトリクスであり、それは、現象時空間とは一致しないと考えられる。
 そう、超越円はイデア界と言ってもいいだろう。それは、現象界からは不可視の存在であるが、現象創造の超越的根源ということになる。
 超越円(言わば、イデア・サークル)から可視の螺旋的現象界が形成されるということになる。
 そう、一見、超越軸と現象第三軸は重なるように見えるが、やはり、根本的には別物である。
 つまり、こう言ってもいいだろう。超越軸z軸と現象第三軸は表面的には重なるが、それは、見掛け上のことに過ぎないのであり、両者はまったく別個のものとして存在するのである。(追記:そのように区別したものの、凸j*凹j⇒凸(+1)であるから、media pointにおいて、両者は重なることになるだろう。思うに、media pointは、この重なりにおいて、超越軸の情報を受け取り、それを物質化するのである。そう、いわば、超越情報[イデア情報]を受け取り、それを物質・現象的に具現化すると考えられる。
 さて、そういうことで、超越円(イデア・サークル)から螺旋形状が形成されるが、それは、黄金比を基本的にもっていると言えよう。だから、五芒星形がなんらかの超越円において、形成された可能性が考えられる。(ピュタゴラス派)
 そうすると、超越軸には何らかの超越的意志が考えられないだろうか。超越的意志によって、現象形成が決められているのではないだろうか。
 しかし、そのように考えると、超越軸を超越した超-超越界を想定する必要があるのではないだろうか。
 この問題は難しいので保留しておき、一応、超越軸における超越円の創造に留めておきたい。
 最後に凸jと凹jについて簡単に考察してみたい。凸iが光、凹iが闇ならば、凸jは原光、凹jは原闇ということになるのではないだろうか。
 原闇と原光が共振して、闇と光の宇宙世界が生まれる。
 原闇が原母であり、原光が原父ということになろう。
 問題は、原父が主導的な場合である。最初期は、原母が主導性をもっていたと考えられるが、あるとき、原父が主導的になったと思われる。
 もし、原父が決定的に自身を原母に押し付けるならば、凸j*凹凹j⇒凹(−1)となり、それは、質料となるのではないだろうか。
 一神教がこのような性格をもっていると考えられる。そう、原母を質料化して、卑賎化するのである。「父」が上位であり、「母」が下位である。そして、それの極端化したものがユダヤ教、ないしは、旧約聖書であり、「母」はほぼ不在となっているのである。
 ここで簡単に日本神話について触れると、それは、原母による原父との共振による現象創造を語っていると思われる。
 天之御中主神とは、原母と原父との共振を意味するのではないだろうか。そう、超越的media pointである。
 そして、高産霊神と神産霊神は凸iと凹iを意味するのではないだろうか。
 では天照御大神とは何であろうか。それは、超光であろう。単に光ではなく、原母と原父との共振、光と闇との共振による超光を意味しよう。
 マニ教の光はそれであろうし、アフラ・マズダ、キリストもそれであろう。
 今はここで留める。後で、再考したい。


2012年05月22日(Tue)▲ページの先頭へ
PS理論批判:PS哲科学:数学主導のPS理論に換えて哲学主導のPS哲科学
テーマ:PS哲科学(PS哲学-科学)

PS理論批判の批判は、カントの純粋理性批判の批判と同じ意味で使用する。
 結局、PS理論の前身の不連続的差異論は、端的に哲学的理論(仮説)であったが、その後、数学を導入して、プラトニック・シナジー理論(PS理論)となったのである。
 問題は、数学の導入の意義である。ここで、批判が入るのである。この問題について、これから、検討考察したい。
 端的に言えば、哲学に数学を導入したとき、つまり、哲学が数学化されるとき、哲学は数学的構築をもつようになる。
 問題は、果たして、数学的構築と哲学とが等しいのかということである。ベースには哲学があるが、それに数学的構築が付与されるのである。つまり、ここで、理論は哲学と数学の二重性をもつのである。つまり、哲学-数学理論である。
 この哲学-数学理論は、基本的には、主は哲学であり、数学は従である。つまり、あえて言えば、哲学のための数学であり、数学のための哲学ではないのである。哲学を質的に、ないしは、科学的に拡張するために数学を導入するのであり、本体は哲学である。
 結局、PS理論とは、哲学理論であり、数学理論ではないのである。この点はいくら強調してもし過ぎることはない。
 とまれ、数学を導入し、数学的構築をもったPS理論、あるいは、PS哲学(この呼び方の方が、明快である)は、数学の論理を借りて、飛躍的に展開したのは事実である。
 端的に言えば、科学的要素を哲学に組み込むことができるようになったのである。現代物理学等に適用することができるようになったのである。
 また、さらには、宗教等の超越性にも対応できる超越論的哲学にもなったのである。
 結局、森羅万象に対応できる哲学になったのである。
 しかしながら、数学的構築、数学的体系をもったPS理論であるが、やはり、基本的な二重性があるのであり、哲学と数学の間には、仮説があることを確認する必要があるのである。
 具体的に言えば、純粋悟性ないしは自我を凸i(わかりやすく言えば、虚数i)とし、また、それを光子や現象太陽としているのが、それは一つの仮説ないしは仮構に過ぎず、絶対的に一致するとは言えないのである。
 簡潔に言えば、果たして、自我を虚数凸i(i)とすることは、絶対的に正しいのかは問題である。自我ないしは純粋悟性を虚数に対応させて、計算した結果が、哲学的帰結と一致するように考えられる(仮説される)ので、哲学に数学を組み込んだのである。
 つまり、ここには、普遍的真理は、哲学だけではなく、数学にも発現するのであり、哲学に数学を組み込むことで、普遍的真理の認識が単に哲学では届かないものに達したということになるのである。
 しかしながら、上記の条件へと戻るが、数学を組み込んだものの、あくまで、性格は哲学である。このベースを忘れた時、数学が独走し、哲学が置いてきぼりになるのである。
 つまり、哲学が主で、数学が従であったのが、数学が主であり、哲学が従となるのである。
 そう、普遍的真理と言ったが、基本、根本は哲学的真理であり、数学的真理ではないのである。何故なら、哲学には、数学にはない、精神、意識、内面性等があるからである。数学はそれをもたないのである。
 だから、数学が主となり、独走すると、PS理論は、いわば、本末転倒となり、単に、数学的理論になってしまうのである。
 数学に拠る哲学の、言わば、隷属化が生じるのである。哲学が数学に支配されるのである。
 ここでは、PS理論は、もはや、本来の哲学ではなくなり、数学的理論になってしまっているのである。
 これが、PS理論批判の眼目である。
 具体的に、私の思考における問題点を言うと、端的に、自己認識方程式、即ち、

凸i*凹i⇒凸(+1)     (*は積を意味する)

において、オイラーの等式を適用するときである。オイラーの公式

e^iπ+1=0

を変形させて、

−1=e^iπ

となるとき、この−1を凹(−1)と見て、これが、根源であると考えたのである。そして、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺を物質と見たのである。
 これは、オイラーの公式の簡潔さに魅かれて、哲学を数学に合わせたことになるのである。
 しかしながら、哲学的思考では、同一性の思考は、凹(−1)を導くであり、差異の思考こそ、凸(+1)を導くのである。
 この点は、理論を展開する上で、大いに悩んだ点であるが、結局、オイラーの公式に服する形で、凹、−1を根源とし、凸、+1を
物質としたのであった。つまり、ここで哲学が数学に服したのである。
 しかしながら、最近、PS理論を再検討し、反省した結果、それが、間違いであることが判明したのである。
 これは、PS理論にとって、言わば、致命的な誤りである。ある意味で、決定的な誤謬である。
 そう、端的に言えば、PS理論はその点で破綻したのである。
 この誤謬は、結局、本来、哲学が主で数学が従であるべきことに反して、数学を主、哲学を従としたことに拠るのである。
 ここで、PS理論は終わったと言うべきである。そして、私は、本来の哲学的思考を基盤として、数学を導入し、また、ガウス平面を超えた超越軸をもつ新しいPS理論(NPS理論)を提唱することになったのである。
 思うに、新しい名前が必要である。明快な名前は、PS哲学である。あるいは、明確に言えば、Platonic Synergy Philosophy Assisted by Mathematics、即ち、数学によって支援されたプラトニック・シナジー哲学である。
 以上で、PS理論批判は明快になったと考えられる。

追記:PS哲学より、PS哲科学(PS哲学-科学)の方が適切である。PS philosophic science、又は、 PS philosophienceである。
 

参照:

オイラーの等式(オイラーのとうしき、英 : Euler's identity)とは、解析学 における等式

e^iπ + 1 = 0

であり、その名はレオンハルト・オイラー にちなむ。ここに、

e: ネイピア数 、すなわち自然対数 の底
i: 虚数単位 、すなわち2乗すると −1 となる複素数
π: 円周率 、すなわち円 の直径 と円周の比

である。

オイラーの等式 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/オイラーの等式 - キャッシュ 類似ページ
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この項目では、オイラーの公式の特別な場合について記述しています。オイラーの ... オイラーの等式(オイラーのとうしき、英: Euler's identity)とは、解析学における等式 ... オイラーの等式は、その数学的な美によって特筆すべきものと多くの人に認識されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%AD%89%E5%BC%8F


2012年05月18日(Fri)▲ページの先頭へ
超越平面、超越円と虚軸y軸:現象太陽(電磁波)とdark sun(重力波):前物質的エネルギー体
テーマ:manichaeism: 哲学

今は指摘だけ。
 超越平面ないしは超越円は物質を超越していると述べたが、虚軸y軸において、それは、光子と闇子と接するのであるから、厳密には、物質を完全に超越しているとは言えないのではないのかという問題がある。
 即ち、凸iが光子であり、凹iが闇子であり、前者は現象太陽、後者はdark sunを形成しているのである。
 問題は、光子や闇子を物質と見るのか、否かである。先には、現象太陽には物質体があると考え、また、dark sunにはそれに対応するような物質体があると考えた。
 思うに、現象太陽に物質体があるというは、凸i*凹凹i⇒凹(−1)においてであり、凸i自体は光子であり、それは、いわば、前物質、つまり、一種の精神体であると思われるのである。
 闇子の場合も同様に前物質の一種の精神体であると考えられる。
 思うに、光子や闇子、あるいは、電磁波や重力波は、霊魂の前物質的エネルギー体と言えるのではないだろうか。
 しかしながら、根源の凸jや凹jは、超越的エネルギーをもっているだろう。そして、共振して、超光エネルギーを創出すると思われる。

追記:原子とは何か:電子と光子と陽子(原子核)のトーラス体(仮説) http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11249166480.html
において、陽子、原子核を凸(+1)と仮説したが、それは、物質であるのか、否か。
 これは微妙である。前物質・精神体の凸iと凹iの差異共振によって陽子、原子核が形成されるのであるから、物質ではないように思われるかもしれない。
 しかしながら、物質(この場合は、電子)を外装した存在であるから、単純に非物質とは言えない。あるいは、電子が離脱して、イオン化することがあるのであるから、微妙である。
 思うに、凸(+1)は陽子という物質と見た方がいいのかもしれないが、前物質の精神体である凸iと凹iによる差異共振の超光と陽子の関係がどうなるのかが問題となる。これまでの考えでは、超光=陽子となり、齟齬となる。
 そうすると、超光の位置付けを変更する必要があるようだ。思うに、凸j*凹j⇒凸(+1)と凸i*凹i⇒凸(+1)の二つの凸(+1)の形成があるが、果たして、両者の右辺は同一なのかである。
 常識的には、同一であるので、やはり、超光と考えたい。ならば、凸(+1)=陽子説はどうなるのだろうか。
 思うに、凸(+1)=超光=陽子と考えるのは、おもしろい。とまれ、そう作業仮説すると、陽子、原子核は、物質ではなく、超光であり、超光エネルギーをもつことになるからである。言い換えると、陽子、原子核は精神体の一種になるのである。
 そうすると、物質であるとした電子凹(−1)との関係はどうなるのだろうか。また、電荷、電気とは何かという問題にもなる。
 とまれ、以上の作業仮説からすると、原子とは、物質と精神体との合成体であることになる。言わば、半物質半精神体である。そう、キメラとしての原子である。
 これは、思考実験である。後で、本件に関して、再考したい。


2012年05月17日(Thu)▲ページの先頭へ
作業仮説:z軸とy軸の超越平面と超越円を前提とする
作業仮説:z軸とy軸の超越平面と超越円を前提とする

テーマ:manichaeism: 哲学

z軸の原回転もうまく説明できないので、超越軸(z軸)と虚軸(y軸)による超越平面と虚数の単位円(超越円)を前提とする。また、超越円は回転していると前提する。
 そして、凸j*凹j⇒凸(+1)ないしは凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺のベクトルは回転していると考えられる。つまり、原螺旋運動が存すると考えられる。
 問題は、以下のトーラス像における渦巻星雲をどう説明するのかである。
 つまり、超越円において、どのように渦巻が形成されるのかを明らかにする必要がある。
 凸(+1)のベクトルが原螺旋的に回転しているというのであるから、media pointにおいて、原螺旋、つまり、渦巻形状が存すると考えることができるだろう。それが、トーラス像における渦巻星雲を説明できると直観される。
 結局、前提である超越平面、超越円を根源的に説明できるのかどうかが問題である。
 言い換えると、始めから、超越軸z軸と虚軸y軸が存したのか、それとも、始めは超越軸だけであり、それから虚軸が派生したのか、ということである。
 始めに、超越平面ないしは超越円ありきとすれば、問題はないのであるが。
 現時点では、両者の可能性を残しておく。もっとも、前者の方に今は傾いているが。

追記:やはり、後者の可能性も有力である。ならば、どうやって、虚軸y軸が形成されたのかが一番の問題である。
 先に、フレミング左手の法則や右手の法則から、作業仮説的に導き出したが、それでは、磁力と電気力の直交の説明が必要となり、複雑になってしまうのである。
 今閃いたが、最初に超越軸ありき、としよう。そして、それが、原点(原始media point)を中心にして、実軸x軸とは垂直に回転、円運動すると仮定するのである。
 当然、その時、虚軸y軸が発生するだろう。つまり、凸iと凹iの両極、双極、対極が発生するのである。
 ならば、この回転、円運動の力学は何か、である。
 これは謎である。もし、実軸x軸が回転していれば、超越軸の回転(超越円)は可能であるが、果たして、実軸x軸は回転しているのか。
 やはり、超越平面、超越円を大前提とした方がいいのだろうか。そうならば、超越軸z軸は霊軸(霊界)であり、虚軸y軸は魂軸(意識軸)である。霊と魂は異なることになる。
 しかし、陰魂凹iは、超越軸、霊界に通じていると直観されるのである。というか、media pointに通じていて、そこで、超越軸による差異共振による超光を直観するというような感じである。
 コスモスは、⇒凸(+1)と思われる。また、マニ教の光の世界もそこだと思われるのである。
 とまれ、霊z軸と魂y軸の直交による超越平面ないしは超越円、これは、霊魂平面ないしは霊魂円と呼んでもいいだろう。
 プラトンのイデア界はそこに属すると考えられる。
 また、カント哲学における純粋理性は、超越軸を想定できない状態にあると言えよう。そのために、批判限定されると考えられる。
 フッサールの超越論的主観性であるが、それは、虚軸y軸における差異共振までには達したが、超越軸までには達していないように思えるのである。しかし、予感はあったであろう。

torus.jpg






内在平面と超越平面

テーマ:manichaeism: 哲学

ドゥルーズ(&ガタリ)が内在平面を説いたが、これは、物質と連続的な平面であり、超越平面とは当然異なるものである。
 ドゥルーズ「哲学」の基本は、不連続的差異論の段階で説いたように、差異=微分であり、連続的差異を基礎とするものである。
 この連続性の背景に内在平面をドゥルーズは考えたと言っていいだろう。
 しかし、超越平面は、物質を超越した平面であり、純粋精神平面と言えるものである。
 宇宙、自然、物質の根底に存するものであるが、現象界からは、演繹的には、証明できない世界である。
 プラトンのイデア界と通ずると言っていいだろう。ただし、超越平面の「イデア」は動的なものである。
 ところで、超越平面について後で、具体的に解明したい。
 まだ、発想、着想段階に過ぎない。超越平面とは、想定では、z軸とy軸(虚軸)に作る平面である。それが、z軸の原回転によって形成されると直観したのであるが、果たして、それで合理的に説明できるのか。





作業仮説:超越軸z軸の原回転

テーマ:manichaeism: 哲学

なんとか、回転力学を見つけようとしたが、うまくいかない。
 そこで発想・視点を変えて、超越軸z軸の根源的回転があると仮定すれば、円盤の回転、螺旋運動、渦巻の形成、言い換えると、トーラス・モデルの形成は論理的に説明できる。
 また、それは先に触れた、超越的平面と現象的三次元(四次元)も説明できる。即ち、超越軸z軸と虚軸y軸の直交によって形成される平面が超越的平面(以 下、超越平面)であり、超越平面のmedia pointから発出する螺旋運動が現象的三次元(現象三次元)を形成すると考えられるからである。
 ルドルフ・シュタイナーは、霊界は平面、二次元であると言っていたのを想起するのである。超越平面は霊的平面と言ってもいいだろう。
 後で、さらに検討したい。




超越的平面における根源的回転:超越的平面と現象的空間(時空間)

テーマ:manichaeism: 哲学

5次元ないしは6次元で考えたい。
 最初に根源的超越的2次元を想定する。それが、現象3次元空間ないしは現象4次元時空間を形成すると仮定する。
 根源的超越的2次元(簡略化して、超越的平面)において、根源的回転(円運動)が存するとする。
 そして、それが、現象空間において、螺旋形状ないしはトーラス形状を形成すると想定する。
 超越的平面の回転は、プラトンのイデア界の円に通じるだろう。そして、その現象的反映が螺旋運動、乃至は、トーラス形態とするのである。
 今は発想だけである。その力学は後で検討したい。

追記:超越的平面の直交する二つの軸をα軸とβ軸ととりあえず呼んでおく。(α軸とω軸としてもいいだろうが。)
 そして、現象的3次元空間の軸をx軸、y軸、z軸とする。尚、時間については、保留しておく。


2012年04月10日(Tue)▲ページの先頭へ
カントの純粋悟性論と同一性世界:純粋理性と凸i主導のmedia pointにおける凹iの浸透様態
カントの純粋悟性論は明らかに、同一性、量、物質の世界を超越論的に捉えているものである。凸iの同一性が支配している世界である。だから、凸i*凹凹i⇒凹(−1)である。これは先にも述べたので、これ以上説明しない。
 問題は、凹iを凸iの同一性支配から解放したときに事態である。これは当然、不連続的差異論の事態であり、また、PS理論の事態である。
 これまで差異共振して、凸i*凹i⇒凸(+1)になると述べた。凸(+1)は精神である。
 思うに、解放された自由になった凹i(「時間」)がもし差異共振しない場合はありえるのだろうか。もし可能ならば、それはどういう事態なのだろうか。
 思うに、あり得るならば、それは、第四象限、コスモス、イデア界を意味するのではないだろうか。
 この問題はここで留める。
 次に、カントの純粋理性の問題について簡単に予見を述べたい。
 純粋悟性は凸i支配を意味する。それに対して、純粋理性はその超越論的なものである。つまり、それは、第一象限を意味するかもしれない。
 あるいは、簡単に言えば、凸iと凹iとの「差異」がアンチノミー、背理になっていると考えられる。もっとも、カントにおいて主導的なものは凸iであり、凹iが形成する差異共振をカントは認めていないと考えられる。
 しかしながら、先に述べたように、media pointにおいて、凸iに対して、凹iに拠る差異共振が浸透しているのであり、その浸透において、カントは差異共振の曖昧な像を予感して、純粋理性の問題を捉えているようにも思える。
 そう見ることができるならば、カントにおいて、ポスト・モダン、正確に言えば、構造主義抜きの同一性と差異の問題をカントは先駆的に扱っていたことになる。
 ポスト・モダンが混乱したのは、超越論的なもの、認識問題を、同一性、量的視点が排除してしまったからだと思われる。
 とまれ、カントの純粋理性とは、凸i主導のmedia pointにおける凹iが浸透するときの認識であると思われる。
 そうすると、PS理論ははるかに、カント哲学を超えていると考えられる。
 そう、以前述べたように、フッサール現象学の超越論的主観性は、カント哲学を超えて、凹iの浸透自体を捉えたように思える。しかし、完全に純粋化したかは疑問の余地がある。

純粋理性批判〈3〉 (光文社古典新訳文庫)/イマヌエル カント
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2012年03月13日(Tue)▲ページの先頭へ
「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
テーマ:manichaeism: 哲学
直観で言うと、凸iに「イデア(エイドス)」、原像があると思う。
 凸iとは私説では、純粋自我であるし、純粋言語能力(チョムスキー)である。
 これは、父権的自我である。男性(凸i)が女性(凹i)に見るものは、凹iに投影した凸iの鏡像であろう。つまり、男性は女性を見ても、女性を見ているのではなく、女性に投影した自己自身を見ているのである。つまり、女性としての男性自身である。
 では、女性はどうなのだろうか。女性は凹i自身であり、それは、凸iを包摂すると思う。つまり、女性は男性を男性自身として見るのではなく、男性を包み込んでしまうのである。つまり、内包化である。言い換えると、母権的自我化である。
 だから、女性も男性を男性自体としては見ていないのである。
 とまれ、本題に戻ると、「イデア」は男性的知性であろう。プラトンが説いた「コーラ」とは女性的感性凹iであろう。
 思うに、凸i(「イデア」)が主導的であると、⇒凸(+1)であり、凹i(「コーラ」)が主導的であると⇒凹(−1)となるのではないだろうか。
 前者は積であり、後者は商ではないのか。光と闇の二重世界である。
 今閃いたが、第一象限が男性世界であり、第三象限が女性世界ではないだろうか。以下の左のグラフとなるのではないだろうか。


y=12/x の2つのグラフは、左の図のようになります。2つの曲線になるので、双曲線といいます。

   

 一般に、y=a/x で、0<a なら左の図、a<0 なら右の図になります。

http://mtf.z-abc.com/?eid=415437
反比例のグラフ | 中学から数学だいすき!





「見る」とは何か:凸iと・・・:nudeとnaked: ケネス・クラークの識別
テーマ:art & design
いったい、「見る」とは何なのか。直観では、経験性と超越論性が併存していると思う。
 しかし、本質は超越論性ではないのか。つまり、凸iの純粋自我である。あるいは、超越論的感覚(視覚)である。
 また、直観では、聴覚は凸iというよりも、凹iに関係する。これはおいておこう。
 思うに、純粋視覚と経験視覚を区別すべきではないだろうか。美術とは当然、前者に関わるのであるが、現代、認識が混乱してそれが、わからなくなっていると考えられる。
 ヌードとネイキッド(裸体)の区別がわからなくなっていることと同じ事態と考えられる。
 ヌードは純粋視覚に関わると考えられる(例えば、古代ギリシア美術)。しかし、ネイキッド(裸体)はポルノと関わると言えよう。それは、物質的身体である。
 性(sex)の問題も同様である。D. H. ロレンスが唱えた性とは、純粋視覚における純粋精神(凹i)であると思われる。(この点は検討したい。)
 そう、純粋視覚(凸i)とは古代ギリシアのアポロであり、純粋精神(凹i)とはディオニュソスではないだろうか。
 絶対的純粋視覚において、絶対的純粋精神が生起するのであり、古代ギリシア人はそれは端的に把捉した民族ではなかったか。
 今はここで留める。
 
追記:プラトンの黒い馬(欲望)と白い馬(精神)の区別であるが、これも、経験的自我と純粋自我の区別で説明できよう。
 D. H. ロレンスは、前者から後者への転移を説いたと思われる。





母権的自我と父権的自我について再考
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)
後で検討したい。
 ところで、PS理論であるが、私は先にNeo-PS理論を唱えたが、それまでのPS理論(後期PS理論)で十分対応できるので、一種のコンパクト化ということで、従来のPS理論、即ち、オイラーの公式を組み込んだガウス平面上の数学・哲学を継続したい。





cosθ+isinθとは実在的に何を意味するのか
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
以下のKaisetsu氏の論考は興味深い。問題は、私の直観では、cosθ+isinθが実像として浮ばないのである。私の想像力不足かもしれないが。
 とまれ、一言述べてみよう。
 わかりやすく、θ=π/3(60度)としよう。そして、
P=cosθ+isinθとする。
 すると、

P=1/2 +i(ルート3)/2

である。実軸1/2と虚軸(ルート3)/2である。
 このPとは実在的に何を意味するのか。私説では、純粋自我(凸i)の要素が(ルート3)/2あるのであり、物質の要素が1/2あるということになる。
 これは何なのか。思うに、これは、自我の様態の一つではないのか、ということである。
 ここで明確に区別すると、凸iは自我ではなく、先に、原自我と呼んだものであるが、改めて、純粋自我と呼びたい。
 そして、θがゼロのとき、P=凸(+1)となり、絶対的物質的自我になるということだろうか。しかし、そのとき、純粋自我はi(ゼロ)=ゼロになっている。
 そうならば、無思考ということになる。(ひょっとすると、現代日本人の精神様態はこれかもしれない。)言い換えると、唯物論である。
 そして、θがπ/2のとき、純粋自我状態になり、絶対的自我はゼロである。思うに、これは、同時に、θ=3π/2の位置を対蹠点としてもつのではないだろうか。端的に、凹iである。
 そう、だから、P=cosθ+isinθは、他者として、対極点のQ=cos(θ+π)+isin(θ+π)を具備すると思えるのである。
 これが、双極子と考えられる。
 今はここで留める。
 

【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係とフェルミ粒子、及び双極構造への助走(鏡像関係)
海舌 SeaTongue@Kaisetsu
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モダン・アート(セザンヌ、ピカソ)とKaisetsu氏の【プランク単位系表示の人間認識図】
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
いろいろ述べたいことがあるが、一点に絞って簡単に予備考察を述べたい。
 私の発想は、ピカソの絵画の切断的進展についてである。青の時代は確かに、繊細で、憂愁・悲哀があり、デッサンがきれいである。
 実は知人からピカソの実人生での女性問題が赦せないほど杜撰であったことを聞かされたのでである。ピカソの女性問題は一般的に知られているが、それ以上のものがあり、知人は赦しがたいというものであった。
 とまれ、今は道徳・倫理問題には触れないでおく。
 私は想起したのは、果たして、ピカソの絵画は具象から抽象への転移において、不連続的進展があったのか否かである。ピカソのデッサン力は正に天才的であるが、キュービスム等のデフォルメの時期において、その古典的美学が継続したのか否かということである。
 最初、具象的美学が抽象的美学にも継続していると私は考えたが、果たして、連続性を見ていいいのか疑問に思ったのである。
 私は生で、ピカソの『ゲルニカ』を見て、魅了された。それは、音楽的であった。
 その美学は青の時代と共通するのかである。
 これは難しい問題である。今の直観では、共通するものと、不連続のものがあるように思えるのである。
 調和という点では共通だと思う。
 しかし、質がなにか異なるように思う。
 キュービスム以降は、連続的同一性を破壊した「フォルム」による絵画をピカソは描いたでのである。
 つまり、現象の否定である。ここがポイントである。否定された現象による「フォルム」による絵画、それが、キュービスム以降のピカソの絵画である。
 思うに、イデア的美学にピカソ(あるいは、モダン・アート)は近づいたのではないだろうか。
 イデアとしての「デフォルメ」である。その美学をピカソは表現したのではないのか。
 端的に言えば、差異共振美学がピカソの根源にあり、それが、連続的な青の時代の絵画を形成した。
 しかるに、キュービスム以降、連続性を否定して、不連続的な差異共振の美学、「デフォルメ」の美学を追求したのではないのか。
 どうも、そう思われるのである。
 ここで、ピカソの不道徳性・没倫理性を考えると、世間的な連続的「道徳」・「倫理」をピカソは否定したということかもしれない。この問題はここで留める。
 ただし、ピカソはイデア的絵画には完全には到達していないと思う。彼は直観的であったが、哲学・理論的ではなかったと思う。
 思うに、これは、結局、モダニズムの問題である。イデア的根源と経験的執着の絶対的矛盾様態をもつモダニズムとして。
 とまれ、今はここで留める。

追記:肝心なことを言うのを忘れていた。以上の問題とKaisetsu氏の指摘【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.htmlとの関連である。
 どうも、モダン・アートとKaisetsu氏のオイラーの公式的に説明された人間認識図は関係するように直観されるのである。これは、後で、検討したい。

参照:


http://blog.goo.ne.jp/herbie600033/e/9642a096966ba2e0ee91dc914a40cbae


http://img374.imageshack.us/img374/5968/guernica1937pradomadryt3bx.jpg


es posted by (C)天花一海

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.html



2012年02月28日(Tue)▲ページの先頭へ
回転(スピン)の問題:精神子(凹j∞凸j⇒)と氣子(凹i∞凸i⇒)の問題:注意:今回も∞は陰陽記号の代替である
回転(スピン)の問題:精神子(凹j☯凸j⇒)と氣子(凹i☯凸i⇒)の問題
テーマ:Neo-PS理論

精神子ないし氣子の回転(オイラーの公式に規定されたガウス平面における)は、連続的ではなく、不連続的、端的に言えば、(1/2)nπ回転ないし、(nπ+1/2π)回転ではないだろうか。簡単に言えば、90度回転ではないのかということである。
 オイラーの公式のsinθ±icosθは、理論的には当然存するものであるが、果たして、精神子(精神的双極子)と氣子(自然的双極子)において、それ以外の回転をもつのか疑問に思っている。
 確かに、理論的にa+biは考えられるのであるが。

参照:
• 【人間認識図】 クリーネの3値論理とNull + 真偽(意義、意味)の反転
• Adele – Rolling In The Deepを人間認識図の観点から詳細分析してみる。
• 【人間認識図】 実軸に波動関数の存在確率「密度」を導入するので、精神濃度と共に精神「密度」の概念も用いる。
• 波動関数の「存在確率の計算」の辺りのメソッドを真円人間認識図の実軸分析に応用してみる。

【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図
【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図

 実は、真円の人間認識図の提示と同時に、楕円形の双極系人間認識図も発案していたのであるが、楕円は真円と比較して格段に複雑になり、さらに、双極間の 相互作用など、込み入った説明が不可避であり、その上、真円の人間認識図だけでも非常に難解な解明作業が必要であると判断して、紹介を保留してきた。

 今回、本日の日付で公開する。

d posted by (C)天花一海

 双極作用による相互影響の結果、直観的には、陰陽図のような「光」と「闇」の分化・分領域化が起きると想定して、その図解も挿入した。真円の時のように、直線的な領域分化にならずに、曲線的な領域分化、media point line になるだろうという想定である。

但し、真円の人間認識図も、未だ、未解明な部分が多くあり、楕円双極になると、より高度な分析を必要とするので、今の所、真円の人間認識の解明に重点を置きたい。

 但し、必要に応じて楕円の研究も進める。本来、人間認識は双極構造であろうと思われる。

海舌
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813449
• 【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参考:


スピン角運動量
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
スピン角運動量(スピンかくうんどうりょう、spin angular momentum)は、電子 やクォーク などの素粒子 、およびそれらから構成されるハドロン や原子核 や原子 などの複合粒子が持つ角運動量 で、量子力学 的な自由度の 1 つである。単にスピンと呼ばれることもある。スピン角運動量は、軌道角運動量 とともに、粒子の全角運動量に寄与する。
基本変数を「粒子の位置 と運動量 」とする量子論 ではスピンを記述することができないため、粒子が持つ「内部自由度(固有角運動量、内部角運動量とも呼ぶ)」としてスピンを基本変数に付け加える。この「位置と運動量とスピンなどの足りないもの」を基本変数とする量子論が「量子力学 」である。基本変数を「場 とその時間微分または共役運動量」に選ぶ量子論、つまり「場の量子論 」では電子は粒子ではなく「電子場」として記述され、電子場は電磁場の「偏光 」(電磁場の向きが右回りに回転するか左回りに回転するか)に似た属性を持つ。これがスピンであり、場の自転 のようなものなので、角運動量を伴う。その角運動量ベクトルで、スピンの向きと大きさを表す。このスピンの例でわかるように、古典的に場であったもの(電磁場 など)だけでなく、電子のような古典的には粒子とみなされてきた物理系であっても、場を基本変数にしたほうが良く、適用範囲も広いことが判っている。[1]

スピン角運動量演算子 [編集 ]
スピン角運動量は、3 つのエルミート演算子 sx, sy, sz で表される物理量である。これらの演算子の間には、軌道角運動量 と同様の交換関係 が成り立つ。



ここで、 であり、h はプランク定数 である。ただし軌道角運動量 と異なり、空間座標とその共役運動量との外積 として表される必要はなく、したがってその大きさは を単位として整数値のみでなく半整数値をもとりうる。
スピン角運動量の大きさの二乗を
s2 = sx2 + sy2 + sz2
と定義すると、これは各成分 sx, sy, sz のいずれとも交換する。一方各成分同士は交換しないので、s2 と各成分 sx, sy, sz のうちいずれか一つとを同時に対角化できる。多くの場合同時対角化する成分を sz とする。s2 の固有値 は 、sz の固有値は (ms = - s, - (s - 1), ..., s - 1, s) となる。ms をスピン磁気量子数という。s は、0 以上の整数 または半整数 の値をとる。素粒子の場合、s は素粒子の種類ごとに定まった値をもつ。
スピン 1/2 [編集 ]
s = 1/2 の場合を考える。このとき、s2 の固有値は であり、sz の固有値は の 2 つが存在することとなる。従って対応する固有状態も 2 つであり、それぞれ上向きスピン、下向きスピンと言うことが多い。
スピン角運動量の各成分 (sx, sy, sz) はパウリ行列 (σ = (σx, σy, σz)) を使って以下のように表される。



以上は、sz に関して対角となるようにしてある。
スピンと統計性 [編集 ]
s が半整数の値をもつような粒子はフェルミ粒子 であり、s が整数値をとる粒子はボース粒子 であることが知られている。s の値と統計性の間のこのような関係は、相対論 的な場の量子論 によって説明できる。
脚注 [編集 ]
1. ^ 清水明 『新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために―』 サイエンス社 、2004年。ISBN 4-7819-1062-9 。
関連項目 [編集 ]
• 角運動量
• 量子力学
「http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%B3%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F&oldid=41279740 」より作成
カテゴリ :
• 量子力学
• 量子数
• 回転





3D media pointの混融性:3D media point complex
テーマ:media point

今は一言言うだけだが、三次元のmedia point(3D media point)の意義は計り知れない。
 凸j*凹j⇒凸(+1)であるが、実は、3D media point(z軸とy軸とx軸が交差する原点)では、凸j*凹j⇒凸iというような混合的融合が生じていると思われるのである。
 また、易であるが、その2^6=64の卦であるが、それも、
3D media pointを考えると納得できるように思う。
 つまり、凸j*凸i*凸*凹j*凹i*凹が3D media pointで生じ、それぞれの要素は凸凹(±)の転換が可能であると考えられるのである。詳細は後で検討したい。
 また、英語では9という数字が一種の完全数であるが、それも、易の上部の3項と下部の3項の積であるように思える。
 今は直観的指摘(思いつき)のみである。





光とは何か:自然の光と精神の光と物質の光:三種類の光?
テーマ:Neo-PS理論

Neo-PS理論から、改めて、光とは何か検討する必要がある。
 自然の光は氣的差異共振エネルギーの発光現象のように思えるが、精神の光(マニ教の光)は、原初差異共振では、凹j☯凸j⇒凹(−1)の⇒と考えられる。
 しかし、新しい差異共振は凸j☯凹j⇒凹(−1)ということになる。つまり、凸jの支配の下、凹jが不連続化して、差異共振するということである。
 私がこれまで述べてきた超越光とはこの新しい差異共振光のことのように思える。
 しかしながら、それは、氣の光を帯びているのである。この氣の光と精神の光の融合が、新しい差異共振光には生じると思う。
 そう、正確に言うと、自然の光は微妙である。それは、氣の光でもある。しかしながら、凸jの同一性支配によって、それは、同一性化される。物質的光になると思われる。
 だから、三つの光があるように思われる。一つは自然の光、一つは精神の光(超越光)、一つは物質の光である。
 現象光という場合、自然の光と物質の光が混淆しているように思える。
 ところで、D. H. ロレンスのdark sunとdark Godであるが、これまで、ほぼ同一視していたが、前者は自然の光、氣の光であり、後者は精神の光ではないのだろうか。
 以上は問題提起であり、後で検討したい。



2012年02月27日(Mon)▲ページの先頭へ
Neo-PS理論の言語発生論:凸j同一性力学に拠る母と自然の内外的イメージ支配的四元的言語論
テーマ:language

先に、初期PS理論(PPS理論)を用いて展開した以下の言語発生論をNeo-PS理論(原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html)によって、説明し直す必要がある。


言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11171075010.html

しかし、これは簡単に移行できる。
 即ち、凸i支配を凸j支配にすればいいのである。そして、母権的イメージ音声言語であるが、それは、原初差異共振、凹j☯凸j⇒凹(−1)で説明できる。その後の文字言語は同様に説明できる。
 表音文字言語は、だから、凸j同一性力学支配に拠るものであり、それは、凸j*凹i⇒凸(+1)の自我様態と結びつくのである。
 そして、表音文字言語-自我(自己同一性、父権的自己)は、3D-media pointにおいて、氣の差異共振(自然的差異共振)、凹i☯凸i⇒凹(−1)における凹iと同一性力学(父権的人間主義)における凹jに、その表音文字言語を刻印するように思われる。
 この点は先のもののようには簡単に考えられないのである。
 精緻に言うと、凹j☯凸j⇒凹(−1)の原初差異共振(今気づいたが、新しい差異共振凸j☯凹j⇒凹(−1)であろう)を凸jによって同一性支配するのであるが、その原初差異共振とは、思うに、母との原初差異共振イメージであり、それに対して、凸jは同一性支配し、表音文字言語化するように思う。そう、原初において、凹jは母と考えられる。原初差異共振は内外的(内的且つ外的)に母のイメージに刻印すると考えられる。
 それに対して、氣の差異共振(自然的差異共振)については、凸jの同一性支配は、凹i☯凸i⇒凹(−1)に刻印すると言えよう。即ち、氣的内外的(内的且つ外的)イメージに刻印すると思える。
 結局、原初差異共振の場合は主に、母のイメージに内外的に刻印し、氣的差異共振主義(自然的差異共振主義)の場合は、氣の内外的イメージに刻印すると考えられる。
 氣の内外的イメージとは、例えば、内的イメージは「元気」や生命感であろうし、外的イメージは端的に外的現象、外界のイメージと考えられる。
 そうすると、3D-media pointにおいて、母と自然の内外的イメージに凸jの同一性支配の表音文字言語は刻印するということになる。つまり、四元性(四相性)になるのである。
 そして、この視点によって、D. H. ロレンスの無意識論、四元的無意識論が解明できるように思うのである。

商品の詳細
Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious D. H. Lawrence (ペーパーバック - 2006/1/4)
新品 : ¥ 1,172


Product Details
Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious by D. H. Lawrence (Paperback - Jan 2012)
2 used from £35.93


2012年02月26日(Sun)▲ページの先頭へ
新しい差異共振は凹i∞凸i⇒凹(−1)なのか凹j∞凸j⇒凹(−1)なのか:注意:陰陽記号がタイトル欄では出ないので、仮に∞を使用した
先に以下のように書いた。

原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html

ふと、ガウス平面で足りるのではないかと思ったので、少し検討したい。
 問題は新しい差異共振の位置である。これまでのPS理論の考え方から言えば、新しい差異共振とは、凸i*凹i⇒凸(プラス1)の凸i支配の連続性から、不連続化された凹iが主導する凹i*凸i⇒凹(−1)に存するのである。
 しかし、これは、私見では、氣の差異共振であり、精神の差異共振ではないのである。あるいは、両者が区別がつかないのである。
 私説では、1.原初差異共振⇒2.同一性力学⇒3.新差異共振というように推移するのであるが、

1. 凹i☯凸i⇒凹(−1)

2. 凸i*凹i⇒凸(+1)

3. 凹i☯凸i⇒凹(−1)

という方程式になる。
 問題は2から3への推移である。あるいは、1から2への推移である。後者を考えると、氣から精神へと転化できるのかという問題である。
 純粋に氣を考えると、凹i☯凸i⇒凹(−1)であり、凸i*凹i⇒凸(+1)はありえないのではないか。もし、それが可能ならば、氣が硬直化することになるのである。氣は常に変動しており、「陽」が「陰」を支配することはありえないのではないだろうか。言い換えると、常に差異共振様態としての氣と考えられるのである。
 だから、1から2への転移は不可能と思われるのである。また、それは、2から3への転移の不可能性でもある。何故なら、それは、精神から氣への転換となるからである。
 故に、先に作業仮説したように、精神軸としてのz軸を提起することは、問題解決の意味をもつと考えられるのである。
 故にやはり、新しい差異共振は凹i*☯凸i⇒凹(−1)ではなく、凹j☯凸j⇒凹(−1)と現段階では考えられるのである。
 整理すると、

1. 氣の差異共振方程式:凹i☯凸i⇒凹(−1)

2. 自己同一性力学方程式:凸j*凹j⇒凸(+1)

3. 新しい(自己)差異共振方程式:凹j☯凸j⇒(−1)

となる。但し、凸i*凹i⇒凸(+1)は成立しないことになる。
 最後に、ルドルフ・シュタイナーの精神学の四元的体との関連を言うと、自我は凸(+1)であり、エーテル体(生命体、氣)は、凹i☯凸i⇒であり、アストラル体(感情欲望体)は、凹jであり、物質体は凹(−1)ということになるように思える。そして、「悪魔」であるが、アーリマンは凸j優位、ルシファーは凹j優位、そして、「キリスト」は自己である凹j☯凸j⇒凹(−1)と考えられる。


原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図
これまで、原始差異共振と呼んだものを原初差異共振primary difference(co-difference?) resonanceと呼び直す。これは凹i主導のもので、まだ、凸i支配の同一性は形成されていない。虚軸上のmedia point(imaginary axis media point)での事象である。凹i優位(凹i superiority)があるのである。言い換えると、凸i劣位(凸i inferiority)があるのである。これはまた、原初母権文化的意識primary matriarchal culture senseということもできよう。
 そして、連続性、凸i支配の力学が生起する。これは、人間固有の連続性支配である。凸i優位、凹i劣位の力学である。同一性力学の支配である。実軸上の media point(real axis media point)における連続性様態である。ここに、精神的フィルターがあるし、また、カント哲学の超越論的「精神」が存するだろう(後で再検討。純粋理性は原初差異共振と新差異共振の両方に関わるようだ。これも再検討)。
 問題は原初差異共振、虚軸上のmedia pointの様態の方程式である。
 後期PS理論において、凸i*凹凹i⇒凹(−1)とそれを方程式化したが、差異共振は凹凹iというような凹iの否定ではなく、あくまで、凹iの肯定でなくてはならないから、それは間違いと考えられる。
 凸i*凹i⇒凸(+1)の*であると、凸i支配の力学と勘違いするので、原初差異共振を凹i☯凸iと表記する。この虚軸上のmedia pointの事象であるが、これはどういうベクトルを形成するのか。それとも、そのままなのか。
 また、問題は、凹(−1)の意味である。果たして、それが、差異共振のベクトルの方向の終点でなければ何なのか。
 今想起したのは、☯は積ではなく、商ではないのかということである。つまり、凹i÷凸iないし凸i÷凹iである。そうすると、当然、⇒凹(−1)になる。だから、凹i☯凸i⇒凹(−1)となる。(これは作業仮説である。)
 以上のようにPS理論を再確認すると、初期PS理論ではなく、後期PS理論の妥当性、整合性が明らかになる。結局、差異共振と同一性との区別が凸i*凹 i⇒凸(+1)の場合、不明瞭であるので、疑問が生じたわけであるが、原初差異共振を凹i☯凸i⇒凹(−1)としたので、区別が判明となり、疑問が解消したのである。
 そうすると、先に、差異共振を表記するのに、想定したz軸は不要となる。
 そうすると、オイラーの公式と統合したガウス平面(仮称:Euler's formula integrated Gaussian plane:EGP)上の円において、左半円(虚軸を含めて)は光(マニ教の光)の様態であり、右半円は闇(無明)の様態となる。(凸iは陽、原光であり、凹iは陰、原闇と見るのがいいだろう。しかし、これは紛らわしい。後で用語を考えたい。)
 では、物質はどう表記されるだろうか。これまで、凸(+1)としてきた。思うに、自然現象は差異共振現象であり、それは、⇒凹(−1)を意味しよう。Vector Modeはこちらに生起しよう。
 ならば、⇒凸(+1)は何か。これは、同一性ではないだろうか。凸iが超越論的同一性精神とするなら、その力学の結果の⇒凸(+1)は同一性でないのか。あるいは、自我(自己同一性)である。(今はそう作業仮説する。)
 ここで、氣を考えると、やはり、それは、差異共振様態と考えられるが、そうすると、精神、光と同一体になってしまうだろう。
 先に述べたように、氣と精神を区別したいのである。すると、z軸が必要になるのである。
 氣を凹i☯凸i⇒凹(−1)とすると、精神は凸j☯凹j⇒凹(−1)と考えられないだろうか。jはz軸という第二の虚軸の虚数記号とする。
 そうすると、これまでの考え方を変更しないといけない。つまり、原初差異共振とは凹j☯凸j⇒凹(−1)であり、同一性力学は凸j*凹j⇒凸(+1)となる。そして、当然、凸iは氣の陽であり、凹iは氣の陰である。
 だから、三重、三次元のmedia point(three-dimensional media point)において、精神と氣と原自我(凸j)の混合することになるように思われる。
 しかし、そのように作業仮説したとき、問題は、氣が物質を生み出すこと(造化)はいいとしても、精神も物質を生むことになるが、それでいいのだろうか。
 それは正しいと思う。精神様態によって身体、肉体は変化するのは当然である。ストレスを考えればいいのである。ということで、この点もクリアされた。
 最後に、凸jの支配からの脱却である不連続化に拠る新しい差異共振についてであるが、それは、凹j☯凸j⇒凹(−1)と考えられる。そう、精神と氣と物質が一体となっているのである。
 今はここで留める。

追記:人間認識図であるが、それは、人間・自然認識立体図となるだろう。

追記2:光や量子はどう記述されるのだろうか。凹i☯凸i⇒凹(−1)の⇒が光ではないだろうか。そう、マニ教の光は凹j*凸j⇒凹(−1)の⇒ではないだろうか。前者が現象光であり、後者が精神光(霊光)である。
 しかしながら、3D media pointにおいて、それらは、融合しよう。
 では、量子はどうなるのかと言えば、それは、光の⇒の振動数、波動の違いで説明できるかもしれない。思うに、ここで濃度概念を使用できるだろう。凹iの最高濃度(凸iが最大強度)の場合と凹iの最低濃度(凸iの最小強度)の場合の両極における中間値(極大の場合も含めて)をもつように思える。

追記3:そうすると、円ではなく、球ないし球面が人間・自然認識立体図の主要な空間となる。


不連続的差異論とPS理論を再検討する:自我と同一性と物質
不連続的差異論とPS理論を再検討する:自我と同一性と物質
テーマ:不連続的差異論とPS理論

不連続的差異論のポイントは、ある自己差異が他者を認知するとき、通常は他者を自己同一性化してしまい、他者の差異を無視することである。
 自己差異A、他者差異Bとすると、AはBの認識に当たり、AをBに投影してしまうのであり、Bは否定されるのである。
 この場合、Aは自我であり、また、自我同一性である。AによってBは否定されるのである。
 しかし、不連続的差異とは、B自体を肯定することである。だから、AはBであり、同時に、Aである。いわゆる、即非様態である。
 このとき、Aは自我ではなく、自己である。
 そう、Aが自我となり、他者Bを自己同一性化するとき、それが、A*B⇒+1であろう。+1が自己同一性、自我となるだろう。
 Aは原自己ないし原自我であり、+1が自我である。しかし、それは、また、自己同一性である。
 例えば、Bを樹木としよう。Aは樹木を認識する。それは、自己同一性化であり、その+1はB=樹木である。だから、Bは物質ということではないだろう。Bは現象である。
 では、物質とはどうなのか。
 端的に言えば、ある数量化が必要である。他者Bを数量化ないし、抽象的数量化する必要がある。
 だから、A自体に数量的認識、抽象的認識が必要である。
 それは、先の言語についての検討からわかることは、凸iの分析的認識性に拠るということである。
 つまり、A自体は、単に、感覚的に現象認識するだけでなく、現象を抽象的数量的に認識するということになる。
 だから、自我と物質とは⇒+1として重なるようになるとは言えよう。
 しかしながら、感覚的具体的同一性認識と抽象的数量的同一性認識は異なるのではないだろうか。
 端的に言えば、感覚と数量の違いがあると思える。
 感覚は具体性をもっているが、数量はあくまで、抽象性である。
 そう、正に、具体的同一性と抽象的同一性の違いである。
 だから、問題は、⇒+1としたとき、両者の違いが区別できないことである。
 思うに、凸i*凹i⇒凸(+1)と凸*凹⇒凹(−1)があるのかもしれない。
 これは作業仮説的であるが、前者が具体的同一性、後者を抽象的同一性と考えることができるかもしれない。
 だから、感覚的現象は+1であり、抽象的現象である物質は−1となる。光は+1であり、闇は−1である。
 では、そうしたとき、精神はどう記述できるのだろうか。つまり、差異共振精神、即非精神である。
 それは、今の直観では、ガウス平面に直交する垂直軸(z軸)で表記されるように思われる。
 同一性はx軸の+1と−1で表記され、差異共振、即非様態はz軸の凸jと凹jで表記されるのではないだろうか。
 思うに、差異共振、即非様態であるが、凸iが主導的な場合は凸jに、凹iが主導的な場合は凹jになるのではないだろうか。
 そう、つまり、差異共振、即非様態でも凸i主導と凹i主導がありえるように思えるのである。つまり、差異共振とは本来、凹i主導であるが、それが一端成立すると、凸i主導と凹i主導の両面があるように思えるのである。そう、差異共振の極性論理(即非論理)である。
 今はここで留める。







差異1*差異2*差異3・・・差異nの連結
テーマ:media point

不連続的差異論からPS理論(ガウス平面的複素数精神理論)に移行したとき、本件の多重差異の連結の様態が見落とされるような印象をもった。
 もっとも、media resonanceの概念でそれは説明できるように感じたが。
 とは言え、少し、多重差異の問題を少し考えたい。直観では、これこそ、双極子としての多重差異の問題ではないだろうか。
 cosθk+i*sinθkとcos(θ+π)k+i*sin(θ+π)kの双極子において、多重化が生じるのではないだろうか。
 すなわち、

{cosθ1+i*sinθ1, cos(θ1+π)+i*sin(θ1 +π}*{cosθ2+i*sinθ2, con(θ2+π)+i*sin(θ2+π}*
・・・・・{cosθn+i*sinθn, cos(θn+π)+i*sin(θn+π}

となるのではないだろうか。
 どうも、これが有機体や生命体を形成する要素ではないだろうか。
 今は提起だけである。 







初期PS(PPS)理論から見た人間認識図の様態
テーマ:media point

今は簡単に記すに留める。
 凸i*凹i⇒+1であるが、先に+1が光と述べたが、⇒が光であり、+1が物質かもしれない。
 そして、凸iの支配による自我方程式は凸i*凹凹⇒−1であり、−1が自我である。
 そのように見ると、第一象限が自然界であり、第二象限が自我的言語生活世界である。
 そして、第三象限が腹黒い世界、悪の世界である。そして、第四象限は、直観の世界である。




2012年02月19日(Sun)▲ページの先頭へ
プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み
プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

先の論考『連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11169036692.html』において次のように述べた。

「 連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。
 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。
 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。
 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。
 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。」(色文字・下線は本稿での筆者の強調)

上記のように考え直したが、そうすると、だいぶ以前にPS理論の初期にKaisetsu氏が提起したプラス1が光であり、マイナス1が闇であるという視点に回帰するのがいいように思われるのである。
 その場合、凸iは陽/原光(「アポロ」)であり、凹iは陰/原闇(「ディオニュソス」)である。原光と光、原闇と闇は異なる。
 だから、自己認識方程式凸i*凹i⇒+1において、+1は物質ではなく、光、自己である。凸i*凹凹i⇒−1における−1は、闇、あるいは、自我である。
 これは、認識上の事象である。
 人間以外の自然事象において、自己認識方程式において、+1は自然的身体を意味しよう。それは、氣を本質にもつ物質的身体である。そう、単なる物質は−1と思われる。
 仏教的に言えば、−1は無明の世界である。そして、人間認識図は、これまでのものとは左右逆転(言わば、「鏡の国」化)になるだろう。
 即ち、第一象限が道徳・倫理、法等の世界であり、第二象限が物質的言語的生活世界であり、第三象限が物質的欲望、唯物論の世界であり、第四象限が直観の世界であろう。哲学、数学、芸術は第一象限と第四象限の境界、+1の線分領域に存するのではないだろうか。また、科学であるが、近代科学は凸iに近い第一象限ではないだろうか。そして、相対性理論や量子力学は、凸i*凹iの世界、虚軸の世界に属するのではないだろうか。つまり、精神的世界と一致するのである。
 以上、PS理論読み直しの試みであるが、人間認識図の領域区分はまだ暫定的で未確定なので、当然、再考したい。

追記:以上のように考えると、e^iπ+1=0のオイラーの等式を変形させた、e^iπ=−1の−1は、超越的存在ではなく、自我を意味するだろう。
 自我は人間特有・固有の本性である。ルドルフ・シュタイナーは自我(「わたし」)ichを最重視した。
 もっとも、それを+1の自己に変容することが人間存在の基本的課題であるが。

追記2:上記の初期PS理論において、オイラーの公式に規定されたガウス平面(オイラー・ガウス平面と仮称する)の右半円が光の世界、左半円が闇の世界ということになる。あるいは、右半円が自然界であり、左半円が人間・人工界である。
 思うに、虚軸を含めて右半円は精神界とも呼べよう。だから、虚軸を含まない左半円は世俗界(娑婆)とも呼べよう。




連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版

テーマ:media point

先に、『仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html』において以下のように述べた。

「結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。
 例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。
 とまれ、ここは微妙な問題である。
 今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。
 ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。」

上述の「連続性とは物質(自我)化を意味する」と「人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれた」の箇所は両者ともに、不正確である。
 連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。
 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。
 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。
 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。
 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。



2012年02月01日(Wed)▲ページの先頭へ
自己と自我:虚数(精神)濃度と連続/不連続概念
自己と自我:虚数(精神)濃度と連続/不連続概念

テーマ:media point

最近、自我病とでもいうべき問題を抱えている人が多いと感じたので、この点を復習になるが簡単に述べたい。
 端的に、問題点は連続性にあるのである。つまり、原精神、本精神、純精神の凸i*凹i(陽*陰)の二元性が実MP(精神的フィルター)によって、連続化されて自我が形成されるのである。
 本来、凸iと凹iは不連続であるが、それが、現象化したときに、連続態となるという倒錯を帯びるのである。つまり、現象存在としての人間は本来、本来の自己精神を喪失した存在なのである。これは、仏教等や哲学が説いてきたことであるが。
 ここでだいぶ以前に述べたユング心理学批判を再説するのは意味がある。
 ユング心理学のキー・ポイントは自我と自己(無意識、魂)との融合、結合、統合を説き、それが、個性化であるという点である。
 しかし、自我と自己との融合は、PS理論の視点からは、連続性を意味するのである。自我と自己という本来、不連続なものを連続化するのがユング心理学なのである。それは、精神を分裂させたままにするだろう。批判はここで留める。
 さて、PS理論では、自我と自己(ないし個)との不連続性を説くのであり、また、自己精神の凸i*凹iの陰陽的二元論、極性論を本来的なものとして考えている。
 前提は不連続性である。それは、自我と自己(個)とを能動的に切断することを意味している。これは、精神力学である。
 だから、PS理論的精神様態とは、自我的側面(物質的側面)と自己(個)的側面の二面性が併存しているのである。しかし、これは分裂ではない。
 何故分裂ではないかと言えば、自己本来の基盤、差異共振性を基礎して、その上に自我機能をもつからである。主は自己(個)であり、従は自我である。
 以上、簡単にPS理論的自己哲学を説明した上で、今日蔓延する自我病(造語)について簡単に述べよう。もっとも、以上の説明に既に答えは出ているが。
 結局、自我病とは、精神の極性を否定して、自己が連続化していることにある。つまり、自己の自然の現象態のままであり、自己陶冶を行っていないのである。
 他者である凹iが原自我・純自我の凸iに連続的に服しているのである。そのために、他者を暴力的に自我同一性化してしまうのである。つまり、他者を否定するのである。
 これは、ホッブズの万人の万人に対する戦争状態である。現代日本の社会生活、日常生活は完全にこのようなものとなっている。もっとも、少数の目覚めた(「ブッダ」)人たちがいるが。彼らが地の塩である。
 自我病の人が他者を自我中心的に攻撃するのである。それで、社会関係がささくれ立つのである。そして、自我(複数)がバラバラに存在して、社会はもはや共同体としての機能を喪失して、「民主主義」的権力が自我利益を出汁にして支配しているのである。
 自我人(造語)は、基本的には愚劣なので、自我を支配する権力者を選ぶのである(典型が小泉元首相)。そう、自我は正に、無明なのである。真理が見えていないのである。
 とまれ、連続性の誤謬と不連続性と差異共振性の基本的真理を説いたが、これとKaisetsu氏の虚数(精神)濃度概念はどういう関係になるだろうか。
 結局、不連続性/差異共振的自己の人間は虚数(精神)濃度が高い人(高濃度)であり、連続性の自我の人間はそれが低い人(低濃度)と言えるだろう。
 しかし、両者にはアルカリ性と酸性の違いがあるように、決定的な質的差異がある。
 不連続性/差異共振的自己(個)の人間はいわば、絶対的的高濃度人間と言えるのではないだろうか。あるいは、超越的高濃度人間である。
 水の三態で言えば、気化した人間であり、氣的高濃度人間とも言えよう。
 あるいは、光のモードで言えば、純光(*純闇)の人間と闇の人間の違いとなるだろう。
 とまれ、時代は明白に黙示録的様相を呈してきた。光の人間と闇の人間に明確に分かれてきた。
 最後に一言言うと、女性は本来、凹iをベースにしているので、不連続性/差異共振性を先天的にもっていると考えられる。しかし、男性主義・父権主義支配のために、それを否定して、自我主義に染まっている女性が今日多数であると思われる。
 しかし、本来的なものはいつまで否定されているわけではない。それは時代の力によって、新たに目覚めると考えられるのである。
 そう、女性ルネサンスである。
 
追記:自我病についてもう少し説明する必要がある。それは、うつ病とも関係する。つまり、自我的同一性が強力で、精神(精神魂)を否定すると、その否定された精神が反動的に自我を突発的に発作的に、そう狂気的に襲うと考えられるのである。近代的自我、近代合理主義がハイパーになった今日、否定、排除された精神(精神魂)が否定的衝動となって自我を襲うのである。それは端的に狂気である。
 その反動的精神力学であるが、それは、精神の極性力学が否定されているために、その極性力学が否定的エネルギーとなって自我を襲うと考えられるのである。
 うつ病の場合は、積極的な精神極性力学が否定されたままで、氣的エネルギーを喪失していると考えられる。しかし、今言ったことからわかるように、うつ病は攻撃的エネルギーを潜在していると考えられるのである。あるいは、鬱状態と反動的衝動が併存していると考えられる。
 結局、時代は精神の覚醒を要請していると言えよう。大都市はきわめて危険である。それは、物質支配であるからだ。
 自然のもつ精神エネルギー(氣)の環境に生きるべきである。機械物質文明は精神エネルギーを排除しているので、自我病を蔓延させている要因である。


追記2:不連続的切断に関してであるが、思うに、私が問題にしている自我病はとりわけ近代教育を受けた人間の陥る症状(広義の精神病)ではないだろうか。もっとも、連続的様態は自然状態であるが、同時に、差異共振の「光」の種子もあるだろう。つまり、精神の自然状態は、原始差異共振様態と連続態が併存しているのではないだろうか。
 しかし、近代教育を受けると、原始差異共振様態が否定されて、連続態が一般的になり、自我病を発症するのではないだろうか。
 結局、この場合、精神を不連続化させて、新たに差異共振精神を形成する必要があるだろう。これは、いわば、トランス・モダン的精神形成である。
 これは虚数(精神)濃度を高くするものではある。しかしながら、高濃度と低濃度には上述したように、質的差異がある。これをどう捉えるのか。
 どうも、閾値があるのではないだろうか。例えば、水の三態において、一気圧では、ゼロ℃で氷結し、百℃で気化する。この場合、ゼロと百が閾値である。
 虚数濃度の場合にはpH7(中性)が閾値と考えられないだろうか。それより高い濃度が精神的人間で、低い濃度が物質的人間である。
 というより、不連続化/差異共振化とは、最高虚数(精神)濃度ではないだろうか。
 そして、生成門氏のオイラーの公式的複素数精神マップ(と呼ぶことができよう)で実数部ゼロのときが不連続化/差異共振化様態と言えるだろう。
 とまれ、不連続化/差異共振化は極限化であり、絶対化、超越化であると言えよう。それは、Kaisetsu氏の唱えるZ軸=超越軸の形成と通じるのではないだろうか。純光と純闇が即非的に共振する純粋様態である。超越光様態である。



Living In The Material World


George Harrison - The Light That Has Lighted The World (demo / Living In The Material World)



2012年01月30日(Mon)▲ページの先頭へ
感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iと凹iは共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について
感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iと凹iは共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について

テーマ:manichaeism: 哲学

以下の生成門氏の「凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置」(強調はResurrectionによる)は、D. H. ロレンスの感覚的絶対的体験を解明するものだと直観した。
 私はこれまで、ロレンスのその意味がよくわからなかったのである。確かに、生成門氏のように捉えれば、明晰である。
 また、それで、「わたし」の至高性であるともロレンスが言っていたことも理解できる。
 しかしながら、ロレンスはそれを感覚の「闇」と表現しているのである。これが謎である。
 少し説明すれば、ロレンスの王冠哲学は、ライオンとユニコーンの相克的闘争に基づくが、前者が感覚で、後者が精神である。そして、それぞれ、闇と光なのである。
 今の私の説明は、凸iの至高体験、光の最高強度であるが、思うに、対象との一体感とは、実は他者凹iとの一体感であり、虚MPの差異共振ないし凹を指していると思えるのである。
 だから、最強度の凸iとはとりもなおさず、最強度の凹iとの一致を意味すると考えられる。だから、光=闇の至高体験ということになるだろう。
 つまり、対象との一体感には、凹iとの共振が入っているということである。また、それは、超越的存在(凹、マイナス1)的だるということである。
 そうならば、ロレンスのユニコーンの光、精神はどうなるなのだろうか。ロレンスはそこに、非自我を見て、他者だけの世界としている。つまり、凹iの世界である。
 しかし、そこには、もはや一体感はなく、外部の他者がいるのである。だから、それは、生成門氏の視点では、身体凸(+1)となると考えられる。だから、それは、現象光の光の世界と言えよう。
 つまり、ロレンスはユニコーンの光=精神で凸(+1)を意味しているのであり、凸iの光、あるいは、凸i*凹iの差異共振の超越光を意味しているのではないということになる。
 以上のようにざっと考えて、ロレンスの王冠哲学の長年の謎が解明されたように思う。獅子(感覚=闇)VS一角獣(精神=光)の絶対的矛盾の相克は、実 は、凸iの最強度、最高度と凸(+1)との相克だったのである。そして、凸iの最強度とは、凹iを含むものであり、差異共振化、即非共振化であり、 media point化であり、第三象限や凹を指すものと考えられる。
 また、さらに、ロレンスがキリスト教と近代科学を結びつけて考えていたこともこれで判明する。キリスト教は、王冠哲学では、一角獣=精神=光に当たるの であるが、それは凸(+1)の物質体なのである。だから、近代科学に結びつくことになるのである。(あるいは、ロレンスの光は生成門氏の視点から言えば、 凸iの強度が弱化した位置のもの、凸の強度が増加した位置のものとも考えられる。)
 とまれ、整理すると、ロレンスの感覚=闇(ライオン)は、凸iの最強度による対象=他者との一体性(即非共振)に拠るものであり、最強度の凸iを指していることになる。つまり、最強度の光である。
 それに対して、ロレンスの精神=光(ユニコーン)は、最強度の光はなく、凸(プラス1)が強度も帯び出したときのものである。極限では、凸の最強度の場合である。物質主義である。
 それは、言い換えると、同一性化された凹iであり、物質となった他者のことである。これこそ、正に、近代科学=唯物科学の対象に相応しいと言える。
 結局、ロレンスの闇=超越光だったのである。そして、ロレンスの光=(現象光=)物質的対象・物質体であったのである。
 最後に強度の衰えた光であるが、それは、生成門氏の第一象限の光であり、ロレンスの光に通じるものと考えられるが、それと私が考える現象光との関係について考えてみたい。
 今のところ、二つの考え方がある。一つは、実MPにおいて、超越光が現象光=可視光へと変換されるというものである。これは、差異共振光=超越光とは絶対的に区別される。
 そうならば、この現象光=可視光がロレンスの光に当たると言えよう。(そして、ロレンスの闇は当然、超越光=差異共振光である。)
 もう一つの考えは、実MPにおいて、差異共振は凸i主導性によって作用しているので、凸iの光が現象光=可視光になるというものである。この場合、凸iの光が凹iの闇に衝突して、自己反射して、同一性の光=現象光=可視光を発出すると考えられる。
 この二つ目の場合であるが、現象光は、凸iの原光とは異なると見ないといけない。(先には、同一であると述べたが、訂正する。)
 つまり、凸iの光は差異的光であり、現象光のような同一性的光(物質的光)ではないと考えられるということである。換言すると、差異的光の凸iの光は、 実MPで、同一性の光=物質的光=現象光=可視光に変換するということであり、二つの光の区別が為されなくてはならないということである。
 ここで飛躍して、二つ目の光について考察すると、これはこれまで、原光と呼んだが、純光と呼んでもいいだろう。そして、対の原闇であるが、それも純闇と呼ぶことができる。
 つまり、純光凸iは常に、対極の純闇凹iと極性を形成しているのであり、純光・即非・純闇、極言すれば、純光=純闇である。
 そして、繰り返すことになるが、生成門氏の凸iの至高の光は、正に、純光であり、それは、即、純闇との差異共振=超越光を意味すると考えられる。
 二つ目の考えに戻ると、凸iの純光が主導性となる場合とは逆に、凹iの純闇が主導性の場合がありえるだろう。その結果は当然、光ではなく、「闇」である。問題は、純闇が純光と同様に、自己反射するのか否かである。
 直観では、純闇は純光に当たり、自己反射はしないで、受け止めるのである。純光を受容するのである。つまり、差異共振化するのである。だから、純闇が主 導的な場合は、純光が主導的な場合とは異なり、差異共振=超越光が生起して、第三象限に向うと考えられるのである。(やはり、これが、重力、dark matter, dark energyと関係しそうだ。)あるいは、精神の形成である。あるいは、マニ教の光の種子である。
 まとめると、二つ目の考えをとるとき、即ち、凸iの純光の主導性の場合と凹iの純闇の主導性の場合の二つの場合を想定するとき、おそらく、同時生起的に、同一性光=物質光=現象光=可視光と超越光=精神光=不可視光が発出するのである。
 以上全体を整理すると、一つ目の視点では、超越光と現象光の不連続性を認めて、実MPにおいては、現象光の発出を見ると考える。そのとき、純光凸iは現象光の裏面に隠れているだろう。
 二つ目の視点は、純光凸iの主導性のときは、同一性光=物質光=現象光=可視光が発出し、純闇凹iが主導的な場合は、差異共振光=超越光=精神光=不可視光が同時生起するということになる。
 二つの考えは、結局、一つに収斂するだろう。即ち、純光凸iが主導的な場合は、実MPから現象光が発生するが、現象光にいわば裏面に純光が隠れている。
 そして、純闇が主導的な場合は、実MPは、空となるが、差異共振が生起して、超越光=精神光=不可視光を内発するのである。
 結局、純光凸iと純闇凹iの主導性の変化であるが、基本的には、常時交替していると思われるが、ある時代には、純光が支配的であり、ある時代には純闇が支配的であると言えよう。前者が例えば、近代であり、父権的時代であり、後者は前近代や母権的時代と言えよう。
 結局、問題であった、純光凸iと現象光(実MPの光、又は、⇒凸の⇒の終点の光)は全く異なるということである。
 だから、超越光(超光)と純光と現象光の三種類の光があるということになるのである。それは既述したことに合致する。
 

参考:
[805] 人間は再現性の足りない部分を想像力で補う

From: 生成門
人間は再現性の足りない部分を想像力で補う
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

45度の位置の基準を示そうとしてきたのですが「乾燥したワカメは蘇る」、「外が内になる」、「絶対位置はない」という探求の結果、なんとも頼りのない「曖昧なノンフィクション」という結論になってしまいました。

「写真の認識を位置づける」「写真は自己を表出させる」「プロの写真家の自己表出」「写真も表現された内容で位置が変わる」では、第1象限の特徴を浮き彫りにしました。

気になるのは、「曖昧なノンフィクション」という中間の位置の問題です。もっとましな基準の示し方はないのでしょうか。

第1象限は「私」の認識です。

凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置から、次第に、言語の認識になると光の強度が弱くなって自己表出が出てきます。自己表出の最大の位置は+1であり、物質化(現象)です。

どんな認識も固定されることはないので、凸iから+1移動したように、その逆の+1から凸iへ移動することもあるでしょう。又、他の象限に飛び火することもあるでしょう。今は第1象限を中心に探求しています。その第1象限の探求も終わりに近づいてきています。

第1象限の探求を終わりにするためには、やはりなんと言っても中間の認識の位置を極めなければなりません。

中間とは強度が(0.7,0.7)の位置です。

光の強度:100%とは光による虚軸(凸i)であり、陽の精神性・関心度最高・視線強度最高・対象との完全一体感、無言語・感動と至高の無距離と無時間の 4次元世界を示すバロメータでしたが、それが右にシフトして中間(0.7)になると、光の強度が下がった分、身体性の強度が上がってきて、強度が (0.7,0.7)で釣り合います。

身体性の強度:100%とは外部世界と繋ぐ出入り口でもあり、実軸(+1)であり、対象再現性最高・自己表出度最高・対象との完全分離、言語による表現、距離と時間の3次元の現実、日常の物質世界(ノンフィクション)を示すバロメータです。

第1象限の認識を極めるためには、凸iでもなく+1でもなくその中間を極めることが必要でしょう。その中間を象徴的に「曖昧なノンフィクション」という言い方をしたのですが、言語による表現の特徴をそう認識したものです。

http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc








ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)
(画像付きは以下を見られたい)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150288276.html

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

以下、生成門氏のガウス平面上の認識位置特定システム(GPS : Gaussian Plane Positioning System)は画期的である。オイラーの公式を用いて、単位円上の複素数で多様な認識を数学的表記できるのである。

[788] 日常言語の限界を補う言語(複素数)

From: 生成門
日常言語の限界を補う言語(複素数)
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

人間の認識を複素化する前に、人間自体を複素化しておきましょう。

人間は精神と身体が混成した複素数的存在であると言いましたので、人間を複素化することには何も問題があるようには見えません。

人間を複素化することと人間の認識を複素化することはまったく同じ次元の問題だと思うのです。

しかし、デカルトでさえ、人間を精神(我思う存在)だと認識したのですから、安易に考えては危険です。デカルトの認識は片手落ちだったのです。四次元能では、同じ轍を踏まないように、注意していきましょう。

四次元能では人間を精神的身体と認識します。これを複素化すれば良いことになります。

つまり、<人間>を<精神的身体>と<認識>するということですので、これをe^iθ= a+ibを使って表現すれば良いということになります。

人間=精神的身体=認識=e^iθ= a+ibです。認識=e^iθ= a+ibを分解すると、
認識=実数的認識(見える)+虚数的認識(見えない)となります。

分解しても、二元的に分離はされていません。+で結合されているし、矢印(⇒)という方向と力を持っているのでe^iθは失われていません。

aとbに分解しても、いつでも、+で合成ができるということです。

複素化するということは、言い換えると、複素数として認識するということであり、実数として認識することと虚数として分解して認識し、合成することです。

つまり、

複素化された認識=実数化された認識+虚数化された認識

です。

一方、人間の認識を複素化すると、

人間を精神的身体と認識したのですから、これを実数化された認識と虚数化された認識に分解すると、実数化された認識とは身体的認識であり、虚数化された認識とは精神的認識となり、これを合成すれば、

人間の認識=精神的身体の認識ですから、

精神的身体の認識=身体的認識+精神的認識となります。

認識されたものと認識には平行関係(認識→認識されたもの)にありますので、

精神的身体=身体性+精神性

となります。

纏めると

e^iθ       =   a      +    ib
――――――――――――――――――――――――――
複素化された認識  = 実数化された認識 + 虚数化された認識
認識       = 実数的認識   +  虚数的認識
精神的身体の認識 = 身体的認識     +   精神的認識
精神的身体    =   身体性     +    精神性


これで、人間自体の複素化と人間の認識は、対応しているので、あまり、区別しなくてもよさそうです。


この対応関係を複素平面(ガウス平面)上の認識位置システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)の原理1と呼ぶことにしましょう。


さて、ここで、まだ明らかにして来なかったものがあります。

それは認識するには誰か(主体)ということと何を認識するのかという二つの側面です。

自明のことですが、認識する主体とは私(後で自己と他者に分離しますが)であり、と認識するものは、つまり、対象(私も対象になります)です。

これが暗黙の前提ですが、これを暗黙の前提にしたままでは、先に進むことができなくなります。後で、言及します。

今の段階では、私が認識するためには、私の観察が必要であり、他者が認識するためには表現が必要であり、そのためにはどちらも言語(記号)が必要だということです。

日常言語では、精神と物質を融合するためには、限界があると言ったと思います。

その限界を乗り越えるためにわざわざ複素数を持ち出してきたのですが、ここで、また言語必要だと言いました。矛盾していると思うでしょうか。

精神と物質を融合するための言語(複素数)と、人間の有り様を表現するために言語(日常)は別ものです。

複素数は必要条件ですが、言語(日常)は、十分条件なのです。ですから、両方を用いることは理にかなっており、併用することは矛盾しないのです。

人間の有り様を表現する言語とは、生き様であり、人間そのものを特徴付けるものです。

人間は言語によって人間(精神的存在)になったとも言えるのであり、それを言語が促進したとも言えるのです。

それを証明するためには、生きる現場において言語がどのようにして生まれたか、認識する道具としてどのように貢献したのかを明らかにすることです。

それが言語の進化を知ることであり、その進化の様子をGPSに位置づけることです。

当然ですが、言語水準には低い段階から高い段階までありますから、それをGPSに明確に位置づけることで、人間がどのようにして生きてきたか、どのように認識能力を獲得してきたかが分かるということです。

言い換えれば、人間の生き様の変化や認識能力の獲得は、言語の進化と一致しているということです。
言語の進化を日常言語だけで説明してしまうと、又ジレンマ陥ってしまいますが、今やGPSを使うところまできましたので、日常言語の限界を心配する必要はありません。

むしろ、言語の進化を複素化することで、日常言語の限界も明らかになるでしょう。

そこで、言語がどのようにして発生したのかを探求(複素化)して見ましょう。複素化という方法は、これまでの言語学が出来なかった新たな認識の地平を浮き彫りにしてくれるでしょう。

続く
[786] 人間の認識の基本に迫る

From: 生成門
人間の認識の基本に迫る
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>



人間の認識の基本構造、GPSの原型を使って、人間がどのように認識するのかをしっかりと理解しておきましょう。

表現された物には、「指し示し」が含まれているということ原則を忘れないようにして下さい。

「指し示し」は複素数で示すことが出来るのですが、それは見えるものと見えないものが含まれているからです。見えないというのは虚軸に向く意識が含まれているということです。

又、陥りやすい間違いは、凸i,凹i,+1,−1の特別な場所だけに偏って解釈することです。確かに、この四つは特別な場所だけに認識の特徴を表しています。

しかし、そこだけに絞ると、認識の本質を見失ってしまうのです。
認識の本質とは見えるものと見えないものとの混成なのですから、複素数の本来の姿a+ibで解釈すべきだということです。

解釈とは認識の仕方のことですから、認識の基盤をしっかりとしておかないと、親亀がこけたら小亀もこけるのは目に見えています。

そこまで考慮して探求しなければ、従来のアニメが何故、第2象限で、実写アニメが第1象限なのか、又、マネキンが第1象限で、ガガの写真が何故、第1と第2に跨っているのかについて正しく理解することできないのです。

確かに、+1を現実的、−1を非現実的と想定すれば、従来のアニメが非現実(現実とは遠い表現)であり、実写アニメは現実的(まるで現実のように見える)ですから、この解釈は簡単であるように思えてしまいます。

しかし、ガガの場合(第1と第2象限に跨る)はどうでしょうか。現実的と非現実的な中間にあると解釈もできるのですが、やはり、後付(そう説明されたから納得できる)のような気がするのです。

もっと複雑な対象の認識や第3、第4象限の認識についてはどうでしょうか。数学が何故、第3象限なのかをどう説明したらよいのでしょうか。これは簡単ではありません。

何故、そこに位置づけできるのかの合理的な説明ができなければ、森羅万象についての応用など、とてもできないだろうと思うのです。

ですから、GPSの原型が必要なのです。

もう一度、「人間の認識の基本構造:GPSの原型」を良く見てみましょう。


GPSの原型は、複素平面上の単位円を見たものを認識したものとしてあたかもプラネタリウムのスクリーンに映し出したかのように喩えた図です。

上半分は光によって見えたものを認識したものとして、下半分は光によらないで認識したものという区分けをしています。

この認識の図は、ある認識の瞬間の断面を描いた図であり、スナップショットのようなものです。

実際は、超光速で回転していると考えてください。

この回転しているイメージを式で表現すると、e^iθとなります。この表現は複素数の波であるという意味になります。

つまり、認識とは波であるという理解です。
もっと、言えば、認識をe^iθで表現するということは、認識を複素化することであり、指数化(指数関数)するということの意味でもあります。

この指数関数の性質は、いわゆるねずみ算に増える複利や人口の増加を示すマルサスの法則と呼ばれ、森羅万象を説明する上で重要な性質なのです。



一方、複素数はa+ibと表現することもできます。

e^iθと表現方法が異なるだけで、実質はまったく同じ(e^iθ= a+ib)ですが、応用面ではそれぞれにメリットがあります。

e^iθの場合、θの値を決めると原点と円の間を結ぶ矢印(⇒)どこにいるかが決まり、特に、四つの値(凸i,凹i,+1,-1)を特別な位置として意味づけることが出来ます。

a+ibは矢印(⇒)を二つの要素(実数と虚数)に分解することですので、これに意味(見える・見えない)を与えことができます。



又、e^iθ=cosθ+isinθ(オイラーの公式)でもありますので、a+ib=cosθ+isinθからa=cosθ,b=sinθとなり、θの値が決まると自動的にa,bも決まります。

ちなみに、

θ=0:cos0+isin=cos0=1   (a=1,b=0)
θ=1/2π(90度):cos1/2π+isin1/2π= I  (a=0,b=1)
θ=π:cosπ+isinπ= cosπ=-1 (a=-1,b=0) 
(これが有名なオイラーの公式:e^iπ=-1)
θ=3/2π(270度):cos3/2π+isin3/2π=- i (a=0,b=-1)

となり、複素平面の特別な位置(i,-i,+1,-1)の値が決まります。

これらの四つの値(i,-i,+1,-1)をどのように意味づけるかで、解釈が違ってきますので、「意味づけ」が複素化する場合の最も重要な作業です。

既に、PS理論では、iを虚軸、自己、光、陽の精神、-iを他者、闇、陰の精神、+1を実存、存在、-1を超越的存在などと決めています。

では、特別な位置(i,-i,+1,-1)以外はどう扱えばよいのでしょうか。

もちろんθを決めれば、e^iθの位置も、それと同時に(a,b)のセットも決まります。

森羅万象に対する認識は特別な位置(i,-i,+1,-1)だけに現れることはありえません。認識は波なのですから、全ての領域に現れるはずです。

それを便宜的に四つの象限で区分けしますが、θはいくらでも無限に分割できますので、認識もいくらでも無限に表現できるということになります。

実際、海舌氏は易の64パターンを認識のパターンに重ねた表現をしています。


ここまで行くには時間がかかりますので、当面は四つの象限でいきます。
続く
http://www.c-player.com/ad00178/message/201201?page=3&format=time
シムダンス「四次元能」



2011年12月18日(Sun)▲ページの先頭へ
精神と物質:氣と自己:オイラーの公式と回転:自然精神・自己精神の数学精神哲学的力学
お断り:画像付きは以下の母サイトで見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11109976638.html

シュタイナーの名著『自由の哲学』を読みながら、精神が物質を生んだことに明確に得心したが、では、精神の様態はどうなのだろうかと思った。
 結局、量子は氣である。エーテル体である。それは、物質ではなく、物質を生むものである。
 ならば、精神自体はどうなのだろうか。
 私は以前、自我としての凸iは凸iの極大化、アストラル体としての凹iは凹iの極大化と考えたと思う。前者は、シュタイナー的にはアーリマンであり、後者はルシファーであろう。
 言い換えると、同一性主義と、反同一性主義(反動的差異主義)であると考えられる。
 とまれ、問題は自己を形成している精神エネルギーとは端的に何か、である。
 シュタイナーは『自由の哲学』(34才!の著書)では、自己(「自我」)における思考と意志と感情の三位性を説いている。
 思うに、自己の精神エネルギーは氣の変容したものと考えていいのではないだろうか。氣は植物や宇宙を形成する。それは、差異共振エネルギーである。
 それが、人間の場合、屈折していて、独特の凸iと凹iの相互作用が形成されていると考えられる。(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)と先に提起したが。そう、これは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一の公式となろう。とまれ、問題は、これと氣の場合と異なるのか、否かである。凸i*凹i⇒凸も様態はそのようではないのかという疑問である。凹i/凸iは凸iと似ているが、前者には後者にはない志向性が明確に存しているので異なると言えよう。氣は純粋な差異共振であるが、自己精神エネルギーは屈折した差異共振と考えられる。氣ではあるが、特異な氣、特化した氣である。
 これで、一応、本題は解明した。
 次に、問題は、オイラーの公式の意味する事象である。それは、回転を意味するが、それは端的にどういうことなのか。
 それは自然精神(自己精神)の根源的回転(円運動)を意味すると直観で思う。プラトンは円運動を宇宙の根本的運動と捉えた。
 ならば、そのエネルギーはどういう力学なのか。自然精神、自己精神の力学である。
 差異共振(凸i*凹i⇒)は、端的に回転運動と考えられる。つまり、⇒凸(+1)とは、虚数から実数への転換であり、ガウス平面ではπ/2の回転と考えられる。
 思うに、それは数学的力学である。物理的力学以前に数学的力学である。ならば、精神(氣)とは端的に数学的力学をもっているのである。(PS理論からは自明であるが、明確にする必要がある。)
 つまり、数学的精神(氣)が根源的に存するということである。シュタイナー的に言えば、数学的霊mathematical spiritが存するということである。これは、ピュタゴラス/プラトン主義(数学的哲学主義)でもある。
 結局、自然精神、自己精神とは数学的精神(氣)、数学的霊であり、その力学をもつということである。数学精神的力学、数学霊的力学である。それはまた、直観的哲学でもある。だから、数学・哲学的力学が根源に存することになる。それは狭義に言えば、Kaisetsu氏が説くように、第三象限に属すると言えよう。しかし、広義には人間認識図全体に属すると言えよう。
 今はここで留める。


resurrectionのブログ

 
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ガウス平面で表した人間認識の図
ガウス平面で表した人間認識の図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

《ガウス平面で表した人間認識の図》

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


オイラーの公式
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%BC%8F
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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数学 、特に複素解析 におけるオイラーの公式(オイラーのこうしき、Euler's formula、オイラーの恒等式とも)とは、指数関数 と三角関数 の間に成り立つ等式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

オイラーの公式の幾何的な表示

をいう。ここに、θ は幾何学的には弧度法 に従う角と見なされる実変数 である。三角関数を複素変数に関する解析的関数と考えることで、この等式は θ を複素変数 と見ても成立している。レオンハルト・オイラー に帰せられるためこの名がある。この公式ははじめ、ロジャー・コーツ によって1714年 に提出されたが、その証明は曖昧なものだった。その後オイラーによって1748年 に再発見され、有名になった。

この公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学 ・物理学 などであらわれる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマン はこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」[1] だと述べている。

また、θ = π のとき、オイラーの等式 と呼ばれる

eiπ + 1 = 0

が導かれる。



角運動量
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


固定された回転軸をもつ系に対して、力を作用させた時の物理量の関係。力のモーメント \vec{\tau} と位置ベクトル \vec{r} と力 \vec{F} との関係(上の式)、および角運動量 \vec{L} と位置ベクトル \vec{r} と運動量 \vec{p} との関係(下の式)。

角運動量(かくうんどうりょう、英語 :angular momentum)とは、運動量 のモーメント を表す力学 の概念である。

位置 \vec{r} において、速度 \vec{v} で運動している質量 \,m の質点の、原点のまわりの角運動量 \vec{L} は、次式で定義される。

\vec{L} \equiv \vec{r} \times \vec{p} = \vec{r} \times m \vec{v} = m \vec{r} \times \frac{d \vec{r}}{dt}

ここで、\,\timesは外積 を表す記号であり、\vec{p} = m \vec{v} は質点の運動量 である。方向は他のモーメント同様\vec{r}から\vec{p}に回転するとき、右ねじの進む方向である。外積であるので、角運動量の大きさ\,Lは次のように表される。

L=rp\,\sin \theta

ここで、\,\thetaは\vec{r}と\vec{p}のなす角を示す。

角運動量の単位時間当たりの変化量 \tfrac{d\vec{L}}{dt}は力のモーメント \vec{N} \equiv \vec{r} \times \vec{F} に等しい。

\frac{d\vec{L}}{dt}=\frac{d(\vec{r}\times \vec{p})}{dt}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}+\vec{r}\times \frac{d\vec{p}}{dt}=\vec{r}\times \vec{F}\equiv N

ここで次の関係を使った。

\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times (m\frac{d\vec{r}}{dt})=0 ,\frac{d\vec{p}}{dt}=\vec{F}

このことから、力が動径方向(\vec{r}方向)にあるか、あるいは力が働いていないときは\vec{N}=0となり、したがって、このとき角運動量は時間とともに変化しなくなる。このことを角運動量保存の法則(角運動量の保存則)という。

詳細は「角運動量保存の法則 」を参照

保存則が成り立っている物体に加わっている力、すなわち動径方向(\vec{r}方向)と同じ向きにある力は、その大きさを\,f(r)とすると、次のように表すことができる。

\vec{F}=f(r)\vec{\hat{r}},\,\,\,\,\,\hat{r}\equiv \frac{\vec{r}}{r}

この力は中心力と呼ばれる。

惑星間に働く万有引力は中心力であり、したがって、惑星の角運動量は保存される。保存則は、ケプラーの第2法則「面積速度一定」 と密接な関わりがある。単位時間当たりに惑星の掃く面積は、次のように表され、

\frac{dS}{dt}\fallingdotseq \frac{1}{2}r\frac{ds}{dt}=\frac{1}{2}rv=\frac{1}{2m}L

したがって、掃かれる面積の時間による変化率が一定ならば、角運動量も一定の値をとる。

\frac{dS}{dt}=h\Leftrightarrow L=2mh
等速直線運動 においてはベクトル量 である運動量 \vec{p} が時間によらず一定であるのに対し、等速円運動 においては、運動量の大きさは一定であるが、向きは時間により変化する。外力 \vec{F} が加わらないとき、力のモーメント \vec{N} は \,0 であり、角運動量は等速直線運動でも等速円運動でも時間によらず一定のベクトル量となる。


2010-10-24 仮説:フェルミオンは(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で 編集 このエントリーを含むブックマーク CommentsAdd Star

仮説:フェルミオン は(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で双極子を形成する

直観では、フェルミ ン(フェルミ 粒子)が物質 を形成する。つまり、⇒+1である。それに対して、ボゾン(ボース粒子)は、⇒である。即ち、双極子、凸i*凹iである。

 そう考えると、ボゾンである光子 が質量 がないのがうまく説明がつくだろうし、フェルミ ンである電子 が質量 をもつのも説明できるのではないだろうか。

 問題はボゾンの「粒子」性をどう説明するかである。これは、直観では、同一性志向 性である。つまり、粒子志向 性であり、粒子自体ではないのではないだろうか。つまり、「波動 」と見た方がよいのではないだろうか。

 後で再検討 したい。

追記:同一性志向 性は、粒子(物質 )のように「見える」であり、実際は粒子ではないと考えられる。それは、双極子であり、それ自体は粒子ではない。いわば、エネルギー 子である。

 問題は、粒子と「波動 」とは何かの問題になっている。いったい、双極子凸i*凹iとは何か。それは、根源的には、-1の超越的物質 から発するだろう。だから、超越的双極子と言えるかもしれない。つまり、「ダーク・マター」の極性である。

 とまれ、問題は何故、双極子が粒子に見えるのかである。観測装置 の対象が粒子(物質 )を基準としているので、そうなるというのは、一理である。

 しかしながら、本質的 理由があるだろう。そう、やはり、Media Point である。それは、穴である。その穴を粒子として取り違えているのではないだろうか。


参考:

素粒子

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア (Wikipedia )』

移動: ナビゲーション , 検索

曖昧さ回避 この項目では、物質 を構成する最小の単位 について記述 しています。その他の用法については「素粒子 (曖昧さ回避 ) 」をご覧ください。

物理学 において素粒子 (そりゅうし)とは、物質 を構成する最小の単位 のことである。

最小の単位 であるということは、それより小さな存在 がないということであり、従って内部構造 を持たず空間 的な大きさを持たない・または空間 ・長さ自体が最小単位 の大きさ(空間 最小単位 の候補の例としてはプランク長 等)とされるのだが、超弦理論 においては全ての素粒子 は有限な大きさを持つひもの振動状態であるとされる。

現在 のところ物質 を構成する素粒子 と考えられているものは、クォーク とレプトン である。だが、これらに内部構造 が存在 することが発見 されれば、その内部構造 を構成するもののほうが素粒子 と呼ばれ、クォーク やレプトン は素粒子 ではないということになる。クォーク やレプトン の大きさはわかっていないが、仮に有限の大きさがあるとしても陽子 のスケール においても点とみなすことができる大きさである。

たくさんの粒子が、実は自然 界にそのまま安定的に存在 しているわけではないので、宇宙線 の観測や加速器 による生成反応により発見 ・研究 された。素粒子 の様々な性質を実験 で調べ、それを理論 的に体系化していくこと、及び理論 的に予言 される素粒子 を実験 で探索していくことが、素粒子物理学 の研究 目的 である。

素粒子 の分類 [編集 ]

ボソン (ボース統計 に従う粒子) [編集 ]

* ゲージ粒子 - 素粒子 間の相互作用 (力)を伝搬する粒子

o 光子 - 電磁気 力 を媒介 する

o ウィークボソン - 弱い力 を媒介 する。 W+, W−, Z0 の3種類。

o グルーオン - 強い力 を媒介 する。8種類存在 する。

o 重力子 - 重力 を媒介 する(未発見 )。

* ヒッグス粒子 - 粒子に質量 を与える(未発見 )。

フェルミオン (フェルミ 統計 に従う粒子) [編集 ]

* レプトン (6種類)

o 荷電レプトン - 電荷 −1 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ 電子 - 原子 の構成要素として一般に良く知られる。電子 の反粒子 は陽電子 と呼ばれる。

+ ミュー粒子

+ タウ粒子

o ニュートリノ

+ 電子 ニュートリノ

+ ミューニュートリノ

+ タウニ ュートリノ

* クォーク - ハドロン の構成要素とされる(6種類)。

o 上系列 - 電荷 +2/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ アップクォーク

+ チャームクォーク

+ トップクォーク

o 下系列 - 電荷 −1/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ ダウンクォーク

+ ストレンジ クォーク

+ ボトムクォーク

クォーク とレプトン の分類表 [編集 ]

クォーク とレプトン は以下のように、世代によって分類される。傾向として、世代数 が大きいほど質量 が大きいとされている。

電荷 第1世代 第2世代 第3世代

クォーク

1. 2/3 アップクォーク (u) チャームクォーク (c) トップクォーク (t)

−1/3 ダウンクォーク (d) ストレンジ クォーク (s) ボトムクォーク (b)

レプトン

−1 電子 (e) ミュー粒子 (μ) タウ粒子 (τ)

0 電子 ニュートリノ (νe) ミューニュートリノ (νμ) タウニ ュートリノ (ντ)

関連項目 [編集 ]

* 標準模型

* 基本粒子

* 素粒子物理学

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90
http://d.hatena.ne.jp/antares/20101024


2011年12月11日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性と物質:植物の差異共振と人間の場合の二重差異共振
これも既述済みだが、復習である。
 凸i主導性は差異凹iに自己反射(投影)して、同一性自己を形成するのである。これは、物質的自己(自我)である。
 しかし、人間以外はどうだろうか。例えば、植物の場合は。
 これは人間と同様に、凸i主導性があり、それで物質体が形成されると見ていいのではないだろうか。
 しかしながら、植物の場合は自我凸iはないから、少し視点を変える必要がある。
 先に述べたように、MP1(虚軸の原点)で差異共振(氣、エーテル体、生命力)が形成される。そして、これが、media pointから螺旋状に物質的生命体を形成すると考えられるのである。Vector Modeである。
 ここでは、人間の場合のように、凸i主導性はないと考えられる。
 人間の場合は、

(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1) ・・・ A

だと先に述べた。これを展開すると、

(凹i*凸i)/(凸i*凹i)⇒凸(+1) ・・・ B

となるのではないだろうか。(参考:
超越的存在とプラトンの善の太陽:マニ教の光とmedia point twilight (12/04)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1768.html)
 今は作業仮説であるが、凹i*凸iが自己性をもたらし、
凸i*凹iが物質性を導くということではないだろうか。
 単に植物の場合とは異なり、人間の場合は、二重の差異共振が関係していると思われるのである。
 思うに、Aの式の方が明快であろう。凹i/凸iは物質志向であり、凸i/凹iは精神志向であるように思える。
 Bの式で見ると、凹i*凸iが精神志向であり、凸i*凹iが物質志向であるように思える。
 とまれ、人間の場合、植物と異なるのは以上のような屈折が方程式に入るからではないだろうか。
 思うに、私が言う人間における(連続的)同一性志向とは、A式では、凹i/凸iであり、B式では凸i*凹iであると思われる。
 それに対して、差異志向(精神志向)はA式では凸i/凹iであり、B式では凹i*凸iであるように思えるのである。
 今はここで留める。


2011年12月04日(Sun)▲ページの先頭へ
超越的存在とプラトンの善の太陽:マニ教の光とmedia point twilight
画像は以下で見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11097347185.html

テーマ:manichaeism: 哲学

オイラーの公式

−1=e^iπ

これをPS理論は

凹(−1)=e^iπ

とする。
 そして、凹(−1)は超越的存在である。私はこれに四大の火を当てた。
 思うに、プラトンの洞窟の外に存する太陽、善の太陽は、凹(−1)を指していると考えられる。
 ただし、どちらかいうと、第二象限的な太陽だと思う。しかしながら、洞窟の外部なので、第三象限性を確かにもっていると考えられる。
 思うに、凹(-1)の元太陽の発現様態が問題である。それは、凸iの光と凹iの闇の差異共振様態として、発現するのであり、二つの要素に分離するのである。
 だから、二つの太陽がある意味で生起すると言えよう。光の太陽と闇の太陽である。
 しかしながら、両者の関係は微妙である。なぜなら、前者は後者と交わり、後者は前者と交わると考えられるからである。相互浸透があるのである。つまり、光の太陽は闇の太陽を志向し、闇の太陽は光の太陽を志向すると考えられるからである。
 二重の太陽、三重の太陽がそこにはあると言えよう。そ三重の太陽はmedia point sunと言えるだろう。
 ここでD. H. Lawrenceのdark sun, dark Godを考えると、dark sunは闇の太陽を指していると見ていいだろう。そして、dark Godは凹(−1)である。あるいは、第三象限である。
 しかしながら、ロレンスは最晩年、太陽とともに始めよStart with the sunと唱えたのである。それ以前のロレンスはdark sunを説いていたのであり、これは何を意味するのか。
 これは、二重の太陽、ないし三重の太陽で説明できよう。光の太陽は闇の太陽や相互浸透を意味しているからである。
 また、ルドルフ・シュタイナーの説く物質的太陽と霊的太陽であるが、前者は光の太陽の物質的映像と見ていいだろうし、霊的太陽とはmedia point sunであり、さらに、第三象限へと連なる太陽であろう。
 いわゆる、精神・霊界spiritual worldとは、media pointの虚軸点MP1に既に存すると言えようし、狭義では凹i(−1)であろうし、広義では、media point の虚軸点MP1を含んだ第三象限であろう。
 次にマニ教の光について少し触れたい。この光は先に超越光であると述べた。ほぼmedia point lightと言っていいだろう。そう、media point twilightとも言えよう。正確に言えば、凹(−1)と結びついた第三象限を含む「光」である。
 さて、ここで問題が生じている。先にエーテル体とはmedia pointの差異共振によって形成されると述べたのであるが、MP1は超越光を意味するのであるから、エーテル体(氣)=超越光になってしまうのである。
 ここで先に図式を少し変容させて考えよう。先には次のように述べた。

光とエーテル体(氣)

「整理すると、自己・個とは凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)であり、アストラル体が凸i/凹i(凹i⇒凸i)であり、エーテル体が凸i共振凹i(MP1)であり、物質体が凸ということになる。」
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11096912752.html

自己・個凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)を

凸i/凹i(凹i⇒凸i)*凹i/凸i(凸i⇒凹i)⇒凸(+1)

と変換させる。
 思うに、この自己・個の差異共振が超越光を意味するのではないだろうか。正確に言えば、凸i/凹i(凹i⇒凸i)にとりわけ超越光が属するであろう。
 しかしながら、左辺全体に超越光が属すと言うべきだろう。
 結局、超越光は単純なMP1の差異共振ではなく、それは、自己・個的差異共振によって発生すると言うべきなのである。それでこそ、ウパニシャッド哲学の梵我一如『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)と一致しよう。つまり、梵が超越光ということであり、それが「我」=自己・個ということである。
 以上の考察(思考実験)で問題点がかなり整合化されたと言えよう。
 そう、シュタイナーがキリストとはアフラ・マズダのことであると述べていた。アフラ・マズダとはPS理論では凹(−1)と考えられる。ならば、キリストとは凹(−1)の超越的存在ということになる。ウパニシャッド哲学で言えば、汝とキリストは一致するということになるだろう。神人一致である。


追記:正しくは善の太陽ではなく、善のイデアの比喩としての洞窟外の太陽である。

resurrectionのブログ

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/natuphy.html

自然哲学:その1


《ガウス平面で表した人間認識の図》

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


参考:

汝はそれなり
(2006.09.26/00:04) CM:4 | TB:0

『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)という言葉があります。

これは、ウパニシャッドの宗教的・哲学的思想の中で、ウッダーラカ・アールニが語った有名な格言『我はそれなり、汝はそれなり、全てはそれなり』の一部で、この言葉は、ウパニシャッド哲学のエッセンスを一文に凝縮したものであると言われています。

では、『汝はそれなり』とは、いったい何を意味しているのでしょうか?

一般に「汝」=「アートマン」であり、「それ」=「ブラフマン」であると言われています。

「アートマン(atman 真我)」とは、意識の最も深い内側にある個の根源で、個の中心にあり認識自体を司るもので、真我は「知るもの/知られるもの」の二元性を超越しているため、「真我」自体を認識の対象にすることはできません。つまり、知覚すること自体ができないのです(笑)。デカルトの非常に有名な言葉『我思う、故に我あり』(cogito, ergo sumコギト・エルゴ・スム)は、この掴み所のない「真我」の残した足跡を捉らまえて、間接的に存在性を表現したものなのですね。

また、「ブラフマン(Brahman 梵天)」は、全存在世界の根源的リアリティ、つまり、宇宙の根源原理、宇宙の源のこと指しており、神聖な知性としても考えられています。

要するに、『汝はそれなり』の意味することは、究極的には個人の真我と宇宙原理は一致し、全く同じものであることを言っているのです。

このことを、『梵天一如』とも表現されます。

自分の心の中を深く深く入り込んでいくと、自己認識している核の部分にまで至るが、でもそれは、途轍もなく広大な全宇宙存在のソースでもあった。更に、先に先に進むと宇宙空間となり、最も遠い所、つまり、自分の周囲に行き着いてしまうというわけです。

画像

このことは、かなり前の記事「現実世界って? 」にも書いたのですが、自己と宇宙は、まるで「クラインの壷」状の構造になっているのですね。

では、これを確かめるにはどうしたらいいのでしょうか?

このことは、瞑想を通して体験するしかないのですが、ブラフマンを体験するには、「無私」の状態にまで達しないと体験できないと言われています。

瞑想する場合には、例えば、マントラを唱える場合でいうと、マントラを唱えていることを知覚できている状態ではダメなのです。自分がマントラ自体にまでならないと「無私」とはいえないのです。(参照:幸せ天使さんのブログ )

これって、ななかか難しいです。

http://aioi.blog6.fc2.com/?mode=m&no=186

煩悩くん フルスロットル



とうとうコルマンインデックスが終了した4 (11/30)

コルマンインデックスが指摘する思想的な変化とは、以下のような長期の傾向が10月28日のコルマンデックスの終了で次第に現れるとする予言である。

「人間の外部に存在し、人間を支配する超越的な存在としての神の概念から、一人一人が神や仏の一部であることを実感する方向へとシフトする。」

このような変化が本当に起こるとするなら、それは我々が世界を感じたり認識したりする方法が転換する、人間と世界の関係の変化が伴うはずである。いわゆるパラダイムシフトと言われる現象となって現れるはずだ。
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-229.html

ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだ


2011年12月03日(Sat)▲ページの先頭へ
光とエーテル体(氣)
光とエーテル体(氣)
テーマ:検討問題

本件の問題を解明する必要がある。
 端的に言えば、光は当然、可視的であるが、エーテル体(氣)は不可視である。
 しかしながら、シュタイナー精神学をPS理論に引きつけると、光とエーテル体が同じものに、即ち、凸iになってしまうのである。この齟齬を解決する必要がある。
 少し整理しよう。私はシュタイナー理論を触れる前までは、氣とは、MP1(虚軸点)で形成されると述べた。そして、シュタイナーの発想からエーテル体=氣は凸iとなった。明らかに、齟齬、矛盾である。
 思うに、氣=エーテル体はやはり、MP1で発生する超越光とすべきだと思う。そして、光は凸iのままで済む。
 つまり、氣=エーテル体とは、光と闇の共振体ということになる。それが、Vector Modeを産み出し、物質体を形成すると考えられる。
 だから、現象体は光でありつつ、闇であるが、闇は当然不可視である。
 そうならば、さらに問題はアストラル体(謂わば、感性体)をどう見るかが問題である。
 私はアストラル体を凹iとしたのである。闇である。
 しかし、光と闇の共振が氣=エーテル体なので、アストラル体(感性体)を闇凹iにするのは、不具合である。
 思うに、media pointの感性がアストラル体ではないだろうか。同一性と差異がせめぎ合う点、それがアストラル体ではないか。ならば、media pointにアストラル体を、あえて言えば、media pointの凹i寄りにある。
 もう少し整理すると、自己(個)ichが凸i/凹iであるとすると、/がアストラル体になるだろう。凹i⇒凸iに対して、凸i⇒凹iが生じる。この衝突がアストラル体のように思える。
 つまり、凸i⇒凹iの自我(物質的自己)のベクトルが入るのである。それで、不調和を起こすのであり、それが、アストラル体と考えられる。つまり、自己と自我の不調和である。
 しかし、シュタイナーはアストラル体は動物のもつ体であると述べている。
 ならば、凸i⇒凹iはないのである。だから、凹i/凸i が自己・個ではなく、アストラル体かもしれない。
 整理すると、自己・個とは凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)であり、アストラル体が凸i/凹i(凹i⇒凸i)であり、エーテル体が凸i共振凹i(MP1)であり、物質体が凸ということになる。
 これで一応は整合性は保ったが。



直観学で哲学と芸術は括れる。科学は直観を数学化した?直観学に哲学、芸術、数学、科学が入る

テーマ:manichaeism: 哲学


neomanichaeist resurrection

直観学から見ると、物質科学、近代科学は、同一性主義であ り、現実(差異)ではなく、同一性の虚構を土台にしている。疫学がその帰結である。それは、資本主義権力に都合がよく、利己主義となっている。物質科学、 近代科学を打倒せよ!直観科学、差異科学こそ、正しい。似非科学、御用科学を唾棄せよ!


neomanichaeist resurrection
@
直観学で哲学と芸術は括れる。科学は直観を数学化した?直観学に哲学、芸術、数学、科学が入る @neomanichaeist 直観性は両者一致する。直観を概念化するのか、形象化するのか。 @neomanichaeist 哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。

お気に入りに登録 返信 削除

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neomanichaeist resurrection
@
直観性は両者一致する。直観を概念化するのか、形象化するのか。 @neomanichaeist 哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。だから、両者の共通点はある。ただし、芸術は感覚・魂・想像力をベースにする。哲学は概念を。@Michael_Ende_jp
9分前 お気に入りに登録 返信 削除

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neomanichaeist resurrection
@
哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。だから、両者の共通点はある。ただし、芸術は感覚・魂・想像力をベースにする。哲学は概念を。 @Michael_Ende_jp 芸術の形式は、認識とは違うものです。哲学者は芸術家ではない。たとえ創造的な哲学者だとしても。




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Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

(シュタイナーなどは、芸術家ということになりますね?という問いに対して)いいえ、芸術の形式は、認識とは違うものです。哲学者は芸術家ではない。たとえ創造的な哲学者だとしても。 『芸術と政治をめぐる対話』
43分前 お気に入りに登録 リツイート 返信

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Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

シュタイナーの著作を読むときには、決して彼を現代の大学教 授のように思って読んではならない。そんなことをしたら、シュタイナーのことを絶対に理解できませんからね。彼自身、再三それを警告しています。しかし現 実には、やっぱり彼の願ったのとは反対のことが行われている。 『エンデと語る』
1時間前 お気に入りに登録 リツイート 返信

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Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

認識の所作とは反対の所作が、芸術の所作ということになりま す。芸術家は認識するものではありません。芸術はいまここで、もっとも広い意味において、むしろエロス的な原理と関係しているのです。エロス的原理は認識 の原理ではない。受肉と現実化の原理なのです。 『闇の考古学』



自然数の差異(質)と同一性(量)
テーマ:mathematics

一見、自然数はみな量的に見える。しかし、実際、数を数える場合、それは、差異である個体(個)を数えるのである。差異1を1,差異2を2,・・・差異nをnと数えるのである。
 しかし、自然数は当然、量的でもある。2=1+1
である。つまり、自然数概念は差異と同一性を併存・共立、同時生起させていることになる。
 思うに、自然数はmedia pointで形成されるのである。そこでは、凸iの同一性と凹iの差異が共振しているのであるから。
 ところで、吉田武氏の『オイラーの贈物ー人類の至宝e^iπ=−1を学ぶー』は実に名著であろう。文章が生きているのである。文理融合である。

オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ/吉田 武

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5つ星のうち 5.0 『我々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』とまで言われているものを文系だから知らなくいいとは到底思えない。今日までゆっくり取り組んでみた, 2011/11/27
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voodootalk - レビューをすべて見る
(VINE メンバー) (トップ10レビュアー)
レビュー対象商品: オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ (単行本)
新装版としては、2010年1月23日リリース。この本を手に取ったきっかけは、2011年7月27日放送の『クローズアップ現代 「大人がハマる"数学 ブーム"の謎」』で、数学を学び直すことがブームになっているという話題が非常に印象に残ったことだった。中学・高校で学んだ三角関数やら素数やらを再度 自身で鉛筆を持ちながら解き直す。この鉛筆を持ちながらの所を再度試みてみたくなった。

その中で取り上げられたのが『オイラーの贈物』 だ。レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707年4月15日 - 1783年9月18日)は数学者・物理学者であり、天文学者(天体物理学者)である。この人は視力障害があったらしく、フリードリヒ2世に『数学のサイク ロプス(単眼の巨人)』と讃えられた18世紀の歴史上最も多産な数学者と言われている人物である。この『オイラーの等式』に自力で挑戦する本である。

こ の『オイラーの等式』は、物理学者のリチャード・ファインマンにより『我々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』と呼ばれている。 数学は高校二年生でストップしているので、ウン十年ぶりに数学をやるわけだ。この本を買って時間を費やすかを自問したところ、どうしてもやりたい。やりた くて仕方が無いと思っている自分に気がついた。

自分が理系だから法律・経済に疎くとていいというのはありえない間違いであるように、『我 々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』とまで言われているものを文系だから知らなくいいとは到底思えない。挫折する気は毛頭な く、ゆっくりゆっくり並列読書法で読み解いて、この18世紀の偉大な数学者の思考に近づきたいと思い、今日までゆっくり取り組んでみた。

そして感じたこと。昔々の数学の知識が少しずつ蘇ってくる。積分とは不定形な面の面積を探すことだったか。

微分係数を求める=導関数に数値を代入
定積分を求める=不定積分に数値を代入・・・・・結果は数値

関数を微分する=導関数を求める
関数を積分する=原始関数を求める・・・・互いに逆演算、結果は関数

最も面白かったのは、フィボナッチ数列はパスカルの三角形と重なる、ということだった。

そ して日々考えている世界のマネーの動きにこの数式を当てはめてみた。頭の中にS lowの連続する棒グラフとS upの連続する棒グラフがy=xとして連なる。そして棒グラフの各々のピッチは極限を目指して狭まり、世界中を蠢くマネーの分母のように瞬く。その正しい 数値を導くべく推論すること、すなわちマネーを積分しているのだな、と気がつく。

数学だけでなく、様々なことを感じさせてくれる素晴らしい一冊だと思う。



2011年11月06日(Sun)▲ページの先頭へ
悪の心性メカニズムについて
(人間認識図の画像は以下を見られたい。
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


人間認識図(参照:以下の図)では悪は第四象限に位置するが、悪の本質をシュタイナーの悪魔論を参考にして考察してみたい。
 今は予見だけだが、一言言うと、悪は当然エゴイズムであるから、他者の認識がネガティブなのである。他者否定の自我意識がある。
 PS理論ではmedia pointの喪失である。他者との均衡の喪失である。
 結局、凹i(-i)が他者であるが、それが他者ではなく、連続的同一性化されていることに問題があるだろう。つまり、自我凸i(+i)と他者凹i(-i)が精神的フィルターによって、連続同一性化されているのである。つまり、他者が自我化しているのである。
 そのため、他者に属すものを自我が横取りするのである。それが悪である。
 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺がこの連続同一性化、連続同一性自我を意味する。
 凸(+1)は他者凹i(-i)を否定的に巻き込んでいるのである。他者を肯定するならば、それは、第三象限へ帰属するだろう。しかし、他者否定は連続同一性自我凸(+1)を意味するので、凹i(-i)が凸(+1)と融合させられた状態にあるだろう。だから、第四象限に位置するということではないだろうか。
 他者凹i のi回転が第四象限を影のように生むのではないだろうか。他者凹iの-i回転ならば、第三象限を生むことになるのではないだろうか。
 後で丁寧に検討したい。

追記:media pointの基本様態である差異共振と連続同一性は全く異なる。後者は前者を否定するのである。すなわち、自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺を意味し、凸i*凹i⇒を否定するのである。
 先ず、差異共振を見ると、それは凸iと凹iの拮抗、均衡である調和である。それは、母源凹(−1)からの創造エネルギーを受容するのではないだろうか。すなわち、凹⇒凸i*凹iである。ここには、氣が発生していると考えられる。
 しかるに、連続同一性の場合、それが否定される。差異共振ではなく、差異の同一性化である。
 思うに、同一性化とは、ガウス平面における右半円化ではないだろうか。極性が閉じられて、凸(+1)へと収束するのである。
 とは言え、その閉じられた自我、同一性自己は深部にmedia pointを秘めているだろう。media pointの「光の種子」を潜在させているのである。(これがマニ教の教義の根本にあるだろう。)
 しかし、連続同一性自己(自我)にとって、それは排除の対象である。
 とまれ、連続同一性自己は右半円領域を占めると考えられる。しかしながら、道義のある人間はmedia pointの差異共振性をもっているので、左半円領域をなんらか意識していると言えよう。
 唯物論が問題なのは、media pointを否定し、まったく左半円を否定してしまうことである。左派・左翼の問題はここにある。邪悪、悪魔的だ。近代合理主義もほぼ同様と言えよう。
 古典派経済では、まだ、道徳の余地があった。つまり、media pointが生きていたが、新自由主義となると、完全に道徳の領域が消えて、右半円中心となるのである。否、他者否定のために、第四象限的になると言うべきだろう。唯物論も同様だ。
 最後にもう一度、連続同一性の構造について考察しよう。
 同一性化とは、以前提起したが、凸i(i)が凹i(-i)に対して優位な場合の生じるのではないだろうか。つまり、凸i(i)傾斜があるということである。それが、他者凹i(-i)の差異を肯定できずに、同一性を押しつけて、所有化すると考えられる。この同一性の押しつけが、連続同一性であり、それが凸 (+1)に重なっているのではないだろうか。
 それに対して、凹i(-i)の傾斜が考えられるが、それは、差異をベースにする包摂を意味すると思われる。つまり、それは、凸i(+1) を包摂すると思われる。だからここでは、連続同一性化はなく、差異共振化が生じるのである。つまり、media pointの様態が生起することになる。
 ここから見ると、陰陽という命名は意義深い。陰が陽より先に来るのである。それに対して、欧米では陽が陰より先に来るのであり、そのため、連続同一性が形成されるのである。
 そして、それが結局、第四象限へと帰結するのである。つまり、欧米文明は邪悪、魔道であるということである。
 陰陽的東洋文明こそ、道徳的であり、正道である。
今はここで留める。

追記2:欧米の欧は西欧と見ないといけない。また、米であるが、それは、金融資本に買収された米国家である。


ガウス平面で表した人間認識の図
ガウス平面で表した人間認識の図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


2011年10月30日(Sun)▲ページの先頭へ
自我意識から自己認識へ:自我鏡面を打ち破り、内的他者へ:PS理論の自己認識方程式
以下、粗削りであるが、自我意識から脱却して自己認識に至る方法を説いた。PS理論のABCである。

resurrection
neomanichaeist resurrection

これを概念的というより、直観的に洞察するとき、言い換えると各人の内的経験・体験に即して感得するとき、世界が変わる。(完) @neomanichaeist PS理論はこれを自己認識方程式として定式化。i*(−i)⇒+1、又は凸i*凹i⇒凸である。正負の虚数の積が実数の+1となる。

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resurrection
neomanichaeist resurrection
@
PS理論はこれを自己認識方程式として定式化。i*(−i)⇒+1、又は凸i*凹i⇒凸である。正負の虚数の積が実数の+1となる @neomanichaeist 自我と内的他者との陰陽的対極・両極・双極性が確認できるのである。それがプラトニック・シナジー理論(PS理論)の根本原理の一つ
11分前 お気に入りに登録 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection
@
PS理論ではこの不連続化が決定的ポイントである。その後、自我と内的他者との陰陽的対極・両極・双極性が確認できるのである。それがプラトニック・シナジー理論(PS理論)の根本原理の一つ。 @neomanichaeist 内的他者に到達する為には、自我と内的他者を不連続化する必要。
14分前 お気に入りに登録 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection
@
コギト・エルゴ・スムは典型。内的他者を否定した自我存在論理だ。内的他者に到達する為には、自我と内的他者を不連続化する必要。 @neomanichaeist 近代主義は内的他者を否定して、自我同一性の論理、又は物質の論理だけを見ているのであり、利己主義となり、万人の万人に対する戦争
17分前 お気に入りに登録 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection
@
近代主義は内的他者を否定して、自我同一性の論理、又は物質の論理だけを見ているのであり、利己主義となり、万人の万人に対する戦争 @neomanichaeist 内的他者は実は超越的絶対的他者である。それは自我の論理では理解されない。自我は恐怖で逃避したくなるだろうがそこに至福がある
21分前 お気に入りに登録 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection
@
内的他者は実は超越的絶対的他者である。それは自我の論理では理解されない。自我は恐怖で逃避したくなるだろうがそこに至福がある @neomanichaeist 内的鏡面を破壊して、その内奥にある内的他者との対話から自己認識が始まるのである。内的他者こそ、真の自己の原基であり、個である
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neomanichaeist resurrection
@
自己認識に達するには、この内的鏡像を突き破る必要がある。内的鏡面を破壊して、その内奥にある内的他者との対話から自己認識が始まるのである。内的他者こそ、真の自己の原基であり、個である @neomanichaeist 自我は自己自身を否定する内的鏡像をもち、それを外的他者へ投影する
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neomanichaeist resurrection
@
自我は自己自身を否定する内的鏡像をもち、それを外的他者へ投影する。内的鏡像は自己否定像であり、その外的他者への投影が他者への攻撃性、敵対性、憎悪となる @neomanichaeist 自我同一性を内的他者に押しつけて、そこに鏡像、自我鏡像を作る。それは、否定的な自我像である
30分前 お気に入りに登録 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection
@
自我同一性を内的他者に押しつけて、そこに鏡像、自我鏡像を作る。それは、否定的な自我像である。その否定が外的他者へ投影されるのだ。否定性は先ず自我による自己自身の否定 @neomanichaeist 補足すると自我が自我を内的他者に押しつけて鏡像を作るのでありそれを外的他者に投影
32分前 お気に入りに登録 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection
@
補足すると自我が自我を内的他者に押しつけて鏡像を作るのでありそれを外的他者に投影 @neomanichaeist 日本人の自我の問題は、単純に解明できる。自我/内的他者が自己であるが、内的他者を認識することはせず、自我が内的他者に投影して、それを外的他者に映しているのである。
36分前 お気に入りに登録 返信 削除
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resurrection
neomanichaeist resurrection

日本人の自我の問題は、単純に解明できる。自我/内的他者が自己であるが、内的他者を認識することはせず、自我が内的他者に投影して、それを外的他者に映しているのである。内的他者(差異)を自我化して、それを外的他者に投影して、外的他者も自我化=同一性化するのである。自我同一性反射全体主義


2011年10月25日(Tue)▲ページの先頭へ
氣と電磁波:即非氣(即非子)と物質:放射能と光合成細菌
テーマ:manichaeism

本問題は何度も既述したが、まだ不明な点があるので、考察を行ないたい。
 何故、不明かというと、両者は同一ではないかという視点がかなり起るからである。確かに、精神と電磁波を一致させると実に明快明晰になるのであるが、私は留保して両者を区別する路線をとっているのである。
 先にはMP1(IMP)に氣を、MP2(RMP) に電磁気を置いた。
 今思いついたのは即非子ないし即非氣である。即非子は以前使用した言葉である。しかし、今の直観イメージでは、精神(氣)と電磁気の即非体としての即非子(即非氣)である。当然ながら、精神(氣)と電磁気は不連続であるが、しかし、一である。すなわち、精神(氣)=電磁気であるが、且つ精神(氣)≠電磁気である。これは、
精神(氣)⇒電磁気とも表記できよう。
 この即非氣(即非子)の体(身体)の概念を使用すると、これまで曖昧さが明確になるだろう。
 氣を観測すると、電磁波は検出されるというのはこの図式を証明しているだろう。そして、自然、宇宙、人間はこの即非氣で構成されていると考えられる。
 では、問題はこの即非氣と物質の関係である。しかしながら、これはほとんど考える余地はない。PS理論は明快に凸(+1)として物質を規定しているからである。
 つまり、即非氣は凸i*凹i⇒であり、物質は凸(+1)である。これは実に明確明晰であり、疑問の余地はない。
 では、量子力学をどう見るべきか。
 既述したように量子力学は物質主義のフレームがまだついているのが問題点と考えられるのだ。つまり、PS理論で言えば、即非氣と物質を一体化させているのが、量子力学である。それは誤謬と言えよう。
 即非氣と物質を絶対的に分離すれば、量子力学は精神的物理学として生まれ変わるだろう。
 これでこれまでの私の論考が証明されたと言えよう。
 では、放射能問題を考えると、放射能は即非氣における電磁気極(MP2, RMP)の事象と言えよう。では、放射能は氣があるのだろうか?
 思うに、何らかの氣があるが、即非氣の電磁気極の事象の力学に集中しているのであり、即非氣全体は変化していないように思われるのである。
 そう、飯山一郎氏、他が言われるように、光合成細菌が放射性物質を消化するというが、この場合、光合成細菌は放射能と関係する即非氣をもっていると推測されるのである。
 初めに、即非氣ありきである。

参照:

『光合成細菌』で放射能浄化!
http://grnba.secret.jp/iiyama/hikari.html
飯山一郎のHP

EM技術による放射能被曝対策
http://dndi.jp/19-higa/higa_40.php
名桜大学教授
国際EM技術研究所所長
琉球大学名誉教授
比嘉照夫
(ひが てるお)


2011年10月24日(Mon)▲ページの先頭へ
「光」と「身体」
テーマ:manichaeism

D. H. ロレンスは『トマス・ハーディ研究』Study of Thomas Hardyで次のように述べている。

Since the Renaissance there has been the striving for the Light, and the escape from the Flesh, from the Body, the Object. p. 82

ロレンスの「光」は第一象限、「身体」は第三象限とすべきではないだろうか。あるいは、「光」は第二象限かもしれないが。
 とまれ、この対立は単なる知性と身体(物質)の対立と取るべきではない。何故なら、ロレンスの身体は凹(-1)に通じているからである。
 おそらく、正確に言えば、凸(+1)が凹(-1)を暗示しているのかもしれない。
 ここでは近代の「光」が「闇」を回避したことを述べていると言えるだろう。だから、凸iが凹iを回避したと言ってもいいのである。
 これは端的に、美術に現われているだろう。正に印象派において。モネ(追記:正確に言うと、モネには「闇」、「身体」が感じられる. ロレンスは「光」の美術の頂点にターナーをおいている.)。
 直観でいえば、モダン・アートは「闇」、「身体」を喪失しているのである。不思議なのは、セザンヌにはその要素がありながら、モダン・アートはそれから離れていったことである。
 「光」に囚われて、「闇」を喪失していったのである。しかしながら、無意識の内で、「闇」の追求はあった。マーク・ロスコの絵画はそのような試みであろう。また、ルネ・マグリットも「闇」を示唆していると言えよう(「光」と「闇」のコントラストの表現と言えよう)。
 シュルレアリスムは未熟なその探索であったと言えよう。彼らは結局、フロイト主義に阻害されたと言えよう。
 今日、絵画において、立体への志向が強いのは、その意味合いがあるのかもしれない。「闇」と「身体」の回復。
 そう、私が魂というものは、そのようなものだと思う。「闇」である魂、「身体」である魂。
 今はここで留める。


『闇と光の拮抗:1:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』
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『闇と光の拮抗:1:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』 amba.to/pWKkM2 『闇と光の拮抗:2:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』 amba.to/pUE1TY 一連の投稿を二つに分けまとめました。御高覧いただければ幸いです
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『闇と光の拮抗:2:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』 amba.to/pUE1TY 先の一連の投稿を二つにわけてまとめました。御高覧いただければ幸いです。
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『闇と光の拮抗:1:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』 amba.to/pWKkM2 先の一連の投稿を二つにわけてまとめました。御高覧いただければ幸いです。
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ガウス平面で虚軸と実軸の直交する原点がmedia pointとなる。特異点。その虚軸が霊魂であり、実軸が自我である。今は以上で留める。 @neomanichaeist PS理論では凸i*凹i⇒凸(+1)を自己認識方程式と呼ぶ。シンプルに言えば、i*(−i)⇒+1である。*は積。
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PS理論では凸i*凹i⇒凸(+1)を自己認識方程式と呼ぶ。シンプルに言えば、i*(−i)⇒+1である。*は積。 @neomanichaeist ここでこの理論(PS理論)ははっきりと超越哲学の姿をとる。そして、霊、霊魂の問題を明確にする。それはガウス平面の虚軸の原点に存する。
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ここでこの理論(PS理論)ははっきりと超越哲学の姿をとる。そして、霊、霊魂の問題を明確にする。それはガウス平面の虚軸の原点に存する。 @neomanichaeist 所謂ポスト・モダンではデリダがこの真理に一番近づいた。しかし、彼はハイデガーに影響されて、超越性を否定した。
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所謂ポスト・モダンではデリダがこの真理に一番近づいた。しかし、彼はハイデガーに影響されて、超越性を否定した。 @neomanichaeist 闇と光の拮抗動態は常時変化するので、同一性の真理がない。永遠の差異の真理しかない。近代乃至西洋の問題は揺らぎを固定化しようとしたこと
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闇と光の拮抗動態は常時変化するので、同一性の真理がない。永遠の差異の真理しかない。近代乃至西洋の問題は揺らぎを固定化しようとしたこと @neomanichaeist 結論が出たので、ユング心理学の欠点を言うと、個性化は闇と光を統一させるということが誤謬である。闇と光は拮抗する。
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結論が出たので、ユング心理学の欠点を言うと、個性化は闇と光を統一させるということが誤謬である。闇と光は拮抗する。 @neomanichaeist 闇と光の拮抗、これこそ真正な陰陽性だろう。この超越的存在の不可視エネルギーを受容した闇の個=他者と光の自我との拮抗こそ、真の内的現実
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闇と光の拮抗、これこそ真正な陰陽性だろう。この超越的存在の不可視エネルギーを受容した闇の個=他者と光の自我との拮抗こそ、真の内的現実 @neomanichaeist 本題に戻り、まとめると、不可視エネルギーは闇で受容し個=他者・絶対的他者を形成する必要がある。闇は光と拮抗する。
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本題に戻り、まとめると、不可視エネルギーは闇で受容し個=他者・絶対的他者を形成する必要がある。闇は光と拮抗する。 @neomanichaeist 個即他者・絶対的他者が新社会、新共同体の原点にならなくはならない。真正な民主主義の原点もここになくてはならない。個即他者の民主主義。
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個即他者・絶対的他者が新社会、新共同体の原点にならなくはならない。真正な民主主義の原点もここになくてはならない。個即他者の民主主義。 @neomanichaeist ここに実に不思議な事象が生起する。不可視エネルギーを受容した陰闇は個となるが、実は個は他者、絶対的他者である
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ここに実に不思議な事象が生起する。不可視エネルギーを受容した陰闇は個となるが、実は個は他者、絶対的他者である @neomanichaeist 正確に言うと、不可視エネルギーは光と闇の陰陽精神で受容すべきだろうが、基本は闇、陰(陰闇)である。陰闇で受容したとき、それは個を形成する
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正確に言うと、不可視エネルギーは光と闇の陰陽精神で受容すべきだろうが、基本は闇、陰(陰闇)である。陰闇で受容したとき、それは個を形成する。 @neomanichaeist 不可視エネルギーを闇の側面で受容することが、本来的だろう。光で受容すると自我的、権力的になる。宗教の権力化
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不可視エネルギーを闇の側面で受容することが、本来的だろう。光で受容すると自我的、権力的になる。宗教の権力化 @neomanichaeist 不可視のエネルギー(dark energy?)を光の側面で認識することは自我的であり、精神的ではない。それを闇の側面で受容することの必要
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不可視のエネルギー(dark energy?)を光の側面で認識することは自我的であり、精神的ではない。それを闇の側面で受容する @neomanichaeist 宗教の説く「光」とは超越的存在から発するエネルギーだろう。が、本来不可視では?それを闇でなく光で認識する問題がある
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宗教の説く「光」とは超越的存在から発するエネルギーだろう。が、本来不可視では?それを闇でなく光で認識する問題がある @neomanichaeist 五感を光とすると、精神・霊は闇では?光の感覚に闇の感性が浸透するので、それを直観する必要。闇の感性に霊性が存する。.光を超える闇
10月23日 お気に入りに登録 返信 削除
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五感を光とすると、精神・霊は闇では?光の感覚に闇の感性が浸透するので、それを直観する必要。闇の感性に霊性が存する。この闇から放射能汚染に対処できる。光を超える闇 @neomanichaeist 放射能汚染時代は哲学時代。但し感覚には精神、霊と通じている領域がある。芸術は本来そこ
10月23日 お気に入りに登録 返信 削除
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放射能汚染時代は哲学時代。但し感覚には精神、霊と通じている領域がある。芸術は本来そこ @kentarotakahash @thou77angis @seinaonana 五感で感じとれることの中には、放射能は存在しない。非情なロシアンルーレットは知性を働かさないと感知できない。


2011年10月04日(Tue)▲ページの先頭へ
気と電磁波:ニュートリノと光:差異共振を包摂する即非気的根源身体?
余裕がないのでざっと書く。先にも述べたが、D.H.ロレンスのFleshの概念をどう考えるかである。私は凹(-1)に関わっていると推測した。(今、ふと閃いたが、ニュートリノは凹(-1)と関係しているのではないだろうか。)

思うに、ひょっとして、「気」は凹(-1)が根源ではないだろうか。これは、私は凸i*凹iを電磁波ではなく、超電磁波のように考えてきた。つまり、気として考えた。

今の直観では、凹(-1)は凸i*凹iを包摂しているということである。後者は即非的であるが、即非的様態と凹(-1)が一如ではないだろうか。言い換えると、凹(-1)は虚軸に顕現していて、それが、凸i*凹iを包摂しているのではないだろうか。凸i*凹iの即非はほぼそれと一致するのではないだろうか。

もしそうならば、即非様態、ないし凹様態が「気」である。これは、根源様態であり、電磁波を包むものであり、電磁波の視点、物質科学の視点からは認識できないものである。

思うに、光を凸i*凹⇒とするならば、ニュートリノは凹(+1)⇒凸i*凹iではないだろうか。つまり、凸i*凹iを包摂した「気」の粒子ということではないだろうか。

今はここで留める。ロレンスのFleshについては後で検討したいが、やはり、「気」やニュートリノと関係しているのかもしれない。


2011年09月19日(Mon)▲ページの先頭へ
D. H. ロレンスの「王冠」論はPS理論に酷似
D. H. ロレンスの「王冠」論はPS理論に酷似

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

先に、Foreword to Sons and Loversの特異な三位一体論について言及したが、それよりも、The Crownの評論の方が、PS理論に近い。light とdarknessの衝突、そして、合流として、The Crown or The Holy Ghostが両者に超越的に生成するのである。
 問題はPS理論ではThe Crownは何になるかである。それは、media pointではないだろうか。media point は凸iと凹iの極であると同時に、極を超えているだろう。
 これは、極性、即非の問題である。端的に、即非がThe Crownだろう。先に第3のものが生じると言ったが、それも関係するが、一致はしないのではないだろうか。
 これは、凸i/凹i⇒凹ということなのか。media pointの方程式が必要なのではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:「王冠」はMP1、つまり、虚軸上のmedia pointではないだろうか。ならば、凸i/凹iはMP1にあるということになろう。
 しかし、凸i/凹i=凹i/凸i⇒凹(-1)と表記する方が的確である。「王冠」とはロレンスは光と闇の対立を超越した絶対、永遠であると述べているのである。

追記2:「王冠」論から見ると、「天」の方向は光の方向だから、凸iの上昇方向であり、「地」の方向は闇の方向で凹iの下降方向となるので、先に指摘した「天」の方向は⇒凸(+1)で、「地」の方向は←凸というのは考え直さないといけない。
 とまれ、「王冠」論のようにすると、重力は当然、闇の方向であるが、では、反重力はどうなるのか。今のままでは、光と重なってしまい、不整合である。
 直観で言うと地・闇凹iから天・光凸iへと、コスモスの光とでもいうものが発せられるのである。もしそれがあるならば、コスモスの光が反重力になる可能性はある。
 それは、方向的に確かに、重力とは正反対であり、光の方向と同じである。しかしながら、それは、いわば、不可視の光である。いわば、dark rayである。そうならば、確かに、反重力としての力の可能性、そして、dark energyの可能性はある。
 とは言え、もしそうならば、逆に、反光があるはずである。しかしながら、宇宙においては、反重力、dark energyの方がはるかに強力であるということになる。
 とまれ、そうすると、ロレンスのdark sunは凹iの上昇するコスモスの光ということになるだろう。
 また、直観では、コスモスの光、不可視の光は超越性と結びついているのである。そう、コスモスは以前、第三象限であると言ったが、それを考えても、コスモスの光、不可視の光は第三象限から発しているということになる。
 思うに、簡単に考えると、第三象限と凹iは隣接しているのであるから、両者が一如的であるのは当然かもしれない。
 後で整理したい。
 


D. H. ロレンスのカウンター三位一体論とPS理論

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

ロレンスはSons and loversの序言で、ヨハネの福音書の冒頭の言葉を転倒させた。言葉Wordが身体Fleshになったのではなく、身体が言葉になったと変更(いわば、換骨奪胎)した。そして、身体が「父」であり、言葉が「子」(キリスト)である。また、「父」は「母」でもあると言っているのである。
 そして、身体Fleshはa formless primal unindividuated source of being or lifeということである。言葉はそれから生まれた独一的な個である。
 閃いたのは、身体=「父」は凹(-1)であり、言葉=「子」は陰陽ではないかということである。しかし、今、それは、光凸i(+i)と見た方がいいのではないかと思う。
 ロレンスの発想から言うと、身体=「父」は未分化的根源で、それは、凹(-1)に関係するだろう。そして、言葉=「子」は分節する凸i(+i)にふさわしいだろう。
 そして、大局的に見ると、「父」(=「母」)と「子」の関係は、第三象限と第一象限の関係になるように思われる。
 ロレンスがdark Godやdark sunと呼んだものは、やはり、第三象限に属すると言えよう。そして、彼が批判したキリスト教や近代世界とは第一象限を指していると言えよう。
 ここで宇宙力学の問題に触れると、dark matterやdark energyはやはり第三象限に帰属し、可視の世界、光が照らす物質の世界は第一象限に帰属すると考えられる。
 今はここで留める。

参考:Foreword to Sons and Loversの冒頭を引用:

John, the beloved disciple, says, 'The Word was made Flesh.' But why should he turn things round? The women simply go on bearing talkative sons, as an answer. 'The Flesh was made Word.'
 途中。



Sons and Lovers: Cambridge Lawrence Edition (Classic, 20th-Century, Penguin): Lawrence, D. H.

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Sons and Lovers: Cambridge Lawrence Edition (Classic, 20th-Century, Penguin)
(ISBN: 0140188320 / 0-14-018832-0 )
Lawrence, D. H.

* Bookseller: C-books.co.uk (Lowestoft, Suffolk, ., United Kingdom)

http://www.abebooks.com/Sons-Lovers-Cambridge-Lawrence-Edition-Classic/5531561926/bd


2011年08月12日(Fri)▲ページの先頭へ
私達が良く見ている球の形をした物は、全てではないとしても、多くが四次元球なのです。
テーマ:manichaeism

生成門氏の同心球対はきわめて興味深い考え方である。
 私は先に、メディア平面の時間的発動(発現)が三次元空間であると述べた。それを使えば、同心球対はmedia pointの両面である。つまり、中心と外面である。あるいは、ベクトル・モードのもつ内面と外面ではないだろうか。
 とまれ、そうならば、基本単位は点でいいのである。
 又、四次元時空間であるが、それは三次元時空間で済むのではないだろうか。

脳は同心球面対か? (0)

一部転載:

deepmodel

・・・

球という形状は最も対称性が高く、自然界で基本となる形状です。私達が良く見ている球の形をした物は、全てではないとしても、多くが四次元球なのです。

例えば、自然界では、地球の地殻と地核、果物の表皮と核、細胞膜と核などのように外周面と中心核を持つ構造が見られます。

物質の基本である原子においても、上で述べたように中心に核をもっていますし、地球ガイアは、地球という表面と大気圏という球面があって、二つの同心球対の構造になっているのです。

同心球対の最大の特徴は、二つの球の間には見えないエネルギー共振回路があるということです。

http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc

シムダンス「四次元能」


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