GP陰陽原理:哲学主数学従の陰陽哲科学

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2007年03月22日(Thu)▲ページの先頭へ
ドゥルーズによるフッサール哲学批判の問題点:実数軸空間のメディア・ポイントと疑似特異性
『意味の論理学』(上巻)の「第14セリー 二重の原因性」の「フッサールの理論」の節を全文引用したいが、余裕がないので、ドゥルーズのフッサール哲学批判の要諦の箇所を、とりあえず、引用しておきたい。

《フッサールは発生のことを考えてはいるが、必然的に「パラドックス的」で厳密に言えば「同定可能ではない」(自己同一性も自己自身の起源もない)審級から出発するのではなく、反対に、任意のすべての対象の同一性を説明する任務を負わされた常識[=共通感覚器官]なる根源的能力と、任意の対象の限りない同定の過程を説明する任務を負わされた良識[=良き方向]の能力から出発するのは明らかである。このことは、フッサールのドクサ(doxa)の理論からわかる。そこでは、信憑のさまざまな様式が、ウアドクサ(Urdoxa)[=根元ドクサ]に応じて産出される。ウアドクサは、特殊な能力に対して共通感覚の能力として作用するわけである。 
     ・・・・・
・・・少なくとも暫定的にドクサの特殊な内容や様態と絶縁しなければ哲学たりえないだろうと感じておきながら、ドクサの本質的なものを、言いかえるなら、ドクサの形態を保存して、「根源的」と称される思考のイマージュの中での経験的でしかない行使を、超越論的なものにまで迫り上げて自己満足するような哲学が哲学であろうか。 
     ・・・・・
超越論的主観の位置の中に、表出の次元すべても持ち込まれるのである。この超越論的主観は、人格の形態、人格的意識の形態、主観の同一性の形態を守り、超越論的なものを経験的なものの特徴から転写して自己満足する。カントが心理的総合から直接的に三つの超越論的総合へと推論するときに歴然としていたことは、フッサールが知覚的「視」から出発して根源的で超越論的な「見る」を推論するときにも依然として歴然となる。》pp. 178〜179 (尚、本書の傍点を下線に変えてある。)

この箇所に、ドゥルーズによるフッサール哲学批判の根本があると言える。

先にも触れたように、PS理論では、超越性⇒現象性の志向性を説くのである。これは、超越性⇒メディア・ポイント⇒現象性(T⇒MP⇒P)と言い換えることもできるだろう。

フッサール現象学は、ノエシス⇒ノエマ→対象と書くことができるだろう。⇒は志向性である。→はメディア・ポイントから現象性への転化である。

PS理論に当てはめれば、ノエシス⇒ノエマの⇒がメディア・ポイントになっていると言えよう。だから、正しく書き換えると、

(ノエシス*ノエマ)⇒対象  (*は、メディア・ポイント)

となるだろう。そして、対象は+1の同一性である。

だから、さらに書き換えると、

(ノエシス*ノエマ)⇒同一性(=+1)・・・(1)

である。

【問題点として、*と⇒の関係があるだろう。端的に、*がメディア・ポイントであり、⇒は、メディア・ポイントから現象化へのエネルゲイアであると言えよう。メディア・ポイントには、デュナミスがあるのだろう。そして、現象性はエンテレケイアである。

余談ながら、アリストテレス哲学の地上性を批判するのではあるが、いわば、トランス・モダン・プラトン哲学(PS理論)において、アリストテレス哲学の主要な概念が使用できるというのは、アリストテレスが、無意識的に、プラトン哲学を補足していたと言えるのではないだろうか。即ち、プラトン哲学が本来もっているエネルギー論をアリストテレスが展開したと言えるのではないだろうか。さらに、因みに言えば、ニーチェはプラトン哲学を批判したが、しかし、ニーチェの動的な理論は、やはり、イデア論的動態性を引き継いでいると言えよう。また、さらに言えば、東方キリスト教神学の「神のエネルゲイア」論も、プラトン/アリストテレス哲学をキリスト教に適用したものと言えよう。そう、ここには、キリスト教の問題がはしなくも現れている。いったいキリスト教とは、イデア論の信仰化ではないのか。】

以上の(1)の図式から、ドゥルーズによるフッサール哲学批判を見ると、ドゥルーズは、フッサールが現象の同一性を超越論性に持ち込んだとして、糾弾しているのである。

しかし、(1)の図式から、そうではないのは、一目瞭然である。即ち、フッサールは決して、同一性を超越論性(超越性)に持ち込んではいないのである。

⇒には、不連続的な切断があるのである。メディア・ポイントにおける超越性と現象性(同一性)との切断があるのである。これを、ドゥルーズは完全に看過・無視して、⇒の左辺と右辺と等価に見て、フッサール現象学を独断・専断的に裁断しているのである。

これは、先にも述べたが、ドゥルーズの根本的な勘違い・錯誤・誤謬である。

問題は、何故、ドゥルーズが両辺を等価にしてしまったのかである。

それは、端的に、ドゥルーズがフッサール現象学のエポケー理論、現象学的還元理論の不連続的切断性を理解できなかったからではないだろうか。現象性からの切断としての超越論性(超越性)をフッサールは説いたのであるが、その切断をドゥルーズは理解できなかったと考えられるのである。

その不連続的な切断が理解できなかったので、ドゥルーズは、両辺を等価にしてしまったと考えられよう。

そして、フッサール哲学の歪曲・捩じ曲げ・誤解による、錯誤的批判が生じたと言えよう。

そう、不連続的切断が理解できなかったというのが、致命的である。(実は、ハイデガーもこれを理解できなく、やはり捩じ曲げてしまったのだ。)

この無理解の根因は、ドゥルーズが同一性や形而上学性を否定したかったからではないだろうか。

確かに、同一性は近代において、連続的同一性となり、近代科学・技術と資本主義と結合して、たいへんな暴力となっていた。ドゥルーズは(、おそらく、デリダもそうであろうが、)、連続的同一性の否定を目指していたと言えよう。そのため、差異を提起したのである。そして、それが、ドゥルーズの超越論的差異=超越論的特異性である。しかし、それは、非人称且つ前-個体的な特異性である。

しかしながら、不連続性を理解できないということは、当然、連続性の思考空間にあることである。だから、連続性空間内において、ドゥルーズは差異=超越論性=非人称且つ前-個体的な特異性を提出したと考えられるだろう。

これが、端的に、差異=微分=特異性というドゥルーズ哲学の核心の一つになったと考えられる。

連続空間内で、同一性を否定して、差異を提起するなら、確かに、同一性に結びつく人称性や個体性を否定せざるを得ないだろう。

しかしながら、ここで、自己矛盾が生じているのである。即ち、とっくに既述済みだが、連続的差異=特異性という矛盾が発生することである。

連続空間内だから、差異は連続的なのであり、それは、当然、ドゥルーズが否定するのを目指した連続的同一性となるのである。しかしながら、他方、連続的同一性を否定すべく特異性を提起しているのである。完全な自己撞着に陥っているのである。

これは何を意味するのだろうか。思うに、ドゥルーズが捉えていた「差異」とは、PS理論から見ると、実数軸上のメディア・ポイントに過ぎず、不連続性を意味する虚数軸の次元、超越性を否定したものである。

問題は、同一性の否定の意味である。ここに、最高度に問題の核心があると思う。

デリダの脱構築哲学も、徹底した同一性批判の哲学である。

ここでは何が問題なのか。

上述したが、同一性が近代科学・技術と資本主義の哲学的基礎となっている。この近代主義を否定したい欲求があるのである。

しかしながら、この近代主義の否定の欲求であるが、同一性への反動性があると言えよう。即ち、連続的同一性への反動としての「差異」への志向なのである。

この点が重要点である。即ち、i*-(-i)⇒-1という連続的同一性となった近代合理主義、近代的自我への反動という点である。-iを差異と見るならば、-iのiに対する反動がここにはあると思うのである。即ち、-(i)*(-i)⇒-1である。

*の前の-(i)、これが、ドゥルーズのいう非人称且つ前-個体的な特異性ということではないか。

確かに、iをノエシス、原主体、原知性とするなら、その否定とは、非人称的であり、また、-(i)*(-i)全体では、前-個体的となるだろう。

この反動は何を意味しているのだろうか。

これは、連続空間内部でのメディア・ポイントを介しての、連続的同一性の弁証法ではないだろうか。近代主義は、iによる連続化で、⇒-1となり、ポスト・モダン(ポスト構造主義)は、反動として、-iによる連続化で⇒-1となったのである。

これは、大澤真幸氏のアイロニカルな没入と同義であると言えよう。

(+1)^2と(-i)^2は両者-1であるが、意味合いが異なるだろう。

前者は、近代的合理主義であるが、後者は、反動的身体主義である。

ドゥルーズは、前者をイデアと見て、後者をシミュラクルと見て肯定している。非合理的な身体性による反動である。

これが、ドゥルーズの説く非人称的且つ前-個体的な超越論性=特異性であろう。

確かに、連続空間上であれ、メディア・ポイントを介しているので、超越論性とは言えるだろう。しかし、正確に言えば、連続的超越論性であり、フッサールの不連続的超越論性ではない。(思うに、明快に区別する為に、前者を超越論性、後者を超越性と呼んでもいいかもしれない。)

しかしながら、連続的超越論性を特異性ないし特異点と呼ぶのは、全くの非合理・不合理である。

なぜなら、特異性や特異点は、本来、連続性を破るものであるからである。ここにドゥルーズの致命的誤謬・錯誤があると言えよう。

そう、この連続的超越論性であるが、これは、ハイデガーにも、デリダにも適用できるだろう。また、ベルクソンやホワイトヘッドやパースにも適用できると考えられる。

では、問題は、何故、超越論性がここで問題になるのだろうか。あるいは、何故、現象学ないし超越論的現象学が問題になるのだろうか。

これは、近代主義の終末の事態と関係するだろう。即ち、PS理論から見ると、メディア・ポイントにおけるエネルゲイアの様相が根因としてあると思うのである。

近代主義は、主体による連続的同一性化によって、メディア・ポイントを閉塞させるようにして、近代的自我を形成した。

当然、塞き止められた、メディア・ポイントのエネルゲイアが発動する事象が生起するのである。これが、超越論性の発現と関係すると言えよう。

このメディア・ポイントにおけるエネルゲイアの新たな発動であるが、これは、虚数軸次元=超越次元と実数軸次元=現象次元の両相に関わるのであるが、近代主義においては、前者の様相を否定しているので、近代主義の枠内では、新たなエネルゲイアの発動は、連続空間内の事象として捉えられることになるのである。

真相としては、虚数軸次元=超越次元のエネルゲイアが発動しているのであるが、それを、近代主義の連続空間においては、エネルギーを連続化してしまうと言えよう。

そう、超越的エネルギーを連続空間に閉じ込めたものが、言い換えれば、ドゥルーズの「差異」=特異性と言えよう。

メディア・ポイントにおける新たに発動したエネルゲイアが、連続的に反動化したものが、ドゥルーズの連続的差異=特異性という異様な、自己撞着した概念なのである。

だから、ドゥルーズのいう「特異性」とは連続空間内のメディア・ポイントの「差異」と言っていいだろう。

思うに、連続空間内のメディア・ポイントとは、半特異性とでも言うべきで、真に特異性とは呼べない。

あるいは、隠蔽された特異点である。デリダの言葉で言えば、特異性の痕跡である。

そう、正しく命名すれば、疑似特異性である。つまり、ドゥルーズの差異の哲学とは、疑似特異性の似非超越論的哲学である。

ポスト・モダン、ポスト構造主義は、疑似特異性を中心にした、近代的同一性への反動としての連続的差異論であったと言えよう。

思えば、ドゥルーズの思想は、神秘主義やオカルティズムと同質である。それは、また、グノーシス主義的な二元論である。ルサンチマンの観念なのである。不幸な哲学である。

長くなったが、最後にひとこと言うと、真の超越論的哲学、超越的哲学は、メディア・ポイントの即非化、不連続化を意味するのである。それは、超越的エネルギー、超越的差異即非共振的エネルギーの十全な解放であり、近代主義の真の乗り越えを意味する。トランス・モダン・コスモスの到来を意味するのである。


近代は天上を喪失した時代であったが、今や、天上が回帰しているのである。
Kaisetsu氏は次のように詩的にPS理論を表現している。

《シンクロと共鳴の違い⇒プロ奴隷はシンクロの病理である。
シンクロと共鳴(ハーモニー)は異なる形態である。
海舌は、シンクロを美しいとは思わない。
共鳴、ハーモニーに、伝統的な美意識を強く印象付けられる。

シンクロこそ、機械文明に毒された精神が持つ退廃的美形式である。》
http://blog.kaisetsu.org/?eid=530197

思うに、PS理論の創造によって、私自身、考え方が大きく変化した。これは、パラダイムの変換をもたらす。正に、トランス・モダンの理論・哲学である。

結局、西欧においては、ルネサンスという天上性と地上性とが融合したエポックを経て、近代という物質主義に偏向した時代が約四・五百年経過した。

近代は天上を喪失した時代であったが、今や、天上が回帰しているのである。

しかし、これは、二元論ではなくて、鈴木大拙の天才的な思想である即非論として天上が回帰しているのである。

西洋は鈴木大拙がいみじくも説いたように、いわば、宿命的に、二元論である。しかし、今や、PS理論が生まれて、現象性を保持しつつも、天上性が回帰しているのである。

これは、なんという救いであろうか。

唯物論の牢獄から脱することができたのである。

八百万の神々が復活したのである。天使たちが復活したのである。

霊性が復活したのである。

コンピュータと霊性が共立するのである。

これは、人類・地球的進化となるだろう。

近代的水平性に対して、トランス・モダンの超越性が加わったのである。

これは、たいへんな知的革命・進化である。

文系と理系が統一したのである。

そう、プラトン哲学の復興である。

そして、神話の復興である。

そして、ポスト一神教である。

ドゥルーズやハイデガーを読む必要はない。

プラトンを読め。

『パイドロス』はすばらしい。

パイドロス (文庫)
プラトン (著), 藤沢 令夫 (翻訳)


経済で言うと、超越的経済が考えれるようになったと言えよう。精神、神仏・天使とともにある経済が考えられるようになったと言えよう。


2007年03月20日(Tue)▲ページの先頭へ
現象界P界とメディア・ポイントMPと超越界T界:超越的差異-水平的同一性-超越的差異
i*(-i)⇒+1

この自己認識方程式は、超越的差異即非・共振とそのエネルゲイア⇒エンテレケイアを記述したものである。

エネルゲイア(虚数エネルギー、超越エネルギー)は、メディア・ポイントMPに発出して、それが、正の実数軸の+1へと現象する。

私が問題にしたいのは、以前書いた、差異・同一性・差異という差異的同一性という現象様相における空間の問題等についてである。

同一性を現象界の個体・個物(以下、個)とすれば、個と個とは、連続的ではなく、不連続である。

すなわち、

現象:差異・同一性・差異・同一性・差異・・・・・・

という現象様相にあって、個と個との間隙には、差異、即ち、不連続性あるいは超越的差異共振性があるからである。

いわゆる、物質的空間は、この同一性に基づいていると言えよう。

自然科学は、この同一性に基づいたものと言えよう。

それは、同一性と同一性の間の差異を無視し、連続的空間を仮説したのである。

あるいは、同一性に内在する(正しくは、超越的に内在する)差異を看過したということである。

この同一性は、カントの時空間の形式(構造)と見ていいだろう。

つまり、この同一性が4次元時空間を基礎付けているということになる。

空間に限定すれば、この同一性が3次元空間を基礎付けているということである。(時間は、E=mc^2における光速度によって表現されているだろう。)

そして、現代物理学、即ち、相対性理論や量子論によって、同一性的物理学が解体したと言えよう。即ち、現代物理学は、現象界における差異を対象にしたと言える。

アインシュタインは光のもつ差異を対象とし、また、量子論は、量子という差異を対象にしたと考えられるのである。

(ここで、理論的に明快にするために、差異とは不連続的差異であり、特異性であり、また、PS理論では、超越的差異即非・共振シナジー性であると説明しておく。)

ポスト・モダンないしポスト構造主義理論の問題は、既述済みであるが、差異を実数軸上だけで扱った点にある。つまり、差異を連続的観念ないし概念として扱ったのである。差異=微分⇒異化=積分の考え方に典型的に現われている。

(そう、現象界の問題がある。果たして、現象界とは、実数軸次元だけなのか。現象界は、メディア・ポイントを介して、超越界に達していると言えよう。だから、表現が難しい。しかし、超越界を現象界と呼ぶことはできないだろう。超越性に基づく事象であるが、やはり、実数軸次元の事象として現象界を規定した方が、説明の便宜もあるが、いいだろう。)

同一性の差異とは、私の考えでは、特異性であるが、それは、PS理論では、メディア・ポイントMPとして、厳密に記述される。

だから、差異はメディア・ポイントとして、垂直的超越性と水平的同一性を共立させている。

そして、Kaisetsu氏が説明したように、相対性理論は、光の特異性、即ち、光のメディア・ポイントの様相を理論化したものと考えられる。光速度不変とは、差異=特異性=メディア・ポイントの超越的普遍性を意味しているだろう。言い換えると、同一性(=物質)は、差異=光速度不変=超越的普遍性によって規定・限定されているということになろう。この公式は、m(ic)*(-ic)⇒mc^2=+1・E となるだろう。

そして、⇒の右辺は、実数軸上の世界、即ち、現象界のエネルギー公式であり、同時に、時空4次元世界を構成するだろう。

しかしながら、光速度不変の普遍性は、メディア・ポイントにおける超越的差異を意味しているのであるから、アインシュタインは、超越界・イデア界を示唆していたと言えよう。

量子論であるが、これも、差異を対象としたのである。同一性=個を細分化して、量子に達したのであるが、それは、結局、同一性に内在する差異へ肉迫化したのである。即ち、差異であるメディア・ポイントを量子力学は、量子として把捉したのである。

メディア・ポイントは、超越性と同一性の即非共立空間であるから、連続性である物質概念では、理解・把握は不可能である。以前次のように述べた。即ち、量子論は、唯物論的視点から、超越的差異事象を把握しようとしているので、その超越的即非事象を、非局所的長距離相関という仮説で理解し、また、粒子と波動との相補性で把捉しているということである。

言い換えると、量子論は、超越的事象を、物質的連続的同一性である粒子という観点で捉えようとするので、超越的差異即非事象を、非局所的長距離相関として認識してしまうということである。

ここでは、無限速度が発現して、光速度不変の原理が破綻することになると考えられるのである。

即ち、超越的事象とは、物質的粒子の事象ではなくて、超越性・イデアの事象であり、ここでは、物質的概念である粒子という概念は適用できないのである。

ただ、超越的差異即非共振事象m(ic)*(-ic)があると見なくてはならないと考えられるのである。

思うに、ここにおいて、相対性理論と量子論が合体するはずである。

それは、PS理論的超量子論ないし超素粒子論とでも言えるのではないだろうか。あるいは、MP的統一理論である。

そう、このPS理論的に、平明に真理を表現するならば、メディア・ポイントは、森羅万象あらゆる時空間に存しているのであり、また、超越界も同様である。

宗教・神話的には、これは、汎神論・多神教となるだろう。前ソクラテス期の哲学者が述べたように、万有は神々に満ちているのである。

八百万の神々とは正しいのである。

スピノザの神即自然もそれなりに正しいだろうが、自然即神でもある。

さて、ここから、一神教を見るとどうなるだろうか。

それは、メディア・ポイントMedia Pointを連続的同一性⇒-1の観点で捉えたものだろう。近代主義の先駆である。

そう、アニミズムという宗教的観念もそれなりに正しいだろう。つまり、現象界においてメディア・ポイントが「霊」・「スピリット」になるのであるから。

シャーマニズムは、やはり、メディア・ポイントの異常な活性化として説明できよう。即ち、メディア・ポイントにおいてエネルギーが充溢して、連続的同一性自我を圧倒した場合のことだろう。神懸かりである。

ここから見ると、能楽も、やはり、メディア・ポイントを源泉とするだろう。死者は、超越界の「霊魂」である。それらが、メディア・ポイントを介して、生者と対話し、舞踊するのである。神楽その他も同様である。ニーチェの『悲劇の誕生』のディオニュソス的なものであるが、それも、メディア・ポイントの事象であると思う。ここでは、ディオニュソス=アポロである。

また、和歌の伝統も、メディア・ポイントが源泉であると言えよう。

「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万(よろづ)の言(こと)の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)ののなかをもやはらげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり。」
古今和歌集 仮名序
http://www5a.biglobe.ne.jp
/~pinewell/waka/kokin/k_kanajo.html

また、西洋文化の伝統であるムーサイ詩神(ミュージアムの語源)であるが、やはり、メディア・ポイントが源泉であろう。

インスピレーションは、ここから発するのである。

三島由紀夫の断絃は、先にも触れたが、メディア・ポイントの閉塞によるのである。

近代主義は、メディア・ポイントの否定によって、近代唯物科学を生んだのである。

キリスト教の一神教性と古代ギリシアの理性主義との結合によって、西欧は近代主義を生んだと言えよう。特に、同一性が数量化されて物質主義が形成されたと言えよう。そう、数量化は、差異・質を排除したのである。ここには、アリストテレス的な個物内在的形相形式の影響があるのではないだろうか。

さて、最後に簡単に近代主義的資本経済について言うと、これは、当然、連続的同一性主義である。ここでは、差異・特異性・超越性が否定されたのである。唯物論的経済である。

しかし、現代は、この近代主義経済の破壊性が現われている。唯物的資本経済は、人間を物質主義化して、知性を喪失させるのである。なぜならば、メディア・ポイントの否定が物質主義であるからである。知性はメディア・ポイントから生まれるのである。

そうすると、メディア・ポイント的経済M.P. Economyが考えられるだろう。

これは、政治、社会、文化と共に、総合的に、発展するものである。メディア・ポイント的共振シナジー社会創造ということになろう。

M.P. Economyとは、端的に、何か。

自由共振経済である。自由共振資本経済である。

共振資本である。というか、MP資本である。メディア・ポイント・キャピタルである。

Media Point Capitalismである。


2007年03月15日(Thu)▲ページの先頭へ
地霊spirit of placeについて:m(ic)*(-ic)=hν⇒+1・E
D.H.ロレンスが言う、一見非合理な観念、地霊(土地の精神)spirit of placeとは何か。古くは、genius lociと言われた。

E=mc^2=hν

の視点を取り入れたい。

あるいは、m(ic)*(-ic)=hν⇒+1・E

の視点である。

土地は、質量mをもつ。そして、物質エネルギーないし実数エネルギー+1・Eをもつ。

これでは、地霊の合理的説明はできない。しかし、虚数エネルギーに注目すれば、m(ic)*(-ic)の超越エネルギーないし振動ν=(ic)*(-ic)m/hがあるだろう。

これが、端的に、地霊ではないだろうか。

つまり、土地自体にも、メディア・ポイントがあり、そこにおいて、超越界が浸透していて、虚数エネルギーないし超越エネルギーが発動しているのではないだろうか。

そうすると、単に、光だけでなく、「物質」一般も、虚数エネルギー又は超越エネルギーを発していることになるだろう。

しかし、これは、公式から光に関わるエネルギー(エネルゲイア)である。

そう、「気」のエネルギーは、この一様相ではないだろうか。

聖地と呼ばれる場所は、地霊ないし超越エネルギー(超越光エネルギー)が強力な場所なのではないのか。

おそらく、これは、ある種の金属の分布とも関係するだろう。

空海が地質的知識をもっていたのは、地霊と金属との関係に拠るものではないだろうか。

参考:

《泰の始皇帝の命を受けた徐福は、錬丹術の専門家だった。日本には錬丹術、修験道、陰陽道すべてに通じた一人の天才がいた。真言密教の開祖、弘法大師空海。

 その空海も、このラインの中に見え隠れしている。

 吉野の近くには丹生川神社があるが、高野山からこの吉野のあたりは不老不死の妙薬の原料となる「丹」、水銀の鉱脈があり、やはり不老不死を求めていた空海は、この地に目をつけた。そして、その中心である高野山を丹生津姫命から借用するとして手に入れ、真言密教の中心地とする。

 錬丹術の「丹」はまさに水銀のことで、徐福も良質な水銀産地を探し求めていた。》

不老不死が繋ぐもの
http://www.ley-line.net/wakasa/wakasa04.html


《吉野の近くには丹生川神社があり、高野山からこの吉野のあたりは「丹」、水銀の鉱脈がありました。空海は、中国で密教以外に土木、建築等々をも勉強し、日本の土木工学に大きな影響を残したことでも有名で、彼が水脈や鉱物資源について学びとったことは想像できます。そのような知識をもった空海はこの地を見逃すないはずがないと思われます。やがて、その中心である高野山を朝廷から手に入れ、真言密教の中心地としたと考えても良いようです。

 熊野、吉野、明日香から平安京にかけて都や天皇陵が並んでいるいるには地理的な偶然かもしれないが、そのことよりも仏教にとって水銀の持つ意味が、重要になってくるのです。

 今は水銀は危険な薬品として使われなくなったが、古くから「赤チン」などや、農薬、水虫薬、遊女達の避妊薬・おしろいなど水銀物が用いられていました。仏教の世界においても、朱色のもとは硫化水銀であり、塗金の時には水銀を混ぜ塗装する要領で金装飾を可能としてきたのです。また、神仙界においては、不老不死の薬と考えられたとされています。

また、空海自身も後に東大寺の別当を任じられたのです。

注:丹生明神   天照大神の妹神の稚日女尊(ワカヒルメノミコト)は「ミズカネ(水銀)の女神」です。その女神の下、この一族は(豪族というより移動し水銀を求め移動していた)、魏志倭人伝で有名な伊都国では八代や佐賀の嬉野の水銀を抑え、勢力を得ていた。そして、彼らは中央構造線にそって九州・四国・紀伊を縦断していったとされている。また、別の同じ先祖をもつ一派が日本海にそって北上したと考えられています。》

弘法大師空海の謎

http://www.geocities.jp/hntmb836/shingon.htm



さて、物質一般が以上のように仮説すると、超越的物質となるだろう。超物質的物質である。


例えば、芭蕉の有名な「閑さや岩にしみ入蝉の声」であるが、

http://www.bashouan.com/psBashouYD.htm

これも、岩の超越的物質としての超越エネルギーと芭蕉の精神が共振しているというように言えるように思うのである。


そう、芭蕉のコスモス的感覚はこの超越的エネルギーに共振する感覚・知覚・思考のことではないのか。これは、また、冒頭のD.H.ロレンスと共通のものと考えられるのである。


宮沢賢治も正にこのタイプではないか。


霊・スピリットも超越エネルギーのことではないだろうか。


PS理論からは、このエネルギーは、共振エネルギーである。


しかし、悪霊や悪魔と宗教・民俗文化で呼ばれるものがあるが、これは何か。


共振エネルギーは善である。だから、悪は、非共振的なものである。

唯物論/近代合理主義が非共振的である。

つまり、超越的現象ないし超越的物質である自然・宇宙・人間において、超越性を阻害する「もの」が悪霊・悪魔であると考えられるだろう。

換言すると、本来、開放系のメディア・ポイントを閉鎖する「もの」が悪霊・悪魔であると言えよう。

メディア・ポイントを閉鎖・隠蔽するのは、連続的同一性志向である。自我同一性志向である。そう、ここに自然と人間の異同があるだろう。おそらく、自然には、一般に、この自我同一性志向はないと思う。

つまり、自然とは、本来、超越的自然、超越的現象なのである。

しかし、人間の主観・認識において、反超越的な連続的同一性が発生すると考えられよう。

この問題については以前、たいへん悩んだが、思うに、身体の虚弱性と脳神経の発達との矛盾が新生児にはあり、そのため、内界知覚に対して、外界知覚に対して、人間は、虚弱性をもつと考えられよう。そのため、主観的知性は、外的他者を主観的同一性化するのではないだろうか。

つまり、外的他者は、主観的知覚にとり、恐怖や不安や苦の対象となるのである。それを克服するために、主観は他者を同一性化するのではないのか。

内面では、i*(-i)⇒+1が存するだろう。しかし、外面においては、
i*-(-i)⇒-1となるのではないのか。

即ち、他者を否定して、連続的に同一性化するのである。このための道具・ツールが、とりわけ、言語である。

「わたし」にとり、本来、特異的対象であるXが、言語化されて、一般的な言語、例えば、「蛇」となる。

しかし、本来、特異な対象Xは、「蛇」ではない。少なくとも、特異な「蛇」であり、一般的な「蛇」ではない。唯名論的X、即ち、haecceity(これ性)である。

人間の認識と身体との齟齬が、このような傾斜を生んで知性を生むようになったと言えよう。

しかし、ここでは正確になる必要がある。

内的認識は、i*(-i)⇒+1の自己認識である。これが、言わば、無意識として人間には本来あると思われる。

(今、思ったが、結局、人間の暴力・狂気・無明は、この身体の虚弱さの反動から生じるのだろう。近代主義がこの帰結である。)

無意識の叡知と外的意識の連続的同一性(連一性)の謬見の二重性が人間にはあるのである。

簡明にするために、潜在的叡知(自己)と顕在的連続知(自我・無知・無明)としよう。あるいは、潜在知と顕在知である。

人間の先天的差異から、後者へと傾斜する。しかしながら、物質主義は発達しない場合は、両者のバランスがとれている。というか。人間は、本来の潜在知に基づいて、叡知の生活・社会を形成すると思うのである。物質的には利便性が欠けてはいるが、叡知が社会を支配しているのである。これは、母権制社会(神話では、女神中心の神話)であると思えるのである。

さて、ここから、問題の悪霊・悪魔を考えると、これは、男性の心性に存するのではないかと思える。

何故なら、男児の方が、女児よりも、心性が連続的同一性(脳で言えば、左脳)に傾斜していると考えられるからである。女性は、左脳と右脳との連結が強いのである。右脳とは、端的に、潜在知であろう。よく、右脳は、イメージや感情の認識を司ると言われるが、これは、ヴィジョン認識を意味しているのではないのか。ヴィジョン認識とは、端的に、イデア認識だと思うのである。叡知認識である。想像力は、やはり、ここに存するだろう。

女性の方が本来、叡知的なのである。古代ギリシア、アテネの守護神は、処女神アテナイ(アポロ神殿に関係する。つまり、汝自身を知れである。)

思うに、今日、女性が感情的と言われるのは、男性の連続的同一性意識の影響を被って、この叡知脳をうまく意識化できていないためではないだろうか。そう。トランス・モダンとは、女性の叡知の復活をも意味するだろう。

さて、そうすると、悪霊や悪魔の起源は、男性の心性にあるらしいことがわかる。男性の心の虚弱性が連続的同一性へと傾斜して、悪霊や悪魔を生むと言えよう。

ここで、イシス・オシリス神話を想起すると、イシスが叡知であり、オシリスが叡知認識であり、オシリスの弟のセトは悪霊・悪魔であろう。
http://ja.wikipedia.org/
wiki/%E3%82%BB%E3%83%88

そう、イシスがi*(-i)であり、オシリスが⇒+1で、セトが⇒-1であろう。だから、イシスは元叡知であり、オシリスが叡知であろう。そして、セトが、無明である。

今の試論では、PS理論によると、自然とは、本来、超越的現象なのである。森羅万象、超越的現象となるのである。ただし、人間の虚弱な認識において、連続的同一性の無明が支配して、物質主義となり、人類や地球が危機に瀕すると言えよう。

そう、ここで、物質科学・技術都市文明の問題がある。

自然は、超越エネルギーを発動しているのである。また、確かに、物質も超越的エネルギーを発しているだろう。

しかし、自然的現象物と人工的現象物は違いがあるのではないだろうか。

単に物質的化合物は、非共振的視点から結合させているので、共振エネルギー、超越エネルギーが不足するのではないだろうか。

化成肥料と有機肥料の違いもこの辺にあるのではないだろうか。

また、食品も、ハイブリッドな食品は、「元気」が足りないのではないだろうか。

では、最後に光について再考しよう。

先に、光の特異性は、その超越性と同一性の併存にあると言ったが、以上の考察から、現象一般がそのようなものであることになったので、光の特異性はそのようなものであるとは言えなくなった。

では、光の特異性は何だろうか。

それは、目に見える超越的エネルギーということではないだろうか。確かに、岩から超越エネルギーは発しているだろう。しかし、それは、目には見えないのである。しかしながら、光は可視の超越エネルギーである。極言すると、光は、可視のイデア界である。

お天道様である。天照大神である。

では、ついでに言うと、物質と現象の違いの問題である。物質は、実エネルギー、Eを問題にするが、超越的物質としては、m(ic)*(-ic)の超越エネルギーをもつのである。

言い換えると、差異共振シナジー・エネルギーである

問題は、このエネルギーを物質的にのみ捉えているのではないだろうか。思うに、現象界における多様な、差異共振シナジー・エネルギーをさらに、共振連結すれば、新たな創造が生まれるだろう。

正に、シナジーである。

これは、単に、物質だけでなく、精神においてそうなのである。

そして、精神と物質の両面においてもそうなのである。

いわゆる奇跡とは、総合的な共振結合から生まれるだろう。

思うに、PS理論は、メディア・ポイントのもつ潜在的共振空間において、総合的に、連結する理論であると言えよう。

本当に、最後に、現代日本人の問題を言うと、父権的な虚弱性による近代主義・唯物論・連続的同一性主義が全面に出て、つまり、悪霊・悪魔が主導的になり、超越性・差異共振シナジー・創造性を否定しているのである。

だから、亡国ではある。

戦後のつけである。

とまれ、メディア・ポイントを発見する必要があるのである。

教養(自己認識の叡知)とは本来そのためにあったと言えようが、それが、今や完全に瓦解した。

物質主義の虜になった人間には、何を言っているのか見当もつかないだろう。

内的身体にメディア・ポイントの種子があると言えよう。ここは、思うに、内在的超越界である。ここから、内在的光が発生するのではないだろうか。夢のヴィジョンは、ここから生まれると思うのである。

思うに、夢は、メディア・ポイントを介して、超越界に触れているので、超越界の叡知を触れることができるように思うのである。

また、睡眠において、超越界の超越エネルギーに触れるので、元気回復となるのではないだろうか。

言い換えると、根源的な自己意識ないし元意識に回帰するのではないのだろうか。

あるいは、神仏の様相に回帰しているのである。

そう、死後は、人間は、ここに回帰すると言えよう。

i*(-i)の様相に回帰すると思うのである。

問題は、この元自己意識が複数であるか否かである。

私は、不連続的差異論の検討の時期に、多者という言葉を夢で得た記憶がある。つまり、一者ではなく、多者があるということである。

i*(-i)をIとすると、I1/I2/I3/I4/I5・・・/Inがあるのではないのかということである。

これは、差異即非の共立様相である。

例えば、「わたし」は、Ipである。

「あなた」は、Iqである。

すると、I1*I2*I3*I4*I5*・・・*In

ではないだろうか。差異即非の即非様相である。

今は、ここで留めたい。

p.s.
■光とイエス・キリスト

イデアは、本来、目に見えない。しかし、不可視の叡知界=形而上学界をかつては考えられた。
 秘儀参入があった。

そして、キリスト教や大乗仏教が出現する。これは、いわば、光の宗教である。

思うに、光を体現する教祖が出現したということだろう。

叡知界を神仏界として提示したと言えよう。確かに、これは、イデア論の一般向けの教義を言えよう。

では、今日では、どうやって、叡知界を一般にアピールしたらいいのだろうか。

PS理論は、数学を用いて、アピールできるだろう。

虚数軸が超越界であるというのは、平明明快である。


2007年03月11日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:光と特異点:メディア・ポイント上の光と現象界
検討問題:光と特異点:メディア・ポイント上の光と現象界

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

Kaisetsu氏の、特異性(特異点)に基づく相対性理論の説明が実に興味をそそる。

★引用開始
《アインシュタインが相対性理論を考案したモチーフは、マイケルソン・モーレーの実験結果を率直に認めて、これを前提に世界認識を再構築しようとしたことと考えられる。

マイケルソン・モーレーの実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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マイケルソン・モーリーの実験(Michelson-Morley experiment)は、アメリカの物理学者、マイケルソンとモーリーが行った有名な実験。
当時、宇宙に充満していると考えられていたエーテルの存在を確かめるために、1881年に行われた。
同じ光源から出た光をハーフミラーを使って二つに分け、違う方向に何度も鏡で往復させてから再び一つに戻して干渉させる。干渉により干渉縞が観測される。もしエーテルが存在し、実験装置がそれに対して運動しているとしたら、実験装置の向きを変えると干渉縞の位相が変化するはずであるが、そのような変化は観測できなかった。
その後も精度を上げ今日まで何度も同様の実験が繰り返されたが、干渉縞の位相の変化が観測されることはない。
この実験はしばしば相対性理論の光速度不変の原理の根拠の一つとして引き合いに出される。



 つまり、地球上で任意に行った実験では、かならず、必然的に、地球の自転、公転、地球の球としての膨らみ等の影響を何らかの形で受けるはずであるが、その後も精度を上げ今日まで何度も同様の実験が繰り返されたが、干渉縞の位相の変化が観測されることはない、のである。

 ここに、「光速度」の特異性という認識が生まれるのである。そうして、この「事実」は、特異であること、そのことによって、新しい「神秘性」「神の摂理」「超越性」を人間に感じさせるのである。

 これが、アインシュタインに「神はサイコロを振らない」という信念を生み、一般人の認識からは非常識と考えられる結果であろうとも、一般認識を超越する世界構造を認識する方向性を求めさせるのである。

 つまり、超越性を信じる、ということである。

◆だから、普遍性とは、個、即ち、特異性にしか、存しないと言えよう。

 アインシュタインが「光速度」の特異性、超越性、神秘性を認識し、その認識を了解した時に、次に進むのが、「普遍化」であり、一般化であり、数的な整合性である。
 つまり、一般の常識的な世界では、ありえない状況を一般化するためには、一般常識を超越した理論、方法論、世界認識を提示する必要があり、これを可能にしたのが、高度に洗練された数学の方法論であった。
 まず、特殊相対性理論において、アインシュタインは、
光速度一定を中心的事実として、アインシュタインは、一般共変性原理(いっぱんきょうへんせいげんり, principle of general covariance)、つまり、『「物理法則は、すべての座標系において同じ形式でなければならない」あるいは「一般座標変換によって物理法則は不変である」という原理』を仮定している。
 つまり、光速度一定という事実を一般化する認識として、『一般共変性原理』を仮定するわけである。
 特殊とは、光速度等に限定しているわけである。(まっすぐ一様な(等速の)回転のない運動)
 つまり、特異なもの、超越したもの、から一般性を予知し、自己認識を再構築して、まず、限定的に全く新しい世界認識を「一般化」「真理」として高度な数学的処理を道具として提示するのである。
 その後、アインシュタインは、一般相対性理論に進むのである。》
★引用終了

『特異点、超越性、メディア・ポイント』
http://blog.kaisetsu.org/?eid=526502


今は、簡単に触れるが、特異性としての光の現象が現存するということである。これが、重要なポイントである。つまり、不連続性を超越界=イデア界から、メディア・ポイントMPを介して、連続性の現象界へと展開するということであるが、しかし、一般の現象と異なるのは、一般の現象は確かに、メディア・ポイントを介してはいるが、メディア・ポイントを隠蔽するように連続的同一性化していると思われるのである。

それに対して、光の現象は、メディア・ポイント=特異点を介するが、これを隠蔽していないと考えられるのである。ここに、光の特異性の一つの様相があると言えるのではないだろか。つまり、光は、連続的同一性化しないで、差異的同一性化しているのである。i*(-i)⇒+1である。

連続的同一性が、i*-(-i) or -i*(-i)⇒-1 である。これが、一般の現象であるように思えるのである。物質現象と言っていいだろう。自我も当然、ここに入るのである。

光は、+1の現象なのである。特異な現象なのである。

つまり、特異点であるメディア・ポイントを開放系として光現象はもっているということではないのか。その他の現象がメディア・ポイントを隠匿してして、閉鎖系となっているのである。

これは何を意味しているのだろうか。

とまれ、+1の現象と-1の現象があるということであろう。

メディア・ポイントが開いているというのは、イデア界に接触しているということであろう。つまり、虚数軸の原点と実数軸の原点が交差して、両軸の世界が交差しているということと考えられるのである。

つまり、光とは、イデア界・超越界・叡知界の光であると同時に、現象界の光であるということではないのか。

宗教的に言えば、無量光(阿弥陀如来)であり、かつ、知覚される現象光である。

形而上的光であると同時に、現象光である。

そう、端的に言えば、超越界を現象界から見た科学的理論が、相対性理論ではないのか。

mic*(-ic)⇒mc^2=+1・E

である。当然、虚数軸が超越界である。そして、実数軸が現象界である。

ここで、思いつきながら、+1が天の方向で、-1が地の方向ではないのか。つまり、上方と下方である。

とまれ、ここでは、光は、連続化せずに、差異共振のまま、現象しているのであると作業仮説しておこう。

この差異共振としての光は、超越界の光とも言ってもよく、これが、現象界から観測すると光速度一定となるのだろう。

そのように考えると、素粒子、量子の本体・実体も差異共振的イデアと言えるのではないだろうか。

そう、差異共振シナジーとしての光である。光を介して、人間は、超越界・イデア界・叡知界・神界・霊界に接すると言えるのではないか。

御来光である。

後で再考したい。


特異点とメディア・ポイントMP:一般形式の虚偽と特異性の普遍的イデア性
特異点とメディア・ポイントMP:一般形式の虚偽と特異性の普遍的イデア性

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

Kaisetsu氏のブログに以下の考察がある。

《◆◆もし、一般の認識事実と異なる認識事実を主張する事例が万の内に一つあれば、この『万の内の一つ』の認識こそ、真理を探究するためには重要な『事実』である可能性がある。科学認識の発展によって、「特異点」の存在が重要であることが認識されており、僅かな差異が、有る条件下では、劇的な事実の変化を起こしうるからである。つまり、極少数の立場、次元からしか見えない認識事実こそが、本来の『真理』を読み解く大きな手がかりとなることは、往々にして在ることなのである。by Kaisetsu》
「やっと出てきたトランス・モダン思考の主張」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=526185

ここで述べられている『万の内の一つ』の認識とは、九鬼哲学では、『偶然性』に相当すると言えよう。

ここには、認識論の基礎問題があると言っていいだろう。

思うに、私事に触れるが、私の人生は、特異性singularityの肯定をどう妥当・正当に理論化するのかにあったように思う。初めは、私の《身体》にある社会との異和感に我ながらてこずっていたが、結局、それは、特異性というもので、一般的個別性や同一性では、処理できない、はみ出すものである。

この私の特異性は、いわば、永遠に特異性であり、他者と一致することはありえないだろう。しかし、ここに基づいて普遍性があり、この普遍性においては、他者と一致するのだろう。普遍的同一性、即ち、真理である。これは、Kaisetsu氏がアインシュタインの相対性理論の光速度一定のもつ絶対的真理を説いていることと共通しよう。そう、特異性⇒普遍性であろう。

私は、長い間、今でもだが、一般的真理というものを疑っている。言語形式の一般性が、きわめて、胡散臭いと思っている。思えば、自分の《身体》にある《真実》と言語表現との乖離に悩んだものである。自分の特異性は、言語表現できないのである。言語表現によるコミュニケーションを胡散臭く感じたものである。もっとも、今では、言語表現は、表徴と見るべきであり、認識や身体性や実体を示唆するもの媒体として見ているが。

私が懐疑する一般性とは、正に、言語の一般形式である。これと一般的真理が結びつくので、一般性に対する懐疑があると言えよう。つまり、言語の一般形式とは、個の特異性とは無縁に形成・成立するものである。いわば、機械的なものである。この、いわば、言語機械のもつ真理は、一般的真理であり、個の特異性とは切り離されているのである。

だから、言語表現とは、言語行為とは、言語機械行為と個の特異性行為との乖離があるはずである。ここに言語行為の胡散臭さがあるのである。前首相の小泉氏の発話は、正に、この乖離が感じられたので、私は、パフォーマンス屋と直覚したのである。

言語行為によく注意すれば、観念だけでなく、音調等を知覚すれば、この乖離が感じられるものである。語調のフォース(力)の様態があるのであり、これを聞き取ればいいのである。また、表情や身振り等も重要である。ちょっとした、動きや間とが重要である。

さて、本件にもどると、言語行為は、言語機械的一般性と個的特異性との二元性を帯びるのである。前者は、表面・表層であり、後者が真相・真実である。

一般的真理は、結局、皮相に言語機械的一般性によって語られるのであり、そこには、個的特異性が欠落しやすいのである。

そう、オウムが反復しているようなものである。貨幣で言えば、交換価値である。

俗世間は、この皮相な言語機械的一般評価で動いているのであり、ここには、個的特異性の価値(=普遍性)が欠落しているのである。即ち、虚偽の俗世間である。

これは、PS理論的には、連続的同一性=一般性と言えよう。ここには、差異の否定・排除・隠匿隠蔽があるのである。

つまり、連続的同一性=一般性という「真理」は、差異・他者を否定したものであり、結局、自己欺瞞なのである。ここには、量的真理は確かにあるだろう。だから、唯物論や交換価値と結びつくのである。これは、言語機械-唯物論-交換価値の、いわば、三位一体ドグマである。換言すれば、近代主義である。近代主義の三位一体である。

では、この一般性ドグマと特異性とはどう関係するのか。あるいは、本論である、特異点やMPとどう関係するのか。

これは言わずもがなであり、一般性は特異性を否定するのである。なぜなら、一般性を固持する自我(利己主義)は、特異性が自我を否定するものであるからである。否定・隠蔽すべきものであるからである。

では、普遍性について言うと、なぜ、私は、特異性に普遍性を認めて、一般性には、虚偽を見るのだろうか。これは、極めて、ニーチェ哲学の問題であるが。

なぜなら、言語機械=一般形式性は、個から分離、浮遊したもので、根がないからである。根とは特異性であり、メディア・ポイントであり、さらには、イデア界である。

私が言いたいのは、言語機械=一般形式性とは、連続的同一性のシステム(俗世間システム)であり、ここでは、間主観(間主体)性ではなくて、言わば、間自我的価値が支配しているのである(阿部謹也氏のいう世間的価値)。より正確に言えば、連続的同一性共同体価値の反射が支配しているのである。換言すると、連続的同一性集合体の集合的自我が支配しているのであり、ここにあるのは、集合的自我であり、集合体の価値が動けば、集合的自我は、自我の価値観をそれに合わせて、流動化させるのである。つまり、集合的価値という相対的価値があるに過ぎず、普遍的価値、普遍性はそこにはないのである。

すなわち、言語機械=一般形式性=連続的同一性は、集合性・集合的自我性と連続し、きわめて、流動的であり、不定なのである。群衆や烏合の衆の世界なのである。

自我と他我との相互反射の世界であり、鏡像の世界であり、個としての自己はここにはないのである。つまり、言語機械=一般形式性=連続的同一性=集合性は、端的に、俗世間的権力・暴力(差別を含む)であり、一定の価値がないのである。ここは、正に、相対流動的な価値しかないのである。そう、正に、流行の世界である。群れの世界なのである。

リーダーらしきやトレンドが、あっちを向けば、烏合の衆は、あっちを向くのである。魚群である。鳥群である。無定見・無見識の世界である。

以上から、一般性とは、信用できない胡散臭いということが証明できたと信ずる。つまり、集合性によって、一般性は動いてしまうのである。

だから、普遍性とは、個、即ち、特異性にしか、存しないと言えよう。個ないし特異性は、集合性とは無縁であり、ひたすら、個の認識に実直である。

これは、消極的理由である。積極的に、どうして、個ないし特異性は、普遍性であるのかと言うと、ここで、本題の考察に関わることになるが、個ないし特異性とは、メディア・ポイントと結びついていると考えられるのである。そして、Kaisetsu氏の言及する特異点とも関係すると思うのである。特異点とは、メディア・ポイントのことであると、作業仮説しよう。

個ないし特異性がなぜ、メディア・ポイントと結びついているのかと言えば、それは、ほとんど自明に近いと思うが、連続的同一性=自我は、差異(=個・特異性)を否定するのに対して、個・特異性は、連続的同一性=自我に対して、批判的距離をもつからである。つまり、人間が出生してから、初期においては、メディア・ポイントは開いているのである。メディア・ポイントの開放系が本来的にあると考えられるのである。これが、個・特異性ないし特異点なのである。ここから、成長過程において、連続的同一性=自我(=無明)化が進展するのである。(p.s. メディア・ポイントが、連続的同一性自我によって、閉じられてしまうのである。)

つまり、メディア・ポイント=個・特異性・特異点の否定としての連続的同一性=自我=言語機械=一般形式性=集合性の展開が俗人の成長であると考えられるのである。

そして、メディア・ポイントは、イデア界に接触している(内在的超越性をもっている)ので、個・特異性は、普遍性に関わると言えるのである。これで、本稿の証明が済んだと言えよう。

ただし、メディア・ポイントは、不連続性・虚数軸と連続性・実数軸とが交差する複合的原点なので、大半の哲学や理論は、不連続的差異論、ないしPS理論による理論的な明確な区分や分離をすることができずにいて、錯誤や混乱を生んだと考えられるのである。

とまれ、一般形式は虚偽であり、個・特異性こそ普遍性であるという命題が証明されただろう。正確に言えば、個・特異性こそ普遍性を志向する、である。

思えば、ニーチェが、これをあの正に特異な哲学で説いたと言えるのである。ニーチェは、一般形式すべてを否定したのである。連続的同一性を絶対否定して、特異性の強度を説いたのである。

ここで、民主主義について言うと、一般形式に囚われる愚民が多いと、衆愚政治となるのであり、真に民主制を成り立たせるのは、個・特異性にほかならないと言えよう。

そう、民主主義には、哲学が、現代的イデア論が必要なのである。PS理論が、トランス・モダン・デモクラシーの理論的根拠を与えると言えよう。

プラトンは、哲人政治を唱えたが、今日でも、同じである。

哲学なき民主主義は、衆愚政治である。全体主義・ファシズムを生むのである。亡国となるのである。

思えば、古代ギリシアの直接民主制は、奴隷制の上に成立したものであり、いわば、貴族的民主制であった。貴族とは何であろうか。

貴族とは、本来は、物質的豊かさを意味するものではなく、やはり、ニーチェが『道徳の系譜』で説いたように、高貴である精神性・魂に基づくと考えれるべきである。

つまり、高貴な民主制である。思うに、古代ギリシア人は、天才的であり、イデア界に通じていたと思えるのである。あの思想性、芸術性、政治性、等々は、イデア界・叡知界からの精神に基づくと考えるべきであろう。

日本の亡国の原因は天皇制にあるのではなく、俗世間的連続的同一性にある。個であること、特異性であることを恐れる怯懦にある。

この怯懦はどこから生まれたのか。

叡知の喪失からである。どこで、叡知を日本人は失ったのか。それは、二つの近代からではないのか。とりわけ、戦後ではないのか。後で、検討したい。

p.s. 九鬼周造の『偶然性の問題』を読み進めているが、《・・・定言性と目的性とは不離の内的関係に立っている。一般概念はそれ自身目的として妥当するものと見ることが出来ることは、その反省判断的課題的普遍性に照らして明らかである。「論理的秩序、すなはち諸事実を概念へ従属せしめる作用は恐らく内的理性または目的因の自発的活動を隠匿してゐる。概念は目的因の論理的記号に過ぎないであらう。斯くして諸々の個体はその存在理由を種に於いて有ってゐるのであらう」とブートルーも言っている(・・・)。》(p. 64)というような箇所を読むと、ここで、述べられている「一般概念」とは私がここで述べた一般形式=連続的同一性と共通すると思う。

さらに、重要なことは、目的因である。一般形式=連続的同一性には、目的因があるのである。それは、個体の盲目の生存という目的因ではないかと思われたのである。

連続的同一性を狂気であると、私はこれまで、数えきれないくらい繰り返し述べてきたが、これを盲目の生存・欲望という目的因をもっていると考えると、その意味が明快になるように思えるのである。

有り体に言えば、動物的欲望・衝動・暴力である。これは、他者を殺戮し、食し、同一化しようとする欲望ではないだろうか。ただ、人間の場合は、言語形式がともなっているということではないのか。

整理すると、言語形式体系(一般形式・形式論理)とは、人間における動物的本能を、より「合理化」したものではないのか。動物的本能を満たすための、組織立った体系ではないのか。

言い換えると、連続的同一性の基礎にある「目的因」とは、ある外的対象を獲得することではないのか。ここでは、他者(「隣人」)は否定されなくてはならないのであり、外部にあるのは、外的対象、外的物体であり、それを獲得するために、主体は、他者を同一性化するのではないのか。「我在り(ヤハウェ)」ではないのか。ここには、知的認識ではなくて、欲望的同一性化衝動があるのではないのか。そして、この衝動の組織化が言語一般形式化ではないのか。

もう少し精緻に考えてみよう。欲望は、身体的連続的同一性作用と言えよう。これによって、主体も身体的連続的同一性化すると言えよう。身体が主体・主観・心を支配するのである。

身体の連続的同一性があり、思うに、反動で、主体も連続的同一性化反作用をもつだろう。この反作用が、主体の連続的同一性=自我を生むと言えるのではないだろうか。

そして、この主体・主観的連続的同一性が、言語一般形式を生むと考えられるのである。すると、根源にある力は、動物的欲動である。身体的連続的同一性である。言語一般形式とは、ゆえに、暴力的であり、狂気的なのではないのか。つまり、動物衝動をもっているということではないのかということである。(p.s. 一神教は、この極限ではないだろうか。動物的本能の極北としての一神教ではないのか。)

そう見ると、この一般形式が、貨幣の交換価値と通じるのは、単に、一般形式だけでなく、動物的衝動・欲動が根源にあるからということになるのでないだろうか。

さて、もし言語形式が動物的欲動と関係するなら、自己・他者認識の言語が、それとは別にあるはずである。それは、どう異なるのか。後者は精神の言語であり、内的言語である。それに対して、言語形式は、外的言語であると言えよう。

内的言語が、宗教、神話、物語、詩歌、等と関わり、そして、外的言語が、物質や交換等と関係したと思うのである。

そして、哲学は、当然、前者の言語である。そして、科学は、後者の言語である。質と量である。ここで、数学の位置が興味深い。思うに、根源的には内的であるが、外的なものにも適用できたということではないだろうか。

そう、フッサール現象学の問題である。

志向性とは、正しくは、差異の志向性、差異・他者の志向性である。しかるに、言語一般形式は、連続的同一性の志向性である。思うに、この二つの正反対の、相矛盾する志向性が人間の内にあり、相克の関係にあるだろう。

しかしながら、西欧近代は、連続的同一性が勝利したのである。

ここに、人類の大危機があると言えよう。

内的本性、差異共振的精神性を喪失したのである。

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■特異点、超越性、メディア・ポイント

海舌
2007.03.11 Sunday
特異点、超越性、メディア・ポイント
http://blog.kaisetsu.org/?eid=526502


2007年03月09日(Fri)▲ページの先頭へ
ルドルフ・シュタイナーの霊学を批判する:似非霊的ファシズムとしての人智学
人智学の主唱者である。
シュタイナー学校の創始者である。
日本でも、市民権を得ている。
確かに、学的な手続きをもったように見える霊学である。

ドイツ観念論の系譜にあると言える。

また、大乗仏教の影響が濃厚である。

では、何が問題なのか。

一つは、自我を重視していることである。egoである。
もう一つは、感覚と霊との二元論である。

こちらに大きな問題がある。PS理論は、内在的超越論であるから、現象に内在しつつ超越する精神・イデアを説くが、シュタイナー理論だと、現象を外的に超越した霊が存することになるのである。そうすると、感覚・身体に対する否定があり、これは、霊的連続的同一性主義になると考えられるのである。

これは、形式としては、連続的同一性主義なので、近代主義と同形である。

物質の換わりに、霊を置いているのである。だから、これは、中沢新一の霊的唯物論とほぼ等しいと言えるだろう。

ここには、やはり、他者が不在であるから、全体主義になるのである。

では、霊的連続的同一性主義とは端的に何だろうか。

ここで、メディア・ポイントMPの視点から考察すると、それは、実メディア・ポイントrMPの現象的原形を霊と捉えていると思えるのである。

つまり、現象性の内在的原形を霊としていると思えるのである。

しかるに、本来、本源の霊とは、イデア界ないし虚メディア・ポイントiMPに存すると見なくてはならないと考えられるのである。

正に、ハイデガー的現象学と等値である。

これは、霊的全体主義である。というか、似非霊的ファシズムである。

イデア的精神こそ、霊的なのである。


2007年03月08日(Thu)▲ページの先頭へ
形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形相変換力学構造について
『イデアの結界―西欧的感性のかたち 』
(田淵 安一 著 人文書院)
を拾い読みして、形相の問題も未解決であると思った。

著者は、プラトンのイデアとアリストテレスの形相に関連して、ネオプラトニストのプロチノスのイデア的形相のようなものを説いている。

これは、内在的超越形式というものではないだろうか。

簡単に言うと、超越論的(内在的超越的)形態・形象である。

この空間を求めたいのである。

プラトンのイデアは、一面として、この元形態・形象性をもっている。

先に、形態に関しては、対称性の破れで説明できると考えたが。

直観で言えば、メディア・ポイントがこの超越論的形態の空間であろう。

例えば、朝顔の元形態はここにあるということになる。

思うに、種子・種ないし卵、あるいは、遺伝子やゲノムという形態の起源は、メディア・ポイントMPではないだろうか。MPは、確かに、イデア界的即非様相が「縮限」される空間のように思えるのである。

元形態が、いわば、折り込まれる、折り畳まれるのがメディア・ポイントであり、その現象態が、種子、卵、遺伝子、等々ではないか。

i*(-i)⇒+1は、このことも表象しているのではないだろうか。iが元雄であり、-iが元雌であり、*がメディア・ポイントであり、受精・生殖等を意味するのではないか。

さて、問題は、元形態である。ここでは、限定して、簡単に考えたい。すなわち、たとえば、花の元形態、馬の元形態、木の元形態、等について解明したいのである。

これは、プラトンのイデアの一様相である。

ここで、上述した著書で引用されているヒルデガルド・フォン・ビンゲンの言葉を引用しよう。

《その形は、神の予定知が、時間が存在するより以前に非肉体性のうちに熟視されたものです。まことに、鏡のまえに置かれたすべての物がそこに自らを映すのとおなじく、神の創造物のすべては、聖なる神性のみ胸に、非時間性のなかにおいて姿を現わすものなのです。・・・光線が被造物の形を照らしだすとおなじく、神の純粋なる予定知は、被造物の形を肉体が包むそのまえに熟視されるのです。ということは、それぞれの物は神の御予定にしたがって、肉化に先立ち、予定知のただなかにおいて似像として燦然と輝いているのです。」pp. 96~97

「予定知」とは摂理providenceということであろう。

この箇所において、元形態の問題点は、神が熟視する元形態であるということである。当然、神と元形態はことなっているのであるが、神の内部に元形態があるのである。「被造物の形を肉体が包むそのまえ」という点について言うと、「肉体がつつむ」とは現象化である。だから、現象化あるいは物質化以前に、元形態があるということで、PS理論的には、元形態空間は、メディア・ポイントではないかと思われるのである。

しかしながら、問題は、メディア・ポイントから実数軸上への展開である現象化の構造である。

先に、+1ないし⇒+1がメディア界ではないか、また、-1ないし⇒-1が現象界ではないかと示唆した。

これらをどう整理するのかである。

端的に言えば、元形態空間は、メディア・ポイントなのか、+1なのか、それとも、メディア・ポイントから+1の過程、等にあるのかである。

思うに、実数軸は、これまで、現象界と考えたのだから、+1が元形態空間とするのは、明らかに、不合理である。

少し議論が外れるが、メディア・ポイントと+1について考察すると、不連続的差異論におけるメディア界に相当するのがメディア・ポイントであると言えよう。だから、先に、+1をメディア界と考えようとしたのは、誤りである。ただし、+1は、メディア・ポイントとの関係が、-1よりも強いと思われる。というか、メディア・ポイントは、エネルギー変換点である。ここで、イデア・エネルギー(元エネルギー)が、同一性エネルギーへと変換されるのである。ここに分極化があり、+1の同一性エネルギー(差異的同一性エネルギー)と-1の同一性エネルギー(連続的同一性エネルギー)へと分化(分相化)すると考えられるのである。

差異即非様相から同一性様相への変換点がメディア・ポイント(メディア界)であり、ここにおいて、既に、元形態が生成していると言えよう。

というか、実際は、精妙である。すなわち、メディア・ポイントの二相性に注意しないといけない。虚数軸上のメディア・ポイントと実数軸上のメディア・ポイントを理論的に区別する必要があると考えられる。

前者を、とりあえず、虚メディア・ポイント(虚MP)、後者を実メディア・ポイント(実MP)と呼び、区別したい(MP・0iとMP・0?)。

思うに、虚MPと実MPとの重なりの様相に重要な問題があると言えよう。また、それらと±1の関連の問題がある。

とまれ、虚MPは、イデア界にあり、思うに、これが、元形態空間ではないのか。ここに超越的形相(いわば、エイドスeidos)があるのではないのか。そう考えると、本件の問題が解明されることになるだろう。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの言葉にある「被造物の形」は、虚MPに存しているということになるだろうし、「神のみ胸」とは、イデア界で、虚数軸空間のことであると言えよう。確かに、虚数軸上に虚MPは存するのである。

すると、虚MPから実MPへの変換が《天地創造》ということになるだろう。「光あれ」である。(因みに、ハイドンのオラトリオ『天地創造』を聴いていたのである。偶然の一致であるが、思うに、天地創造のことが無意識にあったので、この曲を選択したのかもしれない。)

では、虚MPから実MPへの変換とは何か。それは、既述済であるが、同一性化である。現象化である。おそらく、単純に物質化とは言えないと思う。なぜなら、+1が精神ないし自己であり、-1が物質ないし自我であると考えられるからである。つまり、同一性化とは、+1の精神・自己化と-1の物質・自我化の両面・両義性があると考えられるのである。

いろいろ細かな問題があるが、それは置いて、ここでは、同一性化の力学構造を考えたい。虚MPから実MPへの変換力学構造を考えたいのである。

思うに、虚MPにおいて、元形態があるならば、それは、ここには、元1の形態があるということではないのか。つまり、元±1の形態ないし元形態があるということではないだろうか。

そうならば、元±1としての虚MPであろう。では、実MPとの関係はどうなのかである。思うに、実MPは、種子、卵、遺伝子等であろう。だから、元±1としての虚MPと見ていいだろう。(メルロ・ポンティは、身体的現象学において、虚MPと実MPを混合していると思うのである。)

問題は、やはり、虚MP(iMP)と実MP(rMP)との変換構造である。

この変換力学とは何か。

やはり、回転ではないだろうか。ベクトルiとベクトル-iとの1/4回転が発生して、±1が生起するのではないだろうか。

つまり、iMP⇒rMPの⇒とは1/4回転を意味するということになる。

つまり、イデア界的内在的エネルギーによって、iMP⇒rMPの変換が生起するということになる。この点は再考したい。

とまれ、以上から、元形態は、iMPにあることになった。ここが、イデア的形相(エイドス)の空間ということになった。(今、地震がある。14:06pm)

ついでに、プラトンのいうコーラのことを考えると、それは、いわば、形態発生空間であるから、端的に言えば、MPのことであり、より精緻に言えば、iMP⇒rMPのことであると言えよう。

さらに言えば、プラトンのいうイデアとは、以前述べたように、少なくとも二種類あるのである。それは、差異共振シナジーとしてのイデアである。それは、 i*(-i)としてのイデアである。もう一つは、ここで述べた元形態としてのイデア(エイドス)である。すなわち、iMPとしてのイデアである。

さらに展開して、アリストテレスの形相についていうと、それは、iMPを否定して、rMPだけを取りだしたものであろう。rMPは確かに、個物・個体内的元形態と考えられるのである。

PS理論は、フッサール現象学の意味において、超越論的理論であるから、内在的超越性としての「イデア」を現象における分有として見ている。それは、私の言葉では、特異性である。九鬼哲学の言葉では、偶然性である。ドゥンス・スコトゥスでは、存在の一義性である。スコラ哲学のhaecceityである。ライプニッツのモナドである。

内在的超越性において、内在性とはrMPであり、超越性がiMPであると言えよう。因みに、ポスト・モダンないしポスト構造主義の誤りは、両者を混同したことになる。典型がドゥルーズであり、フッサールの超越性を否定して、内在性に限定してしまったのである。また、デリダについて言うと、彼の誤りは、ドゥルーズの正反対で、超越性のみを肯定して内在性をロゴス中心主義として否定したことにあろうだろう。言い換えると、デリダ(初期デリダ)は、同一性をロゴス中心主義として否定して、超越性のみを肯定して、それを示唆・暗示するしかないという袋小路に陥ったのである。
 
即ち、デリダは、同一性には、連続的同一性と差異的同一性の二つがあることを知らずに、すべて同一性を否定したために、いわば、不可知論に陥ったのである。それで、あのようなエッセイ的な論述となったと言えよう。

ドゥルーズは、差異を内在性に見て、デリダは差異を超越性に見たのである。両者、正反対で、また、一面的であった。両者とも、フッサールを把捉できなかったと言えよう。やはり、繰り返すが、ハイデガーによるフッサール現象学破壊が要因だと思うのである。ハイデガーの理論は、超越性を否定した内在性の理論なのであるからである。

以上の解明を簡単にまとめると、PS理論において、メディア・ポイントMP空間に虚MP(iMP)から実MP(rMP)への変換力学構造を見て、元形態が虚MPにあり、それが、実MPへと変換されて、現象化が生起すると考えたのである。実MPは、具体的には、種子、卵、遺伝子等々である。言い換えると、プラトンのイデアがより明確化されたのである。差異共振シナジーとしてのイデアと元形態(エイドス)としてのイデアを分明できたのである。

ついでながら、PS理論は、西洋哲学における二元論的分裂、プラトン的観念論とアリストテレス的実在論を形態論的に統一したと言えよう。既に、この統一は、一般理論的には為されていたのではあるが。

最後に、敷延して言うと、素粒子や量子であるが、それは、ここでの形態論が適用できると思われるのである。即ち、元素粒子ないし元量子は、虚MP にあり、それが、観測においては、実MPに空間化されると思うのである。真空というは、実MPであろう。量子力学は、虚MPを見ていないと考えられるのである。唯物論なので、イデア界の虚MP空間に進展できないのである。それで、非局所性の問題等があると思うのである。有り体に言えば、元素粒子、元量子とは、虚MPにおける差異共振シナジー=イデアなのである。差異即非共振シナジー=イデアなのである。虚MPにおける元粒子・即非・元波動のイデアが元素粒子・元量子と考えられるのである。

これが、実MPにおいては、粒子と波動との相補性として理解されていると思うのである。つまり、物質論的に、「素粒子」と「量子」は、一方では、粒子であり、他方では、波動であるということである。

しかしながら、「素粒子」や「量子」の実体は、虚MPの差異即非イデアである。無時間的イデア界にある「素粒子」や「量子」、即ち、元素粒子、元量子を素粒子論や量子論は唯物論に囚われているので、認識理解できないと考えられるのである。

わかりやすく言うと、素粒子や量子は、虚MP⇒実MPの変換力学構造における、イデアの影像であると考えられる。

p.s. 補足すると、実MPを種子、卵、遺伝子等としたが、これは、正確に言うと、実MPの物質化ないし現象化と言えよう。いわば、実ゼロ度の同一性化としての種子、卵、遺伝子等であろう。

また、文化表象的には、魂や霊を卵、種子、器(壺)等で表象するが、それらは、結局、やはり、虚MP⇒実MP(iMP⇒rMP)を表象していると言えよう。キリスト教のおける聖杯であるが、これも同様であろうし、また、『指輪物語』の権力の象徴としての指輪であるが、それは、実MP⇒-1化を意味しているだろう。近代主義と言ってもいいだろう。

考えると、ロゴスの受肉とギリシア教父によって考えられたイエス・キリストであるが、それは、やはり、虚MP⇒実MPの象徴的人物ではないだろうか。正に、神の子であろう。

では、仏陀はどういうことなのだろうか。直観で言うと、仏陀は、実MP⇒虚MPを認識したということではないのか。つまり、実MP=色であり、虚MP=空である。色即是空である。おそらく、大乗仏教で、空即是色となったのではないだろうか。それは、虚MP ⇒実MPである。だから、仏陀とイエスは、ちょうど対になるのである。両者は、MPの両面を代表していると思うのである。だから、大乗仏教とキリスト教は一致すると思うのである。(これは、20世紀初期・前期において秘教的宗教において説かれていたことである。)

また、親鸞の往相回向と還相回向も同様のことを意味すると言えよう。仏教即キリスト教である。(思えば、かつて、ぞんざいに、ブッキリ教と呼んだものである。)

さて、魂や霊のことであるが、それは、何か。それは、端的に、虚MPのことであろう。では、これは、複数なのか、単数なのか。

個と元個の問題でもある。輪廻転生や永劫回帰の問題でもある。先にも触れたが、⇒+1の問題があると思うのである。+1とは何か。ここでは、空想を展開すると、+1とは、虚MP⇒実MPの差異的同一性化である。思うに、この+1が特異性ないし単独性と関係するのである。個体原理haecceityである。これは、確かに、現象界に属しているが、同時に、実MP⇒虚MPを介して、イデア界に触れているだろう。この内在的超越性が問題なのである。私見では、どうも、ここで、現象界がイデア界に接続して、記憶が蓄積されるように思えるのである。阿頼耶識や如来蔵という考え方は、どうも、これに関係するように思うのである。

思うに、魂と霊は虚MPであり、個が+1である。しかし、+1は、虚MPを超越的に内包しているのである。そう、超越的形相(エイドス)をもっているのである。結局、この超越的形相(エイドス)の問題である。

それは、「わたし」、すなわち、特異性の形相なのか、それとも、単に同一性の形相なのか。同一性とは、この場合、一般的同一性のことである。だから、連続的同一性のことである。

連続的同一性の形相とは、平板な形相であり、たとえば、馬のエイドスであり、花のエイドスであり、等々である。

しかし、+1は、特異性、単独性、個体原理であるから、超越論的形相も、特異性の形相でなくてはならないはずである。即ち、換言すると、超越論的特異性形相である。

ここで、虚MPに返ると、これは、超越論的形相であるが、一般的形相なのか特異性的形相なのか、である。換言すると、一般的エイドスか、特異性的エイドスか、である。

私はこれまで、個体・個物は本来、特異性であると述べてきている。そこから考えるなら、超越論的形相は、一般的形相ではなく、特異性的形相でなくてはならない。

だから、超越論的形相は、超越論的特異性形相とならなくてはならない。

簡単に、超越的特異形相と呼ぼう。問題は、これが、単数なのか複数なのかである。一元か多元かである。

これは、一元論、多元論、一神教、多神教、等の問題でもある。

ここで、様相論を適用したい。つまり、超越的特異形相とは、様相である。すなわち、多様性をもっていると思えるのである。多様体である。あるいは、太極的多様体を考えていいだろう。i*(-i)の表象としての太極的多様体様相である。そして、空想を続けると、超越的特異形相とは本来、一(いつ)、一元であるが、この太極的多様体様相のために、多元化すると言えよう。

即ち、一即多である。一元即多元である。一神教即多神教である。

そうすると、魂や霊とは、この本源(イデア界)の太極的多様体様相の一相であると言えるだろう。これは、きわめて、不思議の有り様であろう。

魂や霊は本来、同一である。「わたし」の霊魂と「あなた」の霊魂は同一である。超越的特異形相である。しかしながら、これは、太極的多様体様相を呈しているのであり、「わたし」の霊魂と「あなた」の霊魂はここにおいて、様相的に区別されると言えるのではないだろうか。

ここでも、正に、即非である。霊魂1・即非・霊魂2である。

結局、イデア多様体があり、その一様相が、永続すると言えるのではないだろうか。これが、輪廻転生ではないだろうか。そして、当然、永劫回帰である。また、プラトンの想起説であるが、それも、これで説明がつくだろう。イデア太極的多様体、イデア多様体、これが、また、夢の影像の本体ではないだろうか。

ウパニシャッド哲学のブラフマンは、正に、このイデア多様体と言えるのではないだろうか。

後で、再検討したい。


検討問題:個とイデア:イデア界=元個/メディア界=個/現象界=自我?
この問題は、難問の一つである。端的に言えば、輪廻転生があるのか、否かである。

しかしながら、思うに、個は、差異即非様相=イデアに還元されて、輪廻転生はもはや意味がなくなるのではないだろうか。

端的に言えば、死後は、i*(-i)=神=仏になるのだと思う。正に、成仏である。成神である。

問題は、記憶である。

現象界の記憶は、果たして、イデア界に残るのか、否かである。

メディア・ポイントのいわば、マジックがあると思う。現象的知覚は、メディア・ポイントにおいて、永遠界に連続するような錯覚をもつのである。幻影である。

だから、輪廻転生はないと思われるのである。

しかしながら、問題は、⇒-1と⇒+1である。前者は、無明=自我の様態である。後者は、自己認識の様態である。前者が、輪廻転生を考えるのだろう。では、後者は、どうなのだろうか。後者は、即身成仏ではないだろうか。ここには、仏陀が説くように、輪廻転生はないと思う。親鸞で言えば、往相回向と還相回向があるだけではないのか。

しかし、それでは、後者は輪廻転生ではないのか。

⇒+1は、永遠回帰ではないのか。そして、⇒-1は、輪廻転生ではないのか。

+1が精神で、-1が自我/肉体の二元論ではないのか。

前者は、ブラフマン⇒アートマンではないのか。

滅びるのは、前者であり、後者は、永遠の自己知ではないのか。

現象界は、確かに、実数軸であるが、同時に、-1の物質界と+1の精神界をもっているのでないのか。

では、i*(-i)と+1の関係は何だろうか。

前者が神で、後者が、個ではないのか。

イデア界・叡知界・神界は、+1の様態をもつのではないのか。

+1は現象界というよりは、メディア界ではないのか。-1が現象界ではないのか。

思うに、このメディア界において、記憶が残るのではないのか。

-1が無明であり、+1が明知である。あるいは、ほぼ、意識と無意識と言えるだろう。

大乗仏教で言えば、±1が阿頼耶識であり、+1が如来蔵である。

問題は、やはり、-1と+1の関係である。

当然、相互関係、相関性があるだろう。

思うに、-1の強度が、+1へと反射するのではないのか。いわば、エネルギー保存則である。

ならば、-1の現象界の事象の知覚は、+1のメディア界の永遠の記憶に残るのではないのか。

そう、+1が個の起源であろう。そして、i*(-i)が元個ないし神=無・空であろう。

このように見ると、ある種の輪廻転生・永遠回帰はありえると思う。

後で再検討したい。


2007年03月02日(Fri)▲ページの先頭へ
光の超越的二相性について:m(ic)*(-ic)⇒±1・mc^2=±1・E
ライプニッツの『形而上学叙説』を読んでいて、本件について考えた。メモを取ったが、それを書くと、冗長になるので、ここでは、ポイントだけ述べたい。

 考察の経緯は置いておくと、問題は、i*(-i)⇒±1である。的確に記述すれば、i-MP-(-i)⇒±1である(MPはメディア・ポイントである)。

 MPを介して、イデアは、-1と+1に分化すると考えられるのである。思うに、近代以前においては、+1がなんらかに知覚ないし意識されていたと思うのである。おそらく、+1の表象としての宗教や神話等があったと考えられるのである。

 それが、近代化において、否定されて、-1の世界観になったと考えられるのである。ルネサンスないし、所謂、近世は、まだ、-1と+1とが共存していて、それを整合化させる創造的芸術や哲学が生まれた。

 プロト・モダンとは、本来、新たなイデアの発動であり、それが、現象界的には、±1の共存事象となり、それが、ルネサンスと近世において、豊かな創造性の発露となった。しかし、西欧文明は、父権的であり、連続的同一性に傾斜しているので、-1が主導的になり、+1が否定され、結局、超越性・イデアが否定されたと考えられるのである。近代合理主義・唯物論の勃興である。

 とまれ、私が考えたのは、メディア・ポイントを介して、-1と+1の現象が発生する。光で言えば、光とは、±1の様態をもつのであるが、それが、近代合理主義のおいて、-1が中心となり、+1を否定したと考えられるのである。

 端的に言えば、-1が物質様態なのである。これが、カントの超越論的形式、すなわち、時間・空間形式だと考えられる。

 本来、光は、±1の二相的様態をもつだろう。しかし、+1の様態が否定されたのである。これは、精神・コスモスの光の否定であろう。

 光で言えば、-1の物質的様態の光が肯定されたと言えよう。

 問題は、現象化においては、-1と+1の両相が発現しているはずであるが、近代合理主義ないし近代的自我においては、-1が中心となり、+1を混同化してしまったと考えられるのである。あるいは、-1と+1との矛盾の発生である。しかし、近代科学は、近代技術をともない、資本主義の発展と連動し、-1の世界観が支配的になったのである。

 そのため、本来、存する+1が否定・排除・隠蔽されたのである。これは、超越性(虚数軸)を内包する(身体的霊性)ので、超越界・イデア界の否定であると言えよう。近代主義の闇(悪魔性)は正にここにあるのである。

 物質主義・唯物論は、光の-1の様態だけを見ているのである。カントの超越論的形式である。

 だから、エネルギー式は、m(ic)*(-ic)⇒m(ic)-MP-(-ic)⇒-mc^2ではないだろうか。つまり、マイナスのエネルギーを物質エネルギーとして見ているのではないだろうか。プラスのエネルギー、すなわち、m(ic)*(-ic)⇒+mc^2は、看過されているのではないだろうか。さらに言えば、m(ic)*(-ic)のイデア・エネルギーが看過されていると思えるのである。

 結局、+mc^2やm(ic)*(-ic)がダークエネルギーではないのか。

 ここで、知覚・認識の問題を考えると、西欧の父権主義によって、連続的同一性に傾斜しているので、連続的同一性-1と差異的同一性+1が混同されていると思えるのである。-1は、唯物論であり、これが、+1の超越的差異共存、差異即非性を否定していると考えられるのである。

 否定された+1が反動態・バックラッシュとなり、近代主義的主体を狂気にしているのである。また、これが、資本主義/国家主義と結びついて、環境を破壊しているのである。

 結局、光は、二相様態であるが、連続的同一性(連一性)が支配しているので、光は一面的に知覚されているに過ぎず、また、イデア的光、宗教的光が喪失されているのである。

 光の+1の様態という実在しているものを否定しているから、近代主義は、非合理主義(狂気)なのである。

 明らかに、知覚・認識の錯誤・倒錯が近代合理主義・近代的自我にはあるのである。これが、暴力・差別・貧困・戦争を生んでいるのである。

 今日・現代、人は、一般に、超越界・イデア界があることをまったく考えていず、-1の連続的同一性現象界に埋没しているのである。確かに、混同的には、当然、+1は内在しているが、-1の力のために、+1のもつ本源的超越性(虚数世界)に達することができずにいるのである。

 ここで、次元について簡単に触れると、-1が3次元空間ないし4次元時空間であろう。では、+1はどうなのだろうか。

 +1はコスモスである。それは、差異共振性・虚数軸を指示する。大乗仏教的には、如来蔵と言えるだろう。

 問題は時間である。いわゆる、過去・現在・未来の連続的時間は、-1に属するだろう。そして、+1は、思うに、永遠的時間に通じているのではないだろうか。ここは微妙である。なにかに深く感動するとき、時間を超越するが、その経験が+1であり、永遠の時間に関係するのではないだろうか。

 あるいは、いわゆる、神秘的体験であるが、それも、+1の体験ではないだろうか。そう、ウィリアム・ジェイムズの純粋経験も、これを指しているのではないだろうか。19世紀末から20世紀初期にかけて、この+1の経験が問題になったと言えよう。4次元の問題は正に、これを問題にしただろうし、文学の意識の流れの経験もここに関係しているだろう。

 問題は、この+1が、それとして明確に認識しなかったと思われることである。メディア・ポイントMPの問題なのである。すなわち、-1と+1の二相が混淆・混濁されて認識されていたように思えるのである。

 そう、フッサールはこれを明確に区別して、超越論的現象学を構築したのであるが、他は、これらを混淆したのである。それらが、ベルクソン、ハイデガー、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ他(パースやホワイトヘッド)の哲学と言えよう。(ニーチェの場合は、格別で、-1を破壊するだけでなく、+1も破壊して、積極的ニヒリズムとなったのである。+1をも否定したので、超越性も否定して、いわば、実数軸の零度を表出したと言えよう。)

 端的に言えば、+1の経験を十全に理論化したのは、鈴木大拙であると言えよう。即非の論理学は、正に、+1の経験を純粋に理論化したものと言えるのである。また、西田幾多郎であるが、彼は、-1と+1との混乱を犯しつつも(つまり、連続的同一性・物質と差異的同一性・精神の混同である)、即非の論理を絶対矛盾的自己同一という形でほぼ表現したと言えよう。

 さて、時間の問題にもどると、時計の時間は、明らかに、-1の時間である。永遠の時間であろうと上述した+1についてさらに考察すると、これは、空間的には、どういうことになるのだろうか。思うに、これは、芸術的空間ではないだろうか。感覚がありつつも、差異共振的感覚なのである。即非空間である。これは、現代アート的空間ではないだろうか。直感では、-1がユークリッド空間であり、+1が非ユークリッド空間ではないだろうか。

 では、最後に、虚数軸の空間や時間はどうなるのだろうか。

 空間的には、4次元であろう。4本の直交軸が存するのではないのか。この4次元空間のイデア事象が、現象3次元空間において、時間事象となるのではないのか。

 例えば、朝顔イデア事象があるとしよう。それは、4次元空間においては、永遠事象であるが、それが、現象界においては、時間生成消滅をともなって発現するということではないだろうか。

 有り体に言えば、種・発芽・根・蔓・つぼみ・花弁・実までが、無時間的に共存しているのではないのか。

 後で、再検討したい。

p.s.
■ニーチェの哲学には、イデア界への示唆がある:永劫回帰とは、イデア界への示唆である。

本文では、ニーチェの哲学を、-1と+1の両方を否定する、実数軸の思想と述べたが、それでは、不十分である。
 ニーチェは、明らかに、形而上学的志向を示唆している。永劫回帰は、まさに、イデア界への示唆と言えよう。近代主義において、否定されたイデア界が、ニーチェにおいて、混乱したものではあるが、回帰したと言えよう。
 

■ニーチェとフッサール:内在的超越性

イデア界への回帰ということでは、両者同じであると言えるだろう。両者ともに、困難な仕方で行ったと言えよう。
 とまれ、両者、内在的超越性(如来蔵)をつかんでいたのである。


2007年02月28日(Wed)▲ページの先頭へ
空想的試論:PS理論と量子論
先の試論において、うまく当てはまらないのは、PS理論と量子論とを一致させようとしているからである。それは、無理があるだろう。

 あくまでPS理論の発想に即して、量子論的展開をすべきなのだと思う。観測問題に関しては、PS理論は言うべきことをもっている。だから、この辺りから、さらに展開するといいように思う。
 
 すなわち、差異即非様相としてのイデアがある。これを単純化して、i*(-i)としよう。思うに、iを元粒子とすれば、-iが元反粒子となるだろう。そして、*が共振元波動を意味しうるだろう。メディア・ポイント(以下、MP)を介して、同一性化する。現象化である。

 注意すべきは、MPにおいて、元粒子と元波動とが即非一如であることである。先に、排他的二重性ではなく、即非的二重性と考えた。

 この即非二重様相を、イデアはもち、現象化において、同一性となる。量子(例えば、光子)は、即非粒子/波動様相であり、それが、現象化において、粒子、又は、波動として観測されると先に考えたのである。(参考:「だから、原波動・即非・原粒子というイデアと、波動と粒子という物質の両面を帯びていると考えられるのである。そして、観測によって、素粒子は、物質化されて、波動か粒子のどちらかに分化すると考えられるだろう。http://ameblo.jp/renshi/theme-
10000232278.html 」)

 さて、粒子と反粒子であるが、ここでは、iを元粒子、-iを元反粒子と言ったのが、問題は、i*(-i)の差異即非をどう見るのかである。先には、iないし-iが元粒子性、*が元波動性と見たのである。

 ならば、iと-iはどうなるのか。元粒子と元反粒子でいいのだろうか。少なくとも、ここには、即非的関係のイデア性をみないといけない。イデア自体が、即非様相であることを確認しないといけない。もし、イデアを元個と考えると、この元個は、元自己と元他者との即非性の構造をもっているのである。

 粒子のことで言えば、元粒子と元反粒子の即非様相としてイデアがあると考えられるように思うのである。

 すると、イデアの現象化として、粒子と反粒子が対生成すると考えられよう。作業仮説として、+1を粒子、-1を反粒子としよう。

 しかしながら、MPにおいて、i*(-i)ないしi^2ないし(-i)^2が潜在していると考えよう。

 ここで、思考実験ないし空想であるが、i*(-i)のイデアを元原子核と考えよう。そして、現象化において、それが、収束して、原子核ないし原子になるとしよう。このとき、例えば、mic・(-ic)⇒mc^2=Eとなるとしよう。エネルギーが発生するのである。(思うに、これが、原太陽ではないだろうか。)

 とまれ、i*(-i)を元原子核ないし元原子としよう。ここには、元波動があるし、また、元エネルギーもある。

 今、私が考えているのは、電子のことである。原子核を周回する電子のことである。ここでは、強引ではあるが、+1と-1を電荷と考えようか。つまり、イデア=元原子核の現象化によって、+1と-1に分化すると考えるのである。分極化である。これを、電荷として見ていいのではないだろうか。原子核ないし原子とは、この分極化と連続的な事象である。思うに、MPにおける、差異即非のイデアの連続態を原子核ないし原子と見たい。そして、±の分極化を電子と見るのである。

 そうならば、原子とは、MPにおける、差異即非イデアの連続化と言えるのではないだろうか。

 さらに、分子とは何かと言えば、それは、この原子のさらなる連続化で説明がつくのではないだろうか。

 強い力と弱い力とは、思うに、イデアの差異即非エネルギーの極性力に関係するのではないだろうか。そして、重力や電磁力であるが、それらは、連続性の極性力ではないのか。

 つまり、言い換えると、強い力と弱い力は、イデア的エネルギー極性を連続性からみているのである、重力と電磁力とは、現象化したエネルギーの極性ではないのだろうか。そして、この現象エネルギーの背後には、イデア・エネルギーがあるのである。

 ここで、飛躍するが、意識、認識の問題に触れたい。

 物質も本来は、イデアなのであるから、元意識や元認識があるはずである。元知・即非・元身体であるからである。以上の見方で言えば、原子には、原意識があると思うのである。なぜなら、それは、イデアを内在し、また、連続性ないし同一性をもつのだから。

 すなわち、強い力と弱い力が、潜在意識であり、重力と電磁力が、顕在意識ではないだろうか。(オカルト理論的になってきたが、空想的試論を今少し続けよう。)

 ならば、物質の意識と人間の意識の違いは何か。思うに、差異共振性の有無ではないだろうか。思うに、物質の意識とは完全な連続的同一性ではないだろうか。-1である。それに対して、人間は、根元的に+1を強くもっているのである。

 しかし、近代意識は、物質の意識と同じだと思う。他者を否定するのであるから。正に、Materialismではないか。

 機械の意識と言ってもいい。連続的同一性の意識である。それは、悪魔の意識でもある。そして、現代日本人は、これに感染しているのである。

 ここで、留めたい。後で、再検討したい。


2007年02月27日(Tue)▲ページの先頭へ
物質とイデア:物質をイデアから記述する:メディア・ポイントにおける虚数軸事相と実数軸事相の複相性
『文系にもわかる量子論』 森田 正人 (著)
を2/3ほど読んだが、簡潔に説明されている入門書であるが、教科書風で、淡々として、やや無機的な記述であり、喚起されるものが、残念ながら乏しい。素人の感想は、量子論は、複雑になり過ぎている、ということである。素粒子論になると、なにか、複雑怪奇の印象である。もっと、理論的に簡潔な視点はないのだろうか、などと思ってしまう。【個人的には、観測問題を扱った『量子力学入門』(並木美喜雄著)が、スリリングで、また、明快で、入門書としては、優れていると思う。】

 とまれ、ここでは、本件について、簡単にスケッチしてみたい。というか、きままなエッセイである。

 これまでの考え方では、イデアがi*(-i)ないしic*(-ic)等として、差異即非様相にあるというものである。そして、これが、メディア・ポイントを介して、⇒+1ないし⇒±1に転化するのが、現象化であると考えてきた。

 そして、物質とは、この現象化における-1ではないかと考えてきた。なぜなら、+1は、精神であると考えられるのである。

 ここまでが、これまでの私見(作業仮説)である。

 問題は、エネルギーである。イデア・エネルギーは、虚数エネルギーであると考えている。すなわち、m(ic)*(-ic)である。今、思いついたのであるが、(im^1/2)(ic)*(-im^1/2)(-ic)⇒+1mc^2としたらどうだろうか。より簡潔にすれば、(icm^1/2)*(- icm^1/2)⇒+1mc^2である。左辺の前項が元光の陽で、後項が元光の陰ではないのか。そして、右辺が、光のエネルギーである。

 元光の陽を元陽として、元光の陰を元陰としよう。すると、元光=元陽*元陰⇒光となる。元陽の元質量がim^1/2で、元陰の元質量が-im^1/2なのだろうか。

 思うに、元陽と元陰との即非・太極的元波動が、⇒hνとなるのではないだろうか。すると、元陽と元陰は、元粒子、元素粒子ではないだろうか。(そう、虚陽と虚陰で虚光を形成しているとも言えよう。)

 量子論、素粒子論は、どうも、この基本的原理を捉えていないのではないだろうか。

 とまれ、元陽*元陰⇒+1・光としよう。では、物質は、-1・光となるだろう。すなわち、(icm^1/2)*-(-icm^1/2)⇒-1・mc^2 又は、-(icm^1/2)*(-icm^1/2)⇒-1・mc^2 である。

 +1・光と-1・光とは、何だろうか。共振的光と連一的光ではないか。知覚的に見てみよう。肉眼で朝の陽光を知覚するとしよう。これは、朝の爽やかさをともない、晴れ晴れしい光である。これは、主観では、共振的光である。

 では、連一的光とは何か、知覚的に。-1・光とは何か。思うに、光は、光である。だから、-1の意味がここでは、真相的には問題なのだろう。それは、即ち、物質として、光を見るということだと思うのである。光は、本来、イデア的には、超越的共振シナジー様相である。それが共振的現象となるのが、+1・光であろう。この共振的現象としての光を物質と見るのが、-1・光ではないのか。

 エネルギーをmc^2と見るのは、物質としての光のエネルギーのように思えるのである。共振的光現象とは、超越的身体であり、(icm^1/2)*(-icm^1/2)⇒+1mc^2 の左辺を内包(如来蔵)していると思うのである。そう、光において、イデア界がある意味で剥き出しになっているように思えるのである。(参考:相対性理論)

 以上のように仮定すると、物質とは、連続的同一性化した光のエネルギーであり、超越的身体性を喪失しているのである。しかし、現象としては、本来、個体は、超越的共振身体性を帯びていると思うのである。

 ならば、現象的個体には、イデア・エネルギーが内包されているはずである。それが(icm^1/2)*(-icm^1/2)⇒+1mc^2の左辺であろう。即非・太極的虚数エネルギーである。

 思うに、量子論は、このイデア・エネルギーを看過していると思うのである。ただ、mc^2の連続的同一性の物質エネルギーを計算しているだけのように思えるのである。

 dark energyをhidden energyと読めば、このイデア・エネルギーがdark energyではないだろうか。dark matterは、+1mc^2自体ではないだろうか。

 ついでに言えば、D.H.ロレンスのdark sungやunknown Godは、このイデア・エネルギーの根元であるイデア界を指しているのではないだろうか。カトリック信仰における黒い聖母の「黒い」もdarkにとれば、やはり、イデア界を指すであろう。あまりにも輝かしくて、肉眼では眩んで(暗んで)、「黒い」となるのではないだろうか。東方キリスト教の神学者グレゴリオス・パラマスは、そのように言っている。

 どうも、物質形式は、絶対値mc^2(|mc^2|)にあるように思えるのである。この物質形式に、量子論や現代物理学は束縛されているように思えるのである。⇒+1・mc^2とすることで、途轍も無い地平が出現すると考えられるのである。端的に、超越界の地平である。ここで、文理融合・統一が実現するのである。

 ところで、素粒子とは、何だろうか。素人目には、ひどく煩雑な構造をもっていると思えるのである。クォークやレプトン、等々。四つの力の考え方も、すっきりとはしていないと思う。

 思うに、虚数軸(イデア界)での極性があり、実数軸での極性があり、それらが、二値と二値で、四元となるように思えるのである。ここでは、メディア・ポイントが、虚数的極性と実数的極性の要(かなめ)である。これを、量子論は、区別せずに、混淆しているのではないだろうか。

 有り体に言えば、強い力と弱い力は、虚数軸の極性であり、光と重力は、実数軸の極性ではないのか。

 素粒子であるが、今日のように多種多様になるのは、以上述べたような、異なるレベルの事相を混淆しているからではないのか。
http://belle.kek.jp/~uehara/
pdic/item.html#part
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90
http://www.kek.jp/kids/jiten
/particle/particle.html#part

 虚数軸/イデア界の事相があり、また、メディア・ポイントを介しての、実数軸/現象界の事相があるのである。これらは、区別されなくてはならないだろう。

 ここで、作業仮説的に言えば、素粒子は、主に、虚数軸/イデア界レベルの事相であり、原子や分子は、主に、実数軸/現象界レベルの問題ではないだろうか。

 例えば、原子ではなく、原子核の問題は、虚数軸レベルの問題で、陽子と中性子と中間子の関係であるが、中間子がメディア・ポイントとなるのではないだろうか。そして、陽子は、例えば、m^1/2icであり、中性子は-m^1/2icに関係するのではないのか。つまり、虚数軸/イデア界の即非事相が、メディア・ポイントを介して、現象事相と重なるのであり、そのとき、即非事相レベルが強ければ、素粒子様相が発生し、現象事相が強ければ、原子・分子事相が発生するのではないだろうか。

 この、メディア・ポイントを介しての、虚数軸事相と実数軸事相との、重なりであるが、新たに明確に命名する必要があるだろう。とりあえず、重相化とでもしておこうか。あるいは、複相化である。そう、複相化としよう。

 だから、メディア・ポイントM・Pを介して、虚数軸事相と実数軸事相との複相化が形成されて、そのとき、物質的観測・計測では、両者が混淆されて、あのように複雑な素粒子様態が発現するのではないのだろうか。

 おそらく、クォークやレプトンにしろ、主要な本体(本相・実体・実相)は、虚数軸/イデア界の即非事相の極性を示唆しているのではないだろうか。基本粒子ということであるが、そうではなくて、基本イデアとして、虚数軸/イデア界の差異即非極性事相を見るべきだと思われるのである。
 
 端的に言えば、元クォークはm^1/2icであり、元レプトンは、-m^1/2icではないだろうか。元陽と元陰が元素粒子対ではないのか。

 思うに、量子論は、PS理論から、見直されるべきではないだろうか。唯物論が超克されて、イデア論から物質・素粒子を位置づけるべきだと思うのである。

 とまれ、以上のように、メディア・ポイントM・Pを介して、2つのレベル、虚数軸/イデア界(超越界)と実数軸/現象界が複相化される事相・事象を把捉・認識することが出発点になると考えられるのである。


参考:
http://www.ryoushi-rikigaku.com/
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%
CE%CC%BB%D2%CE%CF%B3%D8
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7
%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90
http://homepage2.nifty.com
/eman/quantum/contents.html
http://www.shokabo.co.jp/mybooks
/ISBN4-7853-8776-9.htm



2007年02月24日(Sat)▲ページの先頭へ
光の変換について:イデア界→メディア・ポイント(MP)→現象界:二つの《光》:物質の光と精神の光
どうも、本件の問題は、直感ではわかるようでいながら、記述表現しようとすると、説得力のないものになってしまうようだ。

 ここ数日問題にしているのは、連続的同一性による認識と差異的同一性による認識の相違を理論化することである。

 具体的に言えば、《光》を知覚・認識するとは何か、ということである。そして、イデア界の《光》と現象界の《光》はどういう関係にあるのか、ということである。

 先に書いた座標を参考にしよう。


           虚数軸

            |
            |
            |
            |+i=原知性
            |
            |
            |
            |     
  連続的同一性          差異的同一性
_-1__________________原点______+1____実数軸
            | 
            |
            |
            |
            |
             -i=原身体
            |
            |
            |
            |


 これにさらに説明をつけると、


           虚数軸

            |
            |
            |
            |+i=原知性・ロゴス
            |
            |
  男         | 女
  連続・無明・物質  | 不連続・明・精神 
  連一性          差一性
_-1__________________原点______+1____実数軸
            | 
            |
            |
            |
            |
             -i=原身体・パトス
            |
            |
            |
            |

問題は、イデア界の《光》のエネルギーをm*(ci)*(-ci)とすると、それが、現象界では、m*(ci)*(-ci)=mc^2⇒Eとなるのであるが、知覚は、連一性に囚われるので、-1から、上図の実数軸のマイナスから《光》を捉えることである。

 端的に言えば、《光》を物質として捉えるということである。しかし、i*(-i)⇒+1の即非・共振の観点から見ると、《光》は、共振性をもっているのである。つまり、ci*(-ci)の共振性を《光》は帯びているはずである。

 それが、物質としての《光》では消失しているのである。粒子と波動の相補性の概念は、《光》の共振性を、物質的波動として見ているだけのように考えられる。

 つまり、量子力学は、《光》の超越的差異・即非・共振性の次元・虚数次元を欠落させているということである。

 有り体に言えば、量子力学は、実数軸においてのみ、《光》を理論化していることになるだろう。正確に言えば、メディア・ポイント(原点)に接しつつ、実数軸中心で理論化しているということだろう。

 問題は、単に実数軸中心だけではなくて、実数軸のマイナス領域(-1)で、《光》を捉えていることである。つまり、唯物論で把捉していることであり、実数軸のプラス領域(+1)では、捉えていないことである。

 実数軸のプラス領域(+1)とは、精神の領域であると思えるのであり、それは、これまで、宗教、哲学、芸術が捉えてきた領域であるように思えるのである。宗教の《光》は、この領域に属すると思えるのである。

 ここが、本件の問題のポイントの一つである。即ち、イデア界の《光》、即ち、元光が現象界の《光》になると思われるが、そのとき、±1の《光》として、現象化すると思えることである。これが、本件での思考実験の一番の問題点である。

 この±1の《光》、これは複雑で、一見、二重に考えられるが、実際は、メディア・ポイント(原点)を含むので、三重・三相ではないだろうか。

 とまれ、⇒+1を考えると、それは、共振性、メディア・ポイントを介して、超越性を含んでいると言えよう。それに対して、⇒-1は、メディア・ポイントを介するものの、連続化するので、超越性を否定・排除していると言えよう。

 +1と-1は、そうすると、非対称性をもっていると言えよう。(なお、ポスト・モダン、ポスト構造主義とは、このメディア・ポイントを混濁して理解していたのである。つまり、それらは、明晰・明確に、虚数軸・超越性を理解していず、実数軸・連続性と虚数軸・不連続性を未分化的に混同していたのである。)

 さて、問題は、±1の《光》(二相ないし三相の《光》)を、単に物質的光と見るとはどういうことなのだろうか。具体的に言えば、《光》のエネルギーの計測はどうなるのだろうか、ということである。

 m*(ic)*(-ic)⇒m・(+1)・c^2⇒+1・E

であるが、これは、+1であるから、共振性をもった《光》のエネルギー量ではないのかと思えるのである。

 物質の《光》ならば、-1であるから、⇒-1・Eではないのだろうか。これが、大きな疑問点なのである。これが、問題点の核である。

 この+1・Eと-1・Eの相違をどう見るのか、である。ここで、作業仮説であるが、相対性理論とは、共振する《光》、即ち、+1の《光》の理論であり、それは、-1の《光》を排除しているのではないだろうか。つまり、端的に言えば、現代物理学は、錯誤を犯しているのではないのかということである。なぜなら、物質としての《光》は、-1であるのに、相対性理論の《光》は、+1であるからである。すなわち、-1と+1を混淆させているということである。

 そう、《光》の認識にズレがあると考えれるということである。物質の《光》と精神の《光》のズレと言えるのではないだろうか。アインシュタインの《光》は、精神の《光》の理論であると思えるということである。

 これは、思いつきであるが、物質の-1の《光》と精神の+1の《光》のズレが、ダーク・マターやダーク・エネルギーの問題として出ているのではないのか。

 ダーク・マターとは、-1の《光》に関係するのではないのか。また、ダーク・エネルギーは、ダーク・マターのエネルギーに、イデア界の元エネルギーm*ic*(-ic)を加えたものと関係するのではないのか。

 とまれ、本件の問題にもどると、連続的認識と不連続・共振的認識のズレが、知覚・認識の問題として生じていると思えるのである。

 そう、これは、人間の基本的認識の混乱と言ってもいいだろう。言い換えると、近代的認識の問題である。二つの《光》があるのに、近代的合理主義(近代科学的唯物論、近代的自我)は、一つの《光》、すなわち、-1の《光》、物質の《光》に限定してしまったと考えられるということである。

 だから、問題は、自然科学の発展は、この近代的認識の枠組みを超えたところに達しているのに、自然科学の認識の枠組みは、旧態依然の唯物論なのであるということではないか。

 相対性理論や量子論は、メディア・ポイントを介しての、超越的現象事象を対象にしているのに、その認識のフレームワーク(パラダイム)は、未だに、近代的物質主義であると考えられるということである。この理論的進展と思考・認識的反動の矛盾・齟齬が大問題であると思えるのである。

 このズレは何ももたらすのか。それは、明らかに、狂気(暴力・破壊)である。二つの《光》を一つの《光》に限定するのであるから、他の一つの《光》を否定・排除・隠蔽するので、それが反動(バックラッシュ)化して、狂気となって、心を襲うはずである。

 近代的自我は、精神の《光》、アインシュタインの《光》を排除しているので、それが、狂気となってバックラッシュすると考えられるのである。現代日本人の狂気がこれであると考えられるのである。

 宗教上の《光》は正しいのである。それを、アインシュタインは科学的に理論化したと考えられるのである。そう、哲学認識の遅れがあり、それが、人類の超大惨状・超大危機をもたらしていると言えよう。問題を逃避して、刹那的に世俗に愚劣に酔い痴れているので、とりわけ、日本人が危ういのである。

 結局のところ、物質的認識(近代的自我認識)と精神的認識(トランス・エゴ認識)の未分化的混乱・混濁・混淆があるのである。そして、現代は、後者がさらに進展しているのである。差異共振シナジーが、フラット化等で、進展しているのであり、ますます、近代的合理主義という旧パラダイムとのズレが拡大しているのである。この点でも現代日本は、危ういのである。

 そう、ここでの検討の結果、あるいは、PS理論は、文科系的真理と理科系的真理が一致することを説いているのである。本件で言えば、宗教上の《光》と相対性理論の《光》は一致するということである。文理融合、文理統一、文理一体化は、現代の真理であるのである。

 だから、人間の認識の超革新が現代必要なのである。現代は、コペルニクスの時代と等しく、パラダイムの転換のエポックなのである。この転換をPS理論は説くものである。

 近代的自我を乗り越えて、トランス・モダンの自己に変容・進展・進化する必要があるのである。とりわけ、大乗仏教はこのことを述べてきたと言えよう。とまれ、PS理論が明晰に知的にこの乗り越えを説明できると言えよう。不連続性と差異即非共振性、ここにすべてがあると言っても過言でない。

 別稿で、更に検討を続けたい。
____________________________


超越空間と超越論的主観性:PS理論とフッサール現象学
昨日のメモは、かなり長いものなので、ここでは、ポイントを整理して述べたい。

1)イデア界の元光と現象界の光の関係を問題にした。最初に、メディア・ポイントにおける、不連続的差異から連続性への変換を考えた。これは、いわば、騙し(マーヤー)、偽造の回路である。図式化すると、

即非イデア超越空間→メディア・ポイント→連続空間

となる。メディア・ポイントは、垂直から水平への変換点である。ここで、注意すべきは、差異=微分ないし連続的差異のことである。これは、連続的同一性から、最小限を虚構して考えられたものであろう。それは、連続的同一性からの演繹である。

2)元光から光の形成の問題:メモはかなり思考実験的なので、簡単に触れると、超越空間においては、A即非Bであるが、それが現象化すると、A≠Bとなり、ここに距離が発生するというようなことを述べている。この問題は思いつきの段階なので、ここでは書かない。

 ⇒-1が、光・連続・現象空間であると考えた。現象化は、±1と考えた。そして、元光は、メディア・ポイントを経由して、-1の光と+1の光に生成すると考えた。前者が連続空間の光である。ならば、後者の空間は何か。現象即非空間ではないかと述べている。

 メディア・ポイント(MP)を経由して、イデアは、同一性化するのである。連続的同一性(-1)と差異的同一性(+1)となる。連続空間と差異空間であるが、両者、現象空間である。一般に、人間は、前者に傾斜しているので、後者を認識できない(無明)。

 ここで、フッサール現象学について考えた。超越論的主観性とは、メディア・ポイントMPにおける、+1の認識のこと考えられる。しかし、問題は、フッサールが主観性と述べたことである。それは、主観性・即・客観性、思惟・即・延長、心・即・身体である。

 フッサールのノエシス/ノエマは、正しくは、そのようなものと考えられる。すなわち、主客即非空間を問題にしているのに、フッサールは主観性に限定した。なぜ、そうしたのかと考えたのであるが、それは、ノエシスという概念が他者・他者的差異に達していないからではないかというものであった。

 すなわち、ノエシスは差異的他者への志向性ではなくて、連続的同一性の志向性ではなかったのかと思ったのである。つまり、フッサールの超越論性は、i*(-i)を示唆しているが、連続的同一性を志向したと思えるのである。フッサールの矛盾があったのではないだろうか。

 この原因は、フッサールが、超越性が即非性であることを理解していなかったからでないかと考えた。

3)メモの第三のポイントは、連続的同一性である近代合理主義、つまり、唯物科学の認識と、差異的同一性の認識の違いの意味である。今、極く簡単に述べると、連続的同一性は、⇒-1となり、差異的同一性は、⇒+1となる。

 この違いは何かと考えたのである。それは、-1には、超越即非性が欠落していることである。そして、m*(ic)*(-ic)が超越エネルギーであり、これを、唯物論科学は、見ていないのではないかというようなことを言った。

 今、思ったことであるが、m*(ic)*{-(-i)}⇒-mc^2である。そして、m*(ic)*(-ic)⇒+1である。思うに、前者をエネルギーとすれば、後者は反エネルギーではないのか。これが、ダークエネルギーに関係しているのではないのか。

 一昨日のメモは、分量は多いが、内容はほとんど思いつき程度である。後で、新たに論点を検討したい。どうも、一昨日のメモは不出来であったようだ。


2007年02月20日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:即非イデアと素粒子:波動関数の収束と虚軸・虚界・イデア界
今、少し時間があるので、本件について、今思っていることに触れたい。

 今、『量子力学入門』(並木美喜雄著、岩波新書)を読んでいるが、非局所的長距離相関という、光速を超えると考えられる事象のことが気になるのである。

 直観では、虚軸の差異即非相(造語して、虚相・虚界)と実軸の同一性相(造語して、実相・実界)の関係を見るべきなのである。

 すなわち、波動関数の収束であるが、波動のときは、粒子は、虚軸・虚相・虚界に、いわば、潜在(虚在)し、収束するときは、実軸・実相・実界に発現・顕現するのではないだろうか。

 つまり、虚軸の粒子は、虚粒子であり、イデア粒子であるということであり、それが、波動関数となっているのではないのか。それが、収束して、実軸の実粒子になるということではないのか。

 i*(-i)は、波動関数ではないのか。そして、→+1で、粒子になるのではないのか。

 だから、超光速というよりは、虚数の光速ic又は-icと見るべきではないのか。これは、実空間(現象空間)ではなく、虚空間(イデア空間)を移動しているのである。この虚空間(イデア空間)は、現象界から見たら、どういう具合なのだろうか。

 確かに、現象軸に直交した軸にあるということになる。第四次元である。内在超越空間ないし超越空間である。

 これは、神秘的な作家には、コスモスの空間ということになるのではないだろうか。

 とまれ、以上のように考えると、素粒子は、波動としては、イデア空間にあるということになるだろう。つまり、差異即非ないし即非イデアが素粒子の根源であるということになるのではないだろうか。すなわち、i*(-i)が即非イデアあるいは元素粒子である。

 これは、原点を介して、イデア界から現象界へと転化すると言えるだろう。

 思うに、量子力学で場と呼んでいるのは、原点(ゼロ・ポイント)のことではないだろうか。あるいは、真空と呼んでいるものは。しかし、それでは、虚軸・虚界・虚相を捉えていないだろう。
つまり、量子力学は、差異即非イデアを、原点と実軸でしか捉えていないのではないだろうか。だから、非局所的長距離相関という仮説をとらざるを得ないのではないだろうか。しかし、虚軸・虚界・虚相・イデア界を考えれば、そのような超光速の事象を考える必要がなくなるだろう。

 元素粒子は、イデア界に存していると見ればいいと思うのである。

 さて、これまで、フッサール現象学の超越論性は、虚軸において考えたが、ハイデガーの存在はどうなるだろうか。私は、それは、フッサールの志向性の概念を、内在的存在に変更したものではないかと思えるのである。これは、哲学としては、後退だと思うのである。志向性は、知即存在と考えるべきである。

 ついでながら、思いつきで言えば、クォークは、当然、差異即非イデアi*(-i)を指しているのではないだろうか。

 また、スピンであるが、それは、左回転、右回転で説明がつくのではないだろうか。

 では、最後に、問題として、以上のように考えると、差異即非イデア=元素粒子には、元意識があるということになるのではないだろうか。

 そう、元素粒子=イデアは、志向性であるから、確かに、元意識と呼んでいいように思える。元意識子である。あるいは、簡単にして、意識子としての元素粒子である。

 ならば、(これが本当の最後であるが、)人間の意識と元素粒子=元意識子の関係はどうなるのだろうか。おそらく、等価と見ていいのではないだろうか。というか、元意識が元素粒子=元意識子と等価である。そして、それは、光というか、元光である。神である。元光=神=元意識=元素粒子となるのではないだろうか。

 元光は、現象化して、光となるだろう。今はここで留めたい。


2007年02月19日(Mon)▲ページの先頭へ
波動と粒子:その2:ic*(-ic)という即非対子(イデア対子)と元相補性
先に、イデア界の様相が波動で、現象界のそれが粒子と言ったが、それは、端的には間違いなので修正したい。

 干渉縞の実験から、素粒子が波動であることは、周知のことである。つまり、現象においても、波動であるということである。では、私が述べたイデア界での波動性はどういう風に考えたらいいだろうか。

 ここでも直観であるが、イデア界でのイデア波動(思うに、イデア子を考えてもいいのではないだろうか)が、現象化して、量子波動となると思われるのである。

 すなわち、イデア界でのイデア波動(イデア子波動)と、現象界での量子波動があるということである。しかし、これまで、量子とは、イデア/現象境界の事相であると考えてきたので、量子波動を単に現象界の波動と見るのは正しくないと言えよう。

 つまり、端的に言えば、量子波動とは、イデア波動(イデア子波動)の影であるということである。ならば、イデア波動(イデア子波動)と粒子の関係はどうなるのだろうか。

 粒子もイデア(イデア子)の影ではないのか。

 イデアないしイデア子とは、(ic)*(-ic)であると言えよう。これは、即非子(対極子、太極子、双極子)と呼べるものであろう。

 これは虚数エネルギーであり、ポテンシャル・エネルギー(デュナミス)である。ここには、hν⇒Eがあるだろう。

 つまり、この即非子は、虚数波動であり、これが、イデア/現象境界、つまり、量子論的空間においては、量子波動として検出されるということではないだろうか。

 電子にしろ、光子にしろ、それは、量子空間(=メディア空間)における波動である。そう、問題は、現象空間である。現象空間とは、イデア空間に浸透されているのではあるが、それは、メディア空間を介してである。そして、メディア空間が量子空間なのである。(相対性理論をどう見るのか。それも、メディア空間の理論であると言えると思う。)つまり、素粒子が波動でもあるというのは、イデア波動の影ということになる。

 では、問題は、イデア波動と粒子との関係である。あるいは、イデア子(即非子)と粒子の関係である。あるいは、イデア波動とイデア子(即非子)の関係である。

 イデア波動とは、イデア子=即非子の波動である。それは、即非共振シナジーの波動である。m(ic)(-ic)=hν⇒E とすれば、ν=(ic)(-ic)・m/h である。これが、イデア子=即非子の波動の振動数である。そして、イデア子の粒子性であるが、それは、Kaisetsu氏のm*{(+ic)*(- ic)}⇒+1*Eにおける右辺の+1に表現されているのではないだろうか。

 では、問題は、icや-icは何であるのかである。これは、イデア子(即非子)の構成要素である。思うに、即非対子(イデア対子)とでも呼べるだろう。即非対子がイデア子=即非子を構成していることになる。

 即非対子は、粒子なのだろうか。粒子を物質とするなら、それは、粒子ではない。それは、原粒子ないし前粒子である。そう、即非対子は、対極性を形成しているから、正に、相補性を形成していると言えよう。確かに、即非対子ないし即非子(イデア子)において、「波動」と「粒子」の相補性が形成されていると言えよう。

 結局、粒子とは何かの問題になるだろう。即非対子においては、「粒子」性と「波動」性は不可分一体である。「粒子」即「波動」である。これが、思うに、量子論における相補性とは異なる点ではないかと思う。量子論の相補性とは、イデア/現象境界、すなわち、メディア界における相補性であるからである。即非対子の相補性は、イデア界における相補性なのである。これを、元相補性と呼ぶことができよう。

 今は、ここで留めたい。


2007年02月13日(Tue)▲ページの先頭へ
文理統一理論としてのPS理論:現象学と構造主義と内在超越的原点
クザーヌスの『学識ある無知について』を読んでるが、これは、天才と鬼才の中間のような人の著書である。http://ameblo.jp/renshi
/entry-10024871114.html
また、ほとんど読んでいない、メルロ=ポンティの『眼と精神』を読んでいる。
 メルロ=ポンティは、現象学の理論家の一人であるが、フッサールとハイデガーの中間のような現象学のように思える。身体的現象学である。
 私のイメージでは、メルロ=ポンティの「存在」とは、イデア界=心界と呼ぶといいのではないかと思った。しかし、よく考えると、身体がいわばメディアになっているのである。身体を介しての存在を説いているようだ。だから、思うに、身体内存在である。ハイデガーの世界内存在とは異なる。
 私は、先に、身体は、イデア界=心界を内包していると述べたから、身体内存在という思想とは重なるだろう。ただし、これも直感だが、メルロ=ポンティの「存在」は、ハイデガーやドゥルーズ的に、内在論ないし連続論だと思うのである。フッサール的超越性を否定しているような向きを感じるのである。
 思うに、超越論という術語が、いわば、曲者である。これは、曖昧な言葉なのである。カントの超越論性は何なのだろうか。それは、構造性である。では、構造性とは、何なのか。
 私は、内在的超越性(内超性)と言うが、これは、虚数性を指しているのである。単に超越論と言ったときは、構造性だけではなく、内在的超越性を指し得るだろう。ここに混乱が生じるのである。言葉ではあいまいだが、プラトニック・シナジー理論では、まったく明確である。
 
 さて、ここで構造性としての超越論性を考えてみよう。内在的超越性は、虚数軸であり、現象軸は実数軸である。では、構造=超越論空間はどこだろうか。それは、虚数軸Y軸⇒実数軸X軸の変換内にあるのではないだろうか。それは、ある意味で原点(0, 0)ではないだろうか。原点が構造=超越論空間ではないだろうか。
 しかし、ここは、内在的超越性の契機ポイントでもあるだろう。これをどう考えたらいいのだろうか。原点を構造空間と見ていいのではないだろうか。そして、ここから、垂直に、超越化する虚数軸が本来の内在的超越性の超越性であると言えると考えられるのである。つまり、内在的超越性とは、出発点として、原点=構造性を含むのであり、それから、飛躍して、つまり、脱構造化して、虚数空間化したものと考えられるのである。
 
 以上のような考えが成り立つなら、原点と虚数軸の関係が問題になるだろう。これを連続と見ると、ドゥルーズの哲学のように内在論になってしまうのではないだろうか。だから、原点を特異点と見るのが正しいのではないだろうか。そう、不連続点である。そう見ると、不連続的差異論となり、さらには、PS理論となると考えられるのである。

 しかし、原点は、実数軸上にあるから、連続性を持ちうるのである。だから、原点は、特異性と連続性の両義性をもっていると言えよう。ここは、正に、メディア・ポイントと言うべきものではないのか。即非性であったり、また、連続的同一性であったりするだろう。だから、イデア界と現象界の境界である。イデア/現象境界としての構造=超越論性となるだろう。
 
 結局、ドゥルーズ哲学は、この原点(ゼロ・ポイント)の様態を反映した哲学であったと言えよう。つまり、特異性と連続的差異=微分を混淆させた哲学であったと言えよう。思えば、ドゥルーズ自身の構造主義の説明を読んで、私はポスト構造主義の説明と感じたものである。このような混淆が生じるのは、このことを考えれば、明白である。そう、構造主義は、必然的に、不明晰に、トランス構造主義、トランス・モダンを示唆するのである。それが、ポスト構造主義/ポスト・モダンなのである。有り体に言えば、構造主義=ポスト構造主義=ポスト・モダンなのである。

 では、現象学は何なのだろうか。以上の考えからすれば、現象学も構造主義もほとんど共通である。特に、ハイデガー/メルロ=ポイントの「存在」は、原点=構造を指していると思えるのである。ただし、フッサール現象学は、原点を超越していたと考えられるのである。現象学的還元、エポケーとは、連続性の超越であり、虚数軸空間への飛翔であると思うのである。

 では、志向性とは何か。それは、自己から他者への志向性であり、正に、i*(-i)⇒+1であろう。つまり、フッサール現象学は、PS理論の現代的先駆と言えるのである。

 問題は、原点において、iと-iとが対峙するが、初めは、原点は、特異点であり、iと-i とが即非共振様相となるのである。そして、これが、現象化して、+1となるのである。では、-1はないのかということになるだろう。

 思うに、特異点として原点においては、⇒+1となるが、連続性としての原点においては、⇒-1となるのではないのか。だから、現象界は二重なのではないのか。特異性、不連続性、即非性の視点から見ると、個体は、+1である。即ち、差異的同一性である。しかし、連続性の視点から見ると、個体は、-1で、連続的同一性となるということではないのか。もし、そうなら、それは、何を意味しているのだろうか。

 そう、やはり、二つの現象界があるのである。そして、二つの世界があるのである。不連続性の世界と連続性の世界である。これは、視点・認識の違いとも言えるが、思うに、聖書で言う「光の子」と「この世の子」の違いではないのか。とまれ、現象に即して考察しよう。

 直観では、原点を介して(メディアとして)、+1と-1との両者が成立するのである。では、+1の現象、-1の現象とは何だろうか。自我の現象と自己の現象である。無明の現象であり、叡知の現象である。意識の現象と「無意識」身体の現象である。これは、自然の二重性・二元論であろう。西洋の二元論とは、 -1から生じたものであろう。思惟と延長の二元論は、ここから発生したのだろう。i中心が思惟となり、-i中心が延長となったのだろう。これは、倒錯・転倒である。

 そして、東洋文明は、+1を保持したと言えよう。陰陽性である。-1が二項対立・弁証法性である。西洋文明である。そうすると、-1が父権制、+1が母権制と言えよう。男性と女性である。火星♂と金星♀である。ここで思いつきで言うと、不連続性の原点が太陽であり、連続性の原点が月ではないだろうか。そう、原点で、太陽と月があるのである。太陽原点と月原点である。

 以上は、認識の相違に関して区別したものだが、より現象自体に即すとどういうことなのだろうか。つまり、より身近な現象でいうと何だろうか。思うに、精神エネルギーが+1で、物質エネルギーが-1ではないのかと思うのである。

mc^2{i*(-i)}⇒mic・(-ic)⇒mc^2⇒+E
mc^2{i*-(-i)}⇒mic・-(-ic)⇒-mc^2⇒-E

である。二つのエネルギー、正負エネルギーがあることになる。

 もし、連続性が不連続性よりも、強ければ、負エネルギーの方が多いことになるだろう。これが、ダークエネルギーなのか。

 とまれ、二つのエネルギー、正負エネルギーが現象界にはあり、それらが、いわば、相克しているのではないだろうか。正エネルギーは生成であり、負エネルギーが破壊ではないのか。ネゲントロピーとエントロピー? 共振エネルギーと破壊エネルギー? 

 思うに、量子の波動とは、正エネルギーであり、粒子とは、負エネルギーではないのか。正負エネルギーが量子を構成しているのではないのか。つまり、量子は、一性(いつせい)ではなく、即非性であろう。異なるものが、不連続に、重なっているのではないのか。

 また、歴史的に言うと、ルネサンスは、+1であったが、近代は、-1の近代合理主義が主流となった。もっとも、正確に言えば、±1の相克が近代である。民主主義は、+1である。自由主義も、+1であるが、自我的になると、-1と重なる面が出て来るだろう。

 そう、当然、唯物論は、-1である。社会主義も-1である。資本主義は、唯物論的には、-1である。

 以上のように見ると、二つのエネルギー現象が現象界にあると言えるだろう。そして、特に人間の場合は、近代になり、-1が+1を圧倒するまでになったのであり、現代日本は、この極致である。

 -1の破壊エネルギーが世界を満たしているのである。+1の共振エネルギーを復活させないといけないのである。

 しかし、±1の様態の変化の発生の力学は何なんだろうか。一種の陰陽力学ではないだろうか。あるいは、陰陽的捩れの力学ではないだろうか。つまり、螺旋的力学である。i>-i、あるいは、-i>iだと−1へ傾斜する。しかし、±1は、同時存在しているのである。

 このように考えると、西洋文明は、i>-iによって-1へと傾斜したのである。しかし、陰陽力学は、揺り戻しがあり、おそらく、1/2回転して、再び、零度へと復帰するのである。これが、+1である。これが、新東西統一文明ではないだろうか。

 今は、ここで留めたい。


2007年02月12日(Mon)▲ページの先頭へ
自己と他者の問題:連続的同一性は自己から他者への志向性のみか、それとも、双方向志向性なのか
問題提起:自己と他者の問題:連続的同一性(連一性)は、自己から他者への志向のみなのか、それとも、双方向性があるのか。

どうも、この問題は、まだ、解決されていないと言うべきである。これまでの経緯を言うと、初めの考えは、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式において、i を自己、-iを他者として、i→(-i)=i*-(-i)⇒-1とし、また、i←(-i)=-i*(-i)⇒-1として、自己の連続的同一性と他者の連続的同一性を認めたものであった。

 しかし、最近は、自己の連続的同一性のみを認めて、他者の連続的同一性を否定したのである。

 ここで、サルトルの他者は地獄であるという比喩的表現を考えてみよう。このときの他者は、自己に連続的同一性を強いているように見える。つまり、なにか暴力的に、自己を否定して、他者の権力を押しつけようとしているというようなことになるだろう。そのように見ると、確かに、他者の連続的同一性があるように考えられるかもしれない。

 しかしながら、よく考えてみると、サルトルの場合の他者とは外的他者であり、これは、実際は、自己内において否定された内的他者の外部への投影であると見るべきであると考える。即ち、i*-(-i)⇒-1という自己連続的同一性事象が発生し、そこに生じた自我(連続的同一性自己)によって、対象たる外的他者を観察していると考えられるのである。当然、これは、否定的観察眼である。外的他者に投影した連続的同一性自己を観察することになるのだと思う。つまり、他者とは地獄とであるという比喩的意識は、自己連続的同一性の自我意識の倒錯であると言えるだろう。自我意識がそもそも倒錯的であるのだから、これは、二重の倒錯となるだろう。
 
 ということで、外的他者の連続的同一性とは、自己内における内的他者を否定した連続的同一性認識の投影であることが確認できたであろう。

 では、問題は、内的他者の連続的同一性があるのかどうかである。内的他者とは、有り体に言えば、身体である。それも、内的身体である。すなわち、内的他者=内的身体である。だから、その連続的同一性があるのか否かである。
 
 直観で考えよう。内的他者=内的身体(以下、内的他者・身体)は、確かに、ある種の同一性志向をもつだろう。たとえば、木を見ているとしよう。それに対して、内的他者・身体は、木と一体化するのではないだろうか。「わたし」は、木である、と意識するのではないだろうか。あるいは、鳥を見て、「わたし」は鳥であると、意識するのではないだろうか。

 この内的他者・身体の同一性と自己の連続的同一性は異なるだろう。後者は、あくまで、他者を否定して、自己同一性化するのであるから。それに対して、前者は、いわば、自己を否定するようにして、他者と同一性化するのであるから。そうすると、やはり、内的他者・身体の連続的同一性があることになるだろう。

 そうすると、最初の考えに戻ることになる。一応、そういうこととしよう。

 問題は、そうしたとき、結果は、⇒-1となるが、様相・様態が異なっていることである。自己の連続的同一性は、自我を形成するが、内的他者・身体の連続的同一性は、言わば、他我を形成するのではないだろうか。i→(-i)が自我形式であり、i←(-i)が他我形式と言えるのではないだろうか。

 さらに内的他者・身体の連続的同一性の様態について考察してみよう。直観では、ここには、いわゆる、コスモス的一体性が喚起されるのである。神秘主義的意識である。これをどう考えるのかである。先に、身体的霊性ということを言ったが、それに通ずるものがここにはあるだろう。

 自己の連一性と内的他者・身体の連一性は、結果は、-1で等価であるが、どうも様態が決定的に異なっていると思えるのである。やはり、iと-iとは非対称なのではないのか。自己内において、自己と他者があるが、当然、論理的に、他者とは自己ではないものである。だから、自己のもつ連一性と他者の連一性とは異なるはずである。

 いったい、他者の連続的同一性とは何だろうか。これは、正に、他者自体になることではないのか。これは、これで、倒錯である。自己否定であるからである。自己喪失であるからである。しかし、この自己喪失には、自己連続的同一性にはない何かがあると思う。一種、カオスモス的意識があるように思えるのである。即ち、超越性に触れているような様態があるように思えるのである。そう、いわば、宗教的感情に近いものがあると思うのである。これをどう見るのか。

 そう、内的他者・身体とは何か、ということになるだろう。自己・心的主体性とは知的認識主体性である。それは、言語を形成して、感覚的知覚認識を行うのである。それに対して、内的他者・身体は、そのような知的認識性をもたない。直観では、ここには、ゼロ・ポイント、原点、如来蔵があるように思えるのである。

 これが、自己と他者との違いではないだろうか。自己には、言語的合理主義があるが、他者には、原点的即非認識の可能性があるのではないだろうか。

 これは、身体、とりわけ、内的身体とは何か、という問題になるだろう。直観では、内的身体とはイデア界を内在しているのである。つまり、内在的超越性の空間、「場所」である。あるいは、原点である。原点としての内的身体である。そして、ここから、自己の連続的同一性が発生するのである。つまり、身体こそ、根元・基盤であり、ここから、自己の連一性が発生するのである、と思われるのである。

 ゼロ・ポイント(0, 0)としての身体である。即ち、i*(-i)の現象的顕現の空間としての身体である。そうすると、心であるiは、身体の内包されていることになるだろう。つまり、身体内部において、心iが存在するのであり、これが、内的他者-iともともと関係しているのである。そのように見ると、-i=i*(-i)となってしまう。この齟齬を解決しないといけない。

 思うに、自己iが連続的同一性・自我化すると、内的他者-iが否定され、即ち、自己iと内的他者-iが分離する。主客二元論の開始である。しかしながら、本来、自己iと内的他者-iを即非的一如、即非的一体である。

 問題は、連続的同一性の意味である。内的身体から自己的連続的同一性が立ち上がるのである。このとき、自己iは、内的他者-iを分離するのである。そして、主客二元論の基礎を形成するのである。

 ということは、連続的同一性の志向とは、自己に限定されているものであり、内的他者には、本来、そのような作用はないのではないだろうか、と思えるのである。

 つまり、内的他者-iにおいては、連続的同一性は積極・能動的には不在であり、ただ、自己の連続的同一性の投影として、内的他者の連続的同一性が形成されると思えるのである。

 そう考えると、二転三転することになり、他者の連一性志向性は否定されることになるのであるし、また、他者と身体との考え方を変更する必要があるのである。

 そう、内的他者・身体とは、本来、原点の即非性(如来蔵)を内包しているのである。それは、いわば、前意識・無意識である。この「闇」=原光から、自己の連続的同一性の「光」が発生するのである。この「光」は、-1である。i*-(-i)⇒-1なのである。

 そして、-iは、もともと、i*(-i)における-iであり、即非様相なのである。以上で私が他者の一如性・コスモス性と言ったは、この即非様相の反映であると言えるだろう。だから、他者自体による連一性は存在しないことになる。自己の連一性の投影としての他者の連一性の幻像・妄像は生起するだろうが。

 以上のように考えると、父権神話やニーチェ/ロレンス哲学・思想の意味が明快になるだろう。

 即ち、父権神話では、本来、女神である母神が、怪物(例えば、フンババ)として表象されて、英雄神がそれを征伐して、それを二分化して、天地創造を行うが、女神・母神に相当するのが、身体・内的身体である。そして、それを二分化(二元論化)する英雄神(男性神)が、自己の連続的同一性=自我である。これが、主客二元論を発生されるのである。身体が邪悪視されて、二元論的知識が肯定されるのである。

 また、ニーチェ/ロレンスであるが、彼らは、身体・大地を肯定したが、これは、正に、女神・母神の身体、即非身体の肯定と言えよう。彼らは、現代の新母権制を提示しているのでもある。また、永遠回帰やコスモスは、当然、超越界=超越的差異共振界=イデア界を指していると考えられるのである。

 以上のように考えると、東洋的身体論はまったく正鵠を射ているだろう。身体とは内在的超越性の空間なのである。

 さて、では、やや飛躍するが、カントの純粋理性は、どういう位置にあるのだろうか。

 超越論的形式は、自己の連続的同一性構造と考えていいだろう。(時空間が主観的形式であるという点は後で考察。)では、純粋理性はどうだろうか。

 思うに、カントの悟性は、連続的同一性の形式であり、純粋理性は、実は、身体・内的身体の様相を知性化したもののように思えるのである。身体の様相は、即非様相であるから、当然、同一性の論理では、矛盾が発生せざるを得ないのである。それが、アンチノミーの意味ではないのか。カントの純粋理性は、本来、身体の内在的超越性、超越的即非性を対象化していたのであるが、同一性の論理に囚われていたのである。それを差異即非の論理として展開できなかったと言えるだろう。
 
 換言すると、カントの純粋理性批判は、身体の即非論理に対する同一性論理を基準とする規定と言えるだろう。後に、ウスペンスキーが『ターシャム・オルガヌム』で、即非論理とほぼ等しい第3の論理学を提起して、カント哲学の乗り越えを行ったのである。

 このように考えると、鈴木大拙の般若即非の論理学の意味が明瞭になるだろう。これは、至高の大乗仏教の内在超越的差異共振シナジーの論理表現なのである。そして、PS理論は、これを現代化・総合化したものである。以前、不連続的差異論を最勝超至高と呼んだが、超最勝超至高のPS理論と呼ばなくてはならないだろう。


2007年02月11日(Sun)▲ページの先頭へ
見るとは何か:光とイデア界
先に、見ることは信じることSeeing is believingと言った。しかし、大乗仏教の考えでは、言語分節される知覚は、妄分別になるのである。つまり、主客分離型知覚・認識は、無明に入るのである。この点をどう考えたらいいのか。

 現象は、イデアの展開であると見ることができるだろう。ただし、不連続的展開である。目に見える世界、可視界は、不可視界・超越界・イデア界のある展開である。そう、だから、単に感覚の目ではなく、知性の目で見なくてはならないのである。視覚は、この点で、現象界に限定される。知的視覚があるのである。それは、精神的知覚とも言えるだろう。神秘家なら、霊的視覚と言うだろう。

 そう、イデア界の視覚があるのだろう。直観というのは、これを含むことができるだろう。知的直観。イデア的直観。

 連続的同一性的現象・物質的視覚とイデア的視覚があるのだろう。心眼とは当然、後者である。そして、近代的自我は、後者を喪失しているので、ものが見えなくなっているのである。無明である。

 つまり、i→(-i)⇒-1の連一性自我の視覚は、他者-iを否定するので、差異即非の様相=イデア的様相を知覚・把捉できないのである。ここに近代の狂気・愚鈍・悲劇等があると言えよう。人間は、堕天使となったのである。これが、神の死でもある。

 私がコスモスの光というのは、このイデア界に通じる光のことだろう。原点という内在的超越ポイントを介して、差異即非のイデア界の光・原光を指しているのだろう。そう、現象において、確かに、イデア界の光はあるのであるが、人は、それを認識しないのだろう。

 ならば、光とは何か、である。というか、現象とは何かである。『大乗起信論』がやはり正しくて、現象とは、イデアのある位相変換ではないだろうか。しかし、内在的超越的ポイントである原点を通して、現象からイデア界をなんらか感知することが可能ということではないだろうか。コスモスの光とは、現象の光を介したイデア界の光のことではないのか。原点がメディア・ポイントになっているというこだろう。

 問題は何故、光が例外的な直截なメディア(いわば、聖霊的なメディア)なのだろうか、ということである。思うに、イデア界の本質は光・原光(無量光)であり、原光のデュナミス/エネルゲイアが充溢していると考えられるのであり、おそらく、それが、天体的には太陽や恒星となって、発光しているのである。簡単に言えば、イデア界は太陽として現象しているということである。

 では、イデア界の原光と現象光の関係はどうなのだろうか。先に思考実験的に、陰陽原光子(双極原光子とでも言おうか)という考え方を提示した。それを使えば、それが現象光に変換するのである。ここで、さらに思考実験して、陰陽ないし双極原光子の差異的同一性化が光としよう。だから、光には、内的にはイデア界が潜在していると言えよう。光を仲介することで、つまり、光を内的に知覚することで、すなわち、原点的に、内在的超越的に視覚することで、イデア界の原光に触れることができるのではないだろうか。

 どうもそのように思える。光の内部には、イデア界が超越的に潜在しているのである。だから、特に、光を介して、イデア界を直感できるのである。御来光、大日如来、阿弥陀如来、アフラマズダ、天照大神/卑弥呼(日御子、日見女)は、正当な精神的視覚(霊的視覚)と言えよう。また、この日の御子(「天皇」)とは、現象の太陽のことであろう。

 では、ついでに、月とは何かと考えると、それは、直感では、身体である。物質である。そう、-1である。月読み、ルナティクス、かぐや姫、フィービー、アルテミス、等々。それは、処女生殖に関係があるだろう。聖母マリア、大地母神。そう、大地である。ガイアである。月と地球の結びつき。-1? 後で再考したい。


2007年02月10日(Sat)▲ページの先頭へ
イデアから現象への変換について:同一性化と連続化
結局、問題は、認識の問題である。自己と他者の間の認識問題である。i→(-i)⇒-1とし、(-i)→iはあり得ないと先に考えたのである。それ以前は、後者もあり得ると考えたのであるが。この点を再検討したいのである。

 iを内的自己、-iを内的他者としていいだろう。これが、即非様相を形成しているのが、イデア界である。i*(-i)である。確かに、論理的に言えば、双方向の連続性が考えられるだろう。i⇔(-i)である。しかしながら、ここで考えなくてはならないのは、iとは、心であり、認識志向性であることであり、-iは、身体であり、被認識志向性であるということである。つまり、自己にとって、他者の認識性をもつことができるのか、ということを考えると、それは、不可能である。他者は、他者であり、基本的には、不可知である。-iのもつ認識をiはもつことは不可能である。だから、そう考えると、(-i)→iはあり得ないとするのが妥当なように考えられるのである。

 とまれ、問題は、そのような心的連続的同一性-1が発現する以前の現象化である。即ち、i*(-i)⇒+1の現象化である。これは、ある意味で実に不思議な事象であろう。イデア界がほぼそのまま現象化しているような事象のように思えるからである。しかし、当然、厳密には、イデア界事象ではありえない。この即非的現象化をどう見るのか。

 ここは、いわば、心身一如のような様相である。D.H.ロレンス、その他の作家が言うコスモスの様相と言えるだろう。大乗仏教では、如来蔵である。まだ、阿頼耶識までは、展開していないのである。そう、無意識ないし純意識ないし原意識である。ここでは、自己と他者とが差異でありつつ、同一性化するのである。つまり、即非的関係が形成されているのである。(思うに、D.H.ロレンスの『無意識の幻想曲』の「無意識」の様相は、正に、これを指しているように思う。)

 問題は、この即非様相の意識とイデア界との関係である。つまり、+1とi*(-i)との関係ということになるだろう。

 ⇒+1となるには、イデア界において何かがあったのである。イデア界の出来事によって、⇒+1という結果(エンテレケイア)が発生したのである。

 ここで、思考実験だが、やはり回転事象が起因ではないだろうか。すると、虚数軸をイデア界として実数軸を現象界とすると、原点を中心にして、左回転が生起したとしよう。すると、±1が発生するのである。+1だけでなく、-1が発生するのである。

 とまれ、|1|を自己的個体(自己体)の発生としよう。思うに、現象自己体における即非様相とは、原点(0, 0)における様相なのではないだろうか。イデア界においては、原点において、iと(-i)とが即非共立共振していたと考えられるだろう。それが、1/4回転して、±1を発生させる。しかし、原点(0, 0)は、現象界にあっても、イデア界の通じているということになるのではないだろうか。つまり、大乗仏教で言えば、如来蔵に当たるのが、この原点(0, 0)ではないのか。

 そうすると、±1とはどういうことになるのだろうか。それは、意識の現象化を意味するのではないだろうか。意識の原点は正に、(0, 0)の如来蔵であるが、成長するにつれ、そこから離れて、±1を形成するということではないだろうか。そう、+1が正当な自己認識であるが、-1が倒錯した自己認識、即ち、自我認識ではないのか。『起信論』で言えば、阿頼耶識(アーラヤ識)が、±1を指すのではないだろうか。そして、+1を喪失して、-1 へと展開するのが、自我認識=無明(むみょう)であると言えるのではないだろうか。

 何故、-1へと展開するのかと言えば、人間の心的自己認識性の傾斜に拠ると言えよう。つまり、i→(-i)という他者に対する自己の連続的同一性志向性傾斜に拠ると言えよう。

 ここで、先に、(-i)→iはあり得ないと言ったことに関連させて、もう一度考えてみよう。現象化初期における±1の-1とは何だろうか。これは、i→ (-i)という連続的同一性志向性のことではないのか。傾向である。ならば、+1は、i*(-i)⇒+1という差異的同一性志向性ないし傾向であろう。

 ここで、原点(0, 0)と差異的同一性志向性+1との関係を考えたい。原点は、如来蔵である。しかし、これは、おそらく、前意識である。自己においては、「無」意識である。しかし、+1によって、前意識・「無」意識を真に意識化する作業に入るのではないだろうか。コギト(我思う)である。そう、原点(0, 0)では、コギトにならないのである。それは、前意識的即非様相である。先天的涅槃・真如である。これは、いわば、天然に付与されたものであり、誰にもある天才性であるが、それは、意識というか、自己意識を欠いているのである。

 といういことで、+1によって、前意識即非様相=如来蔵は、自己意識的即非認識へと進展すると言えるだろう。

 そのためには、-1を克服していかないといけないのである。そう、ここに人間の矛盾があるのである。現象生活において、+1と-1の両極的様相が生起していき、とりわけ、連続的同一性の自我様態性-1を強く帯びるようになるのである。無明=根元的無知に汚染されるのである。

 ここで、「教養」や知性涵養等の意味があるのである。そう、哲学や宗教の意味である。これが、+1の差異的同一性、自己的即非性への志向性を人間に目覚めさせると言えよう。しかるに、近代主義においては、+1の知性を否定する近代合理主義と近代資本主義が発達して、世界は、大カオス状態に陥ったのである。(現代日本の衰退ないし衰滅の原因はここにある。)

 ⇒+1の消滅、これが、近代文明であり、現代日本が、この典型である。欧米は、-1に対して、+1の知を維持してきたのである。個人・自由主義がそういうものである。

 そう、結局、⇒+1の知・叡智とは、『起信論』的に言えば、如来蔵・真如・「心」への回帰を意味すると言えよう。つまり、これは、原点の回帰であり、また、超越界への回帰なのである。原点は、この場合、内在的超越性の原点となると言えよう。つまり、実数軸と虚数軸の直交座標性をもった原点であるということである。

 この+1による原点回帰、垂直性をもった原点回帰(内在的超越性)であるが、これは、幾何学的には、さらなる、回転を意味するのではないか。現象化が、1/4回転ならば、新原点回帰とは、1/2回転の事象ではないのか。

 とまれ、-1が物質領域、+1が精神領域と言えそうである。では、問題は、現象の光をどう見るのか、である。

 そう、光とは何か、の問題がある。先に述べたように、±原光子ないし陰陽原光子の結合が光であると考えられるのである。白い光と黒い光の結合・合一としての現象光である。-1の光と+1の光があるのではないだろうか。ここでは、主観的述べよう。

 夜明けの光の精神的力、また、コスモスを感じさせる白い光、それらは、いわゆる、光子の光ではない。+1の光ではないだろうか。

 内界の光もある。それは、原点を介したイデア界の光ではないだろうか。

 では、光合成における光とは何か。
http://www.kagaku.info/faq/
photosynthesis000403/index.htm
mic・(-ic)⇒Eだから、やはり、+1の光ではないのか。問題は、-1の光とは何かである。ic→(-ic)=ic*-(-ic)⇒-c^2である。だから、−のエネルギーである。それは、何か。暗い光?。ロレンスの説いた黒い太陽だろうか。今、思いついたのは、マイナス・エネルギーとは、破壊・暴力・戦争・死のエネルギーではないのかということである。フロイト的に言えば、死の欲動であり、近代主義の破壊主義である。そうならば、プラス・エネルギーは、創造・共生・平和・生命のエネルギーであろう。

 この視点から見ると、唯物資本主義は、マイナス・エネルギーに主導されているということになろう。連続的同一性のマイナス・エネルギーである。悪魔的エネルギーである。これが、今日、戦争をおこし、地球環境を破壊しているのである。

 エントロピーでもあろう。神話で言うと、シヴァ神であろう。また、ディオニュソスであろう。解体である。これは、陰のエネルギーである。そう、男性のエネルギーである。一神教のエネルギーであろう。黙示録的エネルギーであろう。ここで、思うのは、メルヴィルの『白鯨』のエイハブ船長の白鯨に対する偏執狂的破壊志向である。D.H.ロレンスは、ここに白人意識の様態を見たのである。すなわち、生命に対するパラノイア的破壊志向である。生命をプラス・エネルギーと見ていいだろう。そして、これこそ、母権的エネルギーであろう。女神・イシスのエネルギーであろう。天照・ヒミコのエネルギーである。

 しかし、そうならば、問題は、ロレンスが黒い太陽と呼んだものは何なのかである。ロレンスの意識は複雑である。白人意識への憎悪がある。だから、白い太陽は否定されなくてはならないのである。白人男性の意識とは、連続的同一性のマイナス・エネルギーである。だから、それこそ、黒い太陽であるはずである。ロレンスの黒い太陽は、現象を超えた光のことである。超越的太陽のことである。だから、イデア界的光なのである。だから、プラス・エネルギーなのである。
 思うに、dark sunを黒い太陽と訳すのは、誤訳ではないのかと思った次第である。

darkには、

「隠された,秘密の,秘められた(secret); 世に知られていない,未知(数)の:
a dark secret 隠された秘密
dark figures (犯罪統計などで報告に現れない)隠れた数字.」という意味があるのである。

 だから、dark sunは、隠された、未知の太陽と訳すのが正しいのではないだろうか。ロレンスは、自分の信ずる神をunknown Godと呼んだのである。正に、未知の、知られざる神である。こうすれば、「黒い太陽」の問題は解決されることになる。それは、正に、プラス・エネルギーの光、イデア界的な光を意味していると考えられるのである。


参考:

アメリカ古典文学研究 (文庫)
D.H. ローレンス (著), D.H. Lawrence (原著), 大西 直樹(翻訳)
講談社文芸文庫(1999/10)


思考実験:イデア界の虚数エネルギーと現象界の実数エネルギー
思考実験:イデア界の虚数エネルギーと現象界の実数エネルギー
テーマ:プラトニック・シナジー理論
アインシュタインの有名なエネルギー公式E=mc^2であるが、Kaisetsu氏は次のように表記する。

mc^2⇒m(+ic)(-ic)⇒E

 さて、ここで、私はさらに思考実験して、mをm^1/2(+i)・m^1/2(-i)に変換してみるのである。すると、

mc^2⇒m(+ic)(-ic)⇒m^1/2(+i)・m^1/2(-i)・(+ic)(-ic)⇒E 

となるだろう。そして、m^1/2(+i)・m^1/2(-i)を、イデア界の原質量と考えたいのである。つまり、光イデアを構成する原質量ないし原素粒子として、m^1/2(+i)・m^1/2(-i)を見たいのである。

 そう、公式を変形して、mc^2⇒m^1/2(+i)・(+ic)・m^1/2(-i)・(-ic)としよう。これが、光イデアのエネルギー様相を提示しているのではないだろうか。すなわち、ここには、即非である2つの光の原素粒子があるのではないだろうか。そう、原光子と言っていいだろう。プラスの原光子m^1/2(+i)とマイナスの原光子m^1/2(-i)である。これらが、即非様相にあるのが、イデア界であり、それらが、(差異的)同一性化・結合して、光・現象光となるのではないのか。

 整理すると、+原光子は、虚数質量をもつのである。即ち、m^1/2(+i)であり、-原光子の虚数質量は、m^1/2(-i)である。そして、それらが、原光速化することで、動態化(エネルゲイア化)するのではないのか。

 さらに整理しよう。どうも原光子という呼び方が混乱させるだろう。つまり、プラスとマイナスの差異の結合によって原光子が発生すると考えられるのだから、そのプラスとマイナスの差異を別に呼ばなくてはならないのではないか。

 しかし、2種類の「光」があるのではないのか。やはり、プラスの原光子とマイナスの原光子である。これが、結合して、いわゆる、光となる。記号化して明快にしよう。原光子をprotophotonとして、ppと簡略化する。すると、+pp・-ppが原光を形成する。原光をprotolightとして、 plと簡略化する。

 そうすると、

+ppは、m^1/2(+i)の原質量を
-ppは、m^1/2(-i)の原質量を

もつことになるだろう。そして、これらの、いわば、陰陽原光子、即ち、プラスの原光子とマイナスの原光子は、それぞれ、icと-icの速度をもつと言えるのではないか。そうすると、運動量は、

+ppにおいては、m^1/2(+i)(ic)
-ppにおいては、m^1/2(-i)(-ic)

となるのではないか。

 とまれ、もう少し丁寧に見てみよう。原光子の問題である。私の疑問は、±原光子で原光が発生するということだが、原光のイデアは、一つではないのか、というものである。端的に言えば、±原光子の結合によって、原光イデアが生まれるのではないかということである。つまり、+原光子*-原光子⇒原光イデアではないのか、ということである。
 
 量子力学でいう光子(フォトン)は、どちらを指しているのだろうか。思うに、本来、光子は、±原光子を指すべきなのに、量子力学は、光から還元して一種類にしているのではないのか。あるいは、原光を光子で指しているように思えるのである。

 さて、さらに思考実験であるが、重力の発生をどう見るのかである。原質量に原重力を見ることができないのか。すなわち、m^1/2(+i)とm^1/2(-i)である。つまり、原重力も二重で、±原重力があるのではないだろうか。

 そうすると、原光子は、原質量、原重力をもつことになるだろう。では、問題は、現象化において、どうして、光と物質が分化するのか。

mc^2⇒m(+ic)(-ic)⇒m^1/2(+i)・m^1/2(-i)・(+ic)(-ic)⇒m^1/2(+i)・(+ic)・m^1/2(-i)・(-ic)⇒E 

の公式で考えると、現象化において、mを含む項とcを含む項が分離するからではないだろうか。すなわち、m^1/2(+i)・m^1/2(-i)⇒mとなり、(+ ic)(-ic)⇒c^2となるのではないだろうか。つまり、原光(虚数エネルギー)が、重力と光(正しくは、二重光)に分離するということではないだろうか。そして、原光子=原重力であるから、当然、重力が光を曲げることは考えられるのである。光は重力であり、重力は光であると言えないのか。つまり、様態の違いではないのか。あるいは、振動の違いではないのか。振動数が多いと光に、振動数が少ないと重力になるのではないのか。

後で、再検討したい。


参考:運動量
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8
B%E5%8B%95%E9%87%8F
http://homepage2.nifty.com
/eman/dynamics/angular.html
http://www.terrabyte.co.jp
/photo_news/8.htm
http://homepage2.nifty.com
/eman/relativity/ep_tensor.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%
89%B9%E6%AE%8A%E7%9B%
B8%E5%AF%BE%E6%80%A7
%E7%90%86%E8%AB%96


不連続的差異論DD理論とプラトニック・シナジー理論PS理論
簡単に、異同を述べておきたい。

不連続的差異論DD理論は、イデア界/メディア界/現象界の三層世界論である。イデア界は不連続的差異の共立する領域であり、メディア界は不連続的差異と連続的差異の中間界であり、現象界は連続的差異による連続的同一性の世界である。

PS理論は、不連続的差異の零度共振シナジー様相をイデア界と考える。不連続的差異論のイデア界をより論理的に明晰にしたものである。そして、不連続的差異論のメディア界は、イデア界と現象界の境界領域になると思えるのである。

 もっとも、別の、最初の視点がある。それは、不連続的差異論のメディア界をPS理論のイデア界と考えるものである。ここは少し微妙である。少し検討しよう。

 不連続的差異の共立が形成されたとき、メディア界と現象界の境界の連続的構造が解体される。いわば、解脱である。自我の解体である。このとき、メディア界が解放されると言えよう。このメディア界が差異共振シナジー界・即非論理の世界と考えられるのである。ここは、零度の差異共振シナジー界であり、イデア界と呼ぶことも可能である。

DD理論の三層世界とPS理論の二層世界は、結局、同一のことになるだろう。違いは、差異共立から差異共振へと展開したことにある。結局、問題は、DD理論のイデア界の問題があるのである。この問題は、丁寧に考察するとたいへんになるので、ここでは、簡単にまとめておくと、DD理論のイデア界がPS理論のイデア界へと発展したと見ていいだろう。また、DD理論のメディア界がPS理論のイデア界/現象界の境界になったと見ていいだろう。ここは、混合的領域、混濁した領域である。微分領域と言ってもいいだろう。仏教では阿頼耶識(あらやしき)に相当するだろう。また、ポスト・モダン領域と言ってもいいだろう。ドゥルーズ(&ガタリ)哲学の問題点は、イデア界と「メディア界」を混同した点である。(因みに、デリダ哲学は、イデア界を中心化して、現象界を解体したことである。デリダは、現象界がイデア界の顕現であること、度差異が同一性を顕現させることを否定しているのである。)思うに、PS理論の世界構成は、イデア界/メディア境界/現象界になるのかもしれない。後で再検討したい。

 さて、ここで、現代物理学に触れると、素粒子は、メディア境界の事象であると考えられる。元素粒子としてイデア・差異共振シナジー事象(かつて、私は、イデア・ゼロ・ペアという用語を用いたが、即非差異イデアないし即非イデアが元素粒子であろう。)を見なくてはならないだろう。また、相対性理論であるが、それも、メディア境界における光の事象をとらえているように思える。イデア界の「光」があり、現象界の光cがあるのであるが、メディア境界のエネルギー変換公式として、E=mc^2があるのではないだろうか。

 とりあえず、ここで留めたい。


2007年02月08日(Thu)▲ページの先頭へ
複素数エネルギー:虚数エネルギーと実数エネルギー
今、『大乗起信論』(岩波文庫)を読んでいるが、これは、日本仏教にたいへん影響を与えた書物だけあって、深い哲学的内容をもっている。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_26.html
これは、プラトニック・シナジー理論を説いている書物ではないかと思えるくらいである。そう、クザーヌスの『学識ある無知について』とこの『大乗起信論』は、PS理論の先駆と言えよう。

 さて、本件を簡単に述べておきたい。これまで、エネルゲイアとエネルギーを私は、直感で、区別してきたのだが、複素数エネルゲイアの概念を仮説することで、整合的に説明できるのではないかと思ったのである。

 即ち、イデア界においては、虚数エネルゲイアがあり、現象界では、実数エネルゲイアがある。そして、これが、エネルギーと思えるのである。すなわち、E=mc^2である。

 ここで、この式を、Kaisetsu氏に倣って、変形すると、E=m(ic)・(-ic) となるだろう。そして、±icをイデア界のエネルゲイアと見るのである。すると、虚数軸のエネルゲイアは、±0±icの複素数エネルゲイアである。

 これが、現象化すると、±1±0ic となる。

また、(√m)ic*(√m)(-ic)⇒mc^2 である。思うに、±ic ないし、±(√m)icは、無限速度ではないのか。

 暫定的ではあるが、イデア界のデュナミス/エネルゲイアとは、結局、複素数エネルギーないし虚数エネルギーと考えていいのではないだろうか。そして、いわゆる、エネルギーは、実数エネルギーである。これまで、エネルゲイアとエネルギーを峻別してきたが、このように考えると、その必要がなくなるだろう。後で再検討したい。


2007年02月07日(Wed)▲ページの先頭へ
感覚と現象とは何か:PS理論と仏教の唯心論
差異即非事相は内界であり、イデア界であり、それは、《光》のヴィジョンである。では、これが、連続的同一性化ないし現象化するとは、どういうことなのだろうか。

 内的他者は、身体である。それに対して、外的他者は、いわば、延長である。この違いをどう見るのか。そう、ここには、単に感覚の問題だけでなく、空間や時間の問題が入っているのである。カント哲学の問題である。

 自己は、内的他者とは、本来、即非様相にあり、内界を形成している。これは、イデア界的光のヴィジョンの世界である。

 それに対して、連続的同一性(連一性)化ないし現象化するとき、自己は、内的他者=内的自己を否定して、外的他者を同一化するのである。そう、問題は、外的他者とは何か、である。

 外的他者とは、フッサールのノエマに相当しよう。問題は、これが、何であるのかである。あるいは、外界、外部とは何か、である。プラトンの有名な洞窟の比喩からすると、光源は、眼前ではなくて、観測者の手前にある。これは、内部・内界にあるということであろう。では、それに倣って、外部・外界の光は、内部・内界=イデア界から発していると考えていいのか。

 ここで、問題をより根源にもどって考えよう。即ち、外光、陽光とは何かである。夢でわかるように、明らかに、「内光」、「陰光」があるのである。そして、「内光」・「陰光」は、差異即非事相である。即ち、i*(-i)である。しかしながら、自己以外の他者についても考えると、当然、「内光」・「陰光」が考えられるだろう。即ち、鳥の場合も、「内光」・「陰光」があるし、その他動物では同様だろう。おそらく植物にもあるのではないだろうか。

 では、太陽自体はどうであろうか。そう、太陽の「内光」・「陰光」があるのではないだろうか。そして、それが、外光・陽光の本体と言えよう。

 そう、今、思ったのが、イデア界的元宇宙である。ここにおいては、宇宙全体のイデアが、いわば、犇(ひし)めいていると言えよう。わかりやすく、図式化すれば、

イデア界:差異1*差異2*差異3*差異4*差異5*・・・*差異n

である。例えば、「わたし」の差異即非性=内界を、差異p*差異qとしよう。そして、太陽の差異即非性=内界を、差異x*差異yとしよう。だから、イデア界においては、「私」と太陽は、共振シナジー化していると言えるだろう。簡明にするため、「わたし」を差異α、太陽を差異βと表記すると、差異αと差異β は共振シナジー化して、《光》で相互通信していることになるのではないだろか。そうすると、「わたし」の「内光」は、太陽の内光と一如(いちにょ)である。
 
 では、このとき、外光・陽光とはどういうことなのだろうか。「わたし」差異αが太陽・差異βを見るということではないのか。ここでは、連続的同一性(連一性)を考えなくてはならないだろう。即ち、

「わたし」差異α→太陽・差異β⇒-1

となると思われるが、このとき、差異共振シナジーの元光ではなくて、外光・陽光が感覚・知覚されると思われるのである。つまり、外光・陽光とは、太陽の「内光」・「陰光」あるいは、イデア界の元光ではなくて、連続的同一性化された「光」であるということになる。即ち、現象・物質化された「光」ではないのか。これが、E=mc^2の意味ではないだろうか。

 整理すると、外的他者とは、内界・イデア界において、差異共振・即非様相の連続的同一性化によって発生するものであるということである。つまり、連続的同一性志向性によって発生する外的対象であるということになるだろう。だから、ノエマとは、差異共振シナジー事相の連一性態であり、本来、連一性態=現象は、内界の事象ではないのか。志向性であるから、当然、内界の事象である。ならば、どうして、外界が発生するのか。延長・空間が発生するのか。

 ここで思考実験すると、差異共振シナジー事相のイデア界は、零度である。しかし、これが、連一性化すると、零度が無くなり、-1ないし絶対値1となるのではないだろうか。あるいは、±1と。この-1ないし絶対値1が、延長・空間ではないのか。即ち、イデア界の元光が、現象の光に転化するのであるが、それは、零度の元光から、-1ないし絶対値1の光に転化したことではないのか。そして、この-1ないし絶対値1が光速度一定を意味するのではないだろうか。そして、これは、当然、時空間の-1ないし絶対値1ではないのか。

 簡単に言えば、零度から実数-1ないし絶対値1になったということではないのか。いわば、無限大が-1ないし絶対値1になったということである。これは、i*-(-i)⇒-1で表記できるのかもしれない。結局、-1ないし|1|が時空現象と関係するのだろう。そして、カントの超越論的形式に関係する。だから、時空4次元は、ここを意味するのだろう。

 とまれ、-1ないし|1|が外界・延長・時空間を意味しよう。この問題は、とりあえず、ここで留めて、仏教の唯心論に少し言及しよう。以上から、唯心論は正しいと言えると思う。外界・延長・時空間は、イデア界の連一性の像であるからである。そう、内界事象を、いわば、投影して、外界事象としているのだ。イデア界の連一性像が現象であり、それは、本来、イデア界内部の事象ではないだろうか。だから、神秘主義は、正しいと思う。現象とは、イデア界の内部の連一性像の世界に過ぎないと思われるのである。だから、目に見える事象は、イデア界内部の事象と言うことが可能であると思う。仏教の唯心論は正しいと思う。

 後で、丁寧に再検討したい。


2007年02月06日(Tue)▲ページの先頭へ
大乗起信論
少し読み出したが、実に興味深い大乗仏教論である。如来蔵等の考え方は、プラトニック・シナジー理論と共通する。そう、阿頼耶識(アーラヤ識)の考え方も、共通すると思う。つまり、差異共振シナジー界という元自己があり、それが、現象化して、連続的同一性自我を発生させる。この自我、潜在意識として、元自己をもっているのである。自我は、阿頼耶識的なのである。精神分析、ユング心理学よりも、真相をついていると思う。
 とまれ、問題は、大乗仏教の唯心論をどう捉えるかが問題である。フッサール現象学に近い。プラトニック・シナジー理論PS理論は、どう見るのか。今、問題になっているのは、連続的同一性を解体して、差異共振性をもたらす有り様である。また、結局、現象化とは何かの問題でもある。後で再検討したい。

大乗起信論 (文庫)
宇井 伯寿 , 高崎 直道

東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 (文庫)
井筒 俊彦 (著)



2007年02月04日(Sun)▲ページの先頭へ
脱連続的同一性エネルゲイアはどのように発生するのか
この問題は、プラトニック・シナジー理論の重要な難問である。イデア界は、零度のエネルゲイア=デュナミス=潜在エネルギーをもっていると考えられるだろう。これが、連続的同一性=現象化するのであるが、この連続的同一性=現象化のエネルゲイアに対して、エネルギー保存則を適用すれば、反連続的同一性=脱現象化のエネルゲイアが発現するはずである。
 ここでも、思考実験して行こう。i→(-i)が連続的同一性志向性を意味するのである。これは、i*-(-i)⇒−1となる。では、逆に、(-i)→i を考えるとどうだろうか。これまで、(-i)*-(i)⇒−1と考えたのであるが、どうだろうか。私の考えでは、(-i)*i⇒+1と考えたい気があるのである。つまり、ここには、非対称性があるのである。心的主体性による連続的同一性化は、⇒−1であった。しかし、身体的他者性による同一性化は、連続化ではないのではないかと思われるのである。
 思えば、先に、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性ということを言及したが、身体的他者-iは、根源的には、差異即非様相を帯びているのではないのか。冷静に考えよう。イデア界・差異即非界は、i*(-i)の様相にある。つまり、零度差異共振シナジー様相である。これは、静であり、且つ、動である。ゼロであり、無限大であると言っていいだろう。あるいは、無限小であり、無限大であると。もっとも、超越的無限小・無限大ということである。これは、虚数軸の事象である。そして、次に、現象化・実数軸化が生起するのであるが、これは、連続的同一性化であると考えるのである。i*-(-i)⇒−1である。これは、心的主体性の場合である。
 それに対して、身体的他者の場合を考えると、先に、私は、身体的同一性を考えて、それが、心的同一性と同様になると考えて、即ち、(-i)→i=(- i)*-(i)⇒−1と考えたのである。しかし、身体的同一性とは何であろうか。心的同一性の場合は、言語を介しているのであるが、身体の場合は、当然、言語は介していない。つまり、媒体が身体の場合は異なるのである。身体の媒体・メディアとは何か。ここで、作業仮説として、身体の媒体・メディアは光としよう。つまり、光が媒体となり、身体的同一性が発生するということになる。わかりやすく表記すれば、身体→光→心である。
 問題点は、心的主体性の連続的同一性は理解できるが、果たして、身体的他者の連続的同一性も同様に想定していいのか、である。言語は、このリンゴとあのリンゴを等価にして、リンゴと呼ぶのである。つまり、正に、連続的同一性の媒体である。ここでは、このリンゴの差異や特異性が否定されるのである。それに対して、身体的他者の連続的同一性とは、何かである。ここでは、リンゴは、光として発現しているのである。発光体としてのリンゴである。これは、当然ながら、差異・特異性としてのリンゴではないのか。心的主体性にとって、この発光体のリンゴは、差異・特異性のリンゴではないのか。ここでは、同一性は、連続性をもたないだろう。「これ」である。特異性singularity, specificityである。だから、身体的他者の同一性は、連続的同一性ではなくて、差異的同一性なのである。つまり、(-i)*i⇒+1なのである。
 これはどういうことなのだろうか。端的に言えば、心と身体において認識の分裂が生じているということである。前者は連続的同一性であり、後者は差異的同一性である。そして、前者の心的主体性による連続的同一性自我が、後者を否定・排除・隠蔽するというのが、近代主義である。しかしながら、ここには、二つのエネルゲイアがあるのであり、一つは連続的同一性のエネルゲイアであり、一つは差異的同一性のエネルゲイアである。そして、これらは、相補的であると考えられる。だから、前者が発動すれば、後者も発動するのであり、両者の均衡が求められるのである。だから、近代主義に対して、脱近代主義のエネルゲイアが発動するはずである。これが、本件の問題への解明である。脱連続的同一性エネルゲイアは、身体的他者の差異的同一性のエネルゲイアなのであり、当然、最初から賦活されていたと考えられるのである。
 近代主義は、その慣性から、差異的同一性を反動的に否定・排除・隠蔽するのである。端的に、他者への暴力である。そして、これは、狂気なのである。錯誤・倒錯である。近代主義の末期症状である。これは、言わば、闇が光を抑圧・排除している倒錯的事象を意味するのである。
 だから、問題は、差異的同一性を肯定することで解決するのである。そう、連続的同一性は唯物論であり、差異的同一性は霊性論である。両者を両立させることで、トランス・モダンの認識論が形成されるだろう。
 最後に問題にしたいのは、以上の考察によれば、心が物質的であり、身体が精神的であるということになるのである。これは、いわば、パラドクシカルであるが、そうなのである。カント哲学で言えば、心が超越論的形式であり、身体が物自体であろう。
 では、このように考えたとき、空間、現象空間はどういうことなのだろう。確かに、空間3次元+時間1次元の時空4次元であるが、それに対して、言わば、身体次元が入るだろう。これは、光の次元ではないだろうか。コスモスの次元であると思えるのである。つまり、時空4次元に対して、コスモス次元を入れて、5次元空間となるように思えるのである。そして、コスモス次元とは、本源的には、虚数軸次元である。イデア界次元である。ならば、光は、イデア界の光と関係するだろう。つまり、元光の光である。E=mc^2とは、このコスモスのことを表記しているのではないだろうか。つまり、イデア界のエネルゲイアのことである。この公式は一見物質的エネルギーに見えるのがそうではなくて、差異即非イデアのエネルゲイアの公式ではないだろうか。
 とまれ、イデア・コスモスが、身体において発現していることになるだろう。つまり、現象界とは身体的には、イデア・コスモス界ということになるのではないだろうか。物質は、連続的同一性から発生するだろう。つまり、物質空間形式は、連続的同一性から発生するということになる。
 では、物質空間の単位はどうやって発生するのだろう。それは、同一性からであろう。連続的同一性であれ、差異的同一性であれ、同一性からであろう。もし、同一性がなければ、すべては、特異性の様態であり、全く認知できないだろう。つまり、比較不可能になるはずである。AとBは特異性であり、比較不可能であり、認識不可能となるだろう。だから、Aの同一性、Bの同一性があって、AとBが比較可能になると言えるだろう。そして、ここから、空間が発生するのではないだろうか。そして、E=mc^2が、空間の形式でもあるのではないだろうか。かなり飛躍しているので、元に戻すと、問題は、現象時空間形式の発生をどう基礎づけるかということである。結局、iの同一性と-iの同一性のエネルゲイアが時空間形式を作るのではないだろうか。そして、この同一性が、光速度一定と関係しているのではないだろうか。作業仮説で、-iの同一性の光を、iの同一性が計量して、光速度一定となるのではないだろうか。
 とまれ、問題は、有限化の問題である。端的に、実数軸化でいいのではないだろうか。−1と+1である。これで、有限化と計量化が生まれたのではないだろうか。しかし、これは、虚数を排除しているので、無限、超越性を扱えないと言えよう。ならば、E=mc^2は何を意味するだろうか。あるいは、光速度一定である。光速度一定とは、+1に関係しているだろう。思うに、i*(-i)は、⇒+1=光速度一定となるのではないだろうか。ならば、E=mc^2とは、差異的同一性のエネルゲイアの現象・物質公式であろう。そして、Eは、零度エネルゲイアの有限化を意味するのではないだろうか。クザーヌス風に言えば、無限の縮限としての物質エネルギーということになるだろう。換言すると、元光エネルゲイアの縮限としての物質エネルギーEということになるだろう。
 ついでに、ダークエネルギーについて言及すると、差異的同一性の光のエネルギーがダークエネルギーではないのか。つまり、現代のエネルギーは、連続的同一性のエネルギーの視点から捉えられていて、差異的同一性のエネルギー(=ダークエネルギー?)を捉えていないということではないだろうか。そう、今日、観測しているのは、光の連続的同一性形式であり、差異的同一性形式ではないのではないだろうか。+1のエネルギーが計量されていないのではないか。思いつきが続いたが、この問題については後で再考したい。


2007年01月28日(Sun)▲ページの先頭へ
プラトニック・シナジー理論と素粒子:イデア界・差異/メディア界・量子/現象界・物質:新三界論
ここ約一週間、忙しくなるので、更新が少なくなるが、今簡単に、プラトニック・シナジー理論と素粒子・量子との関係の大枠を示唆したい。
 既述済みだが、プラトニック・シナジー理論(PS理論ないし通俗的にプラシナ理論)の複素数的差異イデア論によって、素粒子・量子の実体が明らかになると思えるのである(仮説)。即ち、虚軸・虚次元的差異イデア、これが、素粒子・量子の実体であると思われるのである。だから、素粒子・量子の実体とは、前物質であるか、又は、差異イデアを実軸・実次元の観点から観測・仮説したものと考えられる。
 そして、差異イデア界とは即非界であり、即非エネルゲイアが存しているのであり、それが、回転によって、実エネルギーに変換しているように思えるのである。量子力学の場とは、正しくは、即非界のエネルゲイア・フィールドのことと思われるのである。ここは、零度(ゼロ度)の差異イデアのエネルゲイアが占め、前・元物質領域と思われるのである。プラトンの哲学のコーラに相当するものがここであると考えられるのであり、ここには、元光があると思われる。思うに、元光とは、元闇と言っていいように思えるのである。ここでは、光と闇は一致していると思うのである。太極と言ってもいいだろう。何度も既述したが、宗教的光はここを指していると考えられるのである。
 光の問題について言及すると、即非エネルゲイア(以下、虚エネルギー)が元光と思われるので、元光を虚光と呼んでいいだろう。そして、この領域は、実次元では、ゼロであるから、虚光は無限速度、超光速としていいだろう。そして、ここが、宗教的には、神、仏の領域である。これも既述事項であるが。
 問題は、虚光から実光への変換、ないし、虚数界から実数界への変換である。無限から有限への変換である。ここで、おそらく、対称性(の破れ)や多様態の問題が生じるのである。それは、これまでの考えで言えば、回転である。1/4回転ないし1/2回転である。1/4回転によって、虚軸から実軸へと変換するのであるが、このときに、差異イデア=「素粒子」・「量子」から粒子・物質現象が発現すると考えられるのである。
 精確に言えば、差異イデア→素粒子・量子→粒子・物質現象であり、素粒子・量子は、いわば、イデアと物質との境界現象である。あるいは、物質面に投影されたイデアの影である。
 ここで簡単に思考実験すれば、素粒子とは、差異イデア(即非差異イデア、差異イデア共振シナジー)が実体・本体・真相であり、換言すれば、差異イデアの多様な様相が素粒子・量子であると考えられるのである。差異イデアをi*(-i)と仮定すれば、全体の1/4回転は、(i*i)*{(-i)*i}→ (−1)*(+1)となり、言わば、−の実エネルギーと+の実エネルギーが発生するように思えるのである。負のエネルギーと正のエネルギーである。エネルギーの極性的対発生があると思うのである。
 ここで質量を考えると、それは、実エネルギーと一如(いちにょ)であると思えるのである。なぜなら、実数化・実次元化=物質現象化であるからである。実エネルギー化=物質現象化である。E=mc^2は、これを把捉したものと考えられよう。
 ここで、図式化すると、差異イデア1*差異イデア2が即非イデア界にある。差異イデアが元素粒子ないし元原子(元アトム)である。そして、これが、連続的同一性化して、実数となる。例えば、差異イデア1は、 −1となり、差異イデア2は、+1となる。実数±1が物質の単位であろう。つまり、素粒子である。そして、質料と実エネルギーは一如である。そして、対称性の破れ等によって、素粒子は多様に生成変化、対発生消滅をすると考えられるだろう。この問題は、ここでおいておく。
 次に思考実験であるが、−1と+1であるが、−1が重力(質量)の方向、+1が光の方向ではないだろうか。E=mc^2とはこのことを示唆しているのではないのか。
あるいは、弱い力と強い力が、それぞれ、−1と+1なのか。即ち、i*i⇒−1(弱い力)、(-i)*i⇒+1(強い力)なのか。
 ここでは、とりあえず、作業仮説として、−1が質量(重力)の次元、+1を光の次元としよう。そして、強い力と弱い力であるが、それらは、即非エネルゲイアの極性の力の反映ではないのか。作業仮説として、連続的同一性の力を弱い力、差異的同一性の力を強い力としよう。思うに、思うに、連続的同一性志向性が弱い力と重力を発生させ、差異的同一性志向性が強い力と光を発生させるのではないのか。というか、連続的同一性の素粒子的反映が弱い力であり、差異的同一性のそれが強い力ではないのか。つまり、即非界内部の「力」の反映が弱い力と強い力であり、また、その結果が、対自的結果が重力と光ではないのか。言い換えると、即非エネルゲイア・虚エネルギーにおける即自的力の反映が弱い力と強い力、対自的力の結果が重力と光出はないのか。簡単に言えば、即非エネルゲイアの斥力の反映が弱い力であり、引力の反映が強い力ではないのか。
 もしそうならば、強い力と弱い力のペアと、重力と光のペアは、位相が異なるのではないか。前者は、虚次元の事象の極性の説明であり、後者は実次元の事象の極性の説明と考えられるからである。なぜこのようなことになるのかと言えば、素粒子という考え方が、イデア界と現象物質界の境界概念であるからである。つまり、メディア界としての素粒子・量子なのであり、中間概念・境界概念として、イデア界と現象物質界の両事象・事相を指示しうる、即ち、両界を混淆・混合・混同して記述してしまうからではないだろうか。今は、ここで留めたい。
 さて、最後に、ここで、プラトニック・シナジー理論(PS理論、プラ・シナ理論)の世界構成を考えると、これは、不連続的差異論と同様の三界構成(イデア界/メディア界/現象界)であるが、内容が異なると言えよう。イデア界は、即非差異イデア界であり、差異イデア共振シナジー界である。そして、それが、現象界へと変換するとき、イデアと物質の境界・中間世界であるメディア界を形成すると考えられるのではないだろうか。ここは、不連続性と連続性の混淆した世界であり、有り体に言えば、混濁した世界である。ポスト・モダンは、この世界に留まり、行き詰まり、頓挫したのではないか。ドゥルーズ&ガタリの内在性の理論とは、正に、このメディア界の理論だと思うのである。ここでは、連続性が含まれるので、本来、不連続である差異が連続=微分化されるのである。パース、ベルクソン、ホワイトヘッド、ハイデガーの哲学もこのメディア界の哲学である。そう、構造主義もここに属すと言えよう。また、対称性の破れもここの事象に属すのではないだろうか。ベンヤミンが、星座=布置的理論を説いたが、それは、プラトンとライプニッツの中間的理論であるが、「星座」という概念は、後者の予定調和に似て、このメディア界の理論であると言えるだろう。さらに言えば、原型論・プロトタイプ理論であるが、それも、このメディア界の理論であると言えよう。ゲーテの原型論(原植物論)やシュタイナーの霊的原型論やユング心理学の元型論、等は、やはり、このメディア界の理論で、折衷的混濁した理論であると言えるだろう。後、少し付記したい。
 

参考1:自然界の4つの力、その他
http://www.kek.jp/kids/class/particle/
force.html
http://www.kek.jp/kids/jiten/particle
/particle.html
http://www.geocities.jp/hiroyuki0620785
/gaiyou4fouce.htm

●4つの力と5番目の力
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents
/relativity/contents/relativity221.html

参考2:トランスモダンの歴史哲学
http://www.kinokopress.com/civil/0404.htm

参考3:ベンヤミンの「星座」
http://www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY2/1.html


2007年01月25日(Thu)▲ページの先頭へ
思考実験:ヴィジョンと身体的他者:即非・太極・相補イデア界の対称性/非対称性
先に、夢のことに言及したが、そのヴィジョン・映像は、即非事象から生まれるのではないかと述べた。しかし、直感では、身体的他者-iが主導的なようにも思えるのである。これについて簡単に考察したい。  
 夢の映像は、見ている時は、現実のものであり、覚めてから、それが、夢だとわかるのである。それで、私は、Seeing is believing.見ることは信じること(百聞は一見に如かず)と考えたのである。これは、リアリティの問題でもある。目をつぶったとき、リアリティはどうなるのか。そのときは、聴覚が鋭くなり、それが、現実的感覚となるだろう。とまれ、何らかの外的投射が現実感を形成するように思える。視覚は、当然、視を投影するのである。この場は、問題提起なので、思いつくまま書いてみたい。 
 ここで、二つの光の問題があるだろう。内的光と外的光である。内的光は、心的主体的視である。これは、連続的同一性志向性である。この内的光が、外的光と合一して、映像が浮かぶのではないのか。
 問題は、外的光である。内的光iは、連続的同一性という志向性を、外的光-iに到達させる。本来、イデア・メディア界では、内的光と外的光が即非様相である。ここで、確認すると、イデア・メディア界で、外的光という用語はふさわしくないと思われるだろう。おそらく、用語を、主体的光と他者的光とすべきだろう。あるいは、心的光と身体的光と。であるから、混乱を避けるため、用語を訂正して、主体的光ないし心的光=iと、他者的光ないし身体的光-iに分けて考察したい。
 では、主体的光が、連続的同一性の志向性によって、他者的光に到達するとしよう。本来、主体的光(心的光)と他者的光(身体的光)は即非様相で、イデア・メディア界を形成しているが、連続的同一性のエネルギーの発動によって、即非様相が破れて、現象化が為されると考えたい。この連続的同一性エネルギーをプラス・エネルギーとしよう。これは、回転エネルギーと考えられ、虚軸的垂直から実軸的水平へと「力」ないし差異が移動しているのである。虚軸にiを掛けると、i*i⇒−1、(-i)*i⇒+1となる。−1と+1で、実軸を形成すると考えよう。この1/4回転が現象化と考えられる(仮定)。思うに、この ±1とは、対称性を意味するように思える。自然界の対称性(シンメトリー)である。しかし、同時に、ここで、非対称性もなくてはならない。それをどう考えたらいいのか。
 思うに、これは、簡単な事柄ではないだろうか。根源のイデア・メディア界は、即非ゼロ度エネルゲイアをもつ。即非とは、この場合、対極性と考えていいだろう。揺らぎを見ていいだろう。あるいは、相補性を見ていいだろう。そう、分かり易い例として、易経を考えればいいだろう。陰陽である。そこでは、2^6=64通りの卦の順列があるのである。つまり、64通りの陰陽様態があるということである。これを即非事象の様態と見ることができるのではないだろうか。言い換えると、64通りの傾斜をもつと言えよう。だから、この64種類の様態が非対称性の起因と見ることができるのではないだろうか。簡単に言えば、陰陽傾斜が対象性の破れをもたらし、非対称性を形成するということではないのか。
 この太極イデア界(イデア・メディア界)の生成変化・生成変容から、多様な現象が発現すると言えるのではないだろうか。ここにあるのは、ヘラクレイトス的な万物流転・生成流転(パンタ・レイ)の現象である。(思えば、ヘラクレイトスの哲学は、対極性の哲学であり、エネルゲイア的哲学であった。火が万物の根源である。そして、それをロゴスと考えていた。すると、ヘラクレイトスのロゴスとは、対極性のロゴスであり、即非的ロゴスと言えるのではないだろうか。)
 結局、即非イデア界の対極性があり、それが傾斜となり、多様な現象をもたらすということになる。言い換えると、太極性(対極性)が、根源的対称性であり、また、原非対称性の原理ということになるのではないか。縮約して言えば、即非・太極・イデア界は、根源的対称性であり、且つ、根源的非対称性である、と言えないか。つまり、対称性・即・非対称性ではないのか。つまり、端的に言えば、即非・太極・相補性とは、対称性・即非・非対称性ではないのか。つまり、根源的一(いつ)があるのである。即非的一があるということである。即非・太極・相補性のイデア界は、万物・万象の正に原型・プロトタイプと言えよう。現象の形・形態は既に、ここにあるのだ。人間の心身のイデアはそこにあるのだ。桜や朝顔のイデアはそこにあるのだ。
 ここで、ゲーテが原植物と言ったことを想起する。それは、「精神」であった。そして、ルドルフ・シュタイナーがここから、精神(霊)科学を生み出したのであるが。即非界を精神と呼ぶなら、確かに、ここには、精神科学がありうると言えよう。しかし、イデア精神は、現象という衣服をまとうのである。だから、精神現象科学ないし精神物質科学と言うほうが的確であろう。
 今の思考実験はここで留まるが、次に、この即非・太極・相補性のイデア界/現象界の発現させる空間次元はどのようなものが考えたい。予見を言えば、陰陽で上下次元、そして、それぞれ、三次元あるとして、四次元となるだろう。四次元時空間である。あるいは、1+3+3で七次元かもしれない。
 
p.s. プラス・エネルギーを説いたが、では、マイナス・エネルギーとは何だろうか。それは、脱現象化のエネルギー、即非志向性エネルギーだろう。自己認識エネルギーとも言えよう。では、現象的には何だろうか。ダークエネルギーなのだろうか。後で検討。

p.p.s. 以上の易経を適用した理論(思考実験)であるが、それは、結局、占いを肯定することになるだろう。予め、原事象があることになるからである。しかし、偶然はどうなるのか。思うに、現象界においては、確率が作用するように思うのである。後で再考したい。


2007年01月22日(Mon)▲ページの先頭へ
中沢新一の映画的理論とプラトニック・シナジー理論の比較:形態の発生に関する思考実験
昨日の夢は、いわば、予知夢であった。今朝は危ないところであった。動悸がして、胸が締めつけられ、心臓辺りが痛むようになった。これは、まずいと思った。心筋梗塞か何かだと思った。病院に行き、検査してもらうが、循環器系の専門医がいないというので、救急車で、隣の市の循環器専門の病院に行き、治療した。結果は、安心したことに、不整脈であった。血液検査から、心筋梗塞の時に生じる細胞の破壊はないということであった。餅は餅屋である。まぁ、日本の救急医療体制のシステムには、感心した(いろいろ、不祥事が起きてはいるが、すばらしい。職人的である。)
 とまれ、発作性上室性不整脈(発作性上室性頻拍)ということであった。【発作性上室性頻拍(PSVT:Paroxysmal supraventricular tachycardia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%
B8%8D%E6%95%B4%E8%84%88
】http://mmh.banyu.co.jp/mmhe
2j/sec03/ch027/ch027d.html
予知夢であることを言うと、見知らぬ車は、救急車であり、ノートパソコンは、私であり、そして、賠償額を払えないというのは、最初、保険証がないと思い、自費で支払うことになったが、それだと、所持金が足りなかったのである。ただし、予知夢と異なるところは、保険証があったので、比較的少額の医療費で済んだことである。
 以上は枕であるが、以下の『不連続な読書日記』で説かれている中沢新一の映画的理論は、プラトニック・シナジー理論と似ている部分があるので、少し検討したい。もっとも、中沢新一の宗教論は、霊的唯物論である。つまり、プラトニック・シナジー理論で言うと、-(-i)*(-i)⇒−1の理論である。心的主体性を否定して、身体的他者中心主義(霊的唯物論)を説いていると考えられるのである。
 先ず、映画的理論の第一の要素の「第一に、フィルムに喩えられるヒトの心。そこには、表現へと向かうヒトの心の深部の構造(記号を生み出そうとする意志のプログラム)がデータとして刻まれている。」の箇所であるが、これは、プラトニック・シナジー理論で言えば、心的主体性iに相当するだろう。第二の要素の「第二に、このフィルムに記録されたデータを背後から強力に照らし出す光源(ヒトの知性のおおもとをなす流動的知性)。」であるが、これは、志向性であろう。心的主体性の志向性であろう。→である。つまり、i→(-i)の→である。第三の要素の「第三に、この光によって心の過程が濃淡変化の像(イメージ)として投影される外部のスクリーン。」であるが、これは、身体的他者性-iである。
 以上から、中沢新一の映画的理論は、プラトニック・シナジー理論の構成と共通していると言えよう。
 次に、イメージの三つのタイプについて見てみよう。
第一のタイプ:「第一に、現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群。それらは内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子 のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわる。映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが欠けている。」この点は、私が昨日夢について考察したことに共通するだろう。この「現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群」とは、プラトニック・シナジー理論では、即非様相・事象・事相と考える。これは、イデア・メディア界的事象であり、ここには、現象/物質界的なイメージはないのである。内在超越的な次元であり、不可視であり、「無」である。思うに、この点で、中沢氏の映画的理論とプラトニック・シナジー理論は、根本的に踵を分かつと言えよう。つまり、即非事相ないし差異共振シナジー事象は、前物質的な様相なのである。
 第二のタイプ:「第二に、動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群である。それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージは洞窟の壁画をスクリーンとして映写される。」この第二のイメージ群は興味深い。これは、プラトニック・シナジー理論では、正に、垂直から水平への展開(回転)を意味するのであり、中沢・映画的理論と共通である。ただし、中沢氏が垂直を虚軸、水平を実軸として捉えているかはわからない。とまれ、この第二のイメージ群とは、連続的同一性に相当すると言えよう。ここは、具象の問題である。心的主体性と身体的他者性とが結合するのであるが、この連続的同一性のイメージの問題は、まだ、明確にしていないので、中沢・映画的理論は参考になる。中沢氏は、精神と物質との接触において、具象イメージの発生を考えているが、プラトニック・シナジー理論はそのようには考えない(思うに、中沢氏の理論は矛盾しているのではないだろうか。根源的領域が唯物論的であり、かつ、現象領域が物質的である、というのは、矛盾だと思う。論理的に破綻していよう。)。即非様相が連続的同一性(連一性)/水平化して、現象・物質が発生すると考えるのである。予め、物質があるのではないのである。物質は仮象なのである。プラトニック・シナジー理論では、心的主体性iと身体的他者性-iとの接触において、現象・物質の形成を考えるが、このイメージ発生の論理・力学をどう説明するかが未だに未解決の問題である。ただ、連続的同一性という形式・形態をそこに見出しているに過ぎない。(そう、以前、この問題については、差異の数を考え、それが、円環して、内在的な正多角形を形成すると仮定したことがある。例えば、差異が三つあれば、正三角形を形成し、五つあれば、正五角形を形成すると考えた。)おそらく、この問題が、現時点でのプラトニック・シナジー理論のアポリア(難問)であろう。例えば、どうして、木は、木のイメージをもつのか、山は山の。思考実験的に私の経験から考えよう。ずいぶん、以前に述べたことがあるが、晩秋の秘境を旅していて、そのとき、窓外の山を見て、いかにも、 △に見えて感動したのである。山は、山だから、山なのだ、というような理屈にならない感想をもったのである。そのときの感想を論理的言葉にすれば、ロゴスないしイデアとしての山=△であり、それが、窓外に見る山として顕現しているというようなことではなかったかと思う。少しハイデガー的であるが。
 私は何を言いたいのだろうか。やはり、イデア論である。形相としてのイデアがあり、それが現象化しているというようなことである。では、形相=イデアは、どこにあるのかと言えば、それは、意外に、即非事象に発生しているのではないのかと想定するのである。中沢氏は根源的領域を闇の領域としているが、即非領域とすれば、そこには、差異と差異の無碍の様相が発生するように思えるのである。そう、多様性と言ってもいいだろう。そう、プラトンのコーラに相当すると思う。形態形成発生領域である。問題は、この多様性領域をどう力学化するのかである。この問題は保留したい。
 次に、第三の要素:「第三に、垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」とメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動によって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。」についてであるが、これは平明であろう。単純な水平化である。水平的連続化である。これは、小説・物語的連続性と言えよう。あるいは、時間的連続性と言えよう。では、保留の問題に立ち返り、検討しよう。
 先の考えでは、イデア・メディア領域・即非領域において、形相・原型・イデアがあるのである。ここでは、具体的に、螺旋のモデルを考えよう。これは、様々な現象に見ることができる。巻貝、渦巻星雲、弦巻植物、等々。これは、イデア・メディア平面(ガウス平面)における回転と垂直の捩れを考えれば、説明できるように思う。+の虚軸Y軸と−の虚軸・Y軸の回転を考えると、それが−1や+1となる。そして、垂直、Z軸へと螺旋を描くのではないだろうか。そう、Z軸が時間軸とすれば、Z軸方向へと螺旋形状が発生するのではないのか。つまり、イデア・メディア平面・ガウス平面での回転が、垂直に捩れて、螺旋形状を発生させるという作業仮説である。(細かい齟齬は無視しておく。思うに、Z軸が前後方向ではないだろうか。X軸が左右方向で、Y軸が上下方向である。)
 しかし、そのように考えると、即非次元には、イメージはないことになるだろう。それは、やはり、連続的同一性化において発生することになろう。それはいいとしよう。
 では、正多角形はどうやって発生するのか。ここで思考実験で、回転円において、複数の差異が存するとしよう。差異の等価性という仮説を立てると、円上の複数の差異が正多角形の頂点を形成するだろう。三つの差異の場合が正三角形であり、四つが正方形であり、五つが正五角形であり、等々。(ここで、角運動の問題があるだろう。)とまれ、このように回転円上の等分割の複数の差異を仮定すると、正多角形の形態が生じると言えよう。これらを螺旋形状に乗せると、花弁等の形状が考えられるだろう。
 今はここで留めたい。


資料:
2007-01-20 映画としての宗教

 『群像』1月号に掲載された「映画としての宗教 第一回 映画と一神教」で、中沢新一は、フォイエルバッハの唯物論的宗教論や旧石器時代 の洞窟壁画のイメージ群を素材にして、「あらゆる宗教現象の土台をなしている人類の心の構造というものが、今日私たちが楽しんでいる映画というものをつくりあげている構造と、そっくりだという事実」──「映画は発明される以前から、すでに存在していて、ヒトの心にとって重大な働きをしてきた」「映画が発明される数万年も前に、人類は映画的構造をつうじて、自分の本質をなしている心の本質をのぞき込もうとする実践を始めた」というヒトの心の本質とイメージの運動と宗教の発生に関する考古学的事実──について語っている。以下、手短に要約してみる。

 イメージの興亡もしくはイメージの運動とその構造としての宗教をめぐる「映画的理論」は、次の三つの要素からなる。第一に、フィルムに喩えられるヒトの心。そこには、表現へと向かうヒトの心の深部の構造(記号を生み出そうとする意志のプログラム)がデータとして刻まれている。第二に、このフィルムに記録されたデータを背後から強力に照らし出す光源(ヒトの知性のおおもとをなす流動的知性)。第三に、この光によって心の過程が濃淡変化の像(イメージ)として投影される外部のスクリーン。

 また、イメージには次の三つのタイプがある。第一に、現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群。それらは内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子 のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわる。映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが欠けている。

  第二に、動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群である。それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージは洞窟の壁画をスクリーンとして映写される。

 第三に、垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」とメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動によって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。

 これら旧石器の洞窟壁画に現われたイメージ群、とりわけ第二群(記号性)と第三群(幻想性)の層に属するイメージに基づいて、新石器の都市世界を中心に豊かな多神教 (物質性をまとったイメージ=偶像としての神々)の世界が造形されていく。

 物質イメージの魔力(そして偶像としての神々と結託した王権・帝国、すなわち幻想としての国家の呪縛)からの脱出(エクソダス )をはかったのがモーセ の革命である。すなわち非イメージ的なことばの象徴力に基づく一神教(モノティスム)の宗教思想であった。しかしイメージの魔力の上に立つ「メタ・イメージ」の方向に抜け出ようとした一神教は、かえって宗教を巨大な映画館にしてしまい、自らのまわりに物質的な力を呼び集めてしまった(ハリウッド映画はそのカリカチュア)。

 イメージの魔力からのエクソダスには、これとは違う二つの道がある。その一は、イメージの第二群・第三群(観念的イメージ群)の働きを否定し、イメージ作用の第一群(差異の運動がくりひろげられている裸の現実世界、唯物論的イメージ群)の方に向かう唯物論。その二は、ブッダの道。人間の本質である「心」、その「心」の本体である流動的知性の無限の働きにたどりつくこと。身体を使い第一群のイメージの深い淵に踏み込んでいく実践を通して、流動的知性に直接触れていくこと。(要約終わり)


(注:RENSHIが色分けした。)

http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20070120
不連続な読書日記


夢とは何か:即非様相のヴィジョンとしての夢、想像力、諸芸術
昨日、久しぶりに夢を見たが、法人のノートパソコンを知らない人の車の中に置いておいたら、車が出ていってしまい、パソコンが取られてしまい、賠償をしなければならなくなった。お金がないので、困っていたところで、目が覚めた。夢の中では、現実感・リアルさがあったが、この夢の現実感・リアルさとは何だろうか。以前、夢について、理論化したことがあるが、再考したい。
 一言言えば、Seeing is believing(百聞は一見に如かず)ということわざ通りである。見ることと信じることが直結しているのである。では、「見ること」とは何だろうか。ヴィジョンの問題である。そう、想像力と関係している。すぐれた小説の想像力と似ていると思う。現実感・実在感喚起力である。
 そう、プラトニック・シナジー理論から見たら、どうなのかということである。これは、フッサール現象学の志向性と関係しているように思える。
 直観で言えば、志向性とは、ヴィジョンである。これが、簡単に言えば、現実感を作っているのである。きわめて、主観的である。(妄想もここから発するのだろう。)そう、人間の意識はこの主観性が形成されていると言っていいだろう。主観的ヴィジョンである。主観的現象である。プラトンの洞窟の比喩を想起する。ここで、思考実験すると、心的主体性(心的主観性)は、「光」である。それが、連続的同一性の志向性をもって身体的他者へと投影する。この投影像が主観的ヴィジョンないし夢ではないのか。「光」が「闇」に自己投影するのである。この闇のスクリーンに映る影像が夢ではないのか。
 では、いわゆる、現実・現象とは何だろうか。それは、身体的他者の情報を、心的主体性が受容するときに発生するものではないのか。外的光と内的光の結合が現象なのであろうか。
 ここでも直観で言うと、夢と現象との区別は、この外的光の有無にあるだろう。では、外的光とは何か、である。これは、身体的他者(闇)であるのか。ここで発想を変えたい。
 夢のヴィジョンとは、本来、身体的他者のヴィジョンではないのか。というか、身体的他者の影像ではないのか。私の直観では、身体から夢の映像は発しているのである。身体からの映像を見ているという感じである。そう、これは、一種、即非的なものがあると思われるのである。つまり、先に、モームの『月と六ペンス』に関して述べた身体的霊性と関係するように思うのである。心的主体性は、連続的同一性化においては、能動的であり、身体的他者を支配することになる。しかし、夢の映像においては、身体的他者が一種主導性をもっている。だから、夢の映像においては、心的主体性と身体的他者性とが共振していると考えられるだろう。だから、身体的霊性がここにはあるように思えるのである。つまり、即非様相が出現していると思えるのである。思うに、この即非様相が、夢の不思議さの原因ではないのか。本件では、夢のリアリティは、この即非様相が生んでいるのではないのか。
 換言すると、リアリティとは、即非様相ないし即非事象・事相にあるのではないのか。単なる連続的同一性では、リアリティは生じないのではないのか。近代主義の空虚感、ニヒリズムはここから来るのではないのか。
 我々が現実と言っているものは、即非事象が根源になければ、非現実ではないのか。フッサールの生活世界という思想は、この即非事象を指しているのではないのか。『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の危機とは、連続的同一性によって即非事象が喪失されることにあるのではないのか。
 とまれ、ここでの暫定的結論は、夢の映像は、即非事象から発するということであり、リアリティもここから生まれるということである。そう、イマジネーション・想像力も即非事象から生まれるだろうし、私の言う直観・ヴィジョンも同じであろう。
 ここから、他に何が言えるだろうか。芸術の根源も、即非事象にあると言えるだろう。ムーサイ(詩神)は、ここから発しているのだろうか。いわゆる、霊感・インスピレーションも、ここから発するだろう。そう、詩人で版画家のウィリアム・ブレイクが言う芸術・宗教の根源のGenius(精霊)も正にここにあろう。宗教の根源もここである。
 芸術家・作家の言うコスモスもここが根源であると思う。そう、すぐれた諸芸術は、即非事象を表現し喚起するのだろう。ブリューゲル(父)の絵画の鮮烈さの秘密はここにあるだろう。一見写実主義であるが、そうではなく、即非事象を描いているのだろう。
 では、デューラーはどうだろうか。私の好きな版画家である。不気味な『黙示録の四騎士』はどうだろうか。『メランコリア』はどうだろうか。そう、それらは、アレゴリーによる超次元の提示があるのだと思う。やはり、一種即非様相である。
 思うに、ルネサンス諸芸術は、コスモスの調和が支配していると思う。ルネサンスの美学に「調和する不調和」discordia concorsという概念があるが、正に、それは、即非様相を意味しているのだろう。そう、古代人、東洋人はこれをよく理解していたと思う。日本の美学は、正に、これである。日本庭園の美学。そう、禅とは、不調和を調和にする精神性であろう。
 最後に、この即非事象が根源であり、夢は、そこに回帰することで発生する映像であろう。では、夢とは、個の「精神」が即非的虚次元・超次元に回帰していることを意味するのではないか。個の「精神」が虚次元に回帰して、そこで、虚次元のエネルゲイアを「充電」しているのではないだろうか。この虚次元のエネルゲイアをもって、目覚めるということではないのか。これが、即ち、元気であろう。気とは、エネルゲイアである。近代主義の病理とは、この本源を喪失していることにあるだろう。ニーチェが言ったように、永遠回帰が必要である。これにより、人類は、元気を回復するのである。そして、とりわけ、日本人は、虚次元・超次元の即非エネルゲイア様相に回帰する必要があるのである。前近代日本=トランス・モダン・ジャパンである。

Return to Pre-Modern Japan/Trans-Modern Japan.
Return to Proto-Japan.
Return to Eternal Energy.


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