プラトニック・シナジー理論

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年06月24日(Tue)▲ページの先頭へ
Media Pointのmodeについて:文系と理系の壁をなくしたmode理論
以下のmodeに関するKaisetsu氏の解明は、PS理論の具体的な適用に役立つであろう。後で、私なりに説明をこころみたい。
 思うに、スピノザ(ドゥルーズ経由)の表現やライプニッツの表象とは、このmodeによって明確になるだろう。そして、一挙に、理科系と文科系の壁がなくなったと言えるのではないだろうか。直感では、これまで、PS理論は、理系と文系のクロスオーバーしていた、このmodeという定義で、理論化されたと言えよう。

* PS理論の「mode」定義は、波動の基本振動と倍振動関係も包摂する。 (06/23)
* Mode とはMedia Pointの多様性を表す形式である。 (06/20)
* Mode とは Media pointの多様性を表す「様式」である。 (06/19)

http://theory.platonicsynergy.org/
Theories for the Platonic Synergy Concept.




検討問題:子規の写生と映像性:イマジズムとヴィジョン:視覚と身体

子規の短歌は、とても、映像的である。単に写生というのでは足りない感じがする。生き生きとしている。これは、差異共振的映像とでも呼べるのではないだろうか。単に写実主義ではないのである。
 これは、英米の詩では、俳句の影響を受けて、イマジズムが起ったことと何か関係があるのか。同時代性? とまれ、差異共振的イメージ性があると思う。
 思えば、以前、私がヴィジョンと呼んだものに通じるのではないだろか。これは、身体とも関係するのである。身体的視覚なのである。
 これについて、考察しようと思っている。視覚と身体の関係である。私にとっては、視覚は身体的なのである。




2008年05月24日(Sat)▲ページの先頭へ
ハイデガーの本来的存在について:+1と-1とゼロとMedia Point:トランス・モダン
今は余裕がないので、簡単に触れると、ハイデガーの現存在は、+1の共一性における同一性を意味するのではないだろうか。問題は、本来的存在(以下、本存在)である。それは、Media Pointと+1の境界に位置するように思える。Media Pointにおいて、超越性から同一性への展開するが、そのとき、Media Point の超越性の扉が閉じていて、その閉じた扉から同一性(現存在)が発現すると考えられるので、本存在とは、その閉じた扉である。いわば、原同一性である。⇒ の先端ではないだろうか。やはり、ゼロなのではないだろうか。このゼロ、±ゼロが本存在ではないだろうか。超越性・虚数なきゼロ、±ゼロ。簡単にするため、ゼロで考えよう。
 ゼロから+1が生起するのではないのか。しかし、私は、先に、+1は共一性であると言った。自己=他者=同一性ではないだろうか。そして、これが、現存在ではないだろうか。そうすると、先に述べたように、ハイデガー存在論は、ゼロ(本存在)⇒+1(現存在)となるだろう。今は、ここで留める。
 
(続き)
 『存在と時間』では、ハイデガーは時間性を、現存在を超越するものと捉えている。だから、本存在は、+1ではありえない。とは言え、本存在は、 Media Pointではない。だから、やはり、考えられるのは、Media Pointと共一性+1との中間ないしは境界ということである。
 そうすると、やはり、⇒の先端ということになるのではないだろうか。それがどうも適当なように思える。フッサール現象学は、Media Pointである⇒を取り出したのであるが、ハイデガーはMedia Pointである⇒の先端を本存在として取り出したと思われるのである。
 思うに、この⇒の先端は奇妙な性質をもつだろう。ゼロないしは無から発現するようにして、原同一性、原自我が存するように思われるのである。一種の即非性がここにあるように思われるのである。即ち、ゼロでありつつ、+1であるということである。当然、+1が現存在ないしは世界内存在である。
 ハイデガーが時間性を超越的というのは、ゼロが+1を超越しているということを意味しているのではないだろうか。一種の超越的内包点としてのゼロをハイデガーは考えていたのではないだろうか。
 このゼロを本存在ないしは存在と考えるのは、理解できることである。なぜなら、+1が自己同一性認識と考えられるからである。自己同一性認識以前のものとして、存在を説いたと考えられるのである。確かに、認識を同一性に限定すれば、ゼロは前認識となるだろう。そして、それを存在と名付けるのは、それなりに理解できることである。
 しかしながら、既述したように、ハイデガーは真の超越性を否定しているので、つまり、(超越的)差異共振性(差異共鳴性)を否定しているので、超越的認識があるのを理解できなかったと考えられるのである。
 以上の試論的考察から、ハイデガー存在論は、数理的には、ゼロ⇒+1と表記するのがやはり適切であるように考えられるのである。繰り返すが、ゼロが本存在(本来的存在)であり、+1が現存在(頽落した存在)ないしは世界内存在である。そして、ゼロと+1は確かに、亀裂があり、不連続である。それを確かに、ハイデガーは指摘している。
 ということから、ここで、(一応、あらためて、)ポスト・モダン哲学について考察してみたい。
 その前に、前提として、-1と+1について整理しておきたい。+1は共一性ないしは同一性である。それに対して、-1は同一性主義ないしはロゴス中心主義である。近代で言えば、近代合理主義・近代的自我に当たる。
 ドゥルーズ哲学について言うと、それは、-1の同一性主義(「プラトニズム」)に対して、連続的差異の思想を提示した。それは、直感では、ゼロの思想である。ハイデガーの場合は、ゼロと+1との亀裂があったが、ドゥルーズの場合は、+1を排除して、差異をゼロに収斂させている。そうすると、実は、同一性がなくなるのであり、その結果、一種のオカルト主義になるのである。神秘主義になるのである。現象の同一性を排除してしまっているからである。だから、ドゥルーズは、ハイデガーから後退しているのである。
 それに対して、(初期)デリダについて言うと、私見では、ほぼ、ハイデガーを踏襲しているように思われるのである。とまれ、ロゴス中心主義とは、-1の同一性主義のことである。それに対して、差延とは、同一性である+1に関わるゼロの痕跡のことではないだろうか。同一性+1に対して、ゼロという「原点」が、言わば、つきまとうのである。このゼロのつきまといが、差延ではないだろうか。言い換えると、脱構築とは、ロゴス中心主義=同一性主義(-1)に対して、ゼロ⇒+1というゼロと同一性の亀裂を差延ないしは痕跡というアンチテーゼとして提示した理論のように思えるのである。つまり、ハイデガーがゼロ(本来的存在)と同一性(現存在)との亀裂というものを、(初期)デリダは、差延ないしは痕跡として提示しただけのように思えるのである。つまり、(初期)デリダはハイデガー存在論のエピゴーネンではないだろうか。
 以上、簡単に、ドゥルーズと(初期)デリダについて見た。ここで、後期デリダに簡単に触れると、彼は、ゼロを脱して、ニーチェやキルケゴールの特異性、絶対的差異について、ハイデガー=初期デリダを乗り越えたと思われるのである。つまり、後期デリダは、既述したように、トランス・モダンになったと考えられるのである。
 そのように系譜的に考察すると、不連続的差異論は、後期デリダ(とジャン=リュック・ナンシー)のトランス・モダンを、鈴木大拙の即非の論理を基盤にして、発展させた理論であり、プラトニック・シナジー理論は、それに超越的共振性を与え、且つ、それを数理化した理論であると言えよう。
 
p.s. 構造主義について述べる必要があるだろう。これまで、ゼロ記号(ゼロ)に注目して、そこに原点があると見たがどうだろうか。思うに、構造主義とは、同一性における対立構造なので、+1と-1の対立構造で説明できるのではないだろうか。つまり、ゼロは要らないということになる。ならば、ゼロ記号とはどうなるだろうか。これは、ハイデガーやポスト・モダンよりも、形式的な原理ではないだろうか。+1と-1との対立構造を生まれる根源をゼロと仮定したに過ぎないのではないだろうか。
 確かに、ゼロという点では、ハイデガーやポスト・モダンと類似する。しかしながら、構造主義のゼロとは、認識的ゼロではなく、あくまで、形式的ゼロと考えられるので、相違があると考えられる。今は、ここで留めたい。


2008年05月18日(Sun)▲ページの先頭へ
V. シャウベルガーの自然理論とプラトニック・シナジー理論:ガウス平面とPS立体
購入したヴィクトル・シャウベルガー(1885〜1958)の自然理論を解説する『自然は脈動する』(アリック・バーソロミュー著)
http://www.kyobunsha.co.jp/shopping
/books/ISBN978-4-531-08164-6.html
の1/4弱読んだが、直感した通り、否、それ以上に、シャウベルガーの自然理論が、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)と共通性をもっていることを察知した。そして、前者の考えを活用して、PS理論が発展できたと考えている。(もっとも、シャウベルガーの理論には、Media Pointの概念はない。この点が相違点である。)以下、今は余裕がないので、簡単に記したい。
 とても、重要な自然理論が説かれていて、簡単には説明できないので、私が思いついたことを述べたい。
 それは、ガウス平面に直交する軸を考えて、三次元空間を考えることである。そして、その垂直軸を天地軸を考えるのである。+iと-iとが引き合うとき(牽引力)は、共鳴して、+1となる。しかし、これは、同時に、天地軸の天へと上昇(浮揚)すると考えるのである。それに対して、+iと-iが反発するとき(斥力)、-1となり、これは、天地軸の地へと下降すると考えるのである。
 そうすると、以上から、上昇らせんと下降らせんが生起すると思われるのである。また、(+i)*(-i)と(-i)*(+i)の順列を考えると、らせんは二本になると考えられる。即ち、二重らせんになると考えられるのである。これが、宇宙・自然の原型となるだろう。
 興味深いのは、シャウベルガーが重力とは対蹠にある浮揚力を考えていることである。これは、樹木などが空へと上昇する力であり、反重力的な力なのである。この点を借用・活用して、天地軸を導入したのである。
 その他、とても明快で、目から鱗であったのは、極性が引き合う力と反発する力をもつと指摘している点である。差異共振性とは、単に、引き合う力だけではなく、対立する力があるのだから、当然、反発する力をもっているのである。この点は、最近、やや不明確になっていたので、助かった。考えてみれば、差異のもつ力とは、他者への接近と同時に、絶対的には一致しないというものである。即非性と表現しているものである。即ち、AはBへの限りなく接近するが、決して、Bにはならないのである。A→Bであるが、A≠Bである。
 もっとも、厳密に考えると、この差異の力と即非性は少し違うようにも思えるのである。差異の力は、限りなく、AはBに近づくが、決して、Bにはならないのである。これを以前、他者への志向性と呼んだ。結局、Aは独立性を保つのである。だから、Aという差異には、垂直性と水平性があるのである。
 この点は、哲学的に微妙なものがあるので、少し考察しよう。Aという差異は、垂直的独立性と水平的共感性がある。後者において、AはBに接近するのである。ほとんど一致するのである。あくまで、Aは単独性・特異性であり、独立した個のままである。しかるに、Bへと接近するのである。
 問題は、Aの独立性である。これは、同一性なのだろうか。否、当然、差異である。ただし、独立性から反発性となるときが、同一性である。つまり、他者であるBに反発し、排除するとき、Aは同一性となるのである。つまり、Aの独立性とは、共感性と一如(いちにょ)なのである。これが、差異である。つまり、差異とは、垂直性と水平性の平行性である。
 ここで、シャウベルガーの自然理論に関係して言うと、Media Pointにおいて、差異は共鳴して、引き合って、⇒+1となり、反発して、⇒-1となるのではないだろうか。これまでは、最初に、⇒+1となり、その後、内的否定により、⇒-1となると考えたのである。もっとも、それ以前には、両者、同時生起すると述べたのではあったが。
 とまれ、Media Pointにおける差異共鳴とは、引き合いが+1となり、反発が-1という両極に展開するということになった。この両者は共立しているということではないだろうか。言い換えると、+1であると同時に、-1であるということであり、又、同時に、+1と-1とは当然、異なるということで、+1と-1は即非関係にあるということではないだろうか。
 そして、+1は差異牽引性=差異であり、-1は差異反発性=同一性ということではないだろうか。つまり、差異と同一性は同時生起ということである。
 では、物質とはどういうことになるだろうか。これまで、同一性-1を物質として考えてきたのであるが、どうなるだろうか。思うに、現象は、±1である。だから、物質というものも、±1ではないだろうか。しかしながら、物質ないしは現象の実質・実体は、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、イデア共振ないしはイデア共鳴である(超越共振・超越共鳴)。そして、これが、「精神」である。つまり、物質ないし現象の本体とは、「精神」ないしはイデア(イデア共鳴)である。
 このように考えると、ポスト・モダンや構造主義の数理も変えないといけなくなるだろう。構造主義は、+1と-1の対立構造で説明がつくのではないだろうか。そして、ゼロ記号であるが、それは、やはり、両者の和である。それは、連続的原点であり、不正確な原点である。そう、構造点と言ってもいいだろう。
 では、ポスト・モダンであるが、それは、やはり、同一性の-1に対して、差異の+1を対峙させているということではないだろうか。デリダの差延とは、正に、この-1と+1との極性を提示しているのではないだろうか。そして、ドゥルーズは、思うに、-1に対して、+1を積極的に説いているが、しかし、-1 を否定して、+1を積極的に説くことは、逆に(アイロニカルに)同一性になることだと思われるのである。つまり、A→Bにおいて、AをBと一致させることだと思われるのである。つまり、差異一致である。極限値である。limitA→Bである。だから、差異はゼロとなり、微分が形成されると考えられるのである。差異は同一性に転化してしまうのである。
 そして、ハイデガー存在論であるが、先には、+1が本来的存在であり、-1が頽落した現存在であると言ったが、どうだろうか。思うに、それは、正しいのではないだろうか。本来的存在は、他者がなく、自己同一性に閉じているのである。つまり、ドゥルーズの差異と同じ、極限値なのである。A→Bなのである。だから、差異共振性がないのである。
 フッサール現象学は⇒+1ないしは⇒±1であろう。
 ここで、特異性のことを言うと、それは、端的に、Media Pointのことを意味するだろう。キルケゴール、ニーチェがそれを示唆したと言えよう。そして、ウスペンスキー、鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周三が、論理的にこれを捉えていたと考えられるのである。不連続的差異論は、これを、明確・明晰に説いた理論と考えられるのである。
 ここで、近代合理主義・近代的自我について触れると、それは、やはり、-1である。+1を否定・抑圧しているのである。しかしながら、正しくは、-iを否定しているのである。
 思うに、ここで、用語を整理した方がいいだろう。-1は同一性であり、+1は差異であるが、共一性としての差異である。そして、(+i)*(-i)が差異共振性ないしは差異共鳴性である。
 以上のように訂正すると、光と影の二重性はどうなるだろうか。端的に、光はどうなるのだろうか。肉眼で見る光とは一般には、やはり、±1の極性現象であろう。そして、思うに、-1が粒子であり、+1が波動ではないだろうか。電磁波の本体は、端的に、差異共振性ないしは差異共鳴性である。虚数的超越共振性である。換言すると、本体が、虚数超越的差異共振性であり、それが、Media Pointにおいて、実数的極性になっているのである。そして、極性の相補性や長距離相関という点で、Media Pointに接近していると言えよう。
 光と影の問題に返ると、-1が影であり、+1が光であろう。では、宗教的な光はどうなるのだろうか。それは、端的に、差異共振性である。超越エネルギーである。それは、Media Pointを介して、「感知」できるだけである。おそらく、dark sunである(darkは不可視ととる)。
 では、さらに、イシス・オシリス神話を考えるとどうなるだろうか。オシリス=ホルスは+1ではないだろうか。イシスとオシリスは、本来、差異共振性を意味するだろう。そして、セトが-1ではないだろうか。
 こう考えると、多神教と一神教の関係が明快になるように思える。多神教において、±1が生起するのである。そして、一神教は、+1を否定・排除・隠蔽して、-1を唯一神とするのである。エロヒームを+1、ヤハウェを-1とすることができよう。そして、前者を否定したものが、ユダヤ教やキリスト教である。聖書はそうではない。【イスラム教であるが、これまで、差異共振性をタウヒード(一性)としていると考えたが、どうやら、+1をアッラーとしているように思えている。つまり、エロヒームとしてのアッラーとなる。だから、ヤハウェとは、逆となる。アッラーを月と表現するなら、ヤハウェは何だろうか。やはり、太陽ではないだろうか。しかし、太陽は二つあると思う。差異共振性の太陽と、同一性の太陽である。ヤハウェは後者である。そして、前者が太光である。アマテラスは何だろうか。太光だと思う。問題は、差異共振性の太光と同一性の光(影)を同一視してしまうことである。この同一視が例えば、日本の国家神道において起ったと言えよう。私は、この一因は国学にあると考えている。
 思うに、アマテラスとツクヨミを極性として見ることが可能である。そうすると、アマテラスは同一性の太陽になるのである。
 どうも、太陽の表象は混乱を招くものである。本来、差異共振性の太光であるが、それが、現象化において、同一性の太陽に同化されやすいのである。この点は後で再考したい。】
 とまれ、以上から見て、PS理論は奇蹟的である。シャウベルガーの説く自然の精妙なエネルギーは、差異共鳴エネルギー=超越エネルギー=イデア・エネルギーで簡単に説明できると考えられるのである。とまれ、『自然は脈動する』をさらに読んで、検討を続けたい。


2008年05月13日(Tue)▲ページの先頭へ
+1と-1と±0に関して:ハイデガー哲学と構造主義とポスト・モダン
既述であるが、ポスト・モダン哲学は、+1(共一性)という差異を追求したが、結局、-1(同一性)との連続性を立ち切ることができずに、両者の連続性ないしは混淆に留まったと考えられる。そして、+1と-1との関係を和として考えて、+1+(-1)⇒±0が帰結されて、この±0とは、構造主義を意味し、結局、構造主義から真に脱却できなかったと考えたのである。
 問題点は、果たして、実軸の計算は和でいいのか、ということと、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学の先駆と考えて、-1と±0との存在論的差異を説いていると見たがそれでいいのか、ということである。
 後者を再検討すると、先に述べたように、ハイデガーの本来的存在を±0(実際は単に、0として見たが、±0とした方がより的確であると思われる)と見て、頽落した現存在を-1と考えて、±0と-1が存在論的差異を形成すると見たのである。実際、ハイデガーの本来的存在はわかりにくいのである。個のようであるが、差異共振性がまったく欠落しているのである。これを±0で捉えていいのだろうか。
 0は本来、構造主義の位置である。だから、ぴったりとはあてはまらないのである。今思いついたのは、+1⇒-1ではないだろうか。これならば、差異共振性のない+1があり、それから、同一性志向性によって、-1になることを意味できるのである。
 どうもその方がよさそうである。だから、ハイデガーの本来的存在は+1であり、頽落した現存在は-1であるということになる。
 そうすると、これは、+1を共一性と言ってきたことを訂正しないといけない。+1ではなく、共一性とは、端的に、自己認識方程式である。そして、⇒+1はフッサール現象学を意味するだろう。
 とまれ、そう訂正することから、ハイデガーの存在論的差異は、+1と-1との差異であることになった。そうすると、ポスト・モダン哲学はどうなるかと言えば、端的に、ハイデガー哲学を踏襲していることになるのではないだろうか。初期デリダの場合、ほとんどそうなると思われる。ただ、ポスト・モダンの場合、構造主義の側面がかなり強いと考えられる点が異なると言えよう。
 そう、ここで第一の問題点と重なるのであるが、ハイデガー哲学の場合、+1と- 1との亀裂を説いている。つまり、ハイデガー哲学には、それなりに、不連続性があるのである。しかし、ポスト・モダンになると、+1と-1との連続性ないしは混淆性が存すると考えられるのである。+1と-1とのポスト・モダン的様態は、やはり、和でいいのではないだろうか。即ち、(+1)+(-1)⇒±0 である。重要な点は⇒にあると考えられる。±0は端的に、構造主義を意味するだろう。何故なら、±0は、ゼロ記号であるからである。そして、左辺の(+ 1)+(-1)はポスト・モダン哲学を意味するのではないだろうか。+1と-1との連続的な揺らぎがポスト・モダン哲学ではないだろうか。初期デリダの差延とは正に、そのようなものと考えられる。また、ドゥルーズの差異であるが、思うに、ゼロ記号を使って、差異を連続化しているのである。つまり、やはり、和である。即ち、(+1)+(-1)=±0(ゼロ記号)が生起して、ここで、差異と同一性が一致することになると考えられる。即ち、差異=同一性である。そして、これこそ、連続的差異=微分ではないだろうか。初期デリダの場合は、差異と同一性との混淆的揺らぎがあったが、ドゥルーズの場合は、両者が一体化されてしまい、構造主義ないしはヘーゲル哲学に退行していると思われるのである。
 結局、和とは、連続性ないしは混淆性を意味すると言えるのではないだろうか。ならば、ハイデガーの場合は、和以前の様相にある。とりあえず、それを、+1/-1と表記する。つまり、/は亀裂ないしは境界を意味することになる。


2008年05月03日(Sat)▲ページの先頭へ
再考:+1=光ならば、-1=影光とは何か:-1=影の実質とは何か:光と影の即非世界としての現象界
先に、+1=光、-1=影(影光)と考えて、同一性=物質=シミュラクル的現象界(仮象界)では、+1=光の、いわば、先端である-1=影(影光)を見ていると述べたが、さらに精察・精査していきたい。
 端的、有体に言えば、-1=影の実質とは何か、ということである。+1=光のエネルギーが、現象を発現させているのであるから、現象界の実質は、物理的には、+1=光のエネルギーである。
 しかしながら、光の発現である現象は、今日現代の人間にとっては、影の現象に過ぎないのである。この様相を明確・明晰にしたいのである。
 端的に再考しよう。われわれが通常見る昼の光とは何か。これを先には、影(影光)と呼んだのであるが、まだあいまいである。自己認識方程式の変形で、自己同一性=自我方程式(+i)*-(-i)⇒=-1が考えられるが、この内的否定-(-i)の最初の-と帰結の-1はどういうことなのか。
 一つ明確にわかることは、内的光+1が、自己同一性=自我においては、屈折・反射して、影光-1になっていることである。だから、単純に考えて、自己同一性=自我=同一性主義においては、発現している光=+1を、影光=-1に屈折・反射しているということではないだろうか。
 やはり、光=+1を影光=-1に変質させて見ているということだと思われるのである。言い換えると、我々は光を見ていないのであり、影を見ているに過ぎないということになる。
 しかし、それでは、直観と少しズレるだろう。昼見る光は好ましいものであり、ある時は崇高美をもつのである。これをどう見るのか、である。
 いったい、外的光とは何か。それは、端的に、+1ではないだろうか。それを、自己同一性=自我=同一性主義(-1)は視覚するわけであるが、もし、内的光が開けていれば、つまり、自己内他者=差異肯定の様態にあれば、外的光を光+1として感受するだろう。つまり、崇高な光、イデア界(+i)*(-i)からの光として認識するだろう。
 しかしながら、他者=差異を抑圧している自我(同一性主義)の場合は、外的光+1を感受感覚しても、他者=差異-iを否定しているので、いわば、内的影光をもって知覚するのではないだろうか。即ち、外的光+1を影光(-1)と認識すると考えられるのである。言い換えると、光+1が発現しながらも、それを影光-1としか感覚認識できないと考えられるのである。
 では、端的に、影光(-1)とは何だろうか。影の光とは何だろうか。それは実質に存在するのか。単に幻想ではないのか。物質の光という言葉が心に浮かぶのである。本来の光は、それに対しては、精神の光である。イデアの光である。善の光である。端的に、物質の光があるのだろうか。理論的には、あると言うべきである。-1の物質の光があるということになるのである。
 ここで用語を整理しよう。+1の光をプラスの光(プラス光)、正の光、正光としよう。それに対して、-1の光(影・影光)をマイナスの光(マイナス光)、負の光、負光としよう。また、前者を共一性の光、差異の光、後者を自我の光、同一性の光と言えよう。
 とまれ、これで二つの光の存在を確認することができた。つまり、光とは二重光(二相光)であるということである。【思えば、以前、超越光と光との即非性について述べたことがあるが、それは、この場合と重なる事象であろう。】言い換えると、正光(光)と負光(影)との即非光であるということである。つまり、光とは、正光であると、同時に、それの否定である負光であるということである。「光」であると同時に、「影」であるということである。
 しかし、俗人は、正光が発光しているのに、負光(影)しか見ていないのである。ここで、新約聖書を想起する。あるいは、プラトンの有名な洞窟の比喩を想起する。あるいは、eliot-akira氏の説く屈折と反射の事象である。あるいは、ジョージ・ハリスンのThe light that has lighted the world等の歌である。
 「光」は「光」でありつつ、「影」になるのである。「光」の裏面としての「影」である。しかしながら、的確に言えば、「光」の変容としての「影」である。正に、屈折と反射である。同一性=物質=自我(自己同一性)が形成されるのであるから、当然、「影」が生まれるのである。
 問題は、近代以前においては、この光と影との生成についての叡知を人間はもっていたと考えられる。当然、イデア論がそういうものの代表である。端的に、近代以前においては、「光」を知覚していたのである。
 近代以降、喪失された「光」を取り戻す様々の試みが為された。ロマン主義は、この代表的な試みである。それに対して、啓蒙主義であるが、これも、それなりにその試みであるが、同一性理性にそれを取り込もうとしたと考えられる。【思うに、私が十代末に言った「光は暗く、闇は明るい」という言葉であるが、それは、その光とは「影」のことであり、その闇とは、「光」のことを指していた(思うに、明確に指していたというよりは、直感的に差していたと考えられる)と見るのが的確であろう。】
 さて、同一性=自我の形成によって、マイナス光が生起するのでああり、近代主義(近代合理主義・近代的自我)によって、プラス光が排除されたのである。
 しかしながら、内的には、プラス光は潜在しているのであり、それが、近代化の過程で賦活されていったと考えられるのである。二重の近代化である。マイナス光(物質光)とプラス光(精神光)の二重性をもつ「近代化」である。
 問題は、連続性によって、両者が混線・混濁していることである。同一性と差異が混線・混濁しているのである。マイナス光とプラス光が混線・混濁しているのである。あるいは、物質と精神が混線・混濁しているのである。
 PS理論は、両者を即非の概念で弁別し、秩序化したと考えられるのである。つまり、「光」の同一性=物質化である「影」と、「光」とを明確に区別し、Media Pointにおいて、両者が即非様態にあることを明確に解明したと考えられるのである。
 だから、「光」とは、マイナス光・即非・プラス光、即ち、影・即非・光なのである。近代合理主義/近代的自我の人間には、マイナス光=影しか見えず、プラス光=光が見えないのである。精神の光が見えない精神的盲目者なのである。(そのような人間が政治・行政の上層部を支配しているのである。だから、民主主義は、トランス・モダン化するのが必須である。)
 近代主義の人間は、目が開いていても、影しか見えないのである。アポロの影しか見ていないのである。闇の光しか見ていないのである。影人間である。【因みに、ニーチェのアポロとディオニュソスであるが、アポロはプラス光であり、ディオニュソスは、(+i)*(-i)の差異共振性、即ち、イデアであろう。的確に言えば、動的になったイデア、イデア・エネルゲイアであろう。だから、ニーチェは、プラトニストである。ただ、イデアを動態で把捉していたのであり、イデア自体では把捉していなかったということになろう。】
 最後に、アインシュタインの相対性理論等の現代物理学に本件の考察を適用すると、それが対象にしている「光」は当然、物質光(影=-1)である。そして、それが相対性であるということであり、光速度一定とは、本来の光=+1を意味していると考えられるのである。+1の光が屈折・反射して、-1の影となるのであり、本来は共一性の光+1なのであり、これが、光速度一定を意味するように思えるのである。言い換えると、宇宙空間は、実体は、+1の光の空間であり、それが、-1の影の仮象を帯びているということではないだろうか。そして、相対性理論は、前者を後者から把捉したと言えよう。
 また、さらに、ダークマターやダークエネルギーについて言うと、先に示唆したように、一般に、物質科学は、影-1の空間を捉えているだけだけであり、光 +1を捉えていないのである。宇宙銀河の「光」とは影である。その影から計算すると、当然、光の分が足りないのである。これが、ダークマターやダークエネルギーになると思われるのである。
 ついでに言うと、ブラックホールやホワイトホールはどうだろうか。思いつきであるが、ブラックホールとは、同一性=物質=影を産出しない光ではないのか。つまり、光自体と考えられないだろうか。共一性=光そのものと言えるのではないだろうか。
 では、ホワイトホールとは、逆に、同一性=物質=影を放出するMedia Pointではないだろうか。今はここで留めておく。 


2008年04月30日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:共一性と同一性:共一性言霊と同一性言霊
散歩の途中、+1をどう見るのか、考えていたが、-1が同一性=物質とするなら、+1は差異共振現象であるから、共一性と呼ぶべきではないかと思った。ということで、そうすることにして、検討を続けると、現象化において、共一性(光)と同一性(影)が形成されるとしよう。
 そう、その他思ったのは、同一性とは言語であり、ラカン精神分析の象徴界に相当するのではないかということであった。ここは難問の一つであると思う。ソシュール言語学のシニフィアン/シニフィエ、フッサール現象学のノエシス/ノエマ、等にも関わると思われるのである。同一性認識と言語の関係の問題である。
 問題をイメージ省察(像察)してみると、一番の問題点は同一性の発生にあるように思える。差異共振性が発現して、共一性(+1)が生まれる。しかし、このときには、同一性は発生していない。自己と他者の共一性があるのみである。では、どうして同一性が発現するのだろうか。
 共一性とは実は、身体(精神的身体)でもあり、そこでは、自己と他者が共振揺動しているだろう(ブラウン運動?、クリナーメン?)。いわば、夢の世界のようであるだろう。あるいは、心的故郷(心郷、魂郷)のようであろう。
 では、どうして、同一性への志向性が発生するのか。思うに、原同一性が根源にあるように思えるのである。簡潔に言えば、「何」である。原言語志向性と言ってもいいだろう。【ずいぶん、昔に、根源的発話発生について考えたことがある。そのときは、情動的発生論だったようだ。】
 ここで思考実験しよう。幼児がいて、遠くに見えるものが「何」かと思ったとしよう。幼児には、何かが見えているが、「何」かはわからない。これはどういうことなのだろうか。
 それが誰かに「山」であると教わるとしよう。これは、yamaという音声のシニフィアンである。yamaという音声にはとりわけ意味がないだろう。【もっとも、根源的には、音声には意味があるだろう。この点は今は看過する。】
 幼児はyamaと発音して、見えているものがyamaであると認識するのである。これはどういうことなのか。直感で思考実験しよう。実は、見えているものとは、同一性(-1)ではなくて、共一性(+1)ではないだろうか。共一性においてあるものが見えているのではないだろうか。だから、共一映像(共一像)と言ってもいいだろう。
 つまり、共一像において、「わたし」は他者である。この場合は、「山」である。「わたし」は「山」と共一である。だから、問題の根源は、「わたし」にあるだろう。これは、自己であろう。そして、これは、フッサールが説くように、ノエシスではないだろうか。ノエマは他者であろう。
 ノエシスは思うに、「わたしは知る」ではないだろうか。「わたし」は「山」と共一しているが、この「一」において「山」を知りたいのではないだろうか。他者認識である。そして、他者は「一」である。これが、原同一性ではないだろうか。
 そして、ノエシスは「わたしは他者を知る」共一性志向性と考えられるので、共一性の「一」への志向性に原言語志向性があるのではないだろうか。原シニフィアン性と言ってもいいだろう。そして、そこにyamaが入るのではないだろうか。
 そのように思考実験すると、言語は本来同一性ではなくて、共一性である。つまり、差異共振性の帰結である。光である。私は以前、言語は物質であると言ったが、それは間違いである。言語は差異共振性の帰結である共一性であり、精神である。言語精神である。【ここで言霊の問題が出てくる。確かに、言霊であると思う。私としては、言魂と表記したい。】結局、共一性としての言語ということになる。
 では、言語と同一性はどう関係するのか。それは、やはり、自己同一性主義の発生と関係すると言えよう。共一性の光に影が差して、影を投影して、同一性が発生するのではないだろうか。共一性にルサンチマンが発生して、共一性を否定・排除するように、同一性が形成されるのではないだろうか。共一性の一を否定して、その否定が外界へと投影されて同一性が発生するのではないだろうか。つまり、共一性の一の否定とは、内的同一性であり、それが投影されて外的同一性になるのではないだろうか。
 聖書で言えば、共一性がエローヒームであり、同一性がヤハウェではないだろうか。結局、共一性言語と同一性言語があるだろう。共一性言霊と同一性言霊である。
 先史時代から古代・中世までは、共一性言霊が支配的であり、神話や詩歌(韻文)が中心的であったろう。しかし、近代以降は同一性言霊(散文)が支配的である。
 ここで予見を言うと、トランス・モダンによって、共一性が回帰すると、いわば詩歌が回帰するだろう。これは何か。新共一性言霊とは何か。
 一つ言えることは、ブログが新共一性言霊であることである。差異共振精神からブログ言霊(「連詩」)が生まれるのである。


2008年04月29日(Tue)▲ページの先頭へ
+1と-1の関係:+1と構造主義との関係:-1/-0/Media Point/+0/+1
先の検討は、影-1と光+1と原光(+i)*(-i)という三元性を説くことになったが、まだ判明ではない感じがあるので、さらに検討することにしたい。今日は、簡単に触れるだけである。
 問題は、光(+1)と構造主義を一致させることになったが、それだと、構造主義と原光が関係することになり、整合性を欠くように感じられるのである。なぜなら、前者は本来、超越性が欠けていると思われるからである。この点をどう説明するのか、である。
 おそらく、光(+1)自体は構造主義と見ていいように思う。というのは、⇒+1となって、超越性が開けると考えられるからである。
 そうならば、先にレヴィ=ストロースの構造主義の「ゼロ記号」をMedia Pointの実軸のゼロ度と見たが、それと光(+1)とはどう関係するのか、説明する必要がある。
 「ゼロ記号」とは特異点であり、余剰・過剰であった。それは確かにMedia Point的である。では、+1はどうだろうか。これは、やはり、水平的な差異共振性であり、Media Pointは欠いている。しかしながら、⇒+1とすると、⇒がMedia Pointなので、光は言わば、崇高さを帯びるのではないだろうか。とまれ、⇒の先端がおそらく、「ゼロ記号」であろう。真に虚軸には開いていないのである。
 とまれ、さらに問題は、+1が光ならば、それはどういう光なのか。私は、宗教的に、エローヒームであると考えたが、どうだろうか。それは、端的には、正しくない。エローヒームは、端的に、自己認識方程式であろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが光の神エローヒームの公式であろう。そして、この両辺を否定する自己同一性主義の公式、即ち、-[(+i)*(-i)]⇒-1、これが、影の神ヤハウェーの公式であろう。
 では、+1の光とは何か。構造主義の光とは何か、となろう。これは、なかなか、難問である。思うに、単純に日常目にする光でいいのではないだろうか。そして、-1の影とは日常目にする物である。あるいは、単純に前者は日常の自己であり、後者は日常の自我主義ではないだろうか。
 左辺が入るときに、超越性が入るのであり、天使的であったり、悪魔的であったり、狂気的であったりするのではないだろうか。だから、例えば、ネオコン/ブッシュとは、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。つまり、イラクへの差異共振性(+i)*(-i)⇒+1を否定しているのである。真の民主主義は差異共振主義にあるだろう。
 例えば、アメリカがイラクを真に他者=差異と認識するならば、差異共振性(+i)*(-i)⇒+1が成立するだろう。しかし、他者=差異を否定したので、-[(+i)*(-i)]⇒-1となったと言えよう。-1は、自己同一性主義=ロゴス中心主義(例えば、ロゴスとしての民主主義である)である。光=自己(+1)は排除されているのである。
 思うに、-1と+1はエンテレケイアと考えられいいのではないだろうか。そして、左辺はエネルゲイアでいいのではないだろうか。だから、光(+1)を構造主義と見るのは、正に、エンテレケイアとしての構造主義であり、結果としての二元的構造であろう。ここには、エネルギー作用の結果があるのみではないだろうか。
 だから、構造主義の「ゼロ記号」とは、+1とは異なるだろう。それは、デリダ的に言えば、痕跡ではないだろうか。やはり、Media Pointの実軸点であると思われるのである。
 しかしながら、「ゼロ記号」と+1は、結局は、同じことになるのではないだろうか。何故なら、構造主義(+1)の、言わば、支点が「ゼロ記号」であるからである。つまり、支点の「ゼロ記号」と+1とで均衡がとれているのである。「ゼロ記号」があることで、構造主義(+1)が成立すると考えられるのである。言い換えると、構造主義(+1)の原点・発生点・起点としての「ゼロ記号」である。
 ここでポスト・モダンについて言及すると、ドゥルーズは、「ゼロ記号」を差異としての理論化したのである。これでは、当然、差異が連続化されるだろう。何故なら、差異の対立がゼロ度で融合するのであり、正に、微分としての差異になるだろうからである。
 デリダは、先に述べたように、-1と+1の差異(ズレ)を差延と考えたように思われる。(これは、ほとんど、ハイデガー存在論を踏襲していると思われるのである。)
 今はここで留める。後で再考したい。

p.s. 以上の思考実験は、先の直感とはズレている。私は、+1を差異共振光と見たのであり、+1には差異共振性を見たのであり、構造的対立ではないのである。齟齬をどう見るのか、である。思うに、構造主義をどうみるのかが問題である。例えば、山口昌男の神話構造主義は、両義性の理論であるが、この両義性がいわば、+1の差異共振性であると考えられないだろうか。思うに、これは、また、メルロ=ポンティの両義性の身体現象学と通じると思われるのである。あるいは、初期デリダのパルマコン(ファルマコン)の考え方に通じるのではないだろうか。
 直感では、+1の差異共振性とは、一種の即非性であるが、不十分な即非性である。山口昌男の神話学では、例えば、スサノオは、光であり、且つ、闇であるという両義性を帯びる。これは、スサノオは光であるから、闇ではないが、同時に、闇であるという、即非の論理には達していないだろう。光であり、且つ、闇である、というのは、いわば、未分化の論理である。そう、だから、+1の差異共振性とは、未分化様態と言えるだろう。つまり、連続性を帯びているということである。ならば、+1の光=自己とは、未分化であり、連続性をもっているのであり、まだ、真の自己ではないと言えよう。左辺の差異共振性(+i)*(- i)を認識して、真の自己認識を形成すると考えられるのである。
 だから、+1の光とは、トワイライト(薄明)ではないだろうか。つまり、光と影、光と闇の中間的な「光」ということになるのではないだろうか。

p.p.s. 後で再考する予定であるが、ここで簡単に補足すれば、自己認識方程式において、右辺だけを取り出して、純粋に+1を見ると、それが意味するのは、Media Pointを介した虚軸性(超越性)の喪失(隠蔽)であると考えられる。あるいは、Media Pointの断絶である(参照:三島由紀夫の「断絃の時」)。
 だから、+1は、必然的に、自己同一性主義=自我主義(-1)の影響を被って、いわば、曇る、濁る、混濁すると考えられるのである。正確に言えば、混淆・混合化、そして、連続化である。
 精緻に見ると、自己認識方程式の左辺とMedia Pointが隠蔽されるとは、言い換えると、自己同一性主義(-1)が作用することである。差異共振性が否定されるときに、自己同一性主義(-1)が形成されるのであるからである。つまり、(+i)*(-i)が否定されると、当然、結果は、⇒-1となる。これは、Media Pointの否定・抑圧でもある。
 すると、-1より先行すると思われる+1はどうなるのだろうか。それは、これまで検討してきた通り、差異共振性は否定・抑圧・隠蔽されるのである。内的身体に隠蔽されるのである。正確に言えば、(+i)*(-i)⇒+1が内的身体に隠蔽されるのであるが、このとき、Media Pointを介した虚軸性=超越性が隠蔽されるのである。
 問題は、隠蔽された差異共振性が賦活されるときである。教養的形成や内省(端的にこれが哲学である)を伴う人生経験を経ることで、そのようになると考えられる。自己同一性主義=自我主義(-1)の支配にあって、その賦活された差異共振性はどういう様態をもつだろうか。
 当然ながら、活性化された差異共振性は、自己同一性主義=自我主義(-1)を否定するのである。ここに葛藤・内的闘争が生じると言えよう。(ロマン主義の問題、さらには、反近代主義等の問題はここに収斂するだろう。)即ち、

差異共振性VS自己同一性主義

である。これは、端的に、二項対立の闘争である。19世紀や20世紀初期の文化で言えば、ロマン主義(神秘主義)VS近代合理主義となろう。【ベルクソン等の、いわゆる、生の哲学は前者に入れることができるように思えるが。とまれ、構造主義は、この二項対立を乗り越えた、偉大な理論と言えよう。さらに言えば、フッサール現象学は、構造主義をも超えているだろう。ハイデガー存在論はそれを看過してしまったと私は考える。】
 この内的闘争において、問題は、差異共振性が先行してはいても、自己意識においては、自己同一性主義が支配的、優位であるので、差異共振性が従属的、劣位にあるという点である。このいわば転倒した倒錯した優劣性が支配的であることに留意しないといけない。
 言い換えると、否定性(-1)が支配的であると言えよう。だから、賦活された差異共振性は、内的身体に存しても、否定性(-1)が支配的であるために、その影響を被ると考えられる。自己同一性主義の影響を受けるのである。
 それは、端的に、反動化であろう。否定性を受けるのであろう。つまり、差異共振性は、自己同一性主義を否定して、「自己」を肯定しようとするのである。これは、-(-1)=+1 であろう。
 これは、確かに、差異共振性を意味するだろう。しかしながら、問題は、否定性の存在である。自己同一性主義=自我主義(=近代合理主義=近代自我主義)を否定しているので、物質性を否定することになると考えられるのである。極言すれば、一種、オカルト主義や神秘主義になるのである。【私はドゥルーズ哲学とシュタイナーの霊学は類似すると思っている。】
 何が問題なのか。実はこれこそ、不連続的差異論が問題にした連続性である。端的に、連続性とは、否定的連続性である。つまり、自己同一性主義という否定性が支配的であるので、賦活された差異共振性も正に反動的に否定性を帯びてしまい、連続性を帯びると考えられるのである。これは、非常に矛盾的な事態であると言えよう。
 差異共振性は本来、肯定的な事象であるが、自己同一性主義という否定性の支配下においては、否定性を帯びるのである。これは、どういうことなのか。本来の差異共振性が否定性を帯びるとはどういうことなのか。
 直感で言えば、矛盾した言い方になるが、自己同一性主義化された差異共振性であるということである。-1化された+1である。これは、何か。ここでは、推測ないしは作業仮説で言うが、和になるのではないだろうか。即ち、(-1)+(+1)⇒±0ではないだろうか。
 このゼロこそ、構造主義の「ゼロ記号」ではないだろうか。ゼロ度、ゼロ・ポイント、ゼロ場等々と言えるだろう。そして、これが、ドゥルーズの差異であると考えられる。連続化された差異=微分ということである。また、内在平面という考えも、ここから生まれるだろう。【何故、平面なのか。後で検討。】
 そのように考えると、+1が光であり、構造主義であると先に述べたことは、間違いであることになるだろう。+1が光であることは正しいのである。しかし、それは、構造主義ではないのである。構造主義は、やはり、ゼロ度に存すると考えられるのである。つまり、差異共振主義(+1)が連続的に否定されて(和算)、ゼロになると考えられるのである。
 整理すると、-1/±0/+1である。言い換えると、自己同一性主義/構造主義/差異共振主義である。これが、「内在的な」哲学の様相と考えられる。ドゥルーズ哲学は完全に構造主義の進展に過ぎないことがわかる。では、初期デリダ哲学はどうだろうか。先には、-1と+1の差異が差延であると言ったが、それも訂正されなくてはならない。
 デリダ哲学の源泉の一つであると考えられるハイデガー存在論はそれなりに複雑多様であるが、直感するに、いわゆる世界内存在とは、ゼロ・ポイントをもった自己同一性主義(近代合理主義)ではないだろうか。有体に言えば、ハイデガーの存在とは、ゼロ・ポイント(「ゼロ記号」)ではないだろうか。つまり、本来的存在がゼロ・ポイントであり、頽落した存在は、-1となるだろう。【ただし、構造主義とは異なり、自己意識がある。しかしながら、構造主義とは、差異共振性の連続化なので、そのゼロ度は、自己意識をもつと思われる。後でさらに検討したい。】
 そして、初期デリダは、これを継承して、脱構築主義理論を立てたが、その差延とは、結局、先に述べた+1と-1の差異ではなくて、-1と±0との差異であるように思えるのである。例えば、時間を例にとれば、現在は-1であるが、過去や未来が±0であるように思えるのである。そして、両者から差延が発生すると考えられるのである。
 整理すると、ポスト・モダン理論は、ハイデガー存在論と構造主義の影響下において、ドゥルーズは構造主義のゼロ度の進展として「差異」哲学、デリダはハイデガー存在論の進展としての脱構築主義を立てたと言えよう。
 最後に問題は、+1にあったと言えよう。これが、ポスト・モダン理論では把捉できなかったと考えられるのである。何度も繰り返すことになるが、フッサール現象学が、+1を現代哲学において明晰に認識したと考えられるのである。超越論的主観性とは、それだと考えられるのである。また、キルケゴールやニーチェが、特異性という視点で取り出したものは、不連続性であると思う。つまり、彼らは、不連続性という特異性を明確に指摘した大哲学者であると考えられるのである。不明確ではあれ、Media Pointを示唆した哲学者であると考えられるのである。

3p.s. 内在・即非・超越的哲学としてのPS理論を数的に図式化すれば、

      +i
      ↑
-1/-0/Media Point/+0/+1
       ↓
      -i


となるだろう。


2008年04月27日(Sun)▲ページの先頭へ
+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学
「-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己」http://ameblo.jp/renshi/
entry-10091501933.html
先の以上の論考は我ながら、思考の赴くまま実験したので、これまでの考え方とは齟齬を来してしまっているので、ここで、もう一度「冷静に」、eliot-akira氏のコメントを参考にしながら、検討したい。
 先ず、eliot-akira氏の意見を見てみよう。

『■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 』
http://ameblo.jp/renshi/entry-
10091501933.html#cbox

「ゼロの両面鏡」という考え方は刺激的である。また、光と影が相互に見つめるということ、光と影の不対称性(非対称性)、そして、自己意識の「反射」と「屈折」等も同様である。
 また、『 グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。』
http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090935683.html#c10122297117
ということも、意味深長である。とりわけ、『ヤハウェによって「反射」または「屈折」され』という点が興味深い。(因みに、私はグノーシス主義はPS理論の観点から見直すべきように感じている。)
 「反射」と「屈折」、これがポイントであろう。私は先に、自己同一性の鏡像は差異のスクリーンに映出すると言った。これは、本来、+1の光を-1の映像に同化することではないだろうか。これが、同一性主義・自己同一性主義の発生ではないだろうか。
 このとき、当然、他者=差異は排除・否定されるのである。つまり、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。ここでは、明らかに、錯視があるのである。視覚の不思議である。しかし、不「思議」ではなく、明確に解明されるのである。つまり、本来、+1である光を-1の自己同一性鏡像=影として見てしまうということではないだろうか。
 これが、端的に、仮象としての現象界、ドゥルーズ的に言えば、模像(シミュラクル、シミュラークル)としての現象界である。【参考:http://matsuura05.exblog.jp/7663184/
http://www.asahi-net.or.jp/
~dq3k-hrs/simulacre/simframe.htm
因みに、偽装流行であるが、偽装とは、端的に、同一性仮象である。

 この仮象的現象界は、差異共振的光+1を排除しているのであるが、しかしながら、実際は、差異共振的光+1は生起しているのである。光を発現しているが、同時に、それを影=仮象・模像(シミュラクル)として、知覚するということではないだろうか。実際は光+1は発現しているのに、それを排除して影-1 として見てしまうということだろう。【この+1と-1との関係をどう公式化すればいいのか。後で検討したい。】
 この影による自己同一性=自我形成は、正に、自己陶酔(ナルシシズム)であるが、ここには、差異(差異共振)を排除する暴力があるのである。これを父権的暴力と言っていいだろう。原罪があるとするなら、これが原罪であろう。端的に、悪魔的である。悪魔的現象界である。
 この同一性主義メカニズムが、近代的自我主義、近代合理主義、封建的官僚制にあるのである。これが、また、差別のメカニズムである。ポスト・モダンが攻撃した二項対立のメカニズムである。
 この排除のメカニズムであるが、差異共振エネルギーを排除しているので、-1のエネルギーをもつと言っていいのではないだろうか。つまり、-1が+1のエネルギー(差異共振エネルギー、光のエネルギー)を排除すると考えていいのではないだろうか。【宇宙物理学で言えば、-1がブラックホールであり、それが、+1の光を排除するということと考えていいのだろうか。後で検討。】
 問題は、影(闇)が光を排除したとき、端的に、排除された光はどこに行くのか、何処に存するのか。何処に潜在するのか、である。思うに、内的光と外的光は共振する(共一という言葉を造語したいが)。そして、影が内的光・共一・外的光を排除するのであるが、直感で言えば、排除された光は、身体に潜在すると思われるのである。ここは微妙な問題である。排除された光はMedia Pointに潜在するとも言いたい気がするが、身体とMedia Pointとの関係を考えなくてはならない。
 その前に、確認しておこう。影とは実は、光の裏面ということではないだろうか。ここで、D. H. ロレンスの「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」という言葉を想起していいだろう。つまり、dark sun(黒い太陽ではなく、不可視の太陽であろう。いわば、霊的太陽である。)こそ、真の光であるということである。光の現象面(仮象面・模造面)としての影ということである。これは、光と影の即非関係と見るのである。プラトン哲学で言えば、分有であろう。(こう考えると、これまでの考え方と整合化する。)
 では、いわば、光の先端である影が排除する光はどこに行くことになるのかという問題に戻ろう。光の排除とは、端的に、差異共振が否定排除されることである。だから、当然、Media Pointの排除である。私は先に、Media Pointにおいて、差異共振性は精神的身体を形成すると言った。だから、光の排除は精神的身体の排除であり、それは、端的に、内的身体の排除である。だから、排除された光は内的身体に行ったと考えていいだろう。
 そして、直感で言うと、Media Pointが差異共振的精神(心)であり、+1が差異共振的身体ではないだろうか。思うに、以前、モームの『月と六ペンス』の主人公の絵画や態度に関して(画家ゴーギャンをモデルとしたストリックランド)身体的霊性ということを言ったが、排除された光は内的身体における差異共振的精神であり、この身体的霊性に関係すると思われるのである。
 端的に言えば、排除された光は内的身体に潜在するということになるだろう。これで解明できたこととしよう。
 結局、光を排除する、影を中心化する同一性主義であるが、それは光を内的身体に排除しているということになる。そして、内的身体に、人間の徳、魂、精神、霊、心、善が存しているのである。プラトンの善のイデアは正に、ここに存するのであるし、カントの実践理性もここに存するのである。【カントは同一性知性批判(純粋理性とは、純粋同一性知性だろう)を原基としたので、差異共振性を不可知にしてしまったと考えられる。また、東洋哲学は、内的身体の哲学、即ち、内的身体哲学と言えよう。西洋哲学はトランス・モダン化するためには、東洋哲学の内的身体論を取り入れる必要があると考える。単に、抽象観念的知性では、差異共振性は捉えられないからである。鈴木大拙や西田幾多郎の理論は、禅という内的身体論に基づいているのである。また、ウスペンスキーは、東洋神秘主義から内的身体論に到達しているのではないだろうか。】
 だから、近代合理主義・近代的自我主義・封建的官僚主義とは、内的身体である善性を排除しているので、当然、悪性=悪徳=悪霊なのである。善性なき近代主義(もっとも、封建的官僚制は、純粋な近代主義ではないが、日本近代化においては、存続したのである。思うに、近代合理主義・近代的自我主義も官僚主義も父権主義という点では共通である。)なのである。【問題は民主主義や自由主義であるが、それは、基本的には、ルネサンス的Media Pointのエネルギーとプロテスタンティズムの含むイエス的差異共振主義を同一性的に基礎付けたものだと思う。だから、それは、基盤は内的身体=善性であると考えられる。端的に、自由とは、本来、この内的身体の精神性に存するのである。内的自由と言う方が明快であろう。】
 以上の検討から、本稿のテーマがより明快に解明されたと言えるだろう。結局、光と影(闇というより、eliot-akira氏の指摘通りに、影が的確である)の即非様相があるということである。これは、既述済みであるが、これで、これまで、私が経験してきた。差異共振的視覚経験をより明確に説明できるだろう。即ち、「私と立山連峰の銀嶺と一体である」という一種神秘的な経験は、影である銀嶺と「わたし」が内的身体の霊を介して、差異共振して、光(+1)を放出した精神現象であると言えるだろう。【そう、神秘主義はこの視点から確認されるべきである。反近代主義の芸術家は、多くが神秘主義的であるが、それは、差異共振的精神現象である光の体験を意味しているだろう。】
 ここで、銀嶺というのがポイントであろう。端的に、光が焦点化されているだろう。雪を頂いた山嶺は強度の光を放出していると言えよう。通常の影を超えて、光を放出していると考えられよう。この放出された光を私は視覚を介して、内的身体で共鳴して、差異共振体験を起したと考えられるのである。
 この銀嶺の強度の光とはどういうことなのだろうか。おそらく、単なる白い光では強度の光にはならないだろう。蛍光灯の白光を見ても、差異共振体験は起らない。何が異なるのだろうか。【ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を想起する。】
 思うに、白ということが一つのポイントである。これは、本来、色ではないのである。無色である。ということは、根源的な光、即ち、超越光を意味しているのではないだろうか。ここは実に微妙な問題である。先に、+1が光であると言い、それを影-1として見ると言った。だから、本来、光は差異共振エネルギーの現象化である。ということは、影を仮象ならば、光が超越光ということではないのか。ここは難問である。
 整理すると、影=同一性光とするなら、光=差異共振光=超越光である。用語が混淆してしまい、紛らわしいが、言わんとすることはわかるだろう。
 思うに、影=同一性光の場合は、色彩をもつのである。しかしながら、白光とは、本来、無色彩である。つまり、これは、根源的光、即ち、端的に、光ではないだろうか。
 銀嶺の白とは、この光を意味しているのではないか。だからこそ、「わたし」は視覚を介して、内的身体が賦活されて、銀嶺と差異共振化体験をもったのではないか。つまり、Media Resonance(メディア共鳴)であろう。即ち、雪を頂く山嶺におけるMedia Pointと「わたし」の内的身体のMedia Pointが共鳴したということではないのか。
 ならば、蛍光灯の白光はどうして当てはまらないのだろうか。端的に、強度の問題ではないだろうか。銀嶺の白光と蛍光灯の白光とは、強度が異なるのではないだろうか。端的に言えば、銀嶺は太陽の光を反射しているのであり、蛍光灯は光子を放出しているのである。確かに、銀嶺も光子を放出しているとは言えよう。同じ光子でも、何が異なるのか。
 強度が異なると言ったが、それは、言い換えると、Media Pointの開放の有無に存するのではないのか。思うに、太陽光の場合、Media Pointが開いた光であり、蛍光灯の白光は、Media Point が閉じた光ではないだろうか。いわば、後者は影ではないのか。この問題は難しいので、ここでおいておきたい。
 最後に問題は、色彩の問題である。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。(長い論述となったので、稿を改めて検討したい。)
 

参照:
ゲーテの色彩論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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色彩論(しきさいろん Zur Farbenlehre)は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ が1810年 に出した著書。
ゲーテによる光のスペクトル
ゲーテによる闇のスペクトル

教示篇・論争篇・歴史篇の三部構成からなり、教示篇で色彩 に関する己の基礎理論を展開し、論争篇でニュートン の色彩論を批判し、歴史篇で古代ギリシアから18世紀後半までの色彩論の歴史を辿っている。



eliot-akira氏から、たいへん刺激的な、有意義なコメントをいただきました
eliot-akira氏から、たいへん刺激的な、有意義なコメントをいただきましたので、ここで、新しい順に転載します。どうもありがとうございました。
 それぞれにコメントに対して、回答すべきですが、とても深い問題ですので、今は転載にとどめさせていただきます。できれば、後で回答したいと思います。

★★★★★★★★★★★★★★★

http://ameblo.jp/renshi/entry-100
91501933.html#c10123068157

■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 2008-04-27 00:42:36

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http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090935683.html#c10122297117

■一神教の光

明月庵さんが扱われる題材はいつも刺激的で、興味深いです。そこで、自身の「無知の地平面」にも懲りずに、再びコメントさせていただきます。

グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。

「不完全な神」とはうまく表現されたものだと感じます。光と闇が混合してしまっているんですね。

話は飛びますが、この差異性と同一性の考え方を、世界各国の通貨に当てはめれば、どう考えられるのでしょうか。たとえばユーロ通貨は同一性志向ですよね。貿易の流れを滑らかにする利点のほかに、問題点はあるのでしょうか。

言語についても似たような思考が展開できそうです。現在、英語教師の職に就いていますが、英語という言語が資本主義的な権力とつながっているのは、無視できない事実です。英語が世界言語として受け入れられてきている今、各地の言語が失われてきているのでは、と案じられています。

「言語的植民地主義」という造語が頭に浮かびました。
eliot-akira 2008-04-24 20:40:55



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http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090497975.html#c10121930545

■難解ですが興味深い・・・

海舌さんのサイトを訪れました。話の流れについていくのは難しかったですが、好奇心がくすぐられました。

ホワイトホールについて wikipedia で調べてみました。

「ブラックホールは事象の地平線を超えて飛び込む物質を再び外部へ逃さずにすべてを飲み込む領域であるが、ホワイトホールは事象の地平線から物質を放出する」

無の状態から物質や波動が放出されるというのは、熱力学上で不可能だと感じますが、ビッグバンの瞬間はどういう過程を通ったんでしょうか。不思議です。

「ブラックホールは最終的には蒸発することが予言されているが、このプロセスも時間反転に対して対称であるため、熱的平衡にあるブラックホールの時間反転解もブラックホール解である。そうならば、ブラックホールもホワイトホールも同じ物体として解釈され得る」

「時間反転」とは何なのか、具体的によく分からないのですが、数学的な操作でしょうか。正反対の働きをするものが、同じ物体として解釈され得るというのは矛盾しているようですが、つまりブラックホールとホワイトホールは連続する一つのものだという意味でしょうか。

「事象の地平線」とは詩的な表現で気に入ったので、追求してみると・・・

「情報は光や電磁波などにより伝達され、その最大速度は光速であるが、光などでも到達できなくなる領域(距離)が存在し、ここより先の情報を我々は知ることができない。この境界を指し「事象の地平面」と呼ぶ」

この事象の地平面を超えた領域は、我々の視点からは不可知なのだと理解しました。この領域は外側と因果関係を持たないとされています。

天の川銀河系の中心にブラックホールがあると読んだことがあります。これは我々の住む惑星は、不可知の暗黒を中心として旋回していると見られるのではないでしょうか。

全てを吸い込むブラックホールは虚界につながっているのかもしれませんね。とするとブラックホールの中心は一つの media point と言えるでしょうか。中心に接近するにつれて時空間が「引き伸ばされる」とも聞きます。これは「永遠の瞬間」に極限的に接近していくことだと見えます。
eliot-akira 2008-04-23 19:14:27


2008年04月23日(Wed)▲ページの先頭へ
eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える、他
eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える

テーマ:検討問題

以下、eliot-akira氏のコメントを転載します。とても、鋭い質問だと思います。後で答えたいと思います。
 今簡単に言いますと、以下の最初の質問に関しては、既に、Kaisetsu氏が説かれています。おっしゃる通り、二次元、三次元が可能になると思います。以下のKaisetu氏のブログを参照してください。
http://theory.platonicsynergy.org/

Theories for the Platonic Synergy Concept.

 また、二番目の質問はたいへん興味深いと思います。私は、ホワイトホールのことは考えていませんでした。
 「光を吸収する」ことと「闇を放出する」こととは、とても興味深い事柄だと思います。これも考え方の問題があると思います。例えば、電子を考えると、陽電子があります。電子の流れと陽電子の流れが正反対になると思います。これを使えば、「光の吸収」が「闇の放出」になるのではないでしょうか。(p.s. これは不明瞭な言い方です。電子・陽電子を考えるなら、「光の吸収」と「闇の放出」は同じ事態であっても、異なる事象になりますね。だから、次に言う別の事象という方が適切だと思います。)
 また、両者、別の事象と考えることも可能だと思います。後で、検討したいと思います。
 ホワイトホールですが、よくはわかりませんが、おっしゃる通り、ブラックホールが-1ならば、ホワイトホールは+1になりますね。そして、±0というのは、その通りだと思います。
 

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■質問

Media point を一次元とすると、二次元の media plane や三次元の media space などが可能なのかもしれないと考えが浮かびました。どうでしょうか?

もし不可能なら、なぜそうなのでしょうか。
eliot-akira 2008-04-21 03:38:16

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090011698.html#c10121102357



■Whole=Black & White?

これは興味深い題材です。

「光を吸収する」というのは「闇を放出する」ことと同じでしょうか?

ブラックホールに対称するホワイトホールというものがあると聞いた事があります。前者によって吸収される物質や波動が、後者によって放出されるとのことです。これが +1 と -1 によって表現されているのでは?

ということは宇宙という等式において±0という究極的なバランスがある、と見なすことが出来るのかもしれませんね。
eliot-akira 2008-04-17 14:50:36

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10089001746.html#c10119810222


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母子殺害と犠牲:差異をむき出しにする「神」:絶対的特異性と差異共振性

テーマ:法:憲法・法律・司法・裁判・検察・条約

ここで少し大胆な発想を許されるなら、もし、母子殺害を神が少年に命じたとするならどうだろうか。(それは神ではないという反論は当然あるし、私もそう考えるだろう。)
 ここで、有名なキルケゴールの『おそれとおののき』と考え合わせるとどうだろうか。神はアブラハムに子どものイサクをささげるように告げられて、正に、そうしようとした瞬間に神のストップが入ったのである。しかし、奉献しようとしたのは事実である。
 これを延長して、神へのささげものとして、母子殺害を命じられ、そうしてしまったとしたらどうだろうか。その神が絶対神としたらどうだろうか。神の正義は殺人を命じたのである。しかし、地上の正義は、それは悪とみなす。
 そう、デリダは『死を与える』でこの問題を論じて、結局、現代のわれわれは、日々、アブラハム的奉献を行っていると虚をつかれるようなことを述べている。
 「本土」人は、沖縄人(びと)をアメリカにささげている。原発では、地方の人を、経済のためにささげている。等々である。
 そうすると、この犠牲とはいったいなんなのだろうか、ということになろう。ここに示唆されているのは、きわめて深いアイロニーではないのか。そう、ゆるしの問題ではないのか。特異性=差異共振性の問題だと思う。【p.s.  ここでは、筆がいわばすべっている。アブラハムの場合は、犠牲が苦悩を伴うのであるが、沖縄や原発の場合は苦悩を伴っていない。後者の場合は、犠牲者のあり方が特異性になりうるだろう。差別された側にこの特異性の試練がありうると思う。そう、ヨブ記に似ていると思う。聖書はこの特異性の倫理のあり方を問うている。後で、整理し、再検討したい。p.p.s. もっとも、事実としてみれば、「本土」人が沖縄人を「捧げている」と言えるだろう。だから、キルケゴール/デリダの哲学的事態である。ならば、母子殺人事件はどうなのか。沖縄人を捧げているのとどう違うのか。いったい、裁く権利が我々にあるのか。ここで、カミュ的な問題に逢着する。後で検討を深めたい。】
 関係性が丸裸にされて、根源的な差異がむき出しにされるのではないのか。この根源的な差異が特異性であり、ここから、差異共振性、根源的差異共振性が発するのではないのか。いわば、絶望的希望である。地獄的天国である。
 同一性をすべて剥がされたところから始まる根源的関係性がここでは問題になっているのではないだろうか。そう、正に、絶対矛盾的自己同一である。ニーチェが憐れみを否定するのは、このような意味があるのだろう。

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<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

4月22日12時27分配信 毎日新聞

<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

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光母子殺害事件の差し戻し審が開かれた広島高裁302号法廷=2008年4月22日午前9時55分、代表撮影
 山口県光市で99年4月、母子を殺害したとして殺人と強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(27)に対する差し戻し控訴審の判決公判が22日午前、広島高裁であった。楢崎康英裁判長は「強姦の目的や計画性も否定できない」として、求刑通り死刑を言い渡した。元少年が差し戻し審になって新供述を展開したことを「不自然不合理」とし、弁護側が主張した情状面について「斟酌(しんしゃく)する理由はみじんもない」と述べた。

【関連写真特集】 光母子殺害事件、元少年に死刑判決

 最高裁は06年6月、高裁が認めた情状酌量理由を「死刑を回避するには不十分」として1、2審の無期懲役判決を破棄し、高裁に差し戻した。

 判決によると、元少年は99年4月14日、光市のアパートに住む会社員、本村洋さん(32)方に排水管検査を装って上がり込み、妻の弥生さん(当時23歳)を強姦目的で襲い、抵抗されたため手で首を絞めて殺害。泣き続ける長女夕夏ちゃん(同11カ月)を床にたたきつけた上、首にひもを巻き付けて絞殺した。

 元少年は差し戻し審の公判で、弥生さん殺害について「甘えたい気持ちで抱きつき、反撃され押さえつけたら動かなくなった」とし、夕夏ちゃんについて「泣きやまないので抱いてあやしていたら落とした。首を絞めた認識はない」と述べた。

 供述を変えた理由については、「自白調書は警察や検察に押し付けられ、1、2審は弁護人が無期懲役が妥当と判断して争ってくれなかった」とした。

 判決は「弁護人から捜査段階の調書を差し入れられ、『初めて真実と異なることが記載されているのに気づいた』とするが、ありえない」と、元少年の主張を退けた。

 また、弥生さんの殺害方法について元少年が「押し倒して逆手で首を押さえているうちに亡くなった」としたのに対しても、「不自然な体勢で圧迫死させるのは困難と考えられ、右手で首を押さえていたことを『(元少年が)感触さえ覚えていない』というのは不自然。到底信用できない」とした。夕夏ちゃん殺害についても、「供述は信用できない」と否定した。

 また、元少年が強姦行為について「弥生さんを生き返らせるため」としたことについて、「(荒唐無稽こうとうむけい)な発想であり、死体を前にしてこのようなことを思いつくとは疑わしい」と退けた。

 判決は、「身勝手かつ、自己中心的で、(被害者の)人格を無視した卑劣な犯行」と断じた。

 1、2審は殺害の計画性の無さや更生可能性を重視して無期懲役を選択。最高裁は強姦目的や殺害方法などの事実認定を「揺るぎない」と判断し、情状面からも「量刑は不当で、著しく正義に反する」として審理を差し戻した。

 事件当時、元少年は18歳30日。少年法は18歳未満の被告に死刑を科すことを禁じている。2審の無期懲役判決を差し戻した死刑求刑事件は戦後3例目だが、他の2件は死刑が確定している。【大沢瑞季、安部拓輝、川辺康広】

【特集】 光母子殺害事件 判決の注目点を整理
【関連記事】 光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】<1>「裁判所の見解は極めて真っ当」
【関連記事】 光母子殺害事件 検察側の弁論要旨
【関連記事】 光母子殺害事件 弁護側の弁論要旨
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080422-00000006-maiall-soci


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身体の欠陥と精神:心身関係:Media Pointの精神的身体性:心身相関

テーマ:医学・病気

うつ病は私の周囲にも多い。実母がもう10年近くのうつ病である。おそらく、治らないだろう。
 うつ病は心の病ということで、原因をストレスに見るのだろうが、私は、意外に、身体の故障から精神的障害が生じることもあるのではないかと、逆説的なことを思うのである。
 先に簡単に触れたが、結局、Media Pointが根源であり、ここは、いわば、心と身体が一如である。精神的身体、霊的身体、魂的身体であり、これが基盤・基底となり、物質的身体、肉体が形成されると今は仮説している。
 この根源的な精神的身体は、心であり、且つ、身体である。また、心であり、同時に、身体ではないという即非態でもあろう★。(スピノザの心身平行論は、この精神的身体を仮説すると簡単に説明がつくだろう。スピノザは、この側面を考えなかったのである。)
 だから、当然、心に乱れが生じれば、それが、身体へ影響するのであり、身体に乱れがあれば、心にも影響を及ぼすと言えよう。うつ病の場合は、一般には、前者の場合であり、私がここで述べたいのは、後者である。
 ここで話を拡大して言うと、近代的自我=近代合理主義の狂気と私が言うところの精神のあり方であるが、それは、意外に身体の欠陥から発しているのではないのかと思ったりするのである。
 そう、なんらかのトラウマの可能性はあるが、それ以外に身体の問題がないのかという考え方はどうかということである。
 たとえば、ストレスがあるので、胃潰瘍になるという風に普通は考えられるが、私の作業仮説は、もともと、胃に問題があるので、ストレスの影響を受けやすいのではないのかということである。
 そう、心身相関である。肝臓の悪い人は、どこか精神に問題を抱えていないだろうか。肺臓の悪い人、膵臓の悪い人、心臓の悪い人、等々である。
 私が言いたいことは、結局、きわめて伝統的な心身観(東洋的身体観)に返ることになる。心臓が感情の身体であるというような考えである。肝臓が肝(きも)であり、肝っ玉(大胆さ)を宿すということである。
 この考え方は、Media Pointが精神的身体であるという視点から必然的に出てくるものである。後で精緻に考えたい。

★ここの心と身体の即非性は、直感で言っているので、少し分析が必要である。Media Pointにおける差異=イデアが、心を生み、また、身体を生み出す。これは、同時であるが、様相は異なるのではないだろうか。
 少し、測深想像考察してみよう。Media Pointにおいて、差異共振性と同一性志向性が発生する。後者はフッサールの志向性(ノエシス)と見ていいだろう。それが意識、純粋意識である。しかしながら、前者の差異共振性であるが、それは、いわば、無意識になるのである。そう、無意識であり、身体を形成すると思われる。そして、一般には、身体を物質的身体と捉えるのである。しかしながら、これは、実際は、イデア的身体(差異的身体、差異共振的身体、霊的身体、精神的身体、魂的身体)である。
 だから、この点では、心と身体とは、確かに、即非関係にある。もっとも、この心は同一性的心である。同一性知性である。しかし、精神的知性がありうる。それはどういうものだろうか。
 精神的知性とは、差異共振性=無意識の知性である。それは、また、身体に通じている。端的に言えば、差異共振性=無意識/身体である。だから、精神的知性と身体との関係は、この場合は、イコールではないが、一如であろう。そう、微妙な点がある。
 いったい、差異共振的知性=精神と身体とはどう関係するのか。何故なら、差異共振性も身体であるからである。極言すれば、身体的知性が精神である。この点においては、精神・即非・身体と言うことができる。
 ここでついでながら言うと、Media Pointのもつ差異共振性であるが、それは、超越光の精神的身体(差異共振的身体)と言えるだろう。同一性知覚(通常の視覚)の見る光とは、この超越光の精神的身体から少し洩れる超越光の光輪のようなものではないのか。D.H.ロレンスは光が背を向けていると言っていたが、正に、そうだろう。超越光の背中をわれわれは、現象界において、見ているに過ぎないのだろう。
 思うに、仏像の光背は、超越光を表現しているのだろう。後光とは、正に、裏返しの超越光から洩れるものだろう。
 
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うつ病治療、4人に1人が中断
 うつ病や関連の疾患で受診した経験がある人のうち、症状が治まっていないにもかかわらず、治療を中断するケースが少なくないことが、ファイザーの調査で分かった。精神医療の専門家は「患者が疾患を理解し、安心して治療に専念できる環境を創出できるよう、医師側の意識をさらに高めていく必要がある」と指摘している。(医療介護情報CBニュース)
[記事全文]


# うつ病の治療の基本 - 重症度の波。うつ病治療.com
# 心の風邪「うつ病」を休養と薬でゆっくり治そう - healthクリック
# 家族のための対応ガイド - NHK「うつサポート情報室 」

# 受診経験のある患者における受診行動調査 - ファイザー

# 20〜30代で急増する「社内うつ」 - 日経BP(2006年3月24日)

# 心のケア - Yahoo!トピックス
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/
domestic/depressive_disorders/


2008年04月21日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:イデア知性とイデア界の関係について
先にイデア知性とは、エネルギーを包摂している知(理念知性)であると言ったが、そうすると、イデアとMedia Pointとイデア知性とのかんけいはどうなるのだろうかと思うのである。
 イデアは虚軸上の超越的差異の様相である。問題は、イデア界とMedia Pointとの関係を明確にすることである。言い換えると、イデアとイデア・エネルギーとMedia Pointとの関係はどうなのか、である。また、私がいうイデア知性との関係はどうなのかである。これは、実に根本的な問いである。
 今は余裕がないので、検討できないが、一言いうと、イデア・エネルギー(エネルゲイア)は、Media Pointで発生するだろう。しかし、同時に、同一性志向性が発生する。正確に言えば、連続的同一性志向性が発生するのである。だから、通常、このイデア・エネルギーを同一性的に捉えてしまうのである。
 しかし、私が言うイデア知性とは、イデア・エネルギーを同一性とは不連続なものとして捉える知性である。だから、不連続的知性、即非的知性とでも呼べるものである。ここが大ポイントなのである。これを知性的に捉えたのは、これまで、鈴木大拙とウスペンスキー、他くらいであろう。(しかしながら、真の民衆はこれを直感的に捉えているものである。霊性である。)
 そう、一神教は、この、本来、不連続的なイデア知性を、同一性化してきたのである。とりわけ、キリスト教である。
 やや飛躍するが、ルネサンスとは、Media Pointにおけるイデア・エネルギーの発露であったろう。しかし、プロテスタンティズムの勃興によって、それが同一性化されたと思われる。もっとも、ルネサンス自体においても、自然発生的な連続性はあったろうが、プロテスタンティズム的な抑圧はなかったろう。近代西欧史は、この差異と同一性との争闘である。
 近代において、最初にイデア知性に近づいたのは、思うに、シェリングではなかったろうか。彼の同一性哲学と呼ばれるのは、実は、イデア知性哲学ではないだろうか。そう、シェリング以前では、スピノザとライプニッツをあげるべきだろう。また、ジョルダーノ・ブルーノ、他もあげるべきだろう。(思うに、ヘーゲル哲学は、Media Pointの原同一性を捉えているように思う。だから、観念論なのである。)
 では、端的に、イデア知性とは何か。それは、Media Pointがもつ純粋知性ではないだろうか。Media Point純粋知性ではないのか。
 同一性主義に囚われていると、イデア・エネルギーは非合理的になる。しかし、不連続化すると、純粋イデア・エネルギー=ディオニュソスになる。そして、そこに、イデア知性が生起すると思う。つまり、イデア知性とは、純粋イデア・エネルギーが内包する知性ではないのか。すると、これまで言ったのは逆に、エネルギーが知性を包摂するのではないのか。これまでは、エネルギーを包摂した知性と言ったので有る。
 思うに、純粋イデア・エネルギーとイデア知性とは同じものなのではないのか。つまり、後者はデュナミスではないのか。イデア・デュナミスである。知・即・エネルギーとしてのイデア知性ではないのか。後でさらに検討したい。


2008年04月19日(Sat)▲ページの先頭へ
ユダヤ教とプラトニック・シナジー理論:トーラーとイデア
テーマ:一神教/多神教

ユダヤ教の誕生―「一神教」成立の謎 (講談社選書メチエ) (単行本(ソフトカバー))荒井 章三 (著)

********引用開始***********

【・・・「伝承はトーラーの垣根である」という言葉がある(ミシュナ「アボト」[父祖の言葉]三章十三節)。ここでの「トーラー」は本来的な意味での「神の教え」であって、「モーセ五書」を意味するトーラーを初め、預言者も諸冊も含めて、すべての伝承が、本来的な意味での「トーラー」の境界を示し、これを守る垣根としての働きをなすことを意味している。】p.17

【・・・ユダヤ人たちは、トーラーを、単に「モーセ五書」や『聖書(タナッハ)』(・・・)以上のものとして理解している。タルムードを含め、今日までの、あるいはこれから生じる未来のユダヤの伝承や教えの総体なのである。
 トーラーの冒頭の言葉「初めに」(「初めに、神は天地を創造された」「創世記」一章一節)ですらトーラーと結びつけられている。すなわち、トーラーは初めであり、創造原理そのものだった。神はトーラーによって世界を創造し、創造者と被造物との結びつきを初めて可能にしたのである。
「神はトーラーによって天と地とを創造された」。ここには、「箴言(しんげん)」八章二十二節以下の「主は、その道の初めにわたし(知慧)を造られた。いにしえの御業(みわざ)になお、先立って、永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って、わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」という「知慧」とトーラーの同定が見られるかもしれないが、トーラーが宇宙の根本原理として世界以前に存在したように、これからも過ぎ去ることなく存在し続けるであろうことが主張されているのである。】p.18〜p.19(色文字強調renshiによる)

*******引用終了**********

私は、特に、シュタイナーによって、ユダヤ教の神の原理が能動的原理であることを知っていたが、以上の荒井氏の明快な言葉で、今更と言うか、目から鱗が落ちた。トーラーとは、通常、モーセ五書を指しているが、単にそれだけではなく、知慧と同定される根源的原理であるということである。すると、これは、イデアとイデア・エネルギー(エネルゲイア)とつながると考えられるのである。端的に言えば、トーラー=イデアであると考えられるのである。
 私は、先に、超越神とは、イデア化の宗教的あり方ではないのかと疑問を提起したが、この図式を使えば、超越神=イデアとなりそうである。もっとも、ユダヤ教では、ヤハウェとトーラー=知慧は区別しているようではあるが。少しこの点を考察してみよう。
 荒井氏の記述では、神がトーラーによって創造したのであり、また、トーラー=知慧(叡知、ソフィアと呼んでいいだろう)は創造以前から存していたとあることから、端的にトーラー=イデアと考えることができそうである。
 問題は、超越神とイデアとの関係である。イデアをデュナミス(潜在態)とエネルゲイア(活動態)に分けて、イデア・デュナミスとイデア・エネルゲイアとしよう。トーラー=知慧はイデア・デュナミスになるだろう。では、イデア・エネルゲイアにするのは何かである。これが、創造である。ユダヤ教では、当然、ヤハウェの意志(光あれ)である。
 プラトニック・シナジー理論(PS理論)では、イデア・エネルゲイア化とは、自然(じねん)と考えるのではないだろうか。つまり、1/4回転によって創造が為されるのであり、それは、自然(じねん)だと考えられる。即ち、差異共振化による1/4回転が生起・発生するのであり、それが創造(天地創造)と考えられるのである。言い換えると、PS理論では、創造神が必要ないのである。イデア・デュナミス=「トーラー」が自然(じねん)にイデア・エネルゲイアとなり、天地を生み出すのである。そう、創造ではなく、産出である。もっとも、広義では、創造も産出も同じことと考えられるが。
 とまれ、ここには、西洋文明と東洋文明の区別が存すると言えるだろう。つまり、創造神が存するのか、否かである。
 ここでは簡潔に直感で言いたい。イデア・エネルゲイアとは確かに、自然(じねん)ではあるが、能動的行為である。だから、この能動的自然(参照:スピノザのナトゥーラ・ナトゥーランス、能産的自然)は、当然、創造的であると言えるのである。自然=創造である。つまり、自然自体がいわば、創造神であるということであり、ユダヤ教のように、イデア=「トーラー」以外に創造神を「設ける」必要はないと考えられるのである。端的に、イデア・即・「創造神」である。有体(ありてい)に言えば、創造神は不要なのである。
 そう考えると、先に私が、イデア知性とはエネルギーを包摂・内包した知性であるということの意味がより明瞭になるだろう。能動・創造性を内包した知性(智慧・叡知・ソフィア)がイデア知性ないしはイデアなのである。【ここで神道を考えるにふさわしいだろう。神道の神ないしは神々とは何か。それは、端的に、イデアであると思うのである。イデアを古代人は神ないしは神々と呼んだと思われるのである(あるいは、超越エネルギーを神ないし神々と呼んだのである)。では、神と神々の区別はどう考えることができるだろうか。これは三柱の神と八百万の神々の区別と言えるだろう。根源的神と被発生的神の相違である。仮説であるが、おそらく、前者の振動数の相違によって後者が説明されると思われるのである。多様な振動数を前者をもちうるのであり、それが、八百万の神々として発現すると考えることができるのではないだろうか。】
 では、イデア=「トーラー」と区別される創造神はどうして発生した(と考えられる)のだろうか。(ヨハネの福音書の「はじめに言葉ありき」の言葉(ロゴス)は、イデア=「トーラー」に相当すると言えよう。p.s. 否、違うかもしれない。以下、参照。)主導的原因と叡知との分離は何を意味するのか。
 PS 理論から見ると、Media Pointの実軸において、同一性=言葉(ロゴス)が形成される。これは、また、同一性志向性=同一性能動性である。つまり、同一性自体が同一性志向性でもある。だから、同一性志向性は同一性主義と言えるだろう。そして、これが、父権的志向性である。
 ここで仮説するに、創造神とは、Media Pointのエネルゲイアであり、それが、同一性志向性=同一性能動性=同一性主義と結びついて発現したものではないだろうか。【だから、フッサールのノエシスに似ているのである。】
 そして、エネルゲイアとは別に、イデア・デュナミスがあるのであり、これが、根源的叡知と考えられるのである。そして、これが、トーラーに相当するのではないかと思われるのである。
 整理すると、Media Pointの同一性エネルゲイアが創造神であり、イデア・デュナミスがトーラーである。イデア・エネルゲイアが同一性エネルゲイアへと転換しとき、イデア・デュナミスと分離したと思われる。これで創造神がトーラーとは区別されることの説明がついたことになる。これは、明らかに、父権的傾斜の衝動である。即ち、同一性傾斜である。【母権的傾斜は、イデア・エネルゲイア=差異共振性の保持ないしは再帰性であると考えられる。】
 そして、ここで、キリスト教を考えると、イデア=トーラーと同一性=言葉(ロゴス)とが「癒着」し、混淆・混同されてしまったのではないだろうか。
 再度整理すると、ユダヤ教の超越神=ヤハウェは、Media Pointの同一性エネルゲイアであり、イデア・デュナミスがトーラーとして存している。しかるに、キリスト教の場合は、イデア・デュナミス=トーラーが同一性=言葉(ロゴス)と混淆されてしまい、知慧と同一性知性(ロゴス)との区別がつかなくなってしまい、また、同一性の強化に伴い、知慧を喪失していったと考えられる。【因みに言えば、ハイデガーが唱える存在の忘却であるが、それは、知慧の喪失ないしはMedia Pointの喪失と見るべきではないだろうか。】ここには、既に、プロテスタンティズムの原型が見られるだろう。
 さて、最後に、先に述べたユダヤ系の東洋性ないしはイデア知性のことであるが、以上から、端的に、ユダヤ教においては、トーラーという形で、イデア知性が存していると考えられるのである。だから、ユダヤ系ロシア人を祖先とするバーンスタインの演奏にイデア知性を感じることはありうることである。
 また、東洋性ということであるが、端的に、それは、Media Point的精神知性の存在のことだと思われる。神道、道教、仏教、ヒンドゥー教等は、これをそれなりに体現していると考えられるのである。
 そうすると、ユダヤ教とは東洋性と西洋性との境界に位置すると言えるだろう。そして、キリスト教は、東洋性を喪失していった宗教と言えよう。それは、ユダヤ教よりもルサンチマン的であると考えられる。【だから、ここでもニーチェの慧眼が確認されるのである。ニーチェはユダヤ教を評価していて、キリスト教を弾劾呪詛したのである。】
 因みに、聖書のエローヒーム(神の複数)とは何だろうか。それは、思うに、本来のイデア・エネルゲイアがもちうる多神教性ではないだろうか。つまり、神道の八百万の神々と同質ではないだろうか。だから、ユダヤ教とは母権的多神教と父権的一神教との混淆宗教であるということになると考えられる。D.H.ロレンスが晩年、旧約聖書は神々に満ちていると述べたのは、妄想ではなくて、真実であると考えられるのである。
 結局、以上から、最大のルサンチマンはキリスト教にあると言えよう。ユダヤ教は、トーラーという叡知をもっているので、ヤハウェのルサンチマンをそれなりに統御できると考えられる。しかし、キリスト教は、イデア=トーラー=叡知を同一性=ロゴスと混淆して、同一性主義=ロゴス中心主義によって、前者を喪失していき、ルサンチマンを過剰にしたと考えられるのである。それが、ヨハネの黙示録の最後の審判に結実していると思われるのである。
 端的に、イデア=トーラー=知慧(般若・ソフィア)の喪失は、キリスト教に拠ると考えられる。人類の狂気化はここに根因があると考えられる。トランス・キリスト教が必要であるし、そうなると考えられる。


2008年04月17日(Thu)▲ページの先頭へ
イデア的知性について再考:ディオニュソスとアポロ:プラトニック・シナジー理論とプラトンのイデア論
イデア的知性とは、考えると、不思議なものに思える。まだ、完全にクリアになっていないので、さらに考察を続けたい。
 ここでは、先の考察に、ニーチェの『悲劇の誕生』の有名なディオニュソスとアポロの視点を加えて、多角的に検討したい。
 ニーチェのディオニュソスとアポロの概念は一見明快なようでいて、実は複雑であると考えられる。先にも言及したが、これは、実は、ニーチェが攻撃したイデア論に通じるものをもっていると考えられるのである。そう、だからこそ、ここで、それらの概念の視点を持ち出すのは有意義だと考えられる。
 ここで、簡単に見取り図を言えば、ディオニュソスが差異(差異共振性)であり、アポロが同一性であるという図式が考えられる。ここで、問題はなのは、アポロの意味なのである。ニーチェ自身の叙述から、アポロがソクラテスの合理主義と結びつけられて、いわば、アポロが同一性主義と一致するように述べられている点である。
 しかしながら、よく読めば、アポロはヴィジョンなのである。同一性合理主義ではないのである。それが注意する第一点である。
 次に、母権神話/父権神話の二重構造の視点から見ると、ディオニュソスが母権神話に、アポロが父権神話に属すると見ることができよう。これが第二点である。
 これらの視点をふまえて、本件のテーマに返ってみると、情動・情感・情緒等(リリシズム)を包摂・内包するイデア(理念)とは、端的に、ディオニュソス的イデアであり、同一性的イデアではないということになろう。プラトン自身の記述から、イデアは、同一性的イデアに限定される恐れがあるし、事実は、そのように、いわば、通俗的に理解されてきたと考えられる。(プラトン自身、差異と同一性の間で揺れ動いていたと考えられる。)
 このディオニュソス的イデアであるが、これは、実は、ヴィジョンとしてのアポロに通じると考えられるのである。同一性のアポロではなく、ヴィジョンとしてのアポロである。
 思うに、このディオニュソス的イデア=ヴィジョン的アポロと考えると、音楽=美術になると考えられる。ニーチェは音楽の源泉から悲劇の誕生を考えたのであるが、しかし、音楽は美術と一如になると思われるのである。
 そうすると、ヴィジョン的アポロと同一性的アポロを区別しないといけないだろう。思うに、極言すれば、ここに母権多神教と父権一神教、差異と同一性の問題の核心があるだろう。
 ヴィジョン的アポロとは言い換えれば、ディオニュソス的アポロということになるだろう。これは、母権的視覚である。それに対して、同一性的アポロが発生したのである。これが、父権的視覚であろう。同一性的視覚である。そして、この両者が古代ギリシア文化において、結合ないし融合したと考えられるのである。そして、この心的事態が、『悲劇の誕生』の中核ではないだろうか。母権文化と父権文化の結合・融合としての『悲劇の誕生』である。
 結局、その結合・融合の本質は何か、である。おそらく、即非の論理に類似するのである。矛盾論理のように思えるのである。一方では、母権=ディオニュソスであり、他方では父権=アポロなのである。しかし、ヴィジョン的アポロは、同時に、母権=ディオニュソスの側に存するのである。このような複合体であるように思えるのである。
 思うに、ギリシアの古典主義/合理主義とは、後者の父権=アポロから発生したものであろう。しかしながら、ギリシア神話は、母権=ディオニュソス文化を色濃く反映していると言えよう。また、父権=アポロであるが、それは、同一性主義と言っていいだろう。それは、ギリシア悲劇では、支配的な政治として表現されているだろう。有名なアンチゴネーであるが、それは、明らかに、母権=ディオニュソス文化を体現していると言えよう。
 では、主題のイデア的知性について考察しよう。最初に私が考えるイデア的知性について、次に、プラトンのイデア論について述べたい。
 結局、イデア的知性とは、母権的ディオニュソスを「叡知」化したものだと考えられる。端的に、母権的ディオニュソスとは、エネルゲイア、即ち、エネルギーである。動的なものである。さらに言えば、超越エネルギーである。それは、現象界を創造するエネルギーである。根源的エネルギーである。だから、これは、同一性的知性・合理性(現象界・物質界の知性)によっては、捉えることができないのである。【近代合理主義は、アイロニカルに、非合理主義・狂気にいわば復讐されるのである。それが、全体主義であり、自然・精神破壊であり、また、戦争・犯罪の蔓延である。】
 この超越エネルギーである母権的ディオニュソスを、知性において把握しようとするのが、イデア的知性である。これは、イデア界を仮構して、その理念・イデアがこの母権的ディオニュソスとなり発現すると考えるのである。現象界を超越したイデア界を仮構することで、この母権的ディオニュソスをイデア知性として把握しようとするのである。しかしながら、イデア知性は母権的ディオニュソスのエネルギーを包摂・内包しているのであるのであるから、単純な知性・合理性ではないのである。エネルギー包摂・内包的知性・合理性である。
 そして、母権的ディオニュソスとは、差異ないし差異共振性と考えられるので、イデア的知性=ディオニュソス的知性=差異的知性ということになる。ここで想起されるのは、ドゥルーズの差異論である。それは、差異的イデア論を目したものであるが、連続性の囚われていたので、差異的イデアを同一性的知性へと連続化してしまい、イデア的知性を取り逃がしてしまったと考えられるのである。
 とまれ、以上のようにイデア的知性を考えると、ニーチェのディオニュソスとは、イデアの動態であるが、ニーチェ自身は、イデア的知性までは達していなかったと言えよう。晩年の力への意志とは、思うに、基本的には、ディオニュソスの別の言い方であると見るべきだと思う。
 次に、プラトンのイデア論であるが、それは、母権的ディオニュソスを初めて、イデアとして捉えた試みであろう。そして、それは画期的であった。イデア的知性が誕生したのである。しかしながら、以上検討したように、古代ギリシアにおいて、母権的ディオニュソスがアポロ的ヴィジョンを介して、同一性的アポロと矛盾同一化していたと考えられるのである。即ち、アポロ的ヴィジョンとは、ディオニュソス的ヴィジョンであり、それは、ディオニュソスが発現させる同一性のヴィジョンであり、それは、未だ、霊的なヴィジョンである。
 そして、古代ギリシアにおいて、この霊的な同一性ヴィジョンと現象的同一性的アポロとが結合・融合していたと考えられるのである。この結合・融合は、即非的である。前者は霊的同一性であり、後者は物質的同一性である。
 そして、プラトンのイデア論は、単に、母権的ディオニュソスのイデア化だけでなく、この霊的同一性をイデア化したと考えられるのである。前者が善のイデアであり、後者が同一性のイデアであり、通俗的には、後者が中心化されたのである。
 後で整理する予定であるが、私が先に述べたイデア的知性とは、母権的ディオニュソスのイデア化であり、主に差異、差異共振性の知性を意味する。しかし、プラトンにおいては、ディオニュソスだけでなくて、ディオニュソス的アポロ(ディオニュソス的同一性)も、イデア化していると考えられるのである。
 この相違をどう見るのか、である。私は、母権文化とは、同一性が差異共振性において存しているのであり、同一性主義には至っていない、いわば、未分化の文化と言った。言い換えると、母権文化は、同一性を内包した差異共振文化である。
 そう考えると、私がいうイデア的知性はまったくプラトンのイデア的知性と一致することになると言えよう。ただ、私は、今日的に、差異・差異共振性を強調しているが、同一性は含んでいるのであるし、プラトンは、差異よりは、同一性の側面、視覚的側面を強調していると考えられるのである。強調の違いに過ぎないと考えられるのである。
 そうすると、この差異・差異共振性における同一性、ディオニュソス的アポロとは何か、ということになるだろう。同一性のイデアとは何か、である。上では、霊的同一性と言った。
 これは、端的に、プラトンのエイドスに当たると考えられるが、これは一体何なのか。まだ、完全には、現象化していないが、原現象であるような同一性である。それは、Media Pointにおける同一性志向性に当たるように思えるのである。あるいは、先の作業仮説の図式では、ハイデガーの存在に当たるかもしれない。先の図式を訂正すれば、⇒の先端が、この同一性のイデアないしはエイドスかもしれない。とまれ、原同一性と言う方が明快であろう。
 さて、直感では、この原同一性・エイドスとは、「気」になるのではないかと思われるのである。シュタイナーの霊学で言えば、エーテル体である。霊性としての「気」である。「霊気」である。
 【そして、さらに考えると、ディオニュソスとは、シュタイナーのアストラル体(情動・情感身体)に当たるのではないだろうか。そして、ディオニュソスのイデア的知性が、シュタイナーの自己に当たるのではないだろうか。これらは、まだあいまいなので、後再考したい。】
 とまれ、以上、試行錯誤の跡が見られるが、とりあえず、本件の検討をここで終える。


イデア論における理念知と情動:同一性観念とイデア観念:観念知性とMedia Point理性
私は、先に、ドゥルーズ哲学を酷評したが、差異イデアという考え方を得たのはそこからであり、その独創性を評価しなくてはならない。それにともなって、イデア界ないしは理念界のあり方を現代において、復活させた点も評価する必要がある。つまり、差異的イデア論の可能性をドゥルーズは説いた点で大いなる評価に値するのである。
 とまれ、ここでは、イデア論の理念的知性とは何であるのか、今は、簡単に考えたい。私の経験では、身体的情動がある。それは、神秘的な情動でもある。コスモス的な情動である。しかし、これは、同一性=物質的知性とは相反的である。【同一性=物質的知性の用語であるが、私は、知性や理性を差異に使用したいと先に言ったが、やはり、同一性に関しても使用する必要があるようだ。だから、同一性知性ないしは物質知性である。】
 しかし、イデアという理念を仮説することで、この情動は知性化されるのである。即ち、情動がイデア知性、理念知性に包摂ないしは内包されるのである。
 有体に言って、これは、どういう事態なのだろうか。それがまだ明確に解明されていないのである。端的に、情動・情念・情緒等(リリシズム)を包摂・内包する知とは何だろうか。どうして、普通の同一性知性ではそれができないのだろうか。同一性知性(近代合理知性)は、端的に、情動・情念・情緒を抑圧する作用があると思われる。(ここに正に、分裂が生じるのである。)
 だから、同一性知性以外の知性を仮定することで、それらを抑圧しないで包摂・内包することが可能になるということだと考えられる。つまり、情動等(リリシズム)を知性化する試みとして、イデア論があるのであり、そこでは、いわば、情動的イデア界が形成されるだろう。そう、心において、情動的イデア界が形成されることになるのである。
 しかしながら、これではまだ分裂したままである。何故なら、心において、一方では、同一性知性があり、他方では、情動的イデア知性があるからである。言い換えると、不安定である。
 ここで、不連続的差異論の画期性があるのである。即ち、情動的イデア知性と同一性知性が不連続であることを発見したのである。この不連続性の発見により、両者が共存・共立するようになったのである。即ち、それまで、分裂的に揺れ動いていた両者が、この発見によって、いわば、それぞれ、所を得て、「落ち着いた」のである。これについてさらに詳述してみよう。
 端的に、心の何処にイデア界があるのだろうか。それは、端的に観念的知性に存するのではないだろうか。より明快に言って、イデア知性はどこにあるのか。より丁寧に見てみよう。
 神秘的コスモス的な情動・情念・情緒等がある。それは、宗教的情動と言ってもいいだろう。それは、抑圧する同一性知性に反発するのである。しかし、イデア界を仮構することで、この情動は知性化されるのである。観念的知性、理念的知性が形成されるのである。
 この観念的知性、理念的知性が、同一性知性とは当然異なるのである。とまれ、観念的知性・理念的知性とは何だろうか。情動等を結びついた知性である。しかし、それらを包摂・内包した知性なので、力のある知性、あるいは、エネルギーを包摂・内包した知性である。言い換えると、エネルゲイアではないのか。それとも、デュナミスなのか。つまり、エネルゲイアとしての知性ないしはデュナミスとしての知性なのではないのか。
 簡単に言えば、エネルギーをもった知性である。しかしながら、包摂・内包されているので、静的にはなるだろう。ならば、デュナミスではないのか。デュナミスとしての知性ではないのか。つまり、デュナミスではあるが、常にエネルゲイアに変換可能な知性ということではないだろうか。
 とまれ、これは、観念・理念知性であり、頭脳において、同一性知性と共存するようになると考えられる。つまり、知性とは、同一性にしろ、差異にしろ、観念である。観念性において、同一性と差異が共立するということではないのか。
 つまり、観念知性において、同一性と差異が共存するのではないのか。言い換えると、観念知性が同一性と差異イデアを共存させるということではないのか。
 では、観念知性とは何なのだろうか。具体的に考えてみよう。例えば、「山」という言語・観念を考えてみよう。これは、同一性知性的には、辞書を引けば出ているような意味である。同一性観念と言ってもいいだろうし、概念である。
 しかしながら、「山」という言葉を例えば、詩において接した場合は、まったく異なってくるだろう。そこには、想像作用が入るのである。情動・情念・情緒作用やイメージ・ヴィジョン作用が入るのである。そう、エネルゲイアとしての観念になるのである。
 近代合理主義的心性(近代的自我主義)ならば、後者を排除して、前者のみを考えるだろう。正に、同一性主義である。しかし、差異イデア的心性をもっていれば、同一性観念とは別に、エネルゲイア的観念が形成されるのである。
 思うに、結局、Media Pointの知性が問題ということではないのか。Media Pointにおいて、一方では同一性へと展開し、他方では差異へと結びついているのである。つまり、観念知性であるが、それは、Media Pointに関わる知性ということではないのか。
 近代合理主義観念知性の場合は、Media Pointを排除する様式の観念知性であるが、それは、どこに位置づけられるのか。それは、差異を抑圧する観念知性であるが、しかしながら、元々、差異に根差していると考えられる。差異に対するルサンチマンから同一性主義が発生するのである。だから、同一性観念知性もMedia Pointの観念知性であると言えるのではないだろうか。
 ということで、結局、観念知性とは、同一性観念にしろ、差異イデアにしろ、Media Pointの知性であるということではないだろうか。
 そして、思うに、この知性こそ、本当の理性だと思えるのである。Media Point Rationalityである。カントの場合は、Media Pointを同一性と差異に乖離させてしまったと言えよう。即ち、純粋理性と実践理性である。Media Point理性がそれらを統合するのである。ここで今は留めたい。


2008年04月16日(Wed)▲ページの先頭へ
「絶対的なもの」と超越性:同一性中心主義=ロゴス中心主義と超越的差異共振性
以下のtoxandoriaの日記には、ハンナ・アレントの全体主義批判の言葉があり、興味深い。PS理論から検討してみよう。

・・・引用開始・・・

・・・ここは、感銘を受けたフレーズ 、そして自らの心象風景とスナップ 画像などを折にふれ、ご紹介するページです。



・・・・・本文・・・・・



何とも悩ましい話だが、活動(必然的に時の政治権力の影響を蒙る、我われ一般国民の日常生活のコミュニケーション 活動)の最中に真っ先に判明するのは、五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能であるということだ。



な ぜなら、それが何であるのか誰も具体的には知らないからである。たしかに 誰もが、それについての概念は持っているのだが、具体的なレベルでは、それについてまったく異なるものをイメージしている。活動がこうした人間の複雑性に依存しているものである限り、西欧哲学---その伝統の最後尾にいる哲学者たちは、結局のところ、活動の制御を目論んでいるのだが---の最初の破局は、 原理的に独裁政権下意外では不可能な統一=単一性が実現されるための必要条件 なのである。



二番目に判明するのは、活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会 な ど、絶対的なるものとして何でも使えるということだ。あらゆる事柄が等しくお誂え向きであり、要するに「何でもあり」なのである。どこかのイカサマ師が思いつきかねない狂気の理論に対する場合と同じように、現実はほとんど抵抗を示さないように見える。いかなることも可能なのである。



三番目に判明するのは、ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、あるいは、ニーチェ が 言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になるということだ。なぜなら「理想」とか正義それ自体は、もはや尺度として存在するのではなく、世界内で達成も生産も可能な、ひとつの目的=終焉になってしまったからである。言い換えるなら、哲学の実現 は哲学を終わらせ、まさに「絶対的なるもの」の実現は世界から絶対的なるものを追放するということである。



そして、最後には、「人間(man)」(一人または少数の政治権力者による狂想の脳内表象)の見せかけの実現が「人間(men)」(絶対多数の国民・市民の現実生活)を文字どおり廃棄(破壊)してしまうのである((  )内はtoxandoriaによる注記)。---「思索日記」「1951年 9月」より 



・・・・・



以上は、[ハンナ・アレント 著、ジェロ ーム・コーン編、高橋勇夫訳『政治の約束』(筑摩書房 )の<緒言>]の引用・転記であるが、このアレントの文章は、(中曽根・・・小渕〜森〜小泉〜安部〜福田)の流れを辿りつつ与党政権がファシズム 的性格を強めてきた必然性を予見しているようで不気味である。



http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/



・・・引用終了・・・



renshiのコメント開始:



1)『五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能である』



という点であるが、これは、明らかに、プラトン哲学のイデア論を批判していると考えられるが、「・・・把握不能である」というのは正しいと考えられる。なぜなら、超越性ないしは絶対的なもの、言い換えると、精神性は、同一性の知性によっては、確かに把握不能であるからである。つまり、近代的合理性知性によっては、超越性ないし絶対的なものの把握は不可能である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論から見ると、超越性ないしは絶対性は、イデアとして「存している」と考えている。

 また、西欧哲学の破局が必要条件であるというのは、同一性中心主義=ロゴス中心主義である西欧哲学という意味ならば妥当する考えである。しかしながら、ハンナ・アレントが考えるようには、単純ではないのである。デリダが明らかにしたように、同一性中心主義と差異とが複雑に関係しているのが、西欧哲学なのであり、単純に西欧哲学の破局が必要条件ではないのである。西欧哲学の批判が必要なのである。



2)『活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会 な ど、絶対的なるものとして何でも使える』



という点であるが、これは正に、イデオロギーの問題である。たとえば、ブッシュがイラクの民主化というイデオロギーで、「絶対的なもの」を使用するのである。

 問題は、不連続的差異論が明らかにしたように、絶対的なものと日常的な活動を不連続化することが絶対的な条件である。両者を混淆することに全体主義や宗教や政治のイデオロギーが発生すると考えられるのである。



3)『ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、あるいは、ニーチェ が 言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になると』



これは、すぐ上のイデオロギーの問題と同じである。超越性ないしは絶対性と同一性的合理性との混同によって、「不正で残忍な活動が可能」になるのである。人類は、父権文明化して以来、これを行ってきているのである。確かに、人類は、同一性=物質的合理性の知性を発達させたが、それを、超越性ないしは絶対性と混淆混同してきたので、狂信・狂気・非合理主義化してきたのである。

 最後にひと言いうと、アレントのプラトン哲学やそれを源泉にする西欧哲学とりわけ、観念論哲学批判であるが、全体主義を経験した西欧の経験としては理解できるものである。しかしながら、その批判は、日常的な活動に限定する理性を求めていると考えられるが、具体的な日常的活動を判断するときの理性的根拠をどこに求めるのだろうか。私見では、それは、個の差異においてしか、ありえないと考えられるのである。日常的活動は集合的なもので、集合性に巻き込まれやすい。しかしながら、日常的活動において、理性・知性を保つには、個の差異が必要なのである。そして、個の差異において、超越性【絶対性という言い方は問題があるだろう。差異における超越性は絶対性なのだろうか。絶対的差異という点では、絶対性である。絶対的なものという言い方はあいまいではある。】が現れるのである。プラトニック・シナジー理論では、それは、超越的差異共振的理性と見るのである。



renshiコメント終了




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酔狂の風景/『HP、新レンブラントの眼』の開設(ご案内) CommentsAdd Star

参考情報

●HP『レンブラントの眼』が諸般の事情により崩壊したため、新たに『HP、新レンブラントの眼』を開設しました。

●未だ試作版のつもりなので、これからも試行錯誤になると思います。一応、当ブログ 『toxandoriaの日記 』とイメージ 的に整合を図るつもりですが、目下、思案投首の状態です。なお、URL は以下のとおりです。

『新レンブラントの眼』、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/

同上・ページ1「toxandoriaの日記、アート と社会 へのリンク 」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage1.html

同上・ページ2「酔狂の風景」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage2.html

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』


http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080415/p1


2008年04月13日(Sun)▲ページの先頭へ
フッサール現象学とハイデガー存在論と構造主義とポスト・モダンの関係:PS理論の視点から(修正版)
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における⇒とすれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、2〜6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、近代主義の世界は、-1と+1の二重性の世界である(参照:双魚宮)。近代合理主義/近代的自我主義と差異共振的自我主義の二重性であり、この間に民主主義、自由主義が存していると言えよう。簡単に言えば、同一性主義と差異主義の二重性の世界である。
 今日、グローバル経済は、+1を否定して、-1に邁進しているのである。これは、差異主義の破壊となっているのである。もっとも、差異共振主義は、技術革新という側面では進展しているだろうが。
 端的に、-1とは、倒錯であり、精神病理である。闇・無明である。ジェンダー論的に言うと、-1は父権主義であり、Media Pointが母権主義であり、+1は、父権主義と母権主義の超克である、いわば、両権主義ないしは新母権主義ではないだろうか。
 最後に神秘主義・オカルト主義について言及しよう。今日では、スピリチュアルなものとして流行しているが、それを明確にしておく必要があるだろう。
 先には、-1が神秘主義ではないかと言ったが、それは、間違いということになっった。では、神秘主義はどこに位置しているだろうか。
 それは、霊的な融合体験を意味するだろう。霊とは、Media Pointのイデアのことである。そして、そこには、差異共振性がある。しかしながら、差異共振性は、融合ではないのである。それは、即非感覚認識である。
 端的に、神秘主義の場合は、同一性主義=自我主義が崩壊すると考えられる。つまり、±1が消滅すると考えられる。これは、思うに、一種先祖返りなのである。つまり、Media Pointへの反動的回帰なのである。これは、螺旋的回帰とは区別されなくてはならない。同一性=自我の形成以前のMedia Pointへの退行である。幼児・胎児への回帰、子宮回帰である。
 反動ではあるが、これは、-1の近代合理主義/近代的自我主義に対する反動である。(参照:懐かしい、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』)つまり、一種、同一性主義に対する、原差異の反抗・反逆と言えないことはないだろう。いったい何がここでは問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義=物質主義化に対するイデア・精神・魂・超越性の側からの無意識の、いわば、本能的な反抗・反逆である。これは、情動的である。知性的ではないのである。ここに問題がある。
 反近代主義的な芸術家の多くは、神秘主義的である。モームの『月と六ペンス』の主人公の身体的霊性もそうである。シャガールの絵画もそうである。もっとも、そこには、根源的な差異共振性があるのである。これは確認しなくてはならない。
 だから、結局、イデア論がここで登場する必要があるのである。近代主義は、精神次元を否定してきた。古代、中世、ルネサンスと精神次元を確認してきたのであるが、それが、近代主義において、否定されたのである。形而上学の否定ということに現われている(形而上学の問題は、それを経験性から独立させてしまうことだろう。本来は、形而上学とは、経験性と結びついているのである。)イデア論を仮説することで、精神の無意識な、本能的な反抗的な情動は、イデアによって、知的に包摂されることになると考えられる。
 それによって、精神は知性的となり、情動性は知的に抑制されることになるのである。そのイデア的知性であるが、知性とは本来、同一性的なものである。だから、近代主義のもつ同一性主義ではなく、近代的同一性、近代合理性、物質的合理性をも包摂したイデア知性がここに生起すると考えられるのである。これは、先にも述べたが、Media Point 知性と言えよう。
とまれ、言い換えると、神秘主義やオカルト主義は、ゼロ度のMedia Pointの様態と言えるのではないだろうか。


フッサール現象学とハイデガー存在論と構造主義とポスト・モダンの関係:PS理論の視点から
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを⇒で表記すれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、3〜6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そ