精神と現象:精神(霊魂)が現象化して、自我意識等が生まれた?:超越界と超越論界と現象界






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2012年06月03日(Sun)
精神と現象:精神(霊魂)が現象化して、自我意識等が生まれた?:超越界と超越論界と現象界
テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

超越軸をもつガウス平面、つまり、ガウス平面をいわば底面としてもつ立体座標においてであるが、どうも、超越軸z軸と虚軸y軸との関係が不明解である。
 そこで、考え直したのである。これまで、自我(頭)を凸i、魂(肚)を凹iとし、前者に悟性、後者に感情・欲望を見たのであるが、そうすると、凸iは光子(電磁波)であり、凹iは闇子(重力波:仮説)であるから、宇宙・自然現象一般と人間が一致してしまうことになる。有り体に言えば、植物、動物、鉱物等と人間が区別されないことになってしまうのである。確かに、身体的には、植物、動物、鉱物等と共通するが、人間の精神・認識性はそれらにはないだろう。そう、簡単に言えば、自我は植物、動物、鉱物にはないだろう。(とは言え、動物には、小自我ないしは前自我のようなものはあるかもしれないが。)
 そこで、これまでの仮説を変更して、自我の根源は凸jであり、魂の根源は凹jであるとするのである。つまり、自我と魂は神霊と等しくなるのである。(ここで、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」を想起する。)
 では、神霊である自我と魂(両者併せて、以下、自己魂)がどうして、現象における自己魂(一般的に自我に傾斜しているので、自我魂)となり、神霊である自己を忘却ないしは喪失しているのだろうか。
 この理由・原因は分かりやすく説明できる。即ち、神霊的自己魂は、現象化して、物質界/身体界に組み込まれて、物質/身体の制限を受けるからと考えられるのである。
 つまり、根源は神霊的自己であるが、それが、虚軸の凸iと凹iへと転化するのが現象化、言い換えると、誕生である。つまり、虚軸の凸i=光子(電磁波)と凹i=闇子(重力波:仮説)の極性を帯びるのである。悟性は神霊的自我の凸jが凸iに、魂は神霊的魂の凹jが凹iにそれぞれ折り重なったものと考えられるのである。
 同一性とは凸iに関係するのであり、その同一性的認識を介して、人間は物質を認識するのである。そう、カントの超越論的形式は正に、凸iに折り重なった凸jで説明ができると考えられる。
 それは、空間形式であるが、時間形式は、凹iに折り重なった凹jで説明できよう。カントの内的感覚(内官)である。空間形式は外的感覚(外官)に関わるのである。
 そして、この超越論的形式(そう、凸iと凹iをそれぞれ、超越論的空間形式、超越論的時間形式と言えよう)が真に物質的現象化するのが凸(+1)と凹(−1)で説明できよう。つまり、凸i化された凸jと凹i化された凹jが結合して、純物質凹(−1)と宇宙・自然現象凸(+1)となると考えられるのである。
 わかりやすく言えば、虚軸y軸は、胎児の世界であろう。そして、実軸x軸が現象世界(いわゆる現実世界)である。
 そう、睡眠とは、実軸x軸(存在軸)から離脱して、虚軸y軸へと回帰して、さらには、media pointを介して、超越軸z軸の神霊世界に触れることではないだろうか。つまり、睡眠において、現象的自己は、神霊的自己に回帰しているということになる。つまり、霊魂に戻っているということになる。
 さて、ここで思考実験であるが、虚軸化作用を受けた神霊的自己の数学的記述であるが、凸j・凸iと凹j・凹iと積で記すことができるのか、それとも、明快に凸j⇒凸iと凹j⇒凹iとした方がいいのか。
 前者を使用するなら、結合は(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(−1)となる。
 結合という用語であるが、これは、同一性化作用と差異共振化作用の二重性を意味している。
 自然現象の場合は、差異共振化だけでいいのであるが、人間の場合は、自我凸iに傾斜しているので、同一性化作用を組み込む必要があり、その為に、二重性をもつ意味として結合という用語を用いたのである。
 ところで、結合式(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(−1)は整理して、

(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸凹(±1)

と記述したい。凸凹は凸と凹の併存を意味しているのである。
 ここで、ルドルフ・シュタイナーの精神哲科学を考えてみると(もっとも、上述の睡眠事象はその視点に拠るのであるが)、超感覚(霊的感覚)的世界とは、自己から凸i*凹iの拘束から離脱させることで得られると言えよう。そう、同一性・物質の被拘束から精神意識を離脱させることである。
 ただし、シュタイナーは科学的合理精神を重んじていた。つまり、同一性・物質的な思考を重視していたのである。
 超感覚(霊的感覚)的世界を同一性・物質的言語で表現することを重視していたのである。その表現は、絶対的には不可能であるが、いわば、相似的に可能であるということである。
 同一性・物質的思考、科学合理的精神を重視するのは、現実離れをして、精神が混乱するのを防ぐためである。
 しかしながら、同一性・物質的思考、科学合理的精神は、悟性的精神であり、自我と結びつくので、自我の欲望を抑制する必要があるのである。そうでないと、合理的精神が自我欲望によって捩じ曲げられてしまうのである。
 言い換えると、同一性的自我を抑制する必要があるのである。つまり、差異(他者)、差異共振の思考が必要となるのである。具体的に言えば、頭脳中心の思考を抑制する肚の思考が必要なのである。そして、両者の中間に胸の思考(media point thinking)を形成すべきなのである。優しさや「愛」とは、そこから生まれるが、それを道徳・倫理として確立すべきである。そう、フィオーレのヨアキム的に言えば、それは「聖霊」的思考である。頭脳的思考が「父」であり、肚的思考が「子」であり、胸的思考が「聖霊」ということになる。(今や、「聖霊」のエポックであるが。)
 言い換えれば、同一性と差異とのバランスを保持するということである。
 以上から、これまでの不明であった超越軸z軸(超越界、神霊界、イデア界)と虚軸y軸(光・光子と闇・重力子)と実軸x軸(純物質と現象)の関係が明快になったと言えよう。
 最後に、⇒凸(+1)をこれまで、超光と仮説してきたが、この点を再検討する必要がある。
 原光・光と原闇・闇の差異共振が創産(造語)する凸(+1)は、宇宙・自然現象であるが、それを超光であると見ていいのか。
 それは、力ではないのか。powerないしはforceではないのか。
そう、宇宙・自然現象を形成する実際の力ではある。
 だから、超光というより、超力の方が相応しいのかもしれない。
 現時点では、訂正して、超力としたい。
 宗教的光であるが、それは、やはり、超越界に存すると言えよう。それは、凸j*凹jのmedia pointに存するのではないだろうか。そこに本当の超光があるのではないだろうか。それが現象的に発出すると超力になるのではないだろうか。
 今はここで留める。

参考:
意識と本質。 | 芸術生理学研究所(仮)
2005年1月30日 – この著作もすでに1991年に中公文庫より刊行されていたが、このご時世、新たに「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」という ... Tat tvam asi(「汝はそれなり」)は、ウパニシャドの宗教的・哲学的思想の精髄(エッセンス)を一文に収約したものと ...
http://green.ap.teacup.com/april/8.html

参照:
自分が主人公だった

ある有名人が、「世の中は、不公平なのが真理です」と発言されていました。
この言葉は、聞く人の心の深さによって、何を思うのかが変わります。
この世だけで、すべてが終わり完結すると思い込んでいる人には、この世が不公平に見えるようです。
しかし、私は「この世は、完全なる公平」であり、これが真理だと知っています。

1日には、昼と夜の時間帯があり、2つ合わせて丸1日なのです。
昼間とは、物が見える時間帯です。これは私たちが、この世で生きている間の時間帯(人生)でもあります。
そして、人は必ず死んで、夜の時間帯へと移行するのです。
つまり、この2つを経験して初めて、魂の1つの区切りと成るのです。

まだ半日しか生きていない人間が、「この世は不公平」だと思うのです。
物語を「途中で切り取れば」、話のつじつまが合わないのはアタリマエなのです。これを不公平だと、錯覚しては生けません。
人間は、この世では、まだ半分しか生きていないと言うことを知るだけでも、この短い人生の生き方が改善されます。
この半分の世界だけで終わると思い込めば、不公平、あやまち、不平不満、我良し、やった者勝ち・・・などと、感謝の心(内在神)から離れた行動と思考をします。

http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/bca3505a93808fef75fe69b83d7d1d8f

伊勢ー白山 道






日ユ同祖論と母権文化的原日本:父権と母権

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

日ユ同祖論が正しいと仮説すると、タイトな父権主義の「ユダヤ」文化が豊饒なる母権文化の原日本に「侵入」したとすると、それは、私が唱えている母権と父 権の衝突に拠る古代ギリシア的なタイプの文化が古代日本において形成されたことを意味することになる。もっとも、私は中国からの父権民族の侵入を想定した が。
 思うに、両極端の文化の衝突と融合が古代日本で生じたことになる。天皇がその中心(media point)である。
 しかしながら、江戸時代になり、古い結合融合(略して、結融)文化が崩壊して、父権と母権に分裂した。明治維新はこの両面をもっていたが、結局、父権が勝利して、全体主義的近代日本が形成された。
 今日、新しい融合を目指すべきである。それは、超日本となるだろう。近代を超克するトランス・モダン・ジャパンである。
 余裕のあるとき、丁寧に説明したい。

追記:新しい融合は、母権凹iが土台となり、父権凸iを取り込むように、それと共振して、形成されるのである。

http://www.googleadservices.com/pagead/aclk?sa=L&ai=BibtCmkDLT9ayB4H9kAWs76CWBKHd4rACubf5hkDAjbcBwIHFURABGAEg3qaUCjgAUKmu5ZoHYInrx4T4E6AB74-w0QOyAQlhbWVibG8uanDIAQHaATZodHRwOi8vYW1lYmxvLmpwL25lb21hbmljaGFlaXNtL2VudHJ5LTExMjY1OTMzODE5Lmh0bWyAAgGpAqS6gSZTfUs-qAMB6AOuAegD2gP1AwAAAMb1AwAAQBCIBgE&num=1&cid=5GjkQKSNfClfdo1pk2rx4fw3&sig=AOD64_2EFo3jT7uceTE4DgN4WSHlIfkaww&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://www.coway.co.jp





「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

先に、「天」の方向は、凸(+1)であり、「地」のそれは、凹(−1)であると述べたが、端的に考えれば、凸iが「天」の方向であり、凹iが「地」のそれ である。つまり、凸iは「頭」であり、凹iは「肚」であるから、単純に、当然、凸iが上昇の方向であり、凹iが下降の方向である。
 そうならば、凸(+1)と凹(−1)は何を意味するのか。
 前者は差異共振による現象界(宇宙・自然)を意味するだろう。後者は物質界である。
 また、前者は超光であり、後者はいわば、超闇である。
 また、凸iは実体としての光であり、凹iは実体としての闇である。
 ところで、先に、氣と電磁波は異なると述べたが、そうすると齟齬が生じる。何故なら、凸iは光・光子(電磁波)であり、陽の氣であるからである。(もっとも、凹iは闇・闇子であり、陰の氣であるが、それは、重力波ないしは重力子[作業仮説]であり、電磁波ではないが。)
 そう、先の説明を修正しないといけない。氣ではなく、超氣と電磁波は異なると言わなくていけないのである。超氣とは、凸(+1)の超光である。





物質が先か、それとも生命体が先か:生命体の解体から物質が生じたと考える

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

PS哲科学は、新イデア論であり、精神が根源にあると仮説している。そう、精神から物質が発生したと考えている。
 しかし、説明が必要である。精神から、最初、生命体が生まれたと考えているのである。その生命体は当然、物質性を帯びている。しかしながら、生命体の衰退によって、生命有機体は解体して、物質が生起したと考えるのである。
 つまり、精神(神霊・霊魂)⇒生命体⇒物質の順である。
 しかるに、物質科学=唯物科学は、逆に、物質⇒生命体⇒精神という順に発生を考えるのである。
 確率論的に言えば、後者の可能性は極めて低いのであり、仮説に過ぎないと言えよう。
 この問題の一つのキーポイントは、氣であると思う。氣を認めるか否かで、決定的に異なる結果となる。何故なら、氣は物質科学で説明できないからである。せいぜい、電磁波を氣と考えることができるくらいである。
 しかし、氣は生命の生成力であるから、それを単純に電磁波と捉えることは不可能である。

追記:上記の氣は超氣と訂正する。そうでないと齟齬を来すからである。即ち、凸iの光・光子は、陽の氣であり、電磁波であるからである。もっとも、凹iの闇・闇子は、陰の氣であるが、重力波(作業仮説)であり、電磁波ではないが。
 以下参照。

「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11265898435.html






唯物科学から生命有機体科学へのパラダイム・シフト

テーマ:trans-modern:超近代的進化

飯山一郎氏の唱える乳酸菌ないしは光合成細菌による新農業ないしは、脱原発路線は、結局、近代の唯物論を超える、生命有機体論科学の提唱であると言えよう。
 端的に、物質と生命とは異なるのであるが、近代科学=唯物科学は、前者から後者が生まれると考えたのである。
 しかし、その結果は、例えば、福島第一原発の崩壊による放射能汚染である。
 原発は近代科学=唯物科学の帰結と言えよう。物質ではなく、生命有機体を基にした科学ならば、このような事態はありえなかったと言えよう。
 結局、脱近代科学=脱唯物科学として、トランス・モダン科学=生命有機体科学というものが必然となるのである。


6月2日(土)京都のえびす屋で講演会。 6月24日には東京でミトラについても話します。
新井信介 「京の風」


母なる海が人間を産んだ

伊勢ー白山 道  





不連続的差異論からPS哲科学への移行の問題について

テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

不連続的差異論は、哲学理論であったが、それに数学を導入して、PS哲科学(哲学-数学-科学理論〔仮説〕)へと発展した。
 この数学-科学への発展の妥当性について、後で、再検討したい。
 言い換えると、不連続的差異論は、精神的哲学であるが、その精神性を数学で記述するのは、どういう意味をもつのか等を検討したいのである。
 精神を数学で記述できるとは、結局、精神自体が数学的であるということになるのである。これは、ピュラタゴラス/プラトン哲学路線ではある。
 それは、結局、精神は数理的存在であるということである。しかしながら、私の疑問は、精神は精神の様態をもっているのであり、その様態は単に数理ではすべては捉えられないのではないのかということである。
 今の予備考察では、やはり、二重性があるのではないのかということである。即ち、精神的様態と数理的様態の二面を哲学はもっているのではないのかということである。
 だから、PS哲科学とは、精神-数理的哲科学ということになる。
 しかしながら、根本は精神であると考えられる。精神の科学的側面が数理的に記述されるのであり、精神の認識的側面が哲学的に記述されるということではないだろうか。
 以上、とりあえず、予備考察としておく。

追記:補足すると、根源は精神である。そして、それが、意識的側面では哲学となり、数理的側面では、数学-科学になるということである。
 しかしながら、意識的側面が中心であり、数理的側面は補完的側面であると考えられる。
 つまり、精神の意識様態が直観的表象であり、それの数学ー科学的表象があるということになる。
 精神の意識様態が基本であり、数理ー科学的記述は、知的様態であると言えよう。
 意識様態とは、知性、感情、意志を含むものであり、数理ー科学的記述は単に客観的知性による表象と言えよう。
 だから、数理的記述は、確かに、進展的ではあっても、意識様態に取って代わることはできないのである。
 故に、数学主導で、不連続的差異論からPS理論へと進展したことは、意識様態を客観的知性が取って代わったことになり、それは、一面的であり、そのために、本末転倒の状況が生じたのである。
 意識様態こそ、基本であり、数理的記述はその補完的知的表現と見なさないといけない。
 そう、意識的合理性と知性とは異なるのである。前者から哲学が、後者から科学が生じる。
 思うに、意識科学というものが考えられそうである。それは、端的に哲科学(哲学-科学)である。





肚の鍛練と頭脳の学習:肚と胸と頭の陶冶・涵養に向けて:新母権的自己形成へ

テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

現代日本は魔境に入ってしまった。自我、父権的自我である利己的人間が蔓延してしまって、他者への認識、同時に、自己への認識が喪失されている。
 何度も述べたが、明治維新は、父権的封建的自我(一般的に長州勢力)が母権的個主義(坂本龍馬、西郷隆盛らの勢力)に勝利して、集団的中央集権国家が形 成された。そして、狂気の引き起こした「太平洋・東/東南アジア戦争」という大惨禍を経て、戦後は、米国的近代合理主義が主流となり、伝統的日本・東洋的 価値観は否定された。
 後者を象徴するものは、肚の喪失である。肚の鍛練の喪失である。
 思うに、西洋人は実は、無意識的に肚をもっているのであり、それを知らず、悟性、知性、合理性云々をいうのである。
 この無意識の肚を日本人は見落としているのである。
 この肚への回帰は瞑想とも関係しているかもしれないが、私は、瞑想は苦手である。
 とまれ、日本人の意識改造が必要である。意識構造改革である。

参照:
「天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義
sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1686.html - キャッシュ
2011年3月27日 – 天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義:トランセンデント・モダン. 以下、東海アマ氏は持論の「天皇制」批判を唱えているが、この問題については既述したので、繰り返さない。 ただ、今度の大震災における ...

精神世界の叡智アーカイブス:身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
blog.livedoor.jp/longpa/archives/11396692.html - キャッシュ 類似ページ
blog.livedoor.jp の結果をすべてブロック
2004年12月17日 – 齋藤 孝/著 NHKブックス ◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」 日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。 腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。





一体的感応性と個的独立性:コスモスと個

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私は子供の頃、田んぼと畑と防風林と林野のまったくの田舎に住んでいた。今思えば、別天地である。車も一日数えるくらいしか、町道を通らなかった。
 とまれ、水田の苗が大きくなり、緑のマットが敷かれたようになる頃、自転車通学していた私は、水田や防風林の緑の世界と神秘的に、そう官能的に一体化したものである。
 この環境との一体的感性はいかなるものであろうか。
 そして、反対に、個であるという意識のメカニズムはいかなるものであろうか。
 直観で言えば、環境的一体感とは、凹i(肚)が主導となった精神の様態ではないだろうか。そこでは、凸i(頭)の従の状態にあるのではないだろうか。(追記:正確に言うと、凹i(肚)は無意識的であり、それが胸・心胸に作用して、環境的一体感をもたらしたと思われる。)
 正確に言うと、凸i*凹iの未分化・連続的様態における凹iの主導的様態が環境的一体感(神秘官能感)を生むのではないだろうか。
 D. H. ロレンスの説くコスモスとはそのような様態を意味するのではないだろうか。
 では、それに対して、「わたし」は個であるという意識はどのような力学をもつのだろうか。
 これまで、個とは凹i、肚に基盤が存すると述べてきたのであるから、それは、環境的一体感と通じるものとなってしまうかもしれない。
 内的体験的には、個とは、肚=凹iと自我=頭=凸iとの均衡に存するように思われる。言い換えると、他者(肚=凹i)であり、且つ、即ち、即非的に、自我(頭=凸i=「わたし」)である。その対極が共振していると言ってもいいだろう。

 (お断り:実は、以下論述はかなり続くのであるが、専門的な独創的な知見なので、ここでの発表を差し控える。)





「天」は⇒凸(+1)の方向で、「地」は⇒凹(−1)の方向だろうか?

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私の内的経験では、コスモスの光は肚から天へと上昇する。コスモスの光は、今の概念で言えば、超光である。これは、肚=闇=凹iと目=光=凸iとの共振によって、発出される。ベースは前者、肚=闇=凹iである。
 そうすると、「天」の方向とは、⇒凸(+1)になる。これはほぼ確定である。
 では、それに対して、「地」の方向はどうなるのか。単純に考えると、反対方向となる。即ち、⇒凹(−1)である。
 どうだろうか。そう、これも内的体験的に考えると、「地」とは、頭から肚へと意識が移動して、肚から「力意識」を大地へと向けた方向にあるだろう。それは、一種、凸i*凹凹i⇒凹(−1)で数式化されるのではないだろうか。
 少し違う感じもあるが、とりあえず、そう想定すると、「地」の方向は、⇒凹(−1)となる。そう、ここでPS哲科学(PSフィロソフィエンス:PS- Philosophience)的トーラス論で考えると、凸(+1)が「天」の極、即ち、天極で、凹(−1)が「地」の極、地極となろう。
 現時点での結論(仮説)としておきたい。


   




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