ハイデガーの本来的存在について:+1と-1とゼロとMedia Point:トランス・モダン






2008年05月24日(Sat)
ハイデガーの本来的存在について:+1と-1とゼロとMedia Point:トランス・モダン
今は余裕がないので、簡単に触れると、ハイデガーの現存在は、+1の共一性における同一性を意味するのではないだろうか。問題は、本来的存在(以下、本存在)である。それは、Media Pointと+1の境界に位置するように思える。Media Pointにおいて、超越性から同一性への展開するが、そのとき、Media Point の超越性の扉が閉じていて、その閉じた扉から同一性(現存在)が発現すると考えられるので、本存在とは、その閉じた扉である。いわば、原同一性である。⇒ の先端ではないだろうか。やはり、ゼロなのではないだろうか。このゼロ、±ゼロが本存在ではないだろうか。超越性・虚数なきゼロ、±ゼロ。簡単にするため、ゼロで考えよう。
 ゼロから+1が生起するのではないのか。しかし、私は、先に、+1は共一性であると言った。自己=他者=同一性ではないだろうか。そして、これが、現存在ではないだろうか。そうすると、先に述べたように、ハイデガー存在論は、ゼロ(本存在)⇒+1(現存在)となるだろう。今は、ここで留める。
 
(続き)
 『存在と時間』では、ハイデガーは時間性を、現存在を超越するものと捉えている。だから、本存在は、+1ではありえない。とは言え、本存在は、 Media Pointではない。だから、やはり、考えられるのは、Media Pointと共一性+1との中間ないしは境界ということである。
 そうすると、やはり、⇒の先端ということになるのではないだろうか。それがどうも適当なように思える。フッサール現象学は、Media Pointである⇒を取り出したのであるが、ハイデガーはMedia Pointである⇒の先端を本存在として取り出したと思われるのである。
 思うに、この⇒の先端は奇妙な性質をもつだろう。ゼロないしは無から発現するようにして、原同一性、原自我が存するように思われるのである。一種の即非性がここにあるように思われるのである。即ち、ゼロでありつつ、+1であるということである。当然、+1が現存在ないしは世界内存在である。
 ハイデガーが時間性を超越的というのは、ゼロが+1を超越しているということを意味しているのではないだろうか。一種の超越的内包点としてのゼロをハイデガーは考えていたのではないだろうか。
 このゼロを本存在ないしは存在と考えるのは、理解できることである。なぜなら、+1が自己同一性認識と考えられるからである。自己同一性認識以前のものとして、存在を説いたと考えられるのである。確かに、認識を同一性に限定すれば、ゼロは前認識となるだろう。そして、それを存在と名付けるのは、それなりに理解できることである。
 しかしながら、既述したように、ハイデガーは真の超越性を否定しているので、つまり、(超越的)差異共振性(差異共鳴性)を否定しているので、超越的認識があるのを理解できなかったと考えられるのである。
 以上の試論的考察から、ハイデガー存在論は、数理的には、ゼロ⇒+1と表記するのがやはり適切であるように考えられるのである。繰り返すが、ゼロが本存在(本来的存在)であり、+1が現存在(頽落した存在)ないしは世界内存在である。そして、ゼロと+1は確かに、亀裂があり、不連続である。それを確かに、ハイデガーは指摘している。
 ということから、ここで、(一応、あらためて、)ポスト・モダン哲学について考察してみたい。
 その前に、前提として、-1と+1について整理しておきたい。+1は共一性ないしは同一性である。それに対して、-1は同一性主義ないしはロゴス中心主義である。近代で言えば、近代合理主義・近代的自我に当たる。
 ドゥルーズ哲学について言うと、それは、-1の同一性主義(「プラトニズム」)に対して、連続的差異の思想を提示した。それは、直感では、ゼロの思想である。ハイデガーの場合は、ゼロと+1との亀裂があったが、ドゥルーズの場合は、+1を排除して、差異をゼロに収斂させている。そうすると、実は、同一性がなくなるのであり、その結果、一種のオカルト主義になるのである。神秘主義になるのである。現象の同一性を排除してしまっているからである。だから、ドゥルーズは、ハイデガーから後退しているのである。
 それに対して、(初期)デリダについて言うと、私見では、ほぼ、ハイデガーを踏襲しているように思われるのである。とまれ、ロゴス中心主義とは、-1の同一性主義のことである。それに対して、差延とは、同一性である+1に関わるゼロの痕跡のことではないだろうか。同一性+1に対して、ゼロという「原点」が、言わば、つきまとうのである。このゼロのつきまといが、差延ではないだろうか。言い換えると、脱構築とは、ロゴス中心主義=同一性主義(-1)に対して、ゼロ⇒+1というゼロと同一性の亀裂を差延ないしは痕跡というアンチテーゼとして提示した理論のように思えるのである。つまり、ハイデガーがゼロ(本来的存在)と同一性(現存在)との亀裂というものを、(初期)デリダは、差延ないしは痕跡として提示しただけのように思えるのである。つまり、(初期)デリダはハイデガー存在論のエピゴーネンではないだろうか。
 以上、簡単に、ドゥルーズと(初期)デリダについて見た。ここで、後期デリダに簡単に触れると、彼は、ゼロを脱して、ニーチェやキルケゴールの特異性、絶対的差異について、ハイデガー=初期デリダを乗り越えたと思われるのである。つまり、後期デリダは、既述したように、トランス・モダンになったと考えられるのである。
 そのように系譜的に考察すると、不連続的差異論は、後期デリダ(とジャン=リュック・ナンシー)のトランス・モダンを、鈴木大拙の即非の論理を基盤にして、発展させた理論であり、プラトニック・シナジー理論は、それに超越的共振性を与え、且つ、それを数理化した理論であると言えよう。
 
p.s. 構造主義について述べる必要があるだろう。これまで、ゼロ記号(ゼロ)に注目して、そこに原点があると見たがどうだろうか。思うに、構造主義とは、同一性における対立構造なので、+1と-1の対立構造で説明できるのではないだろうか。つまり、ゼロは要らないということになる。ならば、ゼロ記号とはどうなるだろうか。これは、ハイデガーやポスト・モダンよりも、形式的な原理ではないだろうか。+1と-1との対立構造を生まれる根源をゼロと仮定したに過ぎないのではないだろうか。
 確かに、ゼロという点では、ハイデガーやポスト・モダンと類似する。しかしながら、構造主義のゼロとは、認識的ゼロではなく、あくまで、形式的ゼロと考えられるので、相違があると考えられる。今は、ここで留めたい。


   




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カレンダ
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