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2008年05月03日(Sat)
再考:+1=光ならば、-1=影光とは何か:-1=影の実質とは何か:光と影の即非世界としての現象界
先に、+1=光、-1=影(影光)と考えて、同一性=物質=シミュラクル的現象界(仮象界)では、+1=光の、いわば、先端である-1=影(影光)を見ていると述べたが、さらに精察・精査していきたい。
端的、有体に言えば、-1=影の実質とは何か、ということである。+1=光のエネルギーが、現象を発現させているのであるから、現象界の実質は、物理的には、+1=光のエネルギーである。 しかしながら、光の発現である現象は、今日現代の人間にとっては、影の現象に過ぎないのである。この様相を明確・明晰にしたいのである。 端的に再考しよう。われわれが通常見る昼の光とは何か。これを先には、影(影光)と呼んだのであるが、まだあいまいである。自己認識方程式の変形で、自己同一性=自我方程式(+i)*-(-i)⇒=-1が考えられるが、この内的否定-(-i)の最初の-と帰結の-1はどういうことなのか。 一つ明確にわかることは、内的光+1が、自己同一性=自我においては、屈折・反射して、影光-1になっていることである。だから、単純に考えて、自己同一性=自我=同一性主義においては、発現している光=+1を、影光=-1に屈折・反射しているということではないだろうか。 やはり、光=+1を影光=-1に変質させて見ているということだと思われるのである。言い換えると、我々は光を見ていないのであり、影を見ているに過ぎないということになる。 しかし、それでは、直観と少しズレるだろう。昼見る光は好ましいものであり、ある時は崇高美をもつのである。これをどう見るのか、である。 いったい、外的光とは何か。それは、端的に、+1ではないだろうか。それを、自己同一性=自我=同一性主義(-1)は視覚するわけであるが、もし、内的光が開けていれば、つまり、自己内他者=差異肯定の様態にあれば、外的光を光+1として感受するだろう。つまり、崇高な光、イデア界(+i)*(-i)からの光として認識するだろう。 しかしながら、他者=差異を抑圧している自我(同一性主義)の場合は、外的光+1を感受感覚しても、他者=差異-iを否定しているので、いわば、内的影光をもって知覚するのではないだろうか。即ち、外的光+1を影光(-1)と認識すると考えられるのである。言い換えると、光+1が発現しながらも、それを影光-1としか感覚認識できないと考えられるのである。 では、端的に、影光(-1)とは何だろうか。影の光とは何だろうか。それは実質に存在するのか。単に幻想ではないのか。物質の光という言葉が心に浮かぶのである。本来の光は、それに対しては、精神の光である。イデアの光である。善の光である。端的に、物質の光があるのだろうか。理論的には、あると言うべきである。-1の物質の光があるということになるのである。 ここで用語を整理しよう。+1の光をプラスの光(プラス光)、正の光、正光としよう。それに対して、-1の光(影・影光)をマイナスの光(マイナス光)、負の光、負光としよう。また、前者を共一性の光、差異の光、後者を自我の光、同一性の光と言えよう。 とまれ、これで二つの光の存在を確認することができた。つまり、光とは二重光(二相光)であるということである。【思えば、以前、超越光と光との即非性について述べたことがあるが、それは、この場合と重なる事象であろう。】言い換えると、正光(光)と負光(影)との即非光であるということである。つまり、光とは、正光であると、同時に、それの否定である負光であるということである。「光」であると同時に、「影」であるということである。 しかし、俗人は、正光が発光しているのに、負光(影)しか見ていないのである。ここで、新約聖書を想起する。あるいは、プラトンの有名な洞窟の比喩を想起する。あるいは、eliot-akira氏の説く屈折と反射の事象である。あるいは、ジョージ・ハリスンのThe light that has lighted the world等の歌である。 「光」は「光」でありつつ、「影」になるのである。「光」の裏面としての「影」である。しかしながら、的確に言えば、「光」の変容としての「影」である。正に、屈折と反射である。同一性=物質=自我(自己同一性)が形成されるのであるから、当然、「影」が生まれるのである。 問題は、近代以前においては、この光と影との生成についての叡知を人間はもっていたと考えられる。当然、イデア論がそういうものの代表である。端的に、近代以前においては、「光」を知覚していたのである。 近代以降、喪失された「光」を取り戻す様々の試みが為された。ロマン主義は、この代表的な試みである。それに対して、啓蒙主義であるが、これも、それなりにその試みであるが、同一性理性にそれを取り込もうとしたと考えられる。【思うに、私が十代末に言った「光は暗く、闇は明るい」という言葉であるが、それは、その光とは「影」のことであり、その闇とは、「光」のことを指していた(思うに、明確に指していたというよりは、直感的に差していたと考えられる)と見るのが的確であろう。】 さて、同一性=自我の形成によって、マイナス光が生起するのでああり、近代主義(近代合理主義・近代的自我)によって、プラス光が排除されたのである。 しかしながら、内的には、プラス光は潜在しているのであり、それが、近代化の過程で賦活されていったと考えられるのである。二重の近代化である。マイナス光(物質光)とプラス光(精神光)の二重性をもつ「近代化」である。 問題は、連続性によって、両者が混線・混濁していることである。同一性と差異が混線・混濁しているのである。マイナス光とプラス光が混線・混濁しているのである。あるいは、物質と精神が混線・混濁しているのである。 PS理論は、両者を即非の概念で弁別し、秩序化したと考えられるのである。つまり、「光」の同一性=物質化である「影」と、「光」とを明確に区別し、Media Pointにおいて、両者が即非様態にあることを明確に解明したと考えられるのである。 だから、「光」とは、マイナス光・即非・プラス光、即ち、影・即非・光なのである。近代合理主義/近代的自我の人間には、マイナス光=影しか見えず、プラス光=光が見えないのである。精神の光が見えない精神的盲目者なのである。(そのような人間が政治・行政の上層部を支配しているのである。だから、民主主義は、トランス・モダン化するのが必須である。) 近代主義の人間は、目が開いていても、影しか見えないのである。アポロの影しか見ていないのである。闇の光しか見ていないのである。影人間である。【因みに、ニーチェのアポロとディオニュソスであるが、アポロはプラス光であり、ディオニュソスは、(+i)*(-i)の差異共振性、即ち、イデアであろう。的確に言えば、動的になったイデア、イデア・エネルゲイアであろう。だから、ニーチェは、プラトニストである。ただ、イデアを動態で把捉していたのであり、イデア自体では把捉していなかったということになろう。】 最後に、アインシュタインの相対性理論等の現代物理学に本件の考察を適用すると、それが対象にしている「光」は当然、物質光(影=-1)である。そして、それが相対性であるということであり、光速度一定とは、本来の光=+1を意味していると考えられるのである。+1の光が屈折・反射して、-1の影となるのであり、本来は共一性の光+1なのであり、これが、光速度一定を意味するように思えるのである。言い換えると、宇宙空間は、実体は、+1の光の空間であり、それが、-1の影の仮象を帯びているということではないだろうか。そして、相対性理論は、前者を後者から把捉したと言えよう。 また、さらに、ダークマターやダークエネルギーについて言うと、先に示唆したように、一般に、物質科学は、影-1の空間を捉えているだけだけであり、光 +1を捉えていないのである。宇宙銀河の「光」とは影である。その影から計算すると、当然、光の分が足りないのである。これが、ダークマターやダークエネルギーになると思われるのである。 ついでに言うと、ブラックホールやホワイトホールはどうだろうか。思いつきであるが、ブラックホールとは、同一性=物質=影を産出しない光ではないのか。つまり、光自体と考えられないだろうか。共一性=光そのものと言えるのではないだろうか。 では、ホワイトホールとは、逆に、同一性=物質=影を放出するMedia Pointではないだろうか。今はここで留めておく。 |
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