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2008年04月27日(Sun)
+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学
「-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己」http://ameblo.jp/renshi/
entry-10091501933.html 先の以上の論考は我ながら、思考の赴くまま実験したので、これまでの考え方とは齟齬を来してしまっているので、ここで、もう一度「冷静に」、eliot-akira氏のコメントを参考にしながら、検討したい。 先ず、eliot-akira氏の意見を見てみよう。 『■Media point と鏡像関係? 「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」 このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。 しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。 自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。 eliot-akira 』 http://ameblo.jp/renshi/entry- 10091501933.html#cbox 「ゼロの両面鏡」という考え方は刺激的である。また、光と影が相互に見つめるということ、光と影の不対称性(非対称性)、そして、自己意識の「反射」と「屈折」等も同様である。 また、『 グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。』 http://ameblo.jp/renshi/entry- 10090935683.html#c10122297117 ということも、意味深長である。とりわけ、『ヤハウェによって「反射」または「屈折」され』という点が興味深い。(因みに、私はグノーシス主義はPS理論の観点から見直すべきように感じている。) 「反射」と「屈折」、これがポイントであろう。私は先に、自己同一性の鏡像は差異のスクリーンに映出すると言った。これは、本来、+1の光を-1の映像に同化することではないだろうか。これが、同一性主義・自己同一性主義の発生ではないだろうか。 このとき、当然、他者=差異は排除・否定されるのである。つまり、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。ここでは、明らかに、錯視があるのである。視覚の不思議である。しかし、不「思議」ではなく、明確に解明されるのである。つまり、本来、+1である光を-1の自己同一性鏡像=影として見てしまうということではないだろうか。 これが、端的に、仮象としての現象界、ドゥルーズ的に言えば、模像(シミュラクル、シミュラークル)としての現象界である。【参考:http://matsuura05.exblog.jp/7663184/ http://www.asahi-net.or.jp/ ~dq3k-hrs/simulacre/simframe.htm 因みに、偽装流行であるが、偽装とは、端的に、同一性仮象である。 】 この仮象的現象界は、差異共振的光+1を排除しているのであるが、しかしながら、実際は、差異共振的光+1は生起しているのである。光を発現しているが、同時に、それを影=仮象・模像(シミュラクル)として、知覚するということではないだろうか。実際は光+1は発現しているのに、それを排除して影-1 として見てしまうということだろう。【この+1と-1との関係をどう公式化すればいいのか。後で検討したい。】 この影による自己同一性=自我形成は、正に、自己陶酔(ナルシシズム)であるが、ここには、差異(差異共振)を排除する暴力があるのである。これを父権的暴力と言っていいだろう。原罪があるとするなら、これが原罪であろう。端的に、悪魔的である。悪魔的現象界である。 この同一性主義メカニズムが、近代的自我主義、近代合理主義、封建的官僚制にあるのである。これが、また、差別のメカニズムである。ポスト・モダンが攻撃した二項対立のメカニズムである。 この排除のメカニズムであるが、差異共振エネルギーを排除しているので、-1のエネルギーをもつと言っていいのではないだろうか。つまり、-1が+1のエネルギー(差異共振エネルギー、光のエネルギー)を排除すると考えていいのではないだろうか。【宇宙物理学で言えば、-1がブラックホールであり、それが、+1の光を排除するということと考えていいのだろうか。後で検討。】 問題は、影(闇)が光を排除したとき、端的に、排除された光はどこに行くのか、何処に存するのか。何処に潜在するのか、である。思うに、内的光と外的光は共振する(共一という言葉を造語したいが)。そして、影が内的光・共一・外的光を排除するのであるが、直感で言えば、排除された光は、身体に潜在すると思われるのである。ここは微妙な問題である。排除された光はMedia Pointに潜在するとも言いたい気がするが、身体とMedia Pointとの関係を考えなくてはならない。 その前に、確認しておこう。影とは実は、光の裏面ということではないだろうか。ここで、D. H. ロレンスの「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」という言葉を想起していいだろう。つまり、dark sun(黒い太陽ではなく、不可視の太陽であろう。いわば、霊的太陽である。)こそ、真の光であるということである。光の現象面(仮象面・模造面)としての影ということである。これは、光と影の即非関係と見るのである。プラトン哲学で言えば、分有であろう。(こう考えると、これまでの考え方と整合化する。) では、いわば、光の先端である影が排除する光はどこに行くことになるのかという問題に戻ろう。光の排除とは、端的に、差異共振が否定排除されることである。だから、当然、Media Pointの排除である。私は先に、Media Pointにおいて、差異共振性は精神的身体を形成すると言った。だから、光の排除は精神的身体の排除であり、それは、端的に、内的身体の排除である。だから、排除された光は内的身体に行ったと考えていいだろう。 そして、直感で言うと、Media Pointが差異共振的精神(心)であり、+1が差異共振的身体ではないだろうか。思うに、以前、モームの『月と六ペンス』の主人公の絵画や態度に関して(画家ゴーギャンをモデルとしたストリックランド)身体的霊性ということを言ったが、排除された光は内的身体における差異共振的精神であり、この身体的霊性に関係すると思われるのである。 端的に言えば、排除された光は内的身体に潜在するということになるだろう。これで解明できたこととしよう。 結局、光を排除する、影を中心化する同一性主義であるが、それは光を内的身体に排除しているということになる。そして、内的身体に、人間の徳、魂、精神、霊、心、善が存しているのである。プラトンの善のイデアは正に、ここに存するのであるし、カントの実践理性もここに存するのである。【カントは同一性知性批判(純粋理性とは、純粋同一性知性だろう)を原基としたので、差異共振性を不可知にしてしまったと考えられる。また、東洋哲学は、内的身体の哲学、即ち、内的身体哲学と言えよう。西洋哲学はトランス・モダン化するためには、東洋哲学の内的身体論を取り入れる必要があると考える。単に、抽象観念的知性では、差異共振性は捉えられないからである。鈴木大拙や西田幾多郎の理論は、禅という内的身体論に基づいているのである。また、ウスペンスキーは、東洋神秘主義から内的身体論に到達しているのではないだろうか。】 だから、近代合理主義・近代的自我主義・封建的官僚主義とは、内的身体である善性を排除しているので、当然、悪性=悪徳=悪霊なのである。善性なき近代主義(もっとも、封建的官僚制は、純粋な近代主義ではないが、日本近代化においては、存続したのである。思うに、近代合理主義・近代的自我主義も官僚主義も父権主義という点では共通である。)なのである。【問題は民主主義や自由主義であるが、それは、基本的には、ルネサンス的Media Pointのエネルギーとプロテスタンティズムの含むイエス的差異共振主義を同一性的に基礎付けたものだと思う。だから、それは、基盤は内的身体=善性であると考えられる。端的に、自由とは、本来、この内的身体の精神性に存するのである。内的自由と言う方が明快であろう。】 以上の検討から、本稿のテーマがより明快に解明されたと言えるだろう。結局、光と影(闇というより、eliot-akira氏の指摘通りに、影が的確である)の即非様相があるということである。これは、既述済みであるが、これで、これまで、私が経験してきた。差異共振的視覚経験をより明確に説明できるだろう。即ち、「私と立山連峰の銀嶺と一体である」という一種神秘的な経験は、影である銀嶺と「わたし」が内的身体の霊を介して、差異共振して、光(+1)を放出した精神現象であると言えるだろう。【そう、神秘主義はこの視点から確認されるべきである。反近代主義の芸術家は、多くが神秘主義的であるが、それは、差異共振的精神現象である光の体験を意味しているだろう。】 ここで、銀嶺というのがポイントであろう。端的に、光が焦点化されているだろう。雪を頂いた山嶺は強度の光を放出していると言えよう。通常の影を超えて、光を放出していると考えられよう。この放出された光を私は視覚を介して、内的身体で共鳴して、差異共振体験を起したと考えられるのである。 この銀嶺の強度の光とはどういうことなのだろうか。おそらく、単なる白い光では強度の光にはならないだろう。蛍光灯の白光を見ても、差異共振体験は起らない。何が異なるのだろうか。【ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を想起する。】 思うに、白ということが一つのポイントである。これは、本来、色ではないのである。無色である。ということは、根源的な光、即ち、超越光を意味しているのではないだろうか。ここは実に微妙な問題である。先に、+1が光であると言い、それを影-1として見ると言った。だから、本来、光は差異共振エネルギーの現象化である。ということは、影を仮象ならば、光が超越光ということではないのか。ここは難問である。 整理すると、影=同一性光とするなら、光=差異共振光=超越光である。用語が混淆してしまい、紛らわしいが、言わんとすることはわかるだろう。 思うに、影=同一性光の場合は、色彩をもつのである。しかしながら、白光とは、本来、無色彩である。つまり、これは、根源的光、即ち、端的に、光ではないだろうか。 銀嶺の白とは、この光を意味しているのではないか。だからこそ、「わたし」は視覚を介して、内的身体が賦活されて、銀嶺と差異共振化体験をもったのではないか。つまり、Media Resonance(メディア共鳴)であろう。即ち、雪を頂く山嶺におけるMedia Pointと「わたし」の内的身体のMedia Pointが共鳴したということではないのか。 ならば、蛍光灯の白光はどうして当てはまらないのだろうか。端的に、強度の問題ではないだろうか。銀嶺の白光と蛍光灯の白光とは、強度が異なるのではないだろうか。端的に言えば、銀嶺は太陽の光を反射しているのであり、蛍光灯は光子を放出しているのである。確かに、銀嶺も光子を放出しているとは言えよう。同じ光子でも、何が異なるのか。 強度が異なると言ったが、それは、言い換えると、Media Pointの開放の有無に存するのではないのか。思うに、太陽光の場合、Media Pointが開いた光であり、蛍光灯の白光は、Media Point が閉じた光ではないだろうか。いわば、後者は影ではないのか。この問題は難しいので、ここでおいておきたい。 最後に問題は、色彩の問題である。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。(長い論述となったので、稿を改めて検討したい。) 参照: ゲーテの色彩論 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 色彩論(しきさいろん Zur Farbenlehre)は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ が1810年 に出した著書。 ゲーテによる光のスペクトル ゲーテによる闇のスペクトル 教示篇・論争篇・歴史篇の三部構成からなり、教示篇で色彩 に関する己の基礎理論を展開し、論争篇でニュートン の色彩論を批判し、歴史篇で古代ギリシアから18世紀後半までの色彩論の歴史を辿っている。
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