イデア論における理念知と情動:同一性観念とイデア観念:観念知性とMedia Point理性






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2008年04月17日(Thu)
イデア論における理念知と情動:同一性観念とイデア観念:観念知性とMedia Point理性
私は、先に、ドゥルーズ哲学を酷評したが、差異イデアという考え方を得たのはそこからであり、その独創性を評価しなくてはならない。それにともなって、イデア界ないしは理念界のあり方を現代において、復活させた点も評価する必要がある。つまり、差異的イデア論の可能性をドゥルーズは説いた点で大いなる評価に値するのである。
 とまれ、ここでは、イデア論の理念的知性とは何であるのか、今は、簡単に考えたい。私の経験では、身体的情動がある。それは、神秘的な情動でもある。コスモス的な情動である。しかし、これは、同一性=物質的知性とは相反的である。【同一性=物質的知性の用語であるが、私は、知性や理性を差異に使用したいと先に言ったが、やはり、同一性に関しても使用する必要があるようだ。だから、同一性知性ないしは物質知性である。】
 しかし、イデアという理念を仮説することで、この情動は知性化されるのである。即ち、情動がイデア知性、理念知性に包摂ないしは内包されるのである。
 有体に言って、これは、どういう事態なのだろうか。それがまだ明確に解明されていないのである。端的に、情動・情念・情緒等(リリシズム)を包摂・内包する知とは何だろうか。どうして、普通の同一性知性ではそれができないのだろうか。同一性知性(近代合理知性)は、端的に、情動・情念・情緒を抑圧する作用があると思われる。(ここに正に、分裂が生じるのである。)
 だから、同一性知性以外の知性を仮定することで、それらを抑圧しないで包摂・内包することが可能になるということだと考えられる。つまり、情動等(リリシズム)を知性化する試みとして、イデア論があるのであり、そこでは、いわば、情動的イデア界が形成されるだろう。そう、心において、情動的イデア界が形成されることになるのである。
 しかしながら、これではまだ分裂したままである。何故なら、心において、一方では、同一性知性があり、他方では、情動的イデア知性があるからである。言い換えると、不安定である。
 ここで、不連続的差異論の画期性があるのである。即ち、情動的イデア知性と同一性知性が不連続であることを発見したのである。この不連続性の発見により、両者が共存・共立するようになったのである。即ち、それまで、分裂的に揺れ動いていた両者が、この発見によって、いわば、それぞれ、所を得て、「落ち着いた」のである。これについてさらに詳述してみよう。
 端的に、心の何処にイデア界があるのだろうか。それは、端的に観念的知性に存するのではないだろうか。より明快に言って、イデア知性はどこにあるのか。より丁寧に見てみよう。
 神秘的コスモス的な情動・情念・情緒等がある。それは、宗教的情動と言ってもいいだろう。それは、抑圧する同一性知性に反発するのである。しかし、イデア界を仮構することで、この情動は知性化されるのである。観念的知性、理念的知性が形成されるのである。
 この観念的知性、理念的知性が、同一性知性とは当然異なるのである。とまれ、観念的知性・理念的知性とは何だろうか。情動等を結びついた知性である。しかし、それらを包摂・内包した知性なので、力のある知性、あるいは、エネルギーを包摂・内包した知性である。言い換えると、エネルゲイアではないのか。それとも、デュナミスなのか。つまり、エネルゲイアとしての知性ないしはデュナミスとしての知性なのではないのか。
 簡単に言えば、エネルギーをもった知性である。しかしながら、包摂・内包されているので、静的にはなるだろう。ならば、デュナミスではないのか。デュナミスとしての知性ではないのか。つまり、デュナミスではあるが、常にエネルゲイアに変換可能な知性ということではないだろうか。
 とまれ、これは、観念・理念知性であり、頭脳において、同一性知性と共存するようになると考えられる。つまり、知性とは、同一性にしろ、差異にしろ、観念である。観念性において、同一性と差異が共立するということではないのか。
 つまり、観念知性において、同一性と差異が共存するのではないのか。言い換えると、観念知性が同一性と差異イデアを共存させるということではないのか。
 では、観念知性とは何なのだろうか。具体的に考えてみよう。例えば、「山」という言語・観念を考えてみよう。これは、同一性知性的には、辞書を引けば出ているような意味である。同一性観念と言ってもいいだろうし、概念である。
 しかしながら、「山」という言葉を例えば、詩において接した場合は、まったく異なってくるだろう。そこには、想像作用が入るのである。情動・情念・情緒作用やイメージ・ヴィジョン作用が入るのである。そう、エネルゲイアとしての観念になるのである。
 近代合理主義的心性(近代的自我主義)ならば、後者を排除して、前者のみを考えるだろう。正に、同一性主義である。しかし、差異イデア的心性をもっていれば、同一性観念とは別に、エネルゲイア的観念が形成されるのである。
 思うに、結局、Media Pointの知性が問題ということではないのか。Media Pointにおいて、一方では同一性へと展開し、他方では差異へと結びついているのである。つまり、観念知性であるが、それは、Media Pointに関わる知性ということではないのか。
 近代合理主義観念知性の場合は、Media Pointを排除する様式の観念知性であるが、それは、どこに位置づけられるのか。それは、差異を抑圧する観念知性であるが、しかしながら、元々、差異に根差していると考えられる。差異に対するルサンチマンから同一性主義が発生するのである。だから、同一性観念知性もMedia Pointの観念知性であると言えるのではないだろうか。
 ということで、結局、観念知性とは、同一性観念にしろ、差異イデアにしろ、Media Pointの知性であるということではないだろうか。
 そして、思うに、この知性こそ、本当の理性だと思えるのである。Media Point Rationalityである。カントの場合は、Media Pointを同一性と差異に乖離させてしまったと言えよう。即ち、純粋理性と実践理性である。Media Point理性がそれらを統合するのである。ここで今は留めたい。

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