検討問題:プラトニック・シナジー的ガウス平面における空間構成について






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2008年03月12日(Wed)
検討問題:プラトニック・シナジー的ガウス平面における空間構成について
1)先に、「+iが左脳で、-iが右脳ではとふと思った。そして、+1で平面を形成する。すると、Z軸が奥行きになるのか。」と述べたが、これからさらに発展させて推測すると、+1が垂直の上方向であり、-1が垂直の下方向ではないだろうか。本来の垂直性は、ガウス平面の虚軸に存するが、1/4回転によって、それが水平化し、実軸化するのであるが、そのとき、+1が現象における垂直線の上の方向であり、-1が下、鉛直線方向ではないだろうか。伝統文化的に言うと、天が+1であり、地が-1ではないのか。そして、これは二元的天地創造を意味するだろう。つまり、父権的二項対立である。
 とまれ、思考実験的に、実軸を現象における垂直線とすると、虚軸は、左右の線になるのかもしれない。だから、ガウス平面が、視覚の根源的平面(不連続的差異論のときに考えたメディア平面)ではないのか。そうならば、奥行きは、やはり、ガウス平面に直交するZ軸になるのではないのか。それで、3次元現象空間が出現するのではないのか。ならば、時間次元はどうなるのか。これは微妙であるが、Z軸が時間次元ではないだろうか。つまり、奥行き次元と時間次元が重なっているのではないだろうか。(もっとも、以前、このことを考えたことはあるが。)
 さて、文化論的な考察を続けると、1/4回転で父権的二項対立が成立すると仮説したが、それは当然、父権的一神教文化である。その二元論的ヒエラルキーであるが、それは、天地が切断されているのである。天が超越神化しているのである。「天にましますわれらが父よ」である。この超越神はどう捉えられるのか。これは、先に述べたように、本来虚軸次元である。この虚軸次元が1/4回転による水平化によって、不可視化しているのである。一種、空無になっていると思われる。しかしながら、1/4回転・水平化をもたらすエネルギーの根源として、虚軸次元が意識されて、超越神・天・父となるのではないだろうか。一種痕跡である。この虚軸の痕跡としての超越神と実軸の+1が結びつくのであろう。父権的自我の成立である。そして、否定された多神教・自然宗教・母権文化・「異教」であるが、それは、-1ではないのかということである。天・父=+1の否定としての地・母=-1である。
 では、二元論的分離の亀裂はどう説明できるのか。それは、やはり、超越神のもつ超越性である。その超越性が二元論の亀裂を規定しているのである。いわば、超越性への引き上げの志向性である。「我在り」である。それが、-1を否定するのである。しかし、その父権的な超越性の「力」であるが、それはどう説明できるだろうか。
 これは既述済みである。Media Pointからの同一性志向エネルギーが同一性自己=自我(+1)を発生させるのであるから、超越神の超越性の力とは、このMedia Pointにおける同一性志向エネルギーである。そう、正に、⇒+1の「力」である。しかしながら、注意すべきは、⇒の左辺はこの場合、差異共振エネルギーではなく、同一性志向エネルギーであることである。これが、父権一神教力学である。言い換えると、1/4回転力学である。このエネルギー・力が父権的二元論・二項対立を規定しているということである。
 言い換えると、⇒+1へのエネルギー=力が-1との関係を引き裂き、絶対的亀裂・溝をつくっているということになる。これで、父権的二元論・二項対立の成立の力学を説明できたと考えられる。わかりやすく言えば、+1と-1が父権的二元論・二項対立を意味すると考えられる。文化史的に言えば、先に述べたように、-1の地・母が貶められたのである。これは、哲学的には、身体性であろう。あるいは、「差異」である。【この「差異」はポスト・モダンの差異であり、連続的差異である。初期デリダの差延であるが、それは、+1と-1との混淆様態を意味しているだろう。そして、そして、「差異」と同一性との中心点として、ゼロ・ポイントが考えられるのだろう。これは、構造主義とポスト・モダンに共通の中心点であろう。この点については後で検討したい。】
 しかしながら、この-1の地・母(大地母神)は、不正確な「母」である。本来の母は、太母・原母であり、(+i)*(-i)の差異共振性である。Media Pointのエネルギーである。【思うに、聖母マリア信仰であるが、それは、この点が混淆していると思われるのであるが、その点は後で検討したい。これは、日本の宗教にも関係すると思われる。】
 とまれ、以上のように考えると、認識論的に実に不思議な様態になっているのがわかる。+1は自我意識であり、-1が身体・物質である。しかしながら、+1自体が同一性=物質化なのである。この関係をどう考えたらいいだろうか。【西洋哲学において、形相と質料の関係があるが、この形相は+1であり、質料は-1と考えることができよう。】
 考えると、+1の視点が現象を観察するとき、現象が物質となるのである。だから、正確に言うと、物資とは、-1であろう。とにかく、+1の視点が主導的になって、物質-1を支配するのである。同一性主義が物質主義を生みだすのである。
 では、そのとき、現象界・自然とはどう位置づけられるのだろうか。プラトンの洞窟の比喩で言うなら、洞窟内の観客の視線が+1であり、洞窟内の壁のスクリーンに映る影像が現象・自然であり、-1であろう。つまり、現象・自然は-1であるということになるだろう。端的に物質化された現象・自然である。しかし、本体・イデア界は、虚軸次元であり、Media Pointが現象界とイデア界との接点・交叉点・媒介となっているのである。【洞窟の外部の太陽が、イデア界であろう。】 
 だから、Media Pointにおける同一性変換回路を介して、現象界においては、本体の虚軸次元・イデア界(超越的差異共振界)を、-1の物質現象界として見てしまうことになると言えよう。-1は、だから、仮象と言えるであろう。本体を同一性イマージュとして見るのである。確かに、幻像・幻燈に近いのである。インド哲学でマーヤー(まやかし)と呼んだのは、それなりに意味のあることである。
 ここで、量子力学の解明した世界観であるが、それは、-1の物質現象界を越えて、ゼロ・ポイントの世界を解明したと言えよう。否、それなりに、 Media Pointに到達しているのである。しかしながら、物質的世界観に染まっているために、そこを無限性と捉えてしまっているのである。既述済みではあるが、例えば、長距離相関の考え方にそれは見られるのである。Media Pointの高次元・超次元を考えられば、そのような「離れ業」を考える必要がないのである。
 虚軸次元の超越的差異共振エネルギーとして、量子・素粒子を把捉すれば、整合化するのである。そう、量子力学は、物質現象界を越えて、イデア界を探求している自然科学なのである。トランス唯物論化すれば、量子力学等の自然科学は大進化することになるだろう。今は、人類は、大進化の時期を迎えていると考えられるのである。明らかに、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明、ポスト唯物文明である。

2)精神と量子力学について:Media Pointにおける差異共振エネルギーと電磁波・量子・素粒子

3)自我がもつ一種マインド・コントロール的な理想自我像について:自我・同一性自己は、理想自我観念に同一性化して、差異共振性を抑圧否定して、自我自身のアイデンティティを保持するのである。

4)共立・共振・共生的調和を、一言で、共調という言葉を造語にして表現したらどうだろうか。差異共振は差異共調となる。それとも、共和にするのか。差異共和主義?

5)文学の死と再生:文学の近代主義であり、小説中心主義を乗り越えて、多元的な文学を取り戻すべきである。とりわけ、思想・哲学性を取り戻すべきである。また、庶民性・民衆性を取り戻すべきである。また、他の領域との共振性を目指すべきである(脱領域的共振主義)。講談、浪曲、清元、等々とも結ぶべきである。共結である。差異共結性である。そう、文人画、日本画、漢籍等々とも共結すべきである。脱文学近代主義である。トランス・モダン文学である。
 西洋文学で言うと、モダニズムを清算しないといけない。モダニズムは、いわば、モダンとポスト・モダンとトランス・モダンが混淆していたと考えられるのである。しかし、原トランス・モダンを抑圧否定するように活動したのである。例えば、T. S. エリオットやエズラ・パウンドである。ジョイスに問題があるだろう。私の直感では、ジョイスは、文学芸術の感性を破壊したのである。差異共振感性を否定するように、自我知観念を肥大化させたのである。これらについては、後で検討したい。

6)音楽の音色(おんしょく)・トーンにおける渋味とは何か:バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏であるが、マイナルディの演奏は渋味があって腑に落ちるのである。また、最近のヨーヨー・マの演奏にも渋味がある。渋味の味わいとは何か。
 それは絵画や美術で言うと何だろうか。なにか、差異共振性と関係するように思える。私はシャガールの絵画が、いわば、玉石混交だと思うが、いい絵画には、差異共振性があり、それは一種の渋味であると思う。あからさまではなく、表面を越えて、共振するエネルギーがあるのである。この表面を越えて共振するエネルギーが渋味ではないのか。後でさらに検討したい。

7)芸術鑑賞における感受性の流動性について:例えば、バッハのミサ曲ロ短調を聴くとき、いろいろな名演があるが、聴き手の感受性の様態によって、印象が異なるのである。叙情性豊かな演奏Aは、聴き手の感受性が叙情的なものを欲しているときは、よく聴こえ、構築的な演奏Bは、その時の聴き手には、印象が乏しかったり、つまらかったりするだろう。感受性のゆらぎがあるのである。これは、思うに、感受性のMedia Pointの共振的振動のゆらぎ様態で説明できないか。 

8)私にとって、モーツァルト音楽は、意味がなくなってしまったが、これはどういうことなのか。昔は人並みによく聴いたが、今は聴いても興趣をおぼえないのである。確かに、レクイエムがすばらしいと思うが、いいと思うのはこれくらいである。
 なにか、感性の変化があると思うのである。単に私だけでなく、根本的な感性の変化があるのではないだろうか。私はバッハ音楽を聴き、また、70年代初期の洋楽ポピュラー音楽の精神性を説き、また、最近、ポピュラー音楽に叙情性がもどってきたと述べたりしたが、そう考えると、やはり、世界に超越エネルギーが強化されているように思えるのである。コスモスの変化ではないだろうか。

p.s. バッハ音楽は東洋的である。つまり、東洋精神が復活していると考えられるのである。宇宙的にMedia Pointが開きだしたのである。天の岩戸の開扉である。天照大神の復活である。

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