ポスト近代的自我/ポスト唯物論

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2007年05月19日(Sat)▲ページの先頭へ
酸素と超酸素(「気」):O{i*(-i)}+O{i*(-i)}⇒O2{i*(-i)}
O+O⇒O2
ここで、思考実験で、O{i*(-i)}+O{i*(-i)}⇒O2{i*(-i)}としよう。簡略化して、i*(-i)をIと表記しよう。OI+OI⇒O2Iとなる。
 思うに、「気」というものは、このO2Iを指しているのではないだろうか(p.s. 狭義においては、「気」はIである)。物質科学では、O2を検証できるが、O2Iを検証できない。何故なら、超越界を想定していないからである。
 Iは、物質、この場合は、酸素のメディア・ポイントに存しているだろう。ここに、「気」(プラーナ)が共振しているのである。
 夜明けの大気が気持ちがいいのは、光(超越光を含む)によって、酸素が超越化して、「気」を増加させるからではないだろうか。
 また、光合成であるが、これも、やはり、単に、酸素を発散させているというよりは、「気」のある酸素を生みだして、植物のある周囲の空気を精神的清浄化しているのではないだろうか。
 たいへん興味深い問題であるが、今は、とりあえず、簡単に提示するに留めておく。

p.s. 結局、この「酸素」の問題は生命の問題に深く関わる。血液は、ヘモグロビンが、酸素を運ぶ。
 問題は、超越性、超越エネルギー、超越波動であるi*(-i)の問題である。超越光/光の問題でもある。
 今は、思考実験で言うだけだが、端的に、生命とは、i*(-i)ないしic*(-ic)のことではないだろうか。宗教的には、お水取りにあるように、火*水である。
 とまれ、直観では、i*(-i)が、生命の種子・卵・胚のように感じられる。そう、情報と言ってもいい。生命は、天の情報の現象化のことかもしれない。超越情報の現象が生命ではないのか。
 だから、物質にも、なんらかの生命性が存しているのである。


2007年05月15日(Tue)▲ページの先頭へ
現代日本政治カルト状況と日本的近代主義による同一性=全体主義:日本的差異=霊性の復活へ向けて
toxandoria氏の激烈な現代政治のカルト批判
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514/p1
を読むと、日本の病巣がはっきり浮かんでくる。そして、それについては私なりにさんざん述べてきたので、ここでは、詳論しない。
 今は、簡単に触れるだけだが、現代日本の政治・社会的カルト状況は、実は、近代主義の帰結なのである。近代主義的同一性は、結局、連続化して、ただ、唯一の同一性へと帰結するのである。そう、オーウェルの描いたビッグ・ブラザーである。ただし、日本の場合のビッグ・ブラザーは、一人の総統が中心というよりは、同一性共同体が中心である。これは、ある意味で、村落共同体的である。
 結局、問題は、近代主義は、封建主義を打破して形成されたものであるが、この否定が、実は、同一性による二項対立という差別をもたらしたのである。封建主義はあきらかに差別主義であるが、それを否定した近代主義も差別主義なのである。
 そう、ここには民主主義の問題があると言えよう。「人間は、平等にequal創られた」とアメリカの独立宣言にある。同一性とは、実は、差異の否定・排除・隠蔽であり、この点で明らかに差別主義なのである。同一性が優位であり、差異が劣位である。(そう、高野連の魔女狩りは、この同一性主義によると言えよう。)
 図式化すれば、優位/劣位=同一性/差異である。つまり、平等思想を徹底すると、同一性主義となり、差異が否定されるのである。というか、根本的に、平等思想は、差異を否定するので、全体主義が帰結されるのである。これは、ヘーゲル哲学に顕現していることである。(これらは、既述済みである。)
 民主主義は、確かに、封建主義を打倒する重要な観念であるが、しかし、やはり、限界があるのである。つまり、民主主義は、同一性主義=全体主義へと展開する必然性をもつのである。
 だから、以前から述べているが、差異的民主主義、超越的民主主義が必要なのである。平等ではなくて、差異が基礎となるのである。あるいは、特異性と言ってもいい。
 現代日本の全体主義・魔女狩り・原理主義的潮流を見ると、これは、確かに、民主主義の帰結と言えるだろう。あるいは、近代的民主主義の帰結である。
 また、それだけでなく、日本における父権主義がこれに関係しているのである。父権主義は、封建主義であるが、これが、色濃く現代日本に残っているのである。欧米ないし西欧の民主主義は、個的民主主義である(ルネサンスは、個の活性化であり、私見では、プロテスタンティズムはこの個を取り入れているのである)。しかるに、日本の場合は、父権的民主主義である。これが、なおさら、民主主義を同一性主義=全体主義化させていると考えられるのである。
 この点をもう少し詳しく見よう。同一性主義は、差異を否定する。そして、父権主義は、父権的二項対立性をもち、その点で、同一性主義と結びつきうるのである。
 端的に言うならば、父権主義と近代的自我は同形である。父権主義は、母権という差異を否定して、父権的自我中心主義である。つまり、母権の否定・排除・隠蔽があるのであり、ここに父権的同一性二項対立が成立するのであるから、近代的自我と同形なのである。
 ということで、ルネサンスを経由していない日本は、近代化において、近代的自我と父権主義とを結びつけたと考えられるのである。だから、同一性主義=全体主義が必然的に帰結する傾向にあると言えよう。そして、それが、現代日本なのである。
 欧米の近代化とは、ルネサンスを経ているので、個=差異が基盤になっているのである。そして、ここから近代主義が発生するのである。つまり、差異と同一性との緊張関係が欧米には本来あるのである。
 イギリス人は、経験的個人主義であるから、全体主義を忌み嫌うのである。因みに、ブレアの失敗の一つの要因はここにもあるだろう。
 そう、差異と同一性との緊張関係が、いわゆるポスト・モダン思想を生んだと考えられるのである。つまり、欧米の基盤にある差異の発動なのである。流行としてのポスト・モダンは終ったが、しかしながら、後期デリダに見られるように、差異主義は生きていると見るべきである。
 この観点から見ると、現代日本の政治・社会的カルト状況は、欧米にある個=差異の視点の欠落にあるということになるだろう。日本では、日本なりの個の文化があったが、それが、近代化において、排除されてきたと思うのである。
 今は、簡単に言うだけだが、個=差異と霊性=精神性は、結びついているということである。欧米は、宗教性を脱色化したとは言え、精神のベースにキリスト教は今でもあるのである。欧州の都市には、教会がはっきり目に付くのであり、それが、共同体精神の焦点を構成していると思えるのである。
 これはそれほど突飛な考えではなく、ルネサンスにおける宗教性を見ればすぐわかることである。今、日本に来ているダ・ヴィンチの受胎告知を見ればいい。
 日本は、明治維新においては、排仏毀釈を行い、仏教の影響力を排除して、国家神道によって国民の霊性=精神性を収斂させたと言えよう。私見では、この時代の日本人には、個=霊性があったのである。
 しかし、太平洋戦争の敗戦によって、アメリカに占領されて、日本国憲法が生まれて、立憲民主政の国として再出発することになった。しかし、このとき、日本人は、戦前を否定して、日本人固有の個=霊性を喪失したのである。というか、それを否定・排除して、近代的合理主義を肯定したのである。ここに、現代日本の政治・社会カルト状況の始点があると考えられるのである。
 そして、戦後においては、残っている父権主義と近代主義が融合して、同一性癒着的政治体質が形成されたと考えれるのである。整理すると、日本的個=霊性の喪失、近代主義、父権主義、これらが結びついて、同一性主義=全体主義=カルト主義が形成されたのである。
 そう、差異は霊性である。超越性である。日本が復活するには、差異=霊性=超越性の復活が必要なのである。
 後で、霊的世界について、述べてみたい。
 
p.s. 論理の流れが乱れているが、論旨は明快だと思う。後で、より整合的にまとめたい。
 
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■ポスト・モダンの幻影⇒対立するものの同一化現象

ポスト・モダンの幻影⇒対立するものの同一化現象
2007.05.14 Monday | author : Kaisetsu
http://blog.kaisetsu.org/?eid=550049
kaisetsu 2007-05-15 00:59:29


■日本的霊性の復活とは何か:地霊の復活

これは、実に大きな問題である。後で考察してみたいが、以上の論考からすると、仏教と神道との関係をもう一度、見ないといけないだろう。
 鈴木大拙の『日本的霊性』はすぐれた日本精神論である。そこでは、日本の大地から生まれる精神性を説いている。それは的確であると思う。D.H.ロレンスで言えば、地霊である。日本の地霊を復活させることが、出発点である。地霊としての日本的霊性である。

p.s. 結局、特異性の問題に帰結するのである。日本の大地とは特異性である。そして、これは、日本のメディア・ポイントでもある。そして、日本人の個の精神とこのメディア・ポイントとが共振して、日本人の霊性が形成されると考えられるのである。

 環境破壊からわかるのは、日本的霊性をもたない役人や政治家や国民の世俗的合理主義が作用しているということである。環境を救済し創造的に保持するには、日本的霊性をもたないといけない。

 後で、特異性としての大地と特異性としての「身体」との共振関係について考察したい。


2007年05月09日(Wed)▲ページの先頭へ
同一性中心主義の解明:同一性中心主義と感情欲望との癒着による他者・差異に対する非合理な排除
昨日、本件の問題に触れて、再び、袋小路に入ってしまった。アポリアである(アポリアは、語源的は、「通れない」から来ているから、適語である。)。
 さて、今日、本件について、新たに思いついたことがあるので、ここで披瀝したい。
 自己は、本来、他者への志向性をもち、他者を感知するが、そのとき、同一性の認識を投影するのであるが、そのときには、差異(自己の差異であり、他者の差異である)と同一性とを均衡させるのである。
 問題は、他者に対する同一性認識であるが、そのとき、身体感覚を介するので、同一性認識に感覚様態が付着すると言えよう。同一性認識とは、自己が他者への投影する認識であり、この投影は当然視覚的であるし、また、その他の感覚も関係する。つまり、他者に対する同一性認識とは、感覚的同一性認識である。あるいは、同一性感覚的認識である。
 この感覚的認識性が問題である。自己の差異と身体・感覚とはどう関係するのか。あるいは、精神と身体・感覚との関係である。どうやら、ここに問題の核心があるだろう。
 心と身体・感覚との関係である。(スピノザでさえ、この問題を徹底して考察していないと思う。)心ないし精神が端的に、志向性である。心・精神=志向性である。
 しかるに、現象的MEPOにおいて、身体・感覚が形成されて、志向性は、身体・感覚化されるのである。同一性的認識とは、この身体・感覚に拠ると考えていいのではないだろうか。身体・感覚以前は、i*(-i)であるから、端的に、差異そのものである。自己差異と他者差異との即非共振性(デュナミスではあるが)があるのであり、同一性はないのである。
 同一性は、身体・感覚様態をもつことによって発生したと考えられる。即ち、感覚像とは、主体が同一性形態を投影して形成される同一性像であろう。(ここで、アフォーダンスを想起するが、ここでは、考察しない。)
 分析すれば、主体の身体・感覚において、同一性形態が発生する。これが、連続的同一性形態である。原形態性ないし原言語形態と言えよう。思うに、ソシュールが述べた差異であるが、原観念(原シニフィエ)と原音声(原シニフィアン)との二元論であるが、これは、ここに関係すると思えるので、それを使用すると、身体・感覚的同一性形態素と観念的同一性形態素がここにある。まとめて、身体・感覚/観念的同一性形態素(構造と言っていいだろう)となるが、簡略化して、感覚/観念同一性素としよう。
 これが、結局、他者志向性において、他者へと投影されるのである。つまり、感覚/観念同一性素が他者へと投影されて、同一性認識が発生するのである。
 思うに、本来、差異としての主体的精神ないし心は、他者への志向性であるから、この感覚/観念同一性認識を利用するが、それとは区別されているのである。即ち、

1)差異的主体精神⇒2)感覚/観念同一性認識⇒3)他者

である。
 問題は、2において発生する感情や欲望である。仏教で言う色(しき)である。他者へ遭遇した差異的主体精神は、2において感情・欲望を発現するのである。
 この感情・欲望が実に単純であり、快・不快の二元論を形成するのである。綺麗と汚いである。美と醜である。
 しかし、問題は複雑である。2は、いわば、《メディアMEDIA》である。だから、単に、感覚/観念様態だけでなく、端的に、1の様相をもっているのである。つまり、精神様相が2にもあるのである。
 つまり、精神と感覚/観念同一性とミックス様態が2の《メディアMEDIA》において生起しているのである。このミックス様態が問題なのである。
 とまれ、先に、感情・欲望様態について言うと、この快・不快の二元的判断は、正に、感情・欲望的判断であり、理性・知性的ではありえない。この没理性的好悪判断がMEDIAに生じているのである。これは、非合理な判断と言ってもいい。
 では、この非合理な判断をもったMEDIAであるが、そこには、1の主体的精神に基づく同一性認識作用もある。すると、2のMEDIAにおいて、主体的精神と同一性認識と非合理的判断がミックスされる様態が生じると考えられる。
 本来、主体的精神は差異であるから、他者との差異を保持しているのである。つまり、2のMEDIA領域において、主体的精神の志向性と感覚/観念同一性認識と非合理的感情・欲望様態とが並存しているということである。
 本来の知性・理性、根源的知性・理性は、主体的精神の志向性にある。根本知性、根本理性と呼ぼう(もう、知性と理性は区別しない)。根本理性は、差異への志向性作用であるから、MEDIA領域(MEDIA帯、MEDIA FIELD、メディア場)においても、本来、その性格を保持すると考えられる。
 しかしながら、非合理的感情・欲望様態が優勢になると、当然、根本理性は麻痺して、差異的自己認識が喪失されて、感覚/観念同一性認識と非合理的感情・欲望様態とが癒着・融合するようになるだろう。
 私がこれまで、連続的同一性中心主義を攻撃してきたが、その形成因はここにあったと今や考えるに至ったのである。
 MEDIA場における非合理な感情・欲望様態が、根本理性を麻痺させて、感覚/観念同一性認識と癒着結合したものが、正に、連続的同一性中心主義なのである。そして、これが、唯物論的意識であり、近代的自我なのである。
 根本理性の麻痺が、ここにあるのである。物質的感情・欲望様態が同一性認識と結合して、他者喪失の近代的自我と生んだのである。ゴヤは、理性の眠りは怪物を生むと言った。
 思うに、仏教は、この非合理な感情・欲望様態からの解脱を説いたのであるが、それが生きていないのである。また、フッサールの現象学的還元、エポケーもそれを説いているし、デカルトの懐疑もそういう性質をもつだろう。
 そう、近代主義とは、人間が生来もつ根本理性・根本知性の喪失を意味するのである。
 では、ここからのエクソダスの方法は何であろうか。最近、ヨガが流行っているが、それは、その方法の一つである。
 問題は、MEDIA場の非合理な麻痺・混濁・混同を解消することにあるのである。このMEDIA場の非合理な麻痺とは、非合理な同一性中心主義ということである。ここでは、快・不快の非合理な同一性中心主義的判断によって、差異的精神が否定・排除・隠蔽されているのである。根本理性である差異的精神への反感・憎悪・排除があるのである。
 これで、この問題が解明されたと言えよう。何故、他者を否定するのか、という問いに対して、解答は、MEDIA場の非合理な快・不快の感情・欲望的同一性自我中心主義が他者を否定するからであるということになる。
 より端的に言えば、非合理な感情・欲望様態的同一性中心自我とは、その非合理性に対して異議を唱える根本理性・差異的精神に対して反感・憎悪・暴力をもって、否定・排除・隠蔽行為を行うのである。これが、正に、他者排除の力学なのである。簡単に言えば、気に入らないものは、無化するということであり、暴力団論理なのである。これが、現代日本の支配している力なのである。人間が本来もつ根本理性の完全喪失である。明らかに、劣化・退化があり、動物化しているのである。これは、明らかに、日本滅亡の徴である。
 さて、以上のように、MEDIA場の感情・欲望による非合理な同一性中心主義が根因となったが、これを解消する方法を述べなくては不十分である。 「問題は、MEDIA場の非合理な麻痺・混濁・混同を解消することにある。」と上述しているのであるから。
 端的に言えば、MEDIA場の知的浄化・精練・鍛練が必要である。このためには、哲学、宗教、芸術が必要である。MEDIA場に知的ないし精神的切断をもたらして、非合理的同一性中心主義を解体する必要があるのである。
 ポスト・モダンは、本来、それを目指していたが、後期デリダを除いて、連続的非合理主義から脱出できなかったと言えよう。
 差異と同一性との均衡・調和、ここにトランス・モダン社会の原理があると言えよう。差異との均衡によって現象界は救われるのである。
 そう、ここで、発展的問いとして、なぜ、現象化があるのかと考えると、それは、差異的認識(広義の認識で、創造表現を含める)のためであろう。プラトンは、想起と言ったが、それは、後ろ向きな考えである。確かに、ある意味では、想起のためである。しかしながら、イデア界の差異共振性を、現象界において、創造的に表現することが、現象化の本当の意味のように思えるのである。単なる想起ではなくて、想起して、その内容を実践的に現象創造表現することだと思えるのである。ここでは、認識と創造表現は一つである。そう、認識、創造表現、倫理は一つである。イデア界的認識=創造表現=倫理実践のために、現象化があるのである。

p.s. 結局、連続的同一性中心主義という悪魔・悪霊とは、非合理な感情・欲望様態と同一性認識の融合である。思うに、これは、正に、父権制である。父権醜主義である。日本の官僚・政治家のタイプである。日本は、ベースは母権制であるが、これが父権制によって破壊されているのである。
 そう、狂気は、非合理な感情・欲望様態に基因があるだろう。人類史的に見ると、この連続的同一性中心主義が、諸国家を滅ぼしてきたのだろう。ローマ帝国の崩壊もそうだろう。平明に言えば、傲りである。驕れる平家久しからず。
 とまれ、連続性の原因は、やはり、非合理な感情・欲望様態にあると言えよう。そこから自我が形成されるのであるから。この非合理な感情・欲望様態のもつ連続性の破壊が、とりわけ、日本に必要なのである。
 もう少し補足すると、連続的同一性中心主義に資本主義的貨幣社会が結びつくのである。前者を満たすものは、貨幣である。金融資本である。
 以上のように根本的、ラディカルな解明がなされると、トランス・モダン経済はどのようなものであるべきかわかってくるのではないか。一言で言えば、物質中心の経済から精神と物質とのバランスのとれた経済を志向するべきであるということになる。精神・物質経済である。そのためには、教育超革命が必要であるし、また、根本的には、PS理論的世界観革命が必要である。
 とまれ、精神・物質経済の価値はどう計るのか。精神・資本経済において、精神・資本の価値はどう計られるのか。思うに、精神ー物質的認識をもった者が指導的な立場に立たないといけないことになるだろう。貨幣・資本の数量だけでなく、精神ー物質の相関的認識をもつ人間が指導的立場に立たないといけないということである。

p.p.s. もう少し補足しよう。非合理な感情・欲望的同一性自我様態が、連続的同一性自我の正体であるが、非合理な感情・欲望性が差異的志向性を麻痺させることが、「狂気」の根因である。
 ならば、非合理な感情・欲望性とは何か。これが、プラトンの言った黒い馬である。しかし、プラトンは、それを単に否定しているのではなく、白い馬との二頭立ての馬車を御者が制御することを説いている。白い馬は、差異的理性であろう。だから、プラトンにおいても、差異と同一性との均衡が目されていると言えよう。
 問題は非合理な感情・欲望のもつ狂気性をどう制御するのかである。古代ギリシア人は、ディオニュソスの祭儀をもった。ギリシア悲劇は、ディオニュソス神に捧げたものである。
 そう、端的に、祭礼・儀礼等は、人間の非合理な感情・欲望を、理性的枠組みの中での、解消方法であったように思える。今日日本では、ニートたちの、戦争衝動である。それも解消方法である。
 どうも、ここには、自由の問題が関係していると思う。昔は子どもに遊びがあった。自由な時間や空間があったが、現代は、なんらかに管理された時空間しかない。
 かつては、遊びにおいて、非合理な感情・欲望を、遊びの枠組みにおいて、解放し解消していただろう。現代では、ゲームだろう。
 そう、ここには、他者としての身体の問題があるだろう。身体問題を考察しないといけない。自己が他者である身体と共振するとき、コスモスが発動する。コスモス的身体ないしコスモス的心身となる。ここでは、超越的エネルギーが発動するのである。
 この心身エネルゲイアを創造的に表現する必要があるのである。私の哲学的思考は、この心身エネルゲイアの理論化と言えるのである。
 思うに、だから、単に非合理な感情・欲望に囚われているだけでなく、コスモス的なエネルゲイアが発動されずに、抑圧されていると言えよう。そのため反動はとても強力なのである。連続的同一性狂気・暴力である。この点は、これまで指摘したことである。
 結局、非合理な感情・欲望と抑圧された反動化したコスモス的エネルゲイアの融合が、連続的同一性中心主義の基盤となっているのである。
 つまり、非合理な感情・欲望は、現象的物質的同一性形態に知覚を限定する。そして、この同一性主義が、同時に、差異的共振的コスモス的エネルゲイアを抑圧するのである。
 即ち、非合理な感情・欲望は、他者的志向性である差異的理性を否定すると同時に、同一性主義によって、差異的共振的エネルゲイアも否定しているのである。つまり、根本理性と根本エネルゲイアを否定しているのである。すると、それらを一つにして、根本理性エネルゲイア(根本理性エネルギー)があるということになるだろう。この否定・抑圧が、連続的同一性中心主義の狂気の発動原因である。そして、この狂気暴力が現代日本のアポカリプス・黙示録の原動力なのである。近代主義の嫡子である。
 繰り返すが、現代日本を救済するには、MEDIA FIELDの浄化・精練が必要である。MEDIA FIELDに切断線を入れて、差異と同一性の連続性を解体して、それから、差異の特異性、絶対的差異へと進展して、さらには、超越的差異共振性へと飛翔する必要があるのである。MEDIA FIELDを不連続的に浄化・精練して、差異と同一性とを分離して、差異を特異性から超越化し、さらには、共振化させる必要がある。そして、それから、同一性との均衡を形成して、差異的同一性としての自己認識を形成する必要があると言えよう。
 認識革命、観念革命、精神革命が必要である。トランス・モダン革命である。


2007年05月06日(Sun)▲ページの先頭へ
「わたしは絶対に正しい」という近代的自我の解明:近代知と教育:近代的悪魔・悪霊シンドローム
Kaisetsu氏の日教組批判に関係した問題であるが、わたしとしては、このタイプは、周辺に多いし、また、現在の日本の教員に対する呪詛があるので、愚考したい。
 思うに、論を明快なものにするため、近代的自我、近代知、教育を三幅対にして、考えたい。哲学的には、同一性と差異の問題であるので、この視点から考えたい。
 近代的自我の狂気については、証明が済んでいるが、それが、そのままこの問題に適用されるから、ある意味で、問題は済んでいるのであるが、現実として、狂気の教育・教員が存在しているから、現実的批判が必要ではある。
 ここでは、エッセイ風に述べたい。私がいつも不思議に思うのは、近代的自我のタイプと個をもった共振性のある人間とに明確に分かれることである。もっとも、現代人は、前者が圧倒的に多い。だから、狂気の社会になってはいるのである。狂人が多数なら、正気の人が狂人扱いされるのである。そう、狂人民主主義、狂民主義である。
 とまれ、前者であるが、端的に、共感性が欠落しているのである。仁義が欠落しているのである。大道廃れて仁義有り、という言葉があるが、大道廃れて仁義なしが、現代日本である。
 以下の資料を見ると、私は、この意味に関して勘違いしているので、考え直すと、老子の言う道教の自然的あり方が廃れて、道徳云々というようになるということである。そう考えると、確かに、現代日本にあてはまるし、多くの世の中にも当てはまるだろう。
 しかしながら、この言葉は、現代日本にとりわけ当てはまると思う。言葉はあるが、心がないのが現代日本であるからだ。テレビで放送される役人や社長等で謝罪する言動を見れば、心がないのがすぐわかる。ただ、言葉だけである。「心を伴わない言葉は天には届かない。」と『ハムレット』の悪王クローディアスが懺悔の途中に述べている。また、ハムレットは、ポローニアスに何を読んでいるのかと聞かれて、「言葉、言葉、言葉」という答える。
http://bymn.pro.tok2.com/
hanatop/index.html
正に、現代日本である。言葉の国で、心喪失国である。
 そして、これこそ、近代的自我、近代的理性のあり方なのである。そして、ついでにいうと、「ポスト構造主義」とは、この言葉中心主義を解体するものであった。差異理論とは、そういうものであった。言葉からの差異を問題にしていたのである。
 しかし、言葉の国と言ったが、また、同時に言葉の無い国なのである。これは、『ハムレット』の言語論とも通じるのである。即ち、心のない言葉とは、ただ、器、容器であり、中身がないのであるから、言(事)の無い葉である。つまり、無責任な言葉なのである。そして、これは、実は、官僚言語、役人言語と通じるのであり、そして、当然、文部科学省の言語と通じるのであり、教員の言語と通じるのである。端折って述べているが、いちいち説明するが煩瑣である。
 私は、心無き言語を一般形式言語と考えている。これは、本当の言葉(誠の言葉)である特異性の言語とは異質である。今思い出したが、70年代後半にかけて、日本言語社会は、一般形式言語が流通するようになったことを、私は、苦々しく、暗い憤りをもって嫌悪していた。流通言語とか読んだものである。分別臭い言語なのである。『ハムレット』の世界に対応するのである。
 つまり、貨幣経済、とりわけ、貨幣の数量が問題となる経済社会で、この問題が起きるのである。貨幣の交換価値に合わせて、言語や人間が造られるのである。マルクスの言った疎外である。物神性である。(思えば、マルクスがシェイクスピアの劇をよく引用していたのを想起するが、それは的確である。なぜなら、シェイクスピアの劇は、中世・ルネサンスの差異的世界が崩壊して、近代的合理主義の世界への悲惨な転換を描いているからである。)
 そう、一般形式言語は貨幣言語と言っていいのである。構造主義と言ってもいいのである。この問題は、現代思想で論じられてきたので、ここで留めるが、これは、ヘーゲル哲学であると言ってもいいのである。
 結局、現代哲学の問題に返ることになるのである。つまり、個・特異性の問題である。一般形式性と個・特異性の問題である。
 近代は前者中心であったのであり、脱近代主義とは、後者への転換を意味するのである。(PS理論は、これを徹底して、現代的差異的イデア論を打ち立てたである。)
 しかしながら、理論的な進展とは別に、日本社会の知的後進性は度し難いものがあるのである。大学人は未だに、近代主義、近代的自我、近代的合理主義のままなのである。彼らは、ポスト・モダンを深く理解しなかったし、また、専門の盲目の安全地帯にこもって、知の動向さえ理解しようとはしなかったのである。
 ポスト・モダンは問題のある思想であったが、それは、トランス・モダンへの胚珠をそれなりにもっていたのである。つまり、ポスト・モダンとは、簡単に言えば、モダンとトランス・モダンとの過渡的思想であったということである。さらに言えば、ドゥルーズの思想にあるように、構造主義の枠内にあったのであり、実際はポスト構造主義(あるいは、脱構造主義)ではなかったし、ポスト・モダンでいちばん俊敏であったデリダは、確かに、脱構築によって、モダンの枠をいったん解体したものの、その理論の不器用さによって、脱構築後の知の様態が不合理主義ないし否定神学にとどまって、深化ができなかったのである。
 とまれ、フランス現代思想は、問題の多いものであったが、それなりに脱近代主義を志向していたのであるが、その動向を日本の知識人・大学人は創造的に探究できなかったのであるし、また、端から無視していたのである。これは、当然、日本の高等教育に当てはまることである。近代主義という衰退する知に執着しているのである。
 そう、ついでに言えば、安倍首相の戦後レジームからの脱却は、脱近代主義とは言えるが、やはり、アイロニカルな没入性をもっているのである。それは、戦前・戦中的反動性をもつのである。つまり、PS理論から言えば、近代主義への反動なのである。近代主義に連続しているので、反動なのである。超越的に脱近代化できないのである。
 さて、日本社会の近代主義的反動性であるが、それは、結局、個・自己を一般形式性へと同一性化していることから来ていると言えよう。つまり、個・自己の差異・特異性を否定・排除・隠蔽して、一般形式性を真理として、他を誤謬として排除しているのである。これが、「わたしは絶対に正しい」という自我意識を生むのである。Kaisetsu氏がとりあげた日教組問題は、正に、近代的自我、近代主義、近代的理性主義にあるのである。
 このような個・差異・特異性を排除する近代主義的教育では、画一性しか生まない。創造性が生まれようがないのである。それで、子どもの心・精神は荒廃し、粗暴、凶暴・狂暴、野蛮等になるのである。
 また、当然、知的能力が落ちるのである。つまり、日本を亡国にしているのは、この近代主義に染まっている知識人・大学人・文化人、官僚・役人、教員等である。
 創造性の点では、文科系の学問は悲愴・悲惨である。西洋の猿まねであるし、とりわけ、哲学が悲惨である。西洋哲学が哲学となっているのである。日本哲学、東洋哲学が無視されているのである。
 そう、ここで、端的に、何故、近代的自我、近代主義、近代的理性主義へと向かうのか、個・差異・特異性ではなく、一般形式へと同一性化するのかと言えば、一つは、怯懦が原因だと思う。(今、想起したが、生前、岡本太郎はキチガイ扱いされていたのに、死後、今では、天才的画家扱いである。私は、岡本太郎は文化批評家として優れていたと思うが、画家としては、悪くはないが、やはり、人為的だと思う。これ見よがしである。無理が感じられるのである。平俗に言えば、力んでいるのである。自己顕示欲満々なのである。)
 怯懦であることが、相互主観性になって、日本社会を形成していると思うのである。そして、これが、当然、傲慢となるのであり、自己中心の社会にしているのである。そう、怯懦であるとは、真理に達していないので、妄想的である。
 では、「わたしは絶対に正しい」の基因は何だろうか。それは、これまで述べたように、個・差異・特異性(超越性)を否定・排除・隠蔽した連続的自我心性にあるが、何故、自我が正しいのか言えば、それは、連続的自己(自我)が、超越性を否定しながらも内包しているからだと考えられるのである。
 つまり、超越性こそ、真の倫理・道徳の源泉である。そして、人間は先天・先験的にこれをもっているのであるが、連続的自己形成は、これを否定するのである。いわば、天、神、倫理を否定するようにして、自我形成するのである。しかしながら、天、神、倫理のもつ義性の感情(これに要注意)をともなっているのである。だから、「わたしは絶対に正しい」と神を否定し、蔑(なみ)しつつ、神の感情は横取りしてもっているのである。つまり、超越性と連続的同一性とが融合しているのであり、超越性自体を否定しつつ、反動的に超越化しているのである。そう、反動的超越性をもつので、連続的同一性自我は、「わたしは絶対に正しい」と主張するのである。
 現代日本人は、この反動的超越的自我傲岸不遜症に罹っているのである。ここには、神の横取りがあるのであり、悪魔的人間化である。日本人の悪魔化、これが、「わたしは絶対に正しい」の意味である。
 そして、とりわけ、大学人・知識人・文化人、官僚・役人・教員にこれが顕現・現前化しているのである。日本悪魔化である。もっとも、アメリカの悪魔病に感染してはいるのであるが。
 

参考1:

( 冒頭の老子の言葉を直訳すれば、「国民社会から大いなる道が見失われて乱れてくると、仁義の道徳が強調されるようになる」ということ。意訳すれば、「仁義の道が強調されるのは大道が廃れた結果である」ということになる。 )
http://www.pluto.dti.ne.jp
/~mor97512/C0560.HTML


参考2:

(『大道廃れて仁義有り』(「老子」より)
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大道廃れて仁義有り、知恵出でて大儀有り。
六親和せずして孝慈有り、国家昏乱して忠臣有り。

道が廃れて、仁義が叫ばれ、
知恵が偽りを生み、為政者によりて、制度や法律が作られる。
親・兄弟姉妹・夫婦の不仲より、親孝行・子への慈愛等が求められ、
国が乱れて、忠臣等との言葉が生まれるに至った。

仁義・知恵・孝慈・忠臣等々の概念は、道が廃れた結果として、
存在ならしめているのであって、それらの言葉が生まれることは
善いことではなく、世の退廃・人心の堕落を意味している、と
老子は云ってるのであろう!
現象世界に現れる一切の存在は、太極から生じた陰陽の顕れであり、
相反する概念が対をなし、現世の価値判断・判断基準は
その対立概念から生れてくるという。
我々人間は、自分の意思で生まれることはなく、
親も、国も、時代すら、何一つとして選べない。
道が廃れた時代に生まれ合わせた宿命の中、
無為自然を説く、老子の教えに縁を持てたことは、運命であろうか!
道徳などを必要としない社会の実現に向けて、
21世紀の覚者たちは、歩み始めている。)
http://www.sen-boku.com
/unmei/index.php?eid=13

館・占卜 運命一考


2007年02月08日(Thu)▲ページの先頭へ
連続的同一性自我のもつ他者否定(侮蔑・嫌悪・侮辱・憎悪等)の根因は何か
連続的同一性(連一性)は、自己→他者で、自己が他者を自己同一性化することである。(自己連続的同一性とは、自我のことである。真の自己とは、自己差異的同一性である。)

 さて、この連続的同一性の構造は、既に明らかになったが、他者を否定する同一性の意味を考えたい。

 以前、自己→他者、他者→自己の→は、連続的同一性を意味するとした。後者においては、他者が他者的連続的同一性を形成すると考えたが、先には、それを疑問にして、否定的に考えたのである。

 ここで、この他者的連続的同一性について再考しよう。思うに、自己内部において、内的他者を否定するから、外的他者を否定する結果になるとは言えよう。だから、この内的他者の否定とは何か、である。

 これは、端的に、連続的同一性化=現象化の一面であると考えられるように思う。正確に言うと、現象化とは、同一性化であり、それは、連続性と差異性の両面(±1)をもっているように思えるのである。

 つまり、連続的同一性現象化と差異的同一性現象化の二重性があるということである。これは、否定と肯定の二重性と言っていいだろう。

 ということで、内的他者の否定とは、連続的同一性の力学に拠るのであり、また、本件の問題への解明は、やはり、連続的同一性の力学によるということになるだろう。
 
 そして、思うに、人間は、連続的同一性に傾斜しているので、暴力的存在なのである。

 とは言え、差異的同一性も存在しているので、人間は、ここで、齟齬の様相にあるのである。傲りの連続的同一性自我と共感的な差異的同一性自己の二重性による齟齬があるのである。前者は悪であり、後者は善である。

 しかしながら、一般に人間は、連続的同一性自我に囚われているので、自己盲目なのである。そう、両者が混淆しているのである。悪と善の混淆様態である。

 智慧・叡知とは、この混淆様態に自己認識の光をもたらすものと言えよう。否定した内的他者への思考を向けると、そこで、自己認識の光が発するのである。つまり、差異的同一性への視点の発生である。

 さて、私が真に問題にしたかったのは、連続的同一性自我のもつ暴力的他者否定性である。そう、他者の無化である。私は、これが、病的異常(言わば、病異である)であると考えるのである。これは、他者への憎悪である。他者へのルサンチマンである。フロイトならば、死の欲動と言うのだろうが、果たして、これが、基礎的心的力動として、存しているのだろうか。私の直観では、これが二義的心性であり、第一義的なものではない。

 そうならば、どういう心的構造がここにはあるのだろか。思うに、最初に他者ありき、ではないだろうか。言い換えると、差異的同一性+1ありき、である。i*(-i)⇒+1ありき、である。

 では、連続的同一性自我の心的力学はそれに対して、どういう意味合いをもつのだろうか。初めに、差異共振シナジー様相ありきである。そして、それが、現象化においても、存しているように思えるのである。即非的自己・他者の関係が現象界において初めから存しているように思えるのである。

 その後に、連続的同一性自我化が生起するように思えるのである。そう、人間の場合は、言語的連続的同一性化である。そして、これが、他者否定性に通じるのである。フロイト/ラカンの死の欲動説とは、この作用を指していると考えられるのであり、それは、精神分析が説くように、根源的なものではなく、二義的なものと考えられるのである。

 そうすると、連続的同一性とは、差異的同一性に対する反動作用ということになるだろう。この反動作用が、他者否定・無化作用である。このように考えた方が、明快・明晰であると考えられるだろう。

 これまで、連続的同一性が先にあり、その後、反作用として、差異的エネルギーが発して、イデア界を志向すると考えたのであるが、これまで、今一つ明晰ではなかった。しかし、今のように、初めに、差異的同一性があり、その後に反動作用として、連続的同一性が発生すると考える方が、明晰である。

 なぜ、このような筋道の方が明快であるのかと言えば、もし、初めに、他者との関係が一切なければ、連続的同一性への志向は発しようがないからと考えられるだろう。換言すると、他者がなければ、ただ、自己だけがあるのであり、同一性も生じる必要がないわけである。だから、最初に自己と他者との差異的関係、即ち、差異的共振関係があり、その後、現象化において、差異的同一性+1が発生し、その後から、連続的同一性-1 が発生すると見た方が筋が通るのである。

 この力学を考えると、差異的同一性があるが、その後、自己は、その傾斜する連続的同一性の志向性を他者へと向ける。これが、他者否定・無化なのである。(これが、精神分析の死の欲動である。)これは、ほぼ、父権的欲望=暴力と言っていいだろう。他者を自我同一性化するのである。ここには、感覚欲望が支配しているといると言えるだろう。自己の感覚欲望が支配・優勢的になり、それが、他者を同一化・無化するのである。思うに、言語形成は、この感覚欲望と関連している。感覚欲望の細分化として、言語形成があるように思えるのである。「わたし」が欲するのは、「・・・」ではなく、「リンゴ」なのである。この点に関して、大乗仏教の分析は、正鵠を射ていると思う。妄分別と呼んでいるのである。
 
 整理すると、初めに、イデア界の差異即非様相があり、それが、現象化して、差異的同一性+1となるが、その後、心身の発達に伴い、感覚欲望と言語が形成されて、現象・物質的対象を認識するようになる。それが、連続的同一性自我形成である。この感覚・欲望・言語の連続的同一性自我形成とは、差異的同一性の否定、他者の否定・無化、さらに言えば、差異共振性という精神の否定があるのである。つまり、これは、人間の存在の基盤の否定があるのである。感覚・欲望・言語自我形成は、精神的存在としての人間の否定であるのである。

 近代以前においては、地域共同体、宗教等の「道徳」があり、それが精神性を保証していたが、近代以降、連続的同一性自我中心主義によって、精神性が否定されるようになったのである。いわば、暴力の解放である。人間の野獣・獰猛化である。

 これが、私が目の敵にしている近代的自我の意味である。現代日本は、この近代的自我が増加した状態になっているのである。結局、近代合理主義は、精神の否定なのである。

 問題は、感覚・欲望・言語自我の肯定で、差異共振シナジー様相=精神様相の否定である。

 大乗仏教は約二千年前からこの問題の解決を提示していたのである。トランス・モダンの大乗仏教である。これは、正に、驚くべき智慧である。

 大乗仏教は、感覚・欲望・言語自我の解体、即ち、解脱を説き、基盤・根源の超越様相の差異共振シナジー様相に回帰する方法を解き明かしていたのである。

p.s. 以上のように、初めに、差異ありき、と考えると、連続的同一性(連一性)のもつ全体/一神教的暴力性・独裁/専制的支配性がよく理解できる。すなわち、差異共振シナジー様相という「宇宙」性を否定するから、連一性暴力は、いわば、絶対的な様態をもつのである。

 思うに、ここは、宇宙性と微妙な関係があると思う。そう、D.H.ロレンスの畢生の名著である『黙示録論(アポカリプス)』の主題が正にこれである。ロレンスは、福音書のキリスト教ではなく、黙示録のキリスト教は、賎民の破壊的衝動を表現しているのであり、それは、高貴なもの、優れたもの、宇宙・コスモスの破壊の衝動を説くものであったと糾弾しているのである。
 
 確かに、ロレンスの糾弾している黙示録の破壊的衝動と連続的同一性の志向・欲望とは通じると言えよう。これは、私の考えでは、一神教の欲望、全体主義・ファシズム的欲望に通ずるものである。また、当然、父権的欲望でもある。これは、また、正に、ニーチェの憎んだルサンチマンの情念である。近代主義とは、この恐るべき憎悪・破壊・悪魔的衝動をもっているのである。そう、フロイトの説いた死の欲動は、これに相当すると言えよう。精神分析論は、連続的同一性欲望論であり、一面的なものでしかないが、連続的同一性欲望=死の欲動という点では正解であったと考えられる。これは、一神教・西洋文明のもつ破壊的衝動である。ブッシュ/ネオコン/前コイズミ路線は、この悪魔的欲望をもったものと考えられる。

 そう、ついでに言えば、シェイクスピアの『リア王』のリア王の忘恩の娘に対する憎悪・破壊的衝動は、宇宙性と連一性を併せもったものと思われる。ルネサンス/近代の中間の様態である。

 現代日本は、この連一性的暴力衝動を孕んでいるの、たいへん危険である。前小泉政権を支持した者たちには、この連一性破壊衝動があったと推察されるのである。狂信的自我中心主義である。パラノイアである。


2007年01月04日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:自我精神病について:トランス・モダン・ネオ・ヤポネシアの内臓精神秩序へ向けて
後で検討したいが、自我症(近代的自我症)という広義の精神病は、反感・暴力・反動と関係していると思う。ルサンチマンである。これは、また、反知性と関係していると思うのである。思慮・内省・省察・瞑想・熟慮・自己認識等(古代ギリシア人の思慮・フロネーシス)が欠落して、憎悪に染まっていると思うのである。換言すると、連続的同一性自我認識に過ぎず、反射的認識に過ぎないのである。
 では、この起因は何かである。そう、これは、自然のもつ連続的同一性志向性に拠るということではないのか。即非態から連続的同一性志向性が発する。これは、反感・暴力・反動につながるのである。そして、近代合理主義は、これに直結しているのである。伝統的には、なんらかの即非態の叡知がある。宗教や共同体は、集合的に、それを保持した。それが、中世末期に崩壊したのである。個の時代になったのである。このときに、自我が顕著となるのである。ホッブズの社会・世界である。簡単に言えば、精神的秩序の崩壊・解体が生じて、自我中心主義が発生したのである。精神的ヴィジョンの衰退があったのである。西欧の場合は、カトリック教会の精神的ヴィジョンである。日本の場合は、神仏習合的宗教心の衰退であろう。
 これらの精神的秩序の崩壊があるために、無神論、ニヒリズム、唯物論、唯物科学が発生するのである【ツルゲーネフの『父と子』。ここで、19世紀ロシアを考えると、トルストイやドストエフスキーを生んだロシアとは、ロシアの精神的秩序の解体に瀕していたと言えるのではないだろうか。つまり、ロシア正教の解体の危機である。そして、ロシア唯物論的社会主義、ロシア・マルクス主義が生まれたと考えられるのである。そして、無神論・唯物論・マルクス主義が勝利して、ソ連体制が成立したと言えるだろう。日本では、とりわけ、戦後である。戦後唯物論の成立である。】そして、これが、自我中心主義精神病を生むのである。これは、悪魔的である。−1であり、闇・影である。
 ここから、今日・現代の日本の暗闇の正体がよくわかるだろう。日本人は、精神的秩序を完全喪失しているのである。戦後唯物合理主義に染まって、自己喪失しているのである。自己愛性人格障害とは、自我中心主義精神病である。この社会的唯物自我精神病から脱却する必要があるのである。トランス・モダンなネオ・ヤポネシアの精神的秩序とは、内臓思考ではないのか。肚である。肚に精神があると言えるだろう。そして、それは、零度差異共振シナジー精神なのである。

p.s. プロテスタンティズムの問題であるが、これは、近代という個の時代における、キリスト教の探求である。しかし、矛盾しているのは、キリスト教とは、本来、共同体の宗教なのである。信者の小共同体の宗教である。それが、個人の宗教になるというのは、矛盾しているのである。
 私見では、アメリカ人の宗教心であるが、それは、差異共振性(特異性)と連続的同一性(自我)との亀裂に、折り合いをつけるための観念(イデオロギー)であると思うのである。アメリカ合衆国という国家が、そのキリスト教と結んでいるので、国民を国家に統合させているのである。アメリカ人の差異共振性が発動すると、昨年のような中間選挙の結果が出るのだろう。しかし、その差異共振性は、連続的同一性(自我)と結んで、キリスト教を介して、国家ナショナリズムと資本主義を形成しているのであり、アメリカ主義になっているのである。このアメリカ人の差異性と同一性の連続的癒着が、アメリカを傲慢な国にしていると言えるだろう。
 アメリカ人が、自身の差異を、キリスト教や国家ナショナリズムの目隠しから解放したときが、世界平和が来るときであろう。とまれ、多極化路線は、宗教的には、多元主義である。キリスト教がイスラム教や他の宗教と共生する必要があるのである。ユダヤ教も同じである。第3聖書が必要である。新聖書が必要である。差異共振シナジー聖書である。

p.p.s. 思えば、第三聖書は、既に書かれているのである。D.H.ロレンスの畢生の名作『死んだ男(逃げた雄鶏)』と天才的エッセイ『黙示録(アポカリプス)』がそれであると考えられるのである。差異共振シナジーとしてのコスモスがそこで表現されていると考えられるのである。イエス・キリストは、復活して、差異共振シナジーの個となったのである。
 差異共振シナジーのコスモスへの回帰が説かれているのである。ここにおいて、対立は共振し、一如になっているのである。
 また、日本においては、折口信夫の、これまた、畢生の名作『死者の書』に、差異共振シナジー的ヴィジョン・コスモスが表現されていると言えよう。
 思うに、性愛であるが、両者に表現された性愛は、精神的なものである。精神的性愛なのである。これが、プラトンの表現したエロースであろう。


2006年12月07日(Thu)▲ページの先頭へ
近代とは何か:中世の秩序崩壊と差異の賦活と近代的自我の発生
iと-iは、零度共振様相にある。これは、対極(太極)様相である。i即非-iである。そして、この様相は、超光であると、考えられるのである。無限速度の超光が満たしていると考えられるのである。なぜなら、ここには、まだ、有限な時空がないからである。ここでは、すべてが無限である。あるいは、永遠である。なぜなら、あらゆるものが、一如であるからである。喩えて言えば、宇宙の一方の果てと他方の果てを、無時間で、結びつくからである。そう、すべての差異の距離は、いわば、等距離である。図式化すると、

差異1*差異2*差異3*・・・*差異n  (*は即非ないし対極様相を意味する)

となる。そして、差異1をコスモスの一方の端、差異nを他方の端とすると、差異1*差異2と差異1*差異nとの関係が一致するということである。喩えて言えば、等距離である。(参考:量子力学の非局所性)ここの無限空間には、超光が無限速度で移動していると考えられる。
 問題は、このメディア空間(メディア=イデア空間)の現象化の力学である。いったい、無限からどうやって有限の現象界が発生するのだろうか。それは、虚数から実数の形成によってであろう。i*(-i)が、i・(-i)=+1となるのである。この+1が、同一性であろう。⇒+1とすれば、差異的同一性である。とまれ、虚数の積が、現象化の力学である。差異は、+1となるのである。すべての差異は、+1になるのである。単位化である。例えば、差異をリンゴとすれば、リンゴ1、リンゴ2、リンゴ3、・・・、リンゴnは、すべて、+1としてのリンゴとして共通なのである。(注意:一人称自己認識方程式を、私は、対象の方程式として転用している。)この+1が有限・現象ということである。
 では、超光は、どうなったのであろうか。仮に、超光のエネルギーをEとすれば、E⇒mc^2であろう。ここで、当然ながら、現象界において、光速度が一定になっているのがわかるのである。つまり、無限速度の超光は、有限速度の光に変換したのである。そして、推測するに、mが重力であろう。つまり、超光エネルギーは、光と重力になったのである。この光と重力の時空間が、現象空間である。四次元時空間である(ただし、原時間軸は、虚軸であろう)。近代主義ないし近代合理主義の問題は、この+1の現象を、⇒+1ではなくて、=+1、そして、+1のみというように観測することである。もはや、内在超越次元の虚軸が喪失していることである。これは、i*-(-i)⇒-1で表されるだろう。つまり、他者-iを喪失した主観性-1で表現されるのである。つまり、+1の現象と−1の主観性(近代的自我)が、対発生しているのである。
 ここで、先の問題を考えると、+1が現象光であり、−1が連続的同一性自我である。そして、これは、「光」と「闇」を形成している。では、iと-iは、どうなるだろうか。iが本来の自己で、-iが本来の他者である。これは、内的には、心と身体としていいだろう。そして、(近代的)自我の場合、心iは、他者である身体-iを否定するのである。心と身体との共振によって、個物・個体+1が形成されたのであるが、それを自我は、身体を否定して、−1と見るのである。上述したことを少し訂正しないといけないだろう。+1は、差異的同一性なのであり、−1が、反差異・連続的同一性なのである。−1が、近代合理主義、唯物論を意味するのである。−1が、物質単位である。結局、個体・個物の+1の様態を捉え損ねているのである。そう、私が、個体が特異性であるというのは、この+1のことである。つまり、近代的自我は、個体の特異性ないし単独性を捉え損ねているのである。連続的同一性としての個体・個物を見ているのである。つまり、虚軸・内在超越性の即非・対極性を無視しているのである。言い換えると、無限次元を喪失しているのである。第四次元を喪失していると言ってもいいだろう。相対性理論とは、+1の現象光の理論であるが、そのエネルギー論は、超光のエネルギー(エネルゲイア)を意味していると言えるだろう。(付け加えれば、量子力学は、物質主義の視点によって、イデアと現象の境界像としての超光を探究していると考えられる。つまり、イデアと現象の境界における超光の像を量子・素粒子としていると考えられる。)
 さて、ここで、先に述べた光と闇の問題を考えよう。iが光ならば、-iは闇である。ここで、+1の光と−1の闇との混同を避けるために、iを陽、-iを陰と呼ぼう。つまり、陰陽対極性をここに見るのである。ここで、これまでの難問にぶつかるのであるが、何故、主体iは、他者-iを否定するのかである。本来、iと-iは、両者、活性化されているからである。本来、プラスとマイナスで牽引するはずである。問題は、認識なのである。iの認識は、iに即した認識である。つまり、自己同一性認識である。自己投影認識である。簡単に言えば、一体化である。i=-iである。差異の喪失である。おそらく、-iも同様に、自己投影するのだろう。即ち、-i=iである。ここで、卑近な例として、女男関係を考えるといいだろう。相互自己投影の相互誤解である。陽は陽的同一性を、陰は陰的同一性を他者に見るのである。とまれ、iを心、-iを身体とすると、心には、身体が見えず、身体には、心が見えないということになるだろう。
 ということで、他者否定は、必然であることになったのである。陰陽は共振シナジーとなっているのにかかわらず、自己同一性の視点から見ることから他者否定が生起することと考えられるのである。結局、主体iが他者-iを知るには、他者に目を向けなくてはならないということである。この場合は、身体に眼を向けるということである。つまり、内観の必要である。こにより、心iは、身体-iを知ることができるようになるのである。だから、自己投影とは、外観することによると言えよう。視線を外界に向けるとは、他者を見るのではなくて、自己投影なのである。内界に向くことで、他者に出会うのである。だから、身体を見よ。内部である身体を見よ、である。ここに精神が存するのである。近代主義は、視線を単に外部・外界に向けるだけで、内面に向けることを疎かにしたのである。
 では、何故、内界を看過して、外界に眼を向けることになったのか。これは、遠近法の発達とパラレルと考えられる。思うに、これは、倫理の崩壊の帰結ではないだろうか。倫理があれば、内界に向くだろう。つまり、内部の他者との関係があり、単純に眼を外界に向けることはないのであると考えられるのである。近世、近代初期は、中世の価値観の崩壊である。つまり、封建的価値観、倫理観の崩壊を意味する。これは、シェイクスピアの悲劇『リア王』等を見れば、よくわかるだろう。二つの自然があるが、一つは、王権的道徳的自然観であり、一つは、唯物論的自然観である。中世封建的ヒエラルキー的価値観を崩壊、脱コード化があり、それで、個体は、倫理・道徳から解放されて、外界へと無道徳的に目を向けるようになったと考えられるように思えるのである。そう、有り体に言えば、神の死が、近世・近代初期にあったのだろう。もっとも、その神は、iの抑圧された精神性ではあったが。角度を変えて言えば、それは、新たな差異の活性化の時代ではある。中世的道徳の崩壊と差異の活性化。これが、一面では、ルネサンスを生み、他面では、近代的自我を生んだと考えられるのである。


2006年12月04日(Mon)▲ページの先頭へ
光認識は、何故優位になったのか:「左脳」が何故、「右脳」より優位になったのか:精神・光と身体・闇
本件は、以前からの難問(アポリア)である。簡単に述べると、外界認識の必要から、光認識が闇認識(身体認識)よりも優位になったとは、常識的に考えられるだろう。しかし、狩猟採集の時代では、人間は、メディア・現象空間に生存していたと考えられる。つまり、差異共振界と同一性現象界との融合の内に生活していたと考えられるのである。前者がコスモスであり、後者が感覚界である。つまり、精神と感覚が融合していた生活空間に生きていたと考えられるのである。
 その後、近代主義により、両者は分離して、物質や近代合理主義が生まれる。簡単に言えば、内界を隠蔽した、外界優位・中心の認識の世界となったのである。近代が確かに分水嶺であるが、それまで、内界は、例えば、芸術では、アレゴリーとして、視覚化されていた。抽象観念の視覚的具象化としてアレゴリーである。だから、内界と外界との結合文化があったのである。しかし、近代は、外界から内界を規定するのである。つまり、外界視覚的観念・表象から、合理性を確立したのである。簡単に言えば、唯物論である。(唯名論ともだいたい言えるだろう。)
 この傾斜の力学は何なのか、ということである。自己認識は、本来、内界と外界の接点の認識であるが、(近代的)自我認識は、内界を無意識にした、外界中心の認識である。
 先の考察では、光認識は、必然的に、闇認識を覆ってしまい、盲になると言った。この光認識とは、自己投影認識である。つまり、i*-(-i)⇒1である。光⇒闇である。そして、-(i)*(-i)⇒1の場合もある。これは、他者の同一性の場合である。つまり、自己を否定して、他者に同一化する場合である。これが、信仰ではないだろうか。中世という時代は、-iが中心になった時代であったのだろう。そして、自己iが否定されて-(i)となったのだろう。逆に、近代は、自己iが肯定されたのである。そして、それが行き過ぎて、他者-iを否定して、-(-i)となったと考えられるのである。
 そのように見ると、二つの自然があるだろう。-iとiである。これは、二つの光と言ってもいいだろう。あるいは、-iが闇で、iが光と呼んでもいい。近代は、i→ (-i)の光であり、中世は、-i→iの闇であろう。中世人は闇を見ていたのであり、近代人は、光を見ていたのである。しかし、どちらも、一面的、半面的、偏頗である。光と闇との対極 i*(-i)⇒+1に真如があるのであるから。+1を真如光と呼ぼう。思うに、近代は、新たな差異の時代プロト・モダンであり、iの新たな発動の時代である。それが、自己投影に終っているのである。つまり、iの光は、-iの闇を受け入れられない様相になっているのである。これは不思議である。-iを否定して、-(-i)となっているのである。そして、i*-(-i)が反差異・連続的同一性であり、数量化されて、物質となったのである。-1が物質を表象するのだろう。
 何故、iの光は、(-i)の闇を受け入れられないのか。何故、闇を否定するのか。これは、戦後日本の認識状況と似るだろう。戦前の闇を否定して、戦後近代の光を肯定したのである。戦前の闇は、確かに、-i中心と言っていいだろう。つまり、-iとは、天皇あるいは国体である。-i中心主義も誤りなら、i中心主義も誤りである。偏頗・錯誤である。先に述べたように、i→(-i)という光認識(光志向性)は、iの同一性を投影するということであるが、それは押しつけ・強制である。厚かましさ、尊大、無礼、傲慢、等々ということである。これは、喩えて言えば、光の不器用さであろう。他者を他者自体・自身として認識できないからである。つまり、iの超越論的形式を-iに当てはめるのである(カント)。つまり、iが時空間形式(カント)であろう。近代において、主体は、iの光で、他者・対象を観測しているのである。他者-iの闇=「光」を受容できないのである。i*(-i)において、真如光(原光・玄光)があるのに、単なる自己の光を投影しているに過ぎないのである。これは、自己満足であり、他者破壊である。
 では、主体iが他者-i を受容するには、どうしたらいいのだろうか。一つの有力な方法がスピノザの能動的観念の形成である。つまり、他者-iを肯定して、+(-i)とする方法である。簡単に言えば、他者の言葉を傾聴し、それを積極的に理解するということである。(これは、連詩の方法ととても似ているのである。)つまり、差異共振シナジー的合理的態度ということである。
 しかし、現代の問題は、唯物科学・技術・産業の超肥大化である。つまり、i中心主義である。i中心合理主義(近代合理主義)である。i中心主義とは、- iの否定であるが、主体においては、これは、内界・身体・身心の否定である。プロト・モダンとしての近代は、iと-iの両面が、本来、賦活・活性化された時代である。それが、i中心主義にされてしまったのである。
 私の直観を言えば、-iとは実は、女性的な要素があるのである。父権主義の強固な西洋文化において、これは受容できないものであろう。つまり、共感性ということである。つまり、身体情的な側面があるのである。そう、-iとは主体においては、身体情となるだろう。これが、iの光の合理主義にとっては、不愉快なのである。それで、どうも疎外したように思えるのである。デカルト合理主義である。そして、スピノザがこれを掬ったのである。-iの身体情を包摂した能動的観念・能動的合理性をスピノザの『エチカ』は説いているのである。これで、コギト哲学は完成して、真如光が生まれるのである。
 以上で、-iは、女性的な要素があり、共感性であると言ったが、正確に言い直すと、共感性とは、i*(-i)の*が共感性であろう。そして、これが、女性的要素である。ならば、-iとは、実際何なのかということになるだろう。それは、わかりやすく言えば、身体であろう。iが精神ならば、-iは身体であろう。おそらく、精神のiは、身体の-iを認めるのが難しいのである。何故ならば、端的に、身体は、他者であるからである。この点では、プラトンでさえ、身体の情念を黒い馬として排除していると考えられるのである。とまれ、簡単に記せば、精神*身体である。あるいは、光*闇である。有り体に言えば、人間とは、二重人格なのである、少なくとも。身体や闇を多重・多元性と見ると、多重人格である。明確に言えば、対極的人格である。プラトンを出したので、プラトンの場合を考えると、霊魂、魂が主体となっているのであるから、単に精神ではないのである。思うに、*が霊魂、魂ではないだろうか。つまり、即非性が霊魂・魂ではないだろうか。即ち、零度差異共振シナジーである。
 とまれ、先の問題、身体として-iの問題に返ると、何故、精神は、身体を身体自体として認識できずに、身体を精神の同一性で捉えようとするのか、である。つまり、精神の論理で身体を捉えようとするのである。しかし、当然、身体の論理があるのである。精神の論理と身体の論理の齟齬(差異)があるのであるが、主体は精神の論理を身体に適用するのである。精神同一性を身体差異に適用するのである。当然、身体は把捉できないのである。換言すると、精神と身体とは、それぞれ、不連続的差異であり、同一化することはありえないのである。この差異の共立・共振に自然の妙があるのだと思う。即ち、即非論理である。これが、自然の根源的論理であると考えられる。これがなければ、自然は成立しないだろう。不連続的差異の、言わば、無機質な共立だけであり、いわば、ニルヴァーナ(涅槃)の様態である(私はこれが、イデア界ではないかと思う。これから、1/4回転で、メディア界・メディア空間・差異共振シナジー空間が生起するのだと思う。原生命の様相である。)。
 零度共振によって、精神と身体が共振・即非共生しているのである。この零度共振が、魂・霊魂・聖霊であろう。そして、これが、共感性として発現しているのである。つまり、精神が身体を把捉するには、零度共振様態にならなくてはならないということと考えられるのである。iをゼロ度にしなくてはならないのである。ゼロ度のとき、精神は、身体を認識することができるのである。そして、ゼロ度を生成するには、瞑想が有力な方法である。つまり、i の自己投影である、反差異的同一性化を瞑想によって回避できると考えられるのである。瞑想によって、精神のiは、身体の-iと共振するようになると考えられるのである。数式化すれば、i*-(-i)である、反差異・連続的同一性化から、i*(-i)の差異共振シナジー化が発現すると考えられるのである。つまり、-(- i)という反差異性を、瞑想によって、-{-(-i)}という差異性に変更するのだと考えられる。これは、換言すると、i→(-i)という反差異的同一性化に対して、i←(-i)という差異的同一性を加えて、均衡を取るということではないだろうか。つまり、i⇔(-i)である。精神⇔身体、光⇔闇である。 i→が陽エネルギー
=光ならば、i ←が陰エネルギー=闇であろう。精神は、光の方向ではなくて、闇の方向に向かうことで、他者である陰エネルギー、身体を受容することができるようになるのである。換言すると、光の反転によって、差異共振が発生するのである。この差異共振シナジーの叡知を、東洋は保持してきたが、西洋は、とりわけ、近代西洋は、破壊して、陽エネルギー、精神同一性中心主義になり、二元論化して、唯物科学を生んだと考えられるのである。また、近代の反動として、陰エネルギー中心主義である神秘主義やオカルト主義が発生したと考えられるのである。
 結局、本件の問題の解答とは、イタリア・ルネサンスにおいて、新たな差異、差異共振の発動があったと考えられる。i*(-i)が活性化し、現象界がダイナミック化したのである。それは、陽エネルギーと同時に陰エネルギーの賦活である。しかし、前者だけだと、他者、身体を否定するようになるのである。イタリア・ルネサンスは、両者の発動があったと考えられる。しかし、ヨーロッパは、キリスト教化されているので、陰エネルギーを十全には、認めることができなったと考えられるのである。わかりやすく言えば、父権的宗教であるキリスト教は、陰エネルギー肯定による母権化を肯定することができないのである。だから、陰エネルギーを否定する意味で、宗教改革が起こったと言えるのである。ルネサンスへの反動である。そして、デカルト哲学が正にこの矛盾を体現していると考えられるのである。コギト哲学は、ルネサンス哲学である。差異の哲学であるが、その合理主義は、陽エネルギー中心主義で、近代合理主義を方向づけるものとなったのである。そして、何度も既述したが、スピノザが、デカルト哲学を補完して、コギト哲学を完成したと考えられるのである。つまり、スピノザは、陰エネルギーを能動的に包摂して、陰陽エネルギーの統合知性を形成したと考えられるのである。結局、南欧、地中海文化から発した差異の賦活は、西欧キリスト教文化によって、歪曲化されて、途轍も無い偏頗な合理主義を形成することになったのである。父権主義イデオロギー、父権暴力によって、捩れているのである。これが、現代の不幸を根因であると考えられるのである。
 さて、最後に敷延して考えてみよう。近代科学は、陽エネルギーを観測していると考えられるが、陰エネルギーを無視しているだろう。前者を光エネルギー、後者を闇エネルギーとも呼べよう。現代物理学で問題になっているダークエネルギーであるが、それは、後者のことであると同時に、更には、差異共振シナジー・エネルギー、即ち、原エネルギーをも示唆しているのではないだろうか。そう考えると、ダークエネルギーの方が量的に大きいということの説明になるのではないだろうか。
 プラトニック・シナジー理論による物理学革命は近い。

p.s. もし、精神がiならば、それは、死んだときは、-iの身体から解放されて、iの世界に回帰・回向するだろう。i の世界とは何処なのだろうか。あるいは、-iの世界とは。メディア界は零度差異共振するので、生命を賦活されることになるのだ。そう、考えられるのは、i や-iの世界とは死の世界、冥界である。しかし、iの世界は光の冥界(天国・浄土)であり、-iの世界は、闇の冥界(地獄?)であるのだろうか。とりあえず、iの世界を天界、-iの世界を地界と呼ぼう。否、明確にするために、天霊界と地霊界と呼ぼう。天霊であるiと地霊である-iとのゼロ度連結して、人霊、生命霊となるのだろう。
 ここで、推測だが、男性は、iで、女性は、-iではないだろうか。私は、ジェンダーとは異文化であると考えている。男性と女性は、互いに異星人ではないかと思うのである。この点では、D.H.ロレンスが天才的な理解をもっていたと考えられるのである。


2006年11月20日(Mon)▲ページの先頭へ
近代的自我、+1の力学について:隠蔽された(i)*(-i)のエネルゲイアの動き
先に、+1が、近代的自我であると言った。思うに、発生的に言うと、幼児・小児の頃は、(i)*(-i)の世界、虚次元・虚界が活発である。だから、(i)*(-i)⇒+1の事象になっていたと考えられる。言い換えると、メディア空間と現象空間が、重なっていた空間事象があったと考えられる。それが、成長するにつれて、=+1、そして、+1のみとなると考えられる。この間には、近代合理主義教育や近代資本主義経験が作用していたと考えられる。フッサールの生活世界とは、(i)*(-i)空間をもった生活空間、虚次元生活空間であると考えられる。そして、現代、ポスト・近代において、この世界に入りつつあると言えるのである。もっとも、これは、自動的になるのではなく、自己決断的に発動するのである。ヘーゲル的な連続的展開ではなくて、キルケゴール的不連続的飛躍である。実数空間的でなく、複素空間的である。
 先の考察でまだあいまいと思われる点は、反動力動・衝動の問題である。+1となったとき、(i)*(-i)の共振シナジー・エネルゲイアを抑圧することになるのである。つまり、共振シナジーの認識エネルゲイアを、+1の近代的自我は、もたないので、それが、反動化すると考えられるのである。つまり、+1が、(i)*(-i)を否定するのである。つまり、−[(i)*(-i)]になると考えられるのである。すると、−[(i)*(-i)]⇒−1で、−1が生起するのである。これは、明日野氏が述べたように、倒錯である。私の考えでは、二重人格の影である。+1が、表の人格・ジキル氏博士であり、−1が裏の人格・ハイド氏である。つまり、近代的自我は、本質的に二重人格であるということである。一般には、虚空間認識が、「こころ」として、あいまいに捉えられている。しかし、近代合理主義、近代科学では、この虚空間認識・(i) *(-i)が理解できないのである。不可知になるのである。唯物科学、たとえば、脳科学が、「こころ」を扱っても、唯物論という物質の枠組み(構造)によって制限されているので、虚空間を認識できないことになるのである。簡単に言えば、虚次元である精神・認識・知性を、実次元に倒して、水平化するという錯誤を近代合理主義は犯しているのである。つまり、カント哲学を無視しているのが、近代科学である。
 さて、以上の考察から、+1と−1との分裂が生起することがわかった。そして、−1が近代的自我の暴力源であると言えよう。欧米の植民地主義、帝国主義、オリエンタリズム等々の心的根因はここにあると言えよう。また、現代日本の社会の精神病理も、ここに根因があると言える。反差異・連続的同一性である近代的自我は、(i)*(-i)の虚次元精神を喪失しているのである。
 問題は、否定・無化・排斥・隠蔽された(i) *(-i)という内在超越・垂直・虚次元空間の原エネルゲイアはどうなるのかということである。これは、差異共振シナジー・エネルゲイアであり、創造エネルゲイアである。つまり、これが隠蔽されていると、クリエイティブでなくなり、心的に枯渇するのである。つまり、衰退・衰亡路線である。現代日本の社会病理は、日本の衰退・衰亡を意味するのである。今問題となっている教育基本法改正であるが、本来は、明確に、ポスト近代を標榜しなくてはならないのである。愛国心教育は、反差異・連続的同一性教育であり、時代に逆行している。 
 さて、最後に、ダーク・エネルギーについて、少し述べよう。簡単に言えば、光・現象空間のエネルギーが+エネルギーならば、闇・非現象空間のエネルギーが−エネルギーである。後者がダーク・エネルギーのように思えるのである。しかしながら、(i) *(-i)という虚次元の原エネルゲイア(プロト・エネルゲイア)を考えると、±エネルギーを超えた、虚エネルギーがあると推察されるのである。例えば、「気」が、そのようなものと考えられる。ここに達することで、科学は、進化するだろう。プラトニック・サイエンスである。思うに、ヒンドゥー教やキリスト教の考え方は、プラトニック・サイエンスに近いだろう。無から創造するのである。無とは、虚空間である。そう、プラトニック・シナジー理論においては、科学と宗教が融合するのである。文理融合である。

p.s. ヒンドゥー教であるが、ブラフマー(創造)、ヴィシュヌ(保持)、シヴァ(破壊)の三神一体の基本観念をもつが、どうも、ブラフマーとヴィシュヌの混同があるように思える。ヴィシュヌのヘソから、蓮の花が伸びて、ブラフマーが生まれたする神話があるのであるから、ブラフマーを主神にすることができないと考えられる。思うに、ヴィシュヌが、(i)*(-i)の虚エネルゲイアであり、ブラフマーが+エネルゲイアであり、シヴァが−エネルゲイアである。+エネルゲイアが、+エネルギーとなり、現象を創造するのであり、−エネルゲイアが、−エネルギーで、現象を破壊するのである。ギリシア神話で言うと、ヴィシュヌ=ゼウスであり、ブラフマー=アポロであり、シヴァ=ディオニュソスである。聖書で言えば、エローヒーム=ヴィシュヌ=ゼウス、ヤハウェ=ブラフマー=アポロ、悪魔=シヴァ=ディオニュソスであろう。

 以上は、思考実験である。

参考:ヒンドゥー教

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%
92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82
%A5%E3%83%BC%E6%95%99


2006年11月16日(Thu)▲ページの先頭へ
反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか
反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか

メディア空間においては、(+i)*(-i)が成立している。零度差異共振シナジー様相ないし事象である。これが、現象化するのであるが、そのとき、同一性化が生起する。いったい、同一性とはどこから発生するのか。もし、(+i)を原自己、(-i)を原他者とするなら、同一性とは、一般には、原自己が原他者を否定するようなものと考えられるかもしれないし、これまで、そのように見てきた。即ち、(+i)*-(-i)としての反差異・連続的同一性である。即ち、−1を帰結するのである。
 その見方は、それで、明快であるが、私の直観では、同一性、即ち、反差異・連続的同一性は、そのような-(-i)とは異なるように思えることである。この点を調べてみよう。原自己の(+i)と原他者の(-i)が共振しているが、共振は、*である。そして、共振から両者が連結様態になるのである。あるいは、両者結合するのである。それが、等号関係である。(+i)*(-i)⇒(+i)=(-i)であろう。そして、この等号が、同一性である。しかし、この様態は、差異的同一性であろう。なぜなら、(+i)と(-i)との不連続的差異が存立しているからである。ならば、反差異・連続的同一性はどのように生起するのか。それは、等号=が、両辺の(+i)と(-i)を否定したときであろう。つまり、おそらく、等号自体が、反差異・連続的同一性となるのである。だから、等号は、(+i)も(-i)も、無化して、すべて反差異・連続的同一性に還元してしまうのである。いわば、絶対的同一性である。ここにおいて、メディア空間は、完全に否定されるのである。ただ、絶対的同一性空間があるだけである。これが、物質空間、唯物空間、近代科学空間であると考えられるのである。そう、絶対的同一性が物質ないし物質の単位である。「アトム」である。「粒子」である。
 では、この等号・絶対的同一性の発生力学は何だろうか。私が、個体とは、特異性であるというとき、それは、差異的同一性ないし差異的同一性個体のことである。例えば、眼前の一個の柿は、非柿でもあるものである。平たく言えば、それを石の換わりに、武器として使用して、敵に投げつけることもできるのである。つまり、眼前の柿は、非柿=武器である。それは、差異的同一性の一例である。とまれ、そこには、潜在したエネルゲイアがあるのである。(内在超越したエネルゲイアであろう。単に内在していると言いたい気もするが、それは、プラトニックな空間において内在しているのであり、現象空間において内在しているのではないから、やはり、内在超越していると言わなくてはならない。)
 さて、この差異的同一性=特異的個体性を否定・無化した反差異・連続的同一性=絶対的同一性であるが、この否定・無化はどこから発生するのだろうか。差異の極性(即非性)を否定・無化する「力」はどこから発生するのか。ここでも、直観から言えば、差異的同一性の同一性現象だけに注目すると、確かに、眼前の一個の柿と隣にある他の一個の柿とは、排他的関係にあるのがわかる。柿Aと柿Bは、いわば、二律背反である。この柿とあの柿とは、現象空間的には、絶対的に排他的関係にあると言えよう。例えば、この柿は腐っているのであるし、あの柿は完熟して、豊潤な味覚なのである。誰が、この柿を欲するだろう。ここで、複数の飢えた人間は、互いにあの柿を求めて、相争うことになるのである。このように考えると、反差異・連続的同一性=絶対的同一性とは、現象空間と相即であることがわかる。つまり、視覚空間、純粋視覚空間としての現象空間が問題となっていると考えられるのである。純粋視覚空間は排他的である。ここに、反差異・連続的同一性=絶対的同一性が形成されていると言える。
 そうすると、問題は、純粋視覚、現象空間とは何か、ということになる。見るとは何かということになる。私の考えるヴィジョンとは、当然、内界的な映像である。それは、(+i)*(-i) ないし(+i)⇒(-i)のヴィジョンである。しかし、同一性へと転化するときには、それは、薄れていくだろう。差異的同一性は、(+i)*(-i)⇒+1である。しかし、反差異・連続的同一性は、(+i)*(-i)=+1の+1ないし1ではないのか。あるいは、絶対値の1、|1|かもしれない。これが、純粋視覚空間の同一性ではないのか。そう、左辺が無化されているのである。単に、実数の世界である。1と2とは排他的関係、1≠2である。(微分とは、不連続的差異を無視しているのであり、絶対的同一性の虚構であろう。)
 すると、先にも述べたが、⇒+1と=+1の違いが大きいと思う。前者は、エネルゲイアがあるが、後者はエンテレイケイアのみである。この違いの原因は何か。ここで想起するのは、明日野氏が、+1は、光の方向、視線の方向であると述べていたことである。つまり、現象空間形成の方向である。そして、近代とは、この方向のエネルゲイアをもっていたと考えられよう。西欧近代における遠近法の発達とは、正に、これを証するだろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが、西欧近代の方程式であろう。正確に言えば、(+i)*(-i)=+1である。これが、西欧近代主義の方程式であろう。+1という実数の世界であり、これが、相互に排他的なのである。社会・政治空間的には、ホッブズの万人に対する万人の戦争である。
 さて、問題は、この現象空間化が+エネルゲイアに拠るならば、当然、−エネルゲイアが生起するのである、というか、同時生起である。±エネルゲイアがメディア空間に存立・共立・並存生起するからである。では、当然、−エネルゲイアの事象が生起しているはずである。つまり、−1の世界、反世界である。反現象世界である。そう、「ダーク・エネルギー」の世界である。黒い太陽の世界である。つまり、近代において、+1の現象空間だけでなく、−1の反現象空間・闇黒空間が生起しているはずである。光と闇の対発生である。しかるに、西欧近代は、光しか見ようとしないのである。デカルト哲学の合理主義は、この面があると思う。デカルトがあいまいなものを排斥して、明晰判明な観念を真理として、その他を誤謬としたが、このあいまいなものが、闇であったであろう。−1、闇の世界を、西欧近代は、排除しているのである。これは、不正義である。不正である。不公正である。一種邪悪である。初期近代ないし近世において、光と闇が同時生起したのであるが、西欧近代は、闇を無化したのである。魔女狩りとか、はその一つの発現と考えられる(p.s. 植民地主義、人種差別、等も、そうだろう。アメリカ先住民の殺戮も、そのような意味があるだろう)。そう、プロテスタンティズム自体がそのようなものでもあろう。神秘思想家のヤコブ・ベーメやエックハルトの闇が否定されたのである。近代科学は、この闇否定から生まれたと言える。
 では、何故、西欧近代は、光と同時生起した闇を否定・無化したのか。現象空間=光空間だけを肯定して、非(反)現象空間=闇空間を否定・無化したのか。今の私の直観では、それは、男性の恐怖があるのだと思う。つまり、男性は、光空間への傾斜があり、闇空間を本質的に恐怖するのではないのか。つまり、+エネルゲイアへの傾斜を男性はもっているならば、当然、−エネルゲイアへは反発するはずである。−エネルゲイアを否定し、抑圧し、排除・排斥し、隠蔽し、無化するはずである。おそらく、これである。男性の恐怖、とりわけ、アーリア民族男性の恐怖が、近代初期において生起した闇空間を否定・無化したのである。そうすると、これまで、反復してきた、近代的自我の発生の問題であるが、それは、これで解明されるだろう。何故、差異を否定するのか、と言えば、それは、男性、とりわけ、アーリア民族の男性が本来、+エネルゲイア、反差異・連続的同一性への傾斜・志向性がもっているからであるということになるのである。だからこそ、魔女狩りが起きた説明がつくだろうし、近代科学が発生したのも判明するだろう。近代科学は、他者否定的で、暴力的である。つまり、近代科学は、絶対的同一性=物質を絶対的基礎としているのであり、それ以外のものを排除・排斥するのである。
 ということで、近代的自我の成立とは、アーリア民族男性の+エネルゲイアへの傾斜・志向性に根拠があるということになったのである。そして、私が頻繁に悪魔と呼ぶものは、正に、このことに他ならない。つまり、近代初期に生起した光と闇の対空間発生に対する、アーリア民族男性の+エネルゲイアによる恐怖的反動、これが、悪魔の正体なのである。

p.s. 思えば、近代科学の創始者たちは、いわゆる、オカルトにもたいへん興味をもったのである。ニュートンの錬金術、ケプラーの占星術、これは、近代が、本来、光と闇の対発生であることの証左の一つであろう。

p.p.s.  また、この対発生を考えると、どうして、ルネサンス において、神秘思想 ・魔術・ネオ プラトニズムが興隆・流行したのかもわかるだろう。フィチーノの魔術思想 、ピコデラミランドラ の神秘思想 、ジョン・ディー の魔術思想 、シェイクスピア の魔術思想、等々。
 また、文学 のモダニズムにおいて、どうして、宗教 ・神話 や神秘思想 が導入されたのかも、理解できるだろう。

3p.s. ここで、この光/闇の対発生仮説を、例えば、非科学的と考えられている血液型気質判断に応用できそうである。今は、簡単に言うが、
A型=闇空間傾斜
B型=光空間傾斜
AB型=光空間傾斜と闇空間傾斜のゆらぎ
O型=光と闇の対発生タイプ

また、女性は、闇空間傾斜であり、男性は、光空間傾斜である。

後で、占星術をここから解明してみたい。


2006年11月05日(Sun)▲ページの先頭へ
−(-i)の最初の−はどこから発したのか:同一性自己=自我の発生構造について
詳しくは後で論じたいが、この−(マイナス)の原因が分かれば、人間の問題は、ほぼ解決したと言えるだろう。この−のために、人は苦しんでいるのである。そう、この−は、《悪魔》と呼んでいいのであるが、どこから、この《悪魔》が人類の精神にやってきたのかである。
 先の考察は、「メディア界」からの能動的な1/4回転で、⇒−1(近代的自我)が生起すると考え、そして、反転による差異の活性化によって、近代的自我(同一性自己)と差異(的自己)とが分裂すると考えたのである。この考え方の問題点は、能動的な1/4回転を理論化できないことである。
 だから、ここで、再び、直観考察(直観推理)しよう。問題は、⇒+1である。即ち、(+i)*(-i)⇒+1の⇒ +1である。ここでは、自己と他者とが共立することで、差異としての自己となっている。これは、また、特異性の自己と言ってもいいだろう。ルネサンスの個とは、この数式があてはまるのである。デカルトだけでなく、スピノザ哲学もこれで説明できるだろう。というのは、(-i)に能動的観念を含むことができるからである。
 問題は、同一性の現象化である。主観の同一性化である。ここで精緻・厳密になるために、用語を確定しないといけない。「メディア界」の極性は、不連続的差異の極(イデア極)と同一性の極(現象極)がある。そして、同一性への展開として、現象化が出現するのであるが、これを同一性現象化と呼ぶと、ルネサンス的個という同一性現象化は、(+i)*(-i)⇒+1の+1で記述されると考えられる。⇒+1とは、だから、差異的同一性ないし特異性的同一性を意味しているのである。
 しかるに、近代的自我のもつ同一性は、当然、これではなくて、先に述べたように、(+i)*-(-i)⇒−1と考えられるのである。つまり、内的差異である(-i)を否定した、無差異的同一性である。ここで明快しておけば、数値の1が同一性である。そして、+1が、差異的同一性ないし自己である。次に、−1が、反差異的同一性ないし自我である。これで、用語は整理された。
 では、本テーマを考えよう。どうして、−(-i)の最初の−が発生したのか。この問題は、以前からのアポリア(難問)になっているのである。これまでは、結局、優秀な差異と低劣な差異の二種類の差異があるということで説明してきたのである。優秀な差異とは、(+i)*+(-i)を維持する自己である。低劣な差異とは、それを維持できず、+を−に替えてしまうということになるのである。
 この+(-i)の+とは何だろうか。スピノザ的に言えば、当然、能動的観念に関係する能動性であろう。思うに、−(-i)となるような状況に対して、優秀な差異(優秀な自己と言った方がいいだろう)は、+(-i)を保持する能動性をもつのである。つまり、差異共振シナジー性を保持しようとするのである。
 「− (-i)となるような状況」とは何だろうか。これは、内的他者の否定である。内的他者を否定する状況とは何だろうか。これは、端的に言えば、殺すことではないだろうか。生きるため、生き物を殺さなくてはならないのである。ここで、内的他者を否定する必要があるのである。あるいは、隣人や、外部の者の所有物を盗む、奪う必要がある状況である。例えば、飢渇の状況にあるとき、「わたし」は、生物を殺したり、隣人や外部の人間の食物を奪ったりするだろう。「−(-i)となるような状況」であろう。言わば、極限状況における生存のための暴力行使である。人食い(カニバリズム)も、当然、ここから発生するだろう。無情・残忍・冷酷・無惨、等々の生存意志である。(参照:武田泰淳『ひかりごけ』)
 古代においては、これに対して、儀礼を行い、償いをしたと言えよう。贖いである。つまり、-(-i)の行為に対して、補償行為として+(-i)行為を、おそらく、過剰な行為を行ったと考えられるのである。おそらく、供儀(くぎ)は、ここから発生しただろう。そして、社会共同体の掟・道徳・倫理・コードが発生するのである。
 しかし、近代的自我の発生の場合は、明らかに、この社会共同体的コードが崩壊した状況にあったと言えよう。人間は生きるために、「−(-i)となるような状況」が必然的に伴うのである。だから、それを償うために、社会で、「共同体」の儀礼・道徳・コード等を定めて、いわば、「メディア界」の倫理を保持したのである。この「メディア界」の倫理のために、「−(-i)となるような状況」が生じても、+(-i)に回帰できたのである。これが、人類社会を保持してきたと言えよう。
 しかし、近代的自我の発生する時期は、社会コードが崩壊した環境にあったのである。つまり、社会倫理、「メディア界」倫理が崩壊した環境にあり、「−(-i)となるような状況」に対して、それを倫理的に補償することができなくなっていたと考えられる。つまり、「−(-i)となるような状況」は、そのまま、継続されるのである。だから、自己が、(+i)*-(-i)⇒−1という近代的自我になったのである。即ち、+(-i)の倫理が喪失されてしまっていたのである。言い換えれば、差異の倫理、他者の倫理、「メディア界」倫理が喪失した状況・社会環境にあったのである。この倫理は、当然、エネルゲイアとしての倫理でなくてはならない。強制力をもつ倫理でなくてはならない。
 思うに、近代化が一番先に生じたと考えられるイギリスにおいて、共同体の破壊が、囲い込み運動によって起こる。その共同体の破壊、即ち、社会倫理の崩壊によって生じた−1の人間を、シェイクスピアは、とりわけ、『リア王』によって描写していると考えられるのである。文学研究においては、二つの自然ということが『リア王』について、昔、言われた。即ち、リア王の体現する「自然」(位階的王権秩序)とエドマンドの体現する「自然」(無頼・無法者・悪人:つまり、物質的自然:ホッブズ的自然)である。後者にリア王の酷い娘達(ゴネリル、リーガン)が入るが、彼女達は、末娘のコーディリア(父思いの娘)と好対照である。劇中のある人物がどうして、同じ母からこのような異なる娘が生まれたのかと述べているのであるが、この二つの自然とは、実は、ここで述べた「共同体」の崩壊によって生じたと考えられるのである。シェイクスピア悲劇とは、近代の悲劇、封建的共同体の崩壊の悲劇、即ち、(i)*-(-i)⇒−1の、没倫理の悲劇なのである。ホッブズの社会哲学が生まれたのも、当然と言えよう。(ついでに言えば、イギリスで、このような没倫理化が起こった原因は、単純化すれば、プロテスタント化だと思う。カトリック的宗教権威が衰退して、物質主義的権力が強化されたことだと思われる。できれば、後で、さらに検討したい。)
 最後に、現代日本の「自己愛性人格障害」(近代的自我狂気症候群)であるが、これは、ここで述べたことがそのままあてはまるだろう。社会倫理の崩壊があるのであり、それが、(i) *-(-i)⇒−1という近代的自我を蔓延させたのである。日本の社会倫理の崩壊とは、一つは排仏毀釈のような神仏分離、そして、一つは戦後の唯物科学教育に、イデオロギー的には、拠ると言えよう。とりわけ、後者の唯物科学と結びついた唯物資本主義によって、経済的に引き起こされたと言えよう。

参照:
『近代の誤り⇒倒錯・『物の優位』という過ち』
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=401706
Theories for the Platonic Synergy Concept.


2006年10月22日(Sun)▲ページの先頭へ
現代日本の亡神的エゴイズムとプラトニック・シナジー理論
先の考察から、現代日本の狂気が、亡神によることが判明した。これは、一つのブレイクスルーに近い考え方であろう。戦後日本、天皇が人間宣言をして、現人神は消滅した。と同時に、日本の神が喪失されたと言えよう。戦後、日本人が、アメリカの物質主義文明の洗礼を受けて、唯物科学・技術・資本主義を発達させたのである。象徴天皇制になり、神のシンボルが消えたのである。あるいは、神のアレゴリーが消えたのである。人間は不可視のものに対しては、鈍感である。可視的ならば、信じるのである。神のシンボル・アレゴリーの喪失とアメリカ物質文明とが、相俟(あいま)って、戦後日本、今日の日本が形成されたと言えよう。
 思うに、戦後は折口信夫を例外として、神の精神を喪失していったと言えよう。私見では、初期〜中期の大江健三郎には、神の精神が作動していたと思う。(三島由紀夫は反動である。戦後日本への反動である。)結局、近代合理主義/唯物科学・技術/戦後民主主義が戦後近代主義を形成したのであり、それは、日本人の神の精神の喪失のもたらしたのである。現代の日本人の精神の荒廃は、この帰結である。精神の悪魔化である。
 この点について、理論的に考察しよう。端的に問おう。何故、神を避けるのか、排除するのか、排斥するのか、等々。戦前、戦中は、現人神(あらひとがみ)/天照大神(あまてらすおおみかみ)を信仰していたのに。棄神がある。折口信夫は、敗戦に際して、日本の神敗れたりと、無念の極みにあった。神道の神が、キリスト教の神に敗れたと考えたのである。しかし、不思議なことに、日本人は、アメリカ物質文明を貪欲に取り入れたが、キリスト教は取り入れなかった。これは、韓国において、クリスチャンが多いのに比すと、なおさら、不思議である。とは言え、積極的に日本人が神の信仰を表わしたわけではないのである。
 思うに、日本の神は、隠れたのではないだろうか。一種「お隠れ」である。だからこそ、潜在的に作動しているのである。そのため、邪教が蔓延り、人々に被害をもたらしていると言えよう。政治とつるんだ宗教団体、霊感商法、カルト、等々、淫祠邪教(いんしじゃきょう)が蔓延(はびこ)っているのである。
 日本人の不幸は、隠れた日本の神のエネルゲイアがありながら、それを知性・理論・合理・科学化できないことにあったのではないだろうか。戦後の公教育の基本はいわば唯物科学教育であり、神の精神教育は喪失されているのである。これは、戦前の反動である。つまり、日本人の神のエネルゲイアはありながらも、戦後の唯物教育のために、日本人はそれを意識・認識・知性化できなかったのではないだろうか。仏教はともあれ(私は葬式仏教を廃止すべきと考えているが)、神道アレルギーがあるだろう。そうかと言え、キリスト教に改宗する気持ちは少ないだろう。否、キリスト教に改宗しても、日本的宗教としてのキリスト教になるだろう。
 結局、戦後から現代、日本人の神のエネルゲイアは潜在してきたが、これを意識・知性に取り込むことができずに、唯物科学・技術・産業を進展させてきたと言えよう。戦後の日本の発展は、根源には、この日本の神のエネルゲイアが駆動していたと考えられるのである。しかしながら、政治家、官僚、知識人等は、これを利己的に利用したのである。日本人の神のエネルゲイアを国民に意識化させない方向で、導いたのである。(おそらく、ここには、北米合州国の意向もあったろう。)そう、国民自身も、神のエネルゲイアを差別して、排除してきたと思うのである。アイヌや沖縄、在日人や障碍者等への差別は、これと関係するだろう。連続・同一性共同体信仰によって、差異を差別排除したのである。しかし、差異こそ、神のエネルゲイアの発現である。
 私見では、オイル・ショック以後、日本は、USAと「連帯」化して、現代のような神無し砂漠となってしまったのである。亡国である。
 議論が逸れてしまったが、ここで、神のエネルゲイアと唯物無神論の関係をまとめると、戦後米国的近代主義によって、神のエネルゲイアを排除・排斥するようにして、唯物論/近代的自我・合理主義が日本人の精神に定着するようになったのである。神のエネルゲイアとは、プラトニック・シナジー理論では、差異共振シナジー・「エネルギー」(=メディア界)のことである。(このエネルゲイアを物質的エネルギーと取ってはいけない。心身・精神的エネルギーである。)このエネルゲイアの排除・排斥が、今日、日本の常態になってしまっているのである。とりわけ、東京である。これは、利己主義であり、自我中心主義である。他者の喪失である。悪魔化である。差異の排除が、精神の構造になってしまっているのである。差異否定・排除・差別の連続・同一性=二項対立精神構造が形成されているのである。この悪魔的否定精神が、日本人にいわば、憑依しているのである。ニーチェ的に、ルサンチマンと言ってもいいだろうし、現代風に、自己愛性人格障害と言ってもいいだろう。偏執狂・パラノイア・分裂症である。近代主義狂気である。
 この神のエネルゲイアの排除構造を突破しないといけない。このためには、ポスト近代主義/ポスト唯物論しかないのである。これは、ポスト西洋文明である。アジア的神の新文明が生まれなくてはならないが、理論的には、プラトニック・シナジー理論によって、誕生しているのであるが。
 最後に、何故、神のエネルゲイアを否定・差別・排除・排斥・隠蔽するのか。恐怖であろう。それは、戦後日本、近代日本を破壊するからである。近代主義のアイデンティティを破壊するからである。そう、単独・孤独となることを恐れるからである。しかし、そのために、未来は閉ざされるのである。怯懦な日本人であり、未来を喪失しているのである。とまれ、もう一度問うと、何故、差異を恐れるのか。これが、疑問である。同一性自我陶酔がそこにはあるだろう。差異を否定して同一性自己である近代的自我を形成しているのである。そう、差異とは、特異性、単独性、不連続的差異に他ならない。他者とは、まったく異なる自己が差異である。だから、差異を意識したとき、自己と他者との距離ができるのである。不連続性があるのである。しかしながら、この不連続性・不連続的差異性を、人は恐れるのである。そう他人の目である。あるいは、世間の目である。それを恐れて、自己の差異・不連続的差異を否定・排除・隠蔽するのである。これである。つまり、差異が劣弱なのである。もし、差異が強ければ、他人の目・世間の目を恐れずに、差異を肯定して積極的に思考し、実践するだろう。差異の弱さである。
 思うに、差異を肯定するには、差異の理論が必要なのである。差異の思想・哲学・科学が必要なのである。差異の文化である。差異の言語である。差異の論理である。差異の芸術である。近代主義は、連続・同一性主義であるから、差異の理論は見つかりにくいのである。また、差異は、内在超越性であるから、近代的内在主義では、見出せないのである、もっとも、きっかけは、そこにあるとしても。
 とまれ、神のシンボルの喪失、近代的自我・近代合理主義・近代資本主義、差異理論の稀少さ、連続・同一性共同体の存在、等々によって、日本人は、差異である神のエネルゲイアを排除して、近代唯物的連続・同一性=集団狂気化したと考えられるのである。この差異=日本の神のエネルゲイアの否定・排除・隠蔽とは、暴力・傲慢・狂気・不毛である。


《神》について:《神》は《存在》するが、近代主義は殺神を行った:《神》の復活
初めに、コトバありき、とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭言。しかし、原語のギリシア語では、コトバではなく、ロゴスであった。私見では、ロゴスとは、正に、《理》である。ダルマ(法)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29
そして、プラトニック・シナジー理論(簡略して、シナジー理論)では、これは、差異共振シナジー・フィールドないしメディア・スペース(コスモス)である。そして、これが、主観的には、《神》となるのである。結局、正に、「初めに、《神》ありき」である。そして、この《神》を多様多元的に表象してきたと言えるのである。《神》も、一つの表象ではあるが。
 しかるに、西欧近代は、神殺しを行ったのである。西欧近代において、どうして神殺し、殺神を行ったのか。これは、経緯が複雑であるが、結局、これまで、論考してきたように、西洋文明、ユダヤ・キリスト教文明自体が、神殺しに帰結にしたと言えるだろう。つまり、ユダヤ・キリスト教は、連続・同一性の視点の傾斜をもっているので、それが、古代ギリシアの理性主義と結びついて、神殺しに帰結したと言えよう。ニーチェの「神は死んだ」は、ニーチェが神を殺したのではなくて、西欧、近代西欧が神を殺したということを意味しよう。
 ポスト近代主義とは、だから、神の復活なのである。D.H.ロレンスは、「知られざる神」unknown Godに言及した。これは、西洋という文脈で見ないといけない。「知られざる神」とは、東洋では、「知られた神」だと私は考える。ロゴス=ダルマの神である。それは、差異共振シナジー・フィールド=メディア・スペースの神である。アジアの神である。ヒンドゥー教の神であり、ゾロアスター教の神であり、仏教の空であり、道教のタオであり、朱子学の神であり、神道の神(「カムイ」)であり、(アメリカ大陸をユーラシアの延長と見て、)ネイティブ・アメリカンのグレート・スピリットであり、・・・、思うに、ヤハウェの母体の神でもある。神話学者のジョセフ・キャンベルが説いた「神の仮面」の神である。カントの物自体と言ってもいいだろう。スピノザの神(即自然)でもある。
 現代日本を見ると、近代西欧を模倣して、禁神である。亡神である。

今や、差異共振シナジー神がやってきたのだ。

普遍神の復活である。

唯物論は滅びたのである。
当然、唯物科学も滅びたのである。

ポスト西洋文明である。

新アジア・世界文明の時代である。


2006年09月11日(Mon)▲ページの先頭へ
同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象
同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象

テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義

自己愛性人格障害という名称は、生ぬるいと思う。自我狂気病(同一性自我狂気症)と呼ぶのが適切・的確だと思う。現代、この自我狂気病ないし自我精神病が蔓延している。この自我精神病について、再考したい。
 先に、「揺らぎのない芸術は情操を高めない」というタイトルで、記事を引用したが、自我狂気病は、確かに、「揺らぎ」がない。「揺らぎ」とは、本来、メディア界がもたらすものである。だから、これまで、差異(メディア界)を否定・排除・隠蔽する同一性中心自我の様態にぴったりとあてはまると言えよう。
 これまで理論的解明をしてきたが、やはり、この絶対的否定の原因が、よくわからないという思いがするのである。というか、不思議な感じがするのである。
 とまれ、具体的な事象で考えよう。揺らぎの有無が出たので、考えると、現在、流行しているような若者の歌には、揺らぎが欠落している。そう、若者だけでなく、いわゆる、演歌歌手の歌にも、揺らぎが欠けている。いわば、頭だけで歌っているのである。頭とは、この場合、近代的自我の頭と考えられるのである。差異・メディア界の揺らぎがないのである。これは、音楽で言えば、直接的に、響きの質の問題である。響きの質に揺らぎがないということである。共振シナジー相が排除されているということである。
 どうも、何か洗脳されている向きがあるのである。本当の歌を、生産せずに、同一性の似非歌を生産しているのである。これは、当然、同一性の自我を発生させることになる。
 ここには、観念の問題がある。言語観念である。思うに、観念は、二つはある。メディア界的観念と言語観念である。(イデアとは、本来、前者である。これは、ヴィジョンに近い観念と言えよう。また、私が先に、ウィーンフィルとベルリンフィルの相違について述べたが、ここの問題と一致する。)言い換えると、差異観念と同一性観念の違いである。結局、歌の観念が、現代、後者、同一性観念になっているということである。歌の声が、同一性観念になっているということである。これは、結局、貨幣と同じである。
 
ナルシス
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Narcissus.jpg

 同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。ここで、留意すべきは、陰が否定されたのではなくて、差異が否定されたことである。対極性が否定されたことである。天と地との二元論は、天を優位にしても、地を優位にしても、同形である。ここにあるのは、差異、差異共振、差異極性の否定である。
 しかし、これまで、述べたように、マイナス・エネルギーが作用すると、再び、差異が発動するようになるのである。これは、超越論的領域に起こるのである。つまり、超越論的同一性形式の場に、差異が発生するのである。つまり、それまで、同一性の構造であった場(超越場、内在超越場)に差異の構造が発現するのである。これは、たいへんの事態である。つまり、それまで、アリストテレス的形式論理学の「帝国」に、対極性・即非の論理学・ターシャム・オルガヌムが出現するからである。これは、大事件である。正に、革命的事件である。この差異再発の事件こそ、ポスト近代の事象であると考えられるだろう。当然、自我は、混乱するのである。自我に差異という怪物が急襲したのである。これが、本当のポスト・モダンの意味である。いわゆる、ポストモダンは、真正のポスト・モダンの応急処置のようなものではなかったか。真正ポスト・モダン(ディープ・ポストモダン)とは、ニーチェ哲学のような事態であり、フッサール現象学の探求に存する。
 とまれ、超越論的構造における差異の再出現という大事件によって、近代的自我は混乱、カオスの状態に陥るのである。私見では、これが、「自己愛性人格障害」の本体ではないかと思えるのである。近代的自我、同一性中心自我にとって、在り得ない、不可能な事態が発現したのである。差異の力動、エネルギーが再発動・駆動したのである。この差異の発動が、近代的自我・同一自我に否定されて、反動狂気となっているのである。つまり、差異を否定しようとする憎悪・暴力・攻撃がここにあるのであるし、また、この、正に、反動暴力が、狂気凶暴な傲慢さを発生させていると考えられるのである。即ち、高位・優位の同一性自我は、差異を否定することで、成立・確立するのだが、しかし、ポストモダン事象によって、差異が再発動して、この前提が危うくされているのである。つまり、同一性を否定する差異の事象が再発現したのである。当然、同一性は、この差異を激しく否定する。蛇蝎のごとく、忌み嫌うように憎悪するのである。つまり、ポストモダン事象において、近代的自我は、分裂症、二重人格になるのである。高位・優位の同一性自我と同列の、対等の差異自我が発生するのであるが、前者が後者を否定・排除・隠蔽しようとするのである。そう、抑圧するのである。しかし、自己に存在し、また、進展するものを抑圧するので、当然、病理的になるのである。この差異への抑圧が反動病理になるのであり、これが、「自己愛性人格障害」として発症しているのだと考えられるのである。そして、唯物論的資本主義は、差異知性・差異教養・差異理性を排除しているので(ヴァンダリズム、石原都知事の都立大破壊)、この近代的自我狂気病は、治癒方法を喪失して、蔓延するのである。
 結局、近代的自我が否定した差異を肯定することが治癒につながるのである。そう、先に流行したポストモダンではだめである。DD/PS(DDPS)理論こそ、これを完遂できる理論と考えられるのである。つまり、流行したポストモダンは、DD/PS理論から見ると、メディア界に達したが、イデア界を捉えていないのであり、そのため、同一性構造から真に脱却できなかったのである。いったん、イデア界に達することから、純粋なメディア界に達することができるからである。不連続的差異の共立するイデア界に回帰して、純粋メディア界が生起するのである。これが、純粋ポストモダン、純粋ポスト構造主義である。

p.s. 同一性自我について、新たに考えると、これは、本来、差異自我が、同一性自我へと、いわば、転移ないし投影しているのである。同一性自我の投影像である。神話のナルシスであるが、水面に映る自我像とは、正に、同一性自我像であり、差異自我自身が自身をこれに投影しているのである。つまり、これは、まったく幻想・幻像なのである。差異自我自身が、同一性自我の仮面(パーソナリティ)をつけている、かぶっているからである。差異でありながら、同一性であると過信、盲信、妄信しているのである。つまり、同一性自我は、もともと、幻影・虚偽・虚構・欺瞞・虚栄的なのである。
 プラス・エネルギーの時は、これが、能動的であるからいいが、ポストモダン事象においては、仮面の具合が悪くなるのである。仮面の下の、真相が剥き出しになろうとするのである。仮面破壊が生起するのである。これに対して、同一性自我は、反動的に抑圧するために、病理・狂気的になるのである。「自己愛性人格障害」を哲学するとこうなるだろう。

p.p.s. 極性構造のエネルギーは、言い換えると、欲動・情動・衝動と言えるのではないだろうか。思うに、欲動・欲望とした呼んだ方がいいのかもしれないが。とまれ、作業仮説的に、欲望と呼んでおこう。プラス・エネルギーの場合は、同一性自我欲望である。食欲や性欲や所有欲においても、同一性自我の欲望が入るだろう。例えば、ブランド製品を欲望すると言った場合であるし、高級レストランで食事をするとか、外観の優れた者を性欲の対象にするとかである。そう、資本主義は、この同一性自我欲望と結んでいると言えよう。そのため、同一性欲望を刺激する宣伝に満ちることになるのである。
 とまれ、この同一性自我欲望がプラス・エネルギーであり、暴力である。即ち、

プラス・エネルギー=同一性自我欲望=暴力

となる。これは、また、差異への否定暴力でもある。
 しかし、問題は、マイナス・エネルギーが賦活されたポストモダン事象となる場合である。差異のエネルギーが生成して、同一性自我暴力を解体する方向にはたらくのである。この差異という他者に対して、同一性自我は、反動狂気化するのである。そう、マイナス・エネルギーとは、思うに、差異の欲望であろう。差異であることの欲望である。(ここで、ユング心理学の個性化の概念を想起する。)ここでは、差異への欲動と呼んでもいいように思える。とまれ、ポストモダン事象において、同一性自我欲望と差異自我欲望が衝突することになるのである。しかし、この事象は、超越論的構造、超越論的極性構造で生起しているので、単なる自我意識によっては、どうすることもできないのである。つまり、同一性自我は、ポストモダン事象において、いわば、ほぼ未知の経験をすることになるのである。つまり、同一性自我なので、差異に対する認識が欠落しているということである。このため、差異の欲望に対して、同一性自我は反動的な抑圧的態度をとるのである。というか、衝動的にそうなるのである。差異の欲望エネルギーが発動する。それを肯定的に受容できないので、それを抑圧するが、その抑圧が差異欲望エネルギーを反動化させて、狂気傲慢暴力攻撃衝動とするのである。つまり、同一性自我は、その差異欲望エネルギーを抑圧する態度のために、反動狂気衝動を引き起こすと考えられるのである。この差異欲望エネルギーの抑圧が、同一性自我の狂気的傲慢さを生むと考えられるのである。

3p.s. 以上のように考えると、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病の原因は、子供の時期の親から見捨てられる経験というトラウマ云々よりは、差異認識の欠落・欠如・欠損によるのではないのかと思えてきたのである。付け加えると、豊かな自然体験のそれである。この場合、自然とは、勿論、農村・漁村・山村等々における自然を含めて、いいのであるし、野趣の残る自然でもいいのである。
 すると、結局、なんらかの差異経験・体験の欠落が考えられるのである。「揺らぎがない」状態とは、正に、このことから発したと考えられるのである。子供たちに、同一性教育をして、差異教育していないのである。狂育である、正に。やはり、戦後唯物科学中心教育の帰結であろう。
 そう、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病とは、トラウマというよりは、唯物科学教育の産物と見た方がいい。唯物科学とは、正に、同一性自我形式をもつのである。だから、
同一性自我/唯物科学教育が真因である。私は、近代的自我は、現代において、狂気になっていると執拗に論じたが、それは、正鵠を射ていたと言わなくてはならない。

4p.s. 言及するのを忘れていたが、オウム真理教事件であるが、正に、理系出身の青年たちが、多く関与していたことを想起するのである。同一性自我/唯物科学教育(狂育)を彼らは受けてきて、差異教育を受け来なかったため、差異が狂気反動化してしまったと考えられるのである。唯物科学は、悪魔の科学である。これを、明確に、認識しないといけない。真にイデア論に基づく科学が、天使の科学であろう。

DD/PS理論が、ポスト唯物悪魔科学としてのイデア論的天使科学を創造できるだろう。


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カレンダ
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