ポスト近代的自我/ポスト唯物論
PROTOMODERN PHILOSOPHY:
|
|
|
|
カテゴリ
INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧 (866)
相対性理論/量子力学/生命科学/遺伝子問題 (28)
不連続的差異論 (1) 哲学/日本哲学の創造 (17) ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明/新東洋文明 (39) ポスト近代的自我/ポスト唯物論 (27) プラトニック・シナジー理論 (125) 新東洋文明:新霊性new spirituality:日本伝統文化 (20) 詩・和歌・俳句・漢詩・連詩・創作 (5) 神話・宗教:古事記・聖書・ケルト神話 (34) 音楽(クラシック・ポピュラー) (9) メディア・ポイント Media Point/高次元・超次元・五次元 (100) 検討問題・課題 (42) 日本覚醒計画:日本の政治・経済 (36) 教育/女男差異/ジェンダー/新母性論 (9) フッサール/ハイデガー現象学 (21) トランス・モダン/トランス・モダン叡知学 (31) (+i)*(-i)⇒+1(自己認識方程式):同一性と差異と差異共振性 (116) 文学・哲学・美術・アート・映画・舞台・アニメ・漫画 (87) 英語・外国語学習 (3) トランス・モダン社会/差異共振シナジー経済/差異共振共同体 (81) |
2008年02月16日(Sat)▲ページの先頭へ
超越神はどこに行ったのか:近代的自我の末路としての精神病
先に、 同一性による差異の排除力学という長年(近代的自我の狂気という問題意識から数えると、10年は考え続けてきた)に渡る問題がようやく解決できたのであるが、http://ameblo.jp/renshi/
entry-10072754057.html その副産物として、超越神の穴(喪失)が問題として浮上してきた。つまり、こういうことである。超越神と父権的自我(近代的自我はここに含まれる)が同時生起するのであり、これは、プロテスタンティズムにおいても生起したと考えられるが、近代合理主義の進展とともに、超越神が衰退してくる(世俗化)が、そのとき、超越神の穴はどうなるのか、である。 もっとも、アメリカ人の90パーセントは信仰者であるということで、それなりに超越神は生きているのだろうが、しかしながら、衰退は否めないだろう。つまり、超越神のもつエネルギーが初期プロテスタンティズムのようにはもはやなく、衰退していると考えられるということである。 では、その超越神の穴はどうなるのか、という問題である。言い換えると、近代合理主義をもつ近代的自我はどうなるのか、ということでもある。 思うに、ハイデガーが直面したのも、この穴であろう。そして、それを「存在」で覆おうとしたのではないのか。近代的ニヒリズムである。そう、言うの忘れていたが、ニーチェの言及した神の死とは、以上の事態を指したものである。 超越神の空虚の意味である。いったいこれは何を意味するのか。超越神の死とは何を意味するのか。ユダヤ・キリスト教の神の死とは何を意味するのか。 先の考察に由れば、Media Pointが二分化されて、Split Mediaとなり、超越神と父権的自我(近代的自我)が生まれる。しかし、これは、同一性志向性というエネルギー(物質エネルギー)を放出するのである。すると、当然、エネルギーの消滅が起こるのである。残るのは、超越神の穴と父権的自我(近代的自我)である。 この空虚を満たすことが、西洋近代文化の一つの側面であった。思うに、アメリカ人が信仰をもつというのは、この点から見て、逆説的であろう。つまり、空虚だから、信仰で満たそうとするのだろう。 私の直感では、空虚は実に恐ろしいものである。おそらく、それを隠蔽するために、近代合理主義を強化すると考えられるのである。つまり、過度の近代合理主義が起こるのである。空虚に蓋にするようにして、近代合理主義の意志をもつのである。 しかしながら、問題は、空虚のもつ力学である。(これは、ほぼポスト・モダン問題である。この点については既述済みなので、ここでは述べない。)超越神のエネルギーがあるときは、父権的自我は、それに対応するような姿勢をとるだろう。しかしながら、超越神が空虚になったとき、思うに、それは、闇になるのである。その闇が父権的自我にはたらきかけると思われるのである。端的に言えば、その闇が、父権的自我の影の支配者になっていると思われるのである。言い換えると、超越神の影が父権的自我を支配すると思われるのである。だから、父権的自我は、いわば、無意識の支配を受けているのである。 では、超越神の穴・超越神の影の力学とはどのようなものだろうか。ここでも直感で言おう。その闇は父権的自我を襲うのである。狂気となって父権的自我を襲うのである。これはどういうことなのか。 これは、単純である。超越神の穴・影・闇とは、虚軸に存するのであり、それは、実軸にある父権的自我は認識不可能なのである。超越次元における穴・空虚・影・闇なので、父権的自我にとっては、まったく得体の知れないものなのである。だから、それはただ非合理衝動となって父権的自我を襲うのだと思う。狂気衝動である。 そして、また、枯渇したエネルギーを満たすには、Media Pointを開く必要があるのであるが、父権的自我は、Media Pointを抑圧しているので、新鮮なエネルギーが得られずに、さらに枯渇するのである。いわば、うつ病的状態になると考えられるのである。 結局、狂気とうつ病が襲うのである。狂気は父権的自我を衝動化するのである。非合理衝動で突き動かし、Media Pointを抑圧するように攻撃・暴力的になるのである。それは、パラノイア的であり、また、分裂的である。 父権的自我である近代的自我の運命とはこのようなものである。つまり、父権的文明の破滅の事態が生じるということになるのである。
2008年01月09日(Wed)▲ページの先頭へ
西洋近代の終焉:同一性中心主義から差異共振性への超越的上昇:トランス・モダン・エヴォリューション
我ながら、以下の駄文は長過ぎるというか冗長である。ポイントを簡単に述べたい。
西洋近代とは、太母文化(差異文化)と父権文化(同一性・連続性文化)の折衷であるが、父権文化が主導的なのである。しかし、今日、差異が賦活されているので、前者へと回帰する志向にあるのである。しかるに、父権文化の連続性のために、前者へと純粋に回帰できない反動の事態が起きている。ポスト・モダン思想がそうであった。 しかし、プラトニック・シナジー理論は、差異への純粋な回帰を説いている思想であり、反動を乗り越えることができ、それは、トランス・モダンの世界的潮流を解明しているのである。 現代日本は、近代主義(同一性主義・近代合理主義)に洗脳されている(近代的自我の形成)ので、この動きに気づかず、反動的な自滅に向かっている。同一性主義から差異へと意識・知性を転換する必要がある。 ****************** 直前の論考のタイトルを変更した。 ****************** 先の論http://ameblo.jp/renshi/ entry-10064779052.html の追記が長くなったので、ここで独立させることにする。 以下の拙文では、同一性視覚ということが近代的自我形成の契機となっている。同一性視覚も同一性志向性も同じである。最初に、同一性視覚/志向性が生まれたのである。これが、いわば、人類の「原罪」である。しかし、これは、根因は自然にあるのである。だから、自然の「原罪」である。自然は、人類が同一性を先行させるように生んだのである。 しかしながら、太母文化社会については、考えないといけない。それは、同一性が先行していない。それは、同一性と差異とが未分化であると考えられる。だから、自然の「原罪」云々は誤りである。ここで訂正したい。 結局、父権文化が西欧近代において主導的になり、同一性が先行することになり、近代的自我/近代合理主義が生起したのである。 そうすると、本文で述べたMedia Pointからの同一性志向の先行性という考えは、父権文化に当てはまる考えであり、太母文化には、当てはまらないということになる。 しかしである。Media Pointを太極と見れば、陰陽原理が作用するので、同一性化=陽化の先行性はそれなりに肯定できるのかもしれない。しかし、易において、陽から始まるのだろうか。調べてみよう。 よくわからないが、やはり、陽の方が陰より先行しているようである。しかしながら、陰陽という言い方は、陰が先だから、なにか易には強いている面があるように思える。 とまれ、前父権文化において、Media Point=太極太母文化があったと考えられる。これは、陰陽バランスの文化であり、陽へと傾斜すれば、陰へのバランスを取る智慧をもっている。陽=同一性、陰=差異とすれば、同一性と差異とのバランスをとっていたの文化である。偉大な文化である。 しかるに、人類文化史において、父権文化が主導的になる。そうすると、Media Point=太極太母文化が崩壊して、陽=同一性へと傾斜した文化になり、陰=差異は否定されることになるのである。ユダヤ・キリスト教西洋文明はこの徹底化である。 ということは、太母文化における同一性と父権文化における同一性とは意味が異なるのである。太母文化においては、同一性は徹底化されることはなく、差異がそれを補完するのである。同一性の志向性に対して、差異の志向性が発生するという対極性があったのである。 それに対して、父権文化では、同一性が徹底化して、差異が否定・排除・隠蔽されるのである。同一性中心主義である。結局、同一性への志向性は、二種類あるということになる。太母型同一性化と父権型同一性化である。太極型(三元論型)と二元論型である。言い換えると、差異共振型と同一性中心主義型である。 思うに、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、両方を含んでいると言えよう。即ち、左辺は太母型(太極型)であり、右辺は父権型(二項対立型)であるということになる。これで明快になる。 私がこれまで、異常に執念深く、執拗に批判的解明を追求してきた近代的自我とは、右辺中心主義であり、左辺を否定・排除・隠蔽しているのである。 しかしながら、西欧近代ではなく、西洋近代文化の問題は、単に、右辺中心主義だけではなく、左辺を賦活させていることである。これは、既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの併存を意味するのである。(これは、イエス・キリスト自体に源流があると言えよう。そう、占星術では、イエス・キリストは双魚宮・魚座を意味するのであり、おそろしく的確である。)差異と同一性を併存させているが、しかし、同一性が支配的・主導的なのである。(民主主義の問題もこの視点から見る必要がある。) 整理すると、西洋近代文化とは、同一性主差異従の関係にあると言えよう。単純な父権文化ではないのである。 また、さらに考えなくてはいけないのは、太母型と父権型に分類したが、先に述べたように、父権型とは太母型の反転と見られるのであるから、根本は太母文化であり、父権文化はその派生であるということである。 だから、西洋近代文化は、実に複雑な様態であることがわかるのである。(イエス・キリスト型、双魚宮型と見ればいいのであるが。双魚宮の尾の紐を、差異と同一性との連続性と見ることができよう。)そして、ポスト・モダンとは、その様態における差異ないしは太母文化への志向性であったが、差異が同一性と連続化しているので、純粋に、差異、即ち、Media Point=太極へと回帰できなかったのである。ポスト・モダン思想の限界を確認することが必須である。 結局、整理すると、西洋近代において、 Media Pointの発動があったが、それが父権文化によって、いわば、歪んだものになっているのである。父権的同一性主義志向(連続性への志向)が太母的差異主義志向を抑圧しているのである。ここでは、二つの志向性が矛盾しているのであるが、結局、自然・コスモスの生成流動を考えると、明らかに、同一性から差異へと進行していると見ることができるのである。つまり、Media Pointの回転において、同一性=陽の主導性が終焉して、差異=陰の主導性へと転換していると考えられるのである。これは、当然ながら、Media Point=太極=太母文化の復活を意味しているのである。 思うに、数千年ないしは何千年に渡る人類父権文化の支配が今や終焉を迎えている自然・コスモス状況になったと思われるのである。同一性中心主義の支配が終焉しつつあるのである。それは、太極で言えば、陽(=同一性中心主義)中心主義が終り、陰が新たに発動しているのである。つまり、本来のMedia Point、太極原理が発現していると考えられるのである。 陽極(同一性)の支配が終り、陰極(差異)が賦活され出したのである。しかしながら、同一性とは本来的に、連続性であり、差異を差異として認識不可能なのである。この同一性と差異との異質性に注目しなくてはならない。同一性=連続性の反動がここで起るのである(参照:アイロニカルな没入)。差異が飛翔しようとしても、同一性=連続性の拘束によって、同一性へと逆戻りしてしまうのである。つまり、モダンの乗り越えのつもりがモダンへと回帰するのである(これは、例えば、かつては、日本のポスト・モダンの旗手であった柄谷行人氏の今日のモダン回帰を見ればいいだろう。また、ブッシュ/ネオコンもそうである。そして、サブプライムローン問題もそうである。小泉似非改革もそうである。) いわば、人類文化史の鬼門に達していると言えよう。思うに、現在は、人類史上、最大の転換点・分岐点に達しているのではないだろうか。 賦活された差異へと純粋に飛躍することができないである。超大反動である。だから、様々な狂気・傲慢・暴力・犯罪が起るのである。結局、父権文化=同一性中心主義の縛りを突破することが最大の課題である。これがあるために、賦活された差異が否定・抑圧・隠蔽されて諸々の狂気を生みだしているのである。 しかし、不連続的差異論、さらにその深化・進展であるプラトニック・シナジー理論が生まれて、理論的には、この同一性中心主義の縛りが突破されたのである。これは、端的に、ユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉を意味すると考えられるのである。つまり、新たな差異の文化、Media Point=太極・太母の文化が発動し出したと言えるのである。それは、トランス・モダンの動きである。それは、今日の世界の動き・潮流に見いだすことができるのである。 そう、ここで経済について言うと、同一性中心主義であった資本主義もこれで終焉することになるだろう。もはや、同一性(=同一性貨幣)ではなくて、差異を人類が追求するようになるからである。(因みに言うと、ゴールドが人気があるというのは、同一性価値ではなく、差異として価値があるからと考えられよう。) そして、差異とは、端的に、差異共振性なのである。だから、経済も、差異共振経済となるだろう。それは、トランス資本主義である。差異共振価値が中心化されて同一性価値は手段となるのである。主従逆転するのである。 最後に、日本についてであるが、近代主義に洗脳されて、同一性を機械的に追求して、差異が衰滅してしまった社会になっている。これは、今日、おそろしく危険・危機的な状態にあると言えよう。 日本人が差異へと目覚めないと、世界の差異への動きの中で、消滅してしまうかもしれない。カルタゴの運命である。その可能性が出てきた。 では、日本人が差異・差異共振性へと覚醒するためには、どうしたらいいのだろうか。それは、独りとなり、独りの心に蠢く声に耳を傾けることではないだろうか。独りの身体に蠢く声やエネルギーに耳を傾けることだと思う。そう、身体内部の心にある振動・波動・エネルギー、それが、差異である。 **************** 近代同一性主義の狂気について 近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。) しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。 近代主義からのエクソダスが必要である。 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。 近代的自我の発生:再々・・・考:同一性化が差異化に先行するという根本的志向性がある
以下のように走り書きしたが、結局、近代的自我の形成の問題にまた戻ることになる。既に、少なくとも百回は論じているのではないかと思えるが、ここで確認したい。
結局、Media Pointの新たな発動(ルネサンス)によって、どうして、同一性が差異を否定することになったのか、ということが核心である。これまでの議論から言えば、南欧イタリア・ルネサンスで発動したプロト・モダンが、西欧において、プロテスタンティズムによって、モダン化されたということになる。言い換えると、南欧モダンが西欧モダンへと転換したのである。 この切り替えが、同一性による差異の否定を意味するのである。つまり、太母的な南欧文化から父権的な西欧文化へとモダンが展開したということである。これはこれでいいが、問題は、単に西欧だけでなく、世界にそれが伝搬したということから、ある必然性・一般性をもっていた観念の動きであることがわかるので、その意味を解明する必要があるのである。 結局、これまで述べたことの確認となるが、第一に、Media Pointから同一性の志向が発動する。これは、太極原理から言えば、陽化である。この原理から同一性が先行して、差異が否定されたと考えられる。しかしながら、第二に、差異の志向性が生まれる。これが、ポスト・モダンであるが、同一性と連続化しているので、差異は純粋化されない。そして、第三に、差異が同一性から切り離される。これが、トランス・モダンである。 結局、近代的自我の形成とは、Media Point=太極の根源的志向性によって生じたということになる。つまり、同一性への志向性が先行し、その後、差異へ志向するという方向性が根本にあることが原因であるということになる。ただし、西欧近代が特殊なのは、(それまでは、あるいは他の地域では、同一性への志向性が先行していても、本源的な差異、すなわち、Media Pointのエネルゲイアが残されていたということ、つまり、差異共振性が共同体のルールとしてなんらか存在していたと考えられるのであるが、)同一性への強い傾斜があるということである。これはユダヤ・キリスト教によってもたらされたと考えられるのである。(イタリアの場合は、ユダヤ・キリスト教と言っても、地中海の太母文化が強いので、ユダヤ・キリスト教が弱められているのである。しかしながら、イギリスにおいては、異教的なケルト文化があったのに、どうして同一性化されたのか、ということが解明されなくてはならない。思うに、イタリアに比べて、共同体の破壊が激しかったことが原因だと思うのである。後でさらに検討したい。) ということで本件を終えたい。 p.s. イギリスにおける共同体破壊は、直接的には、歴史上の囲い込み運動によってもたらされたと考えられる。結局、そこには、貨幣経済の浸透があるのである。しかしながら、共同体の破壊は、それ以前に文化破壊があったように思えるのである。つまり、ケルト文化の衰退があったと思われるのである。つまり、精神的文化の衰退があり、貨幣経済が浸透して、共同体の破壊が生じたのではないかと思われるのである。プロテスタンティズムが発生するというのは、従来の精神的文化の崩壊に対する、新たな精神的文化の発生を意味すると思われる。 そして、イギリスにおけるケルト文化性であるが、それは、近代化によって、逆に活性化されていったのではないだろうか。つまり、衰退し埋もれていたケルト文化が、危機的に、新たに覚醒化したのではないだろうか。言い換えると、衰退していたMedia Pointが活性化したということになる。 ここで、近代日本について考えると、似たような面があるだろう。日本の神道文化・仏教文化は衰退していたが、明治維新によって、(排仏毀釈はあったが、)それなりに活性化したのではないだろうか。ただ、問題は戦後文化である。アメリカの近代合理主義が中心化して、伝統的精神文化が衰退してしまった点である。ここでは、活性化ではなくて、衰退があるのである。逆に言えば、それほど、洗脳効果があったということになるだろう。それに対して、三島由紀夫の爆発的反抗もあったが。 もっとも、今日、日本の危機は深まり、破局的になっている。日本精神文化ルネサンスが必要になっているのである。それは、同時に、社会・政治・経済的な復興につながることになるのである。 ******************* 近代同一性主義の狂気について 近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。) しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。 近代主義からのエクソダスが必要である。 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。
2007年12月28日(Fri)▲ページの先頭へ
元教頭の少女売春と少女たちの拝金・物質主義:畜生・鬼畜未満の日本人と心的高次元政治
「あの店には援助交際を求める少女がたくさん集まっていた……」という元教頭の細田被告の言葉に注意すべきだろう。
要は、金欲しさで少女売春を行なうのである。しかも、実直にアルバイトをして金を得たくはないのである。細田被告は性的倒錯者であるが、それとは別に、この少女たちの意識・考え方に問題があると言わざるを得ないだろう。敗戦後の日本の拝金主義・物質主義の帰結とは言える。つまり、現代日本が、心を喪失した家庭・社会・教育になっているということである。連合国占領軍に支配され、日本人の心の源泉である神道・仏教・アニミズム等を奪われて、アメリカに洗脳されて(実は、アメリカの策謀によって日本人をコントロールしているのだろう。確かに、陰謀があると思う。)、ひたすら近代合理主義/近代的自我の道を邁進した日本の末路である。 これは、日本人全体の問題である。外国では、馬鹿にされているのである。このような動物のようになってしまった日本人を復活させる、つまれ、生まれ変わらせるにはどうしたらいいのか。(正しく言えば、動物未満であるが。) 一言いうなら、唯物論を廃止して、心主物従論をもつべきである。 p.s. 私の考えでは、民主主義も、もう役割を終えて、トランス・デモクラシーの政治へと転換すべきである。同一性形式は認めるが、それを包摂した高次の心的政治制が必要になっていると思うのである。心・知の優れたものが政治を行なうべきなのである。プラトンが『国家』を書いたのも、そこらへんにポイントがあると考えられる。心的高次元政治である。あるいは、父権統合型新太母文化政治である。 p.p.s. 同一性形式と民主主義の関係はどうなのか考察する必要があるだろう。一人一人は、同一性形式をもつが、土台・基盤・根源は差異である。差異は心である。結局、同一性中心主義と民主主義が結びついていたのである。しかし、差異を基盤にすると、もう民主主義は否定されるだろう。何度も述べているように、差異共振主義になるのである。高次元差異共振主義である。心的高次元差異共振制である。 ********************** 仕事後に連日通った「出会い喫茶」 少女買春の元教頭 2007年12月28日12時33分 「あの店には援助交際を求める少女がたくさん集まっていた……」 札幌市立小学校元教頭の細田孝幸被告(55)は、取り調べに対し、こう話したという。 あの店――「出会い喫茶」。数年前に現れ、東京や大阪、名古屋といった大都市で静かに広がっている新しい形態の店だ。細田被告の行動も、1年半前、札幌の歓楽街・ススキノに出会い喫茶がオープンしてから拍車がかかったという。 小学校の仕事を終えたその足で連日通い詰めたというその店を、記者も訪ねてみた。中は、普通の喫茶店とはほど遠い。来店した女性は「18歳以上」と「18歳未満」に分かれた部屋に入り、お菓子やジュース、マンガをただで楽しめるようになっている。一方、男性は入会金5000円、1時間あたり1000円を払う。マジックミラー越しに女性を指名し、交渉次第で一緒に外に出ることができるという仕組みだ。 髪も染めていない。服装が乱れているわけでもない。待機部屋でスナック菓子をほお張る少女たちは、どこにでもいる「普通の子」だった。 女子高生(17)は「暇つぶしになるし、外で一緒に食事とかしてあげればお小遣いももらえる。でも『ウリ』はしませんよ」と話した。高校を中退したという少女(15)は「私は援助交際している」「だいたい1回2万円。相手は40歳くらいの人が多いかな」。親がくれる小遣いは月に3000円。「働くのは面倒くさいけど、ここには来たい時だけ来ればいいから楽」なのだという。 テレクラ、伝言ダイヤル、ツーショットダイヤル……。この手の商法はこれまでも数多くあったが、出会い喫茶は実際に容姿を見ることができる点がアピールしているという。一皮むけば売買春の温床。それでも「自由意思による出会い」をうたっている以上、現在の法令で店を摘発するのは難しいという。 危うい空間から犯罪も生まれている。 少女買春は言うに及ばない。今年4月には、出会い喫茶で知り合った女性をホテルに連れ込み金を奪った容疑で、新潟県上越市の男が逮捕された。職業は細田被告と同じく小学校の教諭だった。 http://www.asahi.com/national/ update/1228/TKY200712280150.html ****************** アダルト雑誌に多くのエロ画像を投稿した業界の有名人。 札幌市立星置東小学校教頭の職にありながら、「アスピリンスノー」なるペンネームで女性の裸体写真を雑誌に多数投稿、さらには未成年と知りながら6人の少女に現金を渡し、わいせつな行為をした細田孝幸被告(55)。 細田被告は、今年10月1日に札幌中央署に逮捕され、直後の10日に、札幌市教育委員会から「信用失墜行為」よる懲戒免職処分を受けた。 児童買春・児童ポルノ禁止法違反(児童買春・児童ポルノ製造)の罪に問われた細田孝幸被告の判決公判が28日午前10時から、札幌地裁(中川綾子裁判官)で開かれた。 今月14日に札幌地裁で開かれた初公判(中川綾子裁判官)の冒頭陳述で、細田被告が今年5〜9月までに、札幌市内のホテル、カラオケ店、自家用車内、自宅で、16〜17歳の少女6人に6,000円前後の現金を渡して性交類似行為を行い、うち5人に対しては乳房を露出した性交類似行為の姿態を取らせた写真を撮影・保存したことなどが明らかになった。 さらに細田被告は初公判で、「雑誌社から高校生と18歳以下はいけないと言われた。自分でも処罰の対象になると思った。18歳以上は(投稿する)モデルの対象で、18歳以下の児童はイチャイチャする対象、性的な興味になると思います」と性的嗜好を吐露した。 検察官は、「金にモノを言わせ、自身のあり余る性欲を満たす目的で行った卑劣かつハレンチな犯行。被告の規範意識は欠落しており、再犯の恐れも極めて高い」と断罪、懲役3年を求刑した。 腰縄と手錠をされた細田被告は28日の判決公判に、坊主頭、黒のジャージで入廷。 中川裁判官は、懲役3年、執行猶予5年、札幌検察庁が保管する裸体画像を保存したSDカード2枚とCD1枚の没収を命じる判決を言い渡し、量刑の理由を述べてこう諭した。 「小学校教頭という高い倫理性を求められる立場にあったにもかかわらず、発覚しなかったことを良いことに欲望のおもむくまま犯行を繰り返し、酌量の余地はないハレンチ極まりない犯行で、社会的影響も大きい犯罪ではあるが、十数年間にわたって多数の女性のわいせつな写真を雑誌に投稿していたことも罪に問われないとはいえ、道義的に芳しくない。実刑も十分に考えられるが、自業自得とはいえ、事件発覚によって職を失い、妻と離婚することは避けられない状況となり、事件がマスコミに大きく取り上げられたことにより、社会的制裁も受けていると言える。総合的に考慮し、被告人の社会での更生を期待することにした。今回の刑の執行は猶予する。5年の執行猶予期間は一番長いものです。犯罪とは無縁の生活を送ってください」 公判が終了した直後、細田被告は「ありがとうございました」と小さく呟いた。 http://www.bnn-s.com/news/07/ 12/071228133530.html 児童買春、エロ画像を投稿、小学校元教頭初公判 懲役3年を求刑 http://www.bnn-s.com/news/ 07/12/071214141517.html
2007年11月21日(Wed)▲ページの先頭へ
格差問題:唯物論という悪魔主義と戦後アメリカ奴隷からの解放宣言!
格差問題:唯物論という悪魔主義と戦後アメリカ奴隷からの解放宣言!
テーマ:生活・物質・消費・貧富・格差 格差問題は、どうも、目隠しされている。 たとえば、ホームレスであるが、かつて新宿駅に段ボールのホームレスのホームがあったが、今はない。これは、排除したからである。ホームレスは見えないところに追いやられているのである。そして、自殺者であるが、これは、明らかに、戦争である。貧富戦争である。 グルメ、美食番組のテレビ、くだらない記事の新聞、等々、何ぞや。結局、同一性主義に拠るのである。利己主義、自己中心主義に満ちた日本、悪魔に憑かれた日本人、鬼になった日本人。これらは一体何を意味しているのか。 私は現象は幻象という。視覚は危険であると私は思っている。というか感覚自体が危険である。なぜなら、感覚は同一性知覚に支配されるからである。自我と結びついているからである。 悪魔のアメリカ主義に洗脳されていることにも拠る。日本の中枢が洗脳されているのである。日本の精神の破壊が行われているのである。 問題は、格差問題は何を意味しているのか。そう、ある首相が格差があって何がいけないのですか、と言っていた。このような首相を支持したのが、国民であるのだから、自業自得ではある。 そう、国民が馬鹿であったのが、一番の原因である。近代的自我を形成したのが、誤りである。義務教育とは、成人を教育すべきである。 私は70年代半ばに日本が変節したと思っている。生きるために魂を悪魔に売ったのである。だから、30年は日本は悪魔化して、何も生まなかったのである。亡国である。結局、唯物論である。唯物論が日本を滅ぼしたのである。これは、アメリカによる精神破壊ウィルスである。戦後の近代合理主義に拠るのである。 戦後を超克せよ。アメリカ奴隷から脱せよ!
2007年11月03日(Sat)▲ページの先頭へ
民主主義とは何ぞ哉:差異共振主義と同一性平等主義
民主主義とは何ぞ哉。結局、民主主義の発端は、プロテスタントの求める利己主義追求のための理念にある。近代的自我主義のための理念である。これが、現代では、巨大資本中心主義のイデオロギーになっている。 税金は、差異主義でいかないといけない。累進課税とは差異主義である。民主主義の視点から見ると、消費税増加は、正しいと判断されるのである。 民主主義については、一度徹底的に考察する必要があると思っている。ニーチェやD.H.ロレンスは民主主義を批判していた。ファシズムは民主主義から生まれた。 今、簡単に言えば、民主主義とは、近代的自我=近代合理主義と一環のものであり、近代的同一性主義であろう。同一性という近代的自我が、他者へと同一性自我を投影するのであり、ここに、同一性的平等という理念が発生すると考えられる。すなわち、個体・個人は、同一性的に平等であるべきだという理念である。これは、暴力である。即ち、民主主義とは、同一性中心主義暴力である。トランス・民主主義である。 p.s. それでは、民主主義政治形態の他に何があるのか、ということになる。しかしながら、独裁政権、あるいは、君主制の下でも、国民はそれなりに幸福に暮らせるのである。中東の産油国の君主国家を見よ。あるいは、最近のロシアやベネズエラ。 いったい、よい政治とは何か。新国家論/新政治論が必要である。 p.p.s. 民主主義の換わりに、差異共振主義である。差異共振主義政体、差異共振制である。差異共振国家である。これがトランス・モダン・ポリティクスである。 ********以下、引用・転載******* 『消費税上げ必要』答申へ 政府税調 歳出減重要性も強調 2007年11月3日 朝刊 政府税制調査会(首相の諮問機関)は二日、企画会合を開き、社会保障財源として消費税率の現行5%からの引き上げが不可避とする意見が大勢を占めた。香西泰会長は会合後の記者会見で「(社会保障の財源に)不可欠の手段だ」と述べ、十一月末にまとめる答申に消費税率引き上げの必要性を盛り込む方針を示した。 香西会長は、答申に消費税率の引き上げ幅や時期を盛り込むかどうかについては「まだ考えていない」と明言を避けた。このほか、歳出削減など増税以外の対策の重要性も強調した。 経済成長を重視した安倍政権に対し、福田政権では消費税率引き上げの議論が活発化している。しかし、参院第一党の民主党が税率引き上げに反対し、税制の決定権を握る自民党税調内も積極派と慎重派に分かれる。政府税調が答申で税率引き上げを主張しても、実現は難しい情勢だ。 会合では司会役の吉川洋・東大大学院教授が「社会保障制度は負担と給付が見合っておらず、持続可能でない」と指摘。消費税率の引き上げと、社会保障の受益と負担の関係を明確化するため、消費税の社会保障目的税化を訴えた。目的税化については、同調する意見と「社会保障費の膨張を招く」と反対する意見に分かれた。 吉川教授は、消費税率が上がるほど低所得者の負担感が重くなる「逆進性」について、「一時点の所得でなく、生涯所得で考えれば逆進性はない」と主張したが、「(消費税率引き上げで)逆進性を高め、格差社会を助長する恐れがある」との意見も出された。 政府税調はこの日で税項目別の議論を終え、答申の取りまとめに向けた詰めの議論を加速させる。五日の次回会合は首相官邸で行われ、福田康夫首相も出席する予定。 http://www.tokyo-np.co.jp/article/ economics/news/CK2007110302061467.html
2007年10月26日(Fri)▲ページの先頭へ
後期近代/ポスト・モダン期について:同一性iと差異-iについて
ここで述べることは作業仮説である。
自己認識方程式i*(-i)⇒+1において、iを同一性、形相、-iを差異、質料と捉えるとする。 思うに、フッサールの志向性とは、iの志向性、すなわち、ノエシスであり、そして、iが差異-iに対して形成する観念がノエシスではないだろうか。 iも本来は差異であるが、他の差異-iに対するときは、形相(形式)としてはたらき、同一性化するのであり、自乗i^2化するのであり、それは、同一性として捉えていいと思われるのである。それに対して、-iは差異、質料、原身体と言えるだろう。 さて、初期近代においては、Media Pointから同一性衝動が発動する。すなわち、Media Point⇒(i⇒-i)ではないだろうか。 そして、盛期近代においては、(i⇒-i)⇒-1ではないだろうか。 そして、後期近代においては、(-i⇒i)⇒-1ではないだろうか。 後期近代において、志向性が反転・逆転すると考えられるのである。差異・質料・原身体から同一性・形相・原知へと作用するように思えるのである。思うに、反近代主義はこの潮流であるように思えるのである。(ここで、ニーチェを考えると、彼の天才性は、単に反近代主義ではなく、同時に、近代主義を並行させていたことにあるのではないだろうか。i⇒-iと-i⇒i の両極性をもっていたと考えられるのである。だから、両者の中間において、純粋なMedia Pointが感得されていたのではないだろうか。それが、永遠回帰の思想ではないだろうか。ハイデガー=ポスト・モダンの元祖をはるかに超えて、トランス・モダンの元祖の一人であろう。) これは、端的に、非合理主義である。それまでが、近代合理主義の流れであった。ここにおいては、理性は軽視・無視される。小泉前首相のパフォーマンスを見るといい。 問題は、この後期近代/ポスト・モダンにおいて、新自由主義=新植民地主義が発現することである。非合理主義の潮流なので、力・暴力・権力が主導的であるとは言えるだろう。全体主義的である。だから、後期近代/ポスト・モダン=新自由主義=新植民地主義=新全体主義と言えそうである。ここでは、闇に光が飲みこまれてしまうのである。 しかしながら、近代主義のもつ近代的自我の同一性(近代的同一性)は基盤としてあるのである。それは、i⇒-iではないだろうか。 この近代的自我同一性があるので、同一性交換価値が支配的になると思えるのである。とまれ、この問題はここで留めておきたい。 次に、これまで何度も指摘した差異と同一性の連続・混淆空間について考えたい。これは、とりわけ、後期近代/ポスト・モダンに発生する。ドゥルーズにしろ、デリダにしろ、彼らの「差異」はその空間に存すると考えられるのである。 私は、この空間を客観化したいのである。ガウス平面において、どう表現できるのかである。思うに、i⇒実軸Media Pointないしは-i⇒実軸Media Pointとなるのではないだろうか。即ち、±i⇒実軸Media Point ではないだろうか。i⇒実軸Media Pointとはデリダ的差異であり、-i⇒実軸Media Pointとはドゥルーズ的差異ではないだろうか。とまれ、ポスト・モダン哲学の問題は、±i⇒Media Pointに達しなかったことにあるだろう。虚軸ないしは超越性の欠落があるのである。 ここで用語を整理すると、実軸Media PointはReal Media Pointであり、虚軸Media PointはImaginary Media Pointである。 今はここで留めたい。当然、再考が必要である。
2007年10月25日(Thu)▲ページの先頭へ
『近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと ・・・』のp.p.s.の掲載
『近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと近代サイクルとトランス・モダン・エラ』http://ameblo.jp/renshi/entry-
10052416843.html のp.p.sを新たに掲載する。 ***************** p.p.s. 別稿で、詳論すべきであるが、ブッシュ/ネオコンの場合においては、近代合理性ではなく、近代的自我に非合理主義・宗教衝動が連続化して、駆動されているようなことを上述した。 しかしながら、近代的自我は、同一性中心主義(デリダの「ロゴス中心主義」)であるから、資本の同一性交換価値(貨幣=資本)と連続化する。これは、近代合理性と言えるだろう。だから、ブッシュ/ネオコンの事態はそれなりに複雑である。 近代的自我があり、それに近代合理性が連続化し、後期近代/ポスト・モダンにおいては、近代的自我・近代合理性に、さらに非合理主義/宗教衝動が連続化するということになろう。即ち、近代的自我・近代合理性・非合理主義(宗教衝動)となる。これが、キリスト教原理主義、キリスト教右派の精神的様態であると考えられる。そして、当然、グローバリズムの正体もこれである。 ベースはMedia Pointではあるのだが、同一性構造(=近代的自我)が支配的であるために、純粋なMedia Point自体へは回帰できないのである。このMedia Point回帰(=トランス・モダン化)は、プラトニック・シナジー理論のみが、理論的に解明していると考えられる。 近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと近代サイクルとトランス・モダン・エラ
以下の引用箇所は、一年以上前の愚考である。
****************** 【同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。】 Mon, September 11, 2006 05:07:32 『同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象』 http://ameblo.jp/renshi/ entry-10016888944.html ******************* その他の、近代的自我の二項対立の発生に関する拙稿を読んでみたが、いろいろ考察(試行錯誤)しているが、決定打がないようである。上の引用はその中でも比較的明快な論である。つまり、「何故、同一性(=自我)は、差異に対して優越を覚えるのか」という問いに対してである。 一見易しそうな問題であるが、明確な答えが出ていないのである。本件の問題を考察する上でも、この問題には、本来、的確に答え置かなくてはならない。とまれ、今、急に答え出そうとするよりは、本件の問題を補足ないしは補正していきたい。 ポイントとして押さえておくべき点は、Media Point(思うに、Media Pointという視点ができたおかげで、考察の支点ができたと言えよう)から同一性が発生するときに、近代的自我においては、差異(Media Point)を否定する様態になることである。 つまり、同一性が優位となり、差異が劣位となるということである。ここでは、同一性=優位、差異=劣位の二項対立が発現しているのである。 ここで、同一性による差異の否定という事態を考えると、それは、この優劣の二項対立の事態と重なると見ていいだろう。すなわち、優越という様態は、否定という様態と同じと見るのである。優劣=否定ということになる。この同一性>差異という事態が近代的自我を意味すると言えよう。(p.s. 差異であるが、ここでは、純粋なMedia Pointではなく、連続化したMedia Pointである。不連続的Media Pointではなく、連続的Media Pointになっているのである。この連続メディア空間が近代的思想において支配的であったのである。ポスト・モダン思想もここにおいてであった。いわゆる、「非合理主義」というものは、ここでの差異と考えられたと言えよう。ロマン主義、神秘主義、生の哲学、神話、宗教、等々。) この点で留めておいて、本件について考察を続けよう。同一性優位の近代的自我であり、ここに近代合理性を形成されていくのであるが、同一性=近代的自我は優位であるから、近代合理性は近代合理主義となると言えよう。 問題は、キリスト教との関係である。一見関係なさそうに見えるが、プロテスタンティズムを考えると、それは相関しているのである。 Media Pointからの同一性志向によって、同一性=近代的自我=近代合理主義は形成されるのであるが、先にも述べた通り、Media Pointは、超越的エネルゲイアをもつのである。ここが、重要な論点の一つである。 すなわち、超越的エネルゲイアに賦活されて、同一性志向性ないしは同一性衝動が発動すると考えることができるだろう。この超越的エネルゲイアが、同一性形成に関わっているのである。端的に、これは、同一性=光のエネルゲイアではないだろうか。言い換えると、現象を形成するエネルゲイアと等価ということではないだろうか。 少し比喩的な言い方になるが、同一性=光が差異=闇を支配するような事態ではないだろうか。ちょうど、夜明けである。夜の闇の中から、夜明けの光が差しこみ、歓喜が生まれるような事態ではないだろうか。自我の目覚めである。そう、それを神と呼んだであろう。一神教の神、光の神、火の神である。 問題は、同一性=近代的自我は、超越的エネルゲイアに駆動されているので、「神性」をもつのではないかということである。ここでは、近代的自我というよりは、一神教的自我、一神教的父権的自我によりあてはまる考え方ではないだろうか。 しかしながら、ルネサンスからプロテスタンティズムへの移行に際して、これと同質の事態があったと考えられるのである。つまり、近代的自我の発生は、一神教的自我・一神教的父権的自我の発生を反復したと考えられるのである。一神教的古代が復活したのである。もっとも、正確に言えば、聖書的古代が復活したと言えよう。結局、近代的自我の形成においては、超越的エネルゲイアによる「神性」が属性として存在したと考えられよう。 ここで、同一性=優位、差異=劣位、すなわち、同一性>差異という二項対立性をもつ近代的自我とこの「神性」の関係を考えたい。端的に言って、どうして、同一性は差異に対して優位になるのかという問題がある。 上記の引用の考え方では、プラス極がマイナス極に対して優位なるからとなっている。つまり、i⇒-iという事態であるからということである。これは、これで明快である。原形相ないしは原知が、原質料ないしは原身体へと同一性的に志向しているのであり、他者=差異である-iを同一性化するのである。だから、i・-(-i)⇒-1(近代的自我)ということになる。つまり、iが超越的エネルゲイア=「神性」によって、差異-iに対して、優位になるということになる。すなわち、超越的エネルゲイア=「神性」が優位の原因ということになる。エネルゲイアのある極が優位であるというのは、肯定できるだろう。これは経済である。 とりあえず、この考えを作業仮説として、先に進みたい。つまり、超越的エネルゲイア的同一性志向性は、働き掛けられる差異よりも、必然的に優位に位置するということである。 以上の考察から、本件の問題にもどると、近代的自我(つまり、近代西欧的自我)は、超越的エネルゲイア(=「神性」)的同一性自我であり、これが、プロテスタンティズム的近代的自我になったと考えられるのである。 さらなる問題は、Media Pointとこのプロテスタンティズム的近代的自我の関係である。言い換えると、Media Point⇒同一性における⇒の意味である。ここも重要な論点である。 これは、聖書の神の問題と通じると言えよう。私は先に、一神教の神は二重であると言った。それは、Media Point性と同一性衝動との二重性である。それは、聖書のいわゆる両義的な表現から考えられることである。 先に、近代的自我形成は一神教的自我・一神教的父権的自我形成と同質であると言ったが、ここから、この問題への解答は自然に出てくる。すなわち、Media Point⇒同一性の⇒において、Media Pointと同一性衝動の二重性があるということである。 演繹的に考えよう。Media Pointが基点(起点・原点)としてあり、そこから、同一性衝動が発動するのである。だから、本源としてのMedia Pointがあり、同時に、同一性衝動があるということになる。だから、二重性は証明された。 ここで、ついでながら言うと、私はプロテスタンティズムはルネサンスを、いわば否定的に内包していると考えているが、それは、Media Pointをプロテスタンティズムが始点にしていることからである。言い換えると、ルネサンスとは、Media Pointの決定的な発現であると考えられるのである。(ここで、補足的にいうと、ハイデガーの『存在と時間』は、Media Pointを喪失しているのであり、無神論的プロテスタンティズムとでも言えよう。そして、三島由紀夫であるが、彼は、Media Pointへと到達しようとしていたのである。しかしながら、近代的自我が強いために、反動的であったのである。しかし、三島由紀夫の方がハイデガーよりも、前進的である。) さて、次に、プロテスタンティズムの進展を考えると、それは、近代合理主義となり、起点のMedia Pointの超越性(宗教性)を喪失するのである。これが、いわば、盛期近代主義である。 しかしながら、時代は進展する。私の考えでは、初期近代が、i⇒-iであったが、後期近代になり、-i⇒iの事態が発生したように思えるのである。つまり、差異からの反転である。これが、ポスト・モダン事象を生んだと言えよう。 思うに、単純に-i⇒iを肯定すると、逆に-1となる。-i・-i⇒-1である。これは、例えば、神秘主義やオカルト主義である。あるいは、身体中心主義である。そう、アイロニカルな没入はこれで説明がつくだろう。 問題は、初期近代のi⇒-iと後期近代の-i⇒iとの相互関係の定式化にあるのである。ポスト・モダン哲学は、両者を混淆しているのである。両者を混淆空間(ドゥルーズ&ガタリのカオスモスやデリダの差延:Media Mixed Spaceという概念を考えてもいいだろう。これが、後期近代/ポスト・モダン空間である。)で捉えているのである。この問題は、プラトニック・シナジー理論の(+i)*(-i)⇒+1の公式において、解決されたと考えられるのである。 問題は、ブッシュ一派のネオコンないしは超巨大資本家の「闇の権力」をどう捉えるかである。彼らには、キリスト教ないしはユダヤ教が宗教的絆である。端的に、キリスト教原理主義をどうとらえるのかである。 やはり、これは、後期近代におけるアイロニカルな没入で説明できるのではないだろうか。つまり、後期近代において、差異が賦活されるのである。それも、 Media Pointによる超越的エネルゲイアの発動と考えられよう。差異的な発動である。ここで、超越性が再生するのであるが、このとき、先にあげたように、- i⇒iが-i・-(i)⇒-1となる事態が発生して、それが、宗教性の発生となるのではないだろうか。それは、近代的合理主義を否定するだろう。 問題は、ブッシュの唱える民主化である。これをどう見るのか。先には、近代合理性と結びつけたが、ネオコンなのだから、やはり、キリスト教的民主主義を考えた方がいい。「神が我々を平等に造った」である。後期近代/ポスト・モダン的宗教性において、ブッシュは民主化を絶対的価値にしているのだろう。勿論、宗教的衝動・非合理主義的衝動においてであるから、近代合理性はないのである。だから、イデオロギーなのである。 では、ブッシュにおいて、近代的自我はあるのだろうか。先の考えでは、近代的自我が基盤となっているのである。盛期近代においては、それに近代合理性が連続化された。しかし、後期近代において、宗教的衝動が賦活されるので、近代的自我という基盤に、非合理主義が連続化されると言えよう。ということで、ブッシュにも当然、近代的自我はあり、それに非合理主義としてのキリスト教が連続化しているのである。これが、キリスト教原理主義である。 以上で本件は解明されたとしよう。
2007年08月15日(Wed)▲ページの先頭へ
迷信とオカルティズムとPS理論:近代主義的世界観を超えて
いわゆる、オカルティズム関連の問題である。以下のブログでは、迷信と決めつけているが、それは、西洋における魔女狩りの善悪二元論と変わらないだろう。
問題はどうして、「迷信」を人が信ずることが多いのかである。それは、近代主義的世界観によっては、人生を理解することが不可能であることが根本要因にあると思う。 理知的な態度を取るならば、哲学を学べがいいのかもしれないが、哲学は一般の人には難し過ぎる文体で書かれている。そして、キリスト教、仏教等の世界宗教は敷居が高い感じがするだろう。 結局、人生の空虚に入ってくるのが、オカルティズム関連の思想である。私自身は、かつて、近代合理主義者、唯物論者であったときは、そういうものを排除していた。しかしながら、私自身の思想の展開から、精神性を認めざるをえなくなるのである。今度は、逆に、精神性優位となり、科学的なことを見下すようになる。これも、二元論である。結局、精神と科学との相関性を見いだすことが必要なのである。(p.s. より正確に言えば、精神性と唯物論が混淆していた。そして、唯物論に徹底させた。しかし、精神性が復活する。ある事情から、精神世界に没入する。しかし、どうしても、私の生活実感とオカルティズムは合わない。そして、哲学的合理性が進展して、オカルティズム批判が明確になってくる。こんな感じである。物質科学的合理性と哲学的合理性はまったく異なるものである。両者必要であるし、PS理論は、両者を統合させたのである。言うならば、PS理論は、哲学/数学的合理性をもっているのである。) とまれ、私に関すると、オカルティズムに惹かれたときがあった。ルドルフ・シュタイナーの文献をよく読んだ。彼の思想は、霊的科学である。否、正しく言えば、霊的近代科学である。つまり、霊を物質のように対象化して、それに対する科学的態度をもつということである。その科学的態度とは、実際は、瞑想的訓練を中心とする「科学」である。つまり、瞑想には、客観的な様相があるという発想に立っている。 私がシュタイナーを批判するのは、それが、物質を超越した霊に土台をもっていることからである。というか、物質を超えた霊という物質を基本的対象にしていることからである。現象が疎かにされて、霊中心になるのである。これでは、妄想になるだろう。 ここで、PS理論について言うと、それは、イデア=霊を説くが、イデア=霊が物質となる過程を説いているのである。このイデア=霊は、即非的差異である。そして、この差異から物質的現象が発生するのである。簡単に言えば、物質の裏側にイデア=霊があると言ってもいいだろう。だから、物質とイデア=霊は一種相即不離である。しかし、正しくは、物質とイデア=霊は即非様相にあるのである。言い換えると、物質を究めると、イデア=霊になるのである。 私見では、オカルティズムは、近代科学的世界観への反動である。しかし、単純に迷信と言って排除するのは誤りだ。そこには、近代合理主義に対する不満があるし、又、近代合理主義を超えた世界観を求める欲求があるからである。物質的知性を保持しつつ、精神的世界観を批判的に構築すべきなのである。 とまれ、シュタイナーに関して、批判だけしたが、彼の著作は、真面目さに貫かれている。誠実さがあるし、さらには、ある種、合理的な知的態度があると思う(つまり、哲学的な知性の態度である)。それは、内省、省察、反省に役立つ。その点で評価できるだろう。自己内面を測深する方法をそこには書かれている。これは勧めたい。近代的自我の内面を観察すれば、傲慢的な態度が犇めきあっているのに、グロテスクな感じで気がつくだろう。 参考:いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) (文庫) 私は迷信が嫌いです☆ ●洗脳について造詣が深く、公安の依頼により複数のオウム真理教信者の 脱洗脳を手伝ったことでよく知られる 苫米地 英人(とまべち ひでと、1959年 - )氏が 『スピリチャアリズム』という本を出しました。 全面的に肯定、というところまではいきませんが、 いろいろ勉強になるところがありました☆ 江原啓之 細木数子 中沢新一 幸福の科学 シルバーバーチの霊訓 サイババ などの間違いや、それを報道するメディアの問題に ついて言及しています。 (※ちなみに、細木数子の占いについての結果で面白い記事が ありましたので、紹介させていただきます☆ コチラ ) では、この本から、いくつか拾いあげてみましょう。 http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/ e/fe53f942953f75be21104bdd644f94cb グーグーパンダの語る人生の目的
2007年07月31日(Tue)▲ページの先頭へ
私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。
以下、気になる事柄があるので、引用させていただく。日本左翼の問題点は、それなりに捉えていると思う。しかし、私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。
私はポスト・モダン哲学の再検討を行い、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学とデリダ哲学とを明確に区別しなくてはならないという考えに傾いている。私見では、ポスト・モダン哲学の本流は、デリダではなく、ドゥルーズ(&ガタリ)にあると思う。何故なら、デリダ哲学(脱構築主義)は、広義のポスト・モダン哲学に必要な超越性を否定していると考えられるからである。つまり、端的に言えば、デリダ哲学(脱構築理論)は、私の考えるポスト・モダン(=トランス・モダン)哲学からは外されるべきである。 そのように考えて、日本左翼を見ると、確かに、かれらにとっては、ドゥルーズ哲学ないしポスト・モダン哲学よりは、デリダ哲学=脱構築主義の方がわかりやすいのではないだろうか。言葉は悪いが、デリダ哲学は、大御所の哲学に矛盾を見てイチャモンをつけて、それを引きずり下ろすのである。しかしながら、対象となる哲学の矛盾を乗り越えて、その哲学から創造するのではないのである。矛盾を生みだす原因を差延やエクリチュールに見ているのである。これは、自己の考えを対象に押しつけているのである。フッサール現象学に対するデリダの批判がそのようなものである。(私の言葉では、同一性パラドクス様相を差延とデリダは呼んでいると思う。) 日本左翼は超越性を認めないから、確かに、超越性を否定するデリダ哲学には魅力を感じるだろう。そう、同一性パラドクス様相という近代主義/反近代主義の様相にあるので、スタンス的には合うと言えよう。つまり、日本左翼は、近代主義であったり、反近代主義であったり、都合よく揺れ動いているのである。これは、柄谷行人のスタンスでもある。そう見ると、確かに、脱構築主義は、日本左翼にとって、さらには、左翼にとっては、好都合な理論なのだろう。 「日本左翼特有の四畳半フォーク的な虚弱至上主義と無責任主義がある。誤解を恐れず敢えて言えば、日本の左翼は正義が嫌いであり、正義を正面から語り論ずるのが面倒で億劫で苦手である。正義的なもの、正論的なものに対して抗原抗体反応を起こすのが日本左翼の体質であり、そういう正義拒絶の遺伝子を払拭できない。だから本村洋のような正義の英雄が颯爽と登場したときは、本能的に拒絶反応を起こし、石を投げつけ、唾を吐きつけようとするのである。正義排斥の日本左翼は、社会を概念と理論で設計・構築しようとせず、薄暗く陰湿な裏部屋の擬似的共同体を生息環境とし、そこに逼塞して内側に呟きとスローガンを共鳴させる。だからブログ左翼には個性がない。名前と中身を入れ替えてもどれも同じだ。テーマも言葉も文章も全く同じ。正義や倫理、国家や組織、そうした問題に背を向けて、趣味的な小共同体レベルで自己満足に溺る傾向は、全共闘世代以降に支配的となった。それを合理化し補強したのが80年代に安輸入した脱構築主義で、現在の官僚世界(大学・官庁・法曹 )の主流である。」(赤色文字強調はrenshiによる) http://critic3.exblog.jp/7040710#7040710_1 『山口母子殺害事件はなぜ高い関心を集めるのか − 正義と倫理』 世に倦む日日 critic3.exblog.jp
2007年05月31日(Thu)▲ページの先頭へ
私の親の世代から思う:彼らの唯物論はどこから生まれたのか。
私の人生は、亡父への嫌悪・憎悪・反発・殺意・怨み、等が原点であったように思う。
大正の後半の生まれである。家庭の恥を晒すことになるので、詳しく書かず、抽象観念的になるが、何故、このような人間が生きているのか。このような人間が生きている世の中は断罪に値すると若い頃思った。 とにかく、利己主義、自己中心主義、冷酷無惨な人間であった。精神がなかった。 また、母を見ると、昭和初期の生まれであるが、子どもの頃は、お国のためと滅私奉公で働いたようだ。 両親の性格は異なるが、ただ共通しているものがあった。それは、物質主義である。没精神性である。没霊的である。唯物的、金銭中心主義的であった。 両親ともに、無教養であった。それはそれでいいのであるが、彼らの唯物主義は、いったいどこから生まれたのか、不思議である。 私が戦後の唯物教育を受けて、染まる下地は、両親の唯物性にあったように思う。 いったい、大正や昭和初期の唯物論はどこから生まれたのか。没精神性はどこから生まれたのか。 思うに、思考する習慣が彼らにはないのである。現在の思考停止の国民のように。 そう、父親は、電気関係や機械の工作が好きな人であり、一見、理科系的ではあるが、思考が狂っていた。 今、急に思い浮かんだが、やはり、夢野久作の、唯物科学を批判している『ドグラ・マグラ』を読む必要が絶対にあるということである。 亡父は帳簿は丁寧に記した。字は綺麗であった。しかし、思考は完全に狂っていたのである。そう、一種、パラノイアであったと言えよう。 どうも、パラノイアということに鍵がありそうだ。これは、正に、近代的自我の狂気である。 ここで、飛躍的敷延して、日本の戦前の狂気は、パラノイアに拠るのではないだろうか。そして、今日・現代の日本の狂気もそうである。偏執狂である。 これは、同一性主義の帰結である。だから、思うに、両親の育った昭和の初期の時代には、同一性主義・パラノイア性が社会に蔓延していたのではないだろうか。 そう、だから、集団的パラノイアである。全体主義と言ってもいい。これは、差異を否定して、同一性が全体化する事態である。つまり、昭和の初期の時代に、差異を否定する事態が起きたのである。 今、ここで、226事件や515事件等が浮かんだ。また、アナーキズムのことも浮かんだ。思えば、私は一時アナーキズムに傾いた時期があった。しかし、私はアナーキズムの欠点をわかったいたつもりである。それは、他者を否定することである。バクーニンを考えればいいのである。自己の思想のためには、殺害、暴力的破壊を辞さないのである。 つまり、アナーキズムは自由を求めながら、この点で、同一性主義に陥っているのである。否定反動的でなのである。だから、私は、スピノザ主義的アナーキズムを考えたのである。これは、他者を能動的観念化して、連合化する発想である。そう、不連続的差異論が生まれる前、私の内部に生じた思想は、このスピノザ主義的アナーキズムであった。これは、実は、PS理論に近いのである。ただ、不連続性や超越性が明快にはなっていないのである。 ということで、昭和初期に同一性主義が生まれたのだろう。これは、ロシア革命を生んだ無神論的唯物論に類似するように思える。つまり、昭和初期の日本とは、ロシア革命前夜に近い同一性・唯物的思潮があったように思えるのである。 今日は、これ以上書けないが、とにかく、私の両親の唯物主義は、昭和初期の同一性・無神論・唯物思想に影響を受けているのではないだろうか。だから、昭和初期の時代思潮を考えるには、ロシアとの相関を見ないといけないように思えるのである。後で、再考したい。
2007年05月21日(Mon)▲ページの先頭へ
同一性資本主義と差異資本主義:地方は特異性である。差異的政治を求めよ。
今は、一言いうが、近代的同一性の枠組みから落ちこぼれ、逸脱する人間がこれからますます増える可能性はある。もっとも、反動化して、同一性主義の政府を支持することも続くだろう。
とまれ、脱近代的同一性である差異へと還元されたとき、人間はどうなるのか。差異へと還元された人間は強い。しかし、差異に対する資本が日本にはないのだ。ここが一番の問題だ。マイクロ・クレジットはないのだ。 同一性はますます肥大化して、民人の利益を搾り取る。同一性資本主義である。それは、本山がアメリカにあると言えよう。しかし、同一性資本主義は本来は邪道である。差異から同一性を生むのが本来の資本主義であるからだ。質か量への還元である。しかし、同一性資本主義は、同一性の量の差異を問題にするだけである。i*-(-i)⇒-1の世界である。これはエントロピーの世界である。 思うに、同一性資本主義は、ますます肥大化して、その恐ろしい金権的全体主義を展開するだろう。他方、差異資本主義が進展するようになるだろう。最も、その前に、差異が消失する危険もあるが。 とまれ、現在の同一性資本主義の政党を政権から降ろす必要があるだろう。また、地方は、地方文化を構築するべきだろう。東京の真似をしても、地方は活気をもたないだろう。地方の差異を認識しないといけない。農業がしたくなるような生活環境を作らないといけない。大型店には、利益を地域に還元させなくてはならない。社会文化経済である。また、そのような政治をもたないといけない。差異的政治である。 同一性に囚われているから、差異が見えないのである。あるいは、特異性である。地方は特異性であるという視点をもたないといけない。 「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも旅するにも、常に人に呼びかけられる。 他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ一人歩め。」 http://mandalaya.com/gen.html
2007年05月19日(Sat)▲ページの先頭へ
酸素と超酸素(「気」):O{i*(-i)}+O{i*(-i)}⇒O2{i*(-i)}
O+O⇒O2
ここで、思考実験で、O{i*(-i)}+O{i*(-i)}⇒O2{i*(-i)}としよう。簡略化して、i*(-i)をIと表記しよう。OI+OI⇒O2Iとなる。 思うに、「気」というものは、このO2Iを指しているのではないだろうか(p.s. 狭義においては、「気」はIである)。物質科学では、O2を検証できるが、O2Iを検証できない。何故なら、超越界を想定していないからである。 Iは、物質、この場合は、酸素のメディア・ポイントに存しているだろう。ここに、「気」(プラーナ)が共振しているのである。 夜明けの大気が気持ちがいいのは、光(超越光を含む)によって、酸素が超越化して、「気」を増加させるからではないだろうか。 また、光合成であるが、これも、やはり、単に、酸素を発散させているというよりは、「気」のある酸素を生みだして、植物のある周囲の空気を精神的清浄化しているのではないだろうか。 たいへん興味深い問題であるが、今は、とりあえず、簡単に提示するに留めておく。 p.s. 結局、この「酸素」の問題は生命の問題に深く関わる。血液は、ヘモグロビンが、酸素を運ぶ。 問題は、超越性、超越エネルギー、超越波動であるi*(-i)の問題である。超越光/光の問題でもある。 今は、思考実験で言うだけだが、端的に、生命とは、i*(-i)ないしic*(-ic)のことではないだろうか。宗教的には、お水取りにあるように、火*水である。 とまれ、直観では、i*(-i)が、生命の種子・卵・胚のように感じられる。そう、情報と言ってもいい。生命は、天の情報の現象化のことかもしれない。超越情報の現象が生命ではないのか。 だから、物質にも、なんらかの生命性が存しているのである。
2007年05月15日(Tue)▲ページの先頭へ
現代日本政治カルト状況と日本的近代主義による同一性=全体主義:日本的差異=霊性の復活へ向けて
toxandoria氏の激烈な現代政治のカルト批判
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514/p1 を読むと、日本の病巣がはっきり浮かんでくる。そして、それについては私なりにさんざん述べてきたので、ここでは、詳論しない。 今は、簡単に触れるだけだが、現代日本の政治・社会的カルト状況は、実は、近代主義の帰結なのである。近代主義的同一性は、結局、連続化して、ただ、唯一の同一性へと帰結するのである。そう、オーウェルの描いたビッグ・ブラザーである。ただし、日本の場合のビッグ・ブラザーは、一人の総統が中心というよりは、同一性共同体が中心である。これは、ある意味で、村落共同体的である。 結局、問題は、近代主義は、封建主義を打破して形成されたものであるが、この否定が、実は、同一性による二項対立という差別をもたらしたのである。封建主義はあきらかに差別主義であるが、それを否定した近代主義も差別主義なのである。 そう、ここには民主主義の問題があると言えよう。「人間は、平等にequal創られた」とアメリカの独立宣言にある。同一性とは、実は、差異の否定・排除・隠蔽であり、この点で明らかに差別主義なのである。同一性が優位であり、差異が劣位である。(そう、高野連の魔女狩りは、この同一性主義によると言えよう。) 図式化すれば、優位/劣位=同一性/差異である。つまり、平等思想を徹底すると、同一性主義となり、差異が否定されるのである。というか、根本的に、平等思想は、差異を否定するので、全体主義が帰結されるのである。これは、ヘーゲル哲学に顕現していることである。(これらは、既述済みである。) 民主主義は、確かに、封建主義を打倒する重要な観念であるが、しかし、やはり、限界があるのである。つまり、民主主義は、同一性主義=全体主義へと展開する必然性をもつのである。 だから、以前から述べているが、差異的民主主義、超越的民主主義が必要なのである。平等ではなくて、差異が基礎となるのである。あるいは、特異性と言ってもいい。 現代日本の全体主義・魔女狩り・原理主義的潮流を見ると、これは、確かに、民主主義の帰結と言えるだろう。あるいは、近代的民主主義の帰結である。 また、それだけでなく、日本における父権主義がこれに関係しているのである。父権主義は、封建主義であるが、これが、色濃く現代日本に残っているのである。欧米ないし西欧の民主主義は、個的民主主義である(ルネサンスは、個の活性化であり、私見では、プロテスタンティズムはこの個を取り入れているのである)。しかるに、日本の場合は、父権的民主主義である。これが、なおさら、民主主義を同一性主義=全体主義化させていると考えられるのである。 この点をもう少し詳しく見よう。同一性主義は、差異を否定する。そして、父権主義は、父権的二項対立性をもち、その点で、同一性主義と結びつきうるのである。 端的に言うならば、父権主義と近代的自我は同形である。父権主義は、母権という差異を否定して、父権的自我中心主義である。つまり、母権の否定・排除・隠蔽があるのであり、ここに父権的同一性二項対立が成立するのであるから、近代的自我と同形なのである。 ということで、ルネサンスを経由していない日本は、近代化において、近代的自我と父権主義とを結びつけたと考えられるのである。だから、同一性主義=全体主義が必然的に帰結する傾向にあると言えよう。そして、それが、現代日本なのである。 欧米の近代化とは、ルネサンスを経ているので、個=差異が基盤になっているのである。そして、ここから近代主義が発生するのである。つまり、差異と同一性との緊張関係が欧米には本来あるのである。 イギリス人は、経験的個人主義であるから、全体主義を忌み嫌うのである。因みに、ブレアの失敗の一つの要因はここにもあるだろう。 そう、差異と同一性との緊張関係が、いわゆるポスト・モダン思想を生んだと考えられるのである。つまり、欧米の基盤にある差異の発動なのである。流行としてのポスト・モダンは終ったが、しかしながら、後期デリダに見られるように、差異主義は生きていると見るべきである。 この観点から見ると、現代日本の政治・社会的カルト状況は、欧米にある個=差異の視点の欠落にあるということになるだろう。日本では、日本なりの個の文化があったが、それが、近代化において、排除されてきたと思うのである。 今は、簡単に言うだけだが、個=差異と霊性=精神性は、結びついているということである。欧米は、宗教性を脱色化したとは言え、精神のベースにキリスト教は今でもあるのである。欧州の都市には、教会がはっきり目に付くのであり、それが、共同体精神の焦点を構成していると思えるのである。 これはそれほど突飛な考えではなく、ルネサンスにおける宗教性を見ればすぐわかることである。今、日本に来ているダ・ヴィンチの受胎告知を見ればいい。 日本は、明治維新においては、排仏毀釈を行い、仏教の影響力を排除して、国家神道によって国民の霊性=精神性を収斂させたと言えよう。私見では、この時代の日本人には、個=霊性があったのである。 しかし、太平洋戦争の敗戦によって、アメリカに占領されて、日本国憲法が生まれて、立憲民主政の国として再出発することになった。しかし、このとき、日本人は、戦前を否定して、日本人固有の個=霊性を喪失したのである。というか、それを否定・排除して、近代的合理主義を肯定したのである。ここに、現代日本の政治・社会カルト状況の始点があると考えられるのである。 そして、戦後においては、残っている父権主義と近代主義が融合して、同一性癒着的政治体質が形成されたと考えれるのである。整理すると、日本的個=霊性の喪失、近代主義、父権主義、これらが結びついて、同一性主義=全体主義=カルト主義が形成されたのである。 そう、差異は霊性である。超越性である。日本が復活するには、差異=霊性=超越性の復活が必要なのである。 後で、霊的世界について、述べてみたい。 p.s. 論理の流れが乱れているが、論旨は明快だと思う。後で、より整合的にまとめたい。 記事URL | コメント(1) | メッセージ | ペタを残すペタとは? | ページトップ コメント [コメント記入欄を表示] ■ポスト・モダンの幻影⇒対立するものの同一化現象 ポスト・モダンの幻影⇒対立するものの同一化現象 2007.05.14 Monday | author : Kaisetsu http://blog.kaisetsu.org/?eid=550049 kaisetsu 2007-05-15 00:59:29 ■日本的霊性の復活とは何か:地霊の復活 これは、実に大きな問題である。後で考察してみたいが、以上の論考からすると、仏教と神道との関係をもう一度、見ないといけないだろう。 鈴木大拙の『日本的霊性』はすぐれた日本精神論である。そこでは、日本の大地から生まれる精神性を説いている。それは的確であると思う。D.H.ロレンスで言えば、地霊である。日本の地霊を復活させることが、出発点である。地霊としての日本的霊性である。 p.s. 結局、特異性の問題に帰結するのである。日本の大地とは特異性である。そして、これは、日本のメディア・ポイントでもある。そして、日本人の個の精神とこのメディア・ポイントとが共振して、日本人の霊性が形成されると考えられるのである。 環境破壊からわかるのは、日本的霊性をもたない役人や政治家や国民の世俗的合理主義が作用しているということである。環境を救済し創造的に保持するには、日本的霊性をもたないといけない。 後で、特異性としての大地と特異性としての「身体」との共振関係について考察したい。
2007年05月09日(Wed)▲ページの先頭へ
同一性中心主義の解明:同一性中心主義と感情欲望との癒着による他者・差異に対する非合理な排除
昨日、本件の問題に触れて、再び、袋小路に入ってしまった。アポリアである(アポリアは、語源的は、「通れない」から来ているから、適語である。)。
さて、今日、本件について、新たに思いついたことがあるので、ここで披瀝したい。 自己は、本来、他者への志向性をもち、他者を感知するが、そのとき、同一性の認識を投影するのであるが、そのときには、差異(自己の差異であり、他者の差異である)と同一性とを均衡させるのである。 問題は、他者に対する同一性認識であるが、そのとき、身体感覚を介するので、同一性認識に感覚様態が付着すると言えよう。同一性認識とは、自己が他者への投影する認識であり、この投影は当然視覚的であるし、また、その他の感覚も関係する。つまり、他者に対する同一性認識とは、感覚的同一性認識である。あるいは、同一性感覚的認識である。 この感覚的認識性が問題である。自己の差異と身体・感覚とはどう関係するのか。あるいは、精神と身体・感覚との関係である。どうやら、ここに問題の核心があるだろう。 心と身体・感覚との関係である。(スピノザでさえ、この問題を徹底して考察していないと思う。)心ないし精神が端的に、志向性である。心・精神=志向性である。 しかるに、現象的MEPOにおいて、身体・感覚が形成されて、志向性は、身体・感覚化されるのである。同一性的認識とは、この身体・感覚に拠ると考えていいのではないだろうか。身体・感覚以前は、i*(-i)であるから、端的に、差異そのものである。自己差異と他者差異との即非共振性(デュナミスではあるが)があるのであり、同一性はないのである。 同一性は、身体・感覚様態をもつことによって発生したと考えられる。即ち、感覚像とは、主体が同一性形態を投影して形成される同一性像であろう。(ここで、アフォーダンスを想起するが、ここでは、考察しない。) 分析すれば、主体の身体・感覚において、同一性形態が発生する。これが、連続的同一性形態である。原形態性ないし原言語形態と言えよう。思うに、ソシュールが述べた差異であるが、原観念(原シニフィエ)と原音声(原シニフィアン)との二元論であるが、これは、ここに関係すると思えるので、それを使用すると、身体・感覚的同一性形態素と観念的同一性形態素がここにある。まとめて、身体・感覚/観念的同一性形態素(構造と言っていいだろう)となるが、簡略化して、感覚/観念同一性素としよう。 これが、結局、他者志向性において、他者へと投影されるのである。つまり、感覚/観念同一性素が他者へと投影されて、同一性認識が発生するのである。 思うに、本来、差異としての主体的精神ないし心は、他者への志向性であるから、この感覚/観念同一性認識を利用するが、それとは区別されているのである。即ち、 1)差異的主体精神⇒2)感覚/観念同一性認識⇒3)他者 である。 問題は、2において発生する感情や欲望である。仏教で言う色(しき)である。他者へ遭遇した差異的主体精神は、2において感情・欲望を発現するのである。 この感情・欲望が実に単純であり、快・不快の二元論を形成するのである。綺麗と汚いである。美と醜である。 しかし、問題は複雑である。2は、いわば、《メディアMEDIA》である。だから、単に、感覚/観念様態だけでなく、端的に、1の様相をもっているのである。つまり、精神様相が2にもあるのである。 つまり、精神と感覚/観念同一性とミックス様態が2の《メディアMEDIA》において生起しているのである。このミックス様態が問題なのである。 とまれ、先に、感情・欲望様態について言うと、この快・不快の二元的判断は、正に、感情・欲望的判断であり、理性・知性的ではありえない。この没理性的好悪判断がMEDIAに生じているのである。これは、非合理な判断と言ってもいい。 では、この非合理な判断をもったMEDIAであるが、そこには、1の主体的精神に基づく同一性認識作用もある。すると、2のMEDIAにおいて、主体的精神と同一性認識と非合理的判断がミックスされる様態が生じると考えられる。 本来、主体的精神は差異であるから、他者との差異を保持しているのである。つまり、2のMEDIA領域において、主体的精神の志向性と感覚/観念同一性認識と非合理的感情・欲望様態とが並存しているということである。 本来の知性・理性、根源的知性・理性は、主体的精神の志向性にある。根本知性、根本理性と呼ぼう(もう、知性と理性は区別しない)。根本理性は、差異への志向性作用であるから、MEDIA領域(MEDIA帯、MEDIA FIELD、メディア場)においても、本来、その性格を保持すると考えられる。 しかしながら、非合理的感情・欲望様態が優勢になると、当然、根本理性は麻痺して、差異的自己認識が喪失されて、感覚/観念同一性認識と非合理的感情・欲望様態とが癒着・融合するようになるだろう。 私がこれまで、連続的同一性中心主義を攻撃してきたが、その形成因はここにあったと今や考えるに至ったのである。 MEDIA場における非合理な感情・欲望様態が、根本理性を麻痺させて、感覚/観念同一性認識と癒着結合したものが、正に、連続的同一性中心主義なのである。そして、これが、唯物論的意識であり、近代的自我なのである。 根本理性の麻痺が、ここにあるのである。物質的感情・欲望様態が同一性認識と結合して、他者喪失の近代的自我と生んだのである。ゴヤは、理性の眠りは怪物を生むと言った。 思うに、仏教は、この非合理な感情・欲望様態からの解脱を説いたのであるが、それが生きていないのである。また、フッサールの現象学的還元、エポケーもそれを説いているし、デカルトの懐疑もそういう性質をもつだろう。 そう、近代主義とは、人間が生来もつ根本理性・根本知性の喪失を意味するのである。 では、ここからのエクソダスの方法は何であろうか。最近、ヨガが流行っているが、それは、その方法の一つである。 問題は、MEDIA場の非合理な麻痺・混濁・混同を解消することにあるのである。このMEDIA場の非合理な麻痺とは、非合理な同一性中心主義ということである。ここでは、快・不快の非合理な同一性中心主義的判断によって、差異的精神が否定・排除・隠蔽されているのである。根本理性である差異的精神への反感・憎悪・排除があるのである。 これで、この問題が解明されたと言えよう。何故、他者を否定するのか、という問いに対して、解答は、MEDIA場の非合理な快・不快の感情・欲望的同一性自我中心主義が他者を否定するからであるということになる。 より端的に言えば、非合理な感情・欲望様態的同一性中心自我とは、その非合理性に対して異議を唱える根本理性・差異的精神に対して反感・憎悪・暴力をもって、否定・排除・隠蔽行為を行うのである。これが、正に、他者排除の力学なのである。簡単に言えば、気に入らないものは、無化するということであり、暴力団論理なのである。これが、現代日本の支配している力なのである。人間が本来もつ根本理性の完全喪失である。明らかに、劣化・退化があり、動物化しているのである。これは、明らかに、日本滅亡の徴である。 さて、以上のように、MEDIA場の感情・欲望による非合理な同一性中心主義が根因となったが、これを解消する方法を述べなくては不十分である。 「問題は、MEDIA場の非合理な麻痺・混濁・混同を解消することにある。」と上述しているのであるから。 端的に言えば、MEDIA場の知的浄化・精練・鍛練が必要である。このためには、哲学、宗教、芸術が必要である。MEDIA場に知的ないし精神的切断をもたらして、非合理的同一性中心主義を解体する必要があるのである。 ポスト・モダンは、本来、それを目指していたが、後期デリダを除いて、連続的非合理主義から脱出できなかったと言えよう。 差異と同一性との均衡・調和、ここにトランス・モダン社会の原理があると言えよう。差異との均衡によって現象界は救われるのである。 そう、ここで、発展的問いとして、なぜ、現象化があるのかと考えると、それは、差異的認識(広義の認識で、創造表現を含める)のためであろう。プラトンは、想起と言ったが、それは、後ろ向きな考えである。確かに、ある意味では、想起のためである。しかしながら、イデア界の差異共振性を、現象界において、創造的に表現することが、現象化の本当の意味のように思えるのである。単なる想起ではなくて、想起して、その内容を実践的に現象創造表現することだと思えるのである。ここでは、認識と創造表現は一つである。そう、認識、創造表現、倫理は一つである。イデア界的認識=創造表現=倫理実践のために、現象化があるのである。 p.s. 結局、連続的同一性中心主義という悪魔・悪霊とは、非合理な感情・欲望様態と同一性認識の融合である。思うに、これは、正に、父権制である。父権醜主義である。日本の官僚・政治家のタイプである。日本は、ベースは母権制であるが、これが父権制によって破壊されているのである。 そう、狂気は、非合理な感情・欲望様態に基因があるだろう。人類史的に見ると、この連続的同一性中心主義が、諸国家を滅ぼしてきたのだろう。ローマ帝国の崩壊もそうだろう。平明に言えば、傲りである。驕れる平家久しからず。 とまれ、連続性の原因は、やはり、非合理な感情・欲望様態にあると言えよう。そこから自我が形成されるのであるから。この非合理な感情・欲望様態のもつ連続性の破壊が、とりわけ、日本に必要なのである。 もう少し補足すると、連続的同一性中心主義に資本主義的貨幣社会が結びつくのである。前者を満たすものは、貨幣である。金融資本である。 以上のように根本的、ラディカルな解明がなされると、トランス・モダン経済はどのようなものであるべきかわかってくるのではないか。一言で言えば、物質中心の経済から精神と物質とのバランスのとれた経済を志向するべきであるということになる。精神・物質経済である。そのためには、教育超革命が必要であるし、また、根本的には、PS理論的世界観革命が必要である。 とまれ、精神・物質経済の価値はどう計るのか。精神・資本経済において、精神・資本の価値はどう計られるのか。思うに、精神ー物質的認識をもった者が指導的な立場に立たないといけないことになるだろう。貨幣・資本の数量だけでなく、精神ー物質の相関的認識をもつ人間が指導的立場に立たないといけないということである。 p.p.s. もう少し補足しよう。非合理な感情・欲望的同一性自我様態が、連続的同一性自我の正体であるが、非合理な感情・欲望性が差異的志向性を麻痺させることが、「狂気」の根因である。 ならば、非合理な感情・欲望性とは何か。これが、プラトンの言った黒い馬である。しかし、プラトンは、それを単に否定しているのではなく、白い馬との二頭立ての馬車を御者が制御することを説いている。白い馬は、差異的理性であろう。だから、プラトンにおいても、差異と同一性との均衡が目されていると言えよう。 問題は非合理な感情・欲望のもつ狂気性をどう制御するのかである。古代ギリシア人は、ディオニュソスの祭儀をもった。ギリシア悲劇は、ディオニュソス神に捧げたものである。 そう、端的に、祭礼・儀礼等は、人間の非合理な感情・欲望を、理性的枠組みの中での、解消方法であったように思える。今日日本では、ニートたちの、戦争衝動である。それも解消方法である。 どうも、ここには、自由の問題が関係していると思う。昔は子どもに遊びがあった。自由な時間や空間があったが、現代は、なんらかに管理された時空間しかない。 かつては、遊びにおいて、非合理な感情・欲望を、遊びの枠組みにおいて、解放し解消していただろう。現代では、ゲームだろう。 そう、ここには、他者としての身体の問題があるだろう。身体問題を考察しないといけない。自己が他者である身体と共振するとき、コスモスが発動する。コスモス的身体ないしコスモス的心身となる。ここでは、超越的エネルギーが発動するのである。 この心身エネルゲイアを創造的に表現する必要があるのである。私の哲学的思考は、この心身エネルゲイアの理論化と言えるのである。 思うに、だから、単に非合理な感情・欲望に囚われているだけでなく、コスモス的なエネルゲイアが発動されずに、抑圧されていると言えよう。そのため反動はとても強力なのである。連続的同一性狂気・暴力である。この点は、これまで指摘したことである。 結局、非合理な感情・欲望と抑圧された反動化したコスモス的エネルゲイアの融合が、連続的同一性中心主義の基盤となっているのである。 つまり、非合理な感情・欲望は、現象的物質的同一性形態に知覚を限定する。そして、この同一性主義が、同時に、差異的共振的コスモス的エネルゲイアを抑圧するのである。 即ち、非合理な感情・欲望は、他者的志向性である差異的理性を否定すると同時に、同一性主義によって、差異的共振的エネルゲイアも否定しているのである。つまり、根本理性と根本エネルゲイアを否定しているのである。すると、それらを一つにして、根本理性エネルゲイア(根本理性エネルギー)があるということになるだろう。この否定・抑圧が、連続的同一性中心主義の狂気の発動原因である。そして、この狂気暴力が現代日本のアポカリプス・黙示録の原動力なのである。近代主義の嫡子である。 繰り返すが、現代日本を救済するには、MEDIA FIELDの浄化・精練が必要である。MEDIA FIELDに切断線を入れて、差異と同一性の連続性を解体して、それから、差異の特異性、絶対的差異へと進展して、さらには、超越的差異共振性へと飛翔する必要があるのである。MEDIA FIELDを不連続的に浄化・精練して、差異と同一性とを分離して、差異を特異性から超越化し、さらには、共振化させる必要がある。そして、それから、同一性との均衡を形成して、差異的同一性としての自己認識を形成する必要があると言えよう。 認識革命、観念革命、精神革命が必要である。トランス・モダン革命である。
2007年05月06日(Sun)▲ページの先頭へ
「わたしは絶対に正しい」という近代的自我の解明:近代知と教育:近代的悪魔・悪霊シンドローム
Kaisetsu氏の日教組批判に関係した問題であるが、わたしとしては、このタイプは、周辺に多いし、また、現在の日本の教員に対する呪詛があるので、愚考したい。
思うに、論を明快なものにするため、近代的自我、近代知、教育を三幅対にして、考えたい。哲学的には、同一性と差異の問題であるので、この視点から考えたい。 近代的自我の狂気については、証明が済んでいるが、それが、そのままこの問題に適用されるから、ある意味で、問題は済んでいるのであるが、現実として、狂気の教育・教員が存在しているから、現実的批判が必要ではある。 ここでは、エッセイ風に述べたい。私がいつも不思議に思うのは、近代的自我のタイプと個をもった共振性のある人間とに明確に分かれることである。もっとも、現代人は、前者が圧倒的に多い。だから、狂気の社会になってはいるのである。狂人が多数なら、正気の人が狂人扱いされるのである。そう、狂人民主主義、狂民主義である。 とまれ、前者であるが、端的に、共感性が欠落しているのである。仁義が欠落しているのである。大道廃れて仁義有り、という言葉があるが、大道廃れて仁義なしが、現代日本である。 以下の資料を見ると、私は、この意味に関して勘違いしているので、考え直すと、老子の言う道教の自然的あり方が廃れて、道徳云々というようになるということである。そう考えると、確かに、現代日本にあてはまるし、多くの世の中にも当てはまるだろう。 しかしながら、この言葉は、現代日本にとりわけ当てはまると思う。言葉はあるが、心がないのが現代日本であるからだ。テレビで放送される役人や社長等で謝罪する言動を見れば、心がないのがすぐわかる。ただ、言葉だけである。「心を伴わない言葉は天には届かない。」と『ハムレット』の悪王クローディアスが懺悔の途中に述べている。また、ハムレットは、ポローニアスに何を読んでいるのかと聞かれて、「言葉、言葉、言葉」という答える。 http://bymn.pro.tok2.com/ hanatop/index.html 正に、現代日本である。言葉の国で、心喪失国である。 そして、これこそ、近代的自我、近代的理性のあり方なのである。そして、ついでにいうと、「ポスト構造主義」とは、この言葉中心主義を解体するものであった。差異理論とは、そういうものであった。言葉からの差異を問題にしていたのである。 しかし、言葉の国と言ったが、また、同時に言葉の無い国なのである。これは、『ハムレット』の言語論とも通じるのである。即ち、心のない言葉とは、ただ、器、容器であり、中身がないのであるから、言(事)の無い葉である。つまり、無責任な言葉なのである。そして、これは、実は、官僚言語、役人言語と通じるのであり、そして、当然、文部科学省の言語と通じるのであり、教員の言語と通じるのである。端折って述べているが、いちいち説明するが煩瑣である。 私は、心無き言語を一般形式言語と考えている。これは、本当の言葉(誠の言葉)である特異性の言語とは異質である。今思い出したが、70年代後半にかけて、日本言語社会は、一般形式言語が流通するようになったことを、私は、苦々しく、暗い憤りをもって嫌悪していた。流通言語とか読んだものである。分別臭い言語なのである。『ハムレット』の世界に対応するのである。 つまり、貨幣経済、とりわけ、貨幣の数量が問題となる経済社会で、この問題が起きるのである。貨幣の交換価値に合わせて、言語や人間が造られるのである。マルクスの言った疎外である。物神性である。(思えば、マルクスがシェイクスピアの劇をよく引用していたのを想起するが、それは的確である。なぜなら、シェイクスピアの劇は、中世・ルネサンスの差異的世界が崩壊して、近代的合理主義の世界への悲惨な転換を描いているからである。) そう、一般形式言語は貨幣言語と言っていいのである。構造主義と言ってもいいのである。この問題は、現代思想で論じられてきたので、ここで留めるが、これは、ヘーゲル哲学であると言ってもいいのである。 結局、現代哲学の問題に返ることになるのである。つまり、個・特異性の問題である。一般形式性と個・特異性の問題である。 近代は前者中心であったのであり、脱近代主義とは、後者への転換を意味するのである。(PS理論は、これを徹底して、現代的差異的イデア論を打ち立てたである。) しかしながら、理論的な進展とは別に、日本社会の知的後進性は度し難いものがあるのである。大学人は未だに、近代主義、近代的自我、近代的合理主義のままなのである。彼らは、ポスト・モダンを深く理解しなかったし、また、専門の盲目の安全地帯にこもって、知の動向さえ理解しようとはしなかったのである。 ポスト・モダンは問題のある思想であったが、それは、トランス・モダンへの胚珠をそれなりにもっていたのである。つまり、ポスト・モダンとは、簡単に言えば、モダンとトランス・モダンとの過渡的思想であったということである。さらに言えば、ドゥルーズの思想にあるように、構造主義の枠内にあったのであり、実際はポスト構造主義(あるいは、脱構造主義)ではなかったし、ポスト・モダンでいちばん俊敏であったデリダは、確かに、脱構築によって、モダンの枠をいったん解体したものの、その理論の不器用さによって、脱構築後の知の様態が不合理主義ないし否定神学にとどまって、深化ができなかったのである。 とまれ、フランス現代思想は、問題の多いものであったが、それなりに脱近代主義を志向していたのであるが、その動向を日本の知識人・大学人は創造的に探究できなかったのであるし、また、端から無視していたのである。これは、当然、日本の高等教育に当てはまることである。近代主義という衰退する知に執着しているのである。 そう、ついでに言えば、安倍首相の戦後レジームからの脱却は、脱近代主義とは言えるが、やはり、アイロニカルな没入性をもっているのである。それは、戦前・戦中的反動性をもつのである。つまり、PS理論から言えば、近代主義への反動なのである。近代主義に連続しているので、反動なのである。超越的に脱近代化できないのである。 さて、日本社会の近代主義的反動性であるが、それは、結局、個・自己を一般形式性へと同一性化していることから来ていると言えよう。つまり、個・自己の差異・特異性を否定・排除・隠蔽して、一般形式性を真理として、他を誤謬として排除しているのである。これが、「わたしは絶対に正しい」という自我意識を生むのである。Kaisetsu氏がとりあげた日教組問題は、正に、近代的自我、近代主義、近代的理性主義にあるのである。 このような個・差異・特異性を排除する近代主義的教育では、画一性しか生まない。創造性が生まれようがないのである。それで、子どもの心・精神は荒廃し、粗暴、凶暴・狂暴、野蛮等になるのである。 また、当然、知的能力が落ちるのである。つまり、日本を亡国にしているのは、この近代主義に染まっている知識人・大学人・文化人、官僚・役人、教員等である。 創造性の点では、文科系の学問は悲愴・悲惨である。西洋の猿まねであるし、とりわけ、哲学が悲惨である。西洋哲学が哲学となっているのである。日本哲学、東洋哲学が無視されているのである。 そう、ここで、端的に、何故、近代的自我、近代主義、近代的理性主義へと向かうのか、個・差異・特異性ではなく、一般形式へと同一性化するのかと言えば、一つは、怯懦が原因だと思う。(今、想起したが、生前、岡本太郎はキチガイ扱いされていたのに、死後、今では、天才的画家扱いである。私は、岡本太郎は文化批評家として優れていたと思うが、画家としては、悪くはないが、やはり、人為的だと思う。これ見よがしである。無理が感じられるのである。平俗に言えば、力んでいるのである。自己顕示欲満々なのである。) 怯懦であることが、相互主観性になって、日本社会を形成していると思うのである。そして、これが、当然、傲慢となるのであり、自己中心の社会にしているのである。そう、怯懦であるとは、真理に達していないので、妄想的である。 では、「わたしは絶対に正しい」の基因は何だろうか。それは、これまで述べたように、個・差異・特異性(超越性)を否定・排除・隠蔽した連続的自我心性にあるが、何故、自我が正しいのか言えば、それは、連続的自己(自我)が、超越性を否定しながらも内包しているからだと考えられるのである。 つまり、超越性こそ、真の倫理・道徳の源泉である。そして、人間は先天・先験的にこれをもっているのであるが、連続的自己形成は、これを否定するのである。いわば、天、神、倫理を否定するようにして、自我形成するのである。しかしながら、天、神、倫理のもつ義性の感情(これに要注意)をともなっているのである。だから、「わたしは絶対に正しい」と神を否定し、蔑(なみ)しつつ、神の感情は横取りしてもっているのである。つまり、超越性と連続的同一性とが融合しているのであり、超越性自体を否定しつつ、反動的に超越化しているのである。そう、反動的超越性をもつので、連続的同一性自我は、「わたしは絶対に正しい」と主張するのである。 現代日本人は、この反動的超越的自我傲岸不遜症に罹っているのである。ここには、神の横取りがあるのであり、悪魔的人間化である。日本人の悪魔化、これが、「わたしは絶対に正しい」の意味である。 そして、とりわけ、大学人・知識人・文化人、官僚・役人・教員にこれが顕現・現前化しているのである。日本悪魔化である。もっとも、アメリカの悪魔病に感染してはいるのであるが。 参考1: ( 冒頭の老子の言葉を直訳すれば、「国民社会から大いなる道が見失われて乱れてくると、仁義の道徳が強調されるようになる」ということ。意訳すれば、「仁義の道が強調されるのは大道が廃れた結果である」ということになる。 ) http://www.pluto.dti.ne.jp /~mor97512/C0560.HTML 参考2: (『大道廃れて仁義有り』(「老子」より) author : 大道廃れて仁義有り、知恵出でて大儀有り。 六親和せずして孝慈有り、国家昏乱して忠臣有り。 道が廃れて、仁義が叫ばれ、 知恵が偽りを生み、為政者によりて、制度や法律が作られる。 親・兄弟姉妹・夫婦の不仲より、親孝行・子への慈愛等が求められ、 国が乱れて、忠臣等との言葉が生まれるに至った。 仁義・知恵・孝慈・忠臣等々の概念は、道が廃れた結果として、 存在ならしめているのであって、それらの言葉が生まれることは 善いことではなく、世の退廃・人心の堕落を意味している、と 老子は云ってるのであろう! 現象世界に現れる一切の存在は、太極から生じた陰陽の顕れであり、 相反する概念が対をなし、現世の価値判断・判断基準は その対立概念から生れてくるという。 我々人間は、自分の意思で生まれることはなく、 親も、国も、時代すら、何一つとして選べない。 道が廃れた時代に生まれ合わせた宿命の中、 無為自然を説く、老子の教えに縁を持てたことは、運命であろうか! 道徳などを必要としない社会の実現に向けて、 21世紀の覚者たちは、歩み始めている。) http://www.sen-boku.com /unmei/index.php?eid=13 館・占卜 運命一考
2007年02月08日(Thu)▲ページの先頭へ
連続的同一性自我のもつ他者否定(侮蔑・嫌悪・侮辱・憎悪等)の根因は何か
連続的同一性(連一性)は、自己→他者で、自己が他者を自己同一性化することである。(自己連続的同一性とは、自我のことである。真の自己とは、自己差異的同一性である。)
さて、この連続的同一性の構造は、既に明らかになったが、他者を否定する同一性の意味を考えたい。 以前、自己→他者、他者→自己の→は、連続的同一性を意味するとした。後者においては、他者が他者的連続的同一性を形成すると考えたが、先には、それを疑問にして、否定的に考えたのである。 ここで、この他者的連続的同一性について再考しよう。思うに、自己内部において、内的他者を否定するから、外的他者を否定する結果になるとは言えよう。だから、この内的他者の否定とは何か、である。 これは、端的に、連続的同一性化=現象化の一面であると考えられるように思う。正確に言うと、現象化とは、同一性化であり、それは、連続性と差異性の両面(±1)をもっているように思えるのである。 つまり、連続的同一性現象化と差異的同一性現象化の二重性があるということである。これは、否定と肯定の二重性と言っていいだろう。 ということで、内的他者の否定とは、連続的同一性の力学に拠るのであり、また、本件の問題への解明は、やはり、連続的同一性の力学によるということになるだろう。 そして、思うに、人間は、連続的同一性に傾斜しているので、暴力的存在なのである。 とは言え、差異的同一性も存在しているので、人間は、ここで、齟齬の様相にあるのである。傲りの連続的同一性自我と共感的な差異的同一性自己の二重性による齟齬があるのである。前者は悪であり、後者は善である。 しかしながら、一般に人間は、連続的同一性自我に囚われているので、自己盲目なのである。そう、両者が混淆しているのである。悪と善の混淆様態である。 智慧・叡知とは、この混淆様態に自己認識の光をもたらすものと言えよう。否定した内的他者への思考を向けると、そこで、自己認識の光が発するのである。つまり、差異的同一性への視点の発生である。 さて、私が真に問題にしたかったのは、連続的同一性自我のもつ暴力的他者否定性である。そう、他者の無化である。私は、これが、病的異常(言わば、病異である)であると考えるのである。これは、他者への憎悪である。他者へのルサンチマンである。フロイトならば、死の欲動と言うのだろうが、果たして、これが、基礎的心的力動として、存しているのだろうか。私の直観では、これが二義的心性であり、第一義的なものではない。 そうならば、どういう心的構造がここにはあるのだろか。思うに、最初に他者ありき、ではないだろうか。言い換えると、差異的同一性+1ありき、である。i*(-i)⇒+1ありき、である。 では、連続的同一性自我の心的力学はそれに対して、どういう意味合いをもつのだろうか。初めに、差異共振シナジー様相ありきである。そして、それが、現象化においても、存しているように思えるのである。即非的自己・他者の関係が現象界において初めから存しているように思えるのである。 その後に、連続的同一性自我化が生起するように思えるのである。そう、人間の場合は、言語的連続的同一性化である。そして、これが、他者否定性に通じるのである。フロイト/ラカンの死の欲動説とは、この作用を指していると考えられるのであり、それは、精神分析が説くように、根源的なものではなく、二義的なものと考えられるのである。 そうすると、連続的同一性とは、差異的同一性に対する反動作用ということになるだろう。この反動作用が、他者否定・無化作用である。このように考えた方が、明快・明晰であると考えられるだろう。 これまで、連続的同一性が先にあり、その後、反作用として、差異的エネルギーが発して、イデア界を志向すると考えたのであるが、これまで、今一つ明晰ではなかった。しかし、今のように、初めに、差異的同一性があり、その後に反動作用として、連続的同一性が発生すると考える方が、明晰である。 なぜ、このような筋道の方が明快であるのかと言えば、もし、初めに、他者との関係が一切なければ、連続的同一性への志向は発しようがないからと考えられるだろう。換言すると、他者がなければ、ただ、自己だけがあるのであり、同一性も生じる必要がないわけである。だから、最初に自己と他者との差異的関係、即ち、差異的共振関係があり、その後、現象化において、差異的同一性+1が発生し、その後から、連続的同一性-1 が発生すると見た方が筋が通るのである。 この力学を考えると、差異的同一性があるが、その後、自己は、その傾斜する連続的同一性の志向性を他者へと向ける。これが、他者否定・無化なのである。(これが、精神分析の死の欲動である。)これは、ほぼ、父権的欲望=暴力と言っていいだろう。他者を自我同一性化するのである。ここには、感覚欲望が支配しているといると言えるだろう。自己の感覚欲望が支配・優勢的になり、それが、他者を同一化・無化するのである。思うに、言語形成は、この感覚欲望と関連している。感覚欲望の細分化として、言語形成があるように思えるのである。「わたし」が欲するのは、「・・・」ではなく、「リンゴ」なのである。この点に関して、大乗仏教の分析は、正鵠を射ていると思う。妄分別と呼んでいるのである。 整理すると、初めに、イデア界の差異即非様相があり、それが、現象化して、差異的同一性+1となるが、その後、心身の発達に伴い、感覚欲望と言語が形成されて、現象・物質的対象を認識するようになる。それが、連続的同一性自我形成である。この感覚・欲望・言語の連続的同一性自我形成とは、差異的同一性の否定、他者の否定・無化、さらに言えば、差異共振性という精神の否定があるのである。つまり、これは、人間の存在の基盤の否定があるのである。感覚・欲望・言語自我形成は、精神的存在としての人間の否定であるのである。 近代以前においては、地域共同体、宗教等の「道徳」があり、それが精神性を保証していたが、近代以降、連続的同一性自我中心主義によって、精神性が否定されるようになったのである。いわば、暴力の解放である。人間の野獣・獰猛化である。 これが、私が目の敵にしている近代的自我の意味である。現代日本は、この近代的自我が増加した状態になっているのである。結局、近代合理主義は、精神の否定なのである。 問題は、感覚・欲望・言語自我の肯定で、差異共振シナジー様相=精神様相の否定である。 大乗仏教は約二千年前からこの問題の解決を提示していたのである。トランス・モダンの大乗仏教である。これは、正に、驚くべき智慧である。 大乗仏教は、感覚・欲望・言語自我の解体、即ち、解脱を説き、基盤・根源の超越様相の差異共振シナジー様相に回帰する方法を解き明かしていたのである。 p.s. 以上のように、初めに、差異ありき、と考えると、連続的同一性(連一性)のもつ全体/一神教的暴力性・独裁/専制的支配性がよく理解できる。すなわち、差異共振シナジー様相という「宇宙」性を否定するから、連一性暴力は、いわば、絶対的な様態をもつのである。 思うに、ここは、宇宙性と微妙な関係があると思う。そう、D.H.ロレンスの畢生の名著である『黙示録論(アポカリプス)』の主題が正にこれである。ロレンスは、福音書のキリスト教ではなく、黙示録のキリスト教は、賎民の破壊的衝動を表現しているのであり、それは、高貴なもの、優れたもの、宇宙・コスモスの破壊の衝動を説くものであったと糾弾しているのである。 確かに、ロレンスの糾弾している黙示録の破壊的衝動と連続的同一性の志向・欲望とは通じると言えよう。これは、私の考えでは、一神教の欲望、全体主義・ファシズム的欲望に通ずるものである。また、当然、父権的欲望でもある。これは、また、正に、ニーチェの憎んだルサンチマンの情念である。近代主義とは、この恐るべき憎悪・破壊・悪魔的衝動をもっているのである。そう、フロイトの説いた死の欲動は、これに相当すると言えよう。精神分析論は、連続的同一性欲望論であり、一面的なものでしかないが、連続的同一性欲望=死の欲動という点では正解であったと考えられる。これは、一神教・西洋文明のもつ破壊的衝動である。ブッシュ/ネオコン/前コイズミ路線は、この悪魔的欲望をもったものと考えられる。 そう、ついでに言えば、シェイクスピアの『リア王』のリア王の忘恩の娘に対する憎悪・破壊的衝動は、宇宙性と連一性を併せもったものと思われる。ルネサンス/近代の中間の様態である。 現代日本は、この連一性的暴力衝動を孕んでいるの、たいへん危険である。前小泉政権を支持した者たちには、この連一性破壊衝動があったと推察されるのである。狂信的自我中心主義である。パラノイアである。
2007年01月04日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:自我精神病について:トランス・モダン・ネオ・ヤポネシアの内臓精神秩序へ向けて
後で検討したいが、自我症(近代的自我症)という広義の精神病は、反感・暴力・反動と関係していると思う。ルサンチマンである。これは、また、反知性と関係していると思うのである。思慮・内省・省察・瞑想・熟慮・自己認識等(古代ギリシア人の思慮・フロネーシス)が欠落して、憎悪に染まっていると思うのである。換言すると、連続的同一性自我認識に過ぎず、反射的認識に過ぎないのである。
では、この起因は何かである。そう、これは、自然のもつ連続的同一性志向性に拠るということではないのか。即非態から連続的同一性志向性が発する。これは、反感・暴力・反動につながるのである。そして、近代合理主義は、これに直結しているのである。伝統的には、なんらかの即非態の叡知がある。宗教や共同体は、集合的に、それを保持した。それが、中世末期に崩壊したのである。個の時代になったのである。このときに、自我が顕著となるのである。ホッブズの社会・世界である。簡単に言えば、精神的秩序の崩壊・解体が生じて、自我中心主義が発生したのである。精神的ヴィジョンの衰退があったのである。西欧の場合は、カトリック教会の精神的ヴィジョンである。日本の場合は、神仏習合的宗教心の衰退であろう。 これらの精神的秩序の崩壊があるために、無神論、ニヒリズム、唯物論、唯物科学が発生するのである【ツルゲーネフの『父と子』。ここで、19世紀ロシアを考えると、トルストイやドストエフスキーを生んだロシアとは、ロシアの精神的秩序の解体に瀕していたと言えるのではないだろうか。つまり、ロシア正教の解体の危機である。そして、ロシア唯物論的社会主義、ロシア・マルクス主義が生まれたと考えられるのである。そして、無神論・唯物論・マルクス主義が勝利して、ソ連体制が成立したと言えるだろう。日本では、とりわけ、戦後である。戦後唯物論の成立である。】そして、これが、自我中心主義精神病を生むのである。これは、悪魔的である。−1であり、闇・影である。 ここから、今日・現代の日本の暗闇の正体がよくわかるだろう。日本人は、精神的秩序を完全喪失しているのである。戦後唯物合理主義に染まって、自己喪失しているのである。自己愛性人格障害とは、自我中心主義精神病である。この社会的唯物自我精神病から脱却する必要があるのである。トランス・モダンなネオ・ヤポネシアの精神的秩序とは、内臓思考ではないのか。肚である。肚に精神があると言えるだろう。そして、それは、零度差異共振シナジー精神なのである。 p.s. プロテスタンティズムの問題であるが、これは、近代という個の時代における、キリスト教の探求である。しかし、矛盾しているのは、キリスト教とは、本来、共同体の宗教なのである。信者の小共同体の宗教である。それが、個人の宗教になるというのは、矛盾しているのである。 私見では、アメリカ人の宗教心であるが、それは、差異共振性(特異性)と連続的同一性(自我)との亀裂に、折り合いをつけるための観念(イデオロギー)であると思うのである。アメリカ合衆国という国家が、そのキリスト教と結んでいるので、国民を国家に統合させているのである。アメリカ人の差異共振性が発動すると、昨年のような中間選挙の結果が出るのだろう。しかし、その差異共振性は、連続的同一性(自我)と結んで、キリスト教を介して、国家ナショナリズムと資本主義を形成しているのであり、アメリカ主義になっているのである。このアメリカ人の差異性と同一性の連続的癒着が、アメリカを傲慢な国にしていると言えるだろう。 アメリカ人が、自身の差異を、キリスト教や国家ナショナリズムの目隠しから解放したときが、世界平和が来るときであろう。とまれ、多極化路線は、宗教的には、多元主義である。キリスト教がイスラム教や他の宗教と共生する必要があるのである。ユダヤ教も同じである。第3聖書が必要である。新聖書が必要である。差異共振シナジー聖書である。 p.p.s. 思えば、第三聖書は、既に書かれているのである。D.H.ロレンスの畢生の名作『死んだ男(逃げた雄鶏)』と天才的エッセイ『黙示録(アポカリプス)』がそれであると考えられるのである。差異共振シナジーとしてのコスモスがそこで表現されていると考えられるのである。イエス・キリストは、復活して、差異共振シナジーの個となったのである。 差異共振シナジーのコスモスへの回帰が説かれているのである。ここにおいて、対立は共振し、一如になっているのである。 また、日本においては、折口信夫の、これまた、畢生の名作『死者の書』に、差異共振シナジー的ヴィジョン・コスモスが表現されていると言えよう。 思うに、性愛であるが、両者に表現された性愛は、精神的なものである。精神的性愛なのである。これが、プラトンの表現したエロースであろう。
2006年12月07日(Thu)▲ページの先頭へ
近代とは何か:中世の秩序崩壊と差異の賦活と近代的自我の発生
iと-iは、零度共振様相にある。これは、対極(太極)様相である。i即非-iである。そして、この様相は、超光であると、考えられるのである。無限速度の超光が満たしていると考えられるのである。なぜなら、ここには、まだ、有限な時空がないからである。ここでは、すべてが無限である。あるいは、永遠である。なぜなら、あらゆるものが、一如であるからである。喩えて言えば、宇宙の一方の果てと他方の果てを、無時間で、結びつくからである。そう、すべての差異の距離は、いわば、等距離である。図式化すると、
差異1*差異2*差異3*・・・*差異n (*は即非ないし対極様相を意味する) となる。そして、差異1をコスモスの一方の端、差異nを他方の端とすると、差異1*差異2と差異1*差異nとの関係が一致するということである。喩えて言えば、等距離である。(参考:量子力学の非局所性)ここの無限空間には、超光が無限速度で移動していると考えられる。 問題は、このメディア空間(メディア=イデア空間)の現象化の力学である。いったい、無限からどうやって有限の現象界が発生するのだろうか。それは、虚数から実数の形成によってであろう。i*(-i)が、i・(-i)=+1となるのである。この+1が、同一性であろう。⇒+1とすれば、差異的同一性である。とまれ、虚数の積が、現象化の力学である。差異は、+1となるのである。すべての差異は、+1になるのである。単位化である。例えば、差異をリンゴとすれば、リンゴ1、リンゴ2、リンゴ3、・・・、リンゴnは、すべて、+1としてのリンゴとして共通なのである。(注意:一人称自己認識方程式を、私は、対象の方程式として転用している。)この+1が有限・現象ということである。 では、超光は、どうなったのであろうか。仮に、超光のエネルギーをEとすれば、E⇒mc^2であろう。ここで、当然ながら、現象界において、光速度が一定になっているのがわかるのである。つまり、無限速度の超光は、有限速度の光に変換したのである。そして、推測するに、mが重力であろう。つまり、超光エネルギーは、光と重力になったのである。この光と重力の時空間が、現象空間である。四次元時空間である(ただし、原時間軸は、虚軸であろう)。近代主義ないし近代合理主義の問題は、この+1の現象を、⇒+1ではなくて、=+1、そして、+1のみというように観測することである。もはや、内在超越次元の虚軸が喪失していることである。これは、i*-(-i)⇒-1で表されるだろう。つまり、他者-iを喪失した主観性-1で表現されるのである。つまり、+1の現象と−1の主観性(近代的自我)が、対発生しているのである。 ここで、先の問題を考えると、+1が現象光であり、−1が連続的同一性自我である。そして、これは、「光」と「闇」を形成している。では、iと-iは、どうなるだろうか。iが本来の自己で、-iが本来の他者である。これは、内的には、心と身体としていいだろう。そして、(近代的)自我の場合、心iは、他者である身体-iを否定するのである。心と身体との共振によって、個物・個体+1が形成されたのであるが、それを自我は、身体を否定して、−1と見るのである。上述したことを少し訂正しないといけないだろう。+1は、差異的同一性なのであり、−1が、反差異・連続的同一性なのである。−1が、近代合理主義、唯物論を意味するのである。−1が、物質単位である。結局、個体・個物の+1の様態を捉え損ねているのである。そう、私が、個体が特異性であるというのは、この+1のことである。つまり、近代的自我は、個体の特異性ないし単独性を捉え損ねているのである。連続的同一性としての個体・個物を見ているのである。つまり、虚軸・内在超越性の即非・対極性を無視しているのである。言い換えると、無限次元を喪失しているのである。第四次元を喪失していると言ってもいいだろう。相対性理論とは、+1の現象光の理論であるが、そのエネルギー論は、超光のエネルギー(エネルゲイア)を意味していると言えるだろう。(付け加えれば、量子力学は、物質主義の視点によって、イデアと現象の境界像としての超光を探究していると考えられる。つまり、イデアと現象の境界における超光の像を量子・素粒子としていると考えられる。) さて、ここで、先に述べた光と闇の問題を考えよう。iが光ならば、-iは闇である。ここで、+1の光と−1の闇との混同を避けるために、iを陽、-iを陰と呼ぼう。つまり、陰陽対極性をここに見るのである。ここで、これまでの難問にぶつかるのであるが、何故、主体iは、他者-iを否定するのかである。本来、iと-iは、両者、活性化されているからである。本来、プラスとマイナスで牽引するはずである。問題は、認識なのである。iの認識は、iに即した認識である。つまり、自己同一性認識である。自己投影認識である。簡単に言えば、一体化である。i=-iである。差異の喪失である。おそらく、-iも同様に、自己投影するのだろう。即ち、-i=iである。ここで、卑近な例として、女男関係を考えるといいだろう。相互自己投影の相互誤解である。陽は陽的同一性を、陰は陰的同一性を他者に見るのである。とまれ、iを心、-iを身体とすると、心には、身体が見えず、身体には、心が見えないということになるだろう。 ということで、他者否定は、必然であることになったのである。陰陽は共振シナジーとなっているのにかかわらず、自己同一性の視点から見ることから他者否定が生起することと考えられるのである。結局、主体iが他者-iを知るには、他者に目を向けなくてはならないということである。この場合は、身体に眼を向けるということである。つまり、内観の必要である。こにより、心iは、身体-iを知ることができるようになるのである。だから、自己投影とは、外観することによると言えよう。視線を外界に向けるとは、他者を見るのではなくて、自己投影なのである。内界に向くことで、他者に出会うのである。だから、身体を見よ。内部である身体を見よ、である。ここに精神が存するのである。近代主義は、視線を単に外部・外界に向けるだけで、内面に向けることを疎かにしたのである。 では、何故、内界を看過して、外界に眼を向けることになったのか。これは、遠近法の発達とパラレルと考えられる。思うに、これは、倫理の崩壊の帰結ではないだろうか。倫理があれば、内界に向くだろう。つまり、内部の他者との関係があり、単純に眼を外界に向けることはないのであると考えられるのである。近世、近代初期は、中世の価値観の崩壊である。つまり、封建的価値観、倫理観の崩壊を意味する。これは、シェイクスピアの悲劇『リア王』等を見れば、よくわかるだろう。二つの自然があるが、一つは、王権的道徳的自然観であり、一つは、唯物論的自然観である。中世封建的ヒエラルキー的価値観を崩壊、脱コード化があり、それで、個体は、倫理・道徳から解放されて、外界へと無道徳的に目を向けるようになったと考えられるように思えるのである。そう、有り体に言えば、神の死が、近世・近代初期にあったのだろう。もっとも、その神は、iの抑圧された精神性ではあったが。角度を変えて言えば、それは、新たな差異の活性化の時代ではある。中世的道徳の崩壊と差異の活性化。これが、一面では、ルネサンスを生み、他面では、近代的自我を生んだと考えられるのである。
2006年12月04日(Mon)▲ページの先頭へ
光認識は、何故優位になったのか:「左脳」が何故、「右脳」より優位になったのか:精神・光と身体・闇
本件は、以前からの難問(アポリア)である。簡単に述べると、外界認識の必要から、光認識が闇認識(身体認識)よりも優位になったとは、常識的に考えられるだろう。しかし、狩猟採集の時代では、人間は、メディア・現象空間に生存していたと考えられる。つまり、差異共振界と同一性現象界との融合の内に生活していたと考えられるのである。前者がコスモスであり、後者が感覚界である。つまり、精神と感覚が融合していた生活空間に生きていたと考えられるのである。 その後、近代主義により、両者は分離して、物質や近代合理主義が生まれる。簡単に言えば、内界を隠蔽した、外界優位・中心の認識の世界となったのである。近代が確かに分水嶺であるが、それまで、内界は、例えば、芸術では、アレゴリーとして、視覚化されていた。抽象観念の視覚的具象化としてアレゴリーである。だから、内界と外界との結合文化があったのである。しかし、近代は、外界から内界を規定するのである。つまり、外界視覚的観念・表象から、合理性を確立したのである。簡単に言えば、唯物論である。(唯名論ともだいたい言えるだろう。) この傾斜の力学は何なのか、ということである。自己認識は、本来、内界と外界の接点の認識であるが、(近代的)自我認識は、内界を無意識にした、外界中心の認識である。 先の考察では、光認識は、必然的に、闇認識を覆ってしまい、盲になると言った。この光認識とは、自己投影認識である。つまり、i*-(-i)⇒1である。光⇒闇である。そして、-(i)*(-i)⇒1の場合もある。これは、他者の同一性の場合で |