ポスト近代的自我/ポスト唯物論

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2011年03月27日(Sun)▲ページの先頭へ
「天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義:トランセンデント・モダン
以下、東海アマ氏は持論の「天皇制」批判を唱えているが、この問題については既述したので、繰り返さない。
 ただ、今度の大震災における政府の姿勢を見て、日本国の封建的国家体制が浮き彫りになったと感じられる。
 つまり、江戸・徳川幕府体制との連続性ないしは類似性が感じられるのである。
 これは当然、ヒエラルキー体制であり、国家支配層が上部にそびえ、民衆が下部にいて、支配される体制である。
 民主主義体制ではあるが、それは、形式主義的でしかなく、封建的ヒエラルキーが実質的に存すると考えられる。
 日本の「資本主義」が国家資本主義、社会主義であるのは、これが原因だと考えられる。つまり、国家権力形式として、封建主義が存しているので、それが、資本主義を吸収して、国家資本主義、社会主義を生んでいるのである。
 民主主義も同様で、封建的国家権力形式が民主主義を吸収しているのであり、言わば、封建的民主主義である。
 そう、これはまた、「天皇制」(今日の「天皇制」ではなく、戦後以前のそれである)も同様であると考えられる。封建的国家権力形式が「天皇制」を吸収して、封建的「天皇制」となっていると考えられる。
 結局、明治維新を迎えても、背景にある封建制はしぶとく延命して、今日まで日本国を支配してきたと考えられる。
 では、封建制とは何かと言うと、端的に、父権制であることである。それは、父権的自我主義なのであり、自我優越妄想主義なのである。
 それは、知や真理ではなく、自我の虚栄心(名誉心・面子や体面:これは儒教的というべきでなく、儒教が父権的自我主義によって捩じ曲げられた結果、そのような見栄を生むと見るべきだ)にこだわる態度である。
 そう、自我には先験的優越・妄想性があるのであり、それが、独善性、独断性、欺瞞性等々の虚偽を生んでいると考えられるのである。
 自分が正しいと妄想的に思い込んでいるのである。だから、狂信・狂気的なのである。
 このような封建・父権的国家体制だから、「太平洋戦争」で破滅して、また、今日、大震災・原発崩壊で破滅を迎えていると考えられるのである。
 先に「二つの民族」の日本民族説を唱えたが、父権的民族性が徳川幕府から今日まで、支配的になったということではないのか。
 東海アマ氏が批判する「天皇制」をそのよう封建・父権的国家体制が取り込んだ「天皇制」として見るべきであり、本来のアジア的母権的天皇文化ではないと考えるべきと判断する。

追記:近代化、近代主義について触れていないので、少し触れたい。いったい、それは何か。当然、西欧近代化ないし、欧米的近代化である。
 そこには、イタリア・ルネサンスに拠る『個』の覚醒があり、また、プロテスタンティズムにおける、『個』と『神』との超越的関係の生起が基盤としてあった。
 そして、近代的自我とは、それが元になりながらも、自我意識が主体になったものと考えられる。デカルトの自我である。
 つまり、西欧ないし欧米の近代化、近代主義には、精神における『個』と自我との統合があると考えられる。正しく言えば、『個』と自我との連続体(連続的同一性)があると考えられる。
 それに対して、日本の明治以降の近代化とは、どうか。日本伝統文化・社会においては、個的共同体主義があったと私は考えているが、日本の近代化は封建・父権主義が西欧ないし欧米の近代化を導入し、この伝統的な個的共同体主義を破壊していったと考えられる。
 ここに日本近代化の問題点があるのである。つまり、西欧ないし欧米においては、ベースに『個』が存しているのであるが、日本の場合は、支配層の封建・父権的自我主義が主導的なことが決定的な問題点である。
 ここに日本近代化のボタンの掛け違いがあるのである。本来、近代化とはベースに『個』があるが、日本では、伝統的な個的共同体の『個』を破壊して、封建・父権的自我主義がベースになったと考えられるのである。
 つまり、逆立ちした近代化・近代主義なのである。(以前、封建的近代主義と呼んだものはこのように理解されるべきである)。だから、きわめて、いびつなグロテスクな、そう、倒錯した近代化・近代主義なのである。
 もっとも、そうは言うものの、西欧近代化、欧米的近代化がそのままいいというわけではない。そこには、『個』と自我との連続性がある点が問題なのである。言い換えると、『個』と自我が混淆・混同されているために、『個』のもつ共同体性がわからなくなっていることが最大の問題点であると考えられるのである。わかりやすく言えば、利己主義が中心化していることが問題なのである。
 とまれ、近代化・近代主義は乗り越えが必要であるが、それは、『個』と自我の脱連続化・不連続化が大前提である。これは、PS理論の前身の不連続的差異論が為したことである。これまで、この精神をトランス・モダンと呼んだが、『個』と自我とが分離する精神をトランス・モダンと呼ぶだけいいのか問題である。少なくとも、トランス・セルフとは言える。
 今はここで留める。

追記2:インター・インディヴィジュアル inter-individualという言葉が浮んだ。相互個、間個、共同個である。
 なお、個と個人は異なる。『個』とは人間を越えたものがあるのである。つまり、超越性が関与するのである。
 そう、トランセンデント・モダン transcendent modernという言い方が可能であろう。超越的近代である。

tokaiama


1. 天皇制をこれ以上書くとフォロワーが半分消えるはず。これだけで数千名が消えたかな。しかし、福島原発巨大事故の根底に死刑・天皇・原発の三点セットによる国民管理があると東海アマが妄言を吐いていたとだけ記憶してもらいたい 5秒以内前 webから
2. 天皇を研究してきた人は100%万世一系などという幻想を信じてない。天皇制の根底が山県有朋や平泉澄らの教育洗脳であることを知っている。それどころか天皇が百済由来の秦氏末裔という学説に反対できる者など皆無だ。天皇は朝鮮から来たことはもう常識なんだ。先住民は蘇州や沿海州から来ていた 3分前 webから
3. 日本では9割の人たちが死刑制度を支持している。国家の国民管理の根底に「言うことを聞かないと殺すぞ!」と人を脅して従わせる原理をとっている。同じ人たちが「便利な生活のために原発は仕方ない」と洗脳されてきた。「天皇様のいる日本を愛す」という虚構とともに。放射能よ洗脳を洗い流せ! 7分前 webから
4. 死刑・原発・天皇制これは三点セットで国家基盤を作っていた。これに反対すると多くの人が無条件に嫌悪し排斥するだろう。その一角、原発が崩壊した。次は死刑、最期に天皇制になる。もう一度イマジンを思い出して「想像してごらん国なんてどこにもないんだよ」 我々は地球の上にいるだけ、命とともに 11分前 webから


2010年11月22日(Mon)▲ページの先頭へ
「暴力装置」について:精神的権力論と唯物論的権力論
テーマ:近代合理主義/唯物論/ポスト・モダン批判

私は「暴力装置」という概念は、唯物論的であるし、機械論的であると述べたし、この考えを変えるつもりはない。
 「自衛隊」、国防軍、防衛軍、軍部を「暴力装置」と呼ぶのは実に一面的、皮相に過ぎない。
 そもそも、「装置」とは、物質的器具のことであり、「自衛隊」、他は生きた人間の組織や営為を意味するのであるから、物質的器具ではありえないのであるから、暴力「装置」は誤りである。
 また、「暴力」であるが、これは、明らかに、悪としての物理的強制力を意味するのであり、「自衛隊」等をそう呼ぶのは、誤解以外の何ものでもない。
 確かに、権力はこれまで暴力を振るってきた。戦争や死刑等がそうである。
 しかしながら、外国の国家暴力に対して、自国が武力的に対抗しないのは、当然、自滅的である。この武力を暴力と呼ぶのは、明らかに誤謬である。それは、自衛・防衛のための物理的力能である。それは、自衛・防衛・国防という精神性・理念をもつものであり、それを単に道徳的に悪を意味合いをもつ暴力と形容することは間違いである。
 確かに、物理的、物質的に見れば、自衛・防衛・国防は「暴力」である。しかし、それは、物理的・物質的還元であり、精神現象を捨象しているのである。正に、唯物論的視点以外の何ものでもないのである。
 マックス・ウェーバーが、トロツキーの「暴力装置」を採用したということは、正に、それは、唯物論的概念ということであり、ウェーバーの社会学の精神性とは、異質なものであると言える。言い換えると、ウェーバーが、「暴力装置」概念を採用したとき、彼は唯物論的であったと言えるのである。
 とまれ、「暴力装置」概念がウェーバーに拠るのではなく、永久革命論者のトロツキーのものであるというのは、この概念の唯物論性の決定的証拠である。


参照:

『◆ 2010/11/21(日) 『イデアル・ティップス』 って知ってる?

・・・・・

じつは、「暴力」という言語に関しては、マックス・ヴェーバー自身が、左翼が言い出した政治用語だと書いているのだ。次がヴェーバーの文章だ。

 「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」 と トロツキーは こう喝破したが、この言語は実際正しい。 (『職業としての政治』)

 「極左暴力主義者」のことを「トロツキスト」と言うときの あのトロツキー である。
ここで、ヴェーバーは、別に過激なトロツキストを擁護し、弁護しているのではない。

 ヴェーバーは、次のように言いたいのである。ヴェーバーの意図するところは、
「 “暴力・violence” という激しい言葉でしか表現できない荒々しい物理的強制力を、国家という共同体は独占している!
国家が独占している究極の強制力こそ “暴力” なのだ!」 と。
 ここでヴェーバーの意図するところは、
「国家が独占する究極の強制力は、“暴力・violence” という言葉でしか表現できない。
“force” や ”power”、また “武力” や ”威力” では、意味が薄くなるので駄目!」 ということである。』


たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 _


2010年10月29日(Fri)▲ページの先頭へ
左派唯物論者が用いる内在性という概念の問題:内在性と超越性
テーマ:ポスト近代合理主義/ポスト・モダン批判

左翼唯物論者/マルキスト、ネグリとハートの『帝国』で使用される、気になる概念は、ドゥルーズの内在性である。
 彼らは、ドルーズ主義者なので、それを正当のように使用しているが、PS理論から見ると、その概念はまったくの錯誤・誤謬である。
 マルチチュード(世界的プロレタリアートの混成体)の内在性を、「革命」の原動力と見ているようだが、それは、結局は反動となると考えられる。
 超越性(内的超越性:これは又、外的超越性でもある)をもたない限り、物質的内在性は、同一性へと帰結するのであり、それが反動である。
 結局、個・差異の共立・共振、また、差異共融の超越的視点をもたない限り、政治活動は反動化するのである。
 マルチチュードではなく、差異共立が政治を切り開くと言えよう。
 差異共立は国家にあっては、national individuality になるべきだと考えている。民族的個である。
 民族性が、個にとっての、超越性の具体的様相であると思われる。
 日本人ならば、神道や仏教が超越性の民族的具体性である。この民族性については、新たに検討したいが、一言いうと、個の超越性を形成するのは、個の超越的根である。その根は民族的固有性をもっていると考えられる。
 そして、個の根源はMP(Media Point)であるので、MPは民族固有の双極子的様相をもっていると思われる。
 つまり、民族的MPがあるのであり、個はそれを帯びているのである。即ち、超越性⇒民族的MP⇒個である。
 今はここで留める。

追記:内在性の概念はスピノザ哲学に基づく。スピノザ哲学については、以前、問題点を述べた。即ち、連続性の理論なのか、不連続性の理論なのか、あいまいであるという点である。強いて言えば、連続性の理論である。神⇒属性(精神・思惟と身体・延長の心身平行論)⇒様態という発想をもっているのであり、⇒が連続性になっていると考えられるのである。 
 ドゥルーズは、ここに内在性の概念を見たと言えよう。しかし、これは、同一性の理論である。神という同一性が、個物の同一性へと帰結すると考えられるからである。
 思うに、PS理論の視点から、スピノザ哲学を新たに批判することが可能である。余裕のあるとき論じたい。

マルチチュード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



マルチチュード(Multitude)とは、マキャベリ によって最初に使用され、その後スピノザ が用いた政治 概念である。最近では、アントニオ・ネグリ とマイケル・ハート の帝国 論を契機として再び注目を集めている。マルティテュード、ムルチチュードとも。ラテン語 では“多数”“民衆”などの意味を持つ概念である。 「多数性」「多性」「群衆性」などの訳語もあてられる。
ネグリ=ハートのマルチチュード論 [編集 ]

マルチチュードとは、政治哲学 者で元パドヴァ大学 政治社会科学研究所教授 であるアントニオ・ネグリとデューク大学 文学部准教授であるマイケル・ハートが、共著『帝国』および『マルチチュード』において地球 規模による民主主義 を実現する可能性として、国境 を越えるネットワーク 上の権力 として提唱している概念 のことである。

ネグリはマルチチュードを、近代 以降に登場した超大国 の覇権 によるグローバル な世界秩序である帝国主義 に対抗し、これからの世界を変革し得る存在としてそれぞれの国家 の国民 や企業 を含む超国家的なネットワーク上の権力として位置付けている。

ネグリはマルチチュードについて、いわゆる19世紀 以降の社会主義 に代表される革命 に見られた多様性 と差異 性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合 されたひとつの勢力 でありながら多様性を失わない、かつ同一性 と差異性の矛盾 を問わぬ存在としている。
参考文献 [編集 ]

* アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『マルチチュード(上・下)』日本放送出版協会[NHKブックス]、2005年。

執筆の途中です この「マルチチュード」は、共産主義 に関連する書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています 。(ポータル 政治学 /ウィキプロジェクト 政治 )
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%89 」より作成

Multitude
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Look up multitude in Wiktionary , the free dictionary.

Multitude is a political term first used by Machiavelli and reiterated by Spinoza . Recently the term has returned to prominence because of its conceptualization as a new model of resistance against the global capitalist system as described by political theorists Michael Hardt and Antonio Negri in their international best-seller Empire (2000) and expanded upon in their recent Multitude: War and Democracy in the Age of Empire (2004). Other theorists which have recently used the term include political thinkers associated with Autonomist Marxism and its sequelae, including Sylvère Lotringer , Paolo Virno , and thinkers connected with the eponymous review Multitudes .

http://en.wikipedia.org/wiki/Multitude


Empire (book)
From Wikipedia, the free encyclopedia
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For other uses, see Empire (disambiguation) .
Empire
Swedish edition (Imperiet) cover
Swedish edition (Imperiet) cover
Author Michael Hardt and Antonio Negri
Country United States
Language English
Subject(s) Globalization , geopolitics
Publisher Harvard University Press
Publication date 2000
Media type Print
ISBN ISBN 0-674-25121-0 (hardcover) ISBN 0-674-00671-2 (paperback)
OCLC Number 41967081
Dewey Decimal 325/.32/09045 21
LC Classification JC359 .H279 2000
Preceded by Labor of Dionysus: A Critique of the State-Form
Followed by Multitude: War and Democracy in the Age of Empire

Empire is a text written by Marxist philosophers Antonio Negri and Michael Hardt . The book, written in the mid 90s, was published in 2000 and quickly sold beyond its expectations as an academic work.[1] In general, the book theorizes an ongoing transition from a "modern" phenomenon of imperialism , centered around individual nation-states , to an emergent postmodern construct created amongst ruling powers which the authors call Empire (the capital letter is distinguishing), with different forms of warfare:

If, according to Hardt and Negri's Empire, the rise of Empire is the end of national conflict, the "enemy" now, whoever he is, can no longer be ideological or national. The enemy now must be understood as a kind of criminal, as someone who represents a threat not to a political system or a nation but to the law. This is the enemy as a terrorist.... Hardt and Negri get this absolutely right when they say that in the "new order that envelops the entire space of... civilization", where conflict between nations has been made irrelevant, the "enemy" is simultaneously "banalized" (reduced to an object of routine police repression) and absolutized (as the Enemy, an absolute threat to the ethical order"[2] ).[3]

They proceed to elaborate a variety of ideas surrounding constitutions, global war, and class. Hence, the Empire is constituted by a monarchy (the United States and the G8 , and international organizations such as NATO , the IMF or the WTO ), an oligarchy (the multinational corporations and other nation-states) and a democracy (the various NGOs and the United Nations ). Part of their analysis deals with "imagine[ing] "resistance to it", but "the point of Empire is that it, too, is "total" and that resistance to it can only take the form of negation - "the will to be against"[4] . The Empire is total, but economic inequality persists, and as all identities are wiped out and replaced with a universal one, the identity of the poor persists[5]

This description of pyramidal levels is a replica of Polybius ' description of Roman government, hence the denomination "Empire". Furthermore, the crisis is conceived as inherent to the Empire. Negri & Hardt are also heavily indebted to Michel Foucault 's analysis of biopolitics [6] and Gilles Deleuze 's philosophy. Before that book, Negri was best known for having written The Savage Anomaly (1981), a milestone book in Spinozism studies which he wrote in prison. Empire is thus, unsurprisingly, also influenced by Spinoza . The ideas first introduced in Empire (notably the concept of multitude , taken from Spinoza) were further developed in the 2004 book Multitude: War and Democracy in the Age of Empire and the 2009 book Commonwealth, which were also written by Negri and Hardt.

Empire has created important intellectual debates around its arguments. Many scholars have compared the evolution of the world order with Hardt and Negri's world image that they pictured in the "Empire".[7]

It was published by Harvard University Press in 2000 as a 478-page hardcover (ISBN 0-674-25121-0 ) and paperback (ISBN 0-674-00671-2 ).

http://en.wikipedia.org/wiki/Empire_%28book%29

Multitude: War and Democracy in the Age of Empire
From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Multitude:_War_and_Democracy_in_the_Age_of_Empire

バールーフ・デ・スピノザ

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年 11月24日 - 1677年 2月21日 )はオランダ の哲学者 、神学者 。一般には、そのラテン語 名ベネディクトゥス・デ・スピノザ (Benedictus De Spinoza) で知られる。デカルト 、ライプニッツ と並ぶ合理主義哲学 者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論 と考えられてきた。また、ドイツ観念論 やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。

彼の肖像は1970年代 に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。

・・・・・
存在論・認識論 [編集 ]

ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。

デカルト は神を無限な実体[3] として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体 を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む[4] 神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である[5] ものである(自己原因)[6] 。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである[7] 。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神 における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる[8] 。

スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[9] と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[10] 」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[11] 人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[12] 、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6


2010年02月14日(Sun)▲ページの先頭へ
昨日、久しぶりに(半年ぶり?)、東京の古巣に帰った:東京の物質主義的町並みの醜悪性:縄文精神復興
昨日、久しぶりに(半年ぶり?)、東京の古巣に帰った:東京の物質主義的町並みの醜悪性:縄文精神復興

テーマ:ポスト唯物論/唯物論の超克

もう、二度と東京に住むこと、あるいは、大都市に住むことはないだろう。
 はっきり言って、高層ビルは言うまでもなく、コンクリートの数階建ての建物は見ると、心に嫌悪感というか、不快感、胸糞の悪さ、というか、心の苦しさ、 苦痛が起こるのである。(また、「気」が感じられないこともストレスになる。)
 つまり、精神は共振するものを外界に求めるのに、コンクリートの平凡な建物、縦横の幾何学の建物に表面には、共振せずに反感をもつということである。つ まり、ストレスが発生するのである。
 今は、森が近くにかなりある郊外に住んでいるので、精神性は満足する。そう、精神と森(端的には、樹木)が共振するのである。この理由については後で検 討したいが、一言言うと、子供の頃、田舎の林野を自由に歩いたことと今の森の中の散歩は通じるものがあると感じられる。
 縄文的ノマッド的精神性と言うべきなのか。思うに、今日、日本人は民族の一つの本性である縄文的精神を喪失しているのである。日本に民主主義を定着させ るためには、内なる縄文的精神に基づく必要があるだろう。


精神性と発話:二つの視覚:心眼と肉眼

テーマ:検討問題:思考実験・仮説

もうだいぶ昔のこと、80年代半ばのことか、それとも、90年代初頭のことか。
 駅前のファースト・フードで読書していたときであるが、若い女子たちの話し声が、頭中心で、心が抜けているのに、怪訝に感じ、強く違和感をもった。
 今考えれば、物質主義的であり、精神性が欠落した状態だと思う。これは、心眼の喪失であり、肉眼への傾斜である。
 トランス・モダン教育とは、心眼形成教育になる必要がある。文科省の形式主義ではだめである。



2009年08月27日(Thu)▲ページの先頭へ
物質とは何か:2:差異共振様態の表層の実数としての物質、即ち、仮象・虚構としての物質
もっともシンプルな例で考えよう。水素と酸素を結合させて水を作る反応を考えよう。
2H2+02⇒2H20
これはいったい何なのか。PS理論で考えると、水素+iと酸素-iが反応して、水 ⇒+1が生起する。この⇒が重要なのである。水を+1としたとき、それは、表層としての水であり、深層が欠けているのである。深層とは思うに、水素イオンと酸素イオンではないだろうか。つまり、水素イオンが+iであり、酸素イオンが-iと考えられる。これが、差異共振(融合)して、表層の水が生まれるのであるが、深層は水素イオンと酸素イオンとの差異共振様態であると考えられる。
 表層だけの水が端的に物質であり、深層から表層を包摂した水が身体であると考えられる。表層とは深層の上層であり、実は、深層の一部なのであるが、深層を無視した表層である物質とは、実は、仮象であることがこれでわかるだろう。
 現象という表層だけをとり出して、物質という虚構を作り出しているのである。また、⇒-1も考えられる。水素イオンと酸素イオンの共立様態である。思うに、これが、深層の深層である。つまり、水とは、Media Point において、⇒+1と⇒-1との二面性をもっているのであるが、物質としての水+1は、これを無視して虚構されたものと言えよう。
 では、物質と呼ばれる表層のみの身体とは何か。それは、表層における近似値的な身体(正しくは、精神身体)であり、本来の真実ではないのである。その力学は、あくまで、実数である近似値であり、本体の虚数は無視されているのである。
 そう、水の例で言えば、本体は、虚数の水素イオンと虚数の酸素イオンの差異共振様態であるが、それが表層の実数が実体と考えられているのである。実数は、あくまで、仮象に過ぎないのである。
 ということで、物質とは、虚数の差異共振様態を、表層の実数として錯誤したものと言えよう。当然、マーヤーである。
 結局、量子力学は、虚構である物質を超えて、虚数としての超越という実体をほぼ捉えたものと言える。言うならば、超越的身体である虚数の差異共振様態の科学が量子力学と言えよう。端的に、イデア科学であるが、物質主義に留まっているので、非局所的長距離相関のような実数的発想に囚われているのである。虚数ないしは虚軸の領域を考えれば、非局所的長距離相関という発想は必要はないのである。
 
参照:
2007-02-23 非局所的長距離相関をどう見るのか:自己認識方程式と量子:原波即非CommentsAdd Star

非局所的長距離相関をどう見るのか:自己認識 方程式と量子:原波即非 粒としてのイデア と連続 的同一性

テーマ :相対性理論 /量子論

夕飯時だというのに、人の少ないドトゥールで、ミラノサンドAとブレンドを注文して、夕飯代わりにしたが、引き込まれている『量子力学 入門』を取り出して、最後の方を読んで、素粒子 の波動 と粒子性の排他的 二重性を確認して、先の私の考察 (思いつき)では、波動 が説明できていないことがわかったので、また、考え直すため、シャーペン を取り出して、本の余白に書き込んだ。メモ はそのままにして、内容を簡潔に記そう。

 すなわち、自己認識 方程式i*(-i)⇒+1において、iを原波動 、-iを原粒子と考えてみた。すると、方程式は、

原波動 -即非 -原粒子⇒光

となるだろう。簡単にするため、原波動 を原波、原粒子を原粒としよう。即ち、

原波-即非 -原粒⇒光

となる。光は光子 であり、電磁波 であるから、粒子であり、波動 である。しかし、これは、排他的 二重性である。



 電子 の場合でも、当然、かまわない。電子 波動 と電子 粒子である。

 さて、問題は、観測である。波動関数 が収縮するという問題である。つまり、波動 が粒子に変換する問題である。(この収縮であるが、なにか、クザーヌスの無限 の縮限としての有限・現象の考えを想起した。おそらく、通じるだろう。)

 ここで、原点(メディア ・ポイント )を考えたのである。素粒子 (この場合、光子 )は、原波・即非 ・原粒⇒光である。つまり、原点(メディア 界ないしメディア ・フィールド ないしメディア 場)において、素粒子 (正しくは、原素粒子 )は、原波・即非 ・原粒様相である。つまり、簡単に言えば、波動 と粒子との二重矛盾様態にあるということである。しかし、正確に言えば、前波動 と前粒子の二重矛盾様態である。ここは微妙 である。

 とまれ、私が想像 したのは、この原点の素粒子 を観測するとき、i*i⇒-1、(-i)*(-i)⇒-1となると考えたのである。即ち、前者 が、波動 であり、後者 が粒子である。粒子として観測すれば、粒子となり、波動 と観測すれば、波動 となるということである。



 もう少し正確に述べよう。原点の素粒子 とは何か。それは、イデア /現象境界の素粒子 ということである。メディア 場の素粒子 ということである。ここは、イデア 界と現象界の境界である。即ち、原波動 /原粒子が作用しているのである。原二重性が作用しているのである。これが、観測によって、現象・物質化して、波動 なり、粒子なりと実測されると考えられよう。

 素粒子 は、これまで述べてきたように、イデア /現象境界、すなわち、メディア 界(メディア 場、メディア ・フィールド )の「存在」であり、中間・両義的である。



 だから、原波動 ・即非 ・原粒子というイデア と、波動 と粒子という物質の両面を帯びていると考えられるのである。そして、観測によって、素粒子 は、物質化されて、波動 か粒子のどちらかに分化すると考えられるだろう。

 ここから、本件の非局所的長距離相関という仮説を考えると、量子力学 は根本 的に書き換えられなくてはならないように考えられるのである。



 すなわち、素粒子 は、粒子と波動 との相補性というよりは、原粒子と原波動 との即非 様相(事相)にあると見るべきなのである。つまり、非局所性は成立しないのである。なぜなら、粒子でも波動 でもなく、ただ、原粒子・即非 ・原波動 の二重矛盾様態(「絶対矛盾的自己同一」)にあるのであるから。イデア 空間は、即非 空間であり、純粋 な粒子性はないからである。

 ならば、量子力学 は書き換えられて、PS 素粒子 論(PS 量子論)ないしイデア 素粒子 論(イデア 量子論)ないし即非 素粒子 論(即非 量子論)にならなくてはならないだろう。

http://d.hatena.ne.jp/
sophiologist/20070223

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Fri, November 30, 2007 17:20:07
四次元量子論から、PS理論的高次元量子論へ:実軸現象界からガウス平面五次元界へ
テーマ:相対性理論/量子論 以下の量子論の解釈は、量子とは、粒子と波動とが相互変換するものということである。
 しかし、この解釈も奇妙ではないだろうか。そうならば、相互転換する仕組みはどうなのだろうか。やはり、同時二重性を認めるのが、整合的であると思えるのである。
 この問題は解明済みであるが、ミクロの世界に、Media Pointを見ることで解明されるのである。波動=振動とは、Media Pointにおける波動=振動であり、そこでは、いわば、超越波動(虚波動)と物質波動(実波動)とが即非的に併存しているのである。(おそらく、共振していると言うべきであろう。)
 粒子とは、物質波動における生成する同一性物質のことであろう。だから、量子とは、粒子であり、物質波動であり、且つ、超越波動(虚波動)なのである。一種三相共振態である。つまり、超越波動が根源にあり、Media Pointを介して、粒子と物質波動が同時生起するのではないだろうか。
 言い換えると、粒子は同一性であり、波動は二重なのである。思うに、Media Point波動ないしはMedia Point振動と呼べるだろう。すなわち、Media Point Wave(MP Wave)である。略して、MP波動(振動)と言おう。
 このMP波動が水平性と垂直性を共振させているのである。二重スリットの実験では、光子は一個であると同時に、MP波動が作用していると考えられるのである。
 以前にも述べたが、このMP波動(MP波動/粒子)が、いわゆる非局所的長距離相関を合理的に解明すると考えられるのである。すなわち、Media Pointの虚軸の方向に量子が作動しているということである。端的に、量子とは高次元体なのである。量子を単に実軸的四次元世界で考えると、非局所的長距離相関というパラドックスが生まれてしまうのである。
 リサ・ランドールによって、量子論は五次元・高次元へと今や進展したのである。それは、実軸原点という壁をブレークスルーしたと言えよう。トランス・モダン量子力学である。
 とまれ、後で、超越波動と物質波動との共振様相の実相について考察したい。

####以下引用・転載#####

 結論。
 以上のすべてをまとめて言えば、次のようになる。


 従来の学説は、量子を「粒子と波の双方の性質をもつもの」というふうに描写する。その際、基本としては、「量子は粒子である」と立場を取る。
 その結果、「一つの粒子が複数の状態をもつ」(一つの粒子の可能性が広く分布する)(重ね合わせ状態にある)という奇妙な表現を取るようになった。その奇妙さが、さまざまなパラドックスとして現れた。次のように。
  ・ シュレーディンガーの猫は、「生と死」という双方の状態にある。
  ・ 二重スリット実験では、一つの電子が二つのスリットを同時に通る。
 こういう奇妙な結論が出る。その理由は? 話の最初に、「波の性質をもつ粒子」というものを考えたからだ。
 だから、そういう根源的に矛盾した発想を、捨てればよい。かわりに、「粒子と波の相互転換」という発想を取ればよい。そうすれば、すべては整合的に理解される。
http://hp.vector.co.jp/authors
/VA011700/physics/quantum
.htm

 量子論/量子力学 
 
        …… その最前線

*****************

参考:

いま、この力学系には、A(の力学量)が値aを取ればB(の力学量)が値bを取り、A(の力学量)が値bを取ればB(の力学量)が値aを取という相関関係が与えられていたとする。例としては、第五章の「スピンと波動関数」 の項のスピン状態χ+(s, s')またはχ-(s, s')などがある。(簡単のために、これからは断りなしに「の力学量」および「値」という言葉を省略することもある。)この相関関係があるとき「Aがa、Bがb」および「Aがb、Bがa」という運動状態が同時に存在する。したがって、そのおのおのの波動関数を、それぞれ、Ψ1(Aがa、Bがb)とΨ2(Aがb、Bがa)と書くことにすれば、重ね合わせの原理により、この力学系の状態は

Ψ=Ψ1(Aがa、Bがb)+Ψ2(Aがb、Bがa)

でなければならない(Ψはプサイと読む)。この相関関係が成立した後、AとBを十分遠く(たとえば、宇宙の中で星間距離ほど遠く)引き離して、Aがいる場所でAの力学量の測定を行う。その結果、第一の場合として、A(の力学量)が(値)aを取ったことがわかれば、「波動関数の収縮」Ψ→Ψ1(Aがa、Bがb)が起きるはずだ。したがって、ただちにB(の力学量)が(値)bを持っていることを知る。第二の場合として、測定結果がA(の力学量)の値としてbを与えたとすれば、「波動関数の収縮」は、Ψ→Ψ2(Aがb、Bがa)であり、ただちにB(の力学量)が(値)aを取ることを知るわけだ。
 いずれの場合も、宇宙的距離ほど離れたBに情報が瞬時に(光の速度を超える速さで)伝わった! なんとも不思議である。これを非局所的長距離相関という。
http://homepage2.nifty.com
/einstein/contents/relativity
/contents/relativity316.html

●EPRパラドックス --- アインシュタインの嫌う非局所的長距離相関

近未来最先端軍事テクノロジー
http://www.f5.dion.ne.jp
/~mirage/hypams04/
quantum_1.html
EPRパラドックスの検証
http://nucl.phys.s.u-tokyo.
ac.jp/sakai_g/epr/

コペンハーゲン解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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コペンハーゲン解釈(コペンハーゲンかいしゃく)は、量子力学 の解釈 の一つである。量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ねあわせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈 し、観測すると観測値に対応する状態に変化する(波束 の収束 )と解釈する。


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参照:


+1は何も生まない。-1は豊穣である。

http://blog.kaisetsu.org/
?eid=610782

A-T,C-Gが対となった二重螺旋の意味

http://blog.kaisetsu.org/
?eid=610784
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10057880977.html

差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間)
2007.05.06 Sunday | category:プラトニック・シナジー理論
差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間):

差異的同一性を差一性(ないし差同性)と呼ぶ。すなわち、差一性Aと差一性Bとにおける差異共振性(差異共振シナジー性)の実質はどういうものなのか。 A≠Bであり、同時に、A=Bであるという即非の論理がここで成立する。通常の論理では、不等号の論理であるか、A=Aの同一性等価の論理が作用する。即非における等価の論理では、差一性が共振している。ここで、図式化してみよう。

差一性1・差異共振性1・差一性2・差異共振性2・差一性3・差異共振性3・・・

差一性をDifference Identity(DI)として、差異共振性をDifference Resonance(DR)とすると、

DI1-DR1-DI2-DR2-DI3-DR3-・・・・・

となる。簡略化して、差一性を同一性Iとして、差異共振性を共振性Resonanceとすると、

I1―R1−I2−R2−I3−R3−・・・・

となるだろう。そして、MEDIA POINT(以下、MP)の理論を挿入すると、

I1-MP-I2-MP-I3-MP-I4-・・・・

となるだろう。MPは、普遍共通だから、序数をつける必要はないと考えられる。Iを元に戻して、差一性にすると、

差一性1−MP−差一性2−MP−差一性3−MP−差一性4−・・・

結局、差一性Aと差一性Bとは、メディア・ポイントを介して、共振するのである。ここで、即非の論理が成立するのである。だから、即非論理をメディア・ポイント論理(MP論理)と呼ぶこともできよう。
 とまれ、これで差異共振性の意味が明快になったと言えよう。個と個とは、メディア・ポイントを介して、超越的に共振するのであり、このときには、新たな超越的エネルギーが放出されるのである。しかし、これは、エネルギー保存則から、消滅するエネルギーである。生成消滅的エネルギーである。だから、思うに、イデア界・超越界においては、イデア・超越的差異共振性のデュナミス、即ち、ポテンシャル・エネルギーがあり、それが、メディア・ポイントを介して、エネルゲイア化・エネルギー化すると考えられる。つまり、m(ic)*(-ic)⇒E=mc^2というエネルギー公式で考えると、⇒の左辺は超越界・イデア界のデュナミス(ポテンシャル・エネルギー)を意味して、⇒の右辺がエネルゲイアではないだろうか。
 そう考えると、これまで、超越的エネルギーと呼んでいたものをどう考えるのかという問題が生じる。思うに、⇒が超越的エネルギーを意味するのではないだろうか。そう、⇒がメディア・ポイントであり、ここにおいて、超越的デュナミスが超越的エネルギーになり、また、物質的エネルギーになると考えられるのではないか。この物質的エネルギーが、いわゆる、電磁波である。例えば、「気」は、超越的エネルギーであるが、観測装置では、電磁波や磁気として検証されるということのように考えられるのである。あるいは、端的に、精神ないし霊の場合を考えよう。それも、「気」とまったく同様に考えられよう。精神ないし霊は超越的エネルギーであるが、それは、科学的には、電磁波ないし磁気として観測されるのである。
 思うに、なんらかの原因で、共振化がメディア・ポイントにおいて発動すると、それは、超越的エネルギー、そして、物質的エネルギーとなるが、それは、超越的波動であり、物質的波動(電磁波)であろう。問題は、この波動空間である。超越的波動空間とは何なのか。物質的波動(電磁波)は、現象空間を伝播する。物質的波動(電磁波)は、メディア・ポイントを介して、現象軸(ガウス平面の実数軸を現象軸と呼ぶ)を伝播すると考えられよう。
 では、超越的波動空間は何処なのか。これは、推察されるのは、端的に、メディア・ポイントである。そして、多数・無数のメディア・ポイントが存すると考えられるので、いわば、メディア・ポイント空間が超越的波動空間と言えるだろう。これは、個体と個体、個物と個物、個と個、差一性と差一性、同一性と同一性の間に存する不連続的空間である。だから、物質的波動空間(電磁波空間)とは微妙に異なると言えよう。物質的波動空間とは、メディア・ポイントを介する現象軸空間であるが、超越的波動空間とは、メディア・ポイント空間である。それは、超越的空間(イデア界)と現象的空間(現象界)との中間である。メディア空間とも言えよう。
 考えると、物質的波動空間と超越的波動空間とは、微妙な関係にある。前者は、量子空間と言ってもいいものであるし、それは、超越的波動空間と交差していよう。ここで区別するならば、物質的波動空間=量子空間とは、メディア・ポイント連続空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間とは、メディア・ポイント不連続空間であると言えるのではないだろうか。
 しかしながら、前者の問題は、実は、メディア・ポイントに接しているので、本来、不連続なのである。しかし、物質的連続主義から、その不連続性を否定しようとしているのである。非局所的長距離相関の概念や粒子と波動の相補性という概念がそのようなものと考えられるのである。言い換えると、端的に、物質的波動空間=量子空間とは、物質論理的には、矛盾を抱えた空間、即ち、不整合な空間であると言えるだろう。本質は不連続でありながら、連続性によって糊塗しようとするのである。当然、これが、量子力学が壁にぶつかっている根因である。標準理論の破綻、ダークエネルギー問題等々も、ここに原因があると言えよう。量子力学、ひいては、自然科学が今日、超越的飛躍(いわば、キルケゴール的飛躍)の実行が切迫していると言えよう。物質からイデアへと超越飛翔する必要があるのである。
 とまれ、ここで、ここで整理するならば、物質的波動空間=量子空間は、メディア・ポイントにおける現象軸空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間は、メディア・ポイントにおける超越軸空間(超越軸は虚数軸)であると言えよう。補足するならば、量子論は、超越的波動空間―超越軸空間を導入することで、トランス・量子論へと進展するだろう。PS理論的量子論である。イデア論的量子論である。
http://sophiology.jugem.jp/?eid=84

2007.02.21 Wednesday
二重スリット実験のPS理論的解法


二重スリット実験
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二重スリット実験(にじゅうスリットじっけん)は、量子の波動性と粒子性の問題を典型的に示す実験。リチャード・P・ファインマンはこれを「量子力学の精髄」と呼んだ。ヤングの実験で使われた光の代わりに一粒の電子を使ったもので、1989年に外村彰によって行われた。この実験はPhysicsWeb誌で最も美しい実験に選ばれた



(解法 by Kaisetsu)

◆ 細い穴の『部分』が、メデイア・ポイントとなっている。
◆ このため、空間の不連続部分、虚数軸への「割れ目」に多くの電子が吸い込まれる。
◆ つまり、水の入ったバケツの底に小さな穴を開けた状態になる。一つの穴を中央に開けた場合、二つの穴を近接して開けた場合と同じ。水を小さな砂粒と考えても同じ結果である。
◆これによって、確率論的場の世界観から解放された。神はサイコロを振らない。(アインシュタイン)
◆PS理論による解法は、光が粒であるとか、波であるとかの区別を必要としない。メデイア・ポイントを通過可能であるかの問題である。

参考⇒
2007.02.21 Wednesday
カシミール効果のPS理論的解法


JAPONESIAN APOCALYPSE
Tue, February 20, 2007 19:50:48
非局所的長距離相関をどう見るのか:自己認識方程式と量子:原波即非粒としてのイデアと連続的同一性
テーマ:相対性理論/量子論

すなわち、素粒子は、粒子と波動との相補性というよりは、原粒子と原波動との即非様相(事相)にあると見るべきなのである。つまり、非局所性は成立しないのである。なぜなら、粒子でも波動でもなく、ただ、原粒子・即非・原波動の二重矛盾様態(「絶対矛盾的自己同一」)にあるのであるから。イデア空間は、即非空間であり、純粋な粒子性はないからである。

 ならば、量子力学は書き換えられて、PS素粒子論(PS量子論)ないしイデア素粒子論(イデア量子論)ないし即非素粒子論(即非量子論)にならなくてはならないだろう。
http://theory.platonicsynergy.
org/?eid=478834

Theories for the Platonic Synergy Concept.

 
TIGBlog
uncertainty relation and reality

第3章.不確定性関係と実在


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 量子力学は、現実を完全に記述する理論ではない。物理的《実在》が所有している情報のある部分を縮約することによって、系の状態を直接に表すのではなく、分岐していく世界という(確率付きの)選択肢を提示するにとどまると考えられる。それでは、量子力学という理論形式で見落とされているのは、どのような現象なのだろうか。
 素朴な発想に従えば、いわゆる不確定性関係の中に、縮約された情報の名残が見いだせるように思われる。すなわち、粒子の位置と運動量が同時に決定できないのは、ランダムな揺動力が働いて粒子の軌道が〈揺らいでいる〉結果とする見方である。実際、1粒子系のシュレディンガー方程式は、時間tを虚数時間iτ に置き換えるだけで、形式的には一種の拡散方程式になる。ところが、よく知られているように、拡散方程式は、ランダムな力が作用するときの運動を記述するランジュバン方程式を(確率過程として)粗視化することによって導かれる。従って、「量子力学の根底には何らかの《揺らぎ》が存在しており、この《揺らぎ》の性質についての無知が、量子力学における不完全性の起源になっていると」と主張することは、それほど突飛な論法とも思えないかもしれない。
 しかし、既に多くの学者が示しているように、不確定性関係を《揺らぎ》に還元することは、ほとんど不可能である。本章では、その理由を明らかにしながら、《揺らぎ》に代わるべき不確定性関係の起源について考察していきたい。

不確定性関係の表現
 不確定性関係は、量子力学の初期においては、位置と運動量を同時に測定するときの精度に原理的に加わる制限として解釈されてきた。 … しかし、第2章で述べたように、量子力学が完結した理論であるためには、その記述から測定という用語を排除できなければならない。従って、不確定性関係も、測定をする以前の、より根本的な状況を示す表現様式によって定義される必要がある。実は、…不確定性関係のさまざまなヴァリエーションが、基本的には、位置・運動量に対応する演算子の正準交換関係:
   [q,p]=ih
から導出されることが知られている。これより、正準交換関係が不確定性関係の最も基礎的な表現であると想定される。

量子論的分離不能性−−現状
 物理的実在に関する量子力学的記述の不完全性と不確定性関係との関わり合いが最も如実に示されるのが、有名なアインシュタイン−ポドルスキー−ローゼンによる分離可能な系における完全性の議論である。…
ここで実験的に示された量子力学における長距離相関の存在は、量子力学的な不確定性が統計的な《揺動力》によって生じるという主張を(ほぼ)完全に否定する。…

量子論的分離不能性−−解釈
…なぜ、《分離不能性》が物理的実在の性質を反映していると考えないのか。その理由として、(相対論との矛盾の他に)次の点を指摘しておきたい。こんにちでは、超伝導やレーザー発振など、量子効果が巨視的な拡がりを持つ現象が数多く知られている。ところが、これらはいずれも(電子とフォノンの相互作用やエネルギー準位間のポンピングなど)局所的な相互作用を媒介として実現されるものであり、物理学者たちの努力は、局所的な性質をもとにいかにして長距離相関を派生されるかに向けられてきたと言っても良い。それだけに、もし量子力学の法則が空間的に拡がった非局所的相互賞に依拠しているとすれば、なぜその性質が物性として表に現れないのか、真摯な物理学者は理解に苦しむことだろう。実際、材料科学やエレクトロニクス、原子核・素粒子理論など、量子力学が実用のための道具として利用されている領域では、非局所的な長距離相関は全く観察されていない。これに対して、スピン系に見られた相関は、あくまで「スピンがどの方向を向いているか」という実験者側の認識の問題であったことを想起されたい。 …

《不確定性関係》と実在の問題
 前節の議論は、量子力学を越えて《実在》の完全な記述を行う理論の可能性を示唆するものであった。しかし、そうした理論を通じて明らかにされる《実在》は、常識的な世界観とは根本的に相反すると予想される。

November 28, 2006 | 9:05 AM
http://aristocrazy.tigblog.org
/post/72191


2009年08月08日(Sat)▲ページの先頭へ
現象について:西洋文化ないしは近代文化は身体と物質の混同している
この問題は既述済みであるが、明確に説く必要がある。今は余裕がないので、一言言うだけだが、例えば、感覚を考えよう。「わたし」が木を見るとしよう。視覚認識がある。この木の現象は、「わたし」の視覚において捉えているのであって、それは、あくまで視覚現象である。しかし、近代合理主義は、視覚現象の対象を物質現象と把握したのである。しかし、ここには飛躍があるのである。視覚現象はあくまで視覚現象であり、物質現象ではないからである。
 対象を物質とすることで、思考においてどれほどの混乱をもたらしたことだろうか。対象を物質とするのは、仮説であり、それを本質とするのは飛躍なのである。
 しかし、PS理論によって、対象が何であるか明快である。それは、差異共振エネルギーの現象様態であるということである。言い換えると、イデア現象様態であるということである。その現象様態を同一性的に抽象すると物質という虚構体が生まれるのである。
 そう、物質は虚構・「仮象」である。本体はイデア・エネルギー(「量子」)である。イデア・エネルギーの現象様態の同一性的抽象という虚構が物質ということである。

追記:感覚とは当然身体である。


2009年07月26日(Sun)▲ページの先頭へ
S理論と「わたし」の解体:個とは何か
PS理論から見ると、「わたし」は解体するが、その代わりに、Media Point的基底が残る。それは、いわば、原自己と原他者との極性様態である。「わたし」は、原自己と原他者との極性に還元されるのである。これは、フッサールがノエシス・ノエマと呼んだものに近い。ただし、フッサールは、原自己と「わたし」との区別が明確ではなかったように思われる。
 そう、言い換えると、「わたし」は、量子論的様態に還元されてしまうのである。言い換えると、「空」の様態に還元されるのである。(そして、先の差異共振資本主義の考えに戻ると、資本主義も「空」に還元されると言える。いわば、「空」としての資本となるのである。ここから、差異共振資本主義、トランス・モダン資本主義が生起すると言える。)
 問題は、「空」と個との関係である。「わたし」は還元されて、個となるが、この個は、+iであり、また、「空」であるのではないだろうか。愚樵氏的に言えば、+iが自由であり、「空」が自在となろう。
 今はここで留める。

追記:つまり、「わたし」は仮象となるのである。


2009年03月13日(Fri)▲ページの先頭へ
「性」とは立心偏である:性理性の復権:性差異共振原理へ向けて
広辞苑から「性」の漢字検索をしたが以下の通りである(立心偏のところが文字化けしている)。
 今日、強調した意味が弱くなっている。性とは天性のことであり、魂や心魂である。PS理論では、個・差異・特異性、すなわち、Media Pointである。
 近代化が進み、性はほとんど3の意味になってしまった。性とは、言い換えると、精神身体である。これが、近代主義によって、心身二元論化されて、心と身体(物質身体)に乖離・分離・分裂されてしまったのである。
 プラトンのエロースは精神身体的なエネルギーであるが、それが、物質身体的・同一性身体的なエロスになったのはあまりに酷い皮肉である。
 繰り返すが、性は立心偏であり、心の性質のことである。そして、心とは精神身体である。

性 字形 筆順
〔心(忄・〓)部5画/8画/教育/3213・402D〕
〔音〕セイ漢 ショウ〈シャウ〉呉
〔訓〕さが

意味

1.天から与えられた心の本質。ひととなり。たち。さが。「性、温和なり」「性しようが合う」「性質・性情・天性・仏性ぶつしよう・根性こんじよう・性善説」〓仏教では「ショウ」とよむ。
2.物事の特質や傾向。「性能・酸性・公共性・急性肺炎」
3.身体的特質による男女・雌雄の別。男女・雌雄の違いから起こる本能の働き。セックス。「男性・中性・性欲・性教育」

解字
形声。「心」+音符「生」(=芽が地上に生え出る)。生まれつきの心の意。

下つき
悪性・異性・陰性・延性・蓋然性・仮性・苛性・可塑性・活性・癇性・感性・慣性・乾性・気性・急性・見性・剛性・個性・悟性・根性・酸性・自性・資性・磁性・湿性・習性・獣性・女性・心性・真性・神性・人性・水性・素性・属性・耐性・惰性・弾性・男性・知性・中性・通性・定性・適性・敵性・天性・展性・同性・徳性・特性・毒性・土性・軟性・熱性・粘性・脳性・品性・稟性・父性・賦性・仏性・物性・変性・母性・法性・本性・魔性・慢性・無性・野性・優性・有性・雄性・油性・陽性・理性・両性・劣性・矮性


2008年11月08日(Sat)▲ページの先頭へ
2つの科学:唯物科学・技術と自己・差異・個的主体的科学・技術
科学的精神というものが、なにか2つあるように思われてきた。
 いわゆる、科学・技術とは、物質主義的科学・技術、すなわち、唯物論的科学・技術のことである。唯物論という枠組みがあるのである。
 それに対して、哲学・精神的科学・技術というものがあるのである。これは、自己認識をもった科学・技術のことである。
 どうも日本人は、後者に無知のようである。これが欠落しているために、亡国・売国政権が続くのではないだろうか。主体から独立した科学・技術とは、前者である。それは、近代主義的科学・技術である。後者は、主体に基づく科学・技術である。
 思うに、袋小路のポスト・モダンで、ポスト主体が言われたが、それは、正しくは、ポスト自我主義のことである。自己ないしは差異・個という主体は必要なのである。
 日本人には、自己的主体、差異・個的主体が欠落しているのである。


2008年11月01日(Sat)▲ページの先頭へ
新社会主義は同一性主義の延長である:多様差異投資主義としての新市場主義へ向けて
ポール・クルーグマンは、ニュー・ニューディール政策を提示しているが、それは自由主義と国家統制主義の弁証法的発想である。
 本当の政策は、市場の活性化だと思う。ゲゼル的に言えば、土地や金利での不労所得をなくすことであり、市場に投資して、市場を共同体的に活性化することである。(参考:Kaisetsu氏の市場化された場における共同体主義)
 地方経済、農林水産業、医療・福祉・教育・文化への投資も市場化されていいと思う。思うに、贈与とは、封建的支配を生み出すのである。助成金を見ればわかるだろう。
 多様な差異的投資が肯定されるべきである。多様な質の投資が肯定されるべきである。差異肯定法を創るべきである。

No, what the economy needs now is something to take the place of retrenching consumers. That means a major fiscal stimulus. And this time the stimulus should take the form of actual government spending rather than rebate checks that consumers probably wouldn’t spend.
http://www.nytimes.com/2008/
10/31/opinion/31krugman.html

Why America Needs an Economic Strategy


2008年10月29日(Wed)▲ページの先頭へ
同一性主義と利己主義:同一性である欲望の同一性主義化=私利私欲化:差異維新へ向けて
この問題は愚問かもしれない。同一性主義と私的欲望主義の関係はいかにという問題である。
 同一性主義は他者を否定して、自己同一性=自我を中心化する。自我欲望はどう発生するのか。差異共振性は、純粋なエネルギーであるが、自我欲望は、そのエネルギーが変換された同一性主義の暴力エネルギーに結びついていると考えられる。
 つまり、簡単に言えば、欲望が同一性主義化されるということである。欲望は本来同一性である。それが、同一性主義化された欲望主義=私利私欲主義になるのである。
 日本の中枢的「指導層」は、このタイプである。差異維新、差異共振維新、トランス・モダン維新が必要である。


2008年10月22日(Wed)▲ページの先頭へ
ロシア唯物論と東洋文化:一神教=同一性主義の大崩壊とMedia Pointの覚醒
ロシアの唯物論の問題、これは、実は、東洋文化の問題だと思う。
 今思いついたのは、一神教の問題に関係があるということである。つまり、同一性主義である。欧米の一つの強みは、ルネサンス/プロテスタンティズムによる個の原理を通過したことである。ロシアを含めて、東洋一般はその余裕がなった。(しかしながら、日本の場合、独特のトランス・モダン文化が、室町、安土桃山、江戸初期において、発展したと考えられる。この点は後で検討。)
 西欧近代主義が東洋に侵入したとき、東洋文化は、反動的に一神教化=同一性主義化したと考えられるのである。(日本の場合、明治維新であり、それが、昭和において、暴走した。)
 この視点から見ると、ネオコンは類似しているように思えるのである。一神教=同一性主義的反動ということである。そして、今日、これが崩壊したのである。そう、資本主義における一神教=同一性主義的残滓が解体したということだと思う。地金の差異共振性が剥き出しになると考えられるのである。つまり、 Media Point化である。
 ここから、差異共振的資本主義が生まれると考えられるのである。アメリカはそれへと向かうだろうし、欧州も向かうだろう。これが、新黒船である。しかし、日本人の眠りは深い。


The Doors - Break On Through

 

★ 2008年10月22日水曜日 10時半更新

 生物前兆・電磁波・体感などが極めて深刻化している。超大型接近の様相。長らく前兆ばかりで結果のでなかった伊豆諸島方面に八丈沖M5.0が起きたが、これで蓋が開いて真打ちが出てくるかもしれない。
 一方で新潟方面にイノシシ・熊など、中越地震前に見られたと同じ激しい生物前兆が続くようになり、4回目の越後震災が起きる可能性も強まっているようだ。これは柏崎村山氏の情報が大きな前兆を捕らえた実績があるので、JA7HOQなどの情報に注意されたい。

【22日09時39分頃 震源地は奄美大島北東沖 ( 北緯28.8°、東経130.3°)で震源の深さは約30km、地震の規模(マグニチュード)は4.6】
 この地震は、数日前から10mFMで鹿児島周辺の異常伝播がレポートされていたが、その結果どおりの典型的なものだ。


 ■ 今後の破綻 ユーロが危ない!

 【ネバダ引用:金融危機情報(為替市場が株式市場に影響)NYダウは231ドル余り下落していましたが、この下落の原因は為替市場の急激な変動です。今日の最安値を見ていますと、夜1時10分時点の安値から【ユーロ】が更に下落しているのが分かりますが、世界の投資家は【ユーロ崩壊】を読んで株式保有を減らしはじめているのです。
有名投資家のカーコリアン氏は一ドル8ドル50セントで買い付けた【フォード株】を20日に2ドル43セントで売却し、更に1億3,350万株を売るとしており、株式市場から徹底し始めています。(日経報道)8ドル台で買って2ドル台での売却では数百億円の損となるでしょうが、倒産して20セントになるよりはましと思っているのかも知れません。
今後、5ドル以下の"危険株価"の会社の株が更に売られることになればNYダウは急落することになるでしょうが、株式保有リスクを減らす動きに転じてきた大口投資家の動きには要注意だと言えます。因みに為替の動きは以下のようになっています。
<最安値>
ユーロ・円 130.60円(夜1時時点 131.56円)
英ポンド 166.70円(夜1時時点 169.34円)
豪ドル 67.07円(夜1時時点 68.43円)
NZドル 60.52円(夜1時時点 61.42円)
スイスフラン 86.48円(夜1時時点 86.66円)
ユーロ・ドル 1.3048(夜1時時点 1.3108)
ユーロが130円台われ寸前にまで売られており、いつ130円台を割り込むことになるのか。総資産5兆円を割り込んだ【グロソブ】から大量の資金が逃げ出せば基準価格が一層急落することになり、これが更にユーロ売りにつながり、まさに【ユーロ】負の連鎖の始まりとなります。株式市場より為替市場の動きに警戒が必要となっています。 】

● 危ないと言えば、
@韓国のデフォルト→IMFがアイスランドなど各国で破綻が続いて救済キャパシティ能力を失ったため、デフォルトにさえできない凍結状態 
AGM・フォード・クライスラー →180兆円救済も議会承認プロセスのタイムラグに間に合わず、しかし、これも破綻後の受け皿皆無、世界数十万社の連鎖倒産に
B バンカメ・シティの倒産 GMとAIG・F&Mの再倒産が避けられない状態で、次のCDS決済でアウトか
C 農林中金・三菱UFJ・ミズホ・ソフトバンク→ 年金資金による株価の買い支えが行き詰まったときがご臨終 もう時間の問題、年金毀損をいつまでも隠せない

 ■ 田中宇メルマガより 金融と革命

 【米国で、戦争ばかりやった政権の末期に巨大な金融危機が起こり、破綻しそうな金融機関に、政府が次々と資本を注入する今の事態は、マルクス経済学の視点で見ると、まさに独占資本主義から国家独占資本主義への転換を意味している。この10年あまり、米経済は金融で大発展したが、ブッシュ政権の重過失的な数々の失策の末、自滅的な金融財政の崩壊が今まさに起こり、金融の独占資本主義は終わり、米英の金融機関は国有化され、中国やアラブ産油国、ロシアなどの「政府投資基金」や「国営石油会社」といった「国家独占資本主義」の象徴的な存在が幅を利かせている。
ただ、社会主義者たちにとっては残念なことに、第2次大戦後、独占資本主義は「延命」しすぎた。先にソ連や東欧の社会主義国が崩壊し、中国も「市場経済」に転換してしまった。すでにマルクス経済学は「昔の間違った理論」として、ほとんど忘れ去られている。
米金融界は、すでに米連銀の融資に頼り、財務省から資本金を入れてもらう態勢になっている。いったん政府に頼る癖がつくと、なかなか自活できる状態に戻れない。米金融界は、今後長いこと、自由市場原理の世界に戻れなくなりそうだ。こんな状態が続くと、今後、マルクス経済学が再び学問として勢いを盛り返すこともあり得る。ただし、ソ連や共産主義時代の中国の失敗を踏まえて加筆し、新たな理屈を展開することが不可欠になる。
http://www.reuters.com/article
/newsOne/idUSTRE49F97920081017
旧東独の人々を抱え、マルクスの母国でもあったドイツでは最近、マルクスの著作が、再び若い人々に読まれるようになっているという。
http://www.irishtimes.com/
newspaper/opinion/2008/
1018/1224279408893.html

▼ネオコンが米国を革命に導いた?
こうした話が冗談ですまされないのは、米国の現状が、まさに革命前夜的な色彩を帯び始めているからだ。金融危機にすくんだ銀行が金を貸してくれなくなったため、米産業界では倒産の急増が必至となっている。業績の悪い企業への貸出金利は、昨年5%だったが、今では13%に上がっている。 http://www.iht.com/articles/2008
/10/19/opinion/edbubble.php】

● これは面白い指摘だった。筆者も、若い頃、マルクス主義に傾倒し、ずいぶん学習会にものめり込んだ口だが、独占資本→国家独占資本→自滅 →革命 というパターンを三十数年ぶりに懐かしく思い出した。
 現在起きている金融危機が、国家独占資本段階での利権矛盾から生まれた自律的破綻であるという指摘は100%確実に正しい。マルクス主義経済学の基本中の基本理論であって、現状はその正しさを見事に追認していると思える。
 しかしながら、かつてトロツキストだった連中が、「新自由主義経済」 つまり市場原理主義万能論を唱えて、各国政府の中枢に入り、結果的に資本主義を内部崩壊させたという理屈は、ユダヤ陰謀論よりも、なお筋が悪い。しかし、トロツキストで貧民革命論を唱えていただった太田竜の異様な変節を見るにつけ、なんとなくリアリティを感じてしまうところが怖い。
 トロツキストというのは、結局、口先から生まれて口先とともに死ぬ連中だと思う。その誰も、社会の基本理念が人間性と情念、つまり人情にあることを理解しようとしない一種のデカルト的機械論だろう。トロツキストは、まずマルクス弁証法を本当に学ぶべきであった。なお、筆者は成田闘争で管制塔を占拠した4トロの連中とも30年以上前に個人的にずいぶん付き合って、その人間性は決して嫌いでない。とても純粋な情念の持ち主ばかりで、今でも尊敬する人が少なくない。しかし、リーダーだった太田竜だけは、ちょっとな・・・・・。
 
 問題の本質は、人の欲望と、組織のメカニズムをどう捉えるかだろう。筆者は、もしソ連や中国など社会主義諸国が成立しなければ、まるで絵に描いたように正確にマルクス主義の指摘した社会ができていたはずだと確信している。それを阻んだものは、冷戦対峙の構造であり、右傾化した労働運動の存在であった。
 つまり資本主義を延命させたものは何か? それは資本主義など足下にも及ばない、人間疎外をもたらした自称「社会主義・共産主義・労働運動システム」であった。いわば、組織を利用し、それに寄生し、官僚制度にあぐらをかいた特権官僚の利権であった。
 この意味で、日本国家もまたミニソ連であり、ミニ中国であり、腐敗官僚による利権社会主義国家であったと考えるのが妥当だと思う。
 我々の真の敵は何か? それは資本主義だとか新自由主義だとかの屁理屈ではなく、組織を利用して特権を確立したシステムそのものであり、それを生み出した学歴差別であり、さらに、そうした差別の重層的構造を醸成した女性差別であることに気づく必要がある。
 だから、筆者は、人間疎外と国家主義(組織主義)の根源に女性差別があると、うんざりするほど言い続けているが、まだ理解できる人はほとんどいない。
http://www1.odn.ne.jp/
~cam22440/yoti01.htm
東海アマチュア無線  地震予知研究会


2008年09月14日(Sun)▲ページの先頭へ
天下り体制について:官僚と政治改革:近代主義とトランス・モダン
小野寺氏は、以下のように、「天下り」体制について、肯定的に述べている。
 そして、『日本の教育 制度では、上に行くほど、「自分の頭で考える」ようになっているためこのコイズミ偽装改革が「うそだ」と真っ先に見抜いていたのは官僚の人たちであった。』と、官僚が小泉「構造改革」の嘘を見抜いていたと述べている。ここがポイントである。
 これまで、小泉「構造改革」は官僚、とりわけ、財務省主導で行なわれたと考えられている。だから、問題は、小泉「構造改革」と財務省を中心とする官僚との関係であるが、やはり、後者は前者を利用した面は否定できないのではないだろうか。
 結局、売国・亡国集団と官僚の関係は、互いに利用した面があるのではないだろうか。犠牲にされたのが、国民であるし、国益である。
 また、『日本の教育 制度では、上に行くほど、「自分の頭で考える」ようになっている』という点であるが、官僚の知性であるが、私見では、近代主義的知性、即ち、同一性主義的知性であり、今日のトランス・モダンの時代に必要な、差異的知性、差異共鳴的知性をもっていないと考えられるのである。
 確かに、『コイズミ偽装改革が「うそだ」と真っ先に見抜いていたのは官僚の人たちであった』という面は考えられるが、それには反対しないで、利用したというのが真相ではなかったか。
 とまれ、これは、今の時点での推察である。

p.s. 公明党に関する小野寺氏のコメントであるが、確かに、公明党の平和志向という面や「構造改革」によって、社会保障が破壊された面に対する抗議はあるだろうが、それも、公明党にすれば、党内権力支配のために、利用されるのではないだろうか。つまり、公明党の問題は、政策理念は、反「構造改革」であっても、それを利用する権力欲望にあるのであり、これが主導的に、自民党を動かすのではないのか。
 小野寺氏の戦略は、少し権謀術数的なのではないだろうか。政治変革においては、理念を明確にする必要があり、戦術においては、「妥協」的な方策がありえるだろう。
 
*****以下、引用***** 

【天下り制度についてもそうだ。これについては


これは東大生を官庁の安月給では雇えないので
トータルでフジテレビや電通、野村證券などと同じくらいの
給与水準にしているだけである。

そして、日本の教育 制度では、
上に行くほど、「自分の頭で考える」ようになっているため
このコイズミ偽装改革が「うそだ」と真っ先に見抜いていたのは
官僚の人たちであった。

民主党は「天下り廃止」についてはもしそれを唱えると
強大な官僚組織が「政権交代にならないように」しようとして
動くだろう。そういった政権をとらないうちから、
天下り防止といっても邪魔にあうだけだ。

とにかくこの天下り制度は、実態とかなり違うように思われる。】
http://archive.mag2.com/
0000154606/200809140
73650000.html
国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」

****************

参照:

小沢氏国替え「可能性十分」=1次公認から外れる−民主・鳩山氏

 民主党が12日に決めた衆院選小選挙区の第1次公認候補から、岩手4区選出の小沢一郎代表が外れた。鳩山由紀夫幹事長は記者会見で、小沢氏の国替えの「可能性は十分ある」との認識を示した。小沢氏については、公明党の太田昭宏代表の地盤である東京12区からの出馬説が取りざたされた経緯があり、衆院選に向けて同党を揺さぶる狙いがありそうだ。
 民主党の赤松広隆選対委員長によると、小沢氏の公認漏れは「本人の強い意志」に基づく。選対が作成した原案には岩手4区での公認を明記していたが、小沢氏は「おれのところは空けて、どういうふうにでも動ける態勢にしておいてほしい」と指示したという。 
 これに関し、鳩山氏は会見で「小沢氏は(民主党の選挙戦に)一番効果的な選挙区を選ぶのではないか。背水の陣を敷く小沢氏の思いを象徴するような形で、選挙区を決定するのではないか」と語った。(了)
(2008/09/12-21:13)

http://www.jiji.com/jc/zc?k=
200809/2008091201041&
rel=y&g=pol


2008年09月09日(Tue)▲ページの先頭へ
近代合理主義/近代的自我/唯物論の敗北:「影」の逆襲とトランス・モダン
今日の日本社会の病理、そして、世界社会の病理は、ひと言で言えば、近代合理主義/近代的自我/唯物論の敗北といえる。もっとも日本の場合は、正確に言えば、封建的近代主義である。
 近代主義は、「光」であり、非近代主義を否定して、「闇」に葬り、「影」となったのである。そして、今日、この「闇」・「影」の逆襲を受けているのである。
 今日、近代主義的「光」に対して、もろもろの「闇」=「影」が発生している。そこには、強烈・激烈・酷烈に、「悪」があるのである。そして、同時に、超越光が潜んでいるのである。そう、「影」を取り戻す必要があるのである。近代主義が否定・抑圧・排除・隠蔽した「闇」には、潜在・可能的超越光が潜んでいるのである。
 哲学的には、「闇」ないしは「影」には差異(差異共鳴性)が潜むのである。しかし、当然ながら、単に差異だけではなく、否定反動を含むのである。この否定反動は、同一性主義否定暴力だけでなく、差異からの反動性を含むといえよう。(ちなみ、フロイトの死の欲動概念であるが、それは、同一性主義否定暴力と差異的反動を区別していないのではないだろうか。後で検討である。)そう、だから、いわば、近代主義/同一性主義的活断層である。(ドゥルーズ哲学の差異とは差異的反動ではないかと思う。つまり、連続的差異である。また、差異的反動=連続的差異とは、オカルト主義の「霊」ではないだろうか。とは言え、シュタイナーのアーリマンとは、この同一性主義否定暴力であり、ルシファーとは差異的反動のことではないだろうか。後で検討。)
 そして、「影」には、真正の差異、差異共鳴性が潜在している。これは、どういう様態なのだろうか。同一性主義的否定面以外の「影」ということではないだろうか。つまり、少なくとも、「影」は三重ではないだろうか。すなわち、一つは同一性主義的否定性であり、一つは反動的差異であり、一つは純正差異ではないだろうか。
 だから、「影」の純正差異に到達するには、同一性主義的否定性と反動的差異性を乗り越える必要があると言えよう。仏教が言う空や虚空とは、この乗り越えによって到達する純正差異(Media Point)と言えるのではないだろうか。
 一番の問題は、この問題の経済領域における意味である。私が批判する同一性主義的金融資本主義とは、純正差異に到達していない「影」に支配されていると思われる。暴力的であり、狂気的である。
 では、経済領域において、どうやって純正差異を発現させたらいいだろうか。理論的に言えば、差異共鳴資本をそれとして、活用することである。差異共鳴資本の活用とは何か。具体的に言えば、先にも言ったが、技術革新への転化であり、社会保障制度への消費ではないだろうか。あるいは、事業への投資があるだろう。それを同一性主義的価値化することは、反動である。どう、端的に貨幣でいうと、貨幣価値は確かに、同一性価値=交換価値であるが、そこには、差異共鳴価値が潜在・内在していることを見なくてはならない。言い換えると、イデアとしての、ないしは、即非様相としての貨幣ということになるのではないだろうか。つまり、Media Pointとしての貨幣価値である。サブプライムローンのような金融資本主義は、同一性主義的なのであり、差異を完全に喪失しているのである。
 では、具体的には、どのように差異共鳴価値としての貨幣・資本を実現するのか、である。思うに、先にも示唆したが、差異共鳴価値贈与を企業が積極的に行うことで、そうなるのではないだろうか。これこそ、小さな政府が生まれる契機ではないか。
 後は、利益に差異共鳴価値税をかけることではないだろうか。それは、累進課税である。所得税である。とりわけ、利子による利益に対しては、差異共鳴課税をかけるべきだと考えられる。
 法的には、差異共鳴価値法を制度化すべきである。そう、これこそ、民主主義の経済法である。差異共鳴価値法は、思うに、企業の純粋創造力を高めるのではないだろうか。競争は、差異共鳴力にとって換わるのではないだろうか。今はここで留める。

清酒3万本に使用、回収へ=「辰之巳」から原料購入−熊本の酒造会社

9月9日13時24分配信 時事通信

 米粉加工会社「三笠フーズ」(大阪市北区)が農薬やカビ毒に汚染された事故米を食用に転売していた問題で、熊本県城南町の「美少年酒造」が事故米混入の可能性がある破砕米32.4トンを三笠フーズの関連会社「辰之巳」(大阪市)から仕入れ、「鬼ころし」など清酒7種8品目の計約3万本を製造、出荷していたことが9日、分かった。
 緒方直明社長が記者会見し、明らかにした。
 既に全国各地に流通しているが、美少年酒造は新たな出荷を自粛するとともに、流通分については自主回収する方針。
 同社によると、今年1月から5月にかけ、辰之巳から低価格帯の清酒原料に使用するため「国産米」として購入。問題発覚後、緒方社長が辰之巳に問い合わせたところ、「事故米は一切入っていないという報告を工場から受けている」などと回答を得た。しかし、8日に九州農政局などが調査した結果、伝票などが一致。混入した可能性のあることが分かった。 
http://headlines.yahoo.co.jp
/hl?a=20080909-00000094-jij-soci


2008年08月28日(Thu)▲ページの先頭へ
今日の同一性主義狂気について:同一性言語知性と差異感性身体との極性: ver 2
これは、先の試論の続きのようなものであるが、端的に、同一性主義において、非合理性=狂気がどう発生するのか、その力学を明確にしたい。もっとも、この問題はこれまで、それなりに考察はされてきたが、まだ、あいまいな点があるのでここで検討する次第である。
 思うに、図式化するとわかりやすいが、ここでは的確な図式化が難しいのでおおまかにかいてみる。


      +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↓  
            ↓
           抑 圧
            ↓
      境界____↓_____境界
            ↓
            ↓
            ↓
      -i  差異・感性・身心性


↓は否定・抑圧・排除・隠蔽を表す。そして、実線の横線は、知性と感性の境界である。近代合理主義は境界の下部を抑圧して、排除するのである。つまり、近代合理主義による近代的自我とは、境界上部の世界が中心となっていて、下部世界は無意識となっているのである。言い換えると、上部界が光で、下部界が闇である。
 そして、近代主義が進展すると、下部界は意識にとって消えているのである。
 しかしながら、心の基盤・土台・根源は下部にあるのである。正しく言えば、さらに下部にあるMedia Pointであるが。今はわかりやすくするために、そのように考える。
 ということで、近代合理主義は同一性主義世界を形成するが、それは、同時にエネルギーや創造性の枯渇を意味する。当然ながら、下部から新しいエネルギーを取り入れなくてはならないのであるが、下部を抑圧しているので、取り入れることができないのである。
 そう、上部と下部の二元論・二項対立の世界がそこにはあるのである。喩えて言えば、身心の活断層である。
 さて、上部の抑圧があっても、下部は活動しているのであるから、上部へと、いわば、噴出するのである。衝き上げである。衝動である。つまり、↑の方向へと作用するのである。


    +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↑ 
            ↑
           狂 気
            ↑
      境界____↑_____境界
            ↑
            ↑
            ↑
      -i  差異・感性・身心性

 
 しかしながら、同一性主義自我は、それをまったく感知できないのである。なぜなら、同一性主義知性は、いわば、自己完結ないしは自己閉塞しているので、他者である差異・感性・身心性の突き上げを認知できないからである。
 故に、下部の衝動が上部を、いわば、襲うのである。これが、非合理性=狂気なのである。近代的自我はこの下部の盲目の衝動に発作的に襲われるのである。それで、狂気的攻撃性を爆発させると考えられるのである。
 より精緻に言えば、下部の世界は他者の世界であるから、ここでの内的他者の否定は外的他者の否定となるのであり、ここで、同一性主義自我は暴力的言動を発すると考えられるのである。
 この近代主義的狂気であるが、これが西洋近代主義の帰結であると考えられる。もっとも、西洋近代に台頭した差異であるが、それは、ポスト・モダンへと発展したが、既述したように、袋小路に突き当たったと考えられるのである。
 この西洋近代の行き止まりを乗り越える哲学がプラトニック・シナジー理論であると考えられる。トランス・モダン哲学である。
 差異を不連続化して、同一性と差異とを共鳴化する理論である。知性と感性を共鳴化する理論である。
 とまれ、差異を掬い上げるには、端的には、東洋的身心論が必要である。新東洋的身心論が必要なのである。

P.S. 以下の記事にある「自己愛性人格障害」であるが、そこには、「誇大性、称賛されたいという欲求、共感の欠如」、あるいは、「おれは神」という「症状」があるということだが、これは、以上の試論から説明できよう。非合理主義=狂気の衝動であるが、それは、感性・差異・身心のエネルギー、言い換えると、「宗教」的エネルギーをもっていると考えられるので、そのようになると推察できる。言い換えると、パラノイアに近いと思う。
 そう、「宗教」的エネルギーと言ったが、神懸かり的と言ってもいい。それは、Media Pointにおける宇宙エネルギーでもある。ただし、それが、同一性主義によって歪曲された形になっているのである。
 この様態を精緻にはどのように見るべきだろうか。+iと-iの分裂様態とは言えよう。そして、直接的に、-iが+iへと侵入・没入すると言えようか。おそらく、抑圧の壁を破って、侵入するということではないのか。これは、連続化である。ショート(短絡)である。-iが+iと一致するということではないのか。知性が感性となり、感性が知性となる同一性化の極致ではないのか。差異共鳴ならば、知性と感性が共鳴するのであり、一致はありえないのである。
 しかし、知性が感性となり、感性が知性となるというどういうことなのか。端的には、非合理主義化である。知性が情動化することであり、情動が知性化することである。そう、これは、知性が自我絶対化することであろう。知性が知性ではなくなり、非合理化するのである。同一性と差異との相互否定の一致のような様態、これは何だろうか。
 二つの否定がショートする様態、これは何なのか。これは、(+i)^2と(-i)^2とのショートとである。つまり、-1のショートと考えられる。
 近代合理主義と神秘主義とがショートしているようなものである。端的に言えば、狂気である。


参考:
土浦8人殺傷 精神鑑定は「自己愛性人格障害」

8月27日15時1分配信 毎日新聞

土浦8人殺傷 精神鑑定は「自己愛性人格障害」

拡大写真

金川真大容疑者=茨城県土浦市で2008年3月25日、平田明浩撮影
 茨城県土浦市のJR荒川沖駅周辺で8人が殺傷された事件で、殺人容疑などで逮捕された同市中村東3、無職、金川真大(まさひろ)容疑者(24)の精神鑑定結果の概要が27日分かった。金川容疑者を極度に自分が重要と思い込む性格の「自己愛性人格障害」と診断しており、妄想や幻覚はなく、完全責任能力を認める内容になっている。地検は鑑定結果などを総合的に判断し、来月1日までに殺人と殺人未遂の罪で起訴するとみられる。

【写真特集】茨城男性刺殺事件 だれでもいい…

 金川容疑者は「人を殺したかった。誰でもよかった」などと供述し、地検は動機の解明や、責任能力の有無を慎重に調べるため4カ月間の鑑定留置を行った。専門医が金川容疑者の事件当時の精神状態などを調べていた。

 これまでの調べで、金川容疑者は事件の数日前に「おれは神」という内容のメールを自分の携帯電話から自宅に残した別の携帯電話に送っていることが分かっている。アメリカ精神医学会の診断基準「DSM−4」によると、自己愛性人格障害は「自分が重要で素晴らしい」という大げさな感覚を持つことがあるという。鑑定は、金川容疑者が自らを世間にアピールするために事件を起こしたとして、動機は理解可能であり、完全責任能力を認めたとみられる。

 事件は3月23日午前11時ごろ発生。金川容疑者は荒川沖駅周辺にいた8人に包丁やサバイバルナイフで切り付け、同県阿見町の会社員、山上高広さん(27)を失血死させ、警察官ら7人に重軽傷を負わせた疑い。金川容疑者は同19日、自宅近くの無職、三浦芳一さん(72)を殺害した疑いで指名手配中だった。

 ◇ことば 自己愛性人格障害

 性格が偏った状態を示す精神医学の分類「人格障害」の一つで、「誇大性、称賛されたいという欲求、共感の欠如」を示す。統合失調症などの幻覚・妄想が生じることがある狭義の精神障害とは異なり、刑法上の責任能力に問題があるとはされない。人格障害には他に妄想性、反社会性、回避性などがある。大阪教育大付属池田小事件の宅間守元死刑囚は2回の鑑定とも人格障害とされた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080827-00000
010-maip-soci


2008年08月27日(Wed)▲ページの先頭へ
今日の同一性主義狂気について:同一性言語知性と差異感性身体との極性
これは、先の試論の続きのようなものであるが、端的に、同一性主義において、非合理性=狂気がどう発生するのか、その力学を明確にしたい。もっとも、この問題はこれまで、それなりに考察はされてきたが、まだ、あいまいな点があるのでここで検討する次第である。
 思うに、図式化するとわかりやすいが、ここでは的確な図式化が難しいのでおおまかにかいてみる。


      +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↓  
            ↓
           抑 圧
            ↓
      境界____↓_____境界
            ↓
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            ↓
      -i  差異・感性・身心性


↓は否定・抑圧・排除・隠蔽を表す。そして、実線の横線は、知性と感性の境界である。近代合理主義は境界の下部を抑圧して、排除するのである。つまり、近代合理主義による近代的自我とは、境界上部の世界が中心となっていて、下部世界は無意識となっているのである。言い換えると、上部界が光で、下部界が闇である。
 そして、近代主義が進展すると、下部界は意識にとって消えているのである。
 しかしながら、心の基盤・土台・根源は下部にあるのである。正しく言えば、さらに下部にあるMedia Pointであるが。今はわかりやすくするために、そのように考える。
 ということで、近代合理主義は同一性主義世界を形成するが、それは、同時にエネルギーや創造性の枯渇を意味する。当然ながら、下部から新しいエネルギーを取り入れなくてはならないのであるが、下部を抑圧しているので、取り入れることができないのである。
 そう、上部と下部の二元論・二項対立の世界がそこにはあるのである。喩えて言えば、身心の活断層である。
 さて、上部の抑圧があっても、下部は活動しているのであるから、上部へと、いわば、噴出するのである。衝き上げである。衝動である。つまり、↑の方向へと作用するのである。


    +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↑ 
            ↑
           狂 気
            ↑
      境界____↑_____境界
            ↑
            ↑
            ↑
      -i  差異・感性・身心性

 
 しかしながら、同一性主義自我は、それをまったく感知できないのである。なぜなら、同一性主義知性は、いわば、自己完結ないしは自己閉塞しているので、他者である差異・感性・身心性の突き上げを認知できないからである。
 故に、下部の衝動が上部を、いわば、襲うのである。これが、非合理性=狂気なのである。近代的自我はこの下部の盲目の衝動に発作的に襲われるのである。それで、狂気的攻撃性を爆発されると考えられるのである。
 より精緻に言えば、下部の世界は他者の世界であるから、ここでの内的他者の否定は外的他者の否定となるのであり、ここで、同一性主義自我は暴力的言動を発すると考えられるのである。
 この近代主義的狂気であるが、これが西洋近代主義の帰結であると考えられる。もっとも、西洋近代に台頭した差異であるが、それは、ポスト・モダンへと発展したが、既述したように、袋小路に突き当たったと考えられるのである。
 この西洋近代の行き止まりを乗り越える哲学がプラトニック・シナジー理論であると考えられる。トランス・モダン哲学である。
 差異を不連続化して、同一性と差異とを共鳴化する理論である。知性と感性を共鳴化する理論である。
 とまれ、差異を掬い上げるには、端的には、東洋的身心論が必要である。新東洋的身心論が必要なのである。

*************************


2008年07月17日(Thu)▲ページの先頭へ
精神感情を喪失した日本人:物質主義的メデューサに睨まれた敗戦後日本
敗戦後、日本は、近代民主主義を受け入れ、そして、近代合理主義のうち物質的合理主義を取り入れた。
 結局、神道は失われ、精神・魂を喪失したのである。私から見ると、今日の日本人は石化しているのである。とりわけ、東京人である。私は、この物質主義による精神の石化を数十年恐怖をもって見ている。かつて新宿や池袋を歩く若者たちの石化の姿に嫌悪感をもった。
 もっとも、こんにち、精神的状況は変化しつつあるようだ。若者たちに精神性が戻りつつあるように思える。精神環境のトランス・モダン化である。
 そうすると、敗戦後モダンの日本人は、早晩廃棄物になる可能性が強い。そう、トランス・モダンから見たら、モダンは反古となり、見捨てられるだろう。モダンが二次元ならば、トランス・モダンは三次元である。そう、高次元・超次元化するのである。
 明治維新変革の精神環境にあった超次元・超越性がもどってくるだろうし、現人神の天皇制にはならないだろう。新神道の光明時代となるだろう。
 それまで、現代日本の悪を洗い落とさないといけない。官僚/米国/大資本の三悪神を退治すると同時に、内的な悪魔を退治しないといけない。悪魔は変容して、天使になるのである。

p.s. 精神感情の喪失が顕著にわかるのは、日本の音楽の衰退・没落である。音楽は精神感情が主体であるから、端的に露呈するのである。

p.p.s. 簡単に言えば、内省・省察・瞑想することを喪失したのである。言い換えると、哲学を喪失したのである。
 これは、また、文学では、大江健三郎に現われているだろう。知性の喪失があると思う。


2008年02月16日(Sat)▲ページの先頭へ
超越神はどこに行ったのか:近代的自我の末路としての精神病
先に、 同一性による差異の排除力学という長年(近代的自我の狂気という問題意識から数えると、10年は考え続けてきた)に渡る問題がようやく解決できたのであるが、http://ameblo.jp/renshi/
entry-10072754057.html
その副産物として、超越神の穴(喪失)が問題として浮上してきた。つまり、こういうことである。超越神と父権的自我(近代的自我はここに含まれる)が同時生起するのであり、これは、プロテスタンティズムにおいても生起したと考えられるが、近代合理主義の進展とともに、超越神が衰退してくる(世俗化)が、そのとき、超越神の穴はどうなるのか、である。
 もっとも、アメリカ人の90パーセントは信仰者であるということで、それなりに超越神は生きているのだろうが、しかしながら、衰退は否めないだろう。つまり、超越神のもつエネルギーが初期プロテスタンティズムのようにはもはやなく、衰退していると考えられるということである。
 では、その超越神の穴はどうなるのか、という問題である。言い換えると、近代合理主義をもつ近代的自我はどうなるのか、ということでもある。
 思うに、ハイデガーが直面したのも、この穴であろう。そして、それを「存在」で覆おうとしたのではないのか。近代的ニヒリズムである。そう、言うの忘れていたが、ニーチェの言及した神の死とは、以上の事態を指したものである。
 超越神の空虚の意味である。いったいこれは何を意味するのか。超越神の死とは何を意味するのか。ユダヤ・キリスト教の神の死とは何を意味するのか。
 先の考察に由れば、Media Pointが二分化されて、Split Mediaとなり、超越神と父権的自我(近代的自我)が生まれる。しかし、これは、同一性志向性というエネルギー(物質エネルギー)を放出するのである。すると、当然、エネルギーの消滅が起こるのである。残るのは、超越神の穴と父権的自我(近代的自我)である。
 この空虚を満たすことが、西洋近代文化の一つの側面であった。思うに、アメリカ人が信仰をもつというのは、この点から見て、逆説的であろう。つまり、空虚だから、信仰で満たそうとするのだろう。
 私の直感では、空虚は実に恐ろしいものである。おそらく、それを隠蔽するために、近代合理主義を強化すると考えられるのである。つまり、過度の近代合理主義が起こるのである。空虚に蓋にするようにして、近代合理主義の意志をもつのである。
 しかしながら、問題は、空虚のもつ力学である。(これは、ほぼポスト・モダン問題である。この点については既述済みなので、ここでは述べない。)超越神のエネルギーがあるときは、父権的自我は、それに対応するような姿勢をとるだろう。しかしながら、超越神が空虚になったとき、思うに、それは、闇になるのである。その闇が父権的自我にはたらきかけると思われるのである。端的に言えば、その闇が、父権的自我の影の支配者になっていると思われるのである。言い換えると、超越神の影が父権的自我を支配すると思われるのである。だから、父権的自我は、いわば、無意識の支配を受けているのである。
 では、超越神の穴・超越神の影の力学とはどのようなものだろうか。ここでも直感で言おう。その闇は父権的自我を襲うのである。狂気となって父権的自我を襲うのである。これはどういうことなのか。
 これは、単純である。超越神の穴・影・闇とは、虚軸に存するのであり、それは、実軸にある父権的自我は認識不可能なのである。超越次元における穴・空虚・影・闇なので、父権的自我にとっては、まったく得体の知れないものなのである。だから、それはただ非合理衝動となって父権的自我を襲うのだと思う。狂気衝動である。
 そして、また、枯渇したエネルギーを満たすには、Media Pointを開く必要があるのであるが、父権的自我は、Media Pointを抑圧しているので、新鮮なエネルギーが得られずに、さらに枯渇するのである。いわば、うつ病的状態になると考えられるのである。
 結局、狂気とうつ病が襲うのである。狂気は父権的自我を衝動化するのである。非合理衝動で突き動かし、Media Pointを抑圧するように攻撃・暴力的になるのである。それは、パラノイア的であり、また、分裂的である。
 父権的自我である近代的自我の運命とはこのようなものである。つまり、父権的文明の破滅の事態が生じるということになるのである。


2008年01月09日(Wed)▲ページの先頭へ
西洋近代の終焉:同一性中心主義から差異共振性への超越的上昇:トランス・モダン・エヴォリューション
我ながら、以下の駄文は長過ぎるというか冗長である。ポイントを簡単に述べたい。

 西洋近代とは、太母文化(差異文化)と父権文化(同一性・連続性文化)の折衷であるが、父権文化が主導的なのである。しかし、今日、差異が賦活されているので、前者へと回帰する志向にあるのである。しかるに、父権文化の連続性のために、前者へと純粋に回帰できない反動の事態が起きている。ポスト・モダン思想がそうであった。
 しかし、プラトニック・シナジー理論は、差異への純粋な回帰を説いている思想であり、反動を乗り越えることができ、それは、トランス・モダンの世界的潮流を解明しているのである。
 現代日本は、近代主義(同一性主義・近代合理主義)に洗脳されている(近代的自我の形成)ので、この動きに気づかず、反動的な自滅に向かっている。同一性主義から差異へと意識・知性を転換する必要がある。

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直前の論考のタイトルを変更した。

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先の論http://ameblo.jp/renshi/
entry-10064779052.html
の追記が長くなったので、ここで独立させることにする。

以下の拙文では、同一性視覚ということが近代的自我形成の契機となっている。同一性視覚も同一性志向性も同じである。最初に、同一性視覚/志向性が生まれたのである。これが、いわば、人類の「原罪」である。しかし、これは、根因は自然にあるのである。だから、自然の「原罪」である。自然は、人類が同一性を先行させるように生んだのである。
 しかしながら、太母文化社会については、考えないといけない。それは、同一性が先行していない。それは、同一性と差異とが未分化であると考えられる。だから、自然の「原罪」云々は誤りである。ここで訂正したい。
 結局、父権文化が西欧近代において主導的になり、同一性が先行することになり、近代的自我/近代合理主義が生起したのである。
 そうすると、本文で述べたMedia Pointからの同一性志向の先行性という考えは、父権文化に当てはまる考えであり、太母文化には、当てはまらないということになる。
 しかしである。Media Pointを太極と見れば、陰陽原理が作用するので、同一性化=陽化の先行性はそれなりに肯定できるのかもしれない。しかし、易において、陽から始まるのだろうか。調べてみよう。
 よくわからないが、やはり、陽の方が陰より先行しているようである。しかしながら、陰陽という言い方は、陰が先だから、なにか易には強いている面があるように思える。
 とまれ、前父権文化において、Media Point=太極太母文化があったと考えられる。これは、陰陽バランスの文化であり、陽へと傾斜すれば、陰へのバランスを取る智慧をもっている。陽=同一性、陰=差異とすれば、同一性と差異とのバランスをとっていたの文化である。偉大な文化である。
 しかるに、人類文化史において、父権文化が主導的になる。そうすると、Media Point=太極太母文化が崩壊して、陽=同一性へと傾斜した文化になり、陰=差異は否定されることになるのである。ユダヤ・キリスト教西洋文明はこの徹底化である。
 ということは、太母文化における同一性と父権文化における同一性とは意味が異なるのである。太母文化においては、同一性は徹底化されることはなく、差異がそれを補完するのである。同一性の志向性に対して、差異の志向性が発生するという対極性があったのである。
 それに対して、父権文化では、同一性が徹底化して、差異が否定・排除・隠蔽されるのである。同一性中心主義である。結局、同一性への志向性は、二種類あるということになる。太母型同一性化と父権型同一性化である。太極型(三元論型)と二元論型である。言い換えると、差異共振型と同一性中心主義型である。
 思うに、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、両方を含んでいると言えよう。即ち、左辺は太母型(太極型)であり、右辺は父権型(二項対立型)であるということになる。これで明快になる。
 私がこれまで、異常に執念深く、執拗に批判的解明を追求してきた近代的自我とは、右辺中心主義であり、左辺を否定・排除・隠蔽しているのである。
 しかしながら、西欧近代ではなく、西洋近代文化の問題は、単に、右辺中心主義だけではなく、左辺を賦活させていることである。これは、既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの併存を意味するのである。(これは、イエス・キリスト自体に源流があると言えよう。そう、占星術では、イエス・キリストは双魚宮・魚座を意味するのであり、おそろしく的確である。)差異と同一性を併存させているが、しかし、同一性が支配的・主導的なのである。(民主主義の問題もこの視点から見る必要がある。)
 整理すると、西洋近代文化とは、同一性主差異従の関係にあると言えよう。単純な父権文化ではないのである。
 また、さらに考えなくてはいけないのは、太母型と父権型に分類したが、先に述べたように、父権型とは太母型の反転と見られるのであるから、根本は太母文化であり、父権文化はその派生であるということである。
 だから、西洋近代文化は、実に複雑な様態であることがわかるのである。(イエス・キリスト型、双魚宮型と見ればいいのであるが。双魚宮の尾の紐を、差異と同一性との連続性と見ることができよう。)そして、ポスト・モダンとは、その様態における差異ないしは太母文化への志向性であったが、差異が同一性と連続化しているので、純粋に、差異、即ち、Media Point=太極へと回帰できなかったのである。ポスト・モダン思想の限界を確認することが必須である。
 結局、整理すると、西洋近代において、 Media Pointの発動があったが、それが父権文化によって、いわば、歪んだものになっているのである。父権的同一性主義志向(連続性への志向)が太母的差異主義志向を抑圧しているのである。ここでは、二つの志向性が矛盾しているのであるが、結局、自然・コスモスの生成流動を考えると、明らかに、同一性から差異へと進行していると見ることができるのである。つまり、Media Pointの回転において、同一性=陽の主導性が終焉して、差異=陰の主導性へと転換していると考えられるのである。これは、当然ながら、Media Point=太極=太母文化の復活を意味しているのである。
 思うに、数千年ないしは何千年に渡る人類父権文化の支配が今や終焉を迎えている自然・コスモス状況になったと思われるのである。同一性中心主義の支配が終焉しつつあるのである。それは、太極で言えば、陽(=同一性中心主義)中心主義が終り、陰が新たに発動しているのである。つまり、本来のMedia Point、太極原理が発現していると考えられるのである。
 陽極(同一性)の支配が終り、陰極(差異)が賦活され出したのである。しかしながら、同一性とは本来的に、連続性であり、差異を差異として認識不可能なのである。この同一性と差異との異質性に注目しなくてはならない。同一性=連続性の反動がここで起るのである(参照:アイロニカルな没入)。差異が飛翔しようとしても、同一性=連続性の拘束によって、同一性へと逆戻りしてしまうのである。つまり、モダンの乗り越えのつもりがモダンへと回帰するのである(これは、例えば、かつては、日本のポスト・モダンの旗手であった柄谷行人氏の今日のモダン回帰を見ればいいだろう。また、ブッシュ/ネオコンもそうである。そして、サブプライムローン問題もそうである。小泉似非改革もそうである。)
 いわば、人類文化史の鬼門に達していると言えよう。思うに、現在は、人類史上、最大の転換点・分岐点に達しているのではないだろうか。
 賦活された差異へと純粋に飛躍することができないである。超大反動である。だから、様々な狂気・傲慢・暴力・犯罪が起るのである。結局、父権文化=同一性中心主義の縛りを突破することが最大の課題である。これがあるために、賦活された差異が否定・抑圧・隠蔽されて諸々の狂気を生みだしているのである。
 しかし、不連続的差異論、さらにその深化・進展であるプラトニック・シナジー理論が生まれて、理論的には、この同一性中心主義の縛りが突破されたのである。これは、端的に、ユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉を意味すると考えられるのである。つまり、新たな差異の文化、Media Point=太極・太母の文化が発動し出したと言えるのである。それは、トランス・モダンの動きである。それは、今日の世界の動き・潮流に見いだすことができるのである。
 そう、ここで経済について言うと、同一性中心主義であった資本主義もこれで終焉することになるだろう。もはや、同一性(=同一性貨幣)ではなくて、差異を人類が追求するようになるからである。(因みに言うと、ゴールドが人気があるというのは、同一性価値ではなく、差異として価値があるからと考えられよう。)
 そして、差異とは、端的に、差異共振性なのである。だから、経済も、差異共振経済となるだろう。それは、トランス資本主義である。差異共振価値が中心化されて同一性価値は手段となるのである。主従逆転するのである。
 最後に、日本についてであるが、近代主義に洗脳されて、同一性を機械的に追求して、差異が衰滅してしまった社会になっている。これは、今日、おそろしく危険・危機的な状態にあると言えよう。
 日本人が差異へと目覚めないと、世界の差異への動きの中で、消滅してしまうかもしれない。カルタゴの運命である。その可能性が出てきた。
 では、日本人が差異・差異共振性へと覚醒するためには、どうしたらいいのだろうか。それは、独りとなり、独りの心に蠢く声に耳を傾けることではないだろうか。独りの身体に蠢く声やエネルギーに耳を傾けることだと思う。そう、身体内部の心にある振動・波動・エネルギー、それが、差異である。
 
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近代同一性主義の狂気について

近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。
 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。
 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。)
 しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。
 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。
 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。
 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。
 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。
 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。
 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。
 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。
 近代主義からのエクソダスが必要である。
 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。


近代的自我の発生:再々・・・考:同一性化が差異化に先行するという根本的志向性がある
以下のように走り書きしたが、結局、近代的自我の形成の問題にまた戻ることになる。既に、少なくとも百回は論じているのではないかと思えるが、ここで確認したい。
 結局、Media Pointの新たな発動(ルネサンス)によって、どうして、同一性が差異を否定することになったのか、ということが核心である。これまでの議論から言えば、南欧イタリア・ルネサンスで発動したプロト・モダンが、西欧において、プロテスタンティズムによって、モダン化されたということになる。言い換えると、南欧モダンが西欧モダンへと転換したのである。
 この切り替えが、同一性による差異の否定を意味するのである。つまり、太母的な南欧文化から父権的な西欧文化へとモダンが展開したということである。これはこれでいいが、問題は、単に西欧だけでなく、世界にそれが伝搬したということから、ある必然性・一般性をもっていた観念の動きであることがわかるので、その意味を解明する必要があるのである。
 結局、これまで述べたことの確認となるが、第一に、Media Pointから同一性の志向が発動する。これは、太極原理から言えば、陽化である。この原理から同一性が先行して、差異が否定されたと考えられる。しかしながら、第二に、差異の志向性が生まれる。これが、ポスト・モダンであるが、同一性と連続化しているので、差異は純粋化されない。そして、第三に、差異が同一性から切り離される。これが、トランス・モダンである。
 結局、近代的自我の形成とは、Media Point=太極の根源的志向性によって生じたということになる。つまり、同一性への志向性が先行し、その後、差異へ志向するという方向性が根本にあることが原因であるということになる。ただし、西欧近代が特殊なのは、(それまでは、あるいは他の地域では、同一性への志向性が先行していても、本源的な差異、すなわち、Media Pointのエネルゲイアが残されていたということ、つまり、差異共振性が共同体のルールとしてなんらか存在していたと考えられるのであるが、)同一性への強い傾斜があるということである。これはユダヤ・キリスト教によってもたらされたと考えられるのである。(イタリアの場合は、ユダヤ・キリスト教と言っても、地中海の太母文化が強いので、ユダヤ・キリスト教が弱められているのである。しかしながら、イギリスにおいては、異教的なケルト文化があったのに、どうして同一性化されたのか、ということが解明されなくてはならない。思うに、イタリアに比べて、共同体の破壊が激しかったことが原因だと思うのである。後でさらに検討したい。)
 ということで本件を終えたい。

p.s. イギリスにおける共同体破壊は、直接的には、歴史上の囲い込み運動によってもたらされたと考えられる。結局、そこには、貨幣経済の浸透があるのである。しかしながら、共同体の破壊は、それ以前に文化破壊があったように思えるのである。つまり、ケルト文化の衰退があったと思われるのである。つまり、精神的文化の衰退があり、貨幣経済が浸透して、共同体の破壊が生じたのではないかと思われるのである。プロテスタンティズムが発生するというのは、従来の精神的文化の崩壊に対する、新たな精神的文化の発生を意味すると思われる。
 そして、イギリスにおけるケルト文化性であるが、それは、近代化によって、逆に活性化されていったのではないだろうか。つまり、衰退し埋もれていたケルト文化が、危機的に、新たに覚醒化したのではないだろうか。言い換えると、衰退していたMedia Pointが活性化したということになる。
 ここで、近代日本について考えると、似たような面があるだろう。日本の神道文化・仏教文化は衰退していたが、明治維新によって、(排仏毀釈はあったが、)それなりに活性化したのではないだろうか。ただ、問題は戦後文化である。アメリカの近代合理主義が中心化して、伝統的精神文化が衰退してしまった点である。ここでは、活性化ではなくて、衰退があるのである。逆に言えば、それほど、洗脳効果があったということになるだろう。それに対して、三島由紀夫の爆発的反抗もあったが。
 もっとも、今日、日本の危機は深まり、破局的になっている。日本精神文化ルネサンスが必要になっているのである。それは、同時に、社会・政治・経済的な復興につながることになるのである。

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近代同一性主義の狂気について

近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。
 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。
 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。)
 しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。
 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。
 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。
 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。
 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。
 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。
 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。
 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。
 近代主義からのエクソダスが必要である。
 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。


2007年12月28日(Fri)▲ページの先頭へ
元教頭の少女売春と少女たちの拝金・物質主義:畜生・鬼畜未満の日本人と心的高次元政治
「あの店には援助交際を求める少女がたくさん集まっていた……」という元教頭の細田被告の言葉に注意すべきだろう。
 要は、金欲しさで少女売春を行なうのである。しかも、実直にアルバイトをして金を得たくはないのである。細田被告は性的倒錯者であるが、それとは別に、この少女たちの意識・考え方に問題があると言わざるを得ないだろう。敗戦後の日本の拝金主義・物質主義の帰結とは言える。つまり、現代日本が、心を喪失した家庭・社会・教育になっているということである。連合国占領軍に支配され、日本人の心の源泉である神道・仏教・アニミズム等を奪われて、アメリカに洗脳されて(実は、アメリカの策謀によって日本人をコントロールしているのだろう。確かに、陰謀があると思う。)、ひたすら近代合理主義/近代的自我の道を邁進した日本の末路である。
 これは、日本人全体の問題である。外国では、馬鹿にされているのである。このような動物のようになってしまった日本人を復活させる、つまれ、生まれ変わらせるにはどうしたらいいのか。(正しく言えば、動物未満であるが。)
 一言いうなら、唯物論を廃止して、心主物従論をもつべきである。

p.s. 私の考えでは、民主主義も、もう役割を終えて、トランス・デモクラシーの政治へと転換すべきである。同一性形式は認めるが、それを包摂した高次の心的政治制が必要になっていると思うのである。心・知の優れたものが政治を行なうべきなのである。プラトンが『国家』を書いたのも、そこらへんにポイントがあると考えられる。心的高次元政治である。あるいは、父権統合型新太母文化政治である。

p.p.s. 同一性形式と民主主義の関係はどうなのか考察する必要があるだろう。一人一人は、同一性形式をもつが、土台・基盤・根源は差異である。差異は心である。結局、同一性中心主義と民主主義が結びついていたのである。しかし、差異を基盤にすると、もう民主主義は否定されるだろう。何度も述べているように、差異共振主義になるのである。高次元差異共振主義である。心的高次元差異共振制である。

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仕事後に連日通った「出会い喫茶」 少女買春の元教頭

2007年12月28日12時33分

 「あの店には援助交際を求める少女がたくさん集まっていた……」

 札幌市立小学校元教頭の細田孝幸被告(55)は、取り調べに対し、こう話したという。

 あの店――「出会い喫茶」。数年前に現れ、東京や大阪、名古屋といった大都市で静かに広がっている新しい形態の店だ。細田被告の行動も、1年半前、札幌の歓楽街・ススキノに出会い喫茶がオープンしてから拍車がかかったという。

 小学校の仕事を終えたその足で連日通い詰めたというその店を、記者も訪ねてみた。中は、普通の喫茶店とはほど遠い。来店した女性は「18歳以上」と「18歳未満」に分かれた部屋に入り、お菓子やジュース、マンガをただで楽しめるようになっている。一方、男性は入会金5000円、1時間あたり1000円を払う。マジックミラー越しに女性を指名し、交渉次第で一緒に外に出ることができるという仕組みだ。

 髪も染めていない。服装が乱れているわけでもない。待機部屋でスナック菓子をほお張る少女たちは、どこにでもいる「普通の子」だった。

 女子高生(17)は「暇つぶしになるし、外で一緒に食事とかしてあげればお小遣いももらえる。でも『ウリ』はしませんよ」と話した。高校を中退したという少女(15)は「私は援助交際している」「だいたい1回2万円。相手は40歳くらいの人が多いかな」。親がくれる小遣いは月に3000円。「働くのは面倒くさいけど、ここには来たい時だけ来ればいいから楽」なのだという。

 テレクラ、伝言ダイヤル、ツーショットダイヤル……。この手の商法はこれまでも数多くあったが、出会い喫茶は実際に容姿を見ることができる点がアピールしているという。一皮むけば売買春の温床。それでも「自由意思による出会い」をうたっている以上、現在の法令で店を摘発するのは難しいという。

 危うい空間から犯罪も生まれている。

 少女買春は言うに及ばない。今年4月には、出会い喫茶で知り合った女性をホテルに連れ込み金を奪った容疑で、新潟県上越市の男が逮捕された。職業は細田被告と同じく小学校の教諭だった。

http://www.asahi.com/national/
update/1228/TKY200712280150.html

******************


 アダルト雑誌に多くのエロ画像を投稿した業界の有名人。

 札幌市立星置東小学校教頭の職にありながら、「アスピリンスノー」なるペンネームで女性の裸体写真を雑誌に多数投稿、さらには未成年と知りながら6人の少女に現金を渡し、わいせつな行為をした細田孝幸被告(55)。

 細田被告は、今年10月1日に札幌中央署に逮捕され、直後の10日に、札幌市教育委員会から「信用失墜行為」よる懲戒免職処分を受けた。

 児童買春・児童ポルノ禁止法違反(児童買春・児童ポルノ製造)の罪に問われた細田孝幸被告の判決公判が28日午前10時から、札幌地裁(中川綾子裁判官)で開かれた。

 今月14日に札幌地裁で開かれた初公判(中川綾子裁判官)の冒頭陳述で、細田被告が今年5〜9月までに、札幌市内のホテル、カラオケ店、自家用車内、自宅で、16〜17歳の少女6人に6,000円前後の現金を渡して性交類似行為を行い、うち5人に対しては乳房を露出した性交類似行為の姿態を取らせた写真を撮影・保存したことなどが明らかになった。

 さらに細田被告は初公判で、「雑誌社から高校生と18歳以下はいけないと言われた。自分でも処罰の対象になると思った。18歳以上は(投稿する)モデルの対象で、18歳以下の児童はイチャイチャする対象、性的な興味になると思います」と性的嗜好を吐露した。

 検察官は、「金にモノを言わせ、自身のあり余る性欲を満たす目的で行った卑劣かつハレンチな犯行。被告の規範意識は欠落しており、再犯の恐れも極めて高い」と断罪、懲役3年を求刑した。

 腰縄と手錠をされた細田被告は28日の判決公判に、坊主頭、黒のジャージで入廷。

 中川裁判官は、懲役3年、執行猶予5年、札幌検察庁が保管する裸体画像を保存したSDカード2枚とCD1枚の没収を命じる判決を言い渡し、量刑の理由を述べてこう諭した。

 「小学校教頭という高い倫理性を求められる立場にあったにもかかわらず、発覚しなかったことを良いことに欲望のおもむくまま犯行を繰り返し、酌量の余地はないハレンチ極まりない犯行で、社会的影響も大きい犯罪ではあるが、十数年間にわたって多数の女性のわいせつな写真を雑誌に投稿していたことも罪に問われないとはいえ、道義的に芳しくない。実刑も十分に考えられるが、自業自得とはいえ、事件発覚によって職を失い、妻と離婚することは避けられない状況となり、事件がマスコミに大きく取り上げられたことにより、社会的制裁も受けていると言える。総合的に考慮し、被告人の社会での更生を期待することにした。今回の刑の執行は猶予する。5年の執行猶予期間は一番長いものです。犯罪とは無縁の生活を送ってください」

 公判が終了した直後、細田被告は「ありがとうございました」と小さく呟いた。
http://www.bnn-s.com/news/07/
12/071228133530.html

児童買春、エロ画像を投稿、小学校元教頭初公判 懲役3年を求刑
http://www.bnn-s.com/news/
07/12/071214141517.html


2007年11月21日(Wed)▲ページの先頭へ
格差問題:唯物論という悪魔主義と戦後アメリカ奴隷からの解放宣言!
格差問題:唯物論という悪魔主義と戦後アメリカ奴隷からの解放宣言!

テーマ:生活・物質・消費・貧富・格差

格差問題は、どうも、目隠しされている。
たとえば、ホームレスであるが、かつて新宿駅に段ボールのホームレスのホームがあったが、今はない。これは、排除したからである。ホームレスは見えないところに追いやられているのである。そして、自殺者であるが、これは、明らかに、戦争である。貧富戦争である。
 グルメ、美食番組のテレビ、くだらない記事の新聞、等々、何ぞや。結局、同一性主義に拠るのである。利己主義、自己中心主義に満ちた日本、悪魔に憑かれた日本人、鬼になった日本人。これらは一体何を意味しているのか。
 私は現象は幻象という。視覚は危険であると私は思っている。というか感覚自体が危険である。なぜなら、感覚は同一性知覚に支配されるからである。自我と結びついているからである。
 悪魔のアメリカ主義に洗脳されていることにも拠る。日本の中枢が洗脳されているのである。日本の精神の破壊が行われているのである。
 問題は、格差問題は何を意味しているのか。そう、ある首相が格差があって何がいけないのですか、と言っていた。このような首相を支持したのが、国民であるのだから、自業自得ではある。
 そう、国民が馬鹿であったのが、一番の原因である。近代的自我を形成したのが、誤りである。義務教育とは、成人を教育すべきである。
 私は70年代半ばに日本が変節したと思っている。生きるために魂を悪魔に売ったのである。だから、30年は日本は悪魔化して、何も生まなかったのである。亡国である。結局、唯物論である。唯物論が日本を滅ぼしたのである。これは、アメリカによる精神破壊ウィルスである。戦後の近代合理主義に拠るのである。
 戦後を超克せよ。アメリカ奴隷から脱せよ!


2007年11月03日(Sat)▲ページの先頭へ
民主主義とは何ぞ哉:差異共振主義と同一性平等主義

民主主義とは何ぞ哉。結局、民主主義の発端は、プロテスタントの求める利己主義追求のための理念にある。近代的自我主義のための理念である。これが、現代では、巨大資本中心主義のイデオロギーになっている。
 税金は、差異主義でいかないといけない。累進課税とは差異主義である。民主主義の視点から見ると、消費税増加は、正しいと判断されるのである。
 民主主義については、一度徹底的に考察する必要があると思っている。ニーチェやD.H.ロレンスは民主主義を批判していた。ファシズムは民主主義から生まれた。
 今、簡単に言えば、民主主義とは、近代的自我=近代合理主義と一環のものであり、近代的同一性主義であろう。同一性という近代的自我が、他者へと同一性自我を投影するのであり、ここに、同一性的平等という理念が発生すると考えられる。すなわち、個体・個人は、同一性的に平等であるべきだという理念である。これは、暴力である。即ち、民主主義とは、同一性中心主義暴力である。トランス・民主主義である。

p.s. それでは、民主主義政治形態の他に何があるのか、ということになる。しかしながら、独裁政権、あるいは、君主制の下でも、国民はそれなりに幸福に暮らせるのである。中東の産油国の君主国家を見よ。あるいは、最近のロシアやベネズエラ。
 いったい、よい政治とは何か。新国家論/新政治論が必要である。

p.p.s. 民主主義の換わりに、差異共振主義である。差異共振主義政体、差異共振制である。差異共振国家である。これがトランス・モダン・ポリティクスである。

********以下、引用・転載*******

『消費税上げ必要』答申へ 政府税調 歳出減重要性も強調

2007年11月3日 朝刊

 政府税制調査会(首相の諮問機関)は二日、企画会合を開き、社会保障財源として消費税率の現行5%からの引き上げが不可避とする意見が大勢を占めた。香西泰会長は会合後の記者会見で「(社会保障の財源に)不可欠の手段だ」と述べ、十一月末にまとめる答申に消費税率引き上げの必要性を盛り込む方針を示した。

 香西会長は、答申に消費税率の引き上げ幅や時期を盛り込むかどうかについては「まだ考えていない」と明言を避けた。このほか、歳出削減など増税以外の対策の重要性も強調した。

 経済成長を重視した安倍政権に対し、福田政権では消費税率引き上げの議論が活発化している。しかし、参院第一党の民主党が税率引き上げに反対し、税制の決定権を握る自民党税調内も積極派と慎重派に分かれる。政府税調が答申で税率引き上げを主張しても、実現は難しい情勢だ。

 会合では司会役の吉川洋・東大大学院教授が「社会保障制度は負担と給付が見合っておらず、持続可能でない」と指摘。消費税率の引き上げと、社会保障の受益と負担の関係を明確化するため、消費税の社会保障目的税化を訴えた。目的税化については、同調する意見と「社会保障費の膨張を招く」と反対する意見に分かれた。

 吉川教授は、消費税率が上がるほど低所得者の負担感が重くなる「逆進性」について、「一時点の所得でなく、生涯所得で考えれば逆進性はない」と主張したが、「(消費税率引き上げで)逆進性を高め、格差社会を助長する恐れがある」との意見も出された。

 政府税調はこの日で税項目別の議論を終え、答申の取りまとめに向けた詰めの議論を加速させる。五日の次回会合は首相官邸で行われ、福田康夫首相も出席する予定。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/
economics/news/CK2007110302061467.html


2007年10月26日(Fri)▲ページの先頭へ
後期近代/ポスト・モダン期について:同一性iと差異-iについて
ここで述べることは作業仮説である。
 自己認識方程式i*(-i)⇒+1において、iを同一性、形相、-iを差異、質料と捉えるとする。
 思うに、フッサールの志向性とは、iの志向性、すなわち、ノエシスであり、そして、iが差異-iに対して形成する観念がノエシスではないだろうか。
 iも本来は差異であるが、他の差異-iに対するときは、形相(形式)としてはたらき、同一性化するのであり、自乗i^2化するのであり、それは、同一性として捉えていいと思われるのである。それに対して、-iは差異、質料、原身体と言えるだろう。
 さて、初期近代においては、Media Pointから同一性衝動が発動する。すなわち、Media Point⇒(i⇒-i)ではないだろうか。
 そして、盛期近代においては、(i⇒-i)⇒-1ではないだろうか。
 そして、後期近代においては、(-i⇒i)⇒-1ではないだろうか。
後期近代において、志向性が反転・逆転すると考えられるのである。差異・質料・原身体から同一性・形相・原知へと作用するように思えるのである。思うに、反近代主義はこの潮流であるように思えるのである。(ここで、ニーチェを考えると、彼の天才性は、単に反近代主義ではなく、同時に、近代主義を並行させていたことにあるのではないだろうか。i⇒-iと-i⇒i の両極性をもっていたと考えられるのである。だから、両者の中間において、純粋なMedia Pointが感得されていたのではないだろうか。それが、永遠回帰の思想ではないだろうか。ハイデガー=ポスト・モダンの元祖をはるかに超えて、トランス・モダンの元祖の一人であろう。)
 これは、端的に、非合理主義である。それまでが、近代合理主義の流れであった。ここにおいては、理性は軽視・無視される。小泉前首相のパフォーマンスを見るといい。
 問題は、この後期近代/ポスト・モダンにおいて、新自由主義=新植民地主義が発現することである。非合理主義の潮流なので、力・暴力・権力が主導的であるとは言えるだろう。全体主義的である。だから、後期近代/ポスト・モダン=新自由主義=新植民地主義=新全体主義と言えそうである。ここでは、闇に光が飲みこまれてしまうのである。
 しかしながら、近代主義のもつ近代的自我の同一性(近代的同一性)は基盤としてあるのである。それは、i⇒-iではないだろうか。
 この近代的自我同一性があるので、同一性交換価値が支配的になると思えるのである。とまれ、この問題はここで留めておきたい。
 次に、これまで何度も指摘した差異と同一性の連続・混淆空間について考えたい。これは、とりわけ、後期近代/ポスト・モダンに発生する。ドゥルーズにしろ、デリダにしろ、彼らの「差異」はその空間に存すると考えられるのである。
 私は、この空間を客観化したいのである。ガウス平面において、どう表現できるのかである。思うに、i⇒実軸Media Pointないしは-i⇒実軸Media Pointとなるのではないだろうか。即ち、±i⇒実軸Media Point ではないだろうか。i⇒実軸Media Pointとはデリダ的差異であり、-i⇒実軸Media Pointとはドゥルーズ的差異ではないだろうか。とまれ、ポスト・モダン哲学の問題は、±i⇒Media Pointに達しなかったことにあるだろう。虚軸ないしは超越性の欠落があるのである。
 ここで用語を整理すると、実軸Media PointはReal Media Pointであり、虚軸Media PointはImaginary Media Pointである。
 今はここで留めたい。当然、再考が必要である。


2007年10月25日(Thu)▲ページの先頭へ
『近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと ・・・』のp.p.s.の掲載
『近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと近代サイクルとトランス・モダン・エラ』http://ameblo.jp/renshi/entry-
10052416843.html
のp.p.sを新たに掲載する。

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p.p.s. 別稿で、詳論すべきであるが、ブッシュ/ネオコンの場合においては、近代合理性ではなく、近代的自我に非合理主義・宗教衝動が連続化して、駆動されているようなことを上述した。
 しかしながら、近代的自我は、同一性中心主義(デリダの「ロゴス中心主義」)であるから、資本の同一性交換価値(貨幣=資本)と連続化する。これは、近代合理性と言えるだろう。だから、ブッシュ/ネオコンの事態はそれなりに複雑である。
 近代的自我があり、それに近代合理性が連続化し、後期近代/ポスト・モダンにおいては、近代的自我・近代合理性に、さらに非合理主義/宗教衝動が連続化するということになろう。即ち、近代的自我・近代合理性・非合理主義(宗教衝動)となる。これが、キリスト教原理主義、キリスト教右派の精神的様態であると考えられる。そして、当然、グローバリズムの正体もこれである。
 ベースはMedia Pointではあるのだが、同一性構造(=近代的自我)が支配的であるために、純粋なMedia Point自体へは回帰できないのである。このMedia Point回帰(=トランス・モダン化)は、プラトニック・シナジー理論のみが、理論的に解明していると考えられる。


近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと近代サイクルとトランス・モダン・エラ
以下の引用箇所は、一年以上前の愚考である。


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【同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。】
Mon, September 11, 2006 05:07:32
『同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象』
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10016888944.html

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その他の、近代的自我の二項対立の発生に関する拙稿を読んでみたが、いろいろ考察(試行錯誤)しているが、決定打がないようである。上の引用はその中でも比較的明快な論である。つまり、「何故、同一性(=自我)は、差異に対して優越を覚えるのか」という問いに対してである。
 一見易しそうな問題であるが、明確な答えが出ていないのである。本件の問題を考察する上でも、この問題には、本来、的確に答え置かなくてはならない。とまれ、今、急に答え出そうとするよりは、本件の問題を補足ないしは補正していきたい。
 ポイントとして押さえておくべき点は、Media Point(思うに、Media Pointという視点ができたおかげで、考察の支点ができたと言えよう)から同一性が発生するときに、近代的自我においては、差異(Media Point)を否定する様態になることである。
 つまり、同一性が優位となり、差異が劣位となるということである。ここでは、同一性=優位、差異=劣位の二項対立が発現しているのである。
 ここで、同一性による差異の否定という事態を考えると、それは、この優劣の二項対立の事態と重なると見ていいだろう。すなわち、優越という様態は、否定という様態と同じと見るのである。優劣=否定ということになる。この同一性>差異という事態が近代的自我を意味すると言えよう。(p.s.  差異であるが、ここでは、純粋なMedia Pointではなく、連続化したMedia Pointである。不連続的Media Pointではなく、連続的Media Pointになっているのである。この連続メディア空間が近代的思想において支配的であったのである。ポスト・モダン思想もここにおいてであった。いわゆる、「非合理主義」というものは、ここでの差異と考えられたと言えよう。ロマン主義、神秘主義、生の哲学、神話、宗教、等々。)
 この点で留めておいて、本件について考察を続けよう。同一性優位の近代的自我であり、ここに近代合理性を形成されていくのであるが、同一性=近代的自我は優位であるから、近代合理性は近代合理主義となると言えよう。
 問題は、キリスト教との関係である。一見関係なさそうに見えるが、プロテスタンティズムを考えると、それは相関しているのである。
 Media Pointからの同一性志向によって、同一性=近代的自我=近代合理主義は形成されるのであるが、先にも述べた通り、Media Pointは、超越的エネルゲイアをもつのである。ここが、重要な論点の一つである。
 すなわち、超越的エネルゲイアに賦活されて、同一性志向性ないしは同一性衝動が発動すると考えることができるだろう。この超越的エネルゲイアが、同一性形成に関わっているのである。端的に、これは、同一性=光のエネルゲイアではないだろうか。言い換えると、現象を形成するエネルゲイアと等価ということではないだろうか。
 少し比喩的な言い方になるが、同一性=光が差異=闇を支配するような事態ではないだろうか。ちょうど、夜明けである。夜の闇の中から、夜明けの光が差しこみ、歓喜が生まれるような事態ではないだろうか。自我の目覚めである。そう、それを神と呼んだであろう。一神教の神、光の神、火の神である。
 問題は、同一性=近代的自我は、超越的エネルゲイアに駆動されているので、「神性」をもつのではないかということである。ここでは、近代的自我というよりは、一神教的自我、一神教的父権的自我によりあてはまる考え方ではないだろうか。
 しかしながら、ルネサンスからプロテスタンティズムへの移行に際して、これと同質の事態があったと考えられるのである。つまり、近代的自我の発生は、一神教的自我・一神教的父権的自我の発生を反復したと考えられるのである。一神教的古代が復活したのである。もっとも、正確に言えば、聖書的古代が復活したと言えよう。結局、近代的自我の形成においては、超越的エネルゲイアによる「神性」が属性として存在したと考えられよう。
 ここで、同一性=優位、差異=劣位、すなわち、同一性>差異という二項対立性をもつ近代的自我とこの「神性」の関係を考えたい。端的に言って、どうして、同一性は差異に対して優位になるのかという問題がある。
 上記の引用の考え方では、プラス極がマイナス極に対して優位なるからとなっている。つまり、i⇒-iという事態であるからということである。これは、これで明快である。原形相ないしは原知が、原質料ないしは原身体へと同一性的に志向しているのであり、他者=差異である-iを同一性化するのである。だから、i・-(-i)⇒-1(近代的自我)ということになる。つまり、iが超越的エネルゲイア=「神性」によって、差異-iに対して、優位になるということになる。すなわち、超越的エネルゲイア=「神性」が優位の原因ということになる。エネルゲイアのある極が優位であるというのは、肯定できるだろう。これは経済である。
 とりあえず、この考えを作業仮説として、先に進みたい。つまり、超越的エネルゲイア的同一性志向性は、働き掛けられる差異よりも、必然的に優位に位置するということである。
 以上の考察から、本件の問題にもどると、近代的自我(つまり、近代西欧的自我)は、超越的エネルゲイア(=「神性」)的同一性自我であり、これが、プロテスタンティズム的近代的自我になったと考えられるのである。
 さらなる問題は、Media Pointとこのプロテスタンティズム的近代的自我の関係である。言い換えると、Media Point⇒同一性における⇒の意味である。ここも重要な論点である。
 これは、聖書の神の問題と通じると言えよう。私は先に、一神教の神は二重であると言った。それは、Media Point性と同一性衝動との二重性である。それは、聖書のいわゆる両義的な表現から考えられることである。
 先に、近代的自我形成は一神教的自我・一神教的父権的自我形成と同質であると言ったが、ここから、この問題への解答は自然に出てくる。すなわち、Media Point⇒同一性の⇒において、Media Pointと同一性衝動の二重性があるということである。
 演繹的に考えよう。Media Pointが基点(起点・原点)としてあり、そこから、同一性衝動が発動するのである。だから、本源としてのMedia Pointがあり、同時に、同一性衝動があるということになる。だから、二重性は証明された。
 ここで、ついでながら言うと、私はプロテスタンティズムはルネサンスを、いわば否定的に内包していると考えているが、それは、Media Pointをプロテスタンティズムが始点にしていることからである。言い換えると、ルネサンスとは、Media Pointの決定的な発現であると考えられるのである。(ここで、補足的にいうと、ハイデガーの『存在と時間』は、Media Pointを喪失しているのであり、無神論的プロテスタンティズムとでも言えよう。そして、三島由紀夫であるが、彼は、Media Pointへと到達しようとしていたのである。しかしながら、近代的自我が強いために、反動的であったのである。しかし、三島由紀夫の方がハイデガーよりも、前進的である。)
 さて、次に、プロテスタンティズムの進展を考えると、それは、近代合理主義となり、起点のMedia Pointの超越性(宗教性)を喪失するのである。これが、いわば、盛期近代主義である。
 しかしながら、時代は進展する。私の考えでは、初期近代が、i⇒-iであったが、後期近代になり、-i⇒iの事態が発生したように思えるのである。つまり、差異からの反転である。これが、ポスト・モダン事象を生んだと言えよう。
 思うに、単純に-i⇒iを肯定すると、逆に-1となる。-i・-i⇒-1である。これは、例えば、神秘主義やオカルト主義である。あるいは、身体中心主義である。そう、アイロニカルな没入はこれで説明がつくだろう。
 問題は、初期近代のi⇒-iと後期近代の-i⇒iとの相互関係の定式化にあるのである。ポスト・モダン哲学は、両者を混淆しているのである。両者を混淆空間(ドゥルーズ&ガタリのカオスモスやデリダの差延:Media Mixed Spaceという概念を考えてもいいだろう。これが、後期近代/ポスト・モダン空間である。)で捉えているのである。この問題は、プラトニック・シナジー理論の(+i)*(-i)⇒+1の公式において、解決されたと考えられるのである。
 問題は、ブッシュ一派のネオコンないしは超巨大資本家の「闇の権力」をどう捉えるかである。彼らには、キリスト教ないしはユダヤ教が宗教的絆である。端的に、キリスト教原理主義をどうとらえるのかである。
 やはり、これは、後期近代におけるアイロニカルな没入で説明できるのではないだろうか。つまり、後期近代において、差異が賦活されるのである。それも、 Media Pointによる超越的エネルゲイアの発動と考えられよう。差異的な発動である。ここで、超越性が再生するのであるが、このとき、先にあげたように、- i⇒iが-i・-(i)⇒-1となる事態が発生して、それが、宗教性の発生となるのではないだろうか。それは、近代的合理主義を否定するだろう。
 問題は、ブッシュの唱える民主化である。これをどう見るのか。先には、近代合理性と結びつけたが、ネオコンなのだから、やはり、キリスト教的民主主義を考えた方がいい。「神が我々を平等に造った」である。後期近代/ポスト・モダン的宗教性において、ブッシュは民主化を絶対的価値にしているのだろう。勿論、宗教的衝動・非合理主義的衝動においてであるから、近代合理性はないのである。だから、イデオロギーなのである。
 では、ブッシュにおいて、近代的自我はあるのだろうか。先の考えでは、近代的自我が基盤となっているのである。盛期近代においては、それに近代合理性が連続化された。しかし、後期近代において、宗教的衝動が賦活されるので、近代的自我という基盤に、非合理主義が連続化されると言えよう。ということで、ブッシュにも当然、近代的自我はあり、それに非合理主義としてのキリスト教が連続化しているのである。これが、キリスト教原理主義である。
 以上で本件は解明されたとしよう。


2007年08月15日(Wed)▲ページの先頭へ
迷信とオカルティズムとPS理論:近代主義的世界観を超えて
いわゆる、オカルティズム関連の問題である。以下のブログでは、迷信と決めつけているが、それは、西洋における魔女狩りの善悪二元論と変わらないだろう。
 問題はどうして、「迷信」を人が信ずることが多いのかである。それは、近代主義的世界観によっては、人生を理解することが不可能であることが根本要因にあると思う。
 理知的な態度を取るならば、哲学を学べがいいのかもしれないが、哲学は一般の人には難し過ぎる文体で書かれている。そして、キリスト教、仏教等の世界宗教は敷居が高い感じがするだろう。
 結局、人生の空虚に入ってくるのが、オカルティズム関連の思想である。私自身は、かつて、近代合理主義者、唯物論者であったときは、そういうものを排除していた。しかしながら、私自身の思想の展開から、精神性を認めざるをえなくなるのである。今度は、逆に、精神性優位となり、科学的なことを見下すようになる。これも、二元論である。結局、精神と科学との相関性を見いだすことが必要なのである。(p.s.  より正確に言えば、精神性と唯物論が混淆していた。そして、唯物論に徹底させた。しかし、精神性が復活する。ある事情から、精神世界に没入する。しかし、どうしても、私の生活実感とオカルティズムは合わない。そして、哲学的合理性が進展して、オカルティズム批判が明確になってくる。こんな感じである。物質科学的合理性と哲学的合理性はまったく異なるものである。両者必要であるし、PS理論は、両者を統合させたのである。言うならば、PS理論は、哲学/数学的合理性をもっているのである。)
 とまれ、私に関すると、オカルティズムに惹かれたときがあった。ルドルフ・シュタイナーの文献をよく読んだ。彼の思想は、霊的科学である。否、正しく言えば、霊的近代科学である。つまり、霊を物質のように対象化して、それに対する科学的態度をもつということである。その科学的態度とは、実際は、瞑想的訓練を中心とする「科学」である。つまり、瞑想には、客観的な様相があるという発想に立っている。
 私がシュタイナーを批判するのは、それが、物質を超越した霊に土台をもっていることからである。というか、物質を超えた霊という物質を基本的対象にしていることからである。現象が疎かにされて、霊中心になるのである。これでは、妄想になるだろう。
 ここで、PS理論について言うと、それは、イデア=霊を説くが、イデア=霊が物質となる過程を説いているのである。このイデア=霊は、即非的差異である。そして、この差異から物質的現象が発生するのである。簡単に言えば、物質の裏側にイデア=霊があると言ってもいいだろう。だから、物質とイデア=霊は一種相即不離である。しかし、正しくは、物質とイデア=霊は即非様相にあるのである。言い換えると、物質を究めると、イデア=霊になるのである。
 私見では、オカルティズムは、近代科学的世界観への反動である。しかし、単純に迷信と言って排除するのは誤りだ。そこには、近代合理主義に対する不満があるし、又、近代合理主義を超えた世界観を求める欲求があるからである。物質的知性を保持しつつ、精神的世界観を批判的に構築すべきなのである。
 とまれ、シュタイナーに関して、批判だけしたが、彼の著作は、真面目さに貫かれている。誠実さがあるし、さらには、ある種、合理的な知的態度があると思う(つまり、哲学的な知性の態度である)。それは、内省、省察、反省に役立つ。その点で評価できるだろう。自己内面を測深する方法をそこには書かれている。これは勧めたい。近代的自我の内面を観察すれば、傲慢的な態度が犇めきあっているのに、グロテスクな感じで気がつくだろう。

参考:いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫) (文庫)



私は迷信が嫌いです☆


●洗脳について造詣が深く、公安の依頼により複数のオウム真理教信者の

 脱洗脳を手伝ったことでよく知られる
 
 苫米地 英人(とまべち ひでと、1959年 - )氏が
 
 『スピリチャアリズム』という本を出しました。
 
 全面的に肯定、というところまではいきませんが、
 
 いろいろ勉強になるところがありました☆
 
 江原啓之
 細木数子
 中沢新一
 幸福の科学
 シルバーバーチの霊訓
 サイババ
 
 などの間違いや、それを報道するメディアの問題に
 
 ついて言及しています。
 
 (※ちなみに、細木数子の占いについての結果で面白い記事が
 
 ありましたので、紹介させていただきます☆ コチラ )


では、この本から、いくつか拾いあげてみましょう。
http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/
e/fe53f942953f75be21104bdd644f94cb
グーグーパンダの語る人生の目的


2007年07月31日(Tue)▲ページの先頭へ
私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。
以下、気になる事柄があるので、引用させていただく。日本左翼の問題点は、それなりに捉えていると思う。しかし、私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。
 私はポスト・モダン哲学の再検討を行い、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学とデリダ哲学とを明確に区別しなくてはならないという考えに傾いている。私見では、ポスト・モダン哲学の本流は、デリダではなく、ドゥルーズ(&ガタリ)にあると思う。何故なら、デリダ哲学(脱構築主義)は、広義のポスト・モダン哲学に必要な超越性を否定していると考えられるからである。つまり、端的に言えば、デリダ哲学(脱構築理論)は、私の考えるポスト・モダン(=トランス・モダン)哲学からは外されるべきである。
 そのように考えて、日本左翼を見ると、確かに、かれらにとっては、ドゥルーズ哲学ないしポスト・モダン哲学よりは、デリダ哲学=脱構築主義の方がわかりやすいのではないだろうか。言葉は悪いが、デリダ哲学は、大御所の哲学に矛盾を見てイチャモンをつけて、それを引きずり下ろすのである。しかしながら、対象となる哲学の矛盾を乗り越えて、その哲学から創造するのではないのである。矛盾を生みだす原因を差延やエクリチュールに見ているのである。これは、自己の考えを対象に押しつけているのである。フッサール現象学に対するデリダの批判がそのようなものである。(私の言葉では、同一性パラドクス様相を差延とデリダは呼んでいると思う。)
 日本左翼は超越性を認めないから、確かに、超越性を否定するデリダ哲学には魅力を感じるだろう。そう、同一性パラドクス様相という近代主義/反近代主義の様相にあるので、スタンス的には合うと言えよう。つまり、日本左翼は、近代主義であったり、反近代主義であったり、都合よく揺れ動いているのである。これは、柄谷行人のスタンスでもある。そう見ると、確かに、脱構築主義は、日本左翼にとって、さらには、左翼にとっては、好都合な理論なのだろう。
 

「日本左翼特有の四畳半フォーク的な虚弱至上主義と無責任主義がある。誤解を恐れず敢えて言えば、日本の左翼は正義が嫌いであり、正義を正面から語り論ずるのが面倒で億劫で苦手である。正義的なもの、正論的なものに対して抗原抗体反応を起こすのが日本左翼の体質であり、そういう正義拒絶の遺伝子を払拭できない。だから本村洋のような正義の英雄が颯爽と登場したときは、本能的に拒絶反応を起こし、石を投げつけ、唾を吐きつけようとするのである。正義排斥の日本左翼は、社会を概念と理論で設計・構築しようとせず、薄暗く陰湿な裏部屋の擬似的共同体を生息環境とし、そこに逼塞して内側に呟きとスローガンを共鳴させる。だからブログ左翼には個性がない。名前と中身を入れ替えてもどれも同じだ。テーマも言葉も文章も全く同じ。正義や倫理、国家や組織、そうした問題に背を向けて、趣味的な小共同体レベルで自己満足に溺る傾向は、全共闘世代以降に支配的となった。それを合理化し補強したのが80年代に安輸入した脱構築主義で、現在の官僚世界(大学・官庁・法曹 )の主流である。」(赤色文字強調はrenshiによる)
http://critic3.exblog.jp/7040710#7040710_1
『山口母子殺害事件はなぜ高い関心を集めるのか − 正義と倫理』
世に倦む日日
critic3.exblog.jp


2007年05月31日(Thu)▲ページの先頭へ
私の親の世代から思う:彼らの唯物論はどこから生まれたのか。
私の人生は、亡父への嫌悪・憎悪・反発・殺意・怨み、等が原点であったように思う。
 大正の後半の生まれである。家庭の恥を晒すことになるので、詳しく書かず、抽象観念的になるが、何故、このような人間が生きているのか。このような人間が生きている世の中は断罪に値すると若い頃思った。
 とにかく、利己主義、自己中心主義、冷酷無惨な人間であった。精神がなかった。
 また、母を見ると、昭和初期の生まれであるが、子どもの頃は、お国のためと滅私奉公で働いたようだ。
 両親の性格は異なるが、ただ共通しているものがあった。それは、物質主義である。没精神性である。没霊的である。唯物的、金銭中心主義的であった。
 両親ともに、無教養であった。それはそれでいいのであるが、彼らの唯物主義は、いったいどこから生まれたのか、不思議である。
 私が戦後の唯物教育を受けて、染まる下地は、両親の唯物性にあったように思う。
 いったい、大正や昭和初期の唯物論はどこから生まれたのか。没精神性はどこから生まれたのか。
 思うに、思考する習慣が彼らにはないのである。現在の思考停止の国民のように。
 そう、父親は、電気関係や機械の工作が好きな人であり、一見、理科系的ではあるが、思考が狂っていた。
 今、急に思い浮かんだが、やはり、夢野久作の、唯物科学を批判している『ドグラ・マグラ』を読む必要が絶対にあるということである。
 亡父は帳簿は丁寧に記した。字は綺麗であった。しかし、思考は完全に狂っていたのである。そう、一種、パラノイアであったと言えよう。
 どうも、パラノイアということに鍵がありそうだ。これは、正に、近代的自我の狂気である。
 ここで、飛躍的敷延して、日本の戦前の狂気は、パラノイアに拠るのではないだろうか。そして、今日・現代の日本の狂気もそうである。偏執狂である。
 これは、同一性主義の帰結である。だから、思うに、両親の育った昭和の初期の時代には、同一性主義・パラノイア性が社会に蔓延していたのではないだろうか。
 そう、だから、集団的パラノイアである。全体主義と言ってもいい。これは、差異を否定して、同一性が全体化する事態である。つまり、昭和の初期の時代に、差異を否定する事態が起きたのである。
 今、ここで、226事件や515事件等が浮かんだ。また、アナーキズムのことも浮かんだ。思えば、私は一時アナーキズムに傾いた時期があった。しかし、私はアナーキズムの欠点をわかったいたつもりである。それは、他者を否定することである。バクーニンを考えればいいのである。自己の思想のためには、殺害、暴力的破壊を辞さないのである。
 つまり、アナーキズムは自由を求めながら、この点で、同一性主義に陥っているのである。否定反動的でなのである。だから、私は、スピノザ主義的アナーキズムを考えたのである。これは、他者を能動的観念化して、連合化する発想である。そう、不連続的差異論が生まれる前、私の内部に生じた思想は、このスピノザ主義的アナーキズムであった。これは、実は、PS理論に近いのである。ただ、不連続性や超越性が明快にはなっていないのである。
 ということで、昭和初期に同一性主義が生まれたのだろう。これは、ロシア革命を生んだ無神論的唯物論に類似するように思える。つまり、昭和初期の日本とは、ロシア革命前夜に近い同一性・唯物的思潮があったように思えるのである。
 今日は、これ以上書けないが、とにかく、私の両親の唯物主義は、昭和初期の同一性・無神論・唯物思想に影響を受けているのではないだろうか。だから、昭和初期の時代思潮を考えるには、ロシアとの相関を見ないといけないように思えるのである。後で、再考したい。


2007年05月21日(Mon)▲ページの先頭へ
同一性資本主義と差異資本主義:地方は特異性である。差異的政治を求めよ。
今は、一言いうが、近代的同一性の枠組みから落ちこぼれ、逸脱する人間がこれからますます増える可能性はある。もっとも、反動化して、同一性主義の政府を支持することも続くだろう。
 とまれ、脱近代的同一性である差異へと還元されたとき、人間はどうなるのか。差異へと還元された人間は強い。しかし、差異に対する資本が日本にはないのだ。ここが一番の問題だ。マイクロ・クレジットはないのだ。
 同一性はますます肥大化して、民人の利益を搾り取る。同一性資本主義である。それは、本山がアメリカにあると言えよう。しかし、同一性資本主義は本来は邪道である。差異から同一性を生むのが本来の資本主義であるからだ。質か量への還元である。しかし、同一性資本主義は、同一性の量の差異を問題にするだけである。i*-(-i)⇒-1の世界である。これはエントロピーの世界である。
 思うに、同一性資本主義は、ますます肥大化して、その恐ろしい金権的全体主義を展開するだろう。他方、差異資本主義が進展するようになるだろう。最も、その前に、差異が消失する危険もあるが。
 とまれ、現在の同一性資本主義の政党を政権から降ろす必要があるだろう。また、地方は、地方文化を構築するべきだろう。東京の真似をしても、地方は活気をもたないだろう。地方の差異を認識しないといけない。農業がしたくなるような生活環境を作らないといけない。大型店には、利益を地域に還元させなくてはならない。社会文化経済である。また、そのような政治をもたないといけない。差異的政治である。
 同一性に囚われているから、差異が見えないのである。あるいは、特異性である。地方は特異性であるという視点をもたないといけない。

「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも旅するにも、常に人に呼びかけられる。
他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ一人歩め。」
http://mandalaya.com/gen.html


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カレンダ
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