西洋近代の終焉:同一性中心主義から差異共振性への超越的上昇:トランス・モダン・エヴォリューション






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2008年01月09日(Wed)
西洋近代の終焉:同一性中心主義から差異共振性への超越的上昇:トランス・モダン・エヴォリューション
我ながら、以下の駄文は長過ぎるというか冗長である。ポイントを簡単に述べたい。

 西洋近代とは、太母文化(差異文化)と父権文化(同一性・連続性文化)の折衷であるが、父権文化が主導的なのである。しかし、今日、差異が賦活されているので、前者へと回帰する志向にあるのである。しかるに、父権文化の連続性のために、前者へと純粋に回帰できない反動の事態が起きている。ポスト・モダン思想がそうであった。
 しかし、プラトニック・シナジー理論は、差異への純粋な回帰を説いている思想であり、反動を乗り越えることができ、それは、トランス・モダンの世界的潮流を解明しているのである。
 現代日本は、近代主義(同一性主義・近代合理主義)に洗脳されている(近代的自我の形成)ので、この動きに気づかず、反動的な自滅に向かっている。同一性主義から差異へと意識・知性を転換する必要がある。

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直前の論考のタイトルを変更した。

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先の論http://ameblo.jp/renshi/
entry-10064779052.html
の追記が長くなったので、ここで独立させることにする。

以下の拙文では、同一性視覚ということが近代的自我形成の契機となっている。同一性視覚も同一性志向性も同じである。最初に、同一性視覚/志向性が生まれたのである。これが、いわば、人類の「原罪」である。しかし、これは、根因は自然にあるのである。だから、自然の「原罪」である。自然は、人類が同一性を先行させるように生んだのである。
 しかしながら、太母文化社会については、考えないといけない。それは、同一性が先行していない。それは、同一性と差異とが未分化であると考えられる。だから、自然の「原罪」云々は誤りである。ここで訂正したい。
 結局、父権文化が西欧近代において主導的になり、同一性が先行することになり、近代的自我/近代合理主義が生起したのである。
 そうすると、本文で述べたMedia Pointからの同一性志向の先行性という考えは、父権文化に当てはまる考えであり、太母文化には、当てはまらないということになる。
 しかしである。Media Pointを太極と見れば、陰陽原理が作用するので、同一性化=陽化の先行性はそれなりに肯定できるのかもしれない。しかし、易において、陽から始まるのだろうか。調べてみよう。
 よくわからないが、やはり、陽の方が陰より先行しているようである。しかしながら、陰陽という言い方は、陰が先だから、なにか易には強いている面があるように思える。
 とまれ、前父権文化において、Media Point=太極太母文化があったと考えられる。これは、陰陽バランスの文化であり、陽へと傾斜すれば、陰へのバランスを取る智慧をもっている。陽=同一性、陰=差異とすれば、同一性と差異とのバランスをとっていたの文化である。偉大な文化である。
 しかるに、人類文化史において、父権文化が主導的になる。そうすると、Media Point=太極太母文化が崩壊して、陽=同一性へと傾斜した文化になり、陰=差異は否定されることになるのである。ユダヤ・キリスト教西洋文明はこの徹底化である。
 ということは、太母文化における同一性と父権文化における同一性とは意味が異なるのである。太母文化においては、同一性は徹底化されることはなく、差異がそれを補完するのである。同一性の志向性に対して、差異の志向性が発生するという対極性があったのである。
 それに対して、父権文化では、同一性が徹底化して、差異が否定・排除・隠蔽されるのである。同一性中心主義である。結局、同一性への志向性は、二種類あるということになる。太母型同一性化と父権型同一性化である。太極型(三元論型)と二元論型である。言い換えると、差異共振型と同一性中心主義型である。
 思うに、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、両方を含んでいると言えよう。即ち、左辺は太母型(太極型)であり、右辺は父権型(二項対立型)であるということになる。これで明快になる。
 私がこれまで、異常に執念深く、執拗に批判的解明を追求してきた近代的自我とは、右辺中心主義であり、左辺を否定・排除・隠蔽しているのである。
 しかしながら、西欧近代ではなく、西洋近代文化の問題は、単に、右辺中心主義だけではなく、左辺を賦活させていることである。これは、既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの併存を意味するのである。(これは、イエス・キリスト自体に源流があると言えよう。そう、占星術では、イエス・キリストは双魚宮・魚座を意味するのであり、おそろしく的確である。)差異と同一性を併存させているが、しかし、同一性が支配的・主導的なのである。(民主主義の問題もこの視点から見る必要がある。)
 整理すると、西洋近代文化とは、同一性主差異従の関係にあると言えよう。単純な父権文化ではないのである。
 また、さらに考えなくてはいけないのは、太母型と父権型に分類したが、先に述べたように、父権型とは太母型の反転と見られるのであるから、根本は太母文化であり、父権文化はその派生であるということである。
 だから、西洋近代文化は、実に複雑な様態であることがわかるのである。(イエス・キリスト型、双魚宮型と見ればいいのであるが。双魚宮の尾の紐を、差異と同一性との連続性と見ることができよう。)そして、ポスト・モダンとは、その様態における差異ないしは太母文化への志向性であったが、差異が同一性と連続化しているので、純粋に、差異、即ち、Media Point=太極へと回帰できなかったのである。ポスト・モダン思想の限界を確認することが必須である。
 結局、整理すると、西洋近代において、 Media Pointの発動があったが、それが父権文化によって、いわば、歪んだものになっているのである。父権的同一性主義志向(連続性への志向)が太母的差異主義志向を抑圧しているのである。ここでは、二つの志向性が矛盾しているのであるが、結局、自然・コスモスの生成流動を考えると、明らかに、同一性から差異へと進行していると見ることができるのである。つまり、Media Pointの回転において、同一性=陽の主導性が終焉して、差異=陰の主導性へと転換していると考えられるのである。これは、当然ながら、Media Point=太極=太母文化の復活を意味しているのである。
 思うに、数千年ないしは何千年に渡る人類父権文化の支配が今や終焉を迎えている自然・コスモス状況になったと思われるのである。同一性中心主義の支配が終焉しつつあるのである。それは、太極で言えば、陽(=同一性中心主義)中心主義が終り、陰が新たに発動しているのである。つまり、本来のMedia Point、太極原理が発現していると考えられるのである。
 陽極(同一性)の支配が終り、陰極(差異)が賦活され出したのである。しかしながら、同一性とは本来的に、連続性であり、差異を差異として認識不可能なのである。この同一性と差異との異質性に注目しなくてはならない。同一性=連続性の反動がここで起るのである(参照:アイロニカルな没入)。差異が飛翔しようとしても、同一性=連続性の拘束によって、同一性へと逆戻りしてしまうのである。つまり、モダンの乗り越えのつもりがモダンへと回帰するのである(これは、例えば、かつては、日本のポスト・モダンの旗手であった柄谷行人氏の今日のモダン回帰を見ればいいだろう。また、ブッシュ/ネオコンもそうである。そして、サブプライムローン問題もそうである。小泉似非改革もそうである。)
 いわば、人類文化史の鬼門に達していると言えよう。思うに、現在は、人類史上、最大の転換点・分岐点に達しているのではないだろうか。
 賦活された差異へと純粋に飛躍することができないである。超大反動である。だから、様々な狂気・傲慢・暴力・犯罪が起るのである。結局、父権文化=同一性中心主義の縛りを突破することが最大の課題である。これがあるために、賦活された差異が否定・抑圧・隠蔽されて諸々の狂気を生みだしているのである。
 しかし、不連続的差異論、さらにその深化・進展であるプラトニック・シナジー理論が生まれて、理論的には、この同一性中心主義の縛りが突破されたのである。これは、端的に、ユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉を意味すると考えられるのである。つまり、新たな差異の文化、Media Point=太極・太母の文化が発動し出したと言えるのである。それは、トランス・モダンの動きである。それは、今日の世界の動き・潮流に見いだすことができるのである。
 そう、ここで経済について言うと、同一性中心主義であった資本主義もこれで終焉することになるだろう。もはや、同一性(=同一性貨幣)ではなくて、差異を人類が追求するようになるからである。(因みに言うと、ゴールドが人気があるというのは、同一性価値ではなく、差異として価値があるからと考えられよう。)
 そして、差異とは、端的に、差異共振性なのである。だから、経済も、差異共振経済となるだろう。それは、トランス資本主義である。差異共振価値が中心化されて同一性価値は手段となるのである。主従逆転するのである。
 最後に、日本についてであるが、近代主義に洗脳されて、同一性を機械的に追求して、差異が衰滅してしまった社会になっている。これは、今日、おそろしく危険・危機的な状態にあると言えよう。
 日本人が差異へと目覚めないと、世界の差異への動きの中で、消滅してしまうかもしれない。カルタゴの運命である。その可能性が出てきた。
 では、日本人が差異・差異共振性へと覚醒するためには、どうしたらいいのだろうか。それは、独りとなり、独りの心に蠢く声に耳を傾けることではないだろうか。独りの身体に蠢く声やエネルギーに耳を傾けることだと思う。そう、身体内部の心にある振動・波動・エネルギー、それが、差異である。
 
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近代同一性主義の狂気について

近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。
 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。
 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。)
 しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。
 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。
 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。
 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。
 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。
 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。
 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。
 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。
 近代主義からのエクソダスが必要である。
 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。

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