近代的自我の発生:再々・・・考:同一性化が差異化に先行するという根本的志向性がある






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2008年01月09日(Wed)
近代的自我の発生:再々・・・考:同一性化が差異化に先行するという根本的志向性がある
以下のように走り書きしたが、結局、近代的自我の形成の問題にまた戻ることになる。既に、少なくとも百回は論じているのではないかと思えるが、ここで確認したい。
 結局、Media Pointの新たな発動(ルネサンス)によって、どうして、同一性が差異を否定することになったのか、ということが核心である。これまでの議論から言えば、南欧イタリア・ルネサンスで発動したプロト・モダンが、西欧において、プロテスタンティズムによって、モダン化されたということになる。言い換えると、南欧モダンが西欧モダンへと転換したのである。
 この切り替えが、同一性による差異の否定を意味するのである。つまり、太母的な南欧文化から父権的な西欧文化へとモダンが展開したということである。これはこれでいいが、問題は、単に西欧だけでなく、世界にそれが伝搬したということから、ある必然性・一般性をもっていた観念の動きであることがわかるので、その意味を解明する必要があるのである。
 結局、これまで述べたことの確認となるが、第一に、Media Pointから同一性の志向が発動する。これは、太極原理から言えば、陽化である。この原理から同一性が先行して、差異が否定されたと考えられる。しかしながら、第二に、差異の志向性が生まれる。これが、ポスト・モダンであるが、同一性と連続化しているので、差異は純粋化されない。そして、第三に、差異が同一性から切り離される。これが、トランス・モダンである。
 結局、近代的自我の形成とは、Media Point=太極の根源的志向性によって生じたということになる。つまり、同一性への志向性が先行し、その後、差異へ志向するという方向性が根本にあることが原因であるということになる。ただし、西欧近代が特殊なのは、(それまでは、あるいは他の地域では、同一性への志向性が先行していても、本源的な差異、すなわち、Media Pointのエネルゲイアが残されていたということ、つまり、差異共振性が共同体のルールとしてなんらか存在していたと考えられるのであるが、)同一性への強い傾斜があるということである。これはユダヤ・キリスト教によってもたらされたと考えられるのである。(イタリアの場合は、ユダヤ・キリスト教と言っても、地中海の太母文化が強いので、ユダヤ・キリスト教が弱められているのである。しかしながら、イギリスにおいては、異教的なケルト文化があったのに、どうして同一性化されたのか、ということが解明されなくてはならない。思うに、イタリアに比べて、共同体の破壊が激しかったことが原因だと思うのである。後でさらに検討したい。)
 ということで本件を終えたい。

p.s. イギリスにおける共同体破壊は、直接的には、歴史上の囲い込み運動によってもたらされたと考えられる。結局、そこには、貨幣経済の浸透があるのである。しかしながら、共同体の破壊は、それ以前に文化破壊があったように思えるのである。つまり、ケルト文化の衰退があったと思われるのである。つまり、精神的文化の衰退があり、貨幣経済が浸透して、共同体の破壊が生じたのではないかと思われるのである。プロテスタンティズムが発生するというのは、従来の精神的文化の崩壊に対する、新たな精神的文化の発生を意味すると思われる。
 そして、イギリスにおけるケルト文化性であるが、それは、近代化によって、逆に活性化されていったのではないだろうか。つまり、衰退し埋もれていたケルト文化が、危機的に、新たに覚醒化したのではないだろうか。言い換えると、衰退していたMedia Pointが活性化したということになる。
 ここで、近代日本について考えると、似たような面があるだろう。日本の神道文化・仏教文化は衰退していたが、明治維新によって、(排仏毀釈はあったが、)それなりに活性化したのではないだろうか。ただ、問題は戦後文化である。アメリカの近代合理主義が中心化して、伝統的精神文化が衰退してしまった点である。ここでは、活性化ではなくて、衰退があるのである。逆に言えば、それほど、洗脳効果があったということになるだろう。それに対して、三島由紀夫の爆発的反抗もあったが。
 もっとも、今日、日本の危機は深まり、破局的になっている。日本精神文化ルネサンスが必要になっているのである。それは、同時に、社会・政治・経済的な復興につながることになるのである。

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近代同一性主義の狂気について

近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。
 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。
 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。)
 しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。
 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。
 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。
 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。
 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。
 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。
 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。
 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。
 近代主義からのエクソダスが必要である。
 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。


   




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カレンダ
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