近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと近代サイクルとトランス・モダン・エラ |
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2007年10月25日(Thu)
近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと近代サイクルとトランス・モダン・エラ
以下の引用箇所は、一年以上前の愚考である。
****************** 【同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。】 Mon, September 11, 2006 05:07:32 『同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象』 http://ameblo.jp/renshi/ entry-10016888944.html ******************* その他の、近代的自我の二項対立の発生に関する拙稿を読んでみたが、いろいろ考察(試行錯誤)しているが、決定打がないようである。上の引用はその中でも比較的明快な論である。つまり、「何故、同一性(=自我)は、差異に対して優越を覚えるのか」という問いに対してである。 一見易しそうな問題であるが、明確な答えが出ていないのである。本件の問題を考察する上でも、この問題には、本来、的確に答え置かなくてはならない。とまれ、今、急に答え出そうとするよりは、本件の問題を補足ないしは補正していきたい。 ポイントとして押さえておくべき点は、Media Point(思うに、Media Pointという視点ができたおかげで、考察の支点ができたと言えよう)から同一性が発生するときに、近代的自我においては、差異(Media Point)を否定する様態になることである。 つまり、同一性が優位となり、差異が劣位となるということである。ここでは、同一性=優位、差異=劣位の二項対立が発現しているのである。 ここで、同一性による差異の否定という事態を考えると、それは、この優劣の二項対立の事態と重なると見ていいだろう。すなわち、優越という様態は、否定という様態と同じと見るのである。優劣=否定ということになる。この同一性>差異という事態が近代的自我を意味すると言えよう。(p.s. 差異であるが、ここでは、純粋なMedia Pointではなく、連続化したMedia Pointである。不連続的Media Pointではなく、連続的Media Pointになっているのである。この連続メディア空間が近代的思想において支配的であったのである。ポスト・モダン思想もここにおいてであった。いわゆる、「非合理主義」というものは、ここでの差異と考えられたと言えよう。ロマン主義、神秘主義、生の哲学、神話、宗教、等々。) この点で留めておいて、本件について考察を続けよう。同一性優位の近代的自我であり、ここに近代合理性を形成されていくのであるが、同一性=近代的自我は優位であるから、近代合理性は近代合理主義となると言えよう。 問題は、キリスト教との関係である。一見関係なさそうに見えるが、プロテスタンティズムを考えると、それは相関しているのである。 Media Pointからの同一性志向によって、同一性=近代的自我=近代合理主義は形成されるのであるが、先にも述べた通り、Media Pointは、超越的エネルゲイアをもつのである。ここが、重要な論点の一つである。 すなわち、超越的エネルゲイアに賦活されて、同一性志向性ないしは同一性衝動が発動すると考えることができるだろう。この超越的エネルゲイアが、同一性形成に関わっているのである。端的に、これは、同一性=光のエネルゲイアではないだろうか。言い換えると、現象を形成するエネルゲイアと等価ということではないだろうか。 少し比喩的な言い方になるが、同一性=光が差異=闇を支配するような事態ではないだろうか。ちょうど、夜明けである。夜の闇の中から、夜明けの光が差しこみ、歓喜が生まれるような事態ではないだろうか。自我の目覚めである。そう、それを神と呼んだであろう。一神教の神、光の神、火の神である。 問題は、同一性=近代的自我は、超越的エネルゲイアに駆動されているので、「神性」をもつのではないかということである。ここでは、近代的自我というよりは、一神教的自我、一神教的父権的自我によりあてはまる考え方ではないだろうか。 しかしながら、ルネサンスからプロテスタンティズムへの移行に際して、これと同質の事態があったと考えられるのである。つまり、近代的自我の発生は、一神教的自我・一神教的父権的自我の発生を反復したと考えられるのである。一神教的古代が復活したのである。もっとも、正確に言えば、聖書的古代が復活したと言えよう。結局、近代的自我の形成においては、超越的エネルゲイアによる「神性」が属性として存在したと考えられよう。 ここで、同一性=優位、差異=劣位、すなわち、同一性>差異という二項対立性をもつ近代的自我とこの「神性」の関係を考えたい。端的に言って、どうして、同一性は差異に対して優位になるのかという問題がある。 上記の引用の考え方では、プラス極がマイナス極に対して優位なるからとなっている。つまり、i⇒-iという事態であるからということである。これは、これで明快である。原形相ないしは原知が、原質料ないしは原身体へと同一性的に志向しているのであり、他者=差異である-iを同一性化するのである。だから、i・-(-i)⇒-1(近代的自我)ということになる。つまり、iが超越的エネルゲイア=「神性」によって、差異-iに対して、優位になるということになる。すなわち、超越的エネルゲイア=「神性」が優位の原因ということになる。エネルゲイアのある極が優位であるというのは、肯定できるだろう。これは経済である。 とりあえず、この考えを作業仮説として、先に進みたい。つまり、超越的エネルゲイア的同一性志向性は、働き掛けられる差異よりも、必然的に優位に位置するということである。 以上の考察から、本件の問題にもどると、近代的自我(つまり、近代西欧的自我)は、超越的エネルゲイア(=「神性」)的同一性自我であり、これが、プロテスタンティズム的近代的自我になったと考えられるのである。 さらなる問題は、Media Pointとこのプロテスタンティズム的近代的自我の関係である。言い換えると、Media Point⇒同一性における⇒の意味である。ここも重要な論点である。 これは、聖書の神の問題と通じると言えよう。私は先に、一神教の神は二重であると言った。それは、Media Point性と同一性衝動との二重性である。それは、聖書のいわゆる両義的な表現から考えられることである。 先に、近代的自我形成は一神教的自我・一神教的父権的自我形成と同質であると言ったが、ここから、この問題への解答は自然に出てくる。すなわち、Media Point⇒同一性の⇒において、Media Pointと同一性衝動の二重性があるということである。 演繹的に考えよう。Media Pointが基点(起点・原点)としてあり、そこから、同一性衝動が発動するのである。だから、本源としてのMedia Pointがあり、同時に、同一性衝動があるということになる。だから、二重性は証明された。 ここで、ついでながら言うと、私はプロテスタンティズムはルネサンスを、いわば否定的に内包していると考えているが、それは、Media Pointをプロテスタンティズムが始点にしていることからである。言い換えると、ルネサンスとは、Media Pointの決定的な発現であると考えられるのである。(ここで、補足的にいうと、ハイデガーの『存在と時間』は、Media Pointを喪失しているのであり、無神論的プロテスタンティズムとでも言えよう。そして、三島由紀夫であるが、彼は、Media Pointへと到達しようとしていたのである。しかしながら、近代的自我が強いために、反動的であったのである。しかし、三島由紀夫の方がハイデガーよりも、前進的である。) さて、次に、プロテスタンティズムの進展を考えると、それは、近代合理主義となり、起点のMedia Pointの超越性(宗教性)を喪失するのである。これが、いわば、盛期近代主義である。 しかしながら、時代は進展する。私の考えでは、初期近代が、i⇒-iであったが、後期近代になり、-i⇒iの事態が発生したように思えるのである。つまり、差異からの反転である。これが、ポスト・モダン事象を生んだと言えよう。 思うに、単純に-i⇒iを肯定すると、逆に-1となる。-i・-i⇒-1である。これは、例えば、神秘主義やオカルト主義である。あるいは、身体中心主義である。そう、アイロニカルな没入はこれで説明がつくだろう。 問題は、初期近代のi⇒-iと後期近代の-i⇒iとの相互関係の定式化にあるのである。ポスト・モダン哲学は、両者を混淆しているのである。両者を混淆空間(ドゥルーズ&ガタリのカオスモスやデリダの差延:Media Mixed Spaceという概念を考えてもいいだろう。これが、後期近代/ポスト・モダン空間である。)で捉えているのである。この問題は、プラトニック・シナジー理論の(+i)*(-i)⇒+1の公式において、解決されたと考えられるのである。 問題は、ブッシュ一派のネオコンないしは超巨大資本家の「闇の権力」をどう捉えるかである。彼らには、キリスト教ないしはユダヤ教が宗教的絆である。端的に、キリスト教原理主義をどうとらえるのかである。 やはり、これは、後期近代におけるアイロニカルな没入で説明できるのではないだろうか。つまり、後期近代において、差異が賦活されるのである。それも、 Media Pointによる超越的エネルゲイアの発動と考えられよう。差異的な発動である。ここで、超越性が再生するのであるが、このとき、先にあげたように、- i⇒iが-i・-(i)⇒-1となる事態が発生して、それが、宗教性の発生となるのではないだろうか。それは、近代的合理主義を否定するだろう。 問題は、ブッシュの唱える民主化である。これをどう見るのか。先には、近代合理性と結びつけたが、ネオコンなのだから、やはり、キリスト教的民主主義を考えた方がいい。「神が我々を平等に造った」である。後期近代/ポスト・モダン的宗教性において、ブッシュは民主化を絶対的価値にしているのだろう。勿論、宗教的衝動・非合理主義的衝動においてであるから、近代合理性はないのである。だから、イデオロギーなのである。 では、ブッシュにおいて、近代的自我はあるのだろうか。先の考えでは、近代的自我が基盤となっているのである。盛期近代においては、それに近代合理性が連続化された。しかし、後期近代において、宗教的衝動が賦活されるので、近代的自我という基盤に、非合理主義が連続化されると言えよう。ということで、ブッシュにも当然、近代的自我はあり、それに非合理主義としてのキリスト教が連続化しているのである。これが、キリスト教原理主義である。 以上で本件は解明されたとしよう。 |
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カレンダ
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