「わたしは絶対に正しい」という近代的自我の解明:近代知と教育:近代的悪魔・悪霊シンドローム |
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2007年05月06日(Sun)
「わたしは絶対に正しい」という近代的自我の解明:近代知と教育:近代的悪魔・悪霊シンドローム
Kaisetsu氏の日教組批判に関係した問題であるが、わたしとしては、このタイプは、周辺に多いし、また、現在の日本の教員に対する呪詛があるので、愚考したい。
思うに、論を明快なものにするため、近代的自我、近代知、教育を三幅対にして、考えたい。哲学的には、同一性と差異の問題であるので、この視点から考えたい。 近代的自我の狂気については、証明が済んでいるが、それが、そのままこの問題に適用されるから、ある意味で、問題は済んでいるのであるが、現実として、狂気の教育・教員が存在しているから、現実的批判が必要ではある。 ここでは、エッセイ風に述べたい。私がいつも不思議に思うのは、近代的自我のタイプと個をもった共振性のある人間とに明確に分かれることである。もっとも、現代人は、前者が圧倒的に多い。だから、狂気の社会になってはいるのである。狂人が多数なら、正気の人が狂人扱いされるのである。そう、狂人民主主義、狂民主義である。 とまれ、前者であるが、端的に、共感性が欠落しているのである。仁義が欠落しているのである。大道廃れて仁義有り、という言葉があるが、大道廃れて仁義なしが、現代日本である。 以下の資料を見ると、私は、この意味に関して勘違いしているので、考え直すと、老子の言う道教の自然的あり方が廃れて、道徳云々というようになるということである。そう考えると、確かに、現代日本にあてはまるし、多くの世の中にも当てはまるだろう。 しかしながら、この言葉は、現代日本にとりわけ当てはまると思う。言葉はあるが、心がないのが現代日本であるからだ。テレビで放送される役人や社長等で謝罪する言動を見れば、心がないのがすぐわかる。ただ、言葉だけである。「心を伴わない言葉は天には届かない。」と『ハムレット』の悪王クローディアスが懺悔の途中に述べている。また、ハムレットは、ポローニアスに何を読んでいるのかと聞かれて、「言葉、言葉、言葉」という答える。 http://bymn.pro.tok2.com/ hanatop/index.html 正に、現代日本である。言葉の国で、心喪失国である。 そして、これこそ、近代的自我、近代的理性のあり方なのである。そして、ついでにいうと、「ポスト構造主義」とは、この言葉中心主義を解体するものであった。差異理論とは、そういうものであった。言葉からの差異を問題にしていたのである。 しかし、言葉の国と言ったが、また、同時に言葉の無い国なのである。これは、『ハムレット』の言語論とも通じるのである。即ち、心のない言葉とは、ただ、器、容器であり、中身がないのであるから、言(事)の無い葉である。つまり、無責任な言葉なのである。そして、これは、実は、官僚言語、役人言語と通じるのであり、そして、当然、文部科学省の言語と通じるのであり、教員の言語と通じるのである。端折って述べているが、いちいち説明するが煩瑣である。 私は、心無き言語を一般形式言語と考えている。これは、本当の言葉(誠の言葉)である特異性の言語とは異質である。今思い出したが、70年代後半にかけて、日本言語社会は、一般形式言語が流通するようになったことを、私は、苦々しく、暗い憤りをもって嫌悪していた。流通言語とか読んだものである。分別臭い言語なのである。『ハムレット』の世界に対応するのである。 つまり、貨幣経済、とりわけ、貨幣の数量が問題となる経済社会で、この問題が起きるのである。貨幣の交換価値に合わせて、言語や人間が造られるのである。マルクスの言った疎外である。物神性である。(思えば、マルクスがシェイクスピアの劇をよく引用していたのを想起するが、それは的確である。なぜなら、シェイクスピアの劇は、中世・ルネサンスの差異的世界が崩壊して、近代的合理主義の世界への悲惨な転換を描いているからである。) そう、一般形式言語は貨幣言語と言っていいのである。構造主義と言ってもいいのである。この問題は、現代思想で論じられてきたので、ここで留めるが、これは、ヘーゲル哲学であると言ってもいいのである。 結局、現代哲学の問題に返ることになるのである。つまり、個・特異性の問題である。一般形式性と個・特異性の問題である。 近代は前者中心であったのであり、脱近代主義とは、後者への転換を意味するのである。(PS理論は、これを徹底して、現代的差異的イデア論を打ち立てたである。) しかしながら、理論的な進展とは別に、日本社会の知的後進性は度し難いものがあるのである。大学人は未だに、近代主義、近代的自我、近代的合理主義のままなのである。彼らは、ポスト・モダンを深く理解しなかったし、また、専門の盲目の安全地帯にこもって、知の動向さえ理解しようとはしなかったのである。 ポスト・モダンは問題のある思想であったが、それは、トランス・モダンへの胚珠をそれなりにもっていたのである。つまり、ポスト・モダンとは、簡単に言えば、モダンとトランス・モダンとの過渡的思想であったということである。さらに言えば、ドゥルーズの思想にあるように、構造主義の枠内にあったのであり、実際はポスト構造主義(あるいは、脱構造主義)ではなかったし、ポスト・モダンでいちばん俊敏であったデリダは、確かに、脱構築によって、モダンの枠をいったん解体したものの、その理論の不器用さによって、脱構築後の知の様態が不合理主義ないし否定神学にとどまって、深化ができなかったのである。 とまれ、フランス現代思想は、問題の多いものであったが、それなりに脱近代主義を志向していたのであるが、その動向を日本の知識人・大学人は創造的に探究できなかったのであるし、また、端から無視していたのである。これは、当然、日本の高等教育に当てはまることである。近代主義という衰退する知に執着しているのである。 そう、ついでに言えば、安倍首相の戦後レジームからの脱却は、脱近代主義とは言えるが、やはり、アイロニカルな没入性をもっているのである。それは、戦前・戦中的反動性をもつのである。つまり、PS理論から言えば、近代主義への反動なのである。近代主義に連続しているので、反動なのである。超越的に脱近代化できないのである。 さて、日本社会の近代主義的反動性であるが、それは、結局、個・自己を一般形式性へと同一性化していることから来ていると言えよう。つまり、個・自己の差異・特異性を否定・排除・隠蔽して、一般形式性を真理として、他を誤謬として排除しているのである。これが、「わたしは絶対に正しい」という自我意識を生むのである。Kaisetsu氏がとりあげた日教組問題は、正に、近代的自我、近代主義、近代的理性主義にあるのである。 このような個・差異・特異性を排除する近代主義的教育では、画一性しか生まない。創造性が生まれようがないのである。それで、子どもの心・精神は荒廃し、粗暴、凶暴・狂暴、野蛮等になるのである。 また、当然、知的能力が落ちるのである。つまり、日本を亡国にしているのは、この近代主義に染まっている知識人・大学人・文化人、官僚・役人、教員等である。 創造性の点では、文科系の学問は悲愴・悲惨である。西洋の猿まねであるし、とりわけ、哲学が悲惨である。西洋哲学が哲学となっているのである。日本哲学、東洋哲学が無視されているのである。 そう、ここで、端的に、何故、近代的自我、近代主義、近代的理性主義へと向かうのか、個・差異・特異性ではなく、一般形式へと同一性化するのかと言えば、一つは、怯懦が原因だと思う。(今、想起したが、生前、岡本太郎はキチガイ扱いされていたのに、死後、今では、天才的画家扱いである。私は、岡本太郎は文化批評家として優れていたと思うが、画家としては、悪くはないが、やはり、人為的だと思う。これ見よがしである。無理が感じられるのである。平俗に言えば、力んでいるのである。自己顕示欲満々なのである。) 怯懦であることが、相互主観性になって、日本社会を形成していると思うのである。そして、これが、当然、傲慢となるのであり、自己中心の社会にしているのである。そう、怯懦であるとは、真理に達していないので、妄想的である。 では、「わたしは絶対に正しい」の基因は何だろうか。それは、これまで述べたように、個・差異・特異性(超越性)を否定・排除・隠蔽した連続的自我心性にあるが、何故、自我が正しいのか言えば、それは、連続的自己(自我)が、超越性を否定しながらも内包しているからだと考えられるのである。 つまり、超越性こそ、真の倫理・道徳の源泉である。そして、人間は先天・先験的にこれをもっているのであるが、連続的自己形成は、これを否定するのである。いわば、天、神、倫理を否定するようにして、自我形成するのである。しかしながら、天、神、倫理のもつ義性の感情(これに要注意)をともなっているのである。だから、「わたしは絶対に正しい」と神を否定し、蔑(なみ)しつつ、神の感情は横取りしてもっているのである。つまり、超越性と連続的同一性とが融合しているのであり、超越性自体を否定しつつ、反動的に超越化しているのである。そう、反動的超越性をもつので、連続的同一性自我は、「わたしは絶対に正しい」と主張するのである。 現代日本人は、この反動的超越的自我傲岸不遜症に罹っているのである。ここには、神の横取りがあるのであり、悪魔的人間化である。日本人の悪魔化、これが、「わたしは絶対に正しい」の意味である。 そして、とりわけ、大学人・知識人・文化人、官僚・役人・教員にこれが顕現・現前化しているのである。日本悪魔化である。もっとも、アメリカの悪魔病に感染してはいるのであるが。 参考1: ( 冒頭の老子の言葉を直訳すれば、「国民社会から大いなる道が見失われて乱れてくると、仁義の道徳が強調されるようになる」ということ。意訳すれば、「仁義の道が強調されるのは大道が廃れた結果である」ということになる。 ) http://www.pluto.dti.ne.jp /~mor97512/C0560.HTML 参考2: (『大道廃れて仁義有り』(「老子」より) author : 大道廃れて仁義有り、知恵出でて大儀有り。 六親和せずして孝慈有り、国家昏乱して忠臣有り。 道が廃れて、仁義が叫ばれ、 知恵が偽りを生み、為政者によりて、制度や法律が作られる。 親・兄弟姉妹・夫婦の不仲より、親孝行・子への慈愛等が求められ、 国が乱れて、忠臣等との言葉が生まれるに至った。 仁義・知恵・孝慈・忠臣等々の概念は、道が廃れた結果として、 存在ならしめているのであって、それらの言葉が生まれることは 善いことではなく、世の退廃・人心の堕落を意味している、と 老子は云ってるのであろう! 現象世界に現れる一切の存在は、太極から生じた陰陽の顕れであり、 相反する概念が対をなし、現世の価値判断・判断基準は その対立概念から生れてくるという。 我々人間は、自分の意思で生まれることはなく、 親も、国も、時代すら、何一つとして選べない。 道が廃れた時代に生まれ合わせた宿命の中、 無為自然を説く、老子の教えに縁を持てたことは、運命であろうか! 道徳などを必要としない社会の実現に向けて、 21世紀の覚者たちは、歩み始めている。) http://www.sen-boku.com /unmei/index.php?eid=13 館・占卜 運命一考 |
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