検討問題:自我精神病について:トランス・モダン・ネオ・ヤポネシアの内臓精神秩序へ向けて






2007年01月04日(Thu)
検討問題:自我精神病について:トランス・モダン・ネオ・ヤポネシアの内臓精神秩序へ向けて
後で検討したいが、自我症(近代的自我症)という広義の精神病は、反感・暴力・反動と関係していると思う。ルサンチマンである。これは、また、反知性と関係していると思うのである。思慮・内省・省察・瞑想・熟慮・自己認識等(古代ギリシア人の思慮・フロネーシス)が欠落して、憎悪に染まっていると思うのである。換言すると、連続的同一性自我認識に過ぎず、反射的認識に過ぎないのである。
 では、この起因は何かである。そう、これは、自然のもつ連続的同一性志向性に拠るということではないのか。即非態から連続的同一性志向性が発する。これは、反感・暴力・反動につながるのである。そして、近代合理主義は、これに直結しているのである。伝統的には、なんらかの即非態の叡知がある。宗教や共同体は、集合的に、それを保持した。それが、中世末期に崩壊したのである。個の時代になったのである。このときに、自我が顕著となるのである。ホッブズの社会・世界である。簡単に言えば、精神的秩序の崩壊・解体が生じて、自我中心主義が発生したのである。精神的ヴィジョンの衰退があったのである。西欧の場合は、カトリック教会の精神的ヴィジョンである。日本の場合は、神仏習合的宗教心の衰退であろう。
 これらの精神的秩序の崩壊があるために、無神論、ニヒリズム、唯物論、唯物科学が発生するのである【ツルゲーネフの『父と子』。ここで、19世紀ロシアを考えると、トルストイやドストエフスキーを生んだロシアとは、ロシアの精神的秩序の解体に瀕していたと言えるのではないだろうか。つまり、ロシア正教の解体の危機である。そして、ロシア唯物論的社会主義、ロシア・マルクス主義が生まれたと考えられるのである。そして、無神論・唯物論・マルクス主義が勝利して、ソ連体制が成立したと言えるだろう。日本では、とりわけ、戦後である。戦後唯物論の成立である。】そして、これが、自我中心主義精神病を生むのである。これは、悪魔的である。−1であり、闇・影である。
 ここから、今日・現代の日本の暗闇の正体がよくわかるだろう。日本人は、精神的秩序を完全喪失しているのである。戦後唯物合理主義に染まって、自己喪失しているのである。自己愛性人格障害とは、自我中心主義精神病である。この社会的唯物自我精神病から脱却する必要があるのである。トランス・モダンなネオ・ヤポネシアの精神的秩序とは、内臓思考ではないのか。肚である。肚に精神があると言えるだろう。そして、それは、零度差異共振シナジー精神なのである。

p.s. プロテスタンティズムの問題であるが、これは、近代という個の時代における、キリスト教の探求である。しかし、矛盾しているのは、キリスト教とは、本来、共同体の宗教なのである。信者の小共同体の宗教である。それが、個人の宗教になるというのは、矛盾しているのである。
 私見では、アメリカ人の宗教心であるが、それは、差異共振性(特異性)と連続的同一性(自我)との亀裂に、折り合いをつけるための観念(イデオロギー)であると思うのである。アメリカ合衆国という国家が、そのキリスト教と結んでいるので、国民を国家に統合させているのである。アメリカ人の差異共振性が発動すると、昨年のような中間選挙の結果が出るのだろう。しかし、その差異共振性は、連続的同一性(自我)と結んで、キリスト教を介して、国家ナショナリズムと資本主義を形成しているのであり、アメリカ主義になっているのである。このアメリカ人の差異性と同一性の連続的癒着が、アメリカを傲慢な国にしていると言えるだろう。
 アメリカ人が、自身の差異を、キリスト教や国家ナショナリズムの目隠しから解放したときが、世界平和が来るときであろう。とまれ、多極化路線は、宗教的には、多元主義である。キリスト教がイスラム教や他の宗教と共生する必要があるのである。ユダヤ教も同じである。第3聖書が必要である。新聖書が必要である。差異共振シナジー聖書である。

p.p.s. 思えば、第三聖書は、既に書かれているのである。D.H.ロレンスの畢生の名作『死んだ男(逃げた雄鶏)』と天才的エッセイ『黙示録(アポカリプス)』がそれであると考えられるのである。差異共振シナジーとしてのコスモスがそこで表現されていると考えられるのである。イエス・キリストは、復活して、差異共振シナジーの個となったのである。
 差異共振シナジーのコスモスへの回帰が説かれているのである。ここにおいて、対立は共振し、一如になっているのである。
 また、日本においては、折口信夫の、これまた、畢生の名作『死者の書』に、差異共振シナジー的ヴィジョン・コスモスが表現されていると言えよう。
 思うに、性愛であるが、両者に表現された性愛は、精神的なものである。精神的性愛なのである。これが、プラトンの表現したエロースであろう。

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