近代とは何か:中世の秩序崩壊と差異の賦活と近代的自我の発生






2006年12月07日(Thu)
近代とは何か:中世の秩序崩壊と差異の賦活と近代的自我の発生
iと-iは、零度共振様相にある。これは、対極(太極)様相である。i即非-iである。そして、この様相は、超光であると、考えられるのである。無限速度の超光が満たしていると考えられるのである。なぜなら、ここには、まだ、有限な時空がないからである。ここでは、すべてが無限である。あるいは、永遠である。なぜなら、あらゆるものが、一如であるからである。喩えて言えば、宇宙の一方の果てと他方の果てを、無時間で、結びつくからである。そう、すべての差異の距離は、いわば、等距離である。図式化すると、

差異1*差異2*差異3*・・・*差異n  (*は即非ないし対極様相を意味する)

となる。そして、差異1をコスモスの一方の端、差異nを他方の端とすると、差異1*差異2と差異1*差異nとの関係が一致するということである。喩えて言えば、等距離である。(参考:量子力学の非局所性)ここの無限空間には、超光が無限速度で移動していると考えられる。
 問題は、このメディア空間(メディア=イデア空間)の現象化の力学である。いったい、無限からどうやって有限の現象界が発生するのだろうか。それは、虚数から実数の形成によってであろう。i*(-i)が、i・(-i)=+1となるのである。この+1が、同一性であろう。⇒+1とすれば、差異的同一性である。とまれ、虚数の積が、現象化の力学である。差異は、+1となるのである。すべての差異は、+1になるのである。単位化である。例えば、差異をリンゴとすれば、リンゴ1、リンゴ2、リンゴ3、・・・、リンゴnは、すべて、+1としてのリンゴとして共通なのである。(注意:一人称自己認識方程式を、私は、対象の方程式として転用している。)この+1が有限・現象ということである。
 では、超光は、どうなったのであろうか。仮に、超光のエネルギーをEとすれば、E⇒mc^2であろう。ここで、当然ながら、現象界において、光速度が一定になっているのがわかるのである。つまり、無限速度の超光は、有限速度の光に変換したのである。そして、推測するに、mが重力であろう。つまり、超光エネルギーは、光と重力になったのである。この光と重力の時空間が、現象空間である。四次元時空間である(ただし、原時間軸は、虚軸であろう)。近代主義ないし近代合理主義の問題は、この+1の現象を、⇒+1ではなくて、=+1、そして、+1のみというように観測することである。もはや、内在超越次元の虚軸が喪失していることである。これは、i*-(-i)⇒-1で表されるだろう。つまり、他者-iを喪失した主観性-1で表現されるのである。つまり、+1の現象と−1の主観性(近代的自我)が、対発生しているのである。
 ここで、先の問題を考えると、+1が現象光であり、−1が連続的同一性自我である。そして、これは、「光」と「闇」を形成している。では、iと-iは、どうなるだろうか。iが本来の自己で、-iが本来の他者である。これは、内的には、心と身体としていいだろう。そして、(近代的)自我の場合、心iは、他者である身体-iを否定するのである。心と身体との共振によって、個物・個体+1が形成されたのであるが、それを自我は、身体を否定して、−1と見るのである。上述したことを少し訂正しないといけないだろう。+1は、差異的同一性なのであり、−1が、反差異・連続的同一性なのである。−1が、近代合理主義、唯物論を意味するのである。−1が、物質単位である。結局、個体・個物の+1の様態を捉え損ねているのである。そう、私が、個体が特異性であるというのは、この+1のことである。つまり、近代的自我は、個体の特異性ないし単独性を捉え損ねているのである。連続的同一性としての個体・個物を見ているのである。つまり、虚軸・内在超越性の即非・対極性を無視しているのである。言い換えると、無限次元を喪失しているのである。第四次元を喪失していると言ってもいいだろう。相対性理論とは、+1の現象光の理論であるが、そのエネルギー論は、超光のエネルギー(エネルゲイア)を意味していると言えるだろう。(付け加えれば、量子力学は、物質主義の視点によって、イデアと現象の境界像としての超光を探究していると考えられる。つまり、イデアと現象の境界における超光の像を量子・素粒子としていると考えられる。)
 さて、ここで、先に述べた光と闇の問題を考えよう。iが光ならば、-iは闇である。ここで、+1の光と−1の闇との混同を避けるために、iを陽、-iを陰と呼ぼう。つまり、陰陽対極性をここに見るのである。ここで、これまでの難問にぶつかるのであるが、何故、主体iは、他者-iを否定するのかである。本来、iと-iは、両者、活性化されているからである。本来、プラスとマイナスで牽引するはずである。問題は、認識なのである。iの認識は、iに即した認識である。つまり、自己同一性認識である。自己投影認識である。簡単に言えば、一体化である。i=-iである。差異の喪失である。おそらく、-iも同様に、自己投影するのだろう。即ち、-i=iである。ここで、卑近な例として、女男関係を考えるといいだろう。相互自己投影の相互誤解である。陽は陽的同一性を、陰は陰的同一性を他者に見るのである。とまれ、iを心、-iを身体とすると、心には、身体が見えず、身体には、心が見えないということになるだろう。
 ということで、他者否定は、必然であることになったのである。陰陽は共振シナジーとなっているのにかかわらず、自己同一性の視点から見ることから他者否定が生起することと考えられるのである。結局、主体iが他者-iを知るには、他者に目を向けなくてはならないということである。この場合は、身体に眼を向けるということである。つまり、内観の必要である。こにより、心iは、身体-iを知ることができるようになるのである。だから、自己投影とは、外観することによると言えよう。視線を外界に向けるとは、他者を見るのではなくて、自己投影なのである。内界に向くことで、他者に出会うのである。だから、身体を見よ。内部である身体を見よ、である。ここに精神が存するのである。近代主義は、視線を単に外部・外界に向けるだけで、内面に向けることを疎かにしたのである。
 では、何故、内界を看過して、外界に眼を向けることになったのか。これは、遠近法の発達とパラレルと考えられる。思うに、これは、倫理の崩壊の帰結ではないだろうか。倫理があれば、内界に向くだろう。つまり、内部の他者との関係があり、単純に眼を外界に向けることはないのであると考えられるのである。近世、近代初期は、中世の価値観の崩壊である。つまり、封建的価値観、倫理観の崩壊を意味する。これは、シェイクスピアの悲劇『リア王』等を見れば、よくわかるだろう。二つの自然があるが、一つは、王権的道徳的自然観であり、一つは、唯物論的自然観である。中世封建的ヒエラルキー的価値観を崩壊、脱コード化があり、それで、個体は、倫理・道徳から解放されて、外界へと無道徳的に目を向けるようになったと考えられるように思えるのである。そう、有り体に言えば、神の死が、近世・近代初期にあったのだろう。もっとも、その神は、iの抑圧された精神性ではあったが。角度を変えて言えば、それは、新たな差異の活性化の時代ではある。中世的道徳の崩壊と差異の活性化。これが、一面では、ルネサンスを生み、他面では、近代的自我を生んだと考えられるのである。

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