ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明/新東洋文明
PROTOMODERN PHILOSOPHY:
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INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧 (866)
相対性理論/量子力学/生命科学/遺伝子問題 (28)
不連続的差異論 (1) 哲学/日本哲学の創造 (17) ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明/新東洋文明 (39) ポスト近代的自我/ポスト唯物論 (27) プラトニック・シナジー理論 (125) 新東洋文明:新霊性new spirituality:日本伝統文化 (20) 詩・和歌・俳句・漢詩・連詩・創作 (5) 神話・宗教:古事記・聖書・ケルト神話 (34) 音楽(クラシック・ポピュラー) (9) メディア・ポイント Media Point/高次元・超次元・五次元 (100) 検討問題・課題 (42) 日本覚醒計画:日本の政治・経済 (36) 教育/女男差異/ジェンダー/新母性論 (9) フッサール/ハイデガー現象学 (21) トランス・モダン/トランス・モダン叡知学 (31) (+i)*(-i)⇒+1(自己認識方程式):同一性と差異と差異共振性 (116) 文学・哲学・美術・アート・映画・舞台・アニメ・漫画 (87) 英語・外国語学習 (3) トランス・モダン社会/差異共振シナジー経済/差異共振共同体 (81) |
2008年07月05日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性主義は、何故、否定感情的なのか:新イデア文明としての新太母文化:新超母・新超女文明の誕生へ
これは、既に答えが出ている疑問かもしれないが、再考したい。
思うに、差異を否定するときに、否定感情が発動するということではないだろうか。差異を肯定するならば、肯定感情になり、共感(共鳴)的になると言えよう。 思うに、差異は、異質であり、いわば、異文化的なので、不快感をもたらすであろう。ここにも、否定感情がある。 ところで、白人が有色人種に感じる不快感の原因は何だろうか。それは、視覚印象から来ているのではないだろうか。もし、心眼があれば、不快感はなくなるだろう。思うに、差異への不快感とは、同一性形象がいわば、原型となり、それを基盤として、視覚の快・不快が形成されると考えられる。そう、同一性視覚形象がモデルとなり、それにそぐわないものが排除されるという力学になるのだろう。 思うに、白人の場合、この同一性視覚形象モデル主義が根強くあるのである。そして、これが同一性主義の基盤にあるものではないかと思われるのである。そこに欠落しているのは、心眼である。共感性である。端的に、差異共振性という知恵である。他者への配慮である。 キリスト教は本来、これをもっていたが、一神教性によって阻害されると考えられる。イエスの教えは、本来、差異共鳴性である。 そう、ここであえて言えば、イエスの原型とはディオニュソスである。ディオニュソスは、端的に、イデア・エネルギーであり、それは、太母・大女神文化的である。イエスにとって、母・妻・恋人の女神が本来必要なのである。 父を+iとするなら、母-iが必要である。だから、キリスト教には、母が欠けているのである。これが、白人文明の欠陥であると考えられる。 では、太母と「父」と「母」という対イデアとの関係はどうなるのだろうか。私は、直感では、対イデアを太母と考えてきたのであるが、「父」と「母」との対イデアを考えると、「母」が太母なのかもしれない。 しかしながら、直感は、対イデア自体が太母である。この齟齬をどうみるのか。私は、太母文明は、差異共振文明であるとこれまで述べてきた。それは、「父」と「母」との共鳴文明でなければならない。思うに、文明史・文化史的に、太母と「母」とで混乱が起きたのではないだろうか。 思うに、大地母神と呼ばれるものは、本来、太母であり、「父」と「母」との共鳴エネルギーではなかったか。それが、「母」に同定されていると考えられるのである。つまり、これは、対イデアである太母が、父権主義=同一性主義によって、「母」へと、いわば、貶められた結果ではないのか。 即ち、父権主義の「父」は、+iであり、劣位に置かれた「母」とは、-iである。そして、後者が太母のように考えられたのである。 ギリシア神話で言えば、デーメーテールが大地母神である。しかし、本来は、太母であり、対イデア(イデア共鳴体)と考えられる。 この勘違い・錯誤は、「父」が対イデア(イデア共鳴体)を支配してしまうことに発すると言えるのではないだろうか。 そう、端的に、一神教の神(ヤハウェ)の、いわば、簒奪である。ギリシア神話では、ゼウスの簒奪である。オリュンポスの神々とは、思うに、父権神話と母権神話の、前者中心の混淆ではないだろうか。言い換えると、父権化された母権神話である。 おそらく、これは、多くの神話において生じた混乱ではなかっただろうか。太母が「母」とされたのである。思うに、ギリシア神話では、太母は、アルテミスのような処女神ではないだろうか。アフロディーテ(ヴィーナス)となると、「母」になるのではないだろうか。 とまれ、問題は、母権文化と言ったとき、太母文化なのか、「母」文化なのか、である。一般に混同されていると考えられるのである。ジェンダーによる混乱である。 私が唱える新母権文化とは、新太母文化であり、新イデア(イデア共鳴体)文化である。新ディオニュソス文化と言ってもいいだろう。 例えば、イシス・オシリス神話で言うと、オシリスはディオニュソスになるのであるが、イシスとは何かである。イシスは、イデア共鳴体でなくてはならない。「母」ではなく、太母である。 では、イシスの内包する+iと-iとは何だろうか。それは、天と地である。(そうすると、先に述べた天の柱であるが、それは、虚軸であろう。)天と地との共鳴としてのイシスであり、その現象光としてのオシリスではないだろうか。正に、自己認識方程式が表現するものではないだろうか。 今はここで留めるが、結局、太母と「母」を絶対的に峻別する必要があるということになる。イシスは太母であり、「母」=地ではない。 ここには言葉の問題がある。思うに、超母という言葉を造語して、太母の替わりに使用するのがいいのかもしれない。あるいは、超女であろうか。
2008年06月01日(Sun)▲ページの先頭へ
臍の緒と十字架:自然回帰とトランス・キリスト教
以下のように、eliot-akira氏から興味深いコメントをいただきました。
中南米の、いわば、土着的なカトリックの御指摘はまったく同感であります。 また、十字架ですが、それは、人類学的には、キリスト教の独自のシンボルではなく、普遍的な、大地を意味するシンボルですね。しかし、明らかに、天と地の交叉を意味しているようにも私には思えます。ですから、明らかに、十字架は臍の緒になると思います。 因みに、キリスト教について言いますと、明らかに折衷宗教だと思います。イエスは、イシス・オシリス神話から由来していると思いますし、それにユダヤ教の救世主の思想が重なったものだと思います。 女神の神話と父権宗教神話が折衷した形だと思っています。有り体に言えば、分裂した宗教です。そして、今日の問題は、eliot-akira氏が指摘されているように、ユダヤ・キリスト教的西洋文明が、自然のへその緒から切断されて、自然を管理・支配することを当然としていることにあると思います。明らかに、人間の傲りだと思います。 ****************** ■臍 「ヘソ」の象徴する意味とは独創的な考え方ですね。 主流のキリスト教で「神・キリスト・聖霊」の三位一体に、生命の起源としての「母」が含まれていないことは、「へそのない人間」と同じく不自然だと感じます。 これは明月庵さんが指摘されているように、母なる自然との「つながり」が絶たれた状態を示していると思います。キリスト教的な基盤を持つ合理的主義が近代において、人間の知性と技術力で「自然を制すること」に重点を置いていることともつながりますね。 その反面、中央・南アメリカに見られるカトリック教と自然信仰のシンクレティズム(諸教混交)では、聖母マリアを中心とした、「母なる自然」との関係を取り戻した独自のキリスト教が広まっています。 飛躍した考えかもしれませんが、もしかすると根本的であり、かつ超越的な真理と我々とをつないでいるのは「十字架」という臍の緒・・・とも言えるのではないでしょうか。 eliot-akira 2008-05-30 01:28:28 http://ameblo.jp/renshi/ entry-10101078954.html#c10135187961
2008年05月19日(Mon)▲ページの先頭へ
『自然は脈動する』とヴィクトル・シャウベルガーのルネサンス
http://www.kyobunsha.co.jp/
shopping/books/ISBN978-4-531-08164-6.html 本書を読み続けているが、驚嘆の書である。そう、いわば、震撼させられている書である。プラトニック・シナジー理論と共通する理論が既に、20世紀前期に生まれていたのである。ただし、自然科学・技術に中心がおかれているようである。とまれ、PS理論が説く超越エネルギー=イデア・エネルギー=差異共鳴エネルギーが既に説かれているのである。また、水の特異点(摂氏四度)を提示していて、具体的に、Media Pointの考え方に沿っていると考えられるのである。また、私が夢想した超越エネルギーの取り出し方を、具体・実践的に、ヴィクトル・シャウベルガーが試行していたのである。 どうやら、ヴィクトル・シャウベルガーのルネサンスが来るだろう。これは、根本的に、自然観・世界観を刷新して、科学・技術的に、平和な世界をもたらすものになるだろう。 PS理論は、シャウベルガー自然理論と融合する形で、さらに進化するだろう。今はこれで留めたい。 参照: 久しぶりに読書してます。最近これはというような面白い本に出くわすことがなかったのですがこの本は衝撃的でした。なんせ現代文明の基本となっているテクノロジーは最初から間違っているというのです。まさにちゃぶ台返し、とも言える現代テクノロジーに対するアンチテーゼと言える内容です。ちゃぶ台をひっくり返そうとした人はヴィクトル・シャウベルガー(1885-1958、オーストリア生まれ)。聞いたことのない名前で初耳でした。それもそのはずで当時の科学界(今の科学界でも)からは異端と見られてその存在を無視されてきたのでした。加えてナチスに協力させられて兵器開発を行ったことも無視される原因のようです。 題名は「自然は脈動する 」(日本教文社刊)。原題は'Hidden Nature: The Starting Insights of Victor Schauberger'で恐らくシャウベルガーを初めて日本に紹介した本ではないかと思います。内容はアリック・バーソロミューという編集者によるシャウベルガーの入門書です。シャウベルガーをググるといろいろと怪しい話が出てきてそれだけを見るとこの人の業績を大幅に見誤ってしまいそうです。最近地球温暖化ということで環境問題が大きくクローズアップされていますが、シャウベルガーの業績が今注目されているのも彼がこの問題を指摘してなぜそうなるのかを明確に指摘しているからでしょう。シャウベルガーは現代文明がこのままのテクノロジーを推し進めていけば人類は自らを破壊することになると予言していたのでした。 http://haretokidoki.blog63. fc2.com/?mode=m&no=339 晴れのち自転車時々猫 古代テクノロジーの再興−1997.05.04 キーリーネットのためにJerry W. Deckerが編集 Dan LaRochelle の好意による天国の舟URL 以下は、@Nifty(NIFTY-Serve)>FMISTY>MES19>#1136,1137をもう少し表現を分かり易くした同文である。 Dan は最近、David Hamel と一緒にカナダを訪れた。Hamel によると、かつて全地球的な危機に直面していた時、古代地球の‘進歩的な人々’に対して与えられた宇宙の兄弟たちの技術を見せられたと述べている。そして、今の我々の美術館や考古学館には、このような宇宙の兄弟たちのテクノロジーの兆候が溢れているそうだ。ただ、それらは、まだ我々の、どのように宇宙が動いているのかという認識に符号しないために、理解することができないでいるのだ。Hamel は宇宙人のテクノロジーに肉迫する描写を紙上で行なった。それはこの記事の最後に【リンクを】置いた。 http://oriharu.net/jaten.htm 天国の舟 おかねのかたち 逢沢堅 第一章 世界はリズムのシンフォニーを奏でる 第一節 世界はリズムでできている 個人は社会とともに生きる ある程度の長さを生きてきた人なら、また自分で自分を養うことを知っている人ならなお、自分の生活状態と家計に調子の良し悪しがあることを知っているはずである。生活手段ということにそれほど自覚的でない人でも、今年の春はいつもの春よりなんとなく寒々しいといった感覚印象で自分の生活状態が心に反映しているにちがいない。 http://www.geocities.co.jp/ Bookend-Hemingway/2397/okanenokatachi.htm Viktor Schauberger From Wikipedia, the free encyclopedia • • Jump to: navigation , search This article or section is missing citations or needs footnotes . Using inline citations helps guard against copyright violations and factual inaccuracies. (February 2007) The neutrality of this article is disputed . Please see the discussion on the talk page .(December 2007) Please do not remove this message until the dispute is resolved. Viktor Schauberger (30 June 1885 – 25 September 1958 ) was an Austrian forester /forest warden , naturalist , philosopher and inventor . The inventor of what he called "implosion technology", Schauberger developed his own theories based on fluidic vortices and movement in nature. Very little of Schauberger's work has received mainstream acceptance, although his work is directly related[citation needed ] to valid accepted mathematical principles and harmonics. Biography [edit ] Early years Viktor Schauberger was born in Holzschlag , Austria , to a long line of Austrian foresters. Creek and river flow fascinated him during his youth. He went on to develop a basic theory that contains a twofold movement principle for such phenomena. His first idea was brought upon by trout. The fact that they could use so little force to go against the current invoked him to study the force that allowed such effortless motion. His study of trout concluded in the theory of natural vortexes. Schauberger's second major theory was in the structure of water. He believed that water is at its densest when cold (and at the time of a full moon), and that there are many layers in the structure of flowing water. He claimed that nature creates vortexes to create equilibriums. He further claimed that our current form of energy production/consumption scatters matter into disequilibrium. His studies were not approved by science at the time, even when his ideas were put into practice.[citation needed ] In 1926 , he undertook research at a timber flotation installation in Neuberg an der Mürz in Styria . In 1929 Schauberger submitted his first applications for patents in the fields of water engineering and turbine construction. He conducted research on how to artificially generate centripetal movement in various types of machines . He proposed a means of utilising hydroelectric power by a jet turbine . The log flumes used for timber flotation allegedly disregarded the Law of Archimedes, i.e., Schauberger was allegedly able to transport heavier-than-water objects by creating a centripetal movement (making the timber spin around its own axis, by special guiding-vanes which caused the water to spiral). [edit ] World War II In 1934 Viktor was meeting with Hitler, and had discussions about fundamental principles of agriculture, forestry and water engineering. However, Schauberger refused to work for the German Reich. In 1941, an intrigue caused by the Viennese Association of Engineers[citation needed ] resulted in Schauberger's enforced confinement in a mental hospital in Mauer-Öhling, under continuous observation by the SS. In Augsburg, Schauberger worked with Messerschmidt on engine cooling systems and was in correspondence with designer Heinkel about aircraft engines. In 1944 , Schauberger continued to develop his Repulsine machine at the Technical College of Engineering at Rosenhügel in Vienna. By May 1945 a prototype had been constructed. In 1945 Schauberger started to work on his "Klimator". At the end of the war Schauberger was apprehended by US intelligence agents, and kept in custody for 9 months. They confiscated all his documents and prototypes, and interrogated him to determine his activities during the war.[1] After the war Schauberger continued his work, leading to water-based power generation through vortex action in a closed cycle, the "Spiral Plough", an "Apparatus for soil cultivation made of copper", tests with "spiral pipes", and so on. [edit ] Later years In 1958 Schauberger was approached by Karl Gerchsheimer and Robert Donner, with an invitation to come to the US to further develop his inventions. Schauberger spent several months in the US making drawings and reports, and then returned to Austria . He died in Linz , Austria, on September 25 1958. [edit ] Implosion Magazine Implosion is a quarterly magazine founded in 1958 by Aloys Kokaly, generally aimed at the lay reader, which is still published quarterly or semi-annually by Klaus Rauber. It has been, without doubt, the richest repository of Viktor Schauberger's writing (in German), and has been the source of substantial portions of the Eco-Technology series. [edit ] See also * Fluid dynamics * Hydrodynamics * Water hammer * Cavitation * Coanda effect * Vortex : Vortical , Vorticity , Vortex shedding * Centripetal : Centripetal Force , Centripetal Acceleration * Implosion * Forester * Bionics * Spiral : Golden spiral , Logarithmic spiral , Fibonacci sequence * Vortex tube , Windhexe [edit ] Further reading * Jane Cobbald, Viktor Schauberger - a Life of Learning from Nature (2006) ISBN 0-86315-569-3 * Olof Alexandersson, Living Water ― Viktor Schauberger and the Secrets of Natural Energy o (1982) ISBN 0-85500-112-7 o (1990) ISBN 0-946551-57-X o (2002) ISBN 0-7171-3390-7 * Alick Bartholomew, Hidden Nature ― The Startling Insights of Viktor Schauberger (2003) ISBN 0-86315-432-8 * Brian Desborough, A Blueprint for A Better World (2002) ISBN 0-9742018-0-4 * Viktor Schauberger and Callum Coats, The Schauberger Companion (1994) ISBN 1-85860-011-1 o Eco-Technology (1994) ISBN 1-85860-011-1 o Living Energies (1995) ISBN 0-7171-3307-9 {UK edition has more ill.} + Living Energies ― Viktor Schauberger's brilliant work with Natural Energies Explained (2002) ISBN 0-7171-3307-9 o The Water Wizard: The Extraordinary Properties of Natural Water, Eco-Technology no.1, (1997) ISBN 1-85860-048-0 o Nature As Teacher: New principles in the Working of Nature, Eco-Technology no.2, (1998) ISBN 1-85860-056-1 o The Fertile Earth: Nature's Energies in Agriculture, Soil Fertilisation and Forestry, Eco-Technology no.3,(2000) ISBN 1-85860-060-X o Energy Evolution: Harnessing Free Energy from Nature, Eco-Technology no.4, (2001) ISBN 1-85860-061-8 * various books on Viktor Schauberger,[1] * Schauberger CD Rom [edit ] External links and references * Pythagoras Kepler System , started by Walter Schauberger and currently run by Jörg Schauberger. * Implosion Magazine, Verein für Implosionsforschung und Anwendung e.V. * Ovesen, Morten, "Life and work ". Malmö group. * "Who was Viktor Schauberger ?". Frank.Germano .com. * "Viktor Schauberger ". (30.6.1885 - 25.9.1958) * "Viktor Schauberger, The Water-wizard from Austria. ". * "Viktor Schauberger ". Fusion Anomaly.net . * Naudin, J. , "The Schauberger's Flying Saucer ". * "Qualitatives Torkado-Modell (Hypothesen und Studien zu freien 3D-Schwingungen)". (German) * "Energy Technology ". * "Viktor Schauberger The Water-wizard from Austria". -- "Viktor Schauberger ". * "Modern Energy Research Library ". * Centre for Implosion Research, UK 1. ^ Nick Cook , The Hunt for Zero Point - Inside the Classified World of Antigravity Technology (2001) ISBN 0-7679-0628-4 / ISBN 0-7679-0627-6 [edit ] Mailinglists * viktorschaubergergroup ― The Viktor Schauberger Research Group : An Email forum on Viktor Schauberger. (ed: Discussion on all aspects of Viktor Schauberger's amazing inventions and life history. An attempt will be made to duplicate and build some of his inventions, and to implement his environmental technologies into mainstream use.) * Viktor Schauberger ― This is a group mainly dedicated to Viktor Schauberger and his discoveries. But any discussions are welcome. * "Viktor Schauberger : Austrian Patents (Water Control by Vortex Action)". Rex Research . * A Schauberger machine "Klimator" in creation The Klimator [2] Video explaining Viktors work Retrieved from "http://en.wikipedia.org/ wiki/Viktor_Schauberger " Categories : 1885 births | 1958 deaths | Early spaceflight scientists http://en.wikipedia.org/ wiki/Viktor_Schauberger Viktor Schauberger aus Wikipedia, der freien Enzyklopädie http://de.wikipedia.org/ wiki/Viktor_Schauberger
2008年05月16日(Fri)▲ページの先頭へ
忍び寄る環境破壊──謎の答えはミツバチに聞け - これもやはり、自然VS人類ではないだろうか。自然が人類を滅ぼそうとしているのではないだろうか。
テーマ:超破局/超世界恐慌/超大洪水時代
これもやはり、自然VS人類ではないだろうか。自然が人類を滅ぼそうとしているのではないだろうか。言い方が擬人的であるが、的確に言えば、イデア界におけるあるサイクルが終焉になり、終末期となり、それで、古いものが消滅するようにセットされているのではないだろうか。そう、黙示録的終末期である。 イデア界的自然によりプログラムされた、いわば、自然黙示録の時代となり、これまでの西洋文明地球期が終焉し、新たな地球期への「大洪水時代」になったのではないだろうか。後で、精緻に検討したい。 p.s. 私が想起しているのは、オカルト主義におけるアトランティス文明の滅亡のことである。すなわち、高度な文明をもっていたが、アトランティス人が利己主義に陥ったために、天変地異によって、アトランティス大陸が沈んだという伝説のことである。 オカルト主義では、ポスト・アトランティス文明として、今日の文明を考えている。インド期、ペルシャ期、エジプト期、ギリシア・ローマ期、欧州期であり、ポスト欧州期として、第六の文化期を予言している。 しかし、私は、ポスト欧州期というよりは、ポスト・ポスト・アトランティス文明期を想定しているのである。とまれ、後で検討したい。 参考: アトランティス 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 アトランティス (’Ατλαντίς , Atlantis) とは、古代ギリシア の哲学者 プラトン (紀元前427頃–347頃) が著作『ティマイオス 』 (Тίμαιος, "Timaios") 及び『クリティアス 』 (Κριτίας, Kritias)) の中で記述した、大陸 と呼べるほどの大きさを持った島 と、そこに繁栄した王国 のことであり、強大な軍事力 を背景に世界 の覇権 を握ろうとしたものの、ゼウス の怒りに触れて海中に沈められたとされている。 ・・・・・・ 『ティマイオス』 『ティマイオス』の冒頭でソクラテスが前日にソクラテスの家で開催した饗宴 で語ったという 理想国家論が要約されるが、その内容はプラトンの国家 とほぼ対応している。そして、そのような理想国家がかつてアテナイに存在し、その敵対国家としてアトランティスの伝説 が語られる。 アマシス2世 (Amasis ; アアフメス2世, 紀元前600頃–526年)が即位した後の紀元前570–560年頃、ソロンは賢者 としてエジプトのサイスの神殿 に招かれた。そこでソロンは、デウカリオン の洪水伝説 で始まる人類 の歴史 の知識を披露する。 「すると神官たちの中より非常に年老いた者が言われた「おおソロンよ、ソロン。ヘレネス (ギリシア人) は常に子供だ。ヘレン (ギリシア) には老人 (賢者) がいない。」」(Pl.Tim.22b) 神官は、ギリシア では度重なる災害によってせっかくある程度発達した文明が何度も消滅し、歴史の記録が何度も失われてしまったが、ナイル 河によって守られているエジプトではそれよりも古い記録が完全に残っており、デウカリオン以前にも大洪水が何度も起こったことを指摘する。また、女神アテナ と同一視される女神ネイト (Neith )が神官達の国家体制を建設してまだ8,000年しか時間が経っていないが、[5] アテナイの町はそれよりさらに1,000年古い9,000年前 (即ち紀元前9,560年頃) に成立しており、女神アテナのもたらした法 の下で複数の階層社会 を形成し、支配層に優れた戦士階級が形成されていたことを告げる。 その頃ヘラクレスの柱 (ジブラルタル海峡 ) の入り口の手前の外洋であるアトラスの海 (’Ατλαντικός πελαγος, 大西洋 )にリビア とアジア を合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在し、大洋を取り巻く彼方の大陸との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内 (地中海 世界) を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニア に至るまでのヨーロッパ を支配した。その中でギリシア人 の諸都市国家 はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。 「しかしやがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方 (=アテナイ勢) の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている。」(Pl.Tim.25c–d) ここでクリティアスは太古のアテナイとアトランティスの物語の簡単な紹介を終え、以降ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移る。 [編集 ] 『クリティアス』 作品の冒頭の記述から、この作品は先の『ティマイオス』の対談と同じ日に行われた続編にあたる対談であることが示唆されている。ティマイオスにおける宇宙論に引き続き、今度はクリティアスがアテナイとアトランティスの物語を披露する。 アトランティスと戦った時代のアテナイ 9,000年以上前、ヘラクレスの柱の彼方に住む人々とこちらに住む人々の間で戦争が行われた時、それぞれアテナイとアトランティスが軍勢を指揮した。当時のアテナイ市民 は私有財産を持たず、多くの階層に分かれてそれぞれの本分を果たしていた。また、当時のアテナイは現在よりも肥沃であり、約2万人の壮年男女からなる強大な軍勢を養うことが出来たし、アテナイのアクロポリス も遥かに広い台地であったが、デウカリオンの災害から逆算して三つ目に当たる彼の大洪水 により多くの森が失われ、泉が枯れ、今日のような荒涼とした姿になってしまった。エジプトの神官は当時のアテナイの王の名前として、ケクロプス (Κέκρωψ, Kekrops )、エレクテウス (’Ερεχθεύς, Erechtheus )、エリクトニオス (’Εριχθόνιος, Erichthonios )、エリュシクトン (’Eρυσίχθων, Erysichthon )などを挙げたとソロンは証言している。 アトランティスの建国神話 アトランティス島の南の海岸線から50 スタディオン (約 9.25 km)の位置に小高い山があり、そこで大地から生まれた原住民エウエノル (Ε’υήνωρ, Euenor ) が妻レウキッペ (Λευκίππη, Leukippe )の間にクレイト (Κλειτώ, Kleito) という娘を生んだ。アトランティスの支配権を得た海神ポセイドン はクレイトと結ばれ、5組の双子の合計10人の子供が生まれた。即ち『アトラスの海』 (大西洋) の語源となった初代のアトランティス王 アトラス、スペイン のガデイラ に面する地域の支配権を与えられたエウメロス (Ε’ύμηλος, Eumelos) ことガデイロス (Γάδειρος, Gadeiros)、アンペレス (’Αμφήρης, Ampheres)、エウアイモン (Ε’υαίμον, Euaimon)、ムネセウス (Μνησεύς, Mneseus)、アウトクトン (Α’υτόχθον, Autochthon)、エラシッポス (’Ελάσιππος, Elasippos)、メストル (Μήστωρ, Mestor)、アザエス (’Αξάης, Azaes)、ディアプレペス (Διαπρεπής, Diaprepes) で、ポセイドンによって分割された島の10の地域を支配する10の王家の先祖となり、何代にも渡り長子相続により王権が維持された。ポセイドンは人間から隔離するために、クレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリスとするアトランティスの都、メトロポリス (μητρόπολις, metropolis)が人間の手で形作られていった。 アトランティスの都 アクロポリスのあった中央の島は直径5 スタディオン (約925 m)で、その外側を幅1 スタディオン (約185 m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2 スタディオン (約 370 m) の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3 スタディオン (約555 m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。一番外側の海水路と外海は、幅3 プレトロン (約92.5 m)、深さ100 プース (約30.8 m)、長さ50 スタディオン (約 9.25 km)[6] の運河で結ばれており、どんな大きさの船も泊まれる3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられた。3つの環状水路には幅1 プレトロン (約30.8 m) の橋が架けられ、それぞれの橋の下を出入り口とする、三段櫂船 が一艘航行できるほどのトンネル 状の水路によって互いに連結していた。環状水路や運河はすべて石塀で取り囲まれ、各連絡橋の両側、即ちトンネル状の水路の出入り口には櫓と門が建てられた。これらの石の塀は様々な石材で飾られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(オリハルコン )、錫 、銅 の板で飾られた。内外の環状水路には石を切り出した跡の岩石を天井とする二つのドック が作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。 中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされる、クレイトとポセイドン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に縦1 スタディオン (約185 m)、横3 プレトロン (約92.5 m) の大きさの異国風の神殿があり、ポセイドンに捧げられていた。ポセイドンの神殿は金 、銀 、オレイカルコス、象牙 で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬 に引かせた戦車 にまたがったポセイドンの黄金神像 が安置され、その周りにはイルカ に跨った100体のネレイデス 像や、奉納された神像が配置されていた。更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めたポセイドンの戒律 を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛 が放牧されていた。5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事 を執り行った。即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じ、クラテル (葡萄酒 を薄めるための甕) に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃をポセイドンに献じ、その後礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁きを行い、翌朝判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものである。 また、アクロポリスにはポセイドンが涌かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに『ポセイドンの果樹園 』とよばれる庭園 、屋外プール や屋内浴場 が作られたほか、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給され、これらの内外の環状島にも神殿、庭園や運動場 が作られた。さらに外側の環状島には島をぐるりと一回りする幅1スタディオン (約185 m) の戦車競技場が設けられ、その両側に護衛兵の住居 が建てられた。より身分の高い護衛兵の居住は内側の環状島におかれ、王の親衛隊は中央島の王宮周辺に住むことを許された。内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地が密集していた。更にこれらの市街地の外側を半径50 スタディオン (約9.25 km) の環状城壁が取り囲み、島の海岸線と内接円をなしていた。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。 島の大平原と軍制 アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物 資源、象 などの野生動物 や家畜 、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブ などの香料 植物、葡萄 、穀物 、野菜 、果実 など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。 島の南側の中央には一辺が3,000 スタディオン (約555 km)、中央において海側からの幅が2,000 スタディオン (約370 km) の広大な長方形の大平原 が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原と周辺の山地を支配したのはアトラス王の血統の王国で、平原を土木 工事により長方形に整形した。平原は深さ1 プレトロン (約31 m)、幅1 スタディオン (約185 m) の総長10,000 スタディオン (約1,850 km) の大運河に取り囲まれ、山地から流れる谷川がこの大運河に流れ込むが、この水は東西からポリス に集まり、そこから海へ注いだ。[7] 大運河の中の平原は100 スタディオン (約18.5 km) の間隔で南北に100 プース (約31 m) の幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていた。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。 平原は10 スタディオン平方 (約3.42 km2)を単位とする6万の地区に分割され、平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵 18万人、投槍兵18万人、1,200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。他の9つの王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。 アトランティスの堕落 アトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落してしまった。それを目にしたゼウスは天罰を下そうと考えた。 「 (ゼウスは) 総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所 (= オリュンポス山 ) に召集し、集まるとこう仰った。」(Pl.Criti.121c) ここで『クリティアス』の文章は途切れる。 ***************** コウモリよりもさらに気がかりなのはミツバチの大量死だ。 ミツバチは、ただせっせと蜜を集めるだけではない。リンゴ・大豆・きゅう り・桃・サクランボなど、人間が食べる植物の8割は、その授粉をミツバチ に頼っている。ところが昨年、米国の27州にわたって「4分の1のミツバ チ群体が消滅した」と養蜂家は嘆いている。同様の大量死は、ブラジル、カ ナダ、そして欧州の一部でも起きているという。 「もし何らかの理由でミツバチが絶滅したら、人類はわずか4年しか生きら れないだろう」・・・この警告はアインシュタインが発したと伝えられてい る。米農務省のマイク・ヨハン長官は声明を発表して、「このままでは、ミ ツバチに授粉を負っている作物がまったく収穫できなくなる。状況はきわめ て厳しい」と述べた。 5月16日 速報764号 忍び寄る環境破壊──謎の答えはミツバチに聞け - tup_bulletin プレーリードッグが消えた? http://groups.yahoo.co.jp/group /TUP-Bulletin/message/790
2008年05月14日(Wed)▲ページの先頭へ
自然VS人間:パエトーンとイカルス:ポスト・ヤハウェ教文明とMP太光新地球文明
東京はここ数日、寒い日が続き、冬のブルゾンを着たが、こんなのは初めてである。これは妙である。なにかある。
人間の傲りを矯めるのは、やはり、自然の力なのか。知は無力なのか。ギリシア神話に限らず、多くの神話、民話、その他の伝承は、人間の傲りを戒めてきた。しかし、それが、破られたのである。 思うに、人類は、新たな神話時代(「大洪水神話」時代)に突入したのだろう。一番の問題はやはり、ユダヤ・キリスト教のヤハウェである。ヤハウェ教(狂)である。 これは、⇒-1の悪霊のようなものである。悪霊を崇拝する宗教(邪宗)が人類を狂わせたことは確かである。そう、自我・物質神なのである。確かに、物質科学・技術は発達したが、精神が退化してしまった。ポスト・ヤハウェ教文明の、「黙示録」的時代になったのだろう。 Media Pointから発する太光の叡知に基づく新地球文明を創造するときになったのだろう。 西洋文明と-1:同一性傾斜をもつ西洋一神教文明とMedia Pointを内包する東洋文明
後で検討したいが、西洋文明ないしは文化の-1=同一性の傾斜であるが、これが、現代文明・文化を行き詰まらせていると考えられる。資本主義も内的には、差異共振性をもつが、同一性価値の支配によって、非合理主義的に(悪魔的に)破壊的になっているのである。思うに、私見では、西洋言語の人称性にも問題がありそうである。
とまれ、-1=同一性の傾斜のために、西洋文明は東洋文明・文化が本来的にもっているMedia Pointを抑圧しているのである。だから、トランス西洋文明としての新東洋文明が考えられなくてはならない。西洋文明を包摂した高次の新東洋文明である。 p.s. -1=同一性への傾斜(ユダヤ・キリスト教一神教性=ルサンチマン)があるために、たとえば、イタリア・ルネサンスで生起した差異ないしは Media Pointの活性化が、同一性主義(近代合理主義・近代的自我)に抑圧されてしまったと考えられる。既述したように、この差異と同一性の矛盾的二重性が、西欧近代文化・文明の実体であると考えられる。言い換えると、二重人格(ジキルとハイド)としての近代西欧文化・文明なのである。悪魔の様相と天使の様相をもっているのであるが、前者が後者の影に隠れて、主導的なのである。天使の仮面をつけた悪魔としての近代西洋文化・文明である。 私見では、一人称は自我人称、即ち、同一性人称ではないだろうか。これが主導的になって、差異を否定すると思われるのである。そう、「わたし」の問題である。結局、自我・同一性の「わたし」と自己・共一性の「わたし」がある。これが、西洋言語では、連続化していると思うのである。日本語は本来、自己・共一性言語であり、「わたし」は、他者と共振しているのであり、そのために、とりわけ、「わたし」という語を使用しないと考えられるのである。 結局、この同一性主導性が今日、非合理主義性をもたらしているのであり、差異主導性が必要とされているのである。差異主導により、同一性傾斜は制御されて、差異共振性における、ないしは、基づく、同一性となると考えられるのである。言い換えると、差異主導によって、差異と同一性とのバランスを取れるのである。しかしながら、差異と同一性の発展的な対立と言ってもいいだろう。この対立が必要である。自由主義は、この中において肯定されるべきであろう。そして、民主主義は、差異共振性となるだろう。資本主義も差異共振資本主義になるだろう。差異共振資本自由主義となるだろう。 p.p.s. 近代西洋文化の偽善性であるが、それは理論的にどう説明できるだろうか。同一性=自我はどうして、偽善的になるのか。そう、同一性=自我の優越性の発生の力学は何か。同一性価値を優位に、差異価値を劣位にする力学であるが、それは、いわば、鏡像的価値に拠ると考えられる。 鏡像を優位とする価値観の発生が問題とされなくてはならない。ここで、作業仮説ないしは思考実験であるが、幼児の身体的脆弱性・虚弱性があり、そのため、差異における苦・悲に対して、身体的に積極的に対応することができない。つまり、身体的に劣位にあるのである。それに対して、差異共振エネルギーは過剰である。 思うに、この過剰な差異共振エネルギーを同一性へと転換させるのが仕組みがあるのではないだろうか。精神の過剰と身体の劣弱さがあり、そこにで、後者を乗り越えるために、前者は、後者を否定して、同一性価値を仮構(虚構)するのではないだろうか。フィクションである。一種、幻想、妄想である。ファンタジーである。 身体=差異の劣位を乗り越えるために、同一性価値の優位というフィクションを人間は形成するのではないだろうか。それが、-(-i)=i^2=-1ではないだろうか。差異=他者である-iを否定して、同一性化するのである。他者=差異の否定行為が、他者=差異の場所に鏡像を映現させて、それを代償として、自己同一性化するのではないだろうか。ここでは、共振ではなくて、否定的同一化があるのである。鏡像と同一性との融合があるのである。これは、当然、ショートである。つまり、自己同一性=自我とは、同一性のショートなのである。「自己中心主義」的な盲目である。自我狂気である。 とまれ、この否定が自我意志となっているのである。では、この否定はどこから生まれるのだろうか。それは、差異共振性のアンバランスからではないだろうか。つまり、+iと-iがあるが、両者がアンバランスで、-iが+iより劣弱なのである。この傾斜がデュナミスではないだろうか。この本源的不均衡が、現象において、否定の力学を発生させるのではないだろうか。整理すると、確かに、差異共振性があるとは言え、不均衡性があるために、成長において、否定性が発生して、同一性に傾斜するということではないだろうか。 そして、この否定性=暴力に対しては、根源の差異共振性を取り戻す必要があると言えよう。ここで、知恵・叡智が問題となるのである。イデア界の叡智が必要なのである。そう、思うに、本来、女性の方が、男性よりも、こちらに近づいていたと考えられる。ソフィア(叡智)は、本来、女性的である。 だから、正確に言えば、否定性=暴力性は父権文化、父権一神教文化のものである。本来、母権文化、母権多神教文化は、この否定性=暴力性を差異共振叡智によって制御していたと考えられるのである。 後で、もう少し丁寧に整理したい。 3p.s. まだ、同一性=自我の優越主義が十分に説明されていないので、後で再考したい。 4p.s. 同一性=自我の優越志向性は既に説明されている。精神の過剰性と身体の劣弱性との非対称性・不均衡性があり、身体の劣位を「意識」上、乗り越えて、「意識」を優位化する力学で説明できるのである。
2008年04月16日(Wed)▲ページの先頭へ
多神教的自己とは何か:超越エネルギーと宗教:母権多神教⇒父権一神教⇒新母権多神教
テーマ:一神教/多神教
先ず初めに、私は宗教をイデア・エネルギーと考えていることをお断りしておきたい。 魂・精神とは、Media Pointのことと考えたい。これまで、イデア=魂・精神としたがそうではなく、イデアと魂・精神は別物と考えたい。(作業仮説である) Media Point=魂・精神において、デュナミス(潜在エネルギー)であるイデアが実働エネルギー(エネルゲイア)になると仮定しよう。これを、人は神と認識するのである。何故なら、それは、超越エネルギーであり、自己(当然、自我も)を超越しているものと感得されるからである。そう、イデア・エネルギーは、これまで、述べたように、超越エネルギーである。 ここで、祈りや信仰を考えよう。超越エネルギーに祈る、あるいは、それを信仰するとは何か。 祈るのは、それが、自己を超越するエネルギーであるからだが、力学的にはどうなのだろうか。思うに、祈りとは、自己の願いを超越エネルギーに共振化させることであろう。おそらく、それは、効果があるのである。電磁波=霊になるからである。 では、信仰はどうだろうか。これも、超越エネルギーを信ずるという点では、魂・精神が超越エネルギーと共振すると考えられるのである。だから、祈りや信仰とは、超越エネルギーへの共振化作用をもつと考えられるし、また、超越エネルギーを受容するので、エネルギーを補充することができるだろう。心身的健康が維持されやすいだろう。 では、本件のテーマである多神教的自己はどういうものだろうか。それは、Media Point=魂・精神を開いている自己であり、そこにおいては、外界と共振している自己があると考えられる。当然、自我はあるのであるが、自己が基盤なので、自我を抑制するのである。自然道徳的である。自然人理的である。 そう考えると、多神教的自己に基づく社会は、ある意味で理想的である。何故なら、差異・他者が認められていて、利己主義を抑えて、平和共存が第一義的に目指されていたと考えられるからである。 私が神道に見るのは、このような根源的共振社会である。それは、母権的共同体社会である。それは、個の共存する社会なのである。一種、理想郷である。 以前、述べたことがあるが、もし、父権文明が生まれなかったら、人類は、平和に暮らしていただろうということは、真実であろう。とりわけ、近代・現代のように戦争に満ち満ちた狂気の社会は決して生まれなかったであろう。そう、私は、人類は道を踏み誤ったと考えもした。 しかしながら、父権文明は意味があるのである。以前述べたように、それが生起しなけらば、物質科学・技術は生まれなかったと考えられるのである。今日享受する生活の利便はなかったと考えられるのである。未だ、井戸の水を汲み上げ、洗濯は手動で行っていたであろう。 結局、今日・現在の問題は、この物質主義的父権文明を乗り越えることなのである。新精神文明を創造することが課題なのである。それは、新母権多神教ということになるだろう。母権文明へと再帰するのである。 これは、トランス・モダン差異共振的民主自由共同体主義となると考えられる。
2008年03月15日(Sat)▲ページの先頭へ
宗教的思考とイデア論的思考:超越エネルギーと信仰:近代的自我はカルトである:脱父権一神教としてのトランス・モダン・パラダイム・チェンジ
先に、宗教的思考について説明したが、これは、言い換えると、イデア論的思考ということになる。勿論、厳密に言えば、プラトニック・シナジー理論的思考ではあるが。思うに、差異共振イデア論的思考ともいえよう。簡略して、差異イデア論的思考であろう。
もっとも、同一性主義と差異主義を、一神教原理と多神教原理と言い換えた方が深さを表現するときは優れているだろう。また、インパクトもある。 ところで、今日、日本人の多くが無宗教と言うのは、決して無神論ということもないだろう。神社仏閣に参拝するのだから、無神論ではない。やはり、日本人の無宗教・不無神論とは、イデア論的なのだと思う。超越エネルギーは感じているのであるが、それに無自覚であったり、また、うまく表現していないと思えるのである。 ここで、超越エネルギーと信仰ないしは信について簡単に言おう。超越エネルギーは、Media Point において発出される。それが同一性自己(自我)を形成し、また、差異として、内発している。同一性自己(自我)が中心化(同一性主義ないしは同一性中心主義。デリダのロゴス中心主義に相当する)されると差異は抑圧否定されて無意識になる。【既述したように、Media Point とは、超越・即非・内在の様態にあるのであり、単純な超越性でなければ、また、単純な内在性でもなければ、また、内在的超越性でもない。この点は、いくら注意しても注意し過ぎることはないだろう。】 Media Point とは、伝統文化的には、魂や心や霊や精神等という用語で指し示されてきたものであると考えられるが、当然、宗教の領域に属するのであるし、また、思想・哲学の領域にも属するのである。 ここにおいて、広義の心は、ある力を受動するのである。ある力とは、超越エネルギーであると考えられるのである。【ただし、同一性主義(自我中心主義)である限り、この力は感受されない。言い換えると、同一性主義では、この超越エネルギーを抑圧否定するのである。平明に言うと、不可視のものの排除である。】この超越エネルギーの感受とは、同一性によっては合理化できない。これは、差異としか理解されないし、的確には、特異性であり、差異共振性と考えられるのである。 この超越エネルギーは、同一性現象性を越えているので、神的現象(ルドルフ・オットーのヌミノーゼ)として捉えられたりする。【いわゆる、オカルト的なものも本来はここに発して、ある場合超常現象として、誤って考えられているだろう。私は占いも本来は、ここに発していると考えている。占いも根源に変えれば、宗教・哲学・科学的である。】この超越エネルギーに対する感受性(感性)における帰依が信仰であろうし、宗教の根源であろう。 しかしながら、この超越エネルギーの受動と共に、能動的な知性を形成することは可能なのである。これが、私が言う宗教的思考=イデア論的思考に当たると考えられる。そう、また、この超越エネルギーに基づいて、能動的表現をすることも可能である。これが、いわゆる、芸術・アート活動であろう。芸術は宗教的である(D. H. ロレンス)というのは、この意味においてである。 問題は、超越エネルギーと同一性の関係である。超越エネルギーが同一性主義化(自我中心主義化)したときは、恐ろしく危険である。思うに、狂信化とは、このことではないだろうか。少し脱線するが、《近代的自我は狂気である》という私のテーゼであるが、これは、超越エネルギーの同一性主義化と言い換えることができそうである。そして、そう考えた方が的確であるような気がする。 これは、また、カルトの問題にも適用できると思われる。オウム真理教の場合であるが、超越エネルギーが同一性主義化して、排他的二元論となり、同一性主義に宗教観念が入って、一種イデオロギーとなり、カルトとなったと言えるのではないだろうか。これは、また、西洋植民地主義、帝国主義、金融資本主義にも適用できよう。また、さらに、ナショナリズムにも適用できる理論ではないだろうか。そう、明治維新におけるナショナリズム・文明開化路線は、この超越エネルギーの同一性主義化(同一性中心主義化)で説明できると思われるのである。端的に言えば、超越エネルギーが、差異という理性を喪失して、同一性主義へと放出されるのである。 この超越エネルギーの同一性主義化(カルト化)の問題について、精緻に考えよう。Media Point と同一性は本来、不連続なのであり、前者は特異性・特異点なのである。言い換えると、両者の間には、亀裂・溝があるのである。しかしながら、カルト化の場合、両者の亀裂・溝が消えて、超越エネルギーが即、同一性へと放出されるのである。言わば、差異回路のショート・短絡である。正に、狂気なのであるが、この原因は何か。 上記において、私は超越エネルギーの受動・感受のことを言い、同一性主義はそれを抑圧否定すると言った。そして、直近において、超越エネルギーの同一性主義化について言い、両者はいわば矛盾・齟齬状態になっているが、このことはどう解明されるだろうか。 超越エネルギーの受動・感受とは、差異の形成を意味するが、超越エネルギーの抑圧否定とは、差異の未形成を意味する。差異が形成される場合、超越エネルギーは能動・積極・肯定的に主体に作用する(スピノザの能動的観念とは、このことを指していると考えられる)が、差異が未形成である場合、超越エネルギーは反動・消極・否定的に主体に作用すると思われる。だから、超越エネルギーの同一性主義化(カルト化)とは、超越エネルギーの能動・積極・肯定化ではなくて、反動・消極・否定化であると考えられる。 しかしながら、後者はどういう事態なのだろうか。やはり、ここには、Media Point の新たな開放があると思われるのである。原近代は、Media Point の開放から開始されたと考えられる。即ち、イタリア・ルネサンスである。そして、それがベースになり、プロテスタンティズム的近代化が生起するのである。しかし、それは、父権一神教的同一性化であったのである。だから、必然的に、そこには、カルト化が起こったと見るべきであろう。魔女狩りは端的にそのようなものであるし、植民地主義や帝国主義もそのようなものである。 そう、やはり、近代的自我/近代合理主義は狂気であると見るべきである。しかし、正しくは、ここで検証したように、近代的自我/近代合理主義はカルトであると修正すべきであろう。 そうならば、敷延すると、父権一神教自体がカルトではないのか。おそらく、そうだろう。ユダヤ・キリスト教はカルトなのである。また、天皇制的一神教もカルトである。(しかしながら、天皇文化は、本来、多神教である。多神教的天皇宗教文化が正しいのである。) だから、オウム真理教問題であるが、それは、端的に、父権一神教の新興宗教的現象であると言えよう。世界の縮図と言えよう。 最後に大問題を投げ掛けよう。いったい、どうして、父権一神教ないしは父権的神話が生まれる必然性があったのか、である。 今は、簡単に答えるだけだが、やはり、母権多神教の衰退があり、なんらかの原因で父権主義化が生起したということであろう。つまり、女性主義が衰退して、男性主義が生起したということである。予見では、Media Point という太極において、陰の志向性が衰退して、陽の志向性が台頭した結果が、父権一神教の誕生であると思われるのである。そうならば、自然のもつカルト性ということになるだろう。 しかし、カルト化の意味とは何か、である。それは、端的に、同一性主義の形成である。つまり、自我主義・物質主義の形成である。言い換えると、西洋文明の形成である。(実際、キリスト教は母権多神教をネガティブながら包摂していると考えられる。)そして、今日、これが終末を迎えて、いよいよ、脱父権一神教=脱自我主義・脱唯物論であるトランス・モダンへとパラダイム・シフトしつつあるということなのだろう。
2008年02月13日(Wed)▲ページの先頭へ
差異共振性(双子)と同一性(自我・片割れ):エネルギーのエンテレケイア(終点)としての父権暴力:Ver 2
先に、民主主義に関して、同一性における差異・特異性の必要を述べたが、それは正しいのであろうか。認識の問題であり、根本的である。
認識するとき、対象(差異)を初め同一性化(言語化)するように思われる。知覚において、ある対象が存するが、それは、判然としていない。それを同一性化=言語化して把握するのである。そして、言語化とは一種の物質化であると思う。 しかし、微妙な問題は、差異の排除の問題である。初期知覚(原知覚)において、差異をなんらか捉えていると思われるのである。つまり、認識主体の Media Pointから対象を「知覚」しているのある。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の様相である。差異共振相である。しかしながら、認識主体は、同一性化=言語化へと進展するのである。このとき、差異が排除されるのである。しかしながら、認識主体は、最初は、差異が同一性から切り離されるのを知っていると思われるのである。つまり、認識主体は、自己が、いわば、双子であるのを知っているの思うのである。【自己認識方程式(+i)*(-i) ⇒+1の左辺は双子を意味しているように思えるのである。】 つまり、初めに、差異共振(双子)ありき、である。その後、言葉が発生するのである。言葉への意志が⇒で、言葉が+1であろう。そして、これが、自我でもあり、また、同一性認識でもある。これは、また、物質でもあろう。【ヨハネの福音書では、初めにロゴス(言葉)ありき、になっているが、それは、ミスリーディングないしは誤りであると考えられる。しかし、ロゴスを理性とするならば、それは、正しいだろう。真の理性は、Media Pointに存すると考えられるからである。根本理性ないしは超越理性である。】 同一性認識が形成されるとき、自我は、最初は排除した片割れを知っていると思うのであるが、その後、自我が進展すると、それを忘却すると思われるのである。双子であった自己を忘却して、単体の自我であると思い込むのである。自己盲目・無明の発生である。この事態が双子の神話や兄弟殺しの神話に表現されていると思うのである。カストルとポルックス、海幸・山幸、カインのアベル殺し等々である。【因みに、最古の叙事詩と考えられている『ギルガメシュ叙事詩』であるが、英雄ギルガメシュと朋友のエンキドゥーも一種双子ないしは兄弟の神話を意味しよう。そして、エンキドゥーが犠牲として亡くなるというのは、一種の兄弟殺しを意味するのではないだろうか。父権制は、双子・兄弟から兄弟殺しへの転換をも意味すると考えられる。参照:ディオスクロイ http://ja.wikipedia.org/wiki/ %E3%83%87%E3%82%A3%E3%82 %AA%E3%82%B9%E3%82%A F%E3%83%AD%E3%82%A4 】 そして、この問題に鏡像が関係してくるのである。ここに哲学的根本問題があると言っても過言ではないだろう。【メルロ・ポンティがこの問題を探求したが、後一歩及ばなかったのではないかと推測される。】思うに、双子は賢者・知者なのである。あるいは、ソフィア(叡知・知恵)である。しかし、それが同一性化=言語化へと向かうとき、双子を否定して、自我知を形成するのである。双子は、無意識となるが、自我知を認識しているのである。つまり、ここでは、自我とは、第三者であろう。ということは、三つ子となるのではないだろうか。それとも、双子を一人と考えて、二人と数えるのか。この問題はおいておこう。 とまれ、自我中心主義が発生する以前は、差異共振の双子と同一性の自我が存しているのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺の状態が「知覚」されているのである。そして、この自己認識の光学は実に不思議である。本当は、双子が根源的光(超越光)であり、自我が派生した物質的光(ほぼ現象光)であり、いわば、前者が光であり、後者が闇であるが、それが反転して、前者が闇、後者が光となるのである。おそらく、また、前者が無、後者が有と認識されるのである。【ヤコブ・ベーメ等の神秘主義者が、根源を闇と表現したのは、この反転した様態においてと見るべきであろう。あるいは、三島由紀夫が無と見たものも同様である。仏教の絶対無も同様であろう。】思うに、ニーチェが自身の哲学の光学についてよく述べていたが、それもこの意味で解すべきであろう。ニーチェの初期のディオニュソスとアポロという概念も同様であると考えられる。 ここで宗教・神話について触れると、太母神話は、自己認識方程式の両辺を肯定的に残しているのであるが、父権神話は、左辺を否定して、右辺を肯定する力学になっているのである。言い換えると、光学の反転・逆転が生じているのである。価値観の逆転があるのである。 さて、冒頭で述べた、私説の民主主義批判における、同一性における差異・特異性の問題であるが、これは、結局、これまで述べてきた、超越性と同一性との即非性の問題に帰結することがわかるのである。対象は同一性であると同時に、差異(差異共振性)であるということである。これを、比喩的に、双子認識と言ってもいいだろう。それに対して、同一性・自我の認識を片割れ認識と言ってもいいだろう。とまれ、同一性における差異・特異性の問題はこれで解明されたこととしたい。 結局、民主主義は片割れ認識しかなく、不幸な認識の状態であると言えよう。それは、自己認識・双子認識が欠落しているのである。【p.s. ここは、少し短絡的かもしれない。民主主義は、根源的には、Media Pointから発しているが、それが、同一性認識に吸収されてしまっているのである。これは、キリスト教の隣人愛と同質の様態であるように思える。また、本居宣長の大和心とも通じるように思える。結局、Media Pointの自我同一性化である。このとき、差異共振性・共感性(造語して、共心性)は、自我感情移入になると思われるのである。後で精査したい。】 最後に、太母神話と父権神話の力学について、また、検討したい。これに関係する事柄は、これまで、百回くらいは論じた問題である。 結局、どうして、自我は差異共振性を否定するような力学を帯びるのかということである。太母神話・多神教の場合は、同一性(エジプト神話で言えば、オシリス、ギリシア神話では、アポロ、神道では日御子)が生じても、差異共振性(イシス、ディオニュソス、天之御中主神)が顕在しているのに対して、父権神話では、たとえば、バビロニア神話のように、英雄マルクトが、母なる怪獣ティアマトを殺戮して、そこから天地を創造するのである。【聖書では、太母神は、無になっているだろう。】 いったい、この力学はどこから発生したものなのか。差異共振性(双子)を否定する力はどこから生まれたのかである。父権暴力の発生である。 私はこれまで、太極原理から説明したが、それでも、判然としていないのである。つまり、理屈にはなるが、解明ではないのである。あるいは、同一性への根源的な傾斜ということで説明したが、それでも、釈然としないのである。 ここで少し迂回しよう。直感では、父権暴力は、弱さをもっているのである。自己を見つめられないと(内観できない、省察できない)いう弱さをもっているのである。だから、ある刺激に対して、反動的に反応するのである。自我同一性をもって反応するのである。つまり、認識主体が、内観が欠落して、外界観察のみなのである。 ここで、先に述べた、+1が(+i)*(-i)を否定するということを想起して考察しよう。+1とは、自我認識・同一性認識・物質認識・外界認識である。この認識は、(+i)*(-i)を認識できないのである。【ここは、ほとんどカントの純粋理性批判である。カントの理性は、混乱しているのではないだろうか。同一性と差異が混淆しているのではないだろうか。つまり、差異共振知と同一性知が混淆していると考えれる。そこで、アンチノミーが発生すると考えられるのである。もっとも、カントは、Media Pointを同一性論理で捉えようとしたとは言えるのではないだろうか。カントには、即非の論理の発想が全くなかったのである。とまれ、後で検討したい。】+1が優位になったとき、(+i)*(-i)が排除されることになるのである。 問題は、+1が優位になる力学である。言い換えると、近代主義の力学である。デカルト哲学である。これは、意外に簡単なことなのではないのか。つまり、エネルギーの進展の問題である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、エネルギーの方向性を示しているのではないのか。つまり、左辺から右辺へとエネルギーが流れて、右辺へと帰結するということではないのか。換言すると、エネルゲイア(活動態)がエンテレケイア(終局態)になるということではないのか、ということである。 そう考えると、父権暴力とは、エネルギーの帰結として発生するということになるだろう。物質暴力と言ってもいいだろう。同一性暴力でもいい。だから、当然、エネルギー様態は左辺から右辺へと傾斜しているということであり、当然、自我同一性は、差異共振性を否定することになると言えるのである。これで説明できた。 では、父権的自己(自我主義)の弱さとは何か。それは、源泉である差異共振性、即ち、Media Pointを継続して排除せざるをえない状態にあることにあるのではないだろうか。つまり、差異共振性の否定を反復しないといけないと考えられるのである。本源に実存するものを反復的に否定しなくてはいけないである。つまり、一種病理的な状態にあるのである。【p.s. フロイトの反復強迫の概念は、この点から、捉え直されるべきであろう。そう、全般に、精神分析仮説は、プラトニック・シナジー理論の視点から、書き換えられるべきである。ついでに言えば、ユング心理学もそうである。結局、プラトニック・シナジー理論は心理学の革新でもある。それは、超越的心理学である。】このために、父権的自己(自我主義)は、仮想敵を必要とするのである。内的な否定・シャドウを投影するのである。【この内的な否定が、ニーチェの言うルサンチマンである。あるいは、ユダヤ・キリスト教的な憎悪である。キリスト教の愛とは、ニーチェがいみじくも喝破したように、憎悪と一如であろう。自我愛=隣人愛とは、差異共振性という共感性を否定しているのである。p.s. 罪の赦しとは何か、後で検討したい。】 永遠のエネルギーの源泉であるMedia Point(差異共振性)を否定する父権暴力のユダヤ・キリスト教西洋文明がようやく終焉しつつあるのであるが、これは、東洋で言えば、儒教的父権文明の終焉であろう。 新しい太母文明が生まれることになるが、夜明け前の闇は深く、超激震が襲うのである。
2008年01月03日(Thu)▲ページの先頭へ
創世記の水と神霊について:東洋文化・太母文化の変異点としてのヤハウェ神学:新世界宗教へ
水をMedia Pointとすると、神霊とは、正に、超越的同一性であり、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の⇒ではないのか。先に私は+iを神霊と考えたが、確かに、そう考えていいのだが、神霊は物質現象を生み出す力(創造神)と考えれば、⇒である。
問題は、この神霊・ヤハウェが、左辺を隠蔽してしまうことである。端的に言えば、左辺は多神教(三つ巴)ということだろう。推察では、エローヒーム(神の複数形)が、左辺であり、それ(即ち、エローヒーム神学:多神教神学)をヤハウェ神学(一神教神学)が簒奪することになったのではないのか。 とまれ、創世記の水をMedia Pointと仮説して考察を続けると、東洋文化、とりわけ、太母文化においては、Media Pointからの生成が確認されるのである。自然(自ずから成る)である。しかし、創世記においては、「光あれ」という神霊の意志・言語行為がポイントである。自然ではなく、意志である。これが、父権神話・宗教の特徴である。この神霊の意志をどう考えるのかである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1 で考えると、上述したように、⇒になるのだろう。 そうならば、東洋文化・太母文化の自然・生成はどう考えたらいいのだろうか。それは、上述から自明なように、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を認識・意識していると考えられる。つまり、自然の創造する力(⇒)を、左辺(太極や三つ巴と見ていいだろう)に基づくもの、即ち、生成消滅するものと認識しているのである。自然(じねん)である。 それに対して、ヤハウェ神学では、神霊の意志が創造する力なのである。キリスト教神学では、無からの創造と言うが、正確には、無ではなく、水からの創造であろう。水はMedia Pointであり、東洋文化では、自然(じねん)である。 この相違をどう考えたらいいのだろうか。これは、既に考察済みである。即ち、原点は、Media Pointであり、太極であり、陽への志向性が極大化したときが、ヤハウェ神学が発生すると考えられるのである。⇒ないしは、⇒+1である。 そう、ヤハウェ神学とは、東洋文化・太母文化の変態・特異点と考えられる。母胎は東洋文化・太母文化である。しかし、おそらく、陽極への志向性によって、1/4回転によって、ヤハウェ神学が生まれたのである。 私は不連続的差異論の形成時に、裏返しということを何度も述べたが、東洋文化・太母文化の裏返しとしてのヤハウェ神学を考えることができるだろう。このとき、自然(じねん)ではなく、神霊の意志となるのである。そのとき、Media Pointを否定して、無となし、そして、無からの創造という観念が生まれるのだろう。ということで、繰り返すが、ヤハウェ神学とは、東洋文化・太母文化の一変異点であるということである。そして、それは一種癌細胞に似て、自己破壊的なのである。母体である自然を食い尽くすのである。 とまれ、ヤハウェ神学において、自然(じねん)がいわば自己否定されて、意志的創造が中心化されたのである。そして、これが、ユダヤ・キリスト教西洋文明の土台となったのである。それは、自然に対する人間の意志の肯定である。(その点は、見事に、創世記に書かれている。) これでヤハウェ神学と東洋文化・太母文化の相違について、後者を基盤として解明できたとしよう。そう、繰り返すが、ヤハウェ神学を東洋文化・太母文化の特異点・変異点として見るのが明快である。 そのように見ると、Media Point=太極の回転から、ヤハウェの発現から、イエスの出現、そして、イスラム教の出現は、論理・必然的に説明できるだろう。そして、新しい聖霊の宗教の発現も説明できるだろう。これが、私の唱える父権統合型新太母文化・新東洋文明である新世界宗教ということになると考えられるのである。 そして、今日、陽極大化を越えて、陰=差異への志向性が発生して、Media Point=太極へと回帰しつつあると思われるのである。トランス・モダンへの相転移である。 私はこれまで、ユダヤ・キリスト教を徹底的に否定してきたが、以上の視点に拠るならば、ユダヤ・キリスト教は、東洋文化・太母文化すなわちMedia Point文化の一変異点であり、それに包摂されることができるのである。つまり、特異点ではあるが、畢竟、東洋文化・太母文化・Media Point文化の一局面・一文化期である(あった)ということである。だから、否定というよりは、批判的視点から、包摂することが正しいということになるだろう。だから、新たな世界宗教とは、正確に、万教帰一となるのである。それは、新太母教である。思うに、詩人ヘルダーリンが、キリスト教と異教との和解を歌っていたが、それは、正に、天才的に、Media Pointからの発想である。 最後に、創世記の謎の「天の上の水」について触れると、水をMedia Point=自然とすると、天は、二元論における天であるから、神霊=ヤハウェと関係すると考えられるので、そして、「天の下の水」が通常の海であると考えられることから見ると、「天の上の水」とは、ヤハウェ神学にとっては不要となったMedia Point=太極=自然=太母を意味していると言えよう。だから、創世記では、その後、その言及が消えていると考えられるのである。古事記で見ると、捨てられたヒルコにある意味で似たものではないだろうか。もっとも、ヒルコは、ユダヤ神話では、アダムの最初の妻リリスと関係するだろう。
2007年12月30日(Sun)▲ページの先頭へ
偶像崇拝禁止/多神教排除とMedia Point:文明期のサイクルとMedia Point
偶像崇拝禁止/多神教排除とMedia Point:文明期のサイクルとMedia Point
イスラム教をMedia Pointの発現と見るなら、つまり、Cosmic Media Pointの発動と見るなら、偶像崇拝禁止や多神教の排除をどう考えたらいいだろうか。 私はイスラム教の両者は聖書にあるほど、暴力的ではないように思う。結局、父権的一神教は、偶像崇拝禁止と多神教排除を教義にもつが、私はユダヤ・キリスト教とイスラム教では、唯一神の意味が異なるので、単純に共通のものと見るわけにはいかない。 とまれ、その教義は、太母宗教の禁止・破壊である。思うに、新しい文明期とは、それまでの文明期を否定して、新しい観念を説くものと考えられよう。しかしながら、新しい文明期を拓くと言っても、結局、そこには、Media Pointの新たな開示(啓示)があるのだと思う。Media Pointによる螺旋的回帰運動があると思うのである。 つまり、Media Pointにおいて、諸文明期は共通するはずである。ただし、時間が異なるのである。だから、偶像崇拝禁止と多神教排除とは、新たなMedia Pointの開示における破壊ということだと思う。 しかしながら、父権的一神教の厳格さは、太母宗教には見られないものである。この点を考える必要があるだろう。思うに、ここでは、通時生成消滅的に考える必要があると思う。平明に言えば、文明期のサイクルである。おそらく、最初は、いかなる文明期も、倫理・秩序が厳格にあったと思う。しかしながら、時を経て、本来のエネルギーが衰退して、倫理・秩序が崩壊し、堕落する(デカダンス)。おそらく太母文化の末期において、倫理・秩序の崩壊が発生していたと思う。それは、現代のユダヤ・キリスト教西洋文明における倫理・秩序の崩壊を見ればわかりやすいだろう。 そのような文明期のサイクルを考えると、偶像崇拝禁止や多神教排除とは、それら自体に意味があるというより、やはり、太母文明期の否定という意味あいが強いと見るべきだろう。つまり、それらは、表層的である。 さて、付加的に、そのようなことを背景にして、ユダヤ・キリスト教とイスラム教との違いを考えると、一神教という枠組みは共通であっても、本質が異なっていると言えよう。それは先ほど述べた通りである。すなわち、前者は同一性主義の唯一神をもち、後者は差異共振性の唯一神をもつということである。 表層の太母宗教の否定を取り去って見ると、イスラム教とは、端的に、Media Point的宗教であり、神道に通じると思われるのである。 また、ゾロアスター教を考えると、それも一神教的表層を取ると、Media Point的宗教である。すると、イスラム教や神道と共通することになるのである。そう、新しい世界宗教とは、一神教と多神教の融合であろう。Media Point宗教である。 p.s. 思うに、新しい文明期を発動させるMedia Point、つまり、Cosmic Media Pointの啓け、言わば、「啓明」とは、新たな倫理・秩序の発動である。それは、高次元の倫理・秩序の発動である。そして、今や新しい太母文化とは、高次元の倫理・秩序をもった新文明期であるということである。Media Pointは、差異共振性という心、高次元の心をもっているのであり、それは、倫理・秩序である。 思うに、カントが説く実践理性とは、実際には、このMedia Pointの新たな発動である差異共振エネルギーによる倫理・秩序志向性を指していたのではないだろうか。カントは後、一歩であったと思う。 ************************** 新世界宗教としての新太母教について:トランス一神教/トランス多神教としてのMedia Point宗教:新万教帰一 新世界宗教とは、これまでの諸宗教を包摂する高次元の新太母宗教となると考えられる。ユダヤ・キリスト教が西洋文明において主導的であり、近代合理主義/近代的自我/資本主義を形成する帰結(エンテレケイア)となった。しかしながら、ユダヤ・キリスト教のいわば、超越的同一性エネルギーはもはや枯渇して、倫理・道徳・秩序の構成に役立たずに、返って破壊主義的に、アナーキズム的になっているのである。 とまれ、そのユダヤ・キリスト教の成果、すなわち、同一性文化を包摂する新たな太母宗教文化の可能性が今日生まれているのである。理論的には、プラトニック・シナジー理論のMedia Pointにおける超越的エネルギーによって与えられるものである。 そして、この新太母宗教は、イスラム教、神道、仏教、ヒンドゥー教、等々を、すなわち、万教を包摂する総合普遍宗教(新万教帰一)と考えられるのである。ユダヤ・キリスト教は否定されることになるが、しかしながら、聖霊をMedia Pointと解することで、この新太母宗教は、ユダヤ・キリスト教をも包摂していると言うことができるのである。 Media Pointから同一性への転換の様相について:太母文化と父権文化との連続態と不連続化:新一・多神教の誕生に向けて
この問題については、既述したが、確認のために、ここで再考したい。
自我は、Media Pointの差異(差異共振性・心)を否定するように、同一性から発生すると考えられる。問題はMedia Pointが開いたままであっても、同一性は生起しうるということである。 つまり、同一性の発生については、二通りのあり方があるのである。一つは、父権文化的であり、それは前者のタイプであり、もう一つは、太母文化的であり、それは後者のタイプである。 前者において、Media Pointが隠れて、自我が中心化されるのである。二元論・二項対立の様態である。後者においては、自我は、いわば、未分化であり、半差異/半同一性の様態にあるのではないだろうか。 近代合理主義とは、前者が特化された様態である。そして、資本主義は、この意識様態(近代的自我)と結びついている。すべては、物質/貨幣的同一性量的価値に基礎付けられている。 西欧近代の問題は、この二つの同一性の混在にあると思われる。前者はプロテスタンティズム、後者はルネサンスと関係する。私はこれまで、プロテスタンティズムは、ルネサンスを内在させていると言ったが、これも、この混在の有り様である。西欧近代とは、二つの同一性の様態(太母文化と父権文化)の混在、換言すると、ルネサンスとプロテスタンティズムの混在と見ることができる。そして、民主主義も同様に思われる。占星術的に言えば、双魚宮様態であり、二匹の異なる魚が連続していることである。そう、占星術は鋭敏である。二匹の魚が尾で繋がっているのである図像をもつのである。正に、西欧近代は、双魚宮様態である。つまり、差異と同一性が連続化しているのである。この連続性のポイントが、ゼロ度である。これが、双魚宮の二匹の尾に当たると言えよう。ここが、肝心要(かんじんかなめ)のポイントである。 もし、太母文化様態であったら、どうだろうか。それは、端的に、太極様態であろう。陰陽様態である。差異の極と同一性の極の両極の揺れ動きをもっていたであろう。しかし、西欧近代様相においては、一方で、同一性主義があり、差異は徹底的に排除されるのである。だから、ここでは、弁証法が作用しているのである(これが、ヘーゲル弁証法に帰結したと言えよう)。結局、西欧近代は、矛盾しつつも、連続性が中心化しているのである。 本件のテーマに返ると、結局、二種類の同一性様相があり、近代主義とは、父権文化的様態であると言える。問題は、この二種類の同一性様相の発生の意味である。 これは、結局、父権文化的勾配と太母文化的勾配の二様を考えれば、いいのではないだろうか。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で言えば、+1が父権文化であり、X⇒+1が太母文化であろう。このXが心である。+1が形式的知(頭)であり、父権文化は頭中心なのである。それに対して、太母文化は、頭と心を並存させていると考えられるのである。 ここで、整理すると、父権文化とは、+iに傾斜した文化であり、-iという差異を同一性化してしまうのである。それに対して、太母文化とは、+iと-iとの平衡が取れた文化であるということである。ここで確認しておくと、+iの傾斜に対して、反動的に、-iの傾斜に向かうと、何度も既述したように、神秘主義、オカルト主義になると考えられる。そして、西欧では、この傾向が、19世紀後半から起こり、20世紀前半くらいまで、続いたと言えよう。また、60年代以降、カウンター・カルチャーとして、それが復興してきたと言えよう。いわゆる、精神世界文化の活動である。 もっとも、モームの『月と六ペンス』で触れたように、あるいは、シャガールの絵画に関して述べたように、神秘主義ないしは身体的神秘主義は、反動的ながらも、そこに、差異共振性を内在させていることが多いと考えられるのであり、短絡的に、神秘主義・オカルト主義を否定することは反知性的である。ここで、ついでに、この神秘主義・オカルト主義の反動性について解明しておくことは意味があるだろう。+iの傾斜という父権文化に対する反動は、-iの傾斜であるが、それは、身体性や神秘性の傾斜である。これは、逆さまの同一性と言うべきものであり、この逆さまの同一性は、精神というものを同一性化して捉えると思われるのである。そのために、霊的唯物論というような発想が生まれると思われるのである。同一性知性を、身体・神秘的同一性化してしまうのであり、ここにおいて、身体・神秘的同一性が「霊」や「魂」となり、中心化されると思われるのである。これが、神智学・人智学的発想であると考えられるのである。 だから、霊や魂という用語はミスリーディングで危険である。私としては、同一性を包摂したMedia Pointを心と呼びたいと思っている。それがおそらく伝統的な用語である。そして、Media Pointを特化すれば、霊、魂、霊魂という言葉が使えるだろう。だから、心を心魂ないしは心霊と呼ぶこともできるかもしれない。もっとも、日常生活では、同一性に傾斜しているので、心魂というよりは、心と言った方が適切である。 ということで、結局、既述の考察を再確認することになった。しかしながら、本考察で明らかになった点がある。それは、父権文化は同一性傾斜文化であるが、太母文化は、差異傾斜文化と言ってもいいのであるが、正確に言えば、同一性と差異の平衡文化であるということである。あるいは、差異共振文化である。簡略に、差共文化と言えるだろう。結局、神道やケルト文化の三つ巴に帰るのである。三相性である。 ここで、最後に、この三つ巴の三相性とキリスト教の三位一体について考察して、本稿を終えたい。 父を同一性、子を差異、そして、聖霊を差異共振性と見ることができるならば、三位一体とは、ある意味で成立するのである。しかしながら、問題点は、この三位一体の一元論の一元の意味である。もし、その一元を聖霊=差異共振性とするならば、成立すると考えられる。しかしながら、キリスト教において、三位一体の一元とは、基本的には父を意味するのである。つまり、同一性である。ここに問題点があり、だから、キリスト教三位一体は否定されるべきなのである。私はこれまで、三位三体論が正しいと言っている。とまれ、聖霊=差異共振性を中心化するなら、三位一元論は成立するのである。 では、ここまで来ると、イスラム教の唯一神性について簡単に触れたい。イスラム教は多神教を排除している。しかしながら、イスラム教にはタウヒード(一性いつせい)という考え方がある。この一性が、当然、唯一神の様相のことであるが、この一性とは、同一性(父)ではなく、聖霊=差異共振性であると思われるのである。そうならば、イスラム教とは、隠れ多神教、あるいは、隠れ神道であると考えられるのである。理論的にはそうなるのである。 つまり、聖霊=差異共振性としてのタウヒード(一性)とは、プラトニック・シナジー理論から見ると、+iと-iとの差異共振性をもっているので、三相性があり、つまり、三柱の神と言えるのである。私はコーランをよく知らないので、確定できないが、おそらく、アッラーフ(アラー)は、神道の神と似ているところがあるはずである。そう、直感では、アッラーフとは、太陽神であり、ゾロアスター教のアフラ・マズダである。そして、これは、天照大御神に通じるのである。そう、アッラーフは父ではなく、聖霊である。Media Pointである。 しかしながら、ユダヤ・キリスト教において、太陽神は、いわば、翳っているのである。イエス・キリストに存する太陽神は、太母である。これが、ヤハウェによって、翳っていて、同一性化を被っているのである。 結局、トランス・ユダヤ・キリスト教を考えると、つまり、イエス・キリストをユダヤ・キリスト教から解放すると、太母としての太陽神があり、同時に、太母の子のイエスが復活するのである。 では、太陽神=太母の子のイエスの復活とは何を意味するのか。それは、ケルト神話のトゥアッハ・デ・ダナン(ダナンの息子たち)を考えると、あるいは、聖書の神の息子たちを考えると、一人ではなく、多数となるのである。多数のイエスである。多元・複数的イエスである。これは、結局、新一・多神教の誕生を意味するのではないだろうか。
2007年12月27日(Thu)▲ページの先頭へ
螺旋的人類文化史:1.太母文化⇒2.太母統合型父権文化⇒3.父権主義文化⇒4.父権統合型新太母文
テーマ:プラトニック・シナジー理論
螺旋的人類文化史:1.太母文化⇒2.太母統合型父権文化⇒3.父権主義文化⇒4.父権統合型新太母文化 1は、Media Pointが全的に啓いている文化である。超越界と現象界との直交する文化であり、前者は霊界であり、後者は物質界である。両者が交差していた文化である。生死が循環する文化、永遠回帰の文化である。輪廻転生が当然と考えられた文化、祖先崇拝が当然と考えられた文化である。(p.s. ここで想起することは、プラトンの『国家』における魂の輪廻転生についてである。また、そこから、さらに想起するのは、ジョセフ・キャンベルの『神の仮面:西洋神話の構造』において説明されている女神の神話における輪廻転生の図像と観念である。思うに、プラトンの魂の不死や輪廻転生は女神の文化、即ち、太母文化から受け継いだものではないだろうか。私見では、プラトンのイデアというものは、太母のもつエネルゲイアを哲学化したものと考えてきたのである。これは、また、D.H.ロレンスのコスモスの思想とプラトンのイデア論との一致という私説にも通じることになるのである。きわめて、枢要な論点である。) その文化に父権的遊牧民文化が、侵入し、2を形成する。その後、父権的宗教が発生し、ユダヤ教に帰結する。それは、3の文化である。しかし、キリスト教が発生し、1の要素が3に入る。だから、形式的には、2となる。しかしながら、西欧文化においては、3の要素が徹底して、西欧近代文化が形成される。他方、3によって否定された要素である1が西欧近代文化に台頭する。それが、19世紀後半からの、トランス・モダンの潮流である。そして、20世紀60年代以降、ポスト・モダンの思想の勃興があるが、それは、20世紀末において、消滅したと考えられる。それは、せいぜい、2のタイプに達したと考えられる。 トランス・モダンとは、4を志向した文明・文化的大潮流であると考えられるのである。そして、その理論的基盤は、ポスト・モダン理論の欠陥を超克したプラトニック・シナジー理論によって与えられていると考えられる。3である西欧近代文化の物質主義文化を乗り越えた、物質を包摂した霊性の新文化・新文明を予想しているのである。 1からいわば、螺旋的に一回転して、包摂的に回帰するのである。哲学的には、ヘーゲル哲学の正反対の様相にあると言えよう。即ち、ヘーゲル哲学は、同一性によって差異を統合する形式であるが、プラトニック・シナジー理論は、差異によって同一性を統合する形式をもっているのである。弁証法ではなく、言わば、即非法である。 *********************** アメリカ英語について:語尾の抜かれた連音化と連続的同一性:間(ま)と差異共振性 テーマ:差異と同一性 アメリカ英語は日本人の耳には、違和感がある。何かが足りないのである。端的には、なぜ、語尾を端折って連音的に発音するのか。 意味がストレス・アクセントで提示されるのであるが、なにか排除されるものがあるのではないのか。音声的には、当然、語尾なのであるが、なにか心的に排除されるものがあるように思えるのである。日本文化的に言えば、《間》(ま)が排除されているのである。 《間》は、私見では、日本・東洋文化にとって本質的なものである。それこそ、日本・東洋文化の肝である。それは、差異共振性である。一つの音声の差異と次の音声の差異とを共振させるのが、《間》であると思われるのである。 ここで少し飛躍するが、私がバッハの演奏で最高のものと考えるグスタフ・レオンハルトのハープシコード(私は慣れで、チェンバロというより、この語を好む)による『フーガの技法』のことであるが、そこでは、《間》が十分に取られていて、ほとんど、幽玄、わびさびの世界を醸し出しているのである。 即ち、《間》が東洋文化にとって本質なのである。しかし、アメリカ英語の発音に、この《間》が消滅して、音声が連続化されている事態は、差異と差異共振性の喪失を意味していると考えられるのである。あるいは、音声が同一性化されているのである。これが、私がアメリカ英語の音声に感じる違和感の根因であると思われるのである。《間》のない(間抜け?)アメリカ英語、差異、差異共振性のないアメリカ英語、それは、近代合理主義/近代的自我のアメリカ文化と符号するものである。狂気のアメリカである。 *************************** 私は国学を問題視している。これは、一神教の様式をもっているのである。 テーマ:一神教/多神教 私は国学を問題視している。これは、一神教の様式をもっているのである。平田篤胤にはキリスト教の影響があると考えられている。神道を一神教化したと思われる。本来神道は多神教であり、三柱の神々の宗教である。もっとも、一即多と考えることもできる。多一神教である。 儒教や仏教的な思想を否定して、古代日本文化に回帰するということであるが、これは、単純な二元論ではないだろうか。確かに、儒教は父権主義あり、仏教は権威主義となっていただろう。しかし、儒教や仏教の神髄は、神道と通じるものがあるのである。Media Pointが共通すると考えられるのである。太母文化である。 思うに、神道の本質を見ていくと、差異共振性に達するだろう。そうすると、儒教や仏教は、否定されるというよりは、刷新されることになると思われる。あるいは、太母文化に即した、批判的解明が可能になると思うのである。この場合、否定は、二元論であり、一神教的である。 国学 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 曖昧さ回避 この項目では学問の国学について記述しています。律令制で、国ごとに設置された教育機関については国学 (律令制の教育機関) をご覧ください。 国学(こくがく)は、日本 の江戸時代 中期に勃興した学問 である。蘭学 と並び江戸時代を代表する学問の1つである。和学・皇朝学・古学(古道 学)などの別名がある。 それまでの「四書五経 」をはじめとする儒教 の古典や仏典 の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化 ・思想 、精神世界を日本の古典や古代 史のなかに見出していこうとする学問である。 国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎 の古義学や荻生徂徠 の古文辞学の方法から大きな影響を受けている。儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを否定し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。 江戸時代に形骸化した中世 歌学 を批判するかたちで現れた。木下勝俊 ・戸田茂睡 らに始まるこうした批判は、下河辺長流 ・契沖 の『万葉集 』研究に引き継がれた。特に後者の実証主義 的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めた事で高く評価されている。続いて伏見稲荷 の神官であった荷田春満 が神道 や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱えた。一部において矛盾すら含んだ契沖と荷田春満の国学を体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵 である。真淵は儒教的な考えを否定して『万葉集』に古い時代の日本人の精神が含まれていると考えてその研究に生涯を捧げた。 真淵の門人である本居宣長 は『古事記 』を研究して、古い時代の日本人は神と繋がっていたと主張して「もののあはれ 」の文学論を唱える一方で『古事記伝 』を完成させた。 その後宣長門人の平田篤胤 に至って宣長の持つ「古道論」を新たな神道である「復古神道 」に発展させた。彼の思想は江戸時代後期の尊皇攘夷 思想にも影響し、日本固有の文化を求めるため、日本の優越性を主張する国粋主義 や皇国史観 にも影響を与えた。平田篤胤の弟子である経世家 の佐藤信淵 の著作『垂統秘録 』や『混同秘策 』等にはその傾向がよく現れている。 だが、真淵の門人であった村田春海 らのように契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派もあり、その内情は複雑であった。実証主義的な国学は明治期 の小中村清矩 らの手によって近代 以降の日本文学 研究や国語学 、民俗学 の基礎となった。 [編集 ] 主な国学者 * 契沖 o 今井似閑 o 安藤為章 o 海北若沖 * 賀茂真淵 * 本居宣長 * 萩原広道 * 平田篤胤 o 矢野玄道 o 平田鐵胤 o 常世長胤 * 塙保己一 * 富士谷御杖 * 本居大平 * 五十嵐篤好 * 拝郷蓮茵 [編集 ] 関連項目 * 神仏分離 * 復古神道 * 古道 * 和方医学 * 蘭学 * 漢学 * 中国学 [編集 ] 外部リンク (百科事典)「The Kokugaku (Native Studies) School」 - スタンフォード哲学百科事典 にある「国学」についての項目。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6 孔子復権は、中国の太母文化の復興の表われと思われる。
これは、中国の太母文化の復興の表われと思われる。しかし、『論語』、孔子であるところから、父権制に利用されることになる。
私は、いわば、タイムリーながら、数十年前読んだ『論語』を読み直している。簡潔な文体で、解説がないと当然わからないが、読んで惹きつけられる。父権・君主的位階(ヒエラルキー)とその共同体による秩序を説いた思想であるが、基盤には、太母文化があると直感できる。 ニーチェの『悲劇の誕生』で言うと、ディオニュソス(太母文化)を基盤としたアポロ(父権制)の秩序を説いていると言えよう。思うに、孔子の時代とギリシア悲劇等はほぼ同時代である。先に私は、古代ギリシアと古代中国の太母文化基盤とそれを統制した父権文化が共通であると述べた。 思うに、この太母統御的父権文化とは、古代日本でも生じたと思う。縄文時代から飛鳥時代、奈良時代までにおいて、成立したであろう。天皇制とは何かがこれでわかるだろう。 そう、この文化習合であるが、太母統合的父権制と呼ぶのがわかりやすいのではないだろうか。この文化習合が、世界的に生起したと考えられる。古代ギリシア、古代中国、古代日本、古代ローマ、古代インド、古代メソポタミア、古代パレスチナ、等々。 そして、ユダヤ・キリスト教によって、父権主義が強化されて、西洋文明が発生して、世界制覇したのである。そのため、基盤の太母文化は、そのエネルギーが枯渇していき、西洋文明は衰退し、新たに、螺旋回帰的に、新太母文明、即ち、新東洋文明が形成されると考えられる。これは、差異共振主義文明ということである。 参考: 『太母文化と父権文化との主従性:太母文化⇒父権文化⇒新太母文化:ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明』 http://ameblo.jp/renshi/entry-10062274329.html ********************* 孔子 復権 心の豊かさ求め伝統文化に脚光『論語』ベストセラー 2007年12月26日 朝刊 北京の孔子廟内にある国学館で、漢服を着て儒教を学ぶ子どもたち 写真 中国で儒教や古典などの伝統文化復権の動きが強まっている。胡錦濤政権も伝統文化を重視し、孔子の思想を指導理論に取り入れた。経済発展により、人々が心の豊かさを求めるようになったことも背景にある。二十七日から訪中する福田康夫首相も孔子の故郷を訪れ、儒教を通じた日中共通の価値観に触れる。 (北京・鈴木孝昌) ■国学ブーム 「借人物、及時還−!」(物を借りた時には、約束通りに返さなければならない) 北京中心部にある孔子を祭った孔子廟(びょう)。築後七百年の歴史を刻む境内に、儒教の基本「弟子規」を朗読する子どもたちの声が響く。 五年前、孔子廟内に設けられた成賢国学館では、三−十二歳の子ども約六百人が儒教などの国学を学んできた。孔子の弟子と同じように、伝統的衣装である漢服を着て、座卓で講義を受ける。「論語」や「大学」のほか、唐詩や書道、漢方薬、切り絵、京劇も学ぶ。 七歳の劉涵〓君は、孔子が孝の道を説いた「孝経」の多くを暗唱できる。「国学が大好きで、毎晩寝る前に録音を聞いています」。王逸倫君(11)は「孔子は中国人の誇りであり、後世に伝えたい」と話す。 紀捷晶館長は「北京五輪を控え、中国の良い文化を学び、海外からのお客さんに見せたいという市民の意識が強まっている」という。 中国政府は二〇〇六年から始まった第十一次五カ年計画の「文化発展綱要」で、伝統文化教育を重視する方針を打ち出した。学校教育課程にも国学が取り入れられ、「論語」や「三国志」に関する書籍が相次ぎベストセラーに。中秋節や清明節など伝統的節句も国家の祝日となった。来夏の北京五輪開幕式では、中国映画の巨匠・張芸謀監督の指揮のもと、中国武術や古典楽器を総動員した演出が行われる。 ■文革の傷跡 孔子の故郷、山東省曲阜には、儒教の総本山である孔子廟がある。 孔子の没した翌年(紀元前四七八年)に建てられたが、文化大革命の後期、伝統文化や儒教・孔子を批判した「批林批孔」運動では破壊活動の標的となった。暴徒は孔子廟に乱入し、歴代皇帝が参拝時に建てた石碑をたたき割り、重機で引き倒した。現存する石碑の大半はセメントでつなぎ合わせて修復されたもの。「革命無罪」の落書きなど、生々しい文革の傷跡を残す。 曲阜は全人口六十三万人のうち四人に一人が孔姓という一族の町。当時は子孫らが町に引きずり出され、三角帽子を載せられて怒声を浴びた。孔子廟にあった孔子の石像も引き回しにされ、壊された。孔子本人や子孫の墓も掘り返し、棺おけに残っていた子孫の遺体を取り出してさらすなど、徹底的に孔子をおとしめた。 孔子の復権が加速したのは二〇〇二年に胡錦濤政権が発足してから。胡氏が育った江蘇省泰州は屈指の教育先進地で、胡氏も儒教を深く学んで育った。孔子の七十六代目子孫、孔令周さん(66)は「胡主席が提唱する和諧(調和)社会や人間本位は、孔子の唱えた“仁”や“和”の思想に基づく。中央が儒教を重視している表れだ」と指摘する。 孔一族が毎年九月に開いていた孔子の誕生祭は、〇四年から政府主催の国際的行事に格上げされ、曲阜は年間六百万人が訪れる大観光都市になった。孔さんは「つらい過去が終わり、中国は新しい時代に入った」と実感している。 批林批孔 文化大革命の後期、1973−75年に展開された林彪元党副主席と孔子を結びつけて批判する運動。孔子は封建主義の象徴とされ、毛沢東暗殺を謀った林彪は「孔孟の道」に従う反動派だったとして、全国で批判大会が開かれた。四人組が主導し、実際には孔子を利用して周恩来首相の打倒を狙っていた。 ※〓は金へんにりっとう http://www.tokyo-np.co.jp/article/ world/news/CK2007122602075145.html 中国のイデオロギー Ideology in China 孔子が戻ってきた Confucius makes a comeback (2007年5月17日 北京) 立派な賢者を、沈んだままにはできない 「過去に学び、未来を知れ」(温故知新)と孔子は言った。今では彼自身が、学ばれる対象になっている。 孔子は中国で2000年以上にわたって、尊敬――いや、崇拝――された。しかし、共産党も20世紀自体も、この賢者に優しくなかった。近代中国になって、彼が着想した君主国の公務員試験・科挙は廃止され、君主制自体が廃止され、彼がそれを使って書いた古典的中国語も否定された。もっとひどいことに、文化大革命の間、彼と彼の信奉者は、「新中国」を熱望した毛沢東によってあざけられ、屈辱を味わわされた。 今では、北京の人民大学のずけずけモノを言う康暁光教授は、儒教は中国の国家宗教であるべきだ、と論じている。こうした提案が、孔子の復権を公開のものにしている。それはまた、共産主義への熱情がとっくに衰え、当局者や社会批評家が「金銭万能になってしまった」と嘆く国にあって、共産党支配の替わりのイデオロギー的基盤を求める中国内部の闘争のもう1つの徴候である。 孔子の復権は、遅々たるものだった。彼への表立った攻撃は、毛沢東が死去した1976年に終わったが、彼の人気がほんとに上がり始めたのは、やっと今なのだ。政治哲学から個人の道徳までの話題について、孔子の古い考えが、新しく広まりつつある。 http://www.eis-world.com/iza/070519.html 太母文化と父権文化との主従性:太母文化⇒父権文化⇒新太母文化:ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明
検討問題(今回は、同時に、いくつものテーマを論じているという事態になっている。聖徳太子には適わないが。なにか、ポリフォニー的な思考を行なっている感じである。言語学的言うと、シンタグマではなく、パラディグマ的である。垂直的である。)
1)視覚と心の関係について:同一性の感覚・知覚の能動性と、差異の受動性との意志的統合 2)現象とは何か:可視界としての現象界:1の問題とも関係するが、 3)天使、精霊、神々、その他について: 先に、鈴木氏の考えでは、高振動があり、それが、霊や魂等ということになるが、この高振動という考え方を使用すれば、天使等々も説明できよう。 4)心のMedia Pointは、身体とどう結びついているのか:「結ぶ」という言葉・概念は重要である。 5)性愛とは何か:性とは何か:性欲とは何か:性愛と心との関係 6)感覚欲望とは何か 7)(以下は、だいぶ込み入っているというか、錯綜しているので、後で、明快に整理したい。) 『論語』について:思想構造は、父権制・君主制であるが、思うに、二重化されていると思う。即ち、上下ヒエラルキーは父権制・君主制であるが、それとは別に、差異共振性があると思う。ただし、それが、父権制・君主制によって統括されている様態になっていると思える。つまり、父権制という枠組みが第一義的にあり、それに差異共振性が組み込まれている形である。父権制が主であり、差異共振性が副となっている。この形式はある意味で、キリスト教と同じであるが、キリスト教のもつ超共同体性はなく、完全に血縁・父権的共同体主義である。 儒教がこの思想構造をもつなら、組み込まれている差異共振性は、同一性の発達とともに、弱化・劣化するだろう。つまり、形式主義的な父権主義・ヒエラルキー構造が中心・支配的になるだろう。これが、東アジアにおいて、硬直した封建的政治・社会体制を生み出したものではないだろうか。 私の考えでは、差異共振性は母権制である。太母文化である。つまり、古代中国においても、古代ギリシアと似たような太母文化が父権文化に吸収的に統合された事態が生起したように思えるのである。この太母文化を基盤にもちながら、それを支配統合する父権制の形態を理論化して、概念用語を明確にすべきであるが、管見では、見つからないのである。文化人類学・社会学等では、文化習合であるが、それでは、ヒエラルキーを説明していないのである。 これは、実は、ポスト・モダンの形式と同じなのである。同一性主義が差異共振性を内在化しているという形式である。(分かってしまえば、実に簡単なことであるが、人類は、これを数千年間把握できずに、戦争を起こしてきたのである。)この形式自体は、簡単なことだが、適切な概念・用語が見つからないのである。内在的支配、内在的中心化、差異内在的同一性主義、差異内属同一性主義、太母従属父権主義、天主地従主義、太母⇒父権化、・・・。結局、自己認識方程式でいいのかもしれない。結局、差異同一性化である。だから、差異同一性父権文化でいいのかもしれない。 結局、『論語』に感じられる思想様式は差異⇒同一性的父権制、ないしは、差異同一性父権共同体制である。 今、ふと思ったことだが、西洋と東洋で起こったことの決定的違いは、先に述べたように、ユダヤ・キリスト教による同一性中心主義であり、それによって、太母を完全に否定したことであるが、東洋では、太母を基盤としつつも、それを父権主義が統括するような政治社会システムを取ったことである。その結果、西洋においては、西欧近代文化、近代合理主義・近代的自我が生まれ、その帰結がアメリカ合衆国である。しかしながら、東洋においては、硬直した父権制が残って、個・自己・差異の自由の活動が制限されたのは、否めない事実であろう。 西洋文明において、太母文化から切りはされた(分離した)ことで、「自由」な自我の活動が可能になった。しかしながら、太母文化が影(シャドウ)となったのである。【そこで、ユング心理学他のものが生まれたのである。しかし、ユング心理学も折衷の知ではないだろうか。何故なら、太母から分離した自我と太母に基づく自己とを結合するのが個化であるとユングは述べ、それを陰陽的な錬金術のイメージで説明しているが、それは連続性の観念によると考えられるからである。結局、それでは、連続的結合に過ぎず、誤謬であろう。即非・差異共振にまで達しないと、自我(同一性)と自己(差異ないしは差異共振性)とは、統一しないのである。ユング心理学については、後で検討するので、ここで一応留める。p.s. 以下、9で論じることにする。】ついでに言えば、西洋文化は常にこの見えない影に脅かされることになる。ホラーが流行るのもこれによるだろうし、ファンタジーも同様であろう。 問題が複雑なのは、西洋における自由は、ルネサンス的自由とプロテスタント的自由があるからである。前者は、太母性をもった自由であり、後者は当然ながら、太母性を否定した自由である。前者は自我の自由であり、後者は個の自由である。とまれ、両者が混淆しているのが、西洋の自由概念であると思われる。 しかしながら、アメリカの近代合理主義/近代的自我の自由を中心に考えると、それは、現象世界・可視界の自由である。心の自由ではないのである。この点でアメリカ的自由の問題がある。 さて、元の、古代東アジアの差異同一性の父権主義に返ると、そこでは、太母文化が基盤にあった、しかし、そのため、自我=同一性の自由が欠落して、硬直した父権制・専制が生まれたと思われるのである。(もっとも、これは、利己主義を防いでいる。)(p.s. ここの説明は間違っている。太母文化基盤があったが、父権主義が強いために、自我=同一性の自由が欠落したと考えられる。西洋文明は、ユダヤ・キリスト教によって、自我=同一性の自由=プロテスタンティズム自由を獲得したのである。確かに、ユダヤ・キリスト教は父権主義であるが、脱共同体的父権主義であり、自己中心主義である。ロビンソン・クルーソーである。つまり、古代中国の場合は、父権的共同体主義【儒教】であり、西洋の場合は、父権的自己中心主義であった。p.p.s. p.s.の「太母文化基盤があったが、父権主義が強いために、自我=同一性の自由が欠落したと考えられる。」という説明はおかしい。父権的共同体主義が強いために、自己・個・差異が押さえられたと考えられる。共同体主義は、太母的差異共振性から発しているが、それが、父権制によってヒエラルキー化されていて、太母的差異共振から発する自己・個・差異の発展が抑圧されたと考えられるということだと思う。) ここで、理論的に整理して考えよう。私の考えでは、太母文化、つまり、太母子の文化に差異共振性があると見ている。これが基盤にあり、且つ、主導的であれば、同一性は太母文化の枠に留まるはずである。しかしながら、人類史は、そう展開せずに、父権文化を進展させたのである。そのため、太母文化が基盤にあっても、父権文化に従属したものとなったのである(差異同一性父権制)。結局、同一性主義主導の文化、物質主義主導の文化、国家権力主義の文化等となったのであり、好戦的人類となったのである。これは人類史のアイロニーであろう。 私は先のイエス・キリスト問題に対する私の仮説から見て、イエスにおいて、太母文化のMedia Pointが発動している考えた。思うに、イタリア・ルネサンスの自由はイエス・キリストに原型があるのかもしれない。私は、個・自己・差異の原点は太母文化にあると思っている。しかるに、自我・同一性の原点は父権文化にあると考えられる。そして、プロテスタンティズムは、後者を進展させたのである。 問題は、どうして、古代中国において、太母文化が基盤としてあったが、そして、その上に父権制が形成されたが、西洋のように、自由が進展しなかったのかということである。 太母文化こそ、個・自己・差異の源泉であるからである。イエス・キリストは、父権的共同体を破壊し、普遍的共同体の志向を説いたと考えられる。この点が孔子とは決定的に異なるのである。もし、孔子が老子のようなコスモス・宇宙的発想をしていたら、事態はたいへん異なったことだろう。イエス・キリストとは、孔子に老子を掛けたような存在であろう。そう、孔子は老子的な真に太母文化を弱化させてしまったと思えるのである。しかしながら、朱子学は、老子的な太極的宇宙論を取り入れたではないか。 問題は実に難しいものとなっている。結局、やはり、イエス・キリストの意味に関係するのである。そして、父の意義に関係すると思う。結局、超越性の問題である。私は父は超越的同一性であると考えた。これは、自然を超越した同一性である。ここがポイントであろう。東アジアにおいては、常に自然が基盤である。超自然という発想は基本的にはないだろう。イエス・キリストにおいて、超自然的な差異共振性が発動したということでないだろうか。ここにおいて、自己が自然の絆から解放されたのではないだろうか。しかし、これは、悪魔的な自由でもあろう。 今の私の知識では、推測でしかないが、直感では、やはり、孔子のもつ父権的同一性主義がその後の中国文化を規定したように思えるのである。これは、当然、東アジア全体に関係することである。老子的な太極コスモスは朱子学に取り入れられたが、それでも、孔子的父権的同一性主義が強固であったように思えるのである。 この父権的ヒエラルキーはどこから来ているのだろうか。直感では、インド・ヨーロッパ語族と類似する、父権的遊牧民族文化から来ているのではないだろうか。中国はたびたび、遊牧民族によって支配されてきたのである。いまのところは、そのように仮定しよう。つまり、中国の太母文化は、父権的遊牧民文化によって、利用されつつ、おそらく苛烈・酷烈に抑圧されてきたということである。言い換えると、老子的文化が孔子的文化に抑圧されてきたということである。 これはある意味で西洋文化と同じである。しかしながら、西洋文化においては、イタリア・ルネサンスのように太母文化が爆発して、個・自己・差異の文化が誕生して、いわば、プロト・モダンを形成したのである。これは、南欧の地中海太母文化が基盤である。女神文化である。D.H.ロレンスの発想から言うと、イタリア先住民のエトルリア文化が基盤である。 では、中国の太母文化(風水はこの一部である)はどうして、復興しなかったのか、である。欧州のようにルネサンスを迎えなかったのかである。思うに、これは、西洋による植民地主義が一つの原因ではないだろうか。しかしながら、やはり、精神文化的には、老子的文化の孔子的文化による抑圧が根因のように思えるのである。父権的遊牧民文化の力ではないのか。 とまれ、これから、老子的文化がさらに興隆するはずである。つまり、中国の太母文化が復興するはずである。そして、これがトランス西洋文明の基盤となるはずである。西洋文明はユダヤ・キリスト教の可能性をもう尽くしてしまい、心的エネルギーが枯渇していると考えられる。 8)美と醜について:外見美と外見醜と内面美と内面醜 9)ユング心理学の解明:自我と自己と個の問題: 上の7の一部で、ユング心理学に言及し、とても興味深い問題をもっているので、ここで考察を行ないたい。 10)7において、言及した人類史のアイロニーについて:何故、太母文化が進展しないで、父権文化が発展して、同一性・唯物論・国家権力主義的世界が形成されたのか。 ここでは、簡単に言うに留めるが、結局、基本・基盤・マトリックスは、Media Point、即ち、太母文化なのである。父権文化とは、実は、太母文化の一種の変容のように考えられるのである。これは生物学的に、オスはメスの変容と言えるのと同じだと思う。 即ち、Media Pointが同一性へと転換する事態である。太母文化は、端的には、差異共振文化である。超越性と同一性が平衡・バランスをもっていた文化である。エデンの園、エリジウム(ベートーヴェンの第9に出てくる)、女人の島(ケルト神話)、常世等は、その神話的名残と考えられる。シュメール文化も太母文化であり、また、クレタ文明もそうである。 私の想像では、太母文化がそのまま進展すれば、差異共振文化が発達して、平和の文化が継続したはずである。個・自己・差異も発展したはずである。何故、父権化する必要があったのか。 簡単に言えば、自我・同一性の形成のために父権文化が必要であったということだと思う。あるいは、物質文化の必要である。太母文化は、超越性と結びついているので、純粋な物質文化は発生しなかっただろう。 やはり、自我・同一性・物質の発達のためには、父権文化、とりわけ、ユダヤ・キリスト教文化が必要であったということになるだろう。言い換えると、太母の同一性を特化したのが、父権文化である。太極で言えば、陰陽において、陽を特化したのが、父権文化である。それは陰を否定しているのである。 では、自由はどうなのか。私は太母文化にこそ、真の自由の基盤があると考えている。これは、個・自己・差異の自由である。思うに、太母文化の様態では、差異と同一性が未分化的ではないのか。確かに、差異があるし、同一性もあるが、それは、陰陽の如くである。差異と同一性の太極である。だから、純粋な自我はない。いったい、「わたし」、ichとは何か。 ここでも直感で言おう。同一性の意識と同時に差異の意識が発生するのである。少なくとも、これが私の心的経験である。同一性の意識とは自我である。そして、差異の意識とは自己であり、両者を同時に指して、個であると思われるのである。 この問題は、9のユング心理学の解明の問題に通じるが、ここで、解明しよう。だから、やはり、太母文化においては、同一性と差異とは未分化であり、純粋な同一性や差異は形成されないのだろう。 やはり、父権文化によって、とりわけ、ユダヤ・キリスト教西洋文化によって、特化的に同一性が肥大化して、そのために、差異が純粋化されて直感されるようになったのではないのか。言い換えると、西欧近代主義によってこそ、差異が意識されることとなったのではないのか。それが、ポスト・モダンである。パラドクシカルであるが、事実であろう。易で言えば、正に、陽極まれば、陰に転ずである。 理論的には、どうやら、これで筋が通るようである。言うならば、太母が一端、父になって、そして、その後、太母であることを自覚するということだろうか。太母の自己意識の形成である。梵我一如である。プラトニック・シナジー理論から言えば、Media Pointの自己意識化である。あるいは、正に、螺旋的回帰である。 ところで、ここで西洋文明について考えよう、というか、ユング心理学の問題を考えて、終わりにしたい。ユダヤ・キリスト教は父権中心主義である。即ち、太母を殺害した文化である。しかしながら、イエス・キリストにおいては、否定された太母文化が取り込まれている。絶対矛盾がイエス・キリストに生起しているが、キリスト教会は、父権中心主義的にイエス・キリストをいわば、利用しているのである。民衆支配するために、イエス・キリストを利用しているのである。(思うに、民主主義はイエス・キリストから発しているだろう。だから、本源は太母文化である。これから、太母文化が復活するが、そうすると、民主主義は淘汰されるだろう。差異共振主義が取って代わると考えられる。) 問題は、太母を殺した父権的同一性中心主義(ロゴス中心主義)、近代合理主義/近代的自我であるが、これは、どうなるのか、である。ユング心理学は、これを自我として、これに無意識の自己を統合させて個を形成することを眼目にした。ユングは、錬金術の陰陽のイメージを用いて、その結合を説明していた。しかしながら、私の直感では、それは、結合しないのである。連続性のままであり、分裂したままである。 何故かと言えば、端的に、自我は自己を否定するからであり、その絶対矛盾が、陰陽の考えでは、結合できないと考えられるからである。いかに、自己の世界に沈潜しても、元型的世界に沈潜しても、それは、陰の世界であり、それだけでは、陽と結合しえないのである。(因に、元型とは、Media Pointにおける超越的振動の形相であろう。)端的には、両者を即非様相にしないと「結合」は不可能なのである。 では、西欧近代的自我の運命はどうだろうか。それは、今言ったことが当てはまるのである。単に神秘主義やオカルト主義では、分裂したままである。精神世界主義は、それだけでは、分裂したままである。統合失調症である。ここで東洋身体的思想が決定的に重要になるだろう。つまり、身体という陰と頭脳という陽を調和させる心的技術をもっているのである。禅はそのようなものであり、ヨガもそのようなものである。また、気功もそのようなものである。 直感では、《心》を形成するのである。ユングは東洋思想を活用したが、この第三の《心》までは達せずに、二元論に留まったと思えるのである。対極的二元論までは行ったが、太極には達しなかったと思うのである。 結局、西洋のichは分裂しているので、新しい太母文化、差異共振文化には、達しないように思えるのである。つまり、西洋はユダヤ・キリスト教文化を超克しない限り、新太母文化・差異共振文化には、到達できないということである。だから、必然的に、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明になるのである。
2007年12月25日(Tue)▲ページの先頭へ
二人のイエスではなく、一人のイエス・キリストの場合:仮説2:一人のイエスにおける父と太母の両極性
もし、二人のイエスではなく、一人のイエスの場合は(、通念であるが)、私の基本的なアイデアはどうなるだろうか。
基本的なアイデアとは、これまでの考察からわかるように、同一性主義の極と差異共振主義の極という両極性である。先には、それぞれの極を、異なる人間であるイエスに振り分けた形になったのであるが、理論的に、同一人物に見ることは可能である。だから、基本的なアイデア自体は変化ないが、視線が変わることになるのである。 一人のイエスに同一性主義の極(父の子)と差異共振主義の極(太母の子)を見た場合、そのダイナミクスの発生をどう考えたらいいだろうか。思うに、そのイエスは、ヤハウェ神学の影響下にあり、同一性主義を教えを受けていた(おそらく、エッセネ派の「義の教師」の下で学んだのではないだろうか。『死海文書』から)。言い換えると、超越的同一性主義の教義の下にあった。 しかるに、イエスは、当時のヘレニズムの諸宗教混淆状況にあって、レヴァント(東地中海)やメソポタミアの太母の宗教(大女神の宗教)、(大乗)仏教、ゾロアスター教、古代ギリシアの秘儀、グノーシス派、ミトラス教、等々の多様な宗教知を学んでいたとしよう。とは言え、後者は、共通の思想を含んでいたと言えるのである。即ち、それは、端的に言えば、Media Pointの思想である。あるいは、太母のコスモスの思想と言ってもいいかもしれない。顕示的にそうではなくても、その思想を内在か潜在させていたと考えられるのである。 だから、イエスは、ヘレニズム的イエスであるということである。当時は西洋は発展途上(ローマ帝国)あるいは未開であったから、東洋の諸宗混淆状態のイエスということになる。そして、Media Pointの思想ないしは太母のコスモスの思想をもっていたイエスは、当然、コスモス超越エネルギーと共鳴共振しやすいのである。 問題は、ヤハウェ神学の下にあったイエスの心(霊)が、Cosmic Media Pointが啓いて発出したコスモス超越エネルギー(神霊エネルギー)と即非共振したときどういう心的様態になっただろうかということである。明らかに、絶対矛盾する要素が併存する様態となるのである。おそらく、激烈な亀裂的な衝動・爆発がイエスの心(霊)に発生したはずである。パトス、パッション(パッションには、受難の意味がある)である。当然、両極に分裂するはずである。ヤハウェの極では、父の子であるという意識が発生し、太母の極では、太母の子であるという意識が勃発したはずである。これが、新約聖書に認識できるイエスの分裂性の起因ではないだろうか。(p.s. この説明では、おかしい。何故なら、イエスは太母の子という意識はなかったからである。だから、訂正して、太母の子というのは、父の子という意識の下に潜在していた。つまり、無意識であったとすればいいのである。イエスの無意識において、太母の子というエネルギー作動していたとすればいいのである。これが、隣人愛や罪の赦しの思想になって表われたと考えられるのである。尚、贖罪の思想であるが、それは、父の子の意識であると言えよう。) これで、一人のイエスの仮説を説明したことなるが、後の枢要な問題はイエスが説いた神の国、そして、格別殊更に説いた聖霊とは何かである。 順序を逆にして、聖霊から説明を試みよう。これは、ある意味で簡単に説明できる。Media Pointの極、太母の極をもっているので、差異共振性があり、この差異共振性によって喚起されるコスモス的超越エネルギーが聖霊であると言えよう。これはおそらく、風や天使で表現されるだろう(p.s. 鳳凰や不死鳥などは、やはり、聖霊の表現の一つではないだろうか。天女もそうかもしれない。結局、天使もそうであろう。多様な聖霊・精霊である。後で、大地の精霊について検討したい。)。つまり、正確に言えば、コスモス的超越エネルギーの伝達される様態を聖霊と呼んだものと思われる。キリスト教では、神霊を鳩で表現するが、鳩も聖霊であろう。ついでに、東方キリスト教でいう神のエネルゲイアであるが、もう自明であるが、コスモス的超越エネルギー、Cosmic Media Pointエネルギーのことと考えられる。東方キリスト教、即ち、ギリシア正教等は、太母的コスモスを西方より強く残していたので、このような思想がキリスト教に入ったと考えられる。 さて、神の国であるが、これももう解明は容易ではないだろうか。それは、端的には、心のMedia Pointのことである。これは、同時に、Cosmos Media Pointであるし、同時に、いわば、Supercosmos Media Pointでもある。高次元である。超越界、神霊界、永遠界である。仏国土である。心の高天ケ原である。 シュタイナーのキリスト論と太母の子の一人イエス:ユダヤ・キリスト教の死滅と本源的太母子神道の復活
『イエスを語る』(シュタイナー・コレクション)を拾い読みしたが、私の太母の息子の一人のイエスの思想と比較すると、重要な相違が浮かぶなどして実に興味深い。(私の二人のイエスの仮説は、シュタイナーの本から来ているのである。)今は、簡単に問題点をあげると、それは、《自我》の問題である。 今、日本語で自我と訳されている原語(ドイツ語)は何かと思って検索したら、なんとichであった。これを自我と訳していたのである! これは、完全に誤訳である。少なくとも、自己ないしは個、あるいは、ポスト・モダン風に差異と訳す必要があるのである。 日本語に訳されたシュタイナーの文献は、この点で完全な誤りに陥っている。これは、犯罪的な、悪魔的な誤訳である。 私は日本語の翻訳や英訳を通して、シュタイナーを読んだが、邦訳にある自我に疑問をもってきて、シュタイナーの霊学に疑問をもったものである。(思えば、フロイトの精神分析のichも自我と訳しているだろう。これも、誤りだろう。そう、これにも、違和感を覚えていた、確かに。) しかし、今、『イエスを語る』を読み、自我が出てきて、どうも疑問に思ったのである。キリストが自我に関係するという点が、おかしいと思ったのである。ichと自我は全く異なる概念である。 キリストがichに関わるというなら、プラトニック・シナジー理論からも納得できるのである。何故なら、自己認識方程式は、ichの方程式であるからである。そして、ichと他者との即非関係を数理化したものであり、これは、太母の子のイエスを表すと考えられるのであるから。というのは、端的に、太母の子のイエス【異教的キリスト;もっとも、今現在では、太母の子たち、と複数形で考えたい。この複数形はエローヒーム(神の複数)と関係するのではないだろうか。神々である。ここから、ヤハウェがいったい何であるかが示唆されるだろう。この点に関しては、後で考察したい。】は、根元的なich(+i)と他者 (-i)との差異共振様態(+i)*(-i)であると考えられるからである。【ここで述べた「根元的なich(+i)と他者(-i)との差異共振様態(+ i)*(-i)」であるが、これは、ウパニシャッド哲学の梵我一如(ぼんがいちにょ)の梵、すなわち、ブラフマンに当たるだろう。そして、この我は、正に、太母の子に相当するだろう。つまり、ichである。そう考えると、自己認識方程式は、ウパニシャッド哲学の核心をも表わしていることになるだろう。思うに、根元的なichと他者とは、大ichと大他者と表わすこともできよう。巨視的に視ると、ウパニシャッド哲学もヒンドゥー教と同質であり、いわば、太母の哲学と言えよう。そう、太母子の哲学と言ってもいいのではないだろうか。当然、プラトニック・シナジー理論も太母子の哲学理論である。】 さて、以上のように、シュタイナーの霊学(人知学)におけるichを、自己・個・差異と読み直して、シュタイナーのキリスト論と私の異教的キリスト教説を比較するとどうだろうか。 シュタイナーはヤハウェをおそらくich原則と説いているはずである。何故なら、日本語訳では、自我原則になっているからである。そして、キリストとは、このich原則を意味して、それが、イエスに「降臨」したことになる。愚説の異教的キリスト教論では、Cosmic Media Pointと共振した太母の子としてのイエスが存するが、それは、当然、ich原則をもっているし、また、当然、差異共振法理を「帯電」しているのである。だから、シュタイナーのキリスト論と愚説の異教的キリスト教論は共通すると言えよう。 しかしながら、シュタイナーのキリスト論、霊学的キリスト論は、父を肯定していることで、愚説とは異なるのである。問題はシュタイナーがヤハウェを ich原則と考えていることである。私見では、ヤハウェは、ich原則ではなく、自我原則、いわば、ego原則である。ヤハウェは、自我原則だからこそ、異教を暴力的に排除したと考えられるのである。イスラエルの民衆が、偶像崇拝(バール神崇拝、アシェラ崇拝、これは、明らかに、異教であり、太母信仰である。)しているのを憎悪したのである。だから、ここで、シュタイナーは根本的な誤謬を犯していると考えられるのである。ヤハウェは自我原則であり、ich 原則(自己・個・差異原則)ではないのである。 ich原則は太母から発するのであり、ヤハウェからは自我原則が発するのである。この混同のために、シュタイナーのキリスト論は、私は批判するユダヤ・キリスト教的残滓を留めることになったのである。そう、言い換えると、ヤハウェの自我原則とは、同一性原則である。これが、イエス・キリストに侵入しているのである。そして、これが、現代の途轍も無い諸々の災厄の根源なのである。 ということで、ichの視点から、シュタイナーのキリスト論を批判して、愚説の異教的キリスト教論を説くことになった。思うに、キリストという名称を避けるべきである。異教的太母子教である。また、異教という名称も廃止すべきである。原教、本教、真教、根源教、本源教である。本源的太母子教である。 p.s. さらに、教も廃止して、道とすべきかもしれない。本源的太母子道である。それとも、本源的太母子法はどうだろうか。 参考: アントロポゾフィー指導原理 (11) 11. 《私》(自我)として統合される自己意識は、意識のなかから浮かび上がってくる。この意識が発生するのは、物質体とエーテル体の諸力によって、物質体とエーテル体自身が解体(分解)され、精神的なものが人間のなかに入り込むときである。物質体とエーテル体の解体のなかで、意識生活が展開されるための土台がつくられるのである。しかし、生体そのものが破壊されないためには、この物質体とエーテル体の解体の後に、その再構築が続かなければならない。それゆえ、意識体験のために解体作用が生じたなら、まさにそこで解体されたものを再び構築しなければならない。この構築作用を知覚するとき、そこに自己意識が体験される。人は、内的直観のなかで、この過程を跡づけることができる。単に意識されたにすぎないものに対して、自分自身の内から、その模像をつくりだす。すると、それによって意識が自己意識へ移行するのを感じることができる。単に意識されたにすぎないものは、その像を、生体のなかの、いわば解体作用によって空虚になった部分に持っている。その空虚さが、内面から再び満たされたとき、その意識は自己意識のなかへ引き込まれるのである。この「満たす」能力をもった本性が 《私》(自我)として体験される。(訳・入間カイ) 11. Das Selbstbewußtsein, das im «Ich» sich zusammenfaßt, steigt aus dem Bewußtsein auf. Dieses entsteht, wenn das Geistige in den Menschen dadurch eintritt, daß die Kräfte des physischen und des ätherischen Leibes diese abbauen. Im Abbau dieser Leiber wird der Boden geschaffen, auf dem das Bewußtsein sein Leben entfaltet. Dem Abbau muß aber, wenn die Organisation nicht zerstört werden soll, ein Wiederaufbau folgen. So wird, wenn für ein Erleben des Bewußtseins ein Abbau erfolgt ist, genau das Abgebaute wieder aufgebaut werden. In der Wahrnehmung dieses Aufbaues liegt das Erleben des Selbstbewußtseins. Man kann in innerer Anschauung diesen Vorgang verfolgen. Man kann empfinden, wie das Bewußte in das Selbstbewußte dadurch übergeführt wird, daß man aus sich ein Nachbild des bloß Bewußten schafft. Das bloß Bewußte hat sein Bild in dem durch den Abbau gewissermaßen leer gewordenen des Organismus. Es ist in das Selbstbewußtsein eingezogen, wenn die Leerheit von innen wieder erfüllt worden ist. Das Wesenhafte, das zu dieser Erfüllung fähig ist, wird als «Ich» erlebt. (Rudolf Steiner) http://blog.goo.ne.jp/iruma-kai/m/200709 入間カイのアントロポゾフィー研究所 参照1: アシェラ Asherat Ašerat,Asherat,Ashrah,Aţrt,Ba'alat,アシェラ,アシェラト,アシェラ=ヤム,アシラ,アシラト,バアラト 地域 イラク・メソポタミア 伝承 フェニキア神話 概要 フェニキアの大地母神。エルの妻,バアルの母。 参考文献(書籍) 1. 健部伸明 『幻想世界の住人たち II』 (新紀元社, 1989) - p. 252 2. 山北篤 『西洋神名事典』 (新紀元社, 1999) - p. 19,271,273 関連レコード 1. エル (イラク・メソポタミア) フェニキアの天空神,至高神。アシェラの夫.. 2. バアル (イラク・メソポタミア) フェニキアの主神。「主」。エルとアシェ.. http://myrmecoleon.sytes.net/iib/view/ASR002.html 西洋神名事典 参照2: バール神 1969(昭和44)年6月12日読売新聞に、天竜川中流域の静岡県水窪町で、紀元前600年頃と推定される、文字が刻まれた石(水窪石)が発見されたと報じられた。解読の結果「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と書かれていることがわかった。 バルーツとは、フェニキア民族の根拠地・シリア地方の自然神バールの女性形同一神である。フェニキアという名は民族の守護神・フェニックス(不死鳥)に由来するのだが、ガシアンは鳥=主神という意味である。 同様の文字は、アケメネス朝ペルシャの円筒印章やパキスタン岩絵、インド洞窟画、中国岳神図、朝鮮石壁文字、さらには北米東海岸・ニューハンプシャー州ミステリーヒル碑文からも発見されていて、当時のフェニキア人の足跡が偲ばれる。 フェニキア人はBC1500年頃、アルファベットを実用化した事で知られている。ユダヤ人や有色アジア人種と同じセム族で、自らはカナン人と称していた。カナンとは、東地中海のシリア・レバノン・イスラエル北部の海岸地帯を指す。 彼らは海の遊牧民と言われる海洋交易民族で、トルコのビザンチオン(イスタンブール)、ロードス島、キプロス島、シチリア島、クレタ島、ギリシャのアテネやスパルタ、北アフリカ・カルタゴなど、地中海全域に根拠地を建設し、スーダンの金やレバノン杉などを交易していた。 外洋航海の技術や知識は、クレタ流と言われる。BC2000〜1700年頃に栄えたクレタ文明のミノア人も、優れた海洋民族だった。ギリシャの歴史家・ヘロドトスは、フェニキア人が紅海を発して南の海を航行し、3年目にヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を回って再びエジプトに帰ってきたと、アフリカ大陸周航の事実を記している。 またフェニキア人は、当時スペインやフランスに居住していたケルト人と、鉱山開発や貿易を通じて協力関係にあった。ケルト人は、ドナウ・ライン・セーヌ・ロワール川などの河川を利用した交易集団でもあった。フェニキア船団は、ケルト人やユダヤ人、エジプト人やギリシャ人などが混在する多民族混成旅団だった。 しかし彼らには共通の信仰があった。セム語で「主」を意味する牛の神バールである。クレタのミノッソス、エジプトのイシスも牡牛に象徴される。ユダヤ王ソロモンの玉座には、黄金の仔牛アモンが刻まれ、ゾロアス |