創世記の水と神霊について:東洋文化・太母文化の変異点としてのヤハウェ神学:新世界宗教へ






2008年01月03日(Thu)
創世記の水と神霊について:東洋文化・太母文化の変異点としてのヤハウェ神学:新世界宗教へ
水をMedia Pointとすると、神霊とは、正に、超越的同一性であり、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の⇒ではないのか。先に私は+iを神霊と考えたが、確かに、そう考えていいのだが、神霊は物質現象を生み出す力(創造神)と考えれば、⇒である。
 問題は、この神霊・ヤハウェが、左辺を隠蔽してしまうことである。端的に言えば、左辺は多神教(三つ巴)ということだろう。推察では、エローヒーム(神の複数形)が、左辺であり、それ(即ち、エローヒーム神学:多神教神学)をヤハウェ神学(一神教神学)が簒奪することになったのではないのか。
 とまれ、創世記の水をMedia Pointと仮説して考察を続けると、東洋文化、とりわけ、太母文化においては、Media Pointからの生成が確認されるのである。自然(自ずから成る)である。しかし、創世記においては、「光あれ」という神霊の意志・言語行為がポイントである。自然ではなく、意志である。これが、父権神話・宗教の特徴である。この神霊の意志をどう考えるのかである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1 で考えると、上述したように、⇒になるのだろう。
 そうならば、東洋文化・太母文化の自然・生成はどう考えたらいいのだろうか。それは、上述から自明なように、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を認識・意識していると考えられる。つまり、自然の創造する力(⇒)を、左辺(太極や三つ巴と見ていいだろう)に基づくもの、即ち、生成消滅するものと認識しているのである。自然(じねん)である。
 それに対して、ヤハウェ神学では、神霊の意志が創造する力なのである。キリスト教神学では、無からの創造と言うが、正確には、無ではなく、水からの創造であろう。水はMedia Pointであり、東洋文化では、自然(じねん)である。
 この相違をどう考えたらいいのだろうか。これは、既に考察済みである。即ち、原点は、Media Pointであり、太極であり、陽への志向性が極大化したときが、ヤハウェ神学が発生すると考えられるのである。⇒ないしは、⇒+1である。
 そう、ヤハウェ神学とは、東洋文化・太母文化の変態・特異点と考えられる。母胎は東洋文化・太母文化である。しかし、おそらく、陽極への志向性によって、1/4回転によって、ヤハウェ神学が生まれたのである。
 私は不連続的差異論の形成時に、裏返しということを何度も述べたが、東洋文化・太母文化の裏返しとしてのヤハウェ神学を考えることができるだろう。このとき、自然(じねん)ではなく、神霊の意志となるのである。そのとき、Media Pointを否定して、無となし、そして、無からの創造という観念が生まれるのだろう。ということで、繰り返すが、ヤハウェ神学とは、東洋文化・太母文化の一変異点であるということである。そして、それは一種癌細胞に似て、自己破壊的なのである。母体である自然を食い尽くすのである。
 とまれ、ヤハウェ神学において、自然(じねん)がいわば自己否定されて、意志的創造が中心化されたのである。そして、これが、ユダヤ・キリスト教西洋文明の土台となったのである。それは、自然に対する人間の意志の肯定である。(その点は、見事に、創世記に書かれている。) 
 これでヤハウェ神学と東洋文化・太母文化の相違について、後者を基盤として解明できたとしよう。そう、繰り返すが、ヤハウェ神学を東洋文化・太母文化の特異点・変異点として見るのが明快である。
 そのように見ると、Media Point=太極の回転から、ヤハウェの発現から、イエスの出現、そして、イスラム教の出現は、論理・必然的に説明できるだろう。そして、新しい聖霊の宗教の発現も説明できるだろう。これが、私の唱える父権統合型新太母文化・新東洋文明である新世界宗教ということになると考えられるのである。
 そして、今日、陽極大化を越えて、陰=差異への志向性が発生して、Media Point=太極へと回帰しつつあると思われるのである。トランス・モダンへの相転移である。
 私はこれまで、ユダヤ・キリスト教を徹底的に否定してきたが、以上の視点に拠るならば、ユダヤ・キリスト教は、東洋文化・太母文化すなわちMedia Point文化の一変異点であり、それに包摂されることができるのである。つまり、特異点ではあるが、畢竟、東洋文化・太母文化・Media Point文化の一局面・一文化期である(あった)ということである。だから、否定というよりは、批判的視点から、包摂することが正しいということになるだろう。だから、新たな世界宗教とは、正確に、万教帰一となるのである。それは、新太母教である。思うに、詩人ヘルダーリンが、キリスト教と異教との和解を歌っていたが、それは、正に、天才的に、Media Pointからの発想である。
 最後に、創世記の謎の「天の上の水」について触れると、水をMedia Point=自然とすると、天は、二元論における天であるから、神霊=ヤハウェと関係すると考えられるので、そして、「天の下の水」が通常の海であると考えられることから見ると、「天の上の水」とは、ヤハウェ神学にとっては不要となったMedia Point=太極=自然=太母を意味していると言えよう。だから、創世記では、その後、その言及が消えていると考えられるのである。古事記で見ると、捨てられたヒルコにある意味で似たものではないだろうか。もっとも、ヒルコは、ユダヤ神話では、アダムの最初の妻リリスと関係するだろう。

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