太母文化と父権文化との主従性:太母文化⇒父権文化⇒新太母文化:ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明






2007年12月27日(Thu)
太母文化と父権文化との主従性:太母文化⇒父権文化⇒新太母文化:ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明
検討問題(今回は、同時に、いくつものテーマを論じているという事態になっている。聖徳太子には適わないが。なにか、ポリフォニー的な思考を行なっている感じである。言語学的言うと、シンタグマではなく、パラディグマ的である。垂直的である。)

1)視覚と心の関係について:同一性の感覚・知覚の能動性と、差異の受動性との意志的統合

2)現象とは何か:可視界としての現象界:1の問題とも関係するが、

3)天使、精霊、神々、その他について:
先に、鈴木氏の考えでは、高振動があり、それが、霊や魂等ということになるが、この高振動という考え方を使用すれば、天使等々も説明できよう。

4)心のMedia Pointは、身体とどう結びついているのか:「結ぶ」という言葉・概念は重要である。

5)性愛とは何か:性とは何か:性欲とは何か:性愛と心との関係

6)感覚欲望とは何か

7)(以下は、だいぶ込み入っているというか、錯綜しているので、後で、明快に整理したい。)

『論語』について:思想構造は、父権制・君主制であるが、思うに、二重化されていると思う。即ち、上下ヒエラルキーは父権制・君主制であるが、それとは別に、差異共振性があると思う。ただし、それが、父権制・君主制によって統括されている様態になっていると思える。つまり、父権制という枠組みが第一義的にあり、それに差異共振性が組み込まれている形である。父権制が主であり、差異共振性が副となっている。この形式はある意味で、キリスト教と同じであるが、キリスト教のもつ超共同体性はなく、完全に血縁・父権的共同体主義である。
 儒教がこの思想構造をもつなら、組み込まれている差異共振性は、同一性の発達とともに、弱化・劣化するだろう。つまり、形式主義的な父権主義・ヒエラルキー構造が中心・支配的になるだろう。これが、東アジアにおいて、硬直した封建的政治・社会体制を生み出したものではないだろうか。
 私の考えでは、差異共振性は母権制である。太母文化である。つまり、古代中国においても、古代ギリシアと似たような太母文化が父権文化に吸収的に統合された事態が生起したように思えるのである。この太母文化を基盤にもちながら、それを支配統合する父権制の形態を理論化して、概念用語を明確にすべきであるが、管見では、見つからないのである。文化人類学・社会学等では、文化習合であるが、それでは、ヒエラルキーを説明していないのである。
 これは、実は、ポスト・モダンの形式と同じなのである。同一性主義が差異共振性を内在化しているという形式である。(分かってしまえば、実に簡単なことであるが、人類は、これを数千年間把握できずに、戦争を起こしてきたのである。)この形式自体は、簡単なことだが、適切な概念・用語が見つからないのである。内在的支配、内在的中心化、差異内在的同一性主義、差異内属同一性主義、太母従属父権主義、天主地従主義、太母⇒父権化、・・・。結局、自己認識方程式でいいのかもしれない。結局、差異同一性化である。だから、差異同一性父権文化でいいのかもしれない。
 結局、『論語』に感じられる思想様式は差異⇒同一性的父権制、ないしは、差異同一性父権共同体制である。
 今、ふと思ったことだが、西洋と東洋で起こったことの決定的違いは、先に述べたように、ユダヤ・キリスト教による同一性中心主義であり、それによって、太母を完全に否定したことであるが、東洋では、太母を基盤としつつも、それを父権主義が統括するような政治社会システムを取ったことである。その結果、西洋においては、西欧近代文化、近代合理主義・近代的自我が生まれ、その帰結がアメリカ合衆国である。しかしながら、東洋においては、硬直した父権制が残って、個・自己・差異の自由の活動が制限されたのは、否めない事実であろう。
 西洋文明において、太母文化から切りはされた(分離した)ことで、「自由」な自我の活動が可能になった。しかしながら、太母文化が影(シャドウ)となったのである。【そこで、ユング心理学他のものが生まれたのである。しかし、ユング心理学も折衷の知ではないだろうか。何故なら、太母から分離した自我と太母に基づく自己とを結合するのが個化であるとユングは述べ、それを陰陽的な錬金術のイメージで説明しているが、それは連続性の観念によると考えられるからである。結局、それでは、連続的結合に過ぎず、誤謬であろう。即非・差異共振にまで達しないと、自我(同一性)と自己(差異ないしは差異共振性)とは、統一しないのである。ユング心理学については、後で検討するので、ここで一応留める。p.s. 以下、9で論じることにする。】ついでに言えば、西洋文化は常にこの見えない影に脅かされることになる。ホラーが流行るのもこれによるだろうし、ファンタジーも同様であろう。
 問題が複雑なのは、西洋における自由は、ルネサンス的自由とプロテスタント的自由があるからである。前者は、太母性をもった自由であり、後者は当然ながら、太母性を否定した自由である。前者は自我の自由であり、後者は個の自由である。とまれ、両者が混淆しているのが、西洋の自由概念であると思われる。
 しかしながら、アメリカの近代合理主義/近代的自我の自由を中心に考えると、それは、現象世界・可視界の自由である。心の自由ではないのである。この点でアメリカ的自由の問題がある。
 さて、元の、古代東アジアの差異同一性の父権主義に返ると、そこでは、太母文化が基盤にあった、しかし、そのため、自我=同一性の自由が欠落して、硬直した父権制・専制が生まれたと思われるのである。(もっとも、これは、利己主義を防いでいる。)(p.s.  ここの説明は間違っている。太母文化基盤があったが、父権主義が強いために、自我=同一性の自由が欠落したと考えられる。西洋文明は、ユダヤ・キリスト教によって、自我=同一性の自由=プロテスタンティズム自由を獲得したのである。確かに、ユダヤ・キリスト教は父権主義であるが、脱共同体的父権主義であり、自己中心主義である。ロビンソン・クルーソーである。つまり、古代中国の場合は、父権的共同体主義【儒教】であり、西洋の場合は、父権的自己中心主義であった。p.p.s. p.s.の「太母文化基盤があったが、父権主義が強いために、自我=同一性の自由が欠落したと考えられる。」という説明はおかしい。父権的共同体主義が強いために、自己・個・差異が押さえられたと考えられる。共同体主義は、太母的差異共振性から発しているが、それが、父権制によってヒエラルキー化されていて、太母的差異共振から発する自己・個・差異の発展が抑圧されたと考えられるということだと思う。)
 ここで、理論的に整理して考えよう。私の考えでは、太母文化、つまり、太母子の文化に差異共振性があると見ている。これが基盤にあり、且つ、主導的であれば、同一性は太母文化の枠に留まるはずである。しかしながら、人類史は、そう展開せずに、父権文化を進展させたのである。そのため、太母文化が基盤にあっても、父権文化に従属したものとなったのである(差異同一性父権制)。結局、同一性主義主導の文化、物質主義主導の文化、国家権力主義の文化等となったのであり、好戦的人類となったのである。これは人類史のアイロニーであろう。
 私は先のイエス・キリスト問題に対する私の仮説から見て、イエスにおいて、太母文化のMedia Pointが発動している考えた。思うに、イタリア・ルネサンスの自由はイエス・キリストに原型があるのかもしれない。私は、個・自己・差異の原点は太母文化にあると思っている。しかるに、自我・同一性の原点は父権文化にあると考えられる。そして、プロテスタンティズムは、後者を進展させたのである。
 問題は、どうして、古代中国において、太母文化が基盤としてあったが、そして、その上に父権制が形成されたが、西洋のように、自由が進展しなかったのかということである。
 太母文化こそ、個・自己・差異の源泉であるからである。イエス・キリストは、父権的共同体を破壊し、普遍的共同体の志向を説いたと考えられる。この点が孔子とは決定的に異なるのである。もし、孔子が老子のようなコスモス・宇宙的発想をしていたら、事態はたいへん異なったことだろう。イエス・キリストとは、孔子に老子を掛けたような存在であろう。そう、孔子は老子的な真に太母文化を弱化させてしまったと思えるのである。しかしながら、朱子学は、老子的な太極的宇宙論を取り入れたではないか。
 問題は実に難しいものとなっている。結局、やはり、イエス・キリストの意味に関係するのである。そして、父の意義に関係すると思う。結局、超越性の問題である。私は父は超越的同一性であると考えた。これは、自然を超越した同一性である。ここがポイントであろう。東アジアにおいては、常に自然が基盤である。超自然という発想は基本的にはないだろう。イエス・キリストにおいて、超自然的な差異共振性が発動したということでないだろうか。ここにおいて、自己が自然の絆から解放されたのではないだろうか。しかし、これは、悪魔的な自由でもあろう。
 今の私の知識では、推測でしかないが、直感では、やはり、孔子のもつ父権的同一性主義がその後の中国文化を規定したように思えるのである。これは、当然、東アジア全体に関係することである。老子的な太極コスモスは朱子学に取り入れられたが、それでも、孔子的父権的同一性主義が強固であったように思えるのである。
 この父権的ヒエラルキーはどこから来ているのだろうか。直感では、インド・ヨーロッパ語族と類似する、父権的遊牧民族文化から来ているのではないだろうか。中国はたびたび、遊牧民族によって支配されてきたのである。いまのところは、そのように仮定しよう。つまり、中国の太母文化は、父権的遊牧民文化によって、利用されつつ、おそらく苛烈・酷烈に抑圧されてきたということである。言い換えると、老子的文化が孔子的文化に抑圧されてきたということである。
 これはある意味で西洋文化と同じである。しかしながら、西洋文化においては、イタリア・ルネサンスのように太母文化が爆発して、個・自己・差異の文化が誕生して、いわば、プロト・モダンを形成したのである。これは、南欧の地中海太母文化が基盤である。女神文化である。D.H.ロレンスの発想から言うと、イタリア先住民のエトルリア文化が基盤である。
 では、中国の太母文化(風水はこの一部である)はどうして、復興しなかったのか、である。欧州のようにルネサンスを迎えなかったのかである。思うに、これは、西洋による植民地主義が一つの原因ではないだろうか。しかしながら、やはり、精神文化的には、老子的文化の孔子的文化による抑圧が根因のように思えるのである。父権的遊牧民文化の力ではないのか。
 とまれ、これから、老子的文化がさらに興隆するはずである。つまり、中国の太母文化が復興するはずである。そして、これがトランス西洋文明の基盤となるはずである。西洋文明はユダヤ・キリスト教の可能性をもう尽くしてしまい、心的エネルギーが枯渇していると考えられる。
 

8)美と醜について:外見美と外見醜と内面美と内面醜

9)ユング心理学の解明:自我と自己と個の問題:
上の7の一部で、ユング心理学に言及し、とても興味深い問題をもっているので、ここで考察を行ないたい。
 
10)7において、言及した人類史のアイロニーについて:何故、太母文化が進展しないで、父権文化が発展して、同一性・唯物論・国家権力主義的世界が形成されたのか。
 ここでは、簡単に言うに留めるが、結局、基本・基盤・マトリックスは、Media Point、即ち、太母文化なのである。父権文化とは、実は、太母文化の一種の変容のように考えられるのである。これは生物学的に、オスはメスの変容と言えるのと同じだと思う。
 即ち、Media Pointが同一性へと転換する事態である。太母文化は、端的には、差異共振文化である。超越性と同一性が平衡・バランスをもっていた文化である。エデンの園、エリジウム(ベートーヴェンの第9に出てくる)、女人の島(ケルト神話)、常世等は、その神話的名残と考えられる。シュメール文化も太母文化であり、また、クレタ文明もそうである。
 私の想像では、太母文化がそのまま進展すれば、差異共振文化が発達して、平和の文化が継続したはずである。個・自己・差異も発展したはずである。何故、父権化する必要があったのか。
 簡単に言えば、自我・同一性の形成のために父権文化が必要であったということだと思う。あるいは、物質文化の必要である。太母文化は、超越性と結びついているので、純粋な物質文化は発生しなかっただろう。
 やはり、自我・同一性・物質の発達のためには、父権文化、とりわけ、ユダヤ・キリスト教文化が必要であったということになるだろう。言い換えると、太母の同一性を特化したのが、父権文化である。太極で言えば、陰陽において、陽を特化したのが、父権文化である。それは陰を否定しているのである。
 では、自由はどうなのか。私は太母文化にこそ、真の自由の基盤があると考えている。これは、個・自己・差異の自由である。思うに、太母文化の様態では、差異と同一性が未分化的ではないのか。確かに、差異があるし、同一性もあるが、それは、陰陽の如くである。差異と同一性の太極である。だから、純粋な自我はない。いったい、「わたし」、ichとは何か。
 ここでも直感で言おう。同一性の意識と同時に差異の意識が発生するのである。少なくとも、これが私の心的経験である。同一性の意識とは自我である。そして、差異の意識とは自己であり、両者を同時に指して、個であると思われるのである。
 この問題は、9のユング心理学の解明の問題に通じるが、ここで、解明しよう。だから、やはり、太母文化においては、同一性と差異とは未分化であり、純粋な同一性や差異は形成されないのだろう。
 やはり、父権文化によって、とりわけ、ユダヤ・キリスト教西洋文化によって、特化的に同一性が肥大化して、そのために、差異が純粋化されて直感されるようになったのではないのか。言い換えると、西欧近代主義によってこそ、差異が意識されることとなったのではないのか。それが、ポスト・モダンである。パラドクシカルであるが、事実であろう。易で言えば、正に、陽極まれば、陰に転ずである。
 理論的には、どうやら、これで筋が通るようである。言うならば、太母が一端、父になって、そして、その後、太母であることを自覚するということだろうか。太母の自己意識の形成である。梵我一如である。プラトニック・シナジー理論から言えば、Media Pointの自己意識化である。あるいは、正に、螺旋的回帰である。
 ところで、ここで西洋文明について考えよう、というか、ユング心理学の問題を考えて、終わりにしたい。ユダヤ・キリスト教は父権中心主義である。即ち、太母を殺害した文化である。しかしながら、イエス・キリストにおいては、否定された太母文化が取り込まれている。絶対矛盾がイエス・キリストに生起しているが、キリスト教会は、父権中心主義的にイエス・キリストをいわば、利用しているのである。民衆支配するために、イエス・キリストを利用しているのである。(思うに、民主主義はイエス・キリストから発しているだろう。だから、本源は太母文化である。これから、太母文化が復活するが、そうすると、民主主義は淘汰されるだろう。差異共振主義が取って代わると考えられる。)
 問題は、太母を殺した父権的同一性中心主義(ロゴス中心主義)、近代合理主義/近代的自我であるが、これは、どうなるのか、である。ユング心理学は、これを自我として、これに無意識の自己を統合させて個を形成することを眼目にした。ユングは、錬金術の陰陽のイメージを用いて、その結合を説明していた。しかしながら、私の直感では、それは、結合しないのである。連続性のままであり、分裂したままである。
 何故かと言えば、端的に、自我は自己を否定するからであり、その絶対矛盾が、陰陽の考えでは、結合できないと考えられるからである。いかに、自己の世界に沈潜しても、元型的世界に沈潜しても、それは、陰の世界であり、それだけでは、陽と結合しえないのである。(因に、元型とは、Media Pointにおける超越的振動の形相であろう。)端的には、両者を即非様相にしないと「結合」は不可能なのである。 
 では、西欧近代的自我の運命はどうだろうか。それは、今言ったことが当てはまるのである。単に神秘主義やオカルト主義では、分裂したままである。精神世界主義は、それだけでは、分裂したままである。統合失調症である。ここで東洋身体的思想が決定的に重要になるだろう。つまり、身体という陰と頭脳という陽を調和させる心的技術をもっているのである。禅はそのようなものであり、ヨガもそのようなものである。また、気功もそのようなものである。
 直感では、《心》を形成するのである。ユングは東洋思想を活用したが、この第三の《心》までは達せずに、二元論に留まったと思えるのである。対極的二元論までは行ったが、太極には達しなかったと思うのである。
 結局、西洋のichは分裂しているので、新しい太母文化、差異共振文化には、達しないように思えるのである。つまり、西洋はユダヤ・キリスト教文化を超克しない限り、新太母文化・差異共振文化には、到達できないということである。だから、必然的に、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明になるのである。

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