哲学/日本哲学の創造

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2011年12月27日(Tue)▲ページの先頭へ
言葉とは何か:差異共振的同一性作用としての言語
テーマ:language

PS理論から、本件はどう捉えるのだろうか。これまで、この点についてはあまり論じてこなかった。
 しかし、基本的には凸iに言語、ないし、原言語があるとは仮定してきた。
 つまり、同一性を形成する凸iに言語作用があると見てきたのである。
 ここで具体的に想像してみよう。眼前に「山」があるとしよう。それを「わたし」は感覚知覚する。しかし、それは「他者」であるから、凹iである。凹iを凸iに取込もうとするところに言語作用があると考えられる。
 それは凹i⇒凸iであり、凸i⇒凹iであろう。聴覚と視覚の衝突、差異共振と言えよう。「山」はyamaである。
 だから、言葉とは単に凸iの同一性作用だけではなく、凹iとの共振作用が働いていることになる。
 差異共振作用を同一性側、凸i側に取込んだものが言葉であると考えられる。
 構造主義が有名になったソシュールのシニフィアンとは一見、凸iのように思えるが、そうではなく、凹iの記号であると言えよう。そして、シニフィエが同一性概念、悟性的なものであると考えられる。
 しかし、ソシュール側に寄るのではなく、PS理論の概念から読み直すことで、新たな言語哲学が生まれると考えられる。
 とまれ、ここで差異共振同一性作用としての言語概念を得た。だから、言葉の深層には差異、他者、個があると言えよう。それが、表層では同一性、物質性、自我を帯びているということである。
 後で更に検討したい。

追記:いろいろ言うべきこと、述べたいことがあるが、一言付け足せば、言語は第二象限に属するだろう。第二象限は一つの光の領域ではあるが、実は深層に闇があるのを忘却しているのである。これはデカルト哲学にも言えよう。その闇をフッサールは現象学でほぼ解明したと言えよう。

追記2:精神的フィルターsemantic filterの悟性フレームが言語と言えるかもしれない。


2011年11月23日(Wed)▲ページの先頭へ
カント哲学の連続性と不連続性の未分化
カント哲学の連続性と不連続性の未分化

テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11086583581.html
の論点から、カント哲学の本質的意義が明瞭になると考えられる。
 つまり、カント哲学はMP1(虚軸点)とMP2(実軸点)が未分化なのであり、それ故に、純粋理性のアンチノミー(背理、パラドックス)が生じるのである。
 しかし、カント哲学は凸iが優位であるため、あるいは、MP2(実軸点)が優位であるために、ロレンスとは異なり、第二象限の理論になっているのである。
 ロレンス文哲学の場合は、本質的には第三象限に根源をもっていると考えられるのである。
 思うに、ロレンス文哲学はマニ教的と言えるだろう。諸宗教の普遍化への志向が見られるからである。



D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学

テーマ:literature

D. H. ロレンス文学哲学(略して、文哲学)のいちばんの問題点は、先に述べたように、母権と父権の混淆である。未分化とも言えるが、それより、連続性と不連続性の混淆と言うべきである。
 直観で言えば、ロレンスは凸iへの傾斜と凹iへの傾斜が揺らいでいるのである。だから、primitive media point dynamicsがロレンス文哲学力学と言えよう。
 PS理論は、凸iと凹iの闘争、衝突、拮抗、対立、矛盾等のダイナミクスを説いているとは言え、ロレンス文哲学力学の様態とは異なる。
 これは芸術と哲学・理論との違いに拠るとも言えよう。
 しかしながら、やはり、違いは不連続性の様態にあると思う。即ち、ロレンス文哲学の場合、凸i主導の連続性へ傾斜したり、凹i主導の不連続性へ傾斜したりする、極端な揺らぎがあるのである。
 それに対して、PS理論は凸i主導性は同一性主義として、批判して、基本的には凹iを基礎とするmedia pointの様態を肯定するのである。
 つまり、PS理論は脱連続性の理論であり、不連続性を基礎とする理論であるということになる。
 これで、ロレンス文哲学とPS理論の違いは明瞭である。もっとも、ロレンスはPS理論の一つの先駆と考えられるので、その点で評価すべきであるが。
 ロレンス文哲学の問題は、凸iの連続性へ傾斜したときであるが、いったい、それは何を意味するのか。
 端的に、反動性への傾斜を意味するだろう。主体がなんらかの攻撃を受けて、主体的精神が反動的様態になったとき、凸iの連続性への傾斜が生じると思われる。
 外部からの強い攻撃にあったとき、精神は反動化しやすいのである。
 ロレンスにおいても、このような事態が生起して、凸iの連続性へと傾斜したと思われるのである。
 具体的には、妻フリーダとの関係が否定的になったことが根因のように思えるのではあるが、実際は社会的事件等も大きく関わっているのである。そう、重層・複合的反動化があると言える。


コスモス:宇宙と精神:マクロコスモスとミクロコスモスの照応とフラクタル

テーマ:manichaeism: 哲学

この問題は長年検討中であるが、未だに導きの糸が見出せない。
 直観では、MP1(虚軸点)にコスモスの原動力が存するのであり、それがMP2(実軸点)へと展開して、宇宙現象となるのである。
 問題はコスモスの原動力の力学なのである。私は占星術、古代宇宙論のマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙:人体)の照応を正しいと直観しているのであり、その力学、コスモス力学を打ち立てたいのである。
 そう、マクロコスモスとミクロコスモスの照応とは、結局、フラクタルで説明できよう。 
 しかし、問題はフラクタルの質的力学なのである。
 正五角形はVector Modeで説明できる。これは自然事象である。黄金比の事象である。
 思うに、ここから帰納させれば、自然事象には、比率が支配していると言えるだろう。プラトンの比例がそのような視点である。
 とまれ、比率が西洋文明の理性になったのは哲学的常識である。(理性の問題はそれが量化されてしまったことにあると言えよう。つまり、科学、物質科学、近代科学の問題である。)
 ここで簡単な作業仮説を立てよう。すなわち、MP1(虚軸点)において、実数による等分割が為されるというものである。
 ということは、MP1において、つまり、一(いつ)において、等分割原理が支配するということになる。
 2等分割、3等分割、4等分割、5等分割、6等分割、7等分割、・・・n等分割である。
 ということは、端的に、凹(−1)は虚数原理において、実数分割原理を内在、内包、包摂しているということではないだろうか。いわば、虚数的実数等分割原理である。あるいは、簡単に虚軸的等分割原理である。
 そう、直観では、凹(−1)は卵である。これが、等分割するのである。
 さらに作業仮説を行なうと、等分割原理において、質的差異が生じるということである。
 これは、陰陽原理から説明できるだろう。明らかに、2等分割において、陰と陽は質的差異をもつのであるから。その他の等分割においても同様と考えられるが、ただし、陰陽の差異的比率が異なると考えられよう。
 この陰陽的差異比率原理については、検討課題としよう。しかし、陰陽的比率ということで、既に、予測、予見はできる。



音楽と超越性

テーマ:music

思えば、音楽を視覚の事象のように論じてきたが、音楽を音、聴覚の事象として捉える必要があるので、簡単にコメントしたい。
 結局、感覚とは何か。知覚とは何か。これが問題である。
 これまでの考察から、感覚器官とは超越性によって、あるいは、虚軸性によって形成された物質的器官ということになる。
 しかしながら、同時に、そこにはmedia pointが存するのであり、media pointの「感覚」によって、本来の超越性を直覚すると考えられる。
 では、すぐれた音楽の事象とはどういうことなのか考察しよう。
 精神性の感覚的表現がすぐれた音楽である。(もっとも、これは音楽に限定されないが。)
 結局、感覚には先に考察したように精神性が存するのである。
 しかしながら、感覚器官は同時に物質的器官である。この点で、感覚を物質的感覚として限定しまうことになる。
 感覚を物質的感覚として捉えるのは、明らかに、物質科学(近代科学)が原因である。何故なら、感覚事象を物質事象として把捉するからである。
 そう、確かに感覚は物質的感覚ではあるが、それだけではない。
 これは先に述べたように、実軸点(MP2)における事象・事態である。ここでは、精神性があると同時にないのであり、物質的感覚、同一性感覚が生起するのである。
 物質科学(近代科学)はこの実軸点(MP2)における物質性を特化した科学と言えるのである。
 本題に戻ると、音楽は実軸点(MP2)における聴覚事象であり、そこに反映される精神性を表現していると言えよう。
 では、音、音響、音波とはどうして、精神性を表現できるのか考えてみよう。
 結局、空気自体が単に物質ではないと言えよう。そこには、差異共振エネルギー、つまり、氣が存するのである。その氣を活性化するのが音楽であり、氣的聴覚的現象が音楽であると言えよう。
 だから、単に、音、音響、音波ではないのである。氣的サウンドなのである。


2010年12月30日(Thu)▲ページの先頭へ
サルトルの『自我の超越』:自我は凸i⇒+1、絶対的内面性・存在は凹iではないだろうか
サルトルの『自我の超越』:自我は凸i⇒+1、絶対的内面性・存在は凹iではないだろうか
テーマ:文学・哲学
以下、永野氏によるサルトルの『自我の超越』の説明は明敏である。
 自我問題であるが、これまで何度も述べたように、自我は凸iか、凸i⇒+1(凸)である。同一性の形式、物質形式である。
 それに対して、サルトルの非自我の純粋意識、絶対的内面性、存在とは、凹iであると思われるのである。サルトルの実存も、自由も、凹iと考えると、明晰になるだろう。そう、他者である。
 「実存が本質に先立つ」も、実存を凹i=他者と考えれば、わかりやすい。そして、それは、絶対的差異であり、当然、「自由」である(通常、自由は自我の自由と考えられているが、それは、恣意に過ぎない)。
 思うに、後期サルトルの混乱は、これを個の原基と捉えず、集団的なものと捉えて、マルクス主義と結合したことであろう。実存を個、絶対的差異、絶対的他者として捉えれば、マルクス主義との「野合」はなかったと考えられる。
 そう考えて、かつて、実存主義と共産主義を結合させたサルトルを激しく嫌悪したことの説明がこれで為されたことになる。長年の宿題が解決したことにな る。(私は若かったから、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』が好きであった。思うに、不条理とは、ロマン主義の延長の概念ではないだろうか。超 越性を予感しながらも、物質的現実に直面させられるというアンチノミーである。)
 ついでながら、私にとって、今年はいろいろなことの清算の年であった。身軽になって、来年は兎のように跳びはねよう。
 皆様よいお年を!
 

「自我と自由―サルトル『自我の超越』について―」

永野潤
第三節 自我の自発性と意識の自発性
 以上のようにサルトルは、純粋な反省を遂行すれば、我々は「自我」を蓋然的な「心的なもの」として排去せねばならないと主張する。これが、『自我の超 越』の主要な論点である。サルトルは、純粋な反省によって「自我」という「超越的なもの」を排除し、「純粋意識」という、絶対的内面性へと到達しようとし ている。その意味で、この議論の中に我々はいわば「外部から内部への運動」を見て取ることができるのである。ここで、「純粋な反省」によってとらえられる 超越論的意識が、「存在 existence」であるとサルトルが主張している点に注目しなければならない。超越論的意識は、
「絶対的存在領域 sphe`re d'existence absolue」だといわれる。こう主張することによってサルトルは、意識が、後の彼の表現を用いて言えば「本質に先立つ実存」であることを強調している のである。つまり、サルトルによる「意識からの自我の排去」とは、意識からあらゆる「本質規定」を取り除く作業でもある。「自我」をはじめとする「心的な もの」とは、反省された意識に外側から与えられる、「超越的」本質のことであった。したがって、「外部から内部への運動とは、「本質から存在への運動」で もあった、ということができる。
 ところが、サルトルは意識が「絶対的な存在領域」であると言うのと同時に、意識が「純粋自発性 spontane'ite's pures の領域」(TE,77)でもあるといっている。これが、我々がこれから問題にしようとしている「意識の自発性」についての議論である。自発性とは、のちの サルトル哲学において「自由 liberte'」という言葉でおきかえられていく概念なのだが、意識が「自発性(自由)である」ということは、実はサルトルにとって唯一の意識の「本質 規定」なのである。「人間は意識として(「自己のもとに現在しているものとして」)実存しており、このことが原理的に意味しているのは、人間が自由として 実存しているということにほかならない。このことこそ、サルトルにとって、根本的に存在論的に定義し言明されうる人間についての唯一の「本質の性格づけ」 である [*1] 。しかし、ここでなされている意識の「本質規定」は、意識に外側から与えられる「超越的」本質規定ではない。それは意識の「超越論的」本質規定なのであサ。「自由とは、実存する意識に後になって付け加えられるぺき規定であるという考えの成立しないように [*2] 」しなければならない。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/jiga.html

トランス・モダンとしての道元禅哲学
テーマ:日本哲学:鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造
以下、正法眼蔵の有名な箇所であるが、以前読んだとき、なんとなくわかったつもりであったが、今や判然とわかるのである。
 PS理論の凹i、他者をこの場合、仏道の真理とすればいいのである。凸iは、自我であり、これを脱落(身心脱落)させて、凹iの心性、心眼をもつことが仏道であると言えよう。
 道元はトランス・モダン哲学を説いていた。
 思うに、仏教というか、禅は、哲学と見るべきである。仏教は宗教ではない。神を説いていないからである。
 ところで、テキストは次を薦めたい。




正法眼蔵(一)全訳注 (講談社学術文庫) [文庫]
増谷 文雄 (著)

第一 現成公案


自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは 佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。 佛のまさしく 佛なるときは、自己は 佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして 落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。

http://www.shomonji.or.jp/soroku/




ヤハウェとエローヒーム:父権一神教と母権多神教
テーマ:一神教/多神教⇒新多神教・新多一神教
神秘学者のシュタイナーが、人間はヤハウェ型とエローヒーム型に類別されると述べていた。
 PS理論で言えば、凸i型と凹i型である。日本人の遺伝子にも、両方の型があると思う。
 日本国を基本的に支えてきたのは後者であるが、戦後、とりわけ、今日、民主党に見られるように、前者が支配的になって、亡国を迎えていると思われる。
 父権型は、利己主義、自己中心的、独りよがりであり、他者がないために、社会を国を滅ぼし、民衆を地獄に落とすのである。
 思うに、現在の日本は日本国のカルマによって、大試練を迎えていると言えよう。闇が支配して、光を消滅させようとしているのである。
 とまれ、日本、日本人は生まれ変わる必要がある。本気にならないと亡国は必定である。

参照と参考:

「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵 V
HEXのブログ


太陽に手をがざす!
指圧百科:SHIATSU

Kaisetsu氏に拠る、ベクトル・モード計算と二重螺旋構造の解明
テーマ:精神的フィルターとVector Mode
以下、たいへん興味深い解明が為されている。
 先に、私はMedia Pointにおいて、物質と精神が同時生起すると述べたのであるが、それが見事に、DNAの二重螺旋構造という点で解明されていると考えられる。
 私は⇒+1が物質化、⇒-1が精神化として、逆になっているが、単に、ネガとポジの違いであり、後で、考察し直したい。
 重要な点は、Media Pointからベクトル・モードが形成されるが、そこでは、物質、生命体が形成されると同時に、精神、知性が形成されるということである。これは正に、Media Pointの陰陽の為す造化の妙、奥義である。
 だから、Media Pointは創造神と言えるかもしれない。とまれ、余裕のあるとき、緻密に検討したい。 
• 二重螺旋構造とベクトル・モードの演算記号vector mode calculationvmc
所謂、二重螺旋構造は物質的な相互作用によって、遺伝情報と言う精神作用を伝達・保存・消去する構造である。

 物質世界からは、常に、「-1」が出てくる。

 この「-1」を指数分割(1/2乗)することで、虚数(i)を2個表出することが出来る。

 この2個の虚数が
精神世界(電磁関連作用)の場合

(凸+i)*(-i凹)⇒(適合、噛み合っている):mode=-(+i)*(-i)=(+1 or +)


 上記「精神世界(電磁関連作用)の場合」の2個の虚数であると考えることが可能だ。

 つまり、二重螺旋構造は、「物質世界の新陳代謝(ベクトル・モード計算)」と「精神世界の新陳代謝(ベクトル・モード計算)」が連続的に発生するシステムであろう。


海舌(明日野)
• 八卦とベクトル・モードの演算記号vector mode calculationvmc
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


物質形成と精神形成:凸i主導性と凹i主導性:父権と母権
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
先に次のように述べたが、もう少し進展させたい。

凸iが主導で⇒+1(物質)となるならば、凹iが主導したとき、⇒-1となるのか?

私は次のヘーゲル弁証法論理の説明(弁証法論理と即非(差異共振)論理:ヘーゲル弁証法とPS理論的即非論理:トランス・モダン資本主義へ )から以上のことを思ったのである。
 ヘーゲル弁証法は、精神からの物質的形成(外化、疎外態)を説き、そして、それを止揚・揚棄して、精神に復帰する力学論理である。
 問題は、物質形成である。それは、正に対する反であるが、これは、ps理論では、+1である。
 私はその時、凸iが主導的であると感じたのである。しかし、今、判然としない。というか、ただ、凸i、陽が主導して、物質界を作ると思いついたのである。つまり、同一性形成の問題である。凸i、陽の主導性が同一性、さらには物質を形成すると言えよう。
 この同一性があるために、凸iである脳は、物質界を認識すると言えよう。凸iのもつ原同一性(ロゴス性)と物質界の同一性が適合するということである。
 ということで、本題に戻ると、では、凹iが主導したとき、何が生起するのか。
 先に、凹iは肚であると言った。あるいは、下丹田、マニプーラ・チャクラ、太陽神経叢、視床下部等と言えよう。
 凹iが主導したとき生起するのは、直観では、精神・魂である。凹iの主導性は、同一性ではなく、差異共振を形成すると思う。凸iの主導性が同一性かつ物質を形成するなら、凹iの主導性は、精神・魂を形成するということになる。
 つまり、凹iは絶対的差異、他者であるから、凸iの原同一性=ロゴス性が消極的になり、非同一性、非物質性を生成すると考えられる。即ち、陰陽力学と は、本来、物質と精神を同時生起させているのであるが、原父権主義である凸iが主導的であると、物質主義が支配的になると言えよう。
 では、さらに、凹iの主導性・優位のもたらす精神・魂の意味を考えてみよう。私が考えているのは、-1との関係である。
 凹iの精神的感性であるが、それは、超越界と通じているのである。つまり、凹iは「気」と通じていると考えられるのである。ならば、超越界を-1とするなら、凹iは-1と連絡して、人間認識図の第三象限を形成すると言えよう。
 根源は超越界であるが、しかしながら、凹iは-1と連携して、自立的に、超越界ないし超越性を形成するのではないだろうか。そして、シュタイナーの霊学から見ると、それが人間の使命となる。
 凹iと-1の第三象限的思考をもつことで、個的超越界・超越性が形成されるのであり、それは、精神・魂の豊かさを創造すると言えよう。
 そして、凸iの物質文化との調和をそれによって計っていくことが、現代の人間に課させられたもっとも重要な任務であろう。

参考:

チャクラ
チャクラ(cakra, chakra, cakkra, चक्र)は、サンスクリット で「車輪・円」を意味する語。漢訳は「輪」(りん)、チベット語では「コルロ」(khorlo)という。インド起源の神秘的身体論における、物質的な身体(粗大身)と精微な身体(微細身)にある複数の中枢を指す[1] 。
ヨーガでの用法 [編集 ]


各チャクラの位置
ヒンドゥー教 のヨーガ では、人体の頭部、胸部、腹部で、輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。数は6または7箇所と言われるが、それとは別に8箇所あるという説もあるなど、一定ではない。画像 では光る蓮華 で表現される。猿であったときの尻尾の名残の尾てい骨から発生する蛇を、チャクラを通じて頭から出すのが目的といった見解がある。
1. ムーラーダーラ(Mooladhara)・チャクラ:会陰
2. スヴァーディシュターナ(Swadhisthana)・チャクラ:陰部
3. マニプーラ(Manipura)・チャクラ:腹部
4. アナーハタ(Anahata)・チャクラ:胸
5. ヴィシュダ(Vishuddhi)・チャクラ:喉
6. アージュニャー(Ajna)・チャクラ:眉間。インド人は、ここにビンディ をつける。
7. サハスラーラ(SahasrAra)・チャクラ:頭頂(Sahasraは千、Araは花弁。6箇所の場合、含まれない。一説に千手観音 の千手千眼はこのチャクラのことという)。
簡易的には背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……という呼び方もする。
チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世 は、その場所に心を集中すると何かしらがあるという反応が得られると述べている[2] 。
仏教タントラにおけるチャクラ [編集 ]
インド仏教の金剛乗 のタントラ 経典では以下の四輪があるとされていた。
• 応身のチャクラ(臍)
• 法身のチャクラ(胸)
• 報身のチャクラ(喉)
• 頭部の蓮華(脳)
インド密教を継承したチベット仏教 の無上瑜伽タントラでは以下のチャクラがあるとされる[3] 。
• 大楽輪(頭頂)
• 受用輪(喉)
• 法輪(胸)
• 変化輪(臍)
• 守楽輪(秘密処=下丹田にあたる)
中国 [編集 ]
中国の道家 や内丹術 の伝統的な身体論には、インドのチャクラに比すべき丹田 という概念があるが、近代の内丹術の中でも清 代の閔小艮の一派はヨーガの七輪の概念を取り入れている[4] 。
西洋への伝播 [編集 ]
ヨーガ の伝播と共にチャクラの概念も伝播した。数は7箇所で内臓 の各部に充てられるようになった。また、その振動の周波数などを解明したとする研究者もいる。他の行法である近代西洋儀式魔術 などにも概念が取り入れられた。
神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ [編集 ]
チャクラは脊椎に関連するエーテル体 にあるエネルギー・センター(渦)で、肉体の7つの内分泌腺及びメンタル体 、アストラル体 、肉体の調整と活性化を司り、意識の中枢と各身体の中継点としての役割をはたしている。
現在のヒーリングなどの分野では、各チャクラに対応する体表のツボのことを指して「チャクラ」と呼んでいる。体表のツボは単にチャクラからのプラーナ (気 ) の出入口としての役割を果たしているにすぎず、チャクラではないが、ここでは便宜上体表のチャクラと呼ぶことにする。一方、伝統的なヨーガが伝えている 「チャクラ」は、体表のチャクラではなく、人間のエーテル体に存在するほぼ脊柱に沿った7つのチャクラで、ここではこれを脊髄のチャクラと呼ぶことにす る。しかし時代が下るにつれ、この脊髄のチャクラとは異なるチャクラの記述が現われるようになる。ここではこれを神経叢のチャクラと呼ぶことにする。実の ところ主要な7つのチャクラのいずれのチャクラも、これら神経叢のチャクラと脊髄のチャクラが対をなして存在している。しかし現在に至るまで、この2つの チャクラの系統は明確な区別がなされていない。
古代のヒンドゥー教のヨーガでは、脊髄のチャクラが「チャクラ」とされてきた。不滅の身体をもち今も老いることなくヒマラヤで生き続けていると言われているマハー・アヴァター・ババジ が、弟子たちに伝授したクリア・ヨガの伝統では、脊髄のチャクラに関する知識が伝わっている。20世紀前半、クリア・ヨガを初めて西洋に伝えたパラマハンサ・ヨガナンダ は、 著書『あるヨギの自叙伝』(森北出版)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を『心臓の後にある胸椎中枢』としている。ヨガナンダの言うチャクラが脊髄の チャクラであることが分かる。またババジのクリヤー・ヨーガ(ヨガナンダのクリア・ヨガと本質的に同じものと思われる)の普及活動をしているマーシャル・ ゴーヴィンダンは、著書『ババジと18人のシッダ』(ネオデルフィ)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を「心臓の高さに当たる脊柱内にある」としてお り、ヨガナンダと同様である。
6-7世紀以降、タントラ教典が編纂された後の近代のヨーガ では、神経叢のチャクラについて言及するようになった。近代のヨーガの指導者として著名なスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの著書『魂の科学』(たま出版 ) にはアナーハタ・チャクラの位置について、「このチャクラは、別名、心臓のチャクラとも呼ばれていますが、胸部の両肺に挟まれた心臓内にある微細な空間の 中に位置しています。」という記述があり、ヨーゲシヴァラナンダの言うチャクラが神経叢のチャクラであることが分かる。
また、サマエル・アウン・ベオールの著書『完全なる結婚』(ノーシス書院)には、神経叢のチャクラと脊髄のチャクラの存在について、「原始ヒンズーヨギたちは、脊髄のチャクラとクンダリニー にすべての注意を払い、神経叢のエーテルチャクラには、ほとんど無関心であった。このことはにせ秘教家を驚かせた。」という記述がある。
以上からも、各々のヨーガ行者あるいは神秘家がチャクラの性質及びその位置について言及する場合、神経叢のチャクラあるいは脊髄のチャクラのいずれ か一方についてのみ言及しており、各々のチャクラが、これら2つのチャクラと対をなして存在していること、及び、それらの位置と機能の違いについて、明確 に区別し、自覚されていたとは考えにくい。
体表のチャクラは、先に述べたように本質的にチャクラではなく、チャクラからのプラーナ (気 ) の出入り口である。しかし、そのルートが浄化されていることが心身の健康とチャクラの覚醒の上で重要であるため、ヒーリングの分野において重視されてい る。一方、本来のチャクラは神経叢と脊髄のチャクラであり、神経叢のチャクラは、身体の交感神経系を支配するナディーと関連し、身体の運動的な活動を司っ ている。一方、脊髄のチャクラは、身体の副交感神経系を支配するナディーと関連し、精神的な活動を司っている。神経叢のチャクラと脊髄のチャクラは対に なっており、意識の拡大の過程を通じて、下位のチャクラから順に覚醒していく。
フィクションでのチャクラ [編集 ]
以下は、夢枕獏 の小説「キマイラ・吼」シリーズに登場するチャクラ。
アグニ
仙骨 に あり鬼骨などとも呼ばれ、この1つのチャクラで、7つのチャクラを合わせたよりも更に大きな力を持つとされ、生命進化の根元を司るとも言われる。あまりに 強大な力を持つゆえに、このチャクラを開眼させたまま放っておくと人は獣や鬼に変じてしまうなどという話もあるが、現代のヨーガ実践者でそれを開眼させた 者はおらず、眉唾的なものではある。ただ、古代中国に赤須子(せきしゅし)がそのチャクラを開眼させてしまい、獣(的なもの)に変じた赤須子が村人を数十 人喰い殺し、見かねた老子 が赤須子を封じたという記録が唯一残っている。
ソーマ
月のチャクラなどとも呼ばれ、アグニチャクラの開眼により暴走を始めた肉体(生命力)を統べ得る唯一のチャクラと言われるが、アグニチャクラの存 在自体が定かでないため、更にその存在は疑問視されることがある。ソーマの身体上の位置を、頭頂の更に上(要するに虚空)と主張している。これは人間の身 体を肉体だけでなく、エーテル体なども含めた上での見解である。
脚注 [編集 ]
1. ^ ミルチャ・エリアーデ 『エリアーデ著作集 第10巻 ヨーガ 2』 立川武蔵 、訳、せりか書房、1975年。ISBN 4-7967-0087-0 。
2. ^ F・J・ヴァレーラ 、J・W.・ヘイワード 『徹底討議 心と生命』 山口泰司・訳、山口菜生子・訳、青土社、1995年、109頁。ISBN 4-7917-5382-8 。
3. ^ 平岡宏一 『ゲルク派版 チベット死者の書』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。ISBN 4-05-901032-4 。
4. ^ 道教と仙学 第4章 各派の丹法の要訣
関連項目 [編集 ]
• ヨーガ
• クンダリニー
• マルマ
• 経絡
• 如意輪観音 (手にチンタマニ(Cintamani cakra チンタ=如意、マニ=宝珠)とチャクラ(法輪 、チャクラム が変化したものという)を持つため中国仏教 では如意輪と訳した。)
• オーラソーマ
• オーラ
参考文献 [編集 ]
• 竹下雅敏 神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ ユニティ・デザイン
• C・W・リードビーター 『チャクラ』 本山博 、湯浅泰雄 (共訳)、平河出版社、1978年。ISBN 4-89203-023-6 。 - チャクラ、リードビーターの理論が概観できる。 PDF
• 比較文化研究室( 島岩 )訳『十六ニティヤー女神の海』、『ジュニャーネーシュヴァリー』等
外部リンク [編集 ]
• 七つのチャクラの意味
• 無料チャクラの壁紙
• チャクラ (チャクラとは、「気」とチャクラ、チャクラの活性化の方法など)
• チャクラについて (各チャクラの位置とそれが司る体の領域、意味、色)
• Evolutio Rodurago - チャクラ テスト (英語)
• クラ派の南の伝承におけるシュリー・チャクラの構造
• シャークタ派の密教 シュリー・チャクラの構造を中心として
• 人生の中でのチャクラの活動レベル (チャクラのバランシング方法、活性法、過去生の情報など)

「チャクラ」は、インド に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などしてくださる協力者を求めています (プロジェクト:南アジア )。



「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%A9 」より作成
カテゴリ : ヨーガ | 身体論 | ニューエイジ


ベクトル・モード総覧:物質世界の凹と精神世界の凸
テーマ:精神的フィルターとVector Mode
以下、Kaisetsu氏の、いわば、ベクトル・モード総覧はまったく曖昧さがなく、透徹して明快・明晰で、きわめて役に立つ。
 結論の、物質世界での適合状態が凹、マイナスであり、精神世界のそれが、凸、プラスであるのは、実に興味深い。
 物質主義、資本主義の欠陥が指摘されているが、それも興味深い。そこにおいて、凸、プラスが支配するのが、問題であるということであるが、確かに、凸、プラスが支配すると、それは、同一性主義、交換価値中心になり、資本主義の差異共振性が破壊されると言えよう。
 つまり、資本主義内の精神世界=差異共振性=凹、マイナスが、凸、プラスによって、破壊されるということと言えるのかもしれない。
 叡知の共振によって、資本主義は作動するのであり、それが、同一性主義、物質主義が支配的になると、侵食されるということかもしれない。後で、再考したい。
 
参照:


ベクトル・モードの演算記号の初期設定螺旋の記号表記)
(使用例)

 
1) 一般的なオスメス・ネジの場合。(観察者は実軸上、マイナスからプラスを見る)

osumesi121 posted by (C)天花一海

 a2)ボルト実軸プラス方向右回転のベクトル・モード(螺旋運動) 凸+
 d1) ナット実軸マイナス方向左回転のベクトル・モード(螺旋運動) -凹


 (凸+)*(-凹)⇒(適合、噛み合っている):mode= - reason why (+)*(-)=(-)

凸*凹⇒即非:無記号(本来、陰陽記号)
プラス・マイナス符号計算 (+)*(-)=(-)

よって、 (凸+)*(-凹)が互いに適合して噛み合っている場合のベクトル・モードは「マイナス1」 or 簡便に「-」「凹」である。

mode=-(+*-=-)

 2) 一般的なオスメス・ネジの場合。(観察者は虚軸上、マイナスからプラスを見る)

 ia2) ボルト虚軸プラス方向右回転のベクトル・モード(螺旋運動) 凸+i
 id1) ナット虚軸マイナス方向左回転のベクトル・モード(螺旋運動) -i凹

(凸+i)*(-i凹)⇒(適合、噛み合っている):mode=-(+i)*(-i)=(+1 or +)

よって、 (凸+i)*(-i凹)が互いに適合して噛み合っている場合のベクトル・モードは「プラス1」 or 簡便に「+」「凸」である。

 



物質世界の適合状態の効果であるベクトル・モードは「凹、マイナス」であり、精神世界のベクトル・モードの適合状態の効果は「凸、プラス」であることが分かった。

 物質主義、資本主義の根本的欠点・罪悪性は、物質世界で凸(父権性)を効果として求めることに起因すると言えよう。物質世界では母権性(マイナス、凹)を求めるべきである。

海舌(明日野)

http://blog.kaisetsu.org/?eid=812333
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


メノラーと母権的父権的文化(母・父権文化):ユダヤ父権文化とユダヤ母権文化の二重性
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能
以下、HEX氏のブログに提示されたメノラーのシンボルが興味深い。7は秘数であり、また、女神の数、つまり、母権文化の秘数である。的確に言うと、古代オリエントの女神イシュタル、イナンナの数である。
 そして、それを父権文化であるユダヤ文化がそれなりに引き継いでいるのである。だから、ユダヤ文化は絶対的に父権文化ではなく、ベースに母権文化があると考えられる。
 私が言いたいのは、やはり、母権文化が父権文化と接して、母権的父権文化(母・父権文化と造語したい)が形成されという仮説である。
 ところで、ここで別様の考えを言うならば、ベースの母権文化を利用する父権文化の登場を想定することができるだろう。
 天皇制もそのように考えることもできる。そう、以前、私は、そのように考えていた。母権的太陽神が、父権的太陽神に利用されたのが、天皇制ではないのかと。
 しかし、今や、天皇とは母権文化・社会の精神的存在であることが判明したので、その考えは古くなった。
 とまれ、本題であるが、ユダヤのメノラーの場合は、父権文化が母権文化を取り込んだように思える。だから、母権的父権(母・父権)ではなく、父権的母権(父・母権:造語)と考えられる。
 そう、母父権か父母権の違いは決定的であると思う。即ち、凹i主動性か凸i主導性かの違いがあり、それは根本的違いである。
 だから、メノラーに関しても、7というシンボルは同じあっても、質が異なると考えられる。両班のような苛酷なものは、ユダヤ父権主義を想起させる。つまり、父・母権的であるということである。
 それに対して、天皇制は、母・父権的であるということになる。
 このことから推測されるのは、古代東アジアにおいて、父権的民族と母権的民族との衝突があったが、前者から父・母権主義が、後者から母・父権主義が生ま れたということであり、両者は同じ母権文化の神聖なシンボルを活用したが、しかし、質は正反対であることを認識することが決定的に重要であると言えよう。
 最後にユダヤ文化について一言言うと、私が知る限りでは、旧約聖書は父権神(ヤハウェ)と母権神(エローヒーム)が混在しているのである。つまり、ユダ ヤ父権文化とユダヤ母権文化があると考えられる。一般にユダヤ文化は前者と見られているが、それは誤りである。失われたイスラエル十支族は、この点で、実 に興味深いのである。HEX氏によると、母権文化が基底にあるが、父権文化が掟であったということである。だから、ユダヤ父権文化とユダヤ母権文化のいわ ば、分裂的な二重性をそこに感じるのである。これは、言い換えると、父・母権文化と母・父権文化の混淆を意味しよう。
 そうすると、古代東アジア、そして、古代日本において、この二重性が存した可能性がある。しかしながら、古代日本は母権がベースであるので、この二重性様態があっても、主体は母・父権主義であると考えられる。
 後でさらに最後の点について検討したい。

追記:HEX氏は新羅と日本の関係を述べているが、思うに、新羅を父・母権文化とすると、それが日本に関わった場合、日本に父・母権文化が導入されたことになる。そうすると、古代に日本において、ベースの母・父権文化(天皇制)と父・母権性が混淆したことが考えられる。
 思うに、確かに、現代日本においても母・父権文化と父・母権文化の混在が感じられるのである。そして、後者は利己主義・唯物論・社会主義的であり、日本を滅ぼそうとしていると考えられるのである。
 後で、HEX氏の記述を精読して、考察を精緻化したい。

追記2:7は又、チャクラの数でもある。そして、当然、虹の七色、オクターブの音階数である。シュタイナーの説くサイクル数でもある。
 では、秘数7の源泉は何処にあるのか。以前は、差異共振様態に存すると見たが。光を考えたとき、それは言えよう。虚軸のモードである。
 ここで、想起するに、クンダリニーは三回転半を意味していた。半回転を1とすれば、三回転半は半回転7回である。
 これは、当然、スピンを想起する。虚軸のスピンは、先には、ボソンだったので、これに相応しないことになる。半整数スピンは、フェルミ粒子である。この点は再考したい。
 とまれ、その他の源泉を考えると、第三象限である。しかし、今のところは説明ができない。
 メノラーの形態を見ると、左右にそれぞれ、3があり、中央に1があるのである。これは、易の陰陽の構成に似る。陽爻が3、陰爻が3あり、両者で卦を構成するのである。
 そうすると、やはり、Media Pointではないだろうか。凸iの主導性の場合、双極子は三つ巴、3値となり、凹iの主導性の場合も三つ巴、3値となり、併せて、7となるのではないだろうか。
 今はここで留める。
 

 
参照:

「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵 V

・・・・・
日本と新羅は縁が深いにも拘らず、度々戦う複雑な関係。
日本書紀の編纂(720年完成)は、唐や新羅と張り合う為に行われた、国史編纂事業である 


     

      新羅の王冠               百済から送られた七枝刀
   

イスラエルの国章(メノラー)       元になったメノラー(燭台)

      
新羅の王冠は、メノラーの7枝が9枝に転化した可能性が感じられる。
百済(扶余族)から送られた、七枝刀の由来も、メノラーの可能性が高い  
七枝刀は、祭礼・儀礼の刀で宝物的意味合いのものである。            

メノラー(燭台)はユダヤ教のシンボルであり、キリスト教のシンボルでも有る
ミトラ多神教由来の、光=火の信仰に繋がる



       
    
両班(ヤンバン)と呼ばれる、              日韓併合初期の両班
古来からの朝鮮貴族の門            欧州人から世界で最も傲慢な貴族階級と言われた

古来、両班(ヤンバン)の地位は圧倒的で、超支配階層。
法の適用外の存在で、一般人から金品を奪い、従わない者は拉致して拷問にかけていた。
一般人から見れば、嫌悪の対象でもあった
両班(ヤンバン)は高級官僚の地位につくものが多かったという

彼らの門飾りも、メノラーに酷似するものが多い


シュメールの生命の木(七枝) キ(蛇の女神)とウル(エンリル)

一般に、七枝のメノーラの起源は、シュメールの生命の木(七枝)=世界樹が起源だと言われている
世界中をシンボルに取り入れている古代文明は幾つかあるが、シュメール起源と見られている

http://ameblo.jp/hex-6/entry-10745559427.html
HEXのブログ


父権的文明は常に敵を作る:凸iの傾斜は凹iを敵とする
テーマ:森羅万象:諸事万端:天象地象:政治経済
父権的文明が起きて、戦争が常態になったと言えよう。父権的文明とは、凸iに傾斜した文明であり、凹iが影(シャドウ)になっているのであり、その投影のために、敵を作ると言えよう。
 投影の対象は、当然、母権的文明である。つまり、東洋文明である。正確に言えば、非父権的文明である。
 問題は、一神教的文明である。ユダヤ・キリスト教的一神教とイスラム的一神教を同じと見るべきなのか。
 仮説的に言うと、一神教性が同じであるとすれば、前者は後者を近親憎悪で憎むことになろう。イスラム教は自身をユダヤ・キリスト教の進展と見ているのであり、その点からして、前者は優位性から後者を否定したくなるだろう。
 ということで、ユダヤ・キリスト教的一神教の場合、他者は母権的宗教であり、他の一神教であると言えよう。
 しかしながら、以前、私はユダヤ・キリスト教的一神教とイスラム教的一神教は異なると述べた。つまり、後者のタウヒード(一化の原理)は、差異共振が基 礎にあると思うのである。つまり、母権モードから一神教が発生しているように思えるのである。つまり、母・父権的であるということである。(そう、ギリシ ア神話のゼウスに近いのではないだろうか。母権が原基である父権主義ということである。)
 そう考えると、ユダヤ・キリスト教がイスラム教を敵対視するのはよくわかると言えよう。

追記:タウヒードを帰一とするならば、一とは、-1の超越界のことではないだろうか。思うに、イスラム教は、凹i凹と凸i凹が混淆しているのではないだろうか。

参考:

タウヒード
タウヒード(アラビア語 表記:توحيد, トルコ語 表記:Tevhid, ラテン語 表記:Tawḥīdあるいは Tawheed, Tauheed とも)とは、イスラーム における一神教 の概念である。イスラームにおいて、タウヒードは〈一化の原理〉を意味すると同時に、世界観 と存在論 、すなわち価値観 の根本である。
また、タウヒード論においては、神の唯一性という言葉で、和訳され論じられることも多いが、神の唯一性という言葉は、アラビア語において(ラテン語表記をすると)waḥḥdat-Allah という明確な表現があるので、正確な訳出とはいえない点で留意する必要がある[1] 。したがって、この記事においては、神の唯一性を起点とした上で、そこで活用された〈一化の原理〉に則りながら、現実解釈のための基本原則を提示する内容を描出することとなる。 タウヒードの反対の概念は、シルク (shirk、多元性)である。
語源 [編集 ]
タウヒードという言葉は、アラビア語の動詞ワハダ (waḥada) の第2型であり、〈一に化す〉、〈一に帰す〉を意味するワッハダ (waḥḥada) という動詞から派生した動名詞である。その原義は、〈一化〉、〈帰一〉を意味する[2] 。
定義 [編集 ]
イスラームにおける唯一神(アッラー )の存在は絶対であり、この理由のために、ムスリムは、キリスト教 世界で信奉されている三位一体説 を否定する。
クルアーンでの言及 [編集 ]
クルアーン (アル・クルアーン)において、タウヒードは随所に言及されている。また、「アッラーのほかに神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という文節は、サラート として知られる1日5回の礼拝において引用される。
シルク(多元性)の概念 [編集 ]
タウヒードの反意語は、シルクである。アラビア語では、分割・分離を意味する。
ムスリムの視点 [編集 ]
スンナ派、シーア派ともに一致しているのは、イスラームにおける最重要な概念であるタウヒードがこの絶対で完全なる創造者を受け入れるということで展開されているということである。ムスリムは、「アッラーのほかに神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という信仰告白 (シャハーダ )を公に唱えることによってムスリムとなり、かつ、自らの信仰を絶えず、再確認することとなる。
スンナ派の視点 [編集 ]
スンナ派の人々は、タウヒードをイスラームの教条(Aqidah)の7つの重要な側面のひとつであると見なしている。
アシュアリー派 の著名な学者の一人である Fakhrud-Din Ibn Asakir は、自らの著書で、スンナ派の信条を記述している。
• アッラーは人々を導き、唯一の神である。
• アッラーは全ての世界(天界、地上界)を作りたもうた。
• 全ての創造物は、アッラーの力により服従されている。
• アッラーは、人生に帰する。睡魔にとらわれることは無い。
• アッラーは、人間が予見できないことについて知っているただ、ひとつの存在であり、全知全能である。
• アッラーの行うことは全て彼の意志に基づく。
• アッラーは報酬を望まず、罪を恐れない。
• アッラーは、創造の前から存在した。過去、未来というものをもたず、また、前後左右上下といった概念にはそぐわない。というのも、アッラーは全だからである。
• アッラーが、宇宙の森羅万象を創造し、時間の存在を望んだ。アッラーは、時間に制限されるということは無く、場所に明示される存在ではない。
神の不可視性 [編集 ]
スンナ派 のムスリムは、神は見ることはできないと信じている。仮に神の姿を見ることができるのであれば、自らの生涯の終わりを意味する死後に訪れる最後の審判の日のみであると信じている。
クルアーンの記述
その日(審判の日)には明るく輝く顔また顔、(さも嬉しげに)主を仰ぎ見る
– 第75章第22から23節, [3]
いや、いや、あの日〔審判の日〕には、主の御顔も拝されまいぞ
– 第83章第15節, [4]
ハディースの記述。アブー・フライラは、人々とムハンマドの対話を以下のように記述している。
(人々)「われわれは、復活の日に神を見ることができるでしょうか?」
(預言者)「あなたがたは、満月の時に、月が見ることができないことで何か問題がありますか?」
(人々)「いいえ、そういうことはございませんが」
(預言者)「それでは、雲が何一つ無いときに、太陽を見ることができないことで、何か問題がありますか?」
(人々)「預言者よ、それも問題はございません」
(預言者)「ほんとうに、あなた方が神を見ようとすることは(あなた方が太陽や月を見るような)ことですよ」
クルアーンとタウヒード [編集 ]
スンナ派の人々は、クルアーンは創造されたものではなく、この視点は、十分にタウヒードの概念と互換可能なものである。ハンバル学派は、以下の視点を提示する。
クルアーンに書かれている言葉や音は永遠であり、それがゆえに、その物語は創造されたものは無い。そればかりではなく、羊皮紙写本や装丁された文書は同じ質を共有しているのである
アブー・ハニーファ は、以下のように述べる。
告白する。クルアーンは神の言葉であり、作られたものではなく、神の直感、啓示は、彼の本質である。一方で、インクや紙といったものはわれわれ人間が作り出したものである
スンナ派(サラフィー)の視点 [編集 ]
タウヒードは、3つの側面を持っている。
• 神の唯一性(Tawheed-ar-Ruboobeeyah)とは、「神は、創造者であり、創始者であり、設計者であり、全てを養ってくださるものであり、安寧を与えてくださるものであるという唯一の神であることを信じる」ことである。
この信仰は、ヨーロッパにおけるカルヴァン派 や1600年代にニューイングランド に移住したピューリタン の信仰と相通じるものがある。この信仰に基づくと、人々は、神に全面的に依存している存在だと考えることになる。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。
地上を匍い廻る動物にしても、全部アッラーの養い給うところ。何処に棲み、何処に潜むかということまでご存知。ことごとく明白な啓典(万物の運命を記載した天の書物)に記録されておる
– 第11章第6節, [5]
アッラーこそは万物の創造主。あらゆるものを世話し給う。天と地の全ての鍵を持ち給う。アッラーのお徴をありがたいとも思わぬどもは、いまに必ず損をする
– 第39章第63節, [6]
• 唯一神への帰依(Tawheed-al-Ulooheeyahあるいは、Tawheed-al-Ebaadah) とは、神以外のものは決して、崇拝の対象としてはならないということである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例(クルアーン第59章第22節から第24節[7] )である。
「これぞこれ唯一無二の御神、アッラー。目に見える世界も、目に見えぬ世界をもともに知悉し給う。お情け深い、慈悲深い御神」
「これぞこれ唯一無二の御神、至高の王、聖なる御神、限りなき平安の神、誠実の守護者、万物の保護者。偉大で、その権力限りなく、尊厳この上もなきお方。ああ勿体無い、恐れ多い、人々がともに並べる(邪神ども)とは比較にならぬ高みにいます御神におわしますように」
「これぞこれアッラー、蛮勇を創造し、創始し、形成するお方。あらゆる最高の美名を一身に、集め給う。天にあるもの、地にあるもの、全て声高らかに賛美し奉る。ああ限りなく偉大、限りなく賢い御神よ」
• 偶像崇拝の完全否定(Tawheed-al-Asma-Sifaat)とは、神の不可視性とイスラーム化以前のカアバ で数多くの神が神像として祀られていたことからその信仰を否定する考えである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。
皆さん、自分で刻んだ偶像を拝んでなんとなさる
– 第37章第95節, p.41
言ってやるがよい、「天と地をすべ治めるものは誰か。」言ってやるがよい、「アッラーだ」と。言ってやるがよい、「それなのに、お前たち、(アッ ラー)を差し置いて、他の(偶像)どもを神と仰ぐことにしたのか。自分自身に対してすら良くすることも悪くすることもできないようなものどもを
– 第13章第16節, [8]
ムスリムの人々(サラフィー [9] )にとって、以下のような行動は、シルクと見なされるのである。
• スーフィー 信仰 - 早期のムスリムやスーフィーと呼ばれる聖者の墓所へ巡礼を行ったりすること。
• 死から逃れるための礼拝
クルアーンを逐語的に解釈するのであれば、イブン・タイミーヤ が 説くように、神は、体の各部分を持たず、しかし、クルアーンやハディースに記述がある「手」、「目」、「顔」といった属性を持っている。しかし、それぞれ は、人間が知っているような形状をしてはいない。そして、サラフィーは、神は天上界に住んでいると信じているのである。
シーア派の視点 [編集 ]
シーア派 においても、タウヒードは絶対なものである。
神の属性 [編集 ]
シーア派は、神は見ることができるとは信じていない。また、アッラーはどんな形は何であれ、体を持っているという考えも拒否している。
クルアーンのいくらかの一節では、アッラーの体についての記述が見受けられる。例えば、「アッラーと並べて他の神を拝んではならぬ。もともとほかに 神は無い。全ての物は滅び去り、ただ(滅びぬは)その御尊顔(アッラー自身ということ)のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ 戻されていく[10] 」という一節である(第28章第88節)。シーア派の解釈は、「アッラーを除いて」という形になる。シーア派の論議では、この節は文字通り解釈してはならないのである。
また、シーア派の間で議論になる点は、神は、手を持っているというクルアーンの随所に記述がある点である。そのことは、神の力、あるいは慈悲を意味すると彼らは解釈している。例えば、「アッラーの手は鎖で縛られている(第5章第64節)[11] 」という文章で始まる一節である。しかし、シーア派の人々はこの文章に続く「アッラーの手は拡がっている」という文章を引用することで、この節の寓話性を説く。
神の属性のリスト [編集 ]
神は、以下のような積極的な属性を持つと信じられている。
1. カディーム(Qadím) - アッラーは永遠である。始まり、そして終わりは無い。
2. カディール(Qadir) - アッラーは、全能である。アッラーの力は、全てのものに及ぼす。
3. アリーム('Alim) - アッラーは全知である。全てのことを知っている。
4. ハイ(Hai) - アッラーは生きている。それも永遠に。
5. ムリド(Muríd) - アッラーは、全ての事象に対して慎重である。混乱することは無い。
6. ムドゥリク(Mudrik) - アッラーは全てを受け入れてくる。全てを見聞する。あらゆる場所に存在している。ただし、目や耳を通して、見聞しているわけではない。
7. ムタカリム(Mutakalim) - アッラーは世界の創造主である。アッラーは、言葉を作った。
8. サディーク(Sadiq) - アッラーは真実である。
また、消極的な属性を持つ。
1. シャリク(Sharík) - アッラーは妻を持たない。
2. ムラカブ(Murakab) - アッラーは作られたものではなく、物質的なものでもない。
3. マカン(Makán) - アッラーは、どんな場所、体に制限されない。
4. フルル(Hulúl) - アッラーは体を持たない。
5. マハーレ・ハワディス(Mahale hawadith) - アッラーは変化しない。
6. マリ(Marí) - アッラーは見ることができない。なぜならば、体を持たないからである。
7. イフティヤジュ(Ihtiyaj) - アッラーは、独立した存在である。アッラーは、飢えていない。というのもアッラーは、どんなものも持っていないからである。
8. シファテ・ザイード(Sifate zayed) - アッラーは、あらゆる制限を受けない。
クルアーンとタウヒード [編集 ]
シーア派の人々は、神が「神の永遠でない行動の一つ」としてクルアーンを創り人々に贈ったものと認識しているので、したがって、シーア派の信仰は、 スンナ派とは対照をなし、クルアーンは、創造物であるということになる。シーア派の人々は、ムハンマドの「神は存在した(その時には時間の概念があっ た)、したがって、神のそばには何もない」というハディースを引用する。
たとえ、そうであったとしても、シーア派の人々は、クルアーンは完全なものであると信じているのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%89







2010年07月11日(Sun)▲ページの先頭へ
即非について再考:差異共立一如態としての「即非」:即非から即一非へ
即非はAが非Aであり、且つ、Aであるという論理である。
 先に問題にしたことは、前者のA即(非A)、又は、A即非Aである。http://ameblo.jp/renshi/entry-10587127583.html つまり、即の部分である。これは何か。
 直近においては、即非は差異共立一如態であると把握したので、即は、等号、イコールではなく、共立でなくてはならない。あるいは、並立である。造語して、双立である。
 しかしながら、即には、「〜である」という同一性構造が残っているのではないだろうか。
 共立、並立、双立の場合には、それがなく、差異は差異のままであり、他者の差異と一如様態にある。
 例えば、「わたし」は非「わたし」であるというとき、「わたし」は非「わたし」へと同一性化しているのである。非「わたし」を他者とすれば、「わたし」は他者と同一性化しているのである。これは、凸iから凹iへの転化ではないのか。
 私が考える差異的志向性とは、「わたし」は他者を志向するが、他者と一致することはなく、やはり、「わたし」は「わたし」であるという発想である。
 しかし、「わたし」は非「わたし」であるという即非論は、基本的には、やはり、差異共立一如態を指していると見るのが妥当だと思う。つまり、即とは、一如態を意味すると見るべきだと考えるからである。
 鈴木大拙は、西洋の二元論的区別に対して、東洋の一元性(一体性)を説いているのであり、その一元性が一如性であると考えられる。
 だから、即という用語は語弊が実に大きいのである。混乱させるものである。
 故に、即は一如・一体・一(いつ)性を意味すると見なくてはならない。同一性ではないのである。そう、即と「〜である」とは当然、異なると見るべきであるが、両者を混同している誤解があると言えよう。
 だから、色即是空の即もやはり、一如、一体ではないだろうか。つまり、色共立空である。これはわかりやすいのではないだろうか。とまれ、これは後で検討したい。
 ということで、私は即を即一に変更したいと思う。故に、即一非論である。A即一(非A)である。即ち、「わたし」即一「非わたし」である。だから、「わたし」は「川」であるではなくて、「わたし」は「川」と一如・一体であるが正しいのである。
 「〜である」は、差異共振の一端である。MP2における差異共振作用において発生する連続性・同一性である。
 ところで、ドゥルーズの生成変化であるが、それは、やはり、差異共振作用における連続性・同一性であるが、それは、他者である凹iに傾斜していると言えよう。つまり、自我凸iの傾斜の反対であるが、それは、逆立ちした近代主義である。つまり、近代の鏡像に過ぎないのである。


2010年06月02日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:ポスト・モダンの起源はカント哲学か
検討問題:ポスト・モダンの起源はカント哲学か

テーマ:検討問題:思考実験・(作業)仮説・備忘録

カント哲学は、PS理論から見ると、Media Pointを超越論性で、いわば、閉じている。Media Pointの視点からは、物自体は直観されるのである。
 超越性をカントは超越論性で押さえているのである。超越論性とは、⇒+1における、⇒と+1の境界であろう。ただし、それは、⇒に対して、「背を向けている」。
 とまれ、⇒と+1の境界を超越論性、あるいは、超越論的理性と呼べるだろう。
 ここにおいて、自由と必然のアンチノミーが形成されると言えよう。自由は⇒の先端に接するので、生じるのだろう。必然は+1に拠る。
 この境界は言わば、ヤヌスであり、差異と同一性の両方向を向いているのであるが、それは、両面が矛盾的に存立しているのであり、両価的に留まり、アンチノミーになるのである。
 この中間的、ないしは、中途的な位置が、ポスト・モダンなのではないだろうか。ハイデガーの位置もほとんどここにあるように思えるのである。初期デリダもそうであるし、ドゥルーズは、差異を連続化して、同一性と一体化させてしまった。それは、ヘーゲル化であろう。
 今はここで留める。後で、精緻に検討したい。

純粋理性批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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Kant Kritik der reinen Venunft 1781.jpg

『純粋理性批判』(じゅんすいりせいひはん、独:Kritik der reinen Vernunft) は、ドイツ の哲学者イマヌエル・カント の主著で、第一版が1781年 に、第二版が1787 年 に出版された。カントの三大批判の一つで、1788年 刊の『実践理性批判 』(第二批判)、1790年 刊の『判断力批判 』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間の理性が担う諸問題についての古典的名著。ライプニッツなどの存在論的形而上学と、ヒュームの認識論的懐疑論の両方を継承し、かつ批判的に乗り越えた西洋哲学史上、もっとも重要な著作のひとつである。
概論 [編集 ]

『純粋理性批判』は、理性 認識の能力とその適用の妥当性を「理性の法廷」において理性自身が審理し批判する構造を持っている。ゆえにそれは哲学 (形而上学 )に先立ち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントはいう。

カントは理性 (Vernunft) がそれ独自の原理 (Prinzip) にしたがって事物 (Sache, Ding) を認識 すると考えるが、この原理は理性に経験 にあらかじめ先立って与えられる内在的なものであり、理性自身はその起源を示すことが出来ず、またこの原則を逸脱して自らの能力を行使することも出来ない。換言すれば、経験は経験以上を知り得る事ができず、原理は原理に含まれる事以上を知り得ないのである。カントは理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリ な認識として、経験を基礎とせず成立しかつ経験のアプリオリな制約である超越論的 (transzendental) な認識形式にもとめ、それによって認識理性 (theoretische Vernunft) の原理を明らかにすることにつとめる。

初学者向けの解説: すなわち「認識する」とされる理性そのものは、理性からは認識できる範囲外にあることを原点とした。「コペルニクス的転回」を見せたのである。[1]

人間的認識能力とその制約 [編集 ]

伝統的な懐疑論 は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、もって認識そのものの成立の妥当性を否定したのだが、カントはこうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能の条件である超越論的制約はすべての人間理性に共通なものであって、ゆえにその制約のもとにある認識は、すべての人間にとって妥当なものである、と。

ここでカントは認識の制約以前にある「物自体 」 (Ding an sich) と経験の対象である「物」 (Ding) を区別する。「物自体」は理性を触発し(affzieren)、感性 (Sinnlichkeit) と悟性 (Verstand) に働きかけ、それによって人間理性は直観 (Anschauung) と 概念 (Begriff) によって、かつ超越論的制約であるふたつの純粋直観 (reine Anscuauungen) ・空間 と時間 、また12の範疇 (Kategorie) すなわち純粋悟性概念 (reine Verstandbegriffe) のもとに、みずからの経験の対象として物を与える。

しかしこれは一方で、人間理性 (menschliche Vernunft) が、われわれの認識能力 (unser Erkenntnisvermoegen) を越えるものに、認識能力を適用することができないということを意味する。すべての人間的認識は超越論的制約のもとにおかれており、ゆえに伝統的に考えられてきた直接知、知的直観の可能性は否定される。神 やイデア (理念)といった超越が、人間理性にとって認識可能であるとした伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられ得るものにのみ限定する。すなわち、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適用するにとどまるのである。

感性と悟性は異なる能力であって、これらを媒介するものは、構想力 (Einbildungkraft) の産出する図式 (Schema) である。また感性の多様 (Mannigfaltigkeit der Sinnlichkeit) は統覚 (Apperation) 、すなわち「我思う」(Ich denke: つまりデカルト のコギト)によって統一されている。しかし理性にはおのれの認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質 (Naturanlage zur Metaphisik) がある。このため、認識理性は、本来悟性概念の適用されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適用しようとする。しかしカントは認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識 (erkennen) されえないものはただ思惟する (denken) ことのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神・魂 の不滅・自由 が挙げられる。
アンチノミー(二律背反) [編集 ]

理性概念・理念 (Idee) は人間の認識の能力を超えており、したがって理念を認識し、述語付けしようとする試みは、失敗に終わらざるを得ない。カントはそのような悟性の限界を4対の二律背反 (Antinomie) する二命題の組み合わせによって示す。

こうした命題 は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいはどちらも偽であるという結果におわる。カントはこのような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適用をあやまったなりたたないものについての言述であることに帰する。こうした二律背反命題としては事物の必然性 と自由 についての背反命題(第三アンチノミー)があげられる。これはキリスト教において予定 との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いであるが、カントにおいては因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適用することから矛盾をきたすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由がなりたつことは、カントの批判の体系内では双方ともに真なのである。

ただし、認識は根源的なものを求めるから、認識が現にあることから如何にして根源的なものに至るのかということが課題になった。現象の根拠を求めると可能的な世界に求められる、しかし、可能的な世界から現象が与えられているとすると現象の根拠は可能性でしかない。それ故に、認識が現象から抜け出せないものであるので、『実践理性批判』で展開されることになる。認識が現象でしかないが故に、可能をみいだしたのである。こうした理性概念と人間理性の問題は『純粋理性批判』のなかでは必ずしも十分に展開されず、理性の在り方を様々に描いている。そして、『純粋理性批判』と『実践理性批判』は『判断力批判』が統合するとされている。




倶利伽藍とクンダリニー

テーマ:Media P./Vector Mode

倶利伽藍不動明王を見ると、クンダリニーに似ているし、また、雷や竜巻を想起する。
 後者は、天と地の差異共振エネルギーを考えさせるが、根本はMedia Pointのエネルギーだろう。
 思うに、天から地へ、また、地から天へと「力」がはたらくと考えられる。この共振エネルギーが生命だけでなく、無機物を形成するものではないのか。
 例えば、火山や地震もこの天地共振エネルギーに触発されているのではないのか。
 また、山の形成であるが、それは、Vector Modeではないだろうか。垂直のマグマが地表に衝突して、捩れるのではないのか。
 
本尊「倶利伽羅大竜不動明王」
倶利伽羅大竜不動明王

写真: 倶利伽羅大竜不動明王本尊は役行者の自作による倶利伽羅大竜不動明王(秘仏)で、古来より運気の守護、命乞い不


2010年05月25日(Tue)▲ページの先頭へ
哲学者とは何か:哲学ルネサンスへ向けて:哲学(哲学的数学)は科学を包摂する
PS理論は根本的に哲学であり、また、科学理論である。これを提唱する私(ここでは私見を述べるので、Kaisetsu氏を除かせていただく)は、何であろうか。私は自分自身を哲学者と思ったことはない。
 これは、正に禅問答的である。とまれ、私は私であり、私はただ理論家であるとは言える。でも哲学的理論を提唱しているから、哲学者ではないのか、という問いは可能である。哲学的理論を提唱しながら、哲学者ではないというのはどういうことなのか。それは、端的に、後世の人間が判断することであろう。
 結局、哲学的理論家とは言えると思う。そして、哲学とは、根本学ということである。
 そして、PS理論は哲学的科学理論であることを述べなくはならない。哲学と科学の結合とは何を意味するのか。
 これは、エネルギーの問題である。精神はエネルギーであり、これが、科学的現象を生むと考えられるのである。哲学は、精神のエネルギーを秩序化する知性であり、これは、当然、物質界の秩序の法則、即ち、科学となるのである。 


Mon, May 24, 2010 23:28:37
米国ポップスは新クラシック音楽を形成している
テーマ:歌謡/ポップス/シャンソン/カンツォーネ
先にも少し述べたが、AFNの午後9時代から11時代は、ノンストップでポップス(On Gravityという番組である)を流しているが、これが、重厚なのである。ほとんど交響曲の厚みがあるのである。
 先にの述べたが、今、米国ポップスは進化過程にあるのである。音楽ルネサンスである。ポップスは70年代で死んだと思ったが、今や、クラシック音楽的モードで復活しているのである。つまり、ポリフォニー音楽としてである。
 日本の音楽はどうするのか。経済的にも、創造的音楽をプロデュースするのは、ポジティブであるが。


鳩山政権はロックフェラー路線に騙されて、日本を破壊しているのではないのか:カモネギ政権
テーマ:傀儡ペテン売亡国独裁主義国家癌民主党政権
私は以前、ロックフェラー路線が自民党から民主党へ乗り換えたことを示唆した。ロックフェラー路線は、鳩山首相や民主党の政治家にいいカモを見たはずである。こんな単純な人間はころりと騙せるおもったのはずである。例外は小沢一郎である。もっとも彼も、騙されそうになってはいるが。
 単純馬鹿の鳩山と民主党にロックフェラー路線は、売国・亡国路線を吹き込んだはずである。それは、端的に、普天間基地移設問題に表出していると言えよう。
 そして、この口蹄疫問題も、関知しないように言われているのではないだろうか。つまり、政治主導というイデオロギーにマインドコントロールされているのである。
 以前、オバマ政権はロックフェラー路線(戦争産業覇権路線)と「ロックフェラー路線」(差異共振路線)の「絶対矛盾的路線」であることを言った。しかしながら、民主党は、これがまったく識別されていないのである。オバマ政権の後者のトランス・モダン路線を見極めるべきであるのに、前者に従っていると考えられるのである。


参照:
ギョロ目がうつろにギラつく
テーマ:経済

ここに到りて、器でなかったことが、はっきりとした。

これをこっそり笑っているのは、欧米のエスタブリッシュたちでしょう。

もう日本も終わりだと。この程度の人物しか、人がいないのだからと!

あとは自由になるわい、と!

オバマたちは次の手をうち、この国をさらに酷い目に合わせる。

言い換えれば、彼らだけがボロ儲けする手を打ってくるのでしょう。

ただ今、仕込み中です、か?

そのために、今後、もう少し、日本人に自信が戻るような状況が生み出させるかもしれません。

その先に待っているのが、彼らの狙いなのですが…。

http://ameblo.jp/adco/entry-10543661122.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


口蹄疫:種牛49頭延命認めず 国「猶予許されぬ」
毎日新聞 - ‎59 分前‎
宮崎県で多発している家畜伝染病の口蹄疫(こうていえき)を巡り、山田正彦副農相は24日、県側が高級牛ブランド「宮崎牛」保護のため、殺処分をせずに経過観察とする特例を要望していた県家畜改良事業団(高鍋町)の種牛49頭について、要望を認めない方針を正式に表明 ...

【口蹄疫】種牛49頭殺処分、例外認めず えびの市で調査開始
MSN産経ニュース - ‎1 時間前‎
宮崎県で拡大している家畜伝染病・口蹄(こうてい)疫問題で、政府の対策本部は24日、県に殺処分回避を求める動きがある種牛49頭について、正式に殺処分することを決めた。また、14日以降、新たな感染が確認されていない同県えびの市で、血液検査など牛や豚の安全性 ...

種牛49頭、処分方針確認=優良5頭は経過観察続ける−政府
時事通信 - ‎48 分前‎
宮崎県の口蹄(こうてい)疫問題で、政府は24日、県から救済要望があった種牛49頭の扱いについて従来の方針通り殺処分することを確認した。一方、これらの種牛とは別に特例措置として避難させた6頭の優良種牛のうち、感染の疑いで処分された1頭を除く5頭に関しては ...

種牛49頭の殺処分明言 口蹄疫問題で農水副大臣
日本経済新聞 - ‎1 時間前‎
宮崎県で広がる家畜伝染病の口蹄疫(こうていえき)問題で、同県が経過観察にするよう要望していた49頭の種牛について、山田正彦農林水産副大臣は24日の記者会見で、家畜伝染病予防法に沿って殺処分する方針を明言した。処分されれば種牛は主力級の5頭だけになること ...

種牛49頭の殺処分発表 宮崎エース級5頭だけに
47NEWS - ‎2 時間前‎
宮崎県の口蹄疫問題で、現地対策本部長の山田正彦農林水産副大臣は24日午後、現地から経過観察にするよう要望が出ていた49頭の種牛について、家畜伝染病予防法に従って殺処分する方針で鳩山由紀夫首相の了承を得たことを明らかにした。農水省での記者会見で発表した。 ...

口蹄(こうてい)疫 山田副大臣、種牛49頭殺処分の方向性を鳩山首相や赤松農水相らと確認
FNN - ‎2 時間前‎
宮崎県で広がっている口蹄(こうてい)疫の問題で、政府の現地対策本部長を務める山田農水副大臣が記者会見し、焦点となっている種牛49頭の処分について、早急に殺処分するとの方向性を鳩山首相や赤松農水相らと確認したと発表した。 会見で、山田農水副大臣は「これは、 ...

口蹄(こうてい)疫問題 山田農水副大臣、あらためて宮崎県の種牛49頭の殺処分方針表明
FNN - ‎2 時間前‎
宮崎県が殺処分していなかった49頭の種牛について、山田農水副大臣は、あらためて殺処分する方針を明らかにした。 宮崎県の東国原知事は22日、「49頭についても県の願いですよ。願いとしては、検査をやりますから。経過観察とさせていただけないかという願いはある」と ...

種牛49頭 処分の方針を確認
NHK - ‎2 時間前‎
家畜の伝染病、口てい疫の問題で現地対策本部の本部長を務める山田農林水産副大臣は24日、鳩山総理大臣や赤松農林水産大臣と相次いで協議し、宮崎県の家畜改良事業団が飼育していた宮崎牛の種牛49頭について、特例を認めず宮崎県に処分を求めていく方針を確認しました ...

口蹄(こうてい)疫 49頭の種牛の殺処分の方針が固まる
FNN - ‎4 時間前‎
宮崎県内の口蹄(こうてい)疫対策で、49頭の種牛の殺処分の方針が固まった。 宮崎県ではワクチン接種が始まり、懸命の封じ込め作戦が行われている。 こうした中、避難していた宮崎牛エース級の種牛6頭のうち、ナンバーワンの「忠富士」の感染疑いが発覚し、殺処分された。 ...

エース種牛5頭は経過観察
47NEWS - ‎2 時間前‎
山田正彦農林水産副大臣は24日、口蹄疫問題で、宮崎県が殺処分をしないよう求めていた種牛49頭について、殺処分すると発表。一方、宮崎県西都市に避難しているエース級の種牛5頭について「殺処分の対象と考えているわけではない。経過観察している状況」と話した。




2010年02月08日(Mon)▲ページの先頭へ
存在について:現象と存在と物質
「存在」とは何であろうか。
 サルトルは、即自存在と対自存在という区別をする。前者は、ps理論的には、自我同一性(+1)であり、後者は、Media Pointに相当すると考えられる。
 問題は、これまで、強いて「存在」については述べてこなかったことである。
 ここでは、直感的に考えよう。私は有り体に言えば、「存在」に疑問を感じる。なぜなら、「わたし」は果たして「存在」しているのか、疑問である。というのは、いつかは、「わたし」はこの世から居なくなるからである。つまり、「不在」になるのである。
 それは置いておくとして、「わたし」の存在とは何であろうか。
 わたしはよく夢を見るが、夢をみているときは、夢は現実であり、夢は「存在」している。
 そう、私は夢と現実との「存在」を問題にしたいのである。夢において、夢の世界は確かに、「存在」しているが、夢から覚めると、それは、非存在である。
 もっともわかりやすい例をあげれば、映画である。映画は映像であるが、それを見ている者は、映像を現実存在であると思う。これは、夢ととても似ていると言えよう。そして、現象の問題にきわめて似ているだろう。
 そう、現象と夢はどう違うのかという問題が立てられよう。
 端的に言えば、違いは物質の有無ではないだろうか。夢現象は「存在」しているが、物質ではない。映画の映像は「存在」しているが、物質ではない。だから、「存在」と物質の違いがある。
 具象的に考えよう。「わたし」が「木」を見ているとしよう。これが、現実においてである。つまり、「木」現象を見ているのである。
 そして、その「木」を伐採すれば、材木という物質が取れるのである。これは事実である。もし、夢の中の「木」ならば、材木は不在である。
 これまでの検討から言えば、物質としての「木」とは、+1である。これが、夢現象にはないと言えよう。つまり、夢現象とは、⇒に留まるのではないだろうか。
 そうすると、現象、現実的現象においては、⇒+1が生じているのであり、+1の物質を伴っていると言える。
 ここで、存在を考えると、思うに、存在は、⇒であり、+1の物質ではないと考えられる。
 だからこそ、即自存在、対自存在が考えられるのではないだろうか。つまり、存在と物質とは別のものであるということになる。
 では、即自存在とは、+i中心の⇒であり、対自存在とは-i を包摂した⇒ではないだろうか。
 ということは、超越性を存在と見ることである。超越的差異である+iを即自存在、超越的他者である-iを包摂して対自存在を考えるのである。
 いちおう以上を仮説として、ハイデガーの存在論を考えると、それは、ある意味で、フッサールの現象を単に、存在と言い換えただけではないのかという疑問が生じる。思うに、ノエマとは、-iと見ればいいのではないだろうか。
 そのように考えると、現象と存在は区別がなくなるだろう。つまり、現象=存在である。だから、根本的なのは、現象(=存在)と物質の区別ということになるだろう。
 これが決定的であると思う。では、物質とは何か、である。
 簡単な例で考えよう。水H2Oである。 
これは、水素イオンと酸素イオンの結合である。だから、虚軸において、水素イオンと酸素イオンを定置できる。
 そこから考えると、水素イオンと酸素イオンは存在であり、物質は水H2Oである。つまり、水という現象=存在は、物質としての水H2Oとは異なるということになるのである。
 今はここで留める。後で、新たに検討したい。

追記:冒頭では、即自存在を自我存在+1としたが、それは、不正確なので訂正する。即自存在とは、Media Point=+1になっている自我同一性の様態である。つまり、自己認識方程式における⇒が=になってしまい、差異エネルギーを喪失して、硬直した状態なのである。仏教で言えば、「色(しき)」である。


2009年08月15日(Sat)▲ページの先頭へ
精神分析批判:「死の欲動」(「破壊衝動」)説批判:負のエネルギーの賦活と東洋的身体論
先に麻薬のもつ自己破壊性を考え、それからの連想で「死の欲動」のことを想起した。そこで、以下のように考えてみた。

フロイトの精神分析はPS理論によってたやすく乗り越えられると考えている。簡単に言うと、近親相姦欲望ではなく、差異共振根源的志向性を考えればいいと思うのである。「母」とは、Media Pointであろう。
 とまれ、いちばんの問題は、フロイトが晩年に立てた「死の欲動」説である。これをどう見るのか。以下の説明では、それはひとつは原初への回帰を意味するとある。ならば、それは、思うに、Media Pointへの回帰ではないのか。では、どうして、破壊的になるのか。(今、ふと想起したのは、うつ病にも「死の欲動」があるのではないのかということである。)
 いわば、生の欲動とは、⇒+1と+1である。一般には、若い頃は、これが過剰にあると言えよう。しかし、年齢を重ねると、エネルギーが枯渇するようになる。直感では、いわば、逆作用で、+1⇒の事象が生起するようになるのではないのか。この+1⇒が、「死の欲動」に相当するのではないのか。
 しかしながら、もしそうならば、上述したように何故破壊的になるのか。それは、端的に言えば、その逆エネルギー(負のエネルギーと仮説する)は、虚数・虚軸に関わるもの、超越性に関わるものなので、実数・実軸、即ち、同一性・自我・物質の「作用」を超越しているために、それを破壊する作用をするのではないのか。
 少し言い過ぎたかもしれない。正確に言えば、負のエネルギーは、正(生)のエネルギーとは異質なものであり、後者を乗り越える(トランスする、超越する)と考えられるので、もし、主体が、負のエネルギーに対する適切な対応をもつ「認識」をもっていなければ、それに圧倒されてしまうことは考えられることであり、この圧倒されるという事態が「死の欲動」(破壊衝動)として表出されるということではないだろうか。
 そして、負のエネルギーへの適切な対応をもつ「認識」がある場合は、「死の欲動」(破壊衝動)ではなく、「新生の欲動」(創造衝動)となるのではないだろうか。(思うに、これは、超越衝動と呼んでもいいものである。)
 このように見ると、かなり事柄が明快になってきたのではないだろうか。そう、近代主義は、負のエネルギー=新生の欲動=創造衝動=超越衝動=「宗教衝動」を抑圧してきたのであり、そのために、それが反動的に「死の欲動」(破壊衝動)として表出したのではないのか。
 では、負のエネルギーに対する適切な対応をもつ「認識」とは端的に何であろうか。それが正に東洋的身体論であると思う。禅であれ、ヨーガであれ、気功であれ、負のエネルギーを適切に感受し認識するための方法であると考えられる。(もっとも、現代では、それに批判哲学・超越論的哲学を組み込む必要があるが。)
 後期近代の問題は、精神力学(精神エネルギー論)的には、この負のエネルギーの積極的な取り込みの方法の解明にあったと言えようが、西洋文化の文脈においては、同一性が支配的なので、ほとんど挫折したと言えよう。即ち、とっかかかりは、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキーであったが、ハイデガーの同一性思想の影響を受けていたために、ポスト・モダンの試みはほぼ頓挫したのである。
 思うに、東洋思想・文化は、根本的に負のエネルギーに取り組んでいると考えられる。仏教・禅はその結晶である。正確に言えば、正のエネルギーと負のエネルギーとの関係の解明を志向しているのである。そして、これの究極的な解明が即非の論理である。
 ということで、これで、フロイトの「死の欲動」説批判がなされたとしよう。

追記:麻薬・覚醒剤のもつ破壊作用から本件のテーマを想起したのであり、それに返って言えば、麻薬・覚醒剤問題とは、精神的には、主観的には、負のエネルギーの創造的取り込みの問題であるのであり、それを可能にする哲学・認識が必要とされているだろう。先に、麻薬的感性主義は、ロマン主義であると言ったのが、それは連続的であるので、闇に入り込むのである。「死の欲動」は正しくは新生のエネルギー、創造のエネルギー、超越のエネルギーであることを認識することが、麻薬・覚醒剤的ロマン主義からの脱却・エクソダスである。今日の退廃した社会は、PS理論を必要としているのである。ポスト・モダン的ダーク・ワールドからトランス・モダン的ライト・ワールドへと転換することをもたらす理論である。

追記2:以上を読んで、正のエネルギーと負のエネルギーとは、非対称的であることがわかった。言い換えると、非線形的である。このために、これまで、人類の知、とりわけ、西洋の知は、Media Pointを捉えることができなかったと考えられる。非対称性は、不連続性と言ってもいいのである。幾何学的な対称性を「理性」とする西洋文化は、必然的に、非対称性、不連続性を理解できない「宿命」にあると言うべきである。
 少し説明すると、正のエネルギー⇒+1は、実軸次元性をもち、帰結は、同一性=物質である。しかし、負のエネルギー+1⇒は、虚軸次元性もつのであり、虚数、超越次元に関わるのである。
 エネルギーのこの非対称性・不連続性をこれまで、人類は、端的に把握できなかった故に、世界は狂気・暴力・虚偽・欺瞞に満ち満ちてしまったと言えよう。もっとも、東洋文化、というか仏教は、これを洞察していた。その結晶的帰結が鈴木大拙の即非の論理である。これは、大天才的な理論である。
 
 
参考:
デストルドー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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デストルドー(英語 : Destrudoまたは英語 : Death drive、ドイツ語 : Todestrieb)とは、フロイト の提唱した精神分析学 用語で死 へ向かおうとする欲動のこと。タナトスもほぼ同義で死の神であるタナトス の神話に由来する。
訳語の問題 [編集 ]

フロイトはTodestriebと対のようにLebenstriebという語を用いたが、日本語ではともに「死の本能」「生の本能(エロス )」と訳されることが多い。しかしながら本能 には「遺伝 的に組み込まれた行動パターン」という意味合いが強くTrieb[1] をそのように訳すのは誤解を招きかねない面があり、彼は本能Instinktと別に、自我 に対して何かに駆りたてさせる衝動 という意味でTriebを使ったとされる。英仏訳でも誤りが指摘され、訂正が施されたが日本語訳ではまだ「本能」と訳されている事も多い。日本語訳でも広まりつつある欲動または衝動の訳語に意義があるのは、それにより本人の葛藤 に焦点が当てられることになるからである。患者はしばしば「死にたい」という言葉を発するが、「死の本能」でなく「死の欲動」と訳すことにより、「死にたい気持ちに駆られる」と言わしめるもの、フロイトが「生の欲動」「死の欲動」の二元論で説明しようとしたものは臨床現場で頻繁に聞かれる「死にたい気持ち」と「生きたい気持ち」の間の葛藤としてうまく機能するのである。

フロイトの説 [編集 ]

「死の欲動」概念を展開する前のフロイトは、「愛する者の死を願う」といった両価的感情を伴う[2] 殺害願望から自殺 を説明しようとした。つまり「攻撃性(Aggression)」の内向という解釈であるが、この時点では説自体は「生の欲動」の従属的位置にとどまる。一方彼の「破壊性(Destruktion)」という言葉も混乱を招きやすかった。

フロイトが最初に「死の欲動」という語を用いたのは1920年 に著した『快楽原則の彼岸』であり、人間の精神生活にある無意識 的な自己破壊的・自己処罰的傾向に注目した。この時期に彼の考え方は「快楽が生」から「死の欲動との闘いが生」へと大きく転換したとされる。彼は神経症 における強迫観念 、第一次世界大戦 帰還兵の心的外傷 のフラッシュバック現象 、少女の「いる・いない」遊び観察で見られた不快なはずの母の不在の反復などから、従来の持論であった快感原則からは説明できない心理を見出した。

以下、『死の欲動―臨床人間学ノート』112~114項から、フロイトにおける「死の欲動」の要約を抜き出す。

自我が抵抗しがたい衝動である。
衝動の存在に通常自我は気付きにくく、無言の内に支配される。快楽原則に従わず反復そのものを目的とし、エネルギーが尽きるまで繰り返される。それは強大なエネルギーで日常的なものではなく、自我はその前に無力である[3] 。
最も蒼古的(原初的)な欲動である。
死の欲動は個体発生上、最も古い欲動とされた。退行の究極点であり生命発生以前の原初への回帰を目的とする。それは生死や存在非存在の区別もなく明示的言語で表現するのは困難なので「死」というメタファーでフロイトは命名した。ただし人間の「死」のイメージとは関係なく非生命に向かうという意味でしかない。欲動はこの地点から巨大な破壊エネルギーを手に入れる。
「悪魔的」な生命の破壊衝動である。
自己と他者の区別無く反復強迫的に無意味に生命破壊を目指す[4] 。また「生の欲動」に先立つ。フロイトは死の欲動をエロスによって容易に懐柔されることはないと考えた。憎しみのような攻撃的衝動はエロスの一属性としても理解し得るが、愛と憎しみを超えたところに破壊衝動を想定した。

後継者の発展 [編集 ]

Federnは最重度のメランコリー に「死の欲動」が観察されるとし、同様の指摘はしばしばなされる。しかし大勢ではフロイトの「死の欲動」概念は後進者の間でも批判が多く、考えの一部を取り入れた学者達により新たな展開がなされてゆく。継承発展させた人物はメラニー・クライン 、ジャック・ラカン が代表的である。

後世への影響 [編集 ]

フロイトに先立ちニーチェ が「神の死」を言明し、当時楽観主義は知識人の間では既に力を失っていた。フロイトの思考の変遷も悲観的な世界情勢と無縁ではなかったであろう。彼は第二次世界大戦 の戦禍を見ずに亡くなったが、はからずもその後ヒロシマ ・ナガサキ への核爆弾 の投下、ホロコースト などが起こって破壊衝動を「予言」したような形になり、水爆 開発などで現在では計算上は人類を複数回滅ぼせるほどの大量破壊兵器 を所持していることが明らかになっている。後世多くの精神分析家が「死の欲動」論を援用してこのような人間の暗黒面の解明に切り込んだ。

文化ではアニメ『新世紀エヴァンゲリオン 』(1995年)などでも取り入れられており、これには20世紀末 の状況が反映されているとする見方もある[5] 。→終末もの 、セカイ系

脚注 [編集 ]

1. ^ 心的な欲求、衝動 。深層心理学 の「心のダイナミクス」の項を参照せよ。
2. ^ ここにコンプレックス などといった複雑な概念が介在する
3. ^ フロイトはそこに大戦の根源的衝動を見た。
4. ^ フロイト自身は「一時的マゾヒズム」といった観念を引きずり、理論を完成させずに死去したため、矛盾がなくなるよう敷衍していると思われる。
5. ^ 島田裕巳『終末論と世紀末を知るために』エンカルタ百科事典[1]

参考文献 [編集 ]

熊倉伸宏『死の欲動―臨床人間学ノート』新興医学出版社、2000年 ISBN 4880024236

関連項目 [編集 ]

* リビドー
* 自殺
* 暴力
* エロティシズム

執筆の途中です この「デストルドー」は、心理学 に関連した書きかけ項目 です。この項目を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています 。(PJ 心理学 )

カテゴリ : フロイト派心理学 | 自殺



2009年08月12日(Wed)▲ページの先頭へ
カント的な認識批判の絶対的前提とPS理論:現代日本に蔓延する没クリティカルな言説の撲滅に向けて:ハイデガー唯物論/構造主義的存在論に拠って破壊された批判哲学/超越論的哲学的系譜の復権と日本の復興
これは詳述するのはかなり知的労力を必要とするので、ここでは行なわず、検討課題とするが、予見を簡単に述べるに留める。
 今日、発せされる日本の政治言説、あるいは、諸言説の浮薄さ・皮相性さらに錯誤・虚偽性、とりわけ、二者択一的な似非思考の短絡的誤謬の跋扈する無惨酷烈な状況を見ると、根本的な、ラディカルな問いがなされなくてはならない。いったい、現代日本人は、ホモ・サピエンスかと。退化しているのではないのか。あるいは、類人猿、それとも猿人ではないのか。
 端的に、思考することを難しくさせている原因は何であろうか。簡単に言えば、独断論の横行にある。独断論が思考であると思い込んでいるのである。この問題は超越論的認識によって本来、批判されているはずであるにもかかわらず、そうなのである。
 結局、哲学的思考の衰退が原因であると言えよう。何故、哲学が言説に関わる人間の知性から欠落してしまったのか。既述したように、哲学の混乱が生じたのであり、このために、哲学が意味不明のものに堕してしまったと考えられる。
 (西洋)哲学の混乱の元凶は既述したように新しい知的地平を切り開いたフッサール現象学を継承せずに、それから後退したハイデガー存在論に存する。また、日本においては、権威主義に堕してしまったアカデミズムにある。
 視点を変えて言うと、西洋哲学は、19世紀後期から20世紀初期にかけて、実は、東洋的思考の傾斜をもっていたのである。ニーチェやフッサールは仏教への傾斜があるのである。これは、ある種の神秘的思想への傾斜と言えるのである。そして、この東洋的な傾斜は鈴木大拙の即非の論理に帰結したと考えられるのである(西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」は、同質の思想を、記述のあいまいさによって十分合理的には説明できなかった。また、ウスペンスキーの思想もそれと同質であるが、明確に、即非の論理としては提起されていない)。だから、その点では、日本の哲学者の大いなる怠慢、怯懦さが問題である。(また、思うに、戦争で優秀な人材を喪失したことが大きい。)
 とまれ、西洋哲学の混乱と日本の哲学者の知的後退によって、哲学の堕落が起こったのである。この哲学の堕落が、今日の日本の諸言説の錯誤・倒錯・誤謬・独断・偏見等を生み出している根因ということになるだろう。
 哲学において直近の理論はポスト・モダン理論であったが、その問題点はこれまで十分に指摘したが、ここでの視点から一言言えば、デリダのロゴス中心主義批判やドゥルーズの形而上学批判であるが、これは、一言で言えば、西洋形而上学批判、あるいは、同一性主義批判である。しかしながら、彼らに欠けているのは、カントが行なった純粋理性批判の「批判」主義ではないだろうか。というか、それを忘却しているのではないか。既にカント哲学において、同一性思考批判は為されているのであり、西洋形而上学批判を行なうならば、カントから少なくとも始める必要があるのである。
 カント的な批判哲学の視点、この欠落が、哲学の堕落をもたらしたと言っても過言ではない。だから、必然的に、その系譜にあるフッサール現象学に対する無理解もあると言える。この系譜は、後者に倣えば、超越論的主観性に帰結したのである。故に、具体的には、哲学の堕落はこの超越論的主観性の無理解にあることになる。そして、それをもたらしたのは、上述したように、ハイデガー存在論なのである。確かに、そこには、一種の批判性はある。しかしながら、認識論を存在論に振り替えて、「すり替えて」しまったのである。即ち、超越論的主観性の差異を、存在の同一性に退行させてしまったのである。ここから、唯物論性や構造主義性が優位になってしまい、それまでの批判哲学/超越論的哲学の系譜を破壊してしまったと考えられるのである。
 日本の復興は当然、根源的には、哲学的復興でなくてはならない。


2009年07月26日(Sun)▲ページの先頭へ
真の哲学とは、精神の「構造改革」である:トランス・モダン・マインドを創造するPS理論
私は哲学を小中高教育で義務化すべきと考えている。
 以前も述べたが、哲学とは、単なる抽象的観念遊戯ではないのであり、思考・認識の「力学」の精査なのであり、それによって、主観性が「グレードアップ」するのである。換言すると、精神の未分化な混沌状態から、明晰に分化されて、新しい構築をもつ精神様態へと変換するのである。
 この哲学による精神OSの質的向上がないと、フッサールの言う自然的態度のままとなり、同一性=自我=物質形式に囚われたままなのである。そして、これが、悪神アンラ・マンユなのである。宗教はここでは、精神力学なのである。
 とは言え、今日の硬直した哲学は逆作用である。また、哲学の清算が必要である。ハイデガーの唯物論=構造主義に嵌り込んでしまった西洋哲学、また、字句に拘泥する日本の似非哲学から脱却して、トランス・モダン哲学へと生まれ変わる必要があるのである。
 ついでに言えば、哲学が欠落すると、その帰結が例えば吾桑愁傷や派恣喪徒恥怩である。


2009年06月12日(Fri)▲ページの先頭へ
ハイデガーの「存在論」批判:「存在」は、実軸のゼロ点と虚軸のゼロ点の連続化である
岩波文庫になっているレヴィナスの『全体性と無限』ではなく、国文社の単行本の表紙にレヴィナスのハイデガー批判がある。引用する。

「唯物論は感受性の本源的機能の発見のうちにではなく、〈中立的なもの〉の優位のうちに存している。存在者の上位に存在というこの〈中立的なもの〉を定位すること、存在が何らかの仕方で暗黙裏に存在者を規定していること・・・・・これが唯物論を表明することである。近年のハイデガー哲学はこのような恥ずべき唯物論になりはてている。」

レヴィナスはハイデガー哲学を唯物論であるとして、辛辣に批判している。いわば、「存在」構造主義なのである。これは、同一性主義であるから、レヴィナスが唯物論というのは正しい。
 結局、PS理論から言えば、「存在」は、実軸のゼロ点なのである。これは、確かに、一種の「穴」である。しかし、連続的な「穴」である。
 そう考えると、デリダの差延もよく理解できよう。
否、そうではなく、「存在」と差延は、実軸のゼロから、虚軸のゼロを連続的に把握したものである。
 実軸のゼロと虚軸のゼロとは不連続であることを、ハイデガーやデリダはまったく看過しているのである。
 だから、その点では、両者はドゥルーズ哲学と共通である。

全体性と無限―外部性についての試論 (ポリロゴス叢書) (単行本)
エマニュエル・レヴィナス (著), 合田 正人 (翻訳)

カスタマー・レビュー
他者, 2003/12/26
By プリンス・プリンス - レビューをすべて見る
現代思想を齧った人たちは、得意げに「他者」という言葉を口にする。しかし「他者」とは何であろうか。本書に立ち返り、今一度「他者」について考えて欲しい。本書を読み終えた時、「他者」という言葉を口にすることが憚れるはずである。人が生きることとは他者との係わり合いである。そのことを認識した一冊である。

また昨今の世界情勢を考える上でも、本書は大いなる示唆を与えてくれるはずである。戦争を目の当たりにして。


2009年05月30日(Sat)▲ページの先頭へ
即非論とスピノザ哲学:即非の論理と能動的観念
Kaisetsu氏が、愚樵氏の論考に対して、PS理論から説明されている。「多数零和永続確定完全情報共生ゲーム」
 ここ半月ほど、充分な余裕がないので、十全には検討できないが、愚樵氏の主張される即非の社会的意味であるが、これは、端的に、即非とは、他者を肯定することなので、本来、社会的意味をもっていると私は考えている。
 思うに、即非論とは、スピノザの能動的観念と実に似ていると思う。何故なら、スピノザの思想は、肯定の思想であるからである。
 実は、私は不連続的差異論が生まれる前は、ドゥルーズの思想から、スピノザの思想へと関心を移していたのである。後者には、差異的共同体の思想がある。ただし、以前指摘したように、連続性と不連続性があいまいである。
 とまれ、即非論と能動的観念論は、確かに似ているのである。後者はいわば「否定の否定」である。つまり、他者の肯定なのである。
 今はここで留めるが、後で、愚樵氏の論考とKaisetsu氏の論考を熟読して、思うところを述べたい。

【即非】の社会的意味

愚樵空論

参考:
バールーフ・デ・スピノザ
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スピノザ

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年 11月24日 - 1677年 2月21日 )はオランダ の哲学者 、神学者 。一般には、そのラテン語 名ベネディクトゥス・デ・スピノザ (Benedictus De Spinoza) で知られる。デカルト 、ライプニッツ と並ぶ合理主義哲学 者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論 と考えられてきた。また、ドイツ観念論 やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。

彼の肖像は1970年代 に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。

生涯 [編集 ]
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アムステルダム の富裕なユダヤ人 の貿易商の家庭に生まれる。両親はポルトガル でのカトリックによるユダヤ人迫害から逃れオランダ へ移住してきたセファルディム (マラーノ )。幼少の頃より学問の才能を示し、ラビ となる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。

伝統から自由な宗教 観を持ち、神 を自然 の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教 の信仰のありかたや聖典 の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年 7月27日 にアムステルダムのユダヤ人共同体から破門・追放される。追放後はハーグ に移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。1662年 にはボイル と硝石 に関して論争した。

1664年 にオランダ共和派の有力者、ヤン・デ・ウィット と親交を結ぶ。この交際はスピノザの政治関係の著作執筆に繋がっていく。この前後から代表作『エチカ 』の執筆は進められていたが、オランダの政治情勢の変化などに対応して『神学・政治論』の執筆を優先させることとなった。1670年 に匿名で『神学・政治論』を出版した。しかし、1672年 にウィットが虐殺され、この折りには、スピノザは生涯最大の動揺を示したという(「野蛮の極致(ultimi barbarorum)」とスピノザは形容した)。

1673年 にプファルツ選帝侯 からハイデルベルク大学 教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年 には『神学・政治論』が禁書となる。翌1675年 に『エチカ』を完成させたが、出版を断念した。また、その翌年にはライプニッツ の訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。肺の病(肺病 や珪肺症などの説がある)を患っていたため、その翌年スヘーフェニンヘン (ハーグ近く)で44歳の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。

ハーグ移住後、スピノザはレンズ 磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。

なお、スピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあったとも言われるが、これはスピノザの信条に合わない。スピノザのレンズ磨きは生計のためではなく学術的な探求心によるものだというのも仮説にすぎない。

生前に出版された著作は、1663年 の『デカルトの哲学原理 』と匿名で出版された1670年 の『神学・政治論 』(Tractus Theologico-Politicus)だけである。『人間知性改善論 』、『国家論 』、『エチカ 』その他は『ヘブライ語文法綱要』などとともに、没後に遺稿集として出版された。これは部分的にスピノザ自身が出版を見合わせたためである。


思想 [編集 ]

哲学史上の意義 [編集 ]

スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。

その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ 』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教 神学者からも非難され、スピノザは無神論 者として攻撃された。

一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲル が批判的ながらもスピノザに思い入れており(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している[1] 。フランス現代思想のドゥルーズ も、その存在論的な観点の現代性を見抜き、『スピノザ』という題名の論文を出している。

代表作『エチカ』は、副題の「幾何学 的秩序によって論証された」という形容が表しているように、なによりその中身が如実に示しているように、ユークリッド の『幾何原論』を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の一大体系である。それはまさにQ.E.D(「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略)の壮大な羅列であり、哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹 を試みたものであった。

この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず一元的汎神論、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義 的ともいえる倫理学 [2] を議論している。


存在論・認識論 [編集 ]

ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。

デカルト は神を無限な実体[3] として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体 を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む[4] 神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である[5] ものである(自己原因)[6] 。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである[7] 。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神 における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる[8] 。

スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[9] と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[10] 」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[11] 人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[12] 、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。

倫理学 [編集 ]

スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想[13] を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている[14] 。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志 と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動であるとしている[15] 。

スピノザにおいては、表象的な認識に依存した受動感情(動揺する情念)を破棄するものは、必然性 を把握する理性的な認識であるとされている。われわれの外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念(記憶力にのみ依存する観念[16] )を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識である。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub aeternitatis specie)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る[17] 」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。

上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する[18] 。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力[19] に由来する個の自己保存のコナトゥス(衝動)であることを、スピノザは認めた。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争 になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請される。

国家論 [編集 ]

上述のエチカの議論によれば、理性はたしかに感情を統御できる。とはいえ「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である[20] 」。感情に従属する現実の人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで勝利した者は自己を益したより他人を害したことを誇るに至る。他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならないことを教える宗教は、感情に対しては無力なのである。「いかなる感情もいっそう強い反対の感情に制止されるのでなければ制止されるものでない」とする立場からは、スピノザは国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする[21] 。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが、国家の徳は安全の中にのみあるからである。

統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては、理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている[22] 。

またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。

宗教との関係 [編集 ]

スピノザの汎神論は、神 の人格 を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論 者として神をより理性的に論じ、人格神 については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている[23]

キリスト教については、スピノザとしては、キリスト の復活は、信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとし、またキリストが自分自身を神の宮[24] として語ったことは、「言葉は肉となった」(ヨハネ )という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している[25] 。また徳 の報酬は徳そのものである[26] とする立場からは、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛 を推奨している。また神をその正義 の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり、何人であっても救われると主張している[27] 。


・・・・・

関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、バールーフ・デ・スピノザ に関連するマルチメディアがあります。
ウィキクォート
ウィキクォート にスピノザ に関する引用句集があります。

* 我思う、ゆえに我あり
* 汎神論
* 合理主義哲学
* 神
* 社会契約

・・・・・

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2009年05月10日(Sun)▲ページの先頭へ
「矛盾」の問題:極性的対立(反対)と不整合的対立:絶対矛盾的自己同一と絶対差異対立的自己非同一
先に、オバマ政権は二つの「絶対矛盾」があると言った。一つは、差異共振路線における「絶対矛盾」であり、一つは、差異共振主義と同一性主義の「絶対矛盾」である。
 前者は、民主主義と自由主義との「絶対矛盾」であり、これは極性的対立(反対)なのであり、後者は正に、相容れない対立である。
 思うに、「矛盾」は同一性=物質世界における相互否定の対立を意味すると限定した方がいいのではないか。
 差異共振・即非とは、精神・超越性における相互否定的対立である。
 同一性と差異は峻別されるべきであり、それぞれにおいて対立は異なる論理となるのである。同一性の論理(アリストテレス論理)と即非の論理である。前者の対立を「矛盾」とすることになるのである。
 では、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の「絶対矛盾」は何か。西田幾多郎は個物と個物の相互限定として、「絶対矛盾」を考えている。それは、一見、同一性=物質の世界のことに見える。
 思うに、西田は同一性と差異を混同している可能性がある。しかしながら、例えば、「私」と「山」は差異共振するのである。その場合、両者は同一性だろうか。否、その場合、両者は共に差異である。
 西田の思想を差異主義とするならば、個物と個物の相互限定は即非的となる。そうならば、同一性と差異との混同はない。
 では、「絶対矛盾」の「矛盾」とは、差異共振・即非論理となる。そうすると、上述の定義からすると、それは間違いである。だから、「絶対矛盾」ではなく、差異共振・即非である。あるいは、「絶対差異対立」である。そう、「矛盾」は差異対立とするといいのである。
 以上の視点から西田哲学を見なすと、明快になるのではないだろうか。絶対差異対立的自己同一理論である。つまり、即非の論理やPS理論に通じると言えよう。
 簡単に、絶対対立的自己同一ないしは絶対差異的自己同一性とすればいいだろう。
 しかし、自己同一という発想も問題である。それは、自己同一ではない。自己非同一である。だから、絶対差異対立的自己非同一である。西田哲学の脱構築である。

追記:反対の一致という観念も問題があるだろう。PS理論から言えば、一致しないのである。反対は共振・共鳴するのであり、即非の論理をもつのである。
 また、ヘーゲル弁証法も当然問題である。対立の統一はありえないからである。西洋哲学は、やはり、デリダが説くようにロゴス中心主義、即ち、同一性主義なのである。

参考:
絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎
     一

 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
 かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
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青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)


参考2:

反対の一致coincidentia oppositorum
ニコラウス・クザーヌス
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ニコラウス・クザーヌス

ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus、1401年 - 1464年 8月11日 )は、ドイツ の哲学者 ・数学者 ・枢機卿 。

ドイツのモーゼル河畔のクースに生まれる。 ハイデルベルク大学で学び、パドヴァ大学で教会法の博士号を取得。さらにケルン大学で偽ディオニシウス・アレオパギタ らの思想に触れる。その後1430年 司祭 に叙階され、バーゼル公会議 (フィレンツェ公会議 )では指導的な立場で活躍、高名を得る。東西教会の和解のためにも奔走し、教皇使節としてコンスタンティノープル を訪問。1448年 に枢機卿、1450年 ブリクセン大司教。1464年 トーディにて死去。彼の生涯は教会政治家としての実践と、思想家としての理論が融合した類い希なものであった。
思想 [編集 ]

クザーヌスは「知ある無知」や「反対の一致」などという独創的な思想を唱えた。クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。

彼の思索は中世の混沌のなかから近代的思考を準備したと高く評価されている。 また、カール・ヤスパース や西田幾多郎 など後生にも多大な影響を与えたと言われている。日本では、生誕600年を期に注目が高まり、研究が進んでいる。

主要著作 [編集 ]

* De concordantia catholica
o 普遍的和合について(カトリック的和合について)
* De docta ignorantia
o 学識ある無知について
* De filiatione dei
o 神の子であることについて
* De dato patris luminum
o 光の父の贈りもの
* De visione dei
o 神を見ることについて
* Trialogus de possest
o 可能現実存在
* Directio speculantis, seu De non aliud
o 観察者の指針,すなわち非他なるものについて
* Complementum theologicum
o 神学綱要
* De venatione sapientiae
o 智慧の狩猟について

日本語訳一覧 [編集 ]

* 『知ある無知』(De docta ignorantia,1440年 )岩崎・大出訳、創文社
* 『隠れたる神についての対話』(De dep abscondito,1445年 )
* 『神の探求について』(De quaerendo Deum,1445年 )
* 『神の子であることについて』(De filiatione Dei,1445年 )大出・坂本訳、創文社
* 『可能現実存在』(De possest,1460年)大出・八巻訳、国文社  1987年
* 『非他なるもの』(De non aliud,1462年)松山康国訳:『ドイツ神秘主義叢書7』創文社 1992年
* 『創造についての対話』(De Genesi,1446年)
* 『知恵に関する無学者考』(Idiota de sapientia,1450年)
* 『信仰の平和』(De pace fidei,1453年)
* 『テオリアの最高段階について』(De apice theoriae,1463年):上智大学 中世思想研究所監修/『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』平凡社  1992年掲載
* 『光の父の贈りもの』(De dato patris luminum,1445年)/大出・高岡訳、国文社 1993年
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)
* 『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)酒井・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館  2000年掲載
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)/『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)坂本・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館 2000年掲載
* 『神を観ることについて』八巻和彦訳、岩波文庫  2001年(ほかに、説教と書簡を一つずつ掲載)
* 『神学綱要』(Compendium,1463年 )大出・野沢訳、国文社 2002年

関連項目 [編集 ]
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2009年05月02日(Sat)▲ページの先頭へ
権力への意志Wille zur MachtとMedia Point:同一性志向性*差異共振志向性
思うに、「権力への意志」Wille zur Machtは、おそらく、ほとんど理解されていない、ニーチェの大天才的な概念ではないだろうか。ニーチェはほとんとPS理論に近づいていたと考えられる。端的に言えば、「権力への意志」とは、Media Pointの力学に触れていると推察できる。
思うに、「権力」Machtとは力学の「力」である。そして、意志であるが、以前触れたと思うが、自然(じねん))の「自」、即ち、「おのずから」に近いと思う。だから、自然力(じねんりょく)である。
 ニーチェの思想はきめて、自然科学的な発想に近づいているのである。それも、東洋的な自然科学というべきである。あるいは、自然哲学的である。
 ここでは簡単に触れるだけであるが、「力への意志」の「力」とは、思うに、Media Pointが生成する同一性志向性であり、また、回帰する志向性である。親鸞的に言えば、往相と還相である。
 同一性志向性とは仮象志向性(マーヤー志向性)である。可視的な現象世界の志向性である。端的に、光の志向性である。それに対して、回帰志向性とは、不可視の世界、イデアの世界、超越性の世界への回帰の志向性である。言い換えると、差異共振性・即非性への志向性である。
 思うに、同一性志向性、即ち、⇒+1とは、自然(じねん)生成であり、ある「力」である。エネルギーと言っていいだろう。この「力」=エネルギーは実在するものであり、それと、回帰する「力」=エネルギーと共に、自然を生成進展させる根源力と考えられる。
 問題は、この二つの「力」=エネルギーとは同じものなのか、それとも異質なものなのか、である。
 思うに、同一性志向性が正(プラス)の「力」=エネルギーならば、回帰志向性は負(マイナス)の「力」=エネルギーであろう。それを作用、反作用としていいか疑問である。
 思うに、正の「力」=エネルギーを陽力とすれば、負の「力」=エネルギーを陰力と呼べる。
 思うに、これは発生的なものというよりは、同時並立的なものではないだろうか。即ち、プラスの力と同時に、マイナスの力が作用しているのである。だから、極力である。
 しかしながら、人間においては、プラスの力への傾斜が特化しているのである。とりわけ、男性においてそうである。
 このために、人間においては、自然力は不均衡になっているのである。あるいは、両極端になりやすいのである。
 端的に言えば、同一性志向性が同一性主義へと転換するのである。つまり、同一性=物質主義が生まれるのである。そうすると、マイナスの力、差異共振力が否定・抑圧・排除・隠蔽されて、それが反動=狂気化するのである。
 もっとも、この傾斜があるために、「進化」があったと考えられる。物質科学・技術が発展したのである。また、戦争も拡大したのであるが。
 とまれ、ニーチェは「力への意志」の概念によって、自然の根源力、即ち、同一性志向性と差異共振志向性にほとんど到達したと思われる。
 ただし、ニーチェの場合、同一性志向性に傾斜している。そのために、権力主義肯定の方向があるのである。プラスとマイナスの極力があると見るのが正確であると考えられる。
 文明に応用すれば、西洋文明とは、同一性志向性、プラス・エネルギーに傾斜した文明であり、差異共振志向性を抑圧してきた父権文明であった。ただし、古代ギリシアやイタリア・ルネサンスにおいては、差異共振志向性、母権的志向性がはたらいていた。
 思うに、世界全体を考えれば、当然、極力の均衡作用がはたらくと言えよう。即ち、西洋文明のプラス傾斜に対して、東洋文明のマイナス傾斜がはたらくと考えられるのである。
 言い換えると、ユダヤ・キリスト教的同一性主義に替わって、「多神教」的差異共振主義が台頭するが正道・正義・正統であると考えられる。

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫) (文庫)
フリードリッヒ ニーチェ (著), Friedrich Nietzsche (原著), 原 佑 (翻訳)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫) (文庫)
フリードリッヒ ニーチェ (著), Friedrich Nietzsche (原著), 原 佑 (翻訳)

力への意志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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力への意志(ちからへのいし、ドイツ語:Wille zur Macht)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ の主要な哲学的概念のひとつであり、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」[1] があらゆるものの根源であるという思想 である。
解説 [編集 ]

この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った 』第2部「自己超克」の章である [2] 。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3] 。すなわち、力への意志はルサンチマン と当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。

力への意志は権力への意志と訳されることもあるが、力への意志の「力」は、人間が他者を支配するためのいわゆる権力のみを指すのではない。また「意志」は、個人の中に主体的に起きる感情のみを指すのではない[4] 。力への意志は自然現象を含めたあらゆる物事のなかでせめぎあっている[5] 。力への意志の拮抗が、あらゆる物事の形、配置、運動を決めている。つまり、真理は不変のロゴス として存在するものではなく、力への意志によりその都度産み出されていくものなのである。この思想はジル・ドゥルーズ の差異の哲学に受け継がれた[6] 。

ニーチェは、キリスト教 主義、ルサンチマン的価値評価、形而上学 的価値といったロゴス的なものは、「現にここにある生」から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、力への意志によって流転する価値を承認し続けなければならない悲劇的存在であるとする。だが、そういった認識に達することは、既存の価値から離れ、自由なる精神を獲得することを意味する。それは超人 へ至る条件でもある[7] 。

力への意志という概念はナチス のイデオロギー に利用されたが、現在ではニーチェの哲学を曲解したものであるとする見方が強い[7] 。

著書 [編集 ]

ニーチェは『力への意志』を著すために多くの草稿を残したが、本人の手による完成には至らなかった。ニーチェの死後、これらの草稿が妹のエリーザベト によって編纂され、同名の著書として出版された[8] 。 ただし、力への意志という言葉は『ツァラトゥストラはこう語った』や『人間的な、あまりにも人間的な』の中でも登場し、その概念をうかがい知ることができる。

脚注 [編集 ]

1. ^ ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年、p.216。
2. ^ 今村仁司編 『現代思想を読む事典』 講談社〈講談社現代新書〉、1988年、pp.423-424。
3. ^ ニーチェ著、氷上英廣訳 『ツァラトゥストラはこう言った』上巻、岩波書店〈岩波文庫〉、1967年、pp.193-194。
4. ^ 貫成人 『真理の哲学』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年、第1章§2。
5. ^ 貫成人 『図解雑学 哲学』 ナツメ社、2004年、p.134。
6. ^ 『わかりたいあなたのための現代思想・入門』 別冊宝島44、宝島社、1984年、pp.22-23。
7. ^ a b フリードリヒ・ニーチェ#思想 を参照。
8. ^ 日本語訳: ニーチェ著、原佑訳 『権力への意志』上下巻、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年。

関連項目 [編集 ]

* フリードリヒ・ニーチェ
* エリーザベト・フェルスター=ニーチェ
* ツァラトゥストラはこう語った
* イデオロギー

執筆の途中です この「力への意志」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています 。(Portal:哲学 )


2009年04月21日(Tue)▲ページの先頭へ
直感とはMedia Pointの即非感性であり、言語概念(悟性)と一如であり、差異理性が生起する
私の認識方法はほとんど直感ないしは直観が源泉であり、それを論理的に展開しているものである。だから、いわゆる、客観的資料の論理的展開による実証方法とはまったく異なるのである。
 私は直感/直観には認識があると思う。それは、イメージ、ヴィジョンであり、それを論理的に言語化していく作業が哲学ないしは知的行為である。
 カント哲学で言えば、直感は感性であり、言語は概念であり、悟性である。
 ここでPS理論から解明すれば、直感=感性とは、Media Pointのもつ即非感覚ではないだろうか。例えば、ある対象を視覚したとき、それを直感=感性で知覚する。たとえば、ある人物の態度や表情を見ると、その人の性格が直覚される。たとえば、かつて小泉元首相をテレビで見たとき、これはペテン師だと私は直覚したのである。
 これは、Media Point の即非感覚が対象を知覚するとき、対象が即非感覚からズレるものがあるのであり、それが、怪しいと判断されるのである。
 つまり、即非感覚が対象によって変形されるのであり、その変形が怪しさ、ペテン師というものなのである。そう、やはり、Media Pointはプラトンの言うコーラに相当するだろう。対象を受容して、対象に即して変形するのである。
 そして、この変形された即非感覚を言語化するのが、知的認識行為=哲学行為である。
 では、即非感覚と言語はどういう関係があるだろうか。それは、正に自己認識方程式で説明されよう。⇒が即非感覚であり、⇒+1が言語であろう。先に、即非現象ということを言い、そこでは、イメージと言語と一如であると言ったが、イメージは言語を志向するのである。言い換えると、イメージをノエシス、言語をノエマと言ってもいいだろう。
 ということで、認識の根源は感性・直感・イメージであると言っていいだろう。それから言語化が為されるのである。思うに、カントは感性と悟性の二元論であるが、PS理論からは感性が先にある、ないしは、両者一如であると言える。Media Pointの即非感性が根源なのである。
 つまり、即非感性が言語概念(悟性)と一如であり、その一如において、差異理性が生起すると言えよう。カントは、即非の論理を知らなかったので、理性のアンチノミー(二律背反)を説いたが、しかし、即非論理を認めると、そこには差異理性、つまり、即非理性が発生するのであり、アンチノミーは消えるのである。PS理論は、トランス・カント哲学である。

@@@@@@@@@@@@@@@@

D カント

・・・・・

【感性 Sinnlichkeit / 悟性 Verstand】
 人間の認識能力は、基本的に、〈感性〉と、〈悟性〉に分けられる。
 〈感性〉とは、対象に触発されて、表象を受取る〈受容性 Rezeptivita゙t〉の能力であり、〈悟性〉とは、表象を自ら産み出し、概念によって思惟する〈自発性 Spontaneita゙t〉の能力である。
 〈感性〉がなければ対象は与えられず、〈悟性〉がなければ対象は思惟されない。〈直観〉なき〈概念〉は空虚であり、〈概念〉なき〈直観〉は盲目である。したがって、〈感性〉も〈悟性〉も共に認識には必要不可欠の能力である。また、〈直観〉はあくまで〈感性〉によるべきであり、〈悟性〉だけによる〈知性的直観〉などない。
 しかし、おそらく、この2つの認識の根幹は、我々には知られていないが、共通的の根元から発生したものであろう。
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp
/~sumioka/history/philosophy
/kinsei/kinsei03d.html

西洋哲学詳説


2009年03月25日(Wed)▲ページの先頭へ
『「知識」と「自我」の関連性:同一性知識と差異知性:近代的「知識」の解体とトランス・モダン知性形成へ向けて:同一性ファシズムをぶっ壊せ!:トランス封建主義的トランス・モダン・ヤポネシア・ルネサンス』
『「知識」と「自我」の関連性:同一性知識と差異知性:近代的「知識」の解体とトランス・モダン知性形成へ向けて:
同一性ファシズムをぶっ壊せ!!!・・・:トランス封建主義的トランス・モダン・ヤポネシア・ルネサンスの払暁へ』


【引用開始】
「 そのためには、まずすべての人が年齢や性別あるいは社会的な肩書きに関係なく、同じ人間としてお互いを尊敬し合いながら、フラットにつきあえる、ビジネスができる、そんな社会に変えていく必要があるはずです。


 女性にかぎらず、子どもたちや青年たちも夢が持てるようにする。そのためには、自我を捨て、お互いに助け合う思いを大切にしながら、生きていくようにしましょう。


 ギスギスと自分さえ好ければ、それでいいんだなどという生き方をみんながすれば、今の日本のように住みにくい、暮らしにくい社会になっていくのは当たり前だと思います。


 まず一人ひとりがそばにいる人を、自分と同じぐらい大切で価値ある人だと心から思って、ともに歩いていくことができる社会を再興していくために努力したいと思うのです。」
【引用終了】
http://ameblo.jp/adco
/entry-10230400182.html
スロー人ロハス-Kritik der Politischen Ekonomie

以上のように、スロー人氏は述べられているが、共感できるものである。私が問題としたいのは、今日、日本人、とりわけ、知識人の「自我」の問題である。これは、一言で、近代的自我と言っていいのだが、「知識」と「自我」との関係を検討したい。(国民一般のレベルでは、封建的集合的自我となっている。)
 どうして、「知識」の形成は、硬直した、他者排撃的な「自我」を形成してしまうのか。これはまた、身体の問題である。「知識」は硬直した身体を形成すると考えられる。
 「知識」は一般には、言語を介して形成される。しかし、この言語は、同一性言語である。(今日、衰退した文学であるが、文学言語とは、本来、差異共振言語であり、文学の衰退とは、差異共振言語の衰退と言えよう。同一性言語に文学言語が蚕食・侵食されてしまったと言えよう。しかしながら、より的確に言えば、文学が超越性を失ったこと、衰退の根因であると考えられる。)
 言語とは、先に指摘した通り、本来、差異共振言語であるが、どうして、同一性言語になるのか。ここがポイントである。(因みに、私見では、日本において差異共振言語が衰退して、同一性言語が支配的になったのは、70年代後半からである。79年の大江健三郎の『同時代ゲーム』を象徴的であろう。そこでは、言語が同一性観念化しているのである。それまでの大江文学の差異共振言語性が喪失したと言えよう。)
 やはり、これまで繰り返し検討したように、+i傾斜、父権的な主体傾斜に拠ると言えよう。これが、他者=絶対的差異-iを否定・排除してしまうのである。そして、この+i傾斜が同一性自己と同一性言語と同一性知識(同一性観念)を生み出す元である。思うに、社会的に+i傾斜が支配的なので、個人は、受動的に適応するために、内的他者=絶対的差異を否定して、+i傾斜を強化すると考えられるのである。つまり、父権社会的+i傾斜と個人的+i傾斜が結合して、同一性原理が主導的になると言えよう。
 この父権社会的+i傾斜とは、当然、同一性資本主義の+i傾斜と重なるものである。結局、同一性資本/父権社会的同一性傾斜が内的な父権傾斜を結びついて、同一性自己・同一性言語・同一性知識を形成させていると言えよう。
 問題は、今日の教養には、内的他者=絶対的差異の知性教育がほぼ完全に欠落していることである。(これは先に述べたように、特異性/超越性「教育」である。)言い換えると、《個》の教育の欠落である。これは、自己自身の教育である。内的教育である。省察・内省・瞑想の教育であり、本来、哲学や仏教が育む教育である。また、文学もそのようなものであった。
 いったい、この、いわば、同一性ファシズム(同一性全体主義)は何を意味するのか。日本人を同一性ロボットにすることを意味しよう。そして、同一性原理に外れる特異性人間(他者)を排除する暴力体制を意味しよう。そう、現代日本社会は、オーウェルの『1984年』的な超管理社会、「ビッグブラザー」の支配する同一性ファシズム社会なのである。
 では、この「ビッグブラザー」とは何か。これは、スクリーンに映されるだろうか。否、これは、目に見えない「ビッグブラザー」である。北朝鮮ならば、はっきりと目に見えるが、現代日本では、不可視の「ビッグブラザー」である。そう、不可視の恐怖の「ビッグブラザー」=独裁者がいるのである。(優れたブログはこの同一性ファシズムに挑戦していると言えよう。)
 いわば、現代日本人は、本来の日本に脅えて、恐怖的に排除するのである。そう、これは、やはり、戦後日本属国化政策と官僚的統制主義の支配に拠ると見るべきであろう。
 でも、端的に、直截に言って、何を恐れているのだろうか。現代日本人の怯えとは何か。真正な自己認識を怯えているとは言えよう。内的他者=特異性=絶対的差異を怯えていると言えよう。一種の「闇」である。
 でも、この同一性ファシズムはとにかくあまりに異常というか、奇怪である。いったい、何を恐れているか。怯えは何か。端的に、差異共振の超越光に怯えているのである。「神」に怯えているのである。それを同一性自己像で覆っているのである。同一性自己(自我)にとり、差異共振超越光=「神仏」は見たくないのである。「恐れとおののき」である。その力学は何か。
 それは、封建主義である。封建的共同体主義が、日本人の精神に残っているのである。そのために、自己の特異性を排除して、父権的同一性共同体へと同化するのである。わかった。エウレカ! 封建的共同体的没個主義が、この奇怪な同一性ファシズムを生んでいるのである。
 だから、日本人には、ルネサンスが必要なのである。トランス封建主義的トランス・モダン・ヤポネシア・ルネサンスである。思うに、これは、日本だけでなく、東アジア全体でも必要である。トランス封建主義的トランス・モダン・東アジア・ルネサンスである。

追記:また、今日蔓延しているうつ病等の心病の原因もこの《個》の排除にあると言えよう。

追記2:封建・近代的同一性マインドコントロールとも言えよう。


2009年03月23日(Mon)▲ページの先頭へ
差異共振イマージュ波動言語仮説:同一性概念ないしは父権制の意義とは何か:同一性物質概念形成
(画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10229279095.html


差異共振イマージュ波動言語仮説:同一性概念ないしは父権制の意義とは何か:同一性物質概念形成

テーマ:文字・言語・文化

先に同一性自己意識について検討し、
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10228731083.html
(個人的には、発話・発語が差異共振知覚言語であると判明できてたいへん喜んでいる。つまり、言語も元は、差異共鳴現象という言わば驚異・感動等から生まれたのであり、宗教や芸術と同じ根源であることが理解できて、うれしいのである。直感では、音楽も美術も文学も同じ根源から生まれたと感じていたのであり、それが証明されたのである。西洋伝統文化では、ミューズという霊感の神々を説くが、ミューズとは、Media Pointの差異共振エネルギーと言えよう。
 因みに、ロゴスであるが、それは、やはり、差異共振知覚言語からの抽象であろう。後で検討したいが。また、デリダのエクリチュール論であるが、それは、絶対的差異論として考えられるべきであろう。デリダは音声言語をロゴスと捉えるが、それは単純化である。根源的な発話・発語のレベルでは、音声言語は、差異共振知覚言語であるからである。その条件をなくした音声言語は、ロゴス的となる。エクリチュールとは、差異共振知覚言語の文字的物質化のことと考えられるが、カリグラフィーを考えると、絶対的差異となるだろうが、印字は、同一性である。
 また、ヨハネの福音書の「初めに言葉(ロゴス)ありき」であるが、それは微妙である。「言霊」ととれば、正しいだろう。言霊とは、原言語を含んだ差異共振エネルギーと言えようか。この点は後で検討したい。とまれ、ヨハネの「言葉」(ロゴス)であるが、差異共振イマージュ・エネルギーととるといいのかもしれない。このイマージュは、エイドスに通じるだろう。そして、プラトンの同一性の原型として捉えられた「イデア」に通じよう。)結局、Kaisetsu氏の同一性概念不要論を確認することになったが、では、いったい、何故、同一性概念が形成される必要があったのか、言い換えると、何故、父権文明が発生する必然性があったのか、追究したいのである。
 今、私が「打っている」(書くではないだろう。書くとは、筆記用具をもって、手と指を使って、文字を媒体に付着させることであろう。)言葉は、いったい何だろうか。同一性言語ではないのか。
 否、同一性言語を用いて、PS理論的思考を行い、それを言語記述しているのである。つまり、差異共振的思考言語である。
 結局、同一性言語とは何かと、なる。例えば、「桜」は誰でも使える日本語であり、その意味では、同一性言語である。
 しかし、先の差異共振知覚発語の視点から見ると、「桜」とは、差異共振知覚発語の結果であり、単に、同一性言語+1ではないのである。
 では、単純に言って、同一性言語でないとすると、「桜」という言語は何か。それは、(造語するが)差異共振言語であるということである。それを同一性言語として、抽象化するのは、虚構・仮想である。
 そう、差異共振言語(差異共鳴言語)と言うべきであろう。これが同一性言語という仮象をとらされるのである。
 この差異共振言語の仮説であるが、この視点から、上記の聖書の「言葉(ロゴス)」は、差異共振言語(差異共鳴言語)ないしは、差異共振原言語(差異共振プロト言語)と考えることができるのではないだろうか。これまでは、普通、同一性言語ととられてきたのではないだろうか。同一性言語ととると、まったく福音書の意味が死んでしまうだろう。完全な誤解となる。
 差異共振言語(差異共振プロト言語)ととると、「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。」の意味が明快明晰になるだろう。即ち、「はじめに差異共振言語があった。差異共振言語は神=イデアと共にあり、差異共振言語は神=イデアであった。」と言い換えられよう。
 そして、差異共振言語とは、差異共振波動であり、空海・弘法大師の波動言語・文字論もこの視点から解明されよう。より的確に言えば、差異共振イマージュ言語ではないだろうか。イマージュ言語だから、文字言語にもなると考えられるのである。そう、デリダのエクリチュールは、差異共振イマージュ言語が本体であると考えられよう。
 また、幾何学も、差異共振イマージュ言語で説明できるのではないだろうか。数もこれと関係していると予見できる。
 キリスト教に関連させると、「ロゴスの受肉」としてのイエス・キリストであるが、それは、差異共振イマージュ言語の身体化である。思うに、これは、物質化というよりは、差異共振イマージュ言語と精神身体との共鳴ではないだろうか。
 また、以下の「彼の中に生命(いのち)あり、生命は人の光なり。光は暗(くらやみ)に照り、暗は之を覆はざりき。」であるが、生命(いのち)とは、やはり、差異共振イマージュ言語(差異共振イマージュ波動言語)ではないだろうか。これは、確かに、生命の根源である。また、「光」とは、当然、差異共振エネルギー、即ち、超越光と考えられる。これは、仏教における光と同質と考えられる。たいへん刺激的で、わくわくするが、今はここで留めて、後で、より精緻に検討を続けたい。

追記:本題からそれてしまったが、後で考察を続けたい。今簡単に言えば、同一性概念の発生の意義とは、やはり、同一性物質概念の形成と関係しよう。つまり、抽象知性の形成である。これが、物質科学・技術を生んだのである。

追記2:以下の参考の記事で、「命の源流」=ゼロとしているが、「命の源流」とは、差異共振イマージュ言語であり、それは、ゼロではなく、Media Pointである。ゼロとすると、連続化してしまうのである。
 ところで、双子のブラックホールの融合とは、実に象徴的である。ブラックホールをMedia Pointと読めば、Media PointとMedia Pointとの融合であり、それは、新しい差異共振エネルギーの発動であると考えられよう。
 そう、正に、陰陽である。一つのブラックホール=Media Pointは+iであり、他の一つのブラックホール=Media Pointは-iとであり、両者の共振として、(+i)*(-i)⇒+1となる。この⇒+1が新しい星々を創るのだろう。

追記3:
しょうじじっそうぎ しやうじじつさうぎ 【声字実相義】

真言教学の重要な教典の一。空海著。一巻。この宇宙全体が超越的存在である大日如来の言語の現れであるとし、それを理解し、超越者と一体化する道を示す。声字義。
http://dictionary.infoseek.co.jp
/?spa=1&sc=1&se=on&lp=0&
gr=ml&qt=%A4%B7%A4%E7
%A4%A6%A4%B8%A4%B8%
A4%C3%A4%BD%A4%A6%
A4%AE&sm=1&sv=K

追記4:イマージュ言語(ないしは言語イマージュ)の考え方は、井筒俊彦氏の思想から発想したものである。なんという書物から忘れてしまったが、禅の哲学の説明で、よく使われていたように思う。

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫) (文庫)
井筒 俊彦 (著)

意味の深みへ―東洋哲学の水位 (-)
井筒 俊彦 (著)


参照:
聖書
出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』
(コヘレトの言葉 から転送)
移動: メニュー , 検索

聖書 からの引用、聖書に関する引用。ラテン語を併記。

・・・・・
イエス・キリスト

* はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。- ヨハネによる福音書1:1

Εν αρχη ην ο λογοs,και ο λογοs ην προs τον θεον, και θεοs ην ο λογοs.-- ギリシャ語。

In principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum.

αρχηはアルケー 。λογοs(ロゴス )とはイエス・キリストの事とされる。

* 彼の中に生命(いのち)あり、生命は人の光なり。光は暗(くらやみ)に照り、暗は之を覆はざりき。 - ヨハネによる福音書1:4-5(「イオアンによる聖福音」正教会 訳)

* 言(ことば)は肉体と成りて我等の中(うち)に居りたり、恩寵と真実とに満ちたり。我等彼の栄光を見たり、父の独一子の如き栄光なり。- ヨハネによる福音書1:14(正教会 訳)

* わたしはアルファでありオメガである。 - ヨハネの黙示録1:8

Εγω ειμι το αλφα χαι το ω. -- ギリシャ語。
Ego sum Alpha et Omega.

* ひとはパンだけによって生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる。- マタイによる福音書4:4

Non in pane solo vivet homo sed in omni verbo quod procedit de ore Dei.
旧約聖書 申命記8章3節からの引用。なお、パンはアルトスの訳語。糧と約される場合もある。また言葉はepiousiosの訳語で聖書中でこの箇所のみ。

http://ja.wikiquote.org/wiki
/%E3%82%B3%E3%83%98
%E3%83%AC%E3%83%88
%E3%81%AE%E8%A8%80
%E8%91%89

参考:
『命の源流』を意識すると奇跡のシンクロが何度も何度も続きま。
・・・・・

「双子」のブラックホールか=銀河の合体で誕生!

というニュースが5日のフォトニュースのランキングで
一位になっていました。

=========
 2つの巨大ブラックホールがお互いに回り合っていると
みられる様子を、米国立光学天文台(NOAO)の研究
チームが観測し、5日付の英科学誌ネイチャーに発表した。

大規模な銀河の中心にはブラックホールがあり、銀河同士が
衝突・合体すると「双子」のブラックホールが誕生すると
考えられてきたが、実際に双子である可能性が高い天体が
見つかったのは珍しい。 (時事通信)
==========

 そして、原点戻り復活だ!イチロー1番でWBC開幕!
というニュースもありました。

 原点戻り=原点回帰ですから、今こそ大切なことです。

 ところで、私が一週間程前から書いていた、ヒーラー養成
特別講座・その9には、双子と、ブラックホール、宇宙などが、
シンクロしています。

 ヒーラー養成講座に、双子・ブラックホール・宇宙などの
言葉は関係がないだろう?となりますが・・・。

 『命の源流』の渦巻きは明らかに銀河の渦巻きであり、
『命の源流』=(ゼロ)を意識することによって、あり得ない
シンクロ現象が頻繁に起きています。
http://angel3939.blog97.fc2
.com/blog-entry-605.html
右脳開発で大願成就!
参考2:

「双子」の巨大ブラックホール探査の新方法を発見


2008年7月22日

左から嶺重教授、早崎研究員

 早崎公威 基礎物理学研究所 研究員(研究代表)、嶺重慎理学研究科教授らの研究グループは、数値シミュレーションによって、「双子」の巨大ブラックホールの周囲に三つのガス円盤が形成されることを世界で初めて示し、このシステムから放射される光に、X線や紫外線等は激しく周期変動し、可視光や赤外線はほとんど変動しないことを発見しました。

 このことにより、未だ解明されていない巨大ブラックホールの起源が明らかになることが期待されます。

 この研究成果(概要は別紙のとおり)は、8月発行の米国天文学会誌『Astrophysical Journal』に掲載予定です。
研究成果の概要

 宇宙の成り立ちを紐解くことは、自然科学の究極の目的の一つである。これまで、世界中の天文学者がしのぎを削った結果、宇宙の大規模構造の形成史が解明されつつある。しかし、未だに皆目わからないのが、巨大ブラックホールの起源である。近年、宇宙に存在するほとんどの銀河の中心には、太陽の100万倍〜 100億倍の質量を持つ巨大ブラックホールが存在することが確定した。しかも、その巨大ブラックホールの質量は、それを有する母銀河が大きければ大きいほど大きくなることも分かってきた。これは、とりも直さず、巨大ブラックホールと母銀河が、共に進化していることを示唆する。とはいうものの、その直接的証拠は未だない。

 銀河は、小さな塊が合体してできあがった。そこで、銀河が巨大ブラックホールと共に進化しているなら、銀河が合体成長するとともにブラックホール同士も合体して成長するはずである。すると、合体する前の、お互いの周りをくるくるまわっている双子のブラックホールがあるに違いない。それを見つければ、巨大ブラックホールと銀河の共進化を直接証明できることになる。

 今回私たちは、数値シミュレーションによって、双子の巨大ブラックホールの周囲に三つのガス円盤が形成されることを、世界で初めて示した。(下図)。そして、このようなシステムから放射される光に特徴的な挙動、すなわち、X線や紫外線等は激しく周期変動し、可視光や赤外線はほとんど変動しないことが判明した。今後、観測によってこのような特徴的な変動が見つかれば、双子の巨大ブラックホールの証明となる。

 実際に、銀河中心のブラックホールにこのような構造が普遍的に存在することが観測によって示されれば、それは人類の宇宙観を大きく変えることは間違いない。

* NHKで放送されました。
* 朝日新聞(7月23日 34面)、京都新聞(7月23日 30面)、産経新聞(7月23日 3面)、日刊工業新聞(7月23日 26面)、毎日新聞(7月23日 2面)および読売新聞(7月28日 23面)に掲載されました。

http://www.kyoto-u.ac.jp
/ja/news_data/h/h1/2008
/news6/080722_1.htm

京都大学

「双子」のブラックホールか=銀河の合体で誕生−米天文台

 2つの巨大ブラックホールがお互いに回り合っているとみられる様子を、米国立光学天文台(NOAO)の研究チームが観測し、5日付の英科学誌ネイチャーに発表した。大規模な銀河の中心にはブラックホールがあり、銀河同士が衝突・合体すると「双子」のブラックホールが誕生すると考えられてきたが、実際に双子である可能性が高い天体が見つかったのは珍しい。(2009/03/05-10:45)
http://www.jiji.com/jc/zc?k
=200903/2009030500054

参考3:

声字実相義  弘法大師

一には叙意二には釈名体義、三には問答。

(一)叙意

初に叙意とは、それ如来の説法は必ず文字による。文字の所在は六塵その体なり。六塵の本は法仏の三密すなわちこれなり。平等の三密は法界に遍じて常恒なり。五智四身は十界に具して欠けたることなし。悟れるものをば大覚と号し、迷えるものをば衆生と名づく。衆生癡暗にして自ら覚るに由なし、如来加持してその帰趣を示したもう。帰趣の本は名教にあらざれば立せず。名教の興りは声字にあらざれば成ぜず。声字分明にして実相顕わる。いはゆる声字実相とはすなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼茶なり。故に大日如来この声字実相の義を説いて、かの衆生長眠の耳を驚かしたもう。もしは顕、もしは密、あるいは内、あるいは外の所有の教法誰かこの門戸によらざらん。今大師の提撕によつてこの義を抽出す。後の学者もつとも研心遊意せよのみ。大意を叙すること竟んぬ。
http://www.chohoji.or.jp
/houwa/shoujijissougi.htm

参考4:
声字実相義ノート
・・・・・

「声」とは音響のことである。名をあらわすものを「字」と呼ぶ。文字のことではない。むしろ言葉のかたちと考えた方がよい。さて、「字」はものの体を示す。示されたもの、すなわちイメージを「実相」という。これが空海による定義である。「字」は「声」がなければ成り立たない。「声字」と「実相」は不可分のものだが、決して同一ではない。これを密教的に見ると、身密が「実相」であり、「声」が語密、真言を指す。阿字を例にとる。ア音は「声」、それがあらわすものは法身で、これが「字」。諸法本不生の義が「実相」となる。
http://www5b.biglobe.ne.jp
/~yutakas/zissougi.html

参考5:

 Title
 声字実相義

 Description
【一オ】
声字実相義
一叙意 二釈名体義 三問答
初叙意者夫如来説法必籍文字文字所在
六塵其体六塵之本法仏三密即是也平等
三密遍法界而常恒五智四身具十界而無
欠悟者号大覚迷者名衆生衆生痴暗無由
http://www.saigyo.org
/cgi-bin/cr.rb.cgi?syoji-txt

参考6:
『即身成仏義』の「成仏」という言葉を、空海は“仏に成る”という意味では考えていないんですね。「いわく身とは我身・仏身・衆生身、これを身と名づく」「(我身・仏身・衆生身は)不同にして同なり、不異にして異なり」。
http://www.eel.co.jp/03_wear
/02_selfread/kukai09.html

Seigo自著本談

参考7:

声字実相義
声と字による真実世界の探求

弘法大師空海の作に、声字実相義があります。

如来の説法は、必ず文字による。
文字の所在は六塵(色声香味触法)その体なり。
六塵の本は、法仏の三密すなわちこれなり。
平等の三密は法界に遍じてしかも常恒なり。

仏教の教えは、実相(現実の真実の姿)とは何かを探求する旅でした。
釈迦は、欲望にまみれた現実世界とは別の世界(涅槃)を求め、苦行に励みました。

そして最後にはその苦行を捨て「1:冥想」と「2:正しい考え」により得た覚りの智慧を元に
人々に教えを伝え始めたのです。

http://mandalaya.com
/jissou.html
まんだらや
密教研究所


2009年03月14日(Sat)▲ページの先頭へ
記憶とは何か:Media Point における差異共振記憶と同一性記憶:PS理論に拠る創造的記憶論:ベルクソンの『物質と記憶』に触発されて
記憶の保存される場所は何処なのか。唯物科学ならば、それは、脳と言うだろうが、新イデア論であるPS理論はそういうわけにはいかない。
 具体直截に考えてみよう。例えば、今、「わたし」は車窓の景色を眺めているとしよう。その景色は、山間を流れる川である。いったい、それは、どこに記憶されるのだろうか。現象とは、根源的には、差異共振現象、即ち、⇒+1である。差異共振現象として「山間の川」があり、それは、それで同一性現象+1である。とまれ、知覚としては、差異共振知覚/同一性知覚が生じていて、それが記憶されると考えられる。
 差異共振/同一性知覚(⇒+1)は、当然、 Media Point が源泉である。これは、同一性像を投影するのであるが、この投影像が、同時に、知覚記憶するものではないだろうか。否、精緻に見ないといけない。投影像を見ている「本体」ないしは意識があると考えられる。これは、デカルトの「考えることを疑うことができない」と判断するコギトである。これは、先に述べたように、差異、特異性、他者である。つまり、同一性知覚に対する差異知覚である。
 この差異知覚が記憶する主体であると考えられる。すると、それは、当然、Media Point であるが、Media Point における内的他者・内的差異である-iであると考えられる。そして、これは、同時に、差異共振性そのもの、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、Media Point の虚軸ゼロ点で記憶していることになる。もしこれが正しければ、これは画期的発見である。
 そう決める前に、実軸ゼロ点と記憶との関係を確認する必要がある。実軸ゼロ点とは、同一性志向性・同一性自己志向性の原点である。構造主義の構造が虚構される点である。これは、同一性像が投影される原点である。ここに記憶はないのか。そう、ここは、同一性自己意識の原点であり、同一性知覚の原点である。だから、投影された同一性像をここで知覚していると考えられる。すると、記憶はここにもあるのである。これも正しければ、これも画期的な発見である。
 上の二点が正しいとすれば、記憶とは、Media Point の二つのゼロ点で行われていることになる。即ち、同一性知覚と差異知覚の二つの知覚で記憶が起きているのである。前者の記憶、同一性記憶とは、物質記憶、事物記憶と言えようし、ほぼ、言語記憶と言えよう。それに対して、後者の記憶、差異記憶とは、差異共振記憶、いわば、芸術・詩・共感的記憶と言えよう。言い換えると、散文的記憶と詩的記憶である。
 結局、両者の記憶があり、それが、Media Point に蓄積されていると言えよう。(こう考えると、オカルティストの説くアカシック・レコードは単に夢想・妄想ではない可能性が強くなってきた。なぜなら、 Media Point とは、イデア構造体であるからである。)
 そう作業仮説して、ベルクソンの記憶論と関連させると、ベルクソンの説く記憶とは、主に、同一性記憶であると考えられる。なぜなら、行動・運動と密接に関係をもっているからである。ただし、持続、純粋持続という場合、そこには、 Media Point のエネルギーが入っていると考えられよう。そう、ベルクソンが知覚と物質との「連続性」を説くとき、それは、差異共振性を意味していると考えられる。(ベルクソンのいう「連続性」は、PS理論における連続性とは、かなり異なると言えよう。また、ベルクソンのいう「非連続性」も同様である。少し説明すると、ベルクソンの「連続性」とは、知覚とその延長としての物質との一種の連携性を意味するのであり、また、「非連続性」とは、同一性個体のこと、つまり、+1 のことである。)
 つまり、ベルクソンは差異共振性と同一性記憶とを混淆させているのである。つまり、PS理論的には、本来、不連続である両者を連続化させているのである。以前、ベルクソン哲学の連続性を批判したことがあるが、それは、正に、この点で証明される。
 関連させて言うと、ベルクソン哲学を「継承」しているドゥルーズ「哲学」について言及すると、それは、確かに、ベルクソン哲学の連続性に影響されているが、ベルクソン哲学にある持続に感じられる特異性と同一性との一種の区別がドゥルーズ「哲学」ではまったく消失してしまっていると考えられるのである。
 つまり、ベルクソン哲学は確かに、持続概念において、差異共振性と同一性を混淆させているが、それを単純に統一しているのではなく、両者の微妙な違い・ニュアンスを示唆しつつ、連続化させているのである。それに対して、ドゥルーズの場合は、その違い・ニュアンスをまったく喪失しているのである。
 さて、本題にもどると、ベルクソンの記憶論からPS理論の記憶論が展開できることになった。それは、創造的記憶論である。差異共振記憶こそ、創造の源泉である。これによって、創造が為されるのである。思うに、夢とは、この記憶を追究しているのでないだろうか。そして、天才たちは、この創造的記憶から天才的な作品を産み出しているのではないだろうか。
 では、それに対して、同一性記憶とはどう作用するのだろうか。これはたいへん重要なポイントである。もし、同一性記憶が不確定になると、差異共振記憶は曖昧になるのではないだろうか。言い換えると、同一性記憶が差異共振記憶に侵入・侵害されて、妄想、幻想、幻覚等が発生するのではないだろうか。いわば、精神病(うつ病やパラノイアや統合失調症等)の発生が考えられるのである。だから、創造的記憶とは、結局、同一性記憶と相俟って、真に、つまり、積極的に創造的になるものと言えよう。
 とは言え、逆に、同一性記憶を強調し過ぎると、当然ながら、創造的記憶が抑圧されて、創造性が枯渇するようになるだろう。日本の受験教育とはそのようなものである。
 そうすると、PS理論的創造的記憶論とは、創造的教育論にもなると言えよう。トランス・モダン・エデュケーションの基盤は、そこに見い出せるだろう。超越性と物質性との共振する教育が為されなくてはならないのである。理系と文系が融合するトランス・モダン教育である。
 とまれ、ベルクソン哲学は、先にも述べたように、トランス・モダン哲学の先駆の一つとして、位置づけることができるのである。


2009年03月04日(Wed)▲ページの先頭へ
同一性=物質と同一性自己:物質とは同一性自己投影像、仮象、マーヤーだ:ヘーゲル弁証法の脱唯物論性
先にヘーゲル弁証法について分析していたとき、合(ジンテーゼ)において、同一性=物質を否定して、同一性認識ないしは同一性知性を「精神」が包摂すると言った。この同一性=物質と同一性認識(同一性知性)の関係をより詳述したい。同一性認識(同一性知性)とは当然、同一性自己認識と重なると見ることができるので、同一性=物質と同一性自己との関係を子細に見ていきたい。
 この問題は先に述べた鏡像自己の問題に返るとわかりやすい。即ち、差異共振面に、同一性像を投影して、その鏡像を自己(同一性自己)と認識すると言った。それは、自己本来の差異共振性(差異共振像)を否定・抑圧して、同一性を差異共振鏡面に投影し、そこに反照する鏡像と同一化して、同一性自己像を形成するということである。
 問題は、原点にMedia Point があり、また、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点の両方が存していることである。しかし、鏡像自己においては、出発点は、実軸ゼロ点と考えられる。この「意識」が虚軸ゼロ点の差異共振性(差異共振像)に劣等感を覚えて、反感をもち、虚栄優越的に、それを否定して、同一性像を鏡面に投影して、鏡像自己と一体化すると考えられる。
 とまれ、重要なポイントは、実軸ゼロ点は、同一性志向性の原点であると考えられることである。では、核心の問題である同一性自己はどこにあるのだろうか。そう、志向性とは、端的に、認識性というということである。だから、同一性志向性とは、同一性認識性ということである。
 だから、実軸ゼロ点に同一性認識性、つまり、同一性自己の原点があるということになる。ここから、鏡面に同一性自己を投影するのである。そして、鏡面は、実際は差異共振像なのである。
 では、同一性=物質はどうなるのか。それは、差異共振鏡面に投影された同一性認識性が形成するものではないだろうか。つまり、同一性志向性=同一性認識性が差異共振鏡面に同一性像を形成するのであり、その同一性像が物質の原像ではないだろうか。フッサール現象学で言えば、同一性志向性がノエシスであり、差異共振鏡面に投影された同一性像がノエマではないだろうか。つまり、同一性志向性=同一性認識性が差異共振鏡面に同一性像を反映しているのであり、実は、同一性=物質自体は本来存在しないのではないだろうか。(フッサールは精神がすべてなくなれば、自然もなくなると述べていた。)
 ということは、同一性=物質とは、主観的な像であり、客観的な実在ではないことになる。正に、マーヤーである。仮象である。
 そこで、本件のテーマを考えると、+1とは同一性志向性=同一性認識に拠る仮象・マーヤー(幻像)であると言える。だから、ヘーゲルの合(ジンテーゼ)とは、同一性=物質を廃棄して、同一性志向性=同一性認識を「精神」に包摂したものと端的に言えるのである。正に、止揚である。そして、「精神」は、実軸ゼロ点を包摂した、連続的虚軸ゼロ点と考えられるのである。
 以上のように見ると、ヘーゲル弁証法は、唯物論を克服していることがわかるのである。しかしながら、それは、差異、超越性を同一性志向性に一致してしまっているので、全体主義的なのである。とまれ、同一性志向性精神を取りだしたことはヘーゲル弁証法の偉大な功績である。
 私はこれまで、ヘーゲル哲学はマルクス/エンゲルスの唯物弁証法を土台と考えていたが、そうではないのである。ヘーゲル哲学は同一性=物資を廃棄して、いわば、同一性志向性精神を説いているのである。フッサール的に言えば、ノエシスを説いているのである。同一性認識性を説いているのである。
 さて、今は示唆するだけだが、以上の考察を、ベルクソンのイマージュ哲学ないしは純粋持続哲学に適用すると興味深いだろう。物質は正に、イマージュなのである。それは、純粋持続が形成するイマージュなのである。しかしながら、ベルクソンは、物質を幻像とは見ていない。だから、物質と記憶という二元論になるのである。


2009年02月26日(Thu)▲ページの先頭へ
『自然界とは何か:差異共振的同一性界か、それとも、差異共振界か?:自然という差異共振鏡面と人間の同一性像の投影(マーヤー):差異共振ミメーシスと差異共振視覚・感覚:シェイクスピアの差異共振ミメーシス性とケルト文化の差異共振精神:年輪や木目と差異共振性の縁としての同一性形状(差異共振的パターン:差異共鳴パターン)』
『自然界とは何か:差異共振的同一性界か、それとも、差異共振界か?:自然という差異共振鏡面と人間の同一性像の投影(マーヤー):差異共振ミメーシスと差異共振視覚・感覚:シェイクスピアの差異共振ミメーシス性とケルト文化の差異共振精神:年輪や木目と差異共振性の縁としての同一性形状(差異共振的パターン:差異共鳴パターン)』


先に以下のように鏡像自己に関する解明を行なったが、自然、自然現象についての解明に少しブレがあるようなので検討したい。
 鏡面は差異共振的同一性面であり、そして、自然が差異共振現象であると述べたのであるが、そうすると、鏡面と自然との関係を明晰にする必要がある。例えば、自然現象は本来、差異共振現象であり、自然に接すると差異共振視覚が喚起されるということを言ったが、そのとき、自然は鏡面なのだろうか。
 問題のポイントは鏡面が差異共振的同一性面であるということにある。では、自然も差異共振的同一性面だろうか。ここは微妙である。
 直感で考えよう。自然に面して、主観には差異共振像が生まれる。これは、Media Point 的視覚(MP的視覚:Media Point Vision:MPV)である。では、このとき、自然は何なのであろうか。自然は差異共振現象であると述べたのであるから、主観(主体)におけるMP的視覚が差異共振現象である自然と共鳴して、差異共振像を生起させると考えることができよう。
 これを分析するなら、主観(主体)が差異共振エネルギー(超越光/光)を放出する自然に臨むとき、それを視覚受容し、MP的視覚が賦活・活性化・「励起」され、差異共振像を結像すると考えられる。このとき自然は鏡面ではないのか。そう、確かに、一種の鏡面であるが、差異共振的鏡面である。(神鏡とは、差異共振的鏡面、Media Point Mirrorと言えよう。)しかし、差異共振的同一性鏡面と言えないのか。差異共振的同一性鏡面とは、端的に、差異共振的鏡面である。だから、結局、自然と鏡面は一致するのである。だから、やはり、問題は、人間主体の志向する同一性像(同一性志向性)である。この人間の主体の同一性像志向性が差異共振像である自然鏡面(差異共振鏡面)に、臨むとき、その同一性像を投影して、自然現象を同一性像(マーヤー)化すると考えられるのである。これで本件の問題が解明された。
 【因みに、『ハムレット』における有名な鏡としての演劇論(ミメーシス論)を簡単に考えてみよう。即ち、演劇とは時代を映す鏡であるという美学である。この場合、ミメーシス/リアリズムは、先に述べた通り、同一性=物質的リアリズムではなく、差異共振的リアリズム(差異共振的ミメーシス)、即ち、即非ミメーシス、Media Point Mimesisと考えるべきである。これは、ゴヤの絵画に似ている。とまれ、この視点で、シェイクスピア演劇の美学も解明されると考えられる。シェイクスピアの洞察眼・心眼は、差異共振的視覚に拠ると考えられるのである。また、創作方法も、差異共振的知覚で、対象に成り切って、表現するので、シェイクスピア個人は消えるのである。シェイクスピアの長年の謎もこれで解明されたと考えられる。ついでに、私が唱える英国文学におけるケルト文化性であるが、ケルト文化性とは、端的に、差異共振的精神性と言えるだろう。私はケルト神話と日本神話(折口信夫の説くもの)とが酷似していると述べているが、それは、差異共振的精神ということで説明できよう。】
 では、発展させて言うと、視覚ないしは感覚とは何なのだろうか。これは、本質的・核心的な問題の一つである。視覚に限定すると、それは、端的に、差異共振的視覚であり、本来、その中に同一性視覚(物質視覚)が包摂されているのであるが、近代/現代において、同一性像の傾斜(西欧近代主義)があるため、同一性像が支配的になり(同一性像主義=唯物論)、差異共振的視覚が抑圧・排除されていると考えられるのである。
 そうすると、今日、一般に言われる視覚ないしは感覚とは、端的に、同一性主義的視覚・感覚、唯物論的視覚・感覚である。だから、それは、錯誤の視覚・感覚である。同一性視覚・感覚である。因みに、よく感性と言われるが、それは、差異共振視覚・感覚を示唆しているが、きわめてあいまい、不明晰である。端的に、差異共振視覚・感覚と言うべきである。
 追加として、自然の差異共振像であるが、例えば、年輪や木目等であるが、それは差異共振像の一つではないだろうか。問題は黄金分割等にも関係するが(そう、デザインの問題にも関係するが)、即ち、年輪や木目とは確かに、同一性=物質をともなっているが、その形状・形態は、差異共振エネルギーの波動の現象化したものではないだろうか。言い換えると、差異共振エネルギーによる、不連続的転移における、差異共振像の痕跡ではないだろうか。
 より的確な考察は別稿にするが、要するに、年輪の輪であるが、それは、差異共振エネルギーが同一性=物質化するとき形成される形状・形態であると考えられ、差異共振的同一性的形態と呼べるが、この形態は単なる同一性=物質の形態ではなく、差異共振エネルギーないしは差異共振像の痕跡ではないのか、ということである。木目も同様ではないのか。
 直感では、それらに差異共振エネルギーを感じるのであるが、それは、その形状(単に形状だけからでなく、その材質からも感じるが)から発しているように思えるのである。そう、黄金分割と同様なことがあると思えるのである。つまり、差異共振エネルギーの同一性の縁である。だから、年輪や木目とは、差異共振性の縁としての同一性形状・形態であり、そのため、差異共振エネルギーを放出しているのではないだろうか。これは敷延して、自然現象の形態に当てはまると考えられる。例えば、渦巻やラセンはそういうものではないだろうか。端的に、差異共振的パターン(差異共鳴パターン)と言えよう。
 これは、音楽で言うと、モーツァルトの音楽である。差異共振エネルギーの縁としてのモーツァルト音楽ではないだろうか。その古典主義という同一性は、差異共振性の縁、差異共振性の同一性の縁と考えられるのではないだろうか。
 長くなったので、稿を改めて検討したい。
 
参照:
《『鏡面と鏡像と視覚:差異共振像と同一性像と視覚主導:脱同一性鏡像化と差異共振視覚の復活』

・ ・・・・

鏡面は差異共振像の反映する差異共振的同一性面(差異的同一性面:以下、共振同一面または共鳴同一面)であり、そこに同一性志向性の不連続的転移に拠る同一性放射光が注がれ、同一性鏡像が生まれるのである。
 ポイントは、本来、差異共振像である鏡面に、差異共振性を否定する同一性像が反照されるということである。この差異共振鏡面に同一性像が反照されるという事象に、人間の謎・秘密の黄金の鍵があると言える。《先にも触れたが、神器の一つである鏡とは、この共振鏡面のことであると考えられる。そして、そこに差異共振像・超越光を見るのが正しいのであるが、同一性自己(自我)の人間には、そこに同一性像しか見い出せないのである。》
 問題は視覚の作用である。同一性志向性の視覚が、共振鏡面に同一性像を反映するのである。即ち、差異共振像に同一性像を投影して、前者に後者を重ねて、連続化して、いわば、覆ってしまうのである。同一性像の覆いである。そして、同一性像は差異共振像を抑圧・排除してしまい、主体は同一性自己(同一性主義)に転ずるのである。鏡面に映した同一性像によって、差異共振像を排除してしまい、鏡像自己を形成して、同一性自己を完成するのである。

・ ・・・・

自然現象とは、本来、差異共振現象であるからである。だから、自然は本来、マーヤーではなくて、Media Point 的現象なのである。マーヤーは人間の同一性鏡像に源泉があり、その投影から形成されるのである。》
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10214379246.html


2009年02月22日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性主義ないしは二項対立性の優越意識の発生について
この問題も既述済みであるが、まだ不明瞭に思えるので、ここで検討したい。というか、確認である。
 どうして、同一性自己(自我)は自身を他者よりも優越と「見なす」のか。これは先に言及したルネ・ジラールの模倣欲望説に関係する。ライバルとは鏡像である。それは、同一性像(同一性主義像)である。【本来輝かしい像(「光」の像)である。その光輝はいわば後光、アウラ、後背であり、それは、本当はMedia Point の「光」の反映・反照・反射であると考えられる。超越光が通常の光に変容したと考えられる。】
 本来、ライバルとは模範・手本・雛型である。だから、本来、模範である鏡像を差異共鳴像は模すのである。これが、自己投影である。しかし、これは、内的他者の否定であり、外的他者の否定に帰結する。だから、本題の自己優越感の発生とはこの鏡像自己(同一性自己)の形成に拠ると考えられる。
 しかし、何故優越感が発生するのか。なぜ、同一性自己(自我)を優位とし、他者を劣位とするのか。端的に、二項対立原理の発生の意味である。
 根本から考えると、Media Point における差異共振像と同一性志向性の対立があると考えられる。この問題は上述のごとく、既述であるが、精緻・緻密に考えたい。
 Media Point において差異共振像があり、そこでは、自己は他者であり、且つ、他者ではない等の様態が発現している。自己は他者でないというのは、自己は自己であるという同一性を示唆しているし、ここから、同一性志向性が発動・発現すると思われる。
 しかし、逆に言うと、自己は他者であるというのは、差異志向性であると言えよう。だから、Media Point において、同一性志向性と差異志向性が並立していると言えよう。
 初期成長過程において、同一性志向性が主導化すると考えられる(これは、主に男子の成長過程に当てはまるだろう)。それは言い換えると、差異志向性が否定抑圧(否定と反対は違う心的事象である。否定とは、排除的であり、反対とは、維持的である。)されることである。
 ここにおいて、優劣が生じると、以前考えたのである。つまり、言い換えると、その優劣は、いわば、自然の優劣なのである。初期成長過程において、同一性の優位、差異の劣位が自然発生すると考えられるのである。だから、鏡像自己(同一性自己)は自身を他者(差異)よりも優越と思うのである。これは一神教的傾向と言えよう。
 それに対して、差異志向性が優位に、同一性志向性が劣位になるときは、まったく逆転するのであり、他者の方が鏡像自己よりも優越すると思うのであり、これは、多神教的傾向である。(因みに、イエスの教えとは本来、多神教的であったと考えられる。だから、一神教という文脈における多神教の復興の意味を、イエスの教えはもっているが、それが、教父たち等によって、一神教に組み込まれたのである。あるいは、一神教内部における多神教性の復興を言えるかもしれない。そう、一種のポスト・モダンとしてのイエス教が考えられよう。)
 以上から本件の解明は済んだが、最後に、差異志向性について考えてみよう。ポスト・モダンとは、差異志向性の賦活における哲学の動きであったと考えられる。しかしながら、差異志向性は、自己とは他者であるという方向性をもっているので、それは、究極では、自己を他者に吸収させてしまい、自己喪失すると考えられる。神秘主義者が説く宇宙的一体感・融合感とはそのようなものだろう。また、ドゥルーズ哲学もそのような側面をもっている。つまり、差異志向性とは、逆に、差異を連続化させてしまうのである。
 結局、特異性とは、同一性志向性と差異志向性との均衡・極性にあると言えよう。つまり、Media Pointのことである。


2009年02月14日(Sat)▲ページの先頭へ
ベルクソンの純粋持続とフッサールの時間意識:Media Pointの虚軸相と実軸相
ベルクソンの純粋持続とフッサールの時間意識:Media Pointの虚軸相と実軸相
テーマ:メディア・ポイントMedia Point
以前、ベルクソンの持続論は連続論であると批判したことがあるが、それは今でも正しいと思うが、単に連続論ないしは連続的差異論(ドゥルーズはベルクソン哲学を受け継いで誤謬の大伽藍を築いたのであるが)として、それを批判するだけでなく、それを積極的に批判評価したい。
 直感で言えば、純粋持続とは、正に、Media Pointにおける様態を述べたものではないだろうか。

*****引用開始*****

(実在的な時間である)まったく純粋な持続とは自我が生きることに身を任せ,現在の状態とそれに先行する諸状態とのあいだに境界を設けることをさしひかえる場合に,意識の諸状態がとる形態である.

そしてそのような純粋持続は,

質的変化の継起以外のものではありえないはずであり,それらの変化は,はっきりした輪郭ももたず,お互いに対して外在化する傾向ももたず,数とのあいだにいかなる血のつながりももたずに,融合し合い,浸透し合っている.それは純粋の異質性であろう.

http://www.geocities.jp/enten
_eller1120/thema/time.html

第2章 時間論

勝手に哲学史入門

******引用終了******

上記の引用から、純粋持続とは、「質的変化の継起」、「純粋の異質性」と考えられているのであり、それは、Media Pointの特異性の記述であると考えられよう。
 それはまた、過去と現在の境界をもうけないときの心的状態であるが、それは、端的に、同一性化していない様態と言えよう。だから、やはり、Media Point様態と言えよう。
 しかしながら、ベルクソンは純粋持続を連続性と捉えるのであり、そこが、PS理論的には批判対象となるのである。(そう、この点でドゥルーズ哲学はまったくベルクソン哲学を継承しているのであるが、ドゥルーズ哲学がベルクソン哲学に劣ると考えられるのは、純粋持続の特異性をドゥルーズは言葉では継承するが、実質的には喪失しているからである。)
 思うに、純粋持続という考えは、不明瞭なのである。即ち、Media Pointの虚軸(差異共鳴性)と実軸(同一性)の即非様態があるが、純粋持続とは、虚軸相に示唆していると考えられるが、虚軸相のもつ差異共鳴性までは達していずに、それを連続性と考えているからである。
 確かに、「質的変化」、「純粋の異質性」という発想はMedia Pointの特異性を捉えているだろうが、それを、差異共鳴性ではなく、いわば、差異連続性と捉えていると考えられるのである。だから、不明瞭であり、不明晰であるし、誤りであると考えられるのである。
 以上が、PS理論から見た、純粋持続の批判的評価である。次に、簡単に、フッサールの時間意識、志向性に関連させておこう。 
 フッサールの時間意識・志向性は、純粋持続論から見ると、空間論になるだろう。つまり、時間から空間への転化を意味すると考えられる。
 これは、これまで、同一性志向性ということで述べてきたことである。だから、ベルクソンとフッサールは、Media Pointを視点にして、統合的に包摂することができると考えられる。即ち、ベルクソンはMedia Pointの虚軸相を、フッサールはMedia Pointの実軸相を捉えていたと言えるだろう。ただし、ベルクソンは、虚軸相を連続化させる誤謬を犯していることを確認しておかなくてはならない。
 思うに、ベルクソン哲学は、PS理論から、批判的評価できるものと考えられる。それにより、トランス・モダンの一つの先駆に入れることができると考えられる。
 最後にハイデガーの時間論に極く簡単に触れておこう。ハイデガーの時間とは、端的に、「存在」と現存在の時間であり、根源的なのは当然前者である。
 しかしながら、「存在」は先に指摘したように、(+i)*(-i)⇒/+1における ⇒と/の接点の領域である。これは、Media Pointと同一性構造との中間領域であり、いわば、無の領域なのである。ここでは、エネルギーはいわば、「死」を秘めていると言えるのではないだろうか。そう、ニヒリズムである。【想起したのは、フロイトの「死の本能(死の欲動)」(タナトス)である。それは、ここから発しているように考えられる。そう、心病の神経症性もここから発しているのではないだろうか。あるいは、ドストエフスキーの異常な登場人物たちの性格もここから発しているのではないだろうか。これは検討課題である。】
 では、端的に、「存在」の時間とは何だろうか。やはり、「無」の時間であろう。「無」からの「創造」であろう。ただし、この「創造」は真の創造ではなく、同一性の反復である。
 そう、だから、Media Pointへの予感はあるものの、真の創造の源泉には到達できないので、同一性を反復するのである。(ここで想起したのは、アルベール・カミュの不条理である。これも、「存在」=「無」から発すると考えられる。)
 だから、これは、経済的には、同一性価値経済・同一性主義金融資本主義になると考えられるのである。結局、ハイデガー哲学とは、経済的には、近代資本主義を意味していると考えられる。

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持続
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持続(じぞく、仏 :durée)とは、一般に、長く保ち続けること、長く続いていることを意味する。また、ベルクソン 哲学の主要概念の一つであり、間断なき意識の流れ を意味する。

純粋持続と真の時間

たとえば、音楽の旋律にゆだねた意識内容は、それを逆向きにしたり、こま切れにしたりすることはできない。このように概念や言葉から離れて内省に専念すると、そこに意識の直接与件として、ひとつの流れ を感じる。その流れは、計量不可能性、不可逆性、連続性、異種混交性を特徴としており、止めようなき自発、能動によるものである。これをベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。

この純粋持続は、空間 的に表現できるものではない。というのも、空間化とは数学的な抽象であり、測定可能、可逆的、均質的、受動的なものとなって、それはもはや流れの連続ではなく、点の継起となってしまうからだ。したがって、古典物理学の(線形的)時間は、真の時間ではない。したがって、真の実在認識は、(もちろんカント のいう感性的直観 や悟性 によってではなく)超知性的な直観 によって可能となる。

[編集 ] 持続と自由

ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由 の源泉である。通常、自由といえば、選択の自由を意味する。たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか自分の意志に基づいて選択できる。そこに自由があるとされる。しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命 の自由な持続に即したものではない。生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、「現在 」において不断かつ連続的に創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為である。

他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。物質は「自らを破壊する」のに対して、生命は「自らを形成する」。つまり、生命には、「物質が降りていく坂を登ろうとする努力」をみることができる。宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的進化 の展開なのである。そして、緊張の極にあるのが、エラン・ビタール (生の躍動)である。

[編集 ] 関連項目

* エントロピー
* 実体
* 無意識

[編集 ] 参考文献

* アンリ・ベルクソン(中村文郎訳)『時間と自由』(岩波文庫、2001年)

"http://ja.wikipedia.org/wik
i/%E6%8C%81%E7%B6%9A " より作成
カテゴリ : 哲学の概念


2009年02月07日(Sat)▲ページの先頭へ
批評・批判について:同一性主義的批判と差異共鳴的批判
批判・批評とは、本来、ある対象の境界を知的に規定することである。カントの批判哲学が典型である。
 しかしながら、一般には、対象の欠点のみをあげつらうことになってしまっている。つまり、非難になっているのである。
 この問題点は何だろうか。結局、二項対立的批判と極性的批判の違いがあるということではないだろうか。前者は自己を中心化して、他者を攻撃する。つまり、自己優位であり、他者劣位である。それに対して、後者は、対象の境界を規定して、対象の限界を確定する行為である。
 極性的批判というよりは、差異的批判という方が明快である。だから、二項対立的批判とは同一性的批判ということになる。差異的批判でも、それは不連続でなければならない。この点が肝腎要である。
 不連続性がないと、対象に対して、反感・反動的に攻撃することになり、感情主義的になるのである。不連続性があれば、距離が生じて、対象を知的に規定することができるようになるのである。


ハイデガーの存在論:同一性における無意識のMedia Pointの情態:ポスト・モダンの先駆
先に、拠り所のなさということを言ったが、これは、ハイデガーの存在に通じる発想である。そこで思ったのは、ハイデガーの存在とは、連続的同一性における無意識のMedia Pointの情態ではないだろうか。ハイデガーは気分ということをよく言うが、それは、同一性の連続性における無意識のMedia Pointの情緒ではないだろうか。
 言い換えると、同一性における差異であり、それは、ポスト・モダンの先駆であると考えられる。
 フッサール現象学は連続性・同一性を切断したのであるが、ハイデガーは切断を消してしまった。そう、差異と同一性との未分化な様態だと思う。
 
追記:ハイデガー哲学は、同一性的フレームの完成後の、再帰エネルギーの回帰の初期の場面の哲学行為であると言える。再帰エネルギーを対象としたフッサール現象学から見ると、大後退・退行である。
 平明に言えば、ハイデガーは漠然と消極的にMedia Pointの情態・情緒を感じていたのである。それは、けっして、非凡ではなく、あえていえば、凡庸なのである。文学青年の情緒に近いと言えよう。ただ、ハイデガーは分析能力が鋭かったので、それを、存在論へと押し上げたと言えよう。
 とまれ、ハイデガーの存在とは、同一性意識における消極的なMedia Pointの初動と言えよう。


2008年12月18日(Thu)▲ページの先頭へ
「ソクラテス以前の哲学」へ還れ!:ギリシア哲学源流への回帰
「ソクラテス以前の哲学」へ還れ!:ギリシア哲学源流への回帰
テーマ:哲学
せわしない年の瀬近く、仕事が山積している中で、哲学書を推薦するとは、浮世離れしているが、これは是非言っておきたい。
 以下の廣川氏の著作の第二部に断片集があるが、唯物論の祖とされるデモクリトスであるが、内容は、唯物論ではないことは明快である(少し読んだが、オヤッと思い、著者を確認したら、やはり、デモクリトスであった)。確かに、アトム論(原子論)はあるが、それは、物質としてのアトムではないと考えられる。知性を重視しているのがよくわかるのである。
 これまでの視点を反古にする必要がある。ニーチェも薦めていたが、ソクラテス以前の哲学とは、端的に言えば、Media Pointから駆動された哲学であり、その源流から、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等の大哲学も生まれたと考えられるのである。
 だから、ソクラテス以前の哲学という言い方はミスリーディングである。ギリシア哲学源流・源泉である。
 余裕があるときに、引用等をして、説明したい。

追記:一言で言えば、ギリシア哲学とはMedia Point哲学である。ただし、即非の発想が欠けていたのである。そして、これは、仏教の般若とイエスの叡知と等価である。問題は、これまで指摘したように、キリスト教が、この元知を否定して、信仰に変えてしまったことであるが、また、それをヤハウェ的一神教にしてしまったことであろう。ヤハウェは、 Media Pointの同一性主義の様相に過ぎないのである。
 まとめると、キリスト教はギリシア哲学、仏教の叡知、エジプトの叡知(これがイエスの叡知である。つまり、ヘルメスの知である。)を信仰に変え、また、そのMedia Point性を同一性主義に歪曲させてしまったと考えられる。

続追記:以上の視点から、偉大な詩人ヘルダーリン(本来は、ヘルダリンが正しい)のイエスとギリシアの神々の融和の思想が理解されるだろう。彼は、 Media Pointの差異共振性をほとんど理解していたのである。思えば、夢の中で、ある老爺が山に行って、ヘルダーリンの研究をすると述べていたが、それは、ヘルダーリンのギリシア的知恵を示唆していたと言えるだろう。


ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫) (文庫)
広川 洋一 (著)

参照:
デモクリトス
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デモクリトスの胸像

デモクリトス Dēmokritos(紀元前460年 頃−紀元前370年 頃)古代ギリシア の哲学者 。
生涯と伝説

トラキア地方のアブデラ(Abdera )の人。レウキッポス を師として原子論 を確立した。アナクサゴラス の弟子でもあり、ペルシアの僧侶やエジプトの神官に学び、エチオピアやインドにも旅行したという言い伝えがある。財産を使いはたして故郷の兄弟に扶養されたが、その著作の公開朗読により100タレントの贈与を受け、国費で葬られたという。哲学のほか数学・天文学・音楽・詩学・倫理学・生物学などに通じ、その博識のために〈知恵 Sophia〉と呼ばれた。またおそらくその快活な気性のため〈笑う人 Gelasinos〉とも称される。


[編集 ] 学説

〈原子〉は不生・不滅・無性質・分割不可能な無数の物質単位であって、たえず運動し、その存在と運動の場所として〈空虚〉が前提とされる。無限の〈空虚〉の中では上も下もない。形・大きさ・配列・姿勢の違うこれら無数の原子の結合や分離の仕方によって、すべての感覚でとらえられる性質や生滅の現象が生じる。デモクリトスは世界の起源については語らなかったが、「いかなることも偶然によって起こりえない」と明確に述べている。

デモクリトスの倫理学においては、政治の騒がしさや神々への恐怖から解放された魂の安らかさが理想の境地とされ、詩学においては霊感の力が説かれている。 原子論を中心とする彼の学説は、古代ギリシアにおける唯物論 の完成であると同時に、後代のエピクロス ・近世の物理学に決定的な影響を与えた。しかし彼の著作は断片しか残されていない。プラトン が、手に入る限りのデモクリトスの著作を集めて、すべて焼却したという伝説がある。「反駁を好んで多くの言葉を費やす者は、いかなる正しいことをも学ぶ能力がない」というデモクリトスの警句は、彼の野心のなさと論争への無関心を示し、さらに彼が死後に忘れられた原因でもある。


[編集 ] 参考資料

*  F.A.ランゲ『唯物論史 Geschichte des Materialismus und Kritik seiner Bedeutung in der Gegenwart,1866年』
*  H.Ritter,L.Preller共著『ギリシア哲学史Historia philosophiae graecae,1934年』
*  H.Diels『ソクラテス以前の哲学者断片 Die Fragmente der Vorsokratiker,1935年』第2巻
* ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(下)』岩波文庫(岩波書店, 1994年) ISBN 4003366336

[編集 ] 関連項目

* 化学
* 物理
* ギリシア哲学


[編集 ] 外部リンク

デモクリトスとアリストテレス

カテゴリ : ソクラテス以前の哲学者 | 古代ギリシアの哲学者 | 紀元前460年代生 | 紀元前370年代没


2008年12月06日(Sat)▲ページの先頭へ
吾、イデアを見たり:歩道に落ちていた一枚の銀杏の黄色の葉にイデアを直感する
詩人で画家のウィリアム・ブレイクは、一粒の砂に世界を、野の花に天国を見ると言った。
 私は、今夜、いわば、散歩していて、銀杏並木の歩道に落ちていた、銀杏の一葉に、イデアを「見た」。ニュートンは、リンゴの落下で万有引力の法則を発見したと俗に言われるが。
 とまれ、説明すると、一枚の銀杏の落ち葉は、同一性である。それは、差異共振性から生まれたものと考えた。(+i)*(-i)⇒+1の右辺の+1が銀杏の一葉である。そして、同時に、プラトンのイデアの一面である。
 この同一性は、直覚、直感、直観されるものである。そう、正確に言えば、Media Pointにおける同一性である。だから、イデア的同一性と言ってもいいだろう。これが、一枚の銀杏の落ち葉に見透かされたのである。
 つまり、現象的同一性ないしは物質的同一性とは、イデア的同一性を反映しているのである。そして、これが、+1である。そして、イデア論の一面がここには現われている。そして、後代の人間は、イデア論をここに留めるような発想をしていると考えられる。
 しかしながら、それでは、ほとんど、アリストテレスの形相と同じになってしまう。物質に存する同一性=形相になってしまう。しかし、明らかに、プラトンは、高次元としてのイデアを説いていたのである。
 これは、プラトニック・シナジー理論では、超越次元=高次元=「虚軸」に存すると説明できるのである。
 分かりやすくするために便宜的に言えば、イデアとは虚数次元と実数次元に存するのである。これを、これまでの哲学は明確に把捉・理解できなかったと言えよう。
 思えば、かつて、奈良の弥山へ行く途中見た山容に山のイデアを直覚したが、それは、イデア的同一性としてのイデアであったと言えよう。
 吾、イデアを見たり。

追記:結局、イデアとは、Media Pointというのが、的確だと思う。そうすると、問題は、純粋に、虚数だけの「イデア」はあるのか、となる。思うに、「虚数イデア」は、デュナミス・イデア、Media Pointは、エネルゲイア・イデアと区別できるのではないか。後で検討したい。

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To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.

砂一粒に世界を、
そして、野の花に天国を見れば、
あなたの掌(てのひら)に、無限を、
そして、永遠を、一時間、つかむ。

http://en.wikiquote.org/wiki/
William_Blake#Poems_from_
Blake.27s_Notebook_.28c._
1804.29

ウィリアム・ブレイク
出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』
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ウィリアム・ブレイク(トマス・フィリップ画)

ウィリアム・ブレイク (William Blake, 1757年 11月28日 ロンドン - 1827年 8月12日 ロンドン )は、イギリス の詩人、画家、銅版画職人。『無垢と経験のうた 』『天国と地獄の結婚 』『ミルトン 』『エルサレム 』などが詩人としての代表作。


・・・・・

『ミルトン』

Milton

* 覚醒せよ
新時代の若者たちよ
無知なる金の亡者たちに
真っ向から立ち向うのだ
 なぜなら連中は
軍隊 法廷 大学に潜り込み
できることなら永遠に
精神の闘いを挫折させ
肉の戦いを長引かせようとするだろう
絵を描くものたちよ
きみらに わたしは呼びかける
彫刻を彫るものたちよ
建物を建てるものたちよ
当世風気取りの阿呆どもに屈し
きみらのパワーを弱体化させてはならぬ

Rouze up O Young Men of the New Age! set your foreheads
against the ignorant Hirelings! For we have Hirelings in the
Camp, the Court, & the University: who would if they could, for
ever depress Mental & prolong Corporeal War. Painters! on you I
call! Sculptors! Architects! Suffer not the fash[i]onable Fools
to depress your powers (「序」Preface )

[編集 ] 『エルサレム』

Jerusalem

* 否定は対立ではない 対立物は双方がともに存在する
けれど否定しあうものは 無
 排除しあうもの 不満ばかりを唱えるもの 信じることができないものたちも 無だ
 それらは永遠に組織化されることはないだろう
もしきみが ぼくから離れたら きみは 否定になってしまう
ぼくから導きだされたただの推論 ぼくからの逸脱 不服を唱える 残酷な 恨みと悪意と妬みになってしまう

Negations are not Contraries: Contraries mutually Exist:
But Negations Exist Not: Exceptions & Objections & Unbeliefs
Exist not: nor shall they ever be Organized for ever & ever:
If thou separate from me, thou art a Negation: a meer
Reasoning & Derogation from Me, an Objecting & cruel SpiteAnd Malice & Envy:(プレート 17 )



http://ja.wikiquote.org/wiki
/%E3%82%A6%E3%82%A3
%E3%83%AA%E3%82%A2%
E3%83%A0%E3%83%BB%E
3%83%96%E3%83%AC%E
3%82%A4%E3%82%AF


哲学と量子論における不連続性=特異性(特異点)の画期的意義
usyukuro氏から質問がありました。その返事をここに転載します。なお、質問は、不連続的差異とドゥルーズ哲学と量子論との関係についてでした。(一応、著作権上、メールの本文は転載しません。)

@@@@@@@@@@@

usyukuro様

初めまして。
どうも拙いブログを見ていただきありがとうございます。
ご提起された問題は不連続的差異論とそれの発展である
プラトニック・シナジー理論の根幹に関わる問題であり、
簡単に説明できるかどうかわかりませんが、
ここでは簡単にお答えを試みたいと思います。
(できれば、後で、ブログでくわしく説明できれば思いますが、
今は余裕がありません。)
 私はドゥルーズの哲学に親しんでいましたが、それから、スピノザ哲学へと関心をシフトしました。(どうも長くなってしまいそうなので、簡略化してお話します。)
 その後、Kaisetsu氏と遭遇して、不連続的差異という思想に達しました。私は、ドゥルーズの哲学は、特異性について述べていますが、それが、連続化されるという根本的な誤謬をもっていると今は考えています。本来、特異性は、不連続性であり、連続化されないものでありますが、ドゥルーズはそれを微分化=連続化させてしまっています。
 この点を量子論に適用すれば、量子もそうなると思います。この点は、Kaisetsu氏のブログを見てください。
http://theory.platonicsynergy.org/
 簡単に言えば、不連続的差異とは、複素平面の虚軸の+iと-iの極性であることをプラトニック・シナジー理論では突き止めました。そうすると、量子ないしは素粒子は、複素平面の原点(これをMedia Pointと呼びます)において、特異点であり、不連続性があります。
 私見では、量子力学は、この点を看過していると考えています。これを考慮すれば、長距離相関の問題は明快に解決されると考えています。つまり、虚軸を高次元(5次元)とすれば、そのような発想は必要なくなると思います。
 今はここで留めます。


知の問題:直感知と言語自我的認識:直感知の精神性と言語的同一性の物質性の不連続性
先に触れたプルタルコスの『エジプト神話・・・』の中で、オシリスは知性であると述べられていたのが、気になったので、新たに知とは何か検討したい。
 私の思考はほとんど直感的論理的思考である。単に直感だけなら、占いと同じである。直感による想念を論理的に秩序整合化するのである。
 では、直感とは何か、である。これは、以前に触れたことがあるが、今、新たに考察してみたい。
 プルタルコスは、オシリスは光であり、一元的知であるというようなことを述べていた。閃き(ひらめき)というものだろうし、正に、直感や直観である。イデアもこれに関係していると思う。
 例えば、私が小泉元首相が発言している場面を観たとき、胡散臭く、誤魔化している、即ち、ペテン師、詐欺師であると直感できたのであるが、その直感知はどういうものなのか。
 PS理論に拠ると、超越的極性差異の共鳴によって、光が生まれる。この光が知であり、意識であろう。心眼の光でもある。
 その心眼の内的な光(内光、心光、魂光)に対して、外界から、対象の「光」がやってきて、内光の感覚知性(知覚)の「フィルム」に映される。逆に言うと、内光が外界に投影されるのだろう。
 このとき、内光の調和共鳴様態に対して、外界の「光」(外光)が、不調和な、ないしは、不快な振動・波動を与えるときがあるのである。それが、小泉元首相の外光である。もっとも、このときは、単に、光だけでなく、言葉の調子も大事である。
 結局、外的な視聴覚が、内的な視聴覚の調和に対して、不調和性を喚起したのである。それで、私は、直感的に、胡散臭いと感じたのである。
 すると、根本的に、内的な調和的知覚が存するのである。そして、これが、プルタルコスの言うオシリスの知ではないだろうか。
 そうすると、PS理論の自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、先に述べたように、イシス⇒オシリスであり、+1=オシリスとは直感知ないしは直観知であるということになる。
 この考え方は、近代合理主義知性とはまったく異質なものである。では、補足的に、近代合理主義的知性とは何かを考えたい。つまり、PS理論ではどう表記できるのか、である。
 外界からの光は情報をもっている。例えば、外界に、桜の木があるとしよう。それを知覚認識するとき、やはり、基本は、内光に即して、外光を知覚すると言えよう。基本は、内光と外光の共鳴調和であろう。そして、桜の木が認識されるのである。問題は、言語認識である。視覚において、桜の木はそれとして認識されるが、まだ、言語認識されていない。外界の対象に名がないのである。
 名の欠乏は、心的欲望となるだろう。つまり、名ないしは言語への心的欲望があるのである。これは、一体、何か。あるいは、言語への意志、乃至は、言語への志向性がある。これは、何か。
 ここでは、思考実験の段階であるが、思うに、内光の諸振動数があるのであり、その多様な光に対する分節作用として言語が生じるのではないだろうか。
 しかしながら、言語は、内光よりも、外光に即していると考えられる。
 今、直感では言えば、他者と言語が関係しているのではないだろうかと思う。思うに、直感知の先端に言語が生じるのではないだろうか。直感知は当然、外界に対応して、多様である。その多様性の分節化として、言語が発生するのではないのか。
 とまれ、別の思考実験をしよう。内光と外光の共鳴様態があり、それが、直感知に反映されるだろう。そのとき、言語化、つまり、音声言語化とは、身体化ではないだろうか。直感知は、精神的ないしは、イデア的である。正確に言えば、Media Point的である。これを、明確に物質化ないしは身体化するのが、音声言語ではないだろうか。音声身体化によって、直感知がいわば、現実化するのではないだろうか。言い換えると、直感知身体としての言語ではないだろうか。音声によって、身体的分節化が形成されるということではないだろうか。
 いわば、物質的同一性としての音声言語があるのではないだろうか。一般に文字言語に物質性を見る傾向があると思うが、音声言語自体に元来そのような意味があるのではないだろうか。
 そう考えて、近代合理主義知性の問題に返ると、それは、音声言語を含めた言語の物質的同一性を中心化した知性ではないのかということである。問題は、それが、物質主義によって規定されていることである。
 そうならば、内光と外光との調和共振という直感知と物質的同一性主義=近代合理主義知性との関係はどういうものだろうか。
 以上の検討では、直感知の身体化=物質的同一性化としての言語分節化があり、それが、近代合理主義知性になったと敷延されよう。
 言い換えると、直感知は、同一性を志向するが、それが、言語化によって明確になるが、それは、同時に、物質的同一性化であるということである。つまり、直感知から言語知への転換には、不連続性があるということになる。
 直感知においては、あくまで、精神性が基本であるが、言語知においては、物質的形式化がなされるということと考えられる。
 この精神性と言語性との不連続性が、近代主義においては、無視されて、結局、連続化されてしまったのである。つまり、精神と言語とが連続的に同一性化されてしまい、結局、精神を喪失することになったと考えられる。簡単に言えば、世俗主義化である。
 今はここで留める。


2008年12月04日(Thu)▲ページの先頭へ
知と感性について:プラトニック・シナジー理論から:差異と同一性の相補性:超知=明知
以下の私の考察について、eliot-akira氏から興味深いコメントをいただきましたので、今の時点でお答えしたいと思います。
 西洋哲学への批判ですが、これは私としてはかなり納得できるものがあります。問題を簡略化すると、知と感覚(感性、感情)の関係の問題になると思います(P.S. 以下、すぐ追記しましたように、感覚に私は精神性も含めています。)
 この問題は、かつて私なりに悩んだ問題であります。そして、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)にとっても大きな問題でありますが、実は、PS理論はこの問題の解決でもあります。
 例えば、私が桜の花を見ているとします。私は対象を桜と認識しています(知)。そして、それに対して、感情(桜の花は、単に美的な感情だけではなく、なにか精神的感情をもたらします。そう、あの狂乱的な満開はなにか狂気を感じさせます。)をもっています。
 実に、平凡でありますが、私は、知(認識)と同時に感情を、桜の花に対してもっています。
 これが、簡単に言えば、答えだと思います。つまり、知性主義(正しくは、近代合理主義)ならば、桜に対する感情を否定しますし、感情主義(ロマン主義)ならば、桜への知(認識)を否定します(「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」)。
 しかし、PS理論は、両者を同時に肯定します。思うに、西洋哲学の理性主義とは、知性主義であり、感性を否定するのだと思います(P.S. デカルト哲学が典型的ですね。もっとも、デカルト哲学は複雑ですが。そう、だから、ライプニッツやスピノザが、感性を含めて新たなコギトの哲学を発展させたと考えられます。そして、カントではまた分裂してしまいます。現象学は、この点を捉え直そうとしました。)
 PS理論の「理性」とは、桜への知性と感性を同時に肯定して、「知」(超知と呼べるでしょうし、智ないしは叡知でもいいでしょう。明知がいいかもしれません。)とします。これが可能なのは、桜の花を同一性であり、且つ、差異として捉えているからだと思います。つまり、知性と感性が共立しているということです。言い換えると、科学と芸術が両立しているということだと思います(芸術に宗教を含めていいと思います)。
 これが可能なのは、PS理論が不連続性を前提としているからです。これまでの哲学は、差異という対象を同一性として捉えるか、あるいは、差異を肯定して、同一性を否定してきました。
 しかし、差異を不連続性として捉えると、差異と同一性が共立・共存することになります。
 以上、うまく答えられているのか、我ながら少し疑問がありますので、また、考えたいと思います。

追記1:もう少し丁寧に言いますと、桜の花(夜空の星座でもいいですが)を見ている「わたし」は、心的感覚(感性、感情)においては、桜の花と一体化していますが、視覚的認識においては、桜の花を距離をおいて見ています。つまり、一体化と距離化(相対化)が共立しています。
 この点から見ますと、視覚という感覚は微妙です。一方では、感性であり、他方では、認識です。つまり、不連続性と連続性が共存しています。
 とまれ、視覚を介して、桜の花と「一体化」しつつ、同時に、桜の花を知的に認識しているのであります。即ち、即非的認識と言えます。
 西洋哲学は一般に前者を神秘主義として排除して、後者を追求してきたと思います。

追記2:簡単に言えば、差異とは感性であり、同一性とは知性であります。しかしながら、差異=感性は、同一性=知性を規制しますし、また、同一性=知性は差異=感性を規制します。つまり、差異と同一性の相互作用があります。相補性と言えるでしょう。
 
@@@@@@@@@@@@@@@

http://ameblo.jp/renshi
/entry-10172385871.html

■意識の境界問題

現代哲学において「自我」の問題はどう論じられているか、調べているうちに、ウィキペディアで「意識の境界問題」という記事を見つけました。このなかで「意識の統一性」「境界と個別化」といった概念が説明されています。

ひとつ疑問に思ったのは、これらは限られた範囲の意識状態(つまり社会的に「正常」な状態)を前提としているのはないかと。

そこで「トランスパーソナル心理学」「変性意識状態」の記事に目を通すと、ユング心理学・ニューエイジ思想・スピリチュアリティーにつながり、大半の科学者にオカルト・疑似科学として批判されていることが分かりました。

「心の哲学」に関する、とても興味深い記事も読みましたが、歴史上、様々な解釈に基づいた論議が延々と続いているにもかかわらず、納得の行く結論は見つかっていないようです。

西洋哲学への批判として手痛い文がありました。

「職業哲学者の従事する学問としての哲学は理性と言語による思考に特化しており、必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない。これに関して理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり、哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある」

しかし「自我」や「意識」については思索していくうちに、哲学的・科学的な思索だけでなく、詩や宗教、美術や東洋思想なども検討の視野に含むとすると、途方もない膨大な情報の海に溺れてしまいそうです。

個人的に、禅仏教の「無」に惹かれるのも、単純明快な真理があるに違いないという希望のゆえでしょうか。


2008年11月23日(Sun)▲ページの先頭へ
ハトの智慧:子育ては、ハトに学べ:ハトの叡智と人間の愚かさ
私の部屋に面するベランダにハトが巣を作り、今年は、もう三回産卵孵化している。
 今、雛鳥から成鳥になろうとしてる二羽のハトがいる。ベランダの柵の上にたたずんでいる。
 まだ、親鳥の嘴から餌をもらっているが、もう飛ぶことができて、巣立ちは近い。
 鳩の智慧であるが、まず、餌をあたえるときに、決して単純に贈与はしないことである。ヒナが餌を取るため、すり寄れば、避けるようにするが、ヒナが嘴を寄せるので、それに対して与えるのである。つまり、ヒナの能動的行為に即して餌を与えるのである。これで、ヒナに能動性、積極性が育つと言えよう。
 また、最初はベランダの床で餌を与えることを行っていたが、次に、エアコンの本体の上に移動して、そこで与えるのである。つまり、高いところにヒナを飛ばせて、飛翔力をつけさせるのである。またさらに、屋根に親鳥は移り、雛鳥にそこまで飛ばせるのである。つまり、積極的に飛翔の訓練を兼ねて、餌を与えるのである。
 啐啄(そったく)同時 という言葉があるが、それは、孵化するときの子のつつく行為と親のつつく行為の同時性を説くものであるが、餌を与える行為にもそれが言えるのである。自発性に基づく子育てなのである。すばらしい。自然の叡知(野性の叡知)である。
 人間は、この点、オバカである。

追記:親鳥は雛鳥が餌を取りにきても与えなくなった。いよいよ巣立ち近しである。自分で餌を取るように仕向けているのかもしれない。あるいは、空を舞うように示唆しているのかもしれない。

続追記:鳩の叡知とは、結局、ハトに「内在」するMedia Point Wisdom、Media Point Sophia、Media Point Intelligence あるいは、Media Point Rationalityである。仏教で言えば、般若である。
 近代文明化された人間は、Media Pointを喪失しているのである。それが、狂気を生むのである。


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