哲学/日本哲学の創造

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年07月03日(Thu)▲ページの先頭へ
唯物教育の終焉とトランス・モダン教育:イデア・エネルギーとPS理論:ver 2
私自身のことを考えると、戦後の唯物教育を受けて、精神を疎外することになったと思う。それは、生のエネルギーの枯渇を意味するのである。それは、また、ニヒリズムを生じさせるのである。
 今日の日本人の学力低下や政治を初め日本全体の退行化・劣化は、確実に、戦後唯物論の帰結であると考えられるのである。唯物論は、精神を滅ぼす考え方であり、端的に、悪魔的な思想である。これは、自滅・自壊的な思想であり、これを乗り越える必要があるのである。
 私は神道の復活を唱えているが、結局は、イデア・エネルギーを心身に取り込むことを意味するのである。あるいは、Media Pointを知的に開放することを意味する。即ち、Media Pointを心身において開くことにより、差異共振エネルギーであるイデア・エネルギー(コスモス・エネルギー)が流入し、心身が賦活することと考えられるのである。
 学力は、この流入したイデア・エネルギーによって、向上すると考えられるのである。このイデア・エネルギーを取り込む技法に関しては、東洋は豊饒である。そう、「気」とは正に、イデア・エネルギーであると考えられる。(電磁波の本体もこれであると考えられる。これについては、後で検討したい。)
 また、今日蔓延する心の病であるが、これも、私見では、戦後唯物論の帰結である。イデア・エネルギー(生エネルギー)が枯渇しているので、心身が衰退していると考えられるのである。日本人は、疾く、戦後唯物論から脱出すべきである。【p.s. 心の病について言うと、同一性主義が差異(心・精神・魂)を抑圧・排除するので、賦活されるべき差異が常に否定されるので、同一性主義の主体は、悪循環に陥り、症状を悪化させると考えられるのである。】
 イデア・エネルギーは、いわば、宗教エネルギーと言えるが、しかしながら、知的に捉えるならば、イデア・エネルギーと言うのが正しい。
 おそらく、イデア・エネルギーを取り込むための問題点は、そのエネルギーがあまりにも強力であるため、あるいは、物質的知性にとって、あまりにも異質であるために、一般に、知性が混乱させられる点ではないだろうか。
 そう、宗教、信仰へと救いを求めるのはいいとしても、問題は、知性を麻痺させて盲信、狂信する点が問題なのである。そう、今日、必要なのは、いうならば、知的宗教、知的信仰であろう。知性なき宗教、信仰は邪道である。
 思うに、知性の鍛練が、イデア・エネルギーを取り込むための大前提となるだろう。そのためには、哲学が必須である。哲学は本来、感性を包摂する形式の知性を探求する学、プロト学知である。そこには、論理学や数学的知性も関係する。
 とまれ、哲学は、学・知性の根本である。ここを鍛えないと、イデア・エネルギーを知的に取り込むことはできず、返って、大変危険であると言わなくてはいけない。そう、ここには、スキュラとカリュブデスの危険があると言えよう。一方では、新興宗教(カルト)的盲信であり、他方では、オカルティズムである。(ただし、新興宗教の宗教性やオカルティズムは、批判的に見れば、叡知が隠されていると考えられる。)
 思うに、19世紀後半から20世紀全体にかけての、哲学的問題の核心は、イデア・エネルギー(認識存在エネルギー)にあったと思われるのである。それは、プラトニック・シナジー理論から見ると、トランス・モダンを志向していたと考えられるのである。
 ポスト・モダン哲学は、トランス・モダンの志向の一つの試論であったと考えられる。しかしながら、フッサールの捉えた超越性(超越論的主観性)を否定してしまったために、ポスト・モダンは行き詰まってしまったと考えられるのである。
 これを打破したと自負するのが、不連続的差異論であり、また、そこから深化したプラトニック・シナジー理論である。この理論により、イデア・エネルギーと物質との関係が解明されたと考えられるのである。これによって、唯物論が乗り越えられたと考えられるのである。Kaisetsu氏による数学化によって、イデア論的科学が生まれたと言えるのである。これは、トランス唯物論である。(これによって、量子論は、イデア論的量子論となったと考えられるのである。)
 結局、プラトニック・シナジー理論は、知的な、合理的な、イデア・エネルギーの取り込みを可能した理論と考えられるのである。このトランス知性によって、安心して、イデア・エネルギーを心身に取り込むことができるのである。とりわけ、本理論は、日本人にとって、福音となるはずである。
 神道的源流を忘れた亡国日本人は、これによって、自身を再発見するだろうし、現代の大危機的状況を乗り越える知を得ることになろう。聞く耳を持つ者は聞くがいい。

p.s. 以上のことは、いわば、即自的な現象に限定している。当然、これは、対自的な現象に関係するのである。イデア・エネルギーは、他者との差異共振関係(差異共振共同体)を志向するのである。


唯物教育の終焉とトランス・モダン教育:イデア・エネルギーとPS理論
私自身のことを考えると、戦後の唯物教育を受けて、精神を疎外することになったと思う。それは、生のエネルギーの枯渇を意味するのである。それは、また、ニヒリズムを生じさせるのである。
 今日の日本人の学力低下や日本総体の劣化は、確実に、戦後唯物論の帰結であると考えられるのである。唯物論は、精神を滅ぼす考え方であり、端的に、悪魔的な思想である。これは、自滅・自壊的な思想であり、これを乗り越える必要があるのである。
 私は神道の復活を唱えているが、結局は、イデア・エネルギーを心身に取り込むことを意味するのである。あるいは、Media Pointを知的に開放することを意味する。即ち、Media Pointを心身において開くことにより、差異共振エネルギーであるイデア・エネルギー(コスモス・エネルギー)が流入し、心身が賦活すると考えられるのである。
 学力は、この流入したイデア・エネルギーによって、向上すると考えられるのである。このイデア・エネルギーを取り込む技法に関しては、東洋は豊饒である。そう、「気」とは正に、イデア・エネルギーであると考えられる。(電磁波の本体もこれであると考えられる。これについては、後で検討したい。)
 また、今日蔓延する心の病であるが、これも、私見では、戦後唯物論の帰結である。イデア・エネルギー(生エネルギー)が枯渇しているので、心身が衰退していると考えられるのである。日本人は、疾く、戦後唯物論から脱出すべきである。
 イデア・エネルギーは、いわば、宗教エネルギーと言えるが、しかしながら、知的に捉えるならば、イデア・エネルギーと言うのが正しい。
 おそらく、イデア・エネルギーを取り込むための問題点は、そのエネルギーがあまりにも強力であるため、あるいは、物質的知性にとって、あまりにも異質であるために、一般に、知性が混乱させられる点ではないだろうか。
 そう、宗教、信仰へと救いを求めるのはいいとしても、問題は、知性を麻痺させて盲信、狂信する点が問題なのである。そう、今日、必要なのは、いうならば、知的宗教、知的信仰であろう。知性なき宗教、信仰は邪道である。
 思うに、知性の鍛練が、イデア・エネルギーを取り込むための大前提となるだろう。そのためには、哲学が必須である。哲学は本来、感性を包摂する形式の知性を探求する学、プロト学知である。そこには、論理学や数学的知性も関係する。
 とまれ、哲学は、学・知性の根本である。ここを鍛えないと、イデア・エネルギーを知的に取り込むことはできず、返って、大変危険であると言わなくてはいけない。そう、ここには、スキュラとカリュブデスの危険があると言えよう。一方では、新興宗教的盲信であり、他方では、オカルティズムである。(ただし、宗教やオカルティズムは、批判的に見れば、叡知が隠されていると考えられる。)
 思うに、19世紀後半から20世紀全体にかけての、哲学的問題の核心は、イデア・エネルギー(認識存在エネルギー)にあったと思われるのである。それは、プラトニック・シナジー理論から見ると、トランス・モダンを志向していたと考えられるのである。
 ポスト・モダン哲学は、トランス・モダンの志向の一つの試論であったと考えられる。しかしながら、フッサールの捉えた超越性(超越論的主観性)を否定してしまったために、ポスト・モダンは行き詰まってしまったと考えられるのである。
 これを打破したと自負するのが、不連続的差異論であり、また、そこから深化したプラトニック・シナジー理論である。この理論により、イデア・エネルギーと物質との関係が解明されたと考えられるのである。これによって、唯物論が乗り越えられたと考えられるのである。Kaisetsu氏による数学化によって、イデア論的科学が生まれたと言えるのである。これは、トランス唯物論である。(これによって、量子論は、イデア論的量子論となったと考えられるのである。)
 結局、プラトニック・シナジー理論は、知的な、合理的な、イデア・エネルギーの取り込みを可能した理論と考えられるのである。このトランス知性によって、安心して、イデア・エネルギーを心身に取りこめることができるのである。とりわけ、本理論は、日本人にとって、福音となるはずである。
 神道的源流を忘れた亡国日本人は、これによって、自身を再発見するだろうし、現代の大危機的状況を乗り越える知を得ることになろう。聞く耳を持つ者は聞くがいい。


2008年06月30日(Mon)▲ページの先頭へ
古典的問題:必然性と自由:偶然性とは何か:即非の論理あるいはMedia Point Logic
古典的問題:必然性と自由:偶然性とは何か:即非の論理あるいはMedia Point Logic

テーマ:検討問題

最近は、私は、いわば、運命論的である。しかし、諦めはないのである。これをどう考えるべきか。
 この問題は、私が小学生の頃から考えていたことである。必然性(運命)と自由の問題である。これは、哲学の根本的問題の一つではある。
 そう、当然、カント哲学の問題である。カント哲学では、アンチノミー(矛盾)が生起するのである。また、マルクス「哲学」の問題でもある。
 直感では、私はどう考えているのだろうか。思うにこの問題は既に解決されているのである。差異共振的イデア=太極を考えた時点で、それは、いわば、科学的法則的である。必然である。運命である。
 しかし、個を深化させると、この必然性に到達するのである。即ち、必然即自由である。スピノザ/マルクス主義である。
 問題は偶然である。偶然性をどう考えるのか、である。直感では、偶然性は、実は、必然性である。結局、差異の問題であろう。
 そう、的確に言えば、Media Point(MP)の問題である。MPは同一性と差異を形成するのである。つまり、同一性的必然性と生み、同時に、差異的必然性を生むのである。後者が偶然性であろう。九鬼周造の偶然性はこれだと思う。
 結局、Media Point論理が支配するのである。即非の論理とは、Media Point Logicと言えるだろう。

**************

Mon, June 30, 2008 22:09:00
「ポスト・近代国家」としての差異共振主義

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

国家とは何ぞ哉。今日、国家主義と民族主義との衝突が起っているのだろう。国家主義は、ヘーゲルの国家理性からわかるように、同一性主義である。しまし、民族とは本来、差異である。ここに矛盾が起るのである。
 結局、単純化して言えば、今日、差異共振的国家が要請されていると言えよう。このモデルは、実は、きわめて不十分とは言え、アメリカ合衆国である。
 日本も最近、アイヌを先住民族を認めたのである。これは差異共振主義への大きな一歩である。思うに、近代の国民国家、民族国家、ネーション・ステートが、今や意味をなさなくなっていると言えよう。
 ポスト近代⇒トランス・モダンである。国家は、グローバル経済における支店に過ぎなくなると思われる。もっとも、私は、民族の差異を絶対的価値としている。しかし、諸民族の価値と価値が共振するのが、差異共振主義という未来である。

セルビア系住民が独自「議会」=分断状態に拍車−コソボ

6月29日8時0分配信 時事通信

 【ベルリン28日時事】コソボからの報道によると、独立に伴い同国で少数民族になったセルビア系住民は28日、北部ミトロビツァで独自の「議会」を創設した。
 同議会は「コソボ独立を認めない」と宣言、多数派のアルバニア系が主体のコソボ政府や欧州連合(EU)の文民支援隊との協力を拒否しており、新生国家は新たな火種を抱えた形だ。
 この日の初会合には、セルビアのコソボ担当相らも駆け付けた。一方、コソボ政府は「違法であり受け入れられない」と批判している。 
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080629-00000006-jij-int


2008年04月27日(Sun)▲ページの先頭へ
色彩と差異共振性:色彩の構造主義とトランス構造主義
以下は、次の考察の最後の色彩の問題を取りあげて、考察を継続したものである。
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10091680213.html

******************

色彩の問題を検討したい。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。
 差異共振「光」は対極的な「光」である。これは原型(これは、原光と呼んでいいと思う)である。しかるに、現象化するときに、-1と+1を発現する。例えば、緑は-1である。そして、思うに、緑*赤が+1ではないだろうか。それは、差異共振「光」である。しかし、虚軸では、原光であり、純粋な差異共振性である。
 つまり、問題の核心はMedia Pointの様態にあると思われる。Media Pointにおいて、虚軸の差異共振「光」、即ち、差異共振原光が発出するが、それは同時に、実軸化して、+1と-1を発生させる。+1は純粋な太陽光である。それに対して、同一性に傾斜した「光」=影が発生する。整理するため、+1を差異共振光と、-1を同一性光としよう。即ち、最初に、差異共振原光があり、次に、差異共振光と同一性光が発生するということになる。
 そして、差異共振原光とは、(+i)*(-i)であり、差異共振光とは、具体的に言えば、例えば、赤*緑のような補色的共振関係である。そして、同一性光が当然、個々の色彩である。
 ここで、本題に戻れば、緑の同一性光とは、見る人に対して、緑の視覚と同時に、残像として、赤の視覚を生む。この残像現象であるが、それは、差異共振光の原理に基づくと言えよう。即ち、赤*緑の差異共振光があり、緑の受容に対して、バランス的に、赤を発生させるということではないだろうか。
 だから、色彩論は三元構造である。差異共振原光⇒差異共振光⇒同一性光である。そして、差異共振光の項であるが、ここでは、補色の極性原理がある。これを二元論的な構造と見たのが、構造主義ではないだろうか。だから、ゲーテの色彩論は構造主義の前身であると言えるのではないだろうか。とまれ、整理すると、差異共振原光は、虚軸の垂直原理であるが、差異共振光は実軸の水平原理である。これを確認しておきたい。
 さて、ゲーテの色彩論が構造主義であるということが出たついでに、ゲーテの原植物論等の原型論を考えてみたい。これは、ルドルフ・シュタイナーの霊学(人知学)の霊の問題とも通じるのである。
 原植物とは、有体に、植物のイデアを想起する。都合もあるので、簡単に触れると、これは、色彩論と同様に、差異共振光のレベルに通じるのではないだろうか。つまり、言わば、実軸水平的差異共振原型ではないだろうか。つまり、+1の差異共振性である。言い換えると、Media Pointの実軸的な差異共振性である。そして、これが、理論的には、構造主義と捉えられてきたものと考えられる。そして、プラトンのイデアの一端もこの構造主義であると考えられるだろう。同一性としてのイデアである。
 そして、これは、同一性の構造であり、差異の構造ではないのである。差異共振性とは言え、この差異は同一性的差異に過ぎないのである。
 ここで、ポスト・モダン理論について触れると、結局、ドゥルーズは構造主義の発展に留まり、初期デリダは、思うに、構造主義内の差異に留まったのではないだろうか。おそらく、+1と-1の差異を差延として、-1の同一性主義を解体したのである。しかしながら、これでは、これでは、構造主義内のことではないだろうか。(思うに、ハイデガーもほとんど構造主義ではないだろうか。)
 結局、実軸の差異共振性=構造主義を乗り越える必要があったのである。【山口昌男の神話学も両義性の神話学ということで、結局、構造主義内部である。構造主義のもつ水平的極性を説明しただけだと思われる。】差異ないしは差異共振性の不連続化(即非化)が必要だったのである。この点は既述済みなので、これ以上言わない。
 最後に、シュタイナーの人知学であるが、これは、ほとんど哲学的である。霊的観念論である。彼の悪魔論はほぼ正確ではないかと思う。いったい何が問題なのか。それは、その二元論、霊主体従論にあるのではないだろうか。これでは、精神と身体が分裂しているのである。PS理論では、精神的身体である Media Pointを考えて、いわば、精神・即・身体である。これは、物質的身体の原型でもある。
 この精神と身体との一性(いつせい)があるのであるが、これをシュタイナーの人知学は否定していると思うのである。言い換えると、Media Pointがないのである。垂直性と水平性が分離しているのであり、垂直性が優位であり、水平性が劣位にあるのである。これでは、伝統的な二元論である。だから、それは、水平的な現実に働きかけることができないのである。いわば、逃避的なのである。これは、身体を単に物質的身体としか捉えていないことにも現われているだろう。物質的身体は精神的身体を核としているのである。


2007年10月18日(Thu)▲ページの先頭へ
「昼と夜のあいだに」:闇と光のあいだに:TwilightとMedia Point
近代的自我の現代の世界は確かに病気、いわば、自我精神病の世界である。しかし、他方、オカルト主義も、他方の病気であろう。前者が昼の病気ならば、後者は夜の病気である。合理主義の病気と非合理主義の病気である。
 そこで私は考えた。夜と昼、闇と光の間にこそ、正常な健全な意識があると。霊の世界ではなく、また、光の世界でもなく、両者の中間に、健全な世界があるのではないかと。
 Media Pointの原点に螺旋的に回帰したとき、この中間の意識がやってくるように思う。超越性と地上性との中間の意識である。ルネサンスは、両者が未分化な点があり、結局、プロテスタンティズムに席を譲った。しかし、プロテスタンティズムは超越性を失い、地上的合理主義となった。昼の世界だけである。近代的意識の世界、利己主義、自己中心主義の世界である。
 それに対して、夜、霊、神秘、ロマンの世界があるが、それは、裏返し。合理主義と神秘主義の間に、その両極の間に、本当の世界があるだろう。
 D.H.ロレンスは、Twilightの世界を求めていた。神話で言えば、ヘルメス神、日本で言えば道祖神。Medium、Mediaである。そう、やはり、Media Pointの世界である。

p.s. 言い換えると、物と心の中間の世界である。虚と実の中間とも言える。Media Point. Media Centre. Media Twilight. Media Cross.

p.p.s. 後で詳述ないしは補足したい。


参考:
「昼と夜のあいだに」ふたりの私。「沢尻エリカ」の新曲??
2007年10月07日08時09分


"Two surface characteristics"(制作:池野 徹)10月6日。
【PJ 2007年10月07日】− 人間は二面性のある動物である。精神性が崇高で優れていても、肉体性が欲高で品性に欠けるかも知れない。マジメのようでも、フマジメな部分もある。昼は女王であっても夜はしょう婦かも知れない。マジメによく働くビジネスマンでも、浮気好きな亭主かも知れない。トップに立つリーダーの男でも、家に帰れば尻に敷かれている男かも知れない。つまり、生存本能があるうちは、人間機能が発揮され、生きるエネルギーになってバランスをとっているのだ。人間的と言われれば、ごく普通の事であり、それが人生であって、喜怒哀楽の世界をつくり、面白き人間世界をつくっており、一生を過ごしているのだろうけど。
http://news.livedoor.com
/article/detail/3335396/


2007年10月09日(Tue)▲ページの先頭へ
知智教育へ向けて:トランス・モダン知性という新理性
今、シュタイナーの本を読んでいるが、流石という点とついていけない点があるが、基本的には、シュタイナーの人智学(人類智学という方がいいのではないだろうか)は、トランス・モダン知性を説いていると考えられる。
 それは、唯物論的知性を包摂した霊智である。これを表現するふさわしい言葉がないと思えるのである。とりあえず、知智性とでも呼びたい。これは、PS理論によって明快になる知である。物質的知性は当然、必要であり、それを包摂する智性として知智性ということである。この二重の知性がトランス・モダン・エポックの中核にあると言えよう。二つの知性である。二重知性である。二重智性である。後で再考したい。


2007年09月17日(Mon)▲ページの先頭へ
●構造構成主義
構造構成主義であるが、説明を読んだだけであるが、プラトニック・シナジー理論と共通する発想があると感じた。信念対立を超克するというのは、差異即非共振性に通じるだろう。また、構造主義を一つの目安をしているようだが、目指しているのは、脱構造性であるように思えたのであるが。後で、著書を読んでみたい。

構造構成主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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構造構成主義(こうぞうこうせいしゅぎ、英語表記:structural-constructivism)とは、人間科学 における信念対立を超克し、建設的コラボレーションを促進するために西條剛央 によって体系化された最先端の現代思想 である。構造構成主義の思想的源流には、フッサール −竹田青嗣 の現象学 、ソシュール の言語学 、丸山圭三郎 の記号論 、池田清彦 の構造主義科学論 、ロムバッハ の構造存在論 がある。
現象の尊重

構造構成主義は、信念対立を超克するために、絶対的明証性が確保された地点から論理を組み立てる。したがって、構造構成主義では人為的に構成された「構造 」よりも、「現象 」を第一義に尊重することになる。現象とは、経験を通して各人に立ち現れたすべての何かである。構造とは、同一性 と同一性の関係形式とそれらの総体による存在論 的な概念である。

構造は、現象を同一性で構造化 したものであることから、原理的に懐疑の余地があり、修正したり、洗練したりする可能性に開かれている。しかし、現象はその中身に関係なく、疑いようなく立ち現れている。したがって、疑いようのある構造と疑いようのない現象とでは、現象が尊重されることになる。なお、構造構成主義では夢 や錯覚 も現象に包含される。

[編集 ] 構造構成主義に通底する概念と2つの構造構成

構造構成主義に通底する概念は、現象学的概念 と構造主義科学論 である。

現象学的概念は、関心相関性 と信憑性 からなる。関心相関性とは、存在 ・意味 ・価値 は主体の身体 ・欲望 ・関心 と相関的に規定されるという原理である。構造構成主義では、信念対立を解消し、建設的コラボレーションを実現するために、関心相関性を中核原理に位置づけている。したがって、この中核原理の意義を汲み取れるか否かが、構造構成主義の重要性を理解する程度に関わってくるといっても過言ではない。信憑性とは、疑い難い確信のことである。構造構成主義は、客観的真理は徹底した懐疑に耐えられない概念であることから、それを採用しない。それに代わって、信憑性という概念を導入している。

構造主義科学論とは、池田清彦 によって体系化されたメタ科学論である。構造主義科学論は、主体とは独立自存する外部実在を仮定せずに、科学的営みを保証できる科学論 である。構造主義科学論では、科学は同一性 (構造 や形式 )を追求するものととらえる。構造構成主義では、構造主義科学論を帰納主義 や反証主義 といった従来の科学論の一段上位(下位)に位置づけることで、超認識論という認識次元を確保し、人間科学のあらゆる領域に妥当する科学論的基盤を整備している。

この現象学的概念と構造主義科学論は,次の哲学的構造構成 と科学的構造構成 に共通した概念として位置づけられている。

[編集 ] 哲学的構造構成

哲学的構造構成とは、疑い難い確信が成立する条件を解明する哲学 的営みである。哲学的構造構成は、判断中止 、還元 といった現象学的思考法と、記号論的還元、科学論的還元といった記号論 を包含している。哲学的構造構成は、信念対立を回避するための認識論的基盤となるものである。

[編集 ] 科学的構造構成

科学的構造構成とは、人間科学のあらゆる領域に妥当する科学 的営みを保証する。科学的構造構成には、関心相関的選択、構造化に至る軌跡、関心相関的継承、アナロジー法といった人間科学の方法論が整備されている。科学的構造構成は信念対立に陥らないために、認識論的、方法論的多元主義の理論的基盤を有している。

[編集 ] 継承発展

構造構成主義の大きな特徴の1つとして、非常に優れた汎用性がある。構造構成主義は西條剛央 によって体系化されるとほぼ同時に、心理統計学 、質的研究 、発達研究 、知覚研究 、医学 、作業療法 、古武術 、認知運動療法 、QOL といった領域に継承発展された。また、最近では歴史学 や政治 ・経済 といった領域への応用が検討され始めている。こうしたことから、提唱者である西條剛央の他にも京極真 を中心に構造構成主義者を自認する人びとが現われつつある。

[編集 ] 関連書籍

西條剛央:構造構成主義とは何か. 次世代人間科学の原理. 京都:北大路書房 . 2005 ISBN 4762824275

[編集 ] 外部リンク

* 構造構成主義公式ホームページ
* 西條剛央のブログ
* 週刊医学界新聞
* 構造構成主義用語集

" より作成

カテゴリ : 構造構成主義 | 哲学 | 現象学 | 方法論 | 心理学


●構造構成主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8
B%E9%80%A0%E6%A7%8B%E6%88%
90%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://wiki.livedoor.jp/rainyshu/d/FrontPage
http://structuralconstructivism.g
ooglepages.com/saijo
http://plaza.rakuten.co.jp/
saijotakeo0725
http://academy5.2ch.net/test
/read.cgi/psycho/1133872407/l50
http://academy5.2ch.net/test
/read.cgi/philo/1109657365/l50


http://academy6.2ch.net/test/
read.cgi/sociology/1167578644/l50


2007年09月15日(Sat)▲ページの先頭へ
日本語とMedia Point:「空を見る」と"I see a sky"
台風のせいなのだろう、肌にベタリベタリベタリとまとわりつくような、とても不快で、思考意欲を殺ぐ蒸し暑さは。思考のため、冷房する。
 先に、日本の国家予算における特別会計の杜撰な有り様を見て、暗然暗澹とした気持ちになったが、根本は、究極は哲学の問題だと思い、本件(p.s. イデアとMedia Pointが最初のテーマであった。)について考察を続けたい。(一言いうと、現代人には、精神性が欠落しているのである。近代主義的利己主義に陥っているのである。利己主義という悪魔的自我に多くの人間は陥っているのである。近代化とは、自我の悪魔化のことである。自我をトランス・モダン化して、精神的自己を取り戻す必要があるのである。)

 「わたし」とは何か。先に公園で思った。日本語では、「空を見る」が英語では、"I see a sky."となり、「わたし」が入る。日本語では、わざわざ「わたしは空を見る」とは普通言わない。
 これをPS理論から分析すると、連続的同一性は、「わたしは空を見る」となるが、「空を見る」は、Media Pointからの連続化と同時に、不連続化が作用しているのではないだろうか。つまり、連続性と不連続性との即非性がそこにはあるのではないだろうか。
 つまり、日本語とは、Media Point的言語ではないのか、ということになる。それに対して、英語や他の西洋言語は、連続的同一性の言語ではないのかということである。(私見では、中国語も連続的同一性の面があると思う。)
 「空を見る」という様態は、「わたし」と「空」とが、連続しつつ、同時に、不連続であるのではないだろうか。一種、「わたし」と「空」が未分化であると言ってもいいのかもしれない。しかしながら、実際は、「わたし」と「空」は別々であり、同時に、「わたし」は「空」になっているのではないだろうか。
 「わたし」が「空」になるとはどういうことなのだろうか。「わたし」を滅して、「空」を主題化しているということだろう。「空を見る」の「空を」は、主題としての「空」ではないだろうか。
 対象である「空」を主題化するということは、同一性化ではなく、差異化ではないだろうか。同一性化ならば、「わたし」という同一性があり、それが、「空」という同一性を対象化して見るということであると考えられる。日本語は、だから、差異言語とも言えるのではないだろうか。そう、他者の言語である。
 丁寧に分析すると、連続的同一性ならば、「わたし」が「空を見る」のである。しかし、Media Point的視野においては、対象「空」は、不連続性(差異)であり、且つ、連続性(同一性)である。つまり、不連続性があるから、「わたし」以前の視覚があり、それが、対象の「空」を「見る」のである。
 「わたし」以前の視覚とは何だろうか。あるいは、Media Pointの視覚とは何だろうか。私は先に、超越的視覚と現象的視覚が融合することに触れた。これは、イデア的視覚と物質的視覚との融合である。これが、「わたし」以前の視覚、Media Pointの視覚に通じると思う。(正確に言うと、ここで問題にしている「空を見る」は、新たに融合された視覚ではなくて、混淆した視覚である。未分化な視覚であろう。しかし、融合された視覚は、結局、「わたし」以前の視覚、Media Pointの視覚をもつのだから、議論としては、このまま考察を続けても問題ないだろう。)
 言い換えると、差異共振的視覚がここにはあるのである。つまり、霊的視覚があるのである。「空を見る」というとき、見ている人間は、「空」に超越性を見ているのである。アニミズムはここから見ると、日本語と平行していると言えよう。
 しかしながら、日本人は近代化されたため、超越性をほとんど忘失した状態にあるのである。日本語の堕落崩壊があるのである。(先に述べたが、村上春樹の日本語は、正に、近代化された、堕落日本語の典型である。亡国的日本語である。また、テレビ、ラジオの日本語もそうである。)
 
 さて、本稿は、イデアとMedia Pointについて考察する予定だったが、前置きが長くなったので、別稿で考察しよう。


2007年09月07日(Fri)▲ページの先頭へ
『パイドン』のイデア論について:プラトンとプラトニック・シナジー理論
古典とは、二種類あるのではないだろうか。現代の視点から、余裕をもって読めるものと、現代的視点に対して、挑んでくるものとがあるのではないだろうか。
 プラトンの中期の著書『パイドン』は後者である。ここでは、魂の不死と不滅について、ソクラテスが鋭く論じている。刑を受け、毒杯を飲む直前のソクラテスである。
 とまれ、ここでは、魂の不死と不滅に関わるイデア論について、少し考察したい。
 「大」なら大そのものであるイデア。絶対的な超越的存在である。このイデアを、プラトニック・シナジー理論から考えたらどう究明されるだろうか。
 それは、当然ながら、虚軸の超越性を指すだろう。それがイデアである。興味深いことは、その著書で、イデアの分有という概念が述べられていることである。ある事物がイデアを分有するということである。これは、同一性=現象を超越的差異がMedia Pointにおいて包摂するということで説明ができるように思える。例えば、ある建物が建物のイデアに分有されているということは、超越的差異が Media Pointにおいて、ある建物を包摂しているということだと思う。
 また、『国家』において現われている輪廻転生の思想は、ここにもあるが、『国家』により、悪をはたらいた者に対する懲らしめの発想が中心になっていると思う。輪廻転生からの脱出を主に説いているのであり、仏教と似ていると言えよう。
 そう、先にも述べたが、プラトニズムと仏教は、世俗的なものを否定して、超越界へと回帰することを説く点では共通である。
 ここで私なりに、PS理論を考えると、それは、プラトニズムと仏教の原理主義ではなく、超越的差異=イデアが同一性を包摂しているので、同一性=現象に対しては、それとしては肯定的である。だから、大乗仏教的なのかもしれない。もっとも、分有という考えは、同一性=現象を肯定しているように思えるのである。
 しかし、徒に、同一性=現象を肯定するのは、日本仏教のような現世肯定主義に陥りやすいだろう。つまり、いったん同一性=現象を肯定すると、諸欲望が肯定されて、物欲・金銭欲・情欲等によって、知性や精神性が曇らされると考えられるからである。(これは、ルネサンスの問題でもある。)
 結局、同一性と倫理・道徳の問題でもある。今日問題となっている年金問題であるが、それは社保庁や厚労省や自治体等の同一性主義自我に根差しているとは言えるのである。
 差異は同一性を包摂(分有)すると言ったが、これはそのような危険な面がある。同一性欲望をどうするのか、である。基本は差異であり、差異原理主義で行くべきである。もっとも、差異が同一性を包摂していることを忘れてはいけない。


2007年08月30日(Thu)▲ページの先頭へ
瞑想時間を生活に:肚で瞑想し、空となり、無(超越性)とつながる:西洋哲学の終焉と新東洋哲学の誕生
先に、ハイデガー哲学を論じて、西洋哲学・西洋文化が、超越論的構造に囚われていること、そして、東洋哲学・東洋文化が、超越性へと開かれていることを述べた。http://ameblo.jp/renshi/entry
-10045219894.html
 思うに、現代日本は、アメリカ的近代物質・金融主義が支配的である。それは、基本的には、超越論的構造ないしは超越論的同一性構造に支配されているのである。自我同一性中心主義である。これが日本や世界を狂わせているのである。新自由主義は最たるものである。
 前世紀の第四・四半世紀に支配的であったポスト・モダン哲学であるが、それは、超越論的構造をもつ哲学であり、いわば、西洋形而上学を脱却できず、知的に混濁したまま、現実的な力とはなりえず、後退した。
 不連続的差異論そして真打ちであるプラトニック・シナジー理論が21世紀初頭、日本で形成されたことの意味は大きい。これは、東洋思想・東洋文化の復興を意味すると考えられるのである。単なる伝統としてのそれではなく、西洋哲学・西洋文化を成果を批判的に継承した、新たな東洋思想・文化である。
 理論的には、既述済みであるので、ここでは、もっと平明に述べたい。即ち、端的に、瞑想を生活においてもつことである。肚を基盤として、瞑想することの必要である。座禅となると本格的になるが、私が言うのは、もっと簡単な、肚へと測深して、瞑想することである。
 これによって、実践的に、空様態となり、無へと接続するのである。つまり、PS理論でいうとMedia Pointに接続できるのである。これが、21世紀世界文化の中心となるべき心身様相であると考える。
 ところで、いわゆる、ホーリズム(全体論)的な考えには反対である。全体論とは連続主義である。それは、正に、全体主義につながる。マインド・コントロール的な宗教に通じる。ホーリズムではなく、空無や虚空へと連絡することが必要である。それは、差異共振主義となる。
 西洋哲学は、分析的知性が発達しているので、細部への精緻さにこだわり、一般には、複雑なものになり過ぎていて、理解ができないものとなってしまった。
 私は経験的には、現代日本のある社会においては、差異共振性は実際に生きられていると思う。東洋文化の社会があると思う。思うに分析知性の傲りがあるのである。それは、無である超越性ないしは超越的差異の一種の経験性を無視しているのである。だから、晦渋な、ハイデガー哲学となったり、デリダ哲学となったりするのである。何といっても、超越論的構造主義の支配のもたらしたものである。
 PS理論は新東洋哲学・数理理論であり、超越性や超越的差異を説くのであるが、これは、実質的には、空や無の経験・体験への回帰を意味するのである。西田哲学のような晦渋さももう必要ではない。何故なら、超越論的構造による哲学が終焉したからである。超越性、超越的差異の新時代なのである。
 差異共振世界へと21世紀世界は向かわなくてはならない。


2007年05月24日(Thu)▲ページの先頭へ
虚数的超越性と実数的超越性:「気」の理事無碍論と原理事即非論
以下、Kaisetsu氏の極めて透徹した、「理事無碍、事事無碍」の説明であると思う。理事無碍の方は、霊性と感性/知性の無碍ということで明快であるが、事々無碍の説明は、実に、鋭敏であると思う。私は、事々無碍とは、単純に、物質的事象と物質的事象との共振作用と考えていただけであったからである。実数軸上の不連続な差異と同一性との共振と考えるというのは、すばらしい。事実である。
 今日は、簡単に触れるだけだが、実数軸上の超越性と虚数軸上の超越性との関係の問題である。つまり、虚数的超越性と実数的超越性である。これは、そのままの違いとして考えればいいのかもしれない。
 しかし、私のこれまでのイメージでは、例えば、「気」のようなものは、虚数的超越性が実数的超越性に転化したものと思われるのである。超越性の垂直から水平への転化をこんど考えたいと思っている。
 もっとも、メディア・ポイントにおける虚数性から実数性への転換で既に説明はされているのかもしれない。
 少し具体的に考えてみよう。気功師が、「気」を患者に送ったとする。それは、虚数的超越性から実数的超越性(電磁波)の転換として考えられる。患者の身体には、後者が作用するのである。これは、物質的である。しかしながら、虚数的超越性(本来の「気」)は、どうなったのであろうか。
 これは、患者の身体(物質的身体)ではなくて、患者の精神・心に作用していると思うのである。だから、「気」の作用とは、二重であると考えられる。身体へは実数的超越性が作用し、心へは虚数的超越性が作用するというように考えられるのである。この平行・併存性をどう理解したらいいのであろうか。
 これこそ、正に、Kaisetsu氏の説明した理事無碍論で説明できよう。理としての「気」と事としての「気」との調和で説明できよう。ついでに、朱子学、理気学であるが、これは、理事無碍論で明晰に説明ができるだろう。これまでは、精神としての「気」と物質としての「気」とが混同・混淆・混濁されていたと思うのである。
 つまり、虚数的超越性としての「気」は、心・精神に作用し、実数的超越性としての「気」(電磁波)は、身体に作用するということになる。理事無碍としての「気」である。
 そう、この理事無碍論は強力である。これまで、PS理論の経験論的説明をしようと思って、今一つであったが、理事無碍論が、それである。霊事無碍論でもいいだろう。この点は、後でさらに検討したい。
 最後に、理事無碍論をさらに進展させると、根源的理事即非論があるのではないだろうか。つまり、理(霊)において、根源的に、事(同一性)が配属されているように思えるのである。このまま思考実験すると、言わば、原理事があり、これが、現象化するときに、理と事とに分離して、事は同一性、とりわけ、連続的同一性へと転化する。そして、理が否定される傾向にあるのである。
 しかしながら、知的・精神的訓練によって、理と事とが結びつけられて、⇒+1のような様態が生まれると考えられるのである。
 ということで、同一性とは、単に、現象化において、出現するというよりは、イデア界において、根源的に、原同一性=原事として存しているのではないだろうか。そして、根源的な理、原・理と即非的に合一しているのではないだろうか。原理事即非論である。つまり、差異と同一性が根源的に即非合一しているのではないのかということである。これがイデアの本質ではないのか。

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この筆者は、この鈴木大拙氏の引用テーマとして、「事事無碍法界」としているが、先に引用した鈴木大拙氏の言葉は、将に、「理事無碍」の様相を説明したものである。つまり、Renshi氏の語る「内在と同時に、非内在なのである。これは不思議な事象である。存在するようでいて、存在しないのである。」の部分である。
この近代的合理性では説明できない状況を『霊性的直覚』で丸ごと認めること、さらには、この「理事無碍」こそが「真実」「実在」である認識することが「境地」であって、また、鈴木大拙氏は、むしろ、この「境地」に至ることで心の平安を取り戻すと言っておられると解釈できると思う。
 不連続的差異論から存在論に向かった方向性は非常に賢明であったと今から推測できる。もし、鈴木大拙氏が「Media Point」(ここのMediaの意味はPS理論上定義されたもの)という概念を知っておられれば、おそらく、Media Pointという言葉を使われたと思うのは僭越であろうか。
 少なくとも鈴木大拙氏は、虚数的ゼロと実数的ゼロの差異共振ポイントの存在を認め、これを肯定し、積極的に説明しておられ、此れを『理事無碍』の状態と考えておられる。」と海舌は確信する。
 この確信が生まれたことで、これを数学的に表すことが可能であろう。検討したい。

(補注:鈴木大拙氏が感性と知性の世界を「事」の側に入れるのは現象と捉えているのであり、電磁波や光などと同じく、実数軸上のものと捉えていると解すると理解しやすいと思う。実数軸が不連続である、実数も超越的な存在であることは別に解明されたことである。電磁波や光と言った超越的現状と生活世界の現象とが不連続的であり、差異共振していることを「事事無碍」と言っていると思われる。)
「理事無碍、事事無碍」
注:赤色文字はrenshiによる。
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

http://blog.kaisetsu.org/?eid=553259


2007年05月03日(Thu)▲ページの先頭へ
丸山真男『忠誠と反逆』と超越的宗教
丸山真男の『日本の思想』をずいぶん昔に読んで、興味を持たなかった記憶がある。丹念に記述しているが、近代的合理主義者の枠から踏み出さない人という印象ではなかったかと思う。
 今、『日本政治思想史研究』を少し読んで、儒学の説明が簡潔で要を得ていて明敏であると思った。朱子学は、内在的超越論であることがよくわかる。これは、一神教の超越性には負けると思った。東洋哲学の問題は、この点にあると思う。内在的超越論の問題である。これは、実は、内在論なのであり、ハイデガー/ドゥルーズ哲学と同じである。
 ここで鈴木大拙の即非の論理、西田哲学の絶対矛盾的自己同一論、あるいは九鬼周造の偶然性の論理の凄みがあると言えよう。内在性を破壊して、連続性を切断することが、ブレークスルーのための絶対的要件であるからである。(p.s. 私は即非論と太極論が等価になると思っていたが、やはり、不連続性から見ると、異なるのである。太極論は、確かに、極性の分離を説くが、しかし、極性は連続しているだろう。即非には、切断があるのである。)
 とまれ、よくは知らないが丸山真男の思想は、やはり、近代主義の枠組みで、精いっぱい、トランス・モダンへと糸口を探求していたように思えるのである。
 「歴史の古層」という観念がそれを思わせるのである。これは、端的に、内在的超越性ではないだろうか。これがあると、純粋超越性には到達できないと言えよう。というか、丸山の捉えている「いつ」とは、内在的超越性ではないだろうか。日本神話の「いつ」とは、超越性をもっているのではないだろうか。高天原や天孫降臨という概念には、超越性があると思われるのである。現象界と超越界との分離・切断が感じられるのである。
 どうも、「天皇教」は、多神教日本に超越性をもたらしたのではないのか。超越的多神教となったのではないだろうか。ある意味で、ゼウスを主宰神とするギリシア神話に似たものとなったのではないのか。D.H.ロレンス的に考えると、ゼウスとヤハウェは等価となろう。そうすると、天之御中主神と等しくなるのではないだろうか。(p.s. ゼウスについては、さらに検討を要するだろう。)
 また、後で検討したい。

p.s. 「いつ」に関して、少しズレたコメントをしたが、「いつ」とは、端的に、超越的エネルギーであろう。これが、超越界から発していることを日本神話は捉えていたと思うのである。だから、高天原や天孫降臨の発想につながると思うのである。そう、やはり、古代日本には、一神教が導入されていたと思うのである。古事記は、多神教と一神教との激突的融合の記録ではないのか。
 
参考:ネストリウス派、景教
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E3%83%8D%E3%82%B9%
E3%83%88%E3%83%AA%E
3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
http://f17.aaa.livedoor.jp/~kmaz
/keikyo/keikyou-hi.htm
http://dsr.nii.ac.jp/narratives
/discovery/09/
http://theology.doshisha.ac.jp:8008
/kkohara/reportdb.nsf/0/b63dc6a9
2706bce349256cda0047d537?
OpenDocument
http://www.e-grape.co.jp/
books/96190.htm
http://www010.upp.so-net.ne.jp
/iraija21/dokushohome/juujika.html

以下、引用。
____________________

「・・・もっと炎のようにめらめらと“方法のセンサー”が動いているのは論文「歴史の古層」のほうである。1972年の執筆だが、その後に書き加えがあって、本書のなかではいちばん新しいものになっている。
 ここで丸山は、宣長が指摘した「なる」「つぎ」「いきおひ」の古語をつかまえ、日本的な思想が「生成」に関してどんなカテゴリー(基底範疇)をつかおうとしたかに光をあてた。

 世界の神話では、「つくる」「うむ」「なる」という基本動詞によって世界の発生と神々の発生が説明されてきた。
 これらは一連の神々の動作のように見える。しかしながら「つくる」では、往々にして作るもの(主体)と作られたもの(客体)が分離する。ユダヤ=キリスト教やギリシア自然哲学ではここが明快だ。そして、その分離した主体には「うむ」という自主行為も位置される。「つくる」と「うむ」とは一連なのである。ピュシスとはそのことだ。
 これに対して「なる」は、こうした主体の分離自立を促さないですむ。「なる」には「つくる」がなくてかまわない。では、いったい何が「なる」という動詞の意味なのか。

 本居宣長が注目したのも「なる」である。
 『古事記伝』のその箇所を整理すると、宣長は「なる」には3つの意味があるとした。(1)「無かりしものの生(な)り出る」という意味(神の成り坐すこと=be born)、(2)「此のものの変はりて彼のものになる」という意味(be transformed)、(3)「作す事の成り終る」(be completed)という意味、である。
 なかでも、「生る」(なる)を「生る」(ある)とも訓んでいたことを示せたことが、宣長自慢の発見だった。
 丸山は珍しくこれらの語彙語根を追う。そして日本における生成観念が「うむ=なる」の論理にあることを指摘して、その「うむ=なる」が後世、「なりゆく」「なりまかる」というふうに歴史的推移の説明にもつかわれて、そのような言葉の使い方そのものがどこかで日本人の歴史意識をつくってきただろうことを、ついに告白するのである。
 このように丸山が、宣長の発見した論理を日本人の一般的な歴史意識にあてはめながら説明することは、ぼくが知るかぎりは、警戒心の強い丸山がなかなか見せようとはしてこなかったことだった。しかもそれは、丸山がうっかり見せてしまった“衣の下の鎧”というものではない。ややたどたどしい追究ではあるけれど、丸山はこの考え方に魅せられて、その意味を“方法のセンサー”で追いかけている。
 それが、「なる」につづいて「つぎ」に注目したことにあらわれる。

 宣長にとって、「つぎ」はむろん「次」を示す言葉であるが、同時に「なる」を次々に「継ぐ」ための言葉なのである。
 ついで丸山は古代語の「なる」「つぎ」が中世近世では「いきおひ」(勢)にまで及ぶことを知る。しかも「いきおひ」をもつことが「徳」とみなされていたことを知る。どのように知ったかというと、徳があるものが勢いを得るのではなくて、何かの「いきおひ」を見た者が「徳」をもつのである。
 これは、儒教的な天人合一型の「理」の思想が日本の自由思考をさまたげてきたと見る福沢=丸山の立場からすると、意外な展開であったとおもう。
 儒教・朱子学では、天と人とは陰陽半ばで合一する絶対的な関係にある。しかしながら宣長と丸山が説明する「なる」「つぐ」「いきおふ」という動向の展開は、互いに屹立する両極が弁証法的に合一するのではなく、もともと「いきおひ」にあたる何かの胚胎が過去にあり、それがいまおもてにあらわれてきたとみるべきものである。これはちょっと深いセンサーだった。

 こうしてついに丸山は、「いつ」(稜威)という機能がそもそもの過去のどこかに胚胎していたのであろうことを、突きとめる。
 「いつ」は、ぼくが第483夜の山本健吉『いのちとかたち』 において、ひそかに、しかし象徴的に持ち出しておいた超重要な概念である。スサノオが暴虐(反逆)をおこすかもしれないというとき、アマテラスが正装して対決を決意するのだが、そのスサノオとアマテラスの関係そのものにひそむ根本動向を感じる機関や第三者たちの自覚がありうること、あるいはそこに“負の装置”の発動がありうるということが、「いつ」である。そこではしばしば「伊都幣(いつのぬさ)の緒結び」がある。
 論文を読むかぎり、丸山が「いつ」を正確に捕捉しているとはおもえない。しかし、「いつ」こそが歴史の古層に眠る独自の観念であることには十分気がついている。「なる」「つぐ」「いきおひ」は大過去における「いつ」の発生によって約束されていたわけなのだ。
 それを歴史の古層とみなしてもいいのではないかというふうに、丸山真男がこんなところにまで踏みこんでいたことに、ぼくは再読のときに驚いたわけである。 」
http://www.isis.ne.jp/mnn/
senya/senya0564.html
松岡正剛の千夜千冊 丸山真男『忠誠と反逆』


2007年03月27日(Tue)▲ページの先頭へ
[哲学] 劣弱なキリスト教文化・西洋の終焉
不連続的差異論が生まれたのが、2004年の9月であるが、それから、ずいぶん私のブログの内容が変わったと思い、以前を調べる為に、過去のブログを見たら、偶然の一致、今日述べた同じテーマを述べている論考にぶつかった。ほぼ、2年半前である。

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philosopractical chaosmos October 6, 2004の2
テーマ:philosoprachaosmos 2

[哲学] 劣弱なキリスト教文化・西洋の終焉

これまでの、最勝超至高不連続的差異論の展開から見れば、劣弱なキリスト教文化が終焉、終了、終止したのである。キリスト教文化の死であり、ほぼ、西洋の死である。西洋の死、そして、ポスト西洋の時代となったのである。

p.s. そう、また父権制の終焉、男性中心主義の終焉、ジ・エンドである。男性支配の南無阿弥御陀仏である。

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October 6, 2004 08:20

[ポスト・キリスト教][ジェンダー/フェミニズム] 差異の劣弱/高貴性

 これは、核心的な問題である。どうして、ルサンチマン的人間が生じて、他方、肯定的な優れた人間が生まれるのかである。この二種類の人間のタイプである。これまでの考察からすれば、ベースは不連続的差異である。当然、二種類のタイプは根源的にはここから発するはずである。(もちろん、家庭環境、社会環境等の影響はあるだろうが、それは、結局、副次的であろう。つまり、根源の差異の問題である。)
 この問題は、不連続的差異論から見るなら、錯視ないし錯視暴力に関係すると考えられる。つまり、差異強度が人間存在ないし人間身体に現前するなら、ルサンチマンはあっても軽く済むだろう。そして、それが現前しないならば、ルサンチマン的人間になるだろう。だから、差異強度の身体的現前か不在かが問題である。そう、これは男性、女性の問題に通じるだろう。これまた、重要な問題ではある。これまでの考察からすれば、女性とはメディア性強度の強い存在であり、コスモス(宇宙・秩序・美)=コズメティクス(化粧)的存在である。それに対して、男性は、より言語分節=現象界的存在である。つまり、女性はメディア的であり、男性は現象的である。(ここで、芸術家等が女性的であることの説明ができるだろう。) ということは、女性の方が本体の不連続的差異がそれなりに活動しているだろうし、男性の場合は、それが弱いと言えるのである。この差異とは何であろうか。差異強度が強ければ、錯視に囚われないだろう。そして、弱ければ、錯視に囚われるだろう。これを決定するのは難しい。つまり、差異強度とそのメディア性との関連の問題があるからだ。前者が強ければ、メディア性も強いだろうし、また、差異性も残るだろう。そして、弱ければ、メディア性も弱いだろう。ということで、結局、所期の問題である劣弱的差異と高貴的差異は存すると仮定できそうである。つまり、前者が主に男性となり、後者が女性となるのであろう。すると、父権制とはなにかである。ジェンダー論である。父権制とは劣弱的差異であり、母権制とは、高貴的差異であろう。ということで、キリスト教=資本主義制=父権制は転倒しているのである。そして、今や、最勝超至高不連続差異哲学が創造されたという事態から考えれば、変容が始まり、高貴的差異の時代に入ったと言えよう。つまり、キリスト教=資本主義=劣弱的差異の文化の凋落、衰退、死滅である。

p.s. この問題であるが、つまり、劣弱な差異強度と高貴な差異強度であるが、結局、差異集合は、裏面として、差異仮象/現象を形成するわけである。そして、この擬制において、劣弱な差異強度は、高貴な差異強度を、倒錯的に奪うのであろう。つまり、本来、後者が強者であるが、メディア面ないし現象面では、錯視して、前者は強者ぶって、後者を支配するのである。これこそ、父権制、キリスト教文化でなくて何であろうか。つまり、差異強度的には女性、非キリスト教文化の方が、男性、キリスト教文化より、優秀ということである。世界は転倒していたのである。そして、今や、反転するのだ。

p.p.s. この問題は、極めてニーチェ的である。そう、ニーチェは不連続的差異を体現した超天才だったのである。明らかに、ポスト・キリスト教、ポスト・西洋、ポスト・父権制の土台を作った超天才である。

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October 6, 2004 07:06

[宗教][社会][文化] 日本の「多神教」について

これは、きわめて、重要な問題である。どうして、キリスト教的アメリカに蹂躙されながら、日本人の大半はキリスト教に改宗しないのか。あるいは、日本人にとっての「宗教」とはなんであるかである。これまでの考察から推論するなら、日本人とりわけ民衆、大衆、労働者は、潜在的に不連続的差異性を活かしているのである。(思うに、これが日本の本当の「力」=強度の秘密ではないか。)そして、歴史的に見るならば、この不連続的差異性を土台にして、日本人は社会・文化・経済等を形成してきたと推察できる。これがあるからこそ、戦後アメリカに蹂躙されながらも、キリスト教(一神教)を崇拝しないのではないだろうか。つまり、日本人には、縄文文化・社会譲りの不連続的差異的絶対多元論性が生きているのではないだろうか。これこそ、日本人の本体ではないか。そして、これこそ、21世紀を創るものではないか。今やポスト・キリスト教文化である。

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October 6, 2004 06:51

[歴史][宗教] 日本史、多神教と天皇教

 この問題は、はっきり言って、難問であり、探究の深化が当然必要だが、作業仮説を述べよう。そう、日本の多神教とは何か。また、天皇教(「天皇制」)とは何かである。私の思考のベースとして、網野善彦氏の『無縁・公界・楽』と権藤成卿がある。つまり、縄文時代に原日本がある。これを、一応、多神教的日本としよう。
 次に、天皇教である。記紀神話はいろいろ問題がありそうである。私はそれには、言及せずに、天皇教とは、一神教と仮定する。すると、古代日本には、多神教と一神教が併存していたと考えることができる。民衆は前者であり、支配層は後者である。この差異がある。多神教/一神教。結局、明治以前は、前者ベースではなかったろうか。しかるに、明治日本は、マイナーな後者を打ち立てて、前者を統合・統一した。ならば、明治天皇教は、一神教/多神教ということになろう。いわば、スピノザ哲学状態である。そして、これが、戦前まで続き、戦後はこれがほぼ解消するのではないだろうか。つまり、戦後は、ほぼ天皇教=一神教的になったのではないだろうか。つまり、アメリカ的資本主義化であるから、それは言えるだろう。しかし、日本の民衆、大衆、労働者等には、また、日本文化には、多神教が生きているだろう、潜在的、内在的に。この戦後、現代の矛盾が、日本の資本主義の問題でもあろう。
 結局、日本の多神教と天皇教との意味が問題である。ざっと私見を言おう。前者は、縄文時代からのものであり、後者は古墳時代あたりから奈良時代にかけてのものだろう。つまり、多神教「日本」に一神教的天皇教が「侵入」したのである。この齟齬が日本文化・社会にはあるだろう。しかし、ベースは圧倒的に前者である。これまでの哲学的検討からするなら、前者は不連続的差異性があり、後者は連続的観念(統一性)である。そして、日本文化とは、ベースは前者であり、それが本体(イデア界)であり、後者を仮装したのではないか。これが、江戸時代までの日本である。しかるに、この力学がほぼ逆転して、後者優勢となったのが、明治日本以降ではないだろうか。しかるに、潜在・内在的には、前者が存しているのである。(思えば、これがあるからこそ、不連続的差異論が創出できたのであろう。) 結局、意識の「一神教性」=資本主義=アメリカ主義と潜在・内在・身体意識としての「多神教」=不連続的差異主義が、日本にはあるのではないだろうか。そう、ここまで言うと、日本多神教とは、不連続的差異ではないかということである。これが私の作業仮説である。そして、今や、不連続的差異論が創出されたのであるからして、この作業仮説は妥当性をもつと言えよう。結局、日本にあるマイナーな一神教性=天皇教=アメリカ主義を乗り越えれば、本来の多神教性=不連続的差異性が、よみがえるはずである。そして、日本多神教とは、絶対的多元論であり、一神教=一元論をもっていないのではないだろうか。ここが難しいところである。多神教の問題がある。また、日本的多神教の問題があるだろう。
 これまでの、ブログで展開した考察によるなら、日本多神教とは、絶対的多元論であり、天皇教とは一神教それも超越的一神教に近いようだ。この妥協、折衷がこれまでの日本ではなかったか。ならば、今や、前者へ帰還したようだ。つまり、後者の乗り越えである。これは雅子さん問題と通じるし、北朝鮮拉致問題等と通じるだろうし、また、小泉問題等々と通じるだろう。日本多神教=絶対的多元論=不連続差異性が今や、よみがえった感がある。これについては、さらなる検討が当然必要である。
http://ameblo.jp/renshi/
theme-10000239439.html


2007年03月21日(Wed)▲ページの先頭へ
検討課題:ノエマと対象について:ドゥルーズ哲学は、憎悪の哲学である。危険である。
PS理論から見て、単純化すると、ノエシスとは、i*(-i)の内の、iであろう。iが-iを志向するということになるだろう。だから、ノエマとは、-iでいいのではないか。

そして、ノエマの対象であるが、それは、少し複雑になるだろう。

先に、差異-同一性-差異という関係を見たが、これは、言い換えると、

{i*(-i)}/(+1)/{i*(-i)}

となるのではないだろうか。

又は、メディア・ポイントMPを考えて、

MP/(+1)/MP

ではないだろうか。

あるいは、

-1/(+1)/-1

ではないだろうか。

+1としての対象は、差異を超越的に内包しているが、-1としての対象は、連続的同一性であり、差異が欠落しているということではないのか。

しかしながら、本来的には、+1の対象のはずである。これは、差異的同一性である。これがノエマ本来の対象のように思える。

ドゥルーズは、フッサールが対象を同一性に基づいているというようなことで批判しているが、この批判は、正当な批判ではない、錯誤だと思う。

なぜなら、対象は、同一性になるからである。例えば、原リンゴの差異(超越的差異共振性)があるとしよう。それは、ノエシスi*ノエマ-iである。つまり、原リンゴ・ノエシスi*原リンゴ・ノエマ-iである。

この原リンゴという差異は現象化して、リンゴという同一性になるのである。もし、対象に同一性を認めなければ、狂気である。

ただ、連続的同一性か差異的同一性かの違いはあるが、どちらにしろ、対象は同一性である。

例えば、眼前にある携帯を、タンス(他者)と言ったら、生活は成り立たないだろう。携帯は携帯なのである。

この携帯という同一性は否定できないのである。私は、これを仮象ということも問題だと思っている。

眼前の対象を仮象とするのは、なにか、直感に反している。

現象と呼ぶのは、適切だと思うが。

とまれ、ドゥルーズのフッサール批判は、錯誤であると考えられるのである。

i*(-i)⇒+1は、

超越論的志向性⇒同一性

と言い換えることができるだろう。

これは、超越性⇒現象性とも言い換えることができるのである。

あるいは、超越性MP現象性である。

しかし、ドゥルーズは、フッサールが、言わば、右辺の同一性を左辺に持ち込んでいるとして、最大限にこきおろしているのである。(参照:『意味の論理学』上、p.179)

これは、ドゥルーズの誤りである。超越論的主観性は、超越論性だり、現象性から超越した次元にあるのであり、現象性を超越論性にフッサールは持ち込んではいないのである。

ドゥルーズの勘違いである。

では、ドゥルーズは何を考えているのだろうか。

そう、ドゥルーズはフッサールの超越論性を認めたくないということだと思う。

ドゥルーズは超越論空間に、非人称的、前-個体的な特異性を持ち込みたいのである。ドゥルーズの意図は、自我や理性を持ち込みたくないということだと思う。連続的同一性を超越論的空間に持ち込まないということは正しい。しかしながら、超越論的空間にある差異が、非人称且つ前-個体的な特異性なのかは問題である。

問題は、先にも触れたが、非人称的、前-個体的という形容詞である。

前-個体は、原-個体と先に言ったが、思うに、個体に超越的に内在する特異性のことと考えればいいだろう。そして、この特異性とは、i*(-i)のことである。超越論的ないし超越的差異即非性である。

これを非人称的と言っていいのか。

また、前-個体的と言っていいのか。

ドゥルーズの意図は、自我、即ち、連続的同一性を否定することである。

超越的差異即非性は、自我を否定するという点では、非人称的と言えるが、自己・個を肯定する点では、人称的である。また、連続的同一性としての個体を否定する点では、前-個体とは言えるが、同一性は肯定するので、個体的である。

すると、ドゥルーズの意図する超越論的哲学とは、非同一性哲学であり、現象性を否定するものである。これは、明らかに反動である。一種、グノーシス主義的な反動である。

逆二元論である。

現象に対する憎悪があるのである。

ドゥルーズは自身は、ニーチェに学んだと考えているが、ドゥルーズは、ニーチェが攻撃するルサンチマンの人ではないのか。

ニーチェが否定する背後世界の人だと思う。

現象に正対できていないのである。

どうも、ドゥルーズ哲学は悪である。世俗社会を憎んでいる哲学である。

ハイデガー哲学は、虚栄心・名誉心に突き動かされている、ペテン師的であるが、ドゥルーズ哲学は、ルサンチマンに突き動かされた憎悪の哲学である。

悪魔の哲学である。


2007年03月13日(Tue)▲ページの先頭へ
西田哲学はメディア・ポイントの創造哲学である:絶対矛盾的自己同一とメディア・ポイント
以下、著名な西田哲学の根本的哲学を示した論考の意義深い冒頭である。少し引用して、考察しよう。

★引用開始
《瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。》(赤文字強調renshiによる)
★引用終了

今簡単に、PS理論の視点から端的に言うと、絶対矛盾的自己同一(以下、矛盾同一)とは、メディア・ポイントにおける様相のことを表象・表現したものと考えられる。

「時は非連続の連続と成立する」と西田は述べている。「非連続」とは、不連続であり、虚数軸=超越界のことであり、「連続」とは、そのもの通りで、実数軸=現象界のことと考えられる。この「非連続」と「連続」が交差するのが、メディア・ポイントであり、ここに、現在の瞬間があると考えられるのである。そして、「瞬間の同時存在」も「時が永遠の今の自己限定として成立する」ということも同じこと、即ち、メディア・ポイントの現在という「時間」を意味していると考えられるだろう。

ここで、冒頭にある、西田が拘っている、個物の創造性について考えたい。

多の一では、静的であり、創造性(後で、ポイエーシス)がないと西田は説いている。だから、一の多でなくてもならないというようなことも説いている。動的な個物性をどう捉えるのかということである。

これは、端的に、エネルゲイアの問題である。個物・個の創造性は何処に存するのか。それは、先にも述べたように、特異性・特異点、即ち、メディア・ポイントに存すると言えよう。

メディア・ポイント(以下、MP)は、超越性をもち、差異即非・共振シナジー的エネルゲイアをもっている。つまり、可能・潜在的エネルギーをもっているのである。だから、現象界において、個体・個物・個(以下、個)は、他者に対して、メディア・ポイントを介して、差異即非・共振シナジー化することが可能なのである。これが、創造そのものである。MPを介して、個は、他者の個(以下、他個)と即非・共振シナジー的に創造性をもつのである。

整理すると、個は、MPを通じて、超越界の差異即非・共振的、可能・潜在的なエネルゲイア(虚ネルギー)を結びつき、他個をそこへ共振的に引き入れて、両者共振シナジー化させて、両者が融合した新たな個を創造すると考えられるのである。

MP的差異共振シナジー創造である。

これを、西田は、冒頭で晦渋に述べていると考えられるのである。

即ち、個のMPにおける、超越的に内包する虚エネルギーが、創造性をもっていると考えられるのである。

「物と物との相働く世界」という相働的創造世界とは、正に、MPにおける個と他個との差異共振シナジー・創造世界であろう。


★引用開始
《多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、それは形相が質料を形成するという如きことではない。個物は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない。働くということは、何処までも他を否定し他を自己となそうとすることである、自己が世界となろうとすることである。然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、自己が世界の一要素となることである。この世界を多の一として機械的と考えても、または一の多として合目的的と考えても、いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。しかし機械的と考えればいうまでもなく、合目的的と考えても、個物は何処までも自己自身を限定するものではない、真に働くものではない。真に個物相互限定の世界は、ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。モナドは世界を映すと共に、世界のペルスペクティーフの一観点なのである、表出即表現である(exprimer = representer【#「representer」の二番目の「e」はアキュートアクセント付き】)。しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、自己自身を形成するものでなければならない、表現作用的でなければならない。
 その底に一を考えることもできず、また多を考えることもできず、絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界においての個物は、表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、個物が世界を映すという時、個物の自己限定は欲求的である。それは機械的に働くのではなく、合目的的に働くのでもない。世界を自己の中に映すことによって働くのである。それを意識的というのである。動物の本能作用というものでも、本質的には、かかる性質を有(も)ったものでなければならない。故に我々の行為は、固(もと)行為的直観的に起る、物を見るから起るというのである。行為的直観とは作用が自己矛盾的に対象に含まれていることである。多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという時、世界は行為的直観的であり、個物は何処までも欲求的である。私の形というのは、静止する物の形という如きものをいうのでなく、多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。プラトンのイデヤというのも、固此(もとかく)の如きものでなければならない。》
★引用終了

以上の箇所も同様だと考えられる。西田は、MP的差異共振シナジーという視点がないので、あるいは、明確な超越的差異共振性の視点がないために、不器用な晦渋な叙述になっているが、やはり、MP的差異共振シナジー的創造を述べているとと考えられるのである。

「多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用」という箇所も、MPにおける連続的同一性から差異的同一性へ、さらには、差異共振シナジー的創造性へということを述べていると考えられよう。

そう、「多と一との矛盾的自己同一」とは、正に、メディア・ポイントMedia Pointの様相のことと言えよう。

そして、「作られたものから作るものへという世界の自己形成作用」とは、メディア・ポイントの共振的創造作用と言えよう。

ここで注意すべき点を述べると、この共振的創造作用であるが、西田の記述は、直感的に、超越(不連続)性と現象(連続)性との複合性の視点で述べているのであるが、この複合性がメディア・ポイントの様相ではあるのだが、この超越性と現象性との即非性が、絶対矛盾的自己同一という用語で述べられてはいるが、この用語には、多くのことが集約されているために、一見不明確に見えやすい点である。

即ち、絶対矛盾とは、現象的個と現象的他個(他者)との絶対矛盾であるし、また、超越性と現象性の絶対矛盾であるのである。つまり、水平的矛盾と垂直的矛盾がここでは、少なくとも、込められているのである。

それらが、自己同一であるということで、複雑なのである。

これは、PS理論では、差異的同一性、即ち、i*(-i)⇒+1で明示していることである。

とまれ、西田哲学は、メディア・ポイントの創造哲学として解明できると考えられるのである。

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絶対矛盾的自己同一

西田幾多郎



     一

 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
 かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
 現在において過去は既に過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らざるものであり、未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているというのは、抽象論理的に考えられるように、単に過去と未来とが結び附くとか一になるとかいうのではない。相互否定的に一となるというのである。過去と未来との相互否定的に一である所が現在であり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立するのである。而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、過去と未来とはまた何処までも結び附くものでなく、何処までも過去から未来へと動いて行く。しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものであり、時は現在から現在へと動き行くのである。一が多の一ということが空間的ということであり、多から一へということが機械的ということであり、過去から未来へということである。これに反し多が一の多ということは世界を動的に考えること、時間的に考えることであり、一から多へということは世界を発展的に考えること、合目的的に考えることであり、未来から過去へということである。多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、現在から現在へと考えられる世界でなければならない。現実は形を有(も)ち、現実においてあるものは、何処までも決定せられたもの、即ち実在でありながら、矛盾的自己同一的に決定せられたものとして、現実自身の自己矛盾から動き行くものでなければならない。その背後に一を考えることもできない、多を考えることもできない。決定せられることそのことが自己矛盾を含んでいなければならない。
 右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない。製作といえば、人は唯主観的に物を作ることと考える。しかし如何(いか)に人為的といっても、いやしくも客観的に物が成立するという以上、それは客観的でなければならない。我々は手を有するが故に、物を作ることができるのである。我々の手は作られたものから作るものへとして、幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。隠喩(いんゆ)的でもあるが、アリストテレスはこれを「自然が作る」η φυσι※ ποιει という。無論斯(か)くいうも、我々の製作が自然の作用だなどというのではない。手が物を作るのでもない。然らば物を作るとは、如何なることであるか。物を作るとは、物と物との結合を変ずることでなければならない。大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、即ち形を変ずることでなければならない(ライプニッツのいわゆるコムポーゼの世界において可能である)。現実の世界は多の一として決定せられた形を有った世界でなければならない。これを何処までも多から一へと考えるならば、そこに製作という如きものを入れる余地がない。これを一から多への世界と考えても、それは何処までも合目的的世界たるを免れない。唯自然の作用あるのみである、生物的世界たるに過ぎない。この世界の根柢に多を考えることもできず、一を考えることもできず、何処までも多と一との相互否定的な絶対矛盾的自己同一の世界にして、個物が何処までも個物として形成的であり物を作ると共に、それは作られたものから作るものへとして、何処までも歴史的自然の形成作用ということができる。
 時が何処までも一度的なると共に、現在が時の空間として、現在から現在へと、現在の自己限定から時が成立すると考えられる如く、世界が矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということは、個物が製作的であるということであり、逆に個物が製作的であるということは、世界が作られたものから作るものへということである。我々がホモ・ファーベルであるということは、世界が歴史的ということであり、世界が歴史的であるということは、我々がホモ・ファーベルであるということである。而して絶対矛盾的自己同一の世界においては、時の現在において時を越えたものに触れると考えられる如く、作られたものから作るものへとして、ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。いわば過去から未来への間に意識的切断面を有つ世界である。作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、そこに映すという意義があるのである。我々は行為的直観的に製作するのである、製作は意識的でなければならない。絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、製作的自己は思惟的と考えられ、自由と考えられる。我々の個人的自覚は製作より起るのである。
 世界の底に一を考えることもできない、多を考えることもできない、多と一とが相互否定的として、作られたものから作るものへといえば、多くの人にはそれが実在の世界とは考えられないかも知れない。多くの人は世界の底に多を考える、原子論的に世界を因果必然の世界と考えている、物質の世界と考えている。矛盾的自己同一の世界は一面に何処までも爾(しか)考えられる世界でなければならない。しかしそれは現実の矛盾的自己同一から爾考えられるのでなければならない。現実とは単に与えられたものではない、単に与えられたものは考えられたものである。我々がそこに於(おい)てあり、そこに於て働く所が、現実なのである。働くということは唯意志するということではない、物を作ることである。我々が物を作る。物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。しかのみならず、我々の作為そのものが物の世界から起る。私のいわゆる行為的直観的なる所が、現実と考えられるのである。故に我々は普通に身体的なる所を現実と考えているのである。作るものと作られたものとが矛盾的に自己同一なる所、現在が現在自身を限定する所が、現実と考えられるのである。科学的知識というのも、かかる現実の立場から成立するのでなければならない。科学的実在の世界も、かかる立場から把握せられるのでなければならない。また我々の身体が運動によって外から知られるといわれる如く(Noire【#「e」はアキュートアクセント付き】)、我々の自己というものも、歴史的社会的世界においてのポイエシスによって知られるのであろう。歴史的社会的世界というのは、作られたものから作るものへという世界でなければならない。社会的ということなくして、作られたものから作るものへということはない、ポイエシスということはない。我々が考えるという立場も、歴史的社会的立場に制約せられていなければならない。

 哲学の出立点については多くの議論があることであろう。我国の今日まででは、大体において認識論的立場とか現象学的立場とかいうものが主となっている。かかる立場からは、私のいう所が独断論的とも考えられるであろう。しかしかかる立場も、歴史的社会的に制約せられたものでなければならない。我々は今日、元に還ってローギッシュ・オントローギッシュに歴史的社会的世界というものを分析して見なければならない。かかる立場から、私はなお一度ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。主客対立の認識論的立場というのも、なお一度吟味して見なければならない。知るということも歴史的社会的世界においての出来事である。私は古い形而上学に還ろうというのではない。私はカント以後にロッチェがオントロギーの立場に還って認識作用を考えたと思う。しかしロッチェのオントロギーは私のいう如き歴史的社会的ではなかった。

 多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、それは形相が質料を形成するという如きことではない。個物は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない。働くということは、何処までも他を否定し他を自己となそうとすることである、自己が世界となろうとすることである。然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、自己が世界の一要素となることである。この世界を多の一として機械的と考えても、または一の多として合目的的と考えても、いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。しかし機械的と考えればいうまでもなく、合目的的と考えても、個物は何処までも自己自身を限定するものではない、真に働くものではない。真に個物相互限定の世界は、ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。モナドは世界を映すと共に、世界のペルスペクティーフの一観点なのである、表出即表現である(exprimer = representer【#「representer」の二番目の「e」はアキュートアクセント付き】)。しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、自己自身を形成するものでなければならない、表現作用的でなければならない。
 その底に一を考えることもできず、また多を考えることもできず、絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界においての個物は、表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、個物が世界を映すという時、個物の自己限定は欲求的である。それは機械的に働くのではなく、合目的的に働くのでもない。世界を自己の中に映すことによって働くのである。それを意識的というのである。動物の本能作用というものでも、本質的には、かかる性質を有(も)ったものでなければならない。故に我々の行為は、固(もと)行為的直観的に起る、物を見るから起るというのである。行為的直観とは作用が自己矛盾的に対象に含まれていることである。多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという時、世界は行為的直観的であり、個物は何処までも欲求的である。私の形というのは、静止する物の形という如きものをいうのでなく、多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。プラトンのイデヤというのも、固此(もとかく)の如きものでなければならない。

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日本人の知性ルネサンス:内観的自己知性へ向けて:清沢満之と内観主観性
清沢満之の言葉に少し触れた。彼は、没年が1903年であるから、今から、百年以上前の哲学者・宗教者であるが、思想は新鮮である。

彼の「精神主義」・内観主義に触れて、戦後の日本、現代日本が何を喪失したのか、深く感得される。

明治近代化においては、日本人の精神には、PS理論でいうメディア・ポイントが開放系であった。即ち、日本人の知性は、超越性と結びついていたのである。これは、清沢満之のような天才的人物のような意識化に達していなくても、民衆は、無意識的に超越性に触れていたと思う。それは、思うに、鈴木大拙の説く「日本的霊性」に通ずるだろう。

この内在的超越的知性が、かつての日本人にはあったのだ。それが、おそらく、戦後において見捨てられたのである。戦後のアメリカ的物質主義的合理主義によって見捨てられたのである。

確かに、この超越的意識と戦前天皇制は結びついていただろう。イデオロギーであった。これが、天皇の人間宣言で、形式的に解体したと言えるだろう。そして、その後、三島由紀夫の反動的天皇主義を生んだと言えよう。

三島が音楽が流れなくなったとは、断絃の時があったからだというようなことを言ったが、断絃の時は、おそらく、このときと言えよう。

つまり、日本人が超越的意識を否定したときである。PS理論でいうメディア・ポイントを否定したときである。あるいは、特異性の感覚・意識・身体性を否定したときである。

折口信夫が戦後、新神道論を唱えたのは、伝統的超越的意識の復興を目指してのことと言えよう。

そうだ。やはり、戦前・戦中に対する戦後の判断によって、日本の伝統的精神が否定されたのだ。ここが、「断絃の時」である。

戦前の全体主義的精神が否定された。確かに、全体主義の否定は正しいが、それと同時に、戦前の伝統的日本文化まで否定されたのだ。また、戦前においても、西欧中心主義(脱亜入欧)があり、伝統的日本文化は危機に瀕していたが、戦後の戦前否定によって、決定づけられたと考えられるのである。

そこで、神道だけでなく、大乗仏教やその一つである禅思想、等が否定されたのである。つまり、価値観が、欧米近代合理主義となり、その他の日本の伝統的価値観が無惨に見捨てられたのである。これは、戦後の文化人や知識人の影響が強いだろう。即ち、敗戦による戦後民主主義の拠ると言えるだろう。

確かに、敗戦・占領によって、戦前の全体主義は、いちおう、解体され(、しかしながら、岸信介の国家統制経済路線・国家社会主義路線は、継続したのであるが)、近代合理主義・唯物科学・近代資本主義が主調になったのである。

実は、欧米の精神には、周知のように、古代ギリシアの理性主義とキリスト教的ロゴス主義が基調としてあるのである。この基礎の上に、欧米の合理主義は成立しているのである。いくら、齟齬が生じても、それが、欧米の伝統精神である。

しかるに、戦後日本は、欧米の思想的基礎を持たずに、また、自身の伝統精神(大乗仏教、禅、神道、等の東洋精神)を否定して、近代合理主義を取り入れたのである。

つまり、戦後日本、現代日本は、自己否定によって形成されたのである。根無し草的亡国的国家になったと言えよう。

この自己否定が恐ろしいのである。これが、今日の日本の狂気を生んでいると言えるのである。

魂を否定したところに現代日本人の意識が形成されているのである。

では、端的に、この自己否定とは何か。

これは、日本思想史の複雑な経緯があるとは言え、一言で言えば、日本的自我形成によるものだろう。自己を喪失して自我を形成したのである。

これは、日本思想史における一神教的志向と言えるだろう。国学的志向である。

自我すなわち、連続的同一性の意識の形成はなんらかの必然性があるのではないだろうか。

唯物論的自我形成は、人類史的に見ても、なんらかの必然性があるのだろう。

とまれ、日本的自我形成のために、日本的自己否定の路線が近代化であると言えよう。現代がその帰結、黙示録的終末状況である。

自己を否定して自我を形成するのである。自己のもっている、いわば、矛盾した性質があると言えよう。そして、自我は自己へと回帰するのである。これが、トランス・モダンである。らせん的回帰である。(世界は、今や、トランス・モダンへと「進化」しつつあると言えよう。ニーチェで言えば、超人化である。東方キリスト教で言えば、神化・テオーシスである。仏教で言えば、仏化であろう。経済で言えば、差異共振シナジー価値的トランス・モダン経済である。)

端的に、この元自己⇒自我⇒自己形成という教養図式は何を意味するのか。

西洋的に言えば、中世/ルネサンス⇒近代/ポスト・モダン⇒トランス・モダンであろう。

日本的に言えば、東洋的日本⇒明治入欧近代/戦後入米近代⇒東洋・日本ルネサンス的トランス・モダンであろう。

この類似した図式の力学とは何か。

これは、PS理論では既に解明されている。即ち、連続的同一性化とその再創造的自己化である。主客二元論化、近代的自我化、近代合理主義・唯物科学化、近代的資本主義(言語機械・唯物論・交換価値の三位一体的資本主義)であり、その創造的解体であるトランス・モダン化である。

ここにおいて、メディア・ポイントがエッセンシャルなコアである。

より端的に言うと、何が、日本の自己否定をもたらしたのか。

思うに、東洋・日本的精神と西洋的精神の異同が要因だろう。

東洋・日本的精神(以下、ヤポネシアン知性)は、深く、超越性に傾斜していると思う。そして、西洋的精神は、鋭く、連続的同一性に傾斜していると思う。

この連続的同一性は、物質的合理主義である。

即ち、超越性と物質的合理主義との異同である。

ヤポネシアン知性は、西洋の物質的合理主義に、敗北せざるを得なかったのだろう。おそらく、物質的合理主義とは、人類が形成しなくてはならない、一文化であったのだろう。唯物科学・技術的資本主義でもある。

確かに、この物質的合理主義・唯物科学・技術的資本主義によって、自然における不利便性は克服されたと言えよう。だれが、前近代的生活に戻ることを欲しようか。井戸から誰が、つるで、水を汲み上げるだろうか。

つまり、物質的進歩である。これは、これで認めるべきことである。そう、反動が問題ではないのである。さらなる進展である。

現代日本の問題は、この唯物科学・技術的資本主義、伝統的東洋・日本的精神を喪失した亡国・売国的狂気の近代的自我的唯物科学・技術的資本主義にあると言えよう。

これまで、欧米や日本において、近代主義の克服への知的営為が為されてきた。哲学、芸術、等々においてなされてきた。ポスト・モダンの知的運動もその一つであった。

しかしながら、超近代(トランス・モダン)への知的、理論的行為はこれまで、不首尾に終わったのである。というか、これまで、諸天才たちの成果を統一的に理解できずにいたと言えよう。

一言で言えば、超越性、内在的超越性、イデア界・叡知界・理念界への理解が未熟であったと言えよう。

直感的には、超越性は感じ取れるが、これを合理化できずにいたのである。

確かに、言語化はできたが、数学化できずにいたのである。PS理論は、これを、i*(-i)⇒+1という数学的合理性化を形成したのである。ここに、超近代、トランス・モダンのブレークスルーがあると言えよう。

ここで、近代主義は、克服されたと考えられるのである。

このトランス・モダン合理主義から、これまでの無視・看過されてきた天才たちの成果が理解できるようになったのである。

それが、清沢満之の哲学であり、九鬼周造の天才的哲学であり、西田幾多郎の絶対無の哲学であり、鈴木大拙の即非の論理学である。

日本哲学は既に発芽していたのである。東洋・日本的伝統的超越精神に基づいて、日本哲学は、戦前に、芽吹き、成長していたのである。

これを今や、統一理論的に理解・把握できるようになったのである。

東洋・日本哲学ルネサンスである。日本哲学は超越哲学であり、プラトン哲学や大乗仏教哲学の子孫なのである。

西洋が連続的同一性合理主義で喪失した超越性を、日本哲学が復活させるのである。

ヤポネシアン・ルネサンスである。日本再生復興である。

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社員に求める能力「主体性」「発見力」…経産省アンケ

3月12日20時7分配信 読売新聞

 企業の人事担当者の約3分の2が、社員に求める能力として「主体性」や、現状の課題を明らかにする「課題発見力」を挙げたことが12日、経済産業省の発表したアンケート調査で分かった。

 ただ、若手社員にこうした能力が不足しているとする回答も4割を超え、企業が欲しい人材と、実際の戦力にギャップがある実情も浮かび上がった。

 人事担当者が社員に求める能力は「実行力」(70・8%)が最も多く、「主体性」(68・7%)、「課題発見力」(65・8%)と続いた。

 一方、29歳までの若手社員に不足していると思う能力は「主体性」(48・2%)「課題発見力」(44・4%)、「創造力」(44・2%)が上位を占めた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=
20070312-00000111-yom-bus_all

# 企業の「求める人材像」調査の結果について〜社会人基礎力との関係〜 - 経済産業省
# 主体的なキャリア形成の必要性と支援のあり方 - 経団連による検討でも、求められるのは「自律型人材」。日本経済団体連合会(2006年6月20日)

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その時、筆者は上田氏に「日本人のサラリーマンなら誰でもアルコール依存症の会に入っておかしくない、とドラッカーは発言していましたが、真意は何でしょう」とか、「ドラッカー本人は酒は飲んだのですか。日本酒党でしょうか」などと質問していた。ぶしつけな質問に対し、上田氏は笑顔で答えてくれていたが、控え室のモニターから流れてきた森岡氏の声を聞いて、顔つきが一変した。そして冒頭の発言である。筆者は森岡氏がなんと言ったか全く聞こえなかった。雑談をしていたにもかかわらず、上田氏は森岡氏の一言に激しく反応したのである。

 その一言は「自己目標管理」というものである。一人ひとりが組織や自分の目標を自分で考え、その目標を達成するために自分自身をマネジメントすることを意味する。ドラッカーは1954年に出版した『現代の経営』において、この考えを提唱した。上田氏によると、原文は「マネジメント・バイ・オブジェクティブズ・アンド・セルフコントロール」であり、ドラッカーは亡くなるまでずっとこう書いていた。

 直訳すると「自己管理による目標管理」となる。コントロールもマネジメントも管理になってしまうので、いささか分かりにくいし、そもそも長い。そこで「目標管理」と短くしたが、上司が目標を決めて部下に与え、部下の目標達成度合いについて目を光らせる、という正反対の意味に使われる危険が生じた。実際、ドラッカーの意図と逆の目標管理を実施している例は少なくない。1973年に出版した『マネジメント』の中でドラッカーは「哲学という言葉を安易に使いたくない。しかし自己管理による目標管理こそ、マネジメントの哲学たるべきものである」といった趣旨のことを述べている。その最重要語が、目標管理と訳したために誤解されてしまった。

 7日のセミナーにおいても、上田氏の講演の後、来場者から目標管理を巡る誤解について質問が出た。上田氏は「正反対にとらえている人がいるのは、マネジメント・バイ・オブジェクティブズ・アンド・セルフコントロールのセルフコントロールを忘れてしまうから。目標管理と訳すとそう誤解されかねない。といって自己管理による目標管理では日本語として、こなれていない。いい訳語がないかずっと考えているが思いつかない」と答えていた。

 この問題を考え続けてきただけに、控え室のモニターから流れてきた「自己目標管理」という森岡氏の一言を、上田氏は聞き逃さなかった。「自己目標管理」と訳せば、上司が目標を押しつけるという誤解は生じない。「自己目標」なのだから、自分で決めるのである。同時に「自己管理」でもあるわけで、達成するための創意工夫は自分でやることになる。マネジメント・バイ・オブジェクティブズ・アンド・セルフコントロールの訳語としてふさわしい。
ドラッカーの最重要語に“新訳”が誕生した瞬間

http://business.nikkeibp.co.jp/
article/tech/20070308/120599/


清沢満之の思想とPS理論
ふとした弾みに、本棚に「眠っていた」『清沢満之語録』を手に取り、拾い読みした。面白いのである。出版が2001年であるから、購入したのは、同年か翌年である。一言で言えば、宗教哲学がここにある。大乗仏教哲学がここにある。

なぜ、購入時に読まなかったのだろうか。そう、私はまだ、唯物論的残滓、実在論的残滓に囚われていて、本書が、あまりに精神中心主義に思えて、なにか、観念論だけの著書に思えて、読むのを躊躇したのだと思う。

今や、新イデア論であるPS理論も基礎から構築が進み、理論自体が明確になってきた時点において、ようやく、本書を理解できるようになったように思えるのである。

清沢満之の哲学は、PS理論に通ずると思うのである。また、フッサール現象学に通じると思うのである。今は余裕がないので、端折って、割愛して、引用したい。

《外観主義をいわないで、内観主義を主張したい。無条件の外観主義は実相[世界の真実の姿]を得ることができないからである。・・・
どれほど観察をこらしても、事実の成立にたいして無根拠な予想を仮定するものは、けっして正当な知識を得ることはできないのだ。・・・
実験や観察にもとづいて知識を作りあげるためには、まず内観[自己内部の省察]と外観[外界の観察]との関係を存分に把握し、内観の模様がどのようであるかに応じて外観の性質や形相が大いにちがってくるのだから、外観を行おうとするなら、つねに内観との関係を心中深く銘記しておくべきであり、たんに外観だけによって得た知識はまったく相対的なものであり、けっして絶対的真理ではありえないことをわすれてはいけない。
 外観主義を後まわしにして、内観主義を先にすべきであるといいたい。外観はつまるところ内観に依存するからである。外界の成立を知ろうとすることは、知識作用にほかならない。知識の作用には、内観による検定を必要としないものはけっしてないのである。》「精神主義」同書p. 250~251

《・・・そして内観主義を立てることの要点は、つまるところ自分の本位本分を自覚することにほかならない。したがって、この自覚を開悟しないで外観の事柄に追従するのは、自分を知らないで原野を彷徨するにひとしい。これを称して迷界の凡愚という。まことに適切な言葉ではないか。われわれはこの迷路を転じて自覚を開悟しなければならない。》同上 p. 253



   




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カレンダ
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