サルトルの『自我の超越』:自我は凸i⇒+1、絶対的内面性・存在は凹iではないだろうか






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2010年12月30日(Thu)
サルトルの『自我の超越』:自我は凸i⇒+1、絶対的内面性・存在は凹iではないだろうか
サルトルの『自我の超越』:自我は凸i⇒+1、絶対的内面性・存在は凹iではないだろうか
テーマ:文学・哲学
以下、永野氏によるサルトルの『自我の超越』の説明は明敏である。
 自我問題であるが、これまで何度も述べたように、自我は凸iか、凸i⇒+1(凸)である。同一性の形式、物質形式である。
 それに対して、サルトルの非自我の純粋意識、絶対的内面性、存在とは、凹iであると思われるのである。サルトルの実存も、自由も、凹iと考えると、明晰になるだろう。そう、他者である。
 「実存が本質に先立つ」も、実存を凹i=他者と考えれば、わかりやすい。そして、それは、絶対的差異であり、当然、「自由」である(通常、自由は自我の自由と考えられているが、それは、恣意に過ぎない)。
 思うに、後期サルトルの混乱は、これを個の原基と捉えず、集団的なものと捉えて、マルクス主義と結合したことであろう。実存を個、絶対的差異、絶対的他者として捉えれば、マルクス主義との「野合」はなかったと考えられる。
 そう考えて、かつて、実存主義と共産主義を結合させたサルトルを激しく嫌悪したことの説明がこれで為されたことになる。長年の宿題が解決したことにな る。(私は若かったから、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』が好きであった。思うに、不条理とは、ロマン主義の延長の概念ではないだろうか。超 越性を予感しながらも、物質的現実に直面させられるというアンチノミーである。)
 ついでながら、私にとって、今年はいろいろなことの清算の年であった。身軽になって、来年は兎のように跳びはねよう。
 皆様よいお年を!
 

「自我と自由―サルトル『自我の超越』について―」

永野潤
第三節 自我の自発性と意識の自発性
 以上のようにサルトルは、純粋な反省を遂行すれば、我々は「自我」を蓋然的な「心的なもの」として排去せねばならないと主張する。これが、『自我の超 越』の主要な論点である。サルトルは、純粋な反省によって「自我」という「超越的なもの」を排除し、「純粋意識」という、絶対的内面性へと到達しようとし ている。その意味で、この議論の中に我々はいわば「外部から内部への運動」を見て取ることができるのである。ここで、「純粋な反省」によってとらえられる 超越論的意識が、「存在 existence」であるとサルトルが主張している点に注目しなければならない。超越論的意識は、
「絶対的存在領域 sphe`re d'existence absolue」だといわれる。こう主張することによってサルトルは、意識が、後の彼の表現を用いて言えば「本質に先立つ実存」であることを強調している のである。つまり、サルトルによる「意識からの自我の排去」とは、意識からあらゆる「本質規定」を取り除く作業でもある。「自我」をはじめとする「心的な もの」とは、反省された意識に外側から与えられる、「超越的」本質のことであった。したがって、「外部から内部への運動とは、「本質から存在への運動」で もあった、ということができる。
 ところが、サルトルは意識が「絶対的な存在領域」であると言うのと同時に、意識が「純粋自発性 spontane'ite's pures の領域」(TE,77)でもあるといっている。これが、我々がこれから問題にしようとしている「意識の自発性」についての議論である。自発性とは、のちの サルトル哲学において「自由 liberte'」という言葉でおきかえられていく概念なのだが、意識が「自発性(自由)である」ということは、実はサルトルにとって唯一の意識の「本質 規定」なのである。「人間は意識として(「自己のもとに現在しているものとして」)実存しており、このことが原理的に意味しているのは、人間が自由として 実存しているということにほかならない。このことこそ、サルトルにとって、根本的に存在論的に定義し言明されうる人間についての唯一の「本質の性格づけ」 である [*1] 。しかし、ここでなされている意識の「本質規定」は、意識に外側から与えられる「超越的」本質規定ではない。それは意識の「超越論的」本質規定なのであサ。「自由とは、実存する意識に後になって付け加えられるぺき規定であるという考えの成立しないように [*2] 」しなければならない。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/jiga.html

トランス・モダンとしての道元禅哲学
テーマ:日本哲学:鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造
以下、正法眼蔵の有名な箇所であるが、以前読んだとき、なんとなくわかったつもりであったが、今や判然とわかるのである。
 PS理論の凹i、他者をこの場合、仏道の真理とすればいいのである。凸iは、自我であり、これを脱落(身心脱落)させて、凹iの心性、心眼をもつことが仏道であると言えよう。
 道元はトランス・モダン哲学を説いていた。
 思うに、仏教というか、禅は、哲学と見るべきである。仏教は宗教ではない。神を説いていないからである。
 ところで、テキストは次を薦めたい。




正法眼蔵(一)全訳注 (講談社学術文庫) [文庫]
増谷 文雄 (著)

第一 現成公案


自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは 佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。 佛のまさしく 佛なるときは、自己は 佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして 落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。

http://www.shomonji.or.jp/soroku/




ヤハウェとエローヒーム:父権一神教と母権多神教
テーマ:一神教/多神教⇒新多神教・新多一神教
神秘学者のシュタイナーが、人間はヤハウェ型とエローヒーム型に類別されると述べていた。
 PS理論で言えば、凸i型と凹i型である。日本人の遺伝子にも、両方の型があると思う。
 日本国を基本的に支えてきたのは後者であるが、戦後、とりわけ、今日、民主党に見られるように、前者が支配的になって、亡国を迎えていると思われる。
 父権型は、利己主義、自己中心的、独りよがりであり、他者がないために、社会を国を滅ぼし、民衆を地獄に落とすのである。
 思うに、現在の日本は日本国のカルマによって、大試練を迎えていると言えよう。闇が支配して、光を消滅させようとしているのである。
 とまれ、日本、日本人は生まれ変わる必要がある。本気にならないと亡国は必定である。

参照と参考:

「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵 V
HEXのブログ


太陽に手をがざす!
指圧百科:SHIATSU

Kaisetsu氏に拠る、ベクトル・モード計算と二重螺旋構造の解明
テーマ:精神的フィルターとVector Mode
以下、たいへん興味深い解明が為されている。
 先に、私はMedia Pointにおいて、物質と精神が同時生起すると述べたのであるが、それが見事に、DNAの二重螺旋構造という点で解明されていると考えられる。
 私は⇒+1が物質化、⇒-1が精神化として、逆になっているが、単に、ネガとポジの違いであり、後で、考察し直したい。
 重要な点は、Media Pointからベクトル・モードが形成されるが、そこでは、物質、生命体が形成されると同時に、精神、知性が形成されるということである。これは正に、Media Pointの陰陽の為す造化の妙、奥義である。
 だから、Media Pointは創造神と言えるかもしれない。とまれ、余裕のあるとき、緻密に検討したい。 
• 二重螺旋構造とベクトル・モードの演算記号vector mode calculationvmc
所謂、二重螺旋構造は物質的な相互作用によって、遺伝情報と言う精神作用を伝達・保存・消去する構造である。

 物質世界からは、常に、「-1」が出てくる。

 この「-1」を指数分割(1/2乗)することで、虚数(i)を2個表出することが出来る。

 この2個の虚数が
精神世界(電磁関連作用)の場合

(凸+i)*(-i凹)⇒(適合、噛み合っている):mode=-(+i)*(-i)=(+1 or +)


 上記「精神世界(電磁関連作用)の場合」の2個の虚数であると考えることが可能だ。

 つまり、二重螺旋構造は、「物質世界の新陳代謝(ベクトル・モード計算)」と「精神世界の新陳代謝(ベクトル・モード計算)」が連続的に発生するシステムであろう。


海舌(明日野)
• 八卦とベクトル・モードの演算記号vector mode calculationvmc
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


物質形成と精神形成:凸i主導性と凹i主導性:父権と母権
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
先に次のように述べたが、もう少し進展させたい。

凸iが主導で⇒+1(物質)となるならば、凹iが主導したとき、⇒-1となるのか?

私は次のヘーゲル弁証法論理の説明(弁証法論理と即非(差異共振)論理:ヘーゲル弁証法とPS理論的即非論理:トランス・モダン資本主義へ )から以上のことを思ったのである。
 ヘーゲル弁証法は、精神からの物質的形成(外化、疎外態)を説き、そして、それを止揚・揚棄して、精神に復帰する力学論理である。
 問題は、物質形成である。それは、正に対する反であるが、これは、ps理論では、+1である。
 私はその時、凸iが主導的であると感じたのである。しかし、今、判然としない。というか、ただ、凸i、陽が主導して、物質界を作ると思いついたのである。つまり、同一性形成の問題である。凸i、陽の主導性が同一性、さらには物質を形成すると言えよう。
 この同一性があるために、凸iである脳は、物質界を認識すると言えよう。凸iのもつ原同一性(ロゴス性)と物質界の同一性が適合するということである。
 ということで、本題に戻ると、では、凹iが主導したとき、何が生起するのか。
 先に、凹iは肚であると言った。あるいは、下丹田、マニプーラ・チャクラ、太陽神経叢、視床下部等と言えよう。
 凹iが主導したとき生起するのは、直観では、精神・魂である。凹iの主導性は、同一性ではなく、差異共振を形成すると思う。凸iの主導性が同一性かつ物質を形成するなら、凹iの主導性は、精神・魂を形成するということになる。
 つまり、凹iは絶対的差異、他者であるから、凸iの原同一性=ロゴス性が消極的になり、非同一性、非物質性を生成すると考えられる。即ち、陰陽力学と は、本来、物質と精神を同時生起させているのであるが、原父権主義である凸iが主導的であると、物質主義が支配的になると言えよう。
 では、さらに、凹iの主導性・優位のもたらす精神・魂の意味を考えてみよう。私が考えているのは、-1との関係である。
 凹iの精神的感性であるが、それは、超越界と通じているのである。つまり、凹iは「気」と通じていると考えられるのである。ならば、超越界を-1とするなら、凹iは-1と連絡して、人間認識図の第三象限を形成すると言えよう。
 根源は超越界であるが、しかしながら、凹iは-1と連携して、自立的に、超越界ないし超越性を形成するのではないだろうか。そして、シュタイナーの霊学から見ると、それが人間の使命となる。
 凹iと-1の第三象限的思考をもつことで、個的超越界・超越性が形成されるのであり、それは、精神・魂の豊かさを創造すると言えよう。
 そして、凸iの物質文化との調和をそれによって計っていくことが、現代の人間に課させられたもっとも重要な任務であろう。

参考:

チャクラ
チャクラ(cakra, chakra, cakkra, चक्र)は、サンスクリット で「車輪・円」を意味する語。漢訳は「輪」(りん)、チベット語では「コルロ」(khorlo)という。インド起源の神秘的身体論における、物質的な身体(粗大身)と精微な身体(微細身)にある複数の中枢を指す[1] 。
ヨーガでの用法 [編集 ]


各チャクラの位置
ヒンドゥー教 のヨーガ では、人体の頭部、胸部、腹部で、輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。数は6または7箇所と言われるが、それとは別に8箇所あるという説もあるなど、一定ではない。画像 では光る蓮華 で表現される。猿であったときの尻尾の名残の尾てい骨から発生する蛇を、チャクラを通じて頭から出すのが目的といった見解がある。
1. ムーラーダーラ(Mooladhara)・チャクラ:会陰
2. スヴァーディシュターナ(Swadhisthana)・チャクラ:陰部
3. マニプーラ(Manipura)・チャクラ:腹部
4. アナーハタ(Anahata)・チャクラ:胸
5. ヴィシュダ(Vishuddhi)・チャクラ:喉
6. アージュニャー(Ajna)・チャクラ:眉間。インド人は、ここにビンディ をつける。
7. サハスラーラ(SahasrAra)・チャクラ:頭頂(Sahasraは千、Araは花弁。6箇所の場合、含まれない。一説に千手観音 の千手千眼はこのチャクラのことという)。
簡易的には背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……という呼び方もする。
チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世 は、その場所に心を集中すると何かしらがあるという反応が得られると述べている[2] 。
仏教タントラにおけるチャクラ [編集 ]
インド仏教の金剛乗 のタントラ 経典では以下の四輪があるとされていた。
• 応身のチャクラ(臍)
• 法身のチャクラ(胸)
• 報身のチャクラ(喉)
• 頭部の蓮華(脳)
インド密教を継承したチベット仏教 の無上瑜伽タントラでは以下のチャクラがあるとされる[3] 。
• 大楽輪(頭頂)
• 受用輪(喉)
• 法輪(胸)
• 変化輪(臍)
• 守楽輪(秘密処=下丹田にあたる)
中国 [編集 ]
中国の道家 や内丹術 の伝統的な身体論には、インドのチャクラに比すべき丹田 という概念があるが、近代の内丹術の中でも清 代の閔小艮の一派はヨーガの七輪の概念を取り入れている[4] 。
西洋への伝播 [編集 ]
ヨーガ の伝播と共にチャクラの概念も伝播した。数は7箇所で内臓 の各部に充てられるようになった。また、その振動の周波数などを解明したとする研究者もいる。他の行法である近代西洋儀式魔術 などにも概念が取り入れられた。
神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ [編集 ]
チャクラは脊椎に関連するエーテル体 にあるエネルギー・センター(渦)で、肉体の7つの内分泌腺及びメンタル体 、アストラル体 、肉体の調整と活性化を司り、意識の中枢と各身体の中継点としての役割をはたしている。
現在のヒーリングなどの分野では、各チャクラに対応する体表のツボのことを指して「チャクラ」と呼んでいる。体表のツボは単にチャクラからのプラーナ (気 ) の出入口としての役割を果たしているにすぎず、チャクラではないが、ここでは便宜上体表のチャクラと呼ぶことにする。一方、伝統的なヨーガが伝えている 「チャクラ」は、体表のチャクラではなく、人間のエーテル体に存在するほぼ脊柱に沿った7つのチャクラで、ここではこれを脊髄のチャクラと呼ぶことにす る。しかし時代が下るにつれ、この脊髄のチャクラとは異なるチャクラの記述が現われるようになる。ここではこれを神経叢のチャクラと呼ぶことにする。実の ところ主要な7つのチャクラのいずれのチャクラも、これら神経叢のチャクラと脊髄のチャクラが対をなして存在している。しかし現在に至るまで、この2つの チャクラの系統は明確な区別がなされていない。
古代のヒンドゥー教のヨーガでは、脊髄のチャクラが「チャクラ」とされてきた。不滅の身体をもち今も老いることなくヒマラヤで生き続けていると言われているマハー・アヴァター・ババジ が、弟子たちに伝授したクリア・ヨガの伝統では、脊髄のチャクラに関する知識が伝わっている。20世紀前半、クリア・ヨガを初めて西洋に伝えたパラマハンサ・ヨガナンダ は、 著書『あるヨギの自叙伝』(森北出版)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を『心臓の後にある胸椎中枢』としている。ヨガナンダの言うチャクラが脊髄の チャクラであることが分かる。またババジのクリヤー・ヨーガ(ヨガナンダのクリア・ヨガと本質的に同じものと思われる)の普及活動をしているマーシャル・ ゴーヴィンダンは、著書『ババジと18人のシッダ』(ネオデルフィ)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を「心臓の高さに当たる脊柱内にある」としてお り、ヨガナンダと同様である。
6-7世紀以降、タントラ教典が編纂された後の近代のヨーガ では、神経叢のチャクラについて言及するようになった。近代のヨーガの指導者として著名なスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの著書『魂の科学』(たま出版 ) にはアナーハタ・チャクラの位置について、「このチャクラは、別名、心臓のチャクラとも呼ばれていますが、胸部の両肺に挟まれた心臓内にある微細な空間の 中に位置しています。」という記述があり、ヨーゲシヴァラナンダの言うチャクラが神経叢のチャクラであることが分かる。
また、サマエル・アウン・ベオールの著書『完全なる結婚』(ノーシス書院)には、神経叢のチャクラと脊髄のチャクラの存在について、「原始ヒンズーヨギたちは、脊髄のチャクラとクンダリニー にすべての注意を払い、神経叢のエーテルチャクラには、ほとんど無関心であった。このことはにせ秘教家を驚かせた。」という記述がある。
以上からも、各々のヨーガ行者あるいは神秘家がチャクラの性質及びその位置について言及する場合、神経叢のチャクラあるいは脊髄のチャクラのいずれ か一方についてのみ言及しており、各々のチャクラが、これら2つのチャクラと対をなして存在していること、及び、それらの位置と機能の違いについて、明確 に区別し、自覚されていたとは考えにくい。
体表のチャクラは、先に述べたように本質的にチャクラではなく、チャクラからのプラーナ (気 ) の出入り口である。しかし、そのルートが浄化されていることが心身の健康とチャクラの覚醒の上で重要であるため、ヒーリングの分野において重視されてい る。一方、本来のチャクラは神経叢と脊髄のチャクラであり、神経叢のチャクラは、身体の交感神経系を支配するナディーと関連し、身体の運動的な活動を司っ ている。一方、脊髄のチャクラは、身体の副交感神経系を支配するナディーと関連し、精神的な活動を司っている。神経叢のチャクラと脊髄のチャクラは対に なっており、意識の拡大の過程を通じて、下位のチャクラから順に覚醒していく。
フィクションでのチャクラ [編集 ]
以下は、夢枕獏 の小説「キマイラ・吼」シリーズに登場するチャクラ。
アグニ
仙骨 に あり鬼骨などとも呼ばれ、この1つのチャクラで、7つのチャクラを合わせたよりも更に大きな力を持つとされ、生命進化の根元を司るとも言われる。あまりに 強大な力を持つゆえに、このチャクラを開眼させたまま放っておくと人は獣や鬼に変じてしまうなどという話もあるが、現代のヨーガ実践者でそれを開眼させた 者はおらず、眉唾的なものではある。ただ、古代中国に赤須子(せきしゅし)がそのチャクラを開眼させてしまい、獣(的なもの)に変じた赤須子が村人を数十 人喰い殺し、見かねた老子 が赤須子を封じたという記録が唯一残っている。
ソーマ
月のチャクラなどとも呼ばれ、アグニチャクラの開眼により暴走を始めた肉体(生命力)を統べ得る唯一のチャクラと言われるが、アグニチャクラの存 在自体が定かでないため、更にその存在は疑問視されることがある。ソーマの身体上の位置を、頭頂の更に上(要するに虚空)と主張している。これは人間の身 体を肉体だけでなく、エーテル体なども含めた上での見解である。
脚注 [編集 ]
1. ^ ミルチャ・エリアーデ 『エリアーデ著作集 第10巻 ヨーガ 2』 立川武蔵 、訳、せりか書房、1975年。ISBN 4-7967-0087-0 。
2. ^ F・J・ヴァレーラ 、J・W.・ヘイワード 『徹底討議 心と生命』 山口泰司・訳、山口菜生子・訳、青土社、1995年、109頁。ISBN 4-7917-5382-8 。
3. ^ 平岡宏一 『ゲルク派版 チベット死者の書』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。ISBN 4-05-901032-4 。
4. ^ 道教と仙学 第4章 各派の丹法の要訣
関連項目 [編集 ]
• ヨーガ
• クンダリニー
• マルマ
• 経絡
• 如意輪観音 (手にチンタマニ(Cintamani cakra チンタ=如意、マニ=宝珠)とチャクラ(法輪 、チャクラム が変化したものという)を持つため中国仏教 では如意輪と訳した。)
• オーラソーマ
• オーラ
参考文献 [編集 ]
• 竹下雅敏 神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ ユニティ・デザイン
• C・W・リードビーター 『チャクラ』 本山博 、湯浅泰雄 (共訳)、平河出版社、1978年。ISBN 4-89203-023-6 。 - チャクラ、リードビーターの理論が概観できる。 PDF
• 比較文化研究室( 島岩 )訳『十六ニティヤー女神の海』、『ジュニャーネーシュヴァリー』等
外部リンク [編集 ]
• 七つのチャクラの意味
• 無料チャクラの壁紙
• チャクラ (チャクラとは、「気」とチャクラ、チャクラの活性化の方法など)
• チャクラについて (各チャクラの位置とそれが司る体の領域、意味、色)
• Evolutio Rodurago - チャクラ テスト (英語)
• クラ派の南の伝承におけるシュリー・チャクラの構造
• シャークタ派の密教 シュリー・チャクラの構造を中心として
• 人生の中でのチャクラの活動レベル (チャクラのバランシング方法、活性法、過去生の情報など)

「チャクラ」は、インド に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などしてくださる協力者を求めています (プロジェクト:南アジア )。



「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%A9 」より作成
カテゴリ : ヨーガ | 身体論 | ニューエイジ


ベクトル・モード総覧:物質世界の凹と精神世界の凸
テーマ:精神的フィルターとVector Mode
以下、Kaisetsu氏の、いわば、ベクトル・モード総覧はまったく曖昧さがなく、透徹して明快・明晰で、きわめて役に立つ。
 結論の、物質世界での適合状態が凹、マイナスであり、精神世界のそれが、凸、プラスであるのは、実に興味深い。
 物質主義、資本主義の欠陥が指摘されているが、それも興味深い。そこにおいて、凸、プラスが支配するのが、問題であるということであるが、確かに、凸、プラスが支配すると、それは、同一性主義、交換価値中心になり、資本主義の差異共振性が破壊されると言えよう。
 つまり、資本主義内の精神世界=差異共振性=凹、マイナスが、凸、プラスによって、破壊されるということと言えるのかもしれない。
 叡知の共振によって、資本主義は作動するのであり、それが、同一性主義、物質主義が支配的になると、侵食されるということかもしれない。後で、再考したい。
 
参照:


ベクトル・モードの演算記号の初期設定螺旋の記号表記)
(使用例)

 
1) 一般的なオスメス・ネジの場合。(観察者は実軸上、マイナスからプラスを見る)

osumesi121 posted by (C)天花一海

 a2)ボルト実軸プラス方向右回転のベクトル・モード(螺旋運動) 凸+
 d1) ナット実軸マイナス方向左回転のベクトル・モード(螺旋運動) -凹


 (凸+)*(-凹)⇒(適合、噛み合っている):mode= - reason why (+)*(-)=(-)

凸*凹⇒即非:無記号(本来、陰陽記号)
プラス・マイナス符号計算 (+)*(-)=(-)

よって、 (凸+)*(-凹)が互いに適合して噛み合っている場合のベクトル・モードは「マイナス1」 or 簡便に「-」「凹」である。

mode=-(+*-=-)

 2) 一般的なオスメス・ネジの場合。(観察者は虚軸上、マイナスからプラスを見る)

 ia2) ボルト虚軸プラス方向右回転のベクトル・モード(螺旋運動) 凸+i
 id1) ナット虚軸マイナス方向左回転のベクトル・モード(螺旋運動) -i凹

(凸+i)*(-i凹)⇒(適合、噛み合っている):mode=-(+i)*(-i)=(+1 or +)

よって、 (凸+i)*(-i凹)が互いに適合して噛み合っている場合のベクトル・モードは「プラス1」 or 簡便に「+」「凸」である。

 



物質世界の適合状態の効果であるベクトル・モードは「凹、マイナス」であり、精神世界のベクトル・モードの適合状態の効果は「凸、プラス」であることが分かった。

 物質主義、資本主義の根本的欠点・罪悪性は、物質世界で凸(父権性)を効果として求めることに起因すると言えよう。物質世界では母権性(マイナス、凹)を求めるべきである。

海舌(明日野)

http://blog.kaisetsu.org/?eid=812333
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


メノラーと母権的父権的文化(母・父権文化):ユダヤ父権文化とユダヤ母権文化の二重性
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能
以下、HEX氏のブログに提示されたメノラーのシンボルが興味深い。7は秘数であり、また、女神の数、つまり、母権文化の秘数である。的確に言うと、古代オリエントの女神イシュタル、イナンナの数である。
 そして、それを父権文化であるユダヤ文化がそれなりに引き継いでいるのである。だから、ユダヤ文化は絶対的に父権文化ではなく、ベースに母権文化があると考えられる。
 私が言いたいのは、やはり、母権文化が父権文化と接して、母権的父権文化(母・父権文化と造語したい)が形成されという仮説である。
 ところで、ここで別様の考えを言うならば、ベースの母権文化を利用する父権文化の登場を想定することができるだろう。
 天皇制もそのように考えることもできる。そう、以前、私は、そのように考えていた。母権的太陽神が、父権的太陽神に利用されたのが、天皇制ではないのかと。
 しかし、今や、天皇とは母権文化・社会の精神的存在であることが判明したので、その考えは古くなった。
 とまれ、本題であるが、ユダヤのメノラーの場合は、父権文化が母権文化を取り込んだように思える。だから、母権的父権(母・父権)ではなく、父権的母権(父・母権:造語)と考えられる。
 そう、母父権か父母権の違いは決定的であると思う。即ち、凹i主動性か凸i主導性かの違いがあり、それは根本的違いである。
 だから、メノラーに関しても、7というシンボルは同じあっても、質が異なると考えられる。両班のような苛酷なものは、ユダヤ父権主義を想起させる。つまり、父・母権的であるということである。
 それに対して、天皇制は、母・父権的であるということになる。
 このことから推測されるのは、古代東アジアにおいて、父権的民族と母権的民族との衝突があったが、前者から父・母権主義が、後者から母・父権主義が生ま れたということであり、両者は同じ母権文化の神聖なシンボルを活用したが、しかし、質は正反対であることを認識することが決定的に重要であると言えよう。
 最後にユダヤ文化について一言言うと、私が知る限りでは、旧約聖書は父権神(ヤハウェ)と母権神(エローヒーム)が混在しているのである。つまり、ユダ ヤ父権文化とユダヤ母権文化があると考えられる。一般にユダヤ文化は前者と見られているが、それは誤りである。失われたイスラエル十支族は、この点で、実 に興味深いのである。HEX氏によると、母権文化が基底にあるが、父権文化が掟であったということである。だから、ユダヤ父権文化とユダヤ母権文化のいわ ば、分裂的な二重性をそこに感じるのである。これは、言い換えると、父・母権文化と母・父権文化の混淆を意味しよう。
 そうすると、古代東アジア、そして、古代日本において、この二重性が存した可能性がある。しかしながら、古代日本は母権がベースであるので、この二重性様態があっても、主体は母・父権主義であると考えられる。
 後でさらに最後の点について検討したい。

追記:HEX氏は新羅と日本の関係を述べているが、思うに、新羅を父・母権文化とすると、それが日本に関わった場合、日本に父・母権文化が導入されたことになる。そうすると、古代に日本において、ベースの母・父権文化(天皇制)と父・母権性が混淆したことが考えられる。
 思うに、確かに、現代日本においても母・父権文化と父・母権文化の混在が感じられるのである。そして、後者は利己主義・唯物論・社会主義的であり、日本を滅ぼそうとしていると考えられるのである。
 後で、HEX氏の記述を精読して、考察を精緻化したい。

追記2:7は又、チャクラの数でもある。そして、当然、虹の七色、オクターブの音階数である。シュタイナーの説くサイクル数でもある。
 では、秘数7の源泉は何処にあるのか。以前は、差異共振様態に存すると見たが。光を考えたとき、それは言えよう。虚軸のモードである。
 ここで、想起するに、クンダリニーは三回転半を意味していた。半回転を1とすれば、三回転半は半回転7回である。
 これは、当然、スピンを想起する。虚軸のスピンは、先には、ボソンだったので、これに相応しないことになる。半整数スピンは、フェルミ粒子である。この点は再考したい。
 とまれ、その他の源泉を考えると、第三象限である。しかし、今のところは説明ができない。
 メノラーの形態を見ると、左右にそれぞれ、3があり、中央に1があるのである。これは、易の陰陽の構成に似る。陽爻が3、陰爻が3あり、両者で卦を構成するのである。
 そうすると、やはり、Media Pointではないだろうか。凸iの主導性の場合、双極子は三つ巴、3値となり、凹iの主導性の場合も三つ巴、3値となり、併せて、7となるのではないだろうか。
 今はここで留める。
 

 
参照:

「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵 V

・・・・・
日本と新羅は縁が深いにも拘らず、度々戦う複雑な関係。
日本書紀の編纂(720年完成)は、唐や新羅と張り合う為に行われた、国史編纂事業である 


     

      新羅の王冠               百済から送られた七枝刀
   

イスラエルの国章(メノラー)       元になったメノラー(燭台)

      
新羅の王冠は、メノラーの7枝が9枝に転化した可能性が感じられる。
百済(扶余族)から送られた、七枝刀の由来も、メノラーの可能性が高い  
七枝刀は、祭礼・儀礼の刀で宝物的意味合いのものである。            

メノラー(燭台)はユダヤ教のシンボルであり、キリスト教のシンボルでも有る
ミトラ多神教由来の、光=火の信仰に繋がる



       
    
両班(ヤンバン)と呼ばれる、              日韓併合初期の両班
古来からの朝鮮貴族の門            欧州人から世界で最も傲慢な貴族階級と言われた

古来、両班(ヤンバン)の地位は圧倒的で、超支配階層。
法の適用外の存在で、一般人から金品を奪い、従わない者は拉致して拷問にかけていた。
一般人から見れば、嫌悪の対象でもあった
両班(ヤンバン)は高級官僚の地位につくものが多かったという

彼らの門飾りも、メノラーに酷似するものが多い


シュメールの生命の木(七枝) キ(蛇の女神)とウル(エンリル)

一般に、七枝のメノーラの起源は、シュメールの生命の木(七枝)=世界樹が起源だと言われている
世界中をシンボルに取り入れている古代文明は幾つかあるが、シュメール起源と見られている

http://ameblo.jp/hex-6/entry-10745559427.html
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父権的文明は常に敵を作る:凸iの傾斜は凹iを敵とする
テーマ:森羅万象:諸事万端:天象地象:政治経済
父権的文明が起きて、戦争が常態になったと言えよう。父権的文明とは、凸iに傾斜した文明であり、凹iが影(シャドウ)になっているのであり、その投影のために、敵を作ると言えよう。
 投影の対象は、当然、母権的文明である。つまり、東洋文明である。正確に言えば、非父権的文明である。
 問題は、一神教的文明である。ユダヤ・キリスト教的一神教とイスラム的一神教を同じと見るべきなのか。
 仮説的に言うと、一神教性が同じであるとすれば、前者は後者を近親憎悪で憎むことになろう。イスラム教は自身をユダヤ・キリスト教の進展と見ているのであり、その点からして、前者は優位性から後者を否定したくなるだろう。
 ということで、ユダヤ・キリスト教的一神教の場合、他者は母権的宗教であり、他の一神教であると言えよう。
 しかしながら、以前、私はユダヤ・キリスト教的一神教とイスラム教的一神教は異なると述べた。つまり、後者のタウヒード(一化の原理)は、差異共振が基 礎にあると思うのである。つまり、母権モードから一神教が発生しているように思えるのである。つまり、母・父権的であるということである。(そう、ギリシ ア神話のゼウスに近いのではないだろうか。母権が原基である父権主義ということである。)
 そう考えると、ユダヤ・キリスト教がイスラム教を敵対視するのはよくわかると言えよう。

追記:タウヒードを帰一とするならば、一とは、-1の超越界のことではないだろうか。思うに、イスラム教は、凹i凹と凸i凹が混淆しているのではないだろうか。

参考:

タウヒード
タウヒード(アラビア語 表記:توحيد, トルコ語 表記:Tevhid, ラテン語 表記:Tawḥīdあるいは Tawheed, Tauheed とも)とは、イスラーム における一神教 の概念である。イスラームにおいて、タウヒードは〈一化の原理〉を意味すると同時に、世界観 と存在論 、すなわち価値観 の根本である。
また、タウヒード論においては、神の唯一性という言葉で、和訳され論じられることも多いが、神の唯一性という言葉は、アラビア語において(ラテン語表記をすると)waḥḥdat-Allah という明確な表現があるので、正確な訳出とはいえない点で留意する必要がある[1] 。したがって、この記事においては、神の唯一性を起点とした上で、そこで活用された〈一化の原理〉に則りながら、現実解釈のための基本原則を提示する内容を描出することとなる。 タウヒードの反対の概念は、シルク (shirk、多元性)である。
語源 [編集 ]
タウヒードという言葉は、アラビア語の動詞ワハダ (waḥada) の第2型であり、〈一に化す〉、〈一に帰す〉を意味するワッハダ (waḥḥada) という動詞から派生した動名詞である。その原義は、〈一化〉、〈帰一〉を意味する[2] 。
定義 [編集 ]
イスラームにおける唯一神(アッラー )の存在は絶対であり、この理由のために、ムスリムは、キリスト教 世界で信奉されている三位一体説 を否定する。
クルアーンでの言及 [編集 ]
クルアーン (アル・クルアーン)において、タウヒードは随所に言及されている。また、「アッラーのほかに神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という文節は、サラート として知られる1日5回の礼拝において引用される。
シルク(多元性)の概念 [編集 ]
タウヒードの反意語は、シルクである。アラビア語では、分割・分離を意味する。
ムスリムの視点 [編集 ]
スンナ派、シーア派ともに一致しているのは、イスラームにおける最重要な概念であるタウヒードがこの絶対で完全なる創造者を受け入れるということで展開されているということである。ムスリムは、「アッラーのほかに神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という信仰告白 (シャハーダ )を公に唱えることによってムスリムとなり、かつ、自らの信仰を絶えず、再確認することとなる。
スンナ派の視点 [編集 ]
スンナ派の人々は、タウヒードをイスラームの教条(Aqidah)の7つの重要な側面のひとつであると見なしている。
アシュアリー派 の著名な学者の一人である Fakhrud-Din Ibn Asakir は、自らの著書で、スンナ派の信条を記述している。
• アッラーは人々を導き、唯一の神である。
• アッラーは全ての世界(天界、地上界)を作りたもうた。
• 全ての創造物は、アッラーの力により服従されている。
• アッラーは、人生に帰する。睡魔にとらわれることは無い。
• アッラーは、人間が予見できないことについて知っているただ、ひとつの存在であり、全知全能である。
• アッラーの行うことは全て彼の意志に基づく。
• アッラーは報酬を望まず、罪を恐れない。
• アッラーは、創造の前から存在した。過去、未来というものをもたず、また、前後左右上下といった概念にはそぐわない。というのも、アッラーは全だからである。
• アッラーが、宇宙の森羅万象を創造し、時間の存在を望んだ。アッラーは、時間に制限されるということは無く、場所に明示される存在ではない。
神の不可視性 [編集 ]
スンナ派 のムスリムは、神は見ることはできないと信じている。仮に神の姿を見ることができるのであれば、自らの生涯の終わりを意味する死後に訪れる最後の審判の日のみであると信じている。
クルアーンの記述
その日(審判の日)には明るく輝く顔また顔、(さも嬉しげに)主を仰ぎ見る
– 第75章第22から23節, [3]
いや、いや、あの日〔審判の日〕には、主の御顔も拝されまいぞ
– 第83章第15節, [4]
ハディースの記述。アブー・フライラは、人々とムハンマドの対話を以下のように記述している。
(人々)「われわれは、復活の日に神を見ることができるでしょうか?」
(預言者)「あなたがたは、満月の時に、月が見ることができないことで何か問題がありますか?」
(人々)「いいえ、そういうことはございませんが」
(預言者)「それでは、雲が何一つ無いときに、太陽を見ることができないことで、何か問題がありますか?」
(人々)「預言者よ、それも問題はございません」
(預言者)「ほんとうに、あなた方が神を見ようとすることは(あなた方が太陽や月を見るような)ことですよ」
クルアーンとタウヒード [編集 ]
スンナ派の人々は、クルアーンは創造されたものではなく、この視点は、十分にタウヒードの概念と互換可能なものである。ハンバル学派は、以下の視点を提示する。
クルアーンに書かれている言葉や音は永遠であり、それがゆえに、その物語は創造されたものは無い。そればかりではなく、羊皮紙写本や装丁された文書は同じ質を共有しているのである
アブー・ハニーファ は、以下のように述べる。
告白する。クルアーンは神の言葉であり、作られたものではなく、神の直感、啓示は、彼の本質である。一方で、インクや紙といったものはわれわれ人間が作り出したものである
スンナ派(サラフィー)の視点 [編集 ]
タウヒードは、3つの側面を持っている。
• 神の唯一性(Tawheed-ar-Ruboobeeyah)とは、「神は、創造者であり、創始者であり、設計者であり、全てを養ってくださるものであり、安寧を与えてくださるものであるという唯一の神であることを信じる」ことである。
この信仰は、ヨーロッパにおけるカルヴァン派 や1600年代にニューイングランド に移住したピューリタン の信仰と相通じるものがある。この信仰に基づくと、人々は、神に全面的に依存している存在だと考えることになる。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。
地上を匍い廻る動物にしても、全部アッラーの養い給うところ。何処に棲み、何処に潜むかということまでご存知。ことごとく明白な啓典(万物の運命を記載した天の書物)に記録されておる
– 第11章第6節, [5]
アッラーこそは万物の創造主。あらゆるものを世話し給う。天と地の全ての鍵を持ち給う。アッラーのお徴をありがたいとも思わぬどもは、いまに必ず損をする
– 第39章第63節, [6]
• 唯一神への帰依(Tawheed-al-Ulooheeyahあるいは、Tawheed-al-Ebaadah) とは、神以外のものは決して、崇拝の対象としてはならないということである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例(クルアーン第59章第22節から第24節[7] )である。
「これぞこれ唯一無二の御神、アッラー。目に見える世界も、目に見えぬ世界をもともに知悉し給う。お情け深い、慈悲深い御神」
「これぞこれ唯一無二の御神、至高の王、聖なる御神、限りなき平安の神、誠実の守護者、万物の保護者。偉大で、その権力限りなく、尊厳この上もなきお方。ああ勿体無い、恐れ多い、人々がともに並べる(邪神ども)とは比較にならぬ高みにいます御神におわしますように」
「これぞこれアッラー、蛮勇を創造し、創始し、形成するお方。あらゆる最高の美名を一身に、集め給う。天にあるもの、地にあるもの、全て声高らかに賛美し奉る。ああ限りなく偉大、限りなく賢い御神よ」
• 偶像崇拝の完全否定(Tawheed-al-Asma-Sifaat)とは、神の不可視性とイスラーム化以前のカアバ で数多くの神が神像として祀られていたことからその信仰を否定する考えである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。
皆さん、自分で刻んだ偶像を拝んでなんとなさる
– 第37章第95節, p.41
言ってやるがよい、「天と地をすべ治めるものは誰か。」言ってやるがよい、「アッラーだ」と。言ってやるがよい、「それなのに、お前たち、(アッ ラー)を差し置いて、他の(偶像)どもを神と仰ぐことにしたのか。自分自身に対してすら良くすることも悪くすることもできないようなものどもを
– 第13章第16節, [8]
ムスリムの人々(サラフィー [9] )にとって、以下のような行動は、シルクと見なされるのである。
• スーフィー 信仰 - 早期のムスリムやスーフィーと呼ばれる聖者の墓所へ巡礼を行ったりすること。
• 死から逃れるための礼拝
クルアーンを逐語的に解釈するのであれば、イブン・タイミーヤ が 説くように、神は、体の各部分を持たず、しかし、クルアーンやハディースに記述がある「手」、「目」、「顔」といった属性を持っている。しかし、それぞれ は、人間が知っているような形状をしてはいない。そして、サラフィーは、神は天上界に住んでいると信じているのである。
シーア派の視点 [編集 ]
シーア派 においても、タウヒードは絶対なものである。
神の属性 [編集 ]
シーア派は、神は見ることができるとは信じていない。また、アッラーはどんな形は何であれ、体を持っているという考えも拒否している。
クルアーンのいくらかの一節では、アッラーの体についての記述が見受けられる。例えば、「アッラーと並べて他の神を拝んではならぬ。もともとほかに 神は無い。全ての物は滅び去り、ただ(滅びぬは)その御尊顔(アッラー自身ということ)のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ 戻されていく[10] 」という一節である(第28章第88節)。シーア派の解釈は、「アッラーを除いて」という形になる。シーア派の論議では、この節は文字通り解釈してはならないのである。
また、シーア派の間で議論になる点は、神は、手を持っているというクルアーンの随所に記述がある点である。そのことは、神の力、あるいは慈悲を意味すると彼らは解釈している。例えば、「アッラーの手は鎖で縛られている(第5章第64節)[11] 」という文章で始まる一節である。しかし、シーア派の人々はこの文章に続く「アッラーの手は拡がっている」という文章を引用することで、この節の寓話性を説く。
神の属性のリスト [編集 ]
神は、以下のような積極的な属性を持つと信じられている。
1. カディーム(Qadím) - アッラーは永遠である。始まり、そして終わりは無い。
2. カディール(Qadir) - アッラーは、全能である。アッラーの力は、全てのものに及ぼす。
3. アリーム('Alim) - アッラーは全知である。全てのことを知っている。
4. ハイ(Hai) - アッラーは生きている。それも永遠に。
5. ムリド(Muríd) - アッラーは、全ての事象に対して慎重である。混乱することは無い。
6. ムドゥリク(Mudrik) - アッラーは全てを受け入れてくる。全てを見聞する。あらゆる場所に存在している。ただし、目や耳を通して、見聞しているわけではない。
7. ムタカリム(Mutakalim) - アッラーは世界の創造主である。アッラーは、言葉を作った。
8. サディーク(Sadiq) - アッラーは真実である。
また、消極的な属性を持つ。
1. シャリク(Sharík) - アッラーは妻を持たない。
2. ムラカブ(Murakab) - アッラーは作られたものではなく、物質的なものでもない。
3. マカン(Makán) - アッラーは、どんな場所、体に制限されない。
4. フルル(Hulúl) - アッラーは体を持たない。
5. マハーレ・ハワディス(Mahale hawadith) - アッラーは変化しない。
6. マリ(Marí) - アッラーは見ることができない。なぜならば、体を持たないからである。
7. イフティヤジュ(Ihtiyaj) - アッラーは、独立した存在である。アッラーは、飢えていない。というのもアッラーは、どんなものも持っていないからである。
8. シファテ・ザイード(Sifate zayed) - アッラーは、あらゆる制限を受けない。
クルアーンとタウヒード [編集 ]
シーア派の人々は、神が「神の永遠でない行動の一つ」としてクルアーンを創り人々に贈ったものと認識しているので、したがって、シーア派の信仰は、 スンナ派とは対照をなし、クルアーンは、創造物であるということになる。シーア派の人々は、ムハンマドの「神は存在した(その時には時間の概念があっ た)、したがって、神のそばには何もない」というハディースを引用する。
たとえ、そうであったとしても、シーア派の人々は、クルアーンは完全なものであると信じているのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%89







   




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