日本語とMedia Point:「空を見る」と"I see a sky" |
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2007年09月15日(Sat)
日本語とMedia Point:「空を見る」と"I see a sky"
台風のせいなのだろう、肌にベタリベタリベタリとまとわりつくような、とても不快で、思考意欲を殺ぐ蒸し暑さは。思考のため、冷房する。
先に、日本の国家予算における特別会計の杜撰な有り様を見て、暗然暗澹とした気持ちになったが、根本は、究極は哲学の問題だと思い、本件(p.s. イデアとMedia Pointが最初のテーマであった。)について考察を続けたい。(一言いうと、現代人には、精神性が欠落しているのである。近代主義的利己主義に陥っているのである。利己主義という悪魔的自我に多くの人間は陥っているのである。近代化とは、自我の悪魔化のことである。自我をトランス・モダン化して、精神的自己を取り戻す必要があるのである。) 「わたし」とは何か。先に公園で思った。日本語では、「空を見る」が英語では、"I see a sky."となり、「わたし」が入る。日本語では、わざわざ「わたしは空を見る」とは普通言わない。 これをPS理論から分析すると、連続的同一性は、「わたしは空を見る」となるが、「空を見る」は、Media Pointからの連続化と同時に、不連続化が作用しているのではないだろうか。つまり、連続性と不連続性との即非性がそこにはあるのではないだろうか。 つまり、日本語とは、Media Point的言語ではないのか、ということになる。それに対して、英語や他の西洋言語は、連続的同一性の言語ではないのかということである。(私見では、中国語も連続的同一性の面があると思う。) 「空を見る」という様態は、「わたし」と「空」とが、連続しつつ、同時に、不連続であるのではないだろうか。一種、「わたし」と「空」が未分化であると言ってもいいのかもしれない。しかしながら、実際は、「わたし」と「空」は別々であり、同時に、「わたし」は「空」になっているのではないだろうか。 「わたし」が「空」になるとはどういうことなのだろうか。「わたし」を滅して、「空」を主題化しているということだろう。「空を見る」の「空を」は、主題としての「空」ではないだろうか。 対象である「空」を主題化するということは、同一性化ではなく、差異化ではないだろうか。同一性化ならば、「わたし」という同一性があり、それが、「空」という同一性を対象化して見るということであると考えられる。日本語は、だから、差異言語とも言えるのではないだろうか。そう、他者の言語である。 丁寧に分析すると、連続的同一性ならば、「わたし」が「空を見る」のである。しかし、Media Point的視野においては、対象「空」は、不連続性(差異)であり、且つ、連続性(同一性)である。つまり、不連続性があるから、「わたし」以前の視覚があり、それが、対象の「空」を「見る」のである。 「わたし」以前の視覚とは何だろうか。あるいは、Media Pointの視覚とは何だろうか。私は先に、超越的視覚と現象的視覚が融合することに触れた。これは、イデア的視覚と物質的視覚との融合である。これが、「わたし」以前の視覚、Media Pointの視覚に通じると思う。(正確に言うと、ここで問題にしている「空を見る」は、新たに融合された視覚ではなくて、混淆した視覚である。未分化な視覚であろう。しかし、融合された視覚は、結局、「わたし」以前の視覚、Media Pointの視覚をもつのだから、議論としては、このまま考察を続けても問題ないだろう。) 言い換えると、差異共振的視覚がここにはあるのである。つまり、霊的視覚があるのである。「空を見る」というとき、見ている人間は、「空」に超越性を見ているのである。アニミズムはここから見ると、日本語と平行していると言えよう。 しかしながら、日本人は近代化されたため、超越性をほとんど忘失した状態にあるのである。日本語の堕落崩壊があるのである。(先に述べたが、村上春樹の日本語は、正に、近代化された、堕落日本語の典型である。亡国的日本語である。また、テレビ、ラジオの日本語もそうである。) さて、本稿は、イデアとMedia Pointについて考察する予定だったが、前置きが長くなったので、別稿で考察しよう。 |
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