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2007年05月03日(Thu)
丸山真男『忠誠と反逆』と超越的宗教
丸山真男の『日本の思想』をずいぶん昔に読んで、興味を持たなかった記憶がある。丹念に記述しているが、近代的合理主義者の枠から踏み出さない人という印象ではなかったかと思う。
今、『日本政治思想史研究』を少し読んで、儒学の説明が簡潔で要を得ていて明敏であると思った。朱子学は、内在的超越論であることがよくわかる。これは、一神教の超越性には負けると思った。東洋哲学の問題は、この点にあると思う。内在的超越論の問題である。これは、実は、内在論なのであり、ハイデガー/ドゥルーズ哲学と同じである。 ここで鈴木大拙の即非の論理、西田哲学の絶対矛盾的自己同一論、あるいは九鬼周造の偶然性の論理の凄みがあると言えよう。内在性を破壊して、連続性を切断することが、ブレークスルーのための絶対的要件であるからである。(p.s. 私は即非論と太極論が等価になると思っていたが、やはり、不連続性から見ると、異なるのである。太極論は、確かに、極性の分離を説くが、しかし、極性は連続しているだろう。即非には、切断があるのである。) とまれ、よくは知らないが丸山真男の思想は、やはり、近代主義の枠組みで、精いっぱい、トランス・モダンへと糸口を探求していたように思えるのである。 「歴史の古層」という観念がそれを思わせるのである。これは、端的に、内在的超越性ではないだろうか。これがあると、純粋超越性には到達できないと言えよう。というか、丸山の捉えている「いつ」とは、内在的超越性ではないだろうか。日本神話の「いつ」とは、超越性をもっているのではないだろうか。高天原や天孫降臨という概念には、超越性があると思われるのである。現象界と超越界との分離・切断が感じられるのである。 どうも、「天皇教」は、多神教日本に超越性をもたらしたのではないのか。超越的多神教となったのではないだろうか。ある意味で、ゼウスを主宰神とするギリシア神話に似たものとなったのではないのか。D.H.ロレンス的に考えると、ゼウスとヤハウェは等価となろう。そうすると、天之御中主神と等しくなるのではないだろうか。(p.s. ゼウスについては、さらに検討を要するだろう。) また、後で検討したい。 p.s. 「いつ」に関して、少しズレたコメントをしたが、「いつ」とは、端的に、超越的エネルギーであろう。これが、超越界から発していることを日本神話は捉えていたと思うのである。だから、高天原や天孫降臨の発想につながると思うのである。そう、やはり、古代日本には、一神教が導入されていたと思うのである。古事記は、多神教と一神教との激突的融合の記録ではないのか。 参考:ネストリウス派、景教 http://ja.wikipedia.org/wiki/ %E3%83%8D%E3%82%B9% E3%83%88%E3%83%AA%E 3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE http://f17.aaa.livedoor.jp/~kmaz /keikyo/keikyou-hi.htm http://dsr.nii.ac.jp/narratives /discovery/09/ http://theology.doshisha.ac.jp:8008 /kkohara/reportdb.nsf/0/b63dc6a9 2706bce349256cda0047d537? OpenDocument http://www.e-grape.co.jp/ books/96190.htm http://www010.upp.so-net.ne.jp /iraija21/dokushohome/juujika.html 以下、引用。 ____________________ 「・・・もっと炎のようにめらめらと“方法のセンサー”が動いているのは論文「歴史の古層」のほうである。1972年の執筆だが、その後に書き加えがあって、本書のなかではいちばん新しいものになっている。 ここで丸山は、宣長が指摘した「なる」「つぎ」「いきおひ」の古語をつかまえ、日本的な思想が「生成」に関してどんなカテゴリー(基底範疇)をつかおうとしたかに光をあてた。 世界の神話では、「つくる」「うむ」「なる」という基本動詞によって世界の発生と神々の発生が説明されてきた。 これらは一連の神々の動作のように見える。しかしながら「つくる」では、往々にして作るもの(主体)と作られたもの(客体)が分離する。ユダヤ=キリスト教やギリシア自然哲学ではここが明快だ。そして、その分離した主体には「うむ」という自主行為も位置される。「つくる」と「うむ」とは一連なのである。ピュシスとはそのことだ。 これに対して「なる」は、こうした主体の分離自立を促さないですむ。「なる」には「つくる」がなくてかまわない。では、いったい何が「なる」という動詞の意味なのか。 本居宣長が注目したのも「なる」である。 『古事記伝』のその箇所を整理すると、宣長は「なる」には3つの意味があるとした。(1)「無かりしものの生(な)り出る」という意味(神の成り坐すこと=be born)、(2)「此のものの変はりて彼のものになる」という意味(be transformed)、(3)「作す事の成り終る」(be completed)という意味、である。 なかでも、「生る」(なる)を「生る」(ある)とも訓んでいたことを示せたことが、宣長自慢の発見だった。 丸山は珍しくこれらの語彙語根を追う。そして日本における生成観念が「うむ=なる」の論理にあることを指摘して、その「うむ=なる」が後世、「なりゆく」「なりまかる」というふうに歴史的推移の説明にもつかわれて、そのような言葉の使い方そのものがどこかで日本人の歴史意識をつくってきただろうことを、ついに告白するのである。 このように丸山が、宣長の発見した論理を日本人の一般的な歴史意識にあてはめながら説明することは、ぼくが知るかぎりは、警戒心の強い丸山がなかなか見せようとはしてこなかったことだった。しかもそれは、丸山がうっかり見せてしまった“衣の下の鎧”というものではない。ややたどたどしい追究ではあるけれど、丸山はこの考え方に魅せられて、その意味を“方法のセンサー”で追いかけている。 それが、「なる」につづいて「つぎ」に注目したことにあらわれる。 宣長にとって、「つぎ」はむろん「次」を示す言葉であるが、同時に「なる」を次々に「継ぐ」ための言葉なのである。 ついで丸山は古代語の「なる」「つぎ」が中世近世では「いきおひ」(勢)にまで及ぶことを知る。しかも「いきおひ」をもつことが「徳」とみなされていたことを知る。どのように知ったかというと、徳があるものが勢いを得るのではなくて、何かの「いきおひ」を見た者が「徳」をもつのである。 これは、儒教的な天人合一型の「理」の思想が日本の自由思考をさまたげてきたと見る福沢=丸山の立場からすると、意外な展開であったとおもう。 儒教・朱子学では、天と人とは陰陽半ばで合一する絶対的な関係にある。しかしながら宣長と丸山が説明する「なる」「つぐ」「いきおふ」という動向の展開は、互いに屹立する両極が弁証法的に合一するのではなく、もともと「いきおひ」にあたる何かの胚胎が過去にあり、それがいまおもてにあらわれてきたとみるべきものである。これはちょっと深いセンサーだった。 こうしてついに丸山は、「いつ」(稜威)という機能がそもそもの過去のどこかに胚胎していたのであろうことを、突きとめる。 「いつ」は、ぼくが第483夜の山本健吉『いのちとかたち』 において、ひそかに、しかし象徴的に持ち出しておいた超重要な概念である。スサノオが暴虐(反逆)をおこすかもしれないというとき、アマテラスが正装して対決を決意するのだが、そのスサノオとアマテラスの関係そのものにひそむ根本動向を感じる機関や第三者たちの自覚がありうること、あるいはそこに“負の装置”の発動がありうるということが、「いつ」である。そこではしばしば「伊都幣(いつのぬさ)の緒結び」がある。 論文を読むかぎり、丸山が「いつ」を正確に捕捉しているとはおもえない。しかし、「いつ」こそが歴史の古層に眠る独自の観念であることには十分気がついている。「なる」「つぐ」「いきおひ」は大過去における「いつ」の発生によって約束されていたわけなのだ。 それを歴史の古層とみなしてもいいのではないかというふうに、丸山真男がこんなところにまで踏みこんでいたことに、ぼくは再読のときに驚いたわけである。 」 http://www.isis.ne.jp/mnn/ senya/senya0564.html 松岡正剛の千夜千冊 丸山真男『忠誠と反逆』
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