[哲学] 劣弱なキリスト教文化・西洋の終焉 |
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2007年03月27日(Tue)
[哲学] 劣弱なキリスト教文化・西洋の終焉
不連続的差異論が生まれたのが、2004年の9月であるが、それから、ずいぶん私のブログの内容が変わったと思い、以前を調べる為に、過去のブログを見たら、偶然の一致、今日述べた同じテーマを述べている論考にぶつかった。ほぼ、2年半前である。
_________________ philosopractical chaosmos October 6, 2004の2 テーマ:philosoprachaosmos 2 [哲学] 劣弱なキリスト教文化・西洋の終焉 これまでの、最勝超至高不連続的差異論の展開から見れば、劣弱なキリスト教文化が終焉、終了、終止したのである。キリスト教文化の死であり、ほぼ、西洋の死である。西洋の死、そして、ポスト西洋の時代となったのである。 p.s. そう、また父権制の終焉、男性中心主義の終焉、ジ・エンドである。男性支配の南無阿弥御陀仏である。 コメント (0) | トラックバック (0) | 編集 October 6, 2004 08:20 [ポスト・キリスト教][ジェンダー/フェミニズム] 差異の劣弱/高貴性 これは、核心的な問題である。どうして、ルサンチマン的人間が生じて、他方、肯定的な優れた人間が生まれるのかである。この二種類の人間のタイプである。これまでの考察からすれば、ベースは不連続的差異である。当然、二種類のタイプは根源的にはここから発するはずである。(もちろん、家庭環境、社会環境等の影響はあるだろうが、それは、結局、副次的であろう。つまり、根源の差異の問題である。) この問題は、不連続的差異論から見るなら、錯視ないし錯視暴力に関係すると考えられる。つまり、差異強度が人間存在ないし人間身体に現前するなら、ルサンチマンはあっても軽く済むだろう。そして、それが現前しないならば、ルサンチマン的人間になるだろう。だから、差異強度の身体的現前か不在かが問題である。そう、これは男性、女性の問題に通じるだろう。これまた、重要な問題ではある。これまでの考察からすれば、女性とはメディア性強度の強い存在であり、コスモス(宇宙・秩序・美)=コズメティクス(化粧)的存在である。それに対して、男性は、より言語分節=現象界的存在である。つまり、女性はメディア的であり、男性は現象的である。(ここで、芸術家等が女性的であることの説明ができるだろう。) ということは、女性の方が本体の不連続的差異がそれなりに活動しているだろうし、男性の場合は、それが弱いと言えるのである。この差異とは何であろうか。差異強度が強ければ、錯視に囚われないだろう。そして、弱ければ、錯視に囚われるだろう。これを決定するのは難しい。つまり、差異強度とそのメディア性との関連の問題があるからだ。前者が強ければ、メディア性も強いだろうし、また、差異性も残るだろう。そして、弱ければ、メディア性も弱いだろう。ということで、結局、所期の問題である劣弱的差異と高貴的差異は存すると仮定できそうである。つまり、前者が主に男性となり、後者が女性となるのであろう。すると、父権制とはなにかである。ジェンダー論である。父権制とは劣弱的差異であり、母権制とは、高貴的差異であろう。ということで、キリスト教=資本主義制=父権制は転倒しているのである。そして、今や、最勝超至高不連続差異哲学が創造されたという事態から考えれば、変容が始まり、高貴的差異の時代に入ったと言えよう。つまり、キリスト教=資本主義=劣弱的差異の文化の凋落、衰退、死滅である。 p.s. この問題であるが、つまり、劣弱な差異強度と高貴な差異強度であるが、結局、差異集合は、裏面として、差異仮象/現象を形成するわけである。そして、この擬制において、劣弱な差異強度は、高貴な差異強度を、倒錯的に奪うのであろう。つまり、本来、後者が強者であるが、メディア面ないし現象面では、錯視して、前者は強者ぶって、後者を支配するのである。これこそ、父権制、キリスト教文化でなくて何であろうか。つまり、差異強度的には女性、非キリスト教文化の方が、男性、キリスト教文化より、優秀ということである。世界は転倒していたのである。そして、今や、反転するのだ。 p.p.s. この問題は、極めてニーチェ的である。そう、ニーチェは不連続的差異を体現した超天才だったのである。明らかに、ポスト・キリスト教、ポスト・西洋、ポスト・父権制の土台を作った超天才である。 コメント (0) | トラックバック (0) | 編集 October 6, 2004 07:06 [宗教][社会][文化] 日本の「多神教」について これは、きわめて、重要な問題である。どうして、キリスト教的アメリカに蹂躙されながら、日本人の大半はキリスト教に改宗しないのか。あるいは、日本人にとっての「宗教」とはなんであるかである。これまでの考察から推論するなら、日本人とりわけ民衆、大衆、労働者は、潜在的に不連続的差異性を活かしているのである。(思うに、これが日本の本当の「力」=強度の秘密ではないか。)そして、歴史的に見るならば、この不連続的差異性を土台にして、日本人は社会・文化・経済等を形成してきたと推察できる。これがあるからこそ、戦後アメリカに蹂躙されながらも、キリスト教(一神教)を崇拝しないのではないだろうか。つまり、日本人には、縄文文化・社会譲りの不連続的差異的絶対多元論性が生きているのではないだろうか。これこそ、日本人の本体ではないか。そして、これこそ、21世紀を創るものではないか。今やポスト・キリスト教文化である。 コメント (0) | トラックバック (0) | 編集 October 6, 2004 06:51 [歴史][宗教] 日本史、多神教と天皇教 この問題は、はっきり言って、難問であり、探究の深化が当然必要だが、作業仮説を述べよう。そう、日本の多神教とは何か。また、天皇教(「天皇制」)とは何かである。私の思考のベースとして、網野善彦氏の『無縁・公界・楽』と権藤成卿がある。つまり、縄文時代に原日本がある。これを、一応、多神教的日本としよう。 次に、天皇教である。記紀神話はいろいろ問題がありそうである。私はそれには、言及せずに、天皇教とは、一神教と仮定する。すると、古代日本には、多神教と一神教が併存していたと考えることができる。民衆は前者であり、支配層は後者である。この差異がある。多神教/一神教。結局、明治以前は、前者ベースではなかったろうか。しかるに、明治日本は、マイナーな後者を打ち立てて、前者を統合・統一した。ならば、明治天皇教は、一神教/多神教ということになろう。いわば、スピノザ哲学状態である。そして、これが、戦前まで続き、戦後はこれがほぼ解消するのではないだろうか。つまり、戦後は、ほぼ天皇教=一神教的になったのではないだろうか。つまり、アメリカ的資本主義化であるから、それは言えるだろう。しかし、日本の民衆、大衆、労働者等には、また、日本文化には、多神教が生きているだろう、潜在的、内在的に。この戦後、現代の矛盾が、日本の資本主義の問題でもあろう。 結局、日本の多神教と天皇教との意味が問題である。ざっと私見を言おう。前者は、縄文時代からのものであり、後者は古墳時代あたりから奈良時代にかけてのものだろう。つまり、多神教「日本」に一神教的天皇教が「侵入」したのである。この齟齬が日本文化・社会にはあるだろう。しかし、ベースは圧倒的に前者である。これまでの哲学的検討からするなら、前者は不連続的差異性があり、後者は連続的観念(統一性)である。そして、日本文化とは、ベースは前者であり、それが本体(イデア界)であり、後者を仮装したのではないか。これが、江戸時代までの日本である。しかるに、この力学がほぼ逆転して、後者優勢となったのが、明治日本以降ではないだろうか。しかるに、潜在・内在的には、前者が存しているのである。(思えば、これがあるからこそ、不連続的差異論が創出できたのであろう。) 結局、意識の「一神教性」=資本主義=アメリカ主義と潜在・内在・身体意識としての「多神教」=不連続的差異主義が、日本にはあるのではないだろうか。そう、ここまで言うと、日本多神教とは、不連続的差異ではないかということである。これが私の作業仮説である。そして、今や、不連続的差異論が創出されたのであるからして、この作業仮説は妥当性をもつと言えよう。結局、日本にあるマイナーな一神教性=天皇教=アメリカ主義を乗り越えれば、本来の多神教性=不連続的差異性が、よみがえるはずである。そして、日本多神教とは、絶対的多元論であり、一神教=一元論をもっていないのではないだろうか。ここが難しいところである。多神教の問題がある。また、日本的多神教の問題があるだろう。 これまでの、ブログで展開した考察によるなら、日本多神教とは、絶対的多元論であり、天皇教とは一神教それも超越的一神教に近いようだ。この妥協、折衷がこれまでの日本ではなかったか。ならば、今や、前者へ帰還したようだ。つまり、後者の乗り越えである。これは雅子さん問題と通じるし、北朝鮮拉致問題等と通じるだろうし、また、小泉問題等々と通じるだろう。日本多神教=絶対的多元論=不連続差異性が今や、よみがえった感がある。これについては、さらなる検討が当然必要である。 http://ameblo.jp/renshi/ theme-10000239439.html |
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