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2007年03月21日(Wed)
検討課題:ノエマと対象について:ドゥルーズ哲学は、憎悪の哲学である。危険である。
PS理論から見て、単純化すると、ノエシスとは、i*(-i)の内の、iであろう。iが-iを志向するということになるだろう。だから、ノエマとは、-iでいいのではないか。
そして、ノエマの対象であるが、それは、少し複雑になるだろう。 先に、差異-同一性-差異という関係を見たが、これは、言い換えると、 {i*(-i)}/(+1)/{i*(-i)} となるのではないだろうか。 又は、メディア・ポイントMPを考えて、 MP/(+1)/MP ではないだろうか。 あるいは、 -1/(+1)/-1 ではないだろうか。 +1としての対象は、差異を超越的に内包しているが、-1としての対象は、連続的同一性であり、差異が欠落しているということではないのか。 しかしながら、本来的には、+1の対象のはずである。これは、差異的同一性である。これがノエマ本来の対象のように思える。 ドゥルーズは、フッサールが対象を同一性に基づいているというようなことで批判しているが、この批判は、正当な批判ではない、錯誤だと思う。 なぜなら、対象は、同一性になるからである。例えば、原リンゴの差異(超越的差異共振性)があるとしよう。それは、ノエシスi*ノエマ-iである。つまり、原リンゴ・ノエシスi*原リンゴ・ノエマ-iである。 この原リンゴという差異は現象化して、リンゴという同一性になるのである。もし、対象に同一性を認めなければ、狂気である。 ただ、連続的同一性か差異的同一性かの違いはあるが、どちらにしろ、対象は同一性である。 例えば、眼前にある携帯を、タンス(他者)と言ったら、生活は成り立たないだろう。携帯は携帯なのである。 この携帯という同一性は否定できないのである。私は、これを仮象ということも問題だと思っている。 眼前の対象を仮象とするのは、なにか、直感に反している。 現象と呼ぶのは、適切だと思うが。 とまれ、ドゥルーズのフッサール批判は、錯誤であると考えられるのである。 i*(-i)⇒+1は、 超越論的志向性⇒同一性 と言い換えることができるだろう。 これは、超越性⇒現象性とも言い換えることができるのである。 あるいは、超越性MP現象性である。 しかし、ドゥルーズは、フッサールが、言わば、右辺の同一性を左辺に持ち込んでいるとして、最大限にこきおろしているのである。(参照:『意味の論理学』上、p.179) これは、ドゥルーズの誤りである。超越論的主観性は、超越論性だり、現象性から超越した次元にあるのであり、現象性を超越論性にフッサールは持ち込んではいないのである。 ドゥルーズの勘違いである。 では、ドゥルーズは何を考えているのだろうか。 そう、ドゥルーズはフッサールの超越論性を認めたくないということだと思う。 ドゥルーズは超越論空間に、非人称的、前-個体的な特異性を持ち込みたいのである。ドゥルーズの意図は、自我や理性を持ち込みたくないということだと思う。連続的同一性を超越論的空間に持ち込まないということは正しい。しかしながら、超越論的空間にある差異が、非人称且つ前-個体的な特異性なのかは問題である。 問題は、先にも触れたが、非人称的、前-個体的という形容詞である。 前-個体は、原-個体と先に言ったが、思うに、個体に超越的に内在する特異性のことと考えればいいだろう。そして、この特異性とは、i*(-i)のことである。超越論的ないし超越的差異即非性である。 これを非人称的と言っていいのか。 また、前-個体的と言っていいのか。 ドゥルーズの意図は、自我、即ち、連続的同一性を否定することである。 超越的差異即非性は、自我を否定するという点では、非人称的と言えるが、自己・個を肯定する点では、人称的である。また、連続的同一性としての個体を否定する点では、前-個体とは言えるが、同一性は肯定するので、個体的である。 すると、ドゥルーズの意図する超越論的哲学とは、非同一性哲学であり、現象性を否定するものである。これは、明らかに反動である。一種、グノーシス主義的な反動である。 逆二元論である。 現象に対する憎悪があるのである。 ドゥルーズは自身は、ニーチェに学んだと考えているが、ドゥルーズは、ニーチェが攻撃するルサンチマンの人ではないのか。 ニーチェが否定する背後世界の人だと思う。 現象に正対できていないのである。 どうも、ドゥルーズ哲学は悪である。世俗社会を憎んでいる哲学である。 ハイデガー哲学は、虚栄心・名誉心に突き動かされている、ペテン師的であるが、ドゥルーズ哲学は、ルサンチマンに突き動かされた憎悪の哲学である。 悪魔の哲学である。 |
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カレンダ
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