GP陰陽哲理学:Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2013年07月09日(Tue)▲ページの先頭へ
雪伝問題:太陰新母権文明へ:ヤハウェ戦争資本からキリスト平和資本へ:父権文明から新母権文明へ
雪伝問題:太陰新母権文明へ:ヤハウェ戦争資本からキリスト平和資本へ:父権文明から新母権文明へ

テーマ:父権物質文明から新母権霊性-霊物文明へ

雪伝問題を見ると、戦争資本と平和資本のハルマゲドン、ゾロアスター教の善・光と悪・闇の闘争のようである。ヤハウェVSキリスト(又は聖霊)のように思える。
 しかし、これは、新太陰=新母権=新東洋の時代を意味するように読めるだろう。
 どうして、戦争資本は弱体化しているのだろうか。とまれ、手負いの獅子であるから要注意ではある。
 ポスト英米時代氏が説くように、戦争資本の陰謀が露見してしまったことが一つの要因であろう、例えば、スライブのように。
 しかし、もっと深い原因がありそうである。
 これは、やはり、ヤハウェ的父権精神ではなく、キリスト的あるいは、聖霊的新母権精神が地球人の意識の中に芽生え出したことを意味するのではないだろうか。
 新母権精神は他者を自己の内に見るものであり、他者との共存を重んじる精神である。
 それに対して、ヤハウェ的父権精神は他者を否定し、抹殺する暴力的精神である。西洋文明において、これまで、ヤハウェ的父権精神が支配的であったが、21世紀になり、キリストないし聖霊的新母権精神が内現して、前者を解除する方向を取り出したのではないだろうか。
 これまでの不連続太陰イデア論/心智学から見ると、ヤハウェとは、自我精神であり、いわば、悪魔精神である。これが、これまで、西洋文明を支配してきたのである。
 ようやく、排除されていた太陰精神が覚醒し出したと思われるのである。これこそ、真の光・善の精神である。(D.H.ロレンス風に美術的に言うと、ダーク・サンやダーク・ゴッドである。)
 アフラ・マズダ、天照大御神、キリスト、ミトラ、等々である。
 しかし、日本は
ヤハウェ戦争資本悪魔団
に憑依されたままである。
J.S.バッハ ”目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ” BWV645 ‐ ニコニコ動画:Q
Bach - Cantata BWV 140 - Peter Schreier - Sleepers wake - YouTube
J. S. Bach - Kantate "Wachet auf, ruft uns die Stimme", BWV 140 ...

◆ 2013/07/07(日)2  サイバー戦争の時代に…
snowden 世界は、サイバー&諜報戦争の時代に突入している。ミサイルやジェット戦闘機を大量動員するハードな戦争の時代は終っている…。
なぜか?
核も含めた爆撃戦=熱いハードな戦争でネット網がズタズタに破壊されると、情報の流れとカネの動きが止まり世界経済はマヒ!恐慌状態!
この事態を産業資本と金融資本が徹底的に嫌うからだ。これが、戦争マフィアが駆逐・追放される理由だ。
以上のことを軍師・金正恩は知り抜いていたので、逆に熱い戦争を挑発 したのだ。
その一方で、金正恩は、アップル製品などアメリカの電子機器をワザとらしく机上に置くなどしてサインを送った…。
金正恩の読み通り!反戦グループのボス、ジョン・F・ケリーが熱い戦争を止めた…。

さて、スノーデン。
米国諜報システムのトップシークレットを完全に把握した人財として、サイバー戦争の時代、スノーデン元CIA職員が如何に重要な存在であるか!
このことをプーチンは知り抜いていた。
だからこそ「美しすぎる女スパイ」まで動員して必死の工作をしているのだ。

スノーデンの人財価値については、『スノーデンはドコにいる? 』に詳しく書いた。再読あらんことを!

そーいえば…、
「勝谷誠彦が『スノーデンの情報など大したことない』と言ってますが…」
という電話があったっけ。
「勝谷なんざ、無責任な口先オトコの典型で… 」とネットゲリラが言ってたが、その通りだ夜!と答えておいた。www

ところで…、
日本は、相変わらず発想の転換ができないままで、ま〜だハードな戦争にこだわっている。

軍事オタクの石馬鹿 などは、金正恩のオドシをマトモに信じてしまい…、
「北朝鮮の弾道ミサイルによる攻撃などを未然に防ぐための“敵基地攻撃能力”の具体的な検討を政府・与党は早急に行うべきだ」
などと米国の武器商人を喜ばせる始末。

防衛省なんかもハード重視主義から抜け出せない! つーか、米国戦争屋資本の言うがままにベラボーに高いハードを買わされ…、
「イージス艦8隻態勢に 2隻増、ミサイル防衛を強化 」
だって。

さらに近々、これまた何千億円もする巨大な航空母艦(ヘリ空母) 2隻が新造なって、合計4隻もの空母が“対中国防衛”に向けて「軍艦マーチ」を鳴らすらCーが…、軍国主義ヌッポン!ぐあんばって猪ー大寝!
以上。
飯山一郎





LittleHP





日本が生まれ変わる為の処方箋:肚の復活、太陰・魂・気のイマジネーションや直観、自然崇高美への開眼

テーマ:日本大覚清創造:心的革命宣言:霊的進化

昨夜深夜は、蒸し暑く、なんと室温が28℃もあり、東電に儲けさせたくないが、寝苦しいので、クーラーをつけた。
 ところで、昨日は、気ままに、近場をサイクリング(この言葉、音が軽く好きではない。いい言葉がないか。英語を使うなら、バイスィクリングはいかが。)したが、景観が自動車優先力学のため、酷く無惨無様に破壊されているのにいささか動揺、暗澹とし、暗い日本について思いを巡らせた。
 今は余裕がないので、一言言うと、唯物論、利己主義に染まり切った日本を蘇らせることを考えた。
 日本は今、破滅の奈落に落ち込んでいるのである。これから脱するには、一切合切の生まれ変わりが必要である。ラディカルな変革しかない。もっとも、ことは一つ一つ、小さなところから始まるのであるが。(確かに、新しい始まりがネットその他では感じられるが、まだまだ、微弱である。)
 私が学生の頃、1975年前後、日本人が利己主義でずるずる生きていくだろうと感じたのであるが、果たして、そうなり、今日の破滅的状況になっているのである。
 一言で言えば、倫理・道徳・モラルのない生き方である。私自身、淪落人間であり、大きなことは言えないが、それでも、倫理・道徳・モラルのかけらはある。
 これは、他者の肯定を意味するのである。(思うに、キリストの教えも一言で言えば、これであろう。)
 他者を認識し、他者を目覚めさせることはたいへんである。
とまれ、日本の夜明けは、道徳・倫理・他者の目覚めにあると言えよう。
 日本の今日の狂気は、利己主義(シュタイナーなら、アーリマンの暴力)に拠るのである。これは、支配者も被支配者も同罪である。
 そう、全体的ヨミガエリが必要なのである。今日、日本のすべてが狂っているのである。

追記:異常、狂気が日常になっているのが現代日本社会である。無理が通れば道理が引っ込む。

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http://wereallmadhere.muzy.com/#lightbox_post_206795612

“'But I don’t want to go among mad people,' Alice remarked.
'Oh, you can’t help that,' said the Cat. 'We’re all mad here. I’m mad. You’re mad.'
'How do you know I’m mad?' said Alice.

'You must be,” said the Cat. 'or you wouldn’t have come here.'”

http://thinkexist.com/quotation/but-i-don-t-want-to-go-among-mad-people-alice/354874.html

追記2:どうして、倫理・道徳・モラルがなくなるかと言えば、それは、簡単である。自我主義=利己主義は他者を否定する同一性主義であるから、必然的に、他者性=倫理・道徳・モラルがなくなるのである。自我の独善・独断化があり、それが、他者性という倫理・道徳・モラルを喪失させるのである。
 先に説いたように、極大化した陽がヤハウェ=外在的超越性であり、これが、自我、父権的自我の極であると思う。これは、内在的超越性である太陰、即ち、他者を排除するのである。

追記3:シュタイナーは、人間の課題は道徳感情を形成することにあると述べている。確かに、近代主義化以前は、旧い共同体の倫理があったが、ハイパーに近代化すると、それが崩壊するのであり、利己主義、自我中心主義となり、無道徳・没倫理・没モラルとなるのである。だから、道徳感情を形成するというのは、理屈に合うと言えよう。つまり、新道徳・新倫理・新モラルの形成という課題があるのである。





医療智学(医智術)へ向けて:心と気と身体と食と医薬

テーマ:健康&治癒:森気浴:医食同源:小食菜食

病気と心:病気心智学:心のカオスと心のコスモス(秩序・バランス・ハーモニー):心のアートと人生
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11566877276.html

先に以上のように、病気と心の相関性について言及したが、これは必要論であるが、十分論にはなっていない。
 いわば、精神論であるが、それと相補的に、食、治療物質論、つまり、医薬論が必要である。
 この点は理論的には弱点であり、これから形成していかなくてはならない。
 とまれ、心と病気の連関性は考えた。後、治療するための、医療物質論、医薬論が必要なのである。
 とりあえず、シュタイナーの医療論をあげておく。いわば、ピューリタン的な医療論であり、実際的ではないように思える。例えば、アルコールやコーヒーの害悪を説いているのである。

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内容紹介
シュタイナーの最晩年、生涯ただ一度若い治療教育家たちのために語った十二回の講義。人間の性と障害の問題を霊学の立ち場から追求、大きな展望を与える。シュタイナーの教育思想の本質的なものがここにある。
--このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。

内容(「BOOK」データベースより)
「ゲーテは植物が異常を現わすとき、そこに“原植物の理念”を見つけ出す最上の手がかりを見ています。…霊的な生きものである人間の場合にも、基本的には同じことが言えるのです。人体に潜んでいる異常性は、人間本来の霊性を外に開示してくれるのです」。この直観を宇宙大に拡張し、人類を巨大な障害児と見れば、“原人間の理念”探究に捧げられた人智学の使命が理解できよう。本書は医療と教育の現場に向けて語られた唯一の治療教育本質論であるとともに、シュタイナー思想の極北でもある。貴重な証言「人智学的治療教育の成立」(A.シュトローシャイン)を併載。改訳決定版。

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シュタイナの教えたこと38
www.megaegg.ne.jp/~moon/steiner29.html - キャッシュ
1. はじめに 今回からテーマがかわります。病気・治療・健康について考えていきたいと
思います。第1回目は、今年2月に開かれた日本シュタイナー幼児教育協会総会での
講演(「子どもの病気の意味と手当て」講師大住祐子さん)のノートをもとに学んでいき
たい ...

シュタイナー「『カルマの開示』を読む」メニュー に戻る - Bekkoame

www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/karma/karma0.html - View by Ixquick Proxy - Highlight

ルドルフ・シュタイナー. 「カルマの開示」(GA120)を読む. ○参照テキスト/「 シュタイナーのカルマ論/カルマの開示」(高橋巌 訳/春秋社). ○第1講 個人、個性、 地球、宇宙におけるカルマの本質とその意味 (1998.10.24

ルドルフ・シュタイナー博士『アントロポゾフィー』 - 食べない生き方
inedia.jp/steiner.html - キャッシュ
ルドルフ・シュタイナー博士は、オーストリア帝国クラルイェヴェク出身の神秘思想家で、
... オーラ体を再調整する事がなければ、仮に病気を治したとしても、 ... ヒポクラテスの
時代から、生のミルクやバターは病気の治療の一環として使われてきました。 乳製品を
...

カルマと医療 - 西川隆範シュタイナー系アーカイヴ - Gooブログ
blog.goo.ne.jp/steinerclub/.../51665aad453597a3a9b915c33a5277f0 - キャッシュ - 類似ページ
2006年12月16日 ... シュタイナーがカルマ論の観点から病気の意味をどう考えたかを見てみるまえに、
シュタイナー派の医学について概観 ... 空気を呼吸しないと生きていけないように、心は
美を呼吸しないと枯渇する、とシュタイナー派の芸術治療では考えている。

病気とは何か---(シュタイナー)|このままではヤバイ - Ameba
ameblo.jp/almond51/entry-10265682959.html - キャッシュ
2009年5月22日 ... 言葉を継いでシュタイナーは言う。「病気が一つの器官しか冒していないとしても、この
治療法は肉体機構全体におけるその器官のおおもとを治療」する。骨折のような場合は
転落などの物理要因が明らかだ。しかし「なぜある人と接触した場合、 ...

秘教学徒本文 - 薔薇十字 ルドルフ・シュタイナー研究
roseandcross.kakurezato.com/page002.html - キャッシュ
シュタイナー教育の実践」に糖尿病やリューマチに関して以下のような記述があります。
ある年齢になって糖尿病かリューマチになった人を見てみましょう。人々は、いつも現在
しか考慮しません。その病気の治療法しか考えません。治療法を考えることに対して ...

シュタイナーと医学
www.yokkaichi-u.ac.jp/seisaku/Labo/.../steiner-medical.htm - キャッシュ - 類似ページ
日本語訳は2006年に出版されました。 マイケル・エバンス他『シュタイナー医学入門』
群青社、2800円「1医学の領域の拡大」「2生命に関する新たな研究」「3心魂」 「4精神」
「5病気の二大タイプ」「6薬剤の使用」「7芸術療法」 「8治療マッサージと水治療法」「9 ...

シュタイナー医学 - Welcome to NTS page
nts-corporation.jp/index.php?シュタイナー医学 - キャッシュ
注:残念ながら、日本では薬事法により、ヤドリギ製剤の輸入は行われていません。
急速な高齢化による膨大な医療費を抑制するためにも、薬事法という古い規制を緩和し
、最適な治療を選択することができる環境を整えて欲しいと願うものです。) 病気や治療
...

シュタイナーの信じた、ヤドリ木信仰とガン治療薬 Gray Wisdom/ウェブリ ...
gray-wisdom.at.webry.info/201004/article_2.html - キャッシュ
2010年4月26日 ... Gray Wisdomのシュタイナーの信じた、ヤドリ木信仰とガン治療薬に関する詳細記事。
... また、樫の木に寄生するヤドリ木、りんこに寄生する、その他の木へ等でそれぞれの
病気に対する効果が異なり、使用方法も皮下注射の場合と静脈注射 ...

こころとからだの深呼吸 : シュタイナーのアントロポゾフィ医学入門講座 ...
tsumuginomori.livedoor.biz/archives/52226162.html - キャッシュ
2012年1月29日 ... わたしも一時期シュタイナーの哲学に興味を持ち、 『いかにしてより高次の世界の認識を
獲得するのか?』や『神秘学概論』『ヨハネ福音書講義』や『病気と治療』などをよみあさり
オイリュトミーの真似をしたり、 息子をシュタイナー教育で育て、

シュタイナー「精神科学と医学」メニューに戻る
https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/steiner/.../Medizin.html - キャッシュ
ルドルフ・シュタイナー. 「精神科学と医学」. (GA312). 翻訳紹介&解説. この「精神科学
と医学」は、シュタイナーの医学に関する基本的な考え方を深く知るために不可欠な
テキストです。医学を専門とする方だけでなく、人間の身体というものを自然との関わりで
...

シュタイナー研究室に戻る - Bekkoame
www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/Steiner.html - キャッシュ - 類似ページ
○ルドルフ・シュタイナー 『エソテリック講義の内容から参加者の覚え書き』GA266 (
佐々木義之 訳) (2013.2.21登録) ・秘教講義 ハンブルグ2-11-1907. ○「精神科学と
医学}(GA312)翻訳紹介(yucca訳)*17講訳修正 (2013.2.14.登録) PDFデータ ...





病気と心:病気心智学:心のカオスと心のコスモス(秩序・バランス・ハーモニー):心のアートと人生

テーマ:病気哲学:心のカオスとコスモス:心アート

今は詳述できないが、病気とは深い意味をもっているのではないかと直観されたので、考察したいと思う。
 私自身、大病(心臓に穴があく先天的な病気:バルサル恫動脈瘤破裂による心不全)したが、幸い、森気浴ー断酒ー1日2食ベジタリアンー豆乳ヨーグルト食の四元的ライフスタイルで、元気で暮らしているが、私の周囲に病気の人が多くいて、病気について閃いたので、考察したいと思う。
 しかし、今は余裕がないので、一言言えば、霊学におけるカルマ説に肯定的である。しかし、ポイントは、現実における自分の心の分析にあるのである。過去世の行ないの結果という視点ではなく、今現在の自分の心の分析に意味があると思うのである。
 そう、私の直観は心の歪みが病気を作っているというものである。そう、また、病気だけでなく、不幸も心の歪みがもたらしていると直観されるのである。
 心の哲学、心のアート、心の乳酸菌化が必要である。
 心はスピリットであり、また、身体のディレクターである。

追記:心はまた、気でもある。そう、心の構成層として、気層があると思う。気層は身体層と関係するのである。気感覚層が気と身体の中間層であろう。
 また、当然、心の構成層には、他に、知性ー思考層(陽)がある。ここは、自我と関係するのである。
 また、心の基底に太陰(肚)層がある。これは、他者層でもあり、今日、ほぼ忘却されている。
 そう、気はまた、知性ー思考ー自我と関係している。後者が肥大化すると、気は歪むのであり、太陰が抑圧されるのである。
 とまれ、ポイントは気である。気圏である。これは、波動であるので、個体を超えて、他者と関係するのである。そう、気の環境があるのである。気環境圏である。これは、気のコスモスの一部である。
 気環境圏は、気の信号が送受信されているだろう。
 この気の信号と共振・共鳴すると、個体は、気の恵みを受けられるようになるだろう。気福、気恵、気運である。
 健康は単に物質身体だけでなく、この気環境圏に関わるのである。
 健康であるが、それは、気的身体の秩序に存すると言えよう。
 雑駁な内容になっているが、ポイントは、やはり、身体と心をつないでいるのは気であるということである。
 そして、気は太陰が根源のように思えるのである。つまり、太陰気が元になって、心と身体を形成するのではないだろうか。
 後で整理したい。


2013年06月29日(Sat)▲ページの先頭へ
不連続陰陽イデア論の新たな概念作図の必要:ポストPS理論としての不連続無双陰陽イデア論
不連続陰陽イデア論の新たな概念作図の必要:ポストPS理論としての不連続無双陰陽イデア論
テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論
以下の概念座標は今やまったく不正確なものになった。
 根源は太陰であり、それが陽を形成する。だから、以下の原点、MPはまったく不要である。
 MPである原点を必要とする考え方は、二元論を前提にしたものである。しかるに、不連続陰陽イデア論は一元論、無双論である。
 作図するなら、原点、中心点が太陰であり、円周、球面が陽となるのである。だから、まったく以下とは異なった図となるのである。今は余裕がないので、作図できない。
 思うに、不連続的差異論から出発して、その後、数学をベースにしたPS理論(プラトニック・シナジー理論)が形成され、長い間、不連続的差異論の視点が十分に進展できなかった。
 不連続的差異論が2004年9月に形成され、PS理論は翌年か翌々年に形成されたと思う。2006年ならば、約6年間、PS理論によって、理論の新たな進展が阻害されてきたことになる。そう、今の不連続陰陽イデア論は、いわば、不連続的差異論に先祖返りして、その展開と考えられるのである。つまり、不連続的差異を太陰として、発展させた理論ということになる。PS理論は、物質原理の理論としては、簡潔で優れているが、二元論を保持してしまい、画期的な不連続的差異の視点の進展を阻害してしまったと考えられる。
 

<不連続的陰陽イデア論(不連続的差異共振論)概念座標:Ver.17.0.0>

    陰陽メビウス(陰陽渦円)

       陽イデア(✡):自我
          |
          |
          |
          |
          |
          ★
_______・______実軸(時間・光・物質軸)+1
          ☆
          |
          |
          |
          |
          |
      陰イデア(✪):他者

【但し、・は太一点(太極点、内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 太一点において、直交する太一軸が考えられる。太極軸を1次元、陰陽メビウス(陰陽渦円)を内在超越的2次元、そして、現象界を時空四次元と見る。
 そして、陰陽軸(陰陽渦円)は陰陽メビウスの輪を形成していると思われ、陽イデア=自我=知(認識)と陰イデア=他者=存在で、陰陽メビウスが陰陽イデアで、意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。
 尚、実軸は時間-光-物質の系列軸とし、太一点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸は記入していない。
 霊「数」、陽✡、陰✪を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。不連続的陰陽イデア論公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k


太陰と陽と自我の連関の考察:原初母権的太陰ー陽自我識と極大陽父権超越性ー全体自我識
テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論

先に以下のように問題提起した。

太陰は全体の面と一の面があり、一の面が陽と結んで、自我・超陽となるのではないのか。(太陰の二面性:全体の相と一の相:多神教と一神教:初めに、太個ありき  
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11560750193.html
この問いかけは、それまでの不連続陰陽イデア論(この呼び方がいちばん明快であろう)における自我・超陽の発生の考え方とは別のものである。
 つまり、それまでは、陽の極大的なものを超陽として、それが自我となると考えたのである。
 それに対して、先の、上記の考えは、太陰自体に自我の根源があるというものである。
 この問題は、不連続陰陽イデア論にとって、根本的なものであり、精緻厳密な検討が必要である。
 陰陽性について、復習すると、陰が中心であり、陽が円周、あるいは、球面である。当然、陰は闇であり、陽は光である。
 しかし、主体は陰、つまり、太陰である。陽はその展開、周縁である。ウィリアム・ブレイクの言葉では、circumferenceである。言い換えると、陰主陽従である。
 とまれ、陰から陽が生まれるのであり、陰の「意識」と陽の「意識」は区別される。
 つまり、陽の「意識」(陽識と言おう)は、現象意識であり、物質的意識となる。それは、根源の陰の「意識」(陰識ないし太陰識と呼ぼう)を感じるが、認識することはできないと考えられる。
 太陰から陽が生まれるのであるから、陽はなんらか根源の太陰との結びつきを感じるはずであるが、陽自体は太陰の一部であるから、十全には、太陰を認識できないと考えられる。
 とまれ、初期における太陰識ー陽識においては、中心性は太陰識にあり、陽識は従属的である。これを原初的母権識と呼ぶことができよう。
 この太陰識ー陽識において、自我とは陽識と考えられ、それは、当然、太陰識とは未分化様態にあると考えられる。つまり、自我はまだ、自立・独立していないのである。
 さて、そのような視点から、先に、太陰の一(いつ)の面が陽と結合して自我・超陽となると述べたことを考えると、どうなるだろうか。
 私は陽ないし陽識において、同一性ないし同一性識が存すると考えている。
 思うに、先に、太陰に全体の面と一の面の両面があると述べたが、基本は太一性、全一性である。全体と一とが一体となっているのが基本様態である。だから、全体の面と一の面の両面に分けるのは、二元論であり、間違いのように思える。根源的太一性・全一性を確認する必要がある。
 この太陰性に対して、陽・陽識であるが、それは、個体的一性を志向するのではないだろうか。円周ないし球面であり、それは、根源・中心の太一・全一性と対比的である。
 では、陽・陽識の個体的一性であるが、それが自我ということになるが、それでいいのだろうか。
 直観では、陽識には、太陰識が作用しているのであり、そこに自我識が生じるように感じられるのである。
 つまり、個体的一性である陽識と太一・全一性である太陰識・陰識との結びつきにおいて、自我が生起するように思えるのである。
 言い換えると、自我とは、二つの極の間に生起する、いわば、実存態ということになる。
 宗教的に言えば、神と個体の両極実存態である自我ということである。
 この太陰・太一・全一と個体的同一性との両極実存態としての自我は現時点で確認すべき点である。
 そのように自我を捉え直した上で、父権化、近代的自我化の問題を考察すべきである。
 その前に、もう一点確認すべきことがある。それは、原初的母権識においては、自我とは、あくまで、根源の太陰・太一・全一性に服している、従属しているという点である。自我は根源(「神」)から独立していないということである。
 即ち、太陰と個体との両極態としての自我、太陰に従属するものとしての自我、原初的自我識をもつ原初的母権識を踏まえた上で、父権化、近代的自我の意味を考察することができると言えるのである。
 父権化は明らかに、原初的母権識からの独立として見ることができる。
 これは、原初的自我識が太陰・太一・全一に従属していることから脱して、自我識が主体的になることを意味すると考えられる。つまり、自我識が主となり、太陰・太一・全一識が従となる事態であり、さらに前者が後者を支配・破壊する事態を意味すると考えられる。
 つまり、自我識が支配的、独裁的になり、原初的母権識を破壊する志向をもつということになる。これは父権的自我識の誕生と見ることができる。
 では、その力学はいかなるものなのだろうか。この問題を先鋭化すれば、それは、一神教の誕生の力学の問題である。あるいは、父権神の誕生の力学の問題である。又は、端的に、「父」の誕生の問題である。
 原初的母権識において、根源は「母」であり、陽は「子」である。母主子従の世界である。
 その世界とは異質な「父」とは何であろうか。
 これまでの考え方、単純な考え方によれば、陽の極大化という力学が原因で「父」が誕生したことになる。
 そう、陽の極大化とは、精神と物質の二元論の発生と同期であると考えられる。
 つまり、陽極大化とは、まったき陽の事象が生起するのであり、根源の太陰が隠れることになるのである。その結果、極大陽識は自己を「精神」とし、そして、外界現象を「物質」と見ることになるのである。
 しかしながら、時間的に、原初的母権識は当然、存続しているのであり、それに対して、新しい極大陽の父権自我識はそれを否定すべく攻撃し、破壊しようとするのである。
 何故、父権自我識が原初母権識を攻撃するのかと言えば、前者にとり、後者は理解不可能であり、あってはならないものだからである。言い換えると、前者にとり、後者は悪、邪悪なものであり、当然、否定され、破壊消滅されるべきものである。
 そう、ここに西洋文明の広義の東洋文明に対する攻撃・破壊・支配性が生じるのである。植民地主義、帝国主義はここから生まれるのである。
 聖ゲオルギウスの龍退治とは、これを象徴したものと言えよう。(龍とは、太陰・太一・全一、原初的母権識を意味しよう。)
 もう少し、極大陽の父権自我識について述べる必要がある。問題は、超越神の力学である。
 いったい、その超越性はどこから生まれるのだろうか。思うに、極大陽=父権自我識であるが、それは、根源の太陰・太一・全一から切り離され、分離独立する。
その父権自我識が形成される以前は自我識(母権的自我識)は、内在超越的に太陰と接続していた。しかし、父権自我識において、そのような内在超越的繋がりは消えている。そう、いわば、根源との絶対的分離が成立するのではないか。
 つまり、原初母権識とその自我識は全体識をもっていた。しかし、そのような全体識が父権自我識においては消えるのであるが、思うに、消えた太陰・太一・全一性であるが、それが、父権自我識にとって、超越性、超越神として、捉えられるのではないのか。
 言い換えると、母権識においては、内在超越である太陰と自我識との「繋がり」(臍の緒)があったが、父権自我識において、それが切断され、太陰は、超越性、超越神として、感知されるということではないのか。
 感知という言葉は適切ではないかもしれない。暗示されるが適切ではないだろうか。
 とまれ、父権自我識とは絶対分離した超越した「父」が考えられることになると考えられる。
 さて、次に、近代的自我識を考えると、それは、父権自我識の知性、自我知性の徹底化と考えることができよう。
 これは同一性主義であるから、物質知性でもある。
 そして、自然科学、唯物論的科学・技術が誕生する。これが、資本主義と関係して、近現代世界を形成するのである。
 とまれ、この父権自我識である近代的自我識について、明確にする必要がある。というか、父権自我識の力学について明確化する必要がある。何故なら、近代自我識はその延長にあると考えられるからである。
 問題は、超越性と父権自我識との関係なのである。
 極大陽が形成されるとき、太陰がまったく消失して、まったく陽事象となる。それは、陽が全体であるということでもあるだろう。言い換えると、父権自我識が全体であるということになろう。つまり、父権自我中心主義が誕生するのである。これは、当然、自己中心主義的であり、いわば、パラノイア的である。(今日、現代の日本人はこのような意識に染まっていると思える。)
 では、超越性(超越神、ヤハウェ)とこの全体的父権自我識との関係はどうなるのか。
 もう一度、陽の極大化について考えると、それ以前は、太陰と陽自我との母権様態があり、太陰は陽自我にとっては内在超越的存在であり、それは、感知できるものであった。あるいは、繋がりのあるものであった。
 しかるに、陽が極大化すると、その内在超越的繋がりは消失して、太陰が失われる。
 では、消失した太陰の換わりに何が生じるのか。
 思うに、消失した太陰の換わりに、超越神、超越性が発生するのではないだろうか。思うに、内在超越性から、外在超越性へと転換するように思われるのである。かつては、神聖は内在超越t的であったが、今や、外在超越的になったのである。この外在超越性がいわゆる超越性である。超越神がそのようなものである。
 ということで、全体的父権自我と外在超越性とのセットができあがることになると考えられるのである。
 思うに、資本主義の原動力はこの外在超越性ー全体父権自我識のセットにあるとある思われるのである。これは、いわば、宗教的、且つ、自己中心的であるから、悪魔的に強力であると言えよう。
 とまれ、以上で、本件の問題を解明したと考えられる。つまり、太陰と陽と自我との関係力学を明晰にしたと考えられるので、ここで了える。


2013年06月16日(Sun)▲ページの先頭へ
初めに、個己ありき:自我と個:全体的個己と個体的個己:個己の二つの様態
テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論

それなりに多忙で、考察の余裕がない。
 とは言え、自我と個について簡単に予見を述べたい。
 おそらく、自我がなければ、個は生じないのではないだろうか。
 陽だけでは、自我にはならない。何故なら、陽は陰と均衡するのであり、根源の太陰といわば未分化であると考えられる。言うならば、母子一体ではないだろうか。つまり、母権性である。
 しかし、父権化して、陽から超陽=自我が飛び出すようにして、生まれる。そのとき、超陽=自我は太陰=太母(母)から独立する。つまり、自我と陰陽の分裂がそこにあるのである。二元論である(これが、西洋文明の原点である)。
 そして、超陽=自我は太陰=陰陽を排除し、また、破壊しようとするのである。これが、植民地主義、帝国主義、金融資本主義の原点であると考えられる。
 しかしながら、超陽=自我と太陰=陰陽の二元論、二重性は、いわば、分裂症である。これを調和させる内的必要があるのである。東洋文明は、内身体文化の発達によって、バランスをとってきたのである。端的に、瞑想文化、肚の文化、気の文化等である。これは、太陰=陰陽をベースとする文化であり、超陽=自我の暴走を抑える真の理性文化(身体理性文化)と考えられる。
 つまり、東洋文明は太陰=陰陽性が支配的であり、そのため、超陽=自我の暴走を許さないセーフティーネットをもっていたと考えられる。
 逆に言うと、そのため、超陽=自我の文明が西洋文明のようには発達しなかったのである。自然科学、物質文明は西洋文明が発達させたものである。
 さて、ここで、個の問題になるが、個とは、これまでの私の見解では、肚=太陰が他者であり、個となるものである。
 そうならば、太陰において、個があるということになるのではないのかという疑問が生じよう。
 しかし、私が肚=太陰において、他者=個が存するというとき、それは、自我=超陽を前提にしているのである。このために、単に、肚=太陰において、個が存するとは言えないと考えられるのである。
 もっとも、問題は微妙である。以前、私は母権的個ということを言っていたのである。
 しかしながら、今考えてみると、それは、やはり、自我=超陽が前提だと思う。その前提の下に、母権的個=肚というものを考えていると思われるのである。
 果たして、そう考えていいのか、疑問である。
 丁寧に考える必要がある。
 私は近代以前の日本において、母権的個があったと考えてきたのである。しかし、日本は母権と父権の二重社会であるというのが持論である。つまり、日本文化において、母権と父権の両要素が混在していると思われる。
 故に、私が日本の伝統社会における母権的個という場合、やはり、父権的自我が前提に存するように考えられるのである。
 しかし、果たして、純粋母権文化に個はないのだろうか。
 直観では、肚即全体である。そして、肚は個である。
 つまり、肚=個=全体である。
 そう、太陰とは太一であり、一(いつ)である。この一が個を感じさせるのではないだろうか。
 ならば、自我=超陽がなくても、個はありうるのである。母権的個はありうるのである。
 つまり、太一=太陰=肚=個という図式である。
 そうならば、自我=超陽を前提にした個の成立とはどうなるのか。齟齬になるのである。
 思うに、太一=太陰=肚=個とは全体的個であり、自我=超陽を前提とした個とは、物質世界における個体的個ではないだろうか。つまり、二つの個があると思われるのである。全体的個と個体的個である。個体的個は、純粋母権文化では不可能であろう。結局、自我=超陽の前提があって、個体的個と同時に全体的個が成立すると考えられる。
 では、個体的個と自我とはどう関係しているのだろうか。
 自我は他者排除的であるが、個体的個は、全体的個をベースにした自我的要素のある個ということではないだろうか。
 そう、物質的個というとわかりやすいだろう。
 今はここで留める。後で更に検討したい。

追記:以上の議論だと全体的個と個体的個の二つに分裂したままであるが、実際の様態は違うように直観される。
 個というのは、個体的様態と全体的様態の両側面があると思うのである。(ユング心理学の個体化に少し似るが。)
 個体的様態は自我的様態に近いものがあると思う。
 しかしながら、自我の排除機能は解消しているのである。
 つまり、自我の変容としての個体的個が存すると思う。
 やはり、物質的個である。現象的個とも言えよう。
 そう、結局、気的個と物質的個の二つがあるのであり、言い換えると、個の気的側面と物質的側面があるということになるのではないだろうか。
 物質的側面を形成するには、自我=超陽は必要であったということではないだろうか。
 とは言え、端的に、個とは何か。
 それは、「わたし」の存在であり、意識である。
 「わたし」ならば、自我ということになるのではないのか。
 これは実に微妙な問題である。
 「わたし」は自我とは同じではない。「わたし」は自我にはなるが、自我自体ではない。何故なら、「わたし」は全体でもあるからである。
 ルドルフ・シュタイナーがイッヒichというはそのような「わたし」であり、自我ではない(自我と訳しているが、誤訳だと思う)。
 思うに、「わたし」を個とすればいいのではないだろうか。
 つまり、太一=太陰=肚=個=「わたし」である。そして、超陽=自我は「わたし」=個の分枝となる。
 「わたし」=個とすれば、以上の齟齬も二元論も解消される。
 故に、個私、私個、あるいは、個自、自個、あるいは、個己、己個という用語が考えられよう。(ユング心理学において、個我という用語があったが、どうも抵抗がある。)
 己個か個己がとりあえず、いいように思える。一応、個己を採用する。
 結局、上述の検討であるが、個己の問題であると言えよう。全体的個とは、太一=太陰=肚の個己であり、自我=超陽を前提した個体的己とは、個己の物質的様態を意味すると言えよう。
 そう、

初めに、個己ありき


、である。


2013年06月08日(Sat)▲ページの先頭へ
自我とは何か:太陰が陽を作り、陽から独立した超陽である自我(男性原理)は太陰(女性原理)を恐れる
自我とは何か:太陰が陽を作り、陽から独立した超陽である自我(男性原理)は太陰(女性原理)を恐れる

テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

自我をどう捉えるのか、きわめて重要な問題である。
 私は自我を陽に便宜的においているが、実は純粋な陽ではなく、超陽、あるいは、陽の極大的なものとして考えているのである。
 だいぶ前に書いたように、陽は光となり、物質を形成するものであり、そこにおいて、量化が為されて、同一性、プラスとマイナス、NとS等が形成されると考えられる。可視の世界を作るのである。
 現象界の形成において、私は陰陽共振のことを言った。しかし、今の不連続的太陰ヴィデア論(簡単に、太陰ヴィデア論とする)において、陰陽共振を現象界の形成要因と見るのかどうか、まだ検討していない。
 しかし、やはり、陽が陰へと再帰することにおいて、陰陽共振が発生し、そして、螺旋生命物質体が形成されると考えることができる。
 思うに、陰陽共振から連続的同一性が形成され、物質力学、物質が形成されるように思われる。
 連続的同一性は、同一性力学=物質力学を形成する。それは、例えば、プラスとマイナスの対立構造(「二項対立」、構造主義)を作ると考えられる。具体的には電気を考えればいい。(ここにおいて、PS理論の公式凸i*凹i⇒+1が成立すると考えられる。)
 このとき、陽と陰は対立原理であるが、結合(シナジー化)して、物質形成するのである。
 しかし、ここには自我の原理はないのである。
 確かに、自我は同一性となる陽と結びついている。同一性となる陽と関係するのは、否定となる陰である。ここで一時ストップする。
 どうも正確に述べるには、大陰(だいいん)と大陽(だいよう)、そして、陰と陽、あるいは、陰と陽のペアと小陰と小陽のペアの二種類の陰陽に分けた方がいいようである。とりあえず、後者の用語を使用する。
 結局、陰陽共振において、次元転換によって、螺旋形成が起こり、小陰と小陽の対立原理が形成される(例えば、DNAの二重らせんの対立を考えるといいだろう。)。
 そう、小陰ー小陽対立原理(構造主義)が、物質原理であり、そこには、自我はないのである。
 自我は、物質原理以前の陽に存すると見よう。しかし、次元転換点(これをMP、メディア・ポイントと見るのか?)を介して、自我は物質界にも作用していると思われるのである。
 さて、陽=自我であるが、それは、闇=太陰=他者を恐れるのである。何故なら、陽は陰から派生したものであり、陰の言わば、一部として、陽は存するのであり、陽を超越した存在が陰であるからである。
 ここにおいて、陽は陰を否定し、且つ、排除するのである。単なる否定ではなく、排除なのである。暴力である。
 物質原理の小陰ー小陽の対立原理の否定は、排除ではない否定である。排除どころか、牽引となる否定である。プラスとマイナスは牽引するのである。
 しかるに、陽の陰に対する否定は、排除なのである。あるいは、破壊である。これは、まったく、物質の対立原理とは異なるのである。
 さて、ここで、不連続的太陰陽ヴィデア論(新たな造語)の視点に返ると、太陰が主導的であるときは、陽は太陰に属しているので、自我は独立していないので、排除・破壊的ではない。これは、母権世界である。
 しかし、父権世界になると、陽=自我が主導中心化して、太陰=母から独立し、分離する。そして、太陰=母を排除・破壊するのである。
 この主導中心化し、独立した陽=自我は、言うならば、超陽であり、悪である。悪魔的である。悪魔自体かもしれない。シュタイナー霊学では、アーリマンである。(私はヤハウェはこれではないかと思ってしまうのである。)
 陽=自我の独立化の原因については、稿を改めて論じたい。
さて、以上、自我を不連続的太陰ヴィデア論から説明を試みた。
 ここから、近代的自我はどういうものかよく理解できる。即ち、独立した陽=自我が物質原理、小陰ー小陽対立原理と結びついたのであり、主体は陽=自我であり、様態は小陰=小陽対立原理=物質原理である。陰=他者の排除・破壊が徹底してあるのである。近代的自我あるいは、近代合理主義は悪魔主義である。
 しかしながら、太陰=陰=他者は存するのであり、それは、心的に浮上するのである。反近代主義はそのような意味合いをもつのである。わかりやすい例はロマン主義、神秘主義、オカルト主義、深層心理学である。
 この太陰の力学であるが、陰陽円を考えるといいのかもしれない。あるいは、陰と陽の振動である。
 西洋文明は陽、超陽の文明であるが、しかし、陰、太陰が出現した。つまり、陽から陰への転換点の意味合いがあると考えられる。
 超陽が排除・破壊した、太陰=他者が復活する力学をもった文明である。
 そう、端的に、新東洋文明を示唆しているのである。易で言えば、陽極まりて、陰に転ずである。
 太陰の復活の文明を示唆しているのである。
 しかし、超陽=自我の力学は強力であり、太陰の再出現を阻止するのである。
 因みに、シュタイナーは20世紀の初期から、エーテル体において、キリストが見え始めると述べたが、キリストとは太陽霊であり、それは、太陰から生まれる純粋陽のことと思われるのである。太陰から火の鳥が復活するのである。(D.H.ロレンス哲学文学とはその象徴である。ただし、超陽=自我と太陰が未分化的だったために、リーダーシップ小説において、反動的になってしまった。)
 最後に、心の病(心病と言おう)であるが、それは、超陽=自我が再出現する太陰=他者を排除・破壊せんとする反動力学から生じているように思えるのである。
 現代日本人の自我病はこの心病であると考えられる。

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共情、共心の問題:知情意:頭と胸と肚:3分節的身心:不連続的太陰ヴィデア論

テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

情とはいったい何だろうか。今日、日本人に一番欠落しているのは、情である。情の海、情の川、情の泉等が消失している。
 とは言え、先に触れたように、陰陽において、胸情はどう説明できるのかが問題である。
 私の経験、不連続的差異論が生まれる以前の私の心的様態について考えるのがいいだろう。
 自我の私(頭我)と心の私(肚ベースの胸)の二つに分かれて、前者の否定性を後者で抑えていた、あるいは、鎮静させていた。
 不連続的差異論はこの二つが不連続であることを確認することに存するのである。前者が陽で、後者が陰とすると、陽と陰との不連続性である。そして、陰は不連続的差異になるのである。
 肚のベースのはたらきであるが、胸の共感性(共情性とも呼びたい)の純粋性を保持する面があると思う。自我による反感が生じるが、それによる共感性の濁りを肚の基盤に返ることでなくし、純粋さを保持するである。
 そう考えると、胸は陰陽の中間領域にあると言える。
 結局、自我(陽、正しくは超陽)は、陰陽バランスを破壊するものであり、その調和を維持するために肚の役割があるように思えるのである。陰陽バランスにおいて、胸の共感性(共情)が作用するということではないだろうか。
 つまり、陰陽的身心において、胸の調和が形成されているということになるだろう。つまり、陰陽様態において、胸の純粋共感(共情)が存するのであり、それが自我によって、歪曲されるのであり、その矯正には、肚の働きが必要になるということのように思える。
 肚は太陰=闇であり、それが、陰陽調和の胸の共感・共情を保持する作用をするということになる。
 以上のように考えると、胸=共感・共情性とは、新しい陰陽論、つまり、太一=太陰=闇論から説明できることになる。
 思うに、肚=闇=母(「父」)、頭=光=子、とすると、胸=共感性=聖霊という新三位一体が成り立つように思える。
 ということで、不連続的陰陽ヴィデア論であるが、新陰陽論であるから、不連続的太陰ヴィデア論と陽を抜いて呼ぶことができるかもしれない。あるいは、不連続的新陰陽ヴィデア論である。


2013年06月04日(Tue)▲ページの先頭へ
初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。
テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

注:以下の記述は次の追記の転載である。

続「光とは何か」:肚から大空への放光:個の道と自我の道:陽から陰へと陽から外光へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11544151281.html

追記:陰の中心から陽の円周ないし球面への方向が天の方向ではないだろうか。樹木が伸びる方向である。
 陽の天、光の天は至高の美であろう。
 思うに、陽、光とは、陰、闇の頂点である。陰、闇は陽、光を求めたのである。それが、目的である。
 そう、この点に宗教や文化の光やそのメタファーの意義が存すと考えられる。
 マニ教の光とはそのようなものである。
 闇自体が光に変身するのである。
 しかし、問題は、その後の光の運命である。
 闇から生まれた光が、いわば、独立する。闇という根を失い、光の帝国、独裁を生むのである。
 言い換えると、光の物質化、光の自我化である。
 闇の根源を喪失した光が支配するのである。
 闇の光と単なる光を区別する必要がある。
 わかりやすいところでは、陽光は本来は闇の光であろう。そして、物質的光、例えば、電灯は後者である。
 太陽は思うに、両者の中間点である。闇の光と物質光の中間点である。しかし、前者が本質と思われる。
 そう、科学、自然科学は太陽の「表面」、外面しか見ていないのである。つまり、物質面しか見ていないのである。太陽の物質面とは、本来の太陽の外装部分に過ぎないと考えられるのである。
 科学、自然科学は、太陽の内面、本体を見ていないのである。それは、宗教で言えば、「神」であろう。天照大御神である。
 そう、太陽神は闇の光、そう、闇の光鳥とでも呼びたい。不死鳥、フェニックスはこの象徴であろう。天照大御神は不死鳥であろう。
 そして、赤く染められる日本の太陽であるが、それも闇という大生命の光を意味しよう。

初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。

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http://moris.raindrop.jp/darkly_draws/wallpaper/2d3d_cg/8.html

 とまれ、この闇の太陽が、赤い太陽が、ドットドットドットと、ドクドクドクと鼓動を打っているのである。それは、宇宙の心臓でもある。
 血、血液であるが、それは、闇という大生命が光に化するときのエッセンスではないのか。闇の光のエッセンス。
 とまれ、物質の太陽の背後には、闇の太陽が潜んでいると考えられる。それが、太陽神として、宗教的に表象されてきたと思われる。霊学者のシュタイナーはキリストを太陽霊と考えているが、それは闇の太陽と考えられる。
 
私は復活であり、生命である。

とキリストは言ったのが、闇の太陽は不死鳥であり、正に、その通りである。
 これで、すべての宗教は一致することが理解される。
 では、気とは何か。それは、やはり、闇の太陽の光ではないだろうか。闇の光である。
 しかし、闇自体と気はどう関係するのか。闇の力が気とも言えるだろう。しかし、闇の光が真の気のように思える。これは検討課題にしよう。

追記2:闇の太陽とはD.H.ロレンスの用語dark sunダーク・サンの訳である。黒い太陽と普通訳されるが、黒いでは、語弊がある。暗い太陽も語弊がある。闇の太陽が的確と考えられる。

新追記(これは本記事への新たな追記である):東洋の鳳凰は不死鳥、フェニックスと共通すると直観される。

鳳凰 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/鳳凰 - キャッシュ - 類似ページ
平等院鳳凰堂屋上の鳳凰像。 ... 鳳凰(ほうおう、拼音: Fènghuáng )は、中国神話の
伝説の鳥、霊鳥である。 ... 鳳凰は、霊泉(醴泉〈れいせん〉、甘い泉の水)だけを飲み、
60-120年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食物とし、梧桐の木にしか止まらない ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E5%87%B0

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http://blogs.yahoo.co.jp/barth_lalala/8260416.html


続「光とは何か」:肚から大空への放光:個の道と自我の道:陽から陰へと陽から外光へ
テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

今は疲れて余裕がないので、明日にも論考したいが、簡単に触れておく。
 結局、闇の中に光、原光が存するのか、それとも、闇自体が光に転ずるのか、どちらが的確なのか、である。
 私の直観は後者であるが、前者も可能性があるのである。
 そう、問題は心の眼である。心の眼に映る光があるのである。それは、外界の光ではない。
 心の光である。それが陽ではないのか。陽は陽光自体ではないと思われる。
 これまでの視点から言えば、陰陽円における円周の陽が心の光であり、また、眼である。つまり、円周ないし球面の陽は陰の派生物である。
 だから、闇から発出する「光」とは、闇が産み出す「光」であり、闇に内在する光、原光ではないと思われるのである。
 そうすると、やはり、最初に述べたように、闇が本体であり、光はその転化物である。
 D.H.ロレンス風に言えば、闇の背中が光ということになる。
 では、次に、個と自我の問題を検討する必要がある。
 闇の光ではなく、外光に焦点を合わせる主体は自我だと思われる。
 思うに、陽から外光の方向である。これは自我の方向だと思う。
 それに対して、個とは、陽から陰への方向性に存するように思える。
 近代主義とは、陽から外光の方向性に成立したのではないだろうか。しかしながら、ルネサンスにしろ、プロテスタンティズムにしろ、それは、闇から光への方向性が基盤にあると思う。
 つまり、闇がベースにあると思うが、闇の作る光から外光へ向かい、それが、中心化してしまったのが近代だと思う。
 思うに、闇から光への方向性は、完全ではないが、個の一部のように思える。そして、光(陽)から闇への反転が真の個のように思える。
 だから、闇から光、陰から陽への方向性は個と自我との中間のように思える。
 近代主義の問題は、光、陽が外光へと展開して、それが固定してしまった点にあるだろう。根源、基盤の闇、陰が排除されているのである。これは、他者の否定である。悪魔主義である。
 今はここで留める。

追記:陰の中心から陽の円周ないし球面への方向が天の方向ではないだろうか。樹木が伸びる方向である。
 陽の天、光の天は至高の美であろう。
 思うに、陽、光とは、陰、闇の頂点である。陰、闇は陽、光を求めたのである。それが、目的である。
 そう、この点に宗教や文化の光やそのメタファーの意義が存すと考えられる。
 マニ教の光とはそのようなものである。
 闇自体が光に変身するのである。
 しかし、問題は、その後の光の運命である。
 闇から生まれた光が、いわば、独立する。闇という根を失い、光の帝国、独裁を生むのである。
 言い換えると、光の物質化、光の自我化である。
 闇の根源を喪失した光が支配するのである。
 闇の光と単なる光を区別する必要がある。
 わかりやすいところでは、陽光は本来は闇の光であろう。そして、物質的光、例えば、電灯は後者である。
 太陽は思うに、両者の中間点である。闇の光と物質光の中間点である。しかし、前者が本質と思われる。
 そう、科学、自然科学は太陽の「表面」、外面しか見ていないのである。つまり、物質面しか見ていないのである。太陽の物質面とは、本来の太陽の外装部分に過ぎないと考えられるのである。
 科学、自然科学は、太陽の内面、本体を見ていないのである。それは、宗教で言えば、「神」であろう。天照大御神である。
 そう、太陽神は闇の光、そう、闇の光鳥とでも呼びたい。不死鳥、フェニックスはこの象徴であろう。天照大御神は不死鳥であろう。
 そして、赤く染められる日本の太陽であるが、それも闇という大生命の光を意味しよう。

初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。

sammon_phoenix.jpg


 とまれ、この闇の太陽が、赤い太陽が、ドットドットドットと、ドクドクドクと鼓動を打っているのである。それは、宇宙の心臓でもある。
 血、血液であるが、それは、闇という大生命が光に化するときのエッセンスではないのか。闇の光のエッセンス。
 とまれ、物質の太陽の背後には、闇の太陽が潜んでいると考えられる。それが、太陽神として、宗教的に表象されてきたと思われる。霊学者のシュタイナーはキリストを太陽霊と考えているが、それは闇の太陽と考えられる。
 
私は復活であり、生命である。

とキリストは言ったのが、闇の太陽は不死鳥であり、正に、その通りである。
 これで、すべての宗教は一致することが理解される。
 では、気とは何か。それは、やはり、闇の太陽の光ではないだろうか。闇の光である。
 しかし、闇自体と気はどう関係するのか。闇の力が気とも言えるだろう。しかし、闇の光が真の気のように思える。これは検討課題にしよう。

追記2:闇の太陽とはD.H.ロレンスの用語dark sunダーク・サンの訳である。黒い太陽と普通訳されるが、黒いでは、語弊がある。暗い太陽も語弊がある。闇の太陽が的確と考えられる。


2013年06月02日(Sun)▲ページの先頭へ
What is light?:光とは何か?:陽・光が個原理で、陰・闇は全体で自我の原理なのか?
テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

今、新陰陽ヴィデア論(陰が本体で、陽は派生物)に立って、論じているが、太一(太極)=太陰ということになり、女性・母権の根源がこれでわかった。(それは、物理的には、穴のようなものなのだろうか。今の段階では、点・ポイントと見ているが、穴という見方もできよう。これは検討課題である。)
 根源は闇、太闇である。それが中心で、そこから、円が生まれ、円周は陽、光である。
 ジェンダー的に言うと、女性は闇であり、男性は光である。この闇と光には善悪はない。異質な価値があるだけである。
 とまれ、女性を闇と見ることで、女性の存在の謎が解明するだろう。男性は光の視点から女性を認識しようとするが、闇を光は知らないのである。
 逆もそうである。女性の闇の視点から男性を認識しようとするが、光を闇は知らないのである。
 しかし、闇が光を産むのである。処女生殖が本来的なのがわかる。アルテミス、処女神アテナ、聖母マリア。
 根源を陰=闇として、存在の謎がかなり判明したが、逆に、光=陽がいったい何であるのかが今や問題である。
 直観では、闇の反転が光である。しかし、光は光の意味があると考えられる。
 闇の反転としての光と言ったが、闇から光が飛び出すとも言える。
 とまれ、闇にとり、光の誕生は最高の奇蹟だったに違いない。闇は光を必要にした。
 闇を母親にすると、光は子である。(キリスト教の父と子であるが、父は本来は母である。キリスト教ないし一神教のジェンダー転換については検討問題である。)
 思うに、ヘーゲル哲学的になるが、内在していたものの外化が光の発生ではないだろうか。闇の中に光が内在していたということになる。女性の中に男性が存在していたということにもなろう。(アダムのあばら骨からのイヴの誕生は逆であろう。)
 次のようにイメージしよう。原初期、陰=闇の中に陽=光が閉じ込められている。この内なる陽=光が表面化、外化するときがある。これが、陰陽分化のように思える。そして、それから、陰陽共振で螺旋生命現象が発生するのではないだろうか。
 とまれ、陰=闇の内なる陽=光がポイントとなるだろう。闇の中の光である。しかし、それを表面化・外化するときが現象化である。ギリシア神話で言えば、ディオニュソスからのアポロの誕生である。
 ここで、セクシュアリティについて言えば、陰=闇と陽=光の分極化からの再合一化が性交と考えられる。陰=闇は陽=光を再び内在化せんとするのである。また、陽=光は陰=闇の内部へと回帰せんとするのである。これは、精神的にはイデア界への回帰である。プラトンのエロースである。
 さて、本題の光とは何かである。それは、個の原理ではないのか。個核、個点、個子ではないのか。
 陰=闇は宇宙全体、コスモスである。それに対して、光=陽は個原理ではないのか。
 私は不連続的差異論の段階で、知即存在ということを言ったが、この光・陽を内在する闇・陰がそれだと思われる。
 わかりやすく言えば、卵を考えればいいのである。黄身が光であり、それを包むものが闇である。
 以上のようにざっと見て、光=陽=男性の働きの意味がわかってきた。それは、個原理である。女性は全体原理である。
 陽根・男根の役割は、個原理を全体原理にもたらすことではないだろうか。(これは思いつき程度である。)
 とまれ、性とは、個即全体の原理を意味するのではないだろうか。これは、個即非全体ということでもある。
 個は個であり、また、全体であるということである。
 そう、光球をイメージするといい。表面は光であり、それが、個である。しかし、内部や闇であり全体である。しかしながら、闇の中心には原光があるのではないだろうか。
 そう、陰・闇は自我の原理となり、陽・光が個の原理、これは、実は他者の原理ではないだろうか。キリスト原理はこれだろう。
 私は陽・光が自我をもたらす考えてきたが、陰・闇が自我をもたらし、陽・光は個=他者をもたらすのではないだろうか。
 これは後で熟考したい。


2013年06月01日(Sat)▲ページの先頭へ
太一=陰(原陰)から陽の発生と陰陽原理:新陰陽論:陰原理から陽極が「派生」する
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11542090932.html

太一=陰(原陰)から陽の発生と陰陽原理:新陰陽論:陰原理から陽極が「派生」する

テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

現時点での不連続的陰陽ヴィデア論は、根源の太一(太極)を陰と見ている。だから、太一=太陰とも言える。
 これは、それ以前の陰陽論とはまったく異なる視点である。それまでは、陰と陽の分極・両極を均衡的に見ていたからである。いわば、両者、力学的には対等ということであった。
 だから、新陰陽論と言えるものである。故に、不連続的新陰陽ヴィデア論と言うことができる。(とは言え、まだ、作業仮説的であり、検討の後に、かつての陰陽論に戻るかもしれないが。)
 とまれ、先に述べたことから、陰は陰陽円の中心、陽は円周になる。つまり、陰は内部で闇、不可視であり、陽は外部であり、陽=外部が光となり、可視、現象になるように思える。陰陽円は闇を抱えた光の円(光円)である。
 陰陽球で考えれば、中心は陰で、球面が陽となる。(思うに、これが、原子モデルになるかもしれない。当然、中心は原子核であり、球面が電子である。)だから、闇を包んだ光の球(光球)である。
 また、陰は気であるが、果たして、陽も気であるのか。それは、光となるから、どうも、物質的なように思えるのである。
 否、先走ってはいけない。陰陽円はあくまで気の円、陰陽球は気の球と見るべきだろう。
 だから、問題は、陰陽円、陰陽球の物質現象化の力学である。
 これまでの考えは、

T:太一⇒U:陰陽分極化⇒V:陰陽共振化⇒W:現象(螺旋的生命物質体)

である。
 問題はUであるが、それは、陰陽円形成化、陰陽球形成化と言えよう。
 太一が根源気ならば、Uは陰陽気ではないだろうか。
 しかし、Uにおいて、陰の気が陽の気を作り、両者、極性状態にあると考えられる。(ここで、単極磁石を想起したが、単極とは、陰極のことではないだろうか。何故なら、太一=陰であり、それが、陰極をまず形成して、それから、陽極を作るように考えられるからである。)
 さて、物質化であるが、それは、Vの陰陽共振化がベースではないだろうか。つまり、Uの段階で、陰陽分極化=陰陽円・球形成が起こり、そこから、再太一化が起こり、そのとき、物質が出現するのではないだろうか。
 つまり、Uの段階は、いわば、反発である。そして、Vの段階が反作用で牽引である。このとき、螺旋が発生するように思えるのである。思うに、螺旋以前に渦巻、陰陽渦巻が形成されるのではないだろうか。つまり、陰陽渦円が形成され、それから、三次元的螺旋現象が形成されるということである。
 このとき、陰陽円、陰陽球の中心であり、陰、いわば、陰点(太一もここに存するのか。それとも、別次元なのか。これは検討問題である)がヘソ(臍)となり、そこから、空間三次元、時間一次元の時空四次元生命現象が生起されるように思えるのである。
 とまれ、これまで述べてきたように、陰陽円・陰陽球と現象二次元、三次元は別のものと考えている。陰陽円・陰陽球は、内在超越次元にあると思われる。
 さて、出現する時空四次元現象であるが、これは、四元数(しげんすう)がよく記述するのかもしれない。三つの虚数i、j、kが空間三次元、実数1が時間次元となる。
 四元数を使用しないと、時間を捉えるのが難しくなるのではないだろうか。もっとも、時間はエネルギーを感じるので、実数ではなく、内在超越次元的に見てもいいのではないだろうか。
 すなわち、直観では、Vの陰陽共振の陰陽円の牽引力に時間が存するようにも感じられるのである。
 四元数という数学構成を使用すると、いわば、予定調和的にうまく収まる感じがあるが、数学形式主義にならないようにしないといけない。
 とまれ、陰陽円の牽引力に時間を見ると、それは、内在的力動である。
 もし、時間がそうならば、時間は数学的に実数ではありえないだろう。ただし、結果として、空間・物質を形成するときのエネルギー量として、時間を考えるならば、実数的になるだろうが。
 そう、エネルゲイアとしての時間とエンテレケイアとしての時間があるのではないだろうか。前者は、気エネルギーとしての時間であり、後者は物質エネルギーとしての時間である。
 この問題はここでおいておく。
 とまれ、以上のように、新陰陽論(新陰陽イデア論:不連続的新陰陽イデア論)から、根源からの現象の生起を説明することができる。もっとも、陰陽円から螺旋現象の生起は従来通りの考え方である。
 変わった点は、陰原理が基本であり、そこから陽極が発生するということである。
 そう、たった今、想像したことだが、陰陽球において、球面が陽面であり、各点は陽点である。そこから、空間三次元=外界が見えるが、内界の陰点は不可視である。何故なら、陰点=中心は、闇であり、身体的には肚であるからである。
 そうすると、四元数において、三つの虚数は空間三次元を意味し、一つの実数は物質化であり、時間ではないのではないだろうか。
 時間はあくまで、陰陽気エネルギーではないだろうか。ただし、結果としての量的エネルギーとしての時間は考えられるが。
 そう見ると、一般的には、時間の結果を見ているのであり、時間の本体は見ていないと思う。というか、時間の本体は陰陽次元にあるから、不可視と考えられる。時間を内的に見るというのは正しいことであり、物理学的時間は本来的時間ではないだろう。
 また、虚時間という考えであるが、もし、陰陽次元、陰陽円、陰陽球の次元を虚時間の世界と見られるならば、時間の本体は、虚時間と言えるのかもしれない。この点はよくわからないから、決めつけないことにする。
 さて、最後にまだ考察していない点をあげると、太一と陰の関係である。これまで、太一=陰としてきたが、同時に、陰陽の陰でもあるのである。
 つまり、太一=陰と陰陽の陰の力学構造である。
 直観では、太一と陰は同一であるが、同時に異なるのである。
 次のように言えば、明快だろう。即ち、陰は内在的であるが、太一は超越的である。両者併せて、内在超越的と考えることができる。
 とまれ、今は、この問題は検討課題としておく。

追記:以上から、以下の概念図は書き替えられないといけない。何故なら、当然ながら、陰陽分極を陰と陽を対等のものとして扱っているからであるし、そのような陰陽の中間点を考えて、MP(メディア・ポイント)と考えているからである。
 思うに、この考え方は、言わば、ありきたりなのである。二元性があり、両者を媒介するものとしてのMPを想定するということであるから。そう、言わば、一種のメディア論なのである。
 しかし、新陰陽論(陰主陽従)では、そのような媒介性は解消している。主体・本体・本質は陰原理、陰極なのであり、それが、陽、陽極を発生させるということであり、そこには、中間原理はないのである。非メディア、不メディア、無メディアである。Im-media, Dis-media(De-media), Un-mediaである。
 そうすると、例えば、カントのような構想力(想像力)のような媒介的な視点は否定されて、非メディアとしての想像力を考えなくてはならない。私自身の「想像力」とは実は、直観力なのである。私の哲学的考察は直観的考察なのである。だから、直観的想像力ということはできるだろう。直観想像力(観像力、直像力、心像力)である。
 とまれ、直観想像力は陰をベースにした心像(直観像)である。それは、先にも述べたが、単に陽的な映像ではないのである。あくまで、陰の基盤をもつ陽的映像なのである。
 言い換えると、太一的心像力なのである。闇から生まれる映像の世界なのである。そう、闇がもつ光の面の心像・映像なのである。つまり、光=陽とは陰=闇の一つの帰結なのである。闇=陰の一部として、派生物として、光=陽があるのである。つまり、光=陽とは陰=闇に属するということである。
 この点は後で、十分に検討したい。


<不連続的陰陽イデア論(不連続的差異共振論)概念座標:Ver.17.0.0>

    陰陽メビウス(陰陽渦円)

       陽イデア(✡):自我
          |
          |
          |
          |
          |
          ★
_______・______実軸(時間・光・物質軸)+1
          ☆
          |
          |
          |
          |
          |
      陰イデア(✪):他者

【但し、・は太一点(太極点、内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 太一点において、直交する太一軸が考えられる。太極軸を1次元、陰陽メビウス(陰陽渦円)を内在超越的2次元、そして、現象界を時空四次元と見る。
 そして、陰陽軸(陰陽渦円)は陰陽メビウスの輪を形成していると思われ、陽イデア=自我=知(認識)と陰イデア=他者=存在で、陰陽メビウスが陰陽イデアで、意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。
 尚、実軸は時間-光-物質の系列軸とし、太一点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸は記入していない。
 霊「数」、陽✡、陰✪を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。不連続的陰陽イデア論公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k


2013年05月28日(Tue)▲ページの先頭へ
新東洋文明の曙光:近代合理主義(科学主義)は太一=気=陰=肚を憎悪し否定し抹殺することを欲する
テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

自我は、近代的自我は、陽、正確に言うと、超陽であるが、それは、陰、超陰を否定する。ここに近代合理主義=科学主義の悪意があるのである。
 この公式は当然、デカルトのコギト・エルゴ・スム(我思う故に我在り)である。コギトは正に、自我(=陽、超陽)の思考であり、主体自体の思考ではないのである。自我によって排除されたものが、陰、超陰であり、太一=気=肚である。言い換えると、東洋的精神が否定されたのである。西洋文明が内在していた東洋的精神が否定されたのであり、西洋はいわば、超西洋となったのである。だから、近代西洋とそれまでの西洋とは異質である。
 以上のことを日本に当てはめると、明治日本は確かに、近代西洋文明の大影響をもったが、まだ、東洋的精神は残っていた。しかるに、敗戦後、米国の植民地的支配によって、日本は近代合理主義の影響下にあり、東洋的精神をまったく喪失していったのであった(私見)。
 日本において東洋的精神は肚の精神である。これは例えば、禅文化には存しているし、他の武道においてもそうである。しかし、敗戦後の米国経由の近代西洋文明の「洗脳」によって、東洋的精神は排除されていったのである。
 具体的には、教育の領域である。東洋文明教育は否定されて、頭の、自我中心の教育が為され、身体教育、正確に言えば、内身体教育、内身体、主体的、内界的教育はほとんど為されなかったのである。
 ここで少し飛躍的になるが、実は、1960年代、70年代の洋楽ポップスは実は東洋的精神的であると考えられるのである。頭ではなく、肚や胸をベースにした音楽が誕生したのである。クラシック音楽の自壊の状況において、ポップスにおいて、東洋的精神が萌芽したのである。(もっとも、その後、金もうけ主義の音楽業界によって、潰されたが。今はYouTubeで復活している。)
 現代日本の狂気であるが、これは、近代西洋文明に存しているが、その受け皿として、日本父権主義があったと考えている。
 つまり、日本父権主義が近代西洋文明を受容して、徹底して、太一=陰=気=肚の東洋文明を否定して、日本文化をも否定する結果になり、それで日本社会は狂気状況になっていると考えられる。
 言い換えると、日本母権文化、陰文化を否定する日本父権主義=陽文化が近代西洋文明と結びつき、陰を否定し、狂気状態になっているのである。
 ここで、一般的に、どうして陰文化、母権文化、東洋文明を否定するのか考えてみると、それは簡単なのである。
 実は、陰文化とは、神秘文化、ロマン主義文化、オカルト文化、霊性文化等であり、自我=陽・超陽のもつ合理主義はそれに嫌悪・憎悪をもつのであり、それ故に否定・排除したいのである。
 神話学的に見ると、母権神話から父権神話へと移行したが、その時、母なる神、大女神・大母神が殺戮されて、男性神が中心化するのであるが、ここに神秘から合理への移行が表現されていると見られるのである。
 これは、自我的合理主義=科学主義を出現させるための必要悪であったと言えよう。
 しかし、今や、それも行き着く果てに行き着いた。
 今や新たに母権主義が勃興するときである。否定された神秘が目覚める時代になったのである。
 光の恐れた闇の復活する時代なのである。
 陰宇宙、陰世界・陰界、陰全体の時代になったのである。ポスト近代西洋文明、新東洋=母権文明の時代である。
 最後に一言、先に、宗教の光について述べたが、これまでの論から、陰から陽、闇から光が生まれるのであり、真理のメタファーは本当は陰=闇にならないといけないはずである。
 しかし、元陰=太一から陽が生まれ、陰陽分極、陰陽共振を一つの「光」と見れば、光をメタファーにするのは、間違いではないだろう。
 しかし、陰陽分極、陰陽共振の「光」とは、陽光のような昼光ではない。それは、いわば、薄明である。あるいは、心の光のようなものである。内界の光である。
 そのような意味で宗教において、光をメタファーにするのは理解できることである。
 二言目になるが、結局、陰世界を記述する論理、言語、知はどのようなものなのかが問題である。
 科学は陽の論理、言語、知性に拠る。数学はそのような代表である。
 しかし、陰世界はどのように表記するのか。
 シュタイナーは霊学を説いた。言葉は一般に陽の世界に属するのであるから、陰の世界の表現には本来向いていない。
 思うに、音楽を初めとする芸術が向いているだろう。
 そう、大問題は科学との関係である。先に触れたように、陰の主体全体学において、科学はその物質論を占めることになるだろう。

追記:陰世界、太一世界、陰陽世界は、なんらか知的に記述できるはずである。もっとも、これまで、陰陽円、陰陽渦巻、陽の同一性、螺旋生命物質体等というように理論化はしてきたのである。

追記2:以下に、陰世界の知的記述の試みがある。
不連続的陰陽ヴィデア論:陰陽ヴィデアリズム:太一⇒陰陽分極(陰陽円)⇒陰陽共振⇒生命螺旋宇宙 (05/19)
http://sophiology.jugem.jp/?eid=277

1)イデアであるが、それは、想像的映像でもあるので、イデア+ヴィデオ=ヴィデアと呼ぶのがいいだろう。プラトンはエイドス(映像的類型)とも呼んでいた。
 だから、不連続的陰陽イデア論は、不連続的陰陽ヴィデア論となる。イデア論がヴィデア論である。

参考:
イデア - Wikipedia
イデア論 - Wikipedia
エイドス - Wikipedia
形相 - Wikipedia

2)太一(太極)は陰と通じている。陰に太一が存するように感じられる。この陰とは別に陽が分極化するということではないのか。
 陽が陰へと回帰するときが、現象化ではないだろうか。
 まだ、十分洞察できていない。
 太一が陰に内在する。陰を原点とすると、原点の周囲に陽が形成されるのだろうか。点というより、円を考えるべきか。
 陰が中心で、円が生じる。その円周が陽ということか。次のような生成図式を考えてみる。

 0(ゼロ):太一⇒@陰陽円(陰が中心点で、陽が円周?)⇒A陰陽共振⇒B生命螺旋現象

@が陰陽分極様態である。陰陽円が形成されている。その中心は陰であり、円周が陽ということである。陰陽分極であり、離反の力がはたらいていると考えられる。
 それから、牽引の力がはたらいて、陰陽が共振するようになる。そして、このとき、次元転換が生じると考えるのである。
 空間的に言えば、陰陽円の平面に直交する軸が生じるのである。それが、時間ー物質ー光の軸(一次元)ではないだろうか。
 そして、空間三次元であるが、それは、四元(しげん)数の三つの虚数i、j、kの軸によって形成されるということではないだろうか。この点は検討課題である。

追記:陰陽円と原子との関係に触れるべきである。また、陰陽円の中心とMP(メディア・ポイント)について考察すべきである。

3)哲学と数学との関係について:
 私は数学はずぶの素人であるから、数学主導で理論化することは、問題外であるが、主体力学から理論を導くのであるから、数学主導ではなく、哲学主導、ないし、哲学的科学主導で考察するのが本来だと思われる。数学主導にすると、哲学的考察が後回しにされて、数学の形式に引きずられてしまうと考えられる。先ず、哲学的考察(ヴィデア的考察)を行い、それに数学を適用するのが的確だと思われるのである。
なんでも哲学する:不連続的陰陽ヴィデア(イデア=エイドス)と日本心的革命宣言


2013年05月26日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:否定とは何か:存在的心像としてのヴィデア:単極磁石と陰陽
今は余裕がないので、検討問題をざっと記す。

1)否定とは何か。同一性主義の否定は、他者を否定するだろう。例えば、1+1=3と答えた人間に対して、それは誤りとして、解答を否定する。それはそれでいいが。3と答えた人間の人格・存在を貶めるような否定となる場合があるだろう。単に、間違いに対する否定と人格否定の違いはどこに拠るのか。

2)ヴィデア(イデア=エイドス)についてであるが、これは、陰陽共振的イメージである。だから、陰=存在があるのである。そう、陰=太一であるから、ここに、存在性がある。故に、ヴィデアは存在性をも帯びるのであり、いわば、存在的イメージである。単に映像ではなくて、存在的映像(追記:映像だと外界・客体的なので、心像とした方が内界・主体的映像に相応しいと考えられる。)。(今、D.H.ロレンスの小説の作品世界の映像を想起した。それは、単なる映像ではなく、存在感のある映像である。だから、存在的イメージと言えるように思う。)

追記2:音楽でもやはり、陰陽共振の音楽がほんとうの音楽であり、心に響くのではないだろうか。単に陽だけの音楽は軽いのであり、心には響かないと考えられる。
 陰陽共振、陰に基づく音楽は、本当の情感があり、美しいのである。以下のAmericaのYou Can Do MagicとAll My Lifeを聴かれたい。

AMERICA - YOU CAN DO MAGIC 1982 (Audio Enhanced)


All My Life - America

 
3)単極磁石と陰陽について比較検討したい。
単極磁石は、SとNの2種がある。まあ、物質と反物質みたいなものである。  これが真空中には充満
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11537378641.html

4)これは2の追記となるが、陰=太一の世界とは、闇黒世界であり、ダークマター(暗黒物質)とは、思うに、この世界の「物質」を暗示しているのではないか。しかし、陰=太一世界は、物質の世界ではなく、根源的な気の世界と考えられる。根源気がそこにあると考えられる。シュタイナーの霊学で言えば、エーテル体である。


2013年05月19日(Sun)▲ページの先頭へ
不連続的陰陽ヴィデア論:陰陽ヴィデアリズム:太一⇒陰陽分極(陰陽円)⇒陰陽共振⇒生命螺旋宇宙
不連続的陰陽ヴィデア論:陰陽ヴィデアリズム:太一⇒陰陽分極(陰陽円)⇒陰陽共振⇒生命螺旋宇宙

テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

今日は、森で、6時間半ほど過ごした。
 読書したり、森掃除したり、思索したりした。
森のグリーン・コスモスという感じである。森の緑の宇宙である。
 さて、いろいろ思索したが、疲れているので、簡単に記すに留める。
 
1)イデアであるが、それは、想像的映像でもあるので、イデア+ヴィデオ=ヴィデアと呼ぶのがいいだろう。プラトンはエイドス(映像的類型)とも呼んでいた。
 だから、不連続的陰陽イデア論は、不連続的陰陽ヴィデア論となる。イデア論がヴィデア論である。

2)太一(太極)は陰と通じている。陰に太一が存するように感じられる。この陰とは別に陽が分極化するということではないのか。
 陽が陰へと回帰するときが、現象化ではないだろうか。
 まだ、十分洞察できていない。
 太一が陰に内在する。陰を原点とすると、原点の周囲に陽が形成されるのだろうか。点というより、円を考えるべきか。
 陰が中心で、円が生じる。その円周が陽ということか。次のような生成図式を考えてみる。

 0(ゼロ):太一⇒@陰陽円(陰が中心点で、陽が円周?)⇒A陰陽共振⇒B生命螺旋現象

@が陰陽分極様態である。陰陽円が形成されている。その中心は陰であり、円周が陽ということである。陰陽分極であり、離反の力がはたらいていると考えられる。
 それから、牽引の力がはたらいて、陰陽が共振するようになる。そして、このとき、次元転換が生じると考えるのである。
 空間的に言えば、陰陽円の平面に直交する軸が生じるのである。それが、時間ー物質ー光の軸(一次元)ではないだろうか。
 そして、空間三次元であるが、それは、四元(しげん)数の三つの虚数i、j、kの軸によって形成されるということではないだろうか。この点は検討課題である。

3)哲学と数学との関係について:
 私は数学はずぶの素人であるから、数学主導で理論化することは、問題外であるが、主体力学から理論を導くのであるから、数学主導ではなく、哲学主導、な いし、哲学的科学主導で考察するのが本来だと思われる。数学主導にすると、哲学的考察が後回しにされて、数学の形式に引きずられてしまうと考えられる。先 ず、哲学的考察(ヴィデア的考察)を行い、それに数学を適用するのが的確だと思われるのである。

今は以上で留める。





主体全体学へ向けて:主体主客体従の全体哲学

2013.05.17 Friday | category:全体学:主体全体学:ホロロジー

テーマ:全体学(ホロロジー): holology
昨日から述べようと思っているが、仕事で忙しく、残念ながら書けない。
 今日の認識の問題は、勿論、存在とも関係するが、結局、主体が知性中心となり、身体存在性、身体感性、身体気性等がまったく欠落していることだと思う。
 知性中心と言ったが、正確には、自我中心である。あるいは、利己主義である。それは、頭部中心ということであり、身体の胸や肚の感性的意識が欠落しているということである。
 結局、主体における頭部が支配的で、胸部の意識、腹部の意識が欠落しているということである。
 主体世界を頭脳領域で支配させていて、胸部領域、腹部領域、その他身体領域を無視しているのである。
 頭脳中心とは主体における客体志向が支配的となるということであり、主体の深層基底部が等閑にされる、排除されるということである。
 主体世界が頭脳中心に傾斜歪曲化されていて、客体世界もその偏向によって形成されているということである。
 主体世界の質的変容が必要である。主体的錬金術である。後で、詳述したい。


参考:
全体学ホロロジー:主体学(主体同一性学と主体差異学):科学(サイエンス)は全体学の一部に過ぎない

テーマ:全体学(ホロロジー): holology

今日は比較的穏やかな暖かな、初夏のような日であり、森で4時間半ほど過ごした。
 最近見つけた、森の側面にある、向かいが畑の空き地で折畳みチェアーを置いて、最初2時間半読書し、その後、森気浴散策をした。
 森の緑のエキスに浸るような感じの読書である。浄福を感じる時であった。今は蚊が出ない、森で過ごす絶好の時である。
 とまれ、最初、最近考えていたことの一つの解答が出たので、それを記そう。
 即ち、端的に、「何故、森を見た瞬間に和らいだ気持ちになるのか。それは、緑の葉や樹木に気があるからなのか。それとも、それらを介して、気を感じるからなのか。」という問題である。
 結局、自然物には、内在超越次元があり、そこには、陰陽渦円があり、それが気を発出しているのであり、そのために、自然物に気を感じるのである。端的に、客体的に気が発せられているということである。
 しかし、思うに、それだけではないだろうか。葉の形、葉の緑の色、樹木の形状等を視覚したとき、主体の内面に陰陽共振が生起して、内的気が発生すると思われるのである。(この点は要検討。)
 つまり、森に面したとき、客体的、主体的に、気を感じるということになるのである。
 さて、今日はさらに、主体学について考え、更に、統一学について考えた。
 科学(サイエンス)とは、物質学である。だから、それは、自然科学には当てはまるとしても、社会科学、人文科学とすると、問題が生じる。(確かに、経済学は物質学として、捉えられる面が多いが、それだけではない。)
 科学は物質学であるから、統一学の用語として、科学を用いることはできない。また、哲学という用語であるが、本来は全体学であるが、今や、そのような意味合いがほとんど感じられないので、哲学という用語も使用できない。
 そこで、全体学という用語を使うことにする。これは、主体学と客体学に分かれるが、客体学とは、主体学の一部と見るのである。主体学において、客体学が成立するのである。これは、カント哲学的である。図式化すると、

                          
          /主体同一性学ー客体学ー客体物質学(科学)
全体学ー主体学               
          \主体差異学ー主体現象学ー感覚、知情意


今はざっと、暫定的、作業仮説的に記すのだが、今日の科学(サイエンス)は、全体学の主体学の主体同一性学(主体物質学)に属するのであり、全体学の一部に過ぎない。
 後、主体差異学であるが、これは、ほぼ哲学である。ただし、主体差異とは、陰陽的理念(イデア)、陰陽的観念・概念を意味するのである。だから、ここでは、陰陽論とプラトン哲学の結合が見られるのである。もっとも、私の不連続的陰陽論を適用しているのであるが。
 とまれ、以上から、今日、科学(サイエンス)と言われるものが、全体学の一部に過ぎないことがよくわかるだろう。
 だから、科学を支配的にしている今日の学理、学知のあり方は当然、間違っているのである。錯誤・倒錯的なのである。
 なお、生命を以上の図式に入れる必要がある。それは、主体同一性学と主体差異学の中間領域になると思われる。だから、主体生命学を中間に入れるべきかもしれない。すると、以下のような図式になる。
 

              
          /主体同一性学ー客体学ー客体物質学(科学)
        /
全体学ー主体学ー主体生命学  
        \           
          \主体差異学ー主体現象学ー感覚、知情意



そう、全体学は、ホロロジーholologyである。
 今は、簡単な指摘に留める。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11525440009.html






体調が悪かったが、断酒したらとても元気になり、また一日二食と結びつき、減量した

2013.05.15 Wednesday | category:日記

テーマ:健康&治癒:森気浴:医食同源:一日二食

もう眠いので、寝るが、繰り返しになるが、一言言うと、昨年は体調がたいへん悪く、不定愁訴ではないかといぶかったりしたり、あるいは、被曝が原因ではないかと思ったりした。
 結局、12月、酒が飲めなくなり、断酒したが、その後、びっくりするほど元気になった。だるく元気のでなかった状態が嘘のように元気になった。
 そして、豆乳ヨーグルトも、朝晩、食するようにしているし、そう、なんと言っても、森での散策することをできるだけ日課にして、結局、鏡に映すと、驚くほど、細くなった。しかし、まだ、皮膚の側が、厚いので、さらに痩せようと思う。
 意志が弱く、身体に支配されていると強く感じる。私の体質は、依存症になる方で、酒は危険物なのである。
 でも、去年の12月から今日まで、パーティーで3回飲んだだけである。
 とまれ、主観では、酒は私にとってよくない。肝臓を傷め、元気がなくなる。太る。酔う時間が長くなる。脳神経が麻痺してくる感じ。また、お金がかかる。
 そう、ほぼベジタリアンである。もっとも消極的それであるが。

追記:明らかに元気が出た証拠は、自転車で、ある上りの坂道を苦しむことなく上れるようになったことである。
 以前は、息を切らしたり、あるいは、一気に上れず、自転車から降りたりしたものである。
 身体が軽くなった感じなのである。別人のようである。

追記2:大事なこと、身体哲学的なポイントを言うのを忘れていた。
 それは、快の変換、質的変換・変容・転換のことである。酒を飲んで、酔って、快を得る。しかし、これは、習慣、習癖、依存症になると、当然、身心を悪くするのである。常習性があるので、悪癖となるのである。
 そこで、酔いの快を自然健康的な快へと転換すべきなのである。
 私は体調の悪さ、不快さから、以上のように変換したのであるが、そこにあるのは、新しい自然に即した快である。
 これは身心の美も伴い、すぐれたものである。
 思うに、プラトンの真善美イデアであるが、それに近づくと思われるのである。そう、真善美のイデアであるが、そこには、快が欠けているようである。もっとも、美の中に入れることはできなくもないが。とまれ、快美、美快というものがある。
 これから、酒の酔いは逸脱すると言えよう。快ではあるが、不美的である。


2013年05月07日(Tue)▲ページの先頭へ
仮説:森の緑の葉、樹木の像には、陰陽共振(気界)が背後・背景(内在超越的次元)に存する
テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

葉の形、葉の緑の色、樹木の形状等を視覚したとき、主体の内面に陰陽共振が生起して、内的気が発生すると思われるのである。
全体学ホロロジー:主体学(主体同一性学と主体差異学):科学(サイエンス)は全体学の一部に過ぎない
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11525440009.html

先に以上のように述べたが、果たしてそうなのかかどうか検討したい。
 この問題はそれ以前に言及した事柄である。音楽の場合、聴いたとき、陰陽共振自体を感覚するので、音楽の気を感じるというようなことを言った。
 視覚の場合が難しいのである。しかし、音楽の場合と基本的には同じではないだろうか。音楽の場合、曲を聴いたとき、主体内部において、陰陽共振が起る(もっともいい音楽の場合であるが)。主体内部の陰と陽とが共振して、気を発生させるのである。
 視覚の場合、例えば、森の場合、映像は陽として捉えられるが、同時に、陰において、一体的に捉えられる。
 つまり、(美的な)映像においても、陰陽共振が背後・背景に作用しているのであり、それが直観・直覚されるということではないのか。
 音楽の場合は、音の陰陽共振であり、視覚の場合は光の陰陽共振ということになる。
 そうならば、音は陰音と陽音があり、光は陰光と陽光がある。そして、一般には、陰音や陰光は不可聴、不可視ということではないだろうか。
 言い換えると、生命ないし美的現象明在界は、背後・背景に、つまり、内在超越次元的に、陰陽共振暗在界をもつということになろう。
 今はここで留める。

追記:気であるが、気命と呼ぶ方いいのでは。生命も気命ということになる。気界が気命界になる。

追記2:感覚的次元とは結局、陰陽共振次元の同一性・明在的現象であり、例えば、自然の感覚的受容とは、自然の陰陽共振を暗在する同一性現象の受容ではないのか。
 つまり、自然の感覚受容とは、自然の本質である陰陽共振(気)の暗在(内在超越的本体)を受容していることではないのか。自然とは気の本体を暗在とした現象であり、人間の陰陽共振を本性とする感覚(視覚)は、自然を対象としたとき、その自然対象の暗在である陰陽共振=気を直観・直覚・受容しているということではないか。
 わかりやすく言えば、自然は陰陽共振=気が本体であり、それが、可視の現象と発現しているのであるが、同時に、暗在として、自然は存在しているのであり、人間の感覚(視覚)は、その陰陽共振=気的感受性によって、自然の本質である陰陽共振=気を感受するということではないか。プラトン哲学的に言えば、現象のイデア=エイドスを触視(ドゥルーズの用語)・感触するということである。(もっとも、直観・直覚されることもあるが、それは、希有な体験ではないだろうか。)
 今はここで留める。


2013年05月01日(Wed)▲ページの先頭へ
不連続的陰陽論7次元世界:太一1次元+陰陽渦円2次元+時空4次元:陰陽共振気と螺旋的生命物質体
不連続的陰陽論7次元世界:太一1次元+陰陽渦円2次元+時空4次元:陰陽共振気と螺旋的生命物質体

テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

後で詳述したいが、森の樹木を見て、螺旋を考えたが、それは、陽主導陰陽共振体である。しかし、不可視の世界には、陰主導陰陽共振体がある。それが陰陽円であるが、暗黒渦巻を形成しているので、陰陽渦円と呼ぶのが妥当だろう。
 そして、陰陽渦円と陰陽螺旋現象を即非様態と考えられる。パラレルである。可視の螺旋形態は同時に、不可視の陰陽渦円をもっていると考えられる。それは、内在的超越的次元に存すると考えられる。
 陰陽軸を考え、その中心を太一点(太極)とする。陰陽軸に直交する軸が考えられる。それをとりあえず、渦軸とする。陰陽軸と渦軸の平面に陰陽渦円が置かれることになる。しかし、この円盤は、不可視であり、内在的超越的次元(略して、内超次元)にあると考えられる。
 とまれ、内超次元の陰陽渦円と時空4次元における空間2次元は区別されなくてならない。
 前者は暗黒円であり、後者は現象平面である。
 気と言う場合、それは、前者の暗黒円、即ち、陰陽渦円に存していると思われる。現象螺旋を形成するのは、物質エネルギーであり、それは、気エネルギーではないだろう。つまり、気エネルギーが物質エネルギーに変換して、現象螺旋が形成されていると考えられる。しかしながら、気エネルギーすべてが物質エネルギーになるということではないと思う。
 陽主導の同一化によって気エネルギーが物質エネルギーになるが、陰主導の場合、気エネルギーはそのまま存していると考えられる。
 どうも、直観概念像(観念像)があいまいである。整理する必要がある。
 陰陽共振であるが、陽主導陰陽共振があり、それが、螺旋生命物質現象を形成し、陰主導陰陽共振があり、それは、不可視の渦巻、暗黒渦巻を形成する。
 だから、現象化とは、陽主導によるもの、簡単に言えば、陽化である。それに対して、暗黒渦巻化は陰化である。
 結局、陰陽力学は、二つの世界を同時創造するのである。
 しかし、陽化と陰化は非対称であると思う。陽化は実は、陰陽共振ではなく、陰陽同一性化である。あえて言えば、陰陽物質化である。
 本当の共振は、陰化にあると思われる。
 だから、陰陽共振の渦巻、渦円を螺旋にするのは、陽化である。
 このところは実に微妙である。陰陽渦巻、陰陽渦円を螺旋にすると言ったが、螺旋においては、陰陽渦巻のもつ陰陽共振はもうないのである。そこには、プラスとマイナスの力学が働いていると考えられるからである。つまり、物質現象がそこには存するということである。
 簡単に言うと、陰陽共振=陰陽渦巻(渦円)があり、陽化=同一性・物質化によって、螺旋体・螺旋生命物質体が形成される。
 前者は内超2次元に存し、後者は時空4次元(空間3次元)に存する。
 さて、問題の気であるが、それはどこに存するのか。
 内超2次元の陰陽共振=陰陽渦巻(渦円)には、当然、存すると考えられる。では、螺旋体・螺旋生命物質体に存するのか。
 螺旋体・螺旋生命物質体は物質界に存するのであり、物質界には、気は存しないと思う。
 あくまで、内超2次元に気は存すると思う。
 では、樹木や森の空気に気を感じるとはどういうことなのか。
 それは、樹木や森の空気には、気の根源である陰陽共振=陰陽渦巻(渦円)が内超(内在超越)しているので、主体の陰的感性を介して、気を感じるということではないだろうか。
 不可視の内超界=気界があるのであり、それを、樹木や森の空気を通して、感じるということではないだろうか。
 今はざっと言うが、MP(陰陽共振点)が樹木や森の空気があり、それを介して、陰陽共振=陰陽渦巻(渦円)を直感すると思われるのである。
 MP(メディア・ポイント=陰陽共振点)は、生命物質体のなんらかの中心に存するのであり、そこで気が発生していると考えられるのである。
 最後の問題は再検討したい。

追記:直観(暗黒心像)では、陰陽渦円は、現象界に重なっているのである。現象界の背後に存するのである。樹木の幹の背後に陰陽渦円は存し、その気が発動されているのである。
 言い換えると、陰陽渦円の陽化である螺旋体を肉眼では見ているが、同時に、その背後には、陰陽渦円が存して、気を発生させているのである。
 時空4次元を内在超越(内超)した不可視の陰陽2次元が存するのであり、それは陰の感性によって感ずるものなのである。
 視覚的には、螺旋は黄金比を形成しやすく、美的感覚を生み出すと言えよう。思うに、その美的感覚であるが、陰陽和合に拠るものであるが、果たして、螺旋形象が、陰陽共振気の美をもたらすのか、それとも、螺旋形象の美自体が美的感覚をもたらすのか。言い換えると、螺旋自体が美なのか、それとも、根源の陰陽共振が美なのか。
 音楽、歌で考えよう。これは明らかに、陰陽共振が歌の美をもたらすのである。つまり、歌声を介して、陰陽共振を感じて、美的感覚を得るのである。歌声自体に陰陽共振があるのであり、それが聞き手の陰陽イデア(陰陽観念精神体)と共鳴して、美を感じるのである。
 では、視覚の場合はどうなのか。樹木、森を見て、そこに陰陽共振を感覚するだろうか。
 樹木、森の視覚には、陰陽共振が存しているのか。思うに、螺旋形態は、陰陽共振の現象体であるから、樹木、森の現象視覚には、陰陽共振は存していると見ていいのではないだろうか。
 おそらく、陰陽共振をエイドスと呼んでもいいのではないだろうか。あるいは、イデアである。つまり、陰陽共振イデアである。これが、歌を、また、樹木、森、花を現象させると考えられる。
 そうすると、結局、現象に内在超越的に陰陽共振2次元が存するのである。それは、気界=イデア界である。
 しかし、そうならば、太一界をどう見るのか。それは、イデアのイデアの世界である。超イデア界と言えるのではないだろうか。
 今はここで留める。




ホロコスミクスと不連続的陰陽論(不連続的プラトニック陰陽共振論):東洋哲科学的グランド・セオリー

テーマ:全体理論:ホロコスミクスと不連続的陰陽論

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11519681787.html

不連続的陰陽論とホロコスミクスはかなり重なる可能性を感じる。
 以下のメビウスの輪であるが、不連続的陰陽論においても、中核を担っている。それは、陰陽共振のことである。これが、メビウスの輪になっているということである。
 また、トーラス像も共通すると言えよう。私は数式に詳しくないので、それについてはほとんど言えないが、フィボナッチ数列が出てくる点も不連続的陰陽論と共通しよう。後者は、黄金比を自然造形に見ているからである。

追記:以下、図4であるが、「空」は、太一(太極)を、「無」は陰主導陰陽共振宇宙=暗黒宇宙=不可視宇宙を、そして、「実」は陽主導陰陽共振宇宙=光の宇宙(生命物資雨宇宙)=可視宇宙を意味するように思える。


全体的宇宙像−ホロコスミクス
『月刊ザ・フナイ』2012年4月号


全体的宇宙像−ホロコスミクス(※1)


藤原 肇(フリーランス・ジャーナリスト/理学博士)

・・・

ホロコスミクスとは


 宇宙のすべてを支配する「直線から曲線への幾何学的な発展の理論化」という壮大な課題を達成するためには、ホロコスミクスの概念をあらわすことのできる「メタ・サイエンス」という用語を使用せざるを得ない(図4)。
 物理学者の使う「宇宙」という概念は意味があまりに限定されている。しかしながら、ホロコスミクスでは「宇宙」というのは、普遍的な宇宙システムのサブシステムでしかないことが明らかになる。
 この概念は超科学的な革命をもたらすはずである。(#5; Chang K & Fujiwara H.; 1994)
 ホロコスミクスの概念では、点は数学的なゼロ次元をあらわしているだけではなく、この特異点の向こう側には広大な「無」が広がっていることを示している。
 さらに、普遍的なシステムの彼岸には「空」が存在する。「無」は道教のカギとなる概念であるし、「空」は仏教哲学の本質である。「現実世界」はこの2つの問に存在している。「無」と「空」の問にある「現実世界」が伝統的な科学の基礎であった。


resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning!





【図4】ホロコスミクスをあらわした図。数理発想に基づいて概念化したホロコスミクスは、アインシュタインの相対性理論では排除されていた「超高速領域」を含むので、統一の場を考えるためのアプローチとして有効である。




ミンコフスキーの「世界線」と「幽霊層の場」の排除


 1905年、アインシュタインは特殊相対性理論の論文を発表した。その3年後、ハーマン・ミンコフスキー(リトアニア生まれのユダヤ系ドイツ人数学者。 1864〜1909)は、「世界線」を「零円錐(ゼロえんすい)」のモデルを用いて定義し、アインシュタインの理論をより明快な概念図であらわした。
 しかし、アインシュタインーミンコフスキーモデルは光速を超える領域の存在を無視した。なぜなら、零円錐(ゼロえんすい)は、光速と同速度であるフォトン(光子=こうし)の世界線に限定されていたからだ。ちなみに、光速は30万km/秒である(図5)。


resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning!


【図5】過去、現在、未来をあらわす「零円錐(ゼロえんすい)」。

・・・

ホロコスミクスは、「無」と「空」をそれぞれの極線として収縮−拡大運動を行い、フォトンの「世界線」を超えて、「現実世界」と「幽霊層の場」を形成する多次元の概念で構成されている。
 「幽霊層の場」と現実世界は、始まりと終わりがないメビウスの輪(※11)に統合されて考えられるべきである。このメビウスの輪こそ、未発見のものも含めた宇宙すべての「究極の素粒子」を発生させている原理である。


resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning!

(尚、上画像はクリックすると拡大する)

ホロコスミクスの場の数式


 アインシュタインの一般相対性理論は、「場の方程式」を基礎にしている。これは演算子「G」が表わす。これをどの計量テンソル(※12)に適用する場合でも、Gを演算子として扱うことができる。
 するとGAx(アイシュタインテンソル)を得ることができる。この「場の方程式」は以下である。
 GAx=Mx.
 何も存在していない真空では方程式は以下になる。
 GAx=0
 重力場を支配する方程式も存在する。これを記述すると、物理学ではもっとも難解な10個の部分的な方程式になる。(#6; Synge, J.L.;1970)
 しかしながら、「幽霊層の場」には「場の方程式」は適用できない。「幽霊層の場」は自然の広大さそのものだからである。
 ここでは、メビウスの輪の不思議と統一性の特異点を見ることができる。「無」と「空」の間に発見できる現実世界は、以下のように表現できるホロコスミクスを構成する。
 【図6】は、ホロコスミクスの無限な発展を説明している。これは宇宙の基本原理にかかわる思想である。この原理こそ、宇宙の謎の法則を支配する原理である。


【図6】ホロコスミクスの無限な発展をあらわす式。

http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/funai201204.html
宇宙巡礼


2013年04月28日(Sun)▲ページの先頭へ
ホロコスミクスと不連続的陰陽論(不連続的プラトニック陰陽共振論):東洋哲科学的グランド・セオリー
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11519681787.html

ホロコスミクスと不連続的陰陽論(不連続的プラトニック陰陽共振論):東洋哲科学的グランド・セオリー

テーマ:グランド・セオリー:無双陰陽コスミクス 不連続的陰陽論とホロコスミクスはかなり重なる可能性を感じる。

 以下のメビウスの輪であるが、不連続的陰陽論においても、中核を担っている。それは、陰陽共振のことである。これが、メビウスの輪になっているということである。
 また、トーラス像も共通すると言えよう。私は数式に詳しくないので、それについてはほとんど言えないが、フィボナッチ数列が出てくる点も不連続的陰陽論と共通しよう。後者は、黄金比を自然造形に見ているからである。

追記:以下、図4であるが、「空」は、太一(太極)を、「無」は陰主導陰陽共振宇宙=暗黒宇宙=不可視宇宙を、そして、「実」は陽主導陰陽共振宇宙=光の宇宙(生命物資雨宇宙)=可視宇宙を意味するように思える。


全体的宇宙像−ホロコスミクス
『月刊ザ・フナイ』2012年4月号


全体的宇宙像−ホロコスミクス(※1)


藤原 肇(フリーランス・ジャーナリスト/理学博士)

・・・

ホロコスミクスとは


 宇宙のすべてを支配する「直線から曲線への幾何学的な発展の理論化」という壮大な課題を達成するためには、ホロコスミクスの概念をあらわすことのできる「メタ・サイエンス」という用語を使用せざるを得ない(図4)。
 物理学者の使う「宇宙」という概念は意味があまりに限定されている。しかしながら、ホロコスミクスでは「宇宙」というのは、普遍的な宇宙システムのサブシステムでしかないことが明らかになる。
 この概念は超科学的な革命をもたらすはずである。(#5; Chang K & Fujiwara H.; 1994)
 ホロコスミクスの概念では、点は数学的なゼロ次元をあらわしているだけではなく、この特異点の向こう側には広大な「無」が広がっていることを示している。
 さらに、普遍的なシステムの彼岸には「空」が存在する。「無」は道教のカギとなる概念であるし、「空」は仏教哲学の本質である。「現実世界」はこの2つの問に存在している。「無」と「空」の問にある「現実世界」が伝統的な科学の基礎であった。


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【図4】ホロコスミクスをあらわした図。数理発想に基づいて概念化したホロコスミクスは、アインシュタインの相対性理論では排除されていた「超高速領域」を含むので、統一の場を考えるためのアプローチとして有効である。




ミンコフスキーの「世界線」と「幽霊層の場」の排除


 1905年、アインシュタインは特殊相対性理論の論文を発表した。その3年後、ハーマン・ミンコフスキー(リトアニア生まれのユダヤ系ドイツ人数学者。 1864〜1909)は、「世界線」を「零円錐(ゼロえんすい)」のモデルを用いて定義し、アインシュタインの理論をより明快な概念図であらわした。
 しかし、アインシュタインーミンコフスキーモデルは光速を超える領域の存在を無視した。なぜなら、零円錐(ゼロえんすい)は、光速と同速度であるフォトン(光子=こうし)の世界線に限定されていたからだ。ちなみに、光速は30万km/秒である(図5)。


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【図5】過去、現在、未来をあらわす「零円錐(ゼロえんすい)」。

・・・

ホロコスミクスは、「無」と「空」をそれぞれの極線として収縮−拡大運動を行い、フォトンの「世界線」を超えて、「現実世界」と「幽霊層の場」を形成する多次元の概念で構成されている。
 「幽霊層の場」と現実世界は、始まりと終わりがないメビウスの輪(※11)に統合されて考えられるべきである。このメビウスの輪こそ、未発見のものも含めた宇宙すべての「究極の素粒子」を発生させている原理である。


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(尚、上画像はクリックすると拡大する)

ホロコスミクスの場の数式


 アインシュタインの一般相対性理論は、「場の方程式」を基礎にしている。これは演算子「G」が表わす。これをどの計量テンソル(※12)に適用する場合でも、Gを演算子として扱うことができる。
 するとGAx(アイシュタインテンソル)を得ることができる。この「場の方程式」は以下である。
 GAx=Mx.
 何も存在していない真空では方程式は以下になる。
 GAx=0
 重力場を支配する方程式も存在する。これを記述すると、物理学ではもっとも難解な10個の部分的な方程式になる。(#6; Synge, J.L.;1970)
 しかしながら、「幽霊層の場」には「場の方程式」は適用できない。「幽霊層の場」は自然の広大さそのものだからである。
 ここでは、メビウスの輪の不思議と統一性の特異点を見ることができる。「無」と「空」の間に発見できる現実世界は、以下のように表現できるホロコスミクスを構成する。
 【図6】は、ホロコスミクスの無限な発展を説明している。これは宇宙の基本原理にかかわる思想である。この原理こそ、宇宙の謎の法則を支配する原理である。


【図6】ホロコスミクスの無限な発展をあらわす式。

http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/funai201204.html
宇宙巡礼


2013年04月27日(Sat)▲ページの先頭へ
陰主導陰陽共振暗黒宇宙は太一に通じている:暗黒太陽ダークサンは宇宙心臓太陽:血・気の心臓太陽
テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

宗教の光とは何ぞ哉:太陽とは何か:暗黒太陽ダークサンが太陽神(お天道様、天照大神)である
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11517667656.html

先に以上のように言ったが、結局、陰主導陰陽共振の暗黒宇宙、暗黒太陽であるが、それは、イメージでは暗黒螺旋である。そして、そこにプラトニック・エロースの原形がある。そして、それは、一者である太一(原イデア・大イデア・プロトイデア)に通じている。一であり、二である暗黒螺旋、陰陽共振である。
 トリスタンとイゾルデの神話であるが、その原形もそこにあると思う。暗黒陰陽共振に存すると思うし、チベット密教の図像の意味もそこにあると思う。
 タントラの意味もそこにあると思う。それは、性的であるが、本質は霊的なのである。性霊的という言葉を使用したい。
 これを通常の性交と捉えるのは、まったくの間違いである。言うならば、霊的性交である。肉体的性交は次元が低いものである。それは、動物的次元のものである。
 この暗黒陰陽共振(暗黒螺旋)、暗黒エロースは、気的植物精神的なものだと思う。だから、ダーク・グリーン・エロースとも呼べよう。
 そして、ここにこそ、宇宙・自然の本質があると思う。それは、母権的本質である。父権主義は物質主義的なのである。
 そう、神話から言うと、二つの太陽がある。母権的太陽と父権的太陽である。前者がダークサンであり、後者がライトサンである。血の太陽、ブラッド・サンと物質の太陽、マテリアル・サンである。
 そう、日本人が太陽を赤く染めるのは、血の太陽、ブラッド・サンを直感している(いた)からではないだろうか。血の太陽、そう、心臓の太陽の鼓動を感じている(いた)からではないだろうか。
 そう、ダークサンは正に、宇宙の心臓の太陽であり、人間の心臓と通じていよう。
 正に、マクロコスモス=ミクロコスモスである。血と気の道である。
 そう、血とは何か、という大問題がある。それは、気と当然、通じている。
 私の直感では、血即気であるが、正確には違いがあるだろう。
 暗黒気の物質的現象が血である。気が血となったのだろう。
 すると、免疫力であるが、それは、やはり、気の生命力の有力な一部と考えられる。
 そう、ダーク陰陽共振力の生命分子的現象ではないだろうか。太陽が、自然が、樹木が、森が、海が、免疫力を強化するというのは考えられるし、物質的には、発酵食品がそれを強化しよう。
 飯山一郎氏の唱える乳酸菌免疫力強化であるが、それも暗黒気的血の生命物質的強化に通じると考えられる。
 今は、単に直感的思考に留める。

追記:D.H.ロレンスの文学・哲学(文哲学)であるが、陰主導陰陽共振宇宙の力・源泉を捉えていると考えられる。タントラ的であるが、上述にあるように不連続的プラトニック陰陽論で説くタントラ的なものである。
 というか、私の不連続的プラトニック陰陽理論は、ロレンス文哲学を一つの中心的土台にしているのである。

参照:
トリスタンとイゾルデ - Wikipedia
トリスタンとイゾルデ (楽劇) - Wikipedia

参考:チベット密教に関連して

輪(りん)
http://www.kikou-c.com/kiso/kiso-chibet4.html

チベット密教と気功

タントラライフ - セックスから超意識へ
http://www.tantralife.jp/

タントラ の画像検索結果


2013年04月25日(Thu)▲ページの先頭へ
宗教の光とは何ぞ哉:太陽とは何か:暗黒太陽ダークサンが太陽神(お天道様、天照大神)である
テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

朝早かったので、もう寝ようと思うが、一言述べよう。
 宗教の光とは何か。これまで不連続的陰陽論の視点から見ると、根源は闇である。というか、不可視の世界である。
 そこには、光はない。
 そう、闇から光が生まれると考えられる。
 否、闇の宇宙があり、光の宇宙がある。平行している。
 否、光は闇を内包している。
  
眠くなったので、ここでいったん止める。

追記:D.H.ロレンスは、ダーク・サンdark sunと言った。不可視の太陽、暗黒の太陽である。そして、我々が見ている光とは、その背中に過ぎないと述べている(『てんとう虫』のディオニス卿の言葉)。
 不可視の太陽・暗黒の太陽とは、これまでの考察から、暗黒宇宙に相当するだろう。渦巻暗黒宇宙がダーク・サンに相当するのである。
 そして、可視の宇宙は、陽の同一性=物質化による宇宙である。陽が陰に自己を印刻しているのである。つまり、陰への自己反射としての可視宇宙である。これが、可視の太陽に相当しよう。
 陰を鏡とすると、その反射を見ているのであり、陰自体は見ていないのである。暗黒宇宙、暗黒太陽dark sunは見ていないのである。
 言い換えると、暗黒宇宙・暗黒太陽の表面の光・物質しか見ていないのである。そう、本体が暗黒宇宙・暗黒太陽であるのに、その表層の光・可視宇宙・可視太陽・物質現象しか見ていないのである。
 しかし、この暗黒は実は、光を超えた光ではないのか。黒々とした「光」ではないのか。
 私がかつて言った超越光、超光とは、それに通じるのではないのか。私は光に超越光、超光を感じると言ったが、それは何か。
 人間の知覚には、陰の知覚がある。無意識の知覚である。そこに暗黒宇宙・暗黒太陽があり、その闇の炎が陽の光に洩れているのではないだろうか。
 そう、思えば、若い頃、真夏の海岸でぎらぎら輝く太陽を見上げたとき、暗闇を感じた。それも、暗黒太陽の漏出ではないのか。
 この暗黒太陽こそ、宗教の本当の光ではないだろうか。通常の光ではないはずである。キリストの光も暗黒太陽ということになろう。
 では、太陽とは何かという問いに答えてみよう。
 太陽は、暗黒太陽の陽的反射ではないだろうか。暗黒太陽の光の表面ではないだろうか。
 明るい太陽の本体は暗黒太陽ということになる。
 では、暗黒太陽dark sunを知覚できるのか。あるいは、それをなんらか感じることはできるのか。
 ダーク・サンは生成・生命の根源である。それは、なんらか直感できるのではないだろうか。
 そう、宗教の原始形態である太陽崇拝、太陽神信仰であるが、それは、ダークサン、暗黒太陽崇拝ではないだろうか。キリストはダーク・キリスト、暗黒キリストということになるだろう。天照大神も天照暗黒大神だろう。
 仏陀の光も暗黒太陽の「光」だろう。
 ロレンスはダーク・ゴッド、暗黒神と言ったが、その通りだろう。暗黒が本当の光なのである。
 
光は暗く、
闇は明るい

そのようなことを19才のとき私は言ったが、それは正鵠を射ていたと考えられる。
 以上のように本件を解明した。

参照:
THE LADYBIRD - Project Gutenberg Australia

'This is what I was taught. The true fire is invisible. Flame, and the red fire we see burning, has its back to us. It is running away from us. Does that mean anything to you?'

'Yes.'

'Well then, the yellowness of sunshine--light itself--that is only the glancing aside of the real original fire. You know that is true. There would be no light if there was no refraction, no bits of dust and stuff to turn the dark fire into visibility. You know that's a fact. And that being so, even the sun is dark. It is only his jacket of dust that makes him visible. You know that too. And the true sunbeams coming towards us flow darkly, a moving darkness of the genuine fire. The sun is dark, the sunshine flowing to us is dark. And light is only the inside-turning away of the sun's directness that was coming to us. Does that interest you at all?'

'Yes,' she said dubiously.

'Well, we've got the world inside out. The true living world of fire is dark, throbbing, darker than blood. Our luminous world that we go by is only the reverse of this.'

'Yes, I like that,' she said.

'Well! Now listen. The same with love. This white love that we have is the same. It is only the reverse, the whited sepulchre of the true love. True love is dark, a throbbing together in darkness, like the wild-cat in the night, when the green screen opens and her eyes are on the darkness.'

http://gutenberg.net.au/ebooks02/0200821h.html


2013年04月23日(Tue)▲ページの先頭へ
作業仮説:陰は内臓情報を、陽は頭脳情報を内在する:陰=他者=肚を肯定して、陽=自我=頭の独裁から脱却する:気的身体理性の形成の最重要性
作業仮説:陰は内臓情報を、陽は頭脳情報を内在する:陰=他者=肚を肯定して、陽=自我=頭の独裁から脱却する:気的身体理性の形成の最重要性

思うに、陰が内臓神経系を、陽が頭脳神経系(脊髄神経系)を形成する「イデア」ではないだろうか。先の考察【二つの宇宙:陽主導陰陽共振宇宙(光・可視界)と陰主導陰陽共振宇宙(闇・不可視界):気←原気→太霊
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11515380980.html】をミクロコスモスに適用すれば、陰主導陰陽共振宇宙(暗黒宇宙・不可視宇宙)が内臓神経系に、陽主導陰陽共振宇宙(光の宇宙・可視宇宙)が頭脳神経系(脊髄神経系)に結びつくことになる。
 思うに、両宇宙それぞれに、イデア情報があると思われる。簡単に言えば、陰イデアであり、陽イデアである。
 (今想起したが、空海の両界曼荼羅であるが、胎蔵界曼荼羅が陰イデア、金剛界曼荼羅が陽イデアに関係していると単純には思うが、少し違うような感じもある。)
 今述べたいのは、情報、イデア知の問題である。それが、生命宇宙の形態を構成する根源知であると考えられるからである
 陰イデアと陽イデアという言い方は、二元論的なので、陰陽イデアと陽陰イデアにした方がいいだろう。陰陽イデアとは、陰主導陰陽共振を、陽陰イデアとは陽主導陰陽共振を意味する。(あまりよい用語ではないが、とりあえずそうする。)
 結局、陰陽イデアは気的有機体を構成し、陽陰イデアは生命物質体を構成するのではないだろうか。
 そして、前者は内臓神経系に関連し、後者は頭脳神経系(脊髄神経系)に関係するということではないだろうか。
 ここで大胆に作業仮説すると、陰主導陰陽共振=陰陽イデア⇒気的有機体⇒内臓神経系のミクロコスモスは、太陽系マクロコスモスに対応するのではないだろうか。
 しかし、問題は微妙である。陰主導陰陽共振は渦巻暗黒宇宙であり、それは、可視宇宙ではないからである。
 だから、徹底して二重に考察する必要があると思われる。つまり、不可視宇宙系と可視宇宙系である。だから、ミクロコスモス=マクロコスモスもそのように二重に見るべきである。
 だから、内臓神経系「宇宙」を考えるとき、それは、あくまで、不可視宇宙の問題であり、頭脳神経系(脊髄神経系)「宇宙」は可視宇宙に関係するということになる。
 しかし、先の検討から、前者の物質体として後者があると言うことであり、前者がエッセンス、後者が現象体と見ることができよう。言い換えると、気的宇宙と生命物質的宇宙の関係である。
 さて、ここで自我を考えると、それは、同一性中心主義であるから、陰陽イデア体である霊魂を阻害すると考えられる。端的に言えば、陽中心主義なので、陰が阻害されるのである。そのために、内臓神経系だけでなく、頭脳神経系も阻害されるということになるのではないだろうか。
 カント哲学で言えば、頭脳神経系は超越論的形式である。これは、悟性=知性の形式であるが、自我によって、陽が陰を否定するようになるので、陰への刻印としての陽の悟性=知性が阻害されると考えられるのである。
 つまり、陽によって陰を否定することは、他者が阻害されるのであり、そのため、陽の「知」は現実離れしたもの、虚妄・妄想・錯誤したものになると考えられるのである。
 結局、科学的精神も、自我をコントロールできない限り、自我に支配されてしまい、悪魔的に利用されてしまうのである。(自我はルドルフ・シュタイナー的に言えば、アーリマンである。)
 とまれ、以上から簡単に、陰陽イデアと陽陰イデアについて触れたに過ぎず、より具体的に検討しなくてはならない。
 最後に一言付け加えれば、現代人類にとって、陰の最重要性を確認する必要がある。陽=自我の支配が悪魔的破壊・狂気をもたらしているからである。陰=他者を積極的に肯定することによって、陰陽共振を、意識的に、賦活させる必要があるのである。そう、わかりやすく言えば、陰は内臓、肚である。肚の主体性が必要なのである。
 しかしながら、正確に言えば、肚を基盤にしつつも、気的身体理性の形成こそが、最重要なのである。それにより太一と共鳴して、宇宙全体と響き渡ることができるのである。コズミック・シンフォニーの誕生である。


2013年04月21日(Sun)▲ページの先頭へ
PS理論から不連続的陰陽論へ:不連続的陰陽論の世界をいかに概念図化するのか
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11515496821.html


PS理論から不連続的陰陽論へ:不連続的陰陽論の世界をいかに概念図化するのか

テーマ:不連続的差異共振論:不連続的陰陽イデア論

二つの宇宙:陽主導陰陽共振宇宙(光・可視界)と陰主導陰陽共振宇宙(闇・不可視界):気←原気→太霊

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11515380980.html

先に以上のように述べたが、この世界をどのように作図すべきか。
 次の概念図の立体座標を参考にしよう。

<無双PS原理三次元世界:Ver4.1>
                

               虚軸y軸:陽・凸i・時間形式・自己
                                /
         超越軸z軸:太極・霊界       /
               |           /
               |         /
               |       /
U:物質認識       |     /    T:頭
               |   /
               | /
−1__←重力波_MP・胸_電磁波⇒_+1実軸x軸
地・自我       /  |            天・個
           /     |
V:肚     /      |    W:精神認識(魂認識)
      /         |
    /           |
陰・凹i・空間形式     |
・他者           |

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11324260617.html


今の図とだいぶ違うが、三次元に注目したい。
 z軸とy軸の平面に陰陽円(陰陽共立)がある。そして、太一は、z軸の原点(MP)ではないだろうか。それとも、z軸の方向なのか。
 次に、螺旋的生命物質現象であるが、それは、思うに、四元(しげん)数的に発現するとみる。とまれ、x軸のプラスが樹木的垂直方向である。これはこれまでの考え通りである。これは、先の以上の考察では、陽主導による陰陽共振である。
 問題は、陰主導による暗黒渦巻(宇宙)の位置である。これをどう布置するのか。
 x軸のプラスの方向が螺旋的生命物質体の方向ならば、x軸のマイナスの方向はダークマターの方向と思われる。
 とまれ、x軸は物質、マターの方位である。しかるに、陰主導の暗黒渦巻は物質ではないのである。
 どうも作図が難しい。今のままでは、陰陽円と暗黒渦巻が重なってしまうようになるのである。
 思うに、ひょっとしたら、陰陽円と暗黒渦巻は一致してもいいのかもしれない。
 考えてみると、陰陽共立はまだ、円を形成していないのではないだろうか。陰主導の陰陽共振が陰陽円を形成するというのは考えられるし、それが、暗黒渦巻というのも考えられるのである。
 そう、そこで想起するのは、『老子』である。そこでは、玄牝(げんひん)が根源に存するのである。黒い雌であるが、それは、陰主導陰陽共振=陰陽円=暗黒渦巻に適合する表現ではないだろうか。
 そのように作業仮説すると、陰主導陰陽共振はz軸とy軸における陰陽円に存するということになった。
 『スライブ』におけるトーラス像で言えば、やはり、真ん中の渦巻の存する円が陰陽円であり、渦巻は正に、暗黒渦巻と考えられる。
 しかしながら、陰陽円は同時に陰陽メビウスでもあろう。
 とまれ、以上から不連続的陰陽論の世界図は明快になったと言えよう。

resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning!

 

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参考:
Tue, October 30, 2012
拡大ガウス平面路線VS四元数路線:時空軸一次元+空間二次元VS時空軸一次元+空間三次元
テーマ:不連続的差異共振論:不連続的陰陽イデア論 無双PS原理を再度ガウス平面から構築する:時空軸と平面二次元の構成する現象時空三次元体:超ガウス
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11392233889.html

また、揺り戻しで、四元数路線の方がいいように思える。ただし、実軸は、時空軸=天地軸である。
 そして、弦巻植物は、それを中軸にして、螺旋的空間三次元を形成するということになる。

追記:樹木の場合(例えば、ケヤキ)、時空軸=天地軸に幹が来て、螺旋的空間三次元に枝葉が来るのではないだろうか。
 つまり、樹木は時空一次元と空間三次元の「時空・空間」四次元体となる。

追記2:時空一次元+空間三次元という時空/空間四次元体という概念は、拡大ガウス平面路線と四元数路線の合体・結合と言えるだろう。拡大ガウス平面-四元数的無双PS原理ということになる。


追記3:そうすると、まったく虚数が拡大ガウス平面と四元数で支離滅裂になる。これではまったく誤謬である。
 やはり、霊数凸(陽)と凹(陰)が必要になるだろう、とりあえず。

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<無双PS原理:Ver6.3.0>

         陰陽(円)

          陽(凸):自己
          |
          |
          |
          |
          |
          ★
_______・_______実軸(時空軸)+1
          ☆
          |
          |
          |
          |
          |
         陰(凹):他者

【但し、・は太極点(内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 そして、陰陽(円)は軸ではなく、多次元、無限次元、無次元であり、陽=自己と陰=他者で意識、精神、魂を形成し、生命気螺旋とは区別される。
 尚、太極点から発出する生命気螺旋における三つの虚軸(空間三次元)は記入していない。】
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11392346422.html


二つの宇宙:陽主導陰陽共振宇宙(光・可視界)と陰主導陰陽共振宇宙(闇・不可視界):気←原気→太霊
二つの宇宙:陽主導陰陽共振宇宙(光・可視界)と陰主導陰陽共振宇宙(闇・不可視界):気←原気→太霊

テーマ:不連続的差異共振論:不連続的陰陽イデア論

陽主導の物質形成と陰陽共振:物質宇宙と暗黒宇宙:光と気と闇
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11515239556.html

先に以上の、理論的にしどろもどろの試行錯誤を行なったが、少し冷静に考え直した。
 問題は生命物質体の形成力学の的確な認識である。
 これまで、生命物質形成は陽の同一性力学に拠ると述べてきたのである。そして、その力学は陰も同一性化して、マイナス(負)にするのである。つまり、陽の同一性化はプラス(正)であり、同一性力学は、陰陽をプラスとマイナス(正負)の極性に転換すると述べてきたのである。
 この仮説に基づいて議論しなくてはならないのであり、そうでないと、秩序立った、首尾一貫した、整合的な理論考察はできなくなるのである。
 では、それに従えば、陽主導で生命物質現象が形成されるのであり、その内部には、陰陽共振が内包されていると考えられる。
 問題は、内包される陰陽共振作用である。これをこれまで、気的螺旋と見てきたのである。
 先の議論と関係させると、この陰陽共振と陰主導の共振との関係はどういうものかということが問題である。
 これまでの直観的前提では、陰陽共振とは、陽主導でも、陰主導でもない、陰陽均衡・平衡の作用である。陰が陽に差し込み、同時に、陽が陰に差し込み、相互的に両者差し込み、差し込まれる相互作用・相互形成があり、それが、気的螺旋体と考えるのである。
 この気的螺旋体に陽主導の同一性力学が作用して、生命物質現象が生起すると考えるのである。
 では、気的螺旋体に陰主導の力学が作用したらどうなるのだろうか。ここが問題の核である。(マルクスの常套句に倣えば、「ここがロドスだ、ここで跳べ」である。)
 ここらへんの問題に関しては、確かに、私のイメージの混乱、あいまいさ、錯綜がある。
 思うに、螺旋的生命物質体とは、そもそも陽主導の陰陽共振力学によって形成されるのではないのか。
 陰陽均衡ならば、生命物質体の形成へ発動・始動しないのではないだろうか。つまり、陰陽イデアのままではないだろうか。言い換えると、陰陽共立、差異共立のままではないだろうか。アリストテレス哲学では、デュナミスに相当しよう。
 陰陽均衡が破れることによって、動きが生起して、生命物質体への形成が為されるということではないか。
 そう考えると、陰陽均衡による陰陽共振はあり得ないことになる。それは、陰陽共立のみ、静的な陰陽共立のみが存するということになる。
 そのように作業仮説してさらに考察を進めよう。
 ということで、陽主導で螺旋的生命物質体が形成される。つまり、螺旋的生命物質現象が生まれる、「創造」されるということである。(記紀神話の天之御中主神と高皇産霊神と神産霊神の三者による造化を想起する。最初が太一であり、後の二者が陰陽であろう。)
 では、陽主導とは正反対の陰主導の場合ーこれが一番の問題であるがーどうなるのか。
 当然、考えられるのは、これは、生命物質体、螺旋的生命物質現象を形成しないということである。
 考察を展開する前に、確認しておかなくてはならないのは、陽主導に拠る螺旋的生命物質現象であるが、そこにおいて、気はどう作用しているのかということである。
 思うに、やはり、内部というか軸、核、コアに気的螺旋のようなものが存していると思う。それは、陰陽均衡・陰陽共立の延長であるように思えるのである。
 ここで、映画『スライブ』のトーラス、アップルの形を想起するといいのである。以下の上部半分の真ん中に軸に沿って螺旋が形成されているが、この軸と螺旋が、今述べた陰陽均衡・陰陽共立の延長のように思えるのである。しかしながら、ここには、時間が作用しているのだろう。軸ないし螺旋となるには、時間が作用していると思う。時間については別に検討したい。

o0680038311952983128.jpg


(THRIVE Japanese) スライブ―いったい何が必要になるのか - YouTube

 さて、検討を進めよう。
 本考察の核心の問題、陰主導の力学は何をもたらすのかを検討しよう。
 以上の考察から、当然、陰陽均衡・陰陽共立をそれも引き継ぐのは確かと考えられる。言い換えると、原螺旋力学をもつということである。それは、渦動力学と言えるのではないだろうか。螺旋の根源としての渦動・渦流・渦巻・渦である。(それは、上画像のトーラスの真ん中の渦巻で描かれているように思われる。)
 今考えようとしていたが、イメージが湧かないので、昨日の森の直観ヴィジョン的思索を借りれば、陰主導の陰陽共振宇宙は、暗黒渦巻宇宙である。螺旋より渦巻である。
 そう、陽の主導性がまったくないので、同一性が成立しないのであり、物質形成が為されないのである。これは、陰陽共立よりも、その意味で徹底している。陰陽共立の場合は、まだ、陽の主体性があるので、原物質性があるだろう。
 しかるに、陰主導になると、まったく陽の主体性がなく、原物質性もなくなるのである。つまり、前物質性がそこにはあると思われる。
 陰陽共立が気であるなら、陰主導のもたらすものは、気ではないだろう。
 精緻に考察しよう。陰陽共立の力は、気というよりは、原気である。陽主導によって、気へと展開するということではないかと思う。
 では、陰主導の場合、この原気が何かに転換するということになるだろう。何になるのか。
 直観では、太一の「気」である。ならば、太気、太一気、太極気である。あるいは、超気である。
 気という言葉を使用すると、陽主導の場合と混同するので、ここで霊という言葉を使用する。
 すると、陰主導によって、原気は太霊、太一霊になるのではないだろうか。
 つまり、正に、太一・太極(造語して、祖一、祖極、原一、原極)と一体となるのではないだろうか。
 そのように考えて、整理すると、陽主導によって、原気が気となり、螺旋的生命物質現象が形成される。
 それに対して、陰主導によって原気が太霊となり、暗黒渦巻が形成される。
 では、この太霊であるが、それは、太一と一致するので、それは、キリスト教的に言えば、聖霊となるのではないだろうか。また、プラトン哲学で言えば、天上的エロースとなるだろう。
 ここで、キリスト教三位一体の用語に即して言うと、

父(ヤハウェ)=陽・・・「風」、「空」

子(キリスト)=陰・・・「海」

聖霊=太霊

となるのではないだろうか。
 しかし、ここには、気ないし原気はない。
 とは言え、気は父から生まれるだろう。そして、原気に当たるものは、ないようだ。
 思うに、キリストから流れる「水」とは、聖霊=太霊ではないだろうか。
 そう、それで想起するのは、宝瓶宮(水瓶座)の水である。それは、「海」の水ではなく、聖霊=太霊ではないだろうか。調和というより、和解、和共、和融、和合、等を意味しよう。
 これで、ひとまず本問題の解明をここで終える。




陽主導の物質形成と陰陽共振:物質宇宙と暗黒宇宙:光と気と闇

テーマ:不連続的差異共振論:不連続的陰陽イデア論

今日も森で考えた。約二時間半いた。
 今は簡単に触れる。考えたのは、陽主導によって物質が形成されるということであり、陰陽共振は気的螺旋を形成するということである。
 しかしながら、陰主導の場合はどうなるのかは考えなかった。
 そこで整理すると、

1)陽主導の場合
2)陰陽均衡共振の場合
3)陰主導の場合

が考えられる。

 1は物質形成を意味すると思う(今の段階)。
 2は気的生命体ではないだろうか。
 3は不明である。

森の中での直観を思い出すと、陽主導で物質形成があり、陰主導で不可視の気的生命体(気の身体)が形成されるというものだったと思う。
 
 ところで、今、思ったのであるが、陰陽共振体がある。その陽の面が物質で、陰の面が太一に通じるのではないだろうか。
 つまり、陰陽共振体が生命体、つまり、物質的生命体である。物質体は陽の力が形成するのではないか。
 陰が主導すると、真に共振して、気的螺旋になるのではないのか。
 
 どうも混乱している。今日は疲れているので、ここでやめる。元気なときに再考したい。

追記:どうもすっきりしないので、森の思考を辿る。
 思ったのは、どうして、陰に太一というかコスモス(宇宙)が感じられるのか、ということである。これは、以前、何度も考えたことであるが、再考である。
 結局、陽中心だと物質現象が支配的であり、それは、コスモスにはならないのである。個物の世界に過ぎないのである。
 陰は、陽の物質性から抜け出ているので、気的身体理性に差す太一を感じるのではないだろうか。その一(いつ)性がコスモス(宇宙)を感じさせるということではないのか。
 身体理性の場合は陽極、陽の側面があるので、完全にはコスモスを感じないと思うのである。
 はっきりとすべきは、陰に感じるコスモスとは、陽主導による物質的宇宙とは異なるということである。二つの宇宙があるということである。現象宇宙(可視宇宙)と暗黒宇宙(不可視宇宙)である。(思えば、かつて、私は両者を一致させていた。陰に感じるコスモスは可視の宇宙と一体であると感じていた。)
 この二つの宇宙であるが、物質宇宙・可視宇宙は、陽主導に拠るもので、暗黒宇宙・不可視宇宙は陰主導に拠るものではないだろうか。
 問題は陰陽均衡の場合はどうなのかということである。
 ひょっとして、均衡の場合は動かなくなるのではないだろうか。静止するのではないだろうか。これはおいておく。
 とまれ、二つの宇宙であるが、両者は平行していると思われる。気の宇宙と言ったら、当然、暗黒宇宙・不可視宇宙であろう。
 以上が、今日の森における思考を想起したものであるが、それは、これまでの陰陽共振としての生命体の概念とは異なると言えよう。
 どうも次のように整理できるかもしれない。
 これまで述べてきた陰陽共振としての物質生命体であるが、そこにおいて、陽主導的側面が物質体であり、生命体とは、陰陽共振的螺旋に存する。
 しかし、以上で述べた陰主導による暗黒宇宙・不可視宇宙であるが、それは、物質的生命体とは異なるのである。
 D.H.ロレンスが『死んだ男(逃げた雄鶏)』で述べた、「宇宙の暗い薔薇」のように思えるのである。
 今日、宇宙論で問題になっているダークマターはここに関係しているのではないのか。
 とまれ、そうすると、気と暗黒宇宙・不可視宇宙との関係はどうなるのだろうか。
 陰主導では、ダークエネルギーが生まれるということなのだろうか。
 そうすると、物質エネルギー(光)と気とダークエネルギーの三種類のエネルギーがあることになる。
 複雑怪奇になってきているので、とりあえず、ここで留める。


2013年04月20日(Sat)▲ページの先頭へ
身体理性(気的身体理性)と植物生命イデア:陰陽界面と大イデア:太一⇔身体理性⇔陰陽分極
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11514701550.html

テーマ:不連続的差異共振論:不連続的陰陽イデア論

今は余裕がないので、ポイントだけ記す。
 以下のように、陰と陽を結ぶ身体理性(気的身体理性)を先に考えた。これは第3のものである。
 では、これと大イデア=植物生命イデアはどう関係しているのか。
 当然、繋がっているものである。つまり、端的に、身体理性=大イデア(太一イデア)ということになる。
 しかし、果たしてそうか。
 身体理性は陰と陽を繋いでいる。つまり、陰極と陽極をもつ理性である。思うに、これは、太一(太極)ではないのか。太一が分極化して、陰陽となる。その様態が身体理性にあるのではないだろうか。
 問題は一(いつ)と陰陽分極・二との有り様である。
 結局、身体理性は、一(いつ)でありつつ、二なのである。この「矛盾」をどう説明するのか。
 思うに、一は超越次元にあり、二は心的現象次元にあり、その中間に次元変換点があるということではないだろうか。次元変換点であるが、それは、これまでの記述では、MP(メディア・ポイント)に当たるだろう。
 直観では、トンネルのようなものである。上部では、一であるが、下部では二なのである。
 そう、即非様態と見るといいのだろう。一であり、且つ、二であるという様態である。
 問題は、一と二が接しているのか、否かである。
 思うに、接していない。超越的一が、次元下降的に、二となるのであるが、一と二は一つなのである。
 やはり、内在的超越性という概念が適切なようである。
 そして、即非である。一であり、同時に、二である。しかし、一と二は、当然、異なるものであり、一致しない、接しない。
 しかし、身体理性とは、いわば、一(太一・太極)と二(分極・陰陽)を繋げている媒介点、そう、メディアと考えられる。つまり、

一(太一・太極)⇔身体理性メディア⇔二(陰陽分極)

という図式が考えられるのである。
 一と二が一種の三つ巴を形成し、その交点として、(気的)身体理性メディアが考えられるということである。
 直観では、(気的)身体理性メディアには、捩れが考えられる。それが、陰陽様態を意味するのではないだろうか。
 一の捩れとしての二である。
 そして、この捩れの力学が生命力学であるということになるのではないだろうか。
 とまれ、以上から四元論が形成されたことになる。
 とまれ、気的身体理性とは、一と二をつなぐ接点・メディアであり、それは言い換えると、一と多をつなぐ接点・メディアということになる。言い換えると、一神教と多神教をつなぐ接点・メディアということになる。
 そうすると、以前、考えたように、xyの直交座標に、垂直に交わるz軸を入れて立体座標が考えられる。
 z軸が太一イデアであり、y軸が陰陽軸であり、x軸が物質現象軸である。
 以前、作図した以下のような三次元を考えるといいのである。


<無双PS原理三次元世界:Ver4.1>
                

               虚軸y軸:陽・凸i・時間形式・自己
                                /
         超越軸z軸:太極・霊界       /
               |           /
               |         /
               |       /
U:物質認識       |     /    T:頭
               |   /
               | /
−1__←重力波_MP・胸_電磁波⇒_+1実軸x軸
地・自我       /  |            天・個
           /     |
V:肚     /      |    W:精神認識(魂認識)
      /         |
    /           |
陰・凹i・空間形式     |
・他者           |

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11324260617.html

参照:

無双PS原理ガウス平面 ( 10 )

http://ameblo.jp/neomanichaeism/theme-10057545046.html

追記:太一⇔気的身体理性メディア⇔陰陽分極を以下のような構造として見るといい。


           太一
           |
           |
           |
           |
      気的身体理性メディア
          /\
        /    \
      /        \
  陰極(他者)     陽極(自我)

今はここで留める。
 

1.
陰=魂(肚)と陽=自我(頭)をつなぐ身体意識(理性):無双陰陽原 ...
d.hatena.ne.jp/antares/20130218 - キャッシュ
2013年2月18日 ... 陰=魂(肚)と陽=自我(頭)をつなぐ身体意識(理性):無双陰陽原理は陰陽身体三元
論へ進化する. テーマ:無双陰陽 ... 先に、食事哲学について触れた(世界の謎:食事
哲学:地球生活の謎:身体と意識:ポスト唯物論としての逆ルネサンス ...
http://d.hatena.ne.jp/antares/20130218

2.
陰陽を正負・NSに変換する中間力学:次元変換子:陰陽の現象化とし ...
d.hatena.ne.jp/antares/20130222 - キャッシュ
2013年2月22日 ... 陰と陽の衝突・激突、20年過ぎて、ようやく、解決に至ったと思う。(参照:陰=魂(肚)と
陽=自我(頭)をつなぐ身体意識(理性):無双陰陽原理は陰陽身体三元論へ進化する (
02/18) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1925.html) ...
http://d.hatena.ne.jp/antares/20130222


2013年04月17日(Wed)▲ページの先頭へ
現代日本人は唯物主義者ではなく、唯物教信者である:森は気(「神」)に満ちる:気のサイエンス誕生
テーマ:ForestPhiloSophia森哲学

気と電磁波を混同・同一視する人がいるが、それはとんでもない間違いだと思う。
 私は長い間かけて、気を「合理」的に検討してきて、ようやく、気のサイエンスを立てられるようになった。物質のサイエンスを超える気のサイエンスである。これは、イデア・サイエンスとも言える。
 今は簡単な指摘に留める。

参考:

* 森には、樹木には、気、生命イデア・エロース・エネルギーが宿るだろう (04/16)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1949.html

* 理論名称:不連続的差異共振論(不連続的陰陽イデア論)の方がいい:PS理論の呼称の問題点 (04/16)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1948.html

* 不連続的陰陽イデア論:陰イデア∞陽イデアのメビウスの輪と太一イデア (04/14)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1947.html

* 理論名称:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論よりも明快である (04/14)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1946.html

参照:

無限の宇宙と響き合って生きるか、有限の「地球」に囚われて生きるか?

http://www.k2o.co.jp/blog2/2013/04/post-872.php
新井信介 「京の風」

鎮守の森 - Wikipedia
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土佐神社 (高知県 高知市 )の例
長尾神社(神奈川県 川崎市 多摩区 長尾)の例
足寄神社(北海道 足寄郡 足寄町 )の例
山全体が鎮守の森になっている例(柏原八幡神社 <兵庫県 丹波市 >)

鎮守の森(ちんじゅのもり)とは、日本において、神社 に付随して参道 や拝所を囲むように設定・維持されている森林 である。鎮守の杜とも。

古神道 における神奈備 (かむなび・かんなび)という神が鎮座する森のことで神代 ・上代(かみしろ)ともいう。
その意味 [編集 ]

鎮守の森というのは、かつては神社 を囲むようにして必ず存在した森林 のことで、杜の字をあてることも多い。「神社」と書いて「もり」と読ませている例もあり古神道 から神社神道 が派生したことがうかがえる[1] 。また、「社叢」(しゃそう)と称されることも多い。

神社を遠景から見ると、たいていはこんもりとした森があり、その一端に鳥居 がある。鳥居から森林の内部に向けて参道 があり、その行き当たりに境内 や本殿 があり、その背後には森林の中央部が位置するようになっていて、森の深い方に向かって礼拝をする形になっている。このことからも「社 (やしろ)」が先に在ったのではなく、信仰された森に社が建てられたことが良くわかる。また海岸 近くに魚つき林 という、古くから保護された森林がある場合、そこに神社が設けられている例が多い。

現在の、神社神道(じんじゃしんとう)の神体 (しんたい)は本殿や拝殿 などの、注連縄 の張られた「社 」(やしろ)であり、それを囲むものが鎮守の森であると理解されているが、本来の神道 の源流である古神道(こしんとう)には、神籬 (ひもろぎ)・磐座 (いわくら)信仰 があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士 など)・巨石や海 や河川 (岩礁 や滝 など特徴的な場所)など自然 そのものが信仰の対象になっている。

神社神道の神社 も、もともとはこのような神域 (しんいき)や、常世 (とこよ)と現世 (うつしよ)の端境と考えられた、神籬や磐座のある場所に建立 されたものがほとんどで、境内に神体としての神木 や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県 の三輪山 を信仰する大神神社 のように山そのものが御神体 、神霊 の依り代 とされる神社は今日でも各地に見られ、なかには本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘 を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝 ・精霊崇拝 でもある古神道を今に伝えている[2] 。

宮脇昭 によれば、「鎮守の森」は国際植生学会では学術用語として用いられるという[3] [4] 。


2013年04月16日(Tue)▲ページの先頭へ
森には、樹木には、気、生命イデア・エロース・エネルギーが宿るだろう
テーマ:Forest PhiloSophia森哲学

古代人が森(「杜」:鎮守の杜)や巨木を神聖していたのは、そこに、気=生命エネルギーが流れていることを直観・直感したからではないだろうか。
 父権的物質文明は、そのような生命の森を破壊することから勃興したのであり、現代文明は当然その末裔である。
 人々は森、樹木に「神聖さ」=気=生命エネルギーを感じなくなっているのだ。
 しかし、日本人の血には、森・樹木の気エネルギーを感受する精神がある。唯物科学的精神を超克して、陰陽イデア・生命エネルギーを肯定する必要がある。
 後で、精緻に気エネルギーについて述べたい。

参照:
無限の宇宙と響き合って生きるか、有限の「地球」に囚われて生きるか?

http://www.k2o.co.jp/blog2/2013/04/post-872.php
新井信介 「京の風」

鎮守の森 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/鎮守の森 - キャッシュ - 類似ページ
鎮守の森(ちんじゅのもり)とは、日本において、神社に付随して参道や拝所を囲むように
設定・維持されている森林である。鎮守の杜とも。 古神道における神奈備(かむなび・
かんなび)という神が鎮座する森のことで神代・上代(かみしろ)ともいう。


理論名称:不連続的差異共振論(不連続的陰陽イデア論)の方がいい:PS理論の呼称の問題点
理論名称は不連続的差異共振論の方がすっきり、カッコいいだろう。

追記:かつて使用したPS理論(Platonic Synergy Theory)であるが、確かに優れた命名・名称であると思うが、私がひっかかるのは、シナジーである。これだと量的な結合を私は感じるのである。もっとも、プラトニックということで、イデア次元を提起していて、その点では、イデア的結合という意味にはとれるのは確かである。
 しかし、差異共振、陰陽共振は、単にシナジーではないと考えられる。何故なら、そこには、次元転換が生起していると考えられるからである。
 正確に言えば、差異共振、陰陽イデア共振は、物質を形成すると同時に、その「内部」に、いわば、潜在的にそれ自身を存在させていると考えられるのである。
 言い換えると、物質的外装があり、内部は差異共振・陰陽イデア共振=気エネルギーである。
 シナジーと呼べるのは、物質的側面であり、内部の差異共振・陰陽イデア共振・気エネルギーはシナジーとは言えないのではないだろうか。
 しかし、螺旋形状を形成するという点では、シナジーとは言えよう。
 ならば、私のこだわりは偏見ということになる。
 故に、結局、PS理論の名称のいちばんの問題は、もっとも重要である不連続性の概念が示唆されていないことである。

追記2:PS理論という名称を避けるのは、それが哲学より数学を主導させた理論であること、そして、それは、認識理論より、物質原理理論であることに拠ることが一つの要因である。
 また、上記の追記と関係するが、やはり、陰陽イデア次元と陰陽イデア共振物質形成次元は異なると考えられる。
 有り体に言えば、前者はイデア界=超越界に存している。しかるに、後者は現象界に属している。もっとも、後者には陰陽イデア共振=気的螺旋(気的エネルギー)が内包されていると考えられるのである。
 ここの辺の問題は微妙である。
 陰陽イデア次元とは、陰陽円、超越円であり、それがMPにおいて、物質化するのである。
 問題は、陰陽イデア共振とは何かである。陰陽円=超越円において、陰陽イデア共振はあるのである。しかし、正確に言うと、それは、陰陽イデア共立(あるいは、陰陽イデア極性共立)である。ここには、物質はまだ形成されていないのである。
 物質が形成されるには、先に述べたように、陽イデアの極大化が必要なのである。そのときに、陰陽イデア共立は言うならば、陰陽イデア共振となるのである。陽イデアの極大化、即ち、陽大化によって、連続同一性力学が作用して、陰陽イデア共立は共振化して、正負対・相補物質化されるのである。
 このような次元転換という点でもPS理論というシナジー(結合)を用いる名称は語弊があると考えられるのである。


2013年04月14日(Sun)▲ページの先頭へ
不連続的陰陽イデア論:陰イデア∞陽イデアのメビウスの輪と太一イデア
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11511333265.html

不連続的陰陽イデア論:陰イデア∞陽イデアのメビウスの輪と太一イデア

テーマ:不連続的陰陽イデア論:不連続的差異共振論

森で考えた。
 陰陽様態はメビウスの輪のイメージで考えるといい。そして、その中心を垂直に、つまり、それに直交するのが、太一軸である。
 次に、陰と陽をイデアと考えると明快になると思う。即ち、陰イデアと陽イデアであり、また、陰陽様態は陰陽イデアであり、それは、超物質と考えられる。
 気は陰陽イデア・エネルギーであると考えられる。
そして、知性であるが、それは、陽イデアであり、感性は陰イデアである。陽イデアは霊、陰イデアは魂ということでもあると思われる。
 そして、陰イデア、陽イデア、陰陽イデアを統括しているのが、太一イデア、原イデア、大イデアである。
 そして、陰陽イデアにおいて、陽イデアの連続同一性作用によって、物質化が為されると考えられる。
 陽イデアの連続同一性作用は同時に、陰イデアの連続同一性作用であり、両者、プラスとマイナスの対構造を作ると考えられる。これが、DNAの二重らせんの基本になっているのではないだろうか。もっとも、それ以前に原子構造の基本であろう。この点は後で検討したい。
 人間の精神は上記したところから、陰陽イデア体であると言えよう。それは、当然、不死不滅、永遠存在である。
 物質的生と死を繰り返し、因果応報により、進化していくのだろう。(俗に、輪廻転生であるが、陰陽イデア体の発展プロセスと見るといいだろう。)
 結局、陰陽をイデアと見るのが、キーポイントなのである。これによって、様々な問題が解明されよう。
 陰陽イデアである人間精神(人間身心)は、その思考から、身体や物質を形成するのがわかるだろう。精神は物質を形成するのである。
 ただし、病気に関しては、陰陽イデアの欠陥と同時に物質的身体の故障を考えなくてはならない。
 結局、物質とは、不連続的陰陽イデアの連続体なのである。連続体は生成消滅するが、不連続的陰陽イデアは不滅なのである。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)/講談社
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『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著)の説く「生命とは動的平衡にある流れ」というテーゼであるが、動的平衡とは、不連続的陰陽極性のもたらすものであり、当然、陰陽はエネルギーを生成するので、流れがあるのである。

追記:陽イデアは光であり、陰イデアは闇である。光と闇は二つの「光」(参考:twilight)と考えられる。
 問題は、陽イデアが主導化したとき、連続同一性化=物質化が生起し、プラスとマイナスの対・相補構造が形成されるが、陰イデアが主導したとき、何が起るのか。これは、課題としておく。
 とまれ、明快に区別するため、陽イデア=光を陽光、陰イデア=闇を陰光と呼ぼう。
 ならば、太一には「光」はないのか。私が以前、超光と呼んだものがそうではないのか。超越光とも呼んだ。そうしておこう。

追記2:陽光、陰光ではなく、明光と暗光の方がいいのでは。(追記:可視光と不可視光)

resurrectionのブログ: JaponAsia GreatE AwaKleaning!

http://blogs.yahoo.co.jp/bouchan_chika/14767392.html

メビウスの帯 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/メビウスの帯 - キャッシュ - 類似ページ
メビウスの帯. メビウスの帯(メビウスのおび、Möbius strip, Möbius band)、または
メビウスの輪(メビウスのわ、Möbius loop)は、帯状の長方形の片方の端を180°ひねり
、他方の端に貼り合わせた形状の図形(曲面)である。メービウスの帯ともいう。 数学的
に ...




グリーン・イデア・エロース:キリスト愛とプラトン・エロースの一致

テーマ:フォレスト・フィロソフィア:森の哲学

先に、キリスト愛とプラトン・エロースを比較したが、そこでは、両者区別があった。しかしながら、あらためて考えたら、両者一致する考えられたのである。
 簡単に言うと、キリスト愛は、自我欲の解体、連続的同一性自我欲の解体をもたらすのである。即ち、他者肯定によって、新たな陰陽イデア体を発動させるのである。つまり、連続的同一性中心主義によって隠れていた、抑圧排除されていた陰陽イデア体が発動するのである。
 それは、根本の太一エロースを帯びるのである。だから、キリスト愛とプラトン・エロース(イデア・エロース)は一致するのである。
 太一=大イデアは植物的生命イデアと考えられるので、それは、キリスト愛=プラトン・エロースをグリーン・イデア・エロースとも呼べよう。
 今はここで留める。





蛇は螺旋、永遠の生命の象徴だろう:母権文明の精神

テーマ:フォレスト・フィロソフィア:森の哲学

後で少し説明したい。


理論名称:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論よりも明快である
理論名称:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論よりも明快である

テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

理論名をプラトニック不連続的差異共振理論と長い名称にしたが、これは端的に長過ぎるし、ピンと来ない。理論名称を不連続的陰陽論にした方が、すっきりとするだろう。
 ここで、物質原理を言えば、それは、連続的同一性原理である。陰陽共振の外側に連続的同一性原理による物質が形成されるのである。
 内部には、陰陽共振(気)があり、外部には物質があるのである。これは、生命物質体である。
 人間の場合、連続的同一性原理が一般生物よりも強化されているのであり、連続的同一性中心主義になっていると考えられる。
 この縛りを、不連続化が解除するのである。そして、脱連続化によって、主観は、いわば、カオスの他者に遭遇するのである。
 しかし、それは、コスモス的カオスである。つまり、陽が陰に出会っているのであり、陰陽共振が生起しているのである。
 これは、太一への志向性である。カオスモスという言い方は適切かもしれない。
 問題は、陰は動物的陰と植物的陰があると思われる。これは、欲望でもある。動物的欲望と植物的「欲望」が生起すると思われる。
 そう、動物的欲望がプラトンの説く万民向けのエロースで、植物的「欲望」が天上的エロースに当たるように思える。
 思うに、前者は陰陽共振をもたらさない。陰陽破壊である。それに対して、後者は陰陽共振をもたらすと思う。太一への方向である。
 このカオスモスであるが、動物的欲望を昇華する方法があるのだろうか。
 今の考えでは、それは、健康的視点である。何故なら、動物的欲望は健康を破壊するものだからである。それは、陰でありながら、陰自体を破壊するのである。
 だから、動物的欲望を避けて、植物的「欲望」の肯定によって、陰の肯定がもたらされ、陰陽共振が成就すると考えられる。
 思うに、動物的欲望は男性に傾斜していて、植物的「欲望」は女性に傾斜しているように思われるのである。
 とまれ、植物的「欲望」の肯定によって、陰陽共振(気)がもたらされ、それは、また、美・愛(エロース)である。
 そう、太一(太極)とは、生命イデアである。それも植物的生命イデアである。動物的生命ではないだろう。
 初めに、植物的生命イデアありき、となる。
 ここで、キリストの愛を考えると、それは、植物的「欲望」、エロースと同じなのだろうか。
 確かに、キリスト愛も植物的「欲望」に通ずるだろう。しかし、何か、エロースと呼べないものがあるようだ。これは措いておこう。
 とまれ、植物的「欲望」の観点(感点)から、太一=植物的生命イデアへの志向が生まれるように思われる。
 それは、美的であり、また、性的である。しかし、美的性愛的である。
 そう、美と愛と性が融合したものである。
 問題は異性愛である。やはり、植物的異性愛と動物的異性愛があるのではないだろうか。
 私が唱えるセクシー・スピリチュアリズムとは、前者と考えられる。イデア的なエロースである。
 
追記:キリスト愛であるが、やはり、それは、精神主義的愛であり、エロース的ではないと思う。いわば、カント的な格率、当為になっていると思われるのである。汝為すべしである。
 しかしである。その精神主義的愛の源泉は、精神的エロースではないのか。つまり、初めに、イデア的エロースありきではないだろうか。女性的植物的エロースである。
 ならば、植物的エロースが精神主義的愛になったのがキリスト愛と言えよう。
 そうすると、キリスト愛とは、精神主義的愛と植物的エロースの中間に位置するように思える。
 しかし、前者が優位である。
 だから、聖霊の時代とは、精神とエロースとの均衡の時代、精神とエロースの真のバランスの時代ではないだろうか。
 私がいう気的身体理性の時代ではないだろうか。
 精神とエロースの両極をもつ植物的エロース精神である。
 



Sat, April 13, 2013
生命原理とは何か:動的平衡論と不連続的陰陽論

テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)/講談社
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177ページまで来た。
 とても知的興味の起る名著である。
DNAの二重らせん構造発見の生臭い裏話と知的ミステリーが一体となり、実に「面白い」評論である。確かに、著者は文学的素養・才能がある。文理融合型知性である。
 とまれ、先に触れたが、著者の唱える生命における動的平衡という概念は、不連続的差異共振理論(不連続的陰陽論)で説明がつくと思われるのである。
 多忙なので、読書時間が短い。


2013年04月08日(Mon)▲ページの先頭へ
(プラトニック)不連続的差異共振理論の提唱:物質理論を包摂する精神理論仮説
テーマ:不連続的差異共振(プラトニック陰陽)理論

不連続的差異論は認識哲学、PS理論は自我物質原理:無双陰陽原理は精神と物質の両者包含原理を目指す
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11506897777.html

先に以上のように、不連続的差異論とPS理論を包摂する理論として無双陰陽原理を説いたが、理論名をより明確なもの、即ち、不連続的差異共振理論に改称した。(プラトニック不連続的差異共振理論の方がより的確だと思うが、長過ぎる。)
 さて、そこで述べたことを、整理して、より包括的に述べたい。以下、図式的に記述する。(以下をA図式とする。)

T:太一・太極:原イデア:プロトイデア

U:陰陽分極化:陰イデア/陽イデア:陰陽イデア

V:陰陽和合:差異共振:陰陽気:陰陽螺旋形態:気的陰陽螺旋生命体(物質化以前):「エーテル体」的生命体

W:再太一・再合一化:螺旋的回帰

(A図式)


以上が精神原理(仮説)である。ここには、物質化はない。つまり、物質化以前の原理である。完全に精神的実在としての主観原理がここにある。
 
 次に、同一性=物質化の原理を挿入しよう。それは、A図式のUとVの間で出現する。
 だから、A図式を書き直して、B図式とする。

T:太一・太極・全一:原イデア:祖イデア:プロトイデア

U:陰陽分極化:陰イデア/陽イデア:陰陽イデア

V:同一性・自我・物質化:連続的同一性化現象

W:陰陽共振:差異共振:陰陽気:陰陽螺旋形態:気的陰陽螺旋生命体(物質化以前):「エーテル体」的生命体

X:再太一・再合一化:螺旋的回帰

(B図式)


このB図式が物質現象、正確には、生命物質現象図式と呼べるものと考えられる。
 しかし、これはまだ、不十分、不正確である。何故なら、実際は、VとWが同時生起していると考えられるからである。故に、C図式を作らないといけない。即ち、


T:太一・太極・全一:原イデア:祖イデア:プロトイデア

U:陰陽分極化:陰イデア/陽イデア:陰陽イデア

-V&W同時生起:VはWを包摂する:Vは外部、Wは内部-

V:同一性・自我・物質化:連続的同一性化現象

W:陰陽和合:差異共振:陰陽気:陰陽螺旋形態:気的陰陽螺旋生命体(物質化以前):「エーテル体」的生命体

X:再太一・再合一化:螺旋的回帰

(C図式)

先に述べたように、C図式のV、つまり、同一性=物質化は陽の極大化(陽大化)に拠ると考えている。
 しかしながら、もっとも重要な点は、Wの陰陽和合・差異共振が、同一性=物質化内部に巻き込まれるようにして生起していると考えられることである。
 言い換えると、A図式にある陰陽和合に拠る陰陽螺旋・気的生命螺旋を内包して、外部に同一性=物質化による物質体を形成するということになる。これが、可視の螺旋的生命物質体(ここでは、渦巻体も含める。故に、渦巻宇宙、弦巻植物等が妥当する。)になるのである。(思うに、これとトーラスが関係すると思うが、それについては別に検討したい。)
 ここで、非常に重要なことを付け加える必要がある。即ち、陰陽和合、差異共振とは、植物的生命・生成であると考えられることである。(私は、これは、キリスト的愛に通じると思っているし、結局、プラトンのエロースもこれに通じると思っている。)
 気的生命、気的生成である。しかしながら、それは、気(「エーテル体」)に留まっていて、同一性=物質化=陽大化によって、可視の物質的生命体・生命物質体になると考えられる。
 そう、ここで、齟齬が生じているのである。それは、同一性化の問題である。私はそれを自我原理と見ているのであるが、そうすると、植物に自我があることになってしまうのである。
 自我原理は確かに同一性原理であるが、物質化原理とは少し異なると考えられる。
 自我原理は同一性的否定原理と考えられるのであり、そこには、否定原理が強く働くと考えられる。
 では、同一性原理は否定原理ではないのかという疑問が生じる。
 有り体に言えば、否定ではなく、同一性刻印が生起するのであり、刻印である。貼り付けである。スタンプ、プリントである。だから、否定ではない。否定は、陰=他者を排除するものである。
 それは刻印・貼り付け・スタンプ・プリントとは異質の原理と考えられる。
 それは、陽の固定原理ではないだろうか。つまり、同一性=物質原理は陽大化(陽の極大化)であったが、それが固定したものが自我原理ではないかということである。
 一応、陽固定化(陽固化ないし陽固着化)が生起して、自我原理が生まれたと考える。(実は、これは、ルドルフ・シュタイナーの悪魔論の考え方を参考にしている。ここではそれについては説明しない。)
 つまり、陽固(固着)化=自我原理とは、同一性固(固着)化原理ということでもある。
 だから、C図式では、不十分で、D図式を作らないといけない。即ち、

T:太一・太極・全一:原イデア:祖イデア:プロトイデア

U:陰陽分極化:陰イデア/陽イデア:陰陽イデア

-V&W同時生起:VはWを包摂する:Vは外部、Wは内部-

V:同一性・自我・物質化:連続的同一性化現象

W:陰陽和合:差異共振:陰陽気:陰陽螺旋形態:気的陰陽螺旋生命体(物質化以前):「エーテル体」的生命体

X:自我原理:陽固定(固・固着)化=同一性固定(固・固着)化

Y:再太一・再合一化:螺旋的回帰

(D図式)

となる。
 しかしながら、XとYの間には、不連続的差異(絶対的差異、他者)の肯定原理が必要なのであるから、さらにE図式が必要となる。即ち、

T:太一・太極・全一:原イデア:祖イデア:プロトイデア

U:陰陽分極化:陰イデア/陽イデア:陰陽イデア

-V&W同時生起:VはWを包摂する:Vは外部、Wは内部-

V:同一性・自我・物質化:連続的同一性化現象

W:陰陽和合:差異共振:陰陽気:陰陽螺旋形態:気的陰陽螺旋生命体(物質化以前):「エーテル体」的生命体

X:自我原理:陽固定(固・固着)化=同一性固定(固・固着)化

Y:不連続的差異(絶対的差異、他者)の肯定

Z:再太一・再合一化:螺旋的回帰

(E図式)

となる。
 これがプラトニック不連続的差異共振理論の7段階プロセスということになる。


2013年04月07日(Sun)▲ページの先頭へ
不連続的差異論は認識哲学、PS理論は物質原理:無双陰陽原理は精神と物質の両者包含原理を目指す
テーマ:プラトニック不連続的差異共振理論

今日も森(ゆかし森神社とでも呼びたい:ゆかし森とは私の勝手な名称である)のいつもの片隅(奥の細道参道入り口)で、思索した。
 その前に、『生物と無生物のあいだ』の冒頭を読んで、DNAの複製原理は、先に述べた(連続的)同一性=物質化理論で説明できると思った。同一物のコピーを作るのであるから、それは、同一性原理に拠るのである。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)/講談社
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 そこで、今は離脱したPS理論であるが、それは、物質理論であると考えられる。自己認識方程式i*−i⇒+1は、自己認識理論というよりは、同一性=物質化理論である。そう、認識的には、それは、自我認識理論であり、自己認識理論ではない。何故なら、それは、自我の反転を他者としているからである。
 つまり、PS理論は、物質理論、自我理論としては正当であるが、認識理論としては、不連続的差異論から後退しているということになるのである。
 私は差異共振を考えるのに、さんざん悩んだが、今にしてみれば、PS理論(ガウス平面付き)では、差異共振は説明できないのである。
 結局、不連続である他者を数学化することが困難だと思われる。私は数学については、素人なので、不連続な他者(不連続的差異)を数学化する方法がわからないのである。
 とまれ、私にとって、数学主導で哲学をすると、数学の形式に振り回されて、哲学的認識が弱くなるのが判明して、私はPS理論から離れた。
 その後、無双陰陽原理を唱えることになったが、プラトンの著作を再読して、プラトン哲学・イデア論が原理的に近いことがわかり、プラトニック陰陽理論と改名した。しかし、無双陰陽原理は括弧に入れておきたい。
 とまれ、同一性=物質化理論にたどり着いて、理論的問題点が明快になった。即ち、精神原理と物質原理が混淆していたことである。
 言い換えると、不連続的差異論に回帰したということである。ここから考え直す必要があるということである。(だから、2004年から2012年まで、約8年迂回したことになる。)
 簡単に言うと、繰り返しになるが、陰陽螺旋的生命形成がある。それを同一性=物質化が装っている。物質装備である。
 それは、気的螺旋が「内部」にあり、外部は物質的螺旋形態であるということである。
 陰陽螺旋であるが、それは、差異共振であると考えている。言い換えると、陰陽共振であり、陰陽同一性=物質化ではないのである。ただし、「外部」は後者である。
 とまれ、ざっとであるが、不連続的差異論に回帰して、同一性=物質化原理と陰陽螺旋=差異共振原理の二つが明確になったのであり、理論的には回帰して、進展したことになる。
 さて、理論名称であるが、新たに、プラトニック陰陽理論(無双陰陽原理)としたが、不連続という言葉は、捨てがたいのである。それを使用するならば、プラトニック不連続的陰陽理論Platonic Discontinuous Ying-Yang Theoryとでもなる。(しかし、もう一度、不連続的差異=不連続的他者の意義を考えるべきであるが、これは課題にしておく。)
 最後に簡単に整理すると、陰陽イデアがあり、それが、生命イデアである。それが、同一性=物質化原理によって、生命物質体を形成する。基本的には螺旋形状である。
 しかし、陰陽イデア=精神原理は、向上を目指しているのである。螺旋的回帰という向上を。
 それは、物質化することによって、いわば、汚染されるのであるが、その汚染によって苦悩・苦労するのである。そう、自我の原理、物質の原理を帯びるのである。自我ー物質の原理に陥りつつも、陰陽イデア=精神原理は内在・潜在しているのである。
 ここに矛盾があるのである。
 同一性=物質化して、陰=他者が失われるのである。しかし、陰=他者の肯定によって、再び、陰陽極性が回帰すると考えられる。(なにか、ヘーゲル哲学に似ているが、陰=他者は不連続的差異である点で異なるだろう。この点は要検討。)
 結局、陰陽イデア=精神原理の向上とは、自我原理になった後に、他者肯定を学び、再び、陰陽極性原理へと回帰することと考えられる。つまり、同一性化⇒他者化による陰陽共振原理への回帰である。
 雑駁な感もあるが、ここで留める。


2012年05月23日(Wed)▲ページの先頭へ
不連続的差異とはいったい何か:不連続的差異論の再検討:闇と光の共振造化作用
テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

もう一度、不連続的差異論に立ち返って、根底から再検討したい。基本は、自我的意識と他者的意識が一般には、連続的(未分化)であるが、両者を意識において切断することで、後者が不連続的差異になるのである。
 この自我的意識から切断され、独立的になった他者的意識(他者性)、不連続的差異は、実際、どういう事象を形成するのか。
 この点については、当然、既に考察して、それは、差異共振様態を形成すると考察しているが、それを今、再検討するのである。
 わかりやすく具体的に言えば、他者的意識=不連続的差異とは、肚の意識である。それに対して、自我的意識とは、頭の意識である。そして、その中間に胸(心胸)の意識があり、それは、media pointと考えている。
 では、独立した肚の意識とは何であろうか。直観では、他者を映す鏡である。他者をダイレクトに受容する鏡である。そう、優れた芸術家は、この能力をもっている。(英国の詩人、ジョン・キーツは、否定的能力negative capabilityを説いたが、これは、言わば、自我を無、空にして、他者を肯定する能力と考えられる。)
 かつては、そこで、「コスモス(宇宙)」を直感したが、今は感じなくなっている(「コスモス」はどこに行ったのか? おそらく、内在化して、一体化して、感じなくなっているということではないだろうか。)。
 とまれ、この他者の鏡の認知力と自我の意識が結合して、思考、認識が形成されるのである。
 そう、両者の間に存する胸(心胸)の意識はmedia pointであり、それは、媒介的な役割をするだろう。一面では他者的意識(肚)であり、他面では自我的意識(頭)である。中継的存在である。
 ということで、独立した他者的意識=不連続的差異は、結局、自我的意識=同一性的意識と対話的協働の関係をもつに至ると考えられる。両者は対話的であるから、常に変動する様態をもつと考えられる。
 不連続的差異は、自我と差異共振するとこれまで考察してきたが、この対話的協働が一つの差異共振であるとは言えよう。
 しかしながら、対話的協働だけでは、差異共振が発出すると考える超光(超光エネルギー)が考えられない。
 そう、ここで陰陽の視点が必要となるのである。即ち、他者的意識(肚)=不連続的差異は、闇darknessであり、自我的意識(頭)=同一性的意識は光lightであるということになる。
 闇と光の「対話」が生起すると考えられる。ここでは、物理学的視点も提起されているのである。
 言い換えると、闇の宇宙dark universeと光の宇宙light universeの交叉がここで形成されているのである。
 そう、闇宇宙は光宇宙に作用して、光宇宙を「侵略」する。光宇宙を闇宇宙に染めようとする。しかし、光宇宙は、それに対して(抗して)、光宇宙を闇宇宙に浸透させようとする。
 ここでは、両者の鬩(せめ)ぎ合いがあるのである。永遠の鬩ぎ合いである。闘争と言ってもいい。しかし、これは弁証法ではない。極性力学である。
 しかしながら、両者のバランスが形成される時点があるだろう。闇の宇宙と光の宇宙の調和均衡点である。
 D. H. ロレンスはそれを聖霊=王冠と呼んだのである。鈴木大拙の即非の論理学と一致しよう。
 ここで整理しよう。闇宇宙と光宇宙の争闘があるが、それは、それなりに、差異共振であり、「波動」を発出すると考えられる。そう、差異共振波動と呼んでいいだろう。
 闇宇宙に揺れたり、光宇宙に揺れたりするのである。闇と光の揺動する波動である。
 これは、数学的に見れば、ガウス平面において、円運動を形成すると見ていいだろう(ここでオイラーの公式が役立つのである)。そして、時間軸を考えれば、円運動は螺旋運動となるのはわかりやすいことである。
 そう、時間軸は、実軸の+1(凸)の領域に相当するだろう。つまり、螺旋運動はガウス平面の実軸の+1の方向に形成されるということになる。
 では、実軸の−1(凹)の領域はどういうことになるだろうか。
 ここが一つの重要なポイントである。ここで躓きやすいのである。光宇宙は自我的意識=同一性的意識であり、それは、他者的意識(闇宇宙)を否定するのである。
 これは上述した闇と光の争闘、差異共振波動とは異なると考えられるのである。
 何故なら、波動ではなく、言わば、凝固・固体化があると考えられるからである。
 そう、ここで、対話的協働と否定を理論・哲学的に区別する必要がある。換言すると、闇と光の闘争、差異共振における対立と他者的意識(闇宇宙)に対する否定を区別しないといけない。
 対立において、「否定に見えるもの」と自我的意識における否定との区別である。そう、前者の「否定に見えるもの」とはいったい何であるのか、これが、重大なポイントである。
 そう、これは、端的に矛盾と言われるものである。論理的は、パラドックス、背理、アンチノミーである。あるいは、鈴木大拙の即非である。
 しかし、これを厳密に詰める必要がある。
 今閃いたが、対立とは極性原理の問題である。極性とは考えたら、対立ではあるが、牽引するのでる。
 異質な、対極的なものは対立するが、同時に、牽引するのである。ここがポイントと考えられる。
 そう、対立的牽引があるのである。造語して、これを対引(ついいん)性と呼ぶことができよう。否定ではなく、対引である。
 元々一体である対立性である。対一性である。
 とまれ、暫定的に、闇と光の闘争、差異共振における「否定に見えるもの」を対引と呼びたい。
 これはまったく否定と異なるものである。それが、自然の生成力学の原理である。
 しかしながら、人間においては、否定が強く存しているのである。つまり、自我的意識=同一性的意識のもつ他者的意識=差異共振意識への否定である。
 つまり、人間においては、光宇宙へ傾斜して、バランスが崩れているのである。端的に言えば、自我・同一性原理の傾斜によって、極性原理がある意味で崩壊しているのである。もっとも、抑圧されていると言った方が正確であると考えられる。
 自我・同一性原理とは、ほぼ物質原理と言っていいだろう。何故なら、それは他者を同一性化するからである。つまり、本来、闇である他者を光化して、モノと捉えるからである。
 そう、ここには、対引性ではなく、否定性が作用しているのである。
 ここで、物質とは何かと考える必要がある。上述の思考から見ると、宇宙・自然は、闇と光の極性原理から形成されるのである。宇宙・自然には物質が形成されるのであるから、闇と光の極性原理は、物質を産出すると考えられる。
 思うに、極性原理の対引力とは、氣と見るといいと考えられる。(ルドルフ・シュタイナーならば、エーテル体である。)
 氣が宇宙・自然を創造形成する根源力と考えられる。
 では、氣と物質との関係はどうなるのだろうか。これも最重要な問題点の一つである。
 直観で言えば、極性、差異共振が「有機体」的宇宙・自然を形成するのである。つまり、基本は無機的な物質ではなく、「有機体」的な物質が形成されるのである。つまり、氣の生命体的形成原理によって物質が形成されるのである。しかし、この物質は生命体に付属するものであり、無機的物質ではないのである。
 闇と光の共振が生命体を形成し、そこに「有機体」的物質が付属すると考えられる。闇と光の共振における氣・対引力が、外在的に螺旋的に物質を形成するのである。内在的には氣・対引力が存しているのである。
 問題は、この外在性である。この形成原理はどういうものだろうか。
 直観では、光が闇と共振する時、物質を形成するのである。つまり、光と闇の共振において、氣的形成が為されるが、そこにおける光の要素が物質を形成すると考えられるのである。
 つまり、共振体における光の要素が物質体を形成すると考えられるのである。光が物質に転化しているのである。
 ならば、闇は共振体において、どうなっているのだろうか。
 直観で言えば、共振体の不可視の部分である。それは何か。思うに、端的に、氣の内在部分ではないだろうか。つまり、氣の外在部分としての物質は光が転化したものであるのに対して、氣の内在部分に闇は転化したと考えられる。
 では、氣の内在部分とは何か。
 どうも、短絡的になったようだ。闇と光の共振であるが、それを氣とするのは、勘違いのようである。そうではなく、それは、宇宙・自然形成力(造化力)と見るべきである。その形成力の外在・外部が物質であり、内部が氣であると考えた方が適切であると考えられる。
 つまり、造化力の外在・外部の物質を形成するのが、光の原理であり、造化力の内在・内部の氣を形成するのが闇の原理であるということになる。陰陽論で言えば、陽が物質を、陰が氣を形成することになる。
 もっとも、陰陽において、陽も氣であるから、陽が物質を、陰が氣を形成するというのは、齟齬である。
 だから、氣という用語を使用すると混乱することになる。
 だから、闇と光、陰と陽との共振作用とは、これまで述べたように、超光形成作用であると見た方がいいだろう。この超光エネルギーが造化力であり、光=陽の転化したものが、その外在の物質であり、闇=陰の転化したものがその内在の不可視の力であると言うことができよう。
 そう、一般には、後者の内在する不可視の力を氣と述べていると考えられるが、上述したように、陽も陰も氣であるから、それを氣とすると、混乱するのである。もし、氣という用語を使用するなら、内在する不可視の力は超氣、合氣、結氣とか呼ぶべきである。そう、超氣がとりあえずいいだろう。
 そうすると、闇と光の共振創造造化作用において、光=陽は、その外在的物質へと転化し、闇=陰はその内在的超氣へと転化するということができる。(ルドルフ・シュタイナーのエーテル体とは、後者の内在的超氣のことと言えよう。)
 最後に、カント哲学の視点から言うと、純粋悟性とは、自我的意識=同一性的意識であり、それは、他者・差異を否定して、同一性化=物質化するのであるが、それは、闇と光の差異共振体を同一性化するものと言える。つまり、それは光=陽の原理であり、闇と光の共振体である宇宙・自然という「有機体」を同一性という物質に断片化する原理である。無機性の原理である。
 それは近代の原理であり、今や、光の原理ではなく、闇と光の共振原理へと立ち返る必要があるのである。そう、トランス・モダンの哲科学へと進化する必要があるのである。
 以上のことは、これまで行なったように、数学的に説明できる。即ち、闇と光の差異共振作用は、

凸i*凹i⇒凸(+1)

であり、

光の同一性的他者否定作用は

凸i*凹凹i⇒凹(−1)

である。
 また、光は光子、電磁波であり、闇は闇子(造語したもの)、重力波(作業仮説)である。

追記:ヘーゲル哲学について一言述べておこう。
 思うに、ヘーゲル哲学とは、上記の闇と光の極性共振原理と光の同一性原理の混淆であり、後者が前者を取り込んでいる形になっていると考えられる。
 つまり、同一性原理が極性共振原理を支配している様態にヘーゲル哲学がなっていると考えられる。
 また、ヘーゲル弁証法の正反合であるが、正は光の同一性原理、そして、反は否定性、そして、合は否定を媒介として、同一性の確定と考えられる。
 つまり、ヘーゲル哲学一般は、かなり、極性共振原理的視点がある。つまり、矛盾によって成長するというような思考においてである。しかし、ヘーゲル弁証法は、同一性原理が中心になって、極性共振原理は後退して、その形骸が正反合になっていると考えられる。

追記2:極性原理における対引(ついいん)であるが、反引、対反(ついはん)と呼んでもいいだろう。


2006年10月24日(Tue)▲ページの先頭へ
■差異の思想とD.H.ロレンス:差異は身体である。
以下は、次のブログのコメントを独立させたものです。「現代日本の亡神的エゴイズムとプラトニック・シナジー理論(はてなダイアリーから)」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10018781418.html


■差異の思想とD.H.ロレンス:差異は身体である。

不連続的差異論は、簡単に言えば、ドゥルーズ哲学の矛盾、特異性と連続的差異との矛盾を、不連続性の概念で解決した理論であった。ドゥルーズ哲学は、デリダ哲学と違う点の一つは、イデア論を志向していた点である。しかし、これにも、問題があったのであるが、とにかく、ドゥルーズは、差異とイデアに触れようとはしていたのである。そう、ドゥルーズ哲学から、差異・イデアについては、なんらかの概念をもつことができるだろう。しかし、致命的な欠陥として、連続的差異理論になっているのである。
 私は、ドゥルーズ以前にD.H.ロレンスの無意識論に接してたので、私にとって、差異・イデアとは、身体、宇宙的なものと結びついていたのである。だから、抽象的であると同時に、具体的・特異的であったのである。だから、ドゥルーズの差異は、私の身体にほかならなかったのである。身体は正に、特異性であり、差異=特異性なのであった。ここにおいて、私は、ニーチェ的次元にあったと言えよう。だから、ドゥルーズの差異に対しては、疑問があったのである。それは、連続・同一性化してしまう危惧があったのである。
 とまれ、ドゥルーズやニーチェは読んでも、ロレンスを読む人は少ないだろうから、差異を単なる抽象観念の問題と考えてしまう傾向があるのではないだろうか。差異は、身体である。ないし、心身である。つまり、メディア界的なものであることである。この身体論、スピノザ、ニーチェ、ロレンスの身体主体・主観論がなくては、差異は記号にしか過ぎなくなるだろう。もっとも、ここでの身体とは、身体的精神のことである。
 身体的精神から、差異・イデア論へと展開するのである。

p.s. 後で、確認したいが、身体的精神(身体精神)とは、差異共振シナジー・フィールドが存する場である。身体=身体精神=心身=精神のフィールドである。

コメント

■銀本位制とは、差異価値の身体・身体精神であろう。

後で検討したいが、Kaisetsu氏から提起された新銀本位制の理論は、差異共振シナジー=差異価値に、いわば、身体・身体精神を与えるものではないだろうか。身体=貨幣があって、価値は、幽霊でなくなるのである。


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カレンダ
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