GP陰陽哲理学:Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2014年04月10日(Thu)▲ページの先頭へ
仮説:フィボナッチ数列は等分割の数だけでなく、均等原理を内在する:フィボナッチ数列ベクトル
図像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11819109717.html

仮説:フィボナッチ数列は等分割の数だけでなく、均等原理を内在する:フィボナッチ数列ベクトル

テーマ:PS陰陽論:ガウス平面と陰陽論の統合

先に以下のように述べたが、補足すると、90°回転において、形成されるフィボナッチ数列であるが、単に等分割の数だけでなく、そこには、均等原理(原則、法則)が働くのではないだろうか。即ち、たとえば、1+2=3の場合は、円を3つに等分割するような均等原理が働き、正三角形が形成されるということになる。2+3=5の場合は、円を5つに等分割にする均等原理がはたらき、正五角形が形成されるということになる。
 均等原理という考え方は、無理のない自然な考え方だと思う。つまり、常に、全体の一(いつ)、統一の一(いつ)、つまり、円があるが、そこに各数列の数が生起すると、全体がその数によって等分割されるという均等原理、均等力学が作用するというのは、わかりやすいと思う。
 つまり、全体の一、統一の一の中の数列の数ということであり、全体が分子、数列の数が分母になるということである。
 後で整理したい。

追記:言い換えると、力の均衡原理とも言える。一(いつ)の力の場において、ある整数が発生する場合、常に、全体の一(いつ)における整数であり、バランスをとって、等分割されるということである。つまり、全体の原理が整数にはたらくのであり、全体の原理が整数を均等分離すると思われるのである。
 簡単に言えば、例えば、5という整数ならば、1に還元されて、五等分、五等分割されるということである。つまり、単位数の1に還元されるということである。
 あるいは、別の考え方をすれば、整数分のベクトルが生じると見てもいいだろう。円の中心に複数の等しいベクトルが生じるとすると、それは、当然、相互のバランスをとって、等分割するように、分離すると考えられる。つまり、均衡原理である。
 だから、フィボナッチ数列を数列を均衡するベクトルを見るといいだろう。3ならば、3つの等しいベクトルが中心から発生して、3等分割するということになる。角度は、当然、360°÷3=120°で分割されるのである。
 だから、フィボナッチ数列ベクトルである。

フィボナッチ数列の数の意味:等分割数ではないか:2は2等分割、3は3等分割、5は5等分割、等々

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11818362360.html

直近で、以下の図を参考にしたが、フィボナッチ数列の数であるが、これは、単なる量としての数ではなくて、等分割の等分数ではないかと思った。つまり、最初の1は1分割せよ、とうことになり、それは、全体である。つまり、おそらく、最初に0(ゼロ)ないし原点があるのであり、0+1=1であり、これは、半径1の90°回転である。次に、半径1をまた90°回転させると、最初の半径1と今度の半径1を加えて、1+1=2の半径ができる。この半径2は同時に2等分割を意味するということではないだろうか。少し曲解的だが、1+1が二つの部分ではないだろうか。
 次に、半径2が90°回転すると、1+2=3となり、半径3が形成される。これは、1+1+1=3であり、左辺の1+1+1が3等分を意味するのではないだろうか。
 次に、半径3が90°回転して、1+1+3=5で、半径5が形成される。これは、同様に、1+1+1+1+1=5であり、左辺の1+1+1+1+1が5等分を意味するのではないか。
 以下同様である。
 このように考えると、等分割が形成されて、例えば、正三角形、正五角形、正八角形の形成が簡単に説明できよう。
 ピュタゴラス派がいちばんの神聖数の5であるが、これは、5等分割で説明できよう。そして、これが、黄金比と関係するのである。つまり、自然現象、有機的現象ともっとも関係すると考えられるのであり、当然、人間(私は人間動植体とでも呼びたい)にも当てはまるのである。五本の指、頭と手足、合わせて、5つの部分、あるいは、五臓六腑の五、等々である。
 以上の説明で、かなり、形態発生力学が論理的に説明できるようになっただろう。これまでとは、格段の差である。
 結局、フィボナッチ数列を導入したことが正解であったと言える。


この1,1,2,3,5,8,…という数字の並びはフィボナッチ数列と呼ばれるもの。
隣り合った数字を足し合わすと、
 1+1=2、
 1+2=3、
 3+5=8、、
と続いていきます。

これらの数字の間隔は、5:8 ≒ 1: 1.618、という風に、黄金比率に近づいていきます。

上の図のように「らせん」にも黄金比率が存在するし、
360°の円も、黄金分割すると、約137.5°という黄金角になります。

検討問題:形態はどうやって形成されるのか:螺旋、フィボナッチ数列、黄金分割(黄金比)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11818276963.html


2014年04月09日(Wed)▲ページの先頭へ
フィボナッチ数列の数の意味:等分割数ではないか:2は2等分割、3は3等分割、5は5等分割、等々
図像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11818362360.html

フィボナッチ数列の数の意味:等分割数ではないか:2は2等分割、3は3等分割、5は5等分割、等々

テーマ:PS陰陽論:ガウス平面と陰陽論の統合

直近で、以下の図を参考にしたが、フィボナッチ数列の数であるが、これは、単なる量としての数ではなくて、等分割の等分数ではないかと思った。つまり、最初の1は1分割せよ、とうことになり、それは、全体である。つまり、おそらく、最初に0(ゼロ)ないし原点があるのであり、0+1=1であり、これは、半径1の90°回転である。次に、半径1をまた90°回転させると、最初の半径1と今度の半径1を加えて、1+1=2の半径ができる。この半径2は同時に2等分割を意味するということではないだろうか。少し曲解的だが、1+1が二つの部分ではないだろうか。
 次に、半径2が90°回転すると、1+2=3となり、半径3が形成される。これは、1+1+1=3であり、左辺の1+1+1が3等分を意味するのではないだろうか。
 次に、半径3が90°回転して、1+1+3=5で、半径5が形成される。これは、同様に、1+1+1+1+1=5であり、左辺の1+1+1+1+1が5等分を意味するのではないか。
 以下同様である。
 このように考えると、等分割が形成されて、例えば、正三角形、正五角形、正八角形の形成が簡単に説明できよう。
 ピュタゴラス派がいちばんの神聖数の5であるが、これは、5等分割で説明できよう。そして、これが、黄金比と関係するのである。つまり、自然現象、有機的現象ともっとも関係すると考えられるのであり、当然、人間(私は人間動植体とでも呼びたい)にも当てはまるのである。五本の指、頭と手足、合わせて、5つの部分、あるいは、五臓六腑の五、等々である。
 以上の説明で、かなり、形態発生力学が論理的に説明できるようになっただろう。これまでとは、格段の差である。
 結局、フィボナッチ数列を導入したことが正解であったと言える。


この1,1,2,3,5,8,…という数字の並びはフィボナッチ数列と呼ばれるもの。
隣り合った数字を足し合わすと、
 1+1=2、
 1+2=3、
 3+5=8、、
と続いていきます。

これらの数字の間隔は、5:8 ≒ 1: 1.618、という風に、黄金比率に近づいていきます。

上の図のように「らせん」にも黄金比率が存在するし、
360°の円も、黄金分割すると、約137.5°という黄金角になります。
検討問題:形態はどうやって形成されるのか:螺旋、フィボナッチ数列、黄金分割(黄金比)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11818276963.html




図像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11818276963.html

検討問題:形態はどうやって形成されるのか:螺旋、フィボナッチ数列、黄金分割(黄金比)

テーマ:PS陰陽論:ガウス平面と陰陽論の統合

渦巻や螺旋の発生は陰陽の90°回転力学で説明されよう。
 即ち、日光軸が形成され、同時に、時間軸が発生し、空間三次元事象が生起するというように考えるのである。
 今思ったのは、以前考えた陰陽円の存在である。それは、ガウス平面において、虚軸を直径とする、ガウス平面に直交する円である。それが、90°回転すると考えるのである。
 そうすると、それは、ガウス平面上で単位円を形成しよう。どうも、これが、渦巻を創る「原光円」(造語)ではないだろうか。
 そして、三次元空間では、球体となろう。つまり、太陽ないし原太陽である。あるいは、原宇宙、原コスモス球かもしれない。
 とまれ、単位円=原光円において、凸i、凹i、+1,−1のよっつの基本単位がある。これが、四大(地水火風)に関係するのではないだろうか。凸iが風、凹iが水、+1が火、−1が地に相当するかもしれない。また、五大(地水火風空)で言えば、空は原点、MP(メディア・ポイント)に当たろう。
 以下の参照を見ると、直観で、現象形態の発生は、螺旋、フィボナッチ数列、黄金分割に関係すると思われる。
 しかし、問題は、数学的に説明されるだけで、エネルギーが問題になっていないのである。あえて言えば、数学と現象力学が分離しているのである。
 数学、数にエネルギーを与える必要があるのであえる。
以下の参考1の「自然法則と黄金分割」の説明をヒントにしてみよう。
 上述したような五大(地水火風空)が原型となって、黄金分割を形成すると述べている。
 問題は正五角形の形成原理である。四大(地水火風)はわかりやすい。それは、単位円での「十字架」を考えればいいのであるから。しかし、正五角形にするのは難しい。
 ただ、数的には、5は上記のようにすぐ出てくるが、正五角形が生まれないのである。
 ここでは、正五角形を前提するより、フィボナッチ数列的視点から始めた方がいいようだ。
 参考2の図が参考になろう。フィボナッチ数列、1,1,2,3,5,8,13,21,・・・であるが、これをガウス平面の立体的変形座標に適用するのである。
 つまり、最初は、1と1でいいが、その次は、半径が2(=1+1)になり、その次の半径が3(=1+2)となり、同様に展開すると見るのである。
 これで、螺旋現象数的力学は説明されよう。後、時間軸に沿って、立体化させていけばいいだろう。
 そして、後の数を分母、前の数を分子にして、割り算すると、黄金分割に接近するのである。つまり、フィボナッチ数列から黄金分割が生まれることになる。
 そして、黄金分割から念願に正五角形が発生すると思われるのである。これで、現象形態の説明の大雑把な輪郭がわかろう。
 フィボナッチ数列的形成であるが、それは、当然、現象形成であり、ガウス平面での形成ではない。日光軸(実軸)があり、それが、原点を中心にして、時空間四次元現象へ、いわば、展開するのである。
 しかしながら、どうして、フィボナッチ数列的構成をとるのかという疑問が湧く。
 逆に、黄金分割の比が基本であるというようにも考えられる。
 これではどうどう巡りである。
 これは検討課題にしておく。
 

参考1:
自然法則と黄金分割
http://www.nersrch2020.sakura.ne.jp/1-11.htm

『そして、これらの4つの要素をうまくバランスをとり、調整し、場を形成する役割をなすのが「空」の

性質なのです。言い換えると、あらゆるエネルギー源をあなたがたに与えるために転換したり、拡散し

たり、収束させたり、回転させたり、消滅させたり、する性質を持つもの。これを「五大要素」とよんで

おります。


  「五大要素」が均等に作用したとき、ちょうど「星形の五角形」を作り上げるのです。この五大要素が

「創造宇宙のトーラス」の中をぐるぐる、ぐるぐる回転しているのです。

 そして「星形五角形」の中には、きれいな黄金分割比が現れるのです。(黄金分割比とは1:1.618

という分割比を指します。また、その逆が0.618となります。)


 この「黄金分割比」というのは数字を「1,1,2,3,5,8、13、・・・・」というふうに並べてみてくだ

さい。これは、隣り合わせの数字を足して、その次の数字は、たとえば、1と1を足すと2(1+1=2)

となります。2の次は3になります。つまり 1,1,2,3… という数字の配列になっていくわけですが、

永遠にこの演算を繰り返してゆくと、出てくる数値が1.618。または0.618に収束してゆく数列をい

い、これを「フィボナッチ数列」ともいいます。

  この数字の配列というのは、自然界のこの五大要素を基準とした分布システムにも適用されている

のです。隣り合わせの数字を割ってゆくと、限りなく「黄金分割比」に近づくようになっていきます。

 これが自然界の「永遠に続くフラクタル構造」または「入れ子構造」をうまく説明出来るのです。 』

参考2:
生命に宿る黄金比とらせんエネルギー - ゴルフィーライフ(New) 〜 We ...
http://blog.goo.ne.jp/lifelongpassion/e/4e9068485f459e834966f46bc21bf8e7

ゆらぎやフラクタル、といった美しくも心地よい自然の法則を形成する重要なファクターにこの黄金比があります。

この1,1,2,3,5,8,…という数字の並びはフィボナッチ数列と呼ばれるもの。
隣り合った数字を足し合わすと、
 1+1=2、
 1+2=3、
 3+5=8、、
と続いていきます。

これらの数字の間隔は、5:8 ≒ 1: 1.618、という風に、黄金比率に近づいていきます。

上の図のように「らせん」にも黄金比率が存在するし、
360°の円も、黄金分割すると、約137.5°という黄金角になります。

パルテノン神殿やピラミッド、ダビンチをはじめ葛飾北斎に至るまでの絵画や美術品は言うに及ばず、
自然界は黄金比率に溢れている。
ミツバチの巣の中の雄と雌の個体数が黄金比になったり、
木の枝のつく間隔や葉っぱのつく間隔にも、1:3:5:8…と黄金比の法則が顕現する。



 
オウム貝の渦巻きを500万倍に拡大するとハリケーンの渦巻き雲になり、
さらに60兆倍すると、渦巻き星雲の形になるといいます。


参照:
対数螺旋 - Wikipedia
対数螺旋(たいすうらせん、英 : logarithmic spiral)とは、自然界によく見られる螺旋 の一種である。等角螺旋(とうかくらせん、英 : equiangular spiral)、ベルヌーイの螺旋ともいい、「螺旋」の部分は螺線、渦巻線(うずまきせん)、匝線(そうせん)などとも書く。ヤコブ・ベルヌーイ (ジャック・ベルヌーイ)は、17世紀 のスイス の数学者。
定義[編集 ]

極座標表示 (r, θ) で

r=ae^{b\theta}\,

と表される平面曲線を対数螺旋という。ここに、e はネイピア数 、a, b は固定された実数 である。r が原点からの距離を表すため、a は正 でなければならないが、b は正、負のどちらでも構わない。正の場合は中心から離れる際に左曲がりである螺旋になり、負の場合は右曲がりの螺旋になる。裏返すことによって左曲がりを右曲がりにできるため、b > 0 に限った定義をすることもある。定義式において形式的に b = 0 とすると、半径 a の円 となる。

定義式は

\theta=\frac{1}{b}\log \frac{r}{a}

とも書ける。歴史的には指数関数 よりも対数 の方が先に認知されていたので、「対数螺旋」と呼ばれるようになった。b が正(負)の場合、r が 0 に近付くと θ はいくらでも小さく(大きく)なるので、中心近くでは無限回渦巻いている。

直交座標 における媒介変数 表示として、

x(\theta) = r \cos \theta = ae^{b\theta} \cos \theta\,

y(\theta) = r \sin \theta = ae^{b\theta} \sin \theta\,

とも表せる。

後述する理由により、対数螺旋とは(ひとつの定数 B のみを用いて)

r=B^\theta\,

で定まる曲線である、と定義されることもある。ただし、B は 1 ではない正の数。
性質[編集 ]
対数螺旋の回転は、拡大・縮小と同等の変形である。

本節では、対数螺旋の式は

\mathbf{r}(\theta) = (ae^{b\theta} \cos \theta,\,ae^{b\theta} \sin \theta)

で与えられているとする。

対数螺旋は自己相似 である。すなわち、任意の倍率で拡大または縮小したものは、適当な回転によって元の螺旋と一致する。例えば、e2πb 倍に拡大したものは、回転することなしに元の螺旋と一致する。対数螺旋は、拡大・縮小以外にも様々な変換に対する不変性を持つ。例えば、伸開線 および縮閉線 は自分自身に一致する[1] 。

中心から伸ばした半直線 と螺旋は無限回交わるが、隣り合う交点について、原点との距離の比は一定で e2πb である。対して、距離の差が一定であるような螺旋がアルキメデスの螺旋 である。

中心から伸ばした半直線と対数螺旋が成す角は一定である。等角螺旋の名はこの性質に由来する。実際、その角 α は

\alpha=\arccos \frac{\langle \mathbf{r}(\theta), \mathbf{r}'(\theta) \rangle}{\|\mathbf{r}(\theta)\|\|\mathbf{r}'(\theta)\|} = \arccos \frac{b}{\sqrt{b^2+1}} = \arccot b

と計算される。b が正のとき、α は0度から90度の間の角であり、α の余角 90°− α を対数螺旋のピッチ (pitch) という。b が負のときは、α は90度から180度の間の角であり、α − 90° がピッチである。ピッチが大きいほど、螺旋に沿って中心から遠ざかる際に、中心からの直線距離がより速く大きくなる。すなわち、開いた形状になる。ピッチが0度に近付いた極限は円で、ピッチが90度に近付いた極限は中心から伸びた半直線と見ることもできる。

対数螺旋の形状は巻きの向きとピッチのみ、すなわち b のみによって決まるので、回転による違いを考慮しないならば、対数螺旋とは r = ebθ によって定まる曲線である、と定義してもよい。B = eb とおけば、さらに簡潔な式 r = Bθ で定義できる。

螺旋上の一点から螺旋に沿って中心に向かうと、前述のように無限回渦巻き、中心に辿り着くことはできないが、その道のりは有限である。実際、例えば b が正のとき、中心からの直線距離が r である点 (r cos θ, r sin θ) (ただし、r = aebθ)から中心までの道のりは

\int_{-\infty}^\theta \|\mathbf{r}'(\theta)\| d\theta = \frac{a\sqrt{b^2+1}}{|b|}e^{b \theta}=r|\sec \alpha|

と計算される(結論は b が負のときも成り立つ)。

曲率関数 は

\chi(\theta)=\frac{1}{ae^{b\theta}\sqrt{b^2+1}}=\frac{\sin \alpha}{r}

である。螺旋の見た目からも明らかなように、中心に近付くほど限りなく大きくなり、中心から遠ざかるほど限りなく 0 に近付く。b が正である場合は曲率関数は単調減少 であり、b が負である場合は単調増加である。この性質は進行方向に依らない。

指数関数は、複素数平面 において、実軸にも虚軸にも平行でない直線を対数螺旋に写す。しかも、任意の対数螺旋はそのようにして得られる。実際、指数関数によって

x+iy \mapsto e^x \sin y+i e^x \cos y

と対応するから、直線 x = cy + d (c ≠ 0) 上の点 (x, y) は

(e^d e^{cy} \cos y, e^d e^{cy} \cos y)\,

に写る。

同じく複素数平面において、実部と虚部がともに 0 でない定数 k に対する関数 xk は、実軸を対数螺旋に写す。
自然界における対数螺旋[編集 ]

対数螺旋は、自然界のさまざまなところで観察される。例えば、隼 が獲物に近付くとき、対数螺旋を描いて飛行する。その理由は、獲物を一定の角度で視認するためと考えられる[2] 。同様に、蜂 が花に向かって飛ぶ軌跡も対数螺旋に近い[3] 。
相似な多角形を連ねていくと、対数螺旋に近い形を描く。

軟体動物 の殻、牛 や羊 の角、象 の牙など、硬化する部位で、本体の成長に伴って次第に大きい部分を追加することで成長するような生物の器官において、対数螺旋が観察される[4] 。その理由は、図のように相似で少しずつ大きくなる多角形が次々に形成されていくと、螺旋に近い形が描かれるからであると説明される。成長が連続的となるように各断片を小さくしていくと、その極限図形の境界線はちょうど対数螺旋を描く。ピッチは生物によって異なり、サザエ では約10度、アワビ では約30度、ハマグリ では約50度である[5] 。ピッチが小さい場合は自分自身を巻くことができるので巻貝 に見られ、ピッチが大きいものは大きく口を開けた形の二枚貝 やアワビ ・カサガイ のようなものに見られる。

渦巻銀河 の渦上腕は、ピッチがおよそ10度から40度の対数螺旋の形状に近い。太陽系 を含む銀河 である銀河系 は、主要な渦状腕を4本持つとされ、そのピッチは比較的小さく、12度ほどと考えられている[6] 。

なお、同じ渦巻きでもクモの網 に見られる横糸の渦巻きはアルキメデスの螺旋である。巻き貝、あるいはそれ的なものでも、オオヘビガイ のようにあまり太さを増さないままに巻数が多いものはこれに近くなる。
人工物における対数螺旋[編集 ]
紀元前5世紀 に完成したイオニア式 建築の神殿エレクテイオン の柱頭

アルキメデスの螺旋ほどではないが、デカルト やベルヌーイが数学的に解析するよりも前から、自然界に現れる対数螺旋は人々に認識されており、美術作品や建造物に用いられたといわれる。例えば、古代ギリシア の建築様式のひとつ、イオニア式 の柱頭の特徴は、組になった渦巻の飾りであり、対数螺旋に近いものもある[7] 。
バチカン美術館 の二重螺旋階段

また、レオナルド・ダ・ヴィンチ の設計したバチカン美術館 の二重螺旋階段は、真上から見ると対数螺旋である[8] 。

近年では、PlayStation 4 の筐体内部の冷却機構に取り入れられ、PlayStation 3 の後期型に比べ特性を大幅に改善した[9] 。
黄金螺旋[編集 ]
黄金長方形 と黄金螺旋

黄金螺旋 (golden spiral) とは、黄金比 φ に関連した対数螺旋の一種であり、

|b|=\frac{\log \phi}{\pi/2} \approx 0.30634896253

なる定数 b に対して r = ebθ で与えられるものである。さらに、B = eb とおいて、r = Bθ でも定義される。正の b に対しては

B=\phi^{2/\pi} \approx 1.358456274

であり、負の b に対しては

B=\phi^{-2/\pi} \approx 0.736129693

である。黄金螺旋のピッチは約17.03239度である。

オウムガイ の殻の模様は黄金螺旋を描いている、という説は有名である。しかし、その合理的な理由は知られておらず、実際にはオウムガイの殻のピッチは8度から10度であって17度とはかけ離れているなどの、黄金螺旋ではないとの指摘もある[10] [11] 。


かたち*あそび おもしろ図形 螺旋

黄金分割

黄金比

黄金比と正20面体 - 関西学院大学

黄金分割 ―自然と数理と芸術と― / アルプレヒト・ボイテルスパッヒャー ...

渦巻ができていく・・・黄金螺旋 この螺旋は球とも親戚です | 世界史掲示板 ...

夢のもつれの哲学2:黄金比とフィボナッチ数列 はじめの1〜ベンフォード ...

不思議な数字:花の生え方はフィボナッチ数列によって ... - Jackと英語の木
このフィボナッチ数は、花の数とも一致します。ユリ3枚、サクラ、ウメ5枚、コスモス8枚、キク科植物は13枚、21枚、34枚、55枚などあって、いろいろな花の花びらの数となっています。植物の葉っぱも、茎を中心にして、次第に伸びてゆくことにより、2方向、3方向、5方向、8方向に生えてゆき、自然に葉を重ねずに、太陽の光の対して、光合成の効率を上げるように、フィボナッチ数で出来ています。






図像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11815437992.html

有機現象体は、ガウス平面(氣的太陽平面)を内在超越的に内包する:氣は現象に内在超越する

テーマ:PS陰陽論:ガウス平面と陰陽論の統合

先に、ガウス平面において、虚軸が陰陽軸、実軸が日光軸、そして、ガウス平面を原点において直交する時間軸(天地軸)を考えた。
 生命現象は、例えば、樹木は原点から時間軸沿いに現象することになる。
 問題は、螺旋的に発現する物質現象である。
 天への方向へ向う上昇する力は何なのか。また、地の底へと下降する力は何なのか。
 両者、生命力と言えよう。現象生命力である。
 有機的生命力である。これは、ほぼ物質的力である。
 では、氣はどこに働いているのか。
 やはり、有機現象体は内在超越的にガウス平面(氣的太陽平面とでも言えよう)を具有しているのであり、それで、氣を「有」していると考えられる。
 そう、三次元空間、正確には、四次元時空間は、氣のガウス平面を内在超越させているのであり、氣を内包していると考えられる。つまり、有機現象の物質力は氣を内包しているということになるのである。もっとも、内在超越的に内包しているといことであるが。
 今は、ざっと指摘するに留める。

参照:
日光と太陽の区別:実軸と実軸を除いたガウス平面を包摂するMP(原点)
テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に、以下(***の下部)のように書いたが、補足したい。
 太陽と日光は別物であるから、区別しないといけない。
日光は既述のようにx軸=実軸でいいだろう。
 しかし、太陽はx軸とy軸のガウス平面を内在する原点(MP:メディア・ポイント)だと思う。ただし、実軸x軸を除いて。


                   虚軸(陰陽軸)
                     陽凸i
                      |
                      |
                      |
                      |
−1_____MP_____+1 実軸(日光軸)
                      |
                      |
                      |
                      |
                     陰凹i


先に書いた上図のMPが太陽の中心になる。太陽総体はこの実軸を除いたガウス平面総体と考えるのである。
 問題は日光である。これは、陰陽イデアを内在超越的に内包するのではないだろうか。
 だから、日光は単純な光、電磁波ではないのである。陰陽イデアという内在超越情報をもっていると考えるのである。
 この陰陽イデア情報が有機体形成の情報になると思われるのである。
 ここでわかりやすくするため、陰陽イデア情報による生命体形成を考える。
 日光を媒介にして、陰陽イデア情報が現象界に伝達されるのである。そして、陰の成分は、例えば、内臓的なものに、そして、陽の成分は骨格的なものになると考えられるのである。
 大雑把に言えば、陰は水的なものであり、陽は鉱物的なものになるのである。わかりやすく便宜的に言えば、陰は内界に、陽は外界になるのである。
 もっとわかりやすく言えば、陰は肚(下丹田)に、陽は頭脳(上丹田)になるのである。そして、MPは胸の心(中丹田)になるのである。
 というように、光ではなく、日光、陽光、太陽光に、生命体の根源があると考えられるのである。
 ただし、日光が包摂する陰陽イデア情報が生命有機体、自然の本質である。
 後で、この陰陽イデア情報の生命有機体化する力学を解明する必要がある。
 
 
***************************

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質:x軸=実軸=日光軸、y軸=虚軸=陰陽軸、z軸=天地軸=時間軸



この三次元直交座標で、x軸を実軸、y軸を虚軸、z軸を時間軸とする。x軸とy軸でガウス平面を形成する。
 そして、虚軸=y軸=陰陽軸となる。これが、90°回転して、x軸=実軸の±1を形成する。これが日光である。だから、
x軸=実軸=日光(太陽)軸である。 
 そして、90°回転と同時に、z軸=時間軸が生起する。
 これが、日光を物質化するのである。そう、有機体化である。
結局、z軸=時間軸=有機体軸である。
 結局、ガウス平面とは、氣平面であり、実軸において、太陽となり、視覚化されるのである。
 これで、日光の本体が氣であるということが証明されたと言えよう。
 結局、z軸=時間軸=有機体軸は、x軸=実軸=日光(太陽)軸と同時展開である。そして、xyz軸以外に、空間三次元が発現するということになると考えられる。(ここで、四元数が適用できよう。)
 とまれ、以上のように考えると、氣が根源であるものの、日光(太陽)が有機体の基因であると考えられる。
 初めに、太陽ありき、である。
 いわば、光から物質が生まれるのである。
そして、光は氣から生まれるのである。即ち、

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質

である。
 暫定的ではあれ、以上から氣から有機体の発生が以前より、明快になったと言えよう。ポイントは、日光が媒体であるということである。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11803090704.html


2014年04月01日(Tue)▲ページの先頭へ
陰陽未分化と陰陽即非極性:陰傾斜の母権精神と陽傾斜の父権精神の弁証法から不連続的陰陽調和論へ
陰陽未分化と陰陽即非極性:陰傾斜の母権精神と陽傾斜の父権精神の弁証法から不連続的陰陽調和論へ

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

PS陰陽論において、太極と太一を分けている。
 太極は陰陽未分化であり、太一は陰陽分化である。しかしながら、太一は、一(いつ)の氣であり、且つ、陰陽分化極性をもつと考えている。
 問題は、後者である。それは、分化とは言え、同時に、一(いつ)なのである。つまり、非分化様態なのである。分化、且つ、非分化の、いわば、即非様態にあるのである。
 そう、この太一の陰陽非分化を未分化と呼ぶことはできない。何故なら、未分化とはまだ、陰陽の区別がないからである。それに対して、太一においては、陰陽の区別があり、極性をなし、その極性は一(いつ)の様態をもつのである。言い換えると、二一原理なのである。
 これでいちおう整理できたが、問題は、量子論の場の理論である。主客非分化の問題である。つまり、不確定性の原理の問題である。
 主を陽、客を陰とすると、確かに、陰陽の区別はあるが、同時に、非分化なのである。だから、主客非分化は存在すると言えよう。ただし、それは、主客未分化ではないのである。この点は混同されてはいけない。
 ただ、これまで述べたように、量子論は、PS陰陽論から言うと、ガウス平面の実軸、実次元でだけ考えていて、虚軸、虚次元、つまり、陰陽次元で考えていないのが問題なのである。つまり、氣の次元が看過されているのである。
 だから、量子論では、氣と物質が混同されていて、曖昧になっていると思われるのである。
 例えば、長距離相関の問題であるが、それは、虚軸、虚次元、氣=陰陽次元を考えると、明確になるだろう。虚軸においては、陰陽は一であるから、それが実次元において、長距離離れていても、超越的に陰陽(「量子」)は相互反応するのである。
 だから、量子論における非分化であるが、それは、虚軸、虚次元、陰陽次元(氣次元)、超越次元(内在超越次元)が明確にされていないので、曖昧な性質をもっていると考えられる。
 さて、次に、人間の精神の問題を考えると、太極=陰陽未分化と太一=陰陽非分化があり、複雑である。
 太極=陰陽未分化とは、端的に、混沌、カオスである。
そこから、太一=陰陽非分化(極性と一の即非)の宇宙、コスモスが生まれるのである。
 問題は無意識を含めて、人間の精神において、太極と太一はどういう構成になっているのかということである。
 私が例えば、「私は樹木と一である」と感覚した場合、それは、太極の陰陽未分化の様態なのか、それとも、太一の陰陽非分化の様態なのかということに関わると考えられる。
 「私は樹木と一である」というのは、後者であると考えれる。つまり、その場合、「私」は「私」であり、「樹木」は「樹木」であり、両者は区別される存在である。つまり、主客の分離がそこにはあるのである。それと同時に、「私は樹木と一である」ということが成り立つのである。
 区別と一が同時生起事象なのである。正に、即非事象である。
 これは、陰陽非分化、主客非分化である。もっとも、正確に言えば、分化且つ非分化の即非であるが。
 では、前者はどういう場合なのか。それは、「私が樹木と融合する」という場合ではないだろうか。「私」と「樹木」は区別されないのである。
 これは、病的な様態と言えよう。
 思うに、陽が欠落して、陰が強化されるとこうなるのではないだろうか。
 そうならば、陰が極大化したとき、つまり、太陰になったとき、陰陽未分化が生起するのではないだろうか。
 また、逆に、陽が極大化したとき、「太陽」になったときは、陰陽絶対分化が起こり、結局、二元論が生起するのではないだろうか。
 そうすると、太極の陰陽未分化=混沌とは、実は、太陰状態のことなのではないのかと思われるのである。
 ならば、初めに、太極=陰陽未分化=混沌(カオス)ではなく、太一=陰陽即非極性=秩序(コスモス)があるのではないだろうか。
 そう、太極とは実は、太一のことなのではないだろうか。
つまり、太極=太一=陰陽即非極性ではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:少し補足する。
 陰の極大としての太陰と陽の極大としての太陽であるが、後者が混同されるので、前者を極陰、後者を極陽と呼ぶ。もっとも、以前そうしたのではあるが。
 補足と言ったが、論の発展になる。
 結局、人類精神史に関わるのである。即ち、母権・母系制の文明時代、これは新石器時代はもとより、旧石器時代にも関係しようが、今の父権文明よりはるかに長期の文明時代であるが、これは、陰陽から言うと、陰に傾斜した精神文明だと思われる。
 問題は、精神の根源である。
 上で、私は、根本は陰陽未分化混沌ではなく、太一=陰陽即非極性=秩序(コスモス)があるのではないかと述べた。
 それから、考えると、結局、精神には、陰陽調和点があるのである。ガウス平面では、原点(MP:メディア・ポイント)がそれに当たるのである。
 そして、母権文明の精神において、陰陽様態が陰に傾斜していると考えるが、そのとき、陰陽調和点が陰といわば、癒着していて、つまり、連続化していて、いわば、未分化様態が発生しているように思えるのである。
 しかしながら、陰陽調和点は、陰陽即非性をもつのであるから、母権文明精神は、陰陽未分化と陰陽即非性の連続態にあるように思える。
 陰陽未分化はいわば、今日から見れば、病理的である。あるいは、未開的である。
 しかしながら、陰陽調和点の即非性は、いわば、未来的である。つまり、母権文明精神は今日から見て、消極的なものと積極的なものが未分化融合していると考えられる。
 次に、母権文明を滅ぼした父権文明、つまり、今日の崩壊しつつある文明(とりわけ、西洋文明)であるが、それは、陽に傾斜した文明であると考えられる。極陽の文明である。特に、ユダヤ教の一神教がそのようなものである。
 とまれ、母権文明に対する父権文明の勝利は、ギルガメシュ叙事詩 に浮き彫りにされている。
 森の母権文明が都市の父権文明に滅ぼされるのである。
 とまれ、人類精神史的にもっとも重要な点は、母権精神にあった陰陽調和点が、父権精神によって排除されたことではないだろうか。
 そう、『ギルガメシュ叙事詩』はまだ、母権精神の残照があるのであり、母権精神の完全な否定は、バビロニア神話あるいはメソポタミア神話 にある。
 母なる神のティアマト をマルドゥク が滅ぼすのであり、その心臓を太陽に捧げるのである。
 そう、この母なる神殺しは、母権精神の完全否定、つまり、上述したように、陰陽調和点の否定と考えられるのである。
 少し丁寧に言えば、母権精神の陰傾斜+陰陽調和点の否定が生じたと考えられるのである。
 確かに、陰陽未分化的精神が否定されたのは、進歩であるが、同時に、陰陽調和点を否定したのは、恐ろしいことなのである。何故なら、人類の精神の根源界に通じる精神的通路を閉ざしたからである。(ここにおいて、超越神の宗教、啓示宗教が起ることになるのである。)
 さて、今日、父権文明のどん詰まり状態に生きているわけであるが、また、新母権文明の曙光が見え始めた時代に生きているわけでもあるが、とは言え、日本は暗黒の度合いを増長させているが、新母権文明の精神は当然、過去の母権文明の精神を何らかの形で取り戻すことになるのである。つまり、母権精神ルネサンスである。
 しかしながら、上述したように、母権精神は否定的なものと肯定的なものの混淆であり、そのまま新生させることは混乱である。また、反動である。
 ポイントは当然、陰陽調和点を新生させることである。そして、陰に傾斜した陰陽未分化精神は否定すべきである。
 思うに、ここで、PS陰陽論の前身である不連続的差異論の画期的意義があると思う。
 即ち、陽傾斜による自我(陽自我、頭脳自我)のもつ連続的同一性を切断して、陰陽の極性を取り戻すことである。
 これが第一歩である。そして、次に、分化された陰陽に、陰陽調和点を中心にして、均衡をもたらすようにはたらきかけるのである。これは、心身修行である。
 この陰陽調和点は、胸の中丹田にあると考えている。そこにおける氣の美感を中軸にして、陰陽(下丹田・肚と上丹田・頭)のバランスを形成するように生活するのである。
 そう、旧い母権精神の復活だと陰中心になり、陰陽未分化の退行が起ってしまい、劣化・退化となるだろう。
 胸・中丹田の氣の美感を中心にして、新たに陰陽均衡を形成するのである。これが、新母権精神の形成である。(また、これこそ、真の個の形成でもある。)
 結局、問題は、父権精神が母権精神を否定して形成されたために、単に陰傾斜の陰陽未分化精神だけでなく、根源に通じる陰陽調和点までも否定したことであり、このために、父権精神は病理的ないし反動的になり、狂気・暴力的になっているのであり、戦争、破壊を好むようになっていると考えられるのである。
 しかし、父権精神を乗り越えようとし、母権精神を取り戻そうとすると上記のことが生じるのである。反動化が起るのである。何故なら、旧い母権精神には、陰傾斜の陰陽未分化の退行的様態があるからである。
 だから、とにかく、上述したように、先ずは、陰陽切断である。連続化している精神を陰陽に切断することなのである。陰のもつ不連続性を肯定することなのである。これが第1段階である。
 そして、第2段階は上述した通りである。
 この方法、いわば、不連続的陰陽調和形成によって、退行的な陰傾斜の陰陽未分化様態は抑えられるのである。
 最後の一言、日本人の精神病理について言うと、陽に傾斜してしまっていて、そう、ほぼ極陽と言えるほどであり、陰が排除されている。これは、うつ病等の精神病を引き起こすと思われる。
 精神の治癒のためには、陰・肚を取り戻すことである。それから、陰陽調和を取り戻さないといけない。
 思うに、消費税増税で貧乏人が増加するが、思うに、これを田園回帰のきっかけとしたい。田舎は高齢者が多く、農業は正に滅びんとしているのである。
 都会・都市を捨てて、田舎に回帰するのは、日本、日本人の復活に通じよう。田園には、氣があるのである。氣とともに、生活すべきである。日本母権民族の復興となろう。


周敦頤 『太極図説 』に描かれた最初の太極図 。朱子学 によって重視された。


2014年03月31日(Mon)▲ページの先頭へ
氣と物活論と物質科学:PS陰陽科学仮説と物活論の相違・類似点:氣的有機体と活物は似て非なる
図像は以下の本文内のタイトルのリンクをクリックされたい。
http://sophiology.jugem.jp/?eid=423

氣と物活論と物質科学:PS陰陽科学仮説と物活論の相違・類似点:氣的有機体と活物は似て非なる

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

ある文献を読んでいたら、hylozoism(ハイロゾイズム)という耳慣れないというか、おそらく初めて見る言葉に出会った。それは、何と、物活論ということで、これは、いわば、古めかしい考え方であるが、よく考えると、氣のサイエンスに通じる視点である。
 簡単に言えば、「物」に生命を認める視点である。しかし、問題は、「物」なのである。私は氣的物質と純粋物質を分離する仮説をとっている。だから、物活論の視点では、二つの物質に生命力を認めることになろう。
 私の氣科学仮説は、氣的物質において、生命を認めるのであり、純粋物質には生命を認めないのである。この点で、氣科学仮説と物活論は異なるように思う。もっとも、物活論すべてを否定するわけではなく、たいへん貴重な視点と思う。すっかり忘れていた視点である。
 とまれ、今簡単にPS陰陽氣科学(仮に私の仮説をこう呼ぶ)と物活論を比較すると、前者のガウス平面(陰陽平面)の原点=MP(メディア・ポイント)に おいて、氣と生命有機体との接点が存する。ここにおいて、有機物質体は生命を具有するのである。しかし、生命の根源はあくまで陰陽氣であり、有機体の物質 自体にはない。
 陰陽氣が生命体を構成形成し、駆動させていると見るのである。
 とまれ、氣的有機体(生命体)においては、確かに、物活論的な様態が存すると思われる。そう、氣的身体はほぼ物活論的身体と言えるだろう。
 ということで、PS陰陽氣科学仮説と物活論の相違・類似点をざっとあげてみた。

参照:
日光と太陽の区別:実軸と実軸を除いたガウス平面を包摂するMP(原点)
テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化 先に、以下(***の下部)のように書いたが、補足したい。
 太陽と日光は別物であるから、区別しないといけない。
日光は既述のようにx軸=実軸でいいだろう。
 しかし、太陽はx軸とy軸のガウス平面を内在する原点(MP:メディア・ポイント)だと思う。ただし、実軸x軸を除いて。


                   虚軸(陰陽軸)
                     陽凸i
                      |
                      |
                      |
                      |
−1_____MP_____+1 実軸(日光軸)
                      |
                      |
                      |
                      |
                     陰凹i


先に書いた上図のMPが太陽の中心になる。太陽総体はこの実軸を除いたガウス平面総体と考えるのである。
 問題は日光である。これは、陰陽イデアを内在超越的に内包するのではないだろうか。
 だから、日光は単純な光、電磁波ではないのである。陰陽イデアという内在超越情報をもっていると考えるのである。
 この陰陽イデア情報が有機体形成の情報になると思われるのである。
 ここでわかりやすくするため、陰陽イデア情報による生命体形成を考える。
 日光を媒介にして、陰陽イデア情報が現象界に伝達されるのである。そして、陰の成分は、例えば、内臓的なものに、そして、陽の成分は骨格的なものになると考えられるのである。
 大雑把に言えば、陰は水的なものであり、陽は鉱物的なものになるのである。わかりやすく便宜的に言えば、陰は内界に、陽は外界になるのである。
 もっとわかりやすく言えば、陰は肚(下丹田)に、陽は頭脳(上丹田)になるのである。そして、MPは胸の心(中丹田)になるのである。
 というように、光ではなく、日光、陽光、太陽光に、生命体の根源があると考えられるのである。
 ただし、日光が包摂する陰陽イデア情報が生命有機体、自然の本質である。
 後で、この陰陽イデア情報の生命有機体化する力学を解明する必要がある。
 
 
***************************

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質:x軸=実軸=日光軸、y軸=虚軸=陰陽軸、z軸=天地軸=時間軸



この三次元直交座標で、x軸を実軸、y軸を虚軸、z軸を時間軸とする。x軸とy軸でガウス平面を形成する。
 そして、虚軸=y軸=陰陽軸となる。これが、90°回転して、x軸=実軸の±1を形成する。これが日光である。だから、
x軸=実軸=日光(太陽)軸である。 
 そして、90°回転と同時に、z軸=時間軸が生起する。
 これが、日光を物質化するのである。そう、有機体化である。
結局、z軸=時間軸=有機体軸である。
 結局、ガウス平面とは、氣平面であり、実軸において、太陽となり、視覚化されるのである。
 これで、日光の本体が氣であるということが証明されたと言えよう。
 結局、z軸=時間軸=有機体軸は、x軸=実軸=日光(太陽)軸と同時展開である。そして、xyz軸以外に、空間三次元が発現するということになると考えられる。(ここで、四元数が適用できよう。)
 とまれ、以上のように考えると、氣が根源であるものの、日光(太陽)が有機体の基因であると考えられる。
 初めに、太陽ありき、である。
 いわば、光から物質が生まれるのである。
そして、光は氣から生まれるのである。即ち、

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質

である。
 暫定的ではあれ、以上から氣から有機体の発生が以前より、明快になったと言えよう。ポイントは、日光が媒体であるということである。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11803090704.html

科学者はオカルト現象とどう向き合えばよいのか - システム論ブログ ...
www.systemicsblog.com/ja/.../history_of_electromagnetic_theory/


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注]物活論(hylozoism)とは、物質を意味するギリシャ語のヒュレー(ὕλη)と生命を意味
するギリシャ語のゾーエー(ζωή)から作られた造語で、狭義には、万物に霊魂を認める
ギリシャ哲学の立場を示す。似た用語にアニミズム、生気論、唯心論があるが、意味は
...

奥村大介「ささめく物質――物活論について」を読んで - 物語文化と科学 ...
sanishi.hatenablog.com/entry/2014/01/09/105935


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2014年1月9日 ... 奥村氏の「ささめく物質――物活論について」(以下、物活論)は、著者自身が最後の章「
物たちのささめき」で論攷の要所をまとめています。また、ツイッターでのユーザー名、
あさみれい氏が「物活論」について既に評しています(以下、リンクから ...

物活論と原子論
https://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/.../2435/1/BK20_p23.pdf
解 題. つぎに掲げたテクストと翻訳は、ベルクソン (HenriBergson, 1859-1941)の
講義録「物活論. ア グ レ ガ シ ヨ. と原子論J である。 1881年に高等教授資格をとった
ベルクソンは、クレルモン=フェランのブレー. ズ=パスカル校(1883-88年)、パリのアンリ
回世 ...

「物活論」と「形態発生」:先端芸術表現に見られる意味 ... - 名古屋造形大学
www.nzu.ac.jp/~lib/.../fc7c19a66fcac3b84ba52f82a09dc820.pdf


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に始まり、その後、磁力や重力の発見に象徴される近代の科学. 成立の時点まで続いた
物活論の系譜にも見ることができる。また. 生物学で論じられる形態発生論も、生命活動
によって、有機的な. 形態が生じることに注目することで、生命と物質のあり方を考察す.

古代ギリシアの7賢人・ターレス - Biglobe
www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/es001/sevens.html


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こういった、物質の内部に生命力の存在を認める思考を『物活論(hylozoism)』と呼ぶが
、ミレトス学派の哲学者達は物活論を前提として自然界を眺めていたので ... そして、
世界に存在する全てのものは、水が生成変化することによって生じると考えたのである。

Hylozoism - Wikipedia, the free encyclopedia
en.wikipedia.org/wiki/Hylozoism


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Hylozoism is the philosophical point of view that all matter (including the universe
as a whole) is in some sense alive. This may include the view that "inanimate"
matter has latent powers of abiogenesis, a widely held position in the scientific ...

hylozoism (philosophy) -- Encyclopedia Britannica
www.britannica.com/EBchecked/topic/279309/hylozoism


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hylozoism, (from Greek hylē, “matter”; zōē, “life”), in philosophy, any system that
views all matter as alive, either in itself or by participation in the operation of a
world soul or some similar principle. Hylozoism is logically distinct both from early
...







−1を物質性=外面性、+1を精神性=内面性、MP(原点)を氣的中点と見る

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


                   虚軸(陰陽軸)
                     陽凸i
                      |
                      |
                      |
                      |
−1_____MP_____+1 実軸(日光軸)
                      |
                      |
                      |
                      |
                     陰凹i

上図において、虚軸を90°左回転すると実軸になるが、陽凸i→−1、陰凹i→+1になる。
 −1は外的様態、+1は内的様態になるのではないだろうか。
 人体で言えば、−1が骨格(頭蓋骨、背骨)であり、+1が内臓である。
 そして、中点のMP(原点)は両者の媒介点になるのではないだろうか。陰陽調和点ないし中丹田であり、極性の均衡点であり、形而上学的一(いつ)に通ずる点である。
 また、以下の図等に関連して言うと、


氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質:x軸=実軸=日光軸、y軸=虚軸=陰陽軸、z軸=天地軸=時間軸



この三次元直交座標で、x軸を実軸、y軸を虚軸、z軸を時間軸とする。x軸とy軸でガウス平面を形成する。
 そして、虚軸=y軸=陰陽軸となる。これが、90°回転して、x軸=実軸の±1を形成する。これが日光である。だから、
x軸=実軸=日光(太陽)軸である。 
 そして、90°回転と同時に、z軸=時間軸が生起する。
 これが、日光を物質化するのである。そう、有機体化である。
結局、z軸=時間軸=有機体軸である。


x軸=実軸=日光軸が現象の基盤となるが、思うに、例えば、植物であるが、原点(MP)に言わば、種子があり、そこから、発芽するように思う。
 即ち、陰陽の二分化がここで発現して、例えば、双葉が形成されると思うし、また、原点(MP)においては芽自体が存すると思う。つまり、原点(MP)において、陰陽の三位一体が発現すると思うのである。図像的には神話におけるポセイドン三叉槍(トリアイア)♆の上半分を参照するといいだろう。真ん中の↑が芽であり、左右の↑↑が双葉である。
 このように三一形態がわかりやすいが、他の形態はどのような力学に拠るのか問題である。
 簡単に説明するならば、陰陽振動の差異によって、多様な形態が成形されるということになる。
 今は振動を使わずに説明したいと思う。
 思うに、陰陽和音のようなものがあると思う。その法則によって、多様な形態、とりわけ、多角形が形成されるのではにあだろうか。陰陽和音とは自然のもつ調和的階調である。それは、音楽で明らかなものである。
 後でさらに検討したい。




聖書の神を脱構築する:唯一神は太一、陰陽の一(いつ)の氣、ないし太極になる

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


世界樹木神話/八坂書房

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「あらゆる伝承において、唯一の神というものは論理的必然からいって両性具有であり、どのような創造も神の自己分裂によってしか始まりえず、性の分化や男性(あるいは女性)の陪神の出現によって、一つのものが二つになるのである。」 429〜430頁

著者ジャック・ブロスはユダヤ神秘主義のカバラのセフィロトの樹(生命の樹)について、次のように、新鮮な説明をしている。
 なお、ケテルは私の仮説の実軸=日光軸に、そして、男性原理は陽、女性原理は陰、そして、中央の軸は、天地軸=時間軸に相当するかもしれない。
 あるいは、−1が男性原理で、+1が女性原理となるかもしれない。しかし、基本的構造は同じと言えよう。

【この根源的な両性具有は男性原理が唯一支配的だった族長制社会から出た聖なる文書である『創世記』の中では、ぼかされてしまっているがーーといっても完 全に消去されてしまったわけではなく、ある程度すけて見えるーー、後代のヘブライの伝承の中で、「セフィロトSephrothの樹」とよばれるカバラの秘 教的な図像にはっきりと見てとることができる。それは、いかなる説明も不可能な名前のない「精神」、絶対の「無」から発し、一段一段徐々に段階を降り物質 にまで至る創造的な「力」の諸々の「流出」の過程を表わしたものである。光源、それゆえすでに姿が現われたもの、すなわち、あらゆる発現の源である根源的 なセフィラSephirah、つまりケテルKetherからーーこれは種子として表わされ、そこから「セフィロトの樹」の幹は伸びているーー二本の枝が生 えている。右の枝は万物の父であり男性原理を示すアッバAbbaすなわち「大いなる父」であり、左の枝はアイマAima〔iはウムラウトする〕すなわち大 いなる「母」である。これら二本の枝の間からは、すべてを統合する天の道であり、平衡軸でもある幹が伸びている。「しかも最後のセフィラは、世界創造とい うドラマツルギーの中で卓越した役割を担うよう要請されており、『母』あるいは『女王『』や『産婆』さらには『花嫁』などをも意味するシェキナー Schekinahと名づけられている。】(430〜431頁)

参考:
「セフィロトの樹」の解釈(その1)


http://kojiki.imawamukashi.com/j01kosatu/treeoflife01.html

参照:
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11805081122.html

日光は既述のようにx軸=実軸でいいだろう。
 しかし、太陽はx軸とy軸のガウス平面を内在する原点(MP:メディア・ポイント)だと思う。ただし、実軸x軸を除いて。


                   虚軸(陰陽軸)
                     陽凸i
                      |
                      |
                      |
                      |
−1_____MP_____+1 実軸(日光軸)
                      |
                      |
                      |
                      |
                     陰凹i


先に書いた上図のMPが太陽の中心になる。太陽総体はこの実軸を除いたガウス平面総体と考えるのである。
 問題は日光である。これは、陰陽イデアを内在超越的に内包するのではないだろうか。
 だから、日光は単純な光、電磁波ではないのである。陰陽イデアという内在超越情報をもっていると考えるのである。
 この陰陽イデア情報が有機体形成の情報になると思われるのである。
 ここでわかりやすくするため、陰陽イデア情報による生命体形成を考える。
 日光を媒介にして、陰陽イデア情報が現象界に伝達されるのである。そして、陰の成分は、例えば、内臓的なものに、そして、陽の成分は骨格的なものになると考えられるのである。
 大雑把に言えば、陰は水的なものであり、陽は鉱物的なものになるのである。わかりやすく便宜的に言えば、陰は内界に、陽は外界になるのである。
 もっとわかりやすく言えば、陰は肚(下丹田)に、陽は頭脳(上丹田)になるのである。そして、MPは胸の心(中丹田)になるのである。
 というように、光ではなく、日光、陽光、太陽光に、生命体の根源があると考えられるのである。
 ただし、日光が包摂する陰陽イデア情報が生命有機体、自然の本質である。
 後で、この陰陽イデア情報の生命有機体化する力学を解明する必要がある。)

***************************

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質:x軸=実軸=日光軸、y軸=虚軸=陰陽軸、z軸=天地軸=時間軸



この三次元直交座標で、x軸を実軸、y軸を虚軸、z軸を時間軸とする。x軸とy軸でガウス平面を形成する。
 そして、虚軸=y軸=陰陽軸となる。これが、90°回転して、x軸=実軸の±1を形成する。これが日光である。だから、
x軸=実軸=日光(太陽)軸である。 
 そして、90°回転と同時に、z軸=時間軸が生起する。
 これが、日光を物質化するのである。そう、有機体化である。
結局、z軸=時間軸=有機体軸である。
 結局、ガウス平面とは、氣平面であり、実軸において、太陽となり、視覚化されるのである。
 これで、日光の本体が氣であるということが証明されたと言えよう。
 結局、z軸=時間軸=有機体軸は、x軸=実軸=日光(太陽)軸と同時展開である。そして、xyz軸以外に、空間三次元が発現するということになると考えられる。(ここで、四元数が適用できよう。)
 とまれ、以上のように考えると、氣が根源であるものの、日光(太陽)が有機体の基因であると考えられる。
 初めに、太陽ありき、である。
 いわば、光から物質が生まれるのである。
そして、光は氣から生まれるのである。即ち、

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質

である。
 暫定的ではあれ、以上から氣から有機体の発生が以前より、明快になったと言えよう。ポイントは、日光が媒体であるということである。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11803090704.html


追記:回転であるが、回転の後に逆 回転を考えたが、そうではなく、回転を続けるとも考えられよう。初め、虚軸90°左回転で、実軸になる。その後、さらに90°左回転で、新たに反対の虚軸 になる。これでも、死滅になるだろう。そう、この方が死滅として的確であろう。最初の虚軸は、いわば、誕生、出生であり、第1回目の90°左回転は、生命 現象の発現であり、第2回目の90°左回転における虚軸を死、死滅と見ると、最初の虚軸と釣り合い適切であろう。そして、第3回目の90°左回転における 実軸は、いわば、復活、新生・再生と見られるのではないだろうか。
 では、第4回目の90°左回転における虚軸は何を意味するだろうか。それは、再度の死、死滅であるが、原点回帰である。原母界への回帰ではないだろうか。


2014年03月27日(Thu)▲ページの先頭へ
氣と有機体と物質の関係:陰陽虚軸の90°回転生起と逆90°回転回帰による生成と消滅力学作業仮説
氣と有機体と物質の関係:陰陽虚軸の90°回転生起と逆90°回転回帰による生成と消滅力学作業仮説

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

以下の視点は知的興味をそそるが、唯物論=唯心論、つまり、物質=心という視点である。
 しかし、私の視点は、氣が上位次元にあり、それから、現象が次元転換的に「下降」し、形成されると考える。
 先に氣から有機体への転換力学について少し触れたが、さらに当然ながら、精緻に論理化しないといけない。
 とまれ、氣が太陽⇒日光へと転換し、また、同時生起する時間によって、有機現象化が起ると考える。
 そのとき、原陰が陰的有機体要素に、原陽が陽的有機体要素に転換する。
 原子で言えば、陽子は原陽から、電子は原陰から、そして、中間子は陰陽調和から発生するのではないだろうか。
 もっとも、水素原子の場合は中間子はないが、それはゼロ中間子と考える。
 重要なのは、この原子は気を内在超越的具有する原子であり、単なる純粋物質の原子ではないのである。だから、気的原子ないし氣原子と呼ぼう。それに対して、自然科学で呼ぶ原子は、物質的原子ないし物質原子と呼ぼう。
 思うに(作業仮説的に)、氣、陰陽氣の原構成によって、おそらく、陰陽の諸対構成の連合の力学によって、有機体形成の力学を生じる。つまり、氣から氣原子、気有機体への展開である。
 当然、磁気を含めた諸物質的力が形成されるのである。
 問題は生命は反エントロピー的である。つまり、いわば、永遠の陰陽エネルギーによって、生命が形成されるのであり、それが、有機体現象となるのであるが、有機体は物質体であるので、それは、物質の力学、つまり、エントロピーの法則を受けて、消滅へと向うのである。
 しかしながら、根源には陰陽エネルギーがあるので、有機体、生命体は、生命をある時間、保持発展させると考えられる。
 ならば、問題は、陰陽と生命物質体の結合様態である。
 そう、氣的原子と言ったが、これは、氣的有機体、氣的物質体、氣的生命体へと敷延できる。
 この連結体において、物質部分が常に消滅することになるのであり、それに対して、氣が新たに形成するのである。
 とまれ、氣と有機的物質体の分離の力学を解明する必要があるが、今は一言言うのみである。
 思うに、陰陽虚軸の90°回転がなくなると、日光現象はなくなるのであるから、有機体はエネルギーを枯渇させて消滅するだろう。つまり、虚軸の90°回転がなくなるときが消滅、死滅を意味するのであり、それがエントロピーの増加である。
 ここで作業仮説であるが、左回転をエネルギー生成とし、右回転をエネルギー消滅とする。左回転と右回転はエネルギー保存則で説明できよう。作用、反作用でも説明できよう。
 つまり、最初の90°左回転で、生命が生じる。その後、揺り戻し、90°右回転が生じる。これが、元の虚軸に返ると思われるのであり、日光は消滅するのである。
 結局、虚軸の90°回転の発生とその回帰が発生と消滅の力学ではないだろうか。
 ここで注意は、虚軸から90°左回転は、天への伸長を、虚軸から90°右回転は地への伸長を意味すると仮定する。
 今は予見に留める。
 
***************************

宇宙のリズムにそった生き方

今回の「はせくらみゆき」さんの本は重要キ−ワ−ド満載です。

抜粋します。

天の意志とも呼べるもので、天意(あい)といいます。

調和をとりながらスピンしている状態を「愛」と呼ぶようです。

陽子の持つバイブレ−ションは意志を担当し、常に愛の方向性へ向かっていく。
一方、中性子の持つバイブレ−ションは意識を担当し、常に調和の方向へと向かっていく。
そして、電子の持つバイブレ−ションは、意志と意識からなる子どものようなもので、愛という
宇宙の脈動を、他の電子、分子に伝え、コミュニケ−ションをとっているということ
だったのです。

どこまでも働く重力の力=天意(愛)ゲ−ジ粒子はグラビトン(未発見)
物質を繋ぎとめる強い核力=絆   ゲ−ジ粒子はグル−オン
物質を崩壊させる弱い核力=進化  ゲ−ジ粒子はウィ−クボソン+-
物質に内包する電磁気力=光    ゲ−ジ粒子はフォトン(光子)

次元とは時空間における周波数帯の相違のことを指します。

通常、奇数次元は主に創造的な性格を持ち、偶数次元は構造的な性質を持っています。

ちなみに次元を縦方向に認識すると多次元宇宙となり、横方向に認識すると並行宇宙に
なります。

多世界宇宙であるというのが真実です。

一次元とは地球のコアである鉄クリスタルの核のある領域で、重力の働きを指します。

二次元は、土と元素の領域です

私たちの身体をいたわったりすることは、身体の中にある元素や細胞たちも喜ぶので、
二次元地球もよろこばせていることになるんですね。
また、大地を敬い、大地と共に生きようとする姿勢、歌や踊り、祈り、笑い、
喜のバイブレ−ションを放つことも、二次元時空間が宇宙との調和度が高く、満たされる
コツになります。
余談ですが、カルマとはエ−テル内に帯電した陽電子のかたまりのことをいいます。
これを現象という名の対生成、対消滅によって、古い記憶にしばられた陽電子のかたまりを
光還元してしまって昇華していくわけですが、

三次元は直線的に認識する時間を持つ物質世界です。

私たちの本質は肉体ではなく、その中に入っているいのち(魂)が主なのですが、今の人類の
ほとんどは肉主霊従となっていて肉体と自我だけが自分のすべてだと思っているんですね。

私たちの本質はいのちであり、いのちが肉体という入れ物に入ってスタディしているというのが
真実です。

それは物質性のあるこの世界で天意(愛)を体現しにきたってことなんです。

愛の学校が地球星です。
三次元があるおかげで、いろんな周波数のものが物質という殻に保護されて存在できるので、
それこそ低次元から高次元までが、同じ空間に存在することが出来るんですね。

さて、四次元は元型の領域をいい、想念や感情の織り成す世界です。

すべての次元は、この四次元の想念世界を通して、対応する周波数帯の次元へと導かれて
いきます。

というわけで、三次元世界に起こる現象のモトは必ずこの次元にあります。
http://ameblo.jp/wingmakersiriusu/entry-11803001778.html
シリウスの癒し(天の知を説く声のブログ)



人間ルネサンスのための無料の指導:氣的身体理性主義を推奨
人間ルネサンスのための無料の指導:氣的身体理性主義を推奨

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

私は気功や道教等の影響で、かなり長い間、肚を中心化して、生きてきたが、今はそれは誤りであることが判明した。
 勿論、肚は根底ではあるが、中心ではないのである。
 中心は氣である。胸の中(中丹田)の氣である。しかし、氣一神教ではない。氣を中心としつつも、身体、有機的身体を重視し、かつ、そのための知性・理性を尊び実践するのが大事である。いわば、氣=身体=理性の三位一体である。氣の三位一体である。
 これによって、健康も、心も、そして、身体も新生するのである。そう、若返るのである。
 身体重視は乳酸菌を取ることや、運動である。私は豆乳ヨーグルトを食し、森氣浴瞑想散策を行なっている。
 理性であるが、これは、検索すれば、たくさん健康のための食事方法が出ている。私は基本的に小食と穀菜食である。玄米と生野菜が中心である。
 そして、いちばん重要なので、氣的感性である。氣の快感、あるいは、氣的美感を重視するのである。これは身体・肉体の快感とは、ズレるのである。身体・肉体は欲望に左右されるが、氣の快感・美感はその欲望とはズレるのである。(氣を涵養するには、生の自然に触れることがもっとも大事である。とりわけ、原生林や森に接触することである。都会では難しい。また、よい芸術、音楽、文学に触れることが必要である。私は特に、音楽、ポップスを推奨する。AmericaとABBAがすばらしい。)
 氣は身体・肉体に関わりつつ、精神・心・知性・理性に関係するのである。以前述べたように、精神と身体の媒介なのであり、ここが要なのである。氣というメディアがキーポイントなのである。
 ただし、気功とかは推奨しない。ただ、出発点にはなるだろうが。
 とまれ、氣に基づく、氣的身体理性主義によって、心身を陶冶することを目指すべきである。
 人間ルネサンスである。
 
追記:理性形成は、勿論、読書が必要である。読言である。言葉は、心や頭脳の栄養である。理性の栄養である。
 古典を奨めるものの、その際、氣重視の姿勢、身体鍛練の実践は忘れてはならない。理性、氣、身体の三位一体主義である。

追記2:現実、経済的なことを言うと、実は、引き寄せがあると思うのである。心身が氣三位一体的に充実するならば、自然に経済的活路を見い出すと思われるのである。
 そう、端的に言えば、本人の氣が引き寄せるのである。氣は人を生かすものであり、人を惹きつけるのであり、人を呼ぶのであり、結局、よき生業を呼ぶのである。

追記3:氣ー身体ー理性の氣三位一体論の強みは、宗教にならないことである。勿論、宗教も包摂できるのである。氣を神にする人もあるだろうが、それはオプションである。(追記:さらに、オカルト主義やスピリチュアル主義にもならないのである。確かに、私は霊学のシュタイナーの影響を強く受けているが、氣を超える霊を私は説いていない。氣の様態としては霊を考えるのであり、あくまで、氣が本体である。スピリチュアル主義であるが、それは、一種の一神教である。それは、確かに、鋭い面をもつが、身体や理性の多元性を看過する欠陥があると考えられる。)
 思うに、氣的身体理性主義とは、身体は経験論であり、理性は合理論であり、そして、氣的快感・美感とは、経験論的でもあるが、同時に観念論でもあるのである。何故なら、氣は内在超越性に通じるからである。形而上学に通じるからである。
 故に、氣的身体理性論は、経験論、合理論、観念論の統合であると言える。
 思えば、カントは構想力(想像力)によって、理性と感性の統一を考えたが、構想力では不十分である。それは観念論的であり、経験論、身体論に到達しないのである。
 そう、氣は構想力(想像力)をも包摂するのである。
 氣的身体理性論は、カント哲学を乗り越えたものである。また、プラトン哲学との関係であるが、確かに、陰陽イデアを説く点では、プラトン哲学の影響を受けているのであり、プラトン哲学は有効である。しかしながら、氣を重視する点で、プラトン哲学をも超えていると考えられる。


2014年03月26日(Wed)▲ページの先頭へ
太陽の内在超越的背景には、陰陽イデア情報(原宇宙創造情報)が存すると仮説する
図像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11805081122.html

太陽の内在超越的背景には、陰陽イデア情報(原宇宙創造情報)が存すると仮説する

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

私は先に、太陽ないし日光には、陰陽イデア情報(つまり、全宇宙情報)が内包されること(正確に言えば、内在超越的「存在」として包摂されること)を提起した。
 以下の参照の私の記事と以下のIn Deepの記事を比較されたい。

***************************

* 黒点群 2014 が噴出した異常な太陽フレア。そして、その太陽の下の世界は狂気と暴力の度合いが増しているように見えて


私自身は、社会の行方は、太陽の活動の影響を大きく受けるものだと思っています。そして、太陽活動最大期の今年は大きな影響を受けるものだと考えています。

それは天候や戦争やパンデミックなど全体のことだけではなく、たとえば、人間ひとりひとりの精神・メンタルに影響すれば、犯罪を含む「人間行動の異常」が世界的に広がってしまうかもしれないというような感覚も含まれます。

その「主」である太陽が異常なままなら、その「従」である私たち人間とその社会生活が正常を保てるとも思えないのです・・・。

過去記事で何度か取り上げたことがあります、 18世紀の『薔薇十字の秘密のシンボル』には下のようなイラストがあります。

bara-777.jpg

このイラストの正確な解釈はわかりませんが、「太陽の中に神様がいるっぽい」雰囲気のようにも見えます。

あるいは逆に、「神様っぽい存在から太陽のコロナが出ている」(つまり、太陽は神様そのもの)というようにも見てとれます。
http://oka-jp.seesaa.net/article/392509199.html

In Deep

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参照:
日光と太陽の区別:実軸と実軸を除いたガウス平面を包摂するMP(原点)
テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化
先に、以下(***の下部)のように書いたが、補足したい。
 太陽と日光は別物であるから、区別しないといけない。
日光は既述のようにx軸=実軸でいいだろう。
 しかし、太陽はx軸とy軸のガウス平面を内在する原点(MP:メディア・ポイント)だと思う。ただし、実軸x軸を除いて。


                   虚軸(陰陽軸)
                     陰凹i
                      |
                      |
                      |
                      |
−1_____MP_____+1 実軸(天地軸)
                      |
                      |
                      |
                      |
                     陽凸i


先に書いた上図のMPが太陽の中心になる。太陽総体はこの実軸を除いたガウス平面総体と考えるのである。
 問題は日光である。これは、陰陽イデアを内在超越的に内包するのではないだろうか。
 だから、日光は単純な光、電磁波ではないのである。陰陽イデアという内在超越情報をもっていると考えるのである。
 この陰陽イデア情報が有機体形成の情報になると思われるのである。
 ここでわかりやすくするため、陰陽イデア情報による生命体形成を考える。
 日光を媒介にして、陰陽イデア情報が現象界に伝達されるのである。そして、陰の成分は、例えば、内臓的なものに、そして、陽の成分は骨格的なものになると考えられるのである。
 大雑把に言えば、陰は水的なものであり、陽は鉱物的なものになるのである。わかりやすく便宜的に言えば、陰は内界に、陽は外界になるのである。
 もっとわかりやすく言えば、陰は肚(下丹田)に、陽は頭脳(上丹田)になるのである。そして、MPは胸の心(中丹田)になるのである。
 というように、光ではなく、日光、陽光、太陽光に、生命体の根源があると考えられるのである。
 ただし、日光が包摂する陰陽イデア情報が生命有機体、自然の本質である。
 後で、この陰陽イデア情報の生命有機体化する力学を解明する必要がある。
 
 
***************************

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質:x軸=実軸=日光軸、y軸=虚軸=陰陽軸、z軸=天地軸=時間軸



この三次元直交座標で、x軸を実軸、y軸を虚軸、z軸を時間軸とする。x軸とy軸でガウス平面を形成する。
 そして、虚軸=y軸=陰陽軸となる。これが、90°回転して、x軸=実軸の±1を形成する。これが日光である。だから、
x軸=実軸=日光(太陽)軸である。 
 そして、90°回転と同時に、z軸=時間軸が生起する。
 これが、日光を物質化するのである。そう、有機体化である。
結局、z軸=時間軸=有機体軸である。
 結局、ガウス平面とは、氣平面であり、実軸において、太陽となり、視覚化されるのである。
 これで、日光の本体が氣であるということが証明されたと言えよう。
 結局、z軸=時間軸=有機体軸は、x軸=実軸=日光(太陽)軸と同時展開である。そして、xyz軸以外に、空間三次元が発現するということになると考えられる。(ここで、四元数が適用できよう。)
 とまれ、以上のように考えると、氣が根源であるものの、日光(太陽)が有機体の基因であると考えられる。
 初めに、太陽ありき、である。
 いわば、光から物質が生まれるのである。
そして、光は氣から生まれるのである。即ち、

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質

である。
 暫定的ではあれ、以上から氣から有機体の発生が以前より、明快になったと言えよう。ポイントは、日光が媒体であるということである。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11803090704.html


2014年03月24日(Mon)▲ページの先頭へ
日光と太陽の区別:実軸と実軸を除いたガウス平面を包摂するMP(原点)
図像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11803239276.html

日光と太陽の区別:実軸と実軸を除いたガウス平面を包摂するMP(原点)

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に、以下(***の下部)のように書いたが、補足したい。
 太陽と日光は別物であるから、区別しないといけない。
日光はx軸=実軸でいいだろう
 しかし、太陽はx軸とy軸のガウス平面を内在する原点(MP:メディア・ポイント)だと思う。ただし、実軸x軸を除いて。


                   虚軸(陰陽軸)
                     陰凹i
                      |
                      |
                      |
                      |
−1_____MP_____+1 実軸(天地軸)
                      |
                      |
                      |
                      |
                     陽凸i


先に書いた上図のMPが太陽の中心になる。太陽総体はこの実軸を除いたガウス平面総体と考えるのである。
 問題は日光である。これは、陰陽イデアを内在超越的に内包するのではないだろうか。
 だから、日光は単純な光、電磁波ではないのである。陰陽イデアという内在超越情報をもっていると考えるのである。
 この陰陽イデア情報が有機体形成の情報になると思われるのである。
 ここでわかりやすくするため、陰陽イデア情報による生命体形成を考える。
 日光を媒介にして、陰陽イデア情報が現象界に伝達されるのである。そして、陰の成分は、例えば、内臓的なものに、そして、陽の成分は骨格的なものになると考えられるのである。
 大雑把に言えば、陰は水的なものであり、陽は鉱物的なものになるのである。わかりやすく便宜的に言えば、陰は内界に、陽は外界になるのである。
 もっとわかりやすく言えば、陰は肚(下丹田)に、陽は頭脳(上丹田)になるのである。そして、MPは胸の心(中丹田)になるのである。
 というように、光ではなく、日光、陽光、太陽光に、生命体の根源があると考えられるのである。
 ただし、日光が包摂する陰陽イデア情報が生命有機体、自然の本質である。
 後で、この陰陽イデア情報の生命有機体化する力学を解明する必要がある。
 
 
***************************

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質:x軸=実軸=日光軸、y軸=虚軸=陰陽軸、z軸=天地軸=時間軸



この三次元直交座標で、x軸を実軸、y軸を虚軸、z軸を時間軸とする。x軸とy軸でガウス平面を形成する。
 そして、虚軸=y軸=陰陽軸となる。これが、90°回転して、x軸=実軸の±1を形成する。これが日光である。だから、
x軸=実軸=日光(太陽)軸である。 
 そして、90°回転と同時に、z軸=時間軸が生起する。
 これが、日光を物質化するのである。そう、有機体化である。
結局、z軸=時間軸=有機体軸である。
 結局、ガウス平面とは、氣平面であり、実軸において、太陽となり、視覚化されるのである。
 これで、日光の本体が氣であるということが証明されたと言えよう。
 結局、z軸=時間軸=有機体軸は、x軸=実軸=日光(太陽)軸と同時展開である。そして、xyz軸以外に、空間三次元が発現するということになると考えられる。(ここで、四元数が適用できよう。)
 とまれ、以上のように考えると、氣が根源であるものの、日光(太陽)が有機体の基因であると考えられる。
 初めに、太陽ありき、である。
 いわば、光から物質が生まれるのである。
そして、光は氣から生まれるのである。即ち、

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質

である。
 暫定的ではあれ、以上から氣から有機体の発生が以前より、明快になったと言えよう。ポイントは、日光が媒体であるということである。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11803090704.html


氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質:x軸=実軸=日光軸、y軸=虚軸=陰陽軸、z軸=天地軸=時間軸
氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質:x軸=実軸=日光軸、y軸=虚軸=陰陽軸、z軸=天地軸=時間軸

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

素描:氣の有機体現象への次元転換力学:以前の視点に戻る
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11802798561.html

先に以上のものを書いたものの、氣から有機体変換の力学は不明である。単に、数理的に提示しただけである。
 また考え直した。(どうも、袋小路的状況である。)
 陰陽の90°回転で、±1が生じる。−1を陽子、+1を電子とみるのである。符号的には逆であるが、一応そうしておく。
 これが水素原子を形成すると考える。
 そうすると、+と−は電荷、電極を意味すると言えよう。
 ここで、また、天地軸の視点を使うのである。つまり、ガウス平面に直交する軸である。
 ここで天地軸を時間軸と考えるのである。そうすると、水素原子は、動的に展開するだろう。これで、分子やその他、有機体が形成されるとするのである。
 おそらく、時間軸は物質軸ではないだろうか。あるいは、現象軸である。
 そうすると、+1と−1は、水素原子ではなく、原水素原子であろう。物質化以前である。前物質、前水素原子である。
 それが、時間化されて物質になると思われる。
 しかし、90°回転で、必然的に時間が生まれると思う。
 すると、陰陽⇒前水素原子ー水素原子である。
 ガウス平面をイデア平面とすると、時間軸=物質軸によってもたらされるのは、現象界である。だから、現象とはイデアの時間化のこととなろう。
 イデアが時間化されることで、有機体が現象すると思われる。
あえて言えば、イデアの時間化が物質化である。
 そう、時間軸を考えたとき、それも+1と−1とすれば、四元数を適用できよう。ガウス平面の虚軸をy軸、実軸をx軸、時間軸をz軸とすれば、実軸と時間軸の両者に±1があることになる。
 ならば、実軸と言い方は不適切であるが、暫定的にそう使用する。
 とまれ、以上から、時間が物質化の原因である。
 そうすると、日光はどうなるだろうか。
 思うに、実軸の±1を日光におけないだろうか。日光自体は、質量がない。いわば、前物質である。
 そうならば、日光が時間をもたらすのである。日光が物質形成をするのである。
 ここで少し整理する。



この三次元直交座標で、x軸を実軸、y軸を虚軸、z軸を時間軸とする。x軸とy軸でガウス平面を形成する。
 そして、虚軸=y軸=陰陽軸となる。これが、90°回転して、x軸=実軸の±1を形成する。これが日光である。だから、
x軸=実軸=日光(太陽)軸である。 
 そして、90°回転と同時に、z軸=時間軸が生起する。
 これが、日光を物質化するのである。そう、有機体化である。
結局、z軸=時間軸=有機体軸である。
 結局、ガウス平面とは、氣平面であり、実軸において、太陽となり、視覚化されるのである。
 これで、日光の本体が氣であるということが証明されたと言えよう。
 結局、z軸=時間軸=有機体軸は、x軸=実軸=日光(太陽)軸と同時展開である。そして、xyz軸以外に、空間三次元が発現するということになると考えられる。(ここで、四元数が適用できよう。)
 とまれ、以上のように考えると、氣が根源であるものの、日光(太陽)が有機体の基因であると考えられる。
 初めに、太陽ありき、である。
 いわば、光から物質が生まれるのである。
そして、光は氣から生まれるのである。即ち、

氣⇒日光(太陽)⇒有機体物質

である。
 暫定的ではあれ、以上から氣から有機体の発生が以前より、明快になったと言えよう。ポイントは、日光が媒体であるということである。
 後でさらに検討したい。


2014年03月23日(Sun)▲ページの先頭へ
素描:氣の有機体現象への次元転換力学:以前の視点に戻る
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11802798561.html

素描:氣の有機体現象への次元転換力学:以前の視点に戻る

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

今日も森の思索の杉木立の場で、理論的思いを巡らせた。
 どうも、天地軸=現象軸=身体軸への転換、つまり、陰陽ー時間のガウス平面から物質現象への転換力学がうまく説明できないのである。簡潔に言えば、氣がどうやって、有機体、生命物質体、自然物質体になるのか、ということである。
 先に、氣と自然現象の即非の論理(矛盾論理)について提起した。つまり、氣=自然現象であり、且つ、氣≠自然現象であるということである。
 しかし、これは、あまりに一般的説明で、科学的説明、力学的解明になっていない。
 
 今、どうもだいぶ以前の発想に戻って再考する。
 陰陽方程式:陰凹i*陽凸i⇒±1において、左辺をイデア界、右辺を現象界とする。この場合、次元数は無視する。
 天地軸があるならば、それは、±1である。つまり、実軸が天地軸である。
 そして、それはまた、現象を意味するから、なんらかの螺旋現象をその周囲に想定する。(四元数で言えば、実数が天地軸で、虚数が空間軸となろう。)
 結局、陰陽の共鳴によって有機体現象が生起するのであり、陰陽霊の次元変換によって、有機体が形成されるということで、虚数が氣であり、実数が現象物質であると言えよう。(ただし、この場合の虚数は四元数の虚数ではない。ガウス平面の虚数を霊的虚数、四元数の虚数を物質的虚数と言えるかもしれない。) 
 とまれ、+1が天であり、−1が地となる。
 そして、陰陽とは陰陽円、陰陽渦巻を形成するのであり、それは、ガウス平面とは直交する平面であり、ガウス平面上には作図できないとする。
 そして、実軸=天地軸の有機体現象であるが、それは、当然、三次元空間、ないし四次元時空間であり、それもガウス平面上には作図できない。逆に言うと、虚軸で、陰陽界を、実軸で現象界を縮約的に表現するということである。
 では、そうすると、氣はどうなるのだろうか。
 氣エネルギーは⇒になると思う。そして、⇒+1が氣的有機体である。そして、+1は純粋物質である。
 では、−1は何だろうか。
 以前述べたが、それは、動物的自然に関係するのではないだろうか。この件は今はここで留めておく。
 結局、元に戻って、虚数の実数への次元転換が氣から物質への力学ということになる。
 今はここで留める。

追記:以上は簡単に作図できる。

                   虚軸(陰陽軸)
                     陰凹i
                      |
                      |
                      |
                      |
−1_____MP_____+1 実軸(天地軸)
                      |
                      |
                      |
                      |
                     陽凸i


ただし、陰陽はガウス平面に直交するような陰陽円=陰陽渦巻をもつ。そして、実軸=天地軸であるが、それを基軸として、周囲に螺旋現象(三次元)が生起する。
 ただし、氣について言うと、陰陽方程式:陰凹i*陽凸i⇒±1において、上記のように、⇒が氣エネルギー(動的な氣、エネルゲイアの氣)である。虚軸の陰陽の氣であるが、それは、いわば、ポテンシャル・エネルギーの氣である。哲学的には、イデアの氣ないしデュナミスの氣である。
 次のTHRIVEのアップルを右に90°回転させて、見るとよい。
 
参考図:映画THRIVEの宇宙を表わすアップル像
 
resurrectionのブログ
 


天地軸は物質軸?:虚軸=陰陽イデア情報、実軸=時間(エネルギー)、天地軸=身体軸
図像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11802017238.html

天地軸は物質軸?:虚軸=陰陽イデア情報、実軸=時間(エネルギー)、天地軸=身体軸

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

陰陽方程式:陰凹i*陽凸i⇒±1:実軸は時間軸:+1が氣、−1が物質エネルギーという作業仮説
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11800193591.html

先の以上の私見は思いつきであり、暫定的に過ぎない。
 今日、森の一角の屹立する杉木立のいつもの思索の場で想像したのは、天地軸は物質軸であり、それが、陰陽情報時間エネルギーに物質的様態を与えるのではないかということである。
 ガウス平面の虚軸の陰陽イデア情報(形態情報も含む)と実軸の時間エネルギーが原点(MP:メディア・ポイント:言うならば、虚穴、虚孔)において、天地軸を基軸として、螺旋に現象すると考えるが、そのとき、陰陽イデアと時間エネルギーに物質形状、物質様態、あるいは、身体を与えるのは、天地軸の成分のように思えたのである。
 だから、天地軸を物質軸あるいは身体軸と呼べるのではないだろうか。あるいは、アリストテレス哲学で言うと、質料になるだろう。
 言わば、イデア・エネルギーに物質を付着させるのである。
 しかし、そのメカニズムは微妙と思われる。
 陰陽イデア情報(あるいは、自然情報、生命情報、有機体情報)に従って、物質身体化するのであるが、そのとき、情報自体が物質化すると同時に、情報自体は物質化自体とは別に存していると思われる。つまり、即非の関係がそこにはあると思われる。
 即ち、陰陽生命情報・即非・生命物質現象ということである。簡単に言えば、氣・即非・身体である。
 つまり、氣は身体に存すると同時に存しないという矛盾論理にあるのである。あるいは、氣は内在的であると同時に、超越的であるということになるのである。
 そして、身体であるが、それは、氣の物質的様態であるが、物質的エントロピーをもつと思われる。それ故に、死滅すると考えられるのである。
 氣自体は、超越的氣自体はおそらく、不滅である。しかし、氣の物質的様態である身体は死滅する。
 霊学的に言えば、氣が霊であり、身体が物質である。
 今はここで留める。

参照:以下の三次元直交座標のx軸を実軸、y軸を虚軸、z軸を天地軸に見られたい。x軸=時間軸、y軸=陰陽軸、x軸=現象軸である。x軸とy軸でガウス平面を形成するが、それらは内在超越平面で不可視である。原点(MP:メディア・ポイント)から三次元空間が発現する。しかし、生命現象はz軸を基軸として、螺旋を描くと見る。




追記:天地軸を物質軸、身体軸、ないし、質料軸とした場合、それは、先に述べたように、実軸(±1)である時間の一種の次元転換されたものに思える。
 先には、−1を物質エネルギー、+1を氣としたが、それは、破棄する。つまり、物質エネルギーは当然、天地軸(これは、思うに、仮象軸とも言えるのであり、簡単に、仮軸と呼べよう。あるいは、現象軸、現軸と呼べよう。あるいは、身体軸、身軸、体軸である。)であり、氣は陰陽である虚軸に存するとするのである。
 では、問題は、実軸=時間軸の−1と+1は何を意味するのかということである。
 負の時間と正の時間? 森の中の思索では、それらは、電磁気の極性であった。
 でも、現時点では、時間の方がいい。
 思うに、−1は未来から来る時間で、+1は過去から来る時間だろうか。
 そうならば、極性的時間が共振して、自然現象が発生するということになる。
 この問題はおいておく。

追記2:今閃いたことだが、+1は生の時間で、−1が死の時間ではないだろうか。あるいは、それぞれ、生エネルギーと死エネルギーである。フロイト的に言えば、エロスとタナトスである。
 生命体において、初め、+1の生時間エネルギーが作用し、そのエネルギーが衰滅すると、−1の死時間エネルギーが発動するようになるのではないだろうか。言わば、時間エネルギー保存の法則である。
 言い換えると、構築と脱構築の関係となろう。わかりやすく言うと、生と死のリズムである。これは、わかりやすいだろう。一日においても、このリズムがあるだろう。昼と夜のリズムである。
 今はここで留める。
 
参照2:
映画THRIVEのアップルの形態が参考になる。即ち、以下の画像であるが、渦巻がガウス平面=陰陽平面=渦巻平面に当たり、そして、渦巻の中心から垂直に伸びる柱のようなものが天地軸であり、そして、それに絡まるような螺旋が自然・生命・有機体現象と見たい。)

参考図:映画THRIVEの宇宙を表わすアップル像
 
resurrectionのブログ

参照3:

参考:以下、『海舌』氏のガウス平面を使用した人間認識図を提示する。ただし、実軸の捉え方は今の時点とは異なっている。

      『海舌』氏の人間認識図(要大修正)

(要注意:
1)虚軸の陽凸を光、陰凹を闇とするのは、間違いであり、前者は陽凸i⇒陽自我【知性】とし、後者を陰凹i⇒陰自我【感性】とする。(追記:これは、現時点(2014年3月20日)において、私の間違いであり、『海舌』氏の視点は正しい。)

2)実軸+1=存在・現存在、実軸−1=超越的存在とするのも誤りで、+1と−1を電極、磁極の極性と見る。

3)記述されている象限の見方も誤りとし、新しい視点では、第一象限は理性、哲学、第二象限は科学、知性、第三象限は生活、第四象限は直観・直感、芸術、のそれぞれの領域・圏と見る【暫定的である】。

4)原点をMP【Media Point:メディア・ポイント】とするが、虚軸上の原点をMP1、実軸の原点をMP2とする。そして、極めて重要なことは、MP1とMP2が不連続・非連続であることである。MP1⇒MP2はあるが、逆、MP2⇒MP1は成立しない。だから、先に、陰陽方程式を陰凹i*陽凸i⇔±1にしたのは誤りであり、訂正する。陰陽調和心は原点、即ち、MP1に存する。そして、それは、MP2を派生するだろう。D. H. ロレンスのセクシュアリティはこのMP1とMP2の連結にあるだろう。

5)これは、作業仮説的であるが、植物の氣は当然、虚軸に存するのであり、これは、動物にも存するが、動物的身体は、実軸が主導的だと思う。それに対して、植物的身体は虚軸が主導的だと思う。つまり、植物は氣が主導的であり、動物は物質が主導的である。言い換えると、植物と動物、当然、両者、氣的身体【ガウス平面の虚軸と実軸の十字架】をもつが、前者は虚軸の氣が主導的で、後者は実軸の物質性が主導的である。ただし、人類は動物から植物へと進化の過程にあると見る。)

 今思いついたが、(もっとも、以前考えたことだが、)+1と−1を物質的極性と見ることである。つまり、磁界や電界の極性である。つまり、NとS、プラスとマイナスである。
 電子で言えば、+1が陽電子であり、マイナスが陰電子である。磁界で言えば、+1がN極であり、−1がS極である。
 電磁波は両者を合わせればいいだろう。つまり、+1と−1は電磁波を表わすということである。とまれ、実軸が物質軸であるというは納得しやすいだろう。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11794887872.html?frm_src=thumb_module


2014年03月22日(Sat)▲ページの先頭へ
思いつき:天地軸は物質軸?:虚軸=陰陽イデア情報、実軸=時間(エネルギー)、天地軸=身体軸
思いつき:天地軸は物質軸?:虚軸=陰陽イデア情報、実軸=時間(エネルギー)、天地軸=身体軸

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

陰陽方程式:陰凹i*陽凸i⇒±1:実軸は時間軸:+1が氣、−1が物質エネルギーという作業仮説
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11800193591.html

先の以上の私見は思いつきであり、暫定的に過ぎない。
 今日、森の一角の屹立する杉木立のいつもの思索の場で想像したのは、天地軸は物質軸であり、それが、陰陽情報時間エネルギーに物質的様態を与えるのではないかということである。
 ガウス平面の虚軸の陰陽イデア情報(形態情報も含む)と実軸の時間エネルギーが原点(MP:メディア・ポイント:言うならば、虚穴、虚孔)において、天 地軸を基軸として、螺旋に現象すると考えるが、そのとき、陰陽イデアと時間エネルギーに物質形状、物質様態、あるいは、身体を与えるのは、天地軸の成分の ように思えたのである。
 だから、天地軸を物質軸あるいは身体軸と呼べるのではないだろうか。あるいは、アリストテレス哲学で言うと、質料になるだろう。
 言わば、イデア・エネルギーに物質を付着させるのである。
 しかし、そのメカニズムは微妙と思われる。
 陰陽イデア情報(あるいは、自然情報、生命情報、有機体情報)に従って、物質身体化するのであるが、そのとき、情報自体が物質化すると同時に、情報自体は物質化自体とは別に存していると思われる。つまり、即非の関係がそこにはあると思われる。
 即ち、陰陽生命情報・即非・生命物質現象ということである。簡単に言えば、氣・即非・身体である。
 つまり、氣は身体に存すると同時に存しないという矛盾論理にあるのである。あるいは、氣は内在的であると同時に、超越的であるということになるのである。
 そして、身体であるが、それは、氣の物質的様態であるが、物質的エントロピーをもつと思われる。それ故に、死滅すると考えられるのである。
 氣自体は、超越的氣自体はおそらく、不滅である。しかし、氣の物質的様態である身体は死滅する。
 霊学的に言えば、氣が霊であり、身体が物質である。
 今はここで留める。

追記:天地軸を物質軸、身体軸、ないし、質料軸とした場合、それは、先に述べたように、実軸(±1)である時間の一種の次元転換されたものに思える。
 先には、−1を物質エネルギー、+1を氣としたが、それは、破棄する。つまり、物質エネルギーは当然、天地軸(これは、思うに、仮象軸とも言えるのであり、簡単に、仮軸と呼べよう。あるいは、現象軸、現軸と呼べよう。あるいは、身体軸、身軸、体軸である。)であり、氣は陰陽である虚軸に存するとするのである。
 では、問題は、実軸=時間軸の−1と+1は何を意味するのかということである。
 負の時間と正の時間? 森の中の思索では、それらは、電磁気の極性であった。
 でも、現時点では、時間の方がいい。
 思うに、−1は未来から来る時間で、+1は過去から来る時間だろうか。
 そうならば、極性的時間が共振して、自然現象が発生するということになる。
 この問題はおいておく。

追記2:今閃いたことだが、+1は生の時間で、−1が死の時間ではないだろうか。あるいは、それぞれ、生エネルギーと死エネルギーである。フロイト的に言えば、エロスとタナトスである。
 生命体において、初め、+1の生時間エネルギーが作用し、そのエネルギーが衰滅すると、−1の死時間エネルギーが発動するようにねるのではないだろうか。言わば、時間エネルギー保存の法則である。
 言い換えると、構築と脱構築の関係となろう。わかりやすく言うと、生と死のリズムである。これは、わかりやすいだろう。一日においても、このリズムがあるだろう。昼と夜のリズムである。
 今はここで留める。










 
精神教育の必要:利己主義、連続的同一性主義、陽自我と陰自我の癒着、アーリマンとルシファー

テーマ:evilness, egotism

後で論考したい。
 今は一言。
 利己主義が今、いちばんの心的問題ではないだろうか。
 利己主義とは、言い換えると、悪(悪魔、悪霊、悪鬼、邪悪、邪霊)の問題である。
 それは、やはり、シュタイナーの悪魔論が役立つようだ。ただし、そのままは使わない。
 陽自我は独一性である。これは、我のみ正しで、他者を否定し、排除するのである。
 それ対して、陰自我があり、これは、欲望、感情である。
 両自我が結びついたのが、利己主義ないし自己中心主義である。
 両自我の結合は、哲学(不連続的差異論)的には連続的同一性主義と言える。
 とまれ、父権的意識は利己主義に帰結する。とりわけ、唯物論においてはそうなる。
 これは、必然的に、唯我独尊で、狂気、暴力となるのである。
現代日本社会、とりわけ、日本の支配層・権力層がそうである。
 ただし、日本父権民族が世界專葬資本に恫喝洗脳されていることが利己主義の極端化の原因ではある。
 ただし、真因は日本父権主義に見出さなくてはならない。









精神教育の必要:利己主義、連続的同一性主義、陽自我と陰自我の癒着、アーリマンとルシファー

テーマ:evilness, egotism

後で論考したい。
 今は一言。
 利己主義が今、いちばんの心的問題ではないだろうか。
 利己主義とは、言い換えると、悪(悪魔、悪霊、悪鬼、邪悪、邪霊)の問題である。
 それは、やはり、シュタイナーの悪魔論が役立つようだ。ただし、そのままは使わない。
 陽自我は独一性である。これは、我のみ正しで、他者を否定し、排除するのである。
 それ対して、陰自我があり、これは、欲望、感情である。
 両自我が結びついたのが、利己主義ないし自己中心主義である。
 両自我の結合は、哲学(不連続的差異論)的には連続的同一性主義と言える。
 とまれ、父権的意識は利己主義に帰結する。とりわけ、唯物論においてはそうなる。
 これは、必然的に、唯我独尊で、狂気、暴力となるのである。
現代日本社会、とりわけ、日本の支配層・権力層がそうである。
 ただし、日本父権民族が世界專葬資本に恫喝洗脳されていることが利己主義の極端化の原因ではある。
 ただし、真因は日本父権主義に見出さなくてはならない。


2014年03月20日(Thu)▲ページの先頭へ
陰陽方程式:陰凹i*陽凸i⇒±1:実軸は時間軸:+1が氣、−1が物質エネルギーという作業仮説
図像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11800193591.html

陰陽方程式:陰凹i*陽凸i⇒±1:実軸は時間軸:+1が氣、−1が物質エネルギーという作業仮説

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に以下を述べた。
 余裕がないので、十分検討できないが、問題点の予見を一言述べよう。(三次元直交座標は以下の画像を参照されたい。)
 理念・イデアである陰陽が90°回転して、時間へと次元転換すると、同時に、ガウス平面に直交する天地軸(自然現象軸)が形成され、自然現象が生起すると思われる。(うまく作図できないので、以下の図を借用する。x軸とy軸の座標平面をガウス平面、つまり、x軸を実軸、y軸を虚軸に見るのである。そして、z軸を天地軸にするのである。)

円筒座標(円柱座標)

 直交座標と円筒座標の座標変換について述べます。変数はそれぞれ下記が用いられます。

   直交座標(x, y, z)

   円筒座標(r, q, z)




 

円筒座標(r, q, z) ⇒直交座標(x, y, z)
http://ryutai.ninja-web.net/appendix/appendix_3_1.html
有限要素法・流体力学による数値計算


そう、天地軸は生命エネルギーを意味すると思われる。これは、物質エネルギーというか、有機体エネルギーであり、有機体的物質エネルギーである。
 しかしながら、ガウス平面を内在超越的に具有していよう。言い換えると、天地軸の生命・有機体エネルギーは氣エネルギーを超越的に内包しているということである。
 そして、この部分を唯物論である近現代科学、自然科学は看過するのである。生命エネルギーに単に物質エネルギーしか見ないのである。
 とまれ、この天地軸の生命エネルギーは、直観では、大地や腹から天を目指して、垂直に伸長するように想像されよう。
 しかし、理論的には、原点からエネルギーが生起するのである。腹ではなく、胸でなくてはならないはずであるが、どうして、腹になるのか。あるいは大地に。
 どうも、以前考えた陰主導説を再採用する必要があるようだ。
 今の時点で考えると、陰は共感性で、牽引力をもつ。それが、陽を惹きつけるのである。それで渦巻そして螺旋が形成されると考えられる。
 だから、陰陽結合とは、陰主導なのである。実際、天地軸における生命エネルギーは「陰」から発生するようになるということになろう。(ここでの「陰」は天地軸の地に相当する。)
 そう、やはり、陰陽論は的確である。陰を先に置くのは正しいということになる。
 本題を続けよう。
 問題は、有機体の物質、有機物をどう説明するかなのである。あるいは、氣の有機的物質化の力学は何かである。
 作業仮説的に、ガウス平面の実軸=時間軸=日光軸=物質軸とする。
 これで、有機体の物質の原因が説明できる。つまり、虚軸の陰陽の90°回転に拠る次元転換の時間化とは同時に有機的物質化ではあるということである。
 そうならば、有機的物質、自然有機体の本質は時間であるということになる。あるいは、氣エネルギーである。
 アインシュタインの有名な公式、E=mc^2である(Eがエネルギー、mが質量、cが光速)が、それは、ガウス平面の実軸に当てはまるのではないだろうか。(追記:Eエネルギーは実軸から天地軸の生命エネルギーの転移に存するとする方が適切だろう。)
 そして、ここで、四元数(しげんすう:四元数 - Wikipedia )を適用するのが、妥当なのではないか。即ち、

i^2 = j^2 = k^2 = ijk = -1

を活用すると、実数部分が実軸であり、三つの虚数が空間成分である(追記:以下から、−1は物質に相当する。だから、四元数の基本公式は、物質を記述していることになる。)。つまり、時間が空間に展開されるという意味合いがあるということである。そう、空間、三次元空間は時間の展開ということになろうか。あえて言えば、空間現象とは不可視の時間ないし時間エネルギーの仮象であるということになる。色即是空は正しいことになる。色を空間にし、空を時間(そして、氣)にすればいいのである。

四元数数の単位の積を四次元空間の 90°-回転として視覚的に表現したもの。ij = k, ji = −k, ij = −ji

 また、さらに、波動や振動が形象を作るということが述べられるが、以上の仮説から、波動、振動は時間ということになるだろう。
 そのようにざっくりと作業仮説しているが、問題は、日光(自然現象を扱っているのだから、光というより、日光ないし陽光である。あるいは、恒星光である。)と重力の関係である。
 問題は、実軸を時間、日光、物質にしたので、日光と重力が区別がつかなくなっていることである。
 ここで修正的に仮説すると、+1が日光であり、−1が物質そして重力であるとする。(追記:これは齟齬、矛盾撞着である。実軸を時間軸にするのだから、それは不可視であるからである。では、日光は、思うに、天地軸の天で、物質は地ではないだろうか。今閃いたが、ひょっとして、+1が氣で、−1が物質エネルギーではないだろうか。氣にしろ、物質エネルギーにしろ、不可視である。
 追記2:思うに、+1の氣が−1の物質エネルギーと結合して自然現象を形成するということではないだろうか。それが一方では、天へ向かい、他方、地へと向うのではないだろうか。樹木や蔓巻植物を例にとろう。氣と物質エネルギーの結合は生命エネルギーとなり、左回転は上昇し、天志向であり、右回転は下降し、地志向ではないだろうか。簡単に言えば、幹の伸長方向と根の伸長方向である。)
 そうすると、天地軸とは日光と物質の結合体として存することになろう。天へ向うのは、日光である。そして、地へ向うのは物質である。しかしながら、生命エネルギーを日光が物質的に自己組織化しながら、天へ向うのであり、また、物質力は、日光を地へと引き込むのである。
 とまれ、中途であるが、ここで留めたい。

追記:日光が天へ向うというのは、変であるが、今はそうしておく。後で再考したい。(追記:上の追記で、日光を天とした。これは、原点から天までを含む。)

参考:以下、『海舌』氏のガウス平面を使用した人間認識図を提示する。ただし、実軸の捉え方は今の時点とは異なっている。



      『海舌』氏の人間認識図(要大修正)

(要注意:
1)虚軸の陽凸を光、陰凹を闇とするのは、間違いであり、前者は陽凸i⇒陽自我【知性】とし、後者を陰凹i⇒陰自我【感性】とする。

2)実軸+1=存在・現存在、実軸−1=超越的存在とするのも誤りで、+1と−1を電極、磁極の極性と見る。

3)記述されている象限の見方も誤りとし、新しい視点では、第一象限は理性、哲学、第二象限は科学、知性、第三象限は生活、第四象限は直観・直感、芸術、のそれぞれの領域・圏と見る【暫定的である】。

4)原点をMP【Media Point:メディア・ポイント】とするが、虚軸上の原点をMP1、実軸の原点をMP2とする。そして、極めて重要なことは、MP1とMP2が不連続・非連続であることである。MP1⇒MP2はあるが、逆、MP2⇒MP1は成立しない。だから、先に、陰陽方程式を陰凹i*陽凸i⇔±1にしたのは誤りであり、訂正する。陰陽調和心は原点、即ち、MP1に存する。そして、それは、MP2を派生するだろう。D. H. ロレンスのセクシュアリティはこのMP1とMP2の連結にあるだろう。

5)これは、作業仮説的であるが、植物の氣は当然、虚軸に存するのであり、これは、動物にも存するが、動物的身体は、実軸が主導的だと思う。それに対して、植物的身体は虚軸が主導的だと思う。つまり、植物は氣が主導的であり、動物は物質が主導的である。言い換えると、植物と動物、当然、両者、氣的身体【ガウス平面の虚軸と実軸の十字架】をもつが、前者は虚軸の氣が主導的で、後者は実軸の物質性が主導的である。ただし、人類は動物から植物へと進化の過程にあると見る。)

 今思いついたが、(もっとも、以前考えたことだが、)+1と−1を物質的極性と見ることである。つまり、磁界や電界の極性である。つまり、NとS、プラスとマイナスである。
 電子で言えば、+1が陽電子であり、マイナスが陰電子である。磁界で言えば、+1がN極であり、−1がS極である。
 電磁波は両者を合わせればいいだろう。つまり、+1と−1は電磁波を表わすということである。とまれ、実軸が物質軸であるというは納得しやすいだろう。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11794887872.html?frm_src=thumb_module
 
**************************

生命とは一(いつ)の氣:ガウス平面の実軸が時間であり、物質を意味する?

生命とは一(いつ)の氣であり、一の氣から生まれた生命現象体が一の氣から離脱し、バラバラになると、死ぬことになると思われる。
 直観では、陰陽氣が時間化されたものが生命体、有機体である。
 しかし、実際は、多様な陰陽氣が存して、生命体を形成するだろう。また、多様な陰陽氣とは、根源的には、一の氣の展開である。つまり、一の氣⇒多様陰陽氣である。そして、一の氣が本源的生命であり、それが、多様陰陽氣としての生命体を形成する。
 しかし、一の氣が離脱すると、多様陰陽氣の生命体はバラバラの物質体ないし多様な有機体に転換する。
 そして、さらに、個別の物質体、陰陽体に還元されると純粋物質になると思える。
 以上は徒然なるままにである。

追記:つまり、ガウス平面の陰陽氣平面が元生命であり、それが、垂直に展開すると生命現象体となる。
 
追記2:どうも、今日、森の中で閃いたことが、うまく思い出せない。
 一の氣が生命そのものというのは、そのときのものである。
しかし、ガウス平面が垂直的に展開する生命現象についての閃きがうまく出てこないのである。
 思うに、陰陽平面(造語:ガウス平面)の天地軸への展開が生命現象体であるが、その体積がいわば有機体、生命有機体と思われる。
 それは、氣によって生命全体化されている。しかし、氣が離脱すると、多様な陰陽部分に分離して、いわば、没生命的有機体になる。さらに、それが分解して、純粋物質になるのではないだろうか。
 後で、さらに検討したい。

追記3:陰陽調和が氣でもあるだろう。そして、陰陽の連続体が身体ないし有機体、物質体ではないだろうか。
 つまり、生命体であるが、内在超越性として、陰陽調和の氣エネルギー、生命エネルギーがあるのであり、現象体・物質体、つまり、身体としては、陰陽連続体が現象しているのではないだろうか。
 先に、即非について述べたが、即が陰陽連続体であり、非が陰陽調和(陰陽共振)になろう。





2014年03月17日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:天地軸とは、自然現象軸?:ガウス平面が霊的平面で、天地軸が氣軸ではないのか
http://sophiology.jugem.jp/?eid=414
検討問題:天地軸とは、自然現象軸?:ガウス平面が霊的平面で、天地軸が氣軸ではないのか

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

一言。
 ガウス平面を内超する物質軸が天地軸では?

追記:物質軸という言い方はよくない。天地軸は、自然現象軸、あるいは、生命有機体軸と言えるのではないのか。
 ガウス平面が根源的エネルギー源であり、その原点・中心・MP(Media Point)から自然現象が発動するということではないのか。
 そう、有り体に言えば、生命エネルギーである。しかし、ガウス平面に根源的エネルギーの源泉がある。
 通常、生命のエネルギーというのは、この天地軸に存するのではないだろうか。それは現象に限った見方である。本当は、内在超越的根源のガウス平面のエネルギー源をもっていると思われる。
 では、氣はどこにあるのだろうか。
 どうも、生命エネルギーと氣を混同するようだ。
 氣はガウス平面に本来存すると思える。氣から生命エネルギーが発動すると思えるのである。
 そう、生命エネルギーは天地エネルギーでもあろう。
それは、天と地を交流するエネルギーであろう。
 そのように見ると、陰=地、陽=天と見たくなるがどうだろうか。
 今は仮に、ガウス平面の陰陽を霊的陰陽とする。即ち、霊陰と霊陽である。
 それに対して、天地軸が形成する天を実陽、地を実陰としよう。どうも、天=実陽=上丹田=頭脳で、地=実陰=下丹田=腹ではないだろうか。
 そして、天地共振において、中丹田=胸=心が存するのではないだろうか。
 そう、そのように見ると、ガウス平面は朱子の理氣論の理であり、天地軸=自然現象軸は氣となるのではないだろうか。
 今は以上ざっと言うに留める。

追記2:天地軸は生命軸であるが、では、氣はどこに存するのか。天地軸=生命軸を氣軸とは言えないだろう。それともそう言えるのか。
 天地軸=自然現象軸=生命軸=氣軸なのだろうか。
 なにかそう言えそうに思えてもいる。
 ならば、問題は、氣と身体の関係である。
 直観では、氣とは、ガウス平面の力を背景にしている。つまり、陰陽と時間を基盤にもつ生命エネルギーとなる。
 また、直観では、氣の垂直エネルギーから生まれる螺旋現象が身体である。
 今はここで留める。









確認作業の必要:今一度、氣と現象の即非について検証する

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

最近は、即非という視点を導入して、新たに展開しているが、微妙なところがあるので、確認作業が必要である。今一度、即非の視点を後で検討したい。
 一言言えば、簡単に言えば、ガウス平面と自然現象が即非の関係にあるということである。
 問題は、ガウス平面の実軸(これを時間軸にした)とガウス平面を原点で直交する天地軸との関係である。
 だいぶ以前は、実軸と天地軸を一致させていたものであるが、今は、次元の異なるものとして、峻別している。
そう、問題は、ガウス平面の実軸(±1)である。これを時間軸にしているのであるが、時間は不可視であるが、実は現象しているのである。(今は、陰陽イデア情報をエネルギー化するもの、賦活するものと見ているが。)
 そうすると、実軸=時間軸こそ、即非の事態の結節部であろう。何故なら、実軸はガウス平面にあり、同時、現象界にあるということだからである。言い換えると、実軸において、内在超越界=ガウス平面・即非・自然現象界ということになるからである。
 そうすると、内在超越性はどうなるだろうか。これまで、MP(Media Point=原点)において、それを見てきたが、実軸=時間軸もそのように見なせないか。
 問題は、超越性である。虚軸=陰陽軸は確かに、超越性である。しかし、実軸=時間軸(=エネルギー軸?)は、そうなのだろうか。それは、超越性ではなく、単に内在性、内属性ではないだろうか。
 そうだとすれば、内在超越性とはやはり、MPのみに関わることであり、実軸=時間軸はそうではなく、内在性と呼ぶのが適切である。
 言い換えると、ガウス平面の実軸はガウス平面と自然現象の境界に存するということになる。
 そうすると、それは、『海舌』氏が指摘したように、光になるのだろうか。それは考えられる。ただし、日光、陽光である。この問題はおいておきたい。
 さて、実軸=時間軸は内在性、境界という意味を含めて、ガウス平面は、自然現象にとって内在超越的であるということになる。
 本題の即非性であるが、ガウス平面と自然現象は、実軸=時間軸においては、「即」になるが、その他、虚軸=陰陽軸や実軸を除いた平面においては「非」である。
 そのような意味で、両者は即非の関係にあると言えるだろう。

追記:実軸と天地軸の関係について述べるのを失念した。これは、時間と空間(垂直空間)の関係である。
 天地軸を含めて空間三次元を考えると、時間は空間三次元に直交すると言えよう。それは、四次元と言えるだろう。だから、時空四次元とは正解である。
 そうなると、やはり、四元数(しげんすう)の視点が適切だと思われるのである。
 ただし、勘では、天地軸は中心的になると思われるが、四元数では、三つの虚数の軸には、中心がなく、それぞれ、対等に考えられる点がそぐわないのである。
 私は以前、天地軸とは別に、三次元螺旋を考えたことがある。それが、四元数の三つの虚軸になるということは考えられるのではないだろうか。つまり、空間は四つの軸があるということになるのである。天地軸と三つの虚軸である。
 とまれ、後で、さらに検討したい。

参照:

* 陰陽渦円の中心(原点・MP)から現象するのだろう (03/16)
* 作業仮説:生命現象の実体・本体・本質はガウス平面=内超平面=霊的平面(氣平面) (03/16)
* 生命現象体と物質:ガウス平面と空間三次元と時間 (03/15)
* 課題:日本父権集団自我を解明する:日本父権集団我・集合我 (03/15)
* 字句修正:検討問題:1)MP(Media Point)の構造問題、2)氣から身体への次元変換の様態力学 (03/14)
* 検討問題:1)MP(Media Point)の構造問題、2)氣から身体への次元変換の様態力学 (03/13)










陰陽渦円の中心(原点・MP)から現象するのだろう

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

後で説明。
 ところで、PS陰陽論であるが、その諸々の前身を見ると、試行錯誤の跡が凄まじい感じではあるが、全体に見ると、少しずつ進展しているのがわかる。勿論、混迷したときもあるが。
 今のいちばんの問題は、陰陽渦巻の力学である。これをどう解明するのかである。
 螺旋の原基であると考えられる渦巻に現象を解明する鍵があると考えられる。

参考:
陰陽自然学 | Facebook
https://www.facebook.com/inyoshizengaku


* キャッシュ
* 類似ページ

陰陽自然学. 169 likes · 1 talking about this. Education. ... 陰陽自然学の法則に法っ
て調べてゆくと、地震断層の形成と破壊には「地球の陰陽自然」の法則が深く関与して
いると思われる。陰陽周期的に見て ...... すべての「存在」は「陰陽渦巻き」なのです。

不連続的陰陽論7次元世界:太一1次元+陰陽渦円2次元+時空4次元
d.hatena.ne.jp/antares/20130430


* キャッシュ
* 類似ページ

2013年4月30日 ... しかし、不可視の世界には、陰主導陰陽共振体がある。それが陰陽円であるが、暗黒
渦巻を形成しているので、陰陽渦円と呼ぶのが妥当だろう。 そして、陰陽渦円と陰陽
螺旋現象を即非様態と考えられる。パラレルである。可視の螺旋形態は ...

渦巻 - Wikipedia
数学的記述[編集 ]

デカルト座標 より極座標 で簡単に記述できることが多い。極座標では、r が \theta の滑らか な単調関数 (単調増加関数または単調減少関数)として記述できる。デカルト座標では角度を媒介変数 として表す。

代表的な渦巻線の例は以下のとおり。

* r = a + b \theta \, : アルキメデスの螺旋 。線が等間隔となる。
* r = \pm a \sqrt \theta \quad (r^2 = a ^ 2 \theta) : フェルマーの螺旋 。原点で滑らかに繋がる2本のらせんからなる。
* r = \frac a \theta \quad (r \theta = a) : 双曲螺旋 。有限の巻き数で無限遠点 に発散し、y = a に漸近する。
* r = \frac{a}{\sqrt{\theta}} \quad (r ^ 2 \theta = a ^ 2) : リチュース 。有限の巻き数で無限遠点に発散し、x軸に漸近する。
* r = a b ^ \theta \, : 対数螺旋 。角度が一定で、自らを拡大縮小したものと合同 。
* クロソイド またはコルヌ螺旋、オイラーの螺旋。中心を2つ持つため式は複雑になる。

これらのうち、代数式 で表せるものを代数螺旋 という。アルキメデスの螺旋は明らかに代数螺旋だが、( ) 内に代数式への変形を示した螺旋も、代数螺旋である。

*

アルキメデスの螺旋
*

フェルマーの螺旋
*

双曲螺旋
*

リチュース
*

対数螺旋
*

クロソイド


Spiral - Wikipedia, the free encyclopedia




2014年03月16日(Sun)▲ページの先頭へ
作業仮説:生命現象の本体はガウス平面=内超平面=霊的平面(氣平面):陰陽元素=水素原子イデア
作業仮説:生命現象の本体はガウス平面=内超平面=霊的平面(氣平面):陰陽元素=水素原子イデア

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に以下の参照のように書いたが、どうも、四元数の空間三次元世界だけでは、生命現象の実体がイメージできないので、ガウス平面を有機現象に組み込むことにした。
 つまり、有機現象(生命現象)にガウス平面を内在させてみることにした。
 しかしながら、ガウス平面を超越平面=霊的平面と捉えたので、ダイレクトには組み込めない。
 だから、内在超越性として、組み込むことになるのである。言い換えると、即非性として組み込むである。
 わかりやすく言えば、

有機現象(生命現象)・即非・ガウス平面

、即ち、

有機現象(生命現象)=ガウス平面、且つ、有機現象(生命現象)≠ガウス平面

ということである。尚、

ガウス平面=内超(内在超越)平面=霊的平面(氣的平面)

と書き換える。また、有機現象(生命現象)は自然現象と見てもいいと思われる。(今、ふと思ったが、今日の支配的自然科学は唯物科学であるが、自然現象科学とすると、対象が、単に、外的な現象だけでなく、内的現象も入ってくるだろう。)
 さて、そのようにすると、有機現象・生命現象・自然現象には、ガウス平面のもつ氣と時間の生命情報エネルギーが内在超越(内超)することになる。(ここでのポイントは、生命・即・氣、且つ、生命・非・氣という即非性である。朱子の理気論であるが、それは、理がイデアであり、氣が現象的で、物質的なものと解釈されているが、氣自体が理であり、且つ、現象・生命体的と見るべきである。氣を物質的と見るのは、混乱であると考えられる。あるいは、理気論の「理」をガウス平面、「気」を生命・即・気とすれば、それは肯定されよう。)
 とまれ、以上のように、有機現象(生命・自然現象)にガウス平面を内超させると、有機現象体には、生命情報エネルギーがいわば内属していることになる。
 思うに、私が森の中で、氣を感じるが、それはとても明確にしがたく感じていたが、氣が森に超越的に内属していると考えると、それは、理解されよう。そう、氣は存在すると同時に、なにかあやふや、曖昧なもので、不在のように思えるものである。そう、在ると同時に無いというような、正に、即非的な「現象」(外的且つ内的現象)である。
 では、問題は、有機体と氣(時間の問題は今は切り離す)の関係である。つまり、有機体的物質と氣の関係である。
 直観では、氣による物質構成体が有機体である。
 そう、有機体自体は、生命体ではないものも当然であるので、氣による物質構成体としての有機体ないし有機体的物質は、氣の情報によって構成された物質体ということになるのではないだろうか。
 氣のエネルギー体が内属されていれば、それは、生命体であるが、氣の情報が内属する場合は有機体と思えるのである。
 そう、ガウス平面は時間を含むもので、その時間が氣の情報をエネルギーにしていると考えると、その時間成分の帰結した現象が有機体ではないだろうか。
 つまり、陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇒±1において、±1の部分が有機体ではないだろうか。生命エネルギーは⇒であり、生命体は⇒±1であろう。
 では、そうすると、純粋物質とはどうなるだろうか。
 ±1が有機体とするなら、それは、氣の情報によって構成された物質体であり、当然、物質は含むが純粋物質自体ではない。
 ここで、袋小路的になっているが、今作業仮説として、氣の情報を陰陽の複合性とすると、

陰陽1ー陰陽2ー陰陽3ー・・・ー陰陽n

という陰陽複合を考える。すると、

陰陽1ー陰陽2ー陰陽3ー・・・ー陰陽n⇒±1

となる。そして、陰陽kを構成要素単位(構成元素)で分解すると、

陰陽1,陰陽2,陰陽3,・・・、陰陽nとなる。
 そして、それぞれ、陰陽1⇒±1、陰陽2⇒±1、・・・陰陽n⇒±1である。
 そして、陰陽kがいわゆる、原子になるのではないだろうか。
 つまり、物質、純粋物質とは、陰陽kではないのか。
 勿論、この場合、内在超越における超越ではなく、内在・内属としての陰陽kである。
 つまり、陰陽構成要素の内在・内属体が純粋物質となる。
以上はまったくの作業仮説ないし怪しい思いつきである。

追記:明快に言えば、氣の情報として、陰陽根源要素、あるいは、陰陽元素を考えるのである。つまり、

陰陽元素⇒±1

即ち、

陰元素凹i*陽元素凸i⇒±1

となる。これが、純粋物質方程式ではないだろうか。

追記2:陰陽元素とは端的に、水素原子のイデア情報ではないだろうか。だから、

電子イデア(陰元素凹i)*陽子イデア【原子核】(陽元素凸i)⇒水素原子(±1)

となろう。

追記3:ある意味で、だんだん、桜沢如一氏の無双原理

無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/サンマーク出版
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に近い考えた方になってきているが、根本原理は異なる。桜沢氏は陰陽即物質にしているが、私の考えは陰陽・即非・有機体(ないし物質体)である。即と即非の相違は根本的である。PS(Platonic Synergy)陰陽論はあくまで、イデア論を保持しているのである。だから、朱子の理気論に近いのである。ただし、氣・即非・有機体である点が朱子とは異なる。

参照:

生命現象体と物質:ガウス平面と空間三次元と時間

一言。
先の予見【検討問題:1)MP(Media Point)の構造問題、2)氣から身体への次元変換の様態力学 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11794887872.html】から、ガウス平面はいわば、超越平面となる。霊的平面とも言えよう。
 しかし、実軸が時間軸であり、これが、超越界と現象界の境界になるようだ。(MPとは別に。)
 そして、ガウス平面を超越するように現象三次元空間が出現する。それは、螺旋的現象をもつ。
 そう、空間が三次元で視覚的に捉えられるのに、時間が不可視なのは、時間が超越平面であるガウス平面の実軸に存するからではないだろうか。
 とまれ、以上はまだ作業仮説である。
 次に、そのように出現する現象は、有機的現象と考えるのである。物質自体ではないのである。
 超越平面・霊的平面であるガウス平面を超越するように出現する三次元有機的現象(あるいは生命現象)であるが、それは、虚軸の陰陽氣と実軸の時間を背景にもつが、
有機現象とは数学力学的にはどう表現されるだろうか。
 四元数(しげんすう)を使えば、3つの虚数i、j、kによって記述されようが、しかし、ガウス平面的ベースはもつのである。
 だから、ガウス平面の虚数と四元数の虚数は区別しないといけない。前者を大虚数、後者を小虚数でもしよう。とまれ、前者は凸iと凹iであり、後者はi、j、kである。
 有機現象とは、不可視の超越平面=霊的平面であるガウス平面を内在超越的にもつ三次元空間現象である。   
 では、それと純粋物質とどう違うのか。
 これは、もう明瞭と思われる。即ち、基盤のガウス平面のエネルギーが衰滅したときの残骸の現象三次元体が物質(体)である。
 つまり、ガウス平面=超越平面=霊的平面が生命エネルギーであることになる。また、生命情報(生命イデア)ももっていることになる。
 生命情報エネルギー体としてのガウス平面=超越平面=霊的平面ということになる。
 今はここで留める。

追記:純粋物質世界とは、ガウス平面の生命情報エネルギー世界が消失した四元数の世界自体ではないだろうか。
 これは、恐ろしい世界である。死の世界である。機械の世界である。そう、シュタイナー的に言えば、アーリマンの世界である。
唯物論の世界である。四元数の世界はどうもメカニズムだけの恐ろしい世界のような感じがする。
 
参考:
四元数 - Wikipedia

四元数数の単位の積を四次元空間の 90°-回転として視覚的に表現したもの。ij = k, ji = −k, ij = −ji
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11796857549.html


作業仮説:生命現象の実体・本体・本質はガウス平面=内超平面=霊的平面(氣平面)
作業仮説:生命現象の実体・本体・本質はガウス平面=内超平面=霊的平面(氣平面)

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に以下の参照のように書いたが、どうも、四元数の空間三次元世界だけでは、生命現象の実体がイメージできないので、ガウス平面を有機現象に組み込むことにした。
 つまり、有機現象(生命現象)にガウス平面を内在させてみることにした。
 しかしながら、ガウス平面を超越平面=霊的平面と捉えたので、ダイレクトには組み込めない。
 だから、内在超越性として、組み込むことになるのである。言い換えると、即非性として組み込むである。
 わかりやすく言えば、

有機現象(生命現象)・即非・ガウス平面

、即ち、

有機現象(生命現象)=ガウス平面、且つ、有機現象(生命現象)≠ガウス平面

ということである。尚、

ガウス平面=内超(内在超越)平面=霊的平面(氣的平面)

と書き換える。また、有機現象(生命現象)は自然現象と見てもいいと思われる。(今、ふと思ったが、今日の支配的自然科学は唯物科学であるが、自然現象科学とすると、対象が、単に、外的な現象だけでなく、内的現象も入ってくるだろう。)
 さて、そのようにすると、有機現象・生命現象・自然現象には、ガウス平面のもつ氣と時間の生命情報エネルギーが内在超越(内超)することになる。(ここでのポイントは、生命・即・氣、且つ、生命・非・氣という即非性である。朱子の理気論であるが、それは、理がイデアであり、氣が現象的で、物質的なものと解釈されているが、氣自体が理であり、且つ、現象・生命体的と見るべきである。氣を物質的と見るのは、混乱であると考えられる。あるいは、理気論の「理」をガウス平面、「気」を生命・即・気とすれば、それは肯定されよう。)
 とまれ、以上のように、有機現象(生命・自然現象)にガウス平面を内超させると、有機現象体には、生命情報エネルギーがいわば内属していることになる。
 思うに、私が森の中で、氣を感じるが、それはとても明確にしがたく感じていたが、氣が森に超越的に内属していると考えると、それは、理解されよう。そう、氣は存在すると同時に、なにかあやふや、曖昧なもので、不在のように思えるものである。そう、在ると同時に無いというような、正に、即非的な「現象」(外的且つ内的現象)である。
 では、問題は、有機体と氣(時間の問題は今は切り離す)の関係である。つまり、有機体的物質と氣の関係である。
 直観では、氣による物質構成体が有機体である。
 そう、有機体自体は、生命体ではないものも当然であるので、氣による物質構成体としての有機体ないし有機体的物質は、氣の情報によって構成された物質体ということになるのではないだろうか。
 氣のエネルギー体が内属されていれば、それは、生命体であるが、氣の情報が内属する場合は有機体と思えるのである。
 そう、ガウス平面は時間を含むもので、その時間が氣の情報をエネルギーにしていると考えると、その時間成分の帰結した現象が有機体ではないだろうか。
 つまり、陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇒±1において、±1の部分が有機体ではないだろうか。生命エネルギーは⇒であり、生命体は⇒±1であろう。
 では、そうすると、純粋物質とはどうなるだろうか。
 ±1が有機体とするなら、それは、氣の情報によって構成された物質体であり、当然、物質は含むが純粋物質自体ではない。
 ここで、袋小路的になっているが、今作業仮説として、氣の情報を陰陽の複合性とすると、

陰陽1ー陰陽2ー陰陽3ー・・・ー陰陽n

という陰陽複合を考える。すると、

陰陽1ー陰陽2ー陰陽3ー・・・ー陰陽n⇒±1

となる。そして、陰陽kを構成要素単位(構成元素)で分解すると、

陰陽1,陰陽2,陰陽3,・・・、陰陽nとなる。
 そして、それぞれ、陰陽1⇒±1、陰陽2⇒±1、・・・陰陽n⇒±1である。
 そして、陰陽kがいわゆる、原子になるのではないだろうか。
 つまり、物質、純粋物質とは、陰陽kではないのか。
 勿論、この場合、内在超越における超越ではなく、内在・内属としての陰陽kである。
 つまり、陰陽構成要素の内在・内属体が純粋物質となる。
以上はまったくの作業仮説ないし怪しい思いつきである。

追記:明快に言えば、氣の情報として、陰陽根源要素、あるいは、陰陽元素を考えるのである。つまり、

陰陽元素⇒±1

即ち、

陰元素凹i*陽元素凸i⇒±1

となる。これが、純粋物質方程式ではないだろうか。


参照:

生命現象体と物質:ガウス平面と空間三次元と時間

一言。
先の予見【検討問題:1)MP(Media Point)の構造問題、2)氣から身体への次元変換の様態力学 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11794887872.html】から、ガウス平面はいわば、超越平面となる。霊的平面とも言えよう。
 しかし、実軸が時間軸であり、これが、超越界と現象界の境界になるようだ。(MPとは別に。)
 そして、ガウス平面を超越するように現象三次元空間が出現する。それは、螺旋的現象をもつ。
 そう、空間が三次元で視覚的に捉えられるのに、時間が不可視なのは、時間が超越平面であるガウス平面の実軸に存するからではないだろうか。
 とまれ、以上はまだ作業仮説である。
 次に、そのように出現する現象は、有機的現象と考えるのである。物質自体ではないのである。
 超越平面・霊的平面であるガウス平面を超越するように出現する三次元有機的現象(あるいは生命現象)であるが、それは、虚軸の陰陽氣と実軸の時間を背景にもつが、
有機現象とは数学力学的にはどう表現されるだろうか。
 四元数(しげんすう)を使えば、3つの虚数i、j、kによって記述されようが、しかし、ガウス平面的ベースはもつのである。
 だから、ガウス平面の虚数と四元数の虚数は区別しないといけない。前者を大虚数、後者を小虚数でもしよう。とまれ、前者は凸iと凹iであり、後者はi、j、kである。
 有機現象とは、不可視の超越平面=霊的平面であるガウス平面を内在超越的にもつ三次元空間現象である。   
 では、それと純粋物質とどう違うのか。
 これは、もう明瞭と思われる。即ち、基盤のガウス平面のエネルギーが衰滅したときの残骸の現象三次元体が物質(体)である。
 つまり、ガウス平面=超越平面=霊的平面が生命エネルギーであることになる。また、生命情報(生命イデア)ももっていることになる。
 生命情報エネルギー体としてのガウス平面=超越平面=霊的平面ということになる。
 今はここで留める。

追記:純粋物質世界とは、ガウス平面の生命情報エネルギー世界が消失した四元数の世界自体ではないだろうか。
 これは、恐ろしい世界である。死の世界である。機械の世界である。そう、シュタイナー的に言えば、アーリマンの世界である。
唯物論の世界である。四元数の世界はどうもメカニズムだけの恐ろしい世界のような感じがする。
 
参考:
四元数 - Wikipedia

四元数数の単位の積を四次元空間の 90°-回転として視覚的に表現したもの。ij = k, ji = −k, ij = −ji
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11796857549.html


2014年03月14日(Fri)▲ページの先頭へ
字句修正:検討問題:1)MP(Media Point)の構造問題、2)氣から身体への次元変換の様態力学
検討問題:1)MP(Media Point)の構造問題、2)氣から身体への次元変換の様態力学

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

今は問題点の指摘のみ。
 
1)先の次の検討の継続である。
氣的生命体と物質体:陰陽氣(生命原子)と量子(物質原子)はまったく異なるものである (03/11)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-2072.html

MP1とMP2を即非関係と考えたが、それはわかったようで判明ではない視点である。
 やはり、次元転換(次元変換)の視点がいいと思う。
虚軸の次元から実軸の次元への転換である。つまり、氣から物質的生命体(生命有機体)への転換である。
 陰陽方程式:陰凹i*陽凸i⇒+1とし、*は積を意味したが、そうではなく、2分の1π回転、つまり、90°回転と見たい。だから、右回転と左回転があるが、今は、これを気にせず、次元転換とは、90°回転を意味すると作業仮説する。(追記:結局、*は積ではなく、90°回転を意味する記号とすれば、いいのである。だから、陰陽方程式は陰凹i*陽凸i⇒±1であり、以前に戻るのである。ただし、左回転と右回転の区別がある。どうも、左回転で、弦巻植物は上昇するのではないだろうか。では、右回転はどうみるのか。それは、根に関係するのか?これは課題にする。 追記2:ガウス平面で左回転を考えると、ガウス平面を原点で垂直に突き抜けて、三次元空間が生じよう。それは、超越軸ではなく、実空間軸である。あるいは、天軸であり、地軸ではないだろうか。一言で言えば、天地軸である。とまれ、三次元空間や時間については後で検討したい。 追記3:ひょっとして、ここで、四元数【しげんすう 四元数 - Wikipedia 】の考え方を適用できるかもしれない。天地軸を一つの空間軸にし、それとは水平な平面・二次元空間を考えれば、全部で、三つの空間軸ができる。つまり、空間三次元である。そして、±1の実軸であるが、これが、時間軸になるかもしれない。これも検討課題である。)
 そうすると、氣から物質生命体への次元変換とは、明らかに、様態変化であり、様態的には不連続である。わかりやすく言えば、「霊」から「物質」への転換である。「霊」と「物質」は不連続であり、様態的には何の関係もない。
 しかし、問題はMP(原点)である。やはり、虚軸の原点MP1と実軸の原点MP2との関係力学の問題である。
 虚軸の原点(MP1)とは、思うに一(いつ)の氣、太一(造語)、氣一(造語)が作用していると思うのである。つまり、陰陽が一(いつ)になっているのである。言い換えると、陰陽調和点である。そう、即非点と言っていいのであるが。(陰陽円ないし陰陽球を考えると、それらと原点は一如一体と考えられる。)
 それに対して、実軸の原点(MP2)はどうだろうか。
 そう、ここが摩訶不思議な場所ではないだろうか。MP1とMP2とは、やはり、即非関係のように思える。
 一致すると同時に別である。
 思うに現象界に空いた穴である。それも超越界に通じる穴である。
 しかしながら、現象性をもつのである。つまり、超越性・且つ・現象性である。つまり、超越性・即非・現象性である。
 現象性を身体とすれば、超越性・且つ(即非)・身体である。
 そして、このMP(MP1とMP2の即非点としての原点)は、陰陽調和点であり、身体では、中丹田(胸)にあると思うのである。
 そして、そこから、下丹田(肚)へ下降できよう。それは、陰凹iである。そして、また、陽凸iへ移動できよう(この場合、陽凸iは理念的知性になるのか?)。
 以上のように考えると(作業仮説)、MPは正に特異点である。不連続であり、且つ、連続である。
 そう、だから、MPは内在し、かつ、超越性に通じるのであり、内在超越点とも言えよう。
 そして、身体論的に言えば、MPとは、心であり、且つ、身体である。正に、心身一如の点である。心=心臓=心の臓という感じである。
 思うに、西洋文明はこの内在超越点、即非点、特異点であるMPを否定してきたのである。ただ、イエス・キリストや聖霊にのみ、それを認めたのであり、通常の人間には否定したのである。キリスト教会の成立であるが、実は、プロテスタンティズムとは、このMPを実質的に肯定したものではないだろうか。ただし、超越性に傾斜し過ぎたと考えられる。本当は、身体にも通じるのである。
 ここで、氣と身体の関係力学について言えば、以上の視点から、氣と身体は即非関係にあるのであり、氣・即非・身体である。つまり、氣=身体であり、且つ、氣≠身体である。
 PS陰陽論は唯氣論であるが、ここで、身体の重要性が明らかになったと言えよう。身体こそ、氣の発現様態なのである。
 結局、氣とは身体とは独立しながらも、同時に身体を形成しているということである。
 そして、氣のどのような展開が身体を構造化するのか、解明する必要があるのである。
 今は、シンプルに一言言うと、陰が液体(血液等)に、陽が固体(骨等)になるだろう。(ここは難しい箇所である。次元転換が即非転換ならば、陰陽はそれ自体で、身体・生命体になるのである。もっとも、同時に身体・生命体とは独立しているが。そう、陰陽・即非・身体【生命体】という視点については新たに検討したい。)
 今はここで留める。

2)の問題は、1)で検討された。


参考:以下のガウス平面を利用した人間認識図の原点がMPである。
氣的生命体と物質体:陰陽氣(生命原子)と量子(物質原子)はまったく異なるものである
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11792961696.html


      『海舌』氏の人間認識図(要大修正)

(要注意:
1)虚軸の陽凸を光、陰凹を闇とするのは、間違いであり、前者は陽凸i⇒陽自我【知性】とし、後者を陰凹i⇒陰自我【感性】とする。

2)実軸+1=存在・現存在、実軸−1=超越的存在とするのも誤りで、+1と−1を電極、磁極の極性と見る。

3)記述されている象限の見方も誤りとし、新しい視点では、第一象限は理性、哲学、第二象限は科学、知性、第三象限は生活、第四象限は直観・直感、芸術、のそれぞれの領域・圏と見る【暫定的である】。

4)原点をMP【Media Point:メディア・ポイント】とするが、虚軸上の原点をMP1、実軸の原点をMP2とする。そして、極めて重要なことは、MP1とMP2が不連続・非連続であることである。MP1⇒MP2はあるが、逆、MP2⇒MP1は成立しない。だから、先に、陰陽方程式を陰凹i*陽凸i⇔±1にしたのは誤りであり、訂正する。陰陽調和心は原点、即ち、MP1に存する。そして、それは、MP2を派生するだろう。D. H. ロレンスのセクシュアリティはこのMP1とMP2の連結にあるだろう。

5)これは、作業仮説的であるが、植物の氣は当然、虚軸に存するのであり、これは、動物にも存するが、動物的身体は、実軸が主導的だと思う。それに対して、植物的身体は虚軸が主導的だと思う。つまり、植物は氣が主導的であり、動物は物質が主導的である。言い換えると、植物と動物、当然、両者、氣的身体【ガウス平面の虚軸と実軸の十字架】をもつが、前者は虚軸の氣が主導的で、後者は実軸の物質性が主導的である。ただし、人類は動物から植物へと進化の過程にあると見る。)

 今思いついたが、(もっとも、以前考えたことだが、)+1と−1を物質的極性と見ることである。つまり、磁界や電界の極性である。つまり、NとS、プラスとマイナスである。
 電子で言えば、+1が陽電子であり、マイナスが陰電子である。磁界で言えば、+1がN極であり、−1がS極である。
 電磁波は両者を合わせればいいだろう。つまり、+1と−1は電磁波を表わすということである。とまれ、実軸が物質軸であるというは納得しやすいだろう。


2014年03月13日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:1)MP(Media Point)の構造問題、2)氣から身体への次元変換の様態力学
画像等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11794887872.html


検討問題:1)MP(Media Point)の構造問題、2)氣から身体への次元変換の様態力学

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

今は問題点の指摘のみ。
 
1)先の次の検討の継続である。
氣的生命体と物質体:陰陽氣(生命原子)と量子(物質原子)はまったく異なるものである (03/11)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-2072.html

MP1とMP2を即非関係と考えたが、それはわかったようで判明ではない視点である。
 やはり、次元転換(次元変換)の視点がいいと思う。
虚軸の次元から実軸の次元への転換である。つまり、氣から物質的生命体(生命有機体)への転換である。
 陰陽方程式:陰凹i*陽凸i⇒+1としたが、*は積を意味したが、そうではなく、4分の1π回転、つまり、90°回転と見たい。だから、右回転と左回転があるが、今は、これを気にせず、次元転換とは、90°回転を意味すると作業仮説する。(追記:結局、*は積ではなく、90°回転を意味する記号とすれば、いいのである。だから、陰陽方程式は陰凹i*陽凸i⇒±1であり、以前に戻るのである。ただし、左回転と右回転の区別がある。どうも、左回転で、弦巻植物は上昇するのではないだろうか。では、右回転はどうみるのか。それは、根に関係するのか?これは課題にする。 追記2:ガウス平面で左回転を考えると、ガウス平面を原点で垂直に突き抜けて、三次元空間が生じよう。それは、超越軸ではなく、実空間軸である。あるいは、天軸であり、地軸ではないだろうか。一言で言えば、天地軸である。とまれ、三次元空間や時間については後で検討したい。 追記3:ひょっとして、ここで、四元数【しげんすう 四元数 - Wikipedia 】の考え方を適用できるかもしれない。天地軸を一つの空間軸にし、それとは水平な平面・二次元空間を考えれば、全部で、三つの空間軸ができる。つまり、空間三次元である。そして、±1の実軸であるが、これが、時間軸になるかもしれない。これも検討課題である。)
 そうすると、氣から物質生命体への次元変換とは、明らかに、様態変化であり、様態的には不連続である。わかりやすく言えば、「霊」から「物質」への転換である。「霊」と「物質」は不連続であり、様態的には何の関係もない。
 しかし、問題はMP(原点)である。やはり、虚軸の原点MP1と実軸の原点MP2との関係力学の問題である。
 虚軸の原点(MP1)とは、思うに一(いつ)の氣、太一(造語)、氣一(造語)が作用していると思うのである。つまり、陰陽が一(いつ)になっているのである。言い換えると、陰陽調和点である。そう、即非点と言っていいのであるが。(陰陽円ないし陰陽球を考えると、それらと原点は一如一体と考えられる。)
 それに対して、実軸の原点(MP2)はどうだろうか。
 そう、ここが摩訶不思議な場所ではないだろうか。MP1とMP2とは、やはり、即非関係のように思える。
 一致すると同時に別である。
 思うに現象界に空いた穴である。それも超越界に通じる穴である。
 しかしながら、現象性をもつのある。つまり、超越性・且つ・現象性である。つまり、超越性・即非・現象性である。
 現象性を身体とすれば、超越性・且つ(即非)・身体である。
 そして、このMP(MP1とMP2の即非点としての原点)は、陰陽調和点であり、身体では、中丹田(胸)にあると思うのである。
 そして、そこから、下丹田(肚)へ下降できよう。それは、陰凹iである。そして、また、陽凸iへの移動できよう(この場合、陽凸iは理念的知性になるのか?)。
 以上のように考えると(作業仮説)、MPは正に特異点である。不連続であり、且つ、連続である。
 そう、だから、MPは内在し、かつ、超越性に通じるのであり、内在超越点とも言えよう。
 そして、身体論的に言えば、MPとは、心であり、且つ、身体である。正に、心身一如の点である。心=心臓=心の臓という感じである。
 思うに、西洋文明はこの内在超越点、即非点、特異点であるMPを否定してきたのである。ただ、イエス・キリストや聖霊にのみ、それを認めたのであり、通常の人間には否定したのである。キリスト教会の成立であるが、実は、プロテスタンティズムとは、このMPを実質的に肯定したものではないだろうか。ただし、超越性に傾斜し過ぎたと考えられる。本当は、身体にも通じるのである。
 ここで、氣と身体の関係力学について言えば、以上の視点から、氣と身体は即非関係にあるのであり、氣・即非・身体である。つまり、氣=身体であり、且つ、氣≠身体である。
 PS陰陽論は唯氣論であるが、ここで、身体の重要性が明らかになったと言えよう。身体こそ、氣の発現様態なのである。
 結局、氣とは身体とは独立しながらも、同時に身体を形成しているということである。
 そして、氣のどのような展開が身体を構造化するのか、解明する必要があるのである。
 今は、シンプルに一言言うと、陰が液体(血液等)に、陽が個体(骨等)になるだろう。(ここは難しい箇所である。次元転換が即非転換ならば、陰陽はそれ自体で、身体・生命体になるのである。もっとも、同時に身体・生命体とは独立しているが。そう、陰陽・即非・身体【生命体】という視点については新たに検討したい。)
 今はここで留める。

2)の問題は、1)で検討された。


参考:以下のガウス平面を利用した人間認識図の原点がMPである。
氣的生命体と物質体:陰陽氣(生命原子)と量子(物質原子)はまったく異なるものである
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11792961696.html


      『海舌』氏の人間認識図(要大修正)

(要注意:
1)虚軸の陽凸を光、陰凹を闇とするのは、間違いであり、前者は陽凸i⇒陽自我【知性】とし、後者を陰凹i⇒陰自我【感性】とする。

2)実軸+1=存在・現存在、実軸−1=超越的存在とするのも誤りで、+1と−1を電極、磁極の極性と見る。

3)記述されている象限の見方も誤りとし、新しい視点では、第一象限は理性、哲学、第二象限は科学、知性、第三象限は生活、第四象限は直観・直感、芸術、のそれぞれの領域・圏と見る【暫定的である】。

4)原点をMP【Media Point:メディア・ポイント】とするが、虚軸上の原点をMP1、実軸の原点をMP2とする。そして、極めて重要なことは、MP1とMP2が不連続・非連続であることである。MP1⇒MP2はあるが、逆、MP2⇒MP1は成立しない。だから、先に、陰陽方程式を陰凹i*陽凸i⇔±1にしたのは誤りであり、訂正する。陰陽調和心は原点、即ち、MP1に存する。そして、それは、MP2を派生するだろう。D. H. ロレンスのセクシュアリティはこのMP1とMP2の連結にあるだろう。

5)これは、作業仮説的であるが、植物の氣は当然、虚軸に存するのであり、これは、動物にも存するが、動物的身体は、実軸が主導的だと思う。それに対して、植物的身体は虚軸が主導的だと思う。つまり、植物は氣が主導的であり、動物は物質が主導的である。言い換えると、植物と動物、当然、両者、氣的身体【ガウス平面の虚軸と実軸の十字架】をもつが、前者は虚軸の氣が主導的で、後者は実軸の物質性が主導的である。ただし、人類は動物から植物へと進化の過程にあると見る。)

 今思いついたが、(もっとも、以前考えたことだが、)+1と−1を物質的極性と見ることである。つまり、磁界や電界の極性である。つまり、NとS、プラスとマイナスである。
 電子で言えば、+1が陽電子であり、マイナスが陰電子である。磁界で言えば、+1がN極であり、−1がS極である。
 電磁波は両者を合わせればいいだろう。つまり、+1と−1は電磁波を表わすということである。とまれ、実軸が物質軸であるというは納得しやすいだろう。


2014年03月11日(Tue)▲ページの先頭へ
氣的生命体と物質体:陰陽氣(生命原子)と量子(物質原子)はまったく異なるものである
画像は以下を見られたい。
http://sophiology.jugem.jp/?eid=408

氣的生命体と物質体:陰陽氣(生命原子)と量子(物質原子)はまったく異なるものである

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

端的に言えば、ガウス平面において、虚軸が氣であり、実軸が物質である。
 このように考えるのが、明快である。
 陰陽方程式は、陰凹i*陽凸i⇒±1であるが、問題は、+1と−1の意味である。
 PS理論が破綻し崩壊してしまったのは、端的に、この問題にあると言える。
 
 以下、修正必要であるが、わかりやすくするために、『海舌』氏の人間認識図を提示する。


      『海舌』氏の人間認識図(要大修正)
人間認識図

(要注意:
1)虚軸の陽凸を光、陰凹を闇とするのは、間違いであり、前者は陽凸i⇒陽自我【知性】とし、後者を陰凹i⇒陰自我【感性】とする。

2)実軸+1=存在・現存在、実軸−1=超越的存在とするのも誤りで、+1と−1を電極、磁極の極性と見る。

3)記述されている象限の見方も誤りとし、新しい視点では、第一象限は理性、哲学、第二象限は科学、知性、第三象限は生活、第四象限は直観・直感、芸術、のそれぞれの領域・圏と見る【暫定的である】。

4)原点をMP【Media Point:メディア・ポイント】とするが、虚軸上の原点をMP1、実軸の原点をMP2とする。そして、極めて重要なことは、MP1とMP2が不連続・非 連続であることである。MP1⇒MP2はあるが、逆、MP2⇒MP1は成立しない。だから、先に、陰陽方程式を陰凹i*陽凸i⇔±1にしたのは誤りであ り、訂正する。陰陽調和心は原点、即ち、MP1に存する。そして、それは、MP2を派生するだろう。D. H. ロレンスのセクシュアリティはこのMP1とMP2の連結にあるだろう。

5)これは、作業仮説的で あるが、植物の氣は当然、虚軸に存するのであり、これは、動物にも存するが、動物的身体は、実軸が主導的だと思う。それに対して、植物的身体は虚軸が主導 的だと思う。つまり、植物は氣が主導的であり、動物は物質が主導的である。言い換えると、植物と動物、当然、両者、氣的身体【ガウス平面の虚軸と実軸の十 字架】をもつが、前者は虚軸の氣が主導的で、後者は実軸の物質性が主導的である。ただし、人類は動物から植物へと進化の過程にあると見る。)

 今思いついたが、(もっとも、以前考えたことだが、)+1と−1を物質的極性と見ることである。つまり、磁界や電界の極性である。つまり、NとS、プラスとマイナスである。
 電子で言えば、+1が陽電子であり、マイナスが陰電子である。磁界で言えば、+1がN極であり、−1がS極である。
 電磁波は両者を合わせればいいだろう。つまり、+1と−1は電磁波を表わすということである。とまれ、実軸が物質軸であるというは納得しやすいだろう。
 ここで、原子を考えると、原点(MP)が原子核で、±1が電子ではないだろうか。(追記:原子核は、正しくは、MP2、即ち、実軸上の原点とすべきである。)
 そう、本来、虚軸の陰陽極子(造語:つまり、陰陽極性)を内在超越的にもちつつも、物質的には、実軸的存在である原子ということになる。言い換えると、氣的原子であるが、物質科学は、当然ながら、氣の内在超越的存在を見ていないということになる。
 結局、原初的には、氣的原子があり、それが、生命体を形成することになるが、その生命体が崩壊したとき、純粋物質が生まれると私は仮説するのである。
 つまり、氣的原子から、氣が喪失されたとき、純粋物質、この場合は、純粋原子、つまり、普通の原子になると考えられる。
 だから、物質科学とは、実軸の力学だけを見ているのであり、虚軸の氣の力学を看過しているのである。
 それ故に、量子論においては、虚軸成分が関係すると考えられる(追記:この箇所は、以下の説明からわかるように、正しくない。虚軸成分の影、影像が関係するのであり、虚軸成分自体とは関わらない。そう、正に、プラトンのイデア論の世界である。虚軸ないしMP1はイデア界であり、実軸ないしMP2は現象界である。)ので、物質科学は矛盾を抱えたと考えられるのである。それは、粒子と波動の二重性に見られるのである。
 何度も言っているが、量子とは、氣の物質的影像であると考えられるのである。つまり、原点における氣の物質的影像が波動であり、実軸において、粒子になると言えよう。
 とまれ、以上から、唯物科学である自然科学は、ガウス平面の実軸を中心とした科学であるのがわかる。ただし、原点(MP)において、虚軸成分の氣の影像 が入るのであり、それが、量子論を構成するのである。(言い換えると、量子論とは、氣の「科学」が一部入っていると言えるだろう。)
 そして、原子力科学とは、この実軸中心科学の帰結と言えるのであり、それは、生命の根源である虚軸の氣を喪失した科学と考えられるのである。
 問題は、原点(MP)である。果たして、それは、虚軸成分をもつのか。
 今、直観で言えば、実軸において、虚軸成分がなくなっても、原点においては、波動と粒子の相補性の性質を残しているように思えるのである。
 だから、実軸科学である原子力科学において、当然、量子論が成り立つのだろう。
 つまり、波動と粒子の相補性の法則とは、氣の法則ではなく、物質の法則に過ぎないということになる。
 以上から、氣の影像としての波動と粒子の相補性ということになるが、氣の本体と影像はまったく異なるということになるのである。つまり、MP1(虚軸上の陰陽交点)とMP2(実軸上の原点)とは、不連続であるということである。
 だから、量子論でさえ、物質理論に過ぎず、内在超越的な氣をまったく捉えていないと言えよう。
 今はここで留める。








画像は以下を見られたい。
http://sophiology.jugem.jp/?eid=407

日本父権自我を解明する:傲慢と隷従の日和見的賤民的自我:二重悪魔連続的同一性自我

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

今は一言。
 典型的な日本父権自我は、他者への侮蔑的態度があるが、その他者とは、自分の利害に関わらない小さなサークルにおけるものであり、自分の利害が関わる社会においては、強者となる他者には隷従するのである。
 この力学については、先に説明したが、より明快に解明したい。
 とまれ、今は、予見のみ。
 尊大傲慢さがあり、他者を侮蔑、嘲り、侮るのを当然とする。この傲慢さは、陽自我凸iから主に来ているだろう。自我尊大、唯我独尊性である。
 しかしながら、先に述べたように、単に陽自我だけでなく、欲望・感情の陰自我凹iが基底にあるだろう。そう、嘲りという感情は、陰自我から来ているだろう。
 他者を無みするという悪意的感情があるのである。他者を軽蔑、侮蔑、嘲笑、軽侮する悪意的感情である。これは、当然、他者への憎しみ、嫌悪があるのである。
 これはどこから来るのか。
 他者を認めるには、陰陽調和心が必要である。陰陽の一の氣の心・精神が必要である。
 しかし、父権自我とは、もともと、それを否定するものである。
 そして、日本父権自我の場合、父権自我の元の陽自我傾斜から、陰自我への傾斜が生起し、両者が連続的同一性を形成すると考えられる。
 この日本父権自我はそして利己的に自分の損にならない限り、他者を否定するが、自分の強者に対すると、利己的に隷従するのである。この強弱の唾棄すべき二面性が日本父権自我にはあるのである。(これを明治「近代」以降の日本の権力層の心的構成と見られよう。)
 西洋近代文化は父権的であるが、他方、他者の肯定の文化(新母権的文化)を形成してきたのである。例えば、民主主義は本来、そういう意味をもつ。
 しかし、明治「近代」以降の日本は、伝統本来の母権主父権従の母権文化を明治維新で否定し、父権主義的変革によって、他者を否定する心的構成を形成してきたと言えよう。
 これは、アーリマン/ルシファーの合体した極めて凶悪な悪魔的心性である。
 日本父権自我とは二重悪魔の連続的同一性自我である。

追記:補足しないといけないことは、以上の説明からわかるように、日本父権自我は、主体性がないことである。他者、相手に応じて、態度をカメレオンのように、変えるのである。
 だから、没創造的であり、且つ、権威主義的である。
 強者に対しては隷従するので、当然、利用されるのである。つまり、騙されるのである。日本の政治が專葬邪に利用されるのは、この日本父権主義の受動性に存していると言えよう。
 普通に考えれば、父権主義は、主体性があるのであるが、どうして、日本父権主義には、それがないのか。
 一見、日本父権主義とは、母権主義と呼びたくなるだろう。しかし、やはり、父権主義と考える。
 即ち、日本父権主義とは、父権主義のきわめて、デカダンス(堕落腐敗)した様態だと思われる。
 西洋の場合、一神教によって、父権主義が規定されると見ていいだろう。勿論、物質的な権力も要因である。
 唯一神が、父権的能動性・主体性の基盤であろう。
 しかし、日本父権主義の場合、そのような一神教的基盤を喪失していると思われる。
 一神教に近いのは、当然、天皇制である。
 しかしながら、神道は八百万の神々の精神世界であり、且つ、天照大神、大女神が主宰神である。
 よって、最初は、一神教的だったかもしれない日本父権主義は、多神教や女神宗教(母権宗教)によって、中心性が阻害されていると思われるのである。逆に言えば、それほど、母権主義が強かったと言えよう。
 故に、日本父権主義は父権主義本来の主体性、能動性、中心性をもっていないと考えられるのである。
 そして、このいわば脱中心化された日本父権主義であるが、それは、陽自我の脆弱さを意味するのであり、おそらく、そのコンプレックスが、陰自我の暗い感情・欲望となったと思われる。
 そう、脱中心化された日本父権主義と言ったが、では、中心は何であったのか。
 宗教的中心は多神教や女神宗教(母権宗教)であるが、権力的中心は、中国と思われる。中国の父権主義に対して、日本父権主義は脱中心化されたと考えられるのである。
 だから、古代において、中国には隷従し、国内においては、尊大に振る舞ったと考えられるのである。
 このいわば劣等的父権主義が日本文化社会に流れとしてあったと思う。しかしながら、日本においては、母権主義が主体である。
 そして、江戸時代において、この劣等的父権主義が、増長して、国学を生んだと思う。それが尊王攘夷となり、また、脱亜入欧になったと思う。
 つまり、本来、劣等的父権主義であるが、それが、日和見的に、他者が弱いと見ると、傲岸不遜に振る舞うのであり、これは、陰自我の感情・欲望がベースにあるので、陽自我の知性の劣化した二元論となるのである。つまり、反知性的な短絡的二元論となり、盲目になるのである。
 この劣等的父権主義=日本父権主義が、明治「近代」以降、支配したのであり、その帰結が、AB凄犬なのである。
 脱中心化された劣等的父権主義、これが、日本父権主義の正体と思える。
 後で、さらに検討したい。

追記2:脱中心化された劣等的父権主義とは、言い換えると、属国的父権主義ということである。
 私が唱える新母権主義とは、陰陽調和心を基軸として、そこから、陽自我と陰自我との新たな調和を調音することである。

追記3:日本父権主義の中心の問題については、さらに検討が必要である。後で検討したい。

追記4:日本父権主義の脱中心化の問題であるが、整理すると、原理的には、父権的宗教をもっていたと思われる日本父権主義であるが、それが、母権主義の 「日本」(倭国)の文化社会環境において、父権自我が脱中心化されて、いわば、陰化されるのである。つまり、脱中心化され、陰自我的になるのである。
 しかしながら、父権自我の基本的である陽自我が脱中心化されたとは言え、陽自我自体は残っているのであり、それと陰自我が結合しているのが、日本父権自我である。
 この脱中心化された、陰自我と結合した陽自我が日本父権主義の特徴であり、これが、強者に媚び、弱者に傲慢となる様態をもつと考えられる。
 そして、古代においては、権力的な強者はおそらく、中国であったということができよう。
 とまれ、この父権主義の堕落様態である日本父権主義が、日本社会文化の一つの基調であり、それが、とりわけ、明治「近代」以降を支配してきたことを確認する必要がある。
 そして、それが、今日、亡国状態をもたらしていると言えるのである。
 そう、簡単に言えば、父権主義のデカダンスが、日本父権主義であり、それは、唯物論・機械論には適合したが、今日、創造性を必要とされる時代にとってはまったく反動で、大阻害要因、破壊的要因なのである。
 

参照:
◆ 2014/03/08(土)2  ロシアは世界一の情報発信国
ロシア:新たな巨大通信社創設
巨大通信社創設
ロシアに新しい通信社が誕生 した。海外向けにロシアについての情報を発信することが第一の目的。
新たな通信社は、既存の新聞社「ロシア通信」とラジオ局「ロシアの声」の合併によって創設された。
国際社会でロシアに関する情報を毎日伝える必要性を政府(とくにプーチン)が感じていることから、このような決定がなされたのではないかと、専門家は推測している。
プーチンのロシアが、世界に向けて情報を発信するパワーを強力に加速している。

グローバル化した世界では、政治的にも、経済的にも、軍事的にも、文化的にも、国のイメージをアップさせない国家は(日本のように)信用を失い、衰退してゆく。

いま、ロシアからの情報を視聴し読む読者は日本でも激増している。

『ロシアの声 』のほうが、日本のマスコミよりもはるかに「客観的」で、「公正」で、「真実を伝えている!」と思う日本人が日毎に増えている。

これは、ロシアの影響力(や洗脳力)が加速していることだ。

たとえば、先日…、
日本人専門家(大崎巌氏)による『北方領土問題は政治的神話 』という論説が『ロシアの声』に載った。
ばっさりと要約すると…、日本政府と日本人が、北方領土についての今の考え方(歴史認識)を反省し、変えないかぎり北方領土は絶対に戻ってこない!という論調である。

読んでみると…、まことにもって正論なのである。大崎巌氏の主張を論破できる識者は、はたして日本にいるだろうか? (日本政府には、いないだろう!)

さらに!である。
大崎巌氏の論考は、ロシア政府の本音・本心でもあるのだ。
ロシアは、北方領土に関するロシアの本心を見事に本気で提示してくれた。しかも、その「本音の提示」は、日本人学者を使って、日本語で行ったのである。これが外交であり、知略であり、謀略でもある。

こういう外交・知略・謀略は、悲しいが、日本には出来ない。
日本は、あいかわらず「北方領土を返せ!」と…、外交や知略とは程遠い、議論にもならないスローガンをヒステリックに叫びながら、隣国憎悪を深めていくだけなのだろう。
飯山一郎のHP


2014年03月07日(Fri)▲ページの先頭へ
検討課題:T.「輪廻転生」とはあるのか:U.日本父権自我の運命:死滅か生まれ変わるのか
検討課題:T.「輪廻転生」とはあるのか:U.日本父権自我の運命:死滅か生まれ変わるのか

テーマ:日の本大覚清創造:心的革命宣言:霊的進化

今は一言。

T:シュタイナーは輪廻転生論を説いている。私自身は、PS陰陽論から霊魂不滅論を先に説いた。
 しかしながら、直観と理論・仮説は違う。
 この身体における今の人生は、ただ一度のものである。だから、大事にして生きるということは本来的である。
 しかし、この身体のただ一度の人生であるが、輪廻転生論では、他の身体でもただ一度の人生ということが当然言えよう。
 それは考えられることである。
 しかし、身体というとき、動物的身体と植物的身体があるのである。どちらを指すのだろうか。
 私説の人類植物進化論から見ると、動物的身体はだんだん退化していき、植物的身体へと進化するのである。
 そうすると、前者は確かに死滅していくが、後者は、輪廻転生するかもしれないように思えるのである。
 そう、植物的身体を構成する陰陽イデアは、不滅なように思えるのである。それは、私の陰陽精神イデアでもあろう。
 そうすると、植物的心身イデアが輪廻転生するということはありえそうである。

 また、別の考えであるが今、身体をもって、物質的現象・現実界を生きているが、どうも、どこか、夢のような感じはないだろうか。直観では、内的精神界とのズレが外的物質界にはあるからだと思う。
 本来的世界は内的精神界にあるが、それと全く異質な世界が外的物質現象現実界であり、前者から後者を見ると、夢のように、悪夢的に感じられよう。
 死んだとき、どうも、内的精神界だけになる感じはあるのである。いわゆる、それはあの世であるが、それは、あるように思う。
 その点から考えると、輪廻転生はそれほど重要ではないかもしれない。内的精神界が本来の世界であり、そこへ帰還することは、喜ばしいことであろう。 (追記:私は今から7年前に胸部を切開 する心臓手術をしたが、手術後、麻酔で眠っているとき、幽体離脱なのか夢なのかわからない心象経験をもった。それは、宇宙は身体のように繋がっている、宇 宙は生命体であるという覚智を得たのである。それは、とても悦ばしい、歓喜に満ちた「経験」であった。)
 そこから、物質的現象・現実界へと下降することは、また、修行になるだろう。この世は、心身の修行をする場所ということだと思う。

U:今日の日本の心的元凶の日本父権自我であるが、それはますます劣化退化するだけで、生まれ変わる可能性はないのか。
 というか、父権自我が新母権自己へと生まれ変わる可能性はあるのか。
 あるいは、父権自我において、どうやって陰陽調和心を見つけることができるのか。
 個(個人ではない。唯一的自己である。独心身であること)になると、内的対話が可能になり、そのとき、陰陽調和心を見つけるきっかけが生まれよう。だから、単独であることは、重要なことである。 (追 記:いちばん、手っ取り早い、明快な方法は、優れた芸術、あるいは、本来的自然に接することだと思う。クラシック音楽もいいが、今では、ポップスに優れた ものが多い。私が貼り付ける歌を聴いていただきたい。また、私見では、19世紀露西亜文学、そして、D.H.ロレンスの哲学的文学である。ただし、ロレン スの文体は詩的で、翻訳ではその滋味が伝わりにくい。美術もけっこうであるが、現代美術は外した方がいいだろう。自然の絶対的美が原点ではある。また、 シュタイナーの『いかにして超感覚的認識を獲得するか』が仏教の八正道を基にしたすばらしい精神陶冶論を説いている。

いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
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 しかし、個、唯一的自己、単独になれないと、父権自我はどうなるのか。それは、集団的で、破滅していくだろう。
 とまれ、理論的に考えると、父権自我が抑圧排除する陰陽調和心をどう見つけることができるのかである。
 今日、新母権的精神の時代なので、陰陽調和心が発動しているのであり、父権自我は、そのために、反動化して、いわば、狂気化するのである。(今日、日本に異常な、病的な人が増加している原因はこれだと思うが。)
 だから、内的測深感覚ができると、父権自我は生まれ変わるきっかけをもてるだろう。
 ここで、道教ないしタオイズムが役立つのである。
 わかりやすく言えば、意識を肚まで降ろすことである。
 おそらく、せいぜい、胸部までは、意識、心があるだろう。胸部から肚まで、意識を降ろす訓練をするのである。
 そうすると、肚のマグマにぶつかり、エネルギー(氣のエネルギー)が噴出するのである。それが、新生の第一歩である。
 その後、ゆっくりと、頭(陽:上丹田)と肚(陰:下丹田)の均衡調和心、陰陽調和を形成する胸(中丹田)を陶冶すべきである。
 今はここで留める。

追記:道教が丹田を説くのである。有名なのが臍下丹田である。しかし、肚のマグマと述べたが、それはヨガのクンダリニーに通じるのである。中国とインドは古代的母権文化において通じよう。
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ナチズムと貧窮:ベルサイユ条約でのドイツ賠償は超無謀:専葬屍奔方程式=不況・極貧⇒全体主義⇒戦争
2014.03.06 Thursday | category:ポスト西洋文明/新東洋文明
JUGEMテーマ:学問・学校

ナチズムと貧窮:ベルサイユ条約でのドイツ賠償は超無謀:専葬屍奔方程式=不況・極貧⇒全体主義⇒戦争

テーマ:国家資本主義(全体主義)日本:父権主義

「ネオナチ」の問題が出ている。
 閃いたことだが、どうも、某勢力は、大不景気(恐慌)を意図・作為的に作り出し、それによって、全体主義を喚起して、戦争を起こそうとしているのではないかと、勘ぐったのである。
 今のアベノミクスも、結局、大不況をもたらし、社会を荒廃させ、全体主義(ファシズム)を醸成する社会状況を作り出す意味があるのではないのだろうか。
 すると、御本尊は西洋専葬邪悪霊団ということになる。
 専葬に飢えているのだ。だから、アベノミクスは、専葬邪に仕組まれた、新東亜戦争への導入のように思われる。
 世界専葬邪屍奔悪霊鬼魔団は戦争に飢えているのだ。

追記:ひょっとして、日本が大東亜戦争を始めたのは、日本軍部を裏で、世界専葬邪が画策した結果ではと勘ぐるのである。
 お目出度い日本父権主義を、某父権超大専葬屍奔悪霊鬼魔団は簡単に操れよう。

追記2:専葬屍奔主義(賤民資本主義)で、近現代の世界史の重大な動きが説明されよう。(専葬屍奔主義方程式=作為的大不況・恐慌⇒大貧窮⇒全体主義【ファシズム:善悪二元論的敵意悪意憎悪】⇒世界戦争⇒専葬屍奔ウハウハ大哄笑)
 そして、専葬屍奔主義の霊的根源があるだろう。それは、一神教のシャドウとしての悪霊鬼魔である。シュタイナーはアーリマンをあげるが、それと同時に、へそ曲がりのルシファーも絡んでいよう。




デューラー ヨハネの黙示録 - FC2
黙示録の四騎士:デューラー「ヨハネの黙示録」 - 続 壺 齋 閑 話

6 悪魔論
higusumi.world.coocan.jp/japanisch/steiner/sekai/sekai_6.html


* キャッシュ
* 類似ページ

しかしシュタイナーが悪について語る時、悪は肉体的姿をもたない霊的存在として現れ
てきます。 それを悪魔と呼べば呼べますが、それは正常な進化の道から外れてしまった
高次の霊的存在であり、霊的世界と人間世界で特定の役割を与えられているものなの ...
WSレベル2 - Welcome to 画房・寺子屋
ルシファーとアーリマン

正常な天使の成長から外れた
ルシファーとアーリマンという存在。

人間に
過ちも冒す自由を与え、
新しい能力を学ばせる存在。


人間は
自我のチカラによって
両存在を支配することができるでしょうか。


画像は、R.シュタイナーの木彫作品。
中間に立って両存在を支配する「人類の代表者」
ルシファーとアーリマン

http://teracoya.net/cache/qhm_logo.jpeg?1371306425



【IWJブログ】「平和国家」から「死の商人」国家へ「国のかたち」が変えられる ? 日本国憲法の精神を無視した「武器輸出三原則」のなし崩しの変更は許されない?

2014.03.05

特集 憲法改正 |特集 集団的自衛権

 今から一年前の2013年3月1日、安倍総理が打ち出した経済政策「アベノミクス」に世の中が沸き立つなか、菅義偉官房長官から一つの談話が発表された。

 「平成25年度以降は、F−35の機体及び部品の製造への国内企業の参画を行った上で、F−35Aを取得することとしている」
続きを読む

専門家らが警告「これはファシズムへの道だ」 〜ジョージ・オーウェルの予見した社会がすぐそこに

2014.03.05

 ジョージ・オーウェル『1984』で描かれた「オセアニア」のような監視国家も、もはや小説の中の話だとは言い切れないかもしれない。

 90台の監視カメラで撮影し、個々の顔や歩行動作の特徴をデータ化して登録することで、無数の通行人の中から特定の個人を自動的に追跡する実験が、JR大阪駅の駅ビル「大阪ステーションシティ」で今年4月から始まる。

 顔認証技術の精度を確かめるための実験で、データは個人が識別できないよう処理したうえで、使途未定のまま、JR西日本に提供されることになっている。この実験の中止を求める専門家らは3月5日、東京八重洲で記者会見し、この問題がもつ危険性について説明した。
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IWJ Independent Web Journal


2014年03月03日(Mon)▲ページの先頭へ
PS陰陽論における他者の位置付け:陽自我凸iが自我、陰自我が差異、陰陽調和で他者認識成立する
画像等は以下を見られたい。
http://sophiology.jugem.jp/?eid=404

S陰陽論における他者の位置付け:陽自我凸iが自我、陰自我が差異、陰陽調和で他者認識成立する

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

他者の位置付けであるが、私は、陰陽調和心において、他者認識が成立すると考えていて、そのときの自我が陽凸iであり、他者が陰凹iであると考えられる。
 しかしながら、本来、陽凸iは陽自我、陰凹iは陰自我であり、両者は調和しないときは、二重性をもつ自我存在である。
 私は不連続的差異論の段階で、同一性(自我)は、差異(他者)に対して、連続的同一性を形成すると考えた。
 図式化すれば、

A同一性(自我)⇒⇒⇒B差異(他者)

において、同一性は差異に自己自身をいわば被せるのである。即ち、

A同一性(自我)⇒⇒⇒A’同一性【差異(他者)】

である。差異BはA'に変換されて、Aと同一性をもたされるのである。
 この同一性の差異に対する連続的同一性の概念であるが、それは、PS陰陽論から見ると、陽自我凸iが主導・中心化した場合の事態である。
 しかしながら、陰自我凹iが存するのであり、それが主導・中心化する場合も考えられるのであり、それについては、ほとんど未検討である。
 思うに、陰自我凹iとは、ルドルフ・シュタイナーの説くルシファーに当たると思われるのである。それに対して、陽自我凸iはアーリマンであり、連続的同一性の概念はアーリマンに関するものと言える。
 陰自我凹i=ルシファーであるが、それは、シュタイナーから言えば、自由なるもの、そう、差異的なものである。
 これが、陽自我凸iに対して、主導・中心化したらどうなるだろうか。
 完全な差異の世界が生じて、認識が成立しないのではないだろうか。思うに、感情・感性だけの世界ではないだろうか。それは、完全に生成の世界であり、固定することはないのではないだろうか。社会においては、一時的な同意は生じても、すぐに消失するものではないだろうか。
 思うに、陰自我凹i=ルシファーであるが、それは、感情・欲望の世界に通じるように思える。シュタイナーで言えば、アストラル体である。
 とまれ、陽自我凸i=アーリマン主体の場合が連続的同一性の世界とすれば、陰自我凹i=ルシファー主体の場合は、不連続的非同一性の世界と言えよう。
 そう、不連続的差異論とは、実は、陰自我凹i=ルシファーの世界を説いたことになるだろう。
 それに対して、その後形成されたPS理論は、陽自我凸iと陰自我凹iの共振を中心化した理論であり、それは、陰陽調和心を基礎付けたと言えよう。これは、大きな進展である。
 ただし、PS理論の問題は、+1と−1の意味の取り違えである。以下の『海舌』氏の人間認識図でそれがわかるのである。−1を超越的存在、+1を存在・現存在にしているのであるが、−1は、PS陰陽論では、地であり、+1は天である。また、暫定的であるが、−1を地的物質、+1を天的物質と見ている。

(ひょっとしたら、桜沢如一氏のナトリウムとカリウムに関係するかもしれない。+1がナトリウムで、−1がカリウムになるかもしれない。

参考:
食養の話
飽く気(K)が多いのは植物性食品で、塩気(Na)が多いのは動物性食品です。植物性食品は穀物、野菜、果物、海草等です。動物性食品は肉類、魚、卵、乳・乳製品等です。

飽く気、カリ塩


塩気、ナトロ塩、

カリウム(K)が多い食品


ナトリウム(Na)が多い食品

植物性食品


動物性食品

穀物、野菜、果物、海草


食塩、肉類、魚類、卵、牛乳




     陽


 桜沢如一は石塚左玄のNa・K理論をヒントにして、Naの多いものを陽とし、Kの多いものを陰としました。この考え方は適切な判断だと思います。陰陽の考え方に問題は無いと思います。桜沢如一が考えだした12の定理も分り易いもので大変役に立ちます。しかし、食品を陰から陽の1本の線上に配置する理解の仕方は無理があり納得できません。

http://www.matsuihsp.or.jp/shokunai/html/study/study87.htm


 少なくとも、PS陰陽論では、−1は超越的存在にはならない。超越的存在を言うならば、それは、陰陽円とMP1に存すると考えられる。
 
         『海舌』氏の人間認識図


そして、象限の意味付けも異なるのである。簡単に言えば、少なくとも、左右逆転する必要があるのである。簡単にPS陰陽論の象限構成を言えば、

第一象限:科学、知性
第二象限:唯物論、自我(利己主義1)
第三象限:欲望・感情(利己主義2)
第四象限:直観・直感

そして、第一象限と第四象限の結合した領域に哲学、芸術が成立しよう。ただし、哲学は第一象限よりであり、芸術は第四象限よりである。
 
 さて、本題の他者の問題に返り、整理すると、陰自我自体は差異である。まだ、他者ではない、
 他者を形成するには、陰陽調和形成が必要である。そのとき、差異は他者へと変容すると思われる。
 つまり、陽自我と陰自我が調和共鳴して、差異である陰自我は、他者へ変容すると考えられるのである。
 これで、他者問題をひとまず解明したことにしょう。

追記:以上のように、陽自我凸i(同一性自我)と陰自我凹i(差異)を明確に区別したことで、日本父権自我が明晰に解明されると考えられる。 
 即ち、日本父権自我とは、陰自我凹i(差異)と陽自我凸i(同一性自我)が未分化混沌としているのである。どちらも、利己主義であり、状況に応じて、陰自我が欲望・感情として主導化したり、陽自我が同一性として主導化するのである。
 状況に応じて、利己主義が揺れ動くのである。不定である。独立した個はそこにはないのである。
 一見、陰自我凹iは、母権主義のように見えるかもしれないが、そうではない。母権主義の場合、陰自我凹iが主導ではあっても、それは、原初的陰陽調和共鳴心を内在させていると考えられるのである。(思うに、そこには、原初的個があるだろう。)
 そう、端的に、父権自我とは、陽自我凸iと陰自我凹iが同時生起したもののように思えるのである。
 しかし、陽自我凸iの方が先行しているかもしれない。同一性である自我が先ず、形成されたとすると(つまり、陽自我が極大化したとする)、それは、差異である陰自我凹iは連続的同一性化するだろう。当然、原初陰陽調和心も排除される。
 しかしながら、世俗社会が物質欲望を喚起するようになると、排除された差異である陰自我凹i(欲望・感情)は刺激を受けて、発動するのである。しかしながら、意識は陽自我凸iにあるから、差異である陰自我凹iの欲望・感情は意識から排除するのである。しかしながら、いわば、無意識のうちに、差異である陰自我凹iの欲望・感情に支配されるのである。
 これが、日本父権自我のもつ矛盾様態(傲慢と隷従)を説明すると考えられる。
 それに対して、いゆる、強意の父権自我であるユダヤ教的自我であるが、それは、純粋に陽自我凸i(同一性)中心主義であると思う。それは、陰自我凹i(差異)を排除するというよりは、無になっているのである。欠落しているのである。そう、言い換えると、超越的陽自我なのである。これが、ユダヤ教的資本主義の原理であろう。そう、ウェーバーで言えば、賤民資本主義である。
 それに対して、プロテスタンティズムの資本主義は、陰自我凹i(差異)が発露しているものと思われる。それも、単に陰自我凹iだけでなく、他者が発現していると思われるのである。
 これは、新約聖書の他者肯定の精神が入っていることから来ているように思えるのである。そう、聖霊的信仰と言ってもいいかもしれない。そこでは、他者との共存が志向されているのである。
 
追記2:上の追記で、ユダヤ教的父権自我と日本父権自我の相違を述べたが、では、どうして、そのような違いが生じたのか問う必要がある。
 今の私見では、ユダヤ教的父権自我は、他民族の中の厳しい社会環境にあり、同一性自我が精錬したと思えるのである。故に、ユダヤ的知性(抽象性に秀でる)が生まれたと思うのである。
 それに対して、日本父権民族は、仮に、ユダヤ民族であったとしても、他民族の中に生存するという厳しい環境になかったと言える。(もっとも、日本母権民族の中にはいたのであり、母権民族は、懐柔しやすかったと考えられる。)
 そのために、同一性知性を研磨する必要がなかったのであり、知性が鈍磨したのであり、そして、世俗社会の発達とともに、陰自我凹iの欲望・感情が無意識的賦活され、陽自我凸iと陰自我凹iの未分化様態が形成されて、状況に応じて、変化する日和見的な父権自我が形成されたと考えられる。
 一方(ユダヤ教的父権自我)では、同一性知性を磨いたのに対して、他方(日本的父権自我)では、同一性知性を鈍磨させ、欲望・感情を主導化させたと考えられる。

追記3:いわゆる、「反知性主義」であるが、これも、上論から、簡単に説明できよう。
 知性は同一性自我、つまり、陽自我の属性である。それを否定するのは、陰自我(差異)である。そう、日本父権自我(未分化自我)は、陰自我(差異)が主導化するので、当然、「反知性主義」になるのである。

 
 






新たな氣の四元論:朱子の「理」の再検討:「理」と「氣」の区別:「理」のエネルギー化が「氣}?

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

先の四元論(二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質 (02/25) )は再検討する必要がある。以下の説明だと、朱子の「理」は「氣」と同じになる。「理」と「氣」の区別を明確にしたい。

追記:結局、氣の位置が問題なのである。先の考えでは、理=氣になってしまう。氣のエネルギー様態を身体と私は言った。
 どうも、氣は二種類あるのではないだろうか。つまり、理的氣(イデア生命情報)と動的氣(生命エネルギー)である。
 思うに、理的氣は一の氣(太一)であり、動的氣は、身体性をもつ氣である。
 しかし、直観では、さらに氣がある。それは、魂的氣である。ないし、心的氣である。
 すると、理的氣(一の氣:太一)⇒魂的氣(心的氣)⇒身体的気となる。
 すると、先の四元論は次のような四元論になる。

T)一の氣(太一、理的氣)⇒U)魂的氣(心的氣、精神的氣)⇒V)身体的気(生命エネルギー)⇒W)物質(体)

先の四元論は、

一の氣(太一氣)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質

であった。
 相違点は、Uである。先のは、陰陽氣になって、イデアにしていたが、それを止めて、精神の様態にしたのである。
 つまり、精神のエネルゲイアである。そして、Vは同じで、身体のエネルゲイアである。
 つまり、二種類のエネルゲイアを置いたことである。実際問題、心的エネルギーはあるし、また、身体的エネルギーはあるのであり、両者、心身相互浸透する中間領域があるが、やはり、区別するのは妥当と言えよう。
 今はここで留めるが、後で整理したい。


Li (Neo-Confucianism) - Wikipedia, the free encyclopedia
Li (Neo-Confucianism)
From Wikipedia, the free encyclopedia


Li (理)is an concept found in Neo-Confucian Chinese philosophy. It refers to the underlying reason and order of nature as reflected in its organic forms.

It may be translated as rational principle or law. It was central to Zhu Xi 's integration of Buddhism into Confucianism. Zhu Xi held that li, together with qi (氣: vital, material force), depend on each other to create structures of nature and matter. The sum of li is the Taiji .

This idea resembles the Buddhist notion of li, which also means principle. Zhu Xi maintained, however, that his notion is found in I Ching (Book of Changes), a classic source of Chinese philosophy . Zhu Xi's school came to be known as the School of Li, which is comparable to rationalism . To an even greater extent than Confucius, Zhu Xi had a naturalistic world-view. His world-view contained two primary ideas: qi and li. Zhu Xi further believed that the conduct of the two of these took places according to Tai Ji.

Holding to Confucius and Mencius' conception of humanity as innately good, Zhu Xi articulated an understanding of li as the basic pattern of the universe, stating that it was by understanding these principles that one could live with li and live an exemplary life. In this sense, li according to Zhu Xi is often seen as similar to the [Dao] in Daoism or to [telos] in Platonic philosophy. Wang Yangming , a philosopher who opposed Zhu Xi's ideas, held that li was to be found not in the world but within oneself. Wang Yangming was thus more of an idealist with a different epistemic approach.
Sources[edit ]

The philosophical concept of Li is inherently difficult to define and is easily mistranslated into various simplifications of the core idea. Many philosophers have tried to better explain it, Alan Watts being one of the prominent 20th century authors on the subject.

The tao is a certain kind of order, and this kind of order is not quite what we call order when we arrange everything geometrically in boxes, or in rows. That is a very crude kind of order, but when you look at a plant it is perfectly obvious that the plant has order. We recognize at once that is not a mess, but it is not symmetrical and it is not geometrical looking. The plant looks like a Chinese drawing, because they appreciated this kind of non-symmetrical order so much that it became an integral aspect of their painting. In the Chinese language this is called li, and the character for li means the markings in jade. It also means the grain in wood and the fiber in muscle. We could say, too, that clouds have li, marble has li, the human body has li. We all recognize it, and the artist copies it whether he is a landscape painter, a portrait painter, an abstract painter, or a non-objective painter. They all are trying to express the essence of li. The interesting thing is, that although we all know what it is, there is no way of defining it. Because tao is the course, we can also call li the watercourse, and the patterns of li are also the patterns of flowing water. We see those patterns of flow memorialized, as it were, as sculpture in the grain in wood, which is the flow of sap, in marble, in bones, in muscles. All these things are patterned according to the basic principles of flow. In the patterns of flowing water you will all kind of motifs from Chinese art, immediately recognizable, including the S-curve in the circle of yang-yin.

So li means then the order of flow, the wonderful dancing pattern of liquid, because Lao-tzu likens tao to water:

The great tao flows everywhere, to the left and to the right, It loves and nourishes all things, but does not lord it over them.

― Alan Watts, Taoism [1]

References[edit ]

* Chan, Wing-tsit (translated and compiled). A Source Book in Chinese Philosophy. Princeton, NJ: Princeton University Press, 1963.

External links[edit ]

* Visualization of Li

1.
Taoism | Finding the li
https://liology.wordpress.com/tag/taoism/

* キャッシュ
17 Sep 2010 ... Eliminate learning so as to have no worries. Yes and no, how far apart are they?
Good and evil, how far apart are they? ―. What the sages fear,. I must not fear. I
am the wilderness before the dawn. ―. The multitude are busy ...
2.
Kan & Li Inner Alchemy Practice - Water & Fire Taoist Yoga - An ...
taoism.about.com/od/practices/a/Kan_Li.htm

* キャッシュ
* 類似ページ
An introduction to Kan & Li (Water & Fire) Inner Alchemy practices -- through
which an Immortal Fetus is formed.
3.
Taoist Poetry - An Introduction To Taoist Poetry - Taoism - About.com
taoism.about.com/od/poetry/a/poetry.htm

* キャッシュ
* 類似ページ
In Taoist poems we find expressions of the ineffable, praises of the beauty of the
natural world, and playful paradoxical references to the mysterious Tao. The
flowering of Taoist poetry occurred in the Tang Dynasty, with Li Po (Li Bai) and Tu
Fu ...
4.
Three Taoisms and Their Approaches to Te - Shri Adi Shakti: The ...
www.adishakti.org/.../three_taoisms_and_their_approaches_to_te_2-25-2007.htm

* キャッシュ
* 類似ページ
With that said, let us go into these three Taoist terms and see what we can learn
about Taoism. Li Alan Watts described three basic philosophical ideas of nature.
The western mechanical view of nature which stems from ancient Greek science
...
5.
Way Of Tao - Li The Fire - Approaching experience, we do not fight ...
www.way-of-tao.com/pages/primary.../li-the-fire.php

* キャッシュ
To the ancient Taoist, Li or Fire was represented by an open Yin line suspended
between two, creative Yang lines. Its symbolism resembles a circle of openness
at the center. As the second of the primary forces of the I Ching, it suggests the ...
6.
Taoism by Alan Watts - holtof.com library
library.holtof.com/unicorn/watts/on_taoism.html

* キャッシュ
* 類似ページ
In order to go into Taoism at all, we must begin by being in the frame of mind in
which it can be understood. You cannot force .... In the Chinese language this is
called li, and the character for li means the markings in jade. It also means the ...
7.
Definition of Taoism - Our Lady's Warriors
www.ourladyswarriors.org/dissent/deftao.htm

* キャッシュ
* 類似ページ
66): "Taoism, as the word indicates, is the Religion of the Tao, a term meaning
Path or Way, but denoting in this peculiar ... The family name of Lao-tze was Li,
his name Eul (meaning "Ear"), his honorary title Pe-yang, and his posthumous
name ...
8.
Studies in Medieval Taoism and the Poetry of Li Po by Paul W. Kroll
www.ashgate.com/isbn/9780754659891

* キャッシュ
* 類似ページ
The emergence of Taoism during the 3rd through 8th centuries as China's
indigenous higher religion affected all areas ... of Taoism in texts dating to this
period and also considers its influence in the works of the great T'ang-dynasty
poet, Li Po.
9.
The Movie HERO and Chinese Taoist Philosophy
taoism21cen.com/Englishchat/essay7.html

* キャッシュ
* 類似ページ
the big One in the Taoist view. The movie Hero is the story of five swordsmen.
There are four. assassins headed by Nameless, played by Jet Li, and their target
is the king. who is also the fifth swordsman. There are three minor characters; an.


2014年02月25日(Tue)▲ページの先頭へ
二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質
二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

今は一言(ではなかった)。
 身体(生命身体であり、死体ではない:生気身体、氣的身体)を考えると、それは、氣のエネルギー様態ではないかと思う。
アリステレス哲学のエネルゲイア(活動態:現実態と訳されるが、それは、混乱させる)に当たるだろう。(アリストテレス哲学の用語については以下を参照されたい。アリストテレス『魂について』 - つじこの 、アリストテレスの自然哲学 - 知の快楽 - 東京を描く )
 そして、デュナミス(潜在態)は氣自体、つまり、一(いつ)の氣と陰陽極性氣に相当するのではないだろうか。
 否、微妙である。デュナミスとはいわばポテンシャル・エネルギーであるから、一の氣だけにした方がいいように思えるが。
 思うに、一の氣と陰陽氣に分けて、後者をイデアにした方がいいようだ。そして、一の氣は前イデア(プレ・イデア)としての根源界である。太一界である。(それは、太極とは異なる。太極を私は陰陽未分化の混沌【カオス】と見ている。)
 だから、デュナミス(プレ・イデア⇒イデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(終局態:つまり、結果であるから、物質)である。
 これに伝統的な霊学の用語を適用すると、霊がプレ・イデア(太一界)で、魂がイデアで、身体がエネルゲイアで、物質がエンテレケイアではないだろうか。ここで要注意は、霊学の伝統の三元論(霊⇒魂⇒身体)ではなく、四元論を新たに導入していることである。
 そう、身体と物質の区別があえて言えば、画期的である。
 シュタイナー霊学の医療に関しての批判もここの視点に拠るものとなるだろう。
 私は健康法において、氣だけでなく、身体も重要であるというのは、シュタイナー霊学の霊主体従の視点からは出てこないのである。そう、体(身体)と物質を同じものとシュタイナーは見ているのである。
 そうではないのである。身体とは生命のある有機体であり、物質とは、死せる身体、生命のない有機体ないし無機物である。
 ここで、氣の視点から見ると、直感する氣とは、魂であり、イデア(観念・理念)となるだろう。それは、身体化されるのであるが、それは、氣の感覚におい てはほんの一部は感ずるが、実際はブラック・ボックスである。その身体をエネルゲイアと呼ぶのであり、それは、氣のエネルギー体と呼べよう。そう、身体と は、エネルゲイアであり、氣のエネルギー体であり、それは、一部は感覚できるが、大部分はブラックボックスということになる。
 そう、例えば、音楽を聴いて、溌剌とした氣分(氣感)になるが、それは、イデアの活動状態のエネルゲイアと呼べるだろうが、それは、魂ではなく、身体様態ということになるだろう。あるいは、氣のエネルギー様態である。造語すれば、イデネルゲイア(イデネルギー)である。
 そのように考えると、イデア、魂とは、思考するときは、エネルゲイアの様態、身体の様態になるということになるだろうが、それでいいのか。これは、微妙 な問題である。私は思考はイデア、魂と思っていたが、しかしながら、思考は活動するものであるから、当然、エネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体になる のである。いや、それでいいと思う。思考観念自体はイデア、魂であるが、進行中の思考はエネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体と見ていいと思う。ここ で、概念思考と観念・理念思考の違いが考えられる。前者は、陽自我中心であり、陰陽調和に拠らないので、一面的であり、頭脳中心である。それに対して、観 念・理念思考、つまり、イデア思考、魂思考とは、陰陽調和に関わるので、生命的であると言えるのである。そう、ここで、哲学的思考と唯物的思考の根本的差 異があると言えよう。あるいは、芸術的思考と形式的思考の違いが。【そう見ると、哲学的思考と芸術的思考は同質的であるのがわかる。ただ、前者は言葉を表 現媒体とするのに対して、後者は形態を表現媒体にするということだろう。もっとも、言語も形態とすれば、同じであるが。】
 整理すると、四種類の表記による図式ができる。即ち、

1)霊⇒魂⇒身体⇒物質(霊学の三元論を四元論に改変)

2)デュナミス(プレ・イデア⇒イデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(アリストテレス哲学とプラトン哲学を結合)

3)一の氣(太一氣)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質

4)霊氣⇒魂氣⇒身体氣⇒物質

である。
 画期的と思われるのは、繰り返すが、身体と物質を区別したことである。また、イデア以前にプレ・イデア、いわば、ゼロのイデアを仮説したことである。ま た、イデア(魂、陰陽氣)を静態と見て、思考様態をエネルゲイア、身体、氣のエネルギー身体と見たことである。三つの独創があるのである。
 今はここで留める。後で補足したい。

追記:私が氣だけでなく、身体が重要という のは、上図式から、唯氣論の視点で整合的に言い直すことができる。即ち、身体とは、氣のエネルギー様態(エネルゲイア、身体氣)なのであり、静態的な氣の 動態である身体が重要というのは、生命論理的に当然である。そう、静態的である氣自体は、前生命的、形而上学的であり、身体はその生命的形而下的様態であ り、端的に、氣の生命なのである。氣自体は前生命であり、生命自体ではないのであるから、身体が重要というのはあまりに当然である。
 そう、シュタイナー霊学の誤りは、ここにあるだろう。霊的視点で、身体を物質体として見ているのであり、氣の現象体としての身体、氣のエネルギー様態としての身体と捉えていないのである。そう、エーテル体を生命として捉えているが、それは正しくない。エーテル体は前生命体であり、まだ、生命自体ではないのである。言うならば、エーテル体がエネルギー様態となって生命体としての身体になるのである。
 
追記2:理論名称であるが、無双太極PS陰陽論を改める必要がある。太極は外さないといけない。無双PS陰陽論か、太極太一PS陰陽論である。とまれ、無双も太極も外して、単に、PS陰陽論とすれば、暫定的にはいい。

追記3:エネルゲイアは現実態と一般に訳されているが、確かに、身体は現実態である。私は活動態と訳しているが、実動態という訳もいいだろう。

追記4:私のアリストテレス哲学の解釈は独自のものである。質料と形相の問題をいわば、パスしている。
 今一言言えば、形相はイデアに当たるだろう。質料であるが、アリストテレス哲学では、形相と質料の二元論になっているが、PS陰陽論では、イデア(陰陽氣)から、次元転換によって、エネルギー化して、生命身体(生命有機体)となるのである。
 だから、質料とは、次元転換によって、発生生成するものと見るのである。

参考:

アリストテレスの形而上学:質料と形相 - 知の快楽 - 東京を描く

追記5:アリストテレスのエンテレケイア(完全実現態)であるが、それを私は物質にしているが、それは、いわば誤読、あるいは、曲解である。
 エンテレケイアは素直に捉えれば、成長し、頂点に達した生命体である。人間ならば、成人である。
 素直に言えば、陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇔±1から言えば、⇔±1がエンテレケイアである。しかし、±1を私はエンテレケイアにしている。
 そして、私はこれまで、エネルゲイアを⇔±1としたが、⇔だけをエネルゲイアと見ることができるかもしれない。
 そうすると、アリストテレスの用語と齟齬がなくなる。後で、さらに検討したい。







作業仮説:イデアである陰陽氣を陰陽子と見て、それが前生命原子ではないのか

テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌

直観では、陰陽氣は陰陽子のイメージであり、そう、卵のようなイメージなのである。種子でもあるが、イメージは卵である。あるいは、卵子である。
 卵、卵子としての陰陽子をイメージすると、それは、前生命の「アトム」ではないかと思われるのである。だから、陰陽子は、前生命原子と呼べるように思うのである。
 思うに、物質科学での原子はこの前生命原子を物質的に還元したものではないだろうか。つまり、前生命原子の前生命の陰陽を取ってしまったものである。つまり、高次元(内在超越次元:内超次元)としての陰陽次元が欠落しているということになる。
 言い換えると、前生命原子の死物としての原子ということになるのである。生命体を形成する前生命原子としての陰陽子と生命体の死物から生まれる原子とは まったく異なるのである。ついでに言えば、原子力とは、この死物の力学から生まれるものであり、生命体の力学からではない。
 とまれ、前生命原子としての陰陽子(陰陽氣)であるが、それは、イデアであるから、情報をもっている。陰陽情報である。(ここで、波動や振動という概念 を入れていいのだろうか。ここは、静態であるから、まだ、波動、振動はないだろう。前波動、前振動ならあるだろうが。返ってデザインの方があるのではない だろうか。空海なら、金剛界曼荼羅である。ピュタゴラスなら数、秘数、聖数である。これは検討問題にする。)
 今、イメージしたが、陰陽イデアは静態であるが静態自体において、動くのではないだろうか。エネルゲイア化以前の動きである。例えば、陰陽螺旋動がイデアにおいてあるのではないだろうか。いわば、陰陽円における形態的陰陽動である。それが、陰陽イデア情報である。
 そして、それが次元転換で、エネルゲイア化、生命エネルギー化するのではないだろうか。
 つまり、前生命原子=陰陽子は、陰陽イデア情報を常に変成していることになる。ならば、前生命原子=陰陽子とは、一つでいいのであり、元前生命原子、元陰陽子となる。簡単にすれば、元生命原子=元陰陽子=元卵(元種子)である。
 おそらく、これは、樹木に似ているように思うのである。というか、螺旋形態が折り込まれたものである。つまり、渦巻様態である。つまり、元生命渦巻子=元陰陽渦巻子である。
 今はここで留める。








検討問題:父権自我力学、自我同一性力学につい:陽自我と陰自我と陰陽調和と他者

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

後で検討したい。
 もう一つ。ヤハウェという唯一神であるが、それは、PS陰陽論から見ると、超越性は一の氣(太一)から来ている。そして、唯一性は当然、陽の極大である陽自我から来ていると思う。
 もっとも、一の氣であるから、そこから、唯一性が来ているとも言える。
 しかし、一の氣は多元化(多神教化)するのであるから、唯一性は、一の氣と陽自我の一体化から来ているのではないだろうか。
 そう、太一において、陰陽力学が陽に極大化する時点がある。そのとき、一の氣は、陽自我の同一性と結びつき、一の氣は超越的唯一性を帯びると思う。
 思うに、その場合の陽自我とは、モーセの陽自我であり、それに、一の氣がいわばモーセに憑依したのである。それが、一の氣が陽自我(父権自我)のモーセに「唯一神」として憑依したと推察されるのである。
 陽自我であるから、陰陽調和心における内在超越性としての一の氣は感受されないから、内在性がないために、絶対的に超越性となると考えられる。故に、唯一的超越神となると言える。これが「ヤハウェ」の正体ではないだろうか。
 後でさらに検討したい。

追記:一の氣がモーセに憑依したというのは、意義深いように思う。
 というのは、現在、異常な日本人、なにか悪霊が憑依したような日本人が急増しているのは、根源にある一の氣(太一)が、作動しているからのように思えるからである。
 内在的超越的根源である一の氣(太一)が存在するのであり、それを父権自我、陽自我は抑圧しているから、当然、反動的に、一の氣が狂気として逆襲すると力学的に考えられる。
 それは、超越的なので、父権自我/陽自我の概念を独善化するのである。それで、妄想・狂妄・妄言となるのである。近代主義の問題がここにある。
 人間の思考は本来、内在超越性である一の氣に支配されているのであるが、近代主義は、それを否定しているので、必然的に、その逆襲つまり、反動狂気を受 けるのである。つまり、狂気としての近代主義なのである。(思えば、以前、近代的自我とは狂気であると私は何度も述べたものである。)
 ということで、父権自我、陽自我、とりわけ、近代的父権自我、陽自我は、一の氣を抑圧しているので、その反動的逆襲を受けるのであり、狂気に必然的に陥ると言えるのである。今はここで留める。





作業仮説:イデアである陰陽氣を陰陽子と見て、それが前生命原子ではないのか

テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌

直観では、陰陽氣は陰陽子のイメージであり、そう、卵のようなイメージなのである。種子でもあるが、イメージは卵である。あるいは、卵子である。
 卵、卵子としての陰陽子をイメージすると、それは、前生命の「アトム」ではないかと思われるのである。だから、陰陽子は、前生命原子と呼べるように思うのである。
 思うに、物質科学での原子はこの前生命原子を物質的に還元したものではないだろうか。つまり、前生命原子の前生命の陰陽を取ってしまったものである。つまり、高次元(内在超越次元:内超次元)としての陰陽次元が欠落しているということになる。
 言い換えると、前生命原子の死物としての原子ということになるのである。生命体を形成する前生命原子としての陰陽子と生命体の死物から生まれる原子とは まったく異なるのである。ついでに言えば、原子力とは、この死物の力学から生まれるものであり、生命体の力学からではない。
 とまれ、前生命原子としての陰陽子(陰陽氣)であるが、それは、イデアであるから、情報をもっている。陰陽情報である。(ここで、波動や振動という概念 を入れていいのだろうか。ここは、静態であるから、まだ、波動、振動はないだろう。前波動、前振動ならあるだろうが。返ってデザインの方があるのではない だろうか。空海なら、金剛界曼荼羅である。ピュタゴラスなら数、秘数、聖数である。これは検討問題にする。)
 今、イメージしたが、陰陽イデアは静態であるが静態自体において、動くのではないだろうか。エネルゲイア化以前の動きである。例えば、陰陽螺旋動がイデアにおいてあるのではないだろうか。いわば、陰陽円における形態的陰陽動である。それが、陰陽イデア情報である。
 そして、それが次元転換で、エネルゲイア化、生命エネルギー化するのではないだろうか。
 つまり、前生命原子=陰陽子は、陰陽イデア情報を常に変成していることになる。ならば、前生命原子=陰陽子とは、一つでいいのであり、元前生命原子、元陰陽子となる。簡単にすれば、元生命原子=元陰陽子=元卵(元種子)である。
 おそらく、これは、樹木に似ているように思うのである。というか、螺旋形態が折り込まれたものである。つまり、渦巻様態である。つまり、元生命渦巻子=元陰陽渦巻子である。
 今はここで留める。









二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

今は一言(ではなかった)。
 身体(生命身体であり、死体ではない:生気身体、氣的身体)を考えると、それは、氣のエネルギー様態ではないかと思う。
アリステレス哲学のエネルゲイア(活動態:現実態と訳されるが、それは、混乱させる)に当たるだろう。(アリストテレス哲学の用語については以下を参照されたい。アリストテレス『魂について』 - つじこの 、アリストテレスの自然哲学 - 知の快楽 - 東京を描く )
 そして、デュナミス(潜在態)は氣自体、つまり、一(いつ)の氣と陰陽極性氣に相当するのではないだろうか。
 否、微妙である。デュナミスとはいわばポテンシャル・エネルギーであるから、一の氣だけにした方がいいように思えるが。
 思うに、一の氣と陰陽氣に分けて、後者をイデアにした方がいいようだ。そして、一の氣は前イデア(プレ・イデア)としての根源界である。太一界である。(それは、太極とは異なる。太極を私は陰陽未分化の混沌【カオス】と見ている。)
 だから、デュナミス(プレ・イデア⇒イデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(終局態:つまり、結果であるから、物質)である。
 これに伝統的な霊学の用語を適用すると、霊がプレ・イデア(太一界)で、魂がイデアで、身体がエネルゲイアで、物質がエンテレケイアではないだろうか。ここで要注意は、霊学の伝統の三元論(霊⇒魂⇒身体)ではなく、四元論を新たに導入していることである。
 そう、身体と物質の区別があえて言えば、画期的である。
 シュタイナー霊学の医療に関しての批判もここの視点に拠るものとなるだろう。
 私は健康法において、氣だけでなく、身体も重要であるというのは、シュタイナー霊学の霊主体従の視点からは出てこないのである。そう、体(身体)と物質を同じものとシュタイナーは見ているのである。
 そうではないのである。身体とは生命のある有機体であり、物質とは、死せる身体、生命のない有機体ないし無機物である。
 ここで、氣の視点から見ると、直感する氣とは、魂であり、イデア(観念・理念)となるだろう。それは、身体化されるのであるが、それは、氣の感覚におい てはほんの一部は感ずるが、実際はブラック・ボックスである。その身体をエネルゲイアと呼ぶのであり、それは、氣のエネルギー体と呼べよう。そう、身体と は、エネルゲイアであり、氣のエネルギー体であり、それは、一部は感覚できるが、大部分はブラックボックスということになる。
 そう、例えば、音楽を聴いて、溌剌とした氣分(氣感)になるが、それは、イデアの活動状態のエネルゲイアと呼べるだろうが、それは、魂ではなく、身体様態ということになるだろう。あるいは、氣のエネルギー様態である。造語すれば、イデネルゲイア(イデネルギー)である。
 そのように考えると、イデア、魂とは、思考するときは、エネルゲイアの様態、身体の様態になるということになるだろうが、それでいいのか。これは、微妙 な問題である。私は思考はイデア、魂と思っていたが、しかしながら、思考は活動するものであるから、当然、エネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体になる のである。いや、それでいいと思う。思考観念自体はイデア、魂であるが、進行中の思考はエネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体と見ていいと思う。ここ で、概念思考と観念・理念思考の違いが考えられる。前者は、陽自我中心であり、陰陽調和に拠らないので、一面的であり、頭脳中心である。それに対して、観 念・理念思考、つまり、イデア思考、魂思考とは、陰陽調和に関わるので、生命的であると言えるのである。そう、ここで、哲学的思考と唯物的思考の根本的差 異があると言えよう。あるいは、芸術的思考と形式的思考の違いが。【そう見ると、哲学的思考と芸術的思考は同質的であるのがわかる。ただ、前者は言葉を表 現媒体とするのに対して、後者は形態を表現媒体にするということだろう。もっとも、言語も形態とすれば、同じであるが。】
 整理すると、四種類の表記による図式ができる。即ち、

1)霊⇒魂⇒身体⇒物質(霊学の三元論を四元論に改変)

2)デュナミス(プレ・イデア⇒イデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(アリストテレス哲学とプラトン哲学を結合)

3)一の氣(太一氣)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質

4)霊氣⇒魂氣⇒身体氣⇒物質

である。
 画期的と思われるのは、繰り返すが、身体と物質を区別したことである。また、イデア以前にプレ・イデア、いわば、ゼロのイデアを仮説したことである。ま た、イデア(魂、陰陽氣)を静態と見て、思考様態をエネルゲイア、身体、氣のエネルギー身体と見たことである。三つの独創があるのである。
 今はここで留める。後で補足したい。

追記:私が氣だけでなく、身体が重要という のは、上図式から、唯氣論の視点で整合的に言い直すことができる。即ち、身体とは、氣のエネルギー様態(エネルゲイア、身体氣)なのであり、静態的な氣の 動態である身体が重要というのは、生命論理的に当然である。そう、静態的である氣自体は、前生命的、形而上学的であり、身体はその生命的形而下的様態であ り、端的に、氣の生命なのである。氣自体は前生命であり、生命自体ではないのであるから、身体が重要というのはあまりに当然である。
 そう、シュタイナー霊学の誤りは、ここにあるだろう。霊的視点で、身体を物質体として見ているのであり、氣の現象体としての身体、氣のエネルギー様態としての身体と捉えていないのである。そう、エーテル体を生命として捉えているが、それは正しくない。エーテル体は前生命体であり、まだ、生命自体ではないのである。言うならば、エーテル体がエネルギー様態となって生命体としての身体になるのである。
 
追記2:理論名称であるが、無双太極PS陰陽論を改める必要がある。太極は外さないといけない。無双PS陰陽論か、太極太一PS陰陽論である。とまれ、無双も太極も外して、単に、PS陰陽論とすれば、暫定的にはいい。

追記3:エネルゲイアは現実態と一般に訳されているが、確かに、身体は現実態である。私は活動態と訳しているが、実動態という訳もいいだろう。

追記4:私のアリストテレス哲学の解釈は独自のものである。質料と形相の問題をいわば、パスしている。
 今一言言えば、形相はイデアに当たるだろう。質料であるが、アリストテレス哲学では、形相と質料の二元論になっているが、PS陰陽論では、イデア(陰陽氣)から、次元転換によって、エネルギー化して、生命身体(生命有機体)となるのである。
 だから、質料とは、次元転換によって、発生生成するものと見るのである。

参考:

アリストテレスの形而上学:質料と形相 - 知の快楽 - 東京を描く

追記5:アリストテレスのエンテレケイア(完全実現態)であるが、それを私は物質にしているが、それは、いわば誤読、あるいは、曲解である。
 エンテレケイアは素直に捉えれば、成長し、頂点に達した生命体である。人間ならば、成人である。
 素直に言えば、陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇔±1から言えば、⇔±1がエンテレケイアである。しかし、±1を私はエンテレケイアにしている。
 そして、私はこれまで、エネルゲイアを⇔±1としたが、⇔だけをエネルゲイアと見ることができるかもしれない。
 そうすると、アリストテレスの用語と齟齬がなくなる。後で、さらに検討したい。



2014年02月23日(Sun)▲ページの先頭へ
視覚の問題:物質的視覚と氣的視覚:表情にある氣=精神の様態
リンク付きは、以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11780017495.html

視覚の問題:物質的視覚と氣的視覚:表情にある氣=精神の様態

テーマ:唯物科学から物質包摂の氣サイエンスへ

ポスト唯物論の認識革命のための、基礎的考察である。もっとも、この問題は長い間検討してきているが、今一つ決定打がないようだ。
 有り体に言えば、氣的視覚というものがあると私は考えているのであり、それは、通常の視覚とは異なるということである
 シュタイナーなら、霊的視覚(霊視)に一気に到達するのであろうが、私はそこまでは言わない。
 具体的に言いたい。例えば、顔の表情であるが、これは、明らかに、その人の心の状態が顔の皮膚に現われるということであり、心、精神が物質に出現するということである。
 私は心、精神を氣ないし氣的に見ているので、氣が顔に発現したと見るのである。
 つまり、表情において、人は、いわば、氣を見ていることになるのである。
 そう、氣の様態(心持ち)が顔の様子を形成するということである。
 正確に言えば、表情において、氣自体を見るというのではなく、氣の力が形成する現象を見るということである。言い換えると氣の現象力の表層を見るということである。
 氣本体ではなく、氣のいわば末端を見るということになる。
 しかしながら、一般には表情を氣の末端とは見ていない。単に、感情表現と見るに過ぎないのである。
 とまれ、人には、なんらかの精神・心(性格、気質、人格を含む)があり、それは氣的であると私は見ているのである。
 つまり、氣の精神・心があるのであり、それは、氣的感覚をもっている。しかしながら、一般には、末端の表情だけを捉えて、本体の氣的精神・心(氣精神、氣霊、氣魂)を捉えられないようである。
 この氣精神(氣霊、氣魂)であるが、これは、これまで述べてきた陰陽調和心と言っていいと考えられる。
 今日一般には(昔の日本人は、氣精神をもっていたが)、氣精神が自我によって抑圧されていて、感覚できなくなっていると思われる。
 とまれ、氣精神を涵養すると、というか、氣精神を大事にして、培育(造語:培うと育てる:そう、氣育、氣養と言えよう)すると、自然現象、あるいは、現象一般における氣の存在が感受されると思われるのである。いわば、感氣、観氣ができるようになると思われるのである。
 そこで、本題の視覚の問題に触れると、氣精神を涵養させると、視覚にもその影響が及ぶと考えられる。そうすると、通常の物質現象的視覚に氣的視覚が入ることになる。
 つまり、物質内包的氣的視覚が形成されると思われるのである。氣本体の世界(氣界、氣霊界、氣魂界)があり、その現われとしての現象界があるように視覚・直観されると思われるのである。
 ということで、氣的視覚とはありうるのであり、氣育、氣養が重要であると言える。何故なら、ここには、真善美のイデア(一の氣)に通じると考えられるからである。真理、道徳、精神美の三位一体に通じると考えられる。
 最後に一言、以前、超越光(超光)というものがある、ないし、見えると私は述べてきたが、今や、それを明快に解明できるのである。
 即ち、私は陽光を介して、超越光(超光)が視観できると何度も述べてきた。(思えば、最近、それを感じなくなってはいるが、それはおいておく。)
 上述から、氣精神(氣精身)の氣視覚によって、陽光、日光、太陽光の氣的本体を視覚するのであり、陽光の氣的本体が超越光(超光)であると言える。
 日光の氣は超越光(超光)として、氣視覚、氣直観されるということである。

参照:

*
日想観(じっそうかん)に先祖返りする飯山一郎役小角転生仙翁

・・・いが、結構できるものである。 ところで、飯山仙翁は、古代や中世あたりの日本人がやっていた日想観(じっそうかん)に先祖返りしていると言えよう。 日光は不可視の氣の「光」、超越光があると私は考える。当然、生命のスピリットである・・・[2013年10月02日]

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光・・・
*
・・・アの目には見えない光線は「気」、「気不可視光」、超越光のこ・・・

アナスタシアE 真実を知った女性が男性を変えるアナスタシアD 千里眼 私がここで見聞きしたことの中で、もっとも不思議で尋常ではないものに思えたのは、はるか遠い場所にいる1人の人間の状況を、見通すことができるアナスタシアの能力だっ・・・[2013年09月27日]

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光・・・
*
心の光と自我

・・・で、日光であるが、それは、陰陽球であると言ったが、外部は光子であり、内部が陰陽共鳴である。 心の光は太陽光線に、自身と同じ、心の光を見いだすように思われる。 私が以前、超越光と呼んだものは、この心の光(心光)だと思う。 そ・・・[2013年09月05日]

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光・・・
*
宗教の光とは何ぞ哉:太陽とは何か:暗黒太陽ダークサンが太陽神(お・・・

・・・、その表層の光・可視宇宙・可視太陽・物質現象しか見ていないのである。 しかし、この暗黒は実は、光を超えた光ではないのか。黒々とした「光」ではないのか。 私がかつて言った超越光、超光とは、それに通じるのではないのか。私は光に・・・[2013年04月24日]

resurrectionのブログ: Japonesian T・・・
*
不連続的陰陽イデア論:陰イデア∞陽イデアのメビウスの輪と太一イデ・・・

・・・ておく。 とまれ、明快に区別するため、陽イデア=光を陽光、陰イデア=闇を陰光と呼ぼう。 ならば、太一には「光」はないのか。私が以前、超光と呼んだものがそうではないのか。超越光とも呼んだ。そうしておこう。追記2:陽光、陰光で・・・[2013年04月14日]

resurrectionのブログ: Japonesian T・・・

*
太極⇒陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒螺旋生命物質体:生命物質現象の根源は・・・

・・・自己(自我)を包摂できるので、即非共振様態を帯びると考えられよう。 だから、気を感受感知するのは、肚を介した胸=心臓(MP)であると思われるのである。 気の光(気光)=超越光(超光)も、そこで、視覚できるように思う。これは・・・[2013年01月20日]

resurrectionのブログ: JaponAsia Gr・・・

*
光と闇:二つの光と二つの闇:電磁波の光と気の光、無光の闇と気の闇・・・

・・・ような認識上の問題があるために、上記した問題が根本的に生じると言えよう。 だから、言い直せば、光は光であって、光以上のものである、というようになろう。 光以上のものとは超越光、超光、気の超光、気光である。追記:感性という用・・・[2013年01月18日]

resurrectionのブログ: JaponAsia Gr・・・
*
螺旋回転の力学:陰陽円における第一半回転物質過程と反転時点と第二・・・

・・・サイクルの始点に近づいているということである。 闇はますます濃くなるが、同時に黎明、曙光、夜明けの光がますます感じられる時代・エポック・エァラと考えられる。 私見では、超越光、気の光、大光が見え出しつつあるのだ。 そう、新・・・[2012年12月26日]

resurrectionのブログ: JaponAsia Gr・・・
*
光は闇であり、闇は光である:「きれいはきたない、きたないはきれい・・・

・・・ンス・モダン=気(霊)論=多神教(女・母神)注:上の図式(無双陰陽図式とでも呼ぼう)の陽を陽(光)、陰を陰(闇)とした。 ただし、それほど単純ではない。実は太陽光には、超越光が存すると思う。そう、気の光、気光である。それは・・・[2012年12月22日]

resurrectionのブログ: JaponAsia Gr・・・


http://search.ameba.jp/search.html?q=%E8%B6%85%E8%B6%8A%E5%85%89&aid=neomanichaeism




セクシュアリティと性欲は異なる:陰陽調和の植物的性と男性中心的性欲

テーマ:セックス問題:太陰的女性性とジェンダー

今は一言。
 私はセクシーさが根本的、本質的に重要だと考えている。
しかし、それは、性欲自体とは異なるものである。
 そう、セクシュアリティ、本来のセクシュアリティとは、実は、陰陽調和心において発生する精神、精身体だと思う。
 男性は、陰陽調和心において、陽的、雄蕊的であり、女性は、それにおいて、陰的、雌蕊的である。
 つまり、植物的な性磁力(陰陽牽引力を仮に、磁性に喩える)が本来のセクシュアリティである。
 それに対して、性欲とは、男性に拠る女性支配的な(父権的な)、動物的欲望(獣欲)である。
 因みに、D.H.ロレンスの表現した性愛は、実は、この本来のセクシュアリティ、陰陽調和の植物的性磁力を、身体的に表現したものと考えられる。
 植物的陰陽調和のセクシュアリティにおいて、思うに、女性が主軸(雌蕊)になり、男性(雄蕊)は補完的になるように思う。もっとも、陰陽調和であるから、女性と男性は対極的関係にある。
 今はここで留める。






「反知性主義」とは、父権近代自我主義の帰結である:自我膨張し、自我妄念を他者(知性)に押しつける

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

もう少し説明したいが、今は一言。
 問題は言語概念知性と自我(陽自我)との結びつきが先ずある。例えば、ある対象は「山」であると認識する場合、それは、言語概念的知性(概念知性)である。
 この概念知性は自我(陽自我)と結びついている。だから、これを発達させていくと、自我(陽自我)が発達して、原初陰陽調和心が抑圧排除されていく。
 しかしながら、陰陽調和心にこそ、バランス知、自己と他者とのバランス知が存するのである。それは、理性と言っていいだろう。つまり、陰陽調和心とは理性である。
 さて、問題は発達した、概念知性と自我(陽自我)が支配するとき、もう一つの自我(陰自我)はどうなるのだろうか。
 これは、感情や欲望である。シュタイナーでいうと、アストラル体である。私は陽自我と陰自我が連続的同一性体を形成するという述べてきた。つまり、概念知性ー陽自我と感情・欲望ー陰自我が連続的同一性体を形成するのである。
 しかし、陽自我は、陰自我については無意識的である。陽自我は自我、ないし自己自身を尊大に肯定するのであり、隠れた感情・欲望ー陰自我を見つめる作業をしないのである。
 というか、感情・欲望ー陰自我と言語概念ー陽自我が融合したような状態であり、一種未分化的様態になっていると言っていいだろう。自我ないし自己は自分自身に盲目なのである。妄想状態とも言えよう。
 このような父権的自我が発達する以前は、まだ、陰陽調和心=理性があ り、自己と他者のバランスをもった知性があったが、それが発達し、陰陽調和心=理性が抑圧排除されると、父権自我において、知性は確かに、概念知性は増加 したが、それは、自我盲目の状態と一体化しているために、他者とのバランスのとれた理性状態における知性に対して、反感をもつのであり、反発するのであ る。
 これが、「反知性主義」と呼ばれるものの本質であると思われるのである。
 今はここで止める。

追記:補足すると、「発達した」父権自我は、陰陽調和心=理性=自他 バランス知性を否定しているのであり、それは、他者の否定を意味する。これは以前説明したが、陰陽調和心によって、陰我(凹i)が他者に変容するのであ り、この他者性が父権自我においては形成されないので、自我同一性に反する他者(知性)は否定されるのである。
 これが「発達した」父権自我の特徴の一つである「反知性主義」と言えよう。

追 記2:以上では、(言語)概念知性と陰陽調和心=理性=自他バランス知性の二つの知性があるが、「反知性主義」の「知性」は当然、後者である。理性的知性 である。前者は自我的知性ということになるが、実も妄念と区別がつかないので、それを知性と呼ぶのは問題がある。(近代的科学の問題はここにある。利己主 義が知性を支配して、知性を歪曲するのである。)
 そう、近代主義、近代合理主義とは、概念知性と唯物論と父権自我が一体となった主体に拠るものであり、必然的に、自我膨張し、妄念化するのである。科学的知性はそのような否定・暗黒面をもつのである。
 とまれ、概念知性であるが、それは知性ではなく、概念知ではないだろうか。つまり、言語概念知であり、それは、まだ、知性に達していない。科学的知が知性になるには、理性が必要である。理性において知は知性となるのである。
 ならば、理性と知性をどう区別するのか。これは、ヘーゲル哲学やカント哲学と関係する。
 知っている(知」だけでは、知性にならないということだろう。
 知っている(知)ということは、知識である。そう、言語概念知識と呼ぶのが的確である。
 だから、訂正して、(言語)概念知性ではなく、(言語)概念知識にする。
 すると、近代主義は知性主義というより、知識主義であったと言えよう。この大弊害があるのである。
 とまれ、知性と理性の区別の問題に戻ると、理性とは、陰陽調和心の主体の様態である。それは、知と感性と意志の三位一体、真善美の様態である。そのような理性における知の様態が知性ということになる。それは、思考と言ってもいいだろう。
 とまれ、理性がなけば、知性はないのである。理性がなければ、知識肥大の妄想自我になってしまうのである。これが、今日日本で爆発的に蔓延しているのである。父権主義の末路である。
 


●ためらうな、奈落の底まで突っ走れ! 反知性主義・安倍政権の末路をみせろ
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/e7f4331fe28bca17a8ce45afb8a1e3bd

≪ 「反知性主義」への警鐘 相次ぐ政治的問題発言で議論 

「反知性主義」という言葉を使った評論が論壇で目につく。「非」知性でも「無」知でもなく「反」知性――。政治的な問題発言が続出する現状を分析・批判しようとする意図が見える。

■自分に都合のよい物語 他者に強要  
  「嫌中」「憎韓」「反日」――首相の靖国神社参拝や慰安婦問題をめぐり日・中・韓でナショナリスティックな感情が噴き上がる現状を、週刊現代は問題視して 特集した(1月25日&2月1日合併号)。  元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は対談で、領土問題や歴史問題をめぐる国内政治家の近年の言動に警鐘を鳴らした。その中で使った分析用語の一つが 「反知性主義」だ。この言葉を昨年来、著書などで積極的に使っている。

 どう定義しているのか。

 「実証性や客観性を軽 んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だと佐藤氏は述べる。新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世 界を見直していく作業を拒み、「自分に都合のよい物語」の中に閉じこもる姿勢だ。とりわけ問題になるのは、その物語を使う者がときに「他者へ何らかの行動 を強要する」からだという。
世相を斬る あいば達也


2014年02月21日(Fri)▲ページの先頭へ
再掲:何故日本のPMやトンキントゥー知事はハートや魂がないのか:日本父権自我が母権的知を排除する
強調された記事は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11776885377.html


再掲:何故日本のPMやトンキントゥー知事はハートや魂がないのか:日本父権自我が母権的知を排除する

テーマ:二つの科学:内的科学と外的科学:霊と物質

一言言うと、何故、父権的自我が、傲慢傲岸不遜・独善虚偽欺瞞・妄想妄念狂妄・過信妄信(盲信)狂信になってしまうのかというと、頭で考える概念(観念ではない)とその実体には、質的なズレがあるからと考えられる。
 つまり、言うこととそのことを実際に行なうこと、実践実行することとの間はギャップがあり、両者不連続・非連続である。
 言うことは簡単で、派手になる。しかし、行なうということは、地味なことである。この地味な行為を言語概念が好きな父権自我は、不得意なのである。
 というか、誠意ある、真正な、まともな行為とは、道徳・倫理・仁理・仁道・仁倫的であり、それは、言語概念とは別の意識・認識・「知」が必要なのである。この別な「知」とは、実は、母権的「知」なのである。
 これは、ハートや魂の知なのである。言い換えると、陰陽調和知である。これが、父権自我は面倒くさがって、否定排除してしまい、グロテスク、デカダンな悪に変じてしまうのである。
 近代西洋文明文化を近代・戦後日本(明治「近代」とは私論では、龍馬や西郷隆盛らの母権派を排除した父権派が勝利して、プロイセンを真似た、父権的国家主義となり、また、戦後日本は唯物論的になり、精神文化を侮蔑し、否定した。)は十分理解していないのである。そこには支配的な父権的知とは別に、もう一つの主導的な母権的知が存立しているのであり、実際、それらは、対立・激突・争闘しているのである。(それは、例えば、具体的には、現在米国において、オバマ民主主義的資本主義と戦争的資本主義【戦争屋】が闘争しているのに見られる。)例えば、民主主義とは、概念としては、父権的になり、超大資本に利用されてしまっているが、実は、母胎、根っ子、土壌、基礎土台は、母権的知に存すると考えられるのである。(追記:民主主義を父権的概念で捉えるのか、母権的観念【理念】で捉えるのとでは、まったく異なることに要注意である。)
 後者を近代・戦後日本は明確に認識していないのである。それ故に、グロテスクな、デカダンなお馬鹿な父権悪党どもが支配しているのである。亡国の凶相であり、愚民も日本には多く、賢民は道連れにされるのである。
 日本母権民族革命進化が必要である。父権的民族の日本の日は沈み、母権民族の日本の日が昇るだろう。亡国と新生。

参照:

舛添都知事が手柄自慢 「保育所に国有地活用」の詭弁とウソhttp://gendai.net/articles/view/news/148092

「やっぱりパフォーマンス先行の猪瀬前知事と同じスタイルになるんですかねえ」 東京都の舛添要一知事について、都庁内でさっそくこんな嘆き節が出始めた。  彼らが指摘するのは、舛添が先週14日の記者会見で「保育所整備に国有地を活用する」と打ち出した件だ。…
〔記事全文 〕

*大雪“無策”で都民激怒! 舛添知事の口だけ「防災意識」

http://gendai.net/articles/view/news/148094
「現場主義」と言いながら視察もせず…
口先男/(C)日刊ゲンダイ

 8都県で19人が死亡した記録的な大雪が降る中、東京・赤坂で高級天ぷら料理を食べていた安倍首相に怒りの声が殺到している。ツイッター上では、「国民が大雪で大変なのに、暖かい場所で天ぷら食って平和ボケかいな…」という書き込みも見られるが、大雪被害のさなかに司令塔がボンクラだったのは政府だけじゃない。舛添要一・東京都知事も同じだ。


日刊ゲンダイ ゲンダイネット




「虚偽、狂妄、自己矛盾」 安倍首相の言動で中国外交部_新華網
http://jp.xinhuanet.com/2013-12/28/c_133002705.htm‎

2013年12月28日 ... 「虚偽、狂妄、自己矛盾」 安倍首相の言動で中国外交部---中国外交部の華春瑩報道官
は27日の定例記者会見で、日本の安倍晋三首相が26日靖国神社を参拝すること
について、安倍晋三首相の参拝後の詭弁や...


2014年02月16日(Sun)▲ページの先頭へ
氣的身体物質と純粋物質の違い:陰陽方程式陰凹i*陽凸i⇒±1で⇒が生命エネルギー、±1が純粋物質
氣的身体物質と純粋物質の違い:陰陽方程式陰凹i*陽凸i⇒±1で⇒が生命エネルギー、±1が純粋物質

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

本件について考察しようと思っているが、余裕がない。このままでは、当分書かなくなってしまうおそれがある。
 そこで、一言述べておく。
 陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇒±1(思うに、正確には、陰凹i*陽凸i⇔(又は⇄)±1ではないだろうか。これについて後で検討。)で考えると、端的に、±1が純粋物質ではないだろうか。
 生命体は陰陽方程式自体だと思う。陰凹i*陽凸iは極性のある氣であるし、それが、エネルギー形態⇒となり、それが、生命体⇒±1を形成すると思う。エネルギー(生命エネルギー)⇒がなくなったものが、±1であり、これが、純粋物質だと思う。
 だから、近代科学、唯物科学、唯物自然科学は、±1だけを研究していて(量子論は、実は、氣の影像を見ていると思うが、唯物論、±1の科学なので、量子の本体である氣【氣子?】まで、到達できないと考えられる)、生命の本質、本体、実体は看過しているということになる。
 ところで、+1と−1はどう違うのだろうか。天的な物質と地的な物質があるということなのだろうか。これは課題である。
 今はここで留める。

追記:桜沢如一(ゆきかず)氏は『無双原理・易』の中で、Na(ナトリウム)が陽性元素群の代表者で、K(カリウム)が陰性の代表者であると述べている。(p.107)

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 私は桜沢氏が陰陽を物質と同一視していることを批判しているが、思うに、+1が陽性元素で、−1が陰性元素かもしれない。もっとも、これはあてにならない。

追記2:±1を純粋物質と見ると、例えば、原子力科学とは、±1の物質科学の応用である悪鬼的科学であるということになる。
 何故なら、自然とは、陰陽方程式で表現されるものであるが、自然の、いわば、末端である±1だけ(これは、死体、死物、遺体である)の力学を見ているからである。つまり、原子力科学とは、死体科学、死の科学の帰結ということである。
 結局、近現代科学、唯物科学、唯物自然科学とは、死体科学、死物科学、死の科学であり、生命体科学、生命科学、生の科学、生き物の科学ではないのである。
 死体から生命体を捉えようとする本末転倒を行なっているのである。

参考:


* 「暗黒物質は存在しないかもしれない」 : 王立天文学会の総会で発表された科学界にとっては衝撃的な新学説

dark-matter.gif

▲ 現在の宇宙論。この世の約 73%が暗黒エネルギー、23%が暗黒物質というよう「ことに」なっています。つまり、「この世は95%以上が正体のわからないもので作られている」というのが現代宇宙論です。この理解しにくい理論が崩壊しつつあります。オリジナルの図版は、2013年4月4日の朝日新聞デジタル「暗黒物質の痕跡?確認 宇宙つくる正体不明の成分 」より。
http://oka-jp.seesaa.net/article/388346398.html

In Deep 地球最期のニュースと資料


気的身体と物質:生命体的物質と純粋物質の違い

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

いよいよ、これまで保留しておいた、今の時点で、もっとも重要と考えられる本件について考えたい。
 私はこれまで、生命体における物質と純粋物質とは異なると考えてきた。それを明快にしたい。


2014年02月11日(Tue)▲ページの先頭へ
理霊=一の氣=イデア=デュナミス&陰陽氣霊=エイドス=エネルゲイア:両界(金剛/胎蔵)曼荼羅
理霊=一の氣=イデア=デュナミス&陰陽氣霊=エイドス=エネルゲイア:両界(金剛/胎蔵)曼荼羅

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

後で検討したい。
 一言言うと、一の氣が理霊=イデアであり、それが、陰陽氣と一如である。陰陽氣は陰陽調和心であり、太陽・植物的エネルギーとも言える。
 アリストテレス哲学の用語を使用すれば、一の氣がデュナミスであり、陰陽氣がエネルゲイアである。
 そう、イデアとエイドスの区別ができるかもしれない。一の氣=理霊=イデアということであり、陰陽氣=陰陽調和心=エイドスになるかもしれない。
 空海の両界曼荼羅で言えば、一の氣=理霊=イデア=デュナミス=金剛界曼荼羅であり、陰陽氣=陰陽調和心=エイドス=エネルゲイア=胎蔵界曼荼羅となるのではないだろうか。

追記:朱子の理氣論で言うと、理=氣論である。ただし、理が超越で、氣が内在であり、合わせて、内在超越性である。ただし、理と氣は不可分である。ここがポイントである。この秘密は、 MP(Media Point:メディア・ポイント:ガウス平面の原点)に存すると言えよう。MPに陰陽氣があると同時に、一の氣も存すると言えよう。また、MPは身体に接合していると言えよう。つまり、MPは三重性、三重体なのである。即ち、一の氣、陰陽氣、身体の三重性(体)、三元性(体)である。
 とくに、身体との接合が氣と身体の一如である身(み)を考える上で重要である。太陽と腸内細菌の関係を見るときに重要になるし、乳酸菌による免疫力の増加にも関係するだろう。
 最後に一の氣であるが、それは、陰陽円として、本来、存在していよう。あるいは、陰陽球として。それが、MPに発現するということでもある。これについては、後で整理したい。

 

胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅
bell.jp/pancho/k_diary-5/mandara.htm


* キャッシュ
* 類似ページ

曼荼羅(まんだら)は、サンスクリット語のmandalaの音写したもので、本来の意味は”
本質、中心、精髄などを持つもの”を表し、仏教では、仏の悟りとその世界を意味する。
特に密教 ... 金剛界曼荼羅」と合わせて「両界曼荼羅」と併称される。 □ 大日経は7世紀
の ...

両界曼荼羅 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/両界曼荼羅


* キャッシュ

両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、日本密教の中心となる仏である大日如来の説く
真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅 ... 胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「
金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する


2014年02月10日(Mon)▲ページの先頭へ
哲学と内的科学:プラトン哲学は、内的科学の出発点でもある
哲学と内的科学:プラトン哲学は、内的科学の出発点でもある

テーマ:二つの科学:内的科学と外的科学:霊と物質

私は科学を外的科学(近代科学、唯物科学、唯物自然科学)と内的科学(氣=陰陽科学、霊魂科学、精神=霊科学)の二つに峻別、弁別、区別している。
 これまで、科学は一つのものと思われているが、それは間違いと私は指摘するのである。
 とまれ、PS陰陽論は哲学且つ内的科学である。思うに、哲学=内的科学と極言できよう。
 そして、哲学=内的科学の始祖は、ピュタゴラス学派の数学的理性を取り入れたプラトンであったと考えられる。
 ホワイトヘッド(私は評価しないが)の有名な言葉「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」もむべなるかな。
 後で、さらに説明したいが。

追記:以下参考にあるように、プラトン哲学等を二元論と説いている。それは、西洋哲学、理論の典型である。
 しかしながら、PS陰陽論は、二元論ではなく、一元論なのである。一見、陰陽は二元論に見えるが、そうではなく、極性論である。対極を一(いつ)と見るのである。
 PS陰陽論が二元論ではないいちばんの核心は、一の氣=陰陽氣とする点である。つまり、内在的超越性(内超性、イントランスintranscendence)をもつ点である。いわば、三元論とも言えるのである。
 氣をベースにすることで、二元論を脱却しているのである。そう、氣の哲学=内的科学は、西洋哲学を超克する。


参考:
プラトンの不死説とギリシャ人の霊魂観 - 知の快楽 - 東京を描く
プラトンの不死説とギリシャ人の霊魂観


プラトン哲学の著しい特徴は、実在と仮象、イデアと現象的な世界、理性と感性とを峻別する厳しい二元論である。プラトンはこれらそれぞれに対をなすものうち、前者こそが真理や善にあずかるものであり、後者はかりそめなものに過ぎないという、強い確信を持っていた。

こうした二元論が人間に適用されるとき、人間は霊魂と肉体からなるものとしてとらえられる。この見方からすれば、肉体はかりそめのものとして、この世のはかないものに束縛されているのであるから、霊魂はなるべく肉体から自由になって、真の実在即ち永遠のイデアをとらえなければならない。

また肉体は有限で滅びるべきものであるが、イデアが永遠であるように、霊魂は滅びることがない。それは人間の生まれる前に既に実在し、人間が死んだ後でも実在し続ける。つまり霊魂とは不死の存在なのである。

プラトンのこのような霊魂にかんする考え方は、ピタゴラス派を通じて、ギリシャ人の伝統的な霊魂観につながっている。オルフェウス教の教えによれば、肉体は大地から、霊魂は天上から派生する。オルフェウス自ら、自分は大地と星の輝く天上との子であると公言していた。

ピタゴラスは、霊魂は不滅であり、一つの肉体を去った後は、別の肉体に生まれ変わるという、霊魂輪廻説を唱えていた。霊魂は地上での行いに応じて、死後はより位階の高いものに生まれ変わることもあれば、虫けらのように卑しいものに生まれ変わることもある。そして真に偉大なものは、ついに神々のもとで永遠の安らぎを得るのだと解いた。

プラトンの霊魂に関する説を最もよく表しているのは「パイドン」である。最晩年に書かれたこの対話編の中で、死に向き合ったソクラテスを通じて、プラトンは魂の不死なことを説く。死とは肉体と魂の分離であるが、魂は肉体と分離した後でも消え去ることはなく、引き続き生き続けるのであるし、むしろ肉体のくびきから開放されて、真の実在に達することができるのだ、だから死を恐れる理由はなく、むしろ喜ばしいこととして、これを迎えなければならぬ、そうソクラテスは主張するのである。

「いやしくもわれわれが何らかの明晰な知を得ようとするならば、肉体を離れ去って、純粋に魂だけで事柄そのものを観じなければならぬということなのだ。… 肉体とともにある限り、何者をも明晰に認識することはできないとするならば、残るのは、次の二つのうちのどちらかだろうーー「知」を我がものにすることは、ついに永久にかなわぬことか、それとも、死んだ後にはじめてそれが可能であるか。なぜなら、死んでこそはじめて、魂は肉体を離れ、純粋に魂そのものとなるだろうが、それまでは不可能なのだから。...浄化というのは結局、魂をできるだけ肉体から切り離すこと、そして、魂が肉体のあらゆる箇所から開放され、現在も将来もできるかぎり、純粋に自分自身だけですまうように習慣づけるということ、この一事に帰着するのではないだろうか。」(藤沢令夫訳)

プラトンはソクラテスにこういわせることによって、知というものは肉体を離れ去った純粋な魂によってこそ完全に認識されうるのだと主張している。これは、感性から出発して、ディアレクティケーの術によって概念的な知に到達すべきだとする、ソクラテスのそもそもの学問的方法とは、かなりはなれた立場だといわねばならない。

それはさておいて、プラトンは肉体から離れた魂の実在性について、議論を進める。

まずプラトンは、魂がその人間の誕生以前から存在していることの証拠として、魂には肉体を必要とせず先天的にそなわった知識があるという議論を、ソクラテスに展開させている。そのような知識とは、例えば数学と論理学である。これらの知識は何ら感性的なものを介さず、それ自身として直接魂の考察の対象となりうる。このような知識は、魂の回想によってもたらされるものであり、したがって魂は誕生の以前から存在していたはずだ、こうソクラテスはいうのである。

一方、魂が死後においても生き続けることの証拠として、ソクラテスの展開する理屈は、先ほどのようには明快とはいえない。ソクラテスによれば、生命が死を生ずるのと同じように、死は生命を生ずるというのだが、これは理屈のようで理屈にはなっていないといわねばならぬ。

またソクラテスは、魂はイデアのように単純で、分解できるものではない、単純なものには、始まりも終わりも変化もありえない、したがって魂は変わることなく永遠なものとしてあるのだという、パルメニデス的な論法を展開するが、この議論もやはり-詭弁としか聞こえないだろう。

このようにプラトンがいうことの背景には、彼にとって魂の不死は揺るぎのないことであり、したがって改めてその実在を論証する必要は豪もないという確信がある。つまりプラトンは、魂が肉体から離れて独立の存在を保ち続けるという、ギリシャ的霊魂観を自明の前提として語っているからこそ、あえてくどくどとその実在の証明に没頭する必要を感じなかったのだ。

「パイドン」は最後に近い部分で、死後における魂の運命について叙述する。生きている間に肉体への隷属から開放されて永遠のイデアに出会うことが出来たものは、死後には神々と交わる祝福のうちに暮らすであろう。肉体を愛した不浄な魂は、墳墓をさまよう幽霊となるか、馬や狼といった動物の身体に宿ることになろう。知恵を愛することには劣っても徳のあった人々は、蜜蜂や蟻といった社会的な生き物に生まれ変わるだろう。

また、善人であったものの魂は天国に行き、悪人の魂は地獄に行き、中間の人々の魂は煉獄に行くのだともいう。

人間の死後における魂の運命に関するこうした説は、とても哲学的な議論とは思われぬし、まして科学的な精神には著しく反している。それは、オルフェウス教を中核とした当時のギリシャ人の宗教的心性を、美しい言辞をまとわせて、語ったに過ぎないと思われるのである。
http://philosophy.hix05.com/Plato/plato07.spirit.html
壺 齋 閑 話

続 壺 齋 閑 話


霊魂の不滅説:「御冥福を」とは、文字通りとれば、冥土・冥界で生きるということだ:死んで生きる?
霊魂の不滅説:御冥福をとは、文字通りとれば、冥土・冥界で生きるということだ:死んで生きる?

テーマ:宗教・神話・社会・歴史

PS陰陽論は唯氣論となっているが、思うに、寝ている間、あるいは、死んだとき、「わたし」はどうなるのか?
 陰陽方程式陰凹i*陽凸i⇒±1において、−1が自我(連続陰陽我)で、+1が陰陽調和心の身体化(思うに、心臓ではないだろうか)である。
 寝るときは、陰陽我である自我は、身体から抜けるだろう。つまり、±1から抜ける。一種、幽体離脱状態であろう。
 それは、陰凹i*陽凸iに帰還しているのではないだろうか。
 考えると、寝る、眠るとは不思議な事象である。
 陰凹i*陽凸iに回帰するとは、一(いつ)の氣に回帰すると考えられる。
 ところで、自我を陽我凸i(正確には、極大的凸i)と陰我(同様に、極大的凹i)の二重のものとしているが、目覚めているときは、つまり、現象界、物質現象界=「現実」界にいるときは、自我は、陰陽方程式凹i*凸i⇒±1の±1に重なっているだろう。
 より正確に言えば、自我は、−1だろう。思うに、陽我主導的では、−1になるだろう。しかし、陰我主導的な場合は、微妙である。思うに、−1と+1の未分化様態のように、思える。これについては、要検討にしておく。
 とまれ、現象界の自我ないし自己は、±1に位置するのであり、睡眠している場合は、陽我と陰我と陰陽調和心は、±1から離脱して(幽体離脱?)、凹i*凸iの様態、さらには、一の氣の様態に移動しているのではないだろうか。
 そう、一の氣を全一氣とも言えよう。だから、睡眠時、自我、自己ないし個は、一の氣=全一氣に帰還しているということになる。
 思うに、一の氣=全一氣とはあの世ではないだろうか。死後の世界ではないだろうか。あるいは、霊界である。
 ここで、想起するのは、太極と一の氣の世界(太一界と呼べよう)の相違である。
 太極は陰陽未分化の原初の世界、混沌の世界であった。しかし、そこから、一の氣(太一界)=陰陽氣の世界が生まれるのである。
 そのように見ると、自我、自己、ないし個とは、不滅であることがわかるだろう。プラトンが説いた、霊魂の不滅は正しいと思うのである。
 
参考:

1.
プラトンの不死説とギリシャ人の霊魂観 - 知の快楽 - 東京を描く
philosophy.hix05.com/Plato/plato07.spirit.html

* キャッシュ
* 類似ページ
プラトン哲学の著しい特徴は、実在と仮象、イデアと現象的な世界、理性と感性とを峻別
する厳しい二元論である。プラトンは ... ピタゴラスは、霊魂は不滅であり、一つの肉体を
去った後は、別の肉体に生まれ変わるという、霊魂輪廻説を唱えていた。霊魂は地上で
...
2.
哲学講義18 - プラトン(6) 霊魂不滅の証明・ソクラテスの死 - : 古代 ...
matsuura05.exblog.jp/298487/

* キャッシュ
* 類似ページ
2004年2月18日 ... さて、今回の哲学講義は、プラトンの『パイドン』に描かれた霊魂不滅の証明とソクラテス
の死の場面を見ることにします。『パイドン』という対話篇は、ソクラテスが死刑を執行
される当日に弟子たちと交わした会話を記すという形で書かれたもの ...
3. [PDF]
プラトン著『パイドン―魂の不死について―』(岩田靖夫訳 ... - フィロソフィア
global-spirituality.net/wp-content/uploads/2007/11/handout2-2.pdf

* 類似ページ
三 霊魂不滅の証明. (一)生成の循環的構造による証明。生から死へ、死から生へ. ○
死んだ人たちの魂はハデスに存在する …魂はこの世からあの世、あの世からこの世へ
と移動し、死者達から生まれる、という説がある。こ. れが真実なら、魂はハデスに存在 ...


2014年02月08日(Sat)▲ページの先頭へ
魂とは何か:連続的陰陽の不連続化に拠る陰我と陽我と陰陽調和心の三層構造の内の陰我=肚=他者である
魂とは何か:連続的陰陽の不連続化に拠る陰我と陽我と陰陽調和心の三層構造の内の陰我=肚=他者である

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に、魂という言葉を使用したが、それは、哲学的用語というよりは、日常的語である。気概、気骨を示す用語である。
 しかしながら、魂を普遍的用語にできると思った。
 つまり、こうである。陰陽調和心があると言った。それは、一(いつ)の氣に通じているのである。
 この陰陽調和心であるが、それは、胸(中丹田)に位置しているが、魂は直観では、肚に存する。
 そう、魂は気概、気骨に関係し、また情感、情熱、意志等に関係する。
 それらは、知性領域ではない。だから、陽我凸i=頭ではなく、陰我凹i=肚に存するということになる。
 ただし、単純な陰我=肚ではない。それだけなら、権力的感情・欲望となろう。
 魂にある気概、気骨、情感、情熱等は、他者性をもっている。つまり、いわば、他者倫理をもっている。
 これをどう説明するかが問題である。
 そう、先にも提起したが、他者は陰陽論理でどこに位置するのかが問題ではある。
 ここで、以前、考えた個=他者ないし肚=他者という視点を再度とりあげると、肚は陰我凹i(極大陰であるが)であり、陰我凹iは、連続的自我態においては、単純に、他者にはならない。
 それは、陽我の反射としての他者であり、鏡像に過ぎないのである。そう、ナルシシズム(自己陶酔、自我反射、自我投影)に過ぎない。だから、連続的自我 (陰陽連続的自我:これについて、後で説明したい)の場合、肚は、他者にならず、自我反射、鏡像にしかならないのである。(思 えば、よく、人が他人の悪口を言う場合、その悪口が悪口を言う本人にこそ当てはまることが多いが、そのメカニズムは、この連続的陰陽自我に存すると言えよ う。つまり、複雑ではあるが、陰陽が連続化(連続的同一性化)したとき、そこに悪意、邪気があるのであり、それを陽我は認識できず、逆に、他人を知覚する とき、逆に、自我の連続的陰陽の欠点が浮び上がり、それが、陽我に認識されて、他人に投影されるということと考えられるのである。)
 だから、連続的自我(陰陽連続的自我、陰陽連続的同一性自我)をいったん解体する必要がある。それは、不連続的差異論(非連続的差異論とも言えよう)の役割である。
 陽我(頭・知)と陰我(肚・情意)をいったん切断する必要があるのである。この切断、つまり、不連続(非連続)化によって、陰我=肚は他者になりうるのである。(ただし、即、陰我=肚が他者になるということではなく、いわば、他者性となる。)
 この陽我と陰我の切断、陰陽切断によって生起するのは、実は、先にも述べたが、陰陽調和と肚(陰我)の未分化様態である。
 だから、ここから、心身陶冶、経験陶冶・鍛練・涵養によって、陰陽調和心と肚(陰我)を分化させていくのが、精神、魂の成熟である。時熟とも言えそうだが。熟成でもいいだろう。
 とまれ、院長調和心と肚(陰我)を分化させたときの肚(陰我)が他者になると私は今考えるのである。
 以前は直観的に、肚が個であり、他者であると思ったが、それは、陰陽調和心が個であり、また、肚が他者であるとと視るのが適切であると考える。
 さて、そのように、陰陽分離し、また、陰陽調和心(個)を形成していき、肚(陰我)=他者となるとき、魂であるが、これは、ほぼ、肚(陰我)=他者と一致するように思われる。
 つまり、

肚(陰我)=他者=魂

という図式が成立するということになる。
 そして、当然、道徳・倫理のインフラ、ベース、根源もここに存するということになるのである。仁理、仁道、仁倫とも言える。
 ただし、肚=他者=魂は仁理・仁道・仁倫のベースであって、そのものではないだろう。仁理・仁道・仁倫自体は、肚=他者=魂をベースにしつつ、陰陽調和心に存すると考えられる。
 そして、陰陽調和心は、先に述べた、観念(イデー)・理念(イデア)、プラトンの真善美のイデアと一致すると考えられるのであり、精神と呼べよ う。(今、想起したが、昔バッハの音楽を聴くと、即、精神を想起をしたが、結局、バッハの音楽は、陰陽調和心=観念・理念=真善美イデアを表現していると いうことと考えられる。)
 これで、一応、魂と精神を区別したことになる。
 問題は、精神である。それを霊と呼んでいいのか、である。
 しかしながら、陰陽調和心は、一(いつ)の氣=一元氣と一体であるから、内在超越性をもっているので、霊のように感じられるのである。
 先に、霊は存在しなく、霊の感じ方はあると述べたが、今、考えると、つまり、実質で考えると、呼び方の問題のように思えてくる。
 つまり、陰陽調和心は観念・理念・真善美イデアであり、精神と呼べるが、それは内在超越性をもつので、霊と呼んでもおかしくないと思えるのである。
 ドイツ語では、der Geistは精神であり、霊である。英語のspiritもそのようになりうる。
 そう、結局、陰陽調和心は、精神、霊、精霊、神と呼んでもいいと思えるのである。問題は用語、名称ではなく、実体、本体、実質である。
 PS陰陽論は、唯氣論であると言ったが、ならば、唯霊論、唯精論、唯神論と言ってもいいのではないだろうか。
 ただし、氣と見る方が、陰陽という対一、双一的極性をもつので、科学的に便利である。だから、唯氣論で通そうと思うのであるが、霊、精神、精霊等を排除 しない。ただし、シュタイナーのように、霊を氣から独立した存在とは見ず、霊は氣の派生事象と見るのである。ここが違うポイントである。
 そう、魂であれ、陰陽調和心=精神=観念・理念=真善美イデア=霊・神であれ、あくまで、氣の派生事象と見るのである。
 霊や神では、擬人性が強く、科学的ではなくなると思われる。
 結局、以上の事柄は、内的科学の事象である。近代科学、物質主義科学、いわゆる、自然科学(ただしくは、唯物論的自然科学)は外的科学で、この内的科学の事象をまったく捉えられないと言えよう。ただし、外側から、表層を見ることはできるのであるが。
 結局、内的科学は、陰陽事象を扱うと言えよう。易とは、内的科学であったのである。ただし、以前述べたように、易経は問題がある。つまり、陽的視点に傾斜しているのが問題なのである。それは、ここでは、詳述しない。

追記:陰陽調和心とは、陰陽調和氣とも言えよう。そして、それが、太陽の本体だと思う。これが、現象化すると、日光になると考えられる。
 陰凹i*陽凸i⇒+1の+1が日光・陽光・太陽光線と考えられる。
 左辺の陰凹i*陽凸iが太陽を構成する陰陽氣であり、⇒が太陽ではないだろうか。⇒はMP(Media Point:メディア・ポイント:原点)である。
 つまり、

太陽氣☞太陽☞太陽光線

となる。ただし、☞太陽☞は⇒を意味する。










八百万の神々とPS陰陽論

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

この問題は後で、詳論したいが、簡単に言うと、

一(いつ)の氣⇒陰陽1+陰陽2+・・・+陰陽n⇒八百万の神々⇒森羅万象

という図式で説明できるように思える。

追記:多神教の問題は、後、アニミズムと関係する。とまれ、もう一度言うと、一(いつ)の氣があり、それは、多様な陰陽様態を帯びる。それが、八百万の神々であり、そこから、森羅万象が発現すると見るのである

追記2:
一元氣⇒多様陰陽氣⇒八百万の神々⇒森羅万象

追記3:一の氣=一元氣であるが、それは、元陰と元陽に分極化するが、その元陰*元陽はいわば、元陰陽音楽、あるいは、元陰陽ゆらぎ、元陰陽流動である。
 この元陰陽音楽が、その和音的、交響的、あるいは、ポリフォニー的法則によって、多様な形態・原型=原形(イデア、ないしエイドス)を生み出すだろう。それが、八百万の神々ではないだろうか。

八百万の神々はPS陰陽論でどう説明できるか

先に以下にあるように「神道の八百万の神々であるが、つまり、多神教であるが、それも、根源の一の氣が原因となって個々の現象を生成すると考えるとき、個々の根源に氣を見るということで説明がつくのではないだろうか。これについては後で、もっと精緻に考えたい。」と述べた。
 多神教はPS陰陽論で簡単に説明できると思っていたが、なかなか手ごわい。
 ここで、多神教を解明したい。
 結局、森羅万象の個々の現象に氣核を認めれば、説明がつくのではないだろうか。氣核とはMP(メディア・ポイント)である。
 そこには、多様な氣波動があると考えられる。ある気波動は、植物になり、ある氣波動は動物になる。また、植物でも、その中で、さまざまに分岐する。
 思うに、このように分析的に説明するよりも、一(いつ)の氣の宇宙で説明する方が明快のように思える。
 つまり、一の氣が森羅万象を形成するのであり、森羅万象の個々の現象は当然、一の氣が浸透しているということになる。
 つまり、一の氣が多様な陰陽氣に変容していることになる。
一⇒多である。
 どうもすっきりしない説明になっている。
 後で、より直観的な解明を試みたい。

****************************
PS陰陽論から「霊(スピリット)」、「神」を解明する:ポスト霊学・宗教・魔術:ポスト一神教
テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

PS陰陽論は、唯氣論である。そこには、基本的には「霊」という観念・理念はない。
 しかし、「霊」ないし「霊性」という感じ方は存すると考える。つまり、「霊」は存しないが、「霊」という感じ方は存するということである。
 今は一言言うだけだが、簡単に説明すると、一(いつ)の氣=陰陽氣であり、前者の一の氣が陰陽精神において、「霊」のように感じられると思うのである。そう、「聖霊」のような感じがすると思うのである。
 もう少し、具体的に言うと、森の中にいると、氣を感じるが、それだけでなく、いわば、森の精、妖精、森の精霊(霊)のようなものを感じる。ロマン主義、ケルト文化的世界、宮崎駿的世界である。
 しかし、この「精・妖精」、「精霊(霊)」は、実は、一(いつ)の氣の働きだと思われるのである。なにか超越的な生き物のような感じであるが、それは、一の氣の働きだと思うのである。
 端的に、一の氣は、内在超越性であり、超自然的な、不可思議な感じをもたらすと考えられるのである。
 また、さらに言えば、神、神霊という観念・理念も、一の氣で説明できると思われるのである。
 そう、霊的自然観、呪術・魔術、宗教は、氣の自然観であるPS陰陽論で説明できると思うのである。
 そう、ポスト霊学、ポスト宗教、ポスト魔術としてのPS陰陽論である。

追記:また、ポスト一神教、ポスト超越神でもある。

追記2:一の氣がコスモス(ミクロコスモス=マクロコスモス、小宇宙=大宇宙)の感覚をもたらすとも言えよう。
 いわゆる、神秘主義世界観もここに起源があると考えられる。
 思うに、古代的宇宙観、世界観、自然観はこの一の氣が根源だと思う。古代ギリシアのパン神はこれが正に説明するだろう。
 神道の八百万の神々であるが、つまり、多神教であるが、それも、根源の一の氣が原因となって個々の現象を生成すると考えるとき、個々の根源に氣を見るということで説明がつくのではないだろうか。これについては後で、もっと精緻に考えたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11765922549.html


2014年02月06日(Thu)▲ページの先頭へ
PS陰陽論から「霊(スピリット)」、「神」を解明する:ポスト霊学・宗教・魔術:ポスト一神教
PS陰陽論から「霊(スピリット)」、「神」を解明する:ポスト霊学・宗教・魔術:ポスト一神教

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

PS陰陽論は、唯氣論である。そこには、基本的には「霊」という観念・理念はない。
 しかし、「霊」ないし「霊性」という感じ方は存すると考える。つまり、「霊」は存しないが、「霊」という感じ方は存するということである。
 今は一言言うだけだが、簡単に説明すると、一(いつ)の氣=陰陽氣であり、前者の一の氣が陰陽精神において、「霊」のように感じられると思うのである。そう、「聖霊」のような感じがすると思うのである。
 もう少し、具体的に言うと、森の中にいると、氣を感じるが、それだけでなく、いわば、森の精、妖精、森の精霊(霊)のようなものを感じる。ロマン主義、ケルト文化的世界、宮崎駿的世界である。
 しかし、この「精・妖精」、「精霊(霊)」は、実は、一(いつ)の氣の働きだと思われるのである。なにか超越的な生き物のような感じであるが、それは、一の氣の働きだと思うのである。
 端的に、一の氣は、内在超越性であり、超自然的な、不可思議な感じをもたらすと考えられるのである。
 また、さらに言えば、神、神霊という観念・理念も、一の氣で説明できると思われるのである。
 そう、霊的自然観、呪術・魔術、宗教は、氣の自然観であるPS陰陽論で説明できると思うのである。
 そう、ポスト霊学、ポスト宗教、ポスト魔術としてのPS陰陽論である。

追記:また、ポスト一神教、ポスト超越神でもある。






太元は、神霊なのか、氣なのか:霊-氣論と氣身(唯氣)論

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に以下の素描(参考)を書いたが、結局、人体のデザインの根源に神霊を仮定するようなことになっている。
 しかし、そうすると、PS陰陽論自体が破綻するのである。
何故なら、あくまで、いわば、唯氣論であるからで、そこに、霊を入れると破綻するからである。
 今は一言言うだけだが、例えば、陰陽振動(陰陽音楽)によって、正多角形ができるとするとすると、その陰陽音楽自体は、陰陽自律的なものと思われる。

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 そうならば、陰陽自律法則によって、生命体全体が形成されると見ることは可能なように思えるのである。
 ならば、生命体の設計者の神霊は不要になると思えるのである。
 先に、氣=内超的力・即・内超的知(内超的力・且つ・内超的知とも言える)と言ったが、この力学が自律的に生命体を創造するということになるのである。
 私の今の想像では、唯氣論的な生命体創造は可能だと推測されるのである。
 氣のもつ全体的自律力学はそれを可能するように思えるのである。詳しい検討は後ほど。
 
参考:

遺伝子氣:MPにおける多陰陽結合と生命体創造者(神霊);超越軸=霊軸、虚軸=氣軸、実軸=生命体軸

人体なら、人体の設計図、デザイン、イデアを構成するものは何かということでもある。
 ここは、氣を超えて、霊を想定したくなる時点である。
 言い換えると、多様な陰陽結合を構成する原理は何かという疑問である。
 ここで、霊を作業仮説すると、人体全体を設計、デザインする総合原理を霊とする。霊の設計図に従い、多様な陰陽結合なされるということになるのである。
 そう、陰陽情報の作者である。それを、神霊と呼ぶことはできるのである。すると、

神霊⇒氣⇒生命体

となる。すると、以前想定したように、ガウス平面に直交する軸、いわば、超越軸を仮定しないといけなくなる。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11764773444.html


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カレンダ
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