他者をどうしたら感知、認知、認識できるのか






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2015年06月04日(Thu)
他者をどうしたら感知、認知、認識できるのか
他者をどうしたら感知、認知、認識できるのか

テーマ:個と他者の相関:個⇔他者:脱集団主義

今は余裕がないので、詳論できないが、一言いおう。(追記:一言ではなかった。)
 近現代日本は父権自我が支配する。父権自我には他者認識はない。常に、自我中心に外界を認識するのであり、他者自体を捉えられないのである。
 カントが物自体は認識できないと述べたが、思うに、カントの認識とは、自我(父権自我)中心であるので、当然、物自体、つまり、他者自体を認識できないのである。
 共感性がなければ、他者は認知できない。
共感性は母権自我、陰的自我がもっているのである。
 では、父権自我においては、まったく他者は認識できないのであろうか。
 陰陽哲理学においては、理論的には、できない。
 視点を変えよう。
どうしたら、他者が自我精神に入ってくるのか。
 私の場合は、二十歳前後聴いた、シューベルトの歌曲である。確か、フィッシャーディスカウが歌っていた『冬の旅』がココロを私に喚起したのである。
 芸術がココロを喚起したのである。私の場合は音楽である。
 思うに、他者はココロと同じものである。
ココロを培うには、芸術や宗教や哲学が必要である。
 また、その他、自然体験が必要である。
そして、ココロは一日でできるものでなく、数十年、何十年も、あるいは、来世も必要である。
 でも、端的に、他者=ココロはどうして発露するのか。
 実は、ポイントは感情であろう。自己感情である。
自己感情とは、私だけのものであり、これは、いわば、個である。 
 合理主義は通じないのである。そう、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』がこれを露骨に描いている。
 しかし、自己感情主義では、コミュニケーションはできない。観念や概念、すなわち、言語が必要である。
 自己感情と言語は齟齬を来すのである。
 普通は、言語へと帰属し、自己感情は捨てられる。その結果、個や他者がなくなるのである。
 自己感情は身体と言ってもいい。そして、言語は精神である。
両者の分裂が近代の特徴である。
 私の場合、自己感情を陰とし、言語を陽として、陰陽において、均衡させることにより清算した。もっとも、陰と陽は不連続である。これが、ポイントである。
 結局、自己感情と言語の不連続、非連続性を認めることで、他者が生じると思えるのである。つまり、他者とは、実は自己感情なのである。
 個は他者なのである。
 普通の人は、自己感情と言語が癒着ないし未分化である。
 結局、自己感情と言語を分離することから、前者である他者性が生まれるように思えるのである。
 まだ、整理されていないが、今はここで留める。

追記:まだ、十分言い得てないが、自己感情の視点は重要である。言語観念ないし言語概念は、自我、父権自我と結びつき、それは、それで、自己完結的である。しかし、自己感情は言語では清算できないのである。
 言語は一般的なものであり、自己感情は個的なものだからである。
 個的なものに対処するには、個的なものに忠実であることが必要である。それは、苦である。
しかし、それを自我、言語、一般性から切り離すことで、自己解放の道が開けるのである。
 自我や言語から、自己感情を解放することから、自己感情は個となり、他者となるのである。
 それは、いわば、異文化なのである。自分の中の異邦人なのである。
 ということで、父権自我においても、他者を形成することは可能なのである。自己感情と自我を分離させることによって、他者形成が可能になるのである。
 しかし、父権自我は自己感情認識を排除する傾向にあるのである。
 つまり、父権自我と言語観念は結びつき、それによって、自己感情を排除、廃棄、排他するのである。
 そう、デカルト哲学の問題点もこの点にある。自我観念はあるが、自己感情は排除しているのである。陽哲学で、陰哲学がないのである。
 そう、さらに言えば、自己感情、陰哲学は、実は、自我超越性をもつのである。形而上学的なのである。超越的なのである。
 ここで氣が到来するのである。
 そう、宇宙的、コスモス的なのである。あるいは、神秘的なのである。霊的なのである。
 ここまで言えば、近現代文化の限界がよくわかるだろう。
 そう、自己感情とは、個=他者とは、形而上学的に宇宙的であり、物質的経験を超越してしまうのである。
 父権自我が他者を恐れる、排除するのは、ほとんど必然である。

追記2:さらに正確に言えば、自己感情を認識する必要がある。それには、シュタイナーのような精神哲理学(シュタイナーは精神科学と呼んでいるが、精神哲理学というべきである)が必要である。つまり、内省哲理学である。
 自己感情を観察する必要があるのである。内観である。
内観による自己感情吟味によって、自己精神が鍛練されるのである。
 今日の日本人にはまったく欠落しているものである。

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カレンダ
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