■差異の思想とD.H.ロレンス:差異は身体である。






2006年10月24日(Tue)
■差異の思想とD.H.ロレンス:差異は身体である。
以下は、次のブログのコメントを独立させたものです。「現代日本の亡神的エゴイズムとプラトニック・シナジー理論(はてなダイアリーから)」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10018781418.html


■差異の思想とD.H.ロレンス:差異は身体である。

不連続的差異論は、簡単に言えば、ドゥルーズ哲学の矛盾、特異性と連続的差異との矛盾を、不連続性の概念で解決した理論であった。ドゥルーズ哲学は、デリダ哲学と違う点の一つは、イデア論を志向していた点である。しかし、これにも、問題があったのであるが、とにかく、ドゥルーズは、差異とイデアに触れようとはしていたのである。そう、ドゥルーズ哲学から、差異・イデアについては、なんらかの概念をもつことができるだろう。しかし、致命的な欠陥として、連続的差異理論になっているのである。
 私は、ドゥルーズ以前にD.H.ロレンスの無意識論に接してたので、私にとって、差異・イデアとは、身体、宇宙的なものと結びついていたのである。だから、抽象的であると同時に、具体的・特異的であったのである。だから、ドゥルーズの差異は、私の身体にほかならなかったのである。身体は正に、特異性であり、差異=特異性なのであった。ここにおいて、私は、ニーチェ的次元にあったと言えよう。だから、ドゥルーズの差異に対しては、疑問があったのである。それは、連続・同一性化してしまう危惧があったのである。
 とまれ、ドゥルーズやニーチェは読んでも、ロレンスを読む人は少ないだろうから、差異を単なる抽象観念の問題と考えてしまう傾向があるのではないだろうか。差異は、身体である。ないし、心身である。つまり、メディア界的なものであることである。この身体論、スピノザ、ニーチェ、ロレンスの身体主体・主観論がなくては、差異は記号にしか過ぎなくなるだろう。もっとも、ここでの身体とは、身体的精神のことである。
 身体的精神から、差異・イデア論へと展開するのである。

p.s. 後で、確認したいが、身体的精神(身体精神)とは、差異共振シナジー・フィールドが存する場である。身体=身体精神=心身=精神のフィールドである。

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■銀本位制とは、差異価値の身体・身体精神であろう。

後で検討したいが、Kaisetsu氏から提起された新銀本位制の理論は、差異共振シナジー=差異価値に、いわば、身体・身体精神を与えるものではないだろうか。身体=貨幣があって、価値は、幽霊でなくなるのである。

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