INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2015/03

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2015年03月29日(Sun)▲ページの先頭へ
PS(プラトニック・シナジー)理論からGP(ガウス平面)陰陽哲理学への発展:論文を執筆する時期だ
画像等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12007410959.html

PS(プラトニック・シナジー)理論からGP(ガウス平面)陰陽哲理学への発展:論文を執筆する時期だ

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合

2年前の無双太極陰陽論に比べて、現段階のGP陰陽哲理学はだいぶ安定してきた。そう、確立されてきたと言えよう。(参照を見られたい。)
 そろそろ、論文にして、発表してもいい頃である。
 2004年9月、ブログ上で、「海舌」氏と遭遇して、偶然生まれた不連続的差異論から見ると、既に、11年目に入るのである。
 思えば、試行錯誤、紆余曲折の連続であった。
 もっとも、重大のポイントは2013年における、それまでの共同作者の「海舌」氏との理論的分離であった。
 私はPS理論(プラトニック・シナジー理論)から離脱し、出発点の不連続的差異論に基づき、哲学主導の理論を構築しようとした。
 正に、試行錯誤、ほとんど混乱と言っていいような状況になった。しかし、PS理論の数学的公式(凸i*凹i⇒+1)が活用できることを発見して、ほぼ、今のGP陰陽哲理学が形成されたと言えよう。
 即ち、凸i*凹i⇒±1という新たな公式を、桜沢如一氏の無双原理の視点を活用して、形成したのである。

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 一見、PS理論に似ているが、「海舌」氏の仮説とは、ガウス平面的に左右逆になるのであった。
 ⇒+1が光であるのは、PS理論とGP陰陽哲理学とでは同じであるが、物質世界を「海舌」氏は、第一象限においたのである。 
 しかし、GP陰陽哲理学は、物質は第二象限に置かれるのである。
 相違点を説明すると長くなるので、止めるが、私は陰陽原理に基づき、GP陰陽哲理学へと進展したのである。(尚、「海舌」氏はその後、ガウス平面的理論構築を放棄して、四元数(しげんすう)を用いて、立体的構築へと進んだ。)
 とまれ、PS理論における凸i*凹i⇒+1の解釈における混乱が分離・離脱の原因であったと言えよう。
 私自身の思考の相当の懐疑・混乱・混沌があった。
 一例をあげると、凸i*凹iであるが、私は陰陽共振・調和には、
凸i*−凹iとなるのではないかと考えた。凹iの陰を否定しないといけないと考えたのである。すると、凸i*−凹i⇒−1となってしまい、齟齬が生じたのである。
 これは、私の思考の未熟さから来たのであった。「海舌」氏は正しかったのである。
 以下の「海舌」氏の人間認識図を見ていただくわかりやすいだろう。
 一番の相違点は、実軸−1の捉え方である。私は、−1を重力、質量の方向と見ているのであるが、「海舌」氏は、超越的存在と見たのである。(これは、オイラーの等式から来ていると思う。

オイラーの等式 e^{i\pi} +1=0 を変形して、e^iπ=−1となる。この−1を究極のものと「海舌」氏は捉えたと思われる。)
 また、虚軸の凸が光で、凹が闇とするのも、私と異なる。
 私は凸iを陽とし、凹iを陰としたのである。私の基本的思考は、陰陽論であったのである。
 以上簡単ながら、PS理論、「海舌」氏からの分離・離脱の原因を述べた。
 結局、GP陰陽哲理学は、PS理論の方程式を陰陽論に即して、変形した方程式、公式をもつと言える。
 PS理論はいわば母胎であったのである。「海舌」氏は数学・自然科学的な発想であったが、私は陰陽論を基礎にしたのである。この点が「海舌」氏と私の発想の根本的相違点であったと考えられる。
 とまれ、PS(プラトニック・シナジー)という用語であるが、それは、プラトンのイデア論に基づいている。しかし、今や、私はハイデッガーの存在論に立っているので、もはや、その用語は使用できないので、GP(ガウス平面)陰陽哲理学となったわけである。そう、簡単に言えば、PS理論を陰陽存在論化したのが、GP陰陽哲理学と言えよう。

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 付け加えれば、桜沢如一氏の無双原理の一元論(太極論ないし太一論)も取り入れているのが、PS理論との相違である。
 PS理論は、あくまで、二元的極性論であり、陰陽の根本の太極までは、捉えていなかった。
 とにかく、PS理論からの飛躍は、桜沢如一氏の『無双原理』を読んだことが大きいと言えよう。そこで、陰陽原理に即して、理論を発展させたのである。(しかし、先に述べたように、桜沢氏は、氣=物質としているのであり、私はこれを間違いと考えている。氣は物質より高次元存在と見るのである。)
 公式に関して言えば、PS理論の自己認識方程式凸i*凹i⇒+1を陰陽原理的に変形したと言えよう。
 とまれ、「海舌」氏の自己認識方程式とガウス平面(複素数平面)の導入は天才的に画期的であったと言えよう。
 この数学的哲理によって、陰陽原理の数理・科学的土台が構築されたと言っても言い過ぎではない。
 


         「海舌」氏の人間認識図


参照:
作用反作用と陰陽対極性:陽主導は作用反作用が、陰主導は「コーラ」・受容体の力があろう
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12007299410.html

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合

陰陽極性を、牽引と反発の矛盾力学と見ている。
これと、ニュートン力学の作用反作用はどういう関係にあるのだろうか。
これまで考えたことはなかったので少し考察してみたい。
 力1→に対して、正反対の力2←が対応するということが、ざっくり言えば、作用反作用の法則であろう。
 陰と陽の氣の対極性(両極性、双極性)力学を見てみよう。
陽の「力1」↓は陰へ作用する。確かに反作用として、「力2」↑が生じると言えよう。
 だから、この点で、陰陽極性においても、作用反作用は成り立つ。
 しかしながら、これは、陽の「力」の場合である。
 陰の場合の「力」は、陽とは正反対である。陰の「力」とは、共振力、共鳴力、共感力、親和力、調和力、等である。つまり、陰の「力1」↑は、反作用の「力2」↓をもたらさないのである。
 ある意味で、吸収、吸引する能力である。
陽が主導的であるとき、 陽の「力1」は、反作用の「力2」をもたらすが、陰が主導的であるとき、陰の「力1」は、反作用をもたらさずに、陽の「力2」を吸収し、共振するのである。
 いったい、これを「力」と言っていいのか問題である。
 果たして、陰に力があるのかも問題である。
 つまり、陰が主導的な場合とはどういう事態なのかである。
 陽が主導的な場合は、陰はただ受け身に過ぎず、陽に支配され、つまり、陽と同一性化され、反作用を引き起こされると言えよう。
 しかし、陰が主導的な場合は、いわば、積極的に陽を吸収し、共振調和をもたらすと考えられる。
 思うに、陽の力をforceとするなら、陰の力はpowerではないだろうか。あるいは、別のネーミング、命名が必要だろう。
 そう、プラトンが『ティマイオス』で述べた有名な「コーラ」の概念を想起する。
 どうも、陰の「力」とは、いわば、容器、場所、あるいは、子宮のような力ではないのか。受け入れる「力」である。感受性のようなものかもしれない。
 途中(今、帰宅しないといけないので、ここでひとまず、止める)。

 さて、続けよう。
 今の段階では、この陰の「力」はプラトンを借りて、「コーラ」ないし、「コーラの力」とするのがいいだろう。
 GP陰陽哲理学では、陰凹iの凹の形が正に、「コーラ」的と言えよう。
 ところで、今、最下部の記事を見たが、それによると、「コーラ」は、陰の「力」というよりも、陰主導の陰陽共振・調和のことかもしれないと思った。
 とまれ、陰主導、陰の「力」によって、陰陽共振・調和が生まれるのだから、そのような「コーラ」と陰の「力」は近いと言えよう。
 とまれ、「コーラ」を受容体と見るなら、やはり、陰の「力」でいいだろう。
 そう、だから、受容力としての陰の「力」ということになる。
 思うに、天才的人物はこれをもっていると思う。英国詩人のジョン・キーツはnegative capability(否定的能力:自己否定して、他者を感受する能力とでも言おうか)と言ったが、それは、正に、受容力に通じよう。
 とまれ、本題に戻ると、作用反作用と陰陽対極性の関係であるが、簡単にまとめれば、陽主導においては、作用反作用は成立すると思われるが、陰主導の場合は、成り立たないと思う。陰の「力」である「コーラ」の力、受容体の力が作用するのであり、陽を受容し、共振調和して、光や自然を産み出すと考えられるのである。これは、反エントロピー的である。
 それに対して、陽主導の作用反作用はエントロピー的ではないだろうか。
 今はここで留めたい。

参考:

作用反作用の法則(第3法則):物理学解体新書
http://www.buturigaku.net/main01/Mechanics/Mechanics08.html
2005年6月3日 ... ここでは、運動の法則の第3法則、作用反作用の法則について解説しよう。 例えば、机 の表面を手で押すとしよう。 押す力を強めるほど、手が感じる力は大きくなる。 これは、 手が机を押すと、机も同じ大きさの力で手を押し返すからだ。

プラトンの宇宙論:神秘主義思想史:So-netブログ
また、興味深いことに、「ティマイオス」ではこのイデア=「存在」と宇宙=「生成」に対する第3の説明し難いものが語られます。
これは「場所(コーラ)」です。
イデア=「原型」=「父」、宇宙=「模像」=「子」であるのに対して、この「場所」はすべてを受け入れる「受容器」=「乳母」だとも表現されます。
つまり、「場所」は一切の形・性質を欠いているので、それ自体を知覚することはできないけれど、イデアを受け入れることで宇宙を生むような根源的な素材 のような存在なのです。
デミウルゴスはこの素材を用いて宇宙を作ったのです。

ジャック・デリダ『コーラプラトンの場』 - 『10+1』 DATABASE

db.10plus1.jp > ... > BACKNUMBER > 『10+1』 No.35 - キャッシュ

コーラ」とは、プラトンの宇宙創世論『ティマイオス』の用語で、場所のこと、それも たんなる空虚な場ではなく、そのなかに何かがあったり、誰かが割り当てられて住んで いるような場所のことである。製作者であるデミウルゴスは、範型となる形相を眺め ながら、それ ...


ジャック・デリダ『コーラプラトンの場』 | Flaschenpost

晩年のプラトンの対話篇『ティマイオス』には、造化の神デミウルゴスによる宇宙開闢が物語られるが、そのなかで存在の母胎のような場として、「受容体であり、すべての誕生の乳母のごときもの」として語られる「コーラ(khôra)」。デリダによると、それを「定冠詞付きで」語ることはできない。「コーラ」が、ある種の主体ないし実体として存在することを、あらかじめ想定することはできないのだ。

プラトンによると、「コーラ」は存在の二つの類、すなわち不易にして叡知的な存在と、滅びやすく生成状態にあり、感性的な存在とのあいだにある、「第三の類」に属するわけだが、「コーラ」を語る言説を厳密に辿るならば、それはいかなる類別も、ジャンルの分類も、さらにはジェンダーをも逃れ去っていく。それは「第三の類」でありながら、他の存在の類と対を、すなわちカップルをなさないのだ。デリダに言わせれば、「誕生の乳母のごとき」ものでありながら、「コーラは、一人の乳母ではないのと同様に一人の母ではなく、また一人の女でもない」。そのようなものとして「コーラ」は、事物を類別して同定するロゴス、あるいはミュトスとしての言葉を逃れ去る。もしかすると、そのことによって「コーラ」は、両者の分別そのものを問題にするのかもしれない。

とすれば、「コーラ」とは「コスモス」としての宇宙の存在を可能にする何かでありながら、その存在を語る論理、つまりプラトンのディアロゴスとしてのロゴスに穿たれた穴である。デリダの『コーラ』は、この穴を厳密に歩測する試みと言えよう。その試みは、哲学すること自体を試す。それは哲学する言葉を、深淵の前に立たせるのである。しかし、そこからこそ考えられうる次元があるのではないか。「コーラ」をめぐる思考は、言葉をそこへ誘うものでもあろう。「彼女=それは、あらゆる人間−神学的図式から、あらゆる歴史=物語から、あらゆる啓示から、あらゆる真実から逃れ去る。前−起源的であり、あらゆる世代=生殖の前かつ外にあって、それはもはや一つの過去や過ぎ去った一つの現在という意味すら持たない」。

しかし、そのような「コーラ」においてこそ、何ものかが存在するようになるとすれば、しかもデリダが言うように、「コーラとは、まさに、その『うえに』、その主体に、それも、その主体にじかに、みずからを書き込みにやって来るものの総体ないしプロセス『である』」とすれば、それをどのように考えたらよいのか。もしかすると「コーラ」とは、そこにおいてある何ものかが存在する、立ち現われてくる、鳴り響いてくるようになる媒体であることそれ自体を指し示す、未だ言葉ならざる言葉なのかもしれない。しかも、デリダによると「コーラ」となるのは、それ自体「独自の事物」でもある。そうだとすれば、宇宙の開闢と関連づけられる「コーラ」は個としても遍在しうる存在の媒体そのものということにもなろう。

ただし、このことは忘れられてはならない。「コーラを思考するためには、はじまりよりも、すなわち宇宙の誕生よりも古いはじまりまで立ち戻る必要があるのだ」。例えば、クリステヴァのような母胎の主体化と実体化に陥ることなく、思考を深淵に曝しながら、起源よりも古い次元を考え抜くこと。デリダの『コーラ』は、思考をその危険へ誘うのである。

[守中高明訳、未來社、2004年]
Flaschenpost


作用反作用と陰陽対極性:陽主導は作用反作用が、陰主導は「コーラ」・受容体の力があろう

リンクは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12007299410.html

作用反作用と陰陽対極性:陽主導は作用反作用が、陰主導は「コーラ」・受容体の力があろう

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合

陰陽極性を、牽引と反発の矛盾力学と見ている。
これと、ニュートン力学の作用反作用はどういう関係にあるのだろうか。
これまで考えたことはなかったので少し考察してみたい。
 力1→に対して、正反対の力2←が対応するということが、ざっくり言えば、作用反作用の法則であろう。
 陰と陽の氣の対極性(両極性、双極性)力学を見てみよう。
陽の「力1」↓は陰へ作用する。確かに反作用として、「力2」↑が生じると言えよう。
 だから、この点で、陰陽極性においても、作用反作用は成り立つ。
 しかしながら、これは、陽の「力」の場合である。
 陰の場合の「力」は、陽とは正反対である。陰の「力」とは、共振力、共鳴力、共感力、親和力、調和力、等である。つまり、陰の「力1」↑は、反作用の「力2」↓をもたらさないのである。
 ある意味で、吸収、吸引する能力である。
陽が主導的であるとき、 陽の「力1」は、反作用の「力2」をもたらすが、陰が主導的であるとき、陰の「力1」は、反作用をもたらさずに、陽の「力2」を吸収し、共振するのである。
 いったい、これを「力」と言っていいのか問題である。
 果たして、陰に力があるのかも問題である。
 つまり、陰が主導的な場合とはどういう事態なのかである。
 陽が主導的な場合は、陰はただ受け身に過ぎず、陽に支配され、つまり、陽と同一性化され、反作用を引き起こされると言えよう。
 しかし、陰が主導的な場合は、いわば、積極的に陽を吸収し、共振調和をもたらすと考えられる。
 思うに、陽の力をforceとするなら、陰の力はpowerではないだろうか。あるいは、別のネーミング、命名が必要だろう。
 そう、プラトンが『ティマイオス』で述べた有名な「コーラ」の概念を想起する。
 どうも、陰の「力」とは、いわば、容器、場所、あるいは、子宮のような力ではないのか。受け入れる「力」である。感受性のようなものかもしれない。
 途中(今、帰宅しないといけないので、ここでひとまず、止める)。

 さて、続けよう。
 今の段階では、この陰の「力」はプラトンを借りて、「コーラ」ないし、「コーラの力」とするのがいいだろう。
 GP陰陽哲理学では、陰凹iの凹の形が正に、「コーラ」的と言えよう。
 ところで、今、最下部の記事を見たが、それによると、「コーラ」は、陰の「力」というよりも、陰主導の陰陽共振・調和のことかもしれないと思った。
 とまれ、陰主導、陰の「力」によって、陰陽共振・調和が生まれるのだから、そのような「コーラ」と陰の「力」は近いと言えよう。
 とまれ、「コーラ」を受容体と見るなら、やはり、陰の「力」でいいだろう。
 そう、だから、受容力としての陰の「力」ということになる。
 思うに、天才的人物はこれをもっていると思う。英国詩人のジョン・キーツはnegative capability(否定的能力:自己否定して、他者を感受する能力とでも言おうか)と言ったが、それは、正に、受容力に通じよう。
 とまれ、本題に戻ると、作用反作用と陰陽対極性の関係であるが、簡単にまとめれば、陽主導においては、作用反作用は成立すると思われるが、陰主導の場合は、成り立たないと思う。陰の「力」である「コーラ」の力、受容体の力が作用するのであり、陽を受容し、共振調和して、光や自然を産み出すと考えられるのである。これは、反エントロピー的である。
 それに対して、陽主導の作用反作用はエントロピー的ではないだろうか。
 今はここで留めたい。

参考:

作用反作用の法則(第3法則):物理学解体新書
http://www.buturigaku.net/main01/Mechanics/Mechanics08.html
2005年6月3日 ... ここでは、運動の法則の第3法則、作用反作用の法則について解説しよう。 例えば、机 の表面を手で押すとしよう。 押す力を強めるほど、手が感じる力は大きくなる。 これは、 手が机を押すと、机も同じ大きさの力で手を押し返すからだ。

プラトンの宇宙論:神秘主義思想史:So-netブログ
また、興味深いことに、「ティマイオス」ではこのイデア=「存在」と宇宙=「生成」に対する第3の説明し難いものが語られます。
これは「場所(コーラ)」です。
イデア=「原型」=「父」、宇宙=「模像」=「子」であるのに対して、この「場所」はすべてを受け入れる「受容器」=「乳母」だとも表現されます。
つまり、「場所」は一切の形・性質を欠いているので、それ自体を知覚することはできないけれど、イデアを受け入れることで宇宙を生むような根源的な素材 のような存在なのです。
デミウルゴスはこの素材を用いて宇宙を作ったのです。

ジャック・デリダ『コーラプラトンの場』 - 『10+1』 DATABASE

db.10plus1.jp > ... > BACKNUMBER > 『10+1』 No.35 - キャッシュ

コーラ」とは、プラトンの宇宙創世論『ティマイオス』の用語で、場所のこと、それも たんなる空虚な場ではなく、そのなかに何かがあったり、誰かが割り当てられて住んで いるような場所のことである。製作者であるデミウルゴスは、範型となる形相を眺め ながら、それ ...


ジャック・デリダ『コーラプラトンの場』 | Flaschenpost

晩年のプラトンの対話篇『ティマイオス』には、造化の神デミウルゴスによる宇宙開闢が物語られるが、そのなかで存在の母胎のような場として、「受容体であり、すべての誕生の乳母のごときもの」として語られる「コーラ(khôra)」。デリダによると、それを「定冠詞付きで」語ることはできない。「コーラ」が、ある種の主体ないし実体として存在することを、あらかじめ想定することはできないのだ。

プラトンによると、「コーラ」は存在の二つの類、すなわち不易にして叡知的な存在と、滅びやすく生成状態にあり、感性的な存在とのあいだにある、「第三の類」に属するわけだが、「コーラ」を語る言説を厳密に辿るならば、それはいかなる類別も、ジャンルの分類も、さらにはジェンダーをも逃れ去っていく。それは「第三の類」でありながら、他の存在の類と対を、すなわちカップルをなさないのだ。デリダに言わせれば、「誕生の乳母のごとき」ものでありながら、「コーラは、一人の乳母ではないのと同様に一人の母ではなく、また一人の女でもない」。そのようなものとして「コーラ」は、事物を類別して同定するロゴス、あるいはミュトスとしての言葉を逃れ去る。もしかすると、そのことによって「コーラ」は、両者の分別そのものを問題にするのかもしれない。

とすれば、「コーラ」とは「コスモス」としての宇宙の存在を可能にする何かでありながら、その存在を語る論理、つまりプラトンのディアロゴスとしてのロゴスに穿たれた穴である。デリダの『コーラ』は、この穴を厳密に歩測する試みと言えよう。その試みは、哲学すること自体を試す。それは哲学する言葉を、深淵の前に立たせるのである。しかし、そこからこそ考えられうる次元があるのではないか。「コーラ」をめぐる思考は、言葉をそこへ誘うものでもあろう。「彼女=それは、あらゆる人間−神学的図式から、あらゆる歴史=物語から、あらゆる啓示から、あらゆる真実から逃れ去る。前−起源的であり、あらゆる世代=生殖の前かつ外にあって、それはもはや一つの過去や過ぎ去った一つの現在という意味すら持たない」。

しかし、そのような「コーラ」においてこそ、何ものかが存在するようになるとすれば、しかもデリダが言うように、「コーラとは、まさに、その『うえに』、その主体に、それも、その主体にじかに、みずからを書き込みにやって来るものの総体ないしプロセス『である』」とすれば、それをどのように考えたらよいのか。もしかすると「コーラ」とは、そこにおいてある何ものかが存在する、立ち現われてくる、鳴り響いてくるようになる媒体であることそれ自体を指し示す、未だ言葉ならざる言葉なのかもしれない。しかも、デリダによると「コーラ」となるのは、それ自体「独自の事物」でもある。そうだとすれば、宇宙の開闢と関連づけられる「コーラ」は個としても遍在しうる存在の媒体そのものということにもなろう。

ただし、このことは忘れられてはならない。「コーラを思考するためには、はじまりよりも、すなわち宇宙の誕生よりも古いはじまりまで立ち戻る必要があるのだ」。例えば、クリステヴァのような母胎の主体化と実体化に陥ることなく、思考を深淵に曝しながら、起源よりも古い次元を考え抜くこと。デリダの『コーラ』は、思考をその危険へ誘うのである。

[守中高明訳、未來社、2004年]
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2015年03月27日(Fri)▲ページの先頭へ
父権民族の自我と母権民族の自我の相違を精神身体力学から説明する
図は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12006684281.html

父権民族の自我と母権民族の自我の相違を精神身体力学から説明する

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

これは既述事項であるが、よく知ってもらうために、復習する。もっとも、父権自我と母権自我は理念型、理想型として構築されている。
 先ず、GP陰陽ガウス平面図を見ていただきたい。


            凸i陽
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・霊______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


      応用陰陽ガウス平面


簡潔に言えば、父権自我とは、陽凸iが主導的であり、陰凹iを支配するのである。
 数式化すれば、

父権自我方程式

凸i*凹i⇒凸i×−凹i=i×〔−(−i)〕=i×i=−1

(二番目の式の−凹iの−は陽凸iの主導性によって、陰凹iが否定されるという意味をもつ)

となる。つまり、陰陽ガウス平面図の実軸の−1に位置する。
 これは、結論を言えば、同一性、物質主義、利己主義を意味すると考えられる。
 陰陽ガウス平面的には、虚軸(i軸、-iの軸を含めて)が−1へと回転したと考えられる。つまり、+の虚軸は、反時計回りに90度回転し、−の虚軸は時計回りに90度回転して、両者−1で一致するということと考えられる。
 もっとわかりやすく作図すると、


     陽=父権自我
      ↓↓↓↓
      ↓抑圧↓         意識
      ↓↓↓↓
      同一性化
      ↓↓↓↓
ーーーーーーーーーーーー
    MP=こころ・精神・愛
                     無意識

       陰=肚
  
父権自我構造図
  
となる。
  父権自我がこころ(精神・愛・霊)と陰=肚の二つの要素を(連続的)同一性化して抑圧・支配しているのである。自我同一性が支配するのであり、他者は否定される。

 次に母権自我を考える。

母権自我方程式

凹i*凸i⇒i×(−i)=+1

これは、陰陽ガウス平面図において、実軸の+1である。 
この方程式は正に、陰陽共振、陰陽調和を意味する。
つまり、陰凹iを主導にした方程式である。陰凹iが主導的になると、それは、共感的なので、陽凸iを受容して、共鳴均衡調和が可能になると考えられる。
 その結果、+1の光が生まれるのである。これは、いわば、真善美の精神と考えられる。
 これは、虚軸と実軸の交点・原点MP(こころ)を積極的に生成するのである。つまり、精神・愛を内在するのである。
 つまり、自我と感性体(感情・欲望)のバランスをもつ精神・こころ・愛・生命精神をもっているのである。
 陰陽ガウス平面的には、+の虚軸が時計回りに90度回転、−の虚軸が反時計回りに90度回転し、両者+1において、一致したと考えることができる。
 これをわかりやすく作図する。


       陽凸i(頭)
       ↓↑↓↑
       ↓↑↓↑
       ↓↑↓↑
・・・・・・・・・↓↑↓↑・・・・・・・MP(こころ、精神、愛、霊)
       ↓↑↓↑
        ↓↑↓↑
        ↓↑↓↑
       陰凹i(肚)

   母権自我構造図

 すなわち、陽と陰が共振調和して、MP(こころ、精神、愛、霊)が誕生しているのである。
 
 以上、簡単に父権自我と母権自我の質的相違を述べたが、日本民族の場合、明治維新から、前者が後者を牛耳るような体制が構築されたと考えられるのである。
 その帰結が今日の全体主義体制である。
 これは、悪魔的体制であり、新母権主義のポスト日本近代を目指すしか根本的解決はないと考えられる。
 そう、GP陰陽ガウス平面図をわかりやすくするため、身体部位を入れてみる。


          凸i陽(頭脳)
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・心臓______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
          凹i陰(肚・腹)


      応用身体的陰陽ガウス平面図


新母権自我を形成するには、凹i陰である肚へと測深する必要があるのである。つまり、自我を内的発掘して、肚まで到達しないといけないのである。
 肚はいわば、マグマである。ここはエネルギーが蓄積されているのである。
 だから、凸i陽自我(頭)の知性を喪失しないように、均衡をとる内的発掘作業が必要である。瞑想はその有力な一方法であろう。
 言い換えると、意識を肚の志向と頭の志向へと両極化するのである。そして、胸(こころ)を中点にするのである。
 つまり、意識は肚ー胸ー頭の三位一体となるのである。


2015年03月25日(Wed)▲ページの先頭へ
水素原子とヘリウム原子:中性子生成の力学原理をGP陰陽哲理学から試論する
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12006073136.html

水素原子とヘリウム原子:中性子生成の力学原理をGP陰陽哲理学から試論する

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合

先に以下最下部のように書いたが、実に怪しいので、再検討したい。
 即ち、水素原子*水素原子⇒ヘリウム原子としたが、そうではなく、⇒水素分子ではないだろうか。
 また、

〔i*(-i)〕◎〔i*(-i)〕⇒−1

としたが、これは、⇒+1の間違いだろう。
 思うに、◎を掛け算としたが、足し算と見る方が妥当ではないだろうか。
 つまり、±1+(±1)と見るのである。そうすると、±2となる。
 これは陽子が2個、電子が2個ということではないだろうか。
 とまれ、足し算にすると、水素分子になるようである。
 では、ヘリウムはどういう力学から生成するのか。
 やはり、掛け算、積から考えるべきではないだろうか。即ち、

〔i*(-i)〕×〔i*(-i)〕⇒±1×(±1)=+1、+1

だろうか。これは意味不明である。
 いったい、中性子とは何かと見る必要がある。

**************************
物質を作っているもの その2 - 宇宙論グループ
http://astr.phys.saga-u.ac.jp/~funakubo/BAU/chapter3/chapter3-2.html

中性子は原子核の中にいるときは安定なのですが、単独でいると900秒ほどで

という過程で3つの粒子に崩壊します。ここで反ニュートリノという粒子が初めて出てきましたが、これはニュートリノという電荷を持たない、核力がはたらかない、ほとんど質量を持たない粒子の反粒子です。


*************************

〔i*(-i)〕×〔i*(-i)〕⇒±1×(±1)=+1、+1

〔i*(-i)〕×〔(-i)*i〕⇒±1×(−1,+1)=−1,−1

について、さらに考えてみたいが、この式ではどうやっても、対称性しかでてこないだろう。中性子の質量が出てこないだろう。
 強弁、屁理屈、牽強付会気味であるが、陽主導の場合を特化して考えよう。
 陰主導のときは、陰陽調和が生起するが、陽主導のときは、陽的同一性化が生起するのである。つまり、陰陽調和⇒+1は起らないのである。
 思うに、ここがポイントというか、詭弁というか、であるが、陽主導のとき、可能性として、陰陽調和が潜在していると見るのである。つまり、⇒−1は、未形成のi*(-i)⇒+1を巻き込んでいると見るのである。
 そして、巻き込まれた「未形成のi*(-i)⇒+1」は−1の領域にあるために、+1×(−1)=−1となるのではないだろうか。
 この−1を中性子と考えられないだろうか。
 おそらく、中性子は奇妙な振る舞いをするのではないだろうか。
 では、もしそうならば、水素原子の場合は、どうして、中性子は発生しないかが問われなくてはならない。
 どうも、行き詰まってしまった。
 視点を変えよう。陽子が1個のときは、陽子が2個以上の場合における陽子同士の反発は考えなくていい。
 ヘリウムのような陽子が2個が形成されるとき、当然、反発が起きる。それを緩和するのが、中性子ということである。
 ともかく、中性子を正当化する力学を考える必要がある。
 私は⇒−1は陽主導であると言ったが、それは、陽による陰の同一性化を意味するのであり、それは、桜沢如一(ゆきかず)氏の考えからいうと、凝縮、収縮を意味するのである。
 極小化と言ってもいいだろう。
 そうすると、水素原子の場合は、極小化があっても、陽子が1個なので、中性子の存在は必要ない。
 こう考えたらどうだろうか。
 ⇒−1は原子核化であり、それは極小化を意味する。しかし、陽子が2個以上あると+の電荷で反発する。だから、それを抑止する力が必要となる。思うに、反発は⇒+1の方向としていいのではないだろうか。
 すると、それに対抗する⇒−1が加わると見ていいのではないだろうか。
 つまり、水素原子結合において、⇒+1,+1,−1、−1(+1は電子、−1は陽子)となるが、−1と−1は反発する。それは、⇒+1と⇒+1の志向をもつ。
 それに対抗するには、⇒+1⇦−1、⇒+1⇦−1というように、二つの⇦−1(あるいは、⇒−1)が必要となる。 
 この2つの−1がヘリウムにおける中性子ではないだろうか。
以上で、強引であるが、いちおう、中性子の力学の原理的説明を試みた。思考実験である。
 
**************************
『素粒子』の世界28 〜陽子と中性子は常に入れ替わっている?
中性子の発見はなかなかの偉業と言えます。原子核の質量と電荷の両方を説明できるし、原子核の中に陽子が2個以上ある場合には、プラス電荷を持つ陽子同士の電気的反発に対して電荷ゼロの中性子が“接着剤”として機能し、原子核が安定する構造も説明できます。
また、中性子はだいたい15分ほどでβ崩壊して陽子になってしまうこともほぼ同時期に確認されました。後に現代量子力学の発展に大きく貢献したパウリは、『中性子が崩壊 → 陽子 + 電子 +未発見粒子(現在では「反ニュートリノ」と判明)』との解釈を発表しました。これも中性子を組み込んだ原子核モデルの説明には都合のよいものだったのです。なぜなら、「じゃあ、陽子に電子と未発見粒子(=反ニュートリノ)を与えれば、中性子になるのではないか?」という想定(=パウリの解釈の→の向き変えるだけ)をすぐに思いつくからです。
これらのイメージと事実を組み合わせて、当初の原子核モデルは以下のようなものでした。
【1】まず陽子Aと中性子Bがある。
%EF%BC%91%EF%BC%89.gif

【2】中性子Bが壊れて陽子Bになる。電子と反ニュートリノを放出。
%EF%BC%92%EF%BC%89.gif

【3】陽子Aが電子と反ニュートリノを受け取って中性子Aになる。
%EF%BC%93%EF%BC%89.gif

【4】陽子と中性子の位置が入れ替わった状態。※以後、その繰り返し
このモデルは素人にも非常にわかりやすいもので、現代的に表現すると「原子核内の中性子はβ(−)崩壊して陽子に変わり、陽子はβ(+)崩壊して中性子に変わる・・・この繰り返しによって原子核は陽子同士の電気的斥力に打ち勝って安定している」と表現できます。さらに、原子核内に中性子が存在する必然性も説明できますし、陽子と中性子が(電荷を除いて他は)非常に類似している事実とも折り合いがいいのです。
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ところが、事はそう簡単には運びませんでした。実際に中性子が媒介するこの結合力を正確に計算してみたところ、プラスの電荷で陽子同士が反発する力よりも遥かに小さかったのです。もっとも当時の科学者が認識していた「力」は「重力」と「電磁気力」だけでしたから、要は電子または陽電子の質量があまりにも小さかったということだったのです。
こんな経緯を経て、1935年に原子核を安定的に保つための中間子の存在を予言する論文(=「素粒子の相互作用について」)を発表したのが湯川秀樹でした。湯川はこの論文で1949年に日本人初のノーベル物理学賞を受賞しましたが、湯川の論文が今日では定説となっている『4つの力』の理論化の基礎をつくります。少し話がずれますが、もともと「素粒子」という概念は『物質を構成する最小単位』という意味で使われ出しました。したがって、ミクロ世界の研究が進むにつれて、【原子】 【電子・陽子・中性子】 【中間子・クォークetc】へとどんどん細分化され、次々と新しい素粒子が提唱されていきます。それと歩調を合わせるように、新物理量を定義してはその物理量の演算を推し進めることで、物理学の新しい地平を開拓しようとする量子力学分野が花形の地位を不動のものとしていきます。素粒子や原子核の研究は量子力学の最大の“舞台”となって、自然存在や物理現象の摂理やルールを数学的・演算的に解明しようとする傾向が急速に高まったのが20世紀全般の特徴です。その発端のひとつがアインシュタインの相対性理論であり、もう一方の旗頭が今述べた原子核物理学と素粒子物理学を専門とする科学者たちと言えるのです。
ところで、現代の最新の素粒子論や量子論においても、「『強い相互作用』を媒介するΠ中間子のやり取りによって・・・」云々の解説付きではありますが、陽子と中性子は相互に入れ替わりながら原子核を安定させているという構造モデルは変わっていません。しかし、このような描像にはめったにお目にかかりません。このような動的な原子核イメージは、中学・高校の段階で教えるようにすべきだと思います。
http://www.seibutsushi.net/blog/2013/09/1418.html

**************************
楽しい高校化学(第1章−第9講)
http://www2.yamamura.ac.jp/chemistry/chapter1/lecture9/lect1091.html

■ 水素分子
水素原子は、お互い電子を1個取り入れて安定なヘリウムと同じ電子配置になろうとする。

分子式 電子式 構造式 共有電子対 非共有電子対
H2 H:H H−H 1個 0個


 
検討課題:氣の生命力学を具体化する:陰陽メカニズム構築 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12005096637.html
今、簡単に原子番号2のヘリウムについて考えてみる。
 陽子2個、中性子2個で原子核を構成し、電子2個をもつ。
 
ヘリウム原子           
原子の構造
思うに、水素原子をなんらかの方法で重ねればヘリウムになるのではないだろうか。
 ただし、中性子の存在をどう説明するかである。
 水素原子には中性子がないが、ヘリウムには生じているのである。
 ここで、思考実験する。便宜的に、陽はi、陰は−iとする。そして、水素原子はi*(-i)とする。そして、1個の水素原子と別の1個の水素原子を重ねる作業を考える。それを積、掛け算とみる。

i*(-i)◎i*(-i)⇒i*(-i)*i◎i*(-i)*(-i)=-i◎-i=−1  ・・・A式

(ただし、◎は積算である。)

右辺の−1であるが、これが、中性子と見ることはできないだろうか。
 この負号は、本来は、重力を意味するから、質量と見ることができる。
 そして、A式の左辺の先頭、i*(-i)◎i*(-i)が、ヘリウムにおいて、残っていると見るのである。結局、
 
i*(-i)◎i*(-i)⇔−1   ・・・B式

がヘリウム陰陽方程式となる。
 以上、思いつきであり、かなり怪しいが、いちおう、少しは進展したとしたい。

追記:陰と陽であるが、氣陰と氣陽と呼ぶこともできる。それはいったい何なのか。かつて、イデア論から、氣=イデアとしたが、今は、ハイデッガー哲学から、「存在」と見ている。
 だから、陰存在、陽存在、氣存在という言い方ができる。
 長いので、陰在、陽在、氣在にしてもいい。
 シュタイナーは氣をエーテル体と呼んでいるが、陰陽の対極性は指摘してない。もっとも、ゲーテゆずりで対極性の概念は好んで使用しているが。
 思うに、何故、シュタイナーは陰陽の概念を使用しなかったのか。陰陽概念を使用すれば、エーテル体がわかりやすくなるのに。


2015年03月23日(Mon)▲ページの先頭へ
検討課題:氣の生命力学を具体化する:陰陽メカニズム構築
画像等、以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12005096637.html

検討課題:氣の生命力学を具体化する:陰陽メカニズム構築

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

これまで、氣=陰陽から自然、生命有機体が生まれると述べてきたが、具体的なメカニズムは述べていないのである。
 どうも、シュタイナーの『神秘学概論』(An Outline of Occult Science - Rudolf Steiner Archive http://wn.rsarchive.org/Books/GA013/English/AP1972/GA013_index.html)を再読する必要があるだろう。

神秘学概論 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
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 シュタイナーは熱の生成から始めているのである。
 そう、シュタイナーは人体と太陽系(土星までを太陽系に入れて、海王星、天王星を入れていない。冥王星は今や、太陽系外の星である。)を対応させている。
 また、桜沢如一氏の『無双原理』

無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/サンマーク出版
¥1,728
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を参考にするといいかもしれない。ただし、桜沢氏は、氣=物質としてしまっている点が問題である。氣⇒物質としないといけない。氣から物質の生成には、次元転換があると見るのである。
 あまりいい例ではないが、もっともシンプルな原子、水素原子の発生を再確認しよう。
 応用陰陽ガウス平面図を使うと、電子が⇒+1、原子核(陽子)が⇒−1である。(符号の+、−であるが、これは電荷の符号ではなく、光と重力の逆性を意味していると考えられる。)
 結局、もっとも単純な陰陽から水素原子が生まれるということになる。すなわち単純陰と単純陽の結合から、水素原子が生まれるのである。
 陰を- -、陽をーと表記すれば、

--*ー⇒水素原子

である。
 問題は原点MP(Media Point)は虚軸と実軸の交叉する点であるが、水素原子はMPを内在しているのであり、ここにおいて、水素原子は単なる物質というより、氣に通じているということである。
 そして、氣を強くもつ水素原子と氣の強くない水素原子があると考えられる。
 思うに、生命体にある水素原子とは、前者であり、氣の活性作用が強く、単なる物体にある水素原子は後者であると思われる。
 つまり、物質というのは、厳密には、純粋物質というよりは、氣の衰退した物質体ということになろう。
 以上は復習であるが、問題は水素原子以外の複雑な原子をどのようにGP陰陽方程式で解明するのかである。  
 これは検討課題であるが、今、簡単に原子番号2のヘリウムについて考えてみる。
 陽子2個、中性子2個で原子核を構成し、電子2個をもつ。
 
ヘリウム原子           
原子の構造
思うに、水素原子をなんらかの方法で重ねればヘリウムになるのではないだろうか。
 ただし、中性子の存在をどう説明するかである。
 水素原子には中性子がないが、ヘリウムには生じているのである。
 ここで、思考実験する。便宜的に、陽はi、陰は−iとする。そして、水素原子はi*(-i)とする。そして、1個の水素原子と別の1個の水素原子を重ねる作業を考える。それを積、掛け算とみる。

i*(-i)◎i*(-i)⇒i*(-i)*i◎i*(-i)*(-i)=-i◎-i=−1  ・・・A式

(ただし、◎は積算である。)

右辺の−1であるが、これが、中性子と見ることはできないだろうか。
 この負号は、本来は、重力を意味するから、質量と見ることができる。
 そして、A式の左辺の先頭、i*(-i)◎i*(-i)が、ヘリウムにおいて、残っていると見るのである。結局、
 
i*(-i)◎i*(-i)⇔−1   ・・・B式

がヘリウム陰陽方程式となる。
 以上、思いつきであり、かなり怪しいが、いちおう、少しは進展したとしたい。

追記:陰と陽であるが、氣陰と氣陽と呼ぶこともできる。それはいったい何なのか。かつて、イデア論から、氣=イデアとしたが、今は、ハイデッガー哲学から、「存在」と見ている。
 だから、陰存在、陽存在、氣存在という言い方ができる。
 長いので、陰在、陽在、氣在にしてもいい。
 シュタイナーは氣をエーテル体と呼んでいるが、陰陽の対極性は指摘してない。もっとも、ゲーテゆずりで対極性の概念は好んで使用しているが。
 思うに、何故、シュタイナーは陰陽の概念を使用しなかったのか。陰陽概念を使用すれば、エーテル体がわかりやすくなるのに。

参考:
   
            凸i陽
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・霊______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


      応用陰陽ガウス平面

(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)
 また、GP陰陽方程式がある。即ち、

凹i*凸i⇒±1

である。
 凹iは陰を、凸iは陽を表わし、両者、虚軸にあり、±1は実軸にある。
 *は陰陽極性力学を意味する。実際は乗法である。陰凹iが主導のときは+1,陽凸iが主導のときは、−1となる。
  ⇒は次元転換を意味する。氣エネルギーが現象エネルギーへと転換する事象を意味している。
 ハイデッガー哲学の存在は、この⇒と見るのが適切かもしれない。おそらく、時間が⇒である。

 追記:虚軸の凸i陽に自我が、凹i陰に感性体(アストラル体)、そして、虚軸は氣軸であり、実軸は物質・生命現象である。


2015年03月18日(Wed)▲ページの先頭へ
天とは何か:原点MP=内的天=太極・太一・元一=超越的天(天の公式=マニ教公式)
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12002867315.html

天とは何か:原点MP=内的天=太極・太一・元一=超越的天(天の公式=マニ教公式)

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

         
            凸i陽
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・霊______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


      応用陰陽ガウス平面

(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)



resurrectionのブログ
(この画像は、映画『スライブ』のトーラスであるアップル像である。この画像と応用陰陽ガウス平面図を対応させるには、アップル像は、時計回りに90度回転すれば、いい。アップルの中の上部の白いらせんと軸のようなものがあるが、それが、+1になるのである。)


応用陰陽ガウス平面図において、天は⇒+1の+1に存する。
 樹木が伸びる方向に存する。
 地は⇒−1の方向に位置する。重力の方向である。
 だから、天を+1,地(地球)を−1,そして、人間を原点MPに位置させてもいいと思う。
 そうすると、宇宙ないしコスモスは天と同じ位置に存するだろう。
 いったい何を問題にしたいのか。
 つまり、コスモス(内外宇宙)とは、単に、マクロコスモス(大宇宙)だけでなく、ミクロコスモス(小宇宙)であり、人体、心身に内在すると考えられるのである。
 では、天=大宇宙が+1に存するなら、小宇宙はどこに存するのだろうか。
 ここでシュタイナーの独特な植物とは逆なポジションにある人体を参考にすると、人体における天は肚であり、応用陰陽ガウス平面図では、−1となり、人体における地は頭で+1となる。だから、人体における天=小宇宙は−1に存することになる。
 言い換えると、地球、大地の中心に天があるようなものである。
 つまり、人体において、−1から+1へと「光」が向うことになろう。この「光」は、内的光だろう。だから、氣の光である。
 そうすると、これは、虚軸から原点MPにおいて、形成されるものである。
 とまれ、人体において、MP⇒−1の「光」が形成され、それが、⇒+1の天と呼応すると考えられる。
 問題は、MP⇒−1の「光」とは何かである。
 それは、通常の日光、陽光でいいのだろうか。
 思うに、これは、内的太陽、内的日光、内的陽光である。
 そして、氣の光と上記したのである。
 ⇒−1の「光」を氣の光としたがそれいいのだろうか。
 とまれ、この「光」は、普通の日光、あるいは、氣の光の二通りの可能性があるのである。
 理論的に整合化するなら、普通の日光であるべきである。氣の光ではないのである。
 だから、今の時点では、⇒−1の「光」を内的日光としておく。(もっとも、正確に云うと、⇒−1ではなく、⇒+1である。つまり、人体において、虚軸の陽凸i下部に、陰凹iを上部にする必要があると考えられる。)
 とまれ、人体において、肚(−1)と天(+1)が呼応すると見るのである。これが、ミクロコスモスとマクロコスモスの呼応・照応と見ることができよう。
 しかしである。この場合、マクロコスモスは外的宇宙、物質的宇宙であり、内秘的宇宙ではないのである。
 少なくとも、氣的宇宙(氣的コスモス)ではないのである。
 直観では、ミクロコスモスとは、氣的コスモスである。
 この齟齬、自己撞着をどう見るか。
 そう、天の問題がある。天とは、外的宇宙でもあるし、同時に、内的宇宙である。つまり、内秘的宇宙、氣的宇宙、霊的宇宙である。
 直観で言えば、外的天は+1であり、内的天は原点MPである。そして、後者が前者に投影されるのである。
 とすると、肚−1の宇宙とは、やはり、内的天になるはずである。
 つまり、ミクロコスモス・小宇宙⇔マクロコスモス・大宇宙の照応とは、内的天に関することと言えよう。
 また、当然、外的天に投影されるのであるが。
 つまり、肚と外的天とは、本来、内的天の投影であるということになろう。
 元は同じ、原点MPということになる。
 つまり、原点MP=内的天が、例えば、植物の場合は⇒+1の外的天へ向かい、人体の場合は、上下逆転して、⇒+1の大地的肚へと向うのであるが、それは、内的には、内的天の投影なのである。
 つまり、確かに、外的天と大地的肚は物質的に存するのであるが、原点MP=内的天が両者に投影されるということと考えられるのである。
 そして、この原点MP=内的天であるが、これは、太極・太一、即ち、根源的一(いつ)に通じるのであるから、それは、超越的天と一致すると言えよう。即ち、

原点MP=内的天=太極・太一・元(根)一=超越的天

ということになる。(これを天の公式と呼ぼう。)
 宗教的にはこれらは神、神仏である。
 思うに、この天の公式は実は、マニ教の公式と呼べるのではないだろうか。
 仮説として、天の公式=マニ教公式としておく。

追記:占星術とは、内的天の外的天への投影に起因していよう。そして、内的天と外的天を混同しているのである。
 占星術を哲理学(フィロソフィエンス)にするためには、内的天の力学を考察しないといけないのであるが、内的天と外的天の混同によって、もっぱら、外的天の動きに、内的力学を見ようとしているのである。いわば、本末転倒であり、迷信である。
 しかし、内的天のもつ作用のなんらかの結果は見ていると言えよう。


http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12002847789.html
こころ・精神・氣*知性の均衡としての理性:知性があっても、自我主導ならば、知性は捩じ曲げられる

テーマ:生命力/氣自衛医智学:唯物機械論医学批判

知性(悟性)は、自我に結びついていると考えている。
 だから、自我主導だと、利己主義が知性を歪曲するようになる。
 日本の「科学者」はそのようなものだろう。
 既述済みであるが、知性を知性として、純粋知性として、活かすには、理性が必要なのである。
 それは、こころ、精神の意識、あえて言えば、氣の意識が必要である。
 こころ、精神、氣は他者と自我との共生を目指すから、自我の知性を利己主義的ではなく、利他的に使用するのである。しかし、無私の愛ということではない。自我と他者との均衡を目指するのである。
 また、知性の進展について考えると、実は、自我中心では、それは無理なように思えるのである。
 知性とは事物や事象等の認識である。だから、自我に執着していては、その認識は不可能である。脱自我主義が必要である。
 そのためにも、こころ、精神、氣が必要と考えられる。
 こころ、精神、氣には、思うに、直観、イメージ力、ヴィジョン力があるのである。だから、それを生き生きとさせることで、創造・独創的な知性が生まれると考えられるのである。
 私自身の創意、発見はそのようなものである。
 ということで、ざっとであるが、知性を知性として、純粋知性と活かすには、また、知性を進展させるには、こころ、精神、氣が必要であるということになる。
 そして、理性というものは、このこころ・精神・氣⇔知性のバランスの取れた認識力のことではないだろうか。
 今はここで留める。

図は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12002835893.html

作業仮説:キリストの愛とは生命、氣、陰陽調和のこと?:聖霊は氣ないし氣的霊?:水瓶座の啓示?

テーマ:こころ教共同網:「まことの教え」共同体

私は以前、キリストの愛とは生命のことではないかと示唆した。生命は氣であるから、愛=氣という図式が成り立つことになる。
 また、一般に人間より動物の方が「愛」があるのである。これは、やはり、動物に作用している氣の作用ではないだろうか。個体と他者の共存愛である。
 ただし、猿山のようなボス支配は、父権自我の先駆体ではないだろうか。
 人間の場合、愛が貧乏なのは、当然、自我、とりわけ、父権自我が支配的であるからだと思われる。
 また、父権集団的自我の場合は尚更である。
 そう、父権自我は一種、愛盲であろう。あるいは、理性盲である。(そう、後で、知性と理性の相違を再度確認したい。)
 簡単に図示した方がわかりやすいだろう。
 以下の応用ガウス陰陽平面図を見ていただこう。


            凸i陽
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・霊______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


      応用陰陽ガウス平面

(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)

氣とは、陰陽調和によって存すると考えられる。とまれ、虚軸に存し、原点を中心に振動していると考えられる。
 自我は上図から、虚軸のプラス軸に存すると見るのである。
 そして、父権自我の場合は、感性体を(連続的)同一性化するのである。言い換えると、自我と感性体(他者)が癒着するのである。そして、自我の陽と感性体の陰が共振しなくなるのである。
 そう、陰陽共振によって、調和が生まれ、本来の氣が形成されると考えるのである。
 しかし、陽の自我と陰の感性体が(連続的)同一性化によって癒着した場合、もはや、陰陽共振、陰陽調和、氣は形成されないのである。
 しかしながら、その癒着は意識においてである。癒着下の無意識においては、なんらかの陰陽共振はあると思われる。
 さて、意識において、氣がなくなるということは、生命がなくなるということである。愛がなくなるということである。
 だから、自我、とりわけ、父権自我は氣盲、生命盲、愛盲と考えられるのである。
 故に、自我の利益のために、平気で人を騙し、殺戮したりするだろう。ペテン師、詐欺師、殺戮狂、殺人狂、虐殺屋である。
 專争邪や某国の奸凌や葬理や背慈禍は、この典型と考えられるのである。
 では、彼らに覚醒するときが来るのだろうか。
 こころが発芽するときがあるのだろうか。
 そう、無意識においては、生命、氣、愛、こころはあるのであるが、まったく埋没しているのである。
 一般的には不可能に思える。
 しかし、現代は、新古代は、水瓶座エポックである。これは、陰陽調和宇宙を意味する。つまり、陽極まりて陰に転ずの転換が起っていると考えられる。
 すると、陽ではなく、陰が主導化すると、陰陽調和が啓けてくるのである。
 そうすると、父権自我の悪人も覚醒する可能性が出てくると言えよう。マニ教的転換と言おうか。
 今はざっと述べるに留める。


2015年03月09日(Mon)▲ページの先頭へ
ストレスと応用陰陽ガウス平面図:自我*感性体のストレスが氣を介して、身体を阻害し、支障をもたらす
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11998875048.html

ストレスと応用陰陽ガウス平面図:自我*感性体のストレスが氣を介して、身体を阻害し、支障をもたらす

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

以下の記事は、いわばストレスが身体に支障をもたらすことを、わかりやすく解説していると思うが、応用陰陽ガウス平面図(下図:尚、身体は実軸と見るのである。物理的に、+1が上半身で、−1が下半身だろう。しかし、質的には、真逆になるようだ。)を見れば、より霊・氣・身体的に納得できるのではないだろうか。

            凸i陽
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・霊______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


    
    応用陰陽ガウス平面図

(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)


 即ち、虚軸の感性体を見られたい。ここは、感情・情感・気持ち・欲望・衝動の領域であり、ここに苦痛があると、当然、その基礎には、氣、陰の氣があるので、それに伝導し、ネガティブな氣は物質身体へと作用するので、そこで、身体が阻害されると考えられる。
 思うに、より正確に言えば、虚軸の陽に自我があるが、この陽の自我と陰の感性体が連結しているのであり、その連結による知覚からストレスが生じると見た方が的確だろう。
 とまれ、

自我*感性体のストレス⇒氣のネガティブ化⇒身体の故障

という連鎖力学があると考えられる。
 ストレスに対処する精神方法は、自我と感性体を、氣の陰陽調・均衡作用によって、落ち着かせ、また、それにより、原点MP=霊=太極からの霊的治癒力をもたらすことではないだろうか。
 霊的治癒力はとまれ、氣の陰陽調和・均衡をもたらすはたらきかけが必要である。例えば、森の木々に接して、森の氣に触れて、それと共振・共鳴することである。
 思うに、氣的調和は、原点MPに高次元界から下降する霊的初期力・元力をもたらすのではないだろうか。
 とは言え、まだ、そのいわば、霊的調和の力の力学システムが不明であるが。

その痛みどんな感情からきてる?負の感情が及ぼす体の痛みを部位別で表した「ペインチャート図」
no title

 「身体は魂を入れる器である」と言ったのはファイナルファンタジー・タクティクスに登場するキャラ「アラズラム・J・デュライ」である。少し中2じみた表現ではあるが、物事の本質を射ていると言えよう。私たちの身体は心の動きによって痛みを負うのだ。

 「ネガティブな感情が健康に及ぼす影響」という記事によると、” 感情と経験は私たちのエネルギーであり、それは個々の細胞に記録され続けている。" と表現されている。

 体の痛みを感じた時、病院にいっても原因が不明なことも多い。その原因は心の変化や負の感情、いわゆるストレスから来ている場合がある。海外サイトで、どんな感情の変化によって、体のどの部分に痛みを感じるのかがわかるチャート図が紹介されていた。
カラパイア


http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11998454858.html
何故、原子力科学、唯物自然科学は危険なのか:生命自然現象の根源の氣を否定している

テーマ:生命力/氣自衛医智学:唯物機械論医学批判

既述のことであるが、簡単に再論する。
 近代科学、自然科学は物質主義・唯物科学であり、自然生命現象の根源に氣を見ていない。
 物質が根源なのである。
 しかし、物質、あるいは、原子を基本としたため、天然自然には本来、存在しない、核物質、原子力というものを生んでしまったのである。
 以下の陰陽ガウス平面でいうと、虚軸が欠落して、実軸だけの科学が近代科学、自然科学、即ち、唯物科学なのである。
 物質を悪、闇とすれば、近代科学、自然科学は悪魔科学である。そう、技術を入れれば、悪魔技術である。


            凸i陽
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・霊______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


      応用陰陽ガウス平面

(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)
 また、GP陰陽方程式がある。即ち、

凹i*凸i⇒±1

である。
 凹iは陰を、凸iは陽を表わし、両者、虚軸にあり、±1は実軸にある。
 *は陰陽極性力学を意味する。実際は乗法である。陰凹iが主導のときは+1,陽凸iが主導のときは、−1となる。
  ⇒は次元転換を意味する。氣エネルギーが現象エネルギーへと転換する事象を意味している。
 ハイデッガー哲学の存在は、この⇒と見るのが適切かもしれない。おそらく、時間が⇒である。

 追記:虚軸の凸i陽に自我が、凹i陰に感性体(アストラル体)、そして、虚軸は氣軸であり、実軸は物質・生命現象である。


http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11998422361.html
シュタイナー霊学とGP陰陽哲理学の比較:霊と氣

テーマ:シュタイナー高次元・霊的哲理学(霊学)

GP陰陽哲理学は、基本は氣の哲理学であるが、精神・霊・スピリットも対象としている。
 ルドルフ・シュタイナーの霊学・霊的哲理学は、簡単に言えば、人体に関しては、四元論で、自我ーアストラル体ーエーテル体(氣)ー物質体(単に、体。又は鉱物体)から構成されている。
 氣はエーテル体とほぼ一致する。だから、GP陰陽哲理学(簡単にGP陰陽論)とシュタイナー霊学はとても相違する。
 問題は、自我とアストラル体(感情・欲望・衝動)をどう捉えるのかである。


            凸i陽
             |
             |
             |
             |
             |
−1地______MP______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             |
             |
             |
            凹i陰


       陰陽ガウス平面

上図の陰陽ガウス平面において、氣の領域である虚軸に、自我とアストラル体を重ねれば、いちおう、シュタイナー霊学に対応できると思う。
 思うに、アストラル体(簡単に言えば、感性であるから、感性体と言おう)は、原点MP(Media Point)から発して、凹i陰の虚軸に存しよう。
 そして、自我であるが、それは、同様に、原点MPから発して、凸i陽の虚軸に存しよう。
 シュタイナーが精神・霊・スピリットというものは、原点MPに存すると見ればいいだろう。つまり、太極・太一の根源界である。
 ということで、現段階では、氣の領域である虚軸に、シュタイナー霊学で説く自我とアストラル体(感性体)は重なっている、二重・重層化されていると見ることとする。
 これで一応、シュタイナー霊学をGP陰陽論に組み込んだことにはなる。
 以下、組み込んだ陰陽ガウス平面を図示する。


            凸i陽
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・霊______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


      応用陰陽ガウス平面



http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11998294346.html
不連続的差異論からGP陰陽哲理学へ:心身構造図による推移

テーマ:不連続的差異論とGP陰陽哲理学

先に以下のように書いたが、実は、実際とは少し違うのである。
だから、より正確に図示する。
 以下の2が不連続的差異論の段階の図示である。
3がGP陰陽哲理学の段階である。
 つまり、不連続的差異論の場合、頭脳自我から不連続化したものが、「こころ」なのか肚なのか未分化であったのである。当時は訳が分からないものだったのである。神秘的ではあった。
 でも、その後、時熟し、こころと肚は分化した。頭脳自我が陽であり、肚が陰であり、こころは、陰陽調和と考えられる。

1)

   頭脳・自我
     ↓
「こころ」と肚の未分化


2)

    頭脳・自我

・・・・・不連続的切断・・・・・

  「こころ」と肚の未分化


3)

   陽凸i: 頭脳・自我

・・・・・不連続的切断・・・・・

 「こころ」=陰陽調和=太極・太一=根源的一(いつ)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    陰凹i:肚

追記:不連続的差異論について補足すると、何故、それが、精神革命になるかと言うと、通常、頭脳自我がこころや肚を支配しているのである。抑圧していると言ってもいい。頭脳自我とは同一性の力学をもち、こころや肚は同一性に支配される。
 しかし、頭脳自我とこころ・肚を不連続化(より理論的に言うと、不連続的差異化)すると、こころと肚は頭脳自我の同一性支配から解放されて、それ自体の生命・力をもって活動するのである。
 こころ・肚の解放は、生命の解放であり、新たな氣が流入して、心身は若返ると考えられるのである。

***************************
不連続的差異論の図式:頭脳・自我とこころ・肚の切断認識

テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

今は簡単に図示する。
通常、以下の1のように頭脳とこころと肚が連続しているように知覚するだろう。
 しかし、不連続的差異論は、連続性を否定したのである。
頭脳・自我とこころ・肚は不連続であると認識したのである。
これで、精神革命が起きるのである。
 2004年、海舌氏と共作で不連続的差異論が誕生した。そのときは、歓喜で有頂天であった。2のこころ・肚はコスモスへ通じていると感じたものである。この頭脳・自我とこころ・肚の切断によって、こころ・肚は頭脳・自我から解放されて、生命が蘇るのである。そう、若返るのである。お試しあれ。


1)

   頭脳・自我
     ↓
    こころ
     ↑
     肚



2)

    頭脳・自我

・・・・・不連続的切断・・・・・

     こころ

      肚


http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11998288000.html
オイラーの公式の実部が物質的要素で、虚部が氣的要素ではないのか

テーマ:GP陰陽哲理学(ガウス平面陰陽哲理学)

以前、以下のように記したが、

P : e^i θ=cosθ+i sinθ

Q : e^i (θ+π)=cos(θ+π)+i sin(θ+π)

とすれば、PとQの対、ペア、両極で、陰陽が考えられる。
 陰陽をP*Qとする。

P*Q=e^i θ*e^i (θ+π)

=〔cosθ+i sinθ〕*〔cos(θ+π)+i sin(θ+π)〕

となる。
 とまれ、今言いたい事は、複素数の実部は物質で、虚部が氣であり、また、複素数自体(追記:正確に言えば、陰陽複素数ないし陰陽対極複素数)は、氣による物質現象を記述しているのではないのかという問題提起である。
 多忙なので、今はここで留める。

***************************
陰陽ガウス平面は、虚軸が氣の軸で、実軸が物質の軸で、原点MPは氣⇒物質次元転換点:四象限構成

ところで、PS理論の段階では、これにオイラーの公式

e^{i\theta} =\cos\theta +i\sin\theta.

(数学の至宝 分かりやすいオイラーの公式 - NAVER まとめ )
を持ち込んだのである。今のGP陰陽哲理学においても、オイラーの公式を適用することもできようが、今は課題にしておく。

追記:簡単にオイラーの公式の適用についてのポイントを言うと、陰陽極性があるのだから、π回転(180度回転)の位置も含めて、対にする必要がある。
 だから、

e^i (θ+π)=cos(θ+π)+i sin(θ+π)

を加える必要がある。
 故に、陰陽モード(陰陽極性モード)とは、

e^iθ*e^i (θ+π)

となろう。〔θがπ/2(90度)のとき、凸i*凹i、純粋陰陽極性となる。〕ただし、*は交点MPにおける対となる陰陽モードの力学・ダイナミクスである。
 これについては、検討する必要がある。(追記:陰陽振動と回転への展開を結びつければいいだろう。)



  四つの象限




オイラーの公式の空間図


2015年03月05日(Thu)▲ページの先頭へ
日本の精神・霊的伝統(霊統・法統)には、秘儀・秘智・ソフィアの本格正統的な伝統が喪失している?
日本の精神・霊的伝統(霊統・法統)には、秘儀・秘智・ソフィアの本格正統的な伝統が喪失している?

テーマ:シュタイナー高次元・霊的哲理学(霊学)

直近に以下(参照)のように述べた。
 日本母権文化の衰退の原因を単に、こころ・精神の衰退だけでなく、哲学の欠乏症候群に見たのである。
 しかし、もっと的確に言えば、西洋、その他の文化の底流にあるような秘儀文化、秘智・隠秘文化(「オカルト」文化)、ソフィア(叡知)の文化の衰退・衰弱・頽落・堕落にあるのではないだろうか。あるいは、それらが明確に伝播(でんぱ)伝承されなかったということかもしれない。
 西洋には、多様な秘智文化の伝統が底流にあり、それが、危機的な時代において、大地肚綿奥底から噴出し、形象と結合し、芸術創造が為されるのである。。
 その点でわかりやすい文学芸術は、シェイクスピアの演劇であり、ゲーテの『ファウスト』であり、フランスならボードレールの『悪の華』だろう。
 秘智文化が主要な芸術(この場合は文学)と結合するのである。
 しかし、日本において、先に述べたように、父権精神と母権精神との乖離があったと考えられる。
 日本における秘智文化は、芸術とは結びつかなく、宗教や神秘学に結びついただろう。例えば、大本教や日月神示のようなものである。(そう、シャーマニズムの復興である。しかし、シャーマニズムはあまりにも非合理な面が強いので、シュタイナー霊学のような理智学化、理智的瞑想主義への転換が必要と考えられる。)
 空海密教も秘智学であるが、それの創造的後継者はいないのではないか。ただ反動的な仏教界があるだけではないか。
 そう、今想起したが、折口信夫の『死者の書』(『死者の書』 あらすじ・登場人物・章別あらすじ・系図 )、これは、日本文化における最高度に稀有な秘智の文学である。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
折口信夫 死者の書 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/4398_14220.html

彼 ( か ) の人の眠りは、 徐 ( しず ) かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの 澱 ( よど ) んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。 した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、 ...

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 しかし、この秘智小説の、後継者はいるのか。
 思うに、三島由紀夫が暴発しなければ、このような後継者にはなれた資質はもっていたと思う。(追記:うっかり失念していたが、『豊饒の海』は、近現代日本における秘智小説の一つである。しかし、ニヒリズムに浸透されている。三島の闇である。三島には、光が失われていた。霊の光である。)
 澁澤龍彦のエッセイは、啓蒙的ではあったが、流行に終わってしまったと思う。
 結局、日本において、秘智学の発展は、ルドルフ・シュタイナーの霊学・霊的哲理学の本格的紹介(高橋巌、西川隆範、他に拠る)を俟つことになったと言えよう。

神智学 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
¥1,080
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追記:大皇室は、百済大女神文化(太陽大女神王制:「天皇制」)を今でも引き継いでいると考えられる。大母権文化なのである。

追記2:ふと思ったが、沖縄・琉球文化とは土着的な縄文文化に、百済太陽大女神王制文化(渡来人も含めて)が伝播して、誕生したものではないだろうか。(追記:海洋民族文化もあるだろう。)

追記3:百済大女神文化=太陽大女神天皇王制母権文化とは、父権文明以前の、秘儀文化以前の世界史的稀有な国政文化ではないだろうか。

***************************
***************************

参照:
近代日本における高次元・超越性・精神-霊-スピリット性の欠落は国学イデオロギーに起因する?
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
先に以下のことを述べたが、背景には、なぜ、超越性が、メジャーな近代日本文化からほぼ消えているのかという疑問がある。
 私が若い頃悩んだ理論的問題は、唯物論と内在的心情論の分離と結合の問題であった。
 この解決は、氣の存在の認識に因るのが大きい。身体を超えて存在する氣の認識である。
 しかし、事は簡単には済まなかった。
 結局、時間、時熟が解決したようなものである。
 さて、超越性の喪失の原因であるが、これは、本居宣長の「もののあはれを知る」に存するのではないかと思えるのである。
「もののあはれ」はいわば、心情、情感、リリシズムである。
 これは、内在的個体に留まり、超越性が欠落すると思われるのである。
 そう、有名な
「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」という宣長の和歌があるが、この場合、「もののあはれ」を「山桜花」という現象に同一化しているのである。つまり、内在と現象を結合しているのである。
 ここには、超越性はない。きわめて、感覚的である。あえて言えば、即物的である。
 西洋ロマン主義の場合は、たとえば、山桜花の背景に超越界ないし精神界のようなものが現われるのである。
 どうして、宣長の場合、超越性が欠落するのかと言えば、それは、父権的自我の発現があるからだと考えるのである。
 父権的自我は、物質的傾向が強いのである。
 これが、「もののあはれ」から超越性を抑圧しているもののように思えるのである。
 そして、敗戦後は、この父権的自我に唯物科学が結びつくことになったと言えよう。
 今はここで留める。

追記:勿論、近代日本において、超越性を説いたものは多くいるが、それは、神秘学・霊学者、宗教家、民俗学者である。
 芸術においては、稀少であったと思う。勿論、宮沢賢治等には、あるが、明確ではない。
 つまり、近代日本文化において、感覚知覚認識とこころ・精神の乖離があったということになる。
 これは、端的に、父権文化と母権文化の乖離と言えるのではないだろうか。そして、主流は前者であり、後者はマイナーである。
 近代日本人は父権文化に染まり、本来基盤の文化である母権文化を喪失してしまったということのように思えるのである。

追記2:母権文化の喪失であるが、それは、母権文化の基層が衰退したということではないだろうか。
 制度的には、神仏分離令・排仏毀釈で日本伝統精神文化が破壊されたという側面があるが、それとは別に、母権文化の衰退という事態があったのではないだろうか。
 意外に思われるかもしれないが、西洋には、母権文化が残っているのである。イタリアには強く感じるし、英国のケルト文化圏もそうである。
 日本では、沖縄・琉球文化がそうであろう。
 でも、日本では、母権文化は衰弱していると思う。何が原因なのか。
 一つは父権的自我と唯物性が強いことであるが、何か本質的な問題がありはしないだろうか。
 今は一つの可能性を提起するが、それは、肚の文化の衰退が原因である。

追記3:より明快に言えば、こころの文化の衰退があるということである。純心の喪失である。
 そう、こころ、純心を維持するには、集団的ではなく、個的であることが必要である。個的自己を保持する強い姿勢が必要である。
 父権的集団主義が優勢であり、それに、個的自己保持力がないと、こころ・純心が屈しやすいということが考えられる。
 こころ、純心をもって、個的自己を保持すること、これが新母権文化である。

追記4:「こころ、純心をもって、個的自己を保持する」には、思うに、哲学が必要である。
 一般に哲学は難解な抽象的な論理のように思われているが、それは完全な間違いである。
 哲学とは、精神的思考である。だから、誰でもできることなのである。
 自分のこころと知性をもって思考すれば、哲学になるのである。
 そう、自然科学と違う点は、知性だけでなく、こころをもって思考する点であろう。もっとも正しい科学には、こころ・精神、つまり、哲学が必要であるが。
 デカルトの「我思う(コギト)」の自己・主体思考も、単に知性だけでなく、こころ・精神を含めれば、正解である。ただ、デカルトは主知主義である。
 以上から、近代日本において、母権文化が衰弱したのは、単に、こころ・精神が衰退しただけでなく、哲学の欠乏に因ると考えられる。
 そうすると、教育の貧困・貧弱・貧乏に突き当たる。
 思うに、どうして、哲学の授業が義務教育にはないのか。支配者は、自主・独創的思考を恐れるのである。
 思考するには、哲学するには、個的になる必要があるのである。集団では、思考・哲学はできないのである。
 ということで、日本母権文化の衰退は、哲学の欠乏にあるということになった。哲学は、精神・知性・感性の栄養・滋養・養分である。

追記5:単に知性だけでなく、こころ・精神でも思考するということは、ヴィジョン的に思考するということでもある。イメージ的思考である。直観的思考である。ここで、哲学は芸術と結びつくのである。
 また、こころ・精神は超越性をもつので、宗教・霊学に結びつくである。
 また、知性を特化すれば、科学と結びつくのである。
 そして、実践的になれば、技術と結びつくのである。
今でも、哲学は学問の王者である。

 
検討課題:本居宣長の国学イデオロギー力学問題

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

今日は疲れて、眠いので十分検討できないが、一言問題点を述べておく。
 本居宣長の「もののあはれを知る」であるが、これは、先に述べたように父権主義的枠内に収められた母権主義ではないか。
 つまり、国学はこれまで批判してきたような父権イデオロギーだけではないということになる。
 母権主義を取り込んだ新父権主義ということになる。
 そして、この思考パターンが近代日本人の思考パターンを形成したのではないか。
 つまり、母権主義は利用されているのである。情感が父権主義に利用されて、情感本来の超越性が抑圧されているのではないだろうか。
 西洋において、ロマン主義は、超越性を包摂していたのである。
 つまり、日本ロマン主義になるべき母権的情感が、父権的枠組みに閉塞されたのではないだろうか。つまり、超越性の否定である。単なる情感に閉じて、超越的感性を否定したのではないだろうか。
 しかし、平田篤胤になると、神道がキリスト教的に一神教化されるのである。
 父権的超越性である。これが、尊王攘夷イデオロギーになったのではないだろうか。
 某国ナニガシ首相の好戦的イデオロギーはここに由来するのではないだろうか。
 とまれ、江戸時代後期に発動したと今の段階で作業仮説する新母権主義が、宣長によって、父権的ナショナリズムに枠に嵌められたのではないだろうか。
 つまり、母権的精神・霊・スピリットを奪われたのではないのか。
 今は問題提起に留める。

追記:宣長ー篤胤ラインによって、尊王攘夷イデオロギー=明治維新イデオロギーが形成されたのではないか。
 つまり、情感を父権的一神教=明治天皇制へと展開させたのではないだろうか。
 宣長では、情感は内在的に留まるが、篤胤によって、一神教化されたのではないだろうか。
 シュタイナー霊学から言えば、情感(アストラル体)は、霊・精神へと繋がるものである。それが、篤胤イデオロギーによって、天皇制へと導かれたのではないか。
 そう、江戸時代後期、新父権主義はあったが、同時に、新母権主義もあったが、それが、前者に抑圧されたということではないだろうか。
 本来、新母権主義は、霊・精神へと発展すべきであったのが、明治天皇制へと展開したのではなかったか。
 つまり、父権的集団主義へと取り込まれたということである。


   




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