INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2014/10

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2014年10月26日(Sun)▲ページの先頭へ
新エクソダス:森モーセは誰?:脱旧日本:何処へ?:聖霊=こころの国へ?
新エクソダス:森モーセは誰?:脱旧日本:何処へ?:聖霊=こころの国へ?

テーマ:日水湖宮(ひみこく);新国名:水瓶座時代

ヘブライ人が、囚われ人であったエジプトから脱出したように、真・森日本人は、エクソダス(脱旧日本)が必要である。
 でも、何処へ?
 聖霊=こころの森国へである。
 とにかく、鈍愚の集群農耕民族と狂魔の日本父権民族の旧日本からの脱出である。
 死者をして死者を葬らせよ!

追記:結局、薬局、総局、黙示録の時代には、人間の質的レベルが生じるのである。劣化・退化した日本人は地獄落ちである。
真・森の日本人は、ガラパゴス化した旧日本から脱出すべきである。かかわるべきではない。滅びるものは滅びるのである。
 イエス・キリストの教えは正しい。
新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れよ。

追記2:結局、薬局、総局、垂直の二つの世界があるのである。あるいは、位階の二つの世界があるのである。
 高次元の世界と低次元の世界である。魂の世界と物質・自我の世界である。旧日本人は、後者に属する俗凡人である。
 しかし、今や、高次元の世界が開けたのである。
 旧い日本とはおさらばである。魂霊の世界が到来したのである。

マルコ福音書講解 13
ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_013.htm


* キャッシュ
* 類似ページ

21 だれも、まださらしてない新しい布を、古い着物に縫いつけはしない。そんなことを
すると、新しい継ぎ布が古い布を引き裂き、破れはさらにひどくなる。 22 まただれも、
新しい葡萄酒を古い皮袋に入れはしない。そんなことをすると、葡萄酒が皮袋を引き裂き
、 ...

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2014年10月25日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:不連続的差異論は何を解放し、何を未分化に残したままか:悪魔は生命を憎む?
検討問題:不連続的差異論は何を解放し、何を未分化に残したままか:悪魔は生命を憎む?

テーマ:PS陰陽論:ガウス平面と陰陽論の統合

今日は、いろいろ閃いたが、余裕がないので詳論できない。
 一つは、不連続的差異論の問題で、何を解放し、何をまだ未分化に残しているかということである。 
 一つは、悪魔は生命を憎悪するという問題である。
 前者について簡単に触れたい。
 不連続的差異論は、陽(自我)と陰(魂)を分離した。
 しかし、何をまだ、分離していなかったのか。
 陽凸iと陰凹iを分離したものの、陰凹iと+1を分離しなかったのではないだろうか。言い換えると陽凸iと−1(自我)と陰凹iは分離したが、陰凹iと+1の生命欲が分離しなかったのではないだろうか。
 思うに、−1が頭脳自我であり、+1が身体生命である。
 そうならば、陰凹iと+1のさらなる分離が必要である。これは、言うならば、非連続的不連続的差異論である。これは、氣的身体論ないし中丹田的氣的陰陽バランス論が必要である。D.H.ロレンス的に言えば、王冠=聖霊的陰陽均衡論である。
 聖霊は私の用語では、「こころ」である。
 とまれ、氣的聖霊的陰陽均衡論が必要だと思う。
 それによって、陰凹iと+1の生命欲が分離されて、純粋化するのである。いわば、二重現象学的還元である。
 とまれ、二つの不連続化が必要ということになるのである。
 二重不連続的差異論である。
 また、先に次のように書いた。以下の赤線下線部を見られたい。


死の欲動は過剰自我の破壊的衝動?:金儲け主義には魔が取り憑く
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11942873265.html

追記:陰陽方程式凹i*凸i⇒±1、または凹i*凸i⇔±1であるが、死の欲動は、⇒−1なのか、それとも、⇔±1の←の方向なのか。
 父権的自我は⇒−1で説明がつくだろう。では、←±1とは何か。それは、根源への回帰の志向である。
 ⇒±1は、フロイト的に言えば、エロスの衝動であろう。セクシュアリティの衝動であろう。生命欲である。
 しかし、⇒−1の自我欲があるので、⇒±1は、自我的生命欲である。
 問題は、やはり、←±1の←のベクトルの意味である。
 どうも、これこそ、死の欲動ではないだろうか。⇒−1は自我欲であり、確かに破壊的であるが、必ずしも、死の欲動ではないだろう。
 わかりやすくするため、破壊の欲動を⇒−1とし、死の欲動を←±1としよう。
 思うに、死の欲動とは宗教衝動ではないだろうか。根源の太極・陰陽へと回帰する衝動のように思われる。
 プラトンのエロースもそういうものではないだろうか。
 いわゆる、霊や精神というものも、ここに存するのではないだろうか。例えば、バッハの音楽は、まさに、ここを根源にしているのではないだろうか。
 ←±1の←の先には、いわば、太極・陰陽霊があるだろう。これは、普遍的にすべての宗教に共通するのではないだろうか。
 思うに、この死の欲動=宗教衝動=霊的衝動をコントロールする必要がある。そうでないと、まさに、破壊的にはたらくと思う。なぜなら、これは、地上で目的が見つからないからである。破滅的衝動となるだろう。
 作家、芸術家が破滅的になる傾向があるのは、この欲動があるからと考えられる。
 一般の人は、⇒±1の自我的生命欲衝動で生きているのであり、←±1の形而上学的衝動を抑えていると思う。
 問題は、←±1の衝動と→±1の衝動のバランスをとることである。言い換えると、精神と身体のバランスをとることである。
 最後に現代の破壊の衝動であるが、これは、⇒−1の父権的自我の衝動とみる。
 しかしながら、発出しだした、根源回帰衝動を否定しているので、反動状態になっているのである。この反動が凶暴(狂暴)性をもたらしていると考えられる。
 父権的自我の反動的暴力衝動である。それが、銭葬夜の破壊主義と考えられる。


 どうも、それは間違いである。「地上で目的が見つからない」というのは間違いである。
 実は、二重不連続化(一次・二次的不連続化)によって、陰凹iと+1が分離することによって、地上における他者が見つかるからである。一次的不連続化では、他者が自己生命欲と未分化で、いわば、利己的になるのである。盲目なのである。
 しかし、二次的不連続化を経ることで、地上の他者が生じるのであり、いわば、理性が生じるのである。地上の他者との共生が生じるのである。
 思うに、そのとき、陽凸iの「自我」であるが、それは、いわば、共我ないし共自我というべきものではないだろうか。他者とともにある自我であるからである。
 今はここで留める。

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こころは森林、樹木と氣によって共振・共鳴・共感している
こころは森林、樹木と氣によって共振・共鳴・共感している

テーマ:復活の森:森へ還れ:グリーンマン森共同体

東洋哲学は、端的に、氣の哲学である。
 これを、明治維新の脱亜入欧は否定した。戦後はさらに輪をかけた。
 確かに、唯物科学からすれば、氣とは迷信・迷妄に過ぎない。
しかし、しょせん、唯物科学も仮説である。絶対ではありえない。
 不思議であるが、どうして、西洋の作家・芸術家は、氣を説かなかったのか。想像力を説いたが、氣は説かなかった。
 ところで、想像力であるが、それは、像在力というのが的確と思うのである。像在力、これは、夢のイメージ力でもある。
 今日、知性中心主義であるが、それは、この点が欠陥であるのである。像在力を欠落した知性は、単に、抽象的知性に過ぎない。像在力をもって具象的知性になるのである。そして、これが、真の哲学的知性だと思うのである。そう、芸術的知性とも言える。哲学的知性は芸術的知性と一体ではないだろうか。
 後で、精緻に検討したい。

追記:キーポイントを言わなかった。想像力は像在力とすべきであると述べたが、像在力の本体は氣であると考えるのである。いわば、氣像力でもある。
想像力=像在力=氣像力
という図式になる。




日本宗教革命:超越神としての神々

テーマ:日本復活の新福音:吉祥、朗報、吉報

私が西洋の宗教に接して、もっとも驚いたのは、その神が超越神であるということである。一神教ということより驚愕した。
 私はそれまで、内在的に宗教を理解してきた。
 しかし、端的に、西洋の神は超越神なのである。あるいは、一神教の神は超越神なのである。
 超越という観念が日本人にはおそらくピントこないだろう。
 超越とは自我の理解を超えるということである。これは、実は、他者の観念に通じるように思われるのである。
 内在観念では、連続的になり、自我を介した他者理解になると思う。
 もっとも、内在観念であるが、不連続的差異論を介すると、そこには、不連続的他者(差異)があるのである。
 この不連続的他者であるが、これは、実は超越性に通じていると思うのである。何故なら、自我とは関与しないからである。純粋他者である。つまり、超越的他者である。
 キリストの隣人もこの超越的他者と言えよう。

追記:超越的他者とは、コスモスと感じられたのである。
 それは、氣的宇宙ということである。
 しかしながら、今では、それが静まって、個的肚になっている。
 そう、地上的コスモスになったのである。外的他者との共在性になっているのである。
 では、コスモス感性はどこに行ったのであろうか。
 もう、かなり長い間、コスモス感性は失せているのである。
 思うに、外在的コスモス感性が消えて、今や、内在的コスモスとしての内在且つ外在的他者になっているように思う。
 コスモス感性は多様な個々の世界の知覚へと変容したように思うのである。





死の欲動は過剰自我の破壊的衝動?:金儲け主義には魔が取り憑く

テーマ:放射能汚染と闘う知恵:光合成細菌、乳酸菌

人間は言わば、自我の動物である。自我は、他の生物にはないだろう。
 そう、自我の動物というよりは、自我が発達し過ぎた動物である。
 仏教は自我を否定したが、否定できるものではない。(因みに、キリストの教えは、無私の愛ではない。自我を肯定した、共感的精神、生命的精神である。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたし
を信じる者はだれも、決して 死ぬことはない。
このことを信じるか。』マルタは言った。
『はい、主よ、あなたが世に来ら れるはずの神の子、
メシアであるとわたしは信じております。』
(ヨハネ福音書11:17-27)
ヨハネ福音書から・・・・ラザロの死と復活 - nifty )
 自我が過剰になると、憎しみ、憎悪、嫉妬、怨恨、悪意、殺意、等の破壊・攻撃的衝動が生まれると思う。
 戦争の原因は、端的に、この自我過剰性にあると思う。父権的自我がそのような性向をもつのである。悪魔的自我である。
 とまれ、今日のゾロアスター教的黙示録的状況において、知恵をもって切り抜けないといけない。
 とまれ、原発主義は、自我過剰主義に因るのであり、生命破壊的である。そう、死の欲動に取り憑かれているということではないだろうか。
 なにか。今の日本は、死の欲動に捉えられ、自壊自滅へと向っているようだ。

追記:陰陽方程式凹i*凸i⇒±1、または凹i*凸i⇔±1であるが、死の欲動は、⇒−1なのか、それとも、⇔±1の←の方向なのか。
 父権的自我は⇒−1で説明がつくだろう。では、←±1とは何か。それは、根源への回帰の志向である。
 ⇒±1は、フロイト的に言えば、エロスの衝動であろう。セクシュアリティの衝動であろう。生命欲である。
 しかし、⇒−1の自我欲があるので、⇒±1は、自我的生命欲である。
 問題は、やはり、←±1の←のベクトルの意味である。
 どうも、これこそ、死の欲動ではないだろうか。⇒−1は自我欲であり、確かに破壊的であるが、必ずしも、死の欲動ではないだろう。
 わかりやすくするため、破壊の欲動を⇒−1とし、死の欲動を←±1としよう。
 思うに、死の欲動とは宗教衝動ではないだろうか。根源の太極・陰陽へと回帰する衝動のように思われる。
 プラトンのエロースもそういうものではないだろうか。
 いわゆる、霊や精神というものも、ここに存するのではないだろうか。例えば、バッハの音楽は、まさに、ここを根源にしているのではないだろうか。
 ←±1の←の先には、いわば、太極・陰陽霊があるだろう。これは、普遍的にすべての宗教に共通するのではないだろうか。
 思うに、この死の欲動=宗教衝動=霊的衝動をコントロールする必要がある。そうでないと、まさに、破壊的にはたらくと思う。なぜなら、これは、地上で目的が見つからないからである。破滅的衝動となるだろう。
 作家、芸術家が破滅的になる傾向があるのは、この欲動があるからと考えられる。
 一般の人は、⇒±1の自我的生命欲衝動で生きているのであり、←±1の形而上学的衝動を抑えていると思う。
 問題は、←±1の衝動と→±1の衝動のバランスをとることである。言い換えると、精神と身体のバランスをとることである。
 最後に現代の破壊の衝動であるが、これは、⇒−1の父権的自我の衝動とみる。
 しかしながら、発出しだした、根源回帰衝動を否定しているので、反動状態になっているのである。この反動が凶暴(狂暴)性をもたらしていると考えられる。
 父権的自我の反動的暴力衝動である。それが、銭葬夜の破壊主義と考えられる。


◆2014/10/22(木) 木下は 消されて当然!と 得意顔



問題は…、何の挨拶もなく、ブログの全てが、突然、削除された!ということ。これは、まこと、尋常なことではない!

ところが木下黄太は、「ブログをやめたのは当然の成り行き…」とかと、まことに冷酷な口調なのだ。
ためしに、木下黄太のこの冷酷な文章 を読んでみて下さい。

「東京から脱出しろ! 」 と叫ぶだけで、本心は反原発系が憎い!という木下黄太の本性(読売のウラパシリ)が見えてくるから…。

さらに…、
「反原発系のブログなど消えて当然!」といった木下黄太の物言いに、「反原発系のブログなどは消してしまえ!」という読売的な殺意を感じる人もいるだろう。

同時に…、
反体制的な言論を冷酷に封殺し謀殺する警察官憲の足音も…。
にっぽんよ おまえは いったい どこまで いくんだい?


飯山一郎のHP

1.「悪霊」ドストエフスキー
www.geocities.jp/gaimutorisimariyaku/bun1.htm


* キャッシュ
* 類似ページ

そして、それは悪霊たちがたくさんの豚(マルコ伝では二千匹と言われる)にそれぞれ
入っていったという記述からもみてとれる。 ... 悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、
イエスはお許しになった。33)悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚
の ...


ご注意あれ!「自然死の尊厳を守る」とは、マネーのための意図的な戦争・疫病は排除だが、放射能・電磁波・食品汚染での人口減は黙認のようです。

こんにちは。名古屋・大阪では、人類史の構造変換が始まったことを話しました。

FRBに戦争屋がいて、そこが、意図的な戦争や疫病で人口減を引き起こしながら、これまでの金融資産を維持するやり方に対し、17万トンの金塊を管理する側(王族会議)が、ノーをつきつけ、方向転換させましたが、

重要なことは、その王族会議や華僑系グループ自身も、個人としては、米ドル建てでの金融資産を持っていること。 この資産を活かして、平和で快適な世界を作ろうとしていることです。

ここには、二つ大きな意味があります。  

 @米ドル建ての金融資産があるということは、米ドルをミスミス無価値することはないということ。 

 A平和で快適な世界といった場合、犯罪に関して厳しい管理社会になることと、人口減を歓迎するということ。
新井信介 「京の風」




あたらしい日の国へ向けて:New Dawn

テーマ:日水湖宮(ひみこく);新国名:水瓶座時代

今年は、私にとって試練の年であると述べたが、苦境から脱出しつつあると感じる。運気も向上している。
 陰陽論を知っていると、悪いことも、良いことに転ずることの理解ができる。経験的には、それはわかるのである。悪⇒善である。
 陰陽論は基本的に他者に寛容である。では、悪に対してはどうかというと、勿論、悪は批判するが、実は、悪には、そのパラドクシカルな役割があると思う。
 ユダヤ教文化は、今日では悪であるが、それは、物質・軍事科学をもたらしたのである。ネットもコンピュータも、それがなければ、存在しなかったであろう。
 悪を批判しつつも、肯定できること、これは、達人の精神である。そう、これは、端的に、キリストの教えである。
 しかしながら、今日、日本人の内在的悪は極まっている。とりわけ、権力層である。
 今日、多極化路線がメインストリームであり、日和見主義の日本権力層はそちらに赴くだろう。千争邪を裏切るだろう。
 いい加減な日本父権主義は、多極化路線へ移行するだろう。





Wed, October 22, 2014
「歩く」とは「在るく」?:森氣浴清掃散策のせいか快腸快便だ

テーマ:健康&治癒:森気浴:医食同源:小食菜食

今や、散策にベストシーズンである。
 昨日も、夕方であるが、数時間過した。蚊がいないのは、実に幸いである。
 散歩は1時間ほどした。やはり、歩くことが大事である。今の考えでは、散歩とは、身体の揺動である。これは、陰陽共振をもたらすのではないだろうか。陰陽共振とは正に、生命エネルギーの賦活と考えられるのである。
 じっとしていることは、陰陽共振が生じないので、陰気になるのである。
 そう、音楽が生命的なのは、律動・リズムという陰陽共振があるからだろう。
 そう、昨日思ったのは、聴覚は闇である。視覚は当然、光の世界である。現実においては、視覚優位である。しかし、聴覚は音楽は視覚、光より深いと言えよう。
 私は視聴覚人間であるが、どちらが強いだろうか。
 私は音楽人間であるが、意外に、視覚人間である。見た目で、人間を判断するのである。
 思うに、音楽は植物的であろう。視覚は動物的ではないだろうか。
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Wed, October 22, 2014
「死の衝動」とは何か:フロイトの「死の欲動」(「死の本能」)

テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌

PS陰陽論は、生命の理論(仮説:もっとも、すべての理論は仮説である)であるが、どうしても、「死の衝動」というべきものがあるように思う。
 確かに、生への志向があれば、死への志向があるのは、バランスから正当である。
 これは、陰陽方程式凹i*凸i⇔±1における←の方向ではないだろうか。つまり、凹i*凸i←±1ではないだろうか。
 凹i*凸i⇒±1が生の方程式なら、凹i*凸i←±1は死の方程式ではないだろうか。
 ならば、死の方程式の力学はどう説明できるのだろうか。
 直観では、作用反作用の力学で説明できそうである。
生の方程式が作用なら、死の方程式は反作用である。
 しかしである。生の志向自体が、天への志向ならば、それは、同時に、死への志向ではないだろうか。つまり、生即死である。
 あるいは、光即闇である。
 太陽即暗い太陽である。
 私は若いとき、真夏の海岸で体験した太陽は、暗い太陽である。陽光は闇である。
 言い換えると、生への欲動と死への欲動が同時に生起するのではないだろうか。
 生きるとは死ぬことではないだろうか。
 セックスは、一種の死であろう。ニルバーナへの回帰だろう。
 とまれ、方程式に戻ると、作用反作用では、生と死は均衡が取れていて、それだけでは、生への欲動が死への欲動より強いことが説明できないだろう。
 思うに、陰陽において、陰の方が陽より強いのではないだろうか。そうならば、生への欲動が死への欲動よりも強いことが説明できるのである。つまり、陰>陽である。
 そうならば、ダークマターが多いというのの説明できよう。
陽=原光より、陰=原闇が強いということである。
 陰陽論は当然、そういう含みがある。
 初めに、玄牝ありきである。
 後で、より哲学的に深めたい。
 

1.
デストルドー - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/デストルドー


* キャッシュ
* 類似ページ
患者はしばしば「死にたい」という言葉を発するが、「死の本能」でなく「死の欲動」と訳す
ことにより、「死にたい気持ちに駆られる」と言わしめるもの、フロイトが「生の欲動」「死の
欲動」の二元論で説明しようとしたものは臨床現場で頻繁に聞かれる「死にたい気持ち」
...
2.
死の本能 とは - コトバンク
kotobank.jp/word/死の本能


* キャッシュ
* 類似ページ
世界大百科事典 第2版 死の本能の用語解説 - S.フロイトの用語。正確には〈死の衝動〉
ないし〈死の欲動〉。フロイトの本能論は,本能の内容は理論的展開とともに変わってい
ったが,つねに二つのものを対立させる二元論である点は変わらなかった。〈死の本能〉
...

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2014年10月13日(Mon)▲ページの先頭へ
二つの西側:賤民資本主義的西側と社会的資本主義の西側
二つの西側:賤民資本主義的西側と社会的資本主義の西側

テーマ:賤民資本主義と共同体的資本主義

千争邪に支配された西側と社会的資本主義的西側があると言えよう。二重構造である。当然、米国もそうであるが、前者が優勢的である。
 ノーベル賞を宣伝に使う「西側」は正に、賤民(パーリア)資本主義である。自分たちの利益さえ守り、かつ、拡大できれば、他者は利用するための手段に過ぎないのである。冷酷な利己主義である。
 ダブルスタンダードである。イデオロギーと利益を使い分けているのである。
 とまれ、賤民資本主義は、父権主義であり、専制・独裁主義であり、自己利益のためには、なんでもする「悪魔」、鬼である。
 とまれ、そこにあるのは、自我欲望主義である。利己のため、他者は道具、奴隷に過ぎないのである。つまり、封建主義である。
 さて、この見せ掛けと実体の二重構造=ダブルスタンダードであるが、これは、こころの欠落した父権主義的自我の所産と言えよう。これは、自分が生きるため、他者を利用し、破滅させるか、それとも、自分が死ぬかの発想である。妥協はないのである。「死ぬのは奴らだ」である。
 これは、哲学的には、二項対立原理である。(ポスト・モダンはこれを批判したが、現実的には無力である。)
 それに対して、母権主義とは、対極性原理、陰陽原理である。
 それは、他者との共立を志向するのである。
 宗教的に言うと、ユダヤ教的民族主義に対して、キリスト教は、母権主義をもたらしたのである。しかし、結局、ユダヤ教的父権主義がキリスト教を支配してきたのが、西洋文明の歴史である。
 とまれ、父権主義=賤民資本主義の「西側」の欺瞞・偽善性に気付かないといけない。
 ただし、社会的資本主義の「西側」は忘れるべきではない。
 そう、こういうことである。社会的資本主義の作ってきた、民主主義や自由主義を賤民資本主義はイデオロギー、見せ掛けとして、利用しているのである。
 端的に言えば、言葉のもつ、いわば、魔術を利用して、賤民資本主義は、他者を利用するのである。
 そう、言葉は、単に、形式的容物に過ぎず、その形式は空虚なのである。しかし、その空虚な形式が、言葉の受容者に、魔術的に実体を想起させるのである。言葉の幻惑力、幻想力が作動するのである。
 とまれ、言葉は魔法・魔術である。あるいは、言葉はペテン、詐欺である。
 政治家はそれを知っている。愚民が引っかかるのである。
 さらに言えば、騙されるその他の理由は、他者を信じていることである。騙さないだろうと思っていると、言葉のマジックに引っかかるのである。
 今日の文明は父権文明であり、騙しの文明である。賤民資本主義の文明である。
 しかし、言葉がマジックにしろ、賤民資本主義が気付かない現実があるのである。それは、お金、資本である。賤民資本主義は拝金主義であり、お金が富を産むと思っているのである。
 これが、最大の誤謬である。お金は言葉と同じである。空虚な形式である。形式は形式を産むに過ぎない。
 言葉の魔術を利用するが、お金の魔術に騙されているのが、賤民資本主義である。


参照:

「ノーベル賞に西側支配層の宣伝機関としての役割があることは否定できない。学問分野の評価もそうだが、醜悪なのは平和賞。」(櫻井ジャーナル) (10/12)

詐欺師ほど耳ざわりの良い美しい言葉をつかう。
その美しい言葉を簡単に信じてしまい、ケロッと騙される…。これが一般的な日本人の傾向だ。

「核の平和利用」、「ノーベル平和賞」から、「秘伝の乳酸菌!(わずか8000円!)」まで、まったく疑いもせずにコロリ、コロリと騙され続けてきた日本人…。

ま、下の文章と、本文をよ〜〜く読んで、目からウロコを落として、少しは賢くなりましょう!
(だっけど、ココ(『文殊菩薩』)は賢いヒトしか読まないからな〜 www)

「ノーベル賞に西側支配層の宣伝機関としての役割があることは否定できない。学問分野の評価もそうだが、醜悪なのは平和賞。」
(飯山一郎)

『文殊菩薩』


参考:
『古代ユダヤ教』M.ウェーバー(2) - きおくのきろく

『古代ユダヤ教』
マックス・ウェーバー
岩波文庫

●対内・対外道徳の二元主義

 隣人愛は古代ユダヤ教でもあったが、それはどうもすべての隣人ではなく、同じ宗派仲間を意味していたらしい。

隣人とは常に民族共同体員であるか、宗派的仲間なのである。このことは、「(隣人を)自分のように愛すべきだ」という心情倫理的説教においてもあてはまる。説教の道徳的内容は「兄弟」のみにかぎられていた。

では、宗派仲間以外の他者についてはどうなるのか。そこに、共同体の境における対内・対外道徳の二重化が発生する。たとえば、「兄弟」からは利子をむさぼってはならないが、それ以外の他者からの利子は許容されるとか。ここが、いわゆる「ブロテスタンティズム」の経済倫理と決定的に相違したことをウェーバーは強調する。

プロテスタントのピューリタニズムにとっても、同じ宗派仲間ではない者はやはり「神なき者」であることにかわりはないのだが、それに対して、どのような態度をとったかというと、

彼らはまさに「神なき者」との経済交渉において、ごまかしたり、だましたりするかわりに、合法的で正直で公明であった。彼らは固定価格の制度を遂行し、たとえ子供が買い物に来てもやはり公正価格で公正な商品を常に手渡した。預金もクレジットも彼らにおいてはまさに一般的な「信用」が出来たこと、だからこそ「神なき者たち」の多数が彼らの商業金庫や実業家の顧客となった。要するに、宗教的に制約された、優越せる経済的エートスをもっていたおかげで、「正直は最上の政略」という原則に従って、神なき者たちとの競争に勝った、ということである。

こうしたことはアメリカ合衆国においては、つい2、30年前までは中産階級の現実のエートスとしてそのまま体験することができたものなのである。

それに対して

ユダヤ教の場合は、これと相違した。経済的対外関係の倫理的合理化へと導く救済論的な動機づけが欠如していたからである。

ユダヤ人たちが特に通暁したのは、貨幣高利貸しや商業とならんで、国家・掠奪資本主義であり、これこそピューリタニズムが徹底的に嫌悪したものである。

ウェーバーはユダヤ民族が「客人民族」であったことを強調する。「客人民族」とは現地における部外者民族という意味で、ディアスポラ以降、国を失った彼らの置かれた必然的な状況なのである。

ブロテスタンティズムの「世俗内的禁欲」は、自己修養・自己鍛錬・向上心、傲慢をひかえ謙虚に前向きに努力するような自己に対する態度と、勤勉・節約・蓄財を美徳とする経済倫理的生活態度(エートス)を生み出した。また自らの職業に対する研鑽の努力と献身は、職業を神からの「召命」としてとらえる独特の職業倫理から来たものである。つまり現世内で一定の職業を持ち、研鑽し、力量を高めることは、救済への確証を得る手段であった。

隣人の定義が自らのうちわだけの隣人ではなく、まさにおのれ以外のすべての他者を意味するように普遍化された時、万人に対して平等に通用する公正さこそ、神との契約を履行するものであるという宗教的信条をもつにいたったのである。このような経済倫理は法律で定められない以前は、ただ人々の生活習慣や個人的信条に基づくほかはないのであり、それは宗教の教えによって根本的に規定された。

「時は金なり」というフランクリンの言葉は、資本主義だからそのような精神が出てきたのではなく、上記のようなプロテスタンティズムが生み出した独特の職業倫理・労働倫理から来ているものなのである。つまり、彼らはカネのために働いたのではなく、働くことは信仰に基づく救済論的な意味合いをもつ行為だったのであり、勤勉であることは、救済の確証を得るための前提条件だったのである。そしてのこような宗教的倫理観念に基づいて、職業・労働の尊さや、勤勉であること、浪費しないこと、カネをためることが美徳とされるようになった。逆に、働かないこと、浪費することは悪ということになるだろう。

この美徳観念は現代でもわずかながら残っているように思える。しかしながら、もはや一般的に通用しているとは言い難いだろう。それは根本的には救済論的な動機づけがなくなったからである。つまり存在を主導的に導く理念と、それを信じつづけながら、それに従いつつ生きるという生活態度がなくなったからである。その救済論的な理念こそ、「人間」という名の共同体の理念であり、それを確信的にもつことが現世的な倫理観念を決定的に規定するのである。

プロテスタンティズムの倫理は実際資本主義の精神を生み出すきっかけになったであろうが、いつしか世俗内的禁欲の、経済的に合理的なエートスは、その宗教的な、倫理的に強固な地盤を失い、物質主義的な欲望の体系の資本主義的精神となっていった。
世俗内的禁欲における自己修養は自己を”武器にする”ことにかわり、向上心は常に資本主義的な”評価”を求める心に、謙虚に前向きに努力する態度はあくなき闘争心にかわって、この経済社会においてはむしろそれのほうが適合的なのである。確かにこのような精神は、われわれがそこで生き抜いていかなければならない資本主義経済社会によって規定されている精神である。

勤勉はたしかに美徳ではあるが、倫理的内発性によるものではなく、逆に勤勉でなければ生きていけないという、せっぱ詰まった外的・強制的な事情になっている。
経済的に合理的な生活態度は、生存のための必然性であり、欲求を満たす手段である。かつて神に忠実であろうとすることに地盤をもっていた合理的な経済的生活態度=エートスは、今では、資本に忠実であろうとするところの”賃金奴隷のエートス”と呼ばれるようになったのである。

ウェーバーが強調するのは、経済社会は人間にとって外から規定するような外的・強迫的なものではなく、むしろ人間が日常生活においてすでに実践しているところの、日々の経済的生活慣習によって規定される、そういう側面も必ずあるということである。そして、経済的生活慣習を主導する人間の価値観や倫理観念は、過去においては、宗教の強大な影響があった、ということである。

この宗教が倫理観念を通して規定する人間の生活態度や慣習・価値観が、その共同体の経済を合理化に導くか否かは、当の宗教自体にかかっている。

要するに、ユダヤ人たちがもっとも長い期間住んでいたオリエント、南ヨーロッパや東ヨーロッパ地域においては、古代・中世・近世において、特殊な傾向をおびた近代資本主義というものは発展しなかったのである。

西洋の発展におけるユダヤ人の関与は、本質的に彼らの「客人民族」としての特徴に基づくものであった。そしてこれは、ユダヤ人が自らの意志でおこなった遮断が、ユダヤ人自身に刻印づけた地位なのである。

ヤハウェは万人に理解可能な言葉を語り、また在来宗教につきものの「魔術的」な要素を排除していった点で、まことに理性的な神であった。しかし、のちのキリスト教と、そのまた宗教改革以後のキリスト教がもたらしたような経済的な観点での合理主義的な生活態度を、ユダヤ人たちが持たなかったのは、対内・対外道徳の二元主義にもとづくという。このダブルスタンタードが、共同体の境を越え、国境を越え、文明の違いを越えて万人に通用する行動基準や生活態度を生み出さなかった。それはユダヤ人自身がみずからの「純潔」を守るためにとった「遮断」が行き着いた先であり、彼ら自身が決断したことの結果であって、近代資本主義を最高の価値原理として前提しないならば、この決断は彼らにとってやはり合理的だったのかもしれない。

近代合理主義的な資本主義の「資本の論理」は、あらゆる民族・宗教・また思想・信条の壁を越えて貫徹する。
その意味でまことに合理的である。ただし、資本の論理においては、人間は労働力商品という商品として生き残るほかはないのである。そして商品として生き残るというのは、つまりは売れる商品でなければダメ、ということなのだが…。しかしそれも、資本主義的に見て、まことに合理的なことなのである。

このような状況において、「遮断」は神との契約を遵守する上で合理的な態度であったと思われる。むしろ、富を蓄えることによって、それが何らかの「救済」に結びつくものと発想することのほうが、宗教的に異質な感覚ではないだろうか。経済生活と信仰生活を切り離す態度のほうが、純宗教的に見える。だが、それは社会学的な立場からいうと非現実的なのだが。

人間の営みという観点において、宗教的な精神生活と物質的な経済生活をウェーバーは切り離さなかった。むしろ、経済生活にどれだけ宗教的な価値観が作用するかに重点をおいている。経済的な観点における合理的な生活態度は、自己に対しても他者に対しても平等に適用しえる態度、つまり「公正さ」を倫理観念にまで高めた。それは古代ユダヤ教において準備され、キリスト教、就中プロテスタンティズムによって、普遍的な倫理的価値に高められたのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/leic523/35325084.html




日本の狂気は明治維新から始まり、戦争で亡国し、今日、狂気が昂じて、再び、亡国へ向かう

テーマ:総て出鱈目日本の元凶ヤハウェ父権自我悪魔

先に次のように書いた。

日本の狂気は、主語・主体なき日本語+農耕民族集団主義+父権民族に拠るだろう


この三つの中で、最大の原因は、三つ目の父権民族だろう。

 今は、簡単に指摘するが、明治維新までは、ベースの母権民族と上層の父権民族のなんらかの均衡があり、それが、伝統日本文化社会を形成してきた。

 しかし、そして、ベースの母権民族は神仏習合をもっていただろうし、母権民族と父権民族は、他者として、東洋文化をもっていた。決して、偏狭なナショナリズムはもっていなかったのである。

 しかし、国学の勃興とともに、尊皇攘夷が生じて、それが、父権民族と結びつき、明治維新を為すのである。

ここで、母権民族とその神仏習合文化と脱亜入欧で伝統を形成していた東洋文化が排除され、偏狭な夜郎自大なナショナリズムと官僚制国家主義が起ったのである。

 それによって、日本支配層は他者なき、傲慢・厚顔・妄想・独善・独断・無責任主義主義に陥ったのである。これが、日本似非近代の狂気であり、それが、今日に帰結しているのである。

 そう、確かに、主語・主体なき日本語や農耕民族の集団主義がそれに寄与しているのは、否定できないが、やはり、主因は、父権民族中心主義である。





シュタイナーの生命霊学とPS陰陽論の共通点:光と重力の対立は⇒+1と⇒−1の対立で表示できよう

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11937952715.html

テーマ:霊学:シュタイナー精神学


以下、シュタイナーのエーテル(氣)的生命学はPS陰陽論ととても共通することがわかり、いささか驚いている。
 後で、説明したい。

●第6講(本文)

きょうはまず初めに、植物形成のプロセスそのものを、その宇宙的連関のなかに置いて皆さんにお見せすることから始めたいと思います。私たちが見てまいりましたように、人間においては、植物生成プロセスにおいて開示されているのとは逆のプロセスが、いわば機能的に働いています。従いまして、人間に対する植物界の直接の関係を見出すためには、この植物生成プロセスを少なくとも暗示的にここでご覧に入れておかなくてはなりません。皆さんが植物をご覧になると、植物はその形成プロセスにおいて、明らかに対立する二つの傾向を持っていることがおわかりでしょう。一方は地球に向かいます。そして昨日すでに暗示しましたように、いわば樹のような植物においては、その幹のなかに地球がいわばまくりあげられていて、そのため樹の場合、花は、ふつう草のような植物や下等な植物が地球に根付くように、その葉とともに幹に根付いているのです。

 さて、一面においては、植物の地球へ向かう傾向へと私たちの注意が向けられます。けれども、他面において植物は地球から離れようとしているのです。植物は、単に地球の引力に対抗する機械的な力によって地球から離れようとしているのみではなく、その形成プロセス全体、それも内的な形成プロセスにおいて、地球から離れようとしているのです。花において起こっている経過は、根において起こっている経過よりもずっと、地上を越えたもの、地球外のものに依存していることでしょう。そしてこのように、花の形成が、本来地上的でない諸力に依存しているということを、私たちはまず見ておかなければならないのです。なぜなら、花ー種子形成プロセスを花の外部に導いていくために、植物によって用いられる諸力、他ならぬこのプロセスが、皆さんに先日の講演で暗示しました、人間における機能的に逆転した植物プロセスのために必要になる、ということがおわかりにになるでしょうから。この、人間における逆転した植物プロセスは、人間の下腹部において、排泄、分泌、そして性(セクシュアリティ)の根本にも関係するすべてのものにおいて、見出すことのできるものなのです。このように、私たちが人間と植物のこういう関係を探し出すときこそ、植物の地球上のプロセスと同様地球外的なプロセスもまた、個別的に示されるのです。



☆第6講(解説)


シュタイナー「精神科学と医学」 - Bekkoame


原文:


Da möchte ich heute zunächst davon ausgehen, Ihnen den Pflanzenbildungsprozeß als solchen in seinem kosmischen Zusammenhange hinzustellen. Wir haben ja darauf aufmerksam gemacht, wie im Menschen gewisser-maßen funktionell der umgekehrte Prozeß tätig ist, der sich im Pflanzenwerdeprozeß offenbart. Es ist daher notwendig, um die direkte Beziehung der Pflanzenwelt zum Menschen zu finden, diesen Pflanzenwerdeprozeß wenigstens andeutungsweise hier vorzuführen. Wenn Sie die Pflanze sich ansehen, so werden Sie finden, daß sie ganz entschieden zwei entgegengesetzte Tendenzen in ihrem ganzen Bildeprozeß hat. Die eine geht nach der Erde hin. Und ich habe ja schon gestern angedeutet, daß gewissermaßen bei den baurnartigen Pflanzen in dem Stamm die Erde gewissermaßen aufgestülpt ist, so daß die Blüten beim Baum mit den dazugehörigen Blättern im Stamm so wurzeln, wie sonst die bloß krautartigen Pflanzen oder gar die niederen Pflanzen in der Erde wurzeln.
Nun werden wir da hingewiesen auf der einen Seite zu der Ten­denz der Pflanzen nach der Erde. Aber auf der anderen Seite strebt die Pflanze von der Erde weg. Sie strebt nicht nur von der Erde weg wie durch eine mechanische Kraft, die sich der Anziehungskraft
#SE312-118
der Erde entgegensetzt, sondern sie strebt von der Erde in ihrem ganzen, auch inneren Bildungsprozeß weg. Die Vorgänge in der Blüte werden andere als die Vorgänge in der Wurzel. Die Vor­gänge in der Blüte werden viel abhängiger von dem Außerirdischen, von dem Außertellurischen als die Vorgänge in der Wurzel. Und auf diese Abhängigkeit der Blütenbildung von den nicht eigentlich irdischen Kräften müssen wir zunächst hinsehen. Denn wir werden finden, daß dieselben Kräfte, die von der Pflanze gebraucht werden, um den Blüten- und Samenbildungsprozeß außen in der Blüte ein­zuleiten, daß dieselben Prozesse notwendig werden wegen der Ihnen in den vorhergehenden Vorträgen angedeuteten funktionellen Um­kehrung des Pflanzenprozesses im Menschen, im menschlichen Unterleibe und in all dem, was die Entleerungen, die Absonderun­gen und auch was die Grundlage der Sexualität betrifft, zu finden sind. So werden wir gerade, wenn wir diese Beziehung des Men­schen zur Pflanze aufsuchen, auch im einzelnen auf den außer­tellurischen Prozeß der Pflanze ebensogut verwiesen wie auf den tel lurischen.


6 SECHSTER VORTRAG Dornach, 26. März 1920


Freie Verwaltung des Nachlasses von Rudolf Steiner


参考:
新しい陰陽方程式:−1⇦凹i*凸i⇨+1:⇦は陽⇒陰を、⇨は陰⇒陽を意味する

テーマ:PS陰陽論:ガウス平面と陰陽論の統合

「つまり、陽が陰に対して、同一性化すると、−1となり、これが、重力ではないかと思う。それに対して、陰が陽に対して、共振調和すると、浮力になるということではないだろうか。これは、樹木や弦巻植物の上昇力を意味するのではないだろうか。」
四大(地水火風)と四つの象限の対応仮説:陽⇒陰が重力−1を、陰⇒陽が浮力+1を生む (09/01)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-2126.html

以上のように述べたが、陽主導と陰主導の場合を分けて陰陽方程式を表記した方がいいだろう。
 だから、次のようになる。

−1⇦凹i*凸i⇨+1

⇦は陽⇒陰を、⇨は陰⇒陽を意味する。−1は重力を+1は浮力を意味する。だから、+1が天であり、−1が地である。つまり、この新しい陰陽方程式は天地方程式でもある。あるいは、地球方程式でもある。また、生命方程式でもあった。即ち、

陰陽方程式=生命方程式=天地方程式=地球方程式

である。

追記:天地方程式は以下の通りである。

−1(地)⇦凹i*凸i⇨+1(天)

追記2:重力(−1)、浮力(+1)を入れると次になる。また、原子核と電子も入れる。また、樹木の生命性を入れる。

−1(重力・地・原子核・根)⇦凹i*凸i⇨+1(浮力・天・電子・幹枝葉)



http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11918235366.html


追記:以下の四大(地水火風)配置は、シュタイナーの説明を使えば、変更される。

なお、マックで作図したので、ウィンドウズでは、ずれてしまう。マックのある方は、マックで見られたい。



               陽凸i 虚軸
                      |
     U:火          |        T:風
                      |
                      |
                      |
−1_____MP_____+1 実軸
                      |
                      |
     V:地          |        W:水
                      |
                      |
                     陰凹i

           陰陽ガウス平面(象限付き)



                ⇩

                ⇩

                ⇩



                陽凸i・風 虚軸
                         |
           U            |         T
                         |
                         |
                         |
−1・地_____MP_____+1・火 実軸
                         |
                         |
          V:           |        W
                         |
                         |
                     陰凹i・水

             陰陽ガウス平面(象限付き)

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2014年10月08日(Wed)▲ページの先頭へ
「初めに、太極⇔陰陽ありき」:ロゴスは言葉というより、太極=陰陽とすべきだろう
「初めに、太極⇔陰陽ありき」:ロゴスは言葉というより、太極=陰陽とすべきだろう

テーマ:ニュー・イースタンの時代:新東洋の時代

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)/平凡社

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最近は、あちこち、本を小食ならぬ、小読しているが、ハイデガーの『形而上学入門』は面白い。主著の『存在と時間』より、本質に迫っていると思うが、そこで、ロゴスについて述べているが、実に、興味深い(まだ、かじっている段階だが)。
 それは、論理や言葉というものではなく、陰陽論の太極⇔陰陽(対極)と類似していると思う。
 思うに、ハイデガー哲学は、東洋哲学に似ているのである。存在とは、氣に通じるのである。
 思うに、20世紀欧州哲学は、東洋哲学へと志向しているのである。
 そう、文学=哲学者のD.H.ロレンスであるが、彼の思考も、東洋哲学的である。
 しかし、彼は、西洋の個人主義を取り入れた陰陽論を説いている。それは、新東洋哲学である。
 近現代西洋とは実は、内部に東洋を包摂しているのである。
 しかし、明治維新は脱亜入欧を唱え、まったく勘違いしたのである。阿呆である。
 
マルチン・ハイデッガー『ロゴス』解説
www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/logos.html


* キャッシュ
* 類似ページ

しかし、ハイデッガーはロゴスの動詞形のレゲイン(λέγειν)を、ドイツ語のlegen、つまり〈
下に=そして前におくこと:nieder und vorlegen〉に結び付けて考える。ギリシャ語と
ドイツ語とでは系統がちがうのだが、この二つの語は単なる偶然の音の一致ではなく、 ... 

追記:ヨハネの福音書の有名な冒頭は、本来、ギリシア語で書かれ、「初めにロゴスありき」である。
 これをほとんど「初めに言葉ありき」と訳している。
 しかし、これを「初めに太極⇔陰陽ありき」とすると、聖書が東洋化して、活きてくるだろう。
 思うに、神が太一(たいいつ)であり、ロゴスが太極⇔陰陽である。
 〈エン アルケー エーン ホ タイジ⇔インヤン〉

ヨハネによる福音書 序文
ヨハネによる福音書 1:1-2
1_01
 「はじめ・に」、ギリシャ語で「エン・アルケー」という始まりの2つの言葉は、70人訳聖書の創世記1章1節の冒頭の言葉と全く一緒です。新約聖書中の"en"というギリシャ語前置詞は、ヘブライ語の"be"という多様な意味を持つ前置詞の置き換えである事が多いのですが、この場合は正に典型的な例です。単に時間的な「始めに」という意味だけでなく、創世記のように「始まりはこうであった」という、理由付けの意味も含まれていると考えて良いと思います。
 続く「言葉があった。」と、訳される部分の動詞は、未完了形ですから、「在る」という状態が現在まで線的に続いていて、しかもそれが将来に向かって続いている状態を指します。日本語に訳せば、「世の初まりに言葉があり、それは今もあり、これからも。」というニュアンスに近く、昔の一回切りの出来事では無かったことを示しています。
 これに続く、接続詞"kai"によって繋がれている2つの部分にも全く同じ動詞(eimi)の未完了形"en"が用いられています。1つ目の文節は「(その)言葉は(世の初まりに)神と共にあり、それは今でもそうであり、これからも」と解釈できます。2つ目の文節はギリシャ語のbe動詞"eimi"をヘブライ語の"haya"(存在する)と考えて、「神は(世の初まりに)言葉として存在し、それは今でもそうであり、これからも」と捉えることができます。そのように考える理由は、2節の「それ(言葉)は最初に神と共に在り、それは今でもそうであり、これからも」という、存在と深い関わりがあると思うからです。”YHWH”(ヤーヴェ)という主なる神の名は "HYH"(ハーヤー)という、「存在する」あるいは「有る」という動詞に由来するのは周知の事実です。
 2節は、1節で言っていることを纏めて言い表したものです。別な表現をすれば、これが冒頭の主題と言えるのです。1節は音楽で言えば前奏で、2節に曲の本当の始まりがあるようなものに感じられます。



[ヨハネによる福音書]第1章(POSSIBLE訳聖書) - 疲れた心に強い翼を!

ウェストコットとホートの「ギリシャ語本文」
(possible版行間逐語訳)


possible訳聖書

1 en(中に,〜の内に,〜に,〜によって,〜の手段により) archee(支配に,支配者に,はじめに,最初に,原始に,本源に) een(彼は存在していた,生存していた,〜であった,いた,い続けていた,あり続けていた) ho(その) logos((思想,意志の表現としての)言葉,発言,話,説明,神のみ言葉,ロゴス,計算), kai(そして) ho(その) logos((思想,意志の表現としての)言葉,発言,話,説明,神のみ言葉,ロゴス,計算) een(彼は存在していた,生存していた,〜であった,いた,い続けていた,あり続けていた) pros(〜に向かって,〜の方へ,〜に対して,〜と行き来して,〜と常に接触して,〜と密なる交わりの中に,〜と向き合って,〜と一緒に,〜と共に) ton(その) theon(神を), kai(そして,こうして) theos(神(「無冠詞」の神で,「性質」や「性格」を強調)) een(彼は存在していた,生存していた,〜であった,いた,い続けていた,あり続けていた) ho(その) logos((思想,意志の表現としての)言葉,発言,話,説明,神のみ言葉,ロゴス,計算).
 (エン アルケー(イ) エーン ホ ロゴス, カイ ホ ロゴス エーン プロス トン セオン, カイ セオス エーン ホ ロゴス。)

1 本源(根源)の内に,《その》言葉は〈ずっと〉存在し“続け”ていた。また,《その》言葉は,《その》神と〈向き合い,常に[神と]接触し〉交流し[ながら]存在し“続け”ていた。こうして《その》言葉は,神〈としての性質〉[を持ち],〈ずっと〉存在し“続け”ていた。
2 houtos(この人,この者,この男) een(彼は存在していた,生存していた,〜であった,いた,い続けていた,あり続けていた) en(中に,〜の内に,〜に,〜によって,〜の手段により) archee(支配に,支配者に,はじめに,最初に,原始に,本源に) pros(〜に向かって,〜の方へ,〜に対して,〜と行き来して,〜と常に接触して,〜と密なる交わりの中に,〜と向き合って,〜と一緒に,〜と共に) ton(その) theon(神を).
 (フートス エーン エン アルケー(イ) プロス トン セオン。)




乳酸菌複合有機体的養蜂革命:飯山一郎氏の超執念の結晶:乳酸菌のパワーとは何ぞ哉

テーマ:放射能大洪水飯山一郎新方舟:乳酸菌日光浴

飯山養蜂革命である。画期的というか、自然人類進化的である。
 結局、ミツバチもさるものの、主導的役割は乳酸菌である。
 直観では、乳酸菌は、生命現象が起きるときの、負の部分を抑制して、正の部分を活性化させるように思える。
 生命とは陰陽調和パワーである。しかし、陰陽調和を阻害する要因が生命活動に生まれるのである。それは病気を生むのである。
 陰陽調和を阻害する要因とは、やはり、直観では、有機体を破壊する無機物化である。あるいは、純粋物質化である。つまり、反有機体的現象が生じるのである。(思うに、ガン細胞もそのようなものではないだろうか。)
 これは、PS陰陽論では、陽化なのである。あるいは、陽極大化なのである。そう、陰陽は陰が主導する陰陽調和と陽が主導する陽陰物質化があると考えられる。
 この陽主導物質化の増加を乳酸菌は防ぐのではないだろうか。
 人間で言えば、腸内細菌の活性化である。
 つまり、正の部分を積極的に賦活するはたらきをもっているということではないだろうか。
 以前触れたがと思うが、例えば、酸性化を防ぎ、アルカリ化するのである。
 別の視点で言えば、エントロピーの増加を防ぐのである。
 生命活動は反エントロピー的であるが、実際には、物質現象的には、エントロピーが拡大するのであり、その支配を乳酸菌は防ぐように思う。
 やはり、以前、示唆したように、乳酸菌は氣エネルギーをもっているのであり、それを反有機体的物質化に対抗して、氣エネルギーを物質に与えて、陰陽調和振動を付与するのではないだろうか。
 今は、思いつきのみ。
 

◆ 2014/10/07(火)  世界中で蜜蜂が減っているのに…
あふれんばかりの蜜蜂!
溢れんばかりの蜂
蜜蜂が激減している というのに、我が庭の巣箱では日本蜜蜂が激増!

先ず、乳酸菌の大量散布のお陰で、病気にならない! 長生きする! スムシに食われない!

次に、植物の成長点から抽出した成長ホルモンのお陰で、蜜蜂の成長が早く、蜂の数も増える。

あと、ミード(洋バチの蜂蜜をアルコール発酵させてつくった蜂蜜酒)のお陰で、女王バチの産卵能力や産卵数が激増する。

さらに、あらびき茶 のカフェインのお陰で、蜜蜂たちが張り切って遠方まで元気よく飛ぶようになる。
「お陰様! お陰様! m(__)m」と、飼い主(飯山一郎)が感謝の心(人徳)で接しているので、蜂たちも張り切って、子づくり、子育てに精をだすようになる。
乳酸菌を巣箱に運ぶ蜜蜂たち
巣箱に乳酸菌を運ぶため
ミードや、あらびき茶 や、乳酸菌や、成長ホルモンや、誘引剤(花の芽の抽出液)などを混ぜた秘液を 小皿に入れる…。

すると…、
蜂たちが大量に集まってきて、秘液を吸い、秘液の成分(乳酸菌など)を足に付けて、巣箱(うしろに見える木の箱)に運ぶ…。

あとは…、
乳酸菌が自動的に巣箱のなかで増えていって他の蜜蜂たちにも伝染して、巣箱全体が元気になる!
もちろん、成長ホルモンが「催淫剤」に変化して、女王バチや育児バチが子づくり、子育てに精を出すようになる!と。
「養豚」とは、ようするに、ブタの数を増やすことだ。
「養蜂」も、「養蜂」と言うからには、ハチの数を増やすべきだ。

今までの「養蜂」は、ハチの数を増やすのは成り行きまかせだった。

ところが!
飯山一郎サンの「養蜂」は、積極的、爆発的にハチの数を増やす!

すごいっしょ?!

「もし、ミツバチがこの地球上から消え去ったならば、人間社会は4年後には崩壊してしまうで あろう…」
こう↑言ったのは誰だっけ?

ともかく、いま、何としても! 蜜蜂は増やさねばならん。

だっから、鷲は、いま、連日連夜、日本蜜蜂を増やすための工夫の日々を送っている。あらびき茶 をガブ飲みしながら…(爆)

それから…、
お陰様で、あらびき茶の販売代理店の数が200店になりました!

あらびき茶の販売は、健康(免疫力)と、幸せ(「緑茶って、こんなに美味いんだぁ。幸せ!」)をお客様にお届けする仕事です!
なお一層のご健闘を期待します!>販売代理店の皆様

飯山一郎のHP



陰陽方程式凹i*凸i⇒±1に於いて、シュタイナーの天の力は⇒+1で、地の力は⇒−1ではないか

テーマ:霊学:シュタイナー精神学

以前、述べたと思うが、シュタイナーの説く、天の力と地の力の相互作用であるが、それは、PS陰陽論から見ると、前者は⇒+1、後者は⇒−1ではないだろうか。
 陰陽調和が天の力であり、陽主導の陰陽作用が地の力ではないだろうか。
 ガウス平面で言えば、実軸+1が天であり、実軸−1が地となるだろう。



                     凸i虚軸
                      |
                      |
                      |
                      |
                      |
        地 −1______MP_____+1 実軸  天
                      |
                      |
                      |
                      |
                      |
                      凹i
 

 ところで、原点のMPは、南方熊楠の説く萃点(すいてん)と共通するのではないだろうか。

南方曼荼羅 - 日本語と日本文化 - 東京を描く


この図は、民俗学者の間で「南方曼荼羅」と呼ばれているものである。この奇妙な図を南方熊楠は、土宜法龍宛明治36年7 月18日付書簡の中で描いて見せた。この書簡の中で熊楠は、例の通り春画やらセックスやらとりとめのない話題に寄り道をした挙句に突然仏教の話に入るのであるが、この図はその仏教的世界観(熊楠流の真言蜜教的な世界観)を開陳したものとして提示されたのであった。

・・・

たとえば図の(イ)という点では、多くの線が交叉している。熊楠はこれを萃点(すいてん)と呼んだ。萃点は多くの事理が重なる点だから、我々の目につきやすい。それに対して(ハ)の点は二つの事理が交わるところだから、萃点ほど目立たぬが、それでも目にはつきやすい。(ロ)の点は(チ)、(リ)二点の解明を待って、その意義が初めて明らかになる。(ヌ)はほかの線から離れていて、その限りで人間の推理が及び難いが、それでも(オ)と(ワ)の二点でかろうじて他の線に接しているところから、まったく手掛かりがないわけではない。だが(ル)に至っては、ほかの線から完全に孤立している。したがって既に解明済みの事柄から推論によって到達するということが困難なわけである。

http://japanese.hix05.com/Minakata/minakata105.mandara.html

日本語と日本文化


追記:以上の図はイが見にくいので、以下に別の画像を張り付ける。




南方熊楠の曼荼羅論
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/asu/23.html


シュタイナー「精神科学と医学」 - Bekkoame

●第18講(本文)

もう一度地球を覆っている植物の面に、すなわち地球の植生に属するものの総体を観察してごらんなさい。地面から宇宙空間に向かって成長しているこの地球の植生全体は、単に地面からこの宇宙空間に向かって成長しているのみならず、ある力により引っ張られていること、つまり、もうお聞きになったとは思いますが、この植生のいたるところでは、地球から植物の内部へと作用する諸力とまったく同様に、植物の成長の一部となっている力が作用している、ということについて、私たち ははっきりと理解しておかなくてはなりません。地球から植物のなかに作用する諸力と、地球外の宇宙から植物へと作用を及ぼす諸力との間には、絶え間ない相互作用が成立しているのです。さて、このような作用、私たちの周囲に実際常に存在しているはずのこの作用はどこにあるのでしょう。宇宙から作用を及ぼして きている諸力が完全に現われることになれば、つまり、宇宙からの力が完全に植物を捉えることができたとしたら、諸惑星がこれらの諸力をまた後退させ、完全に植物を包んでしまわないように配慮しないとしたら、植物は、茎から花と種子へと成長していく際、常に動物になってしまう傾向を持つことになるでしょう。 動物化の傾向が存在するわけです。植物においては、このように宇宙から作用してくるものに対抗して、他方で地球の方から、植物存在を抑え、植物存在の内部で鉱物化させようとする傾向が作用します。

 つまり、注意していただきたいことは、植物存在とは本来、塩化する傾向、つまり植物実質のなかに鉱物を沈殿させ、鉱物化する傾向と、炎症を起こす傾向、つまり動物化する傾向との間で、中庸を保っているのだということです。これは外的自然のなかに常に存在していることです。

 けれども、今皆さんに述べましたことは、人間の生体組織そのもののなかにも、内化され、中心化されて常に存在しているのです。人間の生体組織は、肺というものを持つことによって、ほんものの小さな地球なのです、そして植物の組織においては、まさに地球から発して植物の生体組織のなかに入り込んでく る力が地球から上に向かって作用していますが、それとちょうど同じように、肺から作用するものはすべて、人間の生体組織においては下に向かって作用します。呼吸と心臓の働きを通じて内的な肺の新陳代謝その他に対抗するものはすべて、この宇宙的なもののように外に向かって作用するのです(図参照)。







 さて、人間の生体組織には不可欠のことがあります。生体組織から最終的に心臓の働きのなかに集約されるものはすべて、肺の内的な新陳代謝のなかに最終的に集約されて組織されるものからは、隔てられていなければならない、ということが不可欠なのです。これら二つの活動、これらは、両者の間にいわ ばーーこういう表現を用いてよろしければーーエーテル的な横隔膜[Zwerchfell]あるいはアストラル的な横隔膜がある、という状態以外では互いに 作用してはならないのです。この二つの活動は互いに隔てられていなければなりません。そうすると、こういう問いを投げかけざるをえません、こういう横隔膜ーーこの言葉を使うのは、イメージとして暗示したいからですーーというものが本当に存在しているのか、頭、のど、肺の活動が、外的な呼吸によるのとは別 のしかたで腹部および胸の活動と混ざり合うのを防いでいる、そのような横隔膜が存在するのか、と。ーーこういう横隔膜は存在します、そしてこれは外的な呼吸のリズムそのものなのです。ここで皆さんは、上部人間と下部人間を相互に調律することに至ります。人間における律動的活動と呼ばれるもの、呼吸のリズム のなかに外的、物理的に現われているこのリズミカルな震動、この物理的な震動が、エーテル活動、アストラル活動にまで継続され、まだ肺のなかへと集約されている上部人間の地の力と、心臓のなかにその現われが見られ、宇宙において周辺から地球の中心へと作用するように下から上へと作用する下部人間の天の力と をお互いに引き離しておくのです。

●「精神科学と医学}(GA312)翻訳紹介(yucca訳) *17講訳修正 (2013.2.14.登録)
 PDFデータ medizi.pdf  *新しく横書きで再編集しています。

日本語訳が少しわかりにくいので、以下原文をあげる。

ACHTZEHNTER VORTRAG Dornach, 7. April 1920

Betrachten Sie noch einmal die die Erde bedeckende Pflanzen-fläche, das heißt die Summe alles dessen, was zur Vegetation der Erde gehört. Wir müssen uns klar sein darüber, daß diese ganze Vegetation der Erde, wie sie von der Erde aus dem Weltenraum entgegenwächst, nicht bloß aus der Erde heraus diesem Welten-raum entgegengeschickt wird, sondern daß sie hinausgezogen wird durch Kräfte, daß also, wie wir ja schon gehört haben, überall hier Kräfte wirken, welche zum Pflanzenwachstum genau ebenso ge­hören wie die Kräfte, die von der Erde aus in die Pflanze hinein-wirken. Es ist eine fortwährende Wechselwirkung zwischen den Kräften, die von der Erde aus in die Pflanze hineinwirken, und zwischen den Kräften, die aus dem außerirdischen Kosmos auf die Pflanze wirken. Nun, worinnen besteht diese Wirkungsweise, die ja eigentlich in unserer Umgebung fortwährend vorhanden ist? Würde es dazu kommen, daß diese Kräfte, die da aus dem Kosmos hereinwirken, voll zum Ausdruck kommen, daß sie also ganz die Pflanze ergreifen könnten, würden nicht die Planeten dafür sorgen, daß sich diese Kräfte auch wiederum zurückziehen können, daß sie also nicht voll die Pflanze umfassen, so würde die Pflanze, wenn sie vom Stengel aus der Blüte und dem Samen entgegenwächst, immer die Tendenz haben, zum Tiere zu werden. Es ist die Tendenz vorhanden der Tierwerdung. Das, was da aus dem Kosmos herein-wirkt, dem wirkt auf der anderen Seite wiederum entgegen aus der
#SE312-330
Erde herein bei der Pflanze die Tendenz, das Pflanzensein zu unter­drücken und innerhalb des Pflanzenseins sich zu mineralisieren.
Also ich mache darauf aufmerksam, daß eigentlich das Pflanzen-sein die Mitte hält zwischen dem Hinneigen zum Versalzen, zum Ablagern von Mineralien in der Pflanzensubstanz, zum Minerali­sieren und zum Sichentzünden, zum Tierwerden. Das ist etwas, was fortwährend vorhanden ist in der äußeren Natur.
Dies aber, was ich Ihnen jetzt beschrieben habe, ist auch fort­während vorhanden verinnerlicht, zentralisiert in dem mensch­lichen Organismus selber. Der menschliche Organismus ist dadurch, daß er eine Lunge hat, eine richtige kleine Erde, und alles das­jenige, was von der Lunge aus wirkt, wirkt geradeso im mensch­lichen Organismus nach unten, wie von der Erde aus in den Pflan­zenorganismus nach oben die Kräfte hineinwirken, die eben von der Erde aus in den Pflanzenorganismus hineingehen. Und alles dasjenige, was durch die Atmung und Herztätigkeit dem inneren Lungenstoffwechsel und so weiter entgegenkommt, das wirkt so wie dieses Kosmische draußen (siehe Zeichnung Seite 330).
#Bild s. 330
Nun besteht eine Notwendigkeit im menschlichen Organismus. Es besteht die Notwendigkeit, daß alles dasjenige, was sich zuletzt
#SE312-331
konzentriett vom Organismus aus in der Herztätigkeit, ferngehal­ten wird dem, was sich organisiert, sich zuletzt konzentrierend in dem inneren Stoffwechsel der Lunge. Diese zwei Tätigkeiten, die dürfen nicht anders aufeinander wirken, als daß zwischen ihnen gewissermaßen - wenn ich mich des Ausdrucks leedienen darf -ein ätherisches Zwerchfell ist oder ein astralisches Zwerchfell. Diese beiden Tätigkeiten müssen auseinandergehalten werden. Und wir müssen die Frage aufwerfen: Ist dieses Zwerchfell - ich ge­brauche das Wort nur, um ein Bild anzudeuten - wirklich vor­handen? Gibt es ein solches Zwerchfell, welches abhält die Kopf-, Hals-, Lungentätigkeit, sich zu vermischen mit der Bauch- und Brusttätigkeit anders als durch den äußeren Atmungsrhythmus? -Dieses Zwerchfell gibt es, und es ist der äußere Atmungsrhythmus selber. Und da kommen Sie auf die Ineinanderstimmung des oberen und des unteren Menschen. Dasjenige, das man rhythmische Tätig­keit im Menschen nennt, dieses rhythmische Erzittern, welches sich äußerlich physisch ausdrückt im Atmungsrhythmus, dieses phy­sische Erzittern setzt sich bis in die Äther- und Astraltätigkeit hin­ein fort und hält die Erdenkräfte des oberen Menschen, die noch in die Lunge hinein sich konzentrieren, und die Himmelskräfte des unteren Menschen auseinander, die durch die Tätigkeit, die im Herzen dann ihren Ausdruck findet, von unten nach oben wirken, so wie sie im Kosmos von der Peripherie nach dem Zentrum der Erde hin wirken.

GA 312 Geisteswissenschaft und Medizin ( 22 Beiträge )

Freie Verwaltung des Nachlasses von Rudolf Steiner

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