INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2014/02

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2014年02月25日(Tue)▲ページの先頭へ
二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質
二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

今は一言(ではなかった)。
 身体(生命身体であり、死体ではない:生気身体、氣的身体)を考えると、それは、氣のエネルギー様態ではないかと思う。
アリステレス哲学のエネルゲイア(活動態:現実態と訳されるが、それは、混乱させる)に当たるだろう。(アリストテレス哲学の用語については以下を参照されたい。アリストテレス『魂について』 - つじこの 、アリストテレスの自然哲学 - 知の快楽 - 東京を描く )
 そして、デュナミス(潜在態)は氣自体、つまり、一(いつ)の氣と陰陽極性氣に相当するのではないだろうか。
 否、微妙である。デュナミスとはいわばポテンシャル・エネルギーであるから、一の氣だけにした方がいいように思えるが。
 思うに、一の氣と陰陽氣に分けて、後者をイデアにした方がいいようだ。そして、一の氣は前イデア(プレ・イデア)としての根源界である。太一界である。(それは、太極とは異なる。太極を私は陰陽未分化の混沌【カオス】と見ている。)
 だから、デュナミス(プレ・イデア⇒イデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(終局態:つまり、結果であるから、物質)である。
 これに伝統的な霊学の用語を適用すると、霊がプレ・イデア(太一界)で、魂がイデアで、身体がエネルゲイアで、物質がエンテレケイアではないだろうか。ここで要注意は、霊学の伝統の三元論(霊⇒魂⇒身体)ではなく、四元論を新たに導入していることである。
 そう、身体と物質の区別があえて言えば、画期的である。
 シュタイナー霊学の医療に関しての批判もここの視点に拠るものとなるだろう。
 私は健康法において、氣だけでなく、身体も重要であるというのは、シュタイナー霊学の霊主体従の視点からは出てこないのである。そう、体(身体)と物質を同じものとシュタイナーは見ているのである。
 そうではないのである。身体とは生命のある有機体であり、物質とは、死せる身体、生命のない有機体ないし無機物である。
 ここで、氣の視点から見ると、直感する氣とは、魂であり、イデア(観念・理念)となるだろう。それは、身体化されるのであるが、それは、氣の感覚におい てはほんの一部は感ずるが、実際はブラック・ボックスである。その身体をエネルゲイアと呼ぶのであり、それは、氣のエネルギー体と呼べよう。そう、身体と は、エネルゲイアであり、氣のエネルギー体であり、それは、一部は感覚できるが、大部分はブラックボックスということになる。
 そう、例えば、音楽を聴いて、溌剌とした氣分(氣感)になるが、それは、イデアの活動状態のエネルゲイアと呼べるだろうが、それは、魂ではなく、身体様態ということになるだろう。あるいは、氣のエネルギー様態である。造語すれば、イデネルゲイア(イデネルギー)である。
 そのように考えると、イデア、魂とは、思考するときは、エネルゲイアの様態、身体の様態になるということになるだろうが、それでいいのか。これは、微妙 な問題である。私は思考はイデア、魂と思っていたが、しかしながら、思考は活動するものであるから、当然、エネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体になる のである。いや、それでいいと思う。思考観念自体はイデア、魂であるが、進行中の思考はエネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体と見ていいと思う。ここ で、概念思考と観念・理念思考の違いが考えられる。前者は、陽自我中心であり、陰陽調和に拠らないので、一面的であり、頭脳中心である。それに対して、観 念・理念思考、つまり、イデア思考、魂思考とは、陰陽調和に関わるので、生命的であると言えるのである。そう、ここで、哲学的思考と唯物的思考の根本的差 異があると言えよう。あるいは、芸術的思考と形式的思考の違いが。【そう見ると、哲学的思考と芸術的思考は同質的であるのがわかる。ただ、前者は言葉を表 現媒体とするのに対して、後者は形態を表現媒体にするということだろう。もっとも、言語も形態とすれば、同じであるが。】
 整理すると、四種類の表記による図式ができる。即ち、

1)霊⇒魂⇒身体⇒物質(霊学の三元論を四元論に改変)

2)デュナミス(プレ・イデア⇒イデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(アリストテレス哲学とプラトン哲学を結合)

3)一の氣(太一氣)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質

4)霊氣⇒魂氣⇒身体氣⇒物質

である。
 画期的と思われるのは、繰り返すが、身体と物質を区別したことである。また、イデア以前にプレ・イデア、いわば、ゼロのイデアを仮説したことである。ま た、イデア(魂、陰陽氣)を静態と見て、思考様態をエネルゲイア、身体、氣のエネルギー身体と見たことである。三つの独創があるのである。
 今はここで留める。後で補足したい。

追記:私が氣だけでなく、身体が重要という のは、上図式から、唯氣論の視点で整合的に言い直すことができる。即ち、身体とは、氣のエネルギー様態(エネルゲイア、身体氣)なのであり、静態的な氣の 動態である身体が重要というのは、生命論理的に当然である。そう、静態的である氣自体は、前生命的、形而上学的であり、身体はその生命的形而下的様態であ り、端的に、氣の生命なのである。氣自体は前生命であり、生命自体ではないのであるから、身体が重要というのはあまりに当然である。
 そう、シュタイナー霊学の誤りは、ここにあるだろう。霊的視点で、身体を物質体として見ているのであり、氣の現象体としての身体、氣のエネルギー様態としての身体と捉えていないのである。そう、エーテル体を生命として捉えているが、それは正しくない。エーテル体は前生命体であり、まだ、生命自体ではないのである。言うならば、エーテル体がエネルギー様態となって生命体としての身体になるのである。
 
追記2:理論名称であるが、無双太極PS陰陽論を改める必要がある。太極は外さないといけない。無双PS陰陽論か、太極太一PS陰陽論である。とまれ、無双も太極も外して、単に、PS陰陽論とすれば、暫定的にはいい。

追記3:エネルゲイアは現実態と一般に訳されているが、確かに、身体は現実態である。私は活動態と訳しているが、実動態という訳もいいだろう。

追記4:私のアリストテレス哲学の解釈は独自のものである。質料と形相の問題をいわば、パスしている。
 今一言言えば、形相はイデアに当たるだろう。質料であるが、アリストテレス哲学では、形相と質料の二元論になっているが、PS陰陽論では、イデア(陰陽氣)から、次元転換によって、エネルギー化して、生命身体(生命有機体)となるのである。
 だから、質料とは、次元転換によって、発生生成するものと見るのである。

参考:

アリストテレスの形而上学:質料と形相 - 知の快楽 - 東京を描く

追記5:アリストテレスのエンテレケイア(完全実現態)であるが、それを私は物質にしているが、それは、いわば誤読、あるいは、曲解である。
 エンテレケイアは素直に捉えれば、成長し、頂点に達した生命体である。人間ならば、成人である。
 素直に言えば、陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇔±1から言えば、⇔±1がエンテレケイアである。しかし、±1を私はエンテレケイアにしている。
 そして、私はこれまで、エネルゲイアを⇔±1としたが、⇔だけをエネルゲイアと見ることができるかもしれない。
 そうすると、アリストテレスの用語と齟齬がなくなる。後で、さらに検討したい。







作業仮説:イデアである陰陽氣を陰陽子と見て、それが前生命原子ではないのか

テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌

直観では、陰陽氣は陰陽子のイメージであり、そう、卵のようなイメージなのである。種子でもあるが、イメージは卵である。あるいは、卵子である。
 卵、卵子としての陰陽子をイメージすると、それは、前生命の「アトム」ではないかと思われるのである。だから、陰陽子は、前生命原子と呼べるように思うのである。
 思うに、物質科学での原子はこの前生命原子を物質的に還元したものではないだろうか。つまり、前生命原子の前生命の陰陽を取ってしまったものである。つまり、高次元(内在超越次元:内超次元)としての陰陽次元が欠落しているということになる。
 言い換えると、前生命原子の死物としての原子ということになるのである。生命体を形成する前生命原子としての陰陽子と生命体の死物から生まれる原子とは まったく異なるのである。ついでに言えば、原子力とは、この死物の力学から生まれるものであり、生命体の力学からではない。
 とまれ、前生命原子としての陰陽子(陰陽氣)であるが、それは、イデアであるから、情報をもっている。陰陽情報である。(ここで、波動や振動という概念 を入れていいのだろうか。ここは、静態であるから、まだ、波動、振動はないだろう。前波動、前振動ならあるだろうが。返ってデザインの方があるのではない だろうか。空海なら、金剛界曼荼羅である。ピュタゴラスなら数、秘数、聖数である。これは検討問題にする。)
 今、イメージしたが、陰陽イデアは静態であるが静態自体において、動くのではないだろうか。エネルゲイア化以前の動きである。例えば、陰陽螺旋動がイデアにおいてあるのではないだろうか。いわば、陰陽円における形態的陰陽動である。それが、陰陽イデア情報である。
 そして、それが次元転換で、エネルゲイア化、生命エネルギー化するのではないだろうか。
 つまり、前生命原子=陰陽子は、陰陽イデア情報を常に変成していることになる。ならば、前生命原子=陰陽子とは、一つでいいのであり、元前生命原子、元陰陽子となる。簡単にすれば、元生命原子=元陰陽子=元卵(元種子)である。
 おそらく、これは、樹木に似ているように思うのである。というか、螺旋形態が折り込まれたものである。つまり、渦巻様態である。つまり、元生命渦巻子=元陰陽渦巻子である。
 今はここで留める。








検討問題:父権自我力学、自我同一性力学につい:陽自我と陰自我と陰陽調和と他者

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

後で検討したい。
 もう一つ。ヤハウェという唯一神であるが、それは、PS陰陽論から見ると、超越性は一の氣(太一)から来ている。そして、唯一性は当然、陽の極大である陽自我から来ていると思う。
 もっとも、一の氣であるから、そこから、唯一性が来ているとも言える。
 しかし、一の氣は多元化(多神教化)するのであるから、唯一性は、一の氣と陽自我の一体化から来ているのではないだろうか。
 そう、太一において、陰陽力学が陽に極大化する時点がある。そのとき、一の氣は、陽自我の同一性と結びつき、一の氣は超越的唯一性を帯びると思う。
 思うに、その場合の陽自我とは、モーセの陽自我であり、それに、一の氣がいわばモーセに憑依したのである。それが、一の氣が陽自我(父権自我)のモーセに「唯一神」として憑依したと推察されるのである。
 陽自我であるから、陰陽調和心における内在超越性としての一の氣は感受されないから、内在性がないために、絶対的に超越性となると考えられる。故に、唯一的超越神となると言える。これが「ヤハウェ」の正体ではないだろうか。
 後でさらに検討したい。

追記:一の氣がモーセに憑依したというのは、意義深いように思う。
 というのは、現在、異常な日本人、なにか悪霊が憑依したような日本人が急増しているのは、根源にある一の氣(太一)が、作動しているからのように思えるからである。
 内在的超越的根源である一の氣(太一)が存在するのであり、それを父権自我、陽自我は抑圧しているから、当然、反動的に、一の氣が狂気として逆襲すると力学的に考えられる。
 それは、超越的なので、父権自我/陽自我の概念を独善化するのである。それで、妄想・狂妄・妄言となるのである。近代主義の問題がここにある。
 人間の思考は本来、内在超越性である一の氣に支配されているのであるが、近代主義は、それを否定しているので、必然的に、その逆襲つまり、反動狂気を受 けるのである。つまり、狂気としての近代主義なのである。(思えば、以前、近代的自我とは狂気であると私は何度も述べたものである。)
 ということで、父権自我、陽自我、とりわけ、近代的父権自我、陽自我は、一の氣を抑圧しているので、その反動的逆襲を受けるのであり、狂気に必然的に陥ると言えるのである。今はここで留める。





作業仮説:イデアである陰陽氣を陰陽子と見て、それが前生命原子ではないのか

テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌

直観では、陰陽氣は陰陽子のイメージであり、そう、卵のようなイメージなのである。種子でもあるが、イメージは卵である。あるいは、卵子である。
 卵、卵子としての陰陽子をイメージすると、それは、前生命の「アトム」ではないかと思われるのである。だから、陰陽子は、前生命原子と呼べるように思うのである。
 思うに、物質科学での原子はこの前生命原子を物質的に還元したものではないだろうか。つまり、前生命原子の前生命の陰陽を取ってしまったものである。つまり、高次元(内在超越次元:内超次元)としての陰陽次元が欠落しているということになる。
 言い換えると、前生命原子の死物としての原子ということになるのである。生命体を形成する前生命原子としての陰陽子と生命体の死物から生まれる原子とは まったく異なるのである。ついでに言えば、原子力とは、この死物の力学から生まれるものであり、生命体の力学からではない。
 とまれ、前生命原子としての陰陽子(陰陽氣)であるが、それは、イデアであるから、情報をもっている。陰陽情報である。(ここで、波動や振動という概念 を入れていいのだろうか。ここは、静態であるから、まだ、波動、振動はないだろう。前波動、前振動ならあるだろうが。返ってデザインの方があるのではない だろうか。空海なら、金剛界曼荼羅である。ピュタゴラスなら数、秘数、聖数である。これは検討問題にする。)
 今、イメージしたが、陰陽イデアは静態であるが静態自体において、動くのではないだろうか。エネルゲイア化以前の動きである。例えば、陰陽螺旋動がイデアにおいてあるのではないだろうか。いわば、陰陽円における形態的陰陽動である。それが、陰陽イデア情報である。
 そして、それが次元転換で、エネルゲイア化、生命エネルギー化するのではないだろうか。
 つまり、前生命原子=陰陽子は、陰陽イデア情報を常に変成していることになる。ならば、前生命原子=陰陽子とは、一つでいいのであり、元前生命原子、元陰陽子となる。簡単にすれば、元生命原子=元陰陽子=元卵(元種子)である。
 おそらく、これは、樹木に似ているように思うのである。というか、螺旋形態が折り込まれたものである。つまり、渦巻様態である。つまり、元生命渦巻子=元陰陽渦巻子である。
 今はここで留める。









二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

今は一言(ではなかった)。
 身体(生命身体であり、死体ではない:生気身体、氣的身体)を考えると、それは、氣のエネルギー様態ではないかと思う。
アリステレス哲学のエネルゲイア(活動態:現実態と訳されるが、それは、混乱させる)に当たるだろう。(アリストテレス哲学の用語については以下を参照されたい。アリストテレス『魂について』 - つじこの 、アリストテレスの自然哲学 - 知の快楽 - 東京を描く )
 そして、デュナミス(潜在態)は氣自体、つまり、一(いつ)の氣と陰陽極性氣に相当するのではないだろうか。
 否、微妙である。デュナミスとはいわばポテンシャル・エネルギーであるから、一の氣だけにした方がいいように思えるが。
 思うに、一の氣と陰陽氣に分けて、後者をイデアにした方がいいようだ。そして、一の氣は前イデア(プレ・イデア)としての根源界である。太一界である。(それは、太極とは異なる。太極を私は陰陽未分化の混沌【カオス】と見ている。)
 だから、デュナミス(プレ・イデア⇒イデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(終局態:つまり、結果であるから、物質)である。
 これに伝統的な霊学の用語を適用すると、霊がプレ・イデア(太一界)で、魂がイデアで、身体がエネルゲイアで、物質がエンテレケイアではないだろうか。ここで要注意は、霊学の伝統の三元論(霊⇒魂⇒身体)ではなく、四元論を新たに導入していることである。
 そう、身体と物質の区別があえて言えば、画期的である。
 シュタイナー霊学の医療に関しての批判もここの視点に拠るものとなるだろう。
 私は健康法において、氣だけでなく、身体も重要であるというのは、シュタイナー霊学の霊主体従の視点からは出てこないのである。そう、体(身体)と物質を同じものとシュタイナーは見ているのである。
 そうではないのである。身体とは生命のある有機体であり、物質とは、死せる身体、生命のない有機体ないし無機物である。
 ここで、氣の視点から見ると、直感する氣とは、魂であり、イデア(観念・理念)となるだろう。それは、身体化されるのであるが、それは、氣の感覚におい てはほんの一部は感ずるが、実際はブラック・ボックスである。その身体をエネルゲイアと呼ぶのであり、それは、氣のエネルギー体と呼べよう。そう、身体と は、エネルゲイアであり、氣のエネルギー体であり、それは、一部は感覚できるが、大部分はブラックボックスということになる。
 そう、例えば、音楽を聴いて、溌剌とした氣分(氣感)になるが、それは、イデアの活動状態のエネルゲイアと呼べるだろうが、それは、魂ではなく、身体様態ということになるだろう。あるいは、氣のエネルギー様態である。造語すれば、イデネルゲイア(イデネルギー)である。
 そのように考えると、イデア、魂とは、思考するときは、エネルゲイアの様態、身体の様態になるということになるだろうが、それでいいのか。これは、微妙 な問題である。私は思考はイデア、魂と思っていたが、しかしながら、思考は活動するものであるから、当然、エネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体になる のである。いや、それでいいと思う。思考観念自体はイデア、魂であるが、進行中の思考はエネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体と見ていいと思う。ここ で、概念思考と観念・理念思考の違いが考えられる。前者は、陽自我中心であり、陰陽調和に拠らないので、一面的であり、頭脳中心である。それに対して、観 念・理念思考、つまり、イデア思考、魂思考とは、陰陽調和に関わるので、生命的であると言えるのである。そう、ここで、哲学的思考と唯物的思考の根本的差 異があると言えよう。あるいは、芸術的思考と形式的思考の違いが。【そう見ると、哲学的思考と芸術的思考は同質的であるのがわかる。ただ、前者は言葉を表 現媒体とするのに対して、後者は形態を表現媒体にするということだろう。もっとも、言語も形態とすれば、同じであるが。】
 整理すると、四種類の表記による図式ができる。即ち、

1)霊⇒魂⇒身体⇒物質(霊学の三元論を四元論に改変)

2)デュナミス(プレ・イデア⇒イデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(アリストテレス哲学とプラトン哲学を結合)

3)一の氣(太一氣)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質

4)霊氣⇒魂氣⇒身体氣⇒物質

である。
 画期的と思われるのは、繰り返すが、身体と物質を区別したことである。また、イデア以前にプレ・イデア、いわば、ゼロのイデアを仮説したことである。ま た、イデア(魂、陰陽氣)を静態と見て、思考様態をエネルゲイア、身体、氣のエネルギー身体と見たことである。三つの独創があるのである。
 今はここで留める。後で補足したい。

追記:私が氣だけでなく、身体が重要という のは、上図式から、唯氣論の視点で整合的に言い直すことができる。即ち、身体とは、氣のエネルギー様態(エネルゲイア、身体氣)なのであり、静態的な氣の 動態である身体が重要というのは、生命論理的に当然である。そう、静態的である氣自体は、前生命的、形而上学的であり、身体はその生命的形而下的様態であ り、端的に、氣の生命なのである。氣自体は前生命であり、生命自体ではないのであるから、身体が重要というのはあまりに当然である。
 そう、シュタイナー霊学の誤りは、ここにあるだろう。霊的視点で、身体を物質体として見ているのであり、氣の現象体としての身体、氣のエネルギー様態としての身体と捉えていないのである。そう、エーテル体を生命として捉えているが、それは正しくない。エーテル体は前生命体であり、まだ、生命自体ではないのである。言うならば、エーテル体がエネルギー様態となって生命体としての身体になるのである。
 
追記2:理論名称であるが、無双太極PS陰陽論を改める必要がある。太極は外さないといけない。無双PS陰陽論か、太極太一PS陰陽論である。とまれ、無双も太極も外して、単に、PS陰陽論とすれば、暫定的にはいい。

追記3:エネルゲイアは現実態と一般に訳されているが、確かに、身体は現実態である。私は活動態と訳しているが、実動態という訳もいいだろう。

追記4:私のアリストテレス哲学の解釈は独自のものである。質料と形相の問題をいわば、パスしている。
 今一言言えば、形相はイデアに当たるだろう。質料であるが、アリストテレス哲学では、形相と質料の二元論になっているが、PS陰陽論では、イデア(陰陽氣)から、次元転換によって、エネルギー化して、生命身体(生命有機体)となるのである。
 だから、質料とは、次元転換によって、発生生成するものと見るのである。

参考:

アリストテレスの形而上学:質料と形相 - 知の快楽 - 東京を描く

追記5:アリストテレスのエンテレケイア(完全実現態)であるが、それを私は物質にしているが、それは、いわば誤読、あるいは、曲解である。
 エンテレケイアは素直に捉えれば、成長し、頂点に達した生命体である。人間ならば、成人である。
 素直に言えば、陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇔±1から言えば、⇔±1がエンテレケイアである。しかし、±1を私はエンテレケイアにしている。
 そして、私はこれまで、エネルゲイアを⇔±1としたが、⇔だけをエネルゲイアと見ることができるかもしれない。
 そうすると、アリストテレスの用語と齟齬がなくなる。後で、さらに検討したい。



2014年02月23日(Sun)▲ページの先頭へ
視覚の問題:物質的視覚と氣的視覚:表情にある氣=精神の様態
リンク付きは、以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11780017495.html

視覚の問題:物質的視覚と氣的視覚:表情にある氣=精神の様態

テーマ:唯物科学から物質包摂の氣サイエンスへ

ポスト唯物論の認識革命のための、基礎的考察である。もっとも、この問題は長い間検討してきているが、今一つ決定打がないようだ。
 有り体に言えば、氣的視覚というものがあると私は考えているのであり、それは、通常の視覚とは異なるということである
 シュタイナーなら、霊的視覚(霊視)に一気に到達するのであろうが、私はそこまでは言わない。
 具体的に言いたい。例えば、顔の表情であるが、これは、明らかに、その人の心の状態が顔の皮膚に現われるということであり、心、精神が物質に出現するということである。
 私は心、精神を氣ないし氣的に見ているので、氣が顔に発現したと見るのである。
 つまり、表情において、人は、いわば、氣を見ていることになるのである。
 そう、氣の様態(心持ち)が顔の様子を形成するということである。
 正確に言えば、表情において、氣自体を見るというのではなく、氣の力が形成する現象を見るということである。言い換えると氣の現象力の表層を見るということである。
 氣本体ではなく、氣のいわば末端を見るということになる。
 しかしながら、一般には表情を氣の末端とは見ていない。単に、感情表現と見るに過ぎないのである。
 とまれ、人には、なんらかの精神・心(性格、気質、人格を含む)があり、それは氣的であると私は見ているのである。
 つまり、氣の精神・心があるのであり、それは、氣的感覚をもっている。しかしながら、一般には、末端の表情だけを捉えて、本体の氣的精神・心(氣精神、氣霊、氣魂)を捉えられないようである。
 この氣精神(氣霊、氣魂)であるが、これは、これまで述べてきた陰陽調和心と言っていいと考えられる。
 今日一般には(昔の日本人は、氣精神をもっていたが)、氣精神が自我によって抑圧されていて、感覚できなくなっていると思われる。
 とまれ、氣精神を涵養すると、というか、氣精神を大事にして、培育(造語:培うと育てる:そう、氣育、氣養と言えよう)すると、自然現象、あるいは、現象一般における氣の存在が感受されると思われるのである。いわば、感氣、観氣ができるようになると思われるのである。
 そこで、本題の視覚の問題に触れると、氣精神を涵養させると、視覚にもその影響が及ぶと考えられる。そうすると、通常の物質現象的視覚に氣的視覚が入ることになる。
 つまり、物質内包的氣的視覚が形成されると思われるのである。氣本体の世界(氣界、氣霊界、氣魂界)があり、その現われとしての現象界があるように視覚・直観されると思われるのである。
 ということで、氣的視覚とはありうるのであり、氣育、氣養が重要であると言える。何故なら、ここには、真善美のイデア(一の氣)に通じると考えられるからである。真理、道徳、精神美の三位一体に通じると考えられる。
 最後に一言、以前、超越光(超光)というものがある、ないし、見えると私は述べてきたが、今や、それを明快に解明できるのである。
 即ち、私は陽光を介して、超越光(超光)が視観できると何度も述べてきた。(思えば、最近、それを感じなくなってはいるが、それはおいておく。)
 上述から、氣精神(氣精身)の氣視覚によって、陽光、日光、太陽光の氣的本体を視覚するのであり、陽光の氣的本体が超越光(超光)であると言える。
 日光の氣は超越光(超光)として、氣視覚、氣直観されるということである。

参照:

*
日想観(じっそうかん)に先祖返りする飯山一郎役小角転生仙翁

・・・いが、結構できるものである。 ところで、飯山仙翁は、古代や中世あたりの日本人がやっていた日想観(じっそうかん)に先祖返りしていると言えよう。 日光は不可視の氣の「光」、超越光があると私は考える。当然、生命のスピリットである・・・[2013年10月02日]

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光・・・
*
・・・アの目には見えない光線は「気」、「気不可視光」、超越光のこ・・・

アナスタシアE 真実を知った女性が男性を変えるアナスタシアD 千里眼 私がここで見聞きしたことの中で、もっとも不思議で尋常ではないものに思えたのは、はるか遠い場所にいる1人の人間の状況を、見通すことができるアナスタシアの能力だっ・・・[2013年09月27日]

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光・・・
*
心の光と自我

・・・で、日光であるが、それは、陰陽球であると言ったが、外部は光子であり、内部が陰陽共鳴である。 心の光は太陽光線に、自身と同じ、心の光を見いだすように思われる。 私が以前、超越光と呼んだものは、この心の光(心光)だと思う。 そ・・・[2013年09月05日]

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光・・・
*
宗教の光とは何ぞ哉:太陽とは何か:暗黒太陽ダークサンが太陽神(お・・・

・・・、その表層の光・可視宇宙・可視太陽・物質現象しか見ていないのである。 しかし、この暗黒は実は、光を超えた光ではないのか。黒々とした「光」ではないのか。 私がかつて言った超越光、超光とは、それに通じるのではないのか。私は光に・・・[2013年04月24日]

resurrectionのブログ: Japonesian T・・・
*
不連続的陰陽イデア論:陰イデア∞陽イデアのメビウスの輪と太一イデ・・・

・・・ておく。 とまれ、明快に区別するため、陽イデア=光を陽光、陰イデア=闇を陰光と呼ぼう。 ならば、太一には「光」はないのか。私が以前、超光と呼んだものがそうではないのか。超越光とも呼んだ。そうしておこう。追記2:陽光、陰光で・・・[2013年04月14日]

resurrectionのブログ: Japonesian T・・・

*
太極⇒陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒螺旋生命物質体:生命物質現象の根源は・・・

・・・自己(自我)を包摂できるので、即非共振様態を帯びると考えられよう。 だから、気を感受感知するのは、肚を介した胸=心臓(MP)であると思われるのである。 気の光(気光)=超越光(超光)も、そこで、視覚できるように思う。これは・・・[2013年01月20日]

resurrectionのブログ: JaponAsia Gr・・・

*
光と闇:二つの光と二つの闇:電磁波の光と気の光、無光の闇と気の闇・・・

・・・ような認識上の問題があるために、上記した問題が根本的に生じると言えよう。 だから、言い直せば、光は光であって、光以上のものである、というようになろう。 光以上のものとは超越光、超光、気の超光、気光である。追記:感性という用・・・[2013年01月18日]

resurrectionのブログ: JaponAsia Gr・・・
*
螺旋回転の力学:陰陽円における第一半回転物質過程と反転時点と第二・・・

・・・サイクルの始点に近づいているということである。 闇はますます濃くなるが、同時に黎明、曙光、夜明けの光がますます感じられる時代・エポック・エァラと考えられる。 私見では、超越光、気の光、大光が見え出しつつあるのだ。 そう、新・・・[2012年12月26日]

resurrectionのブログ: JaponAsia Gr・・・
*
光は闇であり、闇は光である:「きれいはきたない、きたないはきれい・・・

・・・ンス・モダン=気(霊)論=多神教(女・母神)注:上の図式(無双陰陽図式とでも呼ぼう)の陽を陽(光)、陰を陰(闇)とした。 ただし、それほど単純ではない。実は太陽光には、超越光が存すると思う。そう、気の光、気光である。それは・・・[2012年12月22日]

resurrectionのブログ: JaponAsia Gr・・・


http://search.ameba.jp/search.html?q=%E8%B6%85%E8%B6%8A%E5%85%89&aid=neomanichaeism




セクシュアリティと性欲は異なる:陰陽調和の植物的性と男性中心的性欲

テーマ:セックス問題:太陰的女性性とジェンダー

今は一言。
 私はセクシーさが根本的、本質的に重要だと考えている。
しかし、それは、性欲自体とは異なるものである。
 そう、セクシュアリティ、本来のセクシュアリティとは、実は、陰陽調和心において発生する精神、精身体だと思う。
 男性は、陰陽調和心において、陽的、雄蕊的であり、女性は、それにおいて、陰的、雌蕊的である。
 つまり、植物的な性磁力(陰陽牽引力を仮に、磁性に喩える)が本来のセクシュアリティである。
 それに対して、性欲とは、男性に拠る女性支配的な(父権的な)、動物的欲望(獣欲)である。
 因みに、D.H.ロレンスの表現した性愛は、実は、この本来のセクシュアリティ、陰陽調和の植物的性磁力を、身体的に表現したものと考えられる。
 植物的陰陽調和のセクシュアリティにおいて、思うに、女性が主軸(雌蕊)になり、男性(雄蕊)は補完的になるように思う。もっとも、陰陽調和であるから、女性と男性は対極的関係にある。
 今はここで留める。






「反知性主義」とは、父権近代自我主義の帰結である:自我膨張し、自我妄念を他者(知性)に押しつける

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

もう少し説明したいが、今は一言。
 問題は言語概念知性と自我(陽自我)との結びつきが先ずある。例えば、ある対象は「山」であると認識する場合、それは、言語概念的知性(概念知性)である。
 この概念知性は自我(陽自我)と結びついている。だから、これを発達させていくと、自我(陽自我)が発達して、原初陰陽調和心が抑圧排除されていく。
 しかしながら、陰陽調和心にこそ、バランス知、自己と他者とのバランス知が存するのである。それは、理性と言っていいだろう。つまり、陰陽調和心とは理性である。
 さて、問題は発達した、概念知性と自我(陽自我)が支配するとき、もう一つの自我(陰自我)はどうなるのだろうか。
 これは、感情や欲望である。シュタイナーでいうと、アストラル体である。私は陽自我と陰自我が連続的同一性体を形成するという述べてきた。つまり、概念知性ー陽自我と感情・欲望ー陰自我が連続的同一性体を形成するのである。
 しかし、陽自我は、陰自我については無意識的である。陽自我は自我、ないし自己自身を尊大に肯定するのであり、隠れた感情・欲望ー陰自我を見つめる作業をしないのである。
 というか、感情・欲望ー陰自我と言語概念ー陽自我が融合したような状態であり、一種未分化的様態になっていると言っていいだろう。自我ないし自己は自分自身に盲目なのである。妄想状態とも言えよう。
 このような父権的自我が発達する以前は、まだ、陰陽調和心=理性があ り、自己と他者のバランスをもった知性があったが、それが発達し、陰陽調和心=理性が抑圧排除されると、父権自我において、知性は確かに、概念知性は増加 したが、それは、自我盲目の状態と一体化しているために、他者とのバランスのとれた理性状態における知性に対して、反感をもつのであり、反発するのであ る。
 これが、「反知性主義」と呼ばれるものの本質であると思われるのである。
 今はここで止める。

追記:補足すると、「発達した」父権自我は、陰陽調和心=理性=自他 バランス知性を否定しているのであり、それは、他者の否定を意味する。これは以前説明したが、陰陽調和心によって、陰我(凹i)が他者に変容するのであ り、この他者性が父権自我においては形成されないので、自我同一性に反する他者(知性)は否定されるのである。
 これが「発達した」父権自我の特徴の一つである「反知性主義」と言えよう。

追 記2:以上では、(言語)概念知性と陰陽調和心=理性=自他バランス知性の二つの知性があるが、「反知性主義」の「知性」は当然、後者である。理性的知性 である。前者は自我的知性ということになるが、実も妄念と区別がつかないので、それを知性と呼ぶのは問題がある。(近代的科学の問題はここにある。利己主 義が知性を支配して、知性を歪曲するのである。)
 そう、近代主義、近代合理主義とは、概念知性と唯物論と父権自我が一体となった主体に拠るものであり、必然的に、自我膨張し、妄念化するのである。科学的知性はそのような否定・暗黒面をもつのである。
 とまれ、概念知性であるが、それは知性ではなく、概念知ではないだろうか。つまり、言語概念知であり、それは、まだ、知性に達していない。科学的知が知性になるには、理性が必要である。理性において知は知性となるのである。
 ならば、理性と知性をどう区別するのか。これは、ヘーゲル哲学やカント哲学と関係する。
 知っている(知」だけでは、知性にならないということだろう。
 知っている(知)ということは、知識である。そう、言語概念知識と呼ぶのが的確である。
 だから、訂正して、(言語)概念知性ではなく、(言語)概念知識にする。
 すると、近代主義は知性主義というより、知識主義であったと言えよう。この大弊害があるのである。
 とまれ、知性と理性の区別の問題に戻ると、理性とは、陰陽調和心の主体の様態である。それは、知と感性と意志の三位一体、真善美の様態である。そのような理性における知の様態が知性ということになる。それは、思考と言ってもいいだろう。
 とまれ、理性がなけば、知性はないのである。理性がなければ、知識肥大の妄想自我になってしまうのである。これが、今日日本で爆発的に蔓延しているのである。父権主義の末路である。
 


●ためらうな、奈落の底まで突っ走れ! 反知性主義・安倍政権の末路をみせろ
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/e7f4331fe28bca17a8ce45afb8a1e3bd

≪ 「反知性主義」への警鐘 相次ぐ政治的問題発言で議論 

「反知性主義」という言葉を使った評論が論壇で目につく。「非」知性でも「無」知でもなく「反」知性――。政治的な問題発言が続出する現状を分析・批判しようとする意図が見える。

■自分に都合のよい物語 他者に強要  
  「嫌中」「憎韓」「反日」――首相の靖国神社参拝や慰安婦問題をめぐり日・中・韓でナショナリスティックな感情が噴き上がる現状を、週刊現代は問題視して 特集した(1月25日&2月1日合併号)。  元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は対談で、領土問題や歴史問題をめぐる国内政治家の近年の言動に警鐘を鳴らした。その中で使った分析用語の一つが 「反知性主義」だ。この言葉を昨年来、著書などで積極的に使っている。

 どう定義しているのか。

 「実証性や客観性を軽 んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だと佐藤氏は述べる。新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世 界を見直していく作業を拒み、「自分に都合のよい物語」の中に閉じこもる姿勢だ。とりわけ問題になるのは、その物語を使う者がときに「他者へ何らかの行動 を強要する」からだという。
世相を斬る あいば達也


2014年02月21日(Fri)▲ページの先頭へ
再掲:何故日本のPMやトンキントゥー知事はハートや魂がないのか:日本父権自我が母権的知を排除する
強調された記事は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11776885377.html


再掲:何故日本のPMやトンキントゥー知事はハートや魂がないのか:日本父権自我が母権的知を排除する

テーマ:二つの科学:内的科学と外的科学:霊と物質

一言言うと、何故、父権的自我が、傲慢傲岸不遜・独善虚偽欺瞞・妄想妄念狂妄・過信妄信(盲信)狂信になってしまうのかというと、頭で考える概念(観念ではない)とその実体には、質的なズレがあるからと考えられる。
 つまり、言うこととそのことを実際に行なうこと、実践実行することとの間はギャップがあり、両者不連続・非連続である。
 言うことは簡単で、派手になる。しかし、行なうということは、地味なことである。この地味な行為を言語概念が好きな父権自我は、不得意なのである。
 というか、誠意ある、真正な、まともな行為とは、道徳・倫理・仁理・仁道・仁倫的であり、それは、言語概念とは別の意識・認識・「知」が必要なのである。この別な「知」とは、実は、母権的「知」なのである。
 これは、ハートや魂の知なのである。言い換えると、陰陽調和知である。これが、父権自我は面倒くさがって、否定排除してしまい、グロテスク、デカダンな悪に変じてしまうのである。
 近代西洋文明文化を近代・戦後日本(明治「近代」とは私論では、龍馬や西郷隆盛らの母権派を排除した父権派が勝利して、プロイセンを真似た、父権的国家主義となり、また、戦後日本は唯物論的になり、精神文化を侮蔑し、否定した。)は十分理解していないのである。そこには支配的な父権的知とは別に、もう一つの主導的な母権的知が存立しているのであり、実際、それらは、対立・激突・争闘しているのである。(それは、例えば、具体的には、現在米国において、オバマ民主主義的資本主義と戦争的資本主義【戦争屋】が闘争しているのに見られる。)例えば、民主主義とは、概念としては、父権的になり、超大資本に利用されてしまっているが、実は、母胎、根っ子、土壌、基礎土台は、母権的知に存すると考えられるのである。(追記:民主主義を父権的概念で捉えるのか、母権的観念【理念】で捉えるのとでは、まったく異なることに要注意である。)
 後者を近代・戦後日本は明確に認識していないのである。それ故に、グロテスクな、デカダンなお馬鹿な父権悪党どもが支配しているのである。亡国の凶相であり、愚民も日本には多く、賢民は道連れにされるのである。
 日本母権民族革命進化が必要である。父権的民族の日本の日は沈み、母権民族の日本の日が昇るだろう。亡国と新生。

参照:

舛添都知事が手柄自慢 「保育所に国有地活用」の詭弁とウソhttp://gendai.net/articles/view/news/148092

「やっぱりパフォーマンス先行の猪瀬前知事と同じスタイルになるんですかねえ」 東京都の舛添要一知事について、都庁内でさっそくこんな嘆き節が出始めた。  彼らが指摘するのは、舛添が先週14日の記者会見で「保育所整備に国有地を活用する」と打ち出した件だ。…
〔記事全文 〕

*大雪“無策”で都民激怒! 舛添知事の口だけ「防災意識」

http://gendai.net/articles/view/news/148094
「現場主義」と言いながら視察もせず…
口先男/(C)日刊ゲンダイ

 8都県で19人が死亡した記録的な大雪が降る中、東京・赤坂で高級天ぷら料理を食べていた安倍首相に怒りの声が殺到している。ツイッター上では、「国民が大雪で大変なのに、暖かい場所で天ぷら食って平和ボケかいな…」という書き込みも見られるが、大雪被害のさなかに司令塔がボンクラだったのは政府だけじゃない。舛添要一・東京都知事も同じだ。


日刊ゲンダイ ゲンダイネット




「虚偽、狂妄、自己矛盾」 安倍首相の言動で中国外交部_新華網
http://jp.xinhuanet.com/2013-12/28/c_133002705.htm‎

2013年12月28日 ... 「虚偽、狂妄、自己矛盾」 安倍首相の言動で中国外交部---中国外交部の華春瑩報道官
は27日の定例記者会見で、日本の安倍晋三首相が26日靖国神社を参拝すること
について、安倍晋三首相の参拝後の詭弁や...


2014年02月16日(Sun)▲ページの先頭へ
氣的身体物質と純粋物質の違い:陰陽方程式陰凹i*陽凸i⇒±1で⇒が生命エネルギー、±1が純粋物質
氣的身体物質と純粋物質の違い:陰陽方程式陰凹i*陽凸i⇒±1で⇒が生命エネルギー、±1が純粋物質

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

本件について考察しようと思っているが、余裕がない。このままでは、当分書かなくなってしまうおそれがある。
 そこで、一言述べておく。
 陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇒±1(思うに、正確には、陰凹i*陽凸i⇔(又は⇄)±1ではないだろうか。これについて後で検討。)で考えると、端的に、±1が純粋物質ではないだろうか。
 生命体は陰陽方程式自体だと思う。陰凹i*陽凸iは極性のある氣であるし、それが、エネルギー形態⇒となり、それが、生命体⇒±1を形成すると思う。エネルギー(生命エネルギー)⇒がなくなったものが、±1であり、これが、純粋物質だと思う。
 だから、近代科学、唯物科学、唯物自然科学は、±1だけを研究していて(量子論は、実は、氣の影像を見ていると思うが、唯物論、±1の科学なので、量子の本体である氣【氣子?】まで、到達できないと考えられる)、生命の本質、本体、実体は看過しているということになる。
 ところで、+1と−1はどう違うのだろうか。天的な物質と地的な物質があるということなのだろうか。これは課題である。
 今はここで留める。

追記:桜沢如一(ゆきかず)氏は『無双原理・易』の中で、Na(ナトリウム)が陽性元素群の代表者で、K(カリウム)が陰性の代表者であると述べている。(p.107)

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 私は桜沢氏が陰陽を物質と同一視していることを批判しているが、思うに、+1が陽性元素で、−1が陰性元素かもしれない。もっとも、これはあてにならない。

追記2:±1を純粋物質と見ると、例えば、原子力科学とは、±1の物質科学の応用である悪鬼的科学であるということになる。
 何故なら、自然とは、陰陽方程式で表現されるものであるが、自然の、いわば、末端である±1だけ(これは、死体、死物、遺体である)の力学を見ているからである。つまり、原子力科学とは、死体科学、死の科学の帰結ということである。
 結局、近現代科学、唯物科学、唯物自然科学とは、死体科学、死物科学、死の科学であり、生命体科学、生命科学、生の科学、生き物の科学ではないのである。
 死体から生命体を捉えようとする本末転倒を行なっているのである。

参考:


* 「暗黒物質は存在しないかもしれない」 : 王立天文学会の総会で発表された科学界にとっては衝撃的な新学説

dark-matter.gif

▲ 現在の宇宙論。この世の約 73%が暗黒エネルギー、23%が暗黒物質というよう「ことに」なっています。つまり、「この世は95%以上が正体のわからないもので作られている」というのが現代宇宙論です。この理解しにくい理論が崩壊しつつあります。オリジナルの図版は、2013年4月4日の朝日新聞デジタル「暗黒物質の痕跡?確認 宇宙つくる正体不明の成分 」より。
http://oka-jp.seesaa.net/article/388346398.html

In Deep 地球最期のニュースと資料


気的身体と物質:生命体的物質と純粋物質の違い

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

いよいよ、これまで保留しておいた、今の時点で、もっとも重要と考えられる本件について考えたい。
 私はこれまで、生命体における物質と純粋物質とは異なると考えてきた。それを明快にしたい。


2014年02月15日(Sat)▲ページの先頭へ
2つのグローバリズム:旧と新:父権的資本主義(賤民資本主義)から新母権自由共同体資本主義へ
2つのグローバリズム:旧と新:父権的資本主義(賤民資本主義)から新母権自由共同体資本主義へ

テーマ:二つの資本主義:自由共同体と掠奪暴利主義

居直り、駄々っ子のようなAB逝犬であるが、どこへ行くのだろうか。確かに、暗黒法が多々生まれ、その点では、暗黒地獄路線である。
 しかし、まったく世界の動向から外れてしまったガラパゴス政権である。
 先行きどうなるだろうか。私の予言は、崩壊するというものであるが、もう少し考えてみよう。
 千葬邪が画策する東亜戦争は起らない。だから、tppや国家戦略特区路線で、日本から金を掠奪する。
 しかし、これは、経済的破滅路線である。そして、米中経済協調路線が発展し、日本は取り残される。亡国的になる。
 千葬邪とともに去りぬ。
 そう、AB逝犬は明らかに、人体ならガン細胞である。
免疫力が必要である。対外的には緒葉真聖賢に従う方がいいのである。
 国内的には、共同体的資本主義を目指すべきである。
 非正規雇用型ではなく、正規雇用型の資本主義をあえて創造すべきである。反時代的な正規雇用型資本主義である。それは、共同体主義の一助となるのである。
 そう、私論的には、千葬邪/AB逝犬は、父権的資本主義、同一性主義資本主義であり、賤民資本主義(ウェーバー)であり、それに対する共同体的資本主義(自由共同体資本主義:最近、自由社会主義という言葉を聞くが、それについて後で検討したい)は母権的資本主義(正確には、父権を超克した新母権的資本主義)で、こちらが、今や新しい世界資本主義の動向、正動であると考えられる。(何故、そうなのかと言えば、私見であるが、戦争傾斜資本主義は、世界・地球のガン細胞であり、自滅的であるのが、ある国際資本家その他にとって判明したのだろう。田中宇氏の用語では、一極型資本主義と多極型資本主義である。ウェーバーの用語では、賤民資本主義とプロテスタンティズム資本主義【もっとも、今日的に言えば、プロテスタンティズム原点資本主義であり、私の用語では、自由共同体資本主義である】である。21世紀の現代、二つの資本主義が併存しているのであり、前者は旧資本主義、後者は新資本主義である。言い換えると、グローバリズムは二つのあるのである。旧グローバリズムと新グローバリズムである。)
 母権的資本主義を実行・実践する企業が増えるほど、日本は再生するだろう。





民主主義を数量的形式主義と2項対立主義から質的本質主義と差異・他者共振主義に転換するには

テーマ:二つの資本主義:自由共同体と掠奪暴利主義

民主主義を理念的に成立させるには、他者精神が必要である。しかしながら、近代は、父権主義が支配し、それは、利己的自我主義であり、他者精神は形成されないのである。
 だから、不可能の民主主義である。

以上は書きかけである。
 現代日本の政治経済の自爆路線の原因は、実は、文化的様態に存すると言える。
 日本民族のもつ父権主義は、かなり、タイトなもので、自我同一性主義である。これは、差異、他者を排除するものである。
 このために、同一性、つまり、同じことが繰り返されて、進展・発展しないのである。
 差異、他者を認めるとは、言葉では簡単に言えることであるが、それを自覚するのは、至難のことである。
 ポスト・モダンというより、ポスト構造主義は、差異、他者の認識を追求する哲学であったが、デリダにおいて、すべてではないにしろ、不連続的差異である他者の認識が構築されたのである。
 つまり、西欧現代哲学は、それなりに、他者哲学を形成することを達成したのである。ということは、現代西欧の教養はそのレベルにあると見ていい。
 しかし、現代日本において、ポスト・モダン、ポスト構造主義は、たいへん流行したが、定着しなかった。
 思うに、ポスト構造主義は、日本社会のもつタイトな父権的同一性主義を打破すべき課題をもっていたのだが、そうできなかった。
 PS陰陽論の出発点である不連続的差異論は、ポスト構造主義批判から出発したのであり、ある意味で、ポスト構造主義を徹底させたものである。
 差異、他者問題とは、端的に、倫理、道徳、そして、共同体の問題である。そして、宗教の問題である。
 戦後日本の場合、戦後近代合理主義の洗脳・マインドコントロールによって、「精神」、「心」の問題が排除されてきた。唯物科学が支配してきたのである。
 それは、実は、日本父権的利己主義と合致するものであったのである。
 結局、日本社会において、差異や他者の問題は、一般認識されないままの状態で終わってしまったのである。
 安倍政権の超暴走であるが、それも哲学的には、差異、他者の徹底的排除に拠るものと言える。
 原発推進派にとっては、脱原発は排除されて、あり得ないのである。差異、他者である脱原発は、いわば、悪の存在となっているのである。そして、当然、原発推進が善である。
 このような2項対立の色分けは、盲目的であり、自分が何をしているのかわからないのである。独善的であるので、馬の耳に念仏状態である。
 そして、安倍内閣だけでなく、多くの日本人も類似した精神構造、父権的2項対立主義に染まっているのである。
 日本伝統文化は母権的文化であり、それを創造的に覚醒させる必要があるのである。
 どうも、その覚醒は、日月神示の予言の正しさを証明するような時期になりそうである。
 現代日本人は自らが否定するものに未来の種子があったことに気付くということなのだろうが、黙示録的である。

参考:
構造主義とポスト構造主義はどう違うのですか? - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1236705822
ポスト構造主義・ポストモダンとはどういう意味?? | 哲学のQ&A ...
http://okwave.jp/qa/q2235577.html
 
都知事選勝利で慢心暴走 止まらない安倍首相の「原発推進」
 予想通り、都知事選で脱原発派を封じ込めた安倍首相が、原発再稼働に前のめりになっている。 「有識者会議が昨年12月、新たなエネルギー基本計画について、原発を『基盤となる重要なベース電源』とする原案をまとめましたが、突然の都知事選で『原発ゼロ』が争点にな…
〔記事全文 〕

日刊ゲンダイ ゲンダイネット







朗報:若々しさを保つ方法を教えましょう:無料です。

テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌

私は人から、若返ったと言われる。私としては、特に、断酒(今は違うが)、小食、森氣浴瞑想散策によって、スリムになり、若返ったと思うが、形而上学的な重要なポイントを述べたい。
 つまり、陰陽調和心を自覚するということである。以前述べたように、氣の快感を重視して、氣的身体理性に基づく生活をするということである。
 氣の快感が原点である。これに気付くか否かが分かれ目である。氣美感と言っていいだろう。
 この氣美感に気付いて、健康法を行なうと若返ると私は考える。
 氣美感とは、陰陽調和心のことである。孔子で言えば、中庸であるが、それでは、抽象的である。氣の快感、これが、出発点である。お試しあれ。

追記:大事なことを言うのを忘れたが、氣の快感、氣美感とは、一(いつ)の氣に通じるということである。伝統文化的用語を使えば、天に通じるということである。(神に通じるとも言えるが、いささか、神とは?)
 生命の源泉である一の氣に、氣の快感、氣美感によって通じるのであり、それによって、一の氣の生命が心身に流入すると考えられるのである。

追記2:氣の快感、氣美感とは何かという疑問があるだろう。私の経験・体験から言えば、森の中で過していると、爽快な気分になる。その爽快さが、氣の快感、氣美感ということである。
 これは、普通の人間ならば、誰でも理解できることである。山歩きする人なら、山の空気のもつ爽快さがわかるだろう。そのような氣的快感、氣美感に即して、ライフスタイルを形成するということである。


2014年02月11日(Tue)▲ページの先頭へ
理霊=一の氣=イデア=デュナミス&陰陽氣霊=エイドス=エネルゲイア:両界(金剛/胎蔵)曼荼羅
理霊=一の氣=イデア=デュナミス&陰陽氣霊=エイドス=エネルゲイア:両界(金剛/胎蔵)曼荼羅

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

後で検討したい。
 一言言うと、一の氣が理霊=イデアであり、それが、陰陽氣と一如である。陰陽氣は陰陽調和心であり、太陽・植物的エネルギーとも言える。
 アリストテレス哲学の用語を使用すれば、一の氣がデュナミスであり、陰陽氣がエネルゲイアである。
 そう、イデアとエイドスの区別ができるかもしれない。一の氣=理霊=イデアということであり、陰陽氣=陰陽調和心=エイドスになるかもしれない。
 空海の両界曼荼羅で言えば、一の氣=理霊=イデア=デュナミス=金剛界曼荼羅であり、陰陽氣=陰陽調和心=エイドス=エネルゲイア=胎蔵界曼荼羅となるのではないだろうか。

追記:朱子の理氣論で言うと、理=氣論である。ただし、理が超越で、氣が内在であり、合わせて、内在超越性である。ただし、理と氣は不可分である。ここがポイントである。この秘密は、 MP(Media Point:メディア・ポイント:ガウス平面の原点)に存すると言えよう。MPに陰陽氣があると同時に、一の氣も存すると言えよう。また、MPは身体に接合していると言えよう。つまり、MPは三重性、三重体なのである。即ち、一の氣、陰陽氣、身体の三重性(体)、三元性(体)である。
 とくに、身体との接合が氣と身体の一如である身(み)を考える上で重要である。太陽と腸内細菌の関係を見るときに重要になるし、乳酸菌による免疫力の増加にも関係するだろう。
 最後に一の氣であるが、それは、陰陽円として、本来、存在していよう。あるいは、陰陽球として。それが、MPに発現するということでもある。これについては、後で整理したい。

 

胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅
bell.jp/pancho/k_diary-5/mandara.htm


* キャッシュ
* 類似ページ

曼荼羅(まんだら)は、サンスクリット語のmandalaの音写したもので、本来の意味は”
本質、中心、精髄などを持つもの”を表し、仏教では、仏の悟りとその世界を意味する。
特に密教 ... 金剛界曼荼羅」と合わせて「両界曼荼羅」と併称される。 □ 大日経は7世紀
の ...

両界曼荼羅 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/両界曼荼羅


* キャッシュ

両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、日本密教の中心となる仏である大日如来の説く
真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅 ... 胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「
金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する


2014年02月10日(Mon)▲ページの先頭へ
哲学と内的科学:プラトン哲学は、内的科学の出発点でもある
哲学と内的科学:プラトン哲学は、内的科学の出発点でもある

テーマ:二つの科学:内的科学と外的科学:霊と物質

私は科学を外的科学(近代科学、唯物科学、唯物自然科学)と内的科学(氣=陰陽科学、霊魂科学、精神=霊科学)の二つに峻別、弁別、区別している。
 これまで、科学は一つのものと思われているが、それは間違いと私は指摘するのである。
 とまれ、PS陰陽論は哲学且つ内的科学である。思うに、哲学=内的科学と極言できよう。
 そして、哲学=内的科学の始祖は、ピュタゴラス学派の数学的理性を取り入れたプラトンであったと考えられる。
 ホワイトヘッド(私は評価しないが)の有名な言葉「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」もむべなるかな。
 後で、さらに説明したいが。

追記:以下参考にあるように、プラトン哲学等を二元論と説いている。それは、西洋哲学、理論の典型である。
 しかしながら、PS陰陽論は、二元論ではなく、一元論なのである。一見、陰陽は二元論に見えるが、そうではなく、極性論である。対極を一(いつ)と見るのである。
 PS陰陽論が二元論ではないいちばんの核心は、一の氣=陰陽氣とする点である。つまり、内在的超越性(内超性、イントランスintranscendence)をもつ点である。いわば、三元論とも言えるのである。
 氣をベースにすることで、二元論を脱却しているのである。そう、氣の哲学=内的科学は、西洋哲学を超克する。


参考:
プラトンの不死説とギリシャ人の霊魂観 - 知の快楽 - 東京を描く
プラトンの不死説とギリシャ人の霊魂観


プラトン哲学の著しい特徴は、実在と仮象、イデアと現象的な世界、理性と感性とを峻別する厳しい二元論である。プラトンはこれらそれぞれに対をなすものうち、前者こそが真理や善にあずかるものであり、後者はかりそめなものに過ぎないという、強い確信を持っていた。

こうした二元論が人間に適用されるとき、人間は霊魂と肉体からなるものとしてとらえられる。この見方からすれば、肉体はかりそめのものとして、この世のはかないものに束縛されているのであるから、霊魂はなるべく肉体から自由になって、真の実在即ち永遠のイデアをとらえなければならない。

また肉体は有限で滅びるべきものであるが、イデアが永遠であるように、霊魂は滅びることがない。それは人間の生まれる前に既に実在し、人間が死んだ後でも実在し続ける。つまり霊魂とは不死の存在なのである。

プラトンのこのような霊魂にかんする考え方は、ピタゴラス派を通じて、ギリシャ人の伝統的な霊魂観につながっている。オルフェウス教の教えによれば、肉体は大地から、霊魂は天上から派生する。オルフェウス自ら、自分は大地と星の輝く天上との子であると公言していた。

ピタゴラスは、霊魂は不滅であり、一つの肉体を去った後は、別の肉体に生まれ変わるという、霊魂輪廻説を唱えていた。霊魂は地上での行いに応じて、死後はより位階の高いものに生まれ変わることもあれば、虫けらのように卑しいものに生まれ変わることもある。そして真に偉大なものは、ついに神々のもとで永遠の安らぎを得るのだと解いた。

プラトンの霊魂に関する説を最もよく表しているのは「パイドン」である。最晩年に書かれたこの対話編の中で、死に向き合ったソクラテスを通じて、プラトンは魂の不死なことを説く。死とは肉体と魂の分離であるが、魂は肉体と分離した後でも消え去ることはなく、引き続き生き続けるのであるし、むしろ肉体のくびきから開放されて、真の実在に達することができるのだ、だから死を恐れる理由はなく、むしろ喜ばしいこととして、これを迎えなければならぬ、そうソクラテスは主張するのである。

「いやしくもわれわれが何らかの明晰な知を得ようとするならば、肉体を離れ去って、純粋に魂だけで事柄そのものを観じなければならぬということなのだ。… 肉体とともにある限り、何者をも明晰に認識することはできないとするならば、残るのは、次の二つのうちのどちらかだろうーー「知」を我がものにすることは、ついに永久にかなわぬことか、それとも、死んだ後にはじめてそれが可能であるか。なぜなら、死んでこそはじめて、魂は肉体を離れ、純粋に魂そのものとなるだろうが、それまでは不可能なのだから。...浄化というのは結局、魂をできるだけ肉体から切り離すこと、そして、魂が肉体のあらゆる箇所から開放され、現在も将来もできるかぎり、純粋に自分自身だけですまうように習慣づけるということ、この一事に帰着するのではないだろうか。」(藤沢令夫訳)

プラトンはソクラテスにこういわせることによって、知というものは肉体を離れ去った純粋な魂によってこそ完全に認識されうるのだと主張している。これは、感性から出発して、ディアレクティケーの術によって概念的な知に到達すべきだとする、ソクラテスのそもそもの学問的方法とは、かなりはなれた立場だといわねばならない。

それはさておいて、プラトンは肉体から離れた魂の実在性について、議論を進める。

まずプラトンは、魂がその人間の誕生以前から存在していることの証拠として、魂には肉体を必要とせず先天的にそなわった知識があるという議論を、ソクラテスに展開させている。そのような知識とは、例えば数学と論理学である。これらの知識は何ら感性的なものを介さず、それ自身として直接魂の考察の対象となりうる。このような知識は、魂の回想によってもたらされるものであり、したがって魂は誕生の以前から存在していたはずだ、こうソクラテスはいうのである。

一方、魂が死後においても生き続けることの証拠として、ソクラテスの展開する理屈は、先ほどのようには明快とはいえない。ソクラテスによれば、生命が死を生ずるのと同じように、死は生命を生ずるというのだが、これは理屈のようで理屈にはなっていないといわねばならぬ。

またソクラテスは、魂はイデアのように単純で、分解できるものではない、単純なものには、始まりも終わりも変化もありえない、したがって魂は変わることなく永遠なものとしてあるのだという、パルメニデス的な論法を展開するが、この議論もやはり-詭弁としか聞こえないだろう。

このようにプラトンがいうことの背景には、彼にとって魂の不死は揺るぎのないことであり、したがって改めてその実在を論証する必要は豪もないという確信がある。つまりプラトンは、魂が肉体から離れて独立の存在を保ち続けるという、ギリシャ的霊魂観を自明の前提として語っているからこそ、あえてくどくどとその実在の証明に没頭する必要を感じなかったのだ。

「パイドン」は最後に近い部分で、死後における魂の運命について叙述する。生きている間に肉体への隷属から開放されて永遠のイデアに出会うことが出来たものは、死後には神々と交わる祝福のうちに暮らすであろう。肉体を愛した不浄な魂は、墳墓をさまよう幽霊となるか、馬や狼といった動物の身体に宿ることになろう。知恵を愛することには劣っても徳のあった人々は、蜜蜂や蟻といった社会的な生き物に生まれ変わるだろう。

また、善人であったものの魂は天国に行き、悪人の魂は地獄に行き、中間の人々の魂は煉獄に行くのだともいう。

人間の死後における魂の運命に関するこうした説は、とても哲学的な議論とは思われぬし、まして科学的な精神には著しく反している。それは、オルフェウス教を中核とした当時のギリシャ人の宗教的心性を、美しい言辞をまとわせて、語ったに過ぎないと思われるのである。
http://philosophy.hix05.com/Plato/plato07.spirit.html
壺 齋 閑 話

続 壺 齋 閑 話


霊魂の不滅説:「御冥福を」とは、文字通りとれば、冥土・冥界で生きるということだ:死んで生きる?
霊魂の不滅説:御冥福をとは、文字通りとれば、冥土・冥界で生きるということだ:死んで生きる?

テーマ:宗教・神話・社会・歴史

PS陰陽論は唯氣論となっているが、思うに、寝ている間、あるいは、死んだとき、「わたし」はどうなるのか?
 陰陽方程式陰凹i*陽凸i⇒±1において、−1が自我(連続陰陽我)で、+1が陰陽調和心の身体化(思うに、心臓ではないだろうか)である。
 寝るときは、陰陽我である自我は、身体から抜けるだろう。つまり、±1から抜ける。一種、幽体離脱状態であろう。
 それは、陰凹i*陽凸iに帰還しているのではないだろうか。
 考えると、寝る、眠るとは不思議な事象である。
 陰凹i*陽凸iに回帰するとは、一(いつ)の氣に回帰すると考えられる。
 ところで、自我を陽我凸i(正確には、極大的凸i)と陰我(同様に、極大的凹i)の二重のものとしているが、目覚めているときは、つまり、現象界、物質現象界=「現実」界にいるときは、自我は、陰陽方程式凹i*凸i⇒±1の±1に重なっているだろう。
 より正確に言えば、自我は、−1だろう。思うに、陽我主導的では、−1になるだろう。しかし、陰我主導的な場合は、微妙である。思うに、−1と+1の未分化様態のように、思える。これについては、要検討にしておく。
 とまれ、現象界の自我ないし自己は、±1に位置するのであり、睡眠している場合は、陽我と陰我と陰陽調和心は、±1から離脱して(幽体離脱?)、凹i*凸iの様態、さらには、一の氣の様態に移動しているのではないだろうか。
 そう、一の氣を全一氣とも言えよう。だから、睡眠時、自我、自己ないし個は、一の氣=全一氣に帰還しているということになる。
 思うに、一の氣=全一氣とはあの世ではないだろうか。死後の世界ではないだろうか。あるいは、霊界である。
 ここで、想起するのは、太極と一の氣の世界(太一界と呼べよう)の相違である。
 太極は陰陽未分化の原初の世界、混沌の世界であった。しかし、そこから、一の氣(太一界)=陰陽氣の世界が生まれるのである。
 そのように見ると、自我、自己、ないし個とは、不滅であることがわかるだろう。プラトンが説いた、霊魂の不滅は正しいと思うのである。
 
参考:

1.
プラトンの不死説とギリシャ人の霊魂観 - 知の快楽 - 東京を描く
philosophy.hix05.com/Plato/plato07.spirit.html

* キャッシュ
* 類似ページ
プラトン哲学の著しい特徴は、実在と仮象、イデアと現象的な世界、理性と感性とを峻別
する厳しい二元論である。プラトンは ... ピタゴラスは、霊魂は不滅であり、一つの肉体を
去った後は、別の肉体に生まれ変わるという、霊魂輪廻説を唱えていた。霊魂は地上で
...
2.
哲学講義18 - プラトン(6) 霊魂不滅の証明・ソクラテスの死 - : 古代 ...
matsuura05.exblog.jp/298487/

* キャッシュ
* 類似ページ
2004年2月18日 ... さて、今回の哲学講義は、プラトンの『パイドン』に描かれた霊魂不滅の証明とソクラテス
の死の場面を見ることにします。『パイドン』という対話篇は、ソクラテスが死刑を執行
される当日に弟子たちと交わした会話を記すという形で書かれたもの ...
3. [PDF]
プラトン著『パイドン―魂の不死について―』(岩田靖夫訳 ... - フィロソフィア
global-spirituality.net/wp-content/uploads/2007/11/handout2-2.pdf

* 類似ページ
三 霊魂不滅の証明. (一)生成の循環的構造による証明。生から死へ、死から生へ. ○
死んだ人たちの魂はハデスに存在する …魂はこの世からあの世、あの世からこの世へ
と移動し、死者達から生まれる、という説がある。こ. れが真実なら、魂はハデスに存在 ...


2014年02月08日(Sat)▲ページの先頭へ
魂とは何か:連続的陰陽の不連続化に拠る陰我と陽我と陰陽調和心の三層構造の内の陰我=肚=他者である
魂とは何か:連続的陰陽の不連続化に拠る陰我と陽我と陰陽調和心の三層構造の内の陰我=肚=他者である

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に、魂という言葉を使用したが、それは、哲学的用語というよりは、日常的語である。気概、気骨を示す用語である。
 しかしながら、魂を普遍的用語にできると思った。
 つまり、こうである。陰陽調和心があると言った。それは、一(いつ)の氣に通じているのである。
 この陰陽調和心であるが、それは、胸(中丹田)に位置しているが、魂は直観では、肚に存する。
 そう、魂は気概、気骨に関係し、また情感、情熱、意志等に関係する。
 それらは、知性領域ではない。だから、陽我凸i=頭ではなく、陰我凹i=肚に存するということになる。
 ただし、単純な陰我=肚ではない。それだけなら、権力的感情・欲望となろう。
 魂にある気概、気骨、情感、情熱等は、他者性をもっている。つまり、いわば、他者倫理をもっている。
 これをどう説明するかが問題である。
 そう、先にも提起したが、他者は陰陽論理でどこに位置するのかが問題ではある。
 ここで、以前、考えた個=他者ないし肚=他者という視点を再度とりあげると、肚は陰我凹i(極大陰であるが)であり、陰我凹iは、連続的自我態においては、単純に、他者にはならない。
 それは、陽我の反射としての他者であり、鏡像に過ぎないのである。そう、ナルシシズム(自己陶酔、自我反射、自我投影)に過ぎない。だから、連続的自我 (陰陽連続的自我:これについて、後で説明したい)の場合、肚は、他者にならず、自我反射、鏡像にしかならないのである。(思 えば、よく、人が他人の悪口を言う場合、その悪口が悪口を言う本人にこそ当てはまることが多いが、そのメカニズムは、この連続的陰陽自我に存すると言えよ う。つまり、複雑ではあるが、陰陽が連続化(連続的同一性化)したとき、そこに悪意、邪気があるのであり、それを陽我は認識できず、逆に、他人を知覚する とき、逆に、自我の連続的陰陽の欠点が浮び上がり、それが、陽我に認識されて、他人に投影されるということと考えられるのである。)
 だから、連続的自我(陰陽連続的自我、陰陽連続的同一性自我)をいったん解体する必要がある。それは、不連続的差異論(非連続的差異論とも言えよう)の役割である。
 陽我(頭・知)と陰我(肚・情意)をいったん切断する必要があるのである。この切断、つまり、不連続(非連続)化によって、陰我=肚は他者になりうるのである。(ただし、即、陰我=肚が他者になるということではなく、いわば、他者性となる。)
 この陽我と陰我の切断、陰陽切断によって生起するのは、実は、先にも述べたが、陰陽調和と肚(陰我)の未分化様態である。
 だから、ここから、心身陶冶、経験陶冶・鍛練・涵養によって、陰陽調和心と肚(陰我)を分化させていくのが、精神、魂の成熟である。時熟とも言えそうだが。熟成でもいいだろう。
 とまれ、院長調和心と肚(陰我)を分化させたときの肚(陰我)が他者になると私は今考えるのである。
 以前は直観的に、肚が個であり、他者であると思ったが、それは、陰陽調和心が個であり、また、肚が他者であるとと視るのが適切であると考える。
 さて、そのように、陰陽分離し、また、陰陽調和心(個)を形成していき、肚(陰我)=他者となるとき、魂であるが、これは、ほぼ、肚(陰我)=他者と一致するように思われる。
 つまり、

肚(陰我)=他者=魂

という図式が成立するということになる。
 そして、当然、道徳・倫理のインフラ、ベース、根源もここに存するということになるのである。仁理、仁道、仁倫とも言える。
 ただし、肚=他者=魂は仁理・仁道・仁倫のベースであって、そのものではないだろう。仁理・仁道・仁倫自体は、肚=他者=魂をベースにしつつ、陰陽調和心に存すると考えられる。
 そして、陰陽調和心は、先に述べた、観念(イデー)・理念(イデア)、プラトンの真善美のイデアと一致すると考えられるのであり、精神と呼べよ う。(今、想起したが、昔バッハの音楽を聴くと、即、精神を想起をしたが、結局、バッハの音楽は、陰陽調和心=観念・理念=真善美イデアを表現していると いうことと考えられる。)
 これで、一応、魂と精神を区別したことになる。
 問題は、精神である。それを霊と呼んでいいのか、である。
 しかしながら、陰陽調和心は、一(いつ)の氣=一元氣と一体であるから、内在超越性をもっているので、霊のように感じられるのである。
 先に、霊は存在しなく、霊の感じ方はあると述べたが、今、考えると、つまり、実質で考えると、呼び方の問題のように思えてくる。
 つまり、陰陽調和心は観念・理念・真善美イデアであり、精神と呼べるが、それは内在超越性をもつので、霊と呼んでもおかしくないと思えるのである。
 ドイツ語では、der Geistは精神であり、霊である。英語のspiritもそのようになりうる。
 そう、結局、陰陽調和心は、精神、霊、精霊、神と呼んでもいいと思えるのである。問題は用語、名称ではなく、実体、本体、実質である。
 PS陰陽論は、唯氣論であると言ったが、ならば、唯霊論、唯精論、唯神論と言ってもいいのではないだろうか。
 ただし、氣と見る方が、陰陽という対一、双一的極性をもつので、科学的に便利である。だから、唯氣論で通そうと思うのであるが、霊、精神、精霊等を排除 しない。ただし、シュタイナーのように、霊を氣から独立した存在とは見ず、霊は氣の派生事象と見るのである。ここが違うポイントである。
 そう、魂であれ、陰陽調和心=精神=観念・理念=真善美イデア=霊・神であれ、あくまで、氣の派生事象と見るのである。
 霊や神では、擬人性が強く、科学的ではなくなると思われる。
 結局、以上の事柄は、内的科学の事象である。近代科学、物質主義科学、いわゆる、自然科学(ただしくは、唯物論的自然科学)は外的科学で、この内的科学の事象をまったく捉えられないと言えよう。ただし、外側から、表層を見ることはできるのであるが。
 結局、内的科学は、陰陽事象を扱うと言えよう。易とは、内的科学であったのである。ただし、以前述べたように、易経は問題がある。つまり、陽的視点に傾斜しているのが問題なのである。それは、ここでは、詳述しない。

追記:陰陽調和心とは、陰陽調和氣とも言えよう。そして、それが、太陽の本体だと思う。これが、現象化すると、日光になると考えられる。
 陰凹i*陽凸i⇒+1の+1が日光・陽光・太陽光線と考えられる。
 左辺の陰凹i*陽凸iが太陽を構成する陰陽氣であり、⇒が太陽ではないだろうか。⇒はMP(Media Point:メディア・ポイント:原点)である。
 つまり、

太陽氣☞太陽☞太陽光線

となる。ただし、☞太陽☞は⇒を意味する。










八百万の神々とPS陰陽論

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

この問題は後で、詳論したいが、簡単に言うと、

一(いつ)の氣⇒陰陽1+陰陽2+・・・+陰陽n⇒八百万の神々⇒森羅万象

という図式で説明できるように思える。

追記:多神教の問題は、後、アニミズムと関係する。とまれ、もう一度言うと、一(いつ)の氣があり、それは、多様な陰陽様態を帯びる。それが、八百万の神々であり、そこから、森羅万象が発現すると見るのである

追記2:
一元氣⇒多様陰陽氣⇒八百万の神々⇒森羅万象

追記3:一の氣=一元氣であるが、それは、元陰と元陽に分極化するが、その元陰*元陽はいわば、元陰陽音楽、あるいは、元陰陽ゆらぎ、元陰陽流動である。
 この元陰陽音楽が、その和音的、交響的、あるいは、ポリフォニー的法則によって、多様な形態・原型=原形(イデア、ないしエイドス)を生み出すだろう。それが、八百万の神々ではないだろうか。

八百万の神々はPS陰陽論でどう説明できるか

先に以下にあるように「神道の八百万の神々であるが、つまり、多神教であるが、それも、根源の一の氣が原因となって個々の現象を生成すると考えるとき、個々の根源に氣を見るということで説明がつくのではないだろうか。これについては後で、もっと精緻に考えたい。」と述べた。
 多神教はPS陰陽論で簡単に説明できると思っていたが、なかなか手ごわい。
 ここで、多神教を解明したい。
 結局、森羅万象の個々の現象に氣核を認めれば、説明がつくのではないだろうか。氣核とはMP(メディア・ポイント)である。
 そこには、多様な氣波動があると考えられる。ある気波動は、植物になり、ある氣波動は動物になる。また、植物でも、その中で、さまざまに分岐する。
 思うに、このように分析的に説明するよりも、一(いつ)の氣の宇宙で説明する方が明快のように思える。
 つまり、一の氣が森羅万象を形成するのであり、森羅万象の個々の現象は当然、一の氣が浸透しているということになる。
 つまり、一の氣が多様な陰陽氣に変容していることになる。
一⇒多である。
 どうもすっきりしない説明になっている。
 後で、より直観的な解明を試みたい。

****************************
PS陰陽論から「霊(スピリット)」、「神」を解明する:ポスト霊学・宗教・魔術:ポスト一神教
テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

PS陰陽論は、唯氣論である。そこには、基本的には「霊」という観念・理念はない。
 しかし、「霊」ないし「霊性」という感じ方は存すると考える。つまり、「霊」は存しないが、「霊」という感じ方は存するということである。
 今は一言言うだけだが、簡単に説明すると、一(いつ)の氣=陰陽氣であり、前者の一の氣が陰陽精神において、「霊」のように感じられると思うのである。そう、「聖霊」のような感じがすると思うのである。
 もう少し、具体的に言うと、森の中にいると、氣を感じるが、それだけでなく、いわば、森の精、妖精、森の精霊(霊)のようなものを感じる。ロマン主義、ケルト文化的世界、宮崎駿的世界である。
 しかし、この「精・妖精」、「精霊(霊)」は、実は、一(いつ)の氣の働きだと思われるのである。なにか超越的な生き物のような感じであるが、それは、一の氣の働きだと思うのである。
 端的に、一の氣は、内在超越性であり、超自然的な、不可思議な感じをもたらすと考えられるのである。
 また、さらに言えば、神、神霊という観念・理念も、一の氣で説明できると思われるのである。
 そう、霊的自然観、呪術・魔術、宗教は、氣の自然観であるPS陰陽論で説明できると思うのである。
 そう、ポスト霊学、ポスト宗教、ポスト魔術としてのPS陰陽論である。

追記:また、ポスト一神教、ポスト超越神でもある。

追記2:一の氣がコスモス(ミクロコスモス=マクロコスモス、小宇宙=大宇宙)の感覚をもたらすとも言えよう。
 いわゆる、神秘主義世界観もここに起源があると考えられる。
 思うに、古代的宇宙観、世界観、自然観はこの一の氣が根源だと思う。古代ギリシアのパン神はこれが正に説明するだろう。
 神道の八百万の神々であるが、つまり、多神教であるが、それも、根源の一の氣が原因となって個々の現象を生成すると考えるとき、個々の根源に氣を見るということで説明がつくのではないだろうか。これについては後で、もっと精緻に考えたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11765922549.html


2014年02月06日(Thu)▲ページの先頭へ
PS陰陽論から「霊(スピリット)」、「神」を解明する:ポスト霊学・宗教・魔術:ポスト一神教
PS陰陽論から「霊(スピリット)」、「神」を解明する:ポスト霊学・宗教・魔術:ポスト一神教

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

PS陰陽論は、唯氣論である。そこには、基本的には「霊」という観念・理念はない。
 しかし、「霊」ないし「霊性」という感じ方は存すると考える。つまり、「霊」は存しないが、「霊」という感じ方は存するということである。
 今は一言言うだけだが、簡単に説明すると、一(いつ)の氣=陰陽氣であり、前者の一の氣が陰陽精神において、「霊」のように感じられると思うのである。そう、「聖霊」のような感じがすると思うのである。
 もう少し、具体的に言うと、森の中にいると、氣を感じるが、それだけでなく、いわば、森の精、妖精、森の精霊(霊)のようなものを感じる。ロマン主義、ケルト文化的世界、宮崎駿的世界である。
 しかし、この「精・妖精」、「精霊(霊)」は、実は、一(いつ)の氣の働きだと思われるのである。なにか超越的な生き物のような感じであるが、それは、一の氣の働きだと思うのである。
 端的に、一の氣は、内在超越性であり、超自然的な、不可思議な感じをもたらすと考えられるのである。
 また、さらに言えば、神、神霊という観念・理念も、一の氣で説明できると思われるのである。
 そう、霊的自然観、呪術・魔術、宗教は、氣の自然観であるPS陰陽論で説明できると思うのである。
 そう、ポスト霊学、ポスト宗教、ポスト魔術としてのPS陰陽論である。

追記:また、ポスト一神教、ポスト超越神でもある。






太元は、神霊なのか、氣なのか:霊-氣論と氣身(唯氣)論

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に以下の素描(参考)を書いたが、結局、人体のデザインの根源に神霊を仮定するようなことになっている。
 しかし、そうすると、PS陰陽論自体が破綻するのである。
何故なら、あくまで、いわば、唯氣論であるからで、そこに、霊を入れると破綻するからである。
 今は一言言うだけだが、例えば、陰陽振動(陰陽音楽)によって、正多角形ができるとするとすると、その陰陽音楽自体は、陰陽自律的なものと思われる。

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 そうならば、陰陽自律法則によって、生命体全体が形成されると見ることは可能なように思えるのである。
 ならば、生命体の設計者の神霊は不要になると思えるのである。
 先に、氣=内超的力・即・内超的知(内超的力・且つ・内超的知とも言える)と言ったが、この力学が自律的に生命体を創造するということになるのである。
 私の今の想像では、唯氣論的な生命体創造は可能だと推測されるのである。
 氣のもつ全体的自律力学はそれを可能するように思えるのである。詳しい検討は後ほど。
 
参考:

遺伝子氣:MPにおける多陰陽結合と生命体創造者(神霊);超越軸=霊軸、虚軸=氣軸、実軸=生命体軸

人体なら、人体の設計図、デザイン、イデアを構成するものは何かということでもある。
 ここは、氣を超えて、霊を想定したくなる時点である。
 言い換えると、多様な陰陽結合を構成する原理は何かという疑問である。
 ここで、霊を作業仮説すると、人体全体を設計、デザインする総合原理を霊とする。霊の設計図に従い、多様な陰陽結合なされるということになるのである。
 そう、陰陽情報の作者である。それを、神霊と呼ぶことはできるのである。すると、

神霊⇒氣⇒生命体

となる。すると、以前想定したように、ガウス平面に直交する軸、いわば、超越軸を仮定しないといけなくなる。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11764773444.html


2014年02月04日(Tue)▲ページの先頭へ
遺伝子氣:MPにおける多陰陽結合と生命体創造者(霊);超越軸=霊軸、虚軸=氣軸、実軸=生命体軸
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11764773444.html

遺伝子氣:MPにおける多陰陽結合と生命体創造者(霊);超越軸=霊軸、虚軸=氣軸、実軸=生命体軸

テーマ:唯物科学から物質包摂の氣サイエンスへ

先に以下の参考のように記した。
 今は簡単に指摘するだけだが、ガウス平面の虚軸の陽凸iと陰凹iであるが、そこに、氣遺伝子が重層化すると見れば、それが、元遺伝子になるように思える。
 つまり、(凸i1*凹i1)*(凸i2*凹i2)*(凸i3*凹i3)*・・・*(凸in*凹in)という氣遺伝子、元遺伝子、遺伝子イデアが考えられるのである。
 これらは、結局、一(いつ)の氣である。思うに、一の氣が基盤になって陰陽1,陰陽2,陰陽3,・・・陰陽nが重層化すると思われる。
 否、一の氣が共通基盤ではなく、MP(ガウス平面の原点)に共通の中心があるのではないだろうか。
 とまれ、陰陽凹i*凸iは振動していると思う。そして、その振動数の違いで、多様な遺伝子情報が発生しているのではないだろうか。
 簡単に図式化すれば、

陰陽1*陰陽2*陰陽3*・・・*陰陽n⇒±1(生命体)

(なお、*がMP(原点)である。そして、陰陽kは各陰陽の振動数の違いを表していることになる。)

となるのではないだろうか。
 ある振動数(和音)は、正多角形を形成するのではないだろうか。正三角形、正方形、正五角形、正六角形、等々である。
 思うに、ピュタゴラス派に倣い、正五角形をベースに見るならば、それが、単に生命体だけでなく、宇宙生命体、太陽系生命体をも成形していると見られよう。つまり、大宇宙と小宇宙の一致ないし照応があるということである。(あるいは、上にあるごとく、下にも。)
 そう、ここで、フラクタルを考えもいいだろう。宇宙大のフラクタルと生命体のフラクタルが相似するということである。
 とまれ、今の段階では、多陰陽結合、諸陰陽結合ではあるが、それは、MP(メディア・ポイント、原点)にゼロ度における結合を見ておこう。陰陽ゼロ度結合である。
 そして、陰と陽の二重螺旋が形成されるのであり、それが、DNAのイデア、元DNAであると思われる。つまり、それらは、ガウス平面の虚軸に存するのであり、それが、MPを介する次元変換によって、物質的なDNAに変容すると思われるのである。
 以上について、細部について後で検討したい。
 最後に、問題は、全体像を決定、規定するものをどう考えるのかである。
 人体なら、人体の設計図、デザイン、イデアを構成するものは何かということでもある。
 ここは、氣を超えて、霊を想定したくなる時点である。
 言い換えると、多様な陰陽結合を構成する原理は何かという疑問である。
 ここで、霊を作業仮説すると、人体全体を設計、デザインする総合原理を霊とする。霊の設計図に従い、多様な陰陽結合なされるということになるのである。
 そう、陰陽情報の作者である。それを、神霊と呼ぶことはできるのである。すると、

神霊⇒氣⇒生命体

となる。すると、以前想定したように、ガウス平面に直交する軸、いわば、超越軸を仮定しないといけなくなる。
 そして、これが、私と『海舌』氏が別離した事柄なのである。後者は、ガウス平面から離れて、四元数(しげんすう)へと飛躍したのであり、私は、試行錯誤の迷宮に入ったのである。ここで、長い間、提唱してきたPS理論が終焉したのである。
 やはり、超越軸、言い換えると、霊軸を入れるのは、考えられることなのである。(以下、参照2を見られたい。)
 

参考:

Tue, January 14, 2014
氣の原子モデル:虚軸が陰陽で、実軸が原子:一としての氣生命と複数多元陰陽極子と現象生命体

テーマ:唯物科学から物質包摂の氣サイエンスへ

後で検討したい。
一言言うと、ガウス平面における原点をMP(メディア・ポイント)と呼んでいるが、虚軸上のものをMP1、実軸上のものをMP2としている。
 結局、原子はMP2⇒±1ではないだろうか。MP2が原子核で、±1が電子ではないだろうか。
 しかしながら、それを形成するのは、それよりも高次の氣である。MP1に陰陽極性がある。それが、MP2⇒±1へと原子転換すると思われる。
 今は思いつきのみ。

追記:簡単に図化する。

                   虚軸
                陽凸i
                / 
              /
            /
          MP1
        / ↓
      /   ↓  
    /     ↓      
  陰凹i     ↓    
           ↓   
−1_____MP2_____+1 実軸
           

尚、MP1からMP2への↓は実際は「空(くう)」と考えられる。空隙(くうげき)である。
 緑色のMP1を含む虚軸が陰陽=氣であり、ブルーのMP2を含む実軸が原子(MP2が原子核で、±1が電子)となる。

追記2:氣から原子への変換モデルであるが、問題は、生命体は、氣と原子が融合しているように思える。つまり、氣が生命情報=力となり、それが、原子を形成しているのである。そして、氣が欠落すると、原子は生命情報=力を失い、崩壊・解体する、つまり、死滅すると考えられる。

追記3:以上の説明は本当は原子というより、有機体にあてはまるだろう。ただ、便宜的に原子モデルにしているのである。
 だから、原子は、原生命的原子とでも言えば、より的確になるだろう。単なる物質としての原子ではなく、生命を構成する原生命体的原子ということである。
 簡単に、生命原子と言っていいだろう。あるいは、氣原子である。
 実際のところ、生命原子=氣原子は、複数のものが連結して、生命有機体を形成するのであるが、そのとき、連結部分を考える必要がある。
 これは、直観で、MP(MP1→MP2)が連結点であると考えられる。
 思うに、一(いつ)としての氣(陰陽)の複数の結合を考えると、一が結合部なのかもしれない。ならば、結合円である。
 一としての氣に、複数多元の陰陽極子(双極子)が重なると見るのである。
 この一が生命自体と言えよう。
 そして、複数多元の陰陽極子がイデア情報となり、物質的生命を形成するとする。
 問題は、この複数多元の陰陽極子(氣子、氣事子)が、積極的に作動しなくなり、静止的になったときが、氣の不活性状態であり、物質生命体は死ぬというように考えられる。
 とまれ、以上は思考実験である。


参照:

     『海舌』氏による人間認識図(要大修正)

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11749973736.html

参照2:

Sat, August 04, 2012
太極をどう捉えるのか:霊的太極と陰陽極性:Ver3.2:陰陽ラセンと電磁波
テーマ:無双PS原理ガウス平面

いろいろ問題があって、一挙には、解明できない。一つずつ検討して行くしかない。
 その一つの問題が太極である。太極とは、ただ一つなのか、それとも、根源に霊的太極があり、気的太極はその派生と見るのかが問題である。
 以下のVer3.0やVer3.1では、後者の発想に近い。しかし、私の元々の発想は、前者である。
 基本的な視点から見るべきだろう。超越界は、超越円ということである。つまり、それが、太極であり、そこから、陰陽極性が形成されると考えられる。つまり、太極はそもそも霊的太極であり、それが、陰陽極性を形成すると考えられる。
 だから、太極は一つであり、以下のVer3.0やVer3.1の説明は誤りということになる。
 ということで、Ver3.2を作図したい。

無双PS原理ガウス平面:Ver3.0かVer3.1か決めかねている

< 無双PS原理ガウス平面:Ver3.0>

                  

                       虚軸y軸:陽・凸i・時間形式
                                /
       超越軸z軸:超太極・霊界       /
               |           /
               |         /
               |       /
                 |     /
               |   /
               | /
−1__←重力波_太極・MP_電磁波⇒_+1実軸x軸
地          /   |              天
          /    |
        /       |    
      /        |
    /          |
陰・凹i・空間形式    |

追記5:陽・凸iは空間形式で、陰・凹iは時間形式ではないだろうか。

< 無双PS原理ガウス平面:Ver3.1>

                  

                       虚軸y軸:陽・凸i・空間形式
                                /
       超越軸z軸:超太極・霊界       /
               |           /
               |         /
               |       /
                 |     /
               |   /
               | /
−1__←重力波_太極・MP_電磁波⇒_+1実軸x軸
地          /   |              天
          /    |
        /       |    
      /        |
    /          |
陰・凹i・時間形式    |


追記6:上図のVer3.1を見ると、PS理論の考え方と近くなっている。しかし、PS理論では、+1が物質であるが、修正無双PS原理では、宇宙、自然、生命体の天の領域であり、−1は、それの地の領域になると考えられる。



<無双PS原理ガウス平面:Ver3.2>
                

                       虚軸y軸:陽・凸i・時間形式
                                /
         超越軸z軸:太極・霊界       /
               |           /
               |         /
               |       /
                 |     /
               |   /
               | /
−1__←重力波__MP_電磁波⇒_+1実軸x軸
地          /   |              天
          /    |
        /       |    
      /        |
    /          |
陰・凹i・空間形式    |

尚、Ver3.2はVer3.0を基にして作った。また、原点、MPにおいてあった太極を外した。

追記:電磁波であるが、磁場と電場が垂直に融合した波動であるが、全くの思いつきであるが、磁場は超越軸の方向、電場は虚軸の方向に関係するのではないだろうか。それとも逆か。

追記2:これも思いつきであるが、虚軸の陽・凸iが右ないしは左脳で、陰・凹iが左ないしは右脳ではないだろうか。そうすると、超越軸は前後の方向となる。それでいいだろうか。
 これまで、自己と他者を置いたが、Ver3.2では設定するのが難しい。これまで通り、自己が陽・凸iで、他者が陰・凹iでいいのだろうか。これは検討課題にする。

追記3:電磁波における電場と磁場の垂直様態であるが、これは、⇒の電磁波発生において、螺旋時空四次元を形成されていくが、このときの三次元空間において、電場と磁場との垂直様態を発生すると見るべきであり、超越軸と虚軸との垂直関係を導入すべきではないと思われる。
 では、問題は、電場と磁場との垂直様態の発生力学は何かである。
 直観で言うと、虚軸における陽・凸iと陰・凹iが共振するときに、垂直に捻れるのではないだろうか。例えば、陽・凸iが磁場へ、陰・凹iが電場へと転化していくということではないだろうか。
 そう、陽・凸iと陰・凹iの二重ラセンのようなものと、電磁波の様態が関係するのではないだろうか。これも直観で言えば、二重ラセンと電磁波の電場と磁場の垂直様態が対応しているのではないだろうか。これは検討課題である。(追記:以下の参考のラセン図が参考になる。円運動において、求心力と回転力が相応しているのではないだろうか。求心力と垂直の関係が回転力には存するだろう。この求心力と回転力の垂直様態が、電磁波の電場と磁場の垂直様態へと展開しているのではないのか。
 以下のオイラーの公式によるラセン形状であるが、例えば、求心力に磁場、回転力に電場が関係すると見られないだろうか。それとも逆であろうか。とにかく、陰陽の牽引力がある。それが回転、ラセン運動を生み出すと考えられる。そのとき、二つの力が垂直に作用する電磁波がラセン運動に発生するのではないだろうか。求心力を電場、回転力を磁場とした方がいいのかもしれない。)

(参考:
無双PS原理「逆」ガウス平面に頭(上丹田)ー胸(中丹田)ー肚(下丹田)を加えた
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11303219941.html

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11319551387.html


2014年02月03日(Mon)▲ページの先頭へ
氣=内超的力・即・内超的知:陰陽調和心の観念(イデー)・理念(イデア)とは超越的知性(理性)だ
氣=内超的力・即・内超的知:陰陽調和心の観念(イデー)・理念(イデア)とは超越的知性(理性)だ

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

私は不連続的差異論(不連続的差異論 (108)  http://sophio.blog19.fc2.com/blog-category-3.html)の段階で、心(心身、氣身)、あるいは、肚に発生した不連続的差異(今のPS陰陽論では、陰我と陰陽調和心の未分化混淆様態か)における思考とは何なのかと大いに疑問に思ったものである。
 不連続的差異とは、直感では、コスモス(不可視宇宙、小宇宙=大宇宙)に通じる、繋がるものであった。そして、そこにおいて、思考することができるのである。とまれ、その段階(2004年から数年間か)では、それが何なのか、不明であった。
 しかし、今や、PS理論(不連続的差異論の進展した理論で、2005年、2006年頃に形成され、2013年初期まで継続した)の後、一年ほどの大試行錯誤を経て、太極無双PS陰陽論(簡略して、PS陰陽論)に到達したが、今や、不連続的差異論におけるその疑問が、理論的にはより明晰になった形で、解明されると思われる。
 即ち、不連続的差異は、今や、新たに分化して、陰我と陰陽調和心に錬成したのである。即ち、

不連続的差異⇒陰我+陰陽調和心

である。
 そして、陰陽調和心は、一(いつ)としての氣であり、それは、内在超越した心性であり、直観・直感では、イデアであると思われるのである。
 しかしながら、不連続的差異におけると同様に、そこでも、当然、思考が存するのであり、私自身、そこで思考しているのである。そして、この思考が、私の周囲の人の自我・主観的思考(近代的利己的自我思考)とは、異なることが明瞭なのである。
 私は、それは、陰陽調和心は、観念の領域であると思う。それは、概念を包摂したイメージ、情感、意志等を内包した「知」・「智」である。
 そして、同時に、それは、プラトン哲学のイデア(理念)ではないかと思うのである。
 そこでは、自我的、利己的、主観的感情、否定的感情、諸々の反感から超越し、肯定的な思考が支配しているのである。自我(両自我、つまり、陽我と陰我)を包摂して超越した(造語で、包超ないし内超した)、いわば、自己ないし個の思考が支配するのであるが、同時にそれは、普遍的思考(普遍的知・智)であると思えるのである。
 それは、端的に、哲学的思考であり、同時に、そこは、芸術領域、倫理領域に通じると思われるのである。つまり、プラトンの言う真善美のイデア領域ということになるのである。
 思うに、日本人が無思考であると言われるのは、この観念(イデー)・理念(イデア)の領域において思考できないからのように思えるのである。
 それに対して、西洋の知識人、賢者は、このレベルで思考していると思えるのである。しかし、そうはっきり自覚していないと思われるのであるが。また、日本の伝統的な賢者もそうであったと思われる。例えば、空海、道元、世阿弥、芭蕉、西田幾多郎、鈴木大拙、漱石、宮沢賢治等々である。
 そう、戦前までのまともな日本人はこの観念・理念のレベルを十分ではなかっとしても、もっていたと思う。(追記:美空ひばりの歌唱は、純粋な観念・理念のレベルに存すると考えられる。)
 しかし、戦後、唯物科学が支配して、その哲学的思考が壊滅してしまったと思う。私見では、特に、1970年代後半以降である。
 本題に返れば、自我を包摂的に超越した陰陽調和心における、観念(イデー)・理念(イデア)の思考であるが、それは、上記したように、一(いつ)としての氣の領域でもあるのである。
 つまり、この思考、超越的知・智は、氣的でもあるということになるのである。
 ここで想起するのが、朱子の理気論である。即ち、朱子は、理を形而上学的なもの、氣を形而下的なものと捉えているが、思うに、一(いつ)としての氣とは、ほぼ、朱子の理に相当すると思うのである。
 そう、ここが微妙なところである。つまり、私が唱える氣は、一としての氣と陰陽としての氣があり、前者は、朱子の理に相当する。あるいは、観念・理念と一致するのである。
 しかし、一としての氣は同時に、陰陽の氣である。つまり、

一(いつ)の氣=陰陽の氣

である。
 それで、一の氣=理であるから、結局、

理=一の氣=陰陽の氣

である。
 そして、一の氣は観念・理念であるから、結局、

理=一の氣=観念・理念=陰陽の氣

となる。少し整理すると、

理=観念・理念=一の氣=陰陽の氣

である。
 そうすると、朱子の氣の考え方は、間違っていたのではないかと思うのである。
 確かに、氣は、物質に近いものであるが、物質の内在超越的原理と見るべきであり、物質そのものではないのである。
 ただし、朱子が氣を生命的原理にとっていたならば、それは、間違っていないと言えよう。(今、ふと想起したが、スピノザの説く心身並行論であるが、彼の精神をここでの理=観念・理念と捉えれば、スピノザ哲学はより整合的になると直観される。)
 思うに、この公式は、多くのことを物語ると思う。つまり、今や、氣が解明されたと思うのである。それは、実は、力であり、且つ、知なのである。力即知(智)なのである。これが、自然を形成しているのである。
 しかし、この知(智)は、物質的な知、あるいは、自我的知(陽我の知)ではないのである。つまり、それは、超越的知なのである。
 だから、書き直して、氣=力即超越的知、さらに、

氣=超越的力即超越的知

となる。より正確に言えば、

氣=内在超越的力・即・内在超越的知

簡単にすれば、

氣=内超的力・即・内超的知

となる。
 結局、陰陽調和心の思考、観念・理念の思考、超越的思考に達すると、それは、氣でもあるのであり、結局、それは、心身的であるので、身体をも形成するし、引いては、環境、社会、自然、宇宙も形成すると言えよう。
 キリストの説いた信とは、いわば、氣信と見るべきだろう。
 今はここで留める。

追記:大事なことを言うのを忘れていた。即ち、氣は自然を生成成形造形するが、人間は超越的思考によっては、一般的には、その一部しか意識できないのである。例えば、五臓六腑において、その一つの、心臓において、氣がどのような超越的力・即・超越的知=超越的理力をもっているか、意識できないのである。そう、無意識である。(しかし、シュタイナーのような瞑想によっては、理解できるようになるかもしれない。)
 ただ、思うに、直観・直感・勘(感)において、その暗示を捉えることはできるように思える。


2014年02月01日(Sat)▲ページの先頭へ
陰陽調和心(中丹田=胸)とは、内在超越的な一(いつ)の氣(イデア)である
陰陽調和心(中丹田=胸)とは、内在超越的な一(いつ)の氣(イデア)である

2014.02.01 Saturday | category:太極PS理論:PS陰陽論

陰陽調和心(中丹田=胸)とは、内在超越的な一(いつ)の氣(イデア)である

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


先に以下のように述べたが、陰陽調和心は内在超越的な一(いつ)の氣(イデア)と通じているのであり、実に意味深長である。
 後で、さらに説明したい。




現代日本人の悪鬼自我の分析:陽我⇄陰我のループ回路で、陰陽調和の友愛性が喪失される

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


近代的自我という父権的自我に現代日本人は陥っている。
 それは、物質主義である陽我(凸i)と自己中心主義である陰我(凹i)が連続化したものであり、両者を均衡させる陰陽調和心(魂)が未形成なのである。
 シュタイナー霊学で言えば、陽我はアーリマンであり、陰我はルシファーである。そして、陰陽調和心はキリストである。
 言葉で言うより、図式化した方が直観できるだろう。



  陽我(アーリマン)・・・頭・・・上丹田
    ☟    ☝
    ☟    ☝ ☞排除☞(陰陽調和心)・・・胸・・・中丹田
    ☟    ☝
  陰我(ルシファー)・・・肚・・・下丹田
 
現代日本人の父権近代自我



 
   陽我(アーリマン)・・・頭・・・上丹田
    ☟     ☟
    ☟     ☟
   陰陽調和心(キリスト)・・・胸・・・中丹田
    ☝     ☝
    ☝     ☝
   陰我(ルシファー)・・・肚・・・下丹田

 ポスト唯物論の自己様態
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11762178912.html
| sophiology | 12:30 | comments(0) | trackbacks(0) |




現代日本人の悪鬼自我の分析:陽我⇔陰我のループ回路で、陰陽調和の友愛性が喪失される

2014.02.01 Saturday | category:太極PS理論:PS陰陽論

現代日本人の悪鬼自我の分析:陽我⇄陰我のループ回路で、陰陽調和の友愛性が喪失される

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

近代的自我という父権的自我に現代日本人は陥っている。
 それは、物質主義である陽我(凸i)と自己中心主義である陰が(凹i)が連続化したものであり、両者を均衡させる陰陽調和心(魂)が未形成なのである。
 シュタイナー霊学で言えば、陽我はアーリマンであり、陰我はルシファーである。そして、陰陽調和心はキリストである。
 言葉で言うより、図式化した方が直観できるだろう。

以下の作図は次のリンクを見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11762178912.html



  陽我(アーリマン)・・・頭・・・上丹田
    ☟    ☝
    ☟    ☝ ☞排除☞(陰陽調和心)・・・胸・・・中丹田
    ☟    ☝
  陰我(ルシファー)・・・肚・・・下丹田
 
現代日本人の父権近代自我



 
   陽我(アーリマン)・・・頭・・・上丹田
    ☟     ☟
    ☟     ☟
   陰陽調和心(キリスト)・・・胸・・・中丹田
    ☝     ☝
    ☝     ☝
   陰我(ルシファー)・・・肚・・・下丹田

 ポスト唯物論の自己様態





氣身論(身氣論):身(み)は心と体を同時に指す:氣を介した心と身体の相互浸透様態としての身(み)

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

以前、月-心という造漢字で、「こころ」と読ませると言ったが、実は、「身(み)」という言葉がそれに相応しいと言える。
 「相手の身になって考えなさい」の「身」は、心であり、且つ、身体である。
 ということで、「身」の「心」は氣に近いのである。何故なら、「身」は身体に通じるからである。氣だとまだ、身体と心の中間であるが、「身」は氣と身体との中間である。即ち、「身」=氣+身体である。
 故に、氣身論ないし身氣論を提唱したい。
 これは、いわゆる、氣のサイエンスを越えているのである。そう、氣身サイエンス、身氣サイエンスを提唱したい。
 後で、さらに発展させたい。

追記:単に、身サイエンスでいいはずである。ただし、氣が見えないので、身-氣と造漢字してもいい。あるいは、身/氣サイエンスである。

追記2:「身は心と身体を同時に指す」というのは不十分な言い方である。
 身とは、心であり、且つ、身体である。心と身体が一如の様態を指していると思う。それは未分化様態なのか。
 思うに、心は氣を介して、身体へ浸透し、また、身体は氣を介して、心に浸透しているのである。
 この氣を介した心と身体の相互浸透様態が身(み)と言われるものだろう。ならば、氣身論、ないし、身氣論は成立するのである。

追記3:氣をわかりやすく言うと、太陽光線と見るといいだろう。しかし、正確に言うと、太陽光線に内在超越している本体(イデア)が氣である。とまれ、実践的には、氣=太陽光線(日光、陽光)と見れば、明快になろう。






三位一体放射能黙示録サバイバル・ライフスタイル:森氣浴散策&瞑想ー断酒・小食ー豆乳ヨーグルト

テーマ:健康&治癒:森気浴:医食同源:小食菜食

ようやく、今月初旬に引いた風邪による体調やライフスタイルの崩れから立ち直り出した。
 今日も森氣浴散策・瞑想を行った。そして、また、体がだるくなり、また、腹や顔に脂肪が付きだしたので、断酒した。
 やはり、肝臓が弱っているのだろう。断酒したら、調子がよくなった。やはり、パーティーのときだけ、飲むのが適切である。
 とまれ、再び、調子が出てきたのはうれしい。
とにかく、体、体、体である。
 そして、心、心、心である。
そう、体心、体心、体心である。
 霊学は、霊主体従と言うが、私は、霊学が否定的に捉える体主霊従と言いたい。
 体調が悪いと心も荒む。

追記:結局、氣の問題である。体調は氣を介して、心と通じているのである。

体⇔氣⇔心

である。
 そう、体・氣・心の三位一体である。


   




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