INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2013/11

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2013年11月26日(Tue)▲ページの先頭へ
有氣体(氣的物質、生命体)と無氣体(純物質):氣=陰陽共鳴に拠る生命ー物質双体様態の有氣体
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11712291592.html

有氣体(氣的物質、生命体)と無氣体(純物質):氣=陰陽共鳴に拠る生命ー物質双体様態の有氣体

テーマ:唯物科学から物質包摂の氣サイエンスへ

岩、磐座、鉱物の解明でつまづいているが、今、作業仮説的に、物質を二つにわける。それは、有氣体(有氣物質)と無氣体(純物質、無氣物質)である。
 岩、磐座、鉱物はそうすると、実は、前者に属するのである。それは、氣をもっているのである。
 すると、氣を生命力としたこれまでの考えを訂正する必要がある。氣は原生命力であるが、生命力自体ではないとするのである。氣から生命力は生まれるとするのである。


    『海舌』氏による人間認識図(要大修正)

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory

 思うに、有氣体とは、上図で言えば、円全体である。右半円が氣的様態であり、左半円が物質的様態と思える。
 しかし、両者は原点、中心点で結合しているのである。以前は、MP(メディア・ポイント)と呼んだ点である。
 それは、氣と物質の紐帯である。臍の緒である。
(しかし、ここに作図されていないのが、陰陽円、超越円である。それは、この円に直交するような虚軸を直径とするような円である。そこで、いわば、イデア界となるだろう。そう、無双太極界である。だから、陰陽円というよりは、陰陽未分化円と呼ぶ方が正確である。これについては、別に述べたい。)
 説明すると、陰主導の陰陽共鳴によって陰凹i*陽凸i⇒+1の氣様態が生成する。同時生起的に、陽主導の陰陽共鳴によって陽凸i*陰凹i⇒−1の物質様態が生成する。
 つまり、陰陽共鳴は同時生起的に、氣様態と物質様態を生成すると考えるのである。当然、前者は不可視様態である。後者が可視様態である。
 重要な点は両者が同時生起であるばかりでなく、両者、一体となっている点である。(思うに、空海の卓抜な両界曼荼羅であるが、それは、この氣様態と物質様態の同時生起的一体を指しているのではないだろうか。ならば、両氣物体と言えるかもしれない。)
 そう、結局、陰陽共鳴が成形する双つの様相・様態である。それを、双体性、あるいは、両体性と仮に呼ぶ。つまり、有氣体とは、双体性、両体性をもっているということである。
 そして、岩、磐座、鉱物は有氣体であり、双体性、両体性をもっているということになる。
 では、そうしたとき、通常の生命体はどう説明できるのか。
 当然、それは、有氣体である。しかし、鉱物との違いはどう説明できるのか。
 今、気付いたが、上記の説明を修正する必要がある。
 陰凹i*陽凸i⇒+1は氣様態ではなく、生命様態と修正する必要がある。
 考えてみれば、陰陽共鳴は当然、氣(一の氣)に基づくものであるから、それから、氣様態が生成するというのは矛盾である。
 故に、陰陽共鳴の双体性・両体性とは、生命様態と物質様態の両面を意味することになる。
 さて、生命体の問題に戻る。
 ここでさらに作業仮説であるが、岩、磐座、鉱物であるが、それは、陰陽共鳴でも、陽優勢、陽優先、陽主導の双体・両体ではないだろうか。つまり、おそらく、岩、磐座、鉱物には、生命様態があるのであるが、それは、いわば、潜在態になっているのである。つまり、おそらく、完全に陽主導になって物質体になっているのである。勿論、氣はあるが、生命は潜在態となっているということである。
 それに対して、植物、動物、人間物の生命体(思うに、細菌等も含めていいだろう)であるが、それは、陰陽共鳴において、陽優先を乗り越えて、陰主導が賦活されているのである。
 故に、生命様態が成形されているということになるのである。
 この生命様態こそ、生命体の本質、本体である。しかしながら、現象的には、物質体(左半円)が発現するということなるのである。右半円の生命様態は、氣自体と同様に、不可視であるということになるのである。
 ただし、螺旋形状の「イデア」あるいは「エイドス」は生命様態に存すると思われる。ゲーテを言う原植物とは、ここに存することになる。
 そう、プラトンのイデアの一つはここに存するだろう。(プラトンのイデアはどうも少なくとも二種類に分けられる。根本の無双太極と氣における生命様態である。これは、別に検討したい。)
 ここで、有氣体の変遷を簡単に図式化する。

無双太極⇒氣⇒陰陽共鳴(双体性)⇒鉱物(陽主導)⇒植物(陰陽調和)⇒動物(陽主導)⇒人間物(陰陽調和と陽極大と陰極大)

である。
 簡単に説明すれば、氣に基づく陰陽共鳴(陰陽対極性・両極性)が最初は陽に傾斜して、鉱物を産出し、次に、陰陽調和によって植物(細菌等はおいておく)を産出し、次に、再び、陽に傾斜して、動物(下等動物と上等動物の力学の違いを説明すべきであるが、おいておく)を産出し、その後、再び、陰陽調和がもたらされ、人間物(母権人間物)が産出されるが、次に、極陽としての自我、極陰としての魂が産出される。前者が悪霊アーリマン、後者が悪霊ルシファーである。とまれ、それは父権人間物に関係すると思われる。
 とまれ、以上で、岩、磐座、鉱物について解明し、これまでの齟齬の解消を試論した。

追記:以上のように考えると、地球はどう説明されるだろうか。
 それは、太陽とともに生命体を育む物質体であるが、それは、当然、岩・磐座・鉱物的存在である。だから、それは、有氣体である。そう、多様複合的有氣体としての地球である。地球自体、生命体とは別に、氣、それも、きわめて、複雑多様な氣を内包しているのである。
 D.H.ロレンスが地霊(spirit of place)について頻繁に言及するが、それは、この地球の氣のことと言えよう。それは、実に多様複雑と言えよう。
 そう、氣の叡知では、龍脈を説くが、それも地球の氣を意味すると考えられよう。そう、地球は地氣湧である。
 ここで、氣、地球の氣と磁気、地磁気の関係が問題になる。
 しかし、これは、直観では当然、別物である。近いとは言え、異質である。
 今は、漠然と言うが、磁気は−1や+1の実数と関係すると思う。一見陰陽対極性と関係するように思われるかもしれないが。
 否、陰陽共鳴の物質化で説明がつくかもしれない。
 思うに、陰陽共鳴の陽主導による物質化であるが、それは、連続化と言えると思う。つまり、陰陽を連続化し、氣=陰陽を物質化するのである。このとき、物質は物質的極性を獲得するのではないだろうか。つまり、磁気であり、電気力である。(単性磁力の問題はここではおいておく。)
 つまり、本来、氣=陰陽対極性は、牽引と反発の矛盾力をもっているが、陽主導の連続化によって、反発が消えて、牽引だけでになると考えられる。故に、物質的極性が形成されると考えられるのである。つまり、磁気ならば、NとSは牽引するのであり、反発はしないのである。

追記2:タイトルの一部の無氣体(純物質)については言及していないので、少し補足する。
 当然、氣のない物質である。それは、上記から、陰陽共鳴の氣エネルゲイア(エネルギーというより、アリストテレスの用語エネルゲイアの方が内包性が多いので、使用する)から鉱物や生命体を含めた有氣体が成形されるが、その後、氣エネルゲイアの枯渇したとき、有氣体は生成性を喪失して、帰結として、−1の純物質、即ち、無氣体になると考えられる。
 ならば、+1は何か。生命体の帰結である+1とは。
 直観では、種子だと思う。遺伝子の包摂された種子だと思う。では、動物はどうなのか。卵子? 精子? 
 確かに言えるのは、遺伝子である。これは、卵子、精子ということではなく、全体として、遺伝子であろう。
 とまれ、要検討である。
 
参照:陰陽方程式に関しては、以下を参照されたい。
オイラーの公式とマイナスの実部:自我と物質の結びつき
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11687938079.html

自己(個)陰陽方程式:自我は陽凸iであり、非我(無私・愛)は陰凹iである:オイラーの公式
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11686282196.html




氣の科学へ向けて:物質科学から物質を包摂した超越科学へ

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

以下は昨日書いたもので、雑ぱくとしている。
 今日はもう寝るので(雨も降っていて、買い物には行かない)、まとまったことは言えないが、一言、書きたい。
 今、私の考えが混乱しているのは、岩、磐座を考え出してからである。
 感性では、わかりやすいと思えたので、それまで触れなかったのであるが、いざ、説明しようとしたら、うまく説明できないのである。
 結局、これまで、氣と生命体の観点で考察を行ってきて、鉱物を対象から外してきたのであり、そのため、生命体に関しては、それなりに説明できても、鉱物についてはすぐできないということだと思う。
 これまでの考えは、初めに氣があり、それが、生命体を形成し、純物質(生命物質ではない)とはそれから派生するというものである。
 だから、感じとしては、鉱物を純物質に入れればいいということだったのである。
 しかし、いざ、鉱物、岩、磐座を考えようとすると、それは、氣があるということで、純物質には入らなくなるのである。
 これは、齟齬、パラドックスである。何故なら、純物質とは、生命物質において、氣が失われたことを意味するのであるからである。
 途中。

**************************

明日早いので、一言のみ。
 以下において、氣の力学を試行錯誤している。
 まだ、決定打は出ていない。いくつか作業仮説が出ている。いったん整合化して、問題点をクリアにしたい。
 結局、氣とシュタイナー霊学のエーテル体との関係なのである。私は氣とエーテルないしエーテル体は同じだと思ってきたが、先に述べたが、後者には、陰陽極性はないのである。
 例えば、作業仮説で、天の氣と地の氣を考えると、シュタイナーのエーテルとは、天の氣で、地の氣は含んでいないように思えるのである。
 また、岩、磐座についても再考したい。
 岩、磐座は不思議な存在である。依り代なら、どうして、植物でなく、岩なのか。
 直感では、地球と関係しているのではないだろうか。地球を磐座として、霊を太陽とすればどうだろうか。
 そう、端的に、シャーマニズムの問題である。
 直観では、地の気を岩、磐座が代表し、それが、天の気を受けるのである。

* 磐座とは何ぞ哉:岩と森:天の氣と地の力の結合:巨石信仰 (11/24)
* 二重天皇制の精神力学分析:母権と父権のゆらぎ:氣・植物体的魂と動物体的自我の二元論主体 (11/22)
* 二つの天皇制:母体の母権天皇制と父権天皇制:藤原氏と日本書紀 (11/21)
* 松果体と脳下垂体の二重システム:人体(人心体)における動物体と植物体の結合における免疫力と生命力 (11/21)
* 現象界(物質界)と光と氣 (11/20)

なんでも哲学する:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory:日本心的革命宣言




磐座とは何ぞ哉:岩と森:天の氣と地の力の結合:巨石信仰

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

私はかつて日曜登山をしたが、沢の石、登山道の岩、あるいは、神社の磐座に興味をもってきたが、考えてみるとほとんど考察したことがないのである。これは我ながら不思議なことである。
 芭蕉の「閑かさや岩にしみいる(沁み入る)蝉の声」は日本人の岩への感性を表明していると思う。
 これはよくわかるのである。
 しかし、これは何なのだろうか。岩と確かに一体となるのである。これは、PS陰陽論から言えば、陰陽調和であるが、陰において、岩と一体となるのである。
 確かに、植物、樹木とも一体になるが、それは生命体であるにに対して、岩は非生命体である。
 しかし、直観では、岩には氣があるのである。
 そう、私は宇宙も生命体と捉えるので、その意味で、岩も生命体になるのである。
 ここで、理論的に整理する必要がある。氣は自然宇宙の創造力である。
 それは、鉱物体も生命体も創ると考えられる。
これは難解なので、今はおいておく。
 今は、感性経験から、考えたい。
 岩が宇宙を象徴すると思う。直観でそう思う。
ならば、氣の象徴なのだろうか。
 思うに、山と似るのではないだろう。
 山には、上からの力と下からの力が交差していると思う。前者が氣ならば、後者は何なのか。これは先の疑問である。
 今閃いたが、岩は無双太極の象徴ではないだろうか。氣に先行する根源である。
 山歩きして、路傍の岩に、氣を感じるのである。
岩の氣があるのである。
 今又閃いたが、やはり、岩は天から来る気の依り代である。つまり、天からの氣を受ける地の受け皿、容器である。
 天からの氣を受ける地の容器である。
そして、そこに森、樹木があれば、それは、陰陽調和である。氣の純粋表現ではないだろうか。
 つまり、天の氣を受けた地の容器ある岩(磐座)とは、森、樹木を意味しているのではないだろうか。
 つまり、森、樹木の原型としての岩(磐座)ではないのか。
 森、樹木、植物は、天の氣を受けて生長する、地の衣装をまとう存在ということで、岩に原点があるということではないだろうか。
 簡単に言えば、生命体は本質が氣であっても、鉱物の身体をまとうということである。その鉱物の身体を岩(磐座)は意味するのではないのか。
 当然、植物体、動物体、人体以前の身体である。そう、鉱物体である。
 直観では、地の氣をもつ身体である。
そう、作業仮説的に、地の氣を考えよう。そして、岩(磐座)は地の氣の身体であるが、同時に、天からの氣を宿していると思えるのである。
 ならば、やはり、生命の原型である。ただ、未生命の様態ということになる。
 ここで、直観を言うと、陽主導は地を生み、陰主導は天を生むのである。
 否、違う、陽主導は地への志向性を生み、陰主導は天への志向性をもつように思う。
 これがポイントだと思う。後者の天への志向性とは正に、樹木の天へ伸長力を意味するだろうし、前者の地への志向性は、根の伸長力を意味できよう。
 そう、両者は生命力であり、氣自体ではないのだろう。
 氣は陰陽一体の陰陽円として存するのだろう。陰陽の一(いつ)としての氣である。
 氣が陰極と陽極に分離して、生命力を産み出すということになろう。
 ここで、用語が混乱するのである。
 陰極と陽極の力をそれぞれ、陰力、陽力としよう。
そして、天への志向性を生命天力、地への志向性を生命地力と呼ぼう。
 そして、それらの基底に一(いつ)としての氣が存するということである。
 そうしたとき、天の位置づけが問題となる。これは一時今はおいておく。
 
追記:時間がないので、簡単に補足しておく。
 先に『海舌』氏の人間認識図の修正を提示したが、その修正人間認識図(いつか、新たに作図したい)の右半円が天で、左半円が地ではないだろうか。(追記:岩は左半円に属することになる。そして、右半円の天を原点を介して、内在・内包するのかもしれない。)

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory

 そうすると、虚軸は、凸(+)が陽極であり、凹(−)が陰極である。実軸は、+が天で、−が地である。
 そして、四大(地水火風)であるが、第一象限=火、第二象限=地、第三象限=水、第四象限=風ではないだろうか。
 しかし、こうすると、実軸の天と地の地と齟齬となる。思うに、四大の地水火風であるが、その地は土とすべきように思う。つまり、土水火風である。だから、第二象限=土となる。

追記2:今思ったのであるが、天と地はそのままにして、つまり、天=火=+1,地=−1として、陽=風、陰=水と考えることもできる。そうすると、四大(地水火風)の地を土にする必要がなくなる。
 
 

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場所は、巴川沿いの旧足助(あすけ)街道から九久平の滝川沿いに国道301号を
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んが、各地にピラミッドのようなものがあったようです。 当時は、現代 ...


2013年11月22日(Fri)▲ページの先頭へ
二重天皇制の精神力学分析:母権と父権のゆらぎ:氣・植物体的魂と動物体的自我の二元論主体
二重天皇制の精神力学分析:母権と父権のゆらぎ:氣・植物体的魂と動物体的自我の二元論主体

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように書いた。
 今は、新たに気づいたことを備忘録する。
 1)作業仮説の百済の父権主義であるが、それとイスラエルの失われた十支族と結びつきがあるとするのはどうか。先に日ユ同祖論を示唆したが、それ以前 に、百済ユダヤ同祖論がありうるのであり、それが、結果的に、日ユ同祖論に展開するということではないのか。そう見ると、日本の神社にユダヤ教と共通する ものがものが多く見られるというのは、百済ーユダヤ・ルートに拠るということになるだろう。
 私が探していた日本父権民族とは、実は、百済ーユダヤ父権民族ということになるのである。
 しかし、以下に示唆したように、この百済ーユダヤ父権民族とは、実は基盤の百済母権民族を支配しているという構造をもっていると考えるのである。この父 権/母権二項対立精神力学を百済民族はもっているということになるのである。あるいは、父権/母権二重構造と言ってもいい。
 とまれ、そのような百済ーユダヤ父権/母権二重天皇制が日本に到来して、それを日本国として実現したというよに考えられてくるのである。
 そして、日本国創建の証拠として、記紀、とりわけ、日本書紀が創作されたというように考えられるのである。
 聖典を記録するのは、父権文化である。そして、当然、母権文化を卑しめ、父権文化を称揚するのである。これが、父権文明の聖典形成の常套手段である。
 だから、日本書紀の天孫降臨民族は侵略した父権民族であり、土着的母権民族を支配したと考えられる。
 しかし、問題が複雑なのは、侵略した父権民族は、母権民族性を内包していたことである。
 母権内包型父権なのであるから、母権文化を保存する必要があるのである。それが、日本書紀、記紀に出ているはずである。
 わかりやすい徴表は、太陽信仰、太陽神である。
 これは母権文化と父権文化で共通するのである。太陽信仰を核にすることで、父権民族は母権民族を支配できる権威を得ることができるのである。
 そして、政治的には天皇制が中心となるのである。母権と父権の紐帯としての天皇制である。
 
2)1と関係するが、母権と父権の二重性をもつ精神の構造である。これは不安定なゆらぎの様態にあるのではないだろうか。
 そして、このいわば、混沌としたゆらぎ状態に日本人の意識はあるのではないだろうか。
 一方では、母権志向であり、他方では父権志向である。
 しかしながら、意識は父権へとなびきやすいので、日本人は父権志向になっているのである。
 しかしながら、これは、正に、父権民族支配の思うつぼである。彼らは、日本母権民族の未分化的二重様態における父権志向を利用して支配できるのである。そう、洗脳できるのである。
 結局、これは、日本母権民族が自身の原基盤たる母権文化を明確に認識していないことから来ると考えられる。
 この点では日本人は実に杜撰である。おそろしく杜撰である。そう、生ぬるく生きてきてしまったのである。甘えである。
 そう、日本母権民族の精神構造を考えると、百済ーユダヤ父権民族の父権文化が入ってきたために、純粋母権文化ではなく、父権文化が導入されることになるのである。
 つまり、母権+父権の混合状態になると考えられる。これは、言うならば、分裂状態である。齟齬様態である。
 これが、一般的日本人の精神の基本的様態ではないだろうか。つまり、一方では、母権志向でありながら、他方では、父権志向という分裂様態である。混沌様態である。
 しかしながら、イデオロギー的には父権優位で洗脳され、マインドコントロールするのである。
 結局、未だ、日本人は自己形成が未完成なのである。
 自身の本質である母権文化を見ないように、洗脳されているからである。
 母権文化を探求すると、実は、氣の文化に突き当たるのである。それは、肚の文化であり、また、当然、不可視の文化である。ディオニュソス文化である。
 しかしながら、父権文化は可視文化、現象・物質文化であり、それを否定的に捉え、母権文化を制止するのである。
 そう、女性を劣位に置くのである。
 しかしながら、極めて不思議なことは、日本語に語彙に「氣」という字や言葉溢れているのに、それを理論・哲学化していないことである。もっとも、例外の人物はいるが。 結局、百済―ユダヤ的父権民族が日本母権民族を支配している図式がずっと続いているということだと思う。そして、現代、百済―ユダヤ的父権民族である自民党政権が剥き出しで、日本母権民族を殲滅させようとしているのである。
 ユダヤ選民主義は母権民族を否定するのである。正に、黙示録である。

最後に天皇制に戻ると、父権的天皇制とは、一種の専制を意味する。そして、母権的天皇制は、そこにD. H. ロレンスが『アポカリプス』で述べたようなコスモスの力の反映があると思われる。私の言葉では、氣の自然宇宙の文化共同体の力学を意味するのである。


二つの天皇制:母体の母権天皇制と父権天皇制:藤原氏と日本書紀

以下の説は、興味深いが、天皇制に関しては、一面的であると思う。
 私の仮説は、天皇制は二つあるというものである。母権的天皇制と父権的天皇制であり、両者が重なっているのである。
 思うに、藤原氏は父権的天皇制を作ったのであり、基盤の母権的天皇制を利用しているのである。
 日本書紀は、父権的天皇制イデオロギーの面が強いのではないだろうか。
 思うに、飯山一郎氏の唱える百済国亡命をベースにする日本国建設論であるが、宗像大社とその神話の壮麗さを見るとそれは、母権文化である。
 しかし、百済出身とされる藤原氏は、どう見ても父権主義である。
 この齟齬をどう見るのかである。
 私は先に、父権民族は、中国経由のアーリア系民族ではないかと示唆した。
 しかし、藤原氏が百済出身であるなら、日本父権民族の源流は考え直さなくてはならない。
 これは作業仮説であるが、百済国が実は、母権民族であったが、父権民族によって征服されたのではなかったのか。つまり、父権支配の母権民族としての百済国である。
 それが、原日本に亡命してきたという作業仮説である。
 つまり、元々、百済国は二重天皇制の国であったという作業仮説である。
 そして、その二重天皇制の百済国が原日本に「亡命」して、日本国を創建するということになるのである。
 そして、元来、母権民族である原日本において、二重天皇制は独自の発展したのではないだろうか。
 つまり、百済の母権天皇制は原日本の母権民族と結びついたのではないだろうか。
 そして、百済の父権天皇制は、それらを支配する方策をとったのではないだろか。それが、例えば、日本書紀の創作ではないだろうか。
 キリスト教になぞらえて言えば、ヤハウェ的天皇制とキリスト又は聖母マリア的天皇制が生じたのではないだろうか。
 そして、土着的母権的原日本人(縄文・弥生)は後者に惹かれたのであり、今でもそうである。
 そして、自民党のような明治維新的タカ派路線は当然、ヤハウェ的天皇制である。
 もう少し言うべきであるが、時間がないので、今はここで留める。
 
藤原氏の正体編: 心の尊さ(真実)と血筋の尊さ(虚飾)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11709761794.html



二つの天皇制:母体の母権天皇制と父権天皇制:藤原氏と日本書紀

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

以下の説は、興味深いが、天皇制に関しては、一面的であると思う。
 私の仮説は、天皇制は二つあるというものである。母権的天皇制と父権的天皇制であり、両者が重なっているのである。
 思うに、藤原氏は父権的天皇制を作ったのであり、基盤の母権的天皇制を利用しているのである。
 日本書紀は、父権的天皇制イデオロギーの面が強いのではないだろうか。
 思うに、飯山一郎氏の唱える百済国亡命をベースにする日本国建設論であるが、宗像大社とその神話の壮麗さを見るとそれは、母権文化である。
 しかし、百済出身とされる藤原氏は、どう見ても父権主義である。
 この齟齬をどう見るのかである。
 私は先に、父権民族は、中国経由のアーリア系民族ではないかと示唆した。
 しかし、藤原氏が百済出身であるなら、日本父権民族の源流は考え直さなくてはならない。
 これは作業仮説であるが、百済国が実は、母権民族であったが、父権民族によって征服されたのではなかったのか。つまり、父権支配の母権民族としての百済国である。
 それが、原日本に亡命してきたという作業仮説である。
 つまり、元々、百済国は二重天皇制の国であったという作業仮説である。
 そして、その二重天皇制が原日本に来て、日本国を創建するということになるのである。
 そして、元来、母権民族である原日本において、二重天皇制は独自の発展したのではないだろうか。
 つまり、百済の母権天皇制は原日本の母権民族と結びついたのではないだろうか。
 そして、百済の父権天皇制は、それらを支配する方策をとったのではないだろか。それが、例えば、日本書紀の創作ではないだろうか。
 キリスト教をなぞらえて言えば、ヤハウェ的天皇制とキリスト的天皇制が生じたのではないだろうか。
 そして、土着的原日本人は後者に惹かれたのであり、今のもそうである。
 そして、自民党のような明治維新的タカ派路線は当然、ヤハウェ的天皇制である。
 もう少し言うべきであるが、時間がないので、今はここで留める。
 
藤原氏の正体編: 心の尊さ(真実)と血筋の尊さ(虚飾)
長年に亘って藤原氏と関わって藤原氏を見てきた先祖を持つ清和源氏の一族の私には、藤原氏の顔がそのままハイド氏の顔に見える。安倍晋三は藤原系の政治家だ。同じく天皇制の 母体となっている神道の靖国神社では、お国のために死ねる若者育成セミナーをしているそうだ。戦前・戦中は「お国のために死ね、死ね」と叫ばれ、国民の命 が粗末にされた。今は天皇制の支持率は低いようだが、彼らはその事実を言論弾圧によって隠蔽している。彼らは天皇制を強化して、戦前・戦中の大日本帝国に 戻そうとしている。彼らは日本を再び戦争に引きずり込もうとしている。竹島問題、尖閣諸島問題も、彼ら右翼系政治家が日本側から火をつけて、わざと煽っ た。日本を戦争に引きずり込むための自作自演ではないか、と思われる。日中戦争は日本側からの自作自演で勃発したことを忘れてはいけない。安倍晋三らの藤 原系政治家が、「この1300年以上の間、しばしば日本を中国や朝鮮との戦争に引きずり込んできた、ルーツ不明の一族である藤原氏」の中心なのである。
藤原氏の祖・鎌足は日本の豪族である中臣氏出身であるということになっているが、有名な一族であるにもかかわらず、本当のルーツは不明だ。しかし、藤原鎌足の正体は、日本を白村江の戦い(663年) に引きずり込んだ、百済王子豊璋であると思われる。彼は白村江の戦いの決戦の直前に、負けそうだと思って、家臣を騙して手勢を少しだけ引き連れて逃げ出し (軍の将・王子豊璋が行方不明になったため、余計に大敗した)、高句麗に逃げたことにして、日本にこっそり逃げ帰って、天智天皇から中臣鎌足(後に藤原鎌 足)の名をもらって帰化した。人間として卑怯極まりない。藤原鎌足の直系子孫は「百済系朝鮮民族の王族である自分達は血筋が尊い」と考え、大和民族を侮蔑 している。祖国・百済を滅ぼした、唐(中国)、新羅(朝鮮)への恨みの気持ちをずっと持っており、「お国のために死ね、死ね」と大和民族を騙して、中国や 朝鮮との仇討ち戦争をもくろんでいる。それが、竹島問題、尖閣諸島問題をわざと煽っている、右翼系政治家の真の目的だ。唐(中国)、新羅(朝鮮)を仇討ち できるし、日本列島の上に「日本」という名の百済国を再建するにあたって、邪魔な日本土着民(大和民族、沖縄人、アイヌ人ら)も、戦争を通じて大量にわざ と殺害できて減らせる、と考えておるようだ。


http://seiwagenjisinjitury3.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ded1.html



松果体と脳下垂体の二重システム:人体(人心体)における動物体と植物体の結合における免疫力と生命力

テーマ:生命力/氣自衛医智学:唯物機械論医学批判

私はこれまで、人体の免疫力と氣の生命力は関係しているのではないかと思ってきたが、どうも異なるように思えた。
 つまり、人体を先に、四層で考えたが、その中に、動物体層と植物体層があるが、免疫力は主に前者で、氣的生命力は主に後者に関係するのではないかと思ったのである。
 しかしながら、植物体にも、なんらかの免疫力はあるだろう。
とは、免疫力は植物体というよりは、動物体に主に関係すると思われるのである。
 とまれ、今は問題提起のみである。血液、特に、白血球が免疫に関係する。マクロファージ等は、異物に攻撃するのである。異物を食するのである。食するという作用は当然、動物体的行為である。だから、その点では、やはり、免疫力は動物体に属すると思われるのである。
 植物体に本来の生命力、つまり、氣的生命力があると考えている。(それは、単に生命力だけでなく、認識力もあると考えているのだが。)
 つまり、陰陽調和力である。結局、免疫力と生命力とを考えるとき、動物体の生命力としての免疫力と植物体の生命力の氣をを考える必要があるだろう。
 ここで、想起するのは、シュタイナーが排出と認識の関係を述べていることである。(参照:以下の第五講である。)

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思うに、排出とマクロファージ等の食的攻撃力は関係しているのではないだろうか。つまり、異物の排除という点で共通すると考えられるのである。
 それに対して、植物体の生命力である氣であるが、それは、逆である。いわば、異物、他者と共鳴することに、本義、本質があるのである。
 だから、動物体の生命力と植物体の生命力は真逆であると言えるのではないだろうか。
 結局、動物体生命システムと植物体生命システム、2つの異なる生命系が人体(人心体)に存するということではないだろうか。
 しかしながら、とは言え、である。
 ここが急所、核心である。
 つまり、当然、動物体生命システムと植物体生命システムは繋がっているはずである。
 どうも、ここにシュタイナーが指摘する松果体(松果腺と述べているが)と脳下垂体の接続の意義が存するのではないだろうか。(上書の同じく、第五稿を参考。)
 即ち、松果体は光と関係し、それは、当然、氣と結びつくから、植物体と関係する。それに対して、脳下垂体は、内臓と関係するから、それは、当然、動物体と関係し、また、血液と関係するから、免疫力と関係する。
 言い換えると、松果体と脳下垂体の接続とは、植物体と動物体の接続を意味するということと考えられる。
 さらに言えば、氣と免疫力の出会いである。
 そうすると、日光(氣を背景にもつ)は松果体を介して、氣をもたらし、それは、脳下垂体を刺激して、内臓を強化する。それは、当然、免疫力を強化に繋がると考えられる。
 つまり、松果体ー脳下垂体システム(間脳システム)は、植物体と動物体の接合システムであり、それは、いわば、人体生命体システムの一つの核心であると考えられるのではないだろうか。
 卓抜な飯山一郎氏の生命力発展実践であるが、乳酸菌は当然、動物体・免疫力に関係し、日光浴や身体温暖保持等は植物体的氣的生命力システムに関係しよう。
 結局、人体保持には、両面が必須である。それは、また、相互補完となるのである。
 しかし、これも核心的問題の一つであるが、果たして、動物体・免疫系と植物体・氣生命系は単に両極で同等なのだろうか。単位、二元的なのだろうか。
 私は植物体・氣生命系が主であり、動物体・免疫系は従ではないのかと思えるのである。
 どうも、後者に対して、やや否定的なような言葉使いであるが、本意はそれではない。つまり、根源の問題なのである。
 生命の根源はやはり、氣に存すると思われるのであり、だから、植物体・氣生命系が主になるということなのである。
 あえて言えば、植物体・氣生命系から、動物体・免疫系は生まれたと思うのである。さらに言えば、
 
初めに、光ありき

初めに、日光ありき

さらに初めに、氣ありき

と思うのである。この氣に、動物体・免疫系が含まれていたと思うのである。
 つまり、松果体と脳下垂体の関係で言えば、前者が主ではないだろうか。それから、後者が発生したのではないだろうか。 
 その視点は、シュタイナーの考えと一致するのであるが。また、シュタイナーが影響を受けたゲーテの視点と通じると言えよう。
 しかしながら、松果体を受容する日光であるが、それは氣的光である。氣光線(氣光)である。そして、それは、究極は、無双太極である。
 つまり、無双太極(太水:陰陽未分化体)から氣光線(太陽)が生まれるのである。
 そして、肚が無双太極であるから、究極的には、肚と松果体は一致するのである。(内臓の光があるだろう。闇の光である。)
 しかしながら、無双太極は陰陽未分化様態である。だから、氣的光を介して、積極的に分化発展していくというのは、進化的であると考えられるのである。つまり、植物体・氣生命系・松果体を介してである。
 つまり、アポロ/ディオニュソス路線である。(そう、ここで、古代ギリシア文明の秘密が明らかになるのである。また、古代日本文明の謎も。即ち、それ は、本質は植物体文明・母権文明であるということである。それが本体であり、その上に動物体文明・父権文明が被膜のように存していると思えるのである。)
 つまり、古代ギリシア・古代日本路線が未来的であるということになるのである。プラトン/D.H.ロレンスで言えば、コスモス(氣的宇宙)路線である。日本で言えば、空海/南方熊楠路線である。当然、政治的には太陽信仰としての天皇制路線である。


参照:人体四層構造図

人体四層構造図:T.太極点/U. 植物体(氣=陰陽)/V.動物体/W.自我体・・・(X.外界)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11665314072.html

 T        U           V       W    (X)
     |            |        |
     |            |        |
太極点 |植物体(氣・陰陽) | 動物体   | 自我   (外界)
     |              |        |
     |              |        |
 肚   |   胸         | 皮膚?    |   頭
      |               |         |
下丹田 |   中丹田      |         |  上丹田

         
      人体四層構造図



陰陽極性の2つの螺旋?:氣的螺旋と物質的螺旋?
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11683538652.html

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

明日早いので、今は一言。
 先に、純物質が−1で、生命体が+1と氣の方程式を使って説明した。
 私のこれまでのイメージでは、+1に生命物質があると見てきた。つまり、生命有機体である。
 しかし、陽凸iの極大化によって、純物質が形成と考えたが、それは、生命有機体がまとう物質性ではないだろうか。
 つまり、−1は生命有機体の物質であり、+1は生命有機体全体ではないのかということである。捉えにくいが、氣的身体、氣的物質体が+1なのではないだろうか。
 今は問題提起のみである。

追記:読み直して、思いついたことは、−1は動物体で、+1が植物体ではないのかということである。
 私の仮説では、人体は植物体と動物体によって主に構成されているのである。もっとも、細かく言うと、先には、四層構造体(無双太極+植物体+動物体+自我)と述べたが。
人体四層構造図:T.太極点/U. 植物体(氣=陰陽)/V.動物体/W.自我体・・・(X.外界)
 もしそうならば、私の人体仮説がかなり明快になる。後で深く検討したい。

追記2:もし、追記のようならば、純物質はどう表記できるのか。思うに、⇒+1が植物体、⇒−1が動物体であり、±1自体が純物質ではないのか。有り体に言えば、枯れた状態、死体・遺体である。つまり、⇒はエネルギー状態、生命エネルギーである。
 そう、氣である。そして、⇒の尖端が光ではないのか。
 とまれ、要検討課題である。

追記3:追記、追記2のように考えるならば、2つの氣が存するだろう。⇒+1の⇒は陰の氣であり、⇒−1は陽の氣である。これまで、陰極、陽極は考えて、陰の氣、陽の氣は存在しないと見てきたが。
 やはり、根源の氣と極性の氣を別にしないといけないように思えている。例えば、太極氣と陰陽氣である。
 これも要検討である。
 
追記4:人間認識図であるが、これは活用できるように思える(ただし、『海舌』氏の認識布置は使用しない。)
思うに、⇒−1は動物体の極限として、自我ではないだろうか。
 とまれ、ざっと言うと、第一象限と第四象限が植物体に関係し、第二象限と第3象限が動物体と自我に関係する。

 『海舌』氏による人間認識図
Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory


参考:
前期PS理論とオイラーの等式の統合の再考:+1が生命物質体、−1が純物質:氣と同一性自己(自我)
氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体) 



現象界(物質界)と光と氣

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に以下のように、人間認識図の修正版を試みたが、不十分なところが多くある。
 とまれ、右半円が氣的自然、左半円を物質的自然と考えた。
 思ったのは、視覚、光の問題である。視覚は陽凸iと考えられる。それが、外界を見るとき、陰を否定して、+1ではなく、−1を見るのではないだろうか。
 そうすると、光は、⇒−1の⇒になるのではないだろうか。
 ここで、氣、不可視の氣について考えると、それは、⇒+1の⇒ではないだろうか。
 とまれ、視覚は陰陽調和の氣(不可視)を当然見ることはできないのである。視覚である陽凸iは、原点・中心を見るが、その時、陰凹iと出会う。
 しかし、陰凹iを見ることはできない。というか陰陽調和の様態である氣を見ることができない。
 陽凸iは陰凹iを否定することになる。
 それは、凸i*凹凹i⇒−1ではないだろうか。この⇒が光であり、視覚は−1の現象、物質現象を見るのではないだろうか。
 しかしながら、陰陽調和=氣は⇒+1であり、氣的自然は−1の対蹠に存在しているのである。
 そう、魂である陰凹iは、陰陽調和の様態をもち、⇒+1の氣的自然を「感ずる」ことができるのであるし、また、視覚をもっているので、氣と光を同時に心覚・知覚(心・知覚)できるのである。
 しかし、この様態はどのようなものなのか。陽凸iでは光を知覚し、陰凹iでは氣を心覚するのであるとは交点(MP)において、どうであるのか。
 思うに、氣は陰陽調和であるから、陰が陽へと即非的に浸透するのである。そして、その陰に浸透された陽は光を見るが、その光には、氣の陰影が刻まれるのである。
 だから、その光には氣の印刻があるのである。そして、思うに、これが、美的視覚ではないだろうか。
 陽と陰との即非的浸透に美的視覚が形成されると言えよう。
 これは、聴覚でも同様と考えられる。しかし、聴覚はより、陰に関係していると思われるが。
 今はここで留めておく。


      『海舌』氏に拠る人間認識図

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory

『海舌』氏の人間認識図修正:右半円が氣自然、左半円が物質自然:陽凸i=自我・頭、陰凹i=魂・肚
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11704667691.html


2013年11月19日(Tue)▲ページの先頭へ
『海舌』氏の人間認識図修正:右半円が氣自然、左半円が物質自然:陽凸i=自我・頭、陰凹i=魂・肚
画像は以下を見られたい。
http://sophiology.jugem.jp/?eid=364


『海舌』氏の人間認識図修正:右半円が氣自然、左半円が物質自然:陽凸i=自我・頭、陰凹i=魂・肚


テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


         『海舌』氏による人間認識図

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory

上図は、PS理論に基づく『海舌』氏による人間認識図であり、これは、『海舌』氏独自のものである。私自身はこの作成に関わっていない。
 今、さらに、無双太極PS陰陽論(以下、PS陰陽論)の見地から検討したい。
 以下変更点を箇条書きにする。

1)左右を逆にして、入れ替える。即ち、第二象限が自我物質界であり、第三象限が陰謀の世界である。
 第一象限と第四象限はおいておく。

2)虚軸の凸=i=光であるが、それは、光ではなく、陽ないし陽極とし、同様に、凹=−i=闇を陰ないし陰極とする。
それぞれ、凸i、凹iとする。

3)実軸+1を存在、現存在ではなく、天、実軸−1を超越的存在ではなく、地とする。

4)植物的生命体(以下、植物体)は、⇒+1の方向性をもち、動物的生命体(動物体)は−1⇐の方向性をもつこととする。

5)人体は植物体⇒+1と動物体−1⇐の両面をもち、前者が主導的であると仮説する。

6)氣は一体としては、円である。しかし、陰陽調和、つまり、植物体を形成する氣としては、⇒と思われる。

7)日光であるが、それは、わかりにくいが、⇒と+1の中間ないし、⇒の先端に位置するのではないだろうか。そう、今の段階では、日光と太陽を一致させておく。

8)自我は凸i陽であり、魂は凹i陰である。そして、心情は原点、MPである。

9)氣的エネルギーによる形状、例えば、螺旋形状は、⇒+1を軸として成形されるだろう。

追記:1で残しておいた、第一象限と第四象限について簡単に触れたい。
 知性や科学の位置がわからなかったのである。思うに、人体(人心体)において、植物体と動物体が重なっているのであるから、⇒±1の二重性があるのである。
 そして、自我は陽凸iである。だから、これが、⇒±1の二重性に関わって、知性や科学が形成されると思われるのである。
 しかし、自然界は⇒+1のように思えるのである。しかし、そうならば、−1⇐の動物体はどうなるのか、である。動物体も当然、自然界であるからである。
 端的に言えば、知性の原形は⇒+1に存すると思う。そして、知性行為は−1⇐のように思える。
 つまり、知性行為とは自我優位の行為である。だから、−1⇐になるのである。頭脳行為である。しかし、知性行為のベースには、知性の原形がなくてはならないと思う。それが、⇒+1である。
 どうも、間違っているかもしれない。⇒+1の陰陽調和様態は理性を意味するのではないだろうか。そして、−1⇐の自我優位陰陽様態が知性かもしれない。
 ならば、陽凸iがカントの超越論形式、悟性・知性かもしれない。そして、−1が純物質であり、+1が氣的物質ではないだろうか。
 ならば、近代科学は−1の科学であり、+1を−1から見ているのである。
 そして、基本的に、陽凸i傾斜であるので、自我中心(自己中心)主義になり、マッド・サイエンティストになる傾向をもつのである。
 理性を保持するには、陰凹iの対極が必要ということになろう。
 時間がないので、今はここで留める。

************************

以下は、まったくの思いつきである。

10)シュタイナー系の視点(以下の本)では、エーテル体は、天から地へ働きかけるのである。それは、⇐+1のような方向性になるだろう。
 意外にその考え方は使えるかもしれない。つまり、⇒+1と⇐+1の両面から、例えば、樹木が成形されるということなのかもしれない。シュタイナー系の考 え方を使用すれば、⇒+1は生命エネルギーで、⇐+1はエーテル的成形力である。つまり、前者が原動力で、後者が形状力である。というか、明確に言えば、 前者は生命物質力で、後者は生命形状力である。
 この問題は難しいのおいておく。

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11)結局、以前の視点に戻るが、虚軸を直径とするような陰陽円、つまり、ガウス平面とは直交する陰陽円(超越円)があり、それが、生命現象化するとき、三次元空間化するのではないだろうか。ここで、四元(しげん)数の考え方が使えるのである。
今は、図示できないので、言葉で簡単に説明すると、陰陽円(超越円)があり、その中心から直交する軸、現象軸、つまり、天地軸が発現する。しかし、それは、当然、平面を伴って、三次元空間を形成する。
 思うに、球を考えればいいのかもしれない。
 それはおいておき、超越的陰陽円、イデア的陰陽円から直交するように、三次元空間が生まれるとするのである。
 超越二次元(平面)から、物質三次元空間が生まれるのである。(思うに、超越二次元、超越平面とは、球面のように思える。ならば、超越球面である。)
 
12)11のように考えても、植物体と動物体の考え方はできるように思えるが、検討する必要がある。

以上、今は暫定的に留める。後で整理したい。





飯山古代史炸裂:日本古代史の謎が解明される:百済国の「亡命」先としての「日本」:古代日本文明誕生
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11702185203.html


テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史


以下は、画期的な説明である。
 私の長年の古代史の謎がほぼ氷解した。
 私は以前、奈良の正倉院の螺鈿紫檀五弦琵琶を見て、その豪華絢爛たる装飾に感動した。ここには何かがあると直観した。
 何かとは、なにか途方もない、豊かさ、力をもったものということである。
 しかし、それが何であるのか長年の疑問であった。しかし、未知数は百済国の亡命であったのである。
 それで、悲劇ののち、輝かしい日本古代文化が生まれたのである。
 今日明日は余裕がないので、感想を十分に書けない。
 一言言うと、先に沖の島の豊饒な神話に言及したが、それは、古代の叡知を伝えているのである。私なりに言うと、氣の叡知をもっていたのである。当然、古代母権文化社会があったのである。
 しかし、なにか父権の要素もあるようにも思えるが、基本は、太陽信仰の母権文化だと思う。
 中国(大唐)が父権制、中央集権制なのである、おそらく。
 とまれ、百済は、古代の叡知、文化を「日本」にもたらし、土着的な日本を統治したように思える。
 しかしながら、記紀の感じからすると、どうも、単に、母権だけでなく、父権が感じられるのである。一種の合理主義がそこに感じられるのである。
 飯山氏が提示している工芸品の画像からは、合理主義が感じられるのである。洗練である。
 なんらかの父権があるにしろ、中国的父権主義ではないだろう。そう、母権から生まれた父権とでも言うべきものかもしれない。純粋な父権主義ではないと思う。
 私が批判する国学国家主義的父権主義であるが、それは、まったくの想像であるが、中国からの渡来人に拠るのかもしれない。利に敏い者たちが、百済/土着的日本の母権文化社会を利用したのであり、それが、今も続き、母権日本を破滅させようとしているのかもしれない。
 中国からの渡来人と言ったが、単純に中国人ではない。そうではなくて、中国へ侵攻した父権民族がいるのであり、それらが、日本に渡ったとまったく空想、妄想するのである。
 さらに妄想すれば、一種のアーリア系民族ではないだろうか。
 今は思いつきだけである。そう、一言付け足せば、豊饒な母権文化があったが、欠点は哲学の欠如ではないだろうか。日本に入ってきた、アーリア系が優秀ではなかったということではないだろうか。
 アーリア民族(今はこのような言い方はしないが)は、インドでは、インド哲学を生み、ギリシアではギリシア哲学を生んだのである。
 否、それは短絡的だ。空海の壮大な密教哲学(これは、私的に言うと、これまで、まだ乗り越えられていない氣宇宙の哲学である)を生み出したのではないか。


◆2013/11/18(月) 沖ノ島に大量の金銀財宝があるのは、なぜ?


国宝級以上! 百済国の国宝を
保管する 絶海の孤島 沖ノ島
写真をクリックすると拡大します。↓じっくり御覧になって下さい。 金製指輪 三角縁神獣鏡
日本には国宝を収める正倉院が三つある。奈良の正倉院、西の正倉院(百済の里)、海の正倉院=沖ノ島だ。このうち歴史的に最も重要なのは沖ノ島で、次が「百済の里にある西の正倉院」。本家「奈良の正倉院」は、飾りが多い高級博物館で歴史学的には劣る。
上の三角縁神獣鏡も金製指輪も、私の鑑定では「魏」(北魏 )由来だ。三角縁神獣鏡は中原では出土しないが満州から平城京=今の大同にかけて出土している。
ともあれ百済の王族貴族以外は手に入らなかった逸品だ。
663年。白村江で新羅と唐の連合軍に完敗した百済国は滅亡した。

勢力・版図の拡大期にあった唐による百済掃討作戦は過酷だった。

唐の過酷な追討を避けるため、生き残った百済の残党は、日本列島に避難した。

王族・貴族、技術者、平民、そして金銀財宝の数々…。百済は、国土を捨て、国をあげ国ごと九州まで避難してきた。

この「国家」の運搬を担当したのは海の豪族・宗像海人族の首長・宗像(胸形)君徳善。
このボスの娘が尼子娘で、天武天皇の側室となり高市皇子を生む。
ちなみに藤原氏に滅ぼされた長屋王は高市皇子の長男だ。

白村江で闘った海人族に安曇族がいた。指揮官の安曇比羅夫は壮絶に戦死するが、安曇海人族は唐軍の掃討作戦を恐れて九州まで逃げ、博多湾の志賀島に集結する。

が、唐の追討を恐れるあまり、その後、さらに長野の山奥、今の安曇野盆地まで避難する…。これで今まで不明だった「なぜ安曇野なのか?」の疑問が解けたと思う。

安曇比羅夫。この名前、安曇野市では有名だ。安曇野市の穂高神社では今でも安曇比羅夫を祀り、「御船祭り」で供養している。
このように「大唐」の版図拡大作戦は、なんと長野の山奥にまで及んだのである。

さて、歴史は、先ず大きな鳥瞰図で見なければならない。

百済、高句麗。この両国を滅亡に追い込んだのは「大唐」。
この「大唐」の凄まじい勢力・版図拡大作戦によって、当時の東アジアの歴史は、目まぐるしく激しくダイナミックに動いた。この視点がない歴史学は、重箱のスミを突付く矮小な学問となる…。

とにかく7世紀、唐の大拡大期の東アジアの歴史は、「大唐」を中心に動いた。日本の遣唐使も、いや! じつは『日本書紀』も「大唐」に対するメッセージなのである。

長くなったが…、
海の正倉院=沖ノ島。
この玄界灘に浮かぶ絶海の孤島に収められた膨大な量の金銀財宝の全てが百済国由来である!ということ。お分かりになったと思う。
去る7月4日、皇太子殿下が宗像大社に行啓され、神宝館では「秘宝」を御覧あそばされた。東宮様は何をお思いになられたか…、「事情」はすべてご存知のはずである。 (記事)
金 銅 製 龍 頭
宗像大社の沖津宮が鎮座する玄界灘の孤島沖ノ島で発見された、龍の頭の形をした一対の金具です。竿の先に付けて、その口から天蓋や幡を吊り下げていたと考えられる。中国の東魏時代に作られた渡来品とみられ、「海の正倉院」沖ノ島を代表する宝物の一つ。これまた百済の王族貴族以外は手に入らない逸品だ。
金銅製龍頭
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飯山一郎のHP


2013年11月17日(Sun)▲ページの先頭へ
日本人「改造」論:いい加減目を覚ませ、鈍愚民ども!:氣精神を生長させよう!
日本人「改造」論:いい加減目を覚ませ、鈍愚民ども!:氣精神を生長させよう!

テーマ:日本復活の新福音:吉祥、朗報、吉報

1)私は今実験している。数分でも森の中で、無念無想ないし天地空の瞑想をしているが、それが、心身(心体)に活力・精力をもたらすのではないかと感じているのである。
 なにか、長時間森の中に浸っていないと森氣浴による効果ないように思っていたが、そうではなく、5分でも森の息吹の中で、瞑想する行為は心身エネルギー(氣エネルギー)をもたらすように思えているのである。
 これは、気功とかの行為をしないで、ただ、無念無想である。
あるいは、私のイメージは、天と地を私の中丹田(胸部)で空とし、瞑想する、名づけて、天地空瞑想(天地空森氣瞑想)である。

追記:日本人の学力・知力さらに精神力の低下、劣化、退化、さらに、花粉症、アトピー等のアレルギーの蔓延であるが、これは、都市化によって、森や山や海川の氣に触れない生活をするようになったためではないだろうか。
 氣は心身を賦活させると考えられるのである。日本人が馬鹿になったのは、氣欠が原因だと思う。
 氣界があるのである。シュタイナー霊学的に言えば、エーテル界である。氣=霊的生命界があるのである。

2)思ったのは、四大(地水火風)であるが、それは、シュタイナー霊学では霊であるが、それは、氣の諸霊ではないだろうか。つまり、地の氣、水の氣、火の氣、風の氣ではないだろうか。童話的に言えば、地の精霊、水の精霊、火の精霊、風の精霊である。
 また、ケルト/アングロ・サクソン伝承に出てくる妖精であるが、それも氣でないだろうか。森の精とは、当然、氣である。
 四大の氣を仮説しておきたい。そう、宮崎駿のアニメは、氣のアニメと言えよう。氣アニメーション、キニメである。
 東洋的な五大(地水火風空)であるが、空は陰陽調和である。
 そう、四大も氣と考えると、鉱物も氣で捉えることができるようになるのである。鉱物の氣もあるのである。これは、応用が広くなると言えよう。
 物質を気を基にして考えるのである。つまり、物質の「元素」とは、氣であるということである。いわば、氣素、氣子である。

3)無双太極の陰陽未分化一元界から、氣=陰陽対極性への転化についてであるが、後者において、陰極と陽極が明確に形成されると思われる。これは、明らかに、根源の無双太極一元論とは不連続である。
 しかし、氣の一元性もあるのである。ここで、混乱しやすいと言えよう。私も混乱しているので、整理する必要がある。
 無双太極の根源一がある。根源一元界である。それから即非的(不連続且つ連続的に)に、氣=陰陽界が展開する。
 氣=陰陽界とは、氣の一と陰の一と陽の一がある三位一体である。陰陽対極性自体が一なのである。この一と根源の一の混同を絶対に避けなくてはならない。
 だから、暫定的に、太一と氣一として、峻別した方がいいだろう。

4)3の続きになるが、長くなるので、項を改めた。
 氣=陰陽対極性であるが、その両極、即ち、陰極と陽極であるが、それが、魂と自我の核になったと思われるのである。
 つまり、植物体には、陰極と陽極があるが、両極は、氣一極とともに、螺旋形状に植物体を成形するのであるが、思うに、両極、氣一極、三極ともに、それぞれ、元意識があると思うのである。(そう、植物体は元知性をもっていると考えるのである。)
 そして、動物体は、陽に傾斜した存在であり、より物質化するのである。だから、物質的欲望が発達するのである。獣欲。
 しかし、人体(人心体)は、私説・仮説では、植物体の新たな組み込みがあるのである。つまり、陰陽両極と氣一極の三極の新たな組み込みが為され、そのために、動物体にはない知性をもったのである。それが、陰極の魂であり、陽極の自我であり、そして、氣一極の心(胸の心、中丹田、ハート:どうも、聖霊と呼びたいと感じたのである。聖霊としての氣一極=心)ではないだろうか。
 つまり、人体(人心体)における「精神」は、実は、新たな植物体の「意識」に顕現ではないかということなのである。つまり、人体(人心体)において、本来、本質的には、植物体の「意識」が思考するのではないだろうか。
 そして、それは、母権文化においてそうであるが、しかし、父権革命進化によって、自我/動物体へ傾斜して、いわゆる、文明が誕生したのではないだろうか。それは、自我/動物体の文明であり、氣・母権文明を破壊するものであったと考えられる(『ギルガメシュ叙事詩』)。
 そう、それは、物質主義文明なのであり、西洋文明はその帰結と言えよう。
 自然科学・技術も当然、物質主義の科学・技術である。氣の科学・技術が破壊されたのである。(乳酸菌等の発酵文化は氣の文化だと思う。氣=原生命文化としての発酵文化と考えられる。)
 とまれ、父権化されて、原初の母権意識/植物体意識/氣精神が抑圧されているのである。
 しかしながら、父権文明にあっても、知性、理性、感性は後者が基盤であると考えられる。
 しかしながら、今日、父権文明は反動化を徹底しているのであり、マッドの状態である。
 しかしながら、陽は陰に転ずるの氣哲学・科学の法則から、今や、母権文化が覚醒したのである。
 近代を包摂する形で、高次・内超近代文明の時代になったのである。簡単に言えば、霊智の新文明である。
 そう、1の追記で述べたが、学力・知力・感性力そして、健康力、文明力等々を賦活、発展させるには、氣が必要であることがわかるのである。物質文明は人間を愚かにして、奴隷にするのである。
 森へ帰れ!

まだ、言うべきことがあるが、これから、森氣浴歩行且つ瞑想をする。放射能雲も来ていないし、好天である。


2013年11月15日(Fri)▲ページの先頭へ
色即是空:空とは陰陽調和共鳴と仮説する:波動は物質的である:氣は自然霊的である
色即是空:空とは陰陽調和共鳴と仮説する:波動は物質的である:氣は自然霊的である

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

以下の転載記事に興味深い空=波動説が提起されているが、空とは、最近、陰陽調和共振のことではないかと私は考えているのである。
 そうならば、確かに、空は、陰陽調和波動ということになるかもしれないが、私は、陰陽つまり氣を波動と呼ぶことはほとんどない。確かに、数回は波動と呼んだことはあると記憶するが、積極的に、氣=陰陽を波動と呼んだことはない。
 とまれ、氣=陰陽調和とは、植物体の生命力(生命緑:これは、なかなか楽しい言葉遊びだ)であり、当然、太陽、日光と関係するのである。何故なら、太陽の根源は少なくとも、氣=陰陽調和と考えているからである。(そう、氣のさらに根源の無双太極が太陽の真の根源と考えられよう。)
 では、何故、氣を積極的に波動と呼ばないのか。そう、氣波と呼ぶことを先には考えていたが。氣波ならば、呼べないことはないが、それでも、そう呼ぶことはしないでいる。
 氣=陰陽調和(思うに、氣は陰陽調和だけでなく、陰陽の多様な様態があるように思われるが、それについては、後で考えたい)を波動、波とは呼ばないのは何故か。
 それは、私の心体において感ずる氣が波動、波という感じではないからである。波動、波より、霊の方がいいと思う。あるいは、精霊か霊精である。
 そう、それは、言うならば、自然霊であり、波動、波というと物質的になるので、それを使用するのを躊躇うのであろう。
 氣=陰陽調和は物質ではないのである。物質を産み出す「霊」、「精神」、「精霊」なのである。
 波動、波では、また、機械的なのである。氣=陰陽調和は、機械的ではありえないのである。
 そう、以下の説明は、波動ではなく、氣霊=陰陽霊と言えば、正当になるのではないだろうか。
 波動では、ペテン的な波動商品がついて回るのである。
 そう、波動だと物質と連続的であるが、氣=陰陽調和は、物質と不連続なのである。この点が決定的である。(追記:以下の転載記事では、波動を量子とも見ている点で、波動は物質的であると言えよう。しかし、氣は量子ではなくて、氣の物質的影像が量子だと思われる。)


追記:補足すると、氣の陰陽とは、一(いつ)であり、かつ、極性をもつということである。この一であるが、それは、無双太極自体なのかどうか微妙である。
 しかし、現時点では、陰陽の一とは、無双太極であるとしておきたい。

追記2:上記の追記で陰陽の一を無双太極としたのは、間違いである。ここで訂正したい。
 根源は無双太極であるが、それが、陰陽の一=陰陽極性に転換するのである。
 そう、無双太極から氣=陰陽への転換は連続的なのか、不連続的なのか、問題である。
 直観では、連続的なように思えるのである。つまり、直観ではその変換は滑らかに感じられるのである。滑らかな移行を感じるのである。
 そう、先の説明を思い出した。つまり、無双太極と氣=陰陽は即非関係であるということである。
 だから、それは、中間的である。つまり、不連続であり、且つ、連続的であるということである。実に微妙ということである。
 因みに、陰と陽も即非関係である。連続であり、且つ、不連続であると考えられる。
 この点は、一度再確認する必要がある。

 
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超人ピタゴラスの音楽魔術

仏教は最先端科学
 仏教は最先端科学の内容をすでに知っていた  [TOP]

 宇宙は波動で構成されていて、異なる振動数(周波数)の世界が何層にも重なり合って存在しているということでした。そのことは今日の最先端科学が明らかにしていますので、ここで素人の私が解説するまでもありません。
 驚くべきことに、それと全く同じ意味のことが、仏教のエッセンスといわれる般若心経にしっかり述べられているのです。私は仏教に関しては解説書をかじった程度の知識しかありませんが、般若心経の解釈については、「これしかない」という確信を持つに至りました。
 般若心経のなかで最も有名なのは「色即是空、空即是色」という言葉です。この「色」は物質や現象のことを意味しています。しかし、たとえば「物質は空である。空が物質である」と解釈しても、何のことか理解できないと思います。仏教の世界にいる人たちの解説は、ここでつまずいてしまうのです。「空」を「無」に近いものと解釈しているからです。「物質はあるようにみえるけど、時間が経つとなくなる不安定なものだ。だから執着してはいけない」といわれれば、何となくわかったようで、それでも釈然としない気持ちが残ります。
 現代物理学は、この「空」の存在を立派に証明してくれました。ひところ、この空間には「エーテル状」のものが充満している、との考え方があったのをアインシュタインが否定したといわれています。いま、その考え方が再び復活し、「量子真空」という言葉で再定義されています。(『魂の記憶』喰代栄一・著/日本教文社)
 この空間は目に見えない粒子、波動で満ち満ちているということです。その波動に一定の力が加わることによってエネルギーが発生し、「無」と思われたところにさまざまな「物質」が生み出されるというわけです。(『空間からの物質化』ジョン・デビッドソン・著/たま出版)
 そこで、「色即是空、空即是色」を「色即是波動、波動即是色」というふうに置き換えて解釈してみてください。つまり、「物質は波動でできている。また、波動に一定の力が加わると物質に変化するんだよ」ということです。これが仏教の真髄なのです。2500年前に、お釈迦様はこの最先端科学の発見を完璧に理解しておられたということです。すごいと思いませんか。
 般若心経はこの「空即是色」の後に「受想行識亦復如是」という言葉が続きます。「受想行識」はセットになった言葉で、物質的現象を意味するする「色」に対して「精神的作用」を総称したものです。「受」は感覚、「想」は想念、「行」は意志、「識」は認識、と理解したらよいと思います。「亦復如是」は、「〜もまた同じものだよ」と言う意味です。つまり、私たちの感覚も想念も意志も認識も、みんな波動だといっているのです。これも最先端の現代科学がいっていることとまったく同じです。
 この理解を得ると、難解な仏教もフツーの人の頭で解釈できるようになります。
 私たちは死ぬと、魂が物質としての肉体から離れ、波動の違う別次元に行くのです(正確には、魂はもともと別次元にも同時に存在しているのですが、そのことがこの物質次元からでは認識されないだけのことです)。ですから、魂は死滅することはありません。別次元のことは「幽界」とか「霊界」とか呼ばれていますが、その世界も波長の違いにより更に細かな階層に分かれているようです。
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1814911.html

大摩邇(おおまに)


オイラーの公式とマイナスの実部:自我と物質の結びつき
画像は以下のリンクを見られたい。


オイラーの公式とマイナスの実部:自我と物質の結びつき
http://sophiology.jugem.jp/?eid=361

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に以下のように書いた。
 思うに、θがπ/2になるときは、純粋のときであり、実際は、π/2<θ<3π/2ではないだろうか。つまり、実部がマイナスになって、純物質に近くなっていると思う。
 『海舌』氏の人間認識図であるが、それは、去年、『海舌』氏のPS理論から離脱する直前あたり、左右逆であると述べたが、今もそう感じる。

          『海舌』氏に拠る人間認識図          

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory

 第二象限が自我・物質的世界であり、第三象限が、腹黒い、陰謀の世界に当たると思う。
 そして、第一象限が知性、合理性の世界であり、第四象限が芸術的感性や宗教的感性の世界だと思う。
 そう、『海舌』氏の各象限への意味的布置は単に逆だけでなく、本質的に違うと思う。
 哲学は+1に近いと思うし、数学は第一象限ではないかと思う。宗教は芸術に近い方だろう。
 途中だが、今はここで留める。


自己(個)陰陽方程式:自我は陽凸iであり、非我(無私・愛)は陰凹iである:オイラーの公式
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11686282196.html

自己陰陽方程式、又は、個陰陽方程式

e^iθ☯e^i(θ+π)

=〔cosθ+isinθ〕☯〔cos(θ+π)+isin(θ+π)〕


である。ただし、☯は極性を意味することにする。(参考:三角関数 http://www12.plala.or.jp/mz80k2/electronics/math/math.html)
 これは、極論的に言えば、自我と魂との対極性を意味しよう。
そこで、自我的要素を(凸i)、魂的要素を(凹i)とすれば、
自己陰陽方程式、個陰陽方程式は、

(凸i)*(凹i)

=e^iθ*e^i(θ+π)

=〔cosθ+isinθ〕*〔cos(θ+π)+isin(θ+π)〕

となる。(尚、*は、☯と同じとする。)
 だから、自己陶冶とは、θがπ/2(90°)になるようにして、氣の方程式に接近することではないだろうか。即ち、


氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)  
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自己(個)陰陽方程式:自我は陽凸iであり、非我(無私・愛)は陰凹iである:オイラーの公式






自己(個)陰陽方程式:自我は陽凸iであり、非我(無私・愛)は陰凹iである:オイラーの公式
http://sophiology.jugem.jp/?eid=360

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

今は問題提起のみだが、自我は、PS陰陽論の方程式で言うと、−1ではなくて、陽凸iの極大だと思う。それが、否定抑圧的に陰凹iに作用して、−1を極点とする自我的動物体(人間獣:人獣)になるように思える。(この点は検討課題である。)
 また、オイラーの公式が積極的に自然造形の原理として、使用できるように思えている。
 即ち、公式や図は以下である。

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

オイラーの公式の幾何的な表示

とまれ、オイラーの公式、即ち、

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

を用いると、
 θがπ/2(90°)のとき、

e^iπ/2=0+i

となる。これをPS陰陽論に変換すると、

e^iπ/2=凸i(陽)

となる。(i=凸iと見るのである)
 これが、自我である。
 そうならば、逆に、−i=凹i(陰)は、無私、非自我、つまり、他者ではないだろうか。(今 ふと思いついたが、シュタイナー霊学の悪魔論であるが、アーリマンが凸iで、ルシファーが凹iではないだろうか。前者は近代的自我、近代合理主義をもたら し、後者がロマン主義、神秘主義、オカルティズムをもたらすのではないだろうか。そうならば、仏陀やイエスの教えは、一見、ルシファー的ではないかと思え よう。しかし、それは、皮相だろう。仏陀やイエスの教え、太陽の光の教え、あるいは、植物体の教えとは、陰陽調和の教えと思う。陰と陽のバランスである。 これは、シュタイナーのキリスト論と一致しよう。シュタイナーは、キリストとは、アーリマンとルシファーの均衡と述べているからである。
 そうならば、PS陰陽論はシュタイナー霊学とも一致することになる。もっとも、私自身、後者から強い影響を受けているが、それを盲信するのではなく、批判的立場を取っているのであるが。

参考:「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」 - 狂気をくぐり抜ける - ココログ
http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-f9e6.html)
 議論を続けると、θがπ/2(90°)のとき、陽凸i=自我と言ったが、これだけだと、単に、いわば、半身である。つまり、人体(人心体)は、少なくとも、陰陽体(陰陽双極体)であると考えられるからである。つまり、必ず、陰凹i=非我の要素があると思うのである。
 だから、以前、PS理論のときに触れたように、オイラーの公式のe^iπに対して、π回転(180°回転、半回転)した座標ももつと思われるのである。だから、
 θにθ+πを入れた場合を考えると、

e^i(θ+π)=cos(θ+π)+isin(θ+π)

となり、これが、他の「半身」であると思われるのである。
 だから、まとめると、いわば、自己陰陽方程式(自我ではなく、自己であるのに注意。あるいは、個でもいいだろう。ならば、個陰陽方程式。)になるだろう。即ち、

自己陰陽方程式、又は、個陰陽方程式

e^iθ☯e^i(θ+π)

=〔cosθ+isinθ〕☯〔cos(θ+π)+isin(θ+π)〕


である。ただし、☯は極性を意味することにする。(参考:三角関数 http://www12.plala.or.jp/mz80k2/electronics/math/math.html)
 これは、極論的に言えば、自我と魂との対極性を意味しよう。
そこで、自我的要素を(凸i)、魂的要素を(凹i)とすれば、
自己陰陽方程式、個陰陽方程式は、

(凸i)*(凹i)

=e^iθ*e^i(θ+π)

=〔cosθ+isinθ〕*〔cos(θ+π)+isin(θ+π)〕

となる。(尚、*は、☯と同じとする。)
 だから、自己陶冶とは、θがπ/2(90°)になるようにして、氣の方程式に接近することではないだろうか。即ち、


氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)  


である。
 いろいろ他に考えるべきことがあるが一先ず、ここで留める。

追記:氣の方程式は、仏陀方程式、キリスト方程式、ゾロアスター方程式、老子方程式、朱子方程式、神道方程式、等々と(世界)宗教方程式とも呼べよう。
 宗教とは結局、太陽教である。


☆☆☆別テーマ:数霊と形象☆☆☆

やはり、ピュタゴラス的数霊が植物体の形象、さらに、そのいわば、展開として、動物体の形象を造形成形するのではないだろうか、数霊とは幾何学として展開すると考えられる。(黄金比等)
 やはり、これは、オイラーの公式で解明できるのではないだろうか。θを適度に展開する数霊を考えればいいのではないだろうか。
 
************************

⓵氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)   ・・・U


⓶自我方程式(自己同一性方程式):

凸i(陽)*凹i(陰)⇒−1(=e^iπ) ・・・Z


前期PS理論とオイラーの等式の統合の再考:+1が生命物質体、−1が純物質:氣と同一性自己(自我) (10/29)
http://sophiology.jugem.jp/?eid=347

参考:

オイラーの公式 - Wikipedia

移動: 案内 、 検索

数学 、特に複素解析 におけるオイラーの公式(オイラーのこうしき、Euler's formula、オイラーの恒等式とも)とは、指数関数 と三角関数 の間に成り立つ等式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

オイラーの公式の幾何的な表示

をいう。ここに、θ は幾何学的には弧度法 に従う角と見なされる実変数 である。三角関数を複素変数に関する解析的関数と考えることで、この等式は θ を複素変数 と見ても成立している。レオンハルト・オイラー に帰せられるためこの名がある。この公式ははじめ、ロジャー・コーツ によって1714年 に提出されたが、その証明は曖昧なものだった。その後オイラーによって1748年 に再発見され、有名になった。

この公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学 ・物理学 などであらわれる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマン はこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」 [1] [2] だと述べている。

また、θ = π のとき、オイラーの等式 と呼ばれる

e^{i \pi} +1 = 0

が導かれる。

オイラーの公式の発見
www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/euler.shtml - キャッシュ - 類似ページ
オイラーの公式 eiχ=cosχ+i sinχ はじめて見た時、意味がわかりませんでした。eって
何? i 乗ってできるの?・・・しばらくして微分方程式を学習した時、なんてすごい公式だ
ろうと思いました。 この公式は中学生にはほとんど縁がありませんが、やはりこれを ...






陰陽極性の2つの螺旋?:氣的螺旋と物質的螺旋?
http://sophiology.jugem.jp/?eid=359

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

明日早いので、今は一言。
 先に、純物質が−1で、生命体が+1と氣の方程式を使って説明した。
 私のこれまでのイメージでは、+1に生命物質があると見てきた。つまり、生命有機体である。
 しかし、陽凸iの極大化によって、純物質が形成と考えたが、それは、生命有機体がまとう物質性ではないだろうか。
 つまり、−1は生命有機体の物質であり、+1は生命有機体全体ではないのかということである。捉えにくいが、氣的身体、氣的物質体が+1なのではないだろうか。
 今は問題提起のみである。

追記:読み直して、思いついたことは、−1は動物体で、+1が植物体ではないのかということである。
 私の仮説では、人体は植物体と動物体によって主に構成されているのである。もっとも、細かく言うと、先には、四層構造体(無双太極+植物体+動物体+自我)と述べたが。
人体四層構造図:T.太極点/U. 植物体(氣=陰陽)/V.動物体/W.自我体・・・(X.外界)
 もしそうならば、私の人体仮説がかなり明快になる。後で深く検討したい。

追記2:もし、追記のようならば、純物質はどう表記できるのか。思うに、⇒+1が植物体、⇒−1が動物体であり、±1自体が純物質ではないのか。有り体に言えば、枯れた状態、死体・遺体である。つまり、⇒はエネルギー状態、生命エネルギーである。
 そう、氣である。そして、⇒の尖端が光ではないのか。
 とまれ、要検討課題である。

追記3:追記、追記2のように考えるならば、2つの氣が存するだろう。⇒+1の⇒は陰の氣であり、⇒−1は陽の氣である。これまで、陰極、陽極は考えて、陰の氣、陽の氣は存在しないと見てきたが。
 やはり、根源の氣と極性の氣を別にしないといけないように思えている。例えば、太極氣と陰陽氣である。
 これも要検討である。
 
追記4:人間認識図であるが、これは活用できるように思える(ただし、『海舌』氏の認識布置は使用しない。)
思うに、⇒−1は動物体の極限として、自我ではないだろうか。
 とまれ、ざっと言うと、第一象限と第四象限が植物体に関係し、第二象限と第3象限が動物体と自我に関係する。

    『海舌』氏による人間認識図

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory
参考:
前期PS理論とオイラーの等式の統合の再考:+1が生命物質体、−1が純物質:氣と同一性自己(自我)
氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体) 


2013年11月09日(Sat)▲ページの先頭へ
問題:1.欲望と快感、2.純物質と生命有機体、3.氣と日光、4.屁蜜反故呆による屁遺政痴暗遺痔崩
強調を含む本記事は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11679946939.html

問題:1.欲望と快感、2.純物質と生命有機体、3.氣と日光、4.屁蜜反故呆による屁遺政痴暗遺痔崩

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

徒然に予見を述べておく。

1)欲望と快感

これはまったくの思いつきであるが、欲望を満足させたときの快感であるが、これには、脳内麻薬が関係しているのではないだろうか。
 酒を飲んだときの快感は、脳神経を麻痺させるものだろう。アルコールが麻痺させるということだろうが、いったい酔いとは何なのか。
 酩酊欲とは別に、食欲、性欲、所有欲等であるが、私の直観は、なにか依存症にさせるものが体内に生じるのではないだろうか。
 これは作業仮説として出すが、食欲が満たされたときの快感、性欲が満たされたときの快感、所有欲が満たされたときの快感、等の快感には、脳内麻薬の形成がともなうように思えるのである。
 だから、欲望は一種の依存症になるように思えるのである。
 この欲望/快感の問題は、3.自我の問題にも関係するのであるが、ここでは、脳内麻薬の問題に限定しておく。
 とまれ、欲望は一般には、増加する傾向にあると思う。快感をさらに求めて、拡大するのである。獣欲的になるのである。これは、醜悪的になるのである。
 近代とは欲望を肯定してきたので、これは必然、帰結である。(自由の問題がここには関係する。トランス・モダンという視点、立場を強調したが、やはり、近代の問題を考えると、近代を超える視点はもっとも重要なことの一つなので、トランス・モダンという用語を多く提起する必要はあろう。氣の哲学・科学[フィロソフィエンス]は、トランス・モダンの理性知である。)
 【今、空腹状態であるが、空腹というのは、確かに、食欲が満たされない、一種の苦痛、不満の状態であるが、しかし、それに耐えているが、その忍耐心には、なにか快感がある。性的快感だろうか。マゾヒズム? ひょっとして、欲望に耐えるということ自体になにか別の快感があるのではないだろうか。思えば、山歩きをしたとき、登るときは苦痛を耐えていくが、あるとき、その苦痛がぐっと減って、ほとんど感じなくなり、ハイの状態になるのである。なにかそれと類似して、忍耐の脳内麻薬があるのかもしれない。ひょっとして、それは氣による快感かもしれない。そう、よい音楽の快感は、明らかに、氣に拠るのである。生命力の快感である。ならば、少なくとも2つの快感を分ける必要があるのではないだろうか。私の仮説に拠れば、動物体による快感と植物体による快感となる。獣欲的快感と氣的快感である。そう、性愛が問題になるとき、この辺が分かりにくくなるのである。同性愛を含めて、性愛とは何か。人体の美の問題。これは、プラトンが『饗宴』や『パイドロス』で問題にしたものである。エロースの問題である。】(追記:性愛についての考察が尻切れトンボになっている。後で別稿で述べたい。)

追記:大事なことを言うのを忘れていた、資本増殖の欲望であるが、それこそ、人間にとって、もっとも「クセ」になるもの、脳内麻薬が出て、依存症、中毒になるものではないだろうか。
 これは、単に欲望だけでなく、自我に関係しているものである。後で、欲望と自我の関係について考察を行ないたい。


2)純物質と生命有機体

これについては、先に、氣方程式、自我方程式に関係して述べた。純物質とは−1であり、生命物質体は+1である。
 −1とは氣のない、氣の生命エネルギーが欠落した物質状態である。
 【ここで、付加的に、カント哲学の超越論性について言うと、超越論的形式であるが、それは、この−1に関係しているものだと思う。凸i陽の極大化によって−1へと次元転換(氣の霊的次元から現象次元への転換)するのであるから、超越論的形式(悟性)とは、凸i陽と−1との統合した様態を指しているのではないだろうか。数式的に言えば、凸i×凹凹i⇒−1となろう。そうならば、それが、超越論的形式(悟性・知性)方程式である。

参照:http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11657621030.html

⓵氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)   ・・・U


⓶自我方程式(自己同一性方程式):

凸i(陽)*凹i(陰)⇒−1(=e^iπ) ・・・Z

追記:自我方程式であるが、それは、同時に、純物質方程式とも呼べると考えられる。
 因みに、カント哲学のアンチノミー(「矛盾」)であるが、それは、氣の方程式と自我(純物質)方程式の衝突を意味するのではないだろうか。ならば、カントの理性は、氣の方程式と自我(純物質)方程式の混同があると言えよう。PS陰陽論の視点から言うと、両者の衝突ないし混同は、MP(メディア・ポイント:つまり、ガウス平面の原点)で生起していると言えよう。これについては、稿を改めて述べたいが。】
 繰り返すことになるが、近代科学とは自我(純物質)方程式の科学であるということになる。そう、自我と純物質の結びついた、カント哲学的に言えば、超越論的形式(悟性・知性)の科学であるということである。 
 しかし、自我(陽凸iの極大:極陽)は、氣を抑圧しているので、当然、氣の反動作用を受けるのである。そうすると、それに対抗して、自我は反動作用をもつと考えられる。これは、超越的な氣の作用なので、自我は、反動的超越性を志向するようになると思われる。(ハマッキーとか、UFOとか、あるいは、「超越」的商品詐欺にハマるのは、この反動作用に拠ると思えるのである。)
 そう、結局、近代科学は、最初は正当な物質科学、つまり、近代合理主義であるが、それだけであると、氣を抑圧しているので、反動化する必然があるのである。だから、もともと、自我中心主義なので、暴力に狂気が入ってくることになるのである。
 だから、近代科学の正常な発達のためには、それを規定する必要があるのである。つまり、それは、自我(純物質)方程式に拠るものであり、自我と純物質の枠組み、限定されたものであるということである。思うに、哲学的には、カントが近代合理性を超越論的形式ということで、規定している、つまり、限界付けているのであるが、それをとりわけ日本の科学者は理解していずに、科学中心主義、科学絶対主義になり、マッド・サイエンティストになってしまう傾向が強いと言えよう。
 また、科学を進化させる必要があると言えよう。それは、氣という高次の存在を認めることで、高次科学に進化するだろう。物質包摂した氣・霊(精神)科学である。


3)氣と太陽(陽光・日光)
 
先に以下のように書いた。

*****

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11657621030.html

氣☯⇒|光|+1   ・・・[

と図式化しておく。
 説明すれば、氣(陰陽☯)が生命物質体(+1)を成形するとき、氣が成形した+1にぶつかったときに発生するのが光ということになる。つまり、氣が生命体にぶつかったときの反射が光ということになるのである。簡単に言えば、氣の物質体による反射が光である。氣の反射としての光ということになる。
 ここで、D.H.ロレンスの『天道虫』における「黒い太陽dark sun」のことが関係するのである。そこで、登場人物のディオニスは、目に見える光とは闇(いわば、超光である)が物質に当たったときの反射であると述べているのである。
 それに今述べた視点を入れれば、ロレンスの「闇」とは氣ではないのかということになるのである。黒い太陽dark sunとは、端的に氣の太陽ということになろう。しかし、氣(陰陽☯)そのものを氣の太陽として見るのは無理があるだろう。それは、単に氣でしかないのであり、太陽ではないからである。
 だから、太玄霊までを考える必要があるだろう。そこで、

太玄霊⇒氣(陰陽☯)    ・・・\

を考えて、この⇒と氣の接点に氣の太陽(黒い太陽dark sun)を考えたい。
 だから、\に黒い太陽を入れて、[を合わせると、

太玄霊⇒|黒い太陽|氣(陰陽☯)⇒|光|+1 ・・・]

となる。
 接点がわかりにくいので、・を入れる。

太玄霊⇒・|黒い太陽|・氣(陰陽☯)⇒・|光|・+1   

・・・]T

*****

氣☯⇒|光|+1  

とは、氣=陰陽(共振)が光を生むということである。
 この図式だが、日光は氣の副産物のように見えるが、今の時点では、そうではないと見る。

氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)  

における⇒が日光ではないかと思う。つまり、氣のエネルギー体が日光ではないだろうか。アリストテレス哲学を使えば、氣のエネルゲイア(活動態)が日光となる。(ならば、同様に、氣自体は、デュナミス潜在態である。 )
 わかりやすく言えば、氣の現象が日光であるということである。そして、氣自体も存在するということである。
 つまり、不可視の氣と氣の現象である可視の日光が存在するということである。
 だから、可視の日光は、不可視の氣を内在しているのではないだろうか。
 次の氣の方程式を見れば、

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体) 

左辺が不可視の氣=陰陽極性ということになるのである。わかりやすく書けば、

氣(陰陽)⇒(=日光)+1(生命体)

となる。⇒(=日光)が上記とは決定的に異なる点である。
もっと簡潔にすれば、

氣⇒(=日光)生命体

である。
 記号がわかりにくいので、工夫する必要があるが。
 これで、これまで、私が述べていたように、日光には、生命情報があるということがよく理解できるだろう。つまり、日光は生命力の本質である氣を内包しているのであるから、当然、生命力をもつのである。飯山一郎氏が太陽凝視による生命力について述べているが、これでざっとは説明できよう。(松果体等について説明する必要があるが。)
 そう、もっと明快に図式化できるだろう。即ち、

氣⇒日光⇒生命体

である。
 では、人工照明の光はどう解明できるだろうか。それは端的に電磁波、物質波である。
 純物質の光である。それは、当然、−1に関係すると考えられる。つまり、陰陽共振ではなく、極陽主導の純物質事象である。
 そこには、氣はないのである。故に、人工照明による栽培は、氣の豊かな植物は成長しないと考えられるのである。


4)屁蜜反故呆倒による屁遺政痴暗遺痔崩

秘密保護法等の全体主義諸法の問題であるが、歴史は繰り返すというが、単純には反復はしない。戦前とまったく状況が異なるのである。変わらないのは、日本国内かもしれないが、海外世界の状況は全く異なるのである。ロシアの世界共同体的志向と米国の反戦争資本路線、その他があり、米国1国覇権主義は衰退しているのである。
 日本の戦前・戦中の国内外の状況を考えるべきである。
 当時は敵国を作れた。鬼畜米英であり、満州国建設という似非ユートピア主義があった。全体主義は憎悪の対象となる敵国が必要であるが、今日はどうだろうか。中国を敵国にしようとしているが、貿易的に、それは無理だろう。では、どこが敵国になるのか、ロシアは共産主義ではない。北朝鮮だろうか。しかし、強力な敵国にはなりえないだろう。では、何処?
 アベコベ氏の反動路線は、現実を無視した空理空論のところがあると考えられるのである。ドン・キホーテ路線である。空回り的なのである。
 とは言え、全体主義志向路線であることは確かであるし、暗黒路線である。
 また、国内の状況であるが、戦前・戦中において、大本営発表を盲信したようには、今日、盲信する人は、多くはないだろう。勿論、愚民が大半ではあるが、盲信はしないだろう。そう、魔刷塵が釈迦力に洗脳しようとしているが、国民は戦前・戦中のようには踊らないだろう。
 そう、アベコベ氏はなにか漫画チックなのである。もっとも、ここ20年ほどの日本の政権は漫画チックであるが。
 とまれ、平成治安維持法が登場し、警察国家にはなるだろう。
 しかし、戦前・戦中と同じではない。
戦前・戦中とは異なる最も大きな事態は、父権収奪戦争資本主義が追いつめられていることだ。
 そのいわば断末魔を担っているのがアベコベ反動政権である。そこのところを確と認識する必要がある。
 直観では、アベコベ政権は空回りして、空中分解するのである。何故なら、今や経済は、父権収奪戦争資本主義の時代ではなく、母権共生資本主義の時代であるからである。まったくのドン・キホーテの阿呆屁゛政権である。

追記:マルクスの有名な警句があった。歴史は二度繰り返す。一度は悲劇として、二度目は喜劇として。違った。「一度は悲劇として、二度めは茶番として」である。茶番ということである。

以下を参照:
ヘーゲルはどこで「歴史は二度現われる」と言ったか?
 「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、一度は悲劇として、二度めは茶番として、とつけくわえるのを忘れた。」(マルクス・エンゲルス全集第8巻P.107)というのは、マルクスが1851〜52年に執筆した論文『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の、あまりにも有名な書き出しです


2013年11月08日(Fri)▲ページの先頭へ
日本の権力層の冷血無惨な精神構造:陰陽未分化非合理衝動+利己主義的父権主義:国学神学イデオロギー
強調等を含めたものは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11677621181.html


日本の権力層の冷血無惨な精神構造:陰陽未分化非合理衝動+利己主義的父権主義:国学神学イデオロギー

テーマ:総て出鱈目日本の元凶ヤハウェ父権自我悪魔

以下の記事で、転載したような、アベコベ(安倍媚米)氏の欺瞞性が暴露されている。これは、特に目新しいことではない。日本の権力層の典型的な欺瞞・ペテン師のパターンであり、ただ、状況やアベコベ氏個人の「父権主義」(いちおう、カギ括弧をつけておく)とタカ派性によって、極端になっているのである。
 簡単に言えば、口と腹のまったく違うこの欺瞞の精神力学が問題であり、その分析は既述であるが、再度究明したい。
 簡単に言えば、倫理性、道徳心がないということに尽きるのであるが、その力学構造を明らかにする必要はある。
 これまで、私は父権主義的精神でそれを説明してきたのである。これは、端的に利己主義なのである。
 しかし、問題は利己主義でも、自覚した利己主義、意識した利己主義ではなく、無意識の利己主義であるのが、問題と言える。本人は、至って、自分は正当であると考えているに違いないのである。
 私は父権自我は、これまで、優越、妄想・狂信、独善、等々と形容してきた。これは、PS陰陽論から言えば、極大化した陽の性質と考えられるのである。
 以下の参考の記事は去年のものであるが、そこでは、日本父権主義のベースに母権極の非合理性があると述べている。それが無意識に働いているということである。
 この考え方を自分で書いておきながら、忘失していたが、今思うに、それなりに妥当するように思う。
 しかし、今の時点で新たに考えてみると、どうも、原点の未分化様態が無意識のうちに作用しているのではないだろうか。陰陽未分化と父権自我が結びついているのである。陰陽未分化は神的衝動をもっていて、利己主義の父権自我を狂信・独善・妄想化させるだろう。
 だから、日本権力層は、自分は正義でありと感じ、他者の声に耳をかさず、平気で売国行為に励むのである。
 簡単に整理すると、陰陽未分化の宗教的衝動と利己主義的父権主義の融合が日本支配権力層の精神構造にあり、そのために、まったく不合理・非合理・不条理な売国亡国行為を行ってしまうのである。
 これは、私見では、明治維新の国学神学イデオロギーが基礎としてある精神構造である。
 以上、素描である。

追記:では、解決策は何であろうか。思うに、日本国民にも類似した精神構造があると考えられるのである。
 だから、国民の精神革命が必要である。
 結局、自己の陰陽未分化の非合理衝動を生むものを「合理」的に捉え直す必要があるのである。
 結局、植物体の精神、氣の精神に回帰する必要があると考えられる。
 氣の精神を明確にもつことで、根源の陰陽未分化精神は、「合理化」されるのである。
 やはり、日本父権主義はヤハウェと通じるように思う。日ユ同祖論である。
 

2013/11/08 : 政治・権力・陰謀 : 今、日本は開国以来、最大のクライシス(危機)を迎えている。 安倍晋三や竹中平蔵たちが率いる現政権は、日本史上最悪の亡国政権になりかかっている。 最悪というのは、小泉政権をはるかに超える“亡国度合”を持つという意味である。

だが・・、安倍晋三には日本を守る気持ちはなく、国民資産をただ同然に多国籍企業に売り渡すことしか念頭にない。

だから・・、
TPPに舵を切っていて、愛国者は絶対にありえない。
国家戦略特区を推進していて、愛国者は絶対にありえない。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-6995.html

『文殊菩薩』



参考:(尚、以下、強調は本稿のために行った。)

2012年06月09日(Sat)
再考:日本民族における母権と父権の極性:父権的傾斜と母権的均衡
私は既述のように、日本民族は、ベースは母権的民族で、それに父権的民族が進入して、両者が混淆して、形成されたと考えている。母権的民族は、沖縄・アイヌに残ると考えられる縄文的民族と、中国から移動した弥生的民族と、ツングース系民族、他である。父権的民族は、いまだよくわからないが、中国からやってきた民族ないしは失われたイスラエルの十支族やその他である。
 母権的民族と父権的民族の混淆で著しい例は、古代ギリシアである。それは、ギリシア神話に見事に表現されている。
 そして、日本民族の混淆はやや性質は違うものの、ある意味で類似していると考えている。
 問題点は、混淆の性質である。思うに、三種類のパターンが考えられる。即ち、

1)母権的傾斜型
2)父権的傾斜型
3)母権・父権的均衡型

の三つの型である。
 日本民族文化を考えたとき、この三つの様態があるように思われる。
 とまれ、確認すべきは、母権極と父権極があり、この極性の陰陽的様態において、日本民族文化を見る視点である。
 言い換えると、初めは、母権的民族が存在し、その後、父権的民族が到来して、後者が支配的になったが、時代が経つにつれて、両者が混じり合い、母権/父権的極性的民族・文化が形成されたと考えられる(仮説)。
 私がアニミズムと機械・物質文明の連続性について述べたが、そのとき、自我は弱いと述べた。その意味はこの極性的様態から考えるべきである。つまり、ストレートな父権主義ではなく、母権的極性をもっている父権主義なので、自我が、純粋父権主義の自我から見ると、「弱い」ものとなるのである。しかしながら、「弱い」とは言え、父権極的自我は存在するのである。
 とまれ、アニミズムと機械・物質文明の連続化は、ベースにある母権極にアニミズムがあり、それが、「弱い」父権的自我を介して、機械・物質文明と繋がったと考えられるのである。
 ここで、明治維新以降の「近代化」を考えると、そのような精神様態をもつ日本人であるから、近代合理主義は、欧米のものとは当然、異なるものとならざるをえない。
 つまり、西洋における近代合理主義は近代的自我(デカルトのコギト)と結びついたものであるが、日本の場合、近代的自我は、独立したものではなく、ベースの母権極のために、半近代的自我にならざるを得なかったと考えられる。
 そう、母権極の非合理性(アニミズム等)があるために、近代合理主義は、形式的なものとなり、非合理性によって歪曲されたものとなったと考えられるのである。
 明治維新以降の日本支配層は、私説では、父権主義であるが、今述べたように、非合理性をもつので、欧米の合理主義文明が非合理性によって染められたものとなったと見ても、間違いではないだろう。
 導入された「近代合理主義」、機械・物質文明は非合理性によってねじ曲げられて、無分別に、盲目・狂信的に戦争の道へ進み、「太平洋戦争」の大惨禍を引き起こしたと考えられる。
 また、戦後であるが、この非合理性をもつ父権主義は当然、清算されずに存続したのであり、それは、米国をいわば宗主国とする植民地・属国的日本をもたらしたと考えられる。
 また、敷延すれば、原発の林立も結局は、この非合理性をもつ父権主義のしからしめるものと言えよう。
 これも持論であるが、明治維新は母権的勢力を父権的勢力が制圧して生まれたものである。坂本龍馬、西郷隆盛らの母権的勢力が弾圧され、力を失ったのである。
 近世・近代の母権的勢力であるが、上述から見ると、非合理性をもつのではないかと言われるであろう。確かに、非合理性をもつが、実は、その非合理性に徹しているので、非合理性の「理性」をもつ文化をもっているのである。それが、東洋・日本的身体文化、肚の文化である。つまり、近世・近代の母権的勢力は、伝統的な東洋・日本文化を体現していた勢力であり、新たな西洋の知見をもった文明的勢力であったと考えられるのである。
 だから、母権的勢力とは実は、母権極/父権極の均衡性をもった勢力でもあったと言えるのである。そして、そこにこそ、正統な日本の未来があったと言えるのであるが、残念ながら、父権的勢力が支配して、非合理衝動である過信・盲信・狂信、慢心・傲慢、狂気・妄想、攻撃衝動のために、自暴自棄の自滅の道を辿ったのである。
 その今日的帰結が、福島第一原発の爆発による放射能汚染地獄であり、日本の経済を破滅させようとする民死倒の政権である。
 日本父権主義は、自己の基底の非合理性を確認できないために、不合理極まりない、悪魔的に利己主義的な方策・行動・態度をとってしまうのである。
 この日本父権主義の型は国民にも蔓延しているのであり、日本民族国家のいまや衰亡の瀬戸際にあると言えるのである。
 とまれ、以上から私が新母権主義を提唱する理由がいくらかはお分かりになれたのではないだろうか。
 最後に何故、母権主義に個があり、父権主義は没個であるのかを説明したい。
 つまり、母権主義は肚=魂を基底にするために、自我との意識的極性が形成されるために、他者と自我の均衡という個が形成されることになるのであるが、父権主義は肚=魂が無意識であり、賦活されないので、その無意識の衝動に支配されてしまい、自我は独立せずに、なんらかの力に支配されるのである。故に、没個なのである。

追記:上記の三種類の型であるが、結局、1の母権的傾斜型と3の母権・父権的均衡型は極性論理のために、一致することになるのである。

追記2:日本父権主義の非合理性が元凶のように述べたが、それは不正確である。非合理性と同時に、父権主義のもつ同一性・自我主義(利己主義)も極度の不合理性を引き起こす重要なファクターである。もっとも、同一性・自我主義は、本来、純粋悟性に関わり、合理主義精神に関係するのであるが、日本父権主義の場合は、その封建的権威意識が強力なために、同一性・自我主義に関係する合理主義精神の形成がはななだ未成熟であると言えよう。
 それに対して、西洋の場合、イタリア・ルネサンスや宗教改革(プロテスタンティズム)等によって個の覚醒があるために、父権主義の同一性・自我主義は、封建的権威主義を脱した為に、合理主義精神に繋がったと考えられるのである。

追記3:非合理性として、アニミズムをあげたが、当然、シャーマニズムも入れていいのである、そう、というより、入れるべきである。

**********************

魂と自我の結婚:魂の闇と自我の光:闇と光の螺旋結合
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下の先に書いた叙述と参照の叙述は齟齬を来しているので、整合性のある説明が必要である。後で、考察を行いたい。

**********************

母権主義と父権主義:魂の意識と自我の意識
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

私が説く母権主義と父権主義は女性主義と男性主義ではない。母権主義は、男性においてもあるし、父権主義は女性においてもあるのである。
 母権主義と父権主義は人間の根本的な質的差異を意味する。前者は魂を基底にしているし、後者は自我を基底にしているのである。
 日本人は母権主義と父権主義の混淆であると考えているが、明治維新以降、後者が支配的になり、前者が抑圧されたと考えられるのである。
 とりわけ、戦後の米国による一種の植民地的支配によって、日本の母権主義は否定されて、日本民族は衰滅の危機にあるのである。
 そう、母権主義とは、個に基づくのである。もっとも、正確に言えば、自我の基礎にある魂に基づく個である。
 父権的集団主義に染まって、母権的個を埋没させているのが、現代日本人である。

参照:

アニミズムと機械・物質文明
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
resurrection
neomanichaeist resurrection

アニミズムと機械・物質文明4:両者が日本人の精神において結合しているとすると、問題は厄介であるが、PS理論によってこの問題を解明している。即ち内面の魂と近代科学・技術の切断。両者が不連続であることを日本人は認識する必要がある。 両者の無意識の連続体が日本人を束縛している。擱筆
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アニミズムと機械・物質文明3:無意識の受動的魂と近代科学・技術が、日本人の精神において、結びついたというのは確かに考えられることである。故に、「浜岡原発反対氏」(仮称)が指摘したことは正鵠を射ていると言える。
15分前 お気に入り 返信 削除
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アニミズムと機械・物質文明2:日本人の場合、デカルト的自我は希薄である。端的に言えば、自我は弱い。おそらく、内面の魂の側面が作用しているのであるが、無意識である。おそらく、この魂の受動性が、近代科学(物質科学・技術)と結んだのではないのか。続く。
18分前 お気に入り 返信 削除
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アニミズムと機械・物質文明1:先に、両者通じるというコメントを戴いたので、答えたい。 アニミズムは魂の感覚に拠る。機械・物質文明は、当然、近代合理主義を前提にする。本来、デカルトの自我=存在があるが、日本の場合、それが欠落する。続く。


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resurrection
neomanichaeist resurrection

狂気の複合権力。日本民族は母権民族と父権民族の混合。古代は前者がベースで後者と結合したが、江戸時代で衰退し、新父権と新母権が生成した。明治維新は後者に拠るが前者が権力を簒奪し、父権封建的中央集権国家を確立するが、優越妄想独善狂信のために戦争で破滅、そして、今日、福島原発事故で、

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-10875456067.html

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11271794452.html

http://protophilosophy.noblog.net/blog/m/11349285.html
protophilosophy(タイトルタグ)
INNOVATION OF PHILOSOPHY



参照:toxandoria氏は、アベコベ(安倍媚米)政権の精神力学的問題点をごてごてしているが、捉えているように思える。
天皇の政治利用と国民主権・政教分離軽視で正統保守(文化遺産的自律国)の情報保全体制と国際コミットメント信用を失う安倍政権CommentsAdd Star

「靖国英霊・原発(ウラニウム・放射能)アニミズム国策融合&異端審問」の体制確立で、<NHKが「偽装極右一派」支配下の安倍・日本放送協会AHK/言い換えれば「NHK(ことAHK)から戦争が始まる」体制の確立を狙った狡猾な布石!>と化すカウントダウン開始!新任4人は安倍首相と近く露骨な政権色が濃い人事!2013年11月2日http://urx.nu/5zXG

⇒ NHK経営委員 限度超えた安倍カラー、 毎日・社説 2013.11.2

・・・今回の人事案に挙がっている新任の4人は安倍カラーが濃い。哲学者の長谷川三千子さんは保守派(ならず擬装極右派←只野親父、補足)の論客で、昨年9月の自民党総裁選で安倍首相を応援した。作家の百田尚樹(戦中ゼロ戦特攻隊式(浪漫派イロニー愛国)政治派)さんもやはり総裁選で安倍首相を応援し、首相就任後に雑誌で対談して意気投合している。日本たばこ産業顧問の本田勝彦さんは首相が少年時代に家庭教師を務め、首相を囲む経済人の集まり「四季の会」のメンバーだ。中島尚正さんは海陽中等教育学校長だが、同校は首相のブレーン、JR東海会長の葛西敬之(リニアのための原発推進派←只野親父、補足)さんが設立に尽力した。

・・・菅義偉官房長官(Jap.ゲッペルス官房長官と改名すべきだ!←只野親父、補足)は「信頼し、評価している方にお願いするのはある意味では当然だ」と人事案が首相主導で練られたことを隠さなかった。

f:id:toxandoria:20131105045241j:image:w450

■【NSC(国家安全保障会議)大本営発表方式/「靖国英霊&国策原発アニミズム融合」合祀化なるアベ偽装極右一派式「狂想政治暴走」の証拠】例えば、汚染水問題も警備と絡めれば容易に「特定秘密」化し得る ⇒ 原発の警備「特定秘密指定あり得る」森雅子担当相11.1朝日http://urx.nu/5AcD <注記>画像は、http://urx.nu/5AcP より転載。

f:id:toxandoria:20131105045242j:image:w450

■【これもNSC(国家安全保障会議)大本営発表方式/「靖国英霊&国策原発アニミズム融合」合祀化なるアベ偽装極右一派式「狂想政治暴走」の証拠】誰が開戦決定したかの特定秘密化で国民があずかり知らぬ内に日中戦争の最中!という恐るべき場面があり得る! ⇒ 特定秘密 約40万件指定で調整11.2NHKhttp://urx.nu/5AcF <注記>画像は、http://urx.nu/5AcF より転載。

■日本版NSC(国家安全保障会議)は、議事録をとらないと政府答弁。例えば、イラク戦争のように証拠のない戦争参加を決定する場合を考えてみよう。会議に立ち会った公務員らは秘密保護法で口を閉ざし、誰が戦争参加を決めても責任を問われない。無責任国家だから一層危険。http://urx.nu/5AcF 金子勝 @masaru_kanekovia web2013.11.02 07:50只のオッサン(脱原発への急転向者)さん他、338人がリツイート

1 安部式・忠君愛国(神話・天皇重視)教育を先取りする「宮城県議会の恐るべき天皇の政治利用(“つくる会教科書”関連請願の採択)」

1−1 安部式・忠君愛国(神話・天皇重視)教育に共鳴する「宮城県議会の“教室から戦争が始まる体制を?つくる会教科書”関連請願の採択」は、恐るべき戦前型「天皇の“密教”政治利用」の取り戻し

f:id:toxandoria:20131105045243j:image:w600

■日中戦争(願望的ホンネでは日米戦争)も辞さぬ<NSC(国家安全保障会議)と秘密保護法の合体による戦前ソックリの「極右軍事政権型大本営」出現の危険性/アベのこれこそが「天皇の“密教”政治利用!」>を米リベラル派は直視!その先駆けは既に宮城県議会で観察される!(↓*)2013年11月1日

⇒ NYタイムズ 社説で「日本版NSC」「秘密保護法」断罪の波紋2013.11.1日刊ゲンダイhttp://urx.nu/5zmn <注記>「一般国民を広く柔らかく洗脳するための分かり易い“顕教”システム」としての天皇、同時にその天皇を政治の道具として狡猾に活用する戦前型「天皇の“密教”政治利用!」については、下記(参考)を参照のこと

*アベ式愛国教育(神話・天皇)を先取りする、「宮城県議会の恐るべき“密教”利用を視野に入れた、先ずは“顕教”型での天皇の政治利用ということ!/追憶のカルトなる近世日本の伝統テロリズム」(“つくる会教科書”関連請願の採択)?忠君愛国・教育勅語式のおしつけは理不尽!正統保守・愛国を自負するなら政教分離・脱原発・歴史経験重視・授権規範であるべき!/つくる会教科書側からの圧力行使は余りにも奇っ怪千万!<靖国英霊&原発カルト融合国策合祀>の先取り! ⇒ 「神話や天皇」、「日の丸や君が代」など(戦前教育型)の項目を点数評価し反映させるよう県教委に指導を求めた「新しい歴史教科書をつくる会」県支部の請願(これぞ、性懲りもなく悪質なアベ自民党による天皇の政治利用/追憶のカルトなる近世日本の伝統テロリズム)を賛成(圧倒的!)多数で10.30に採択http://urx.nu/5zmN 

・・・問題は、これが国政選挙で安倍・自民党が誕生した時と似たようなパターンの選挙民一般(宮城県民)の特異な行動(orアベノミクスと同じことで、原発利用型経済への過剰期待?)の中で起こった出来事であること。つまり、この「つくる会」からの請願なるモノが、約7割の選挙民(有権県民)の棄権(国政選挙では、約5〜6割の選挙民(5千〜6千万人)の棄権が常在化している!)という異常環境のなかで、しかも「50万票VS9万票の大差」で現職・村井知事が反原発派に圧勝した直後に、突然、引き起こされたように見えることだ。

・・・比較的意識の高い宮城県民が経済復興に、より期待する気持ちは理解できるが、一般選挙民の無関心を奇貨として、安倍&維新に繋がる偽装極右勢力が一気に反動の総攻撃をかけてきたような感がある。

・・・しかも、宮城県は福島県内の遠隔地よりフクシマ原発事故現場から近距離であること(せいぜいで70〜100km程度)、またプルサーマルの女川原発から地方中核都市・仙台の中心地までは40km程度の距離しか離れていないにもかかわらず、殆どの県民・仙台市民には原発事故に対する危機感が感じられない。

・・・おそらく、この空気では<靖国英霊の国策化と国策原発を同時に受け入れることが県民(国民)の責務である>とする大方針が示(下賜)されれば真っ先に、それに従ってしまうのは宮城県では?と懸念される。

・・・尤も、圧倒的多数派である約7割の県民は傍観者の立場を取っている訳だ。しかし、安倍政権による筋違い(本来のスパイ防止法とは異なる国民監視目的)の“秘密保護法+日本版NSC”の悪用(その本来あるべき姿は、正統保守に基づく自律国としての情報保全体制の確保ということであり、国民統制・監視・支配のツール化ではない!)による<国策靖国英霊&原発(ウラニウム・放射能)アニミズム合祀の大方針が示(下賜)され>た暁となってから“コリャ大変だ!”と騒ぎだしても後の祭りとなる訳だ。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20131105/p1

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』


仮説:緑の血green blood:氣エネルギーが様態傾斜して、獣欲(性欲、食欲、物欲他)になる
仮説:緑の血green blood:氣エネルギーが様態傾斜して、獣欲(性欲、食欲、物欲他)になる

テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性

以前、性欲とは、精神エネルギーが変化したもの、それも劣化したものではないかと考えた。
 しかし、その時は、まだ、思いつきに近かった。いわば、直観である。
 しかし、今や、PS陰陽論(無双太極PS陰陽論)の視点から、理論的に解明できると思う。
 つまり、生命エネルギーは氣である。それは、植物体のエネルギーである。それは、欲望ではなく、霊的エネルギーなのである。(あえて言えば、霊的欲望である。しかし、それは、不条理な言葉だろう。)
 それは、清浄なエネルギーである。快晴のような、宇宙空間、オリオン座の秋の夜空のような清澄清浄なエネルギーである。これが、基本なのである。それが、陽に傾斜すると欲望、獣欲になると考えられる。そして、さらに、自我が入ると持続的な、集団的な破壊性を帯びるのである。
 朱子が性即理と説いたのは、この意味で考えるべきである。性は植物体の氣のエネルギーである。ここによって、根本の理、いわば、太理を得ると考えられる。
 この点では、仏陀もゾロアスターもプラトンもイエスも同じであると言えよう。
 緑の生命を生きること、ここに人間進化の鍵がある。
 これが仏陀の悟りの本義だと思うし、他、哲理者の摂理と言えよう。
 あえて言えば、血を緑にすることである。緑血をもつことである。
 いわば、緑の氣が身体を浄化するのである。身体を霊化するのである。身体の緑化である。
 性欲や食欲他は氣エネルギーに還元されるのである。昇華であるが、回帰が本質である。




アバの歌声にある陰:これは、無双太極の影ではないだろうか

テーマ:music/dance/ballet

やはり、アバの歌声には深い陰があると思う。
一見、まったく華やかに聞こえるが、裏地のように深い陰が付いているのである。
 以前、夢中になって聴いていたが、深い闇を感じて、それ以後聴くのを止めた。
 しかし、今聴くと、光と闇の融合したトーンが分かるのである。これは、実に、東洋的なサウンドだと思う。モネの絵画と似るのである。少し違うが。

[HD] ABBA - SOS (SS 1975)


ABBA SOS ( AGNETHA LIVE VOCALS )


Abba - SOS


Abba - Fernando


Abba - Knowing Me, Knowing You





欲望とは秘密を帯びている:食べないと食欲は減るし、食べると食欲が出る

テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌

私の作業仮説に、人体(人心体)における植物体と動物体の区別がある。前者は氣の身体であり、後者は、いわば、欲望の身体(肉体といった場合、こちらを主に指すだろう)である。
 不食とは私説では、当然、前者を目指すことになる。つまり、欲望の滅却である。これは、仏陀の教えに酷似しよう。(そう、先に言ったが、仏陀やキリストの教えとは、植物体の教え、氣の教えであると仮説している。思えば、仏陀が菩提樹の下で悟りを開いたというのは、意味深長である。植物に関係しているのである。私説では、氣に関係するのである。因みに、D. H. ロレンスは樹木の下で腰を下ろして創作するのが好きだった。)
 とまれ、今日は、朝、豆乳ヨーグルトを食べただけで、まだ、何も食べていない。しかし、元気である。思うに、食べると、食欲が出るのである。これは一体何なのか。先に述べたが、どうも、食という行為は、食欲を刺激するである。否、先に、条件反射的なものではないかと示唆したが。
 できるだけ、食べないでいよう。仏陀は先達である。




森氣浴ウォーキングは活力を生む?:歩動は、氣を発生させる?

テーマ:健康&治癒:森気浴:医食同源:小食菜食

今日は、簡単に20分ほど、雨上がりの森の中を森氣浴歩を行った。朝は元気がなかったが、夜は元気になっている。どうも、森氣浴歩は活力を生むのかもしれない。
 歩いて、体を動かすことは、体内に氣を発生させることでないかと思った。もっとも、検証が必要である。





情感の欠如は、自然とのコミュニケーションの欠如に拠る面が強いだろう:物質的都市化による感性枯渇

テーマ:2つの自然:植物と動物:氣と獣欲・煩悩

ある若者、女子を見て、情感が不足していると思う。
 情感は本来、「水」的である。陰陽論で言えば、陰の欠落であるし、また、根源の太水の枯渇である。
 利己的物質主義優位からすれば今更でもあるが。
 しかし、根本的には、自然への接触の欠落が大きいように思う。私は、幸い、子供の頃、車社会になる前の、有機的な農業の「ど田舎」で過した。緑の感性が私の心に成形された。
 そう、自然感性をもっていると、東京は灰色地獄である。私なりに言うと、東京の空気は氣が死んでいるのである。以前、述べたが、東京の空気は、「痛い」のである。


2013年11月05日(Tue)▲ページの先頭へ
ヤハウェと無双太極:無双太極の円錐⇒円・円周⇒陰主導の氣=陰陽⇒螺旋現象⇒純物質ー自我
ヤハウェと無双太極:無双太極の円錐⇒円・円周⇒陰主導の氣=陰陽⇒螺旋現象⇒純物質ー自我

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

これまで、ヤハウェをいわばいちばんの敵に見てきたが、そう、悪魔、邪神ではないかと思ってきたのだが、今日、ふと、「我在り」ということがぴんときた。ヤハウェは「我在り」という神である。
 つまり、「わたし」の存在の神である。これは、デカルトのコギト(我思う)ではない。初めに「我在り」である。デカルトは、「我思う故に我在り」で「我在り」は結果である。
 ここは決定的な違いである。
 思うに、「我在り」は無双太極を指すように思えるのである。というか、無双太極から発して、自我に達しているのである。
 無双太極は、陰陽未分化であり、認識というより、存在、一体的存在である。当然、「我」はない。
 「我」が生じるには、物質化が必要である。だから、自我と無双太極が結びついているのが、ヤハウェではないだろうか。
 自我から見ると、根源の無双太極は超越的に感じるはずである。いわば、人体四層構造の両極端が一致したのがヤハウェであると思われるのである。
 これで、ヤハウェを悪魔にしないで済んだ。悪魔は、極陽を固定する原理である。
 因みに、キリストは氣=陰陽である。植物体である。あるいは、陽光である。太陽神と言っても間違いではないような気がするのである。(シュタイナーはアフラマズダがキリストであると言っているのである。あるいは、キリストは太陽霊なのである。)
 正確には、根源的氣を体現した人物がキリストであろう。
 で、根源的氣であるが、それは、端的に無双太極ではないだろうか。つまり、太水(あるいは、太水火)である。
 無双太極が氣の源泉であるから、そうなるのではないだろうか。
 つまり、無双太極=太水(太水火)を体現した人物がイエス・キリストということになる。
 キリストは次のように言っている。

25水と霊から新しく生まれて神の国に入る

25水と霊から新しく生まれて神の国に入る

イエスは次のように言っています。
「よくよくあなたに言っておく。だれでも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその昔を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(ヨハネによる福音書3・5〜8)。

http://page.freett.com/kogayasuko/newpage27.html


「水と霊から生まれる」と言っているのである。
 これは、先にも述べたが、無双太極=太水の陰陽未分化を示唆しているのではないだろうか。
 だから、現段階では、キリストは、無双太極と氣=陰陽を体現していると考える。
 しかし、そうすると、キリストは「父」になってしまう。キリストは「子」であるから、やはり、氣=陰陽に留めおくべきように思われる。
 しかし、それでは、単に植物と同じになってしまう。
 やはり、氣=陰陽の太陽系の根源をキリストは体現しているのではないだろうか。
 ちょっと、小手先的であるが、こう考えたらどうだろうか。
 根源の無双太極(不二極、無極とも呼べよう)のイデアをもった氣をキリストとするのである。太極氣ということになろう。これは、太極霊ではない。
 ここで整理すると、無双太極は理、霊の世界である。だから、理霊界、ないし霊理界である。これがイデア界ではないだろうか。ならば、理霊はイデアである。一応、ここでは、そう作業仮説する。
 この理霊=イデアが氣の世界へと展開する。理霊氣=イデア氣が生じるのである。そして、これが、キリストである。
 普通、氣=陰陽と言う場合は、個別のものであるが、キリストの場合、総合的、全体的、宇宙的であると考えられる。
 ヤハウェ、キリストと出たので、聖霊はどういう力学だろうか。
 それは、物質化しないのであるから、氣には関係しないのではないだろうか。氣は現象と結びつくのであるから。
 そうすると、理霊=イデア的なものということではないだろうか。これは、端的に、理霊=イデアが接することではないだろうか。難しいので、これは課題にしておく。
 ここで整理すると、

1)無双太極(陰陽未分化:理霊=イデア)・・・肚・・・太陽神経叢
2)氣=陰陽・・・胸
3)自我=陰陽二元論・・・頭

となり、ヤハウェは1と3の結合であり、キリストは1の理霊=イデアと2の結合である。そして、聖霊はあえて言えば、理霊=イデアであり、それが、氣の空の様態において、3に達することではないだろうか。

追記:以上の無双太極における理霊と気であるが、これは朱子の理気二元論と類似している。
 しかし、違う点は、朱子の場合、理は形而上であり、気が形而下であり、物質に近いものである。
 しかし、私の無双太極PS陰陽論(簡単に言えば、PS陰陽論)では、氣=陰陽はあくまで、形而上的であり、生命物質体を成形する原理なのである。
 あえて言えば、朱子の氣をPS陰陽論に近づけて、霊的氣として、捉えることができるのではないだろうか。どうも、後世の人が解釈を誤ったのかもしれない。
 とまれ、朱子の用語を使えば、理気物三元論となるのである。
あるいは、理気物我四元論である。

参考:
朱子学 - Wikipedia

朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)や程の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論および静坐という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。そこでは、自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。

なお朱子の理とは、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物(「理気二元論」)であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気は、この世の中の万物を構成する要素でつねに運動してやむことがない。そして「気」の運動量の大きいときを「陽」、運動量の小さいときを「陰」と呼ぶ。陰陽の二つの気が凝集して木火土金水の「五行」となり、「五行」のさまざまな組み合わせによって万物が生み出されるという。理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えるとする。この「理気二元論」の立場に立つ存在論から、「性即理」という実践論が導かれている。「性即理」の「性」とは心が静かな状態である。この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要とされるというのが、朱子学の説く倫理的テーマである。つまり、朱子学の核心は実践倫理である。朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」の内容である。その方法が「居敬窮理」である。「居敬」の心構えで、万物の理を窮めた果てに究極的な知識に達し、「理」そのもののような人間になりきる(窮理)のである。ちなみに、朱熹の主張する「性即理」説は、陸象山の学説心即理説と対比され、朱熹は、心即理説を、社会から個人を切り離し、個人の自己修養のみを強調するものとして批判した。一方で朱熹は、陳亮ら功利学派(事功学派)を、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。

***************************
 
 次に、無双太極と氣の関係についてであるが、一つの暫定的仮説として、円錐を考えて、頂点を無双太極点として、その底面の円周を陰陽円、即ち、氣と見るのである。

無双太極点(円錐の頂点)⇒○(氣)・陰陽⇒身体⇒自我

このように考えると、陰陽未分化とは、無双太極点ではなくて、氣になるのではないだろうか。
 再度、図化しよう。

1.太極点⇒2.円ー陰陽対極⇒3.身体⇒4.自我

問題は2の円ー陰陽対極である。円は氣であり、それが、陰陽極性をもっているということである。
 問題は、陰陽未分化と氣的一如の関係である。
 今、違う視点をもった。
 円は氣ではなく、太極点に展開ではないだろうか。そして、それから、氣=陰陽が形成されるのではないだろうか。つまり、円錐は陰陽未分化の太極点と円をもつ。
 そして、この円から、円内部に陰陽極性が生まれ、同時に、氣が中心化し、円と直交するように螺旋現象が生起するということではないだろうか。
 まとめると、無双太極円錐がある。頂点が根源点であり、円がその展開であり、無極と呼ばれるものだろう。
 そして、その円から円内部に陰陽極性と中心点の氣が発生する。そして、それから、円に直交するように螺旋現象が発現する。
 図式化すると、

1.無双太極円錐:太極点ー円:陰陽未分化・・・肚

2.円内:陰陽対極=氣             ・・・胸

3.円に直交する螺旋現象           ・・・身体

4.純物質と自我(陰陽二元論)        ・・・頭

となる。
 こう考えると、1の太極と2の氣の不連続性がよく認識できる。先に、即非と言ったが、即(一致、ないし、連続性)は円ではないだろうか。円が1と2の境界になっているのではないだろうか。
 円、つまり、円周は1の太極であり、且つ、2の氣であるということではないだろうか。そして、当然、それ以外においては、1と2とは不連続であるということである。
 そう、円、つまり、円周であるが、陰陽未分化であり、太水的である。あるいは、太水火(太陰陽と言えるのかもしれない)である。
 そして、これが、陰陽の陰と親和的であると直観されるが、その力学はどういうものだろうか。
 この問題は、思えば、PS理論の時点で、さんざん考えたものである。その答は、陰陽共振の問題である。
 つまり、陽が主導的であるが、陽は陰を支配するのであり、共振にならないのである。しかるに、陰が主導的であると、陰は陽を迎えて、あるいは、陰は陽に共感して、陰陽共振が成されると考えられるということである。
 だから、氣=陰陽とは陰が主導的なものであり、当然、それは、「水」的である。
 そして、円ないし円周は陰陽未分化の太水なので、当然、陰主導の氣=陰陽とは連続であると考えられるのである。
 これで、先の矛盾・齟齬を解明したことになる。


2013年11月04日(Mon)▲ページの先頭へ
モネの睡蓮の絵画の「光」とビデオ・カメラの「光」の質的違い:印象派 クロード・モネ 絵画
モネの睡蓮の絵画の「光」とビデオ・カメラの「光」の質的違い:印象派 クロード・モネ 絵画

以下、モネの睡蓮の絵のロケーションである有名なジベルニーの庭であるが、ビデオ・カメラの「眼」とモネの「眼」の違いが瞭然である。
 前者はいわば、物質的感覚の眼、電磁波の眼であり、後者は、「氣」の眼である。
 光の画家とは言え、ビデオ・カメラの撮る「光」とモネの捉える「光」は異質なのである。
 これは、喩えれば、純物質と生命物質体との違いである。
 便宜的に簡単に言えば、二つの「光」があるのである。物質的光と氣的光である。
 前者は物質的身体の捉える「光」であり、後者は氣的身体の捉える「光」である。
 先にモネの睡蓮の絵に関する私説で、それは、無双太極(陰陽未分化)を表現しているのではないかと提起した。あるいは、それから生まれる「光」を表現しているのではないかと述べた。あるいは、無双太極と外光との接点を表現しているのではないかとも述べた。(『モネの睡蓮の絵画力学について:陰陽未分化の太極(太元霊)の表現ではないか:水と光の未分化融合』http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11659956335.html
 思うに、モネの睡蓮の絵画の「光」とは、無双太極(陰陽未分化)の玄光(造語:根源的光)と氣=陰陽の「光」の融合したものが、陽光を反照しているのではないだろうか。
 ここで説明すると、氣が放つ「光」があると思う。それは、物質的「光」、電磁波の可視光とは異なる。
 モネが見ているのは、前者の氣の「光」(氣光とでも呼ぼう)であるし、また、それは、根源の無双太極の陰陽未分化の玄光を帯びていると感じるのである。
 玄光と氣光の融合している「光」、それは、太水と氣の光の融合であり、「水火」である。正に、お水取りの「水火」(火水:かみ)と一致するように思えるのである。
 そう、玄光という言い方は不適切である。玄水である。それが氣光を帯びるのである。
 つまり、玄水ー氣光がモネの睡蓮の絵のベースであり、それに日光が接しているのである。
 つまり、内なる玄水=氣の「光」と外なる氣の「光」が融合しているのが、モネの睡蓮の絵の「光」の映像の意味ではないだろうか。
 後でもう少し整理したい。 
 

印象派 クロード・モネ 絵画 第一集


印象派 クロード・モネ 絵画 第二集


Claude Monet - The Impressionist Painter


Normandie : le jardin de Claude Monet à Giverny VO ST


Giverny - Monet House and Garden: Clos Normande Water Garden - Le Nynphee


Impressionist Painting 1850-1900



画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11659956335.html

モネの睡蓮の絵画力学について:陰陽未分化の太極(太元霊)の表現ではないか:水と光の未分化融合

テーマ:art & design

最近急にモネを絵を見たくなった。
 しっとりとした映像に見入りたいと思うのである。
ずいぶん昔(30年ほど前か?)、モネの絵の美しさに恍惚となったものである。そう、あまり言う人はいないようだが、神秘的なのである。
 陰の心から画面と一体になるのである。
 しかし、その後、モネに興味を失った。なにかピントがずれているように感じたのである。
 そして、今、太極PS理論ができて、根源の太極・太元霊すなわち、太水にたどり着いたのである。水的なものが根源なのである。
 しかし、その水は日を産むのである。(参照:お水取り)
 とまれ、太水は陰と陽の未分化様態である。
 どうも、モネの睡蓮の絵はそれを表現しているように思えるのである。
 今はざっと指摘するに留める。

追記:光の画家ということだが、それは一面である。神秘の画家である。太極の陰陽未分化の太水と光の接点を描いているように思えるのである。
 そう、太水の神秘である。モネは中国的というか、東洋的である。

追記2:これは精緻に検討すべきことであるが、一言言うと、太水と陰陽の陰が、いわば、連携するのである。
 この点の力学はどうなっているのか明確にすべきである。
 今、直観で言うと、太極点の太水があるが、それが氣=陰陽極性へと変換する。
 つまり、陰陽未分化から氣=陰陽分極化である。
 前者と後者は不連続なのか、連続なのか。
 今は連続的なように思える。
太水の変化で、陰陽極性ができるのは、連続変化のように思えるのである。
 そうならば、不連続的差異論とは何であったのかということになる。それは、太極と自己同一性との不連続性を説いたものであるからである。
 どうも妙な具合になってきた。
 2つの直観が相矛盾するという感じなのである。
 整理すると、先ず、肚=太元=太極は、氣=陰陽とは不連続である。これが一つの直観である。
 しかし、太極から直観すると、それは、陰と連動するようなのである。すると連続的である。
 思えば、この直観像で、前期PS理論は混迷したと言えよう。
 途中であるが、時間がないので、ここで留める。これは、慎重に丁寧に精密に検討すべき問題である。

 以下、クロード・モネ - Wikipedia から。

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:太玄霊氣知行学(太玄霊的生命イデア論)


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氣と日光:太陽とは何ぞ哉:無双太極と氣と日光
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氣と日光:太陽とは何ぞ哉:無双太極と氣と日光

テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌

氣(陰陽)と光:凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)の⇒が日光ではないのか
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飯山一郎氏は今年の「大事件」として太陽凝視をあげている。
 私はだいぶ前にやったことがあるのである。そう、まぶしくなく太陽凝視ができるので、不思議に思ったものである。
 しかし、その時は、氣という霊的科学概念を明確にもたなかったので、あきてすぐ止めてしまった。
 さて、今、氣という霊的存在が、私にとっては確実になっている。これは、物質科学的に直接検証することはできないが、結果的には検証できよう。その問題はおいておく。
 今は余裕がないので、予見を記すに留める。
 飯山一郎氏は松果体に秘密があると述べている。
 ここで、粗いが、シュタイナーの霊的生理学を応用して言えば、シュタイナーは松果体(松果腺と言っているが)と脳下垂体の対立を外界と内界の対立と見ている。
 そして、松果体は外界と内界を結びつける作用があると言う。これは、私なりに解釈すると、松果体は意識と無意識を結合するはたらきをもっているのである。
 そして、無意識とは、太極PS陰陽論から言えば、中丹田や下丹田である。つまり、陰陽未分と氣=陰陽である。
 つまり、松果体は外界の光を受容して、それと身体の内部を結ぶのであるが、それは、当然、人体の植物体(氣=陰陽)と根源の無双太極=陰陽未分を賦活すると考えられるのである。
 そう、陽光の本体は少なくとも氣であるから、その氣が、人体の植物体の氣=陰陽や太極と和合するのではないだろうか。
 つまり、陽光は松果体を媒介として、氣(生命力)によって、人体を活性化するのである。
 今はここで留める。

追記:先に、モネの睡蓮の絵を無双太極(陰陽未分化)の表現でだろうと述べたが、また、無双太極から光が生まれるとも述べたし、また、無双太極と光の接点をモネの睡蓮は表現しているとも述べた。
 思う、以上の論からすると、モネは松果体を介して、内界(霊界)と外界を融合させていると思うのである。肚と胸と頭と外界を融合しているのである。

モネの睡蓮の絵画力学について:陰陽未分化の太極(太元霊)の表現ではないか:水と光の未分化融合
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11659956335.html

最近急にモネを絵を見たくなった。
 しっとりとした映像に見入りたいと思うのである。
ずいぶん昔(30年ほど前か?)、モネの絵の美しさに恍惚となったものである。そう、あまり言う人はいないようだが、神秘的なのである。
 陰の心から画面と一体になるのである。
 しかし、その後、モネに興味を失った。なにかピントがずれているように感じたのである。
 そして、今、太極PS理論ができて、根源の太極・太元霊すなわち、太水にたどり着いたのである。水的なものが根源なのである。
 しかし、その水は日を産むのである。(参照:お水取り)
 とまれ、太水は陰と陽の未分化様態である。
 どうも、モネの睡蓮の絵はそれを表現しているように思えるのである。
 今はざっと指摘するに留める。

追記:光の画家ということだが、それは一面である。神秘の画家である。太極の陰陽未分化の太水と光の接点を描いているように思えるのである。
 そう、太水の神秘である。モネは中国的というか、東洋的である。

追記2:これは精緻に検討すべきことであるが、一言言うと、太水と陰陽の陰が、いわば、連携するのである。
 この点の力学はどうなっているのか明確にすべきである。
 今、直観で言うと、太極点の太水があるが、それが氣=陰陽極性へと変換する。
 つまり、陰陽未分化から氣=陰陽分極化である。
 前者と後者は不連続なのか、連続なのか。
 今は連続的なように思える。
太水の変化で、陰陽極性ができるのは、連続変化のように思えるのである。
 そうならば、不連続的差異論とは何であったのかということになる。それは、太極と自己同一性との不連続性を説いたものであるからである。
 どうも妙な具合になってきた。
 2つの直観が相矛盾するという感じなのである。
 整理すると、先ず、肚=太元=太極は、氣=陰陽とは不連続である。これが一つの直観である。
 しかし、太極から直観すると、それは、陰と連動するようなのである。すると連続的である。
 思えば、この直観像で、前期PS理論は混迷したと言えよう。
 途中であるが、時間がないので、ここで留める。これは、慎重に丁寧に精密に検討すべき問題である。

 以下、クロード・モネ - Wikipedia から。

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:太玄霊氣知行学(太玄霊的生命イデア論)


Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:太玄霊氣知行学(太玄霊的生命イデア論)



Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:太玄霊氣知行学(太玄霊的生命イデア論)


Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:太玄霊氣知行学(太玄霊的生命イデア論)


Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:太玄霊氣知行学(太玄霊的生命イデア論)

 
参考:

オカルト生理学 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
¥1,155
Amazon.co.jp

S-note103 - Bekkoame
www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/note/S...-/S-note103.html - キャッシュ
2004年12月29日 ... シュタイナー『オカルト生理学』ちくま学芸文庫/P93-95) ごくごく単純なことで、だれ
でも考えることのできることなのだけれど、 私たちが ... そして松果腺と脳下垂体という二
つの器官の対峙によって、 魂と身体の相互作用が可能になっている。

四次元思考の獲得のために その32 | シュタイナーから読み解く神秘学 ...
plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201309300001/ - キャッシュ
2013年9月30日 ... つまり、松果体と脳下垂体が、人間の喜怒哀楽を形成している基本であることがわかる。
次に、詳しく、シュタイナーの話から、再度、松果体と脳下垂体の関係に迫ってみたい。
... シュタイナー『オカルト生理学』ちくま学芸文庫/P93-95)

松果腺を使うとちょっと時間が自由になる | Quantum Mind 第三の眼 とは
daisannome.jugem.jp/?eid=9 - キャッシュ - 類似ページ
この二つの器官とは松果腺と脳下垂体のことです。この二つは、魂と身体とが相互に
働き合っていることの可視的な表現なのです。」(オカルト生理学、ちくま学芸文庫、P97-
102)」 シュタイナーに関しては、わたしはつい、そのまま丸呑みしてしまう癖がある。


In Deep: 科学技術と未来
oka-jp.seesaa.net/category/12013650-3.html - キャッシュ
2011年9月8日 ... この研究結果を発表したのが、医学系の単科教育研究機関としては世界で最大であり、
また、ノーベル賞の生理学 .... これまで、松果体などのことについて書いたことがありま
したが、今、私たちは「見る」という行為について、非常に狭い範囲で考えている面は
あります。 .... シュタイナーが言う体内における光合成の件、これは明らかにオカルトに
聞こえますが、薔薇十字の伝統に生きる者は本気でこれを実践します。

日本人研究者が獲得した「暗闇での視覚」: 人類と光と植物


(参考記事) ペアである自分(2) より。

これは、彼ら眼を持たない魚が、視覚で光を見ているわけではないけれど、彼らが見ているものは決して夢や想像だけではなく、「光」という現実を見ていることを示します。


pine-foton.jpg

▲ 人間の松果体の位置。


松果体というのは二つの大脳の間あたりに位置する器官ですが、医学的な意味では、メラトニンというホルモンを作り出すことに関与していること以外の役割はほとんど不明です。ただ、思想ベースでは古くから語られてきたようで、Wikipedia にこうあります(抜粋)。

デカルトはこの世界には物質と精神という根本的に異なる二つの実体があるとし、その両者が松果体を通じて相互作用するとした。デカルトは松果体の研究に時間を費やし、そこを「魂のありか」と呼んだ。

松果体は眠っている器官であり、目覚めるとテレパシーが使えるようになると信じる人もいる。ニューエイジ運動の初期の指導者であるアリス・ベイリーのような作家は、精神的な世界観において「松果体の目」を重要な要素としている。






このメキシコの魚たちも、目は使っていないとはいえ、実際には松果体で「光」を見ているということになり、「やはり光は重要なんだ、光だ、光だ」と幼き我々は叫ぶわけですが(誰だよ)、しかし、そこに立ちはだかったのが、上の3番目のニュースの大阪大学の栗栖教授たちの研究「植物や藻類の中で葉緑素が緑色になる反応のしくみを解明」なんです。

裸子植物、つまり、マツやスギやソテツたちの仲間。
あれらは光も要らないのです。

ついに、「光を否定した生命」が出てきた。

論文は下のようなものです。
これは論文そのものではなく、プレスリリースから。

ダイズを暗いところで芽生えさせると緑にならないで黄色い"もやし"になってしまいます。これはダイズなどの植物では、緑色のもとになる葉緑素を作るための最終段階ではたらく酵素が光を使ってはたらくためです。これに対して、クロマツやドイツトウヒなどの裸子植物の芽生えは暗いところでも葉緑素を作り緑色になることができます。また、多くの藻類やラン藻、光合成細菌も暗所でも緑になる能力をもっています。



「お前たちは光もなしで光合成をやっちゃうのかよ・・・」と私は驚き、興奮しました。
うちには観葉植物としてのソテツもあるのですが、そのソテツと向かい合って、酒を飲んだりしたものでした(キチガ・・)。

ちなみに、ソテツはソテツ(生きた化石) によりますと、

 > ソテツの化石は古生代のペルム紀初期の約2億8000万年前にさかのぼることができます。

と、非常に歴史のある生命のひとつです。
3億年の地球の歴史の中にはかなり苛酷な時代もあったと思われます。

低温、高温、そして超巨大火山の噴火などでの日照不足や、大洪水、大干ばつ、いろいろとあったでしょうが、ソテツは生き残っています。

滅んでいった恐竜や、あらゆる小型生物、大型生物そして、やはり生き残れなかった大多数の植物を横目に生き残り、今では観葉植物店で売っていたり、あるいは、たとえば私の部屋にあったりします。

今もこれを書きながら、「ソテツよ・・・お前のことを書いている」と話かけたりしていますが(キ・・・まあいいや)、人類あたりと比べると大変な歴史を持つ生命のひとつであることは確かです。

sotetu3-2.jpg

▲ ソテツ。うちのはデカいです。


「先人の知恵」というような言葉がありますが、マツやソテツが生き残ることができた方法を体得すれば、他の生命も追随できる可能性はあると考えます。

どうしてこんなに植物のことにこだわっているかというと、「人間が植物を目指すことは理想的なことかもしれない」という考えを知ってからのことです。



「原植物」を目指す人類

昔、ブログに西洋オカルトの中心的思想のひとつである「薔薇十字」の修行をしている方がコメントを書かれていたことがあり、その人が書いていたコメントを転載させていただきたいと思います。

私は中世のオカルトの知識がゼロですので、私自身が理解しているかというと、それはわからないですが、概念として興味深く、今でも好きなもののひとつです。

ここから転載です。
改行だけさせていただいています。



部屋とウイルスと私 コメント欄より。
--

シュタイナーが言う体内における光合成の件、これは明らかにオカルトに聞こえますが、薔薇十字の伝統に生きる者は本気でこれを実践します。狂気の沙汰と言われようと、呼吸による身体内の炭素の把握はぼくらの最重要の関心事です。

これは呼吸の行とよばれます。

ぼくら薔薇十字の徒は人間の本来のバランスを取り戻そうとします。呼吸の行というのは人間である自分と植物との共生の問題です。人間は生きているだけで大気中に二酸化炭素をばら撒きます。そして「どれだけ二酸化炭素を排出しないか」という冗談みたいなことが、ぼくら薔薇十字の修行者にとっては真面目な課題です。

古神道の大国隆正という人の『本学挙要』という本の中に人と稲が逆さに並べて描かれている図があります。これはフトマニの区象といって、人間は逆さまになった植物であり、互いに共生しているという旨を説明するものです。西洋でも東洋でも霊学ではこれは一般的な認識です。

薔薇十字でもおなじです。

植物というのは、体内に緑色の血が流れ、太陽に向かって真っすぐに成長する地上の存在としてはピュアなあり方のお手本みたいなものです。

ゲーテには「原植物」という理想的な植物の概念があります。つまりあれが人間として目指すべき理想であり、最高の元型です。鉱物の中にも例えば水晶のように炭素が純化された存在として理想的な存在たちが居ます。植物や鉱物というのは本来の意味において頭上の天体運動の鏡像みたいなものです。薔薇十字の理想は、赤い血の情熱を保ちつつ植物のように上へと向かうことです。そして太陽に向かうことです。これが重要な点です。

天体のなかで西洋神秘学でロゴス(言語)と呼ばれるものの象徴が「太陽」です。

でも現在の宇宙で頭上に輝く太陽が人間にとっての「言語」の象徴に過ぎないとすれば、物理的に把握されるただの象徴である太陽より、植物のほうが先に創造されるというのは自然ですよね?

その前に「言語」は既に存在している、というより、むしろこの宇宙の原初には「言語」が先にあったのですから。それ自体は植物の誕生よりずっと昔だというわけです。「言語」という表現がいけませんね。ロゴスとは「秩序」のことです。

人間によって認識される物理的な宇宙が誕生したのは、つい最近のことです。

それを観察する科学が人間中心であるのは当然といえば、当然かも知れません。ロジックによって把握する対象として宇宙が存在を開始したのは、ロジックを駆使するようになった人間の大脳の誕生と密接に関わりがあります。人間はそれ以前に存在していた "見えない" ロジックの宇宙を "見える" ロジックとして観察することが出来るようになりました。

これは物理的な脳が誕生したおかげです。人間のロジックは宇宙のそれの模倣に過ぎませんが、でもこの模倣を可能にする大脳という精密な器官を作り上げるために、宇宙はとてつもない長い時間と労力を費やして来ました。だからある意味、科学的な認識手法というのはこの宇宙の最大の成果であると言えます。

それ以前の宇宙は、光があっても太陽がないようなものでした。内的な光で認識されただけです。

しかし実際、太陽が出現し、またこれによって眼という器官が形成され、そして脳が作り出されました。人類がこの能力をどう利用したかは別として、人間における理知的な行為を可能にする完成された脳神経系は、どう見積もっても神の最高傑作であるに違いありません。

そして人間に与えられたこの認識力の限り、ロゴスの象徴である太陽のなかに根源的な神性を知ることこそ、霊的な伝統のいずれの系譜においても追求されてきた共通の課題でした。

気の遠くなるような昔から過去の賢人たちはそのために気の遠くなるような努力によってその道を準備して来ました。宗教とは、そのようなものの大成です。

太陽へと向かう植物のようにしかも自由への衝動を内に担いながら上へと成長しようとする、地上では類をみない神聖な存在として人間存在が語られ、そしてその正しい道が古今東西どの流派に限るとなく実践されて来ました、、、、、と、このようなことを信じる、信じないは別として、いずれにせよこれが宇宙と人間の歴史に対する薔薇十字の伝統の解釈です。



転載ここまで。
http://oka-jp.seesaa.net/category/12013650-3.html

In Deep

人類の進化の可能性(2):裸子植物が行う暗黒での光合成: クレアな ...
tok2.seesaa.net/article/151375315.html - キャッシュ
2010年5月28日 ... 松果体の役割の発見のことなど .... 植物の種類によって芽生えが緑化する能力に違い
があることは、一世紀以上前にドイツの植物生理学者によって報告されていましたが、
それがどの ... シュタイナーが言う体内における光合成の件、これは明らかにオカルトに
聞こえますが、薔薇十字の伝統に生きる者は本気でこれを実践します。

始源流原始占い - Yahoo!ブログ
blogs.yahoo.co.jp/mizuguchiaiko/archive/2012/5/2 - キャッシュ
2012年5月2日 ... オカルトでいえば、負のエネルギーとは、精神世界のことで、霊界になる。 ... 今回は、
この緊張(均衡)を暗示するだけだが、以後の考察で更に詳しく述べていく松果腺と、
粘液腺の2つの器官に集中する ... シュタイナーはこのような文化状況の中で,人々の
想像力の方向性を危うんでいたのである。 ... うとしたり、人間の血を生理学的に
沸き立たせ、無我夢中にさせようとしたりするものすべてに働いている力のことである」.

INNOVATION OF PHILOSOPHY: Discontinuous Difference ...
protophilosophy.noblog.net/blog/2010/08/ - キャッシュ
2010年8月30日 ... もっとも、シュタイナーによれば、松果体が接点である。つまり、Media Pointになる ..... 【
シュタイナーの『オカルト生理学』から言えば、脳=脳髄神経系が前者であり、交感神経
系(自律神経系)が後者にあたるだろう。】 つまり、絵画鑑賞には、凹i ...

Nikon|光と人の物語|第3の眼の進化 - ニコン
www.nikon.co.jp/channel/light/chap05/sec02/index.htm - キャッシュ - 類似ページ
その痕跡は今も私たちの脳の中で光を感じ、一日のリズムを調整する役割を果たして
いる。 1. 第3の眼; 2. 脳の中の「眼 ... その器官、「松果体」は脳の中にありながら、細胞
レベルでは驚くほど眼、特に網膜の細胞と構造が似ている。松果体になる細胞がごく
若い ...

『 光輝と質量 』 19978‐1998へ - UEDA Nobutaka Formal Site
uedanobutaka.info/jpopsisphysis.html - キャッシュ
そのシュタイナーの色彩論は、当然ながらゲーテの表現を踏み越えるものだった。
ゲーテにとって、色彩は、光と闇が織り成す自然現象と人間の目との間で起こる。
シュタイナーにとって、色彩は、精神と魂の映像だった(図版4)。そのような色彩が、重要
だったので ...

13 - 「人間原理の探求」渡辺久義
www.dcsociety.org/id/ningen_genri/013.html - キャッシュ
光は霊的なものである、とルドルフ・シュタイナー(「シュタイナー教育」で有名な哲学者、
霊能者)が言っていたことを思い出す。我々は物理学の一部門としての光学というような
ものに慣らされているためにそういう感覚を持てなくなっているが、デントンのなしたよう ...

生命に合わせて調整されている自然法則? - 始源流原始占い - Yahoo ...
blogs.yahoo.co.jp/mizuguchiaiko/9983287.html - キャッシュ
2013年10月17日 ... ゲーテが言うように光があったから目ができたのであって、目が光を作ったわけではない
! 目が光を見ることができるのは、目が光によって作られたからだ. ゲーテ 小杉英了「
シュタイナー入門」. 若いときのショーペンハウアーとういう哲学者が ...


2013年11月03日(Sun)▲ページの先頭へ
人体四層構造図:T.太極点/U. 植物体(氣=陰陽)/V.動物体/W.自我体・・・(X.外界)
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11665314072.html

人体四層構造図:T.太極点/U. 植物体(氣=陰陽)/V.動物体/W.自我体・・・(X.外界)

テーマ:太玄霊知行学:太玄霊的生命イデア知行学

ちょっと簡単に、人体の四重構造を図式化してみたい。
うまく作図できないので、見にくいがざっと書く。仮に人体四層構造図と呼ぶ。


 T        U           V       W    (X)
     |            |        |
     |            |        |
太極点 |植物体(氣・陰陽) | 動物体  | 自我  (外界)
     |              |        |
     |              |        |
 肚   |   胸         | 皮膚?    |   頭
      |              |         |
下丹田 |   中丹田      |        |  上丹田

         
       人体四層構造図

本来は太極点は、円ないし球の中心である。
 そして、植物体は陰陽円ないし陰陽球である。そして、その外皮に動物体があり、そして、それから遊離するものとして、自我を考えたい。
 わかりやすくするため、全体をほぼ同心円で考えたい。つまり、円の中心に太極点、そして、円総体が植物体であり、その外皮が動物体で、それから衛星のように遊離して自我がある。
 動物体は陽に傾斜した存在であるが、まだ、陰陽と連続的である。
 しかし、人体において、自我があり、それは、動物体と連続であるが、尚、分離している。ここの辺の記述は難しい。
 私は極大の陽を考えている。これは、まったき陽であり、陰が消えている状態である。そして、これが重要であるが、極大の陽(極陽)で固定しているのである。そのために、陰陽的生成変化を行なわないのである。
 しかしながら、動物体とは連続であるために、完全な遊離ではない。だから、訂正する必要がある。自我は動物体から遊離しているのではなく、動物体と連続しつつ固定している極陽であるということである。
 しかしながら、人体において、植物体がある意味で発達しているのである。これが純粋な動物と異なる点である。
 人体四層構造図で言えば、Uの中丹田が賦活しているのである。
 陰陽論で説明すれば、Tが陰陽未分化で、Uが氣=陰陽共鳴であり、Vが陽傾斜であり、Wが極陽固定である。
 人体において、簡潔に言えば、Uの氣とVWの陽が矛盾対立しているのである。何故なら、VWは陽でUの氣=陰陽を抑圧するが、Uの氣=陰陽はその否定に対しては、当然反対するからである。これが、人間の先天的「分裂症」、統合失調症である。
 さて、簡単に外界に対する自我の意識の力学を考えてみよう。
 自我は極陽で、自己中心主義である。
 問題は同一性である。これはどこから生まれるのか。
 これは、極陽による氣=陰陽のまったき否定に拠ると思われる。先に自我方程式を述べたが、それを考えるといいだろう。


⓶自我方程式(自己同一性方程式):

凸i(陽)*凹i(陰)⇒−1(=e^iπ) ・・・Z

前期PS理論とオイラーの等式の統合の再考:+1が生命物質体、−1が純物質:氣と同一性自己(自我) (10/29)
http://sophiology.jugem.jp/?eid=347

これは陽が中心化して、陰を否定するものである。
 結局、同一性、自我の同一性とは、陽自体のことであると言えよう。正確に言えば、極陽自体である。(結局、極陽と純物質が一致するというのが自我方程式の意味であるが)
 結局、人体の矛盾対立とは、氣=陰陽VS極陽同一性(純物質性)ということになる。
 さて、準備ができたので、外界認識を考えよう。
 自我は同一性の視点で外界を見るのである。それが、植物、動物の場合はそのまま支配できるので、問題はないのである。
 しかし、他者に対するとき、困惑するのである。自我の同一性に服さない差異がそこにはあるからである。植物や動物の差異は力の支配で克服するのである。
 しかし、他者の場合は、簡単に力で支配できないのである。
 思うに、視覚のスクリーンはUとVの間にあるのである。これは単なる肉体的な網膜ではなく、心の網膜である。
 そう、氣と生命物質体の境界のスクリーンとも言えよう。
 このスクリーンに他者が映し出されるわけであるが、それは、自我の支配に服さない映像であり、それは、スクリーンにわだかまりを生じさせるのである。つまり、抑圧してあるUの氣=陰陽を賦活させるのである。故に、ここで、反感が生じると考えられる。嫉妬はここから生まれると言えよう。
 そして、自我が強力で、氣=陰陽が弱い場合は、暴力的になるだろう。怨恨をもったりして、他者を攻撃対象し、暴力を振るうことになるのである。
 これが、いわば、父権自我暴力である。
 しかしながら、母権文化であるとき、それは暴力には至らない。
 何故なら、氣=陰陽が強く働くからである。思うに、それは、根源の太極から発しているのであり、TとUは連関している思われるのである。
 すると、ここに(TU)VS(VW)という矛盾対立があることがわかるのである。これは母権VS父権とも言えるのである。あるいは、東洋VS西洋である。(ヤハウェは、極陽を固定するような力学と思われる。ならば、ヤハウェは悪魔ではないだろうか。ヤハウェは超越性とは、太極の超越性だと思われる。)
 さて、母権文化において、他者認識を考えると、氣=陰陽が自我の極陽の様態に浸透していると思われるので、自我は陰陽を支配せず、同化しているので、他者認識は共感的になると考えられるのである。言い換えると、自我は同一性ではなく、陰陽共振的、他者共振的なのである。それは、植物的な成形性をもつのである。そう、共同体的なのである。
 以上で、ざっとであるが、人体の四層構造について考察してみた。
 さて、先に齟齬のまま終わっていた、太極と陰陽との関係力学について最後に触れておこう。
 両者、連続なのか不連続なのか不明であったのである。
 人体構造図では、当然、TとUの境界力学の問題である。
 今の作業仮説では、TとUは即非様態にあると見たい。即ち、即(同一性)においては、TとUは連続的である、しかし、非(差異)においては、TとUは不連続であるということである。
 考えれば、陰と陽も即非の様態にあると言えよう。というか、それは、TとUの即非と同じことを意味しているのである。何故なら、陰と陽とは、太極において、一体(一如)であるからである。ただし、私説では、陰陽未分化様態(混沌)である。
 以上で現段階における人体四層構造の説明を終える。

追記:太極PS原理の人体四層構造は、シュタイナーの人体四層構造に一見に似ているが、根本的に異なる。
 もっとも、後者のエーテル体を植物体、アストラル体を動物体、そして、自我はそのまま自我として活用している。植物体と動物体はほぼシュタイナー霊学と同じである。
 しかし、太極PS原理は、原点に太極点、そして、シュタイナーの物質体に当たる箇所に純物質と重なる自我を見ている点が異なると言える。
 また、植物体を氣=陰陽と見ている点も異なると言える。
 そして、基本的には、太極PS原理(TPSP)は、太極の根本原理から陰陽論で演繹的に説明している点も異なる。
 シュタイナーの人体論は、四層がいわば、別々に存在していて、発展的成形がそこいはないと言える。
 だから、原理としては、今の段階だが、太極PS原理の方が首尾一貫して優れていると考えられる。


   




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