INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2013/06

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2013年06月29日(Sat)▲ページの先頭へ
不連続陰陽イデア論の新たな概念作図の必要:ポストPS理論としての不連続無双陰陽イデア論
不連続陰陽イデア論の新たな概念作図の必要:ポストPS理論としての不連続無双陰陽イデア論
テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論
以下の概念座標は今やまったく不正確なものになった。
 根源は太陰であり、それが陽を形成する。だから、以下の原点、MPはまったく不要である。
 MPである原点を必要とする考え方は、二元論を前提にしたものである。しかるに、不連続陰陽イデア論は一元論、無双論である。
 作図するなら、原点、中心点が太陰であり、円周、球面が陽となるのである。だから、まったく以下とは異なった図となるのである。今は余裕がないので、作図できない。
 思うに、不連続的差異論から出発して、その後、数学をベースにしたPS理論(プラトニック・シナジー理論)が形成され、長い間、不連続的差異論の視点が十分に進展できなかった。
 不連続的差異論が2004年9月に形成され、PS理論は翌年か翌々年に形成されたと思う。2006年ならば、約6年間、PS理論によって、理論の新たな進展が阻害されてきたことになる。そう、今の不連続陰陽イデア論は、いわば、不連続的差異論に先祖返りして、その展開と考えられるのである。つまり、不連続的差異を太陰として、発展させた理論ということになる。PS理論は、物質原理の理論としては、簡潔で優れているが、二元論を保持してしまい、画期的な不連続的差異の視点の進展を阻害してしまったと考えられる。
 

<不連続的陰陽イデア論(不連続的差異共振論)概念座標:Ver.17.0.0>

    陰陽メビウス(陰陽渦円)

       陽イデア(✡):自我
          |
          |
          |
          |
          |
          ★
_______・______実軸(時間・光・物質軸)+1
          ☆
          |
          |
          |
          |
          |
      陰イデア(✪):他者

【但し、・は太一点(太極点、内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 太一点において、直交する太一軸が考えられる。太極軸を1次元、陰陽メビウス(陰陽渦円)を内在超越的2次元、そして、現象界を時空四次元と見る。
 そして、陰陽軸(陰陽渦円)は陰陽メビウスの輪を形成していると思われ、陽イデア=自我=知(認識)と陰イデア=他者=存在で、陰陽メビウスが陰陽イデアで、意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。
 尚、実軸は時間-光-物質の系列軸とし、太一点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸は記入していない。
 霊「数」、陽✡、陰✪を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。不連続的陰陽イデア論公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k


太陰と陽と自我の連関の考察:原初母権的太陰ー陽自我識と極大陽父権超越性ー全体自我識
テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論

先に以下のように問題提起した。

太陰は全体の面と一の面があり、一の面が陽と結んで、自我・超陽となるのではないのか。(太陰の二面性:全体の相と一の相:多神教と一神教:初めに、太個ありき  
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11560750193.html
この問いかけは、それまでの不連続陰陽イデア論(この呼び方がいちばん明快であろう)における自我・超陽の発生の考え方とは別のものである。
 つまり、それまでは、陽の極大的なものを超陽として、それが自我となると考えたのである。
 それに対して、先の、上記の考えは、太陰自体に自我の根源があるというものである。
 この問題は、不連続陰陽イデア論にとって、根本的なものであり、精緻厳密な検討が必要である。
 陰陽性について、復習すると、陰が中心であり、陽が円周、あるいは、球面である。当然、陰は闇であり、陽は光である。
 しかし、主体は陰、つまり、太陰である。陽はその展開、周縁である。ウィリアム・ブレイクの言葉では、circumferenceである。言い換えると、陰主陽従である。
 とまれ、陰から陽が生まれるのであり、陰の「意識」と陽の「意識」は区別される。
 つまり、陽の「意識」(陽識と言おう)は、現象意識であり、物質的意識となる。それは、根源の陰の「意識」(陰識ないし太陰識と呼ぼう)を感じるが、認識することはできないと考えられる。
 太陰から陽が生まれるのであるから、陽はなんらか根源の太陰との結びつきを感じるはずであるが、陽自体は太陰の一部であるから、十全には、太陰を認識できないと考えられる。
 とまれ、初期における太陰識ー陽識においては、中心性は太陰識にあり、陽識は従属的である。これを原初的母権識と呼ぶことができよう。
 この太陰識ー陽識において、自我とは陽識と考えられ、それは、当然、太陰識とは未分化様態にあると考えられる。つまり、自我はまだ、自立・独立していないのである。
 さて、そのような視点から、先に、太陰の一(いつ)の面が陽と結合して自我・超陽となると述べたことを考えると、どうなるだろうか。
 私は陽ないし陽識において、同一性ないし同一性識が存すると考えている。
 思うに、先に、太陰に全体の面と一の面の両面があると述べたが、基本は太一性、全一性である。全体と一とが一体となっているのが基本様態である。だから、全体の面と一の面の両面に分けるのは、二元論であり、間違いのように思える。根源的太一性・全一性を確認する必要がある。
 この太陰性に対して、陽・陽識であるが、それは、個体的一性を志向するのではないだろうか。円周ないし球面であり、それは、根源・中心の太一・全一性と対比的である。
 では、陽・陽識の個体的一性であるが、それが自我ということになるが、それでいいのだろうか。
 直観では、陽識には、太陰識が作用しているのであり、そこに自我識が生じるように感じられるのである。
 つまり、個体的一性である陽識と太一・全一性である太陰識・陰識との結びつきにおいて、自我が生起するように思えるのである。
 言い換えると、自我とは、二つの極の間に生起する、いわば、実存態ということになる。
 宗教的に言えば、神と個体の両極実存態である自我ということである。
 この太陰・太一・全一と個体的同一性との両極実存態としての自我は現時点で確認すべき点である。
 そのように自我を捉え直した上で、父権化、近代的自我化の問題を考察すべきである。
 その前に、もう一点確認すべきことがある。それは、原初的母権識においては、自我とは、あくまで、根源の太陰・太一・全一性に服している、従属しているという点である。自我は根源(「神」)から独立していないということである。
 即ち、太陰と個体との両極態としての自我、太陰に従属するものとしての自我、原初的自我識をもつ原初的母権識を踏まえた上で、父権化、近代的自我の意味を考察することができると言えるのである。
 父権化は明らかに、原初的母権識からの独立として見ることができる。
 これは、原初的自我識が太陰・太一・全一に従属していることから脱して、自我識が主体的になることを意味すると考えられる。つまり、自我識が主となり、太陰・太一・全一識が従となる事態であり、さらに前者が後者を支配・破壊する事態を意味すると考えられる。
 つまり、自我識が支配的、独裁的になり、原初的母権識を破壊する志向をもつということになる。これは父権的自我識の誕生と見ることができる。
 では、その力学はいかなるものなのだろうか。この問題を先鋭化すれば、それは、一神教の誕生の力学の問題である。あるいは、父権神の誕生の力学の問題である。又は、端的に、「父」の誕生の問題である。
 原初的母権識において、根源は「母」であり、陽は「子」である。母主子従の世界である。
 その世界とは異質な「父」とは何であろうか。
 これまでの考え方、単純な考え方によれば、陽の極大化という力学が原因で「父」が誕生したことになる。
 そう、陽の極大化とは、精神と物質の二元論の発生と同期であると考えられる。
 つまり、陽極大化とは、まったき陽の事象が生起するのであり、根源の太陰が隠れることになるのである。その結果、極大陽識は自己を「精神」とし、そして、外界現象を「物質」と見ることになるのである。
 しかしながら、時間的に、原初的母権識は当然、存続しているのであり、それに対して、新しい極大陽の父権自我識はそれを否定すべく攻撃し、破壊しようとするのである。
 何故、父権自我識が原初母権識を攻撃するのかと言えば、前者にとり、後者は理解不可能であり、あってはならないものだからである。言い換えると、前者にとり、後者は悪、邪悪なものであり、当然、否定され、破壊消滅されるべきものである。
 そう、ここに西洋文明の広義の東洋文明に対する攻撃・破壊・支配性が生じるのである。植民地主義、帝国主義はここから生まれるのである。
 聖ゲオルギウスの龍退治とは、これを象徴したものと言えよう。(龍とは、太陰・太一・全一、原初的母権識を意味しよう。)
 もう少し、極大陽の父権自我識について述べる必要がある。問題は、超越神の力学である。
 いったい、その超越性はどこから生まれるのだろうか。思うに、極大陽=父権自我識であるが、それは、根源の太陰・太一・全一から切り離され、分離独立する。
その父権自我識が形成される以前は自我識(母権的自我識)は、内在超越的に太陰と接続していた。しかし、父権自我識において、そのような内在超越的繋がりは消えている。そう、いわば、根源との絶対的分離が成立するのではないか。
 つまり、原初母権識とその自我識は全体識をもっていた。しかし、そのような全体識が父権自我識においては消えるのであるが、思うに、消えた太陰・太一・全一性であるが、それが、父権自我識にとって、超越性、超越神として、捉えられるのではないのか。
 言い換えると、母権識においては、内在超越である太陰と自我識との「繋がり」(臍の緒)があったが、父権自我識において、それが切断され、太陰は、超越性、超越神として、感知されるということではないのか。
 感知という言葉は適切ではないかもしれない。暗示されるが適切ではないだろうか。
 とまれ、父権自我識とは絶対分離した超越した「父」が考えられることになると考えられる。
 さて、次に、近代的自我識を考えると、それは、父権自我識の知性、自我知性の徹底化と考えることができよう。
 これは同一性主義であるから、物質知性でもある。
 そして、自然科学、唯物論的科学・技術が誕生する。これが、資本主義と関係して、近現代世界を形成するのである。
 とまれ、この父権自我識である近代的自我識について、明確にする必要がある。というか、父権自我識の力学について明確化する必要がある。何故なら、近代自我識はその延長にあると考えられるからである。
 問題は、超越性と父権自我識との関係なのである。
 極大陽が形成されるとき、太陰がまったく消失して、まったく陽事象となる。それは、陽が全体であるということでもあるだろう。言い換えると、父権自我識が全体であるということになろう。つまり、父権自我中心主義が誕生するのである。これは、当然、自己中心主義的であり、いわば、パラノイア的である。(今日、現代の日本人はこのような意識に染まっていると思える。)
 では、超越性(超越神、ヤハウェ)とこの全体的父権自我識との関係はどうなるのか。
 もう一度、陽の極大化について考えると、それ以前は、太陰と陽自我との母権様態があり、太陰は陽自我にとっては内在超越的存在であり、それは、感知できるものであった。あるいは、繋がりのあるものであった。
 しかるに、陽が極大化すると、その内在超越的繋がりは消失して、太陰が失われる。
 では、消失した太陰の換わりに何が生じるのか。
 思うに、消失した太陰の換わりに、超越神、超越性が発生するのではないだろうか。思うに、内在超越性から、外在超越性へと転換するように思われるのである。かつては、神聖は内在超越t的であったが、今や、外在超越的になったのである。この外在超越性がいわゆる超越性である。超越神がそのようなものである。
 ということで、全体的父権自我と外在超越性とのセットができあがることになると考えられるのである。
 思うに、資本主義の原動力はこの外在超越性ー全体父権自我識のセットにあるとある思われるのである。これは、いわば、宗教的、且つ、自己中心的であるから、悪魔的に強力であると言えよう。
 とまれ、以上で、本件の問題を解明したと考えられる。つまり、太陰と陽と自我との関係力学を明晰にしたと考えられるので、ここで了える。


2013年06月26日(Wed)▲ページの先頭へ
今日は何か気味の悪いシンクロニシティが2件あった
今日は何か気味の悪いシンクロニシティが2件あった

テーマ:日本大覚清創造:心的革命宣言:霊的覚醒

以前、ユング心理学のシンクロニシティ(共時性)の概念にハマッタことがあったが、なにか胡散臭く、馬鹿馬鹿しくなって、気にしなくなってしまった。
 しかし、小倉に行ったときから、昨日(6/24)まで、シンクロニシティがはっきり発生していると考えられる。
 今日は、横断歩道を渡るとき、黒いフードをつけた魔女のようなドレスを着た女性が歩いてきて、魔女のようだ、あるいは、占い師のようだと思った。そし て、歩き続けたら、ウィッチというスナックを見つけた。ひょっとしたら、ウィッチを知っていたので、そのフードつきのドレスを着た女性を見て、魔女のよう だと思ったのかもしれない。
 たまたま、今日、コミュニズムという言葉を使用した。帰りの電車の車窓から、アルファベットで、ヒューマン・コムーネという言葉を見た。
 次はシンクロニシティではないが、地下鉄から地上に出ようとしたら、雨が降っていて、傘をおいてきたので、困ったと思ったが、券売機の前にビニール傘が落ちていた。これ幸いに傘を拾って、傘をさして、職場へと歩いて行った。
 でも、これは広義のシンクロニシティではないだろうか。傘を願望した。そしたら、傘が落ちていたのである。
 つまり、傘という観念と傘という現実が一致したことになろう。
 その他もあったように思うが、失念した。

追記:今日待ち合わせた人物は、松本清張賞受賞作の『月下上海』を手に取っていた。そして、その人物は上海に関係するのである。そして、今日、忘れ物をしたので、取りに行ったが、帰り、ブックオフで、松本清張の『或る「小倉日記」伝』の入っている本を買った。

追記2:思えば、今日の午前中、魔女のことについて言及したのであった。
1. シンクロニシティ - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/シンクロニシティ - キャッシュ - 類似ページ
シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは「意味のある偶然の一致」のことで、日本語
訳では「共時性(きょうじせい)」とも言う。非因果的な複数の事象(出来事)の生起を決定
する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユング ...
2. シンクロニシティの秘密 - OCN
www1.ocn.ne.jp/~iyasiro/maji/sincro.html - キャッシュ - 類似ページ
様々な種類のある「占い」ですが、実はどれもシンクロニシティの原理を利用して占って
いるのです!占いの歴史と秘密のご ... シンクロニシティを日常に起こりやすくする方法と
、そこから分かる、シンクロニシティのさらに驚くべき秘密についてです・・・! 第六話 ...
3. シンクロニシティ | 潜在意識〜ジョセフ・マーフィーの成功法則
www.szik.net/synchronicity/ - キャッシュ - 類似ページ
シンクロニシティを引き起こすもっとも有効な方法は偶然の一致に関心を払うことです。
偶然の一致に関心を払えば払うほど、繰り返しシンクロニシティを目撃するようになり、
その意味もはっきりしてきます。 偶然の一致が起こったなら、人生の好機が到来したと ...
4. シンクロニシティ(Synchronicity) 気付く〜意識するへ! - みんなが、ず ...
blog.goo.ne.jp/.../e/80ec56a68415125029277fd4f2f0bd6f - キャッシュ
2013年1月18日 ... 今までUPしてきた中で、最も重要な記事になります。 真剣に書きますので、真剣に読ん
で、受け止めてください。 あなたの進んでいる方向・指向・思考・試行が本当に、正しい
ものであるとき、シンクロニシティが起こります。
5. 田中情監督作品「シンクロニシティ - SYNCHRONICITY -」公式サイト ...
synchroni-city.jp/ - キャッシュ - 類似ページ
田中情監督最新作「シンクロニシティ」公式サイトです。作品情報、キャスト紹介、予告編
、フォトギャラリーなどを掲載しています。
6. ジャグラー・シンクロニシティ
www.jugglersynchro.com/ - キャッシュ - 類似ページ
コンビジャグリングで魅せる二人組の大道芸人、ジャグラー シンクロニシティの
ホームページです。
7. 超心理学講座・シンクロニシティ - 明治大学
www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/5-8.htm - キャッシュ - 類似ページ
5-8 シンクロニシティ. 明治大学情報コミュニケーション学部教授 メタ超心理学研究室
石川 幹人. 本項では,シンクロニシティの理論と,それを提唱した深層心理学の大家,
カール・グスタフ・ユングについて述べる。
8. SYNCHRONICITY | シンクロニシティ
synchronicity.tv/ - キャッシュ
3/9(土)『SYNCHRONICITY'13』開催!ROVO、渋さ知らズオーケストラ、ZAZEN
BOYS、group_inou、奇妙礼太郎トラベルスイング楽団、Nabowa、COMEBACK MY
DAUGHTERS、regaなど全18組出演。渋谷O-EAST&DUO。「CREATION FOR THE
...
9. シンクロニシティ 共時性 スピリチュアル
www.jp-spiritual.com/syncro1.htm - キャッシュ - 類似ページ
シンクロニシティ(シンクロ)とは意味のある偶然、共時性のことです。 こんなこと、偶然
にしてはタイミングがよい、必用なときに向こうからやってくるようなことをシンクロ、共時
性、シンクロニシティと言います。
10. シンクロニシティとは (シンクロニシティとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
dic.nicovideo.jp/a/シンクロニシティ - 類似ページ
シンクロニシティとは、カール・ユングによって提唱された偶然的な一致の同時発生の
ことである。 ... 科学」の定義とは、数値に置き換えられることであり、再現が可能である
ことが必要最低条件であるため、シンクロニシティはこの定義に当てはまらず、「似非
科学」 ...




気とは情報的霊波ではないのか:引き寄せとシンクロニシティ(共時性)

テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論

小倉城 - Wikipedia


先ほど、小倉から帰ってきた。
 小倉はスタイルのある都市、文化都市である。
 人々も活気・エネルギーがある。中国人も大勢やってきている。どうやら、九州の時代がやってきたのかもしれない。
 ところで、本件であるが、テレビで松本清張賞受賞者の特集と小倉のシンクロニシティについて述べた(Fri, June 21, 2013今(10:45pm)、小倉にいる:夜景がきれいだ  松本清張賞に食堂で働く女性 )が、昨日、少なくとも三つほど、別のシンクロニシティがあった。
 あまり、信じないが、事実は事実である。
 ところで、直感では、引き寄せのようにも感じるのである。今は詳論しないが、どうやら、気は情報や認識力をもっていて、人間から人間へと連絡しているように思える。それが、シンクロニシティや引き寄せの原理ではないだろうか。
 明日早いのでここで留める。

参照:
北九州市 - Wikipedia
北九州市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 、 検索
きたきゅうしゅうし
北九州市

左上:リバーウォーク北九州 、右上:小倉城
左中:旦過市場 、右中:JR 門司港駅
左下:小倉市街の夜景、右下:東田 第一高炉跡

北九州市旗

北九州市章
1963年 3月14日 制定
国 日本
地方 九州地方
都道府県 福岡県
団体コード
40100-5
面積 488.78km²
総人口 969,121人
(推計人口 、2013年5月1日)
人口密度
1,980人/km²
隣接自治体 福岡県 :中間市 、直方市 、行橋市 、
芦屋町 、水巻町 、鞍手町 、香春町 、
福智町 、苅田町 、みやこ町
山口県 (海上で隣接):下関市
市の木 イチイガシ
市の花 ツツジ 、ヒマワリ
北九州市役所
所在地 〒803-8501
福岡県北九州市小倉北区城内1番1号

外部リンク 北九州市役所

■ ― 政令指定都市 / ■ ― 市 / ■ ― 町 / ■ ― 村

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表示 ・ノート ・編集 ・履歴 ウィキプロジェクト
北九州市(きたきゅうしゅうし)は、福岡県 にある市 の一つ。関門海峡 に面し、九州 島最北端に位置する。
1963年 に5市による新設合併 により誕生し、三大都市圏 以外で最初の政令指定都市 となった。隣接する山口県 下関市 と当市を中心とした関門都市圏 は約220万人の人口を擁し、都道府県庁所在地 を除くと西日本 最大の都市圏 でもある。

参考:
松本清張賞に食堂で働く女性
6月21日 21時51分

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エンターテインメント小説を対象にした文学賞、第20回「松本清張賞」に、東京都内の食堂で働く山口恵以子さんの作品「月下上海」が選ばれ、21日、東京で授賞式が開かれました。
「松本清張賞」は日本文学振興会が毎年、公募している文学賞です。20回目のことしは、山口恵以子さんの作品「月下上海」が選ばれ、授賞式で山口さんに賞金500万円の目録などが贈られました。
「月下上海」は、戦時統制下にあった昭和17年の上海を舞台に、スパイ活動に手を染めたヒロインの財閥令嬢と4人の男性を巡って、謀略とロマンスが交錯するストーリーです。
緻密な取材に裏付けられた時代考証や、苦難の中で力強く生き抜くヒロインの心理描写などが高く評価されました。
山口さんは東京都出身の55歳。都内にある新聞を配達する組合の従業員食堂で調理や献立作りを行っていて、働きながら執筆した初めての長編小説が、今回、受賞したということです。
授賞式の中で山口さんは、「清張さんのような大流行作家になるのか、趣味で小説を書く食堂のおばちゃんで終わってしまうのか、神のみぞ知るですが、どんな道を歩んでも書き続けていく私をこの賞が見守ってくれると思います」と語っていました。
山口さんは、今後も食堂での仕事を続けながら作品作りに挑むということです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130621/k10015489161000.html







今(10:45pm)、小倉にいる:夜景がきれいだ

テーマ:Weblog

今、小倉にいる。昔、下車したが、小倉城へは行けなかった。明日午前中、出かけよう。
19階から夜景がきれいだ。
 アーケード街を歩いたが、グルメな街である。
でも、なにか雰囲気が不思議である。
 たまたま見たテレビで松本清張賞を受賞した人のレポートがあった。偶然の一致、シンクロニシティである。
 眠いのでここで留める。


2013年06月16日(Sun)▲ページの先頭へ
初めに、個己ありき:自我と個:全体的個己と個体的個己:個己の二つの様態
テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論

それなりに多忙で、考察の余裕がない。
 とは言え、自我と個について簡単に予見を述べたい。
 おそらく、自我がなければ、個は生じないのではないだろうか。
 陽だけでは、自我にはならない。何故なら、陽は陰と均衡するのであり、根源の太陰といわば未分化であると考えられる。言うならば、母子一体ではないだろうか。つまり、母権性である。
 しかし、父権化して、陽から超陽=自我が飛び出すようにして、生まれる。そのとき、超陽=自我は太陰=太母(母)から独立する。つまり、自我と陰陽の分裂がそこにあるのである。二元論である(これが、西洋文明の原点である)。
 そして、超陽=自我は太陰=陰陽を排除し、また、破壊しようとするのである。これが、植民地主義、帝国主義、金融資本主義の原点であると考えられる。
 しかしながら、超陽=自我と太陰=陰陽の二元論、二重性は、いわば、分裂症である。これを調和させる内的必要があるのである。東洋文明は、内身体文化の発達によって、バランスをとってきたのである。端的に、瞑想文化、肚の文化、気の文化等である。これは、太陰=陰陽をベースとする文化であり、超陽=自我の暴走を抑える真の理性文化(身体理性文化)と考えられる。
 つまり、東洋文明は太陰=陰陽性が支配的であり、そのため、超陽=自我の暴走を許さないセーフティーネットをもっていたと考えられる。
 逆に言うと、そのため、超陽=自我の文明が西洋文明のようには発達しなかったのである。自然科学、物質文明は西洋文明が発達させたものである。
 さて、ここで、個の問題になるが、個とは、これまでの私の見解では、肚=太陰が他者であり、個となるものである。
 そうならば、太陰において、個があるということになるのではないのかという疑問が生じよう。
 しかし、私が肚=太陰において、他者=個が存するというとき、それは、自我=超陽を前提にしているのである。このために、単に、肚=太陰において、個が存するとは言えないと考えられるのである。
 もっとも、問題は微妙である。以前、私は母権的個ということを言っていたのである。
 しかしながら、今考えてみると、それは、やはり、自我=超陽が前提だと思う。その前提の下に、母権的個=肚というものを考えていると思われるのである。
 果たして、そう考えていいのか、疑問である。
 丁寧に考える必要がある。
 私は近代以前の日本において、母権的個があったと考えてきたのである。しかし、日本は母権と父権の二重社会であるというのが持論である。つまり、日本文化において、母権と父権の両要素が混在していると思われる。
 故に、私が日本の伝統社会における母権的個という場合、やはり、父権的自我が前提に存するように考えられるのである。
 しかし、果たして、純粋母権文化に個はないのだろうか。
 直観では、肚即全体である。そして、肚は個である。
 つまり、肚=個=全体である。
 そう、太陰とは太一であり、一(いつ)である。この一が個を感じさせるのではないだろうか。
 ならば、自我=超陽がなくても、個はありうるのである。母権的個はありうるのである。
 つまり、太一=太陰=肚=個という図式である。
 そうならば、自我=超陽を前提にした個の成立とはどうなるのか。齟齬になるのである。
 思うに、太一=太陰=肚=個とは全体的個であり、自我=超陽を前提とした個とは、物質世界における個体的個ではないだろうか。つまり、二つの個があると思われるのである。全体的個と個体的個である。個体的個は、純粋母権文化では不可能であろう。結局、自我=超陽の前提があって、個体的個と同時に全体的個が成立すると考えられる。
 では、個体的個と自我とはどう関係しているのだろうか。
 自我は他者排除的であるが、個体的個は、全体的個をベースにした自我的要素のある個ということではないだろうか。
 そう、物質的個というとわかりやすいだろう。
 今はここで留める。後で更に検討したい。

追記:以上の議論だと全体的個と個体的個の二つに分裂したままであるが、実際の様態は違うように直観される。
 個というのは、個体的様態と全体的様態の両側面があると思うのである。(ユング心理学の個体化に少し似るが。)
 個体的様態は自我的様態に近いものがあると思う。
 しかしながら、自我の排除機能は解消しているのである。
 つまり、自我の変容としての個体的個が存すると思う。
 やはり、物質的個である。現象的個とも言えよう。
 そう、結局、気的個と物質的個の二つがあるのであり、言い換えると、個の気的側面と物質的側面があるということになるのではないだろうか。
 物質的側面を形成するには、自我=超陽は必要であったということではないだろうか。
 とは言え、端的に、個とは何か。
 それは、「わたし」の存在であり、意識である。
 「わたし」ならば、自我ということになるのではないのか。
 これは実に微妙な問題である。
 「わたし」は自我とは同じではない。「わたし」は自我にはなるが、自我自体ではない。何故なら、「わたし」は全体でもあるからである。
 ルドルフ・シュタイナーがイッヒichというはそのような「わたし」であり、自我ではない(自我と訳しているが、誤訳だと思う)。
 思うに、「わたし」を個とすればいいのではないだろうか。
 つまり、太一=太陰=肚=個=「わたし」である。そして、超陽=自我は「わたし」=個の分枝となる。
 「わたし」=個とすれば、以上の齟齬も二元論も解消される。
 故に、個私、私個、あるいは、個自、自個、あるいは、個己、己個という用語が考えられよう。(ユング心理学において、個我という用語があったが、どうも抵抗がある。)
 己個か個己がとりあえず、いいように思える。一応、個己を採用する。
 結局、上述の検討であるが、個己の問題であると言えよう。全体的個とは、太一=太陰=肚の個己であり、自我=超陽を前提した個体的己とは、個己の物質的様態を意味すると言えよう。
 そう、

初めに、個己ありき


、である。


2013年06月08日(Sat)▲ページの先頭へ
自我とは何か:太陰が陽を作り、陽から独立した超陽である自我(男性原理)は太陰(女性原理)を恐れる
自我とは何か:太陰が陽を作り、陽から独立した超陽である自我(男性原理)は太陰(女性原理)を恐れる

テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

自我をどう捉えるのか、きわめて重要な問題である。
 私は自我を陽に便宜的においているが、実は純粋な陽ではなく、超陽、あるいは、陽の極大的なものとして考えているのである。
 だいぶ前に書いたように、陽は光となり、物質を形成するものであり、そこにおいて、量化が為されて、同一性、プラスとマイナス、NとS等が形成されると考えられる。可視の世界を作るのである。
 現象界の形成において、私は陰陽共振のことを言った。しかし、今の不連続的太陰ヴィデア論(簡単に、太陰ヴィデア論とする)において、陰陽共振を現象界の形成要因と見るのかどうか、まだ検討していない。
 しかし、やはり、陽が陰へと再帰することにおいて、陰陽共振が発生し、そして、螺旋生命物質体が形成されると考えることができる。
 思うに、陰陽共振から連続的同一性が形成され、物質力学、物質が形成されるように思われる。
 連続的同一性は、同一性力学=物質力学を形成する。それは、例えば、プラスとマイナスの対立構造(「二項対立」、構造主義)を作ると考えられる。具体的には電気を考えればいい。(ここにおいて、PS理論の公式凸i*凹i⇒+1が成立すると考えられる。)
 このとき、陽と陰は対立原理であるが、結合(シナジー化)して、物質形成するのである。
 しかし、ここには自我の原理はないのである。
 確かに、自我は同一性となる陽と結びついている。同一性となる陽と関係するのは、否定となる陰である。ここで一時ストップする。
 どうも正確に述べるには、大陰(だいいん)と大陽(だいよう)、そして、陰と陽、あるいは、陰と陽のペアと小陰と小陽のペアの二種類の陰陽に分けた方がいいようである。とりあえず、後者の用語を使用する。
 結局、陰陽共振において、次元転換によって、螺旋形成が起こり、小陰と小陽の対立原理が形成される(例えば、DNAの二重らせんの対立を考えるといいだろう。)。
 そう、小陰ー小陽対立原理(構造主義)が、物質原理であり、そこには、自我はないのである。
 自我は、物質原理以前の陽に存すると見よう。しかし、次元転換点(これをMP、メディア・ポイントと見るのか?)を介して、自我は物質界にも作用していると思われるのである。
 さて、陽=自我であるが、それは、闇=太陰=他者を恐れるのである。何故なら、陽は陰から派生したものであり、陰の言わば、一部として、陽は存するのであり、陽を超越した存在が陰であるからである。
 ここにおいて、陽は陰を否定し、且つ、排除するのである。単なる否定ではなく、排除なのである。暴力である。
 物質原理の小陰ー小陽の対立原理の否定は、排除ではない否定である。排除どころか、牽引となる否定である。プラスとマイナスは牽引するのである。
 しかるに、陽の陰に対する否定は、排除なのである。あるいは、破壊である。これは、まったく、物質の対立原理とは異なるのである。
 さて、ここで、不連続的太陰陽ヴィデア論(新たな造語)の視点に返ると、太陰が主導的であるときは、陽は太陰に属しているので、自我は独立していないので、排除・破壊的ではない。これは、母権世界である。
 しかし、父権世界になると、陽=自我が主導中心化して、太陰=母から独立し、分離する。そして、太陰=母を排除・破壊するのである。
 この主導中心化し、独立した陽=自我は、言うならば、超陽であり、悪である。悪魔的である。悪魔自体かもしれない。シュタイナー霊学では、アーリマンである。(私はヤハウェはこれではないかと思ってしまうのである。)
 陽=自我の独立化の原因については、稿を改めて論じたい。
さて、以上、自我を不連続的太陰ヴィデア論から説明を試みた。
 ここから、近代的自我はどういうものかよく理解できる。即ち、独立した陽=自我が物質原理、小陰ー小陽対立原理と結びついたのであり、主体は陽=自我であり、様態は小陰=小陽対立原理=物質原理である。陰=他者の排除・破壊が徹底してあるのである。近代的自我あるいは、近代合理主義は悪魔主義である。
 しかしながら、太陰=陰=他者は存するのであり、それは、心的に浮上するのである。反近代主義はそのような意味合いをもつのである。わかりやすい例はロマン主義、神秘主義、オカルト主義、深層心理学である。
 この太陰の力学であるが、陰陽円を考えるといいのかもしれない。あるいは、陰と陽の振動である。
 西洋文明は陽、超陽の文明であるが、しかし、陰、太陰が出現した。つまり、陽から陰への転換点の意味合いがあると考えられる。
 超陽が排除・破壊した、太陰=他者が復活する力学をもった文明である。
 そう、端的に、新東洋文明を示唆しているのである。易で言えば、陽極まりて、陰に転ずである。
 太陰の復活の文明を示唆しているのである。
 しかし、超陽=自我の力学は強力であり、太陰の再出現を阻止するのである。
 因みに、シュタイナーは20世紀の初期から、エーテル体において、キリストが見え始めると述べたが、キリストとは太陽霊であり、それは、太陰から生まれる純粋陽のことと思われるのである。太陰から火の鳥が復活するのである。(D.H.ロレンス哲学文学とはその象徴である。ただし、超陽=自我と太陰が未分化的だったために、リーダーシップ小説において、反動的になってしまった。)
 最後に、心の病(心病と言おう)であるが、それは、超陽=自我が再出現する太陰=他者を排除・破壊せんとする反動力学から生じているように思えるのである。
 現代日本人の自我病はこの心病であると考えられる。

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共情、共心の問題:知情意:頭と胸と肚:3分節的身心:不連続的太陰ヴィデア論

テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

情とはいったい何だろうか。今日、日本人に一番欠落しているのは、情である。情の海、情の川、情の泉等が消失している。
 とは言え、先に触れたように、陰陽において、胸情はどう説明できるのかが問題である。
 私の経験、不連続的差異論が生まれる以前の私の心的様態について考えるのがいいだろう。
 自我の私(頭我)と心の私(肚ベースの胸)の二つに分かれて、前者の否定性を後者で抑えていた、あるいは、鎮静させていた。
 不連続的差異論はこの二つが不連続であることを確認することに存するのである。前者が陽で、後者が陰とすると、陽と陰との不連続性である。そして、陰は不連続的差異になるのである。
 肚のベースのはたらきであるが、胸の共感性(共情性とも呼びたい)の純粋性を保持する面があると思う。自我による反感が生じるが、それによる共感性の濁りを肚の基盤に返ることでなくし、純粋さを保持するである。
 そう考えると、胸は陰陽の中間領域にあると言える。
 結局、自我(陽、正しくは超陽)は、陰陽バランスを破壊するものであり、その調和を維持するために肚の役割があるように思えるのである。陰陽バランスにおいて、胸の共感性(共情)が作用するということではないだろうか。
 つまり、陰陽的身心において、胸の調和が形成されているということになるだろう。つまり、陰陽様態において、胸の純粋共感(共情)が存するのであり、それが自我によって、歪曲されるのであり、その矯正には、肚の働きが必要になるということのように思える。
 肚は太陰=闇であり、それが、陰陽調和の胸の共感・共情を保持する作用をするということになる。
 以上のように考えると、胸=共感・共情性とは、新しい陰陽論、つまり、太一=太陰=闇論から説明できることになる。
 思うに、肚=闇=母(「父」)、頭=光=子、とすると、胸=共感性=聖霊という新三位一体が成り立つように思える。
 ということで、不連続的陰陽ヴィデア論であるが、新陰陽論であるから、不連続的太陰ヴィデア論と陽を抜いて呼ぶことができるかもしれない。あるいは、不連続的新陰陽ヴィデア論である。


2013年06月04日(Tue)▲ページの先頭へ
初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。
テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

注:以下の記述は次の追記の転載である。

続「光とは何か」:肚から大空への放光:個の道と自我の道:陽から陰へと陽から外光へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11544151281.html

追記:陰の中心から陽の円周ないし球面への方向が天の方向ではないだろうか。樹木が伸びる方向である。
 陽の天、光の天は至高の美であろう。
 思うに、陽、光とは、陰、闇の頂点である。陰、闇は陽、光を求めたのである。それが、目的である。
 そう、この点に宗教や文化の光やそのメタファーの意義が存すと考えられる。
 マニ教の光とはそのようなものである。
 闇自体が光に変身するのである。
 しかし、問題は、その後の光の運命である。
 闇から生まれた光が、いわば、独立する。闇という根を失い、光の帝国、独裁を生むのである。
 言い換えると、光の物質化、光の自我化である。
 闇の根源を喪失した光が支配するのである。
 闇の光と単なる光を区別する必要がある。
 わかりやすいところでは、陽光は本来は闇の光であろう。そして、物質的光、例えば、電灯は後者である。
 太陽は思うに、両者の中間点である。闇の光と物質光の中間点である。しかし、前者が本質と思われる。
 そう、科学、自然科学は太陽の「表面」、外面しか見ていないのである。つまり、物質面しか見ていないのである。太陽の物質面とは、本来の太陽の外装部分に過ぎないと考えられるのである。
 科学、自然科学は、太陽の内面、本体を見ていないのである。それは、宗教で言えば、「神」であろう。天照大御神である。
 そう、太陽神は闇の光、そう、闇の光鳥とでも呼びたい。不死鳥、フェニックスはこの象徴であろう。天照大御神は不死鳥であろう。
 そして、赤く染められる日本の太陽であるが、それも闇という大生命の光を意味しよう。

初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。

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 とまれ、この闇の太陽が、赤い太陽が、ドットドットドットと、ドクドクドクと鼓動を打っているのである。それは、宇宙の心臓でもある。
 血、血液であるが、それは、闇という大生命が光に化するときのエッセンスではないのか。闇の光のエッセンス。
 とまれ、物質の太陽の背後には、闇の太陽が潜んでいると考えられる。それが、太陽神として、宗教的に表象されてきたと思われる。霊学者のシュタイナーはキリストを太陽霊と考えているが、それは闇の太陽と考えられる。
 
私は復活であり、生命である。

とキリストは言ったのが、闇の太陽は不死鳥であり、正に、その通りである。
 これで、すべての宗教は一致することが理解される。
 では、気とは何か。それは、やはり、闇の太陽の光ではないだろうか。闇の光である。
 しかし、闇自体と気はどう関係するのか。闇の力が気とも言えるだろう。しかし、闇の光が真の気のように思える。これは検討課題にしよう。

追記2:闇の太陽とはD.H.ロレンスの用語dark sunダーク・サンの訳である。黒い太陽と普通訳されるが、黒いでは、語弊がある。暗い太陽も語弊がある。闇の太陽が的確と考えられる。

新追記(これは本記事への新たな追記である):東洋の鳳凰は不死鳥、フェニックスと共通すると直観される。

鳳凰 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/鳳凰 - キャッシュ - 類似ページ
平等院鳳凰堂屋上の鳳凰像。 ... 鳳凰(ほうおう、拼音: Fènghuáng )は、中国神話の
伝説の鳥、霊鳥である。 ... 鳳凰は、霊泉(醴泉〈れいせん〉、甘い泉の水)だけを飲み、
60-120年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食物とし、梧桐の木にしか止まらない ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E5%87%B0

img_268600_8260416_1.jpg

http://blogs.yahoo.co.jp/barth_lalala/8260416.html


続「光とは何か」:肚から大空への放光:個の道と自我の道:陽から陰へと陽から外光へ
テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

今は疲れて余裕がないので、明日にも論考したいが、簡単に触れておく。
 結局、闇の中に光、原光が存するのか、それとも、闇自体が光に転ずるのか、どちらが的確なのか、である。
 私の直観は後者であるが、前者も可能性があるのである。
 そう、問題は心の眼である。心の眼に映る光があるのである。それは、外界の光ではない。
 心の光である。それが陽ではないのか。陽は陽光自体ではないと思われる。
 これまでの視点から言えば、陰陽円における円周の陽が心の光であり、また、眼である。つまり、円周ないし球面の陽は陰の派生物である。
 だから、闇から発出する「光」とは、闇が産み出す「光」であり、闇に内在する光、原光ではないと思われるのである。
 そうすると、やはり、最初に述べたように、闇が本体であり、光はその転化物である。
 D.H.ロレンス風に言えば、闇の背中が光ということになる。
 では、次に、個と自我の問題を検討する必要がある。
 闇の光ではなく、外光に焦点を合わせる主体は自我だと思われる。
 思うに、陽から外光の方向である。これは自我の方向だと思う。
 それに対して、個とは、陽から陰への方向性に存するように思える。
 近代主義とは、陽から外光の方向性に成立したのではないだろうか。しかしながら、ルネサンスにしろ、プロテスタンティズムにしろ、それは、闇から光への方向性が基盤にあると思う。
 つまり、闇がベースにあると思うが、闇の作る光から外光へ向かい、それが、中心化してしまったのが近代だと思う。
 思うに、闇から光への方向性は、完全ではないが、個の一部のように思える。そして、光(陽)から闇への反転が真の個のように思える。
 だから、闇から光、陰から陽への方向性は個と自我との中間のように思える。
 近代主義の問題は、光、陽が外光へと展開して、それが固定してしまった点にあるだろう。根源、基盤の闇、陰が排除されているのである。これは、他者の否定である。悪魔主義である。
 今はここで留める。

追記:陰の中心から陽の円周ないし球面への方向が天の方向ではないだろうか。樹木が伸びる方向である。
 陽の天、光の天は至高の美であろう。
 思うに、陽、光とは、陰、闇の頂点である。陰、闇は陽、光を求めたのである。それが、目的である。
 そう、この点に宗教や文化の光やそのメタファーの意義が存すと考えられる。
 マニ教の光とはそのようなものである。
 闇自体が光に変身するのである。
 しかし、問題は、その後の光の運命である。
 闇から生まれた光が、いわば、独立する。闇という根を失い、光の帝国、独裁を生むのである。
 言い換えると、光の物質化、光の自我化である。
 闇の根源を喪失した光が支配するのである。
 闇の光と単なる光を区別する必要がある。
 わかりやすいところでは、陽光は本来は闇の光であろう。そして、物質的光、例えば、電灯は後者である。
 太陽は思うに、両者の中間点である。闇の光と物質光の中間点である。しかし、前者が本質と思われる。
 そう、科学、自然科学は太陽の「表面」、外面しか見ていないのである。つまり、物質面しか見ていないのである。太陽の物質面とは、本来の太陽の外装部分に過ぎないと考えられるのである。
 科学、自然科学は、太陽の内面、本体を見ていないのである。それは、宗教で言えば、「神」であろう。天照大御神である。
 そう、太陽神は闇の光、そう、闇の光鳥とでも呼びたい。不死鳥、フェニックスはこの象徴であろう。天照大御神は不死鳥であろう。
 そして、赤く染められる日本の太陽であるが、それも闇という大生命の光を意味しよう。

初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。

sammon_phoenix.jpg


 とまれ、この闇の太陽が、赤い太陽が、ドットドットドットと、ドクドクドクと鼓動を打っているのである。それは、宇宙の心臓でもある。
 血、血液であるが、それは、闇という大生命が光に化するときのエッセンスではないのか。闇の光のエッセンス。
 とまれ、物質の太陽の背後には、闇の太陽が潜んでいると考えられる。それが、太陽神として、宗教的に表象されてきたと思われる。霊学者のシュタイナーはキリストを太陽霊と考えているが、それは闇の太陽と考えられる。
 
私は復活であり、生命である。

とキリストは言ったのが、闇の太陽は不死鳥であり、正に、その通りである。
 これで、すべての宗教は一致することが理解される。
 では、気とは何か。それは、やはり、闇の太陽の光ではないだろうか。闇の光である。
 しかし、闇自体と気はどう関係するのか。闇の力が気とも言えるだろう。しかし、闇の光が真の気のように思える。これは検討課題にしよう。

追記2:闇の太陽とはD.H.ロレンスの用語dark sunダーク・サンの訳である。黒い太陽と普通訳されるが、黒いでは、語弊がある。暗い太陽も語弊がある。闇の太陽が的確と考えられる。


2013年06月02日(Sun)▲ページの先頭へ
What is light?:光とは何か?:陽・光が個原理で、陰・闇は全体で自我の原理なのか?
テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

今、新陰陽ヴィデア論(陰が本体で、陽は派生物)に立って、論じているが、太一(太極)=太陰ということになり、女性・母権の根源がこれでわかった。(それは、物理的には、穴のようなものなのだろうか。今の段階では、点・ポイントと見ているが、穴という見方もできよう。これは検討課題である。)
 根源は闇、太闇である。それが中心で、そこから、円が生まれ、円周は陽、光である。
 ジェンダー的に言うと、女性は闇であり、男性は光である。この闇と光には善悪はない。異質な価値があるだけである。
 とまれ、女性を闇と見ることで、女性の存在の謎が解明するだろう。男性は光の視点から女性を認識しようとするが、闇を光は知らないのである。
 逆もそうである。女性の闇の視点から男性を認識しようとするが、光を闇は知らないのである。
 しかし、闇が光を産むのである。処女生殖が本来的なのがわかる。アルテミス、処女神アテナ、聖母マリア。
 根源を陰=闇として、存在の謎がかなり判明したが、逆に、光=陽がいったい何であるのかが今や問題である。
 直観では、闇の反転が光である。しかし、光は光の意味があると考えられる。
 闇の反転としての光と言ったが、闇から光が飛び出すとも言える。
 とまれ、闇にとり、光の誕生は最高の奇蹟だったに違いない。闇は光を必要にした。
 闇を母親にすると、光は子である。(キリスト教の父と子であるが、父は本来は母である。キリスト教ないし一神教のジェンダー転換については検討問題である。)
 思うに、ヘーゲル哲学的になるが、内在していたものの外化が光の発生ではないだろうか。闇の中に光が内在していたということになる。女性の中に男性が存在していたということにもなろう。(アダムのあばら骨からのイヴの誕生は逆であろう。)
 次のようにイメージしよう。原初期、陰=闇の中に陽=光が閉じ込められている。この内なる陽=光が表面化、外化するときがある。これが、陰陽分化のように思える。そして、それから、陰陽共振で螺旋生命現象が発生するのではないだろうか。
 とまれ、陰=闇の内なる陽=光がポイントとなるだろう。闇の中の光である。しかし、それを表面化・外化するときが現象化である。ギリシア神話で言えば、ディオニュソスからのアポロの誕生である。
 ここで、セクシュアリティについて言えば、陰=闇と陽=光の分極化からの再合一化が性交と考えられる。陰=闇は陽=光を再び内在化せんとするのである。また、陽=光は陰=闇の内部へと回帰せんとするのである。これは、精神的にはイデア界への回帰である。プラトンのエロースである。
 さて、本題の光とは何かである。それは、個の原理ではないのか。個核、個点、個子ではないのか。
 陰=闇は宇宙全体、コスモスである。それに対して、光=陽は個原理ではないのか。
 私は不連続的差異論の段階で、知即存在ということを言ったが、この光・陽を内在する闇・陰がそれだと思われる。
 わかりやすく言えば、卵を考えればいいのである。黄身が光であり、それを包むものが闇である。
 以上のようにざっと見て、光=陽=男性の働きの意味がわかってきた。それは、個原理である。女性は全体原理である。
 陽根・男根の役割は、個原理を全体原理にもたらすことではないだろうか。(これは思いつき程度である。)
 とまれ、性とは、個即全体の原理を意味するのではないだろうか。これは、個即非全体ということでもある。
 個は個であり、また、全体であるということである。
 そう、光球をイメージするといい。表面は光であり、それが、個である。しかし、内部や闇であり全体である。しかしながら、闇の中心には原光があるのではないだろうか。
 そう、陰・闇は自我の原理となり、陽・光が個の原理、これは、実は他者の原理ではないだろうか。キリスト原理はこれだろう。
 私は陽・光が自我をもたらす考えてきたが、陰・闇が自我をもたらし、陽・光は個=他者をもたらすのではないだろうか。
 これは後で熟考したい。


2013年06月01日(Sat)▲ページの先頭へ
太一=陰(原陰)から陽の発生と陰陽原理:新陰陽論:陰原理から陽極が「派生」する
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11542090932.html

太一=陰(原陰)から陽の発生と陰陽原理:新陰陽論:陰原理から陽極が「派生」する

テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

現時点での不連続的陰陽ヴィデア論は、根源の太一(太極)を陰と見ている。だから、太一=太陰とも言える。
 これは、それ以前の陰陽論とはまったく異なる視点である。それまでは、陰と陽の分極・両極を均衡的に見ていたからである。いわば、両者、力学的には対等ということであった。
 だから、新陰陽論と言えるものである。故に、不連続的新陰陽ヴィデア論と言うことができる。(とは言え、まだ、作業仮説的であり、検討の後に、かつての陰陽論に戻るかもしれないが。)
 とまれ、先に述べたことから、陰は陰陽円の中心、陽は円周になる。つまり、陰は内部で闇、不可視であり、陽は外部であり、陽=外部が光となり、可視、現象になるように思える。陰陽円は闇を抱えた光の円(光円)である。
 陰陽球で考えれば、中心は陰で、球面が陽となる。(思うに、これが、原子モデルになるかもしれない。当然、中心は原子核であり、球面が電子である。)だから、闇を包んだ光の球(光球)である。
 また、陰は気であるが、果たして、陽も気であるのか。それは、光となるから、どうも、物質的なように思えるのである。
 否、先走ってはいけない。陰陽円はあくまで気の円、陰陽球は気の球と見るべきだろう。
 だから、問題は、陰陽円、陰陽球の物質現象化の力学である。
 これまでの考えは、

T:太一⇒U:陰陽分極化⇒V:陰陽共振化⇒W:現象(螺旋的生命物質体)

である。
 問題はUであるが、それは、陰陽円形成化、陰陽球形成化と言えよう。
 太一が根源気ならば、Uは陰陽気ではないだろうか。
 しかし、Uにおいて、陰の気が陽の気を作り、両者、極性状態にあると考えられる。(ここで、単極磁石を想起したが、単極とは、陰極のことではないだろうか。何故なら、太一=陰であり、それが、陰極をまず形成して、それから、陽極を作るように考えられるからである。)
 さて、物質化であるが、それは、Vの陰陽共振化がベースではないだろうか。つまり、Uの段階で、陰陽分極化=陰陽円・球形成が起こり、そこから、再太一化が起こり、そのとき、物質が出現するのではないだろうか。
 つまり、Uの段階は、いわば、反発である。そして、Vの段階が反作用で牽引である。このとき、螺旋が発生するように思えるのである。思うに、螺旋以前に渦巻、陰陽渦巻が形成されるのではないだろうか。つまり、陰陽渦円が形成され、それから、三次元的螺旋現象が形成されるということである。
 このとき、陰陽円、陰陽球の中心であり、陰、いわば、陰点(太一もここに存するのか。それとも、別次元なのか。これは検討問題である)がヘソ(臍)となり、そこから、空間三次元、時間一次元の時空四次元生命現象が生起されるように思えるのである。
 とまれ、これまで述べてきたように、陰陽円・陰陽球と現象二次元、三次元は別のものと考えている。陰陽円・陰陽球は、内在超越次元にあると思われる。
 さて、出現する時空四次元現象であるが、これは、四元数(しげんすう)がよく記述するのかもしれない。三つの虚数i、j、kが空間三次元、実数1が時間次元となる。
 四元数を使用しないと、時間を捉えるのが難しくなるのではないだろうか。もっとも、時間はエネルギーを感じるので、実数ではなく、内在超越次元的に見てもいいのではないだろうか。
 すなわち、直観では、Vの陰陽共振の陰陽円の牽引力に時間が存するようにも感じられるのである。
 四元数という数学構成を使用すると、いわば、予定調和的にうまく収まる感じがあるが、数学形式主義にならないようにしないといけない。
 とまれ、陰陽円の牽引力に時間を見ると、それは、内在的力動である。
 もし、時間がそうならば、時間は数学的に実数ではありえないだろう。ただし、結果として、空間・物質を形成するときのエネルギー量として、時間を考えるならば、実数的になるだろうが。
 そう、エネルゲイアとしての時間とエンテレケイアとしての時間があるのではないだろうか。前者は、気エネルギーとしての時間であり、後者は物質エネルギーとしての時間である。
 この問題はここでおいておく。
 とまれ、以上のように、新陰陽論(新陰陽イデア論:不連続的新陰陽イデア論)から、根源からの現象の生起を説明することができる。もっとも、陰陽円から螺旋現象の生起は従来通りの考え方である。
 変わった点は、陰原理が基本であり、そこから陽極が発生するということである。
 そう、たった今、想像したことだが、陰陽球において、球面が陽面であり、各点は陽点である。そこから、空間三次元=外界が見えるが、内界の陰点は不可視である。何故なら、陰点=中心は、闇であり、身体的には肚であるからである。
 そうすると、四元数において、三つの虚数は空間三次元を意味し、一つの実数は物質化であり、時間ではないのではないだろうか。
 時間はあくまで、陰陽気エネルギーではないだろうか。ただし、結果としての量的エネルギーとしての時間は考えられるが。
 そう見ると、一般的には、時間の結果を見ているのであり、時間の本体は見ていないと思う。というか、時間の本体は陰陽次元にあるから、不可視と考えられる。時間を内的に見るというのは正しいことであり、物理学的時間は本来的時間ではないだろう。
 また、虚時間という考えであるが、もし、陰陽次元、陰陽円、陰陽球の次元を虚時間の世界と見られるならば、時間の本体は、虚時間と言えるのかもしれない。この点はよくわからないから、決めつけないことにする。
 さて、最後にまだ考察していない点をあげると、太一と陰の関係である。これまで、太一=陰としてきたが、同時に、陰陽の陰でもあるのである。
 つまり、太一=陰と陰陽の陰の力学構造である。
 直観では、太一と陰は同一であるが、同時に異なるのである。
 次のように言えば、明快だろう。即ち、陰は内在的であるが、太一は超越的である。両者併せて、内在超越的と考えることができる。
 とまれ、今は、この問題は検討課題としておく。

追記:以上から、以下の概念図は書き替えられないといけない。何故なら、当然ながら、陰陽分極を陰と陽を対等のものとして扱っているからであるし、そのような陰陽の中間点を考えて、MP(メディア・ポイント)と考えているからである。
 思うに、この考え方は、言わば、ありきたりなのである。二元性があり、両者を媒介するものとしてのMPを想定するということであるから。そう、言わば、一種のメディア論なのである。
 しかし、新陰陽論(陰主陽従)では、そのような媒介性は解消している。主体・本体・本質は陰原理、陰極なのであり、それが、陽、陽極を発生させるということであり、そこには、中間原理はないのである。非メディア、不メディア、無メディアである。Im-media, Dis-media(De-media), Un-mediaである。
 そうすると、例えば、カントのような構想力(想像力)のような媒介的な視点は否定されて、非メディアとしての想像力を考えなくてはならない。私自身の「想像力」とは実は、直観力なのである。私の哲学的考察は直観的考察なのである。だから、直観的想像力ということはできるだろう。直観想像力(観像力、直像力、心像力)である。
 とまれ、直観想像力は陰をベースにした心像(直観像)である。それは、先にも述べたが、単に陽的な映像ではないのである。あくまで、陰の基盤をもつ陽的映像なのである。
 言い換えると、太一的心像力なのである。闇から生まれる映像の世界なのである。そう、闇がもつ光の面の心像・映像なのである。つまり、光=陽とは陰=闇の一つの帰結なのである。闇=陰の一部として、派生物として、光=陽があるのである。つまり、光=陽とは陰=闇に属するということである。
 この点は後で、十分に検討したい。


<不連続的陰陽イデア論(不連続的差異共振論)概念座標:Ver.17.0.0>

    陰陽メビウス(陰陽渦円)

       陽イデア(✡):自我
          |
          |
          |
          |
          |
          ★
_______・______実軸(時間・光・物質軸)+1
          ☆
          |
          |
          |
          |
          |
      陰イデア(✪):他者

【但し、・は太一点(太極点、内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 太一点において、直交する太一軸が考えられる。太極軸を1次元、陰陽メビウス(陰陽渦円)を内在超越的2次元、そして、現象界を時空四次元と見る。
 そして、陰陽軸(陰陽渦円)は陰陽メビウスの輪を形成していると思われ、陽イデア=自我=知(認識)と陰イデア=他者=存在で、陰陽メビウスが陰陽イデアで、意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。
 尚、実軸は時間-光-物質の系列軸とし、太一点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸は記入していない。
 霊「数」、陽✡、陰✪を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。不連続的陰陽イデア論公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k


   




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カレンダ
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