INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2013/05

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2013年05月28日(Tue)▲ページの先頭へ
新東洋文明の曙光:近代合理主義(科学主義)は太一=気=陰=肚を憎悪し否定し抹殺することを欲する
テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

自我は、近代的自我は、陽、正確に言うと、超陽であるが、それは、陰、超陰を否定する。ここに近代合理主義=科学主義の悪意があるのである。
 この公式は当然、デカルトのコギト・エルゴ・スム(我思う故に我在り)である。コギトは正に、自我(=陽、超陽)の思考であり、主体自体の思考ではないのである。自我によって排除されたものが、陰、超陰であり、太一=気=肚である。言い換えると、東洋的精神が否定されたのである。西洋文明が内在していた東洋的精神が否定されたのであり、西洋はいわば、超西洋となったのである。だから、近代西洋とそれまでの西洋とは異質である。
 以上のことを日本に当てはめると、明治日本は確かに、近代西洋文明の大影響をもったが、まだ、東洋的精神は残っていた。しかるに、敗戦後、米国の植民地的支配によって、日本は近代合理主義の影響下にあり、東洋的精神をまったく喪失していったのであった(私見)。
 日本において東洋的精神は肚の精神である。これは例えば、禅文化には存しているし、他の武道においてもそうである。しかし、敗戦後の米国経由の近代西洋文明の「洗脳」によって、東洋的精神は排除されていったのである。
 具体的には、教育の領域である。東洋文明教育は否定されて、頭の、自我中心の教育が為され、身体教育、正確に言えば、内身体教育、内身体、主体的、内界的教育はほとんど為されなかったのである。
 ここで少し飛躍的になるが、実は、1960年代、70年代の洋楽ポップスは実は東洋的精神的であると考えられるのである。頭ではなく、肚や胸をベースにした音楽が誕生したのである。クラシック音楽の自壊の状況において、ポップスにおいて、東洋的精神が萌芽したのである。(もっとも、その後、金もうけ主義の音楽業界によって、潰されたが。今はYouTubeで復活している。)
 現代日本の狂気であるが、これは、近代西洋文明に存しているが、その受け皿として、日本父権主義があったと考えている。
 つまり、日本父権主義が近代西洋文明を受容して、徹底して、太一=陰=気=肚の東洋文明を否定して、日本文化をも否定する結果になり、それで日本社会は狂気状況になっていると考えられる。
 言い換えると、日本母権文化、陰文化を否定する日本父権主義=陽文化が近代西洋文明と結びつき、陰を否定し、狂気状態になっているのである。
 ここで、一般的に、どうして陰文化、母権文化、東洋文明を否定するのか考えてみると、それは簡単なのである。
 実は、陰文化とは、神秘文化、ロマン主義文化、オカルト文化、霊性文化等であり、自我=陽・超陽のもつ合理主義はそれに嫌悪・憎悪をもつのであり、それ故に否定・排除したいのである。
 神話学的に見ると、母権神話から父権神話へと移行したが、その時、母なる神、大女神・大母神が殺戮されて、男性神が中心化するのであるが、ここに神秘から合理への移行が表現されていると見られるのである。
 これは、自我的合理主義=科学主義を出現させるための必要悪であったと言えよう。
 しかし、今や、それも行き着く果てに行き着いた。
 今や新たに母権主義が勃興するときである。否定された神秘が目覚める時代になったのである。
 光の恐れた闇の復活する時代なのである。
 陰宇宙、陰世界・陰界、陰全体の時代になったのである。ポスト近代西洋文明、新東洋=母権文明の時代である。
 最後に一言、先に、宗教の光について述べたが、これまでの論から、陰から陽、闇から光が生まれるのであり、真理のメタファーは本当は陰=闇にならないといけないはずである。
 しかし、元陰=太一から陽が生まれ、陰陽分極、陰陽共振を一つの「光」と見れば、光をメタファーにするのは、間違いではないだろう。
 しかし、陰陽分極、陰陽共振の「光」とは、陽光のような昼光ではない。それは、いわば、薄明である。あるいは、心の光のようなものである。内界の光である。
 そのような意味で宗教において、光をメタファーにするのは理解できることである。
 二言目になるが、結局、陰世界を記述する論理、言語、知はどのようなものなのかが問題である。
 科学は陽の論理、言語、知性に拠る。数学はそのような代表である。
 しかし、陰世界はどのように表記するのか。
 シュタイナーは霊学を説いた。言葉は一般に陽の世界に属するのであるから、陰の世界の表現には本来向いていない。
 思うに、音楽を初めとする芸術が向いているだろう。
 そう、大問題は科学との関係である。先に触れたように、陰の主体全体学において、科学はその物質論を占めることになるだろう。

追記:陰世界、太一世界、陰陽世界は、なんらか知的に記述できるはずである。もっとも、これまで、陰陽円、陰陽渦巻、陽の同一性、螺旋生命物質体等というように理論化はしてきたのである。

追記2:以下に、陰世界の知的記述の試みがある。
不連続的陰陽ヴィデア論:陰陽ヴィデアリズム:太一⇒陰陽分極(陰陽円)⇒陰陽共振⇒生命螺旋宇宙 (05/19)
http://sophiology.jugem.jp/?eid=277

1)イデアであるが、それは、想像的映像でもあるので、イデア+ヴィデオ=ヴィデアと呼ぶのがいいだろう。プラトンはエイドス(映像的類型)とも呼んでいた。
 だから、不連続的陰陽イデア論は、不連続的陰陽ヴィデア論となる。イデア論がヴィデア論である。

参考:
イデア - Wikipedia
イデア論 - Wikipedia
エイドス - Wikipedia
形相 - Wikipedia

2)太一(太極)は陰と通じている。陰に太一が存するように感じられる。この陰とは別に陽が分極化するということではないのか。
 陽が陰へと回帰するときが、現象化ではないだろうか。
 まだ、十分洞察できていない。
 太一が陰に内在する。陰を原点とすると、原点の周囲に陽が形成されるのだろうか。点というより、円を考えるべきか。
 陰が中心で、円が生じる。その円周が陽ということか。次のような生成図式を考えてみる。

 0(ゼロ):太一⇒@陰陽円(陰が中心点で、陽が円周?)⇒A陰陽共振⇒B生命螺旋現象

@が陰陽分極様態である。陰陽円が形成されている。その中心は陰であり、円周が陽ということである。陰陽分極であり、離反の力がはたらいていると考えられる。
 それから、牽引の力がはたらいて、陰陽が共振するようになる。そして、このとき、次元転換が生じると考えるのである。
 空間的に言えば、陰陽円の平面に直交する軸が生じるのである。それが、時間ー物質ー光の軸(一次元)ではないだろうか。
 そして、空間三次元であるが、それは、四元(しげん)数の三つの虚数i、j、kの軸によって形成されるということではないだろうか。この点は検討課題である。

追記:陰陽円と原子との関係に触れるべきである。また、陰陽円の中心とMP(メディア・ポイント)について考察すべきである。

3)哲学と数学との関係について:
 私は数学はずぶの素人であるから、数学主導で理論化することは、問題外であるが、主体力学から理論を導くのであるから、数学主導ではなく、哲学主導、ないし、哲学的科学主導で考察するのが本来だと思われる。数学主導にすると、哲学的考察が後回しにされて、数学の形式に引きずられてしまうと考えられる。先ず、哲学的考察(ヴィデア的考察)を行い、それに数学を適用するのが的確だと思われるのである。
なんでも哲学する:不連続的陰陽ヴィデア(イデア=エイドス)と日本心的革命宣言


2013年05月26日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:否定とは何か:存在的心像としてのヴィデア:単極磁石と陰陽
今は余裕がないので、検討問題をざっと記す。

1)否定とは何か。同一性主義の否定は、他者を否定するだろう。例えば、1+1=3と答えた人間に対して、それは誤りとして、解答を否定する。それはそれでいいが。3と答えた人間の人格・存在を貶めるような否定となる場合があるだろう。単に、間違いに対する否定と人格否定の違いはどこに拠るのか。

2)ヴィデア(イデア=エイドス)についてであるが、これは、陰陽共振的イメージである。だから、陰=存在があるのである。そう、陰=太一であるから、ここに、存在性がある。故に、ヴィデアは存在性をも帯びるのであり、いわば、存在的イメージである。単に映像ではなくて、存在的映像(追記:映像だと外界・客体的なので、心像とした方が内界・主体的映像に相応しいと考えられる。)。(今、D.H.ロレンスの小説の作品世界の映像を想起した。それは、単なる映像ではなく、存在感のある映像である。だから、存在的イメージと言えるように思う。)

追記2:音楽でもやはり、陰陽共振の音楽がほんとうの音楽であり、心に響くのではないだろうか。単に陽だけの音楽は軽いのであり、心には響かないと考えられる。
 陰陽共振、陰に基づく音楽は、本当の情感があり、美しいのである。以下のAmericaのYou Can Do MagicとAll My Lifeを聴かれたい。

AMERICA - YOU CAN DO MAGIC 1982 (Audio Enhanced)


All My Life - America

 
3)単極磁石と陰陽について比較検討したい。
単極磁石は、SとNの2種がある。まあ、物質と反物質みたいなものである。  これが真空中には充満
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11537378641.html

4)これは2の追記となるが、陰=太一の世界とは、闇黒世界であり、ダークマター(暗黒物質)とは、思うに、この世界の「物質」を暗示しているのではないか。しかし、陰=太一世界は、物質の世界ではなく、根源的な気の世界と考えられる。根源気がそこにあると考えられる。シュタイナーの霊学で言えば、エーテル体である。


2013年05月21日(Tue)▲ページの先頭へ
男性原理が女性原理を恐れる根拠について:陰が中心であり、陽は円周・周囲・周辺である(仮説)
テーマ:父権物質文明から新母権霊性-霊物文明へ

先に以下の参考の考察を提起した。
これは、これまでなかった視点である。単純に言えば、

「太一=陰=中心にして、陰陽円が形成され、陽は円周となる。」

ということである。
 根源、ベースは、太一=陰である。『老子』では、根源を玄牝(げんひん)と呼んでいる。(そう、谷神(こくしん)である。谷は内在性、潜在性、また、神は超越性を意味しよう。)
 玄牝=谷神とは、太一=陰=中心(=MP)に相当するように思えるのである。
 さて、この根源、暗い根源ダーク・ソースdark source(ダーク・マザー、暗い母とも言えよう。そう、黒い聖母、黒いアテナ女神を想起する)に対して、円周ないし球面に陽が存すると思う。しかし、中心と陽はいわば、分離しているのである。陽は自分が根無し草的であるのを感じよう。根源から切り離されているのである。
 そう、ニーチェの『悲劇の誕生』の言葉を借りれば、ディオニュソスが太一=陰=中心であり、それの投影として、アポロ=陽が存するのである。
 極論すれば、アポロ=陽は幻影である。
 とまれ、円周=陽の父権的自我は、中心=陰=母権を感じるがそれにコンプレックスを感じるのである。何故なら、それは、自分には失われた根源であるからである。自分は中心から浮標している存在であり、根源が喪失されているのである。
 円周=球面=陽=父権的自我は、中心=陰=母権を認識できず、それを排除したりして、自己同一性の世界を形成するのである。父権的合理=物質=現象主義の世界である。
 そう、太一=陰=中心=暗い根源=母権は、円周=球面=陽=父権自我にとり、超越的領域なのである。父権は、超越神を形成するが、根源を「父」、男性、父権にしてしまうのである。本来は陰=母権であるのにかかわらず。言い換えると、陽に拠る陰の簒奪があるのである。陰=母神を父権的超越神にメイクアップしてしまうのである。
 そう、陽が中心になったとき、二元的分裂が生じるのである。陽を天にし、陰を地にするのである。それは絶対的二元論であり、二項対立である。
 しかしながら、それは、陽の視点である。
 本来は太一=陰=中心=暗い根源=母神・母権から始めないといけないのである。そこでは、陰陽共振が形成されているのである。陰は陽をいわば、分有するのである。陰のいわば一部として、陽が形成されるのである。あくまで、陰が主体であり、陽は従者である。
 この陰陽「位階」が本来であり、陽中心の位階(陽主陰従の二項対立)は倒錯的なものである。
 今日の文明は父権文明であり、本来的に倒錯しているのであり、正統な母権文明の陰主陽従の陰陽共振の法を排除しているのである。
 身体的に言えば、陰文明とは、肚主体の文明である。今日の父権文明は頭主体の文明である。
 東洋文明は本来、陰文明であり、西洋文明は陽文明であるが、後者が世界を支配しているのである。しかしながら、今は、後者はその存在意義を喪失して今や反動的破壊主義になっているのである。
 そして、今日、今や新たな陰文明の黎明期となっているのである。
 とまれ、これで、

太一=陰=中心=暗い根源=母神・母権

自我=陽=円周=明るい表面=父神・父権

という図式の仮説が立てられよう。
 今はここで留める。

参考:

不連続的陰陽ヴィデア論:陰陽ヴィデアリズム:太一⇒陰陽分極(陰陽円)⇒陰陽共振⇒生命螺旋宇宙

2)太一(太極)は陰と通じている。陰に太一が存するように感じられる。この陰とは別に陽が分極化するということではないのか。
 陽が陰へと回帰するときが、現象化ではないだろうか。
 まだ、十分洞察できていない。
 太一が陰に内在する。陰を原点とすると、原点の周囲に陽が形成されるのだろうか。点というより、円を考えるべきか。
 陰が中心で、円が生じる。その円周が陽ということか。次のような生成図式を考えてみる。

 0(ゼロ):太一⇒@陰陽円(陰が中心点で、陽が円周?)⇒A陰陽共振⇒B生命螺旋現象

@が陰陽分極様態である。陰陽円が形成されている。その中心は陰であり、円周が陽ということである。陰陽分極であり、離反の力がはたらいていると考えられる。
 それから、牽引の力がはたらいて、陰陽が共振するようになる。そして、このとき、次元転換が生じると考えるのである。
 空間的に言えば、陰陽円の平面に直交する軸が生じるのである。それが、時間ー物質ー光の軸(一次元)ではないだろうか。
 そして、空間三次元であるが、それは、四元(しげん)数の三つの虚数i、j、kの軸によって形成されるということではないだろうか。この点は検討課題である。

追記:陰陽円と原子との関係に触れるべきである。また、陰陽円の中心とMP(メディア・ポイント)について考察すべきである。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11533748957.html

参照:
老子:道経:成象第六 - Web漢文大系
kanbun.info/shibu02/roushi06.html - キャッシュ
老子:道経:成象第六. 成象第六. 谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若
存、用之不勤。 谷神 ( こくしん ) は死なず。これを 玄牝 ( げんぴん ) と謂う。玄牝の門
、これを天地の 根 ( こん ) と謂う。 綿綿 ( めんめん ) として存するごとく、これを用いて ...

http://kanbun.info/shibu02/roushi06.html

参照2:
黒い聖母 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/黒い聖母 - キャッシュ - 類似ページ
黒い聖母 (くろいせいぼ) は、一般に黒い聖母マリア及び聖母子の画・像。 聖画・像が
ただ単に黒ずんだものもあるが、キリスト教信仰以前にオリエント一帯に広まっていた
大地母神信仰が吸収されたものともいわれる。 また、芥川龍之介の短編作品にも「黒衣 ...

Black Athena - Wikipedia, the free encyclopedia
en.wikipedia.org/wiki/Black_Athena - キャッシュ - 類似ページ
Black Athena: The Afroasiatic Roots of Classical Civilization is a controversial
three-volume scholarly work by Martin Bernal. He discusses Ancient Greece in a
new light. Bernal's thesis discusses the perception of ancient Greece in relation
to ...

『黒いアテナ』のすすめ 小田 実 - PR誌「機」 | 藤原書店
fujiwara-shoten.co.jp/main/ki/archives/2004/06/post_877.php - キャッシュ - 類似ページ
2004年6月1日 ... 西欧による古代ギリシア史の偽造を暴く問題作、遂に刊行! 『黒いアテナ』の鮮烈な
主張 昔はよく現代のギリシア人が「黒い」のは、金髪、白い肌、長身、長脚のギリシア
彫像の栄光の時代のあと、ギリシアの周囲の蛮族(英語のバーバリアン ...

古代の女神 「黒いアテナ」を読む - 猫と女神
www.nekomegami.com/2012ne/black_atena.html - キャッシュ
2012年7月25日 ... ギリシア文明がエジプト・フェニキア等アフロ・アジアから大きな影響を受けて発展した
ことを、文書的・言語学的・考古学的に示した『黒いアテナ』(全3巻)。近代の人種差別的
・過剰な科学主義的〈アーリア・モデル〉によって駆逐された考えを ...


2013年05月19日(Sun)▲ページの先頭へ
不連続的陰陽ヴィデア論:陰陽ヴィデアリズム:太一⇒陰陽分極(陰陽円)⇒陰陽共振⇒生命螺旋宇宙
不連続的陰陽ヴィデア論:陰陽ヴィデアリズム:太一⇒陰陽分極(陰陽円)⇒陰陽共振⇒生命螺旋宇宙

テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

今日は、森で、6時間半ほど過ごした。
 読書したり、森掃除したり、思索したりした。
森のグリーン・コスモスという感じである。森の緑の宇宙である。
 さて、いろいろ思索したが、疲れているので、簡単に記すに留める。
 
1)イデアであるが、それは、想像的映像でもあるので、イデア+ヴィデオ=ヴィデアと呼ぶのがいいだろう。プラトンはエイドス(映像的類型)とも呼んでいた。
 だから、不連続的陰陽イデア論は、不連続的陰陽ヴィデア論となる。イデア論がヴィデア論である。

2)太一(太極)は陰と通じている。陰に太一が存するように感じられる。この陰とは別に陽が分極化するということではないのか。
 陽が陰へと回帰するときが、現象化ではないだろうか。
 まだ、十分洞察できていない。
 太一が陰に内在する。陰を原点とすると、原点の周囲に陽が形成されるのだろうか。点というより、円を考えるべきか。
 陰が中心で、円が生じる。その円周が陽ということか。次のような生成図式を考えてみる。

 0(ゼロ):太一⇒@陰陽円(陰が中心点で、陽が円周?)⇒A陰陽共振⇒B生命螺旋現象

@が陰陽分極様態である。陰陽円が形成されている。その中心は陰であり、円周が陽ということである。陰陽分極であり、離反の力がはたらいていると考えられる。
 それから、牽引の力がはたらいて、陰陽が共振するようになる。そして、このとき、次元転換が生じると考えるのである。
 空間的に言えば、陰陽円の平面に直交する軸が生じるのである。それが、時間ー物質ー光の軸(一次元)ではないだろうか。
 そして、空間三次元であるが、それは、四元(しげん)数の三つの虚数i、j、kの軸によって形成されるということではないだろうか。この点は検討課題である。

3)哲学と数学との関係について:
 私は数学はずぶの素人であるから、数学主導で理論化することは、問題外であるが、主体力学から理論を導くのであるから、数学主導ではなく、哲学主導、な いし、哲学的科学主導で考察するのが本来だと思われる。数学主導にすると、哲学的考察が後回しにされて、数学の形式に引きずられてしまうと考えられる。先 ず、哲学的考察(ヴィデア的考察)を行い、それに数学を適用するのが的確だと思われるのである。

今は以上で留める。





主体全体学へ向けて:主体主客体従の全体哲学

2013.05.17 Friday | category:全体学:主体全体学:ホロロジー

テーマ:全体学(ホロロジー): holology
昨日から述べようと思っているが、仕事で忙しく、残念ながら書けない。
 今日の認識の問題は、勿論、存在とも関係するが、結局、主体が知性中心となり、身体存在性、身体感性、身体気性等がまったく欠落していることだと思う。
 知性中心と言ったが、正確には、自我中心である。あるいは、利己主義である。それは、頭部中心ということであり、身体の胸や肚の感性的意識が欠落しているということである。
 結局、主体における頭部が支配的で、胸部の意識、腹部の意識が欠落しているということである。
 主体世界を頭脳領域で支配させていて、胸部領域、腹部領域、その他身体領域を無視しているのである。
 頭脳中心とは主体における客体志向が支配的となるということであり、主体の深層基底部が等閑にされる、排除されるということである。
 主体世界が頭脳中心に傾斜歪曲化されていて、客体世界もその偏向によって形成されているということである。
 主体世界の質的変容が必要である。主体的錬金術である。後で、詳述したい。


参考:
全体学ホロロジー:主体学(主体同一性学と主体差異学):科学(サイエンス)は全体学の一部に過ぎない

テーマ:全体学(ホロロジー): holology

今日は比較的穏やかな暖かな、初夏のような日であり、森で4時間半ほど過ごした。
 最近見つけた、森の側面にある、向かいが畑の空き地で折畳みチェアーを置いて、最初2時間半読書し、その後、森気浴散策をした。
 森の緑のエキスに浸るような感じの読書である。浄福を感じる時であった。今は蚊が出ない、森で過ごす絶好の時である。
 とまれ、最初、最近考えていたことの一つの解答が出たので、それを記そう。
 即ち、端的に、「何故、森を見た瞬間に和らいだ気持ちになるのか。それは、緑の葉や樹木に気があるからなのか。それとも、それらを介して、気を感じるからなのか。」という問題である。
 結局、自然物には、内在超越次元があり、そこには、陰陽渦円があり、それが気を発出しているのであり、そのために、自然物に気を感じるのである。端的に、客体的に気が発せられているということである。
 しかし、思うに、それだけではないだろうか。葉の形、葉の緑の色、樹木の形状等を視覚したとき、主体の内面に陰陽共振が生起して、内的気が発生すると思われるのである。(この点は要検討。)
 つまり、森に面したとき、客体的、主体的に、気を感じるということになるのである。
 さて、今日はさらに、主体学について考え、更に、統一学について考えた。
 科学(サイエンス)とは、物質学である。だから、それは、自然科学には当てはまるとしても、社会科学、人文科学とすると、問題が生じる。(確かに、経済学は物質学として、捉えられる面が多いが、それだけではない。)
 科学は物質学であるから、統一学の用語として、科学を用いることはできない。また、哲学という用語であるが、本来は全体学であるが、今や、そのような意味合いがほとんど感じられないので、哲学という用語も使用できない。
 そこで、全体学という用語を使うことにする。これは、主体学と客体学に分かれるが、客体学とは、主体学の一部と見るのである。主体学において、客体学が成立するのである。これは、カント哲学的である。図式化すると、

                          
          /主体同一性学ー客体学ー客体物質学(科学)
全体学ー主体学               
          \主体差異学ー主体現象学ー感覚、知情意


今はざっと、暫定的、作業仮説的に記すのだが、今日の科学(サイエンス)は、全体学の主体学の主体同一性学(主体物質学)に属するのであり、全体学の一部に過ぎない。
 後、主体差異学であるが、これは、ほぼ哲学である。ただし、主体差異とは、陰陽的理念(イデア)、陰陽的観念・概念を意味するのである。だから、ここでは、陰陽論とプラトン哲学の結合が見られるのである。もっとも、私の不連続的陰陽論を適用しているのであるが。
 とまれ、以上から、今日、科学(サイエンス)と言われるものが、全体学の一部に過ぎないことがよくわかるだろう。
 だから、科学を支配的にしている今日の学理、学知のあり方は当然、間違っているのである。錯誤・倒錯的なのである。
 なお、生命を以上の図式に入れる必要がある。それは、主体同一性学と主体差異学の中間領域になると思われる。だから、主体生命学を中間に入れるべきかもしれない。すると、以下のような図式になる。
 

              
          /主体同一性学ー客体学ー客体物質学(科学)
        /
全体学ー主体学ー主体生命学  
        \           
          \主体差異学ー主体現象学ー感覚、知情意



そう、全体学は、ホロロジーholologyである。
 今は、簡単な指摘に留める。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11525440009.html






体調が悪かったが、断酒したらとても元気になり、また一日二食と結びつき、減量した

2013.05.15 Wednesday | category:日記

テーマ:健康&治癒:森気浴:医食同源:一日二食

もう眠いので、寝るが、繰り返しになるが、一言言うと、昨年は体調がたいへん悪く、不定愁訴ではないかといぶかったりしたり、あるいは、被曝が原因ではないかと思ったりした。
 結局、12月、酒が飲めなくなり、断酒したが、その後、びっくりするほど元気になった。だるく元気のでなかった状態が嘘のように元気になった。
 そして、豆乳ヨーグルトも、朝晩、食するようにしているし、そう、なんと言っても、森での散策することをできるだけ日課にして、結局、鏡に映すと、驚くほど、細くなった。しかし、まだ、皮膚の側が、厚いので、さらに痩せようと思う。
 意志が弱く、身体に支配されていると強く感じる。私の体質は、依存症になる方で、酒は危険物なのである。
 でも、去年の12月から今日まで、パーティーで3回飲んだだけである。
 とまれ、主観では、酒は私にとってよくない。肝臓を傷め、元気がなくなる。太る。酔う時間が長くなる。脳神経が麻痺してくる感じ。また、お金がかかる。
 そう、ほぼベジタリアンである。もっとも消極的それであるが。

追記:明らかに元気が出た証拠は、自転車で、ある上りの坂道を苦しむことなく上れるようになったことである。
 以前は、息を切らしたり、あるいは、一気に上れず、自転車から降りたりしたものである。
 身体が軽くなった感じなのである。別人のようである。

追記2:大事なこと、身体哲学的なポイントを言うのを忘れていた。
 それは、快の変換、質的変換・変容・転換のことである。酒を飲んで、酔って、快を得る。しかし、これは、習慣、習癖、依存症になると、当然、身心を悪くするのである。常習性があるので、悪癖となるのである。
 そこで、酔いの快を自然健康的な快へと転換すべきなのである。
 私は体調の悪さ、不快さから、以上のように変換したのであるが、そこにあるのは、新しい自然に即した快である。
 これは身心の美も伴い、すぐれたものである。
 思うに、プラトンの真善美イデアであるが、それに近づくと思われるのである。そう、真善美のイデアであるが、そこには、快が欠けているようである。もっとも、美の中に入れることはできなくもないが。とまれ、快美、美快というものがある。
 これから、酒の酔いは逸脱すると言えよう。快ではあるが、不美的である。


2013年05月13日(Mon)▲ページの先頭へ
ポスト父権的日本へ向けて:新母権的日本の誕生へ:日本人と個:集団的父権主義と個的母権主義
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私が見るところ、現代日本人は、個を排除している。そして、集団原理における自我原理で生きているように見える。
 とまれ、個について、もう一度考えてみたい。
直観で言うと、やはり、個は、個の原理は、肚、陰、陰イデアに存するのである。
 「わたし」の基盤、基底、ベースは肚、陰、陰イデアにあると直感するのである。
 そして、「わたし」が感じる苦しみもそこに存するように思うのである。(喜び、嬉しさもそこだろうか。それは、胸のような気がするが。)
 そう、私は今日も森を散策したが(まるで、低山の尾根道を歩いているみたいだ。ただし、眺望のない。)、森と私は共振している。森は陰である。陰で森と共振するのである。
 もっとも、視覚(陽)は森の姿を捉えているのであり、陰と陽の共振があるのである。森の陰陽共振と私の陰が共振している(私の主体における森の陰陽共振と私の陰陽共振の共振である。共振の共振である。)ということだと思う。
 とまれ、私にとり、森は陰である。それは、イデア的生命である。
 そして、この陰に私の個もあるのである。私と森は陰=個的に連結していると言えよう。
 しかしながら、現代日本人を見ると、陰が欠如しているように見えるのである。
 「わたし」という自我=陽(正しくは、超陽)は、ベースに肚=陰をもっているのである。ここに、「わたし」の個の原点がある。それは、陰陽共振である。ここで、植物的生命(グリーン・イデア・エロース)と調鳴するのである。つまり、陰は、陰陽共振、陰陽イデア、気イデアを指しているのである。言い換えると、気イデア界を指している。というか、気イデア界の分有がそこにあるのである。つまり、気イデア界に陰において、「わたし」は個として、帰属しているのである。
 気イデア界とは、「わたし」の個の本体・本質である。つまり、「わたし」の根源である。
 だから、私が現代日本人に陰が欠落していると見るとき、それは、現代日本人が本体・本質を喪失しているということと同じことになる。
 これは、どういうことなのか。明らかに、個の本体・本質・原基を排除して生きているのである。つまり、本当には生きていないのである。皮相に、物質的に生きているに過ぎないのである。魂が抜けているのである。
 これは、不連続的差異陰陽論から見ると、同一性主義=自我(超陽)によって、陰=他者を排除・隠蔽していることを意味するのである。
 有り体に言えば、他者自体を知りたくないのである。自我、それも集団社会的自我でありたいからである。
 実に軽薄な、皮相な、また、後退した生き方である。サブ・ヒューマンである。
 この同一性主義を肯定するためのなんらかの基準があると考えられる。
 当然、集団的鏡像である。それが、価値判断の基準となっているのである。
 そう、その集団的鏡像の基準であるが、それは、近代的科学・技術と資本主義の物質主義をベースにもっていると考えられる。そう、唯物論である。正しくは、唯物教、唯物崇拝であるが。
 つまり、唯物的集団的自我が現代日本人の主体の基調である。
 問題は集団主義である。この根源は何か。
 集団主義とは自他未分化様態を意味するだろう。
 では、自他未分化とはどういう力学をもつのだろうか。
 ここでこれまでの考えを言うと、集団主義は弥生農耕文化社会の産物であったので、一種の母権主義であると考えていたのである。
 しかし、今、ふと、自他未分化とは、父権主義に拠るのではないのかと思えたのである。
 母権主義は、陰をベースにするので、陰陽共振があるので、自他は未分化ではない。
 ならば、弥生農耕文化の母権的集団主義は、自他未分化ではないということになる。
 だから、私の視点を訂正する必要がある。集団主義は必ずしも自他未分化ではない。自他未分化の集団主義と自他分化の集団主義があるということになる。
 ということで、問題は、唯物的自他未分化的集団的自我の問題となる。そして、自他未分化的集団主義は父権主義と考えられるのである。
 故に、唯物的父権的集団的自我が現代日本人の主体ということになる。
 だから、父権的集団的鏡像が価値判断基準ということになる。
 端的に言えば、父権主義的鏡像である。つまり、父権的価値ということである。父権的イデオロギーである。
 強固な父権主義があるということになる。
 結局、現代日本人に陰が欠落しているということは、とりもなおさず、父権中心主義が支配しているということになるのである。そう、今日、若者を見ると一見、女性がイニシアティブ、主導力をもっているように見えるが、実は、女性が父権主義を模倣しているということだろう。倒錯なのである。決して、母権主義ではないのである。
 結局、現代日本人が個を排除しているということは、父権主義が支配していることが原因ということになったのである。
 自我(超陽)は、陰、陰陽共振、気的イデア界、根源界、母権原理を恐れるということなのである。
 結局、私の持論をまた証明することになった。つまり、近代日本は、父権的民族の日本人が作ったのであり、母権的民族の日本人は抑圧・排除されていることになるのである。
 日本人は本来は後者である。父権的民族の日本人は、本来的ではないのである。それは、外来種である。しかしながら、それは、一つの要素である。
 現代日本の超危機は日本民族本来の母権的民族が排除、隠蔽されているということである。
 そう、この父権的民族支配は、実は、某国による日本の植民地支配によって強化されていると言えよう。
 日本内部の父権主義と外部の父権主義が結合して、日本本来の母権民族性を抑圧・排除・隠蔽しているのである。
 ここに亡国の超危機があるということになるのである。
 後で整理したい。


2013年05月07日(Tue)▲ページの先頭へ
仮説:森の緑の葉、樹木の像には、陰陽共振(気界)が背後・背景(内在超越的次元)に存する
テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

葉の形、葉の緑の色、樹木の形状等を視覚したとき、主体の内面に陰陽共振が生起して、内的気が発生すると思われるのである。
全体学ホロロジー:主体学(主体同一性学と主体差異学):科学(サイエンス)は全体学の一部に過ぎない
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11525440009.html

先に以上のように述べたが、果たしてそうなのかかどうか検討したい。
 この問題はそれ以前に言及した事柄である。音楽の場合、聴いたとき、陰陽共振自体を感覚するので、音楽の気を感じるというようなことを言った。
 視覚の場合が難しいのである。しかし、音楽の場合と基本的には同じではないだろうか。音楽の場合、曲を聴いたとき、主体内部において、陰陽共振が起る(もっともいい音楽の場合であるが)。主体内部の陰と陽とが共振して、気を発生させるのである。
 視覚の場合、例えば、森の場合、映像は陽として捉えられるが、同時に、陰において、一体的に捉えられる。
 つまり、(美的な)映像においても、陰陽共振が背後・背景に作用しているのであり、それが直観・直覚されるということではないのか。
 音楽の場合は、音の陰陽共振であり、視覚の場合は光の陰陽共振ということになる。
 そうならば、音は陰音と陽音があり、光は陰光と陽光がある。そして、一般には、陰音や陰光は不可聴、不可視ということではないだろうか。
 言い換えると、生命ないし美的現象明在界は、背後・背景に、つまり、内在超越次元的に、陰陽共振暗在界をもつということになろう。
 今はここで留める。

追記:気であるが、気命と呼ぶ方いいのでは。生命も気命ということになる。気界が気命界になる。

追記2:感覚的次元とは結局、陰陽共振次元の同一性・明在的現象であり、例えば、自然の感覚的受容とは、自然の陰陽共振を暗在する同一性現象の受容ではないのか。
 つまり、自然の感覚受容とは、自然の本質である陰陽共振(気)の暗在(内在超越的本体)を受容していることではないのか。自然とは気の本体を暗在とした現象であり、人間の陰陽共振を本性とする感覚(視覚)は、自然を対象としたとき、その自然対象の暗在である陰陽共振=気を直観・直覚・受容しているということではないか。
 わかりやすく言えば、自然は陰陽共振=気が本体であり、それが、可視の現象と発現しているのであるが、同時に、暗在として、自然は存在しているのであり、人間の感覚(視覚)は、その陰陽共振=気的感受性によって、自然の本質である陰陽共振=気を感受するということではないか。プラトン哲学的に言えば、現象のイデア=エイドスを触視(ドゥルーズの用語)・感触するということである。(もっとも、直観・直覚されることもあるが、それは、希有な体験ではないだろうか。)
 今はここで留める。


2013年05月06日(Mon)▲ページの先頭へ
全体学ホロロジー:主体学(主体同一性学と主体差異学):科学(サイエンス)は全体学の一部に過ぎない
図式は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11525440009.html

テーマ:全体学:ホロコスミクスと不連続的陰陽論

今日は比較的穏やかな暖かな、初夏のような日であり、森で4時間半ほど過ごした。
 最近見つけた、森の側面にある、向かいが畑の空き地で折畳みチェアーを置いて、最初2時間半読書し、その後、森気浴散策をした。
 森の緑のエキスに浸るような感じの読書である。浄福を感じる時であった。今は蚊が出ない、森で過ごす絶好の時である。
 とまれ、最初、最近考えていたことの一つの解答が出たので、それを記そう。
 即ち、端的に、「何故、森を見た瞬間に和らいだ気持ちになるのか。それは、緑の葉や樹木に気があるからなのか。それとも、それらを介して、気を感じるからなのか。」という問題である。
 結局、自然物には、内在超越次元があり、そこには、陰陽渦円があり、それが気を発出しているのであり、そのために、自然物に気を感じるのである。端的に、客体的に気が発せられているということである。
 しかし、思うに、それだけではないだろうか。葉の形、葉の緑の色、樹木の形状等を視覚したとき、主体の内面に陰陽共振が生起して、内的気が発生すると思われるのである。(この点は要検討。)
 つまり、森に面したとき、客体的、主体的に、気を感じるということになるのである。
 さて、今日はさらに、主体学について考え、更に、統一学について考えた。
 科学(サイエンス)とは、物質学である。だから、それは、自然科学には当てはまるとしても、社会科学、人文科学とすると、問題が生じる。(確かに、経済学は物質学として、捉えられる面が多いが、それだけではない。)
 科学は物質学であるから、統一学の用語として、科学を用いることはできない。また、哲学という用語であるが、本来は全体学であるが、今や、そのような意味合いがほとんど感じられないので、哲学という用語も使用できない。
 そこで、全体学という用語を使うことにする。これは、主体学と客体学に分かれるが、客体学とは、主体学の一部と見るのである。主体学において、客体学が成立するのである。これは、カント哲学的である。図式化すると、

                          
          /主体同一性学ー客体学ー客体物質学(科学)
全体学ー主体学               
          \主体差異学ー主体現象学ー感覚、知情意


今はざっと、暫定的、作業仮説的に記すのだが、今日の科学(サイエンス)は、全体学の主体学の主体同一性学(主体物質学)に属するのであり、全体学の一部に過ぎない。
 後、主体差異学であるが、これは、ほぼ哲学である。ただし、主体差異とは、陰陽的理念(イデア)、陰陽的観念・概念を意味するのである。だから、ここでは、陰陽論とプラトン哲学の結合が見られるのである。もっとも、私の不連続的陰陽論を適用しているのであるが。
 とまれ、以上から、今日、科学(サイエンス)と言われるものが、全体学の一部に過ぎないことがよくわかるだろう。
 だから、科学を支配的にしている今日の学理、学知のあり方は当然、間違っているのである。錯誤・倒錯的なのである。
 なお、生命を以上の図式に入れる必要がある。それは、主体同一性学と主体差異学の中間領域になると思われる。だから、主体生命学を中間に入れるべきかもしれない。すると、以下のような図式になる。
 

              
          /主体同一性学ー客体学ー客体物質学(科学)
        /
全体学ー主体学ー主体生命学  
        \           
          \主体差異学ー主体現象学ー感覚、知情意



そう、全体学は、ホロロジーholologyである。
 今は、簡単な指摘に留める。


2013年05月03日(Fri)▲ページの先頭へ
自我=超陽原理から太一的個原理への進化:仁命道と父権的精神:道徳心の喪失の力学的歴史
森気浴散策を行なった後で、思考したいが、一言言うと、義は、本来、陰の世界にあるのである。陰主導陰陽共振(暗黒宇宙・暗黒太陽)に存するのである。それは、母権的精神である。ダーク・ゴッド(暗黒神)である。
 しかし、人類史において、今から1万年足らず前の時に(六千年前?)、父権的精神が誕生した。それは、陽中心主義である。あるいは、超陽主義である。自我の誕生であり、同時に、物質への傾斜が起ったのである。
 超陽主義・自我主義は、陰主導陰陽共振(母権原理、女性原理)を恐れるのであり、それを抑圧するのである。
 「知性」、「理性」、「道徳」等は、父権的で、そのような母権原理の抑圧を意味合いがある。
 そして、西洋文明において、この父権原理が極大化し、母権原理(暗黒精神)が失われる。母権原理とは、生命原理であり、気の原理である。
 超陽原理(父権原理)は、陰陽共振原理から超越しているのであり、それを憎悪するのである。
 それは、太一界(超イデア界)の、いわば、鬼子であり、おそらく、太一界となんらかの関係をもっているのかもしれない。否、切り離された特殊のもののようにも感じられる。
 しかし、宇宙天下の大道は、陰陽共振生命原理に存するのである。
 とまれ、今日の人類世界の超危機は、父権原理に存し、その克服は、陰陽共振原理を回復することに存すると考えられる。
 ところで、悪者にしている自我原理=超陽原理であるが、それ自体を否定しているのではなく、その原理の支配・破壊性を批判しているのである。
 それは、同一性主義原理であり、他者=陰を否定してしまうのである。
 しかしながら、不連続的陰陽(イデア)原理(また、改名したが)によって、自我原理=超陽原理の同一性主義を乗り越えることができるのであり、他者=陰を肯定して、陰陽共振精神を復活させることができるのである。
 では、このとき、自我原理=超陽原理はどうなるのか。それは、陰陽共振原理、他者原理、気的身体理性と結びついた、いわば、大理性原理になるのではないだろうか。あるいは、太一的個原理(太一個原理)である。後者の方の命名がいいように思えるが。
 今はここで留める。

追記:光と闇のメタファー(隠喩)であるが、宗教等の光であるが、それは、基本的には、父権原理に拠ると考えられる。つまり、父権原理が光のメタファーを主導的にしている。
 光は端的に陽原理に拠るのである。陽の光に対し、陰の闇があるのであるが、問題は、陰の闇と陽の光の対照となる闇の問題である。闇という言葉が共通になっている。
 混乱を避けるには、陰の闇という言い方を止めるべきではないだろうか。それは、光に対する闇ではないからである。
 あえて、強いて、言えば、陰光である。陽光に対する陰光である。
 だから、暗黒宇宙、暗黒太陽、暗黒神ではなく、陰光宇宙、陰光太陽、陰光神と言うべきかもしれない。
 しかし、陰主導(陰光主導)の陰陽共振界を指しているのであるから、陰陽共振光のようなものを考えなくてはならないだろう。
 陽原理の反射を光とするなら、陰原理の共振を陰光とすることは可能ではないだろうか。(今、ふと重力を思ったのであるが。陰光=重力?)
 作業仮説的に、陰光としておこう。

追記2:旧約聖書「創世記」の「光あれ」であるが、それは、陽の自己反射による陽光と考えられる。不連続的陰陽イデア原理に拠れば、陰主導陰陽共振における陽化が生命物質現象を意味するのであり、陽化は光をもたらすのであるから、「光あれ」は、生命物質現象を意味していると考えられる。
 しかしながら、そのとき、背後というか基礎・基盤・基体に存する陰主導陰陽共振=陰陽渦円は言及されていないのである。
 つまり、上記の考察に拠れば、陰光が言及されていないことになるのである。「光あれ」の「光」は陽光だからである。
 結局、「光」があれば、同時に、陰光があるのである。そして、おそらく、陰光の方がベースである。つまり、大陰光、太陰光である。その陽化として、「光」=陽光が生成すると考えられるのである。
 D.H.ロレンスがダークネス、ダークサン、ダークゴッドと呼んだものは、この大陰光、太陰光であると考えられよう。
 思うに、宗教等のメタファーの光であるが、それは、おそらく、大陰光=太陰光のメタファーとしての光である。陽光としての光ではないと考えられる。
 だから、例えば、マニ教の光であるが、それは大陰光=太陰光のことであるし、アフラマズダもそうだろうし、シュタイナーの説く太陽神=太陽霊もこれだろう。キリストもこれである。因みに、ヤハウェとは、大陰光=太陰光の陽化が極大化されたものではないだろうか。(補記:古代ローマ帝国において、キリスト教と競合したミトラ教・ミトラス教の太陽神ミトラ・ミトラスもこれであると言えよう。ただし、キリストとミトラとの違いを確認すべきである。この違いは明快だと思う。イエス・キリストは、陰光太陽・大陰光・太陰光を「神懸かり」していたと思う。教父はロゴスの受肉と呼んだが、ロゴスは混乱させよう。しかし、ロゴスは言葉ではなく、陰主導陰陽共振と見ればいいのである。そう、前ソクラテス期哲学のロゴス【例えば、ヘラクレイトス】もそうみるべきである。またヌースもそのように見るべきはないだろうか。)
 
追記3:D.H.ロレンスの三位一体論(王冠論)であるが、ロレンスにおいて、父=陰、子=陽、聖霊=陰陽共振・太一となっていると思う。
 本来、父=陽、子=陰だと思うが、それが、転倒していると思う。これは、不連続的差異論以前の連続論の段階の、一種倒錯した事態ではないだろうか。これについては、さらに検討したい。

追記4:先に述べたが、日本人が太陽を赤く塗るのは、陰光太陽を直観しているからだと考えられる。陰光太陽とは正に、生命の根源であるのであり、先に述べたブラッド・サン(血の太陽)である。だから、天照大神も陰光太陽、大陰光=太陰光と見なくてはならない。
 思うに、陰光太陽=大陰光=太陰光は「実在」であるから、もはや、信じる云々の問題ではなく、感じる、直観する、直覚するという次元の問題である。つまり、ポスト宗教=ポスト信仰の時代である。

追記5:以上のように考えてきて、「霊(スピリット)」とは何かが合理的に判明してきたと言えよう。霊は陰主導陰陽共振、陰光、大陰光=太陰光である。陰陽共振の諸様態が諸霊であろう。それは、実在するのである。
 死者の霊であるが、それは、やはり、陰陽共振界・気界・イデア界に存するのではないだろうか。

追記6:自我は超陽であると言ったが、そうすると、他者は超陰になるように思える。これはもはや陰陽次元だけでは形成できないものと考えられる。
 つまり、陰陽を統括する次元を考える必要があるのである。それは、太一界であるが、なにか、超陰陽円のようなものが考えられるように思う。それが、陽を超陽、陰を超陰に変換するように思えるのである。

追記7:追記6のように考えると、本来の霊とは、超陰陽円の次元に存するように思える。陰陽円は生命イデアの次元のように思えるのである。人間の精神の次元はそれより上位=高位の次元に存するように思えるのである。


2013年05月01日(Wed)▲ページの先頭へ
エウレカ!:日本そして地球世界の超危機の本質:仁・倫・道命美日本・世界・宇宙革命進化へ
テーマ:仁・倫・道命美日本世界宇宙革命進化

D.H.ロレンスの『ヨーロッパ史の大変動』を読んでいるが、たいへん面白い。というか、精神が激しく刺激される名著である。
 とまれ、ローマ帝国やヨーロッパ初期におけるキリスト教の歴史は実に刺激的である。政治が腐敗し、道徳・希望をもっていたのは、キリスト教だけであったということは、それなりに知っていたつもりであるが、改めて確認して、刺激を受けた。
 そう、キリスト教が勃興した理由は、道徳の問題なのである。
これは正に、今日の日本の問題に当てはまると感じた。キリスト教云々ではなく、道徳の有無の問題である。
 今日、日本の超危機の原因は、道徳・倫理の欠落にあるとはっきりと見えたのである。目から鱗が落ちるように明確に見えたのである。
 私の個人的、社会的周囲の問題も、それであることがわかったのである。悟ったのである。
 日本の政治、経済、司法等の腐敗の原因は道徳心の欠落にあるのである。結局、我欲我執で、倫理を捨て去っているのである。言い換えると、悪魔に魅入られているのである。
 そう、日本社会全体において、道徳・倫理・人道の欠落・欠如・欠損が見られると思う。
 悪魔が取り憑いているのである。そう、私自身の悩みも理由がわかった。私自身における倫理・道徳・人道の欠落があり、それを悟らせるために、苦悩してきたと思えるのである。エウレカ!である。
 そして、引いて言えば、地球世界の超危機の本質も同じである。これは、悪魔的金融資本主義に拠るのである。経済システムがエゴイズム・悪魔主義なので、必然的に人間も無道徳・無軌道になるのである。無道・無法・無徳の世界である。
 エゴイズム資本経済から、共同体資本経済へと進化する必要がある。
 そのためには、先ず、物質主義科学・哲学を乗り越える必要がある。そのために、不連続的陰陽論は役に立つのである。
 これまで、陽=自我としてきたが、実はこれは近似値的である。本当は、自我は超陽である。超陽としての自我があり、それが、陰である他者を排除するのである。超陽とは悪魔(アーリマン)である。
 ポスト唯物論であり、陰陽論のルネサンスが必要である。それもプラトン哲学と結びついた陰陽論であり、また、不連続的差異論をベースにした陰陽論である。つまり、

不連続的陰陽イデア論=不連続的差異論+陰陽論+プラトン哲学
 
である。
 この認識革命をともなって、経済革命も為されなくてはならない。簡単に言えば、陰陽論経済というものが考えられるのである。それは、共同体資本経済である。自然の枠組みにおける資本と労働の共振経済である。
 今はざっと指摘するに留める。

追記:現代日本人の表情や姿が空ろであったり、醜いのは、道徳心が抜けているからである。仁美、倫美、道美が欠落しているのである。
 集団主義が個の自立を阻害しているのである。自我はあるが、個がないのである。
 私が今、感じていることを一言言えば、果たして、近代において、どれほど、日本における独創的な文化があるのか。
 愚痴になるので、これ以上言わない。
 結局、どうして、日本人は倫理・道徳を喪失したのか。これは私自身を含めて問うことである。
 思い浮かぶのは、科学・技術と結びついた資本主義の物質主義に染まってしまい、自我中心主義になって、仁美を喪失したと思うのである。道徳・倫理は躓きの石である。私は大いに躓いた。誰が躓かないだろうか。
 そう、倫理・道徳において、イエス・キリストは生きているのである。キリスト教は仁美・倫美・道美教である。

追記2:仁美、倫美、道美もいいが、仁命、倫命、道命の方が的確だろう。あるいは、仁命美、倫命美、道命美である。

追記3:自我は超陽であると言ったが、視覚主義、視覚中心主義も一種、超陽であろう。あるいは、自我よりも、強く超陽かもしれない。これについて少し考察してみよう。
 視覚はほとんど自我と結びついていると言っていいだろう。光の問題であり、光は陽が陰に自己反射したものであり、それは、同一性の枠をもっているのである。つまり、陰自体は知覚できないのである。そして、自我は超陽であるから、陽の光を誇張する傾向にあると思われる。つまり、反射鏡である陰を離脱して、陽の光を独り歩きさせてしまう傾向が出てくると思われるのである。言い換えると、根源の陰陽共振を阻害して、超陽としての光の帝国が生じるように思えるのである。
 そう、正に、光の帝国主義である。陰である他者が排除され、道徳・倫理が喪失されるのである。
 自我=超陽の光の支配に拠る、根源・本質を喪失した、無道・無軌道・無徳の世界の出現である。端的に、人間は悪魔(アーリマン)化するのである。
 とまれ、視覚主義の悪魔主義を矯正するには、やはり、陰=肚への回帰が必須である。
 陰陽イデア体(頭・胸・肚の三位一体)としての主体を形成する必要があるのである。


参考:
D. H. ロレンスの『欧州史における動き』のエピローグは現代日本人へ ...
http://d.hatena.ne.jp/antares/20110926

2011年9月26日 ... 以下、Google BooksからD. H. ロレンスの学校テキスト用の欧州の歴史の一部を読む
ことができる。実に洞察力に満ちた、 ... D.H.ロレンスのヨーロッパ史のうねり D.H.
ロレンス、D.H. Lawrence、 増口 充 (単行本 - 2000/3). 新品 : ¥ 5,040 ...

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不連続的陰陽論7次元世界:太一1次元+陰陽渦円2次元+時空4次元:陰陽共振気と螺旋的生命物質体
不連続的陰陽論7次元世界:太一1次元+陰陽渦円2次元+時空4次元:陰陽共振気と螺旋的生命物質体

テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

後で詳述したいが、森の樹木を見て、螺旋を考えたが、それは、陽主導陰陽共振体である。しかし、不可視の世界には、陰主導陰陽共振体がある。それが陰陽円であるが、暗黒渦巻を形成しているので、陰陽渦円と呼ぶのが妥当だろう。
 そして、陰陽渦円と陰陽螺旋現象を即非様態と考えられる。パラレルである。可視の螺旋形態は同時に、不可視の陰陽渦円をもっていると考えられる。それは、内在的超越的次元に存すると考えられる。
 陰陽軸を考え、その中心を太一点(太極)とする。陰陽軸に直交する軸が考えられる。それをとりあえず、渦軸とする。陰陽軸と渦軸の平面に陰陽渦円が置かれることになる。しかし、この円盤は、不可視であり、内在的超越的次元(略して、内超次元)にあると考えられる。
 とまれ、内超次元の陰陽渦円と時空4次元における空間2次元は区別されなくてならない。
 前者は暗黒円であり、後者は現象平面である。
 気と言う場合、それは、前者の暗黒円、即ち、陰陽渦円に存していると思われる。現象螺旋を形成するのは、物質エネルギーであり、それは、気エネルギーではないだろう。つまり、気エネルギーが物質エネルギーに変換して、現象螺旋が形成されていると考えられる。しかしながら、気エネルギーすべてが物質エネルギーになるということではないと思う。
 陽主導の同一化によって気エネルギーが物質エネルギーになるが、陰主導の場合、気エネルギーはそのまま存していると考えられる。
 どうも、直観概念像(観念像)があいまいである。整理する必要がある。
 陰陽共振であるが、陽主導陰陽共振があり、それが、螺旋生命物質現象を形成し、陰主導陰陽共振があり、それは、不可視の渦巻、暗黒渦巻を形成する。
 だから、現象化とは、陽主導によるもの、簡単に言えば、陽化である。それに対して、暗黒渦巻化は陰化である。
 結局、陰陽力学は、二つの世界を同時創造するのである。
 しかし、陽化と陰化は非対称であると思う。陽化は実は、陰陽共振ではなく、陰陽同一性化である。あえて言えば、陰陽物質化である。
 本当の共振は、陰化にあると思われる。
 だから、陰陽共振の渦巻、渦円を螺旋にするのは、陽化である。
 このところは実に微妙である。陰陽渦巻、陰陽渦円を螺旋にすると言ったが、螺旋においては、陰陽渦巻のもつ陰陽共振はもうないのである。そこには、プラスとマイナスの力学が働いていると考えられるからである。つまり、物質現象がそこには存するということである。
 簡単に言うと、陰陽共振=陰陽渦巻(渦円)があり、陽化=同一性・物質化によって、螺旋体・螺旋生命物質体が形成される。
 前者は内超2次元に存し、後者は時空4次元(空間3次元)に存する。
 さて、問題の気であるが、それはどこに存するのか。
 内超2次元の陰陽共振=陰陽渦巻(渦円)には、当然、存すると考えられる。では、螺旋体・螺旋生命物質体に存するのか。
 螺旋体・螺旋生命物質体は物質界に存するのであり、物質界には、気は存しないと思う。
 あくまで、内超2次元に気は存すると思う。
 では、樹木や森の空気に気を感じるとはどういうことなのか。
 それは、樹木や森の空気には、気の根源である陰陽共振=陰陽渦巻(渦円)が内超(内在超越)しているので、主体の陰的感性を介して、気を感じるということではないだろうか。
 不可視の内超界=気界があるのであり、それを、樹木や森の空気を通して、感じるということではないだろうか。
 今はざっと言うが、MP(陰陽共振点)が樹木や森の空気があり、それを介して、陰陽共振=陰陽渦巻(渦円)を直感すると思われるのである。
 MP(メディア・ポイント=陰陽共振点)は、生命物質体のなんらかの中心に存するのであり、そこで気が発生していると考えられるのである。
 最後の問題は再検討したい。

追記:直観(暗黒心像)では、陰陽渦円は、現象界に重なっているのである。現象界の背後に存するのである。樹木の幹の背後に陰陽渦円は存し、その気が発動されているのである。
 言い換えると、陰陽渦円の陽化である螺旋体を肉眼では見ているが、同時に、その背後には、陰陽渦円が存して、気を発生させているのである。
 時空4次元を内在超越(内超)した不可視の陰陽2次元が存するのであり、それは陰の感性によって感ずるものなのである。
 視覚的には、螺旋は黄金比を形成しやすく、美的感覚を生み出すと言えよう。思うに、その美的感覚であるが、陰陽和合に拠るものであるが、果たして、螺旋形象が、陰陽共振気の美をもたらすのか、それとも、螺旋形象の美自体が美的感覚をもたらすのか。言い換えると、螺旋自体が美なのか、それとも、根源の陰陽共振が美なのか。
 音楽、歌で考えよう。これは明らかに、陰陽共振が歌の美をもたらすのである。つまり、歌声を介して、陰陽共振を感じて、美的感覚を得るのである。歌声自体に陰陽共振があるのであり、それが聞き手の陰陽イデア(陰陽観念精神体)と共鳴して、美を感じるのである。
 では、視覚の場合はどうなのか。樹木、森を見て、そこに陰陽共振を感覚するだろうか。
 樹木、森の視覚には、陰陽共振が存しているのか。思うに、螺旋形態は、陰陽共振の現象体であるから、樹木、森の現象視覚には、陰陽共振は存していると見ていいのではないだろうか。
 おそらく、陰陽共振をエイドスと呼んでもいいのではないだろうか。あるいは、イデアである。つまり、陰陽共振イデアである。これが、歌を、また、樹木、森、花を現象させると考えられる。
 そうすると、結局、現象に内在超越的に陰陽共振2次元が存するのである。それは、気界=イデア界である。
 しかし、そうならば、太一界をどう見るのか。それは、イデアのイデアの世界である。超イデア界と言えるのではないだろうか。
 今はここで留める。




ホロコスミクスと不連続的陰陽論(不連続的プラトニック陰陽共振論):東洋哲科学的グランド・セオリー

テーマ:全体理論:ホロコスミクスと不連続的陰陽論

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11519681787.html

不連続的陰陽論とホロコスミクスはかなり重なる可能性を感じる。
 以下のメビウスの輪であるが、不連続的陰陽論においても、中核を担っている。それは、陰陽共振のことである。これが、メビウスの輪になっているということである。
 また、トーラス像も共通すると言えよう。私は数式に詳しくないので、それについてはほとんど言えないが、フィボナッチ数列が出てくる点も不連続的陰陽論と共通しよう。後者は、黄金比を自然造形に見ているからである。

追記:以下、図4であるが、「空」は、太一(太極)を、「無」は陰主導陰陽共振宇宙=暗黒宇宙=不可視宇宙を、そして、「実」は陽主導陰陽共振宇宙=光の宇宙(生命物資雨宇宙)=可視宇宙を意味するように思える。


全体的宇宙像−ホロコスミクス
『月刊ザ・フナイ』2012年4月号


全体的宇宙像−ホロコスミクス(※1)


藤原 肇(フリーランス・ジャーナリスト/理学博士)

・・・

ホロコスミクスとは


 宇宙のすべてを支配する「直線から曲線への幾何学的な発展の理論化」という壮大な課題を達成するためには、ホロコスミクスの概念をあらわすことのできる「メタ・サイエンス」という用語を使用せざるを得ない(図4)。
 物理学者の使う「宇宙」という概念は意味があまりに限定されている。しかしながら、ホロコスミクスでは「宇宙」というのは、普遍的な宇宙システムのサブシステムでしかないことが明らかになる。
 この概念は超科学的な革命をもたらすはずである。(#5; Chang K & Fujiwara H.; 1994)
 ホロコスミクスの概念では、点は数学的なゼロ次元をあらわしているだけではなく、この特異点の向こう側には広大な「無」が広がっていることを示している。
 さらに、普遍的なシステムの彼岸には「空」が存在する。「無」は道教のカギとなる概念であるし、「空」は仏教哲学の本質である。「現実世界」はこの2つの問に存在している。「無」と「空」の問にある「現実世界」が伝統的な科学の基礎であった。


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【図4】ホロコスミクスをあらわした図。数理発想に基づいて概念化したホロコスミクスは、アインシュタインの相対性理論では排除されていた「超高速領域」を含むので、統一の場を考えるためのアプローチとして有効である。




ミンコフスキーの「世界線」と「幽霊層の場」の排除


 1905年、アインシュタインは特殊相対性理論の論文を発表した。その3年後、ハーマン・ミンコフスキー(リトアニア生まれのユダヤ系ドイツ人数学者。 1864〜1909)は、「世界線」を「零円錐(ゼロえんすい)」のモデルを用いて定義し、アインシュタインの理論をより明快な概念図であらわした。
 しかし、アインシュタインーミンコフスキーモデルは光速を超える領域の存在を無視した。なぜなら、零円錐(ゼロえんすい)は、光速と同速度であるフォトン(光子=こうし)の世界線に限定されていたからだ。ちなみに、光速は30万km/秒である(図5)。


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【図5】過去、現在、未来をあらわす「零円錐(ゼロえんすい)」。

・・・

ホロコスミクスは、「無」と「空」をそれぞれの極線として収縮−拡大運動を行い、フォトンの「世界線」を超えて、「現実世界」と「幽霊層の場」を形成する多次元の概念で構成されている。
 「幽霊層の場」と現実世界は、始まりと終わりがないメビウスの輪(※11)に統合されて考えられるべきである。このメビウスの輪こそ、未発見のものも含めた宇宙すべての「究極の素粒子」を発生させている原理である。


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(尚、上画像はクリックすると拡大する)

ホロコスミクスの場の数式


 アインシュタインの一般相対性理論は、「場の方程式」を基礎にしている。これは演算子「G」が表わす。これをどの計量テンソル(※12)に適用する場合でも、Gを演算子として扱うことができる。
 するとGAx(アイシュタインテンソル)を得ることができる。この「場の方程式」は以下である。
 GAx=Mx.
 何も存在していない真空では方程式は以下になる。
 GAx=0
 重力場を支配する方程式も存在する。これを記述すると、物理学ではもっとも難解な10個の部分的な方程式になる。(#6; Synge, J.L.;1970)
 しかしながら、「幽霊層の場」には「場の方程式」は適用できない。「幽霊層の場」は自然の広大さそのものだからである。
 ここでは、メビウスの輪の不思議と統一性の特異点を見ることができる。「無」と「空」の間に発見できる現実世界は、以下のように表現できるホロコスミクスを構成する。
 【図6】は、ホロコスミクスの無限な発展を説明している。これは宇宙の基本原理にかかわる思想である。この原理こそ、宇宙の謎の法則を支配する原理である。


【図6】ホロコスミクスの無限な発展をあらわす式。

http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/funai201204.html
宇宙巡礼


   




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